2020.07.23 Thursday

ディスタンスというものー映画『コロンバス』に寄せてー

 現下の新規感染者数の増加傾向について、専門家も見方が分かれています。これまでの対応から、過剰反応体質を身につけさせられた国民は疑心暗鬼になりがちです。私自身もそうした一人なのでしょう。このウイルスとの付き合いが長期にわたること、かつ社会経済活動の再開とは一定の感染を含意していることを、多くの国民が理解しています。にもかかわらず、宣言解除後の嘘のようにしばらく続いた感染状況を経験した私たちにとって、今回の増加は逆バネとして不安を増幅させています。

 こうした中、私たち国民にも政府にも冷静さが強くもとめられているものと、これも頭ではわかっていますが、政府への信頼を失った少なからぬ国民は、なおさら過剰な反応を選択することになります(たとえば「緊急事態宣言」の再発令とか法的な規制強化(ロックダウンのようなレベル)など)。それは決して、あまりいい結果を招くことにならないように思えてなりません。

 私たちとしては、基本的な衛生行動(「新しい生活様式」の基本のところ)を自らに課しながら、動揺して極端へと走ることのないように、私たちそれぞれの日常を淡々とおくることが大切だと思っています。でも、その日常というものは、千差万別というほかなく、とかく弱いところにしわ寄せが行くこと、そのことは忘れることのないようにいたしましょう。

 

 こんないま、基底に立ちかえることが重要だと感じています。当ブログで紹介した福岡伸一の「ウイルスと人間は共に進化し合う関係」という見方(2020.7.3「手がかりはどこにーコロナ後の社会のありようをめぐってー」)に通じる考え方に出会いました。

 次稿以降でもう少しきちんとふれたいと思っていますが、NHKの特番で顔をみかける山本太郎長崎大学熱帯医学研究所教授は、2011年に『感染症と文明ー共生への道』(2011年6月刊/岩波新書)を上梓しており、今回のパンデミックを機にベストセラーとなっているそうです。

 同書と、6年後の2017年の岩波新書『抗生物質と人間ーマイクロバイオームの危機』で、山本は、最終的に感染症に勝利することはできない以上、「感染症との共生」が求められていると主張したのだそうです(2020.5.31/山本太郎「いま、岩波三部作を読む意味」/『B面の岩波新書』より)。で、共生といっても、もちろん完全な共生ではなく、「私たちにとって「心地よいとはいえない妥協の産物」としての共生かもしれない」と付記しています。

 そして、そんな結論の背景について、「ウイルスや細菌を含む多くの微生物が、実は、私たち人類の生存、あるいは地球という惑星の維持に必要不可欠な存在だということが、近年、次々と明らかになってきたからである」と、山本は補足したうえで、さらに『抗生物質と人間』から、次の文章を引用しています。結局のところ、感染症との「共生」が私たちに残された唯一の道なのだと説いているのです。

 「 私たちは現在でさえ、個々の生物の相互関係の連環を完全に理解してい

  ない。私たちが「有害」と考える生物(微生物を含む)であっても、相互関

  係の連環のなかで、ヒトの利益として機能している例は無数にあるに違い

  ない。そうした現象を生物の「両義性(アンフィバイオーシス)」と呼ぶ。

  私たちがそうした事実を知らないだけなのである。

   極端な言い方をすれば、私たちヒトは、微生物との複雑な混合物以外の

  なにものでもないのかもしれない。そうした「私」が、同じように複雑な

  マクロ(自然)の生態系に守られて生きている(生かされている)。それが、人

  の存在なのであろう。とすれば、私たちに残されている道は一つしかな

  い。共生である。ヒト以外の消えた世界では、ヒトは決して生きていけな

  いことは確かなのだから。」

 

 人と人との距離、「ソーシャル・ディスタンス」は流行語大賞並みの言葉になっています。

 本来、公衆衛生戦略としての用語は、英語で「ソーシャル・ディスタンシング」なのだそうです。だから、英語の「ソーシャル・ディスタンシング」で意味することを、つまり感染予防戦略を、今の日本では「ソーシャル・ディスタンス」と誤解して使っていることになります。こんなことはありうることで、特に目くじらをたてようとしているのではありません。

 実際のところ、「ソーシャル・ディスタンス」、つまり「社会的距離」は、社会学の用語であり、「個人と個人、集団と集団の間にみられる、親近感や敵対感といった感情のレベルでの親近性の程度を表すための物差し」の意味で使われているのだそうです。とりわけアメリカ社会学では、黒人や東洋系移民の社会関係の分析や問題状況の改善との関係で、この「社会的距離」という概念は用いられてきたのです。

 このような日本での「ソーシャル・ディスタンス」の使われ方とは関係ありませんが、WHOは、今回のパンデミックにおいて感染防止のために必要なのはあくまで物理的な距離であり、社会的な距離ではないことを理由に(人はテクノロジーを経由して社会的なつながりを保つことができる)、「ソーシャル・ディスタンシング」に替えて「フィジカル・ディスタンス(身体的距離)」という用語を用いるように提案しているのだそうです。

 なるほどそうかもしれませんね。

 

 いささか強引な喩えになりますが、本稿では、こうしたディスタンスということを改めて意識させられた映画に出会いましたので報告することにします。

 元々は3月の上映開始予定が延期になっていた『コロンバス』という映画です。先週土曜日(7/18)の午前中に神戸アートヴィレッジセンター(KAVC)で、5名ほどの観客の一人としてみました。

 以前は、同センターの1階には机とイスが並べられていて、新開地を歩く人たちが自由に一休みできる空間となっていましたが、今回、久しぶりに訪ねると、すべてのイスが取り払われていました。感染防止のための対応かと思いますが、ちょっとびっくりしましたし、残念にも思いました。

 

◈ジンとケイシーの物語とモダニズム建築の切り離せない関係に

                  −映画『コロンバス』に寄せて−

 元はといえば、正月明けの頃に、他の映画館で『コロンバス』のチラシをみて、ぜひみたい映画としてインプットされていました。チラシの表面には「モダニズム建築への恋文とも言うべき映像美、小津安二郎にオマージュを捧げたコゴナダ監督作品」とあります。当ブログを読んでいただいている方にはお気づきのように、私には「建築」や「小津安二郎」というものに無批判、無抵抗のまま傾きやすい体質があるのです。

 そして、今回入手のパンフレット、<INTRODUCTION>のタイトルは「小津安二郎の世界と現代をつなぐコゴナダ監督初長編作」、<STORY>の方はチラシにもある「モダニズム建築の街コロンバスで、二人は出逢い、そしてまた歩き出す……」とあります。

 だから、家人の心配の声を押しやって、神戸まで足を運んだのです。

 

 私の感想は、来てよかった、来る前から妄想して恋していたのだから当たり前かもしれませんが、何も事は起こらないけれどパッションを秘めたこの静かな映画に乾杯というところです。

 断っておきますが、この映画で、私はモダニズム建築をみていたとも、小津安二郎への連想に誘われていたとも、そんな特別な何かを感じたわけではありません。つまり「モダニズム建築」も「小津安二郎」も映画の後景として溶けこんでいるというほかありませんでした。コゴナダ監督はそんな野暮なことなどしていません。

 私は主人公である二人をずっと集中して追いかけていました。中年男のジンと高校を卒業したばかりのケイシーの二人が、出逢い、語彙を制限したかのような二人の会話を通して、やがてディスタンスが縮まり、関係が深まり、そして二人はそれぞれの出発と別れのときを迎えることになります。そんな二人の人生の時間にコロンバスの街をいっしょに移動しながら同伴していた感覚だといえばいいのでしょうか、つまり映画的な時間を存分に深呼吸することができたという満足感がありました。

 

 でもというか、ジンとケイシーの後景にあったこの美しい街の建築物こそが、二人の物語を誕生させたということも否定できません。インタビューで、コゴナダ監督は、数年前に家族でコロンバスに日帰り旅行をしたときに、この保守的な中西部の静かな町の「モダニズム建築」群に強く胸を刺されるものを感じ、すぐにここで映画を作りたいと思ったと語っています。そして、次の言葉でその切り離なすことのできない関係を表現しています。

 「 この小さな街は、モダニズム建築のキャンパスです。私にとって壮大な

  実験場なのです。一番難しかったのは街のモダニズム建築たちを収めるこ

  とのできる構図を追求すると同時に、この街の建築に絡めとられる二人の

  登場人物たちの物語を浮かび上がらせていくことでした。」

 こうしてコゴナダ監督にとって初の長編作品となった『コロンバス』は、監督の企図としたとおり、街の建築物と二人の物語が融合しており、まちがいなく成功したと評価してよいでしょう。

 ここで強調しておきたかったのは、二人の会話する目の前にある著名なモダニズム建築が主役ではなくて後景として二人の物語を支える関係として描かれていることです。映画をみる私はモダニズム建築を切り離してみていたわけではなく、どこか有機的な存在感を漂わせている建築物の目の前で展開されるジンとケイシーの物語を注視していたということです。

  映画『コロンバス』のチラシ[表] ミル・レース・パーク(1989)

  同 上[裏]

 ざっとあらすじをメモしておきます。映画のオフィシャルサイトで読んでいただければいいのですが、少しまとめてみます。

 高名な建築学者であるジンの父は講演のためにコロンバスに来ていて、突然倒れます。この知らせを聞いて、今はソウルで翻訳の仕事に携わる韓国系アメリカ人の息子であるジンは、父を見舞うためにコロンバスへやってきます。

 回復困難な容態に陥った父を見守るためにしばらく滞在することになったジンは、ホテル近くの図書館に勤務する若い女性ケイシーが館外でタバコを喫っていたとき、彼女と偶然に出逢います。ジンの父の講演に参加する予定であったというケイシーは、コロンバスの建築物が好きで興味があると語ります。そして、このモダニズム建築の聖地と言われる街をめぐり、建築物を媒介させながら、二人は静かな会話、対話を重ねていきます。

 やがて交わす言葉は互いの内面へと向かい、二人とも親との関係で問題をかかえていることが明らかになっていきます。ジンは仕事中心の父が自分を愛してこなかったという複雑な思いから父との確執をかかえ、だから父とも建築とも距離をとろうとしていました。一方、ケイシーは、都会へ出て建築を学びたいと思いながらも、かつて薬物中毒(覚醒剤)であった母の世話をするために街を離れられないという意識が強く、街にとどまり母を守ろうとしていました。

 ケイシーは、建築を好きになったきっかけであるファースト・フィナンシャル銀行を設計したデボラ・バークと知り合い、彼女から東部に出てきて建築を学び仕事をするように誘われていました。母をおいていけないという抑圧を自分に課しているとジンはケイシーに感じとり、何度も街を出ることを奨めます。ケイシーは躊躇しますが、ついに母と離れることについて考え始めます。一方、こうしたケイシーの姿に、ジンは昏睡状態の父と向き合うためにコロンバスにアパートを借りることにします。

 二人はそれぞれ、離脱と接近という、つまりケイシーは母と離れて街を出ること、ジンは父をみとるまで街に残ること、そんな当初は困難にしかみえなかった決断にたどりつきます。そして、コロンバスから出ていくケイシーを、コロンバスに残るジンはひしと抱きしめ、やがて出発と別れのときが来ます。ケイシーは、禁煙することにしたとジンに告げます。

 ジンとケイシーのストーリーはこんなところです。

 前述のインタビューで、コゴナダ監督はこの物語との個人的な側面、そしてジンとケイシーの親子関係について、次のとおり語っています。

 「 死とは別離。そしてすべての別離はある種の死。いつも私はこの二つに

  とらわれてきました。最期の別れと小さな別れです。老いていく両親、成

  長する子供たちと接していて、来るべき別離をますます強く感じていま

  す。不在に意味はあるのか?避けられない別離に我々はどう対峙していく

  のか。『コロンバス』の物語はこうした疑問から生まれました。」

 「 小津安二郎『一人息子』の冒頭で胸が張り裂けるような引用句が出てき

  ます。「人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまっている」とい

  う言葉です。ジンもケイシーも親子関係に苦しんでいますが、その関係は

  全く違います。ジンは離れたい、ケイシーはとどまりたい。どちらも親を

  重く感じていることから来る欲望です。」

  ジンとケイシー、┐離◆璽Εン・ミラー邸を見学していたときのシーン

 さて、こんな中西部インディアナ州の小さな田舎町(人口47千人ほど)に、建築史に名前を残す建築家たちの設計した建築物が数多く残っているのは、やはりパトロンがいたからです。アーウィン・ミラーという、ディーゼル・エンジンのトップメーカーで地元企業のカミンズ・エンジン社の創業者が、1954年に財団を設立し、公共施設の建築費をサポートしたことに由来しています。コロンバスは、「アメリカのアテネ」とも呼ばれたりしているそうです。

 映画『コロンバス』には、パンフレットの下記写真にある14カ所もの「モダニズム建築」が登場したとあります。そんなにと思いますが、ここではどんな建築物なのかを感じてもらうために、パンフレットやPC画面を撮影したとても上等とはいえない写真を使って、二人のエピソードとともに、自分のためにノートしておくことにします。

  映画『コロンバス』に登場した14のモダニズム建築

.侫 璽好函Εリスチャン教会[エリエル・サーリネン/1942]

 ジンとケイシーが出会って最初に訪ねたのが、ファースト・クリスチャン教会です。登場する中で最も古いものですが、フィンランドの建築家エリエル・サーリネンの設計でコロンバスのランドマーク的な建物なのだそうです。

 ケイシーは教会のドアの前に立って「非対称でありながらバランスを保っている」などと、建築に興味があると語ります。ジンは「僕は建築に興味がない」と言い放って、この町の住民はみんな興味があるのかと問います。「まさか、何も思っていない人ばかりよ」とケイシーは答えます。

  ファースト・クリスチャン教会(1942)

▲◆璽Εン・ユニオン・バンク[エーロ・サーリネン/1954]

      (現アーウィン・カンファレンス・センター)

 ,寮澤彈圓梁子であるエーロ・サーリネンの設計で、アーウィンの財団が設立された1954年に建設されました。

 「2番目に好きな建築よ」とケイシーは言い、「アメリカ初のモダニズム建築で、当時はガラス張りの銀行などなかった」と、建築ガイド的な説明をします。「そんなことで好きになったの」とジンが挑発すると、ケイシーは「感動したの」と、大きな身振りで感動のわけを語りはじめるのです。

  元アーウィン・ユニオン・バンクを前にしたジンとケイシー

  現アーウィン・カンファレンスセンター(1954)

メンタル・ヘルス・センター[ジェームズ・ポルシェック/1972]

 ジェームズ・ポルシェックの設計した精神病院です。

 病棟と病棟をつなぐ橋のような建築物を前に、ジンは父親のノート(?)で読んだとして、「ポルシェックは建築を癒しの芸術だと考えていた」「だからこの連結通路は心をつなぐ隠喩だそうだ」と言い出します。ケイシーは「建築に興味はないと言っていたのに。面白い人ね」と語り、ジンと建築学者である父親との複雑な関係を感じとることになります。

  メンタル・ヘルス・センター(1972)

ぅ侫 璽好函Ε侫ナンシャル銀行[デボラ・バーク/2006]

 2006年という最も新しい建築物で、デボラ・バークの設計です。

 「3番目に好きな建築よ。ある日、とても引き付けられた」と告白するケイシーに、ジンは理由を尋ねます。ケイシーは「よくわからない。その頃、人生で一番つらい時期だったの」と語り、「教えてほしい」と言うジンを制止し、下記の写真のように車から出てタバコを喫います。そして、ポロリと「覚醒剤がはびこっている。覚醒剤とモダニズム建築の町」と、母親の問題を打ち明けます。

 ここには、ケイシーがこの建物に引き付けられた理由と、の「癒しの芸術ともなりうる建築」というテーマとの関わりが示唆されています。

  夜のファースト・フィナンシャル銀行を前にしたジンとケイシー

  ファースト・フィナンシャル銀行(2006)

ノース・クリスチャン教会[エーロ・サーリネン/1964]

 △汎韻犬エーロ・サーリネンの設計で、,22年後に建設されました。,寮澤廚砲和子エーロも参画していたそうですが、いかにもモダニズム建築である,醗磴辰董△海寮軼磴鬚發超飢颪鷲垰弋弔雰舛鬚靴討い泙后

 父親エリエルが亡くなってからの建設だよねと念を押しつつ、スマホで確かめようとするジンを制し、ケイシーは「1950年」というエリエルの亡くなった年を記憶の片隅から引っ張り出します。通話だけの携帯を使っている、検索はPCだと、ケイシーはジンに自分のガラ携帯を示し、「賢い携帯とバカな人間」と笑います。

 二人の心と心の距離が近くなった様子があらわれています。

  ノース・クリスチャン教会(1964)を背景としたジンとケイシー

Ε潺襦Ε譟璽后Ε僉璽[マイケル・ヴァン・ヴァルケンバーク/1989]

 チラシの表の写真がミル・レース・パークで、二人は奇妙な塔のようなものを眺めています。ランドスケープアーキテクトであるマイケル・ヴァン・ヴァルケンバークの手になるものです。

 下記の写真は場所がはっきりしませんが、ここでジンはケイシーに街を出ることを奨め、ケイシーが「母の世話は誰がするの」と強い口調で拒んだ場面だったように記憶しているのですが。

  不明 

Д灰蹈鵐丱后Ε轡謄・ホール[エドワード・チャールズ・バセット/1981]

 チャールズ・バセット設計の市民会館です。

 ケイシーにとって、好きな建築の順位で低位のもののようですが、夜の市民会館の前にジンが一人で立っていたとき、病院から父が合併症を起こしたという緊急の連絡があって、病院へ急ぐシーンにも登場しました。下記の写真はジンとケイシーが並んで座り、Δ痢岾垢鮟个襦廚海箸砲弔い届辰傾腓場面です。記憶が不確かですが、「もっと成功できるはず」などという言葉を、ジンはケイシーに向かって投げかけていたように覚えています。

   コロンバス・シティ・ホール(1981)を背景に座るジンとケイシー

┘◆璽Εン・ミラー邸

     [エーロ・サーリネン、アレキサンダー・ジラルド/1957]

 映画の冒頭で教授が倒れる寸前に立ち寄っていたモダニズム建築の街の立役者であるアーウィン・ミラーの自邸であり、設計はもう一方の立役者であるエーロ・サーリネンです。大変広いスケアな建築物のようですが、内部のインテリアはアメリカを代表するデザイナーのアレキサンダー・ジラルドが手がけています。

 ケイシーが一番好きな建築で、予約して見学ツアーにジンを連れ出し、そのリヴィングでジラルドのインテリアのすばらしさを説明します。下記の写真は同邸の広い庭を臨んで立つジンの姿ですが、映画の冒頭でジンの父親が同じポーズで立つシーンと重なっています。そして、ケイシーは姿の見えなくなったジンを探しますが、父の秘書が「教授、教授」と探す冒頭のシーンと、これも重なっています。

 父との距離を見直そうとするジンの決意のようなものが表出しているのかもしれません。

  アーウィン・ミラー邸の庭を前に立つジン

  右上と右下はアーウィン・ミラー自邸内

 以上のとおり、映画『コロンバス』は、街のモダニズム建築に喚起されるようにジンとケイシーの静かな対話が重ねられ、二人の出発と別れというエンディングへと向かって、ストーリーが展開していく構造となっていきます。

 下記の写真は、ケイシーの小さな家の内部の映像ですが、今振り返ると、これが最も小津安二郎の画面との共通性を、私が意識したシーンでした。奥行きのあるローアングルというのでしょうか。

 その下は、ケイシーが勤めているクレオ・ロジャース記念図書館の内部写真です。設計はあのI.M.ペイだそうで、1969年の建設です。その20年後の1989年に、ペイは、パリのルーブル美術館の真ん中にガラスのピラミッドを出現させたことで世界中を驚かせた中国出身のアメリカ人建築家です。

  ケイシーが母と二人で暮らす家の内部

  クレオ・ロジャース記念図書館(1969)の内部

 最後に補足の補足になりますが、『コロンバス』は地味な映画といえばそうなるでしょう。でも、映画は映画です。制作は2017年、すぐに日本で公開されなかった理由も推測できますが、やっと本年3月14日からの公開が予定されていたとき、今回のコロナ禍の影響を受けてしまいました。こんな二重の高いハードルを乗り越え、こうして公開に至ったこと、この映画に関わり努力されてきた個人・法人に感謝したい気持ちです。

 コゴナダ監督は、パンフレットによると韓国ソウル生まれとあって、ジンと同じく韓国系アメリカ人のようです。本名と年齢は不詳です。「コゴナダ」は小津安二郎とタッグを組んだ脚本家の野田高悟(kougo noda)から命名したとありました。映画研究者から出発し、実作者となって、著名な映画作家をテーマにしたビデオ・エッセー作品で注目されるようになったのだそうです。

 そして『コロンバス』の映像の静寂と深度を支えた音楽は、ハンモックとクレジットされています。先日の当ブログでふれた姫路・的形のハンモック・カフェとは何の関係もありませんが、名称だけでなく、どこか近しい雰囲気を感じています(2020.6.7「ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー」)。

 <とてもいい映画でしたよ、私にとっては>といういつもの言葉、お決まりの感想でもって締めくくることにしましょう。

  [右]コゴナダ監督 [左]ケイシー役のヘイリー・ルー・リチャードソン

 

◈おわりにかえて

 人と人との距離、ディスタンスというものに関して、パンデミックのもとで、以前のように無意識のままでおれなくなりました。ディスタンスには、物理的・身体的、感情的・心理的、社会的・文化的などと分類できそうですが、相互に影響し合う関係にあります。パンデミックは、物理的・身体的なものだけでなく、人と人との距離を確実に変えようとしているのではないでしょうか。同時にまた、人と人が適切、適当な距離で、直接顔を認知し合い、会話できることの大切さについても再認識させてくれたように思っています。

 それは、WHOの「人はテクノロジーを経由して社会的なつながりを保つことができる」という考え方とは位相が異なるものです。WHOの評価、テクノロジーの進捗を否定するものではありませんが、それだけでは人と人のディスタンスのありようとして不健全であるし不十分であると、技術的進歩から取り残された私としては受けとめています。

 

 今回は、こうした大問題に手をつけることをスルーして、感覚的なことを最後に記しておきます。

 人と人とのディスタンスの諸相、ジンとケイシーの対照的な関係性を、家族、とりわけ親子という視点から照射してみせたのが、『コロンバス』という映画のテーマです。ジンの父子関係もケイシーの母子関係も、映画の中で謎を残したままのようなもどかしさを感じました。ジンもケイシーも、解き放ちようもない親子関係のなかで、二人の対話をバネにして出会った頃と反対の「離脱と接近」という出発(変化)を選択しました。私が読みとることができなかったというだけなのかもしれませんが、それはコゴナダ監督の人間観、家族観の表明というものだったかもしれないと思っています。

 フィンランドからアメリカに移住したサーリネン父子、二人とも著名な建築家として、コロンバスの街のモダニズム建築を先導しました。そんな父エリエルのファースト・クリスチャン教会と、息子エーロのノース・クリスチャン教会の、二つの教会がみせる外貌の極端な差異に驚きました。そこには時代背景という問題にとどまらない、父子関係というものの謎、そのディスタンスの闇のようなものが存在したのではないかと、私は想像したりもしました。

 そして、私自身の父子関係、父と私、私と息子、こんなにブログで長々と言葉を連ねていても、このことには言葉にならないもどかしさがいつも付きまとっています。まあそんなに自覚的とはいえないにせよ、近くて遠い、遠くて近いという、このディスタンスの奇妙さ、不思議さに途方にくれたりもします。

 

2020.07.13 Monday

10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー

 臨時休業(4/14から)の続いていた神戸元町の古書店「花森書林」が、先日(7/2)、2ヵ月半ぶりに店を再開しました。再開の準備に日にちをかけるつもりだと語っていた店主の言のとおり(2020.6.10「六甲の坂に途中にー「口笛文庫」のたたずまいー」)、本棚の位置や角度など店内のレイアウトや本の並べ方(いわゆる「棚をつくる」ということなのでしょうか)にも手が加えられれていました。そんな店内の様子などはまた別途報告したいと思っています。

 本棚の前部に横になっておかれていたパンフレット風の小冊子に「辻征夫」という名前を発見したからでしょうか、『余白の時間 辻征夫さんの思い出』(2012年10月刊)を手に入れました。著者は八木幹夫、版元はシマウマ書房、いずれも聞いたことがありませんでした。でも、この2010年8月の講演録に加筆したという小型で薄い本は、辻征夫という詩人の詩へと誘ってくれ、とても気持ちのよい読書となりました。

 当ブログでは、小沢信男の『捨身なひと』に、私にとって「一応ですが読みましたとまで言えない詩人」であった辻征夫のことが取り上げられていて、この文章に刺激されて、「捨身の人」である辻征夫の詩の断片を紹介したことがありました(2016.12.6「『捨身なひと』から《辻征夫》へ」)。本稿は、この続きというより、八木幹夫という友情に厚い詩人仲間からの「捧げもの」「贈りもの」である小冊子を起点に、もう一度、辻征夫の詩を読み返し味わってみることにします。

 

◈敬愛する詩人への贈りものー「宿題」ー

 この80頁足らずの本の最後のところで、八木幹夫は「辻征夫を思うと、時々、ああ、いい詩人を失ってしまったなあという実感が湧きます」という言葉を発しています。そして、亡くなる3ヵ月前の辻の俳句「満月や大人になってもついてくる」を紹介し、「辻さんは満月のように私たちのうしろについてくるようです」と、名古屋の古本屋さんであるシマウマ書房の主催した講演を締めくくっています。

 八木幹夫は年少の詩を書く仲間かつ遊び仲間として、生前に14年ほど付き合ったという辻征夫(1939-2000)のことを、亡くなってからちょうど10年後のこの講演の冒頭で回想しています。辻征夫は「出会ったときから、そのヌーボーとした、飄々とした表情。そういうところに不思議な魅力のある人」で、寡黙だが「時々ぼそぼそっと声を出して、それがじつにユニークな、その場にいる人たちの心をふっとつかみ取ってしまう魅力的なジョークを言う人でした」とスケッチします。このように辻の人となりを紹介したうえで、続けて、八木は、次のようにも辻を評し、講演の中で、いろんな角度から、辻征夫という詩人と詩の本質へと話を展開させていきます。

 「 辻征夫というと、ユーモアのあるライト・ヴァースの詩人と言われがち

  なんですが、それは一面的で、実際の辻征夫は、一緒に話をしたり、その

  著作を読めば読むほど、じつは広範な知識を持っていて、自分にとても厳

  しい方だったということができます。」

 ここでは、八木の語る、その本質まで詳細に紹介できませんが、章立ての言葉から、八木の意図というものはうかがうことができます。「教養の深まり」「成熟した日本語」「批評意識のある抒情詩」ときて、「写真紹介」をはさみ、「吟遊詩人の闘い」「モノローグからの解放」「対話篇ーダイアローグの展開へ」「男性原理ー狼の悲哀」と続けています。辻征夫の詩の特質をとらえた的確な言葉が並んでいるものと、私は感じています。

 エピソードを一つ。八木の家に辻征夫が遊びに来たとき、ぼーっとしているような雰囲気の辻のことを「私の家内は、あの人がそんなに尊敬する詩人なの?偉そうには見えないんだけどって(笑)」だったそうです。そのあとで辻の詩を読んで「ああ辻さんはすごい」となり、「詩を読んで泣いたの初めて」とすっかり感動したそうで、「なにかのんきそうに見える実態と、書いているものが釣り合わない感じがする」と言っていたとあります。

 

 八木幹夫(1947-)はウィキにも詩人として掲載されていますが、私はその詩を読んだことがありません。相模原市内の公立中学校で36年間英語教師を務めるかたわらで詩を書いてきた人のようです(日本現代詩人会理事長も務めた)。八木も辻も後述する「余白句会」のメンバーで、同句会は辻と作家の小沢信男の出会いから、小沢を師匠として始められました。『捨身なひと』で辻征夫の肖像を描いた小沢は、八木幹夫についても、ポルトレを書いています。その中で、市民として堅実な家庭を築き、職場では信望が厚いと描いたうえで、「円満具足の詩人、それこそが八木幹夫なのだ」でも「この人には、過剰なものがある。ハートが温かすぎる。思いが溢れる」とも観察していました。

 そんな八木だからこそ、その人となりと詩を敬愛してきた辻征夫へ「10年目の贈りもの」として、この小冊子を捧げることができたのであろうと、私は理解したいと思っています。

 

 講演の最後に、八木が「自分の詩でもあるような、自分の詩でもありたいような」と朗読している辻征夫の「宿題」という詩(今から振りかえると早い晩年を予感させるものです)を再引用してみます。

     宿題

  

  すぐにしなければいけなかったのに

  あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった

  いまならたやすくできてあしたのあさには

  はいできましたとさしだすことができるのに

  せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて

  もうわたくしのしゅくだいはみてはくださらない

  わかきひに ただいちど

  あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて

  げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに

  わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった

 この詩は、1998年5月刊の最後の詩集となった『萌えいづる若葉に対峙して』に収められた一篇です(自筆年譜には「この頃より歩行の際バランスを崩すことが多くなる」とあります)。十代の萌えいづる若葉のころに詩を書くことを「しゅくだい」と思い定めた人が、早くから表現者であることに目覚めた人が、「この40年間骨身をけずってきた」地点から、出発点とその後の人生を振りかえっている詩だと読みました。もとより2年後の2000年正月に亡くなったときの辻(「脊髄小脳変性症」という難病で亡くなっています)の年齢をこえた八木もまた、そのような思いを同感していることとなります。

 そして、「詩」ではなくても、それぞれにも「詩」のようなものがあるとして、こうしたつぶやきのような感慨は、多くの人たちが共有しているといえるでしょう。

  八木幹夫著『余白の時間 辻征夫さんの思い出』 2012年10月刊/シマウマ書房

 

◈余白句会の効用ー「突然の別れの日に」ー

 先述の「余白句会」の発足のきっかけについて、前記の当ブログでも、辻征夫は詩の雑誌(詩誌『詩学』)の投稿作品の選者として年長の作家である小沢信男と出会い、「なぜかウマがあい、「余白句会」と呼ぶ句会をつくり」という小沢の文章を引用していました。

 八木はもう少し詳しく、選考が終わったあとの打ち上げの席で、辻が小沢の句と知らないで種村季弘のエッセーに載っていた「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地」という俳句がいいねと話しかけると、小沢は「ちょっと間をおいて照れ臭そうに「いや、それ僕の句なんだけど」」となったことがきっかけとなったと語っています。次の選考会のとき、辻は「小沢さん、ぼくらの先生になってくれない?」と頼んだそうで、辻の呼びかけに応えた詩人たち(八木幹夫もその一人)が参加して誕生したのが、「余白句会」なのだそうです。

 こうした句会の効用というものを、八木は、現代詩というのは一種の孤独な作業で、モノローグの世界だけれども、俳句はある意味で共同作業というところがあって「他者の意見が創作行為の中に反映される」ことを経験させてくれたのが、余白句会であったとしています(たとえば俳句の添削に関連した記事:2020.5.26「「解除」という空気感のなかで」)。そして「そういう俳句の現場はやはり面白かったし、言葉の鍛錬になった」としつつ、「詩を書くにも各々の肥やしになっていったという感じですね」と説明しています。

 ですから、ダイアローグの要素を取り込み始めたときに、「辻征夫の詩の世界が大きく膨らみ、のびやかになった」のであり、このことに句会、そして俳句の後押しもあったのではないかと、八木はみているのです。

 

 このあたりのことを、辻征夫のエッセーから探っておくことにします。

 「遊び心と本気」(「『ゴーシュの肖像』2002年1月刊/書肆山田」に所収)というエッセーのなかで、余白句会について、遊び心から始まり、遊び心を保って楽しくやって衰える気配のない背景というものを、次のとおり、「現代詩の成熟の自覚」に関わると述べています。

 「 かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩

  の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに《別の地点》という力みか

  らも自由であると自覚している。これは同時に、詩の成熟の自覚といって

  もいい。」

 つまり、戦後の現代詩は伝統的な短歌俳句の扱ってきた叙情性というものの否定から出発し、新しい詩の世界を構築しようとしたけれど、戦後40年、もはやそういう時代は過ぎたのだという認識を、辻は強く抱いていました。それは「元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思い」から来ているとし、江戸以来の俳句は「簡潔な認識と季節感の宝庫」であり、だから「現代詩にとっても貴重な遺産」だというのです。

 詩人たちの集まる余白句会から、「詩に何を持ち帰るかは各自の勝手」であるが、辻自身は自作の句を使って突き飛ばすような感じで「俳諧辻詩集」という連作を試みているのだと告白しており、次の思いを語っています。

 「 私にはときたまの連衆との座は一つの救いだが、他の詩人諸公にとって

  もあるいは思いは同じなのかも知れない。」

 

 前記の『ゴーシュの肖像』に収められた辻征夫の講演録「こんな詩がある」(1996年5月/愛知淑徳短期大学)には、辻の詩への思いとともに俳句への関心がより明確に語られています。

 辻は、幅広く自他の詩作品を紹介しながら、話を進めています。現下の詩というもの、難解という袋小路に入り込んだ現代詩の不毛を強く意識していたからなのか、講演中に二度ばかり、次の発言を繰りかえし強調しています。

 「 そういう状況になってしまった詩を、もっと生き生きとさせて、みんな

  が面白いと思って、面白いけれど何か考えさせられるなぁ、というものを

  作らなければいけない。一番大事なことは、生き生きしているというこ

  となんですね。」

 それを取り戻すためだったら、「下手な俳句だろうと、短歌だろうと、なりふりかまわないでやってしまう」とし、俳句を実作するようになったのは、「実作者になってしまえば「歳時記」を読む時の読みの深さが違ってくるのではないか」と思ったからだと述べているのです。その読みの違いは「詩の世界にも必ず現れて、何か変化が起きてくるはずだ」とし、二つの詩、「さようなら」と「突然の別れの日に」の順に作者名を伏せて朗読しています。

 この詩の作者は、「さようなら」が谷川俊太郎、「突然の別れの日に」が辻自身ですが、ここでは、辻の詩を引用します。

     突然の別れの日に

 

  知らない子が

  うちにきて

  玄関に立っている

  ははが出てきて

  いまごろどこで遊んでいたのかと

  叱っている

  おかあさん

  その子はぼくじゃないんだよ

  ぼくはここだよといいたいけれど

  こういうときは

  声が出ないものなんだ

  その子は

  ははといっしょに奥へ行く

  宿題は?

  手を洗いなさい!

  ごはんまだ?

  いろんなことばが

  いちどきにきこえる

 

  ああ今日がその日だなんて

  知らなかった

  ぼくはもう

  このうちを出て

  思い出がみんな消えるとおい場所まで

  歩いて行かなくちゃならない

  そうしてある日

  別の子供になって

  どこかよそのうちの玄関に立っているんだ

  あの子みたいに

  ただいまって

 なお、谷川俊太郎の「さようなら」という詩は、当ブログでも一度引用したことがありますので(2018.8.5「「行って帰ります」と「さようなら」ー美しい言葉はー」の【追記】)、ここでは引用を省略します。

 辻は、二つの詩を読んだあと、「どこか似た雰囲気のある作品だと思うんですが」といいつつ、「「さようなら」を読んで感じた不思議なものが、数年たって「突然の別れの日に」というぼくの作品になったんです」と説明しています。自作したとき、谷川の詩のことは忘れていたけれど、あとで気がついてみると、そんな不思議な事態が起こってしまっていたというのです。

 そして、種明かしのように、俳句との関係についてふれ、数年の隔たりがあるが、連句のようなものだった、つまり谷川の発句に対して辻が脇をつけた、という形になっていると思うんですと、辻は語っています。

 なお、蛇足ですが、辻がこの詩で感じてほしいと思っていたのは「子供の生命というものは個人を離れて自由に行き交っている。しかも、そういう記憶を失って、ぼくたちは悲しい大人になってしまう」というようなことだと述べ、詩の解釈の多義性へと話題を広げています。

  辻征夫著『ゴーシュの肖像』 2002年1月刊/書肆山田

 

◈「転調」という核心ー「あの日」をめぐってー

 この項では、詩集『かぜのひきかた』に所収の一篇、「ある日」をめぐっての話を紹介します。

 八木は、同書の「吟遊詩人の闘い」と表題された項で、「ある日」を引用して論じています。辻征夫は1939年生まれ、いわば安保世代であり、60、70年代という政治の季節において、詩人たらんとした辻は「個の問題と社会という問題とを常に対決して考えさせられる」只中にいたのだと、八木は説いています。当時は「一茎の花に目を向けて、一茎の花をうたう抒情詩人は現代では詩人たりえないという状況」にあったといえるのであり、そのようななかで1970年に辻の出した第二詩集のタイトルが『いまは吟遊詩人』であったように、八木は、そうした時代状況にあって辻が詩への基本姿勢を次のとおり確認していたとみています。

 「 辻征夫という人は、要するに文学の原点、根本にある憧れだとか、ロ

  ンというもの、それを捨てたらば、詩人としては駄目だということを常

  自分の胸の中に反復していた。」

 こうした時代を経てきたからこそ、八木は辻の詩の言葉がもう一つ深いところへ入り込むことができたのだと前置きして、「ある日」を朗読しているのです。まずは引用しておきます。

     ある日

 

  ある日

  会社をさぼった

  あんまり天気がよかったので

 

  公園で

  半日すごして

  午後は

  映画をみた

  つまり人間らしくだな

  生きたいんだよぼくは

  なんて

 

  おっさんが喋っていた

  俳優なのだおっさんは

  芸術家かもしれないのだおっさんは

 

  ぼくにも かなしいものが すこしあって

  それを女のなかにいれてしばらく

  じっとしていたい

 八木は、この詩の一行空けて「おっさんが喋っていた」という、主体の切り替え、また一行空けて「ぼくにも かなしいものが すこしあって」という、もう一度の切り替えという点に注意を促しつつ、次のとおり「転調」の技術というものを強調しています。

 「 こういう持ち込み方というのは、やっぱり技術がなければ詩は書けない

  ということの典型だと思いますし、そういう転調を辻さんは長い時間の中

  で獲得したんではないかと思うんです。」

 この「転調」という技術を、私にどこまで理解できているのか心配ですが、辻征夫は、八木が「吟遊詩人の闘い」と呼んでいる時代状況と向き合ってきた長期の修練や、前項でふれた俳句の実作を通じたダイアローグの可能性の探求などを経て獲得したということができます。

 でもいうべきか、詩の「技術」というものは、詩の書き方であり、詩の書き方は詩の技術にとどまることなく、辻の詩人としての生きる姿勢 人間としての生き方を密接に反映しているのではないかと、私は感じてもいるのです。

 

 ここでは、八木の「転調」という技術について基本は賛同しつつも、「ある日」という詩から別の問いを引き出した二人の文章に、ネット上ですが、出会いましたので紹介しておこうと思います。二つのブログ、林哲夫の「daily-sumus」と谷内修三の「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」で、八木の同書が出版された当時に、いずれも辻の「転調」という詩の技法とその実例としての「ある日」を取り上げていました。

 まず、神戸にはなじみの深い林哲夫の方です(2012.9.22)。

 林は、辻の詩を「かなり技巧派」だとし、「「ある日」も実に巧妙な作品である」と評したうえで、余白句会の誕生エピソードである小沢信男の句「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の墓地」を持ち出し、次のように断じています。

 「 考えてみると、「ある日」の作り方は「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨

  の墓地」とまったくと言っていいほど同じではないのか?辻の詩法(それ

  非常に現代詩的なものだと思うが)は俳句の構造をもっていると断言して

  いいように思う。」

 いかがでしょうか。私の理解不足なのでしょうが、私はなるほどそうですねと書くことができません。

 この俳句は「学成らず」と「もんじゃ焼いてる」と「梅雨の墓地」の三つの相互の意味関連のないパートから構成されており、このパートが意図をもって並べられると、急に映像と意味が浮かび上がってくるということと、「ある日」という詩の骨格が関連づけられるというのでしょうか。林は、こんな俳句の技法が、辻の詩の技法に取り込まれている、いわば身体化していると言いたいのでしょうか。

 辻の詩における「転調」の技術は俳句の構造に通じている、このような理解は、たしかに面白い視点だといえますが、私には、ホントにそうでしょうかという、違和感のようなものがなお残ります。

 林は、八木の『余白の時間』を「辻ファンには必読の一冊であろう」と記事を結んでいます。

 

 もう一人、谷内修三の方です(2012.11.18)。この方のブログは当ブログが対象とする本や詩人と重なることも多く、だからネットでヒットすることも多い人で、その質量はちょっと驚異的なのです。

 谷内は、先に引用した八木の「転調」にかかる文章を引用し、それを辻の「核心」にふれているとしたうえて、「それ自体はたしかに「技術」だと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)」はほんとうにすばらしいと思う」と肯定的に評価します。そのうえで、「ある日」を引用し、「私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる」と、谷内は疑念を表明します。

 「「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる」と、転調の技術の背景というもの、根っこにあるものを、谷内は探ろうとしています。そして、辻が抱え込んでいた「「業の深さ」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う」とし、この記事を、次のように締めくくっています。

 「 辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という

  形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生

  きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。そ

  の呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人

  なのだと思った。」

 この谷内の見方に違和感をもちつつも、全否定することができません。林の論への違和感とは反対に、つまり林の論は肯定したいけれど残る違和感であるのに対し、谷内の論は否定したいけれど否定しきれない違和感なのです。

 岩波文庫から『辻征夫詩集』(2015年2月刊)が谷川俊太郎を編者として刊行されたとき、谷内は自分のブログ(2015.3.2)で「谷川俊太郎って辻征夫の詩が好きだったんだ」「いや、想像したことがなかった」と驚きを記しています。谷内にとって、谷川の詩は論理的だが「理屈っぽくない」が、一方、辻の詩は論理的かもしれないけれど「理屈っぽい」と感じていて、谷川の詩のことばのスピード感と合わないと思っていたようなのです(谷川が辻の詩を高く評価していることが、谷内には理解できない)。

 最後のところで、「何とはなしに、あ、辻というのは孤独(ひとり)を生きたひとだったんだなあ、と思う。(そこが「ひとりっこ」の谷川と重なるのかなあ……。)」という感想をつぶやいています。

 こう思う谷内にとって、辻の「転調」の技術は、モノローグからダイアローグへの転調だといっても、「孤独(ひとり)を生きた」辻の「結局モノローグの変形」なのだと理解していたといえるでしょう。

 私にとってはどうかとなりますと、辻の「孤独(ひとり)を生きる」ということ、そして自己韜晦、自己隠蔽ということは、八木の紹介した辻の家族関係、交友関係という点から補助線を引くと、私自身がそうだという意識があるからかもしれませんが、ごくノーマルなものであったと受けとめることができます。つまり辻の「転調」がそのための技術だと断じることができないのです。私に辻の孤独など想像できないのだとの批判は受け入れたとして、谷内の辻の詩への見方は、「うさんくさい」という印象ありきでいささか一面的ではないかと思っています。

 にもかかわらず私が否定しきることができないと書いているのは、辻の「転調」の技術という詩の書き方と、生き方という抽象的なありようがやはり切り離すことができないものであろうと考えていることと関係しています。

 

◈おわりに

  ーエッセー「ある現場監督への手紙ー金子光晴「信頼」」ー

 今回、『ゴーシュの肖像』に所収されたエッセーから、辻征夫の死(2000.1.14)の前年1999年に発表されたものを集中して読んでみました。どのエッセーにも、死の影のようなものがあらわれています。そのうちの一つ、「ある現場監督への手紙」(1999.4『現代詩手帖』)を紹介します。

 辻は一人だけで行く酒場で(「ジョッキを傾けながら、1、2冊の本を前にあれこれ考えをめぐらす」ことを好むとあります)、やはり一人だけで来ていた建設の現場監督の方と出会い、その酒場だけで10年ほど「交誼」を続けてきたのだそうです。お互いの名前を知るようになったのも1年後であり、このような交誼が続くのは、その方が「私が黙っているときにはいつまでも黙っているという、私への配慮によっている」と、辻は記しています。

 ある編集部から「ふだん詩に接することの少ない読者に、現代詩のことばの森へ踏み入る一つの契機を」という要請を受け、辻はこの現場監督の顔を思い浮かべて書いたのが、このエッセーです。最後に金子光晴の「信頼」という詩を引用しているのですが、その直前の文章は次のとおりです。

 「 編集部からの要請にしたがって、ともかく一篇の詩を、私はこの手紙と

  ともに貴君に渡しますが、それをどう読もうと(あるいは読むまいと)貴君

  の自由です。手紙を読んだ後、おそらく少しとまどったおももちで、貴君

  がまたこの酒場に現れるでしょうか。そのときもし私の姿が見えなくて

  も、その次の機会次の機会と、三回までは私を探して下さい。それでもな

  お私の姿を見ることがなかったら、私はおそらく、二度と貴君の前に現れ

  ないでしょう。あえて告げることなく過ごして来ましたが、年齢を加えた

  貴君の顔に、いま眼鏡はぴったりとなじんでいますよ。」

 そして、辻が現場監督に読んでもらおうとした金子光晴の詩を引用します。

 

     信頼

 

   かつて大きな悲嘆もしらず

  眼前がゆき止まりになったおぼえもなく

  また、水のせせらぎ、雨の音の

  すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、

 

   妻は生涯背かぬもの、

  日や月の運行とともに

  一生は平穏無事なもの、

  けふが昨日と同じだったやうに

  あすも又なんの屈託もなしとおもふ。

 

  さういふ人をさわがせてはならぬ。

  さういふ人のうしろ影もふまず、

  気のつかぬやうにひっそりと、

  傍らをすりぬけてゆかなばならぬ。

 

  さういふ人こそ今は貴重である。

  さういふ人からにほひこぼれる花、

  さういふ人の信頼や夢こそ、

  ほんたうに無垢なのだ。荒い息もするな。

 辻は、このエッセーをどんな気持ちで書いたのでしょう。「私はああいうもの、貴君や貴君のお友だちには何の意味のないと思われるものに、この四十年間骨身をけずって来た」者から、ある現場監督への、長年の交誼に対する感謝と信頼の表明であり、遺言のつもりではなかったかと思っています。

 

 最後に、先に取り上げた「こんな詩もある」という1996年の愛知淑徳短期大学での講演において(学生たちを前にしていたのでしょう)、最後に辻自身によって朗読された自作の「蟻の涙」にふれておこうと思います。

 詩の専門誌ではなく、一般の何万という会員がいる雑誌から、「若い人たちを励ますような詩を書いてください」との依頼があり、とまどいながらも腹をくくって、先月(だから1996年4月)に書いた作品だと、辻は紹介しています。そして、続きを書くことになっているとし、「蟻の涙」で言っていることの疑問を書こうと思っていると語っています。それが前記の岩波文庫『辻征夫詩集』にも所収されている「蟻の涙2」です。

 「蟻の涙」と「蟻の涙2」を引用しておきましょう。

    蟻の涙

 

  どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく

  かずおおくの若いひとたちのなかの

  任意のひとりでもなく

  この世界にひとりしかいない

  今このページを読んでいる

  あなたがいちばんききたい言葉はなんだろうか

  

  人間と呼ばれる数十億のなかの

  あなたが知らないどこかのだれかではなく

  いまこの詩を書きはじめて題名のわきに

  漢字三字の名を記したぼくは

  たとえばこういう言葉をききたいと思う

  きみがどんなに悪人であり俗物であっても

 

  きみのなかに残っているにちがいない

  ちいさな無垢をわたくしは信ずる

  それがたとえば蟻の涙ほどのちいささであっても

  それがあるかぎりきみはあるとき

  たちあがることができる

  世界はきみが荒れすさんでいるときも

  きみを信じている

 続いては、この詩への応答というべき「蟻の涙2」です。

     蟻の涙2

 

  きみを信じている

  という言葉ほど

  ぼくを困惑させるものはない

  このぼくのどこに

  汚れていないもの

  無垢があるというのか

 

  蟻が涙を流すとは

  ファーブルも書いていないが

  蟻がいることだけは信じよう

  ほらぼくのなかで

  もう動き始めている

  黒い

  疑念の蟻

  問え!

  という言葉が聞こえる

  きみが自分を信じようと信じまいと

  激烈に問え!

 先に同じ講演のなかで、谷川俊太郎の「さようなら」と辻の「突然の別れの日に」は、辻自身が、連句の発句と脇の関係だと説明していたことを述べました。この「蟻の涙」と「蟻の涙2」の関係もまた、辻にとって自作自演のそういうものかもしれません。 

  谷川俊太郎編『辻征夫詩集』 2015年2月刊/岩波書店

 偶然にも出会った八木幹夫の『余白の時間』を読んで、久しぶりに辻征夫の人生と詩へと導かれました。辻は私より10歳年長ですが(八木は2歳年長)、どちらかといえば同世代、同時代という感覚なのです。私が書かれた詩と出会い親しんできたのは、もうひと世代の上の詩人たちであり、つまり戦中経験をもつ詩人たちに強い波動を受けてきました。

 それが変わったというわけではありませんが、辻征夫の詩が帯びている雰囲気には、成人した私の生きてきた1980年代以降の時代状況、空気感のようなものが刻印されているということを、今回、強く意識することになりました。一言で語ることなどできませんし、辻の詩の超時代性(普遍性)を否定するつもりもありませんが、それは社会というものの相対化と個というものの内心の重視、というものではなかったかと、改めて感じています。

 森有正の「経験」とは「自分というものを定義するもの」であり、「身体の中に実現された知恵のごときもの」という言い方がありますが(2019.4.29「遥かにノートルダムは遠ざかりー森有正のことー」)、辻征夫の詩は自らの感覚を通して「経験」へ向かおうとするところに立ち現れる言葉であった、と言えば、やはり大げさなことになるでしょうか。

 

2020.07.03 Friday

手がかりはどこに、コロナ後の社会のありようをめぐってー広井良典の分散社会論を中心にー

 昨日(6/28)、地域の神社の草刈り清掃に参加しました。例年は5月末に当番制で行っていましたが、今年はコロナ問題があって中止となり、1ヵ月遅れで有志による実施となりました。曇っていてまだ助かったのですが、マスクを付けて作業していた方は私を含めて一人もいない状況でした。夏という季節にマスクを付けて作業することは、あまり現実的とはいえません。

 当ブログをのぞいてくださった皆様方は、「新しい生活様式」にどう対応されているでしょうか。屋外はもとより、空調のない屋内であっても、強度のある身体的な活動を伴うような場合、マスクの装着はもとより、ディスタンスの確保もなかなか難しいと実感しました。

 この「新しい生活様式」(兵庫県は「ひょうごスタイル」と呼んでいます)とは、「コロナと共生する社会」に向け、再開された社会経済活動における感染防止対策のガイドラインということになります。長い射程で経済を見つめてきた水野和夫法政大学教授は「感染症対策よりも経済を重視する姿勢が透けてみえる」との感想をもらしたうえで、次の見方を示しています(2020.5.18『毎日新聞』「シリーズ 疫病と人間」)。

 「 本来あるべき「新しい生活様式」とは「より遠く、より速く」そして

  「もっと多く」を求めず、「より近く、よりゆっくり」する生活様式に改

  めることである。そうしなければ、いつ感染するかもしれないと明日を心

  配して生きていかなければならない。」

 この「より近く、よりゆっくり」の実践可能な環境にある私のような者が、再び、学校へ通い出した子どもたち、テレワークや休業から職場に戻った親たち、そんな元の日常へ回帰しはじめた人びとへ「ちょっと立ち止まって」的な発言することは(もっともっと多様な状況の皆さんがおられますが)、公平を欠くことかもしれないけれど、続けたいと思うのです。

 本稿では、この言葉を手がかりとして、コロナ問題が提起した地球環境への負荷、グローバル化、大都市集中、格差と分断などの諸課題を前に、コロナ後の社会のありようをめぐる議論の中から、広井良典らの主張する「分散型システム」への転換という考え方について紹介を試みることにします。

 もちろん、私はコロナ以前から、この考え方の方向性を望ましいものと思っていますし、そうであってもらいたいと願っています。ただ実現可能性を前にすると、ハードルの高さを意識せざるをえませんが、今回のパンデミックによってより明確な選択肢として可視化されたといえるのではないでしょうか。

 イタリア人作家 パオロ・ジョルダーノの言葉にあった「いったい何に元どおりになってほしくないのかを」(2020.4.24「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(2・完)」の冒頭引用文)という問いを受けとめて案出されるポスト・コロナの社会のありようとして重要な提起ではないかと、私は理解したいと考えているのです。

 

 いつもの大中遺跡周辺ではなく、久しぶりに寺田池の周回遊歩道を歩くと、大輪のハスの花が咲いていました。6月になって7月が近づくと、咲いている花の種類が少なくなりますが、気づかないうちに季節はめぐっています。

  ハスの花が咲き出して(寺田池) [2020.6.28撮影]

 

◈ウイルスと人間は共に進化し合う関係ー再びの福岡伸一ー

 先に(4月上旬)ウイルスの本質を教えてくれた福岡伸一が、「コロナ共存「生命哲学」必要」とのタイトルの文章で取り上られていました(2020.6.15『毎日新聞』夕刊)。ニューヨークで客員研究員をしている福岡は、春休みを過ごして帰国予定であったが、現地での感染爆発で足止めされ、新聞掲載時には引き続き現地に滞在しているとのことです。

 前半は、先に紹介した内容と重なっています(2020.4.30「単純な生活ということーウイルスから行動変容とヴェネツィアなどー」の<おわりに>部分)。「ウイルスが現れたのは高等生物が登場した後」であり、「ウイルスは元々、私たち高等生物のゲノムの一部が外へ飛び出した」もので、時に私たちに脅威をもたらすけれども、「ウイルスは私たちの生命の不可避的な一部であるがゆえに、根絶したり撲滅したりすることはできない」、すなわちウイルスと人間は共存していくしかないと説明しています。

 そして「長期的にはインフルエンザと同様、このウイルスと共存する社会になる」と予見しますが、「来夏に延期された東京オリンピックまでにワクチンや特効薬がすぐにも完成し、霧が晴れたようにコロナ問題が解消する」という見通しには疑問を呈しています。こうしたワクチン等の開発は世界的な競争の様相を呈していますが、安全性の確認には長い時間を要するとして、政治的、経済的なものを紛れ込ませないことに必要なのが「生命哲学」であると強調しています。

 この福岡の「動的平衡」につながる生命哲学について私の理解は不十分ですが、福岡は新型ウイルスの教訓として「生命にとっての「多様性」の重要さ」を挙げており、「進化は決して強いものが生き残るのではなく、多様性を内包する種が生き残ってきた」と指摘しています。現代に生きる私たちは、最も身近にある自然というべき自分自身の生命を含め、「自然」をコントロールできると過信してきたことが今回のパンデミックを招いたとの認識を持っているようです。だからこそ、新型コロナウイルスへの対応として、「生命を守るという御旗の下に」、「生命哲学から見て、多様性や自由が管理され続けるのは望ましくない在り方」ではないかと問題を提起しているのです。

 ここでは、ウイルスと人間の関係性の根幹にかかる福岡の言葉を引用しておき、次に進むことにします。

 「 ウイルスに打ち勝ったり、消去したりすることはできません。それは無

  益な闘いです。長い進化の過程で、遺伝する情報は親から子へ垂直方向し

  か伝わらないが、ウイルスは遺伝子を水平に運ぶという有用性があるから

  こそ、今も存在している。その中のごく一部が病気をもたらすわけで、長

  い目で見ると、人間に免疫を与えてきました。ウイルスとは共に進化し合

  う関係にあるのです。」

 

◈盲点を突くコロナウイルスー「シリーズ 疫病と人間」からー

 毎日新聞には「シリーズ 疫病と人間」の総タイトルで、これまでのところ4月28日の山極寿一から6月28日の出口治夫に至る9人の識者の文章が掲載されてきました。理解できなかったものも、ピンとこなかったものも、反発を感じたものもありましたが、ここでは、後述する広井良典の分散型社会論、成熟社会論に関連すると思われる三人の論考を紹介しておくことにします。

 都合のいいところだけを切り出して紹介することは、誤解を招きやすくなりますが、このことも踏まえてお目通しいただければと思っています。

◉都市の歴史は資本の歴史ー水野和夫ー

 前記した経済学者である水野和夫の「新しい生活様式」についての言葉は、やはり同シリーズのものです。

 当該論考の冒頭で、水野は「新型コロナウイルスが人類に突き付けているのは、これからも「より多く」を追求することが進歩であり、文明社会であると信じ続けるか否かの選択である」と提示します。すなわち「都市の歴史は資本の歴史」でもあり、「都市に集積の利益がもたらされ、都市が資本を生み出す」という関係にあったとします。今回のウイルスは都市を直撃したのであり、いわば「集積のメリットが一転デメリット」へと変わったのだと、水野は認識しているようです。

 この「より多く」を追求することで、21世紀にたどり着いたのは「絶望するほどの二極化した世界」、すなわち富の集中だとし、日本の場合は企業に富が集中している現実を前にしていると説きます。ですから、新形コロナウイルスからの「出口戦略」として、膨大な内部留保を抱え込む企業に対し「減資132兆円」を迫れとする、いわば現代の資本主義の根本的な転換を主張しているのです。そして新たな「入り口戦略」を象徴するフレーズとして、「より遠く、より早く」「もっと多く」という現代の資本主義を特徴づける性格の対極である「より近く、よりゆっくり」を提言しているといえます。

 「新しい生活様式」による現実が「より近く、よりゆっくり」という性格を選択することなしに、「「より多く」を追求することが進歩であり、文明社会である」というドグマの転換は実現しないと主張されていると、私は理解しているのです。

 後述する「都市集中型」から「地方分散型」への転換という広井の命題は、水野の文明社会論、資本主義論ほどドラスチックとはいえないものの、変化の方向性を共有する関係にあるものと考えています。

 

◉二つの懸念からー山極寿一ー

 シリーズの最初の一篇(4月28日付)、霊長類学者・人類学者である山極寿一の論考です。

 アフリカでのエボラウイルスの経験から(ゴリラとチンパンジーの集合性の違いが感染に反映)、今回の新型コロナウイルスへと展開し、過去の感染症と比べ、「はるかに巧妙になっている」ことを強調しています。そして、最後の方で二つの懸念を提起し、私たちに求められることを提言しています。

 一つは、現時点では「ウイルスの感染を防ぐには人と人の接触を避けるか、複数の人が触れるような共有物を排除するしかない」が(「新しい生活様式」にもダイレクトに反映されている)、このことは「人類が進化と文明の歴史を通じて育て上げてきた人のつながりを断ち切ることに等しい」ことになります。つまり「人間の根源的な欲求を押しつぶす」ことであり、「この分断によって社会に共感力が失われる」ことが最も懸念すべきだと、山極は考えます。

 感染を避けるために、コミュニケーションと人間同士の関係が変化する可能性があり、他者と分断されてしまうと幸福な社会は築けないこととなり、国家や文化というレベルでの分断は不寛容を招くことになるのではないかとし、次のことを提言しています。

 「 そんな事態を招かないよう、多くの人と国境を越えて連絡を取り合い、

  地球規模の新たな連帯を模索すべきであろう。」

 もう一つの懸念は、「コロナ後に各国が猛烈な経済復興対策を取り、それがこれまで以上に地球の崩壊を招くこと」であると、山極は述べています。近年のウイルス感染症の原因は「自然破壊によって野生動物との接触を加速したこと」にあるのだから、こうした大がかりな経済活動によってさらなる新たな脅威をもたらす可能性があると警鐘を鳴らしています。

 そして、次の文章で締めくくっています。

 「 今私たちに必要なことは、グローバルな地球と国の動きと、私たち自身

  の身近な暮らしの双方で、人間にとって大切なことは何かということを

  じっくりと考えることである。コロナ後に、それが決定的な効果を生むだ

  ろうと思う。」

 コロナのずっと以前から日本で確実に到来する人口減少社会の社会構想として成熟社会論を提言してきた広井の所論は、山極の締めくくりの文章とも呼応していると、私は考えています。

 なお、言語コミュニケーションが分断されやすい状況下にあって音楽というものの機能を重視した山極の考え方については、先のブログ(2020.6.7「ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー」)で簡単にふれています。

 

◉人間の一人芝居だー池澤夏樹ー

 三人目は、最近の掲載(6月21日付)、作家の池澤夏樹の論考です。

 「今、世界の人々が向き合っているのは「人は人に対して感染源である」という状況である」という警句のような言葉から始まります。今私たちの生きている世界の現実はいかにして成ったのか、池澤はシニカルなユーモアを込めて綴っていきます。その結果、目の前にあるのは、昭和から平成へと「新製品を買って喜ぶことを何より優先してきた」国民が浮かれている間に、「資本の側はどんどんとグローバル化し、国家がコントロールできないものに育ってしまった」世界だと表現しています。

 ウイルスはそれぞれの国の弱点を突くとし、日本でいえば)賃腓蔑未旅餾帖↓⊇仞故┐猟祺爾罰亮造平邑の減少、37%という低い食料自給率(「他の国からの供給が止まれば我々はあっさり飢える」)だとし、次のことを念押ししています。

 「 政治家も財界人も目先の利を追うばかりで遠い先を見ていなかった。国

  民もそれでいいと思って浮かれていた。」

 今の世界の指導者たちを寸評したうえで「民主主義の尺度で測れば今世紀に入って世界は劣化の方向に動いてきた」とし、これからの世界を「我々は別の時代に入ろうとしている。そこは荒野であるらしい」とし、ホモ・サピエンスたる私たちへ次の現実を突きつけます。

 「 文化によって自然を改造して自分たちに都合がいいように仕立て直し

  た。それが行きすぎて、温暖化を招き、遺伝子を壊す放射性物質を撒き散

  らし、多くの種を絶滅に追い込んでいる。」

 そして、こんな見方はできないかと提示したうえで自ら否定してみせるという「一人芝居」を演じてみせ、次の文章を書きつけています。

 「 ヒトと自然が対峙するという構図も考えられる。では震災・津波やパン

  デミックはヒトの増長に対する抑制の機能なのか。いや、自然にそんなバ

  ランス感覚はない。いつか起こるはずのことが今起こっただけすべては

  ヒトの、人間の、一人芝居だ。」

 このような突き放した感慨を述べつつ、最後には、フォークナーのノーベル賞受賞スピーチの「私は人間の終焉を信じない」を引用したりもしています。

 レトリカルな文章だけれども、池澤は、この度し難い人間どもという覚めた自己否定の一方で、私たちに目覚めよと最後の「人間には魂があり、共感と犠牲と忍耐を担うだけの精神があるからだ」というフォークナーの言葉を引用しているのであろうと、私には感じられたのです。

 近未来のあるべき社会構造として分散型システムを構想する広井の所論の前提として、前記の戦後の高度成長路線の行き着いた結果として(それはそれで成功したといえるのですが)、今日の弱点である´↓がキーワードとなっていることは申し上げるまでもありません。

 

◈分散型システムへの転換は可能かー広井良典の所論からー

 広井良典(京都大学こころの未来センター教授)は、今次のパンデミックは「時代の大きな構造的な変化を象徴的する出来事になる」とみています。新型コロナという非常に強い外圧によって、その必要性は感じていてもなかなか実現しなかったものに、多くの人びとが気づき始めたと感じているというのです。ですから、「ポスト・コロナの時代こそ、これまでの価値観や行動を変えて新しい成熟社会にかじを切るべきだ」と提言しています(2020.5.15「ポスト・コロナ時代こそ 成熟社会にかじを切れ」NHK特設サイト)。

 このインタビュー記事は、現在の広井の考え方をうまく集約できていますので、この本稿の紹介での総論としてメモを試みておくことにします。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大が、いわゆる過密都市、人口が大規模に集中しているところで進んでいることを指摘したうえで、広井は、一辺倒というべき資本主義の拡大成長路線とともに、過度な「グローバル化の負の側面が非常にはっきり出た」とします。「分散型システム」としての性格をもつドイツや北欧の国々を念頭におきつつ、今回のコロナ禍はこうした社会の方が強いということも明らかにしたと評価し、過度なグローバル化を抑え、ローカライゼーションという方向が重要になる、つまり「ローカルな経済循環や共生を志向し、そこからナショナル、グローバルへと積み上げていく社会」構造が重要だというのです。

 だから、今は危機だが、むしろチャンスと見て、東京の一極集中の是正について議論されてもなかなか具体的な動きとならなかったという事実も視野に入れつつ、一極集中の社会構造や価値観からの根本的な転換をめざし、「本来なされるべき改革や社会の変化を、いろんな形で進めていく契機とすべきではないか」と、広井は主張しています。

 これを後押しする一つの証左として、後述するAIを活用したシュミレーションの結果、すなわち日本社会の未来(2050年前後)への持続可能性にとって、東京一極集中という「都市集中型」か「地方分散型」かの分岐がいちばん大きな意味をもつことが分かったとし、そして、結果として望ましい方向と選択されるべきは「地方分散型」の方であったことを報告しています。

 そのためには、「地域内においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ=つながりも生まれるような経済の在り方」である「コミュニティ経済」、つまり地域循環の経済が重要であると、広井は強調しています。

 

 コロナ以前からの広井の基本スタンスとして確認しておきたいのは、戦後の高度成長とともに急膨張した人口が減少に転じていく今の日本社会、こうした人口減少社会を悲観的なものとして捉えていないということであり、これまでのように経済的な豊かさだけを追求しても、結果的には豊かになれないのが今の日本だとみていることです。こうした前提に立って、「新しい成熟社会へかじを切れ」と主張しているわけで、インタービューの最後に、広井は、昭和と平成の帰結として目の前にある令和という時代に求められる「分散型システムの社会」のイメージを、次のとおり描いてみせています。

 「 令和という時代はそういうもの(㊟昭和と平成の拡大成長路線)を根本的に見

  直していく必要があります。新しい成熟社会の豊かさの方向にかじを切る

  時代です。山登りに例えると、ゴールをみんなで目指す時代から、一応頂

  上まで来たのだから、あとはそれぞれが、自由に創造性を伸ばし、自分の

  人生をデザインしていく。そういう方向に転換していくべきです。下りは

  360度開かれています。それが結果的に、経済や生産性にもプラスになり

  個人が自由な人生を歩めるようになるのではないでしょうか。」

 ここだけ読むと、いささか都合のいい飛躍ではないか、こんなバラ色の調子のよい未来社会などあるわけないよと否定したくもなりますが、後述する部分も読んでいただきたいと願っています。

 こうした「新しい成熟社会の豊かさ」のポジティブなイメージについて、前記した三人の識者の論考と関連づけるとすると、水野の「より近く、よりゆっくり」という生活スタイルとの関連は明らかですし、池澤のいう「目先の利を追って浮かれていた」という価値意識を転換しない限り、こうした地平を切り開くことができないということができます。さらに山極の「グローバルな地球と国の動きと、私たちの身近な暮らしの双方で、人間にとって大切なことは何かということを、じっくり考える」ということは、「新しい成熟社会の豊かさ」を体現する人間にとって大前提といえるものでしょう。

 

 ポスト・コロナで一つの想定されるトレンドについてメモしておきます。 

 ヤフーCSOで慶大教授の安宅和人という方が、今次の自粛生活で気づいたことを、「開疎」という造語で表現しています(2020.6.9『毎日新聞』掲載/「職住一体 郊外へ分散」)。

 「開疎」とは「開いてまばらな」ことであり、コロナ後のこの先、職場も働き方も「開疎」、つまり「開いてまばらな方へ向かうベクトルが働いている」ということのようです。この「開疎」を、安宅は自著で、日本の近未来として提示したのだそうです。リモートワーク、テレワークの浸透・拡充や職場の過密性の軽減(「島」を中心とした配置から、席をバラバラにしたコックピット型の座席配置へ)などが前提にあるようです。

 直感だとしつつ、安宅は次のような見方をしています。

 「 「この開疎の流れは、まず首都圏や地方の主要都市で起きると思いま

  す。」その方向性は単に都市での職住一体だけでなく、中心市街地から郊

  外へという流れも示しているそうだ。もちろんすぐに集中から分散へ変わ

  るのは難しい。それでも「ひとつの運動」として人々は分散に向かう。」

 こうした見方は、近い未来において「都市集中型」か「地方分散型」かに選択・分岐する局面があるという広井の所論と通じるものがあるといえます。

 

◉人口減少社会と重なってー戦後の政策展開「3つのステップ」ー

 広井の研究の原点には、現在の日本における「人口減少は果たして本当に社会にとってマイナスなのか」という問い直しがあります。

 わが国の人口は、下記の「日本の総人口の長期的トレンド」をご覧いただくと、2008年の1億2800万人でピークを迎え、2011年からは減少の一途をたどっており、現在の出生率が続けば、2050年過ぎには1億人を切り、さらに減少が続きます。

 この人口曲線で見ると、今は頂点を過ぎたばかりで、広井は「いってみればジェットコースターが落下するとば口にいるようなもの」と比喩しています。だから、「私たちはまさにターニングポイントにいる」「令和は人口減少がいよいよ本格化していく時代である」とし、広井は、次の文章を続けています。

 「 空間的にも、人の移動という意味でも、あるいは意識のうえでも、全て

  が東京に向かって流れていった人口増加時代から、いままさに人口減少時

  代に入っていくということは、これまでと逆の流れが進んでいくと考えら

  れます。」

 

 古くからの人口を振り返れば、長い間、横ばいで推移してきて、江戸時代に入り若干人口は増えたものの、3000万人程度に落ち着いて再び横ばいとなり、明治時代を迎え、急激な増加が始まりました。太平洋戦争時に一時的な減少があったものの、戦後は再び爆発的に増加してきたわけです。「歴史的に見れば人口が右肩上がりに上昇してきたこの100年間は、むしろ特殊な時代でした」と、広井は、大局的に見ればそうなると語っています。

 もちろん広井は、このままの人口減少によって、若者が少なく高齢者が多い社会構造が続くとさまざまな問題に発展するという認識は共有しているわけですが、どんな手を打っても今すぐ急激に上昇することは想定できないのだから、「出生率が緩やかに上昇し、やがて人口が下げ止まって横ばいになる時代を目指しつつ、当面は人口が減少していくことを前提に社会を考えるべき」だと述べています。このような考え方を前提とした「人口減少社会」なのであり、それが成長社会の先にある「ポスト成長社会」「成熟社会」であることが、広井の所論のベースになっているのです。

 したがって、今の日本の人口減少を問い直すと、将来の日本にとって大きな問題であるけれど、人口増加時代の価値観(「人口も経済も際限なく拡大・成長するはずだ」)から人口減少を悲観的にとらえてしまうことは、さらに社会的なひずみ、弱点を大きくすることにつながっていくと、広井は警告しているといえます。つまり、人口減少を一律的にネガティブとして捉えるのではなく、一定の人口減少を前提としつつ、希望のありかを探りつつ持続可能な社会構造を構想(デザイン)していこうというのが、広井教授の呼びかけであり、主張であると、私は理解したいと思っています。

 そして、前段でやや驚いてなんと「バラ色の調子のよい未来社会」なのかとコメントした広井の発言内容は、人口減少時代の新たな価値観をもつ人間が、持続可能な社会構造としての「新しい成熟社会の豊かさ」を求めていく基本的な姿勢を、「希望」を込めて表現したものだと感じています。

 では、このように人口減少社会にも希望はあるとする広井は、同時にまた、現在の日本社会は「持続可能性」において危機的といわざるを得ない状況だとし、その背景には、大きく3つの問題(重要ないし象徴的な事柄)があると説明しています。

 一つ目は「財政」で、膨大な借金を将来世代につけ回ししている状況にあることです。このことは世代間継承性における持続可能性の危機を意味します。

 二つ目は「格差拡大と人口減少」であり、90年代半ばから生活保護世帯ないし貧困世帯の割合が急速に増加している状況にあることです。若年層の雇用や生活が不安定であることは、未婚化・晩婚化の要因ともなり、さらに出生率の低下、人口減少の加速化の大きな背景となっています。

 三つ目は、広井らしい視点である「コミュニティやつながりの希薄化」であり、国際比較調査では、家族や集団を超えた社会的なつながりが、先進諸国で日本が一番低くなっています。いわば社会的に孤立している人間が多くなっているのです。

 これら三つの問題意識を踏まえ、次項で紹介する将来シュミレーションは実施されたのです。

 

 このシュミレーションを説明する前に、こうした社会構造を生み出してきたともいえる戦後の日本の政策展開について、広井の3段階論でふり返っておくことします(2018.5.27「ムラとマチを捨ててきた日本の未来はやっぱり「地方分散」にあり」/現代ビジネス)。

 まず「第一ステップ:いわゆる高度成長期(1950〜70年代ーー¨ムラ¨を捨てる政策)」だとします。この時期は「工業化」一辺倒の政策がとられたのであり、農業や農村の優先順位は大幅に下げられ、「農村から都市への人口の大移動」が進行していきました。

 ですから、この時期は農村部の社会減が最も多かった時期で、近年の人口減は次のことに留意しておく必要があるとしています。

 「 近年地方都市や農村部の人口減少が著しいのは、最近の社会減が主要因

  ではなく、むしろ高度成長期に農村部に残った人たちが高齢化し、近時に

  至って自然減が顕著になっているからなのだ。」

 この時期から食糧自給率は一貫して低下していったことは言うまでもありませんし、この時期に農村部の持続可能性は大きく損なわれたといえます。

 続く「第二ステップ:1980-90年代頃ーー¨マチ¨を捨てる政策」で、「アメリカ・モデル」と呼ぶべき都市・地域経済のあり方(「自動車ー道路中心の都市・地域モデル」)が政策面でも全面的に導入された時期だと、広井は説明しています。

 このことにより、第一ステップの時期にはまだかなりの賑わいをみせていた地方の中小都市の中心部は完全に空洞化が進むことになったのであり、このことは政策がうまく行かなかったからではなく、むしろ国の政策の帰結といえるのではないかとし、広井は「¨マチ¨を捨てる政策」と呼んでいるのです。

 そして、現在に至る「第三ステップ:2000年代ないし2010年代以降ーー転換の兆し?」だと広井は表現しており、「かなりの希望を込めて言えば、以上のような流れとは異なる新たな潮流と政策転換の兆しが見られつつある」と、期待を込めた見方を示しています。

 たとえば、高齢化の進展に伴う「買物難民」問題への対応として商店街の見直し、過度な低密度化の問題が顕在化し、若い世代の間にもローカル志向・地元志向の拡がりなどを、その兆しととらえる一方で、現状を次のとおり評価しています。

 「 (「ローカルな経済循環から出発してナショナル、グローバルへと積み

  上げていく」という広井の考え方とは違って)、いわゆるアベノミックス

  など、むしろ「グローバル経済から出発してナショナル、ローカルへと

  降りていく」という逆の発想の政策志向がなお強く、現在は政策の転換

  期ないし分水嶺というべきかもしれない。」

 コピーの「?」はそのような意味なのでしょう。

 以上の現在の日本の姿と問題を把握したうえで、次項のシュミレーション結果を考えていくことにします。

 

◉持続可能性をめぐるAIを活用したシュミレーション

       ー「都市集中型」から「地方分散型」への転換ー

 前記したとおりにわが国の持続可能性は危うい状況にあるのではないかという問題意識から、広井ら4名の研究者グループは、AIを活用した将来シュミレーションを実施し、その結果を2017年9月に公表しています(詳細は「AI活用により、持続可能な日本の将来に向けた政策を提言」を参照)。

 この研究のメインテーマは「2050年、日本は持続可能か?」であり、「現在とこれからの日本社会にとって重要と思われる人口、高齢化、GDPといった149の社会的要因をピックアップして、その因果関連モデルを」構築したとのことです。その後、AIを用いたシュミレーションにより、2018年から2052年までの35年間の期間にわたる約2万通りの未来シナリオ予測を行いました。そして、まず23のシナリオ・グループに分類したうえで、最終的に6つのグループに分類したとのことです(その分類のために/邑、∈眄・社会保障、E垰圈γ楼茵↓ご超・資源の4つの局面の持続可能性と、⒜雇用、⒝格差、⒞健康、⒟幸福という4つの領域に注目しています)。

 こうしたシュミレーションの結果は、下記の要約のとおりですが、広井による説明(重視すべき具体の政策は省略しますが)で補足しておきます(2018.5.26「2050年まで日本は持つのか?AIが示す「破綻と存続のシナリオ」」/現代ビジネス)。

 (1) 2050年に向けた未来シナリオとして主に「都市集中型」と「地方分散

  型」のグループに区分される。「地方分散型」シナリオの方が「都市集

  型」シナリオに比べ、相対的に持続可能性に優れており、「健康、格差、

  幸福等」の観点からは「地方分散型」が望ましい。

 (2) 8〜10年後までに「都市集中型」か「地方分散型」かを選択して必要な政

  策を実行すべきである。すなわち今から8〜10年程度後に、「都市集中

  型」シナリオと「地方分散型」シナリオとの分岐が発生し、以降は両シナ

  リオが再び交わることがないからである。

 (3) 持続可能な「地方分散型」シナリオの実現には、約17〜20年後まで継続

  的な政策実行が必要である。なお「地方分散型」シナリオにおいて、地域

  内の経済循環が十分に機能しないと財政や環境が極度に悪化し、(2)で述べ

  た分岐の後にやがて持続不能となる可能性がある。

 以上のシュミレーション結果について、広井は「私自身にとってある意味で予想外だった」としており、次のコメントを続けています。

 「 今回のシュミレーションが示したのは、日本全体の持続可能性を図って

  いくうえで、「都市集中」ーーとりわけその象徴としての東京への一極集

  中ーーか「地方分散」かという分岐ないし対立軸が、もっとも本質的な分

  岐点ないし選択肢であるという内容だった。

   言い換えれば、日本全体の持続可能性を考えていくうえで、ヒト・モ

  ノ・カネができる限り地域内で循環するような「分散型の社会システム」

  に転換していくことが、決定的な意味をもつということが示されたという

  点である。」

 なお、広井は、AIやその関連技術はなお発展途上であり、今回のシュミレーションも「初発的な段階にとどまり、一つの視点を提示したにとどまっている」と注記しています(試行錯誤の段階で引き続き深化させていく)。

 このシュミレーションから3年後、2020年のパンデミックに直面して、広井は「少々驚いた点がある」とし、それは「新型コロナを通じて浮かび上がった課題」がここ数年行なってきた「日本社会の未来に関するシュミレーションの内容と大きくつながる内容だったことである」と述べています。パンデミックや、その後に展望される「アフター・コロナ」の社会を予言していたかのような関連が見られたというのです(2020.5.29「コロナ後、日本はどうなるか?地方分散型への転換と「生命」の時代」/現代ビジネス)。

 「 一言でいえばそれは「都市集中型」から「分散型システム」への転換と

  いう点だ。」

 

◉「分散型システム」の意味

         −科学・技術の大きな流れを俯瞰して−

 最後に「地方分散型」「分散型の社会システム」の意味するところについて、前掲の文書から補足的な説明をしておきます。

 国土の空間的構造という面からいえば、ドイツのような「多極集中」だとして、次のとおりコメントしています。

 「 「多極集中」とは、中小都市や町村を含めて多くの「極」となる都市・

  地域が国土の中に広く分布しており、かつそうした極となる場所にはある

  程度集約的で中心部が賑わっているような姿を指している。」

 なお、この際、注意しておくべきは、現在進んでいるのは「東京一極集中」ではなく、首都圏並みに人口増加率の高い札幌、仙台、広島、福岡等を含めた「少極集中」と呼ぶべき事態であるとし、「多極集中」はその対となる国土構造としてイメージされています。

 

 こうした国土構造だけではなく、「分散型の社会システム」は「実はもっと広い意味を含んでいる」と、広井は次の二つを示しています。

 (1) 「働き方あるいは職場―家庭の関係性における「分散型システム」」で

  あり、従来より自由で弾力的な働き方ができ、仕事と家庭、子育てなどが

  両立しやすい社会の在り方のことです。

 (2) 「住む場所あるいは都市ー地方の関係性における「分散型システム」

  であり、ローカルな場所にいても大都市圏とのコミュニケーションや協

  働、連携がしやすく、オフィスや仕事場の地域的配置も「分散型」である

  ような社会の姿のことです。

 こうした働き方やライフスタイルは今回の新型コロナへ対応する動きが背景にありますが、最終的に最も重要なことは「それが個人の「幸福」にとってプラスの意味をもちうることだ」と強調しているところが特徴的です。

 

 さらに、科学技術の基本コンセプトの移り行きから、現在を「情報から生命へ」であるとし、今後は「生命」が基本になっていくという把握が重要だと強調しています。つまり科学は「この世界に存在する諸事物のうち、より複雑で根源的な現象」へと展開してきており、これからの行き着く先が未解明な領域を多く残す「生命」(生命現象だけでなく「ライフ」という言葉にある社会的な次元を含めたもの)だというわけです。

 そして、新形コロナ問題と絡めて、下記の図を全体的な展望として整理しつつ、次のとおり締めくくっています。

 「 新形コロナウイルスの感染拡大には、いわゆる格差や貧困といった社会

  的要因や都市環境の劣化が深く関わっており、しかも「グローバル化」の

  急速な背景とも密接な関係にある。

   「分散型システム」というテーマを含め、今回のパンデミックは、そう

  した広い視野と長い時間軸において把握されるべき事象なのである。

   新型コロナをめぐる展開を契機に考えていくべきは、私たちが生きるこ

  れからの時代の大きな展望なのだ。」

 

◈おわりにー花の少ない季節にー

 コロナ以前から、私は現下のアベノミックスを含め、いわゆる拡大成長路線の思想を転換すべきだという考え方を有してきたわけで、広井の所論のベースについても同感していました。今回、表層的ですが、コロナ後を視野に入れて紹介を試みても、その立場に変わりはありませんし、そうありたい、そうあってほしいと願う気持ちがより切実に強くなったと思っています。ただ、改めて、実現可能性という点で、分散型システムのための政策の束はなお少数派かつ異端派であるという現実に立つと、高い山を実感しているといわなければなりません。ブレークスルーがあるとすれば、それは広井のいうここ数年という時間しか残されていないのでしょう。

 こうして書いてみますと、広井の「分散型システム」「新しい成熟社会」は、直近のブログ(2020.6.24「忘れやすいことを忘れないためには)の冒頭でふれた宇沢弘文の社会的共通資本という考え方と、農業・農村のこと一つを取り上げても、その未来性と根源性において親和的であると確信できたと考えています。

 

 少し前になってしまいましたが、花の写真をアップさせてもらいます。

  アジサイのブルー(寺田池の保安林内) [2020.6.28撮影、以下寺田池は同日]

  クチナシの白い花(播磨町喜瀬川沿い) [2020.6.23撮影]

  ネズミモチが気になって(寺田池近く) 

  雨後に咲く大輪のハスの花(寺田池)

 

2020.06.24 Wednesday

忘れやすいことを忘れないためにはー『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』を読むー(2・完)

 「 私は、農業という概念規定より、むしろ農の営みという考え方にもとづ

  いて議論を進めた方がよいとのではないかと思う。

   農の営みは人類の歴史とともに古い、というよりは、人類を特徴づける

      ものとして農の営みの意味づけが存在するといってもよいのではなかろう

  か。このような意味における農業は、自然と直接的に関わりをもちつつ、

  自然のもつ論理にしたがって、自然と共存しながら、私たちが生存してい

  くために欠くことのできない食糧を生産し、私たちに供給するという機能

  を果たしている。」

 今から30年前の1989年に、経済学者である宇沢弘文(1928-2014)によって書かれたものです。こうした農業のもつ基本的性格が、工業部門の生産過程ときわめて対照的なものであるにもかかわらず、戦後の農政は、これを捨象して、農業にも、工業部門と同じく効率性基準を適用してきたと、宇沢は批判します。だから、農業の問題は、「一つの産業としての観点から眺めるのではなく、よりひろく、農の営みという、人間本来のあり方に深く関わるものとして考えなければならない」ということを強調し、「社会全体の安定性にとって、中核的な役割を果たしてきた」と評価したうえで、タイトルである「新農本主義を求めて」いくべきことを説いているのです。

 この「新農本主義を求めて」が所収された『「豊かな社会」の貧しさ』(1989年12月刊/岩波書店)は、日本において経済的な繁栄が明らかである一方で、人間的な貧困も同時に存在(拡大)しているというパラドックスの因って来たるところにつき、ノーベル賞に最も近いといわれた宇沢が、自己批判(主流経済学批判)を込めつつ幅広く所論を展開した名著です。余計なことになりますが、平成の30年間が宇沢の問題提起と逆方向に動いた時代として振りかえらざるをえないからこそ、ポスト・コロナの時代への想像力が求められている現在にあって、古びることなく最重要の文献ではないかと私は考えています。

 本記事の対象である『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』(以下「《本書》」と表記)は、満蒙開拓移民の思想的なバックボーンになったとされる「農本主義」というもの、さらにはこの国策を支えた「農学」という学問の責任についてもテーマとなっています。したがって、宇沢弘文の求める「新農本主義」とは何か、そして、これからの「農学」に求められるものは何か、そのような視点も大切にしつつ紹介していくこととします。

 

 前稿((1))では、4年前にアップした記事(2016.9.2「忘れてはならないことー東京農業大学満州報国農場ー」)(以下「《前ブログ》」と表記)を踏まえつつ、こうした「満洲報国農場」、その前段である「満蒙開拓移民」が推進されてきた背景事情の方に焦点をあてて、もう少し全体像に近づけるようトライしてみました。

 その結果、「満洲報国農場」とは、満蒙開拓移民政策の一環であり、かつその行き着いた先であったとし、次のように小括しました。

 「 満蒙開拓移民政策は「満洲国の治安維持(支配および対ソ防衛)と国内の

  農村窮乏対策」という二つの流れがを合致して成立したものですが、戦争

  の長期化と戦局の悪化にともない、重心が前者に傾斜していき、「総力戦

  体制を支えるための戦略へと変質」していったのです。つまり戦争の行方

  が怪しくなってきた段階になって、通常の移民政策や青少年義勇軍が手詰

  まりとなり、そんな中で無理やりにひねり出されたのが、「満洲報国農

  場」であったといえます。」

 以上の前半を踏まえ、後半である本稿では、次のテーマを意識しつつ、《本書》を読んで理解できたことをまとめるつもりです。

 まず、70数箇所あった「報国農場」のうち、「湖北報国農場」が唯一、大学を設置主体としていたのですが、このことと東京農業大学の系譜がどのように関係していたのか、そしてその大学が自らの「報国農場」の<悲劇>に対し、戦後はどうして無関心と無責任というべき態度に終始したのか、そのあたりの背景と理由を《本書》にもとづき報告します。

 そのうえで、この「満蒙開拓移民」とその行き着いた先である「満洲報国農場」という国策の推進にあたり、原動力となった人びと、特に農学者たちに焦点をあてて、彼らの言動から戦前と戦後をふりかえると何がみえてくるのか、「農本主義」と「農学」が果たした役割と責任を、《本書》と関連文書から探ってみることにします。

 

◈東京農業大学の系譜と「湖北報国農場」の消去

            −国策と「農本主義」の結びつき−

 小塩海平の書いた「あとがき」には、《本書》に関わった多くの人たちへの感謝が綴られています。「最後に、忘れてならないのは」、「湖北報国農場」の直接の後輩たち、その真剣なまなざしによって後押しし、支えてくれた「愛すべき東京農業大学国際農業開発学科の学生たち」だとし、《本書》は普段学内で聞かされているのとかなり違う角度から、例えば農大の「生みの親」榎本武揚や「育ての親」横井時敬のことを描くことになったけれど、それぞれ自身で吟味してくれるよう期待を表明しています。

 これに続いて、東京農大の知的状況について、今、「足達と小塩が危機感を抱いている」例として、「育ての親」である初代学長である横井時敬の言葉をあげています。「稲のことは稲にきけ、農業のことは農民にきけ」は、東農大のHPには「実学を重視する多数の言葉は今なお東京農大の教育に息づいています」とあります。このように横井の言葉は称揚されていますが、実は出典すら不明なのだとし、次のとおり厳しく批判しています。

 「 『横井博士全集』を読めば、この人のあからさまな農民蔑視は覆い隠し

  ようもなく、彼が農民から何事かを学ぼうと考えていなかったことは明ら

  かである。横井なら、まちがいなく「稲のことは俺にきけ、農業のことも

  俺にきけ」というに決まっている。」

 

◉東京農業大学の歩み、戦前から戦後 −「拓殖」をキーワードとして−

 1944年、45年に「湖北報国農場」に送り込まれたのは、東京農大専門部農業拓殖科の7期生と8期生(先遣隊等のために少数の6期生)でした。つまり、農業拓殖科は1938年に開設されており、数えるとそうなります。当時の専門部への入学は中学校又は実業学校を卒業しておればよかったので、通常であれば満17歳でしたが、戦況の悪化した1943年からは、中学校と実業学校の就学年数が1年短縮されたため、7期生と8期生は満16歳で入学してきたのです。今の感覚でいえば、そんな少年たちが北満の大地を逃避行したことになります。

 「拓殖」という言葉は、辞書では「未開の土地を開拓し、そこに移り住むこと」ですが、足達は、英訳が「colonization(植民地化)」であると指摘しています。1932年から満蒙開拓移民事業が開始されていますが、「植民地の開拓に貢献する人材」を育成することが社会的要請となり、東京農大だけでなく、1925年に現拓殖大学、1930年に国士舘高等拓殖学校、1937年に日本大学専門部拓殖科が開設され、翌1938年に開設されたのが、東京農大専門部農業拓殖科であったのです。

 

 以上を前置きとして、この「拓殖」をキーワードに、東京農業大学の歩みを確認しておくことにします。

 前記した「生みの親」榎本武揚、「育ての親」横井時敬とされるとおり、1891年に榎本武揚らを核とする徳川育英会「育英黌農業科」が創設され、これをもって東京農業大学の創立とされています。1893年には私立東京農学校となり、1911年に専門学校令により私立東京農業大学と改称し、明治農学の第一者と呼ばれた横井時敬が初代学長となりました。

 「育ての親であり、明治農学の祖とも」称される横井時敬(1860-1927//学長1911-27)について、小塩は、膨大な論考が収められた『横井博士全集』で「結局開陳されているのは「富国強兵のための農業論」である」と断じています。「横井の善意に基づく熱心さこそが、その後の日本における農本主義を引導していく原動力になったといっても過言ではない」と評しています。

 先の全集から、小塩は、「拓殖」に関連して横井の残した言葉を、次のとおり紹介しています。

 「 横井は満洲や韓国を経営するためには、農民の移住が根本であるとし、

  「独り満韓に対してのみ然るにあらず、北海道や樺太などに就きても、同

  様の意見を有し、要は我農民の蔓延を以て、我国の発展上最も肝要なるを

  信じて疑はざるなり」と論じている。」

 

 横井は、1925年に大学令による東京農業大学の昇格にも尽力したとあります。東京農業大学HP先の「東京農業大学のあゆみ」には、翌1926年に「学歌の制定」とあり、次の項は1946年の「世田谷キャンパスへの移転」(1945年5月の空襲により青山(常盤松)の校舎が焼失)まで記述がありません。つまり「満洲報国農場」の前史も含めて、いわば敗戦に至る20年間のこと、《本書》が主に対象とする時期について何の記述(特記)もされていないのです。

 実際には、前記したとおり1938年の専門部に農業拓殖科が開設され、そして1944年に「湖北報国農場」への派遣となりますが、その間、二人の学長が中心となって、「拓殖」をめぐる動きがありました。

 初代学長である横井時敬を継ぐ第二代学長である吉川祐輝(1868-1945//学長1927-39)は、東京帝国大学教授であった1904年に『韓国農業経営論』を著し、朝鮮半島の植民地化を主唱したとされており、1931年の満洲事変後すぐに東京農大での満洲農業科の設立を構想したとあります。これは一旦頓挫しますが、吉川を継いだ第三代学長の佐藤寛次のとき1938年の専門部農業拓殖科の開設によって実現をみることになりました。

 佐藤寛次(1879-1967//学長1939-55)は、《前ブログ》にも登場した主役の一人ですが、産業組合の研究者として著名な学者で、「1932年の満洲国建設に伴い、「満洲新国家の将来」という論文を著し、いち早く兵農組合を説い」たとあります。東京帝国大学教授であった佐藤は満洲における農業政策に積極的に関わっていきますが、小塩は「佐藤は決して不明のために国策に便乗したのではなく、自己のなすべき使命を冷静に見極めつつ自発的に国策を招致した積極的な責任を負っているのではないだろうか」と評しています。

 そして、「湖北報国農場」についても学長として関わっていきますが、後述するように、戦後も10年間学長を続けた佐藤は、「敗戦によって樺太や満洲の農場を失ったことにはしばしば式辞で述べたものの、学生が満洲で亡くなった事実については、決して語ろうとしなかった」のだとあります。小塩は、佐藤には良心の葛藤はあったに違いないが、「まるで何事もなかったように振る舞い続けた」としています。

 このように東京農業大学は創立から三代続けて、東京帝国大学教授を経験した学長であり、時代状況もあったのでしょうが、いずれの学長も「拓殖」すなわち内地から外地へ移住して未開土地を開拓していくことについて積極的なオピニオンリーダーであったのであり、国家の政策である「国策」と切り離せない存在であったということになります。

 

 戦後のあゆみについても、「拓殖」という視点から、確認しておきます。

 戦後、専門部拓殖科はGHQの指示により開拓科に名称を変更させられたとありますが、「学生の募集を行ったものの応募・入学者が得られず」、1947年3月で廃科となりました。

 戦後も10年間学長を続けた佐藤寛次が学長選で敗れ、第四代学長となった千葉三郎(1894-1979//1955-59)は衆議院議員・労働大臣経験者で、就任した理由の一つに全国の青年に夢を与えたいと農業拓殖学科の設置(復活というべきか)をあげていたのだそうです。そして、1956年に農業拓殖学科が新設され、杉野忠夫が学科長に就任したのです。

 この杉野忠夫は、前稿でも述べたとおり、1940年に満洲開発局の参与として「報国農場」の企画推進にあたった人物でした。この顛末について千葉が語った言葉(学長を退いた直後)が、杉野の著書に引用されていて興味深い内容なので、少し長いですが、次のとおりです。

 「 ところが4年前とはいえ、想像もできないくらい当時の日本の学界は消

  極的で、農業拓殖学科を設置することは諸外国を刺激するとか、あるいは

  日本人は海外パイオニアとして不適格であると論ずる者などもいて、なか

  なか許可がむずかしかったものです。しかし、石黒忠篤先生(参議院議

  員)、那須皓先生(駐インド大使)、磯辺秀俊先生(東大教授)などの非常な尽

  力によって、条件つきで許可を得たのです。それは農業拓殖学科の責任者

  として杉野忠夫氏を推薦されたことです。これはけっして天下りでも官僚

  の押し売りでもなく、終戦後、はじめて設置される農業拓殖学科が万一失

  敗してはならないという深い配慮で、わたくしもその御厚意に感謝し、あ

  りがたくお受けいたしました。」

 興味深いというのは、一つは農業拓殖学科の設置が諸外国を刺激するという部分で、戦前の「拓殖」とこれに果たした拓殖科への厳しい評価が背景にあったというところです。もう一つは、後述しますが、満蒙開拓移民の推進に深く関与した石黒忠篤と那須皓の名前が登場することで、そのラインで杉野忠夫も推薦されることになったのであろうと推察できることです。

 そして、1991年には、新制の農業拓殖学科は国際農業開発学科に変更され、「国際協力に貢献できる人材の育成」を教育目標にかかげ、今日に至っています(1998年に農学部の再編成で国際食料情報学部に所属)。足達と小塩は、現在、同学部同学科の教授ですが、小塩は、戦前と戦後の連続性に関連して、次のような見方を披歴しています。

 「 東京農業大学の場合も、専門部拓殖科(旧拓)の廃止と農業拓殖学科(新拓)

  の開設の間には10年近い断絶が存在するものの、杉野忠夫という結節点を

  通して見る時、植民地経営から海外移住、あるいは国際協力へと重心を移

  しながらも、ふさわしい自己改革を伴わずに他民族を裨益しようとする姿

  勢ど、いまだに満洲移民の面影を引き摺っているのではないかと思われ

  ることが少なくない。」

 これはたんなる批判というより、現職の同学科の教員として、農学に携わる一員として、自己批判もこめたものと理解すべきなのでしょう。

 前稿で引用した「当時、東京農大の拓殖科の特別講義に出講していた関係で、東京農大にもその一つを分譲することを満洲国側にいて企画していたのは私だった」と回顧した杉野忠夫が、戦後の農業拓殖学科の基本方向を定めるリーダーとなったという意味は、やはり重いといわなければならないのです。

 

◉「湖北報国農場」への大学の態度ー無関心と無責任ー

 前項の「拓殖」をキーワードとする東京農業大学のあゆみを通してみえてくるのは、1945年の「湖北報国農場」の実習に参加した学生・教職員から多数の死亡または行方不明者を出したという悲劇に対し、大学側は無関心と無責任な態度で終始一貫していることです。

 まず、直近のエピソードから一つ。足達の報告によると、2013年に竣工した「農大アカデミーセンター」の展示スペースに「満州報国農場」という項目があり、「満洲報国農場は、昭和18年(1943)、旧満州国東安省密山湖北に専門部農業拓殖科の訓練実習を目的として創設されたが、昭和19、20年の二回、農業拓殖科学生を送ったのみで終戦を迎え、7,500ヘクタールの土地を失った」と記されていました。これに対し、湖北報国農場からの生還者で組織した「湖北会」のメンバーは、農場の土地はもともと東京農大が所有する物件ではなかったこと、そして多くの学生と教職員が殉難したという記載がないことについて、抗議文を送りました。

 大学側の回答は、大学の責任をすべて無に帰した内容でしたが、その後の話し合いで「実習中の教員2名と学生56名が戦禍の中で亡くなり」というフレーズが挿入されたとのことです。しかし、削除を要求した「7,500ヘクタールの土地を失った」という文言はそのまま残されたとあります。

 

 多くの犠牲者を出した満洲の冬をなんとか生きのびた学生たちは1946年の6月から9月にかけて、「引きあげ船にのって、三々五々帰国」しますが、その間の大学の対応を確認しておきます。

 前記のとおり、1947年3月の廃科により、生還学生たちは他学科へ編入することとなったことから、拓殖科の卒業にはなっていないのです。このことが大学側の責任の所在を曖昧にした一因にもなっていると、小塩は記しています。一方、殉難した学生たちの遺族への報告は、生還した学生たちに直接実家へ出向かせていたとのことで、こうした対応に当たった生還学生はまさに「針の筵」の思いであったと回想しています。

 つまり大学は、亡くなった学生たちの遺族と厄介なことにならないように関わらないように、前面に立つことを避けていたというわけです。

 

 遡って終戦の年、満洲への勤労奉仕隊を拓務省と外務省が派遣を見送っていた中で、農林省だけは「報国農場」へ多数の少年少女たちを送り込んだのです。ですから、農林省の責任は大きいといえますが、小塩は、終戦時の学長である佐藤寛次の「一生涯の不覚」として次のことを報告しています。

 「 1945年5月の空襲で東京農大の青山の校舎を焼失し、学長が来たるべき

  敗戦を予期していたのであれば、6月下旬に満洲報国農場へ向かう第三次

  隊が敦賀で空襲を受け、舞鶴を出港後すぐに機雷に当たって座礁した時、

  引率の太田主事からの問い合わせに対して学生派遣の「取りやめ」の決断

  を下さなかったことは、佐藤の一生涯の不覚といってよいであろう。」

 

 さて、終戦の直後に佐藤学長はどう動いたのか、素早い対応に驚きます。

 すなわち終戦の翌日(1945年8月16日)には、軍用地の払い下げについて参謀本部と交渉し、世田谷の陸軍機甲整備学校の借入使用許可を取り付けたとあります(現在の世田谷キャンパス)。ちょうど、このころ、湖北報国農場の100名近い学生たちは、わけのわからないまま逃避行へと向かう途上にあったのです。

 三々五々、生還学生たちが戻ってくる前の1946年3月には、GHQの戦争責任を逃れるため、農業拓殖科の教職員を全員解職するとともに、1945年3月31日に遡及して住江金之教授を農業拓殖科長から解任し、太田正充助教授を同科長に任命しています。足達は、組織防衛のためとはいえ、不自然な人事であり、こうした手段で太田という一個人に報国農場の責任を押しつけるものであったと批判しています。

 太田と同じく責任をとるべきであった住江科長や佐藤学長は、それこそ不自然なことですが、この問題に沈黙を決め込んでいくことになりました。このことは、当然、大学側の態度となって反映されたといえるでしょう。

 

 1956年、新制の農業拓殖学科長に就任した杉野忠夫は、直後の1956年6月20日付『農大新聞』で満洲報国農場についてふれた中で「所が御承知の如くソ連の背信侵略と云う大東亜戦争最後の大悲劇によって満州開拓と云う民族的大運動は同志の惨澹たる全滅の悲劇を喫し、農大満州農場は太田教授以下ほとんど全員全滅と云う史上にも稀有の悲劇を以て終焉したのである」との文章を残しています。

 ここには、大学側の責任をスルーして本人の知らないままで太田教授に責任を集中させようという意図が透けてみえます。こうした対応につき、小塩は怒りを込めて到底看過できないと、次の点を指摘しています。

 「(1) 戦後になっても満蒙開拓を「民族的大運動」と称して理想化し続けて

    いる、

  (2) 「同志の惨澹たる全滅の悲運」と書いているが、少なからぬ生還者が

    おり、決して「全滅」ではない

  (3) 悲劇の原因は他ならぬ自分たちが創り出したにも拘らず、ソ連の侵略

    に全責任を転嫁している、などである。」

 

 かくして、東京農大「湖北報国農場」の悲劇というべき大問題は、終始、大学側の無関心(の装い)と無責任の態度を通して、記憶の消去や変形を受けてきたというわけです。

 この問題に2000年代前半から取り組んできた小塩と足達という現職教授は、パンドラの箱を開けたということになりますが、私の想像できる範囲では、学内では今もなお異端者として遇せられているように感じています。今日のように大学の規模が大きくなり、分野の細分化が図られている状況では、なおさら空間的にも時間的にも遠い出来事として忘れ去られる力学がはたらきます。

 しかしながら、《本書》は彼らにとって中間報告であり、二人はそれぞれ専門の研究とともに、この問題から離れることなく、農学のあり方まで視野が広がってきています。いずれにしても、生還学生たちの高齢化がすすんでいるという難しいなかで、途切れることなく発言を続けていくであろうことも、私は確信しています。

 

◈先達としての農学者たちの戦前と戦後

              ー「農本主義」の来し方を通してー

 満蒙開拓移民政策を推し進めた思想的バックボーンとして、「農本主義」と呼ばれるものがピックアップして論じられてきました。

 では、農本主義とは何か、どう定義されるのか、各国・各地域の幅広い環境条件と農業をとりまく歴史的過程(政治・経済条件を含め)のもとで、近代化・産業化の程度や時期や方向の違いによっても幅広いバリエーションが想定されるし、現実にそうだといえます。

 ですから、日本の農本主義といっても同じであり、そうであるからこそ「農本主義ー読んで字のごとく、農こそあらゆるものの大本とみなす思想」(1966/筑波常治)という定義でしか包括しようのないものだといえます。近代化の過程において農業・農村・農民の重要性を説く思想、農本主義的主張が登場・台頭する背景には、「農業社会から工業社会への移行の過程にあらわれた「近代化への対抗思想」(1977/中村雄二郎)」、つまり「産業としての農業の地盤沈下したという認識に基く農業・農村サイドからの危機意識」があると、野本京子東京外国語大学教授(現名誉教授)は述べています。

 そして、野本は、農本主義の日本的特質について、「家族小農経営を日本農業・農村の担い手として位置づけ、その生活・生産面での安定と十全な発達を第一義とし、発言し行動しようとする思想、ペザンティズムが根底にあると考える」(1999)と、ひとつの定義を与えています。この定義のようなものは、今回の読んだ文献のなかで、私が最もしっくりと同意できた日本の「農本主義」についての言葉です。《本書》においても、藤原辰史は、後述する橋本傳左衛門という農学者を論じる中で、その弟子である杉野忠夫の名前も出しつつ、次の農本主義についての認識を記しています。

 「 杉野も橋本も、農村と農民に害をもたらすという理由で資本主義を批判

  し、市場経済のルールに馴染みやすい大農経営よりも、小規模の家族経営

  の意義を強く主張していた。家族の労働力に根差した農業を推奨する考え

  方を農本主義、あるいはそのなかでもとくに小農主義(ペザンティズム)と

  呼ぶが、橋本もこの系譜から外れないどころか、その本流に立ちつづけ

  た。」

 

 では、このような農本主義の考え方が、満蒙開拓移民の推進とどう結びついたのか、昭和恐慌、農村恐慌の危機にあって、家族小農経営が立ちいかなくなるという農村の疲弊が顕在化する状況のもとで、これを回避させる方途として、前記の用語を用いるなら、「国内の農村窮乏化対策」として表舞台に立ったのだといえます。こうした要因だけで、満蒙開拓移民が政策として推進できるわけではありません。もう一方の満洲国の成立と支配の強化、関東軍の強力な軍事力という条件が、超国家主義として結びついて、初めて満蒙開拓移民をけん引することになったのだと、私は理解しているのです。

 以上の前置きのもとで、満蒙開拓移民の推進をリードした農政と農学、そしてこれに関連するリーダーたちの戦前と戦後をみていくことにします。

 

◉「満蒙開拓移民」の推進と農学者たちの役割

 《本書》では、1936年の二・二六事件で高橋是清蔵相が殺害されたことから、「満洲への移民政策が一気呵成に進められることになった」とし、小塩は、次の記述により、中心的な役割を果たした人物の名前をあげています。

 「 その中心的な役割を果たしたのが、日本国民高等学校校長・満蒙開拓青

  少年義勇軍訓練所長をつとめ「満蒙開拓の父」と呼ばれた加藤完治(1884

  -1967)、当時農村更生協会理事長であり、後に第二次近衛内閣の農林大臣

  になる石黒忠篤(1884-1960)、農林官僚であった小平権一(1884-

  1976)、農林経済学者で東京帝大教授の那須皓(1888-1984)、京都帝大教

  授の橋本傳左衛門(1887-1977)らであった。」

     ㊟「(生年-没年)」は追記しました

 そして、「彼らは関東軍と協力して大量の移民を満洲に送り込んだ」のだが、「「病弱な体を押して「没我的に」働きつづけた「裏方」こそ、杉野忠夫であった」と評しています。

 前記の野本は、「日本の「満州」農業移民政策の思想的系譜ー前史としての朝鮮移民事業に着目してー」(2020)で、「内原グループ」として前記引用文と同じ5名の名前をあげ、満蒙開拓移民の推進に果たした役割を論じています。同論文には、この5名がほぼ同年齢で東京帝国大学の同窓であり、1910年代から交友関係にあったこと、タイトルの「前史としての朝鮮移民事業」を推進するための1924年の朝鮮開発協会の設立にも中心的に関わっていたことが明記されています。ですから、満蒙移民のためにつくられた急ごしらえのグループではなかったことに注意しておきましょう。

 石黒と小平は「石黒農政」と呼ばれた農商務省で農政をリードする官僚・政治家であり、那須と橋本は農政にも深く関与した農学、農林経済学を代表する学者なのです(藤原の表現では「満州移民プロジェクトを推し進めることになる学者の二本の巨木といってよい農学者」)。そして、加藤は「移民・植民」を主唱するオピニオンリーダーであり、民間といいながら、石黒・小平の強力な支援を得つつ、拓殖教育のための学校長として活動した人物です。その役割が過大視されているとの見方もあるようですが、各自のめざす方策を実現していくための盟友関係にあったということができそうです。

 二人の農学者、那須と橋本が1932年2月17日に奉天で開催された関東軍統治部会議「満蒙新国家建設会議」に招へいされていたことについて(農林次官であった石黒は訪ねてきた加藤に、この会議のことを「満州移民の可否をきめる大討論会」と説明したそうです)、野本は次のエピソードを報告しています。

 「 二人は「満州移民の突破口」を開こうという意図のもと、満洲農業移民

  の必要性を説いたのであった。会議では農業移民案には否定的意見が多

  かったが、関東軍参謀板垣征四郎と石原莞爾は支持に回ったという。板垣

  や石原は移住適地を見てほしいと述べ、那須と橋本は関東軍の飛行機で空

  から満洲の大地を視察している。」

 同論文の結語として、野本は、こうした人物たちの盟友関係と時代の背景について、次の文章で締めくくっています。

 「 従来、満州農業移民については、「内原グループ」内ではとくに加藤完

  治への注目度が高かった。報告を通じて感じたのは、石黒忠篤や那須皓と

  いった官僚・学者も、必ずしも加藤に引きずられて行動をともにしたので

  はないということである。1920年代の農政史を踏まえて考えると、小作

  法の制定等がままならない状況下、地主的土地所有自体に切り込まない前

  提での農業問題への「ひとつの解」として、植民地朝鮮や満州への農業移

  民が、彼らにとっても次第に大きな意味を持つに至ったといえよう。その

  歴史的結末は周知のとおりである。」

 いわば「内原グループ」の有した意味の再考をもとめていますが、私も農政と農学の両輪という支えなくして「国策」としての満蒙開拓移民事業は成り立たなかったものと理解しておきたいと思っています。

 

 さて、戦後との関係です。

 《本書》には、藤原が橋本を論じた第3章以外にほとんど論じられていませんが、小塩は「食糧戦争」の連続性という視点から、農学者や農政者における敗戦意識の欠如、満洲開拓移民の帰結についての責任意識の欠如について、次のとおり断じています。

 「 私は、太平洋戦争当時の農政者や農学者たちは、おしなべて「食糧戦

  争」における自らの敗北を認めていないと断言できる。本書で折に触れて

  取り上げた人物たち、石黒忠篤にせよ、加藤完治にせよ、その他、橋本傳

  左衛門、那須皓、佐藤寛次、杉野忠夫、いずれも、戦時中の自らの責任を

  自覚することなく、ほぼ戦前と戦後が連続した認識のままに、その後も要

  職を務めたという特徴を指摘できる。」

 これはどうしてなのか。前記の内原グループのうち小平権一の名前がありませんが、同じことでしょう。もちろん日本の戦争責任というものの考え方の根っこに関わるものだともいえます。敗戦とは軍事的な敗北であり、軍部とプラスアルファにすべての責任がある、戦時体制のなかで「食糧戦争」の推進に努力してきた自分たちに責任はなく、つまり「食糧戦争」に敗北しているわけではなく、これからの再興のために力を尽くすことが自分たちの義務なのだという意識なのかもしれません。

 小塩は、戦後の食糧事情ということを指摘しています。つまり食糧事情は「植民地を失った戦後の方がむしろ悪化した面があり、「食糧戦争」は敗戦後も続いた」ことが、背景にあったのではないかというのです。食糧増産のための仕組みは名称だけ変えて戦後も継続していましたし、加藤の日本国民高等学校も満蒙開拓青少年義勇軍訓練所も名称を変更して続いていったのです。

 《本書》で問題として論じてきた「満蒙開拓移民」、その行き着いた先である「満洲報国農場」の<悲劇>をもたらした結果について、こうした政策をリードしてきた人たちは、農政においても、農学においても、主体的に責任というものを負おうとはしなかったということになります。彼らにとって戦前と戦後は断絶ではなく、連続であったというほかありません。

 

◉「橋本傳左衛門」という農学者の戦前と戦後

 先に述べたとおり《本書》の第3章の全体を、藤原は、前記の橋本傳左衛門の農学に対する分析にあてています。1923年に京都帝国大学教授となり、1940年から43年の間、満洲国開拓研究所長を兼務したという橋本は、前項の引用文にもあったとおり、マルクス主義者ではなかったけれど、資本主義社会への批判とそこからの突破の必要性という点では、同じ現実批判というパトスの持ち主であり、だから当時の「農本主義」にシンパシーを寄せていた学者であったと、藤原はみています。

 「満洲ブームの訪れた時代には、満洲移民にする適合する農業経済学を編み出」す一方、「敗戦後は手を翻して「私経済」的な個人主義を擁護して」しまうという、戦後の橋本の変節をどう理解すべきか、藤原は橋本の変節を前提のうえで、「その前段階である理論の形成過程と戦後も変わらなかった部分も同時に追って」行こうとします。そのために、三人の海外の農学者(チャヤーノフ、エーレボー、クルチモウスキー)の理論に対し、橋本の受容と理論形成を突き合わせて検証しています。藤原は、次のような小括を提示しています。

 「 戦前戦中の橋本の農学には、クルチモウスキーの翻訳やその解説にあっ

  たように、資本主義になじみにくい農家経済の身体性、あるいは、生態的

  なものが繰り返し立ち現れる傾向がある。これは、橋本の特徴というより

  は、資本主義経済に違和感を感じつつ学問の形成を試みる知識人に共通す

  る土台であり、時代の空気といえるかもしれない。しかし、戦後になる

  と、この橋本の農学の中心が非常に薄れてしまう。変節というのは、単

  に、満洲移民に関わった過去を抹消することだけでなく、過去にあった可

  能性もまた抹殺することを意味するのである。」

 

 私の理解不足と紙幅の限りために紹介というには足りませんが、藤原は、客観的かつ論理的に橋本の仕事を追っていくと、「家族と勤勉と共棲の農学の形成に関与」したとし、それは「マルクス主義を一つのアンチテーゼに設定しながら、それとは異なるかたちで、資本主義の乗り越えを誘発するとも読み取れる」と整理したうえで、次のとおり橋本の限界と不誠実を批判しています。

 「 そうしたプロジェクトのなかに、資本主義の矛盾の吐き出し口となった

  満洲での農業の実験もまた、ぴったりと当てはまる。橋本傳左衛門は、そ

  の中心部分に客観的には立っていたのである。

   けれども、橋本の農学と農本主義は、このような自己の立つ場所に無自

  覚であったし、大和民族の優秀性を説き、他民族の「レベルの低さ」や

  「怠惰」を強調し、戦前戦中は、大和民族が満洲国での指導的役割を果た

  すべく理論武装を試み、敗戦後は、そうした過去を自己の学問上からもみ

  消すことに腐心した。」

 そして、こうした橋本の「回避」を、橋本ひとりに帰すべきでないとして、戦後の農学という学問に対し、自分を含めた現在の農学者に対し、次のとおり誠実であることを求めています。

 「 戦後の農学もまたその回避への欲望から自由ではなかった。およそ、農

  学に携わる者で、資本主義経済のなかになじみにくい農業の特質を感じた

  者は、わたしも含めて、橋本のはまった落とし穴に再び落ちないという保

  証はないからである。」

 藤原辰史という有為な歴史学者の農業観、農学像が少しうかがえるようですが、この「資本主義経済のなかになじみにくい農業の特質」とは、冒頭の宇沢弘文の文章とまっすぐにつながっています。

 

おわりにー「新農本主義」とコロナ禍ー

 《本書》は、タイトルのとおり、「知られざる満洲報国農場」につき、インナーである学者たちが大学と対峙しながら白日のものにしていくことを通して、「農学と戦争」の関係における事実と現実を提起し、大学の「責任」だけでなく、こうした国策を支えた学問の「責任」を鋭く問うています。そのことはまた、現下の農学という学問のあり方についても自省を迫るものです。

 本稿では、《前ブログ》を踏まえて、「満洲報国農場」という国策の前提となった「満蒙開拓移民」政策の背景事情を歴史的に明らかにするとともに、「拓殖」をキーワードとする東京農業大学のあゆみと「湖北報国農場」への戦後の無関心と無責任の態度を確認し、こうした国策を農政と農学から支えた人物たちの戦前と戦後を「農本主義」という視点から望見してみました。

 なお、戦後75年、農業の現代的課題と「農本主義」というテーマを、宇沢の「新農本主義」を媒介させつつ、もう少し考えてみたいのですが、別の機会とすることにします。「満洲報国農場」と出会って4年、変な言い方ですが、忘れることに抗しつつ、少しだけ肩の荷を下ろした気持ちになりました。

 

 日本農業新聞の本年1月1日付「新農本主義 包容力と自治 国の基に」という年頭論説があって、それこそ宇沢の「新農本主義」、農業と農村の多様な価値を媒介させながら、「規模拡大に偏った農業振興」や「成長産業化政策」の限界を指摘しつつ、「多様な農業経営と農家以外の住民や移住者を含め、地域経済が成り立つ政策」の必要性を訴える内容です。

 このような形での宇沢の「新農本主義」の引用が適切かどうか疑問なしとはいえませんが、今次のコロナ危機によって、宇沢の「新農本主義」を含む社会的共通資本の経済学は再びテーブルに呼び戻されるものと、私は思っていますし、そうあるべきだと考えています。

 最後に、清水徹朗という方の論文(「戦後日本の農業思想と農政論」2020.6『農林金融』)から、ラストの文章を引用します。

 「 新型コロナウイルス問題はグローバリゼーション、都市集中、格差社会

  の問題点を浮き彫りにし、原発問題、地球環境問題とともに現代文明のあ

  り方が根本的に問われる事態に至った。農業政策は成長よりも環境と循環

  を重視し、地域、生態系、文化の視点を含んだものとするべきであろ

  う。」

 この紋切型のような文章に、この当たり前の意見に、私は次代への出発点をみたいと思っています。

                       【終:(1)へ/(2・完)】

 

2020.06.10 Wednesday

六甲の坂の途中にー「口笛文庫」のたたずまいー

 先週(6/5)、ちょうど2ヵ月ぶりに神戸へ出かけました。大学病院のあと、神戸の街を歩きましたが、私の節穴の目には、街の変貌というものが見えてきませんでした。緊急事態宣言下で自粛休業していた多くの店舗が再開されていたこともあるのでしょうか、自然災害とちがって、コロナ禍は自然や都市の風景を一変させるという性格ではないことに思い至ります。このことが大規模な災害に比べ、今回のような感染症の記憶を拠り所がなく忘れやすいものにしているのではないかとの論述もありますが、いかがでしょうか。

 本稿では、2ヵ月ぶりの神戸の街を万歩歩行して感じたことに少しふれつつ、最後に訪ねた古書店『口笛文庫』で店内の様子を撮らせてもらいましたので写真中心にゆったりと紹介することにします。

 

 神戸大学病院の南隣に港翔楠中学校がありますが、11時過ぎに病院を出ると、その校舎に貼られたメッセージが目につきました。このメッセージが歯抜けになっていて、おもしろかったのです。

 6月冒頭から学校が再開され、三密回避のためか窓が開放されていたためで、下記の写真では、上段から「〇〇〇〇の皆様/神〇を〇う〇様〇力に〇謝!/コ〇ナ〇負〇ずにが〇ば〇ま〇ょ〇!」となっています。正解は「神大病院の皆様/神戸を救う皆様の力に感謝!/コロナに負けずにがんばりましょう!」だそうです。もともと同中学校には、院内学級もあって神大病院と関わりが深いとのことですが、5月1日にこのメッセージは貼りだされました。同月20日には病院側も応答し、中学校の正面にある病院の渡り廊下に「応援メッセージをありがとう」と、お礼の言葉が掲げられたのです。

  港翔楠中学校校舎の「応援メッセージ」 [2020.6.5撮影、以下全て同日に撮影]

 病院へ入る際には、もっとものものしい感染防止対応があるのかなと思っていましたが、3ヵ月前と同じで、出入り口が正面玄関1か所に限定され、消毒用アルコールスプレーがおいてあるだけでした。病院に入り、ああと思ったのは、3月10日からだという「面会禁止」措置が今も継続していることです。

 病院内でも新型コロナウイルスの感染防止対策に伴う変化は特に感じられませんでした。泌尿器科の外来待合は相変わらず多くの患者でぎっしりで、ディスタンスどころではありません。次に診察してもらった放射線腫瘍科の担当医師に尋ねると、リニアック待合室では距離を空けて座ってもらうとか、今まで以上に消毒を徹底するとかぐらいかなとのことでした。

 一方、診療費の自動支払機の前に、スーパーのように立ち位置を表示するマークはないにもかからわず、患者たちはディスタンスをとって並んで待っていました。これは患者の自主行動といえるのでしょうか。

 

 病院を出て、強い日差しを避けるように日陰を探しながら歩いたのですが、人気洋食店「洋食の朝日」の前には、11時半頃だというのにディスタンスのとれていない行列ができていました。他方、あとで立ち寄った大丸では、「入口」と「出口」を分けたり、「入口」を入ったところで自動で発熱を監視する装置の前を通ることになっていました。

 私は決して口うるさい消毒じいさんではありませんが、神大病院の外来患者への感染防止のための対応はちょっと豪快、豪気のように感じたりしました(見えないところで本質的な対策はしているよということでしょうが)。それこそ何のエビデンスもないのですが、家人から別の病院の対応を聞いたりしていた内容に照らしてみると(病院外のテントでの体温測定など)、やはり、これまで院内感染が出ていないからという背景もあるのかなと邪推したくもなりました。

  神戸大学病院1階ロビー「面会禁止」のサイン

  神戸大学病院の自動支払機前の並ぶディスタンス

  「洋食の朝日」前の行列

  大丸神戸店前の「入口専用」「出口専用」の分離

 元町一丁目に『萬屋宗兵衛』がありますが、前稿(「ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー」)に登場した『WAY OUT WEST』6月号で、4月に閉店したことを知りました。階下への階段の前には、「閉店しました。ありがとうございました。」のあいさつとともに、もう一つお知らせペーパーが掲示されていました。「いつも半ズボン姿でおみやげをくださったお客様ぜひご連絡ください。」とあって、ちょっといいストーリーが想定されて楽しくなりました。

 ジャズ中心のライブハウスである同店は、1999年に開店し、21年目を迎えていました。同誌掲載の店主挨拶によると「営業継続を考えていましたが、地下という立地でもあり、コロナ以前のようにはやっていけないとの結論に至りました」のだそうです。米国から帰国した直後のコンサートで聴いてその骨太の音にびっくりした記憶のあるトランペッターの広瀬未来さんが、次の文章(部分)を寄せ、感謝の意を表明しています。

 「 萬屋宗兵衛はジャズの間口を広げてくれたライブハウスでした。私自

  身、そして同世代のミュージシャン、リスナーのほとんどがその間口の広

  さの恩恵に授かったのではないかと思う。《中略》萬屋宗兵衛が広げてく

  れた間口から入った自分がこれからのジャズシーン(コロナウイルスとの共

  存も含め)について考える重要な時期に来ていると思う。萬屋宗兵衛、スタ

  ッフの皆様、ありがとうございました。」

 このように「萬屋宗兵衛」は、大きな役割を果たしたのです。私は1、2回ほど覗いただけですが、こうした店が名前をもった生命体であるとするなら、「閉店」することは生命のサイクルというべきでしょう。だから、いたずらに惜しいとか、残念だとか、申し上げることは失礼なこと、敬意に反することにもなるのではないか、私は思ってもいるのです。

  元『萬屋宗兵衛』前の貼り紙(元町通一丁目)

 昨年は、古書店の好きな私にとって、エポックな年でした。2月の『花森書林』(旧「トンカ書店」)の場所を移しての新たな出発(2019.2.10「「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー」)、そして、9月の口笛文庫と清泉堂の合同店舗である「三宮駅前古書店」、10月のまちづくり会館内に古書店共同運営で「神戸元町みなと古書店」がそれぞれオープンと続いたのです。

 「神戸元町みなと古書店」はまちづくり会館の開館とともに再開していましたが、「花森書林」はシャッターが下りていて「4/14(火)より臨時休業致します。」の貼り紙がありました。

 昨日(6/8)、「花森書林」の店主に確認したところによりますと、この機会ということもあって再開準備に日にちをかけるつもりで、オープンは6月下旬から7月初旬を予定しているとのことでした。乞うご期待です。

  『神戸元町みなと古書店』(神戸市立まちづくり会館内)は営業中

  『花森書林』の「臨時休業」貼り紙

 さて、本稿のテーマ、『口笛文庫』のことです。今回はいつものJR六甲道駅からとは逆に、阪急六甲駅で下車して、『六珈』でコーヒーを飲んでから、八幡本通の坂を下りました(JRと阪急のほぼ中間に位置しています)。

 以前から、私の好きな店内の様子(本が並べられたり積み上げられたりしているカタチ)を写真にしたいと店主に話していましたが、今回、やっと実現しました。本稿では、開店(2005年1月だそうです)から15年余を経過した現在(2020年6月)の古書店の姿をお伝えしたい(自分のためにも残しておきたい)と思っています。なお、参照していただきやすいように写真に番号〇を付しています。

 口笛文庫は、いろんな方のブログ等でも取り上げられていますが、ここでは『空犬通信』というブログの記事(2017.11.27「神戸で古本屋さん巡りを楽しんできましたよ」)とリンクしておきます。

 

 まず、口笛文庫が六甲の坂の途中にあることです。道を隔てた反対側から、全景()を撮影して驚いたのは、まさに坂道の途中にある一軒家だということです。急な坂の多い六甲では、このあたりの坂は序二段というところで大したことはないと思っていたのですが、写真をみると、違いました。幻惑する傾斜に水平を見失うような不思議な感覚があります。

 この坂道性というものを端的に示すのが、店舗の前に並べられた100円均一本や雑誌を中心とする平台です()。坂の傾斜に逆らわずに台をおくと、こんなに傾斜がついてしまうのです。背後のガラス越しに見える店内の棚の水平と比べると、さらに、その傾斜が際立っています。

 右側、すなわち南側の入り口()には白い文字でガラスに『古本とジャズ 口笛文庫』とあります。私は「口笛文庫」と呼んでいますが、こちらの方が正式名称になるのでしょうか。「古本とジャズ」はかつて私のフェイバリットだった植草甚一の本のタイトルに由来するのだそうです。

 この文庫の場所の坂道性は、店内に波及しているので補足しておきます。この建物はもともと二世帯が入居していた民家で、2005年のオープンに際しては、右側の半分を借りて始めたそうで、数年して左側も借りることができて改装し、現在のように建物の一階部分全体に店舗を広げることができたのです。もちろん店内の床面が傾斜しているわけではないのですよ。真ん中に階段2段が設けられ、床面が上下に分かれています(便宜上、本稿では,亮命拭右側の下段を<1F>、左側の上段を<2F>と呼ぶことにします)。

   惴笛文庫』の全景 [八幡本通の反対側から撮影]

  ◆惴笛文庫』前の平台の傾斜

  F口の『古本とジャズ 口笛文庫』の白文字

 古書店の店内の雰囲気を伝えたいのですが、私にとっては、やはり本のおかれた状況であろうと考え、<1F>に<2F>に分けて、その映像から感じていただければと思っています。

 で、最初に口笛文庫を訪れたのは、いつ頃でどんな経緯があったのでしょうか。確かなことは分からないというのが結論ですが、推測しておきましょう。それまで六甲という土地は、六甲山上に行くための経由地でしかなかったのですが、2000年代の半ばにJR六甲道駅からすぐ北の『宇仁菅書店』(これも古書店)の存在を知って時々通うようになりました。2009年3月末が最初の退職でしたが、その前後でしょうか、近くに<ジャズ>を冠したユニークな古本屋がある情報を得て、初めて坂を少し北上して「口笛文庫」へ足を伸ばしたのではないかと思っています。そのとき、店舗は既に現在のフルバージョンに改装済みではなかったと記憶しています。

 そして、前者の高踏というか、フォーマルな雰囲気に比し(決して悪い意味で使っていません)、口笛文庫のもっと幅広く柔軟でカジュアルな感覚は、私が古書店に求めるものに近いように思ったことでしょう。端的に申し上げれば、私が購入したいような本や雑誌が多くあったということになります。ですから、以来10年超か10年前後のお付き合いということになります。2015年4月からは、六甲の大学の聴講生になったこともあって、それこそ山の校舎から下りてきたその足で覗けるようにもなったのです。

 店主が急に亡くなられ、宇仁菅書店が閉店したのは、2012年3月のことでした。今にして思えば、宇仁菅書店の店主は(店内にはいつもバッハの鍵盤音楽が流れていました)、かつての古書店のあるじとして、ある種の理想を身にまとった方であったのでしょう。

 

 寄り道してしまいましたが、店内の様子を紹介します。先にリンクした『口笛文庫』のホームページの「当店について」には、本の書名の分かるほど接写したいい写真がアップされていますので、ここでは、もう少し広い範囲をカバーする写真を組み合わせて雰囲気を感じてもらいましょう。

 まず<1F>の方です。

 入り口の引き戸を開けて店内に入って前を向くと()、右手前の平台に児童書と絵本、右側の棚にもそういうものに加え、料理本や手芸本、美術等の展覧会の本などがあります。このあたりには、子供たちやお母さん方がよく来店して、写真の小さな椅子に座って本を読んでいたりします。私はここをスルーして真っすぐに奥の棚に向かいます。

 奥の右側は音楽が中心で本だけでなくCDの棚()もあります。ここのジャズ本にはお世話になりました。イ亮命臣罎CDで手元にあるのは、上から3段目右端のマイルス・デイヴィス『死刑台のエレベーター』だけです。同名の映画のための音楽を映写をみながら即興で吹き込んだというマイルスは、ジャケットのジャンヌ・モローと束の間の恋におちたといわれています。

 左側は、映画、芸能であり、その横、L字形の短辺には建築関係の本が並んでいて、私は毎回のように覗いてしまいます。ここで吉田五十八や吉村順三たちに出会いました。

 

 この穴倉を出て右手に回ると()、哲学、思想、政治、経済、現代史の本がずらっとおかれています。奥には、新書系がぎっしりと詰まっています。ここは素通りできずに、ざっと眺めるのが恒例ですが、せっかく購入しても、さらっと読めないような本が多いところです。私にとっては、鶴見俊輔や加藤周一らを中心に、たとえすぐに読めなくても、購入しておこうよと主張している棚ということになります。

 そして、Δ涼譴鮑犬愨元から積み上げられた本の隙間を回りこむと、<1F>の中央に平台があって()、古本らしい古本というか、戦前、さらには明治、大正の本や雑誌や図版など(外国語の本もあったかな)が平積みされています。十分にお年寄りの私ですが、ここはスルーして手前の棚に注目します。植草甚一、小林信彦など晶文社系の作家の本が多くあり(最近はもっと幅広い)、80年代のサブカルをリードした本が多く集められています。

 このあたりで安西水丸の関係本を手に入れたことを当ブログにも書いています(2018.1.11「線にはすごく感情が表れてー安西水丸のイラストレーションー」)。この記事には、安西本を購入したとき、店主から「〇〇さんは安西水丸さんに似ておられるとずっと思っていました」と言われて動揺したことを記しています。

  <1F>入口からの正面

  <1F>CD棚の一部

  <1F>い虜玄

  <1F>中央の平台など

 以上が<1F>ですが、<2F>へ上がる2段だけの階段の左手前の棚は、現代の日本文学、今今の小説群が並べられ、階段脇には()、売れ筋とでもいうのでしょうか、こんなディスプレーもされています。

 <2F>を足場として、できるだけ<1F>全体を撮影しようとしたつもりですが、一部しか写っていません()。それにしても、これは何でしょう。書名の見えない本、それも時間をまとった本の塊りというしかない代物というべきでしょう。でも、本好きにとっては、曲芸的なバランスというより、不思議な均整をたたえた情景とでも表現したくなるのです。

 いつも書いているとおり、病膏肓に入る、バカは死ななきゃというのは、こんな感覚なのでしょう。

  <1F>から<2F>への階段脇

  <2F>から<1F>の全景?

 次に<2F>です。

 二つの階段を上がって、左手はL字形の文庫本コーナーが充実しています()。短辺である左手奥には岩波文庫がそろい、そしてその上段には、たまに手に入れたりする小型の詩集が並べられています。長辺側の右手には各種文庫、特にこれだけ講談社文芸文庫が揃っている古書店はめずらしいですし、私のような者にとっては岩波現代文庫が数多いのもありがたいことです。写真には入っていないのですが、最下段には、雑誌『芸術新潮』『太陽』があって、何点か、私たちの海外旅行の参考書になりました。

 時計回りに半身を動かし、右奥を眺めると()、手前の平台には外国文学の単行本が積まれています。当ブログによく登場する須賀敦子、池内紀や池澤夏樹の翻訳書も多く、もう20年以上前なら、チャレンジしてみたいと思いながら眺めたりします。そして、その脇には、洋書も多数おかれています。この写真には写っていませんが、<1F>側には、まだ価格のついていない未整理本が、うず高く積まれていたりします。

 右奥手前には歴史、考古学、民俗学の棚ですが、どうしてか、あまり見ていないのです。さらに奥の横長棚は、広く芸術本全般、稀覯本もあるのかな、で埋め尽くされていて壮観です。このうち一番右端の棚は上から下まで写真集や写真の本が並んでいて、私にとっては大切なコーナーでした。もっと以前に「口笛文庫」と出会っていたら、もっと多数買っていたかもしれませんが、退職後のお付き合いということで、とりわけ年金生活者になってからは実際に購入した写真本は限られているのでしょう。「でした」と書きましたが、やはり今も大切なコーナーであることに変わりはありません。

 

 続いて、文庫本コーナーに続く、左手の奥のコーナーです()。手前には、戦前、戦後すぐの小型本が並べられていて、このような本を探している方にとってはきっとワンダフルでしょうが、私はスルーしてさらに奥のコーナーでいつも立ち止まります。後でもう一度ふれることにして、このコーナーを右に折れて、くるっと右手(<1F>の方)を向いたら、低めの書棚があって(には裏側しか写っていません)、最近の私にとって、一番親しみを感じている店内スポットです。

 ここに並べられる本のセレクト方針について店主に訊いたわけではありませんが、なんというか、日本文学系の作家名からセレクトされているようなのです。先に登場した池内紀をはじめ、上林暁、杉本秀太郎、野呂邦暢、足立巻一、杉山平一、吉田健一そして、阿部昭等々と幅広いのですが、共通しているは、いまだにファンがいて評価を得ている本だということです。今や50代になっていますが、かつての若手、堀江敏幸の本もこの棚から購入しました。いわゆる文章家と呼ばれる書き手ということでしょうか。大阪の出版社である編集工房ノアの本も多く集まっています。

 ここも後で再登場してもらうことにします。

  <2F>左手の文庫本コーナー

  <2F>右手奥

  <2F>左手奥

 <2F>の左手奥のコーナーに戻ります()。

 写真右側の棚は(一部は左側にも侵食していますが)もいわば本の本とでもいうべき本や雑誌が集められています。自分だけの本づくりや出版に関する本、装丁、ブックデザインの本、ユニークな出版社からの発信本、本屋さんの紹介や経営についての本、古本屋、古書店についての多岐にわたる本など、書評本も加わり、本への愛にあふれた一角になっています。左側には単行本の詩集が集められており、谷川俊太郎の本も並んでいます。この一角は「口笛文庫」の心臓、店主の初心が表現されている棚かもしれないと想像しています。

 ランダムに3冊ピックアップして立てかけてみました()。真ん中はタイトルすら知らなかった『愛書家鑑』、左右はよく読んだことのある二人の本、左側は辻まこと画・文『すぎゆくアダモ』(1976年創文社刊です)、右側は当ブログでおなじみの天野忠詩集『うぐいすの練習』(没後の1995年に編集工房ノアから刊行されました)です。前2冊は函入り本で、今はこんな造本はもはや、ほぼ壊滅状態になっています。

  <2F>左手奥のコーナー

  <2F>のコーナーからピックアップ

 このホットコーナーのすぐそば、先ほど近頃では最も親しみを感じているとした棚に戻りました()。誰かが阿部昭の『子供の秘密』(1976年福武書店刊です)を抜き出しています。若い方で阿部昭の本を探していたりもするんですと、店主から話を聞かせてもらったりしながら、店主が撮影してくれたものです。だから、この手は私の手ということになります。

  <2F>阿部昭『子供の秘密』を抜き出す手

 こんな店内ですが、最後は店主の居場所です。<1F>から<2F>へ上がり、右手奥に本に囲まれたスペースに()、店主は座っています。天井からランプが下がっているところです。本との押し合いへし合いでだんだんと居場所が狭くなっているようでもあります。レジがあるのですが、作業スペースにもなっていて、時に顔が見えにくくなっていたりします。

 この古書店を、28歳で開店したという店主は、それから15年、40歳をこえたことになりますが、変わらぬ青年の面差しが残る顔で座っています。難しい顔をしているわけではありません。

  <2F>店主の居場所

 以上、ごく私的なものになってしまいましたが、古本屋さん『口笛文庫』の店内を探訪してみました。そのたたずまいを味わっていただけたでしょうか。こうして書いていると、私のふれたことのない本の山や棚がたくさんあることに、いつもみていると思っていた本の記憶のあいまいなことに、気づくことになりました。

 ですから、誤りを含み、いい加減なことを書き散らしていそうで、ちょっと怖くなりますが、お許しをいただきましょう。

 

 店主は、学生時代からサラリーマンだけにはならないでおこうと思っていたようです。音楽関係の仕事をへて、準備期間をへて、2005年1月にこの古書店をひらいた方です。あたりはとても柔らかですが、やはり芯の強い方なのでしょう。そして、『花森書林』の店主と同様、親からの継承ではなく、自分で立ち上げて育ててきた店主であることに、サラリーマンであった私は少なからぬ敬意をいだいています(もとより継承を貶めるつもりはありませんが)。そんな自主自立の気配は、言葉の端々から漏れ出てくるようです。

 そんな店主のお人柄もあって、それに六甲という土地柄もあって、『口笛文庫』は地域の古本屋さんとして立派に根付いています。近辺から買い取った大量の本が入ってきて、外部の古本市等イベントへの参加が重なると、店内の本の混雑度が高くなり、やっとなんとか整理できたと思ったら、すぐにまた造山活動が始まったりが繰りかえされています。まあ入超ということなのでしょう。今回のコロナ禍でも、この機会に整理したという方々から申し出があり、買い取った本も多くあったと聞きました。

 加えて、六甲と違ってターミナル駅の人並みに接する『三宮駅前古書店』という新店舗にも活動範囲を拡げていることで、失礼ながら、学ばれることもあるのかなと想像しています。

 

 当ブログでは、2015年、16年の二度、トアロードのBALの6Fスペースで開催された「冬の古本市」を「挑戦的なイベント」として紹介しました(2015.12.14「「よくやったね」冬の古本市へ」//2016.12.18「今年も口笛文庫とトンカ書店の『冬の古本市』」)。BALの6Fが常設店舗に代わったことから、開催できなくなり心配していましたが、前記のとおり、神戸市立まちづくり会館内に常設の『神戸元町みなと古書店』の共同運営が開始されるなど、新たな動きが出てきたことを、オールド古本ファンとして喜びたいし、歓迎したいと思っています。

 そして、『花森書林』の開店に際しての記事(再掲:2019.2.10「「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー」)において、過去10年余で古書店に足を運んだ回数は『口笛文庫』と『トンカ書店』(現『花森書林』)が両巨頭であり、お世話になった両店の店主をちょっと応援したいという気持ちをもっていると書きました。何も実質はありませんが、精神的にはその気持ちに変わりはありません。

 青年老いやすくではありますが、できる範囲で、もう一つの時間の流れる空間として、古書店が在り続けることを、心より期待し、願っています。

 

 最後にもう一度『口笛文庫』の全景(縦長分)を載せておきます。坂の途中にあるというロケーションの面白さ、見事さ。そして、真ん中に立つ一本の樹木は、古書店を支えていくことでしょう。

  穎珊辰虜笋療喘罎法惴笛文庫』の全景

 

2020.06.07 Sunday

ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー

 先月の終わり(5/29)、午後の陽の傾きはじめたころに、姫路の的形海岸までちょっと足を伸ばしました。的形海水場の近くに、ちょうど5月にリリースされた吉田慶子のCDを購入できるというカフェがあると知ったからです。家人に同乗させてくれるよう頼んで出かけたのですが、山陽電車の的形駅からは、驚くほど狭い道しかないなか、なんとか「ハンモックカフェ」にたどり着くことができました。この的形漁港は須貝秀和のなつかしい風景の世界でした。

 当ブログで記事(2018.7.14「このひそやかなものー吉田慶子のボサノヴァー」)をアップしたことのある吉田慶子のHPを偶然にものぞいたら、6年ぶりに新しいCD『tauras』を発表したとあり、入手可能先として「ハンモックカフェ」も掲示されていたのです。えっ姫路にということで、電話すると、今はテイクアウトだけの営業だが、もちろんCDも手渡しできますとのことでした。

 普段ならまたにしようかとなりますが、毎日同じところを歩くだけの自粛生活に倦んできたのか、久しぶりに遠出することにしたのです。

  静かでなつかしいたたずまいの的形漁港 [2020.5.29的形漁港で撮影、以下同じ]

  二段重ねのトレーラーハウスのハンモックカフェ(上段にカフェとベランダあり)

 トレーラーを二段重ねしたハンモックカフェの階下に、テイクアウトの窓口があって、吉田慶子のCDと自家製だというカンパーニュパンだけをお願いしました。吉田のHPに「姫路の美しい店」とあった内部をのぞいてみたかったのですが、通常の営業再開は慎重に8月ぐらいからにしたいという店主から、漁港の突堤の先まで歩いて行けますよと教えてもらったのです。

 カフェの南隣には赤い外壁の目立つ「オクムラボート」という大きな船の工場がありますが、そこを回り込むように海へ向かうと、港と海水浴場を隔てるように一本の突堤が延びていました。その先には釣りをする家族連れがいて、さらにその沖には小さな島(上島というらしい)が浮かび、近くには一隻の漁船が停止して操業しているようです。深呼吸がしたくなります。

 こんなのびやかな光景に、陶然、そして呆然としてしまいしまた。

  突堤の付け根辺りから播磨灘をのぞむ

  突堤の先には釣りの家族連れが(その向こうに見えるのは「上島」か)

  沖では漁船が操業中(向こうの島影は「淡路島」)

 さて、吉田慶子さんの新CDです。『tauras』は坂ノ下典正というギタリストとのデュオアルバムです。2019年2月14日と5月11日に東京の祖師谷にある「カフェ・ムリウイ」でのライブを録音したものです。的形のハンモックカフェの主人に聞いたところ、このCDはもちろん吉田慶子のライブで長くサウンドを担当している国重哲也という方が姫路出身なのだそうです。

 ギターの坂ノ下は「国重哲也さんのお陰で静かな夜の雰囲気が封入された音源になりました」と記しています。吉田自身も「深い音の世界に潜り込んだような気持ちの夜でした」とし、「こうして残してくれた国重哲也さんにとても感謝しています」と書いています。まさに静寂にかぎりなく近づいた「ひそやかな」な贈り物という気持ちにさせてくれるサウンドです。

 なお、この「ひそやかな」という言葉は、吉田の2007年のアルバム『コモ・ア・プランターひそやかなボサノヴァ』からで、私には「吉田慶子=ひそやかな声・歌」として一体化しているのです。

 吉田のアルバムでは初めてとなる日本語詞の歌が3曲入っています。そのうち「ヴァイア コン ディオス」(音羽たかし訳詞)には「かすかにひびく かねのおと/こころにしみる うたごえも」という部分がありますが、アルバム自体を体現しているような歌詞だと申し上げていいでしょう。なお、もう2曲は「今日の日はさようなら」と「テネシーワルツ」です。「ヴァイアコンディオス」と「テネシーワルツ」はいずれも江利チエミが1950年代初頭に歌ったという共通点があります。

 吉田慶子のュ―チューブはあまりアップされていないのですが、坂ノ下のギターとともに演奏した「テネシーワルツ」と、ベースとのデュオである「バードランドの子守歌」の2曲をリンクしておくことにします。もとより「テネシーワルツ」はこのアルバムより以前に採録されたものです。

 ◉「テネシーワルツ」坂ノ下典正ギター

 

 ◉「バードランドの子守歌」増根哲也ベース

  『tauras』吉田慶子(vo、g)、坂ノ下典正(g) 2020.5リリース

 店主夫妻のDIYでつくったというハンモックカフェのテイクアウトコーナーには、月刊で無料配布の『WAY OUT WEST』が並べてあって、2ヵ月間神戸へ行けずに手にできていなかった<5月号>と<6月号>をいただきました。

 この藤岡宇央を編集・発行人とするジャズマガジン(ジャズ情報やライブスケジュールを掲載)を、私は表紙のイラストレーションとともに愛読しています。この5月号には、未知の「坂入りお」という方が「Things That Remain 変らないもの」というタイトルで寄稿されています。この方は、1990年代に渡米して、2000年よりニューヨーク「The Jazz Gallery」の芸術監督として、アーティストの発掘と育成に貢献されている方のようです。この力のこもった寄稿文を読んで、なるほどそうでしょう、そうなんでしょうと、刺激をもらいつつ考えさせられました。

 坂入は、この新型コロナによるパンデミックを経験し、音楽業界にパラダイムシフトが起こるのではないかという意見に対し、「生で音楽を聴くという体験はそんなに簡単に代償できるものはないのだ」と明確に否定しています。この坂入の確信は、ちょうど90年代にインターネットが広く一般に普及した頃に、音楽業界に大きなインパクトを与えるのではないかと問題となったときの経験(結局、本質において変わらなかった)が反映しています。

 この非常事態に際してインターネットを利用してオンラインコンサートやイベントを行えるのは、便利で有益で本当にありがたいことだとしつつも、次のとおり述べています。

 「 しかし、平和で安全な日常が戻り次第、皆が生の刹那でしか味わえない

  音楽を求めることは必至だ。人々が音楽と対話する方法にCovid-19によ

  るパラダイムシフトはなく、さらに重要なことに、生で共有する音楽体験

  に勝るものはないのだ、殊更ジャズに関しては。」

 つまり坂入は、「人間は身体的な接触が必要な生き物だ。他人の息遣いを感じずに幸せに生きていくことは難しい」という人間の本質がそんなに簡単に変わりようがないとすると、「音楽とその価値、そしてそれに対する私たちの基本ニーズは変ることはない」と信じているというわけです。だから何でもオンラインにと急いではいけないのであって、「私たちの根本を支える変わらないものを大切にしていかなければならない」と、寄稿文を締めくくっています。

 ライブからはるか遠くに隔たったところにいる私は、坂入の意見を敬意をもって読むことはできても、簡単に論評することなどできません。でも、今の日本であれば感染予防ガイドラインということになりますが、ポストコロナ下でのライブの制約というものが、人間の「生の音楽を聴くという体験」に、じんわりと変容をもたらすことになるのかもしれないと危惧したりはしますが。

  『WAY OUT WEST』2020.5月号の表紙

  『The Jazz Gallery』のロゴマーク

 この雑誌名「WAY OUT WEST」の由来を知らないので、関係がないのかもしれませんが、ソニー・ロリンズの1957年録音のアルバムに同名の名盤があります。私にとっては、ジャズのレコードを買い始めた最初期に(1974年頃か)、ハンプトン・ホーズやアート・ペッパーのコンテンポラリー盤とともに手に入れた一枚として記憶しています(2017.9.20「ジャズを聴き始めた頃にー四枚のレコードからー」)。

 ユーチューブに音源がありますから、アップしておきます。

  ◉「ウェイ・アウト・ウエスト」1957年/コンテンポラリー

       ソニー・ロリンズ(ts)、レイ・ブラウン(b)、シェリー・マン(ds) 

  『WAY OUT WEST』2020年3月号〜6月号の表紙

 ポストコロナの時代状況において、「音楽」というものの機能はとても大切で見直す必要があるとの意見を聞きました。NHKのBS1スペシャル「コロナ新時代への提言ー変容する人間・社会・倫理」という番組のなかで、京都大学総長で霊長類学者である山極寿一の発言です。

 番組の一部分を切り離して取り上げるというのは危険でもありますが、ひとつの仮説としてみておくことにします。人間は、コミュニケーションの重要な手段を、後発的な「言葉」だけでなく、本来、身体と身体を共鳴させることで得られる信頼、共感というものにも依存して社会を形成してきたが、コロナの時代にあって、その後者の手段が失われようとしている、いわば言葉だけでつながる世界に放り出されたことになったのではないかという危惧を、山極は表明します。そして、人間は、「言葉」を発明する前に、「音楽」というものを、言葉よりも古いコミュニケーションの手段として、「意味」というより「気持ちを伝える」という手段として発明したのではないかと思っていると山極は続けたうえで、この「音楽」というものの機能、働きに注目したいと述べていました。それは現在、ミュージシャンがリモートで発信する「音楽」に、多くの人びとが癒しを与えられていることがその証左だとします。

 ですから、コロナの時代にあっても、人間同士の共感を基にした人間らしい社会であるためには、「言葉」だけではなく、「音楽」というものが十分に機能することを重視していくべきではないのかという趣旨の発言であったかと、私は理解しました。いささか私の言葉に変換しすぎてしまった説明になりましたが、こうした趣旨の提言であったと思っています。

 山極のいう「音楽」のイメージはもう一つはっきりしませんが、それでも、前記の坂入の「生で共有する音楽体験」というものと、ずいぶんと近くにあるような気がしませんか。それは、山極の人間の本来もっている「身体と身体を共鳴させることで得られる信頼、共感」ということにも依存して社会をつくってきたという見方と、坂入が論考の前提とする「人間の本質である身体的接触」を通して他人の息遣いを感じることなしに「幸せに生きていくことが難しい」という考え方が、同じ根っ子をもっているからということができます。こうしたコミュニケーションの手段が抑圧されたところでは人間は十分に人間たりえないとしたら、ポストコロナの時代において、「音楽」はこれを補助することのできるコミュニケーションの手段だと考えてもいいように(大層ですが「芸術」を持ちだしてもいいのかもしれませんが)、私は感じています。

 もちろん、私は、山極のいうミュージシャンが配信している音楽に癒されているというのでもなく、まして坂入の「生で共有する音楽体験」をもっているわけではありませんが、本稿で書いているようにCDという媒体を通した音楽も、そうした一部だというのなら、私もその一人だと申し上げても、間違いではないのかもしれません。坂入なら、それはそれで音楽体験だけれど、最高の「音楽体験」は「生で音楽を聴く」ことなのだけれどなどと、やんわりと否定されるような気もしますが。

 いずれにしても、「音楽」というものをめぐって、「言葉」を通してではありますが、ちょっと刺激を受けた体験であったということになります。

 

 CDにしろ、音楽のある時間が増えました。それは吉田慶子の新しいCDを聴きたいという精神状態になっていた5月下旬、つまり緊急事態宣言の「解除」という空気感のなかで、「贅沢な自粛」を自認してきた私も、ちょっと気分を変えたくなったということでしょう。

 机に座っている時間に、CDから音楽が流れているだけで、「聴いている」とはとても言うことができません。「音楽のあるステイホーム」と恰好つけても仕方ありませんが、それでも時に発見することがあります。

 たとえば1975年録音の高橋悠治のバッハです。グレン・グールドのバッハばかり流していましたが、こんなCDをもっていたのかとかけてみると、怪物と表現されてもいる高橋悠治の初心を感じたのです。高橋編曲の「フーガト短調」の音源がユーチューブにありましたのでアップしておきます。

  ◉「フーガト短調BWV578《小フーガ》(編曲:高橋悠治)」1975年録音

  『Yuji Plays Bach』高橋悠治(pf) 録音:1975年7月東京

  同上 曲目一覧

 漁港の対岸の丘に「住吉神社」のある的形の海辺から、帰りは未舗装だが幅員のある海水浴場(今は潮干狩りで開場していました)のためのアクセス道路を通って山電大塩駅の方へ抜けました。

  的形漁港に面した住吉神社の鳥居(停泊中の船名にも「住吉」が)

 帰途の途中、隣接する高砂市曽根町の「曽根天満宮」に立ち寄りました。60年以上も前のことになりますが、父の母、私の祖母が神社近くで一人暮らしをしており、父に連れられてよく訪ねていたのです。そのとき、この美しく整えられた境内を通り抜けていたような記憶があらわれてきました。

 往事茫々と申しあげるほかありません。

  曽根天満宮の本門と本殿 [2020.5.29曽根天満宮で撮影]

  もちろん60年前からあったはずですが(曽根天満宮の境内)

 

2020.06.02 Tuesday

忘れやすいことを忘れないためにはー『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』を読むー(1)

 あれ「満洲」なんだ、これまで「満州」と表記していたのにと気づいたのはほんの30分前のことです(5/30)。戦後、当用漢字に「洲」がなかったため、「州」に書き換えることになったということですが、漢字表記では「満洲」が正式だそうです。

 今回、ブログで取り上げようとしているのは、足達太郎、小塩海平、藤原辰史の三人を共著者とする『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』(2019年4月刊/岩波書店)[以下「《本書》と表記」]です。ここでは「満洲」と表記されています。でも、3年前、2016年に同じ岩波書店のPR誌『図書』で、その一人である小塩海平が執筆した3回の連載「農学と戦争ー東京農業大学満州報国農場」では「満州」が使われていました。

 いつものとおり書き始めることができなくて、うーんと手をこまねいている期間が長ったのです。そんなぐずぐずしているのなら、もっと幅広く勉強すればいいのに、めざす山を見上げると気力が萎えてしまいそうでした。理由にならないのですが、ようやく「満州」ではなく「満洲」だと気づいたとき、これも毎度のことながら、レベルの低いままでも山裾をめざしてともかく書いてみようかと思いきることにしました。

 

 当ブログでは、『図書』連載文書を「忘れてはならないことー東京農業大学満州報国農場ー」(2016.9.2)[以下「《前ブログ》」と表記]のタイトルで紹介しました。それから4年弱、当ブログの記事としては多くの方にアクセスしてもらいましたが、だからこそ、その記述が東京農大の「報国農場」をめぐる経緯に限定されたものであったことが気になっていました。つまりもう少し幅広く歴史的視点というか、この「報国農場」が生み出された戦前の国家、社会の背景や展開、そして戦後につながる問題などにももっと目配りというか、補助線が必要だと思っていました。

 こうした不足感を意識していたとき、昨年、『図書』の執筆者小塩海平が共著者の一人となって《本書》が刊行されたことを知り、しばらくしてめずらしく新刊本で購入しました。さらに数か月積読してから一読し、私のいう「目配り」したいところにもある程度は射程の届いている力のこもった本だと思い、《前ブログ》を補足する記事を書こうとしたのですが、首をひねっているうちに、今になってしまいました。

 

 ここで、《本書》のテーマを確認しておくことにしますが、その前に3人の共著者とその関係を付言します。

 足達太郎と小塩海平は、共に現職の東京農業大学国際食料情報学部国際農業開発学科教授で、足達は応用昆虫学、小塩は植物生理学がそれぞれ専門です。そして、当ブログに最近頻出してもらっている藤原辰史は、京都大学人文科学研究所准教授で農業史が専門です。足達と小塩の所属する学科の一年生の農業実習でひらかれる夜のゼミに講師として藤原を招いたことで知り合い、「すっかり仲良くなってしまい」、「同志として歩みを続けてきた」とあります(当ブログ2020.4.17「同じ時間を生きている人たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(1)」)。

 そもそもの発端は、小塩が同窓会報に掲載するインタビュー記事の担当者となり、大戦末期の東京農大「満洲報国農場」からの生還者に初めて接した2002年ということになります。以来10数年、《本書》はこの問題の掘り起こしに取り組んできた小塩と同僚である足達の二人がいわばその中間報告として専門外の仕事に挑んだものであり、それに際して仲間であり専門家ともいえる藤原を、いわば助っ人として引っ張りこんだという格好でしょうか。

 《本書》の目的を提示する「序」及びある農学者の戦前と戦後を検証する「第三章」を藤原が、小塩が『図書』に連載した「東京農大満州報国農場」の経緯をさらに広くかつ深める「第一章」を足達が、農学と東京農大の歩みの関係を剔抉しようとする「第二章」及び満洲報国農場の戦後処理などを批判的に検討する「第四章」を小塩が、それぞれ担当しています。

 

 「序」で、《本書》の問題の所在について、「報国農場」は「満洲移民」と呼ばれる一連の動きの一部をなすもので、戦前の農業史の一部を構成するとし、「満洲報国農場の歴史を通じて、農学者がどのように満洲移民に関わり、どのようにその悲劇の原因となったのかを問う」ものだと、藤原は説明しています。この戦前の時代は、いわば「農民たちの貧窮状況に心を痛め、自身の学説によってそれを救えると信じた農学者たちがメディアを賑わし、天下国家を論じ、未来を語るだけでなく、世の中を動かした」というべきだとしています。だから「食と農に関心の高まるいまの時代の住人にとって」、遠い過去ではなく、「むしろ近しい過去」と言えるだろうと問題を提起しています。

 そして、東京農大「報国農場」の生還者の一人である村尾孝さんの俳句を紹介したうえで、《本書》のテーマを再確認しています。

 「 以上のような鮮烈な体験の数々を、16、7歳の少年に体験させた、この

  満洲国とは一体何だったのか。これら八句(㊟村尾さんの俳句)をもたらした

  満洲国の為政者と、それを支えた学問の責任は、今まで本当にきちんと問

  われてきただろうか。私たちも学問に携わる一人の人間として顧みるべ

  き、本書のテーマは、繰り返すが、これにほかならない。」

 ここでは、農学という学問に携わる自分たちにとっても現実のテーマであるという視点(過去の経験を検証することによって現在を照射する自己批判的な視点ともいえます)が強く意識されていることに注目しておきたいと思います。そして、本稿のタイトルとしたフレーズを含め、「学問」という営みについて、次の厳しい言葉を与えています。

 「 学問は、忘れてはならないことを忘れるための道具ではない。あるい

  は、忘れてはならないことを無視するための言い訳でもない。忘れ易いこ

  とを忘れないための営みである

   忘れやすいものは何であるか、見落とし易いものはものは何であるか、

  農学が戦争責任のみならず、戦後の説明責任さえ放棄した事実は、やはり

  重い。

 

 本稿で私が書こうとしているは、前記の問題の所在に即したエスキス(素描)ということになります。でも東京農大「報国農場」の具体的なことは新たな知見は別としても基本は《前ブログ》に委ねることとし、その背景事情の方に焦点を当てることにより、《前ブログ》で報告した内容に補助線を入れ、もう少し全体像に近づくための試みだということになります。

  足達太郎、小塩海平、藤原辰史著『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』

                  2019年4月刊/岩波書店

 

◈満蒙開拓移民から「満洲報国農場」への道、そして戦後

                 ー「食糧戦争」と総力戦体制ー

 「満洲報国農場」とは、1932年の「満洲国」建国宣言を一つの起点として本格化した満洲農業移民事業、満洲開拓移民政策の延長線上に生じた、行き着いた先にあった、これも一つの国策でした。本項では、満州開拓移民(満洲だけでなく内蒙古を含め「満蒙開拓移民」「満蒙開拓団」とも呼ばれています)の全体的な背景や経緯を確認することで、報国農場との関連性も明らかにしてみたいと思っています。

 満蒙開拓移民事業が、全面戦争へと突入・遂行していく政治・経済体制の推移とどのように関連して進められたのか、その現実はどのようなものであったか、その中で「報国農場」はどう位置づけられるのか、というような問題意識をもって考えてみたいと思います。

 なお、《本書》はこうした歴史的な背景を前提として記述されているわけで(つまり断片的な記述で必ずしもまとまっていません)、ここに記述することは、ネットを中心に接することのできた情報によって私が理解できた範囲を加味しての整理ということになります(だから限界があります)。

 

◉「満洲報国農場」の<悲劇>

 その前に、前項で「満洲報国農場」の<悲劇>と藤原が記している内容を、《前ブログ》とも重なりますが、確認しておきます。

 満洲に東京農大が設置者となった「湖北報国農場」は、1944年に開設されています。戦局の厳しさが明らかになっていた1945年にも、現国際農業開発学科の前身である1938年設立の農業拓殖科の一年生全員が、拓殖訓練実習のために「湖北報国農場」へ派遣されますが、次のとおり多くの犠牲者が出ることになったことを指しています。

 「 満洲に渡航した一年生87名のうち、ソ連軍の侵攻とその後の混乱のなか

  で、じつに53名が死亡または行方不明となった。このほかに、実習の運営

  にかかわった上級生3名と教職員2名が犠牲となった。実習参加学生の死亡

  率は61%となる。」

  東京農大報国農場の月別死亡者数 《本書》54ページ

 こうした悲劇は70以上あった各地の「満洲報国農場」でも生じていたのであり、たとえば、「愛知県海南村報国農場」では、総計91名中57名が犠牲になったとあり(愛知県立農業大学校「農大だより」平成27年8月号)、次のとおり記述されています。

 「 昭和20年8月9日のソ連軍参戦により、報国農場は放棄せざるを得ず、帰

  国するまでの一年間、飢え、冬期の極寒、不衛生な環境、不安と絶望の

  中、まだ年若い隊員達は文字どおり異国を放浪し、次々と病魔に倒れてゆ

  きました。」

 このように逃避行を強いられたのは「報国農場」の少年少女ぱかりではなく、満洲各地の農業移民である日本人たちの多くが、先に逃げた関東軍のあとを苦しみながら逃げていたのです。

 後でも登場しますが、満蒙開拓移民の総数は、青少年義勇軍を含めると32万人といわれたり、27万人とあったりしてはっきりしないところがありますが、その前後であることははっきりとしています。ウィキの「満蒙開拓団」によると、1945年8月のソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、直前7月の「根こそぎ動員」者4万7千人を除くと実数は22万3千人、その大半が老人、女性、子供であったとあります。「男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい」、「その過程で約8万人が死亡した」と(この外「残留孤児、残留婦人」も多く残されました)、『二十世紀満洲歴史辞典』に依拠して書かれています。そして、その死亡原因を、次のとおり記述しています。

 「 主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を

  強制的に取り上げられ生活の基盤を失っていた地元民からの襲撃、前途を

  悲観しての集団自決などの理由である。」

 繰りかえすことになりますが、こうした状況を経験して生還したすでに高齢の元東京農大生に出会い、それまで無知であった小塩海平が話を聞いて心を動かされたところから、《本書》は始まったということになります。

 

◉「満蒙開拓移民」の推進の背景事情

 では、元に戻りましょう。

 今回、目にすることのできた資料のなかで、満洲への農業移民について全体的に把握するために最も参考になったのは、井出恵太郎という方の「満州農業移民事業の展開」2001.1とタイトルされた論文です(なお井出氏のプロフィールは不明)。

 満洲農業移民事業の成立を二つの要因から説明しています。一つは1932年の満洲国の建国(傀儡国家と呼ばれています)により、満洲の支配および対ソ防衛のために人材が必要となり、実質支配者の関東軍はその人材を特に農業移民(屯田兵移民)に求めたということです。もう一つは、1927年の金融恐慌に続く、1929年の世界恐慌の影響が及んだ昭和恐慌によって農村が最も深刻な打撃を受け、農村恐慌が発生し、過剰人口問題が浮き彫りになったということです。この二つの要因が満蒙開拓移民事業に結合していくことになりました。言い方をかえれば、「満洲国の治安維持と国内の農村窮乏対策」という二つの流れから、満洲農業移民が求められていったといえます。

 《本書》でもふれられていますが、農本主義者である加藤完治を中心とするグループはかねてより「日本農村問題の解決の唯一の道は、満蒙の無限の沃野に進出することである」と主張してきており、こうした満蒙植民論者の運動と関東軍の意向が重なり合ったところに満洲農業移民事業の展開が図られたということができます。つまり、井出論文でいうところの「送出国(㊟日本)の供給要因と受け入れ国(満洲国)の需要要因」が一致したことが移民事業の発足につながったというわけです。

 もう一つのターニングポイントとしてよく指摘されていることは、1936年の二・二六事件によって政治の主導権が軍部に移ったこと、特に多額の資金を投じる満洲移民事業に批判的であった高橋是清蔵相が同事件で暗殺されたことです(担当の拓務省内には満洲移民不可能論があった)。これが転換点となって移民事業が本格化することになりました。同年8月に、広田弘毅内閣は「二十ヵ年百万戸送出計画」を策定したのです。

 前記の加藤完治グループのブレーンの一人であった農学者の橋本伝左衛門は、《本書》の第三章で藤原がテーマとした京都大学教授(農業経済)ですが、高橋是清の暗殺に関して「満洲移民事業には高橋さんは大なる障壁」であったけれど、「それで後は移民事業に対する障害がなくなってスラスラ進んできたのである」と、1938年発表の「満洲農業移民の沿革」のなかで述べているのだそうです。

 以上の小括として、《本書》の「序」から、農村恐慌について当時の新聞記事を紹介したあとに続く、次の藤原の文章を引用しておきます。

 「 つまり、満洲国とは、こんな記事が書かれるほど追い詰められた日本農

  業の矛盾の吐き出し口であった。日本から100万戸の農家を送り出し、ま

  ず日本国内の農家の経営面積を広げて生活を安定させ、人口密度の少ない

  満洲国に日本人の人口を増やし、ソ連との国境を防衛するという壮大な実

  験が実行されたのである。こうした一連の動きを満洲移民と呼ぶ。」

 そして、こうして「満蒙開拓移民」が展開されていくという戦前の農業史の一部を「報国農場」が構成していると位置づけています。

 

◉「満蒙開拓移民」の事業展開

 満蒙開拓移民の事業展開について、多くの論者は、試験移民期(1932-36年)、本格移民期(1937-41年)、移民事業崩壊期(1942-45年)の三期に区分しています。

【試験移民期(1932-36年)】

 試験移民期、1932年10月に「試験移民」が開始されます。この時点において、農業移民の主軸は「特別農業移民(屯田兵制移民)」とされており、満州における反満抗日闘争の激化が背景にあったとのことです。

 試験移民期において移民の数は多いとはいえないのが現実であって、5年間の移民数総計は15千人で、ブラジル移民が1933年単年で24千人であったことに比べると、明らかに少ないものでした。しかしながら、それまで東日本の数県の在郷軍人とされていた応募資格が、1934年には全国の一般成人に拡大され、その後の本格展開を準備した時期であったといえます。

【本格移民期(1937-41年)】

 続く本格移民期において、前記の1936年8月の広田内閣の「送出計画」、そして1938年からは「分村移民計画」に基づく移民が開始されました。この分村移民計画は、それまでの海外植民政策から農村経済更生対策の一環と位置づけるものであって、「それまで移民事業に無関心であった農林省のバックアップを取り付け、政府の政策の中心となった」と、井出は評しています。このことは「満洲報国農場」との関連において注意しておく必要があります。 

 つまり、国家総動員の一環として、「各県・各郡・各市町村単位における移民の具体的な動員数および動員方法を具体化・明確化」することができるようになったということです。かくして、移民事業は本格化し、5年間に計43千戸、165千人と試験移民期に比べて大きく増加しました。ここで注意すべきは、1934年にブラジルで新規移民数が大きく制限される動きがあったことであり、このことが満洲移民の増加をプッシュした大きな要因となったようです。

 もちろん、増加した移民数ですが、計画に不足していたという現実もありました。見切り発車的移民により、基準の規模(200、300戸)を大きく下回る「虫食い団」と呼ばれる小規模団が発生していました。それは、日中戦争の拡大に伴って、労働力が戦地や基幹産業に動員されるようになったという背景がありました。こうした事態に対応するために、1938年より、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が開始されることになったのです。16〜19歳の青年を多数満洲に送出し、大量移民国策の遂行を確実容易にするためと目的が定められたとあります。移民事業のテコ入れなのでしょう。

 こうして戦時体制の一環に、つまり総力戦体制の一環に、ますます組み込まれていったということができます。

  満洲移民の実行計画と実績 井出論文より

  満洲開拓移民の年次別入植人員 井出論文より

【移民事業崩壊期(1942-45年)】

 そして、太平洋戦争へ突入して長期戦の様相が予想された時期、移民事業崩壊期は、「移民の応募者が激減し、戦況の悪化に伴って」文言のとおり崩壊していった時期です。

 もちろん国策ですから、旗を降ろすわけにはいきません。移民団の規模を縮小したり、前記の満蒙開拓青少年義勇軍を「義勇隊開拓団」として再編し送出するようになりました。移民事業を国民精神総動員運動の一環と位置づけ、農村だけでなく、企業整理や疎開などで離職したものを移民として送る方策を取り入れる一方、満洲国側では、入植地区を国防上特に重要な地点、特にソ連国境地帯に重点をおくことや、義勇隊開拓団は国防第一線地帯に入植するなどの措置をとったとのことです。

 しかし、1944年になると、国内の労働力枯渇問題はますます深刻化し、満洲移民送出が困難になりました。こうして戦況の悪化に伴う航路の安全性という問題も加わり、政府は満洲移民大量送出計画を断念せざるを得なくなった、そして、崩壊へと向かっていったことになります。

 《本書》の第一章で、満蒙開拓移民事業の変質の過程について、足達は次のとおり記述しています。

 「 満洲への移住政策は、もともと農村の貧困対策としてはじまったものだ

  った。満洲にいけば自分の土地がもて、たべる心配はなくなると宣伝され

  た。しかし、戦況の悪化にともなって、いつしかアメリカ・イギリス・中

  国などとの総力戦体制をささえるための戦略へと変質していった。そんな

  なかで移住先としてとくに重要視されたのが満洲北部(北満)だった。その

  理由は、北満には未墾地が多かったこと、そしてきたるべき対ソ連戦への

  そなえとすることだった。」

  一般開拓団と義勇軍開拓数の入植者数推移 井出論文より

 少し先走りますが、こうした移民事業崩壊期に計画されて実施に移され、《本書》のいうところの<悲劇>を招くことになったのが、いわば「食糧戦争」の遂行を担う農林省がリードした「農業増産報国推進隊」の一部を構成したといえる「満洲報国農場」であったのです。

 《本書》においては、この時期のことを「太平洋戦争が進むにつれて農家戸数が激減するとともに、農村の壮年や青少年が次々と軍需産業に転移し、農村は老人と婦人と子供を残すのみというような状態であった」と表現しています。こうしたなかで国内外の食糧増産ために「年端もいかない少年たちが食糧増産隊として動員され」ました。そして、太平洋戦争の末期に満洲に各県が設けた「報国農場」にはこのような兵役年齢に達していない食糧増産隊の少年、少女たちが多く送られたのです。

 

◉「満洲報国農場」の系譜など

 以上が私の理解した「満洲報国農場」を含む「満蒙開拓移民」の歴史的な背景事情と展開ということになります。ここでは政策(?)としての「満洲報国農場」に関して、『図書』連載では記述されていなかった内容、つまり《前ブログ》ではふれていなかった知見を、《本書》から紹介することで補足しておきます。

 《本書》には、北満に設置された74に及ぶ「満洲報国農場」の数少ない情報(多くが敗戦時に焼却されました)を整理した労作「補章 満洲報国農場とは何だったのかー限られた資料から空白をたどる」が、小塩の手でまとめられていることを特記しておきす。後述との関係で、多数の報国農場のうち、設置主体が東京農大という大学であったケースは唯一であったことを記憶しておきましょう。

 そして、小塩は、「第四章 「食糧戦争」の虚像と実像ー満洲報国農場の系譜と戦後処理」を担当していますが、その記述から「満洲報国農場」の系譜をたどっておくことにします。

 小塩は「報国農場」問題に取り組んでいたとき、「農業報国連盟」という組織の存在意義がよく分からなかったと書いています。つまり、東京農大を除く、他の「満洲報国農場」の経営主体が「農業報国連盟」(「農業報国会」と改称)の関係が多くあったのでこうした疑問をもったけれど、調べると「農業報国連盟は農林省の外郭団体」で経費は全額国庫補助で農林官僚が兼務する組織であり、各府県にも支部をおき、「地方での事業が中央の思うがままに統率的・効果的に行われた」ということが分かったとします。いわゆる「食糧戦争」を遂行していくために、石黒忠篤農林大臣が主導して、1940年に「農業増産報国推進隊」、1941年に「同嚮導隊」、1943年には「食糧増産隊(少年農兵隊)」などが全国規模で創設されましたが、農業報国連盟とは「食糧戦争」を遂行するための参謀本部であり、増産隊などが実働部隊であったといえると、小塩は整理しています。

 そして、訓練組織として、中央訓練が行われた内原(茨城県)の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所や、地方訓練が行われた各府県の修練農場がフル稼働していたとします。本来、これらの施設は満洲への農業移民を推進するためのものであったが、以下の事態に対応するために登場したのが「満洲報国農場」であると、次の文章を続けています。

 「 やがて行き詰まりが生じ、そこに登場したのが満洲報国農場という国策

  であった。満洲報国農場の場長には修練農場長が横滑りしたケースが多

  く、幹部クラスには、農業増産報国推進隊や同嚮導隊の訓練を受けた者が

  充当され、隊員には食糧増産隊の子供たちが多数派遣されたのである。」

 このことは、前記した《本書》の補章でも確かめることができます。

 

 先述の農業増産報国推進隊嚮導隊は、いわば遊撃隊として、全国各地に出動して、「開墾・水田造成・排水路の堀削改修」など多岐にわたる移動作業を行っていました。1942年の「満洲報国農場」として最初の「東寧報国農場」は、この嚮導隊の外地班が派遣されたものだったということです。

 それ以前の1939年から文部省、拓務省そして農林省の三省が共管する満洲建設奉仕隊が開始されていましたが、文部省と拓務省が先行し、農林省が後塵を拝していたのだそうですが、「やがて満洲報国農場が他の勤労奉仕隊を席巻するようになった」のです。

 当時の農林省の担当者の証言から小塩は次のことを読み取っています。

 「 農林省が他省を出し抜くような形で報国農場を成功させたという満足感

  がうかがわれる。極言すれば、満洲報国農場隊は、農林省幹部の意地と思

  いつきによって生み出された制度であるといってもよいだろう。そしてこ

  のような先走りが、大きな悲劇を招来することになったわけである。終戦

  の年、拓務省と文部省が他の満洲勤労奉仕隊の派遣を見送っていたことを

  考えると、農林省の責任は大きいといわざるを得ないであろう。」

 

 また、小塩は、第二章で、戦後東京農大にも深く関わる杉野忠夫という農学者(後述することになります)が、報国農場の発案者であったという事実を知ったことを明らかにしています。杉野は、先に登場した橋本伝左衛門の弟子として京都大学で助教授を務めていたものの、1932年にこれを辞して移民事業の実践に取り組み、1940年から満洲開拓局の参与という役職を担った方ですが、彼の遺稿集に次のことが記されていたのです。再引用します。

 「 昭和15年、満洲国に招かれて開拓政策の企画推進にあたったとき、さっ

  そく、国有未墾地の入植開拓を実現するために、進言したのが報国農場の

  構想であり、各府県に一農場ずつ将来の入植拠点として所管させるほか

  に、各種団体にも分担してもらうことにし、当時、東京農大の拓殖科の特

  別講義に出講していた関係で、東京農大にもその一つを分譲することを満

  洲国側にいて企画したのは私だった。」

 企画段階では「将来の入植拠点」というような位置づけもあったということになりますが、戦争という現実はそれを許しませんでした。少なくとも開拓政策、満蒙開拓移民政策と「報国農場」は深くつながっていたことがよく分かる記述だといえます。

 

 以上が、満蒙開拓移民事業の一部としての「満洲報国農場」ということになります。この項の冒頭で「満洲開拓移民政策の延長線上に生じた、行き着いた先にあった」と評していますが、そのとおりではないでしょうか。

 満洲農業移民の成立は前述のとおり「満洲国の治安維持(支配および対ソ防衛)と国内の農村窮乏対策」という二つの流れが合致して成立したものですが、戦争の長期化と戦局の悪化にともない、重心が前者に傾斜していき、これも前記した「総力戦体制を支えるための戦略へと変質」していったのです。つまり戦争の行方が怪しくなってきた段階になって、通常の移民政策や青少年義勇軍が手詰まりとなり、そんな中で無理やりにひねり出されたのが、国策としての「満洲報国農場」であったのだということができます。

 なお、井出論文には、最後のところで、満洲農業移民について、「「移民」というよりも「植民」であった」と評しています。私も、そのような性格のものではなかったかと思います。

 もとより「報国農場」は開拓や食糧確保という目的は同じであっても、居住する前提の移民ではなく、「4月から収穫まで働き、来年の準備のために一部を冬越し人員を残して帰っていく」というものでした。それでも、以上の系譜を踏まえ、報国農場は満蒙開拓移民事業と一体のものとして、その歴史の一部を構成するものとして、私は理解したいと考えています。

 

 前編の最後に、《本書》の記述から、満洲報国農場について、年度ごとの規模をメモしておくことにします。

   年度   報国農場数   派遣隊員数 (男/女) 

   1942             5                    1029

          1943           18                    2237

          1944           50                    6146 (4536/1610)

          1945           70近く     4591 (2649/1942)               

 1945年8月9日にソ連が侵攻してきたとき、1945年に派遣されていた多人数の少年、少女たちが、ソ連との国境近くの報国農場にいて、突然のことになすすべもなく、冬に向かう流浪の逃避行を強いられ、収容所を転々とするなかで、<悲劇>と直面することになったのです。

 

  満洲報国農場の所在地地図 《本書》より <オレンジ>東京農大湖北報国農場

          <ブルー>東寧報国農場 <イエロー>愛知県海南村報国農場

  同上の所在省別報国農場一覧 《本書》より

 後編では、以上の満蒙開拓移民事業と報国農場との関係も視野に入れつつ、次の課題について、とりわけ農学という問題にもポイントをおいて、《本書》を中心に報告するつもりにしています。

  ◈東京農業大学の系譜と「湖北報国農場」の消去

              ー国策と「農本主義」の結びつきー

  ◈先達としての農学者たちの戦前と戦後

              ー「農本主義」の来し方と行方ー   

 

 こうして作業していると、タイトル「忘れやすいことを忘れないためには」ということに戻ります。今、私のしていることは、後段の「忘れないためには」にまで到達するものではありません。もともと私が無知であった前段の「忘れやすいこと」を確かめる作業であり、つまりふんわりとしか見えていなかったことを少しは見えるようにしたいと思っているだけであるし、それが限界であることにも気づくことになります。今更のようではありますが。

                     【続く:(1)/(2・完)へ】

 

2020.05.26 Tuesday

「解除」という空気感のなかで

 日曜日(5/24)の昼頃、自宅の開け放たれた窓からも、子供たちの声は聞こえてきません。もちろん公園に出かけると、その姿をよく見かけていますが、ここには届いてきません。週明けには、登校日が設定され、その翌週の6月1日から小中学校が再開される予定だそうです。

 私たちの自治会は1200戸と今は図体が大きいのですが、それは最近のことなのです。といっても、ここ40数年の間に広い田園空間が段々と宅地に開発され、昭和40年代は100戸に満たなかった地域がこんな戸数規模に膨らみました。そして、私たちの住む旧市街と呼びたいコアな居住地は、高齢化が進行し、子供たちの数もグーンと減ってしまったというのが実情なのです。だから、このたびの休校や外出自粛だけが原因ではなく、もともと子供たちの声が聞けるのは、登下校時くらいだということになります。

 

 先日(5/21)、関西3府県は、緊急事態宣言の対象区域(特定警戒都道府県)から解除されました。4月7日に指定されてから、46日ぶりということになります。一部を除いて休業要請が解除されたことに伴い、確実に変化があらわれてきますが、どうも以前と同じということにはならないでしょう。「贅沢な自粛」というほかない私たちのような者は、水面下から少し顔を出して、様子を伺っていると申し上げるのがいいのでしょうか、そんな感じがしています。それはどうも私たちだけではなさそうです。

 もとより、これで新型コロナウイルスとのお付き合いが終わった、あるいは共存できる状態になったと信じる理由をもてないからで、「感染拡大の第2波」にどう備えるかという、短い中休み、よく言えば小康状態の時期だと受けとめているからです。ですから、「新しい生活様式」と名付けられた感染予防のスタイルを試みつつ、当面は手さぐり状態が続きます。

 レベルの違いは別として、専門家にしても、後追いで一定の解釈はできたとしても、手さぐりということに変わりはなく、確実に未来を予測することはある前提条件のもとに確率の範囲内でしかできないのではないでしょうか。

 今の私自身にありそうな、安堵というより「そしてコロナは続く」という疲れと不安のようなものを探ろうとして、当ブログを読んでくださる方にとって書いても詮方のないことを書いてしまったようです。俳句、短歌の添削のように、劇的にレベルアップする、そんなことは神頼みというべきで期待してはいけないのでしょう。

 

 俳句の添削に思いが跳んだのは、「プレバト」の夏井いつき先生のこともありますが、昨日、池内紀編『尾崎放哉句集』(2007年7月刊/岩波文庫)を手にして池内の解説を読んでいたからです。

  口あけぬ蜆淋しや

  口あけぬ蜆死んでゐる

 尾崎放哉(1885-1926)が、小豆島で亡くなる年(大正15年)の秀句とされている作品です。放哉は上段の<もとの句>を詠みましたが、師にあたる荻原井泉水(1884-1976)が「淋しや」を「死んでゐる」と添削したとあります。「とたんに淡い叙情句が厳しい死の造型になった」と、池内さんは記しています。

 同じく死を前にした、放哉といえば、という句をもう2つだけ。

  咳をしても一人

  入れものが無い両手で受ける

 この時期の放哉の俳句を「すべてが末期の目で見てとった心象風景であった」とする池内は、「相手が死を生きているのを承知の上で、師が二人三脚を買って出た」と説明しています。時制の断絶というべき美学が際立ちます。

 そして、井泉水が放哉の原句を添削した句を3つばかり並べておきます。

  いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞

  お粥をすする音のふたをする

  一つ二つ蛍見てたずね来りし

 これら放哉の<もと句>を、井泉水は、次とおり添削しました。

  壁の新聞の女はいつも泣いて居る

  お粥煮えてくる音の鍋ふた

  一つ二つ蛍見てたづぬる家 

 井泉水は尾崎の一年上、一高俳句会のメンバーとして知り合っています。なんとも不思議な二人の関係ですが、尾崎の死が1926年、半世紀のち1976年に井泉水は亡くなり、それから20年後の1996年に、取り壊されようとした井泉水の物置小屋から、放哉の句稿は発見されたのだそうです。

 こうして眠り続けてきた、今、耳に覚えのある放哉の俳句は、70年の放浪の旅から奇跡的に生還をはたしたことから、私たちの手元に残りました。

  池内紀編『尾崎放哉句集』 2007年7月刊/岩波文庫

 現下のパンデミックの時代において、こんな二人三脚的かつ超越的な添削者という存在、つまりそんな都合のよいリーダーを期待してはならないと強調しておきたいのです。そして、不安の時代は、無謬性をおびた権威的な指導者を招き入れやすいことは歴史の教えるところですが、この操作された情報の洪水の中で、私たち一人一人が正しい知識をできるだけもち、誤謬を正しながらさらに対処していくしかないことをかみしめておきたいと思うのです。

 このような意味で、本稿では、最近のコロナ関連情報で気になったことを、もう少しメモしておくことにします。

 

◈正常性バイアスということー永田和宏からのメッセージー

 細胞生物学者にして歌人である永田和宏は、ウイルス学の専門家ではないが無責任な放言にならないように注意しつつ発言することは大切だと断ったうえで、今次のパンデミックに関連して「正常性バイアス」のことを書いています(2020.4.26、27付『京都新聞』「パンデミックには正しい知識こそ」)。

 前稿(「個人の記憶というものー閻連科のメッセージからー」)で全体性に回収されない<個人としての記憶をもつこと>の重要性についてふれましたが、永田和宏についても当ブログ(2018.9.2「8月の終わりは夏の終わりー永田和宏「記憶する歌」ー」)でやはり「記憶」ということに関連して書いたことがあります。永田が自分の若い頃からの数千首の短歌に「私の時間が残っている」ことのありがたさ、つまり作歌当時の記憶がまざまざと立ち上がりリアルに感じなおすことができることを「私の時間に錘を付けるということなんだ」と言及していることを紹介しました。こうしたはたらきをもつ短歌とは「事実の説明を犠牲にして、感情の核を抽出するものだと言えるだろう」との永田の発言を、私もなるほどと感じたのです。

 

 長い前置きになりましたが、この「正常性バイアス」という言葉は、いつもよくあることですが、聞いたことはあるけれど説明せよと言われても自信がない言葉のひとつでした。永田は、斎藤茂吉が長崎医専の教授であった大正8年(1919)の暮れにスペイン風邪に罹患して長く苦しんだ時の歌を引用しながら論じています。この正常性バイアスとは、「誰もが多かれ少なかれ持っている」ものだが、「自分だけは大丈夫だろうと、根拠なく思う性癖である」あるいは「これしきのことでに騒ぐなんてみっともないと、高をくくる傾向と言ってもいい」と、永田は説明しています。

 そして、<しかし>としたうえで、次のとおり注意喚起しています。

 「 このような<疫病>の流行に関しては、この<正常性バイアス>が感染拡

  大の最大の原因になる。あなたがACE2タンパク質(㊟)を持っている限り、

  あなたも間違いなく、感染した世界の250万人の人と同じ確率で感染す

  る。そう思うことがまず大切である。」

  ㊟ 細胞の表面にあるコロナウイルスレセプターですべての人にある

    このタンパク質が、なぜウイルスの標的として利用されているかは不明 

 この永田の書いた文章を知ったのは、山中伸弥教授の「新型コロナウイルス情報発信」サイトに連続して掲載されている黒木登志夫(山中は「私の尊敬する癌研究者」と紹介しています)の「コロナウイルス通信」(5月12日)でふれてあったからです(のちほど再登場してもらいます)。

 黒木先生は友人だという「永田先生は、あなたがACE2をもっている限り、世界の250万人と同じ確率でコロナに感染し、流行に一役買ってしまうと警告しています」と念を押しつつ、さらに下記の斎藤茂吉がスペイン風邪に罹ったときの短歌資料を追録しています。

  スペイン風邪罹患時の斎藤茂吉の短歌等

 このような「正常性バイアス」は私自身にも確かにあることを感じています。そのうえでということになりますが、「正しくおそれる」「正当にこわがる」という言葉との関係に思いが及びます。

 「正しい知識」というものにも限界がありますし、どこまでいっても不確実性が消去できないことを考えあわせますと、良性と悪性に区分できると仮定すれば、良性の「正常性バイアス」というものは人類に染み付いた生きる知恵のようなものかもしれないと思ったりしました。

 変なことを書いていますが、良性の「正常性バイアス」とは、当ブログ(「単純な生活からーウイルスから行動変容とヴェネツィアなどー)で紹介した宮沢孝幸京大准教授の説く自律的な行動変容の前提である「知識と胆力」の「胆力」に通じるところがあるのではないかと、私は感想をもったのです。

 

◈更新された山中教授の「5つの提言」

 前記した山中伸弥教授の「新型コロナウイルス情報発信」サイトには、当ブログでも二度ほど紹介したように、「5つの提言」が掲載されています。最初は3月31日付、4月9日付の更新に続き、4月22日付で再更新されてきましたが、5月14日付で全面的な更新が行われています(「5つの提言」)。

 お読みいただければそれでいいのです。以下では、自分のために確認する意味で少しメモしておくことにします。今回(5月14日付)の「5つの提言」は、感染者が減少し、緊急事態宣言が解除されるという時点において、何が必要なのかを提言しようとしたものです。

 「提言1 対策はこれからが本番。賢い行動を粘り強く続けよう。」で、最近のように新規感染者数の減少が見られても「油断大敵」だとし、「ウイルスの勢いが少し弱まっている時期に今こそ、次の波に備えた準備を整える必要があります」としています。

 このベースに立ち、「提言2 国民全員が日常を見直し、人と人の接触を減らそう」と訴えています。この「提言2」のなかで、提言の3、4、5となる3つの対策「・感染者の同定と隔離」「・医療と介護体制の整備」「・ワクチンと治療薬の開発と大量製造」がポイントとなることを提言しています。したがって、「提言2」が肝ということになりますが、<基本再生産指数>という言葉は使わないで「R=2.5」の説明からつなげていきます。したがって、感染者数を横ばいにとどめるためには「人と人の接触を4割にする、すなわち6割減にする必要がある(=1-1/2.5)」というわけです。ですから、「国民全員が自ら生活を見直し、人との接触を6割減に維持する心構えが必要です」としたうえで、6割減の長期的持続は経済への影響が甚大であり、「6割減ではなく、5割、4割と社会・経済活動の制限を緩和するために」は、前記の3つの対策の実行が必要不可欠であるという構造になっています。

 「提言4 医療や介護従事者を守ろう」「提言5 ワクチンと治療薬の開発・大量製造を推進しよう」は、従来から継続する提言(ポイントの重点化と明確化が図られています)と理解しますが、「提言3 感染者の同定・隔離システムを充実させよう」は同じく継続的、延長的な内容も含むものの、こうした3つの具体的な対策のトップにおかれていることが、私の目を引きました。

 「提言3」の全文を引用しておきます。

 「 誰が感染しているかわからない状況でRを1程度にするためには、国民

  全体が人と人との接触を6割減らす必要があります。しかし、感染者を同

  定・隔離することによりRを効率よく減らすことが出来ます。R=2.5の

  時、10名の感染者から25名の2次感染者が生まれます。しかし、10名の

  うち4名を同定し隔離することにより2次感染を予防すると、残り6名から

  15名への2次感染がおこります。Rは1.5に減ることになります。クラス

  ター対策の重要性は効率的にRを減らすことであると言い換えることが出

  来ます。PCRや抗原検査を拡充することにより感染者を見出す割合を増や

  すことが出来ます。感染者の多くは、入院の必要のない軽症や無症状の方

  です。これらの方を快適、安心に隔離することのできる宿泊施設の体制強

  化も必須です。」㊟太字は筆者がいれたものです

 今回の「5つの提言」は、緊急事態宣言が解除されていくなかで、感染の拡大を抑制しつつ社会経済活動も緩和していくためには「Rを効率よく減らす」という柱を立てて整理されたのでしょうから、当然の結論だと理解していいのでしょうか。

 確かに、医療の対策が重症、中等症患者のための医療の確保に力点がおかれてきたし、今もその整備が第2波に向けて最大の課題であると私は認識しています。ですから、「提言4」の前に位置づけられた「提言3」に少し戸惑い、驚いたのかもしれません。

 私としては、「提言3」が軽んじられている状況への警鐘として、そして、PCR検査等の充実強化(感染者の早期の<同定>)とその陽性者(入院を必要としない)への対応(早期の<隔離>)という対策こそ感染拡大を抑止する要諦であると強調しているものと、つまり「提言4」のためには、「提言3」の実行が大前提という関係にあるからだと理解しておきたいと思っています。

 加えるなら、「新しい生活様式」「ニューノーマル」という形の感染予防の協力体制について、山中教授なりの評価(効果に限界がある?折角の実践協力効果も一つのクラスターの発生によって減じられてしまうというような)が根底にあるのかもしれないと想像することもできそうです。

 いずれにしても、ネームバリューということもあってメディアによく登場されていますが、多忙にもかかわらず、科学者として責任をはたそうとされている山中教授の姿勢に、私だけでなく多くの方が信頼を寄せています。

 

◈「予防対策の本質」と「集団免疫閾値」のことなど

 以下も、山中教授のサイト(「専門家、書籍から学ぶ」にアップ)で紹介され、その発言が掲載されている三人の学者の文章から、印象に残ったところをメモしておくことにします。

◉「予防対策の本質」など−川村孝京都大学名誉教授−

 まず、今年の3月まで京大健康科学センター所長であった川村孝が、新型コロナウイルス対策を「小括」している文章から取り上げます。

 「予防対策の本質」という項です。下記の表により「必要な衛生活動」は表の《人と物への接し方》がすべてであり、この予防策が徹底できれば、移動や営業、集会や娯楽は禁じられるべきではないのに、「世の中は本末転倒になっているように思われます」と述べています。

 そして、「3密」ばかりが強調され、「「物を介した感染」に対する注意がおろそかになっているように感じられます」とあります。

 なかなか鋭い指摘だと思いました。政府が5月4日付で発表した「「新しい生活様式」の実践例」では、感染防止の3つの基本を「/搬療距離の確保、▲泪好の着用、手洗い」として、「人を介した感染防止」に特化されており(もちろん「物を介した感染」にとっても間接的な抑止効果が期待できますが)、「物を介した感染」への目配りが弱いようです(空気中の飛沫は自重から落下するのであり、それが付着した物を触ったことによって感染するケースが多いという前提に立っています)。もとより、事業者に対しては、人の触わりやすいドアノブやテーブルなどの物に対するアルコール消毒などとして例示されているところですが、確かに私たちの新生活スタイルにおいても、もう少し強調されてもいいのではないかと感じました。

 なお、「移動や営業、集会や娯楽の禁止」について<本末転倒>と評されているようですが、感染拡大が急増している状況下では、不可避の対策であったし、これからもそうであると私は理解しています。

  川村孝の「感染予防の本質」(部分)

集団免疫理論の虚実ー宮坂昌之大阪大学招へい教授ー

 免疫学の大家として知られている宮坂昌之は、在英国際ジャーナリストという肩書の木村正人によるインタビュー記事によって(テレビ出演もされている)、その発言が注目されている方です。そのうち集団免疫についての記事(2020.5.16「一般に信じられている集団免疫理論はどこがおかしいのか、免疫の宮坂先生に尋ねてみました(上)」)から紹介します。

 宮坂先生の発言は、私の思い込みを正してくれたと思っています。私の思い込みとは、ワクチンがない中で、新型コロナウイルスの感染拡大を止めるためには、「6割程度の人が免疫を保持することが必要である」、これが集団免疫の考え方であるということです。ですから、報じられている抗体検査の現状では、まだまだコロナウイルスの感染流行は止まらないことになるなあ、どうなっていくのかなあと理解していたのです。

 

 宮坂先生は、この集団免疫の理論に対し、明確に「違う」と否定しているのです。その前提である「われわれはこのウイルスに対して免疫を持たないので、無防備な状態で感染が広がると集団の中の60%ぐらいの人たちが感染するだろう」という考え方について、「私はこの仮定は違うと思います」と、宮坂先生は主張しているのです。

 この根底には、個体レベルのウイルス排除は、獲得免疫だけでなく、自然免疫の2段構えであるからだと説明します。そして、「今まで集団免疫は、獲得免疫の、しかも抗体というパラメーターだけを見て判断していましたが、私はそれが間違っているのではないかと思っています」、つまり自然免疫が強かったら獲得免疫が働かなくってもウイルスを撃退する可能性があるのであり、今回はそういうことが起きているのかもしれません」と指摘しています。

 「例えば」と、「武漢市」と「ダイヤモンド・プリンセス号」のことを例示し、2つとも「感染した人は全体の2割程度」だし、「集団の6割も感染するようなことは観察されていない」と説明します。もとよりそれは隔離措置や接触制限をすることによって実効再生産数が小さくなったということであり、「かなりの人たちは自然免疫だけを使ってウイルスを撃退した可能性があるのかもしれないということです」と述べています。

 以上から、「予想よりもずっと低い集団免疫閾値に落ち着く」と結論づけ、次の予測を立てています。

 「 特にこのウイルスが起こす免疫はあまり高くなく、持続も短いようなの

  で、免疫学者の目から見る限り、集団の60%もが免疫を獲得するような状

  況は、余程良いワクチンが出てこない限り起こり得ないでしょう。」

 そして、スウェーデンの集団免疫を前提とする対策を否定的に評価し(「外出制限を厳しくせず多くの死者を出した」)、次の文章で締めくくられています。

 「 集団免疫閾値はこの新型コロナウイルスの場合、60%は成立しない。た

  ぶん良くて20%だと思います。2割だったら今後ワクチンができてくると

  確実にそこは到達できると思います。

   ナチュラルな状況で人が感染して治るという状況だと、おそらく毎年、

  このウイルスにお付き合いすることになると思います。」

 

 もとより私にはこの宮坂先生の発言を評価する能力を持ち合わせていないわけですが、状況証拠的には正当な考え方ではなかろうかとみています。私のような思い込みを誘発させた、北海道大学の西浦教授たちの「このウイルスは何も対策を立てないと人口の6割が感染して何十万人もの人が死ぬかもしれない」という対策の前提となった考え方が独り歩きしている状態に対し、宮坂先生が明確に「間違い」と指摘されている意味は大きいと感じました。

 

◉「選択と集中」と院内感染対策ー黒木登志夫元岐阜大学学長ー

 著名な癌研究者であるとともに、「サイエンスライター」でもあると山中教授が評する黒木登志夫は、3月28日を皮切りにこれまで12本の新型コロナウイルス問題にかかる情報発信をしてきています。すべてではないですが、私のような素人にもわかりやすい内容ですので、愛読してきました。

 その中から、2つだけを簡単にメモしておきます。

 一つは、保健所と地方衛生試験所の現状について「選択と集中」というタイトルで警鐘を鳴らしているところです(2020.5.12付「コロナウイルス(11)」)。お定まりかもしれませんが、いわゆる「選択と集中」というお題目の対応で、保健所や地方衛研が弱体化してきた中で、今回の事態を迎えているという指摘です。昨年話題となった公立・公的病院の統合化対策(厚労省はコロナ対策で再編統合の期限延期を通知したとあります)も取り上げつつ、次の文章によって「選択と集中」を批判しています。

 「 このような一連の動きの背景にあるのは、「選択と集中」「グローバル

  化」という、経済至上主義の考えです。私は、「選択と集中」が大学を疲

  弊させていると繰り返し主張してきました。感染症の研究分野はともする

  と、「選択」され「集中」されるような研究分野です。しかし、大学は大

  事にしてきました。それが、いま役に立っているのです。コロナは、これ

  までの「選択と集中」「グローバル化」のような考え方を変えねばならな

  いことを教えてくれたのです。」

 学長として苦労された方でしょうから、より実感があるのでしょう。これはポストコロナの最大の思想的課題といってもいいのかもしれないと思います。災害とか、感染症とか、通常の時間感覚が別次元にある課題への対応は、新自由主義以降の世界にとって最も苦手な分野なのです。さて、どうなることやら、現代を支配する思想の自己否定を伴う変化、転換が求められるわけですから、やはり大きな岐路だというべきでしょう。

 公務員の端くれだった私は、効率化論者でなかったけれど、保健所は何をしているのかな、もっとコンパクトでもいいのかなと思っていたことは事実なのです。もっと複眼的な物差しが必要となります。時代の産物としての人間とその思想の限界、壁という存在を否定することができない以上、これからの人びとに託す、期待するしかないようです。

 

 二つ目は、直近号で「院内感染対策」について3病院の事例を独自取材されて整理されているところです(2020.5.20付「コロナウイルス(12)」)。

 和歌山済生会有田病院、岐阜大学病院、そして東京医科歯科病院という院内感染防止に成功した3病院の対策に共通しているのが、「第二次接触者:接触した可能性のある人を同定し、PCR検査を徹底」「職員:コロナの検査、医療に関わる職員のPCR検査」「入院患者:入院前のPCR検査」「外来患者:過密防止、事前問診など」「病院長:強いリーダーシップ」の5点だと指摘しています。

 そのうえで、黒木先生は、「院内感染予防にはPCR検査がいかに重要であるかが分かります」と強調しています。つまり「自前のPCR検査なしに院内感染は抑えられない」としているのです。

 にもかかわらず「分かっていないのは厚労省」だとし、病院の自己負担で検査している状況を、つまり「厚労省がわずかな負担を渋っている」ことが、院内感染を招き、ひいては医療崩壊を招くと、怒りを爆発させています。

 直近に厚労省の対応に変化が出ている可能性がありますが、医療費の抑制という大命題の圧力のもとでしか判断を許されてこなかった厚労省のトラウマということかもしれません。すなわち前記した言葉にあった「本末転倒」は至る所にある、それは私たち自身にも巣くっています。だからといって、現状が許容されるわけではなく、一つ一つ変えていく、変わっていくしかありません。

 

◈おわりにー新型コロナウイルスの顔ー

 前項の黒木先生の通信には、東大の河岡義裕教授(政府の専門家会議のメンバーでもある)から提供を受けたという「細胞内で増える新型コロナウイルスの見事な電顕写真」が掲載されています。「見事な電顕写真」とありますが、どうなのでしょうか、下記にその写真の写真をアップしています。

 永田和宏の別稿によると、人間の細胞の大きさは10ミクロン(100分の1mm)ほどらしくて、こんな小さな世界でウイルスは細胞内に入り増殖していることになります。人間の細胞は60兆個もあるらしく、細胞を直線に並べると、実に60万劼箸いΔ海箸砲覆蠅泙后C狼紊15周できるだけの長さになります(毎日10卻發として、地球1周の4万劼肪するには11年を要します)。そう聞けば生命体としての人体は実に驚異的な世界なんだと思わざるをえません。

 この電顕写真を見ていて頭に浮かんだ映像は、大中の県立博物館敷地内の池で観察できる蓮の成長です。冬入りの頃に片づけられて何もない池の面に、3月のある日、クラゲのような半透明の小さな円形が少しずつぽっかりと浮かんできます。4月の声が聞こえてくると、このクラゲ状のものが少しずつ緑を帯びて大きくなり、ある日、これは蓮の葉にちがいないと気づきます。池一面に緑の島が点在して増殖していきます。こうした蓮が成長していく姿を、このウイルスの増殖の写真に重ね合わせたのです。

  細胞内で増えるコロナウイルスの電顕写真

 

 昨日(5/25)、残っていた首都圏と北海道の緊急事態宣言が解除され、全面解除となりました。それぞれ1週間ずつ解除のタイミングが前のめりではなかったかという根拠なき感覚もありますが、これからどうなっていくことでしょう。この「解除」という空気感のなかで、宣言期間中にトレーニングで積み上げた「感染拡大防止」への予防感覚はアクティヴの持続というか、健在を維持できるでしょうか、試行錯誤の日々が待っています。

 以上、テーマはもとより書くという行為自体についても「不要不急」という文字を思い浮かべながら、それでも書いてしまいました。黒木先生が批判する「選択と集中」は、きっと「不要不急」という言葉が嫌いでしょうね。

 学校の再開にあたり、教師も生徒も、フェースシールド、フェースガードを付けて授業している風景が報道されていますが、それはそうかもしれないけれど、当事者ではない「贅沢な自粛」の私としては違和感なしに眺めることができませんでした。そして、マスクをして真夏の強い日差しの中を歩くことは、私にはちょっと想像しにくいし、想像したくないのですが、皆様はいかがでしょうか。

 今でもけっこう暑いのにとボヤキながら歩いていて、一輪だけ咲き始めたハナショウブに出会うことができました。

  ハナショウブ(播磨町野添北公園内) [2020.5.24撮影]

 

2020.05.15 Friday

個人の記憶というものー閻連科のメッセージからー

 昨年の今日(5/13)は、東京へ出かけた日です。70歳を機に集まろうという東京の友人二人からの誘いに、喜んで出かけました(2019.6.14、29「坂と丘と谷の街ー東京への小さな旅ー(1)(2・完))。

 東京から帰途につく日(5/15)、学生時代の友人と旧交をあたためる家人と別れて、上野の丘を独り歩きしたとき、鉄筋コンクリート造のホテル旅館の中庭に森鴎外の「旧居邸」が残っていることを知りました。そして、ホテルの方にことわって、ホテルの内部からですが、その鴎外荘を見学したのです。

 友人たちと、70歳という年齢をなかなか自覚できない私たちということもあったのでしょうか、漱石が亡くなったのは49歳のことであり、もっと長生きしていたはずの鴎外でも60歳であったと話していたのです。ですから、坂の途中にある電柱に、偶然、鴎外旧邸の案内板をみつけて本当にびっくりしました。

 先日、その「水月ホテル鴎外荘」が、本年5月末をもって閉じられるとの記事を読みました。新型コロナウイルスで売り上げが前年の約1割になり、このまま長引いて倒産してしまうと旧邸の維持費も捻出できなくなる、旅館の経営より旧邸を守ることが私たちの使命と考えるからだとありました。

 同ホテルHPの「閉館のお知らせ」には、鴎外がこの旧邸で処女作の『舞姫』を発表し、ここから無縁坂を登り、不忍池を回り帰ってきたことが後の『雁』の舞台になったとあり、「その鴎外荘を残していく為に五月末で閉館することを決断いたしました」と記されています。

  「森鴎外旧居邸↑」の案内板(上野池之端) [2019.5.15撮影、次も同じ]

  森鴎外旧居邸(水月ホテル鴎外荘の中庭)  

 

◈間の文化からー長谷川櫂の連載「隣は何をする人ぞ」ー

 これはもとより予言でもなんでもなかったのですが、当ブログの「新年の挨拶 2020」で、「信仰がある」とはいえない私が当たり前のように正月に神社を参拝した事実に続けて、長谷川櫂がこの国のもっとも基本的な掟だという「間の文化」のことに言及しました。つまり、ものともの、人と人との間隔である「間」というものが「さまざまな神仏の共存する土台になっている」のだと、長谷川は理解しているわけです。

 そして、「間の文化」は<夏をむねとすべし>で貫かれており、それは「挨拶の仕方」にもあらわれているというのです。つまり外国人は「互いに抱き合ったり、手を握りあったり、キスをしたりする」のに対し、日本人は「遠くから、あるいは少し離れてお辞儀するだけ」だと述べ、その理由を次のとおり説明しているのです。

 「 なぜなら、この高温多湿の国では体を触れ合うこと自体が暑苦しいから

  である。とくに夏には肌がべたべたしているので、そんな人同士が挨拶の

  たびに体を触れあっていたのでは皮膚病や伝染病を感染しやすい。それを

  防ぐためにも互いに体は触れあわず、離れたままでお辞儀することになっ

  たにちがいない。」

 以上、断片的ですが、お気づきではありませんか。そうです、新型コロナウイルス感染症との関連です。感染の拡大において、国や地域ごとの「生活習慣」の違いが何がしか反映しているのではないかと指摘されることがありますが、「間の文化」には、こうした習慣をもつ日本人には、感染症対策に資する生活習慣が初めから備わっているのではないかということです。

 もちろん、これでは不十分だとなりますから、政府のように「新しい生活様式」を呼びかけることになるのでしょうが、こうした「間の文化」をもたない生活習慣の国や地域の人びとは日本人以上に大変だということになります。

 

 さて、長谷川櫂は、岩波の月刊PR誌『図書』で、昨年10月号から「隣は何をする人ぞ」という連載を開始し、直近の5月号で第8回となります。

 その前年の2018年に皮膚癌が発見され、3度の切除手術を行ったという長谷川は、「癌を宣告されたことは死そして生について、あらためて考える絶好の時間を私にもたらした」とし、今回の連載はそのアウトプットだということになります。前月の4月号、連載第7回「誰も自分の死を知らない」において、次のように述べています。

 「 この連載はここまで正岡子規、夏目漱石の生と死を通して明治、大正の

  時代の空気について書いてきた。このまま谷崎潤一郎、太宰治、三島由紀

  夫とたどりながら戦前から戦後へつづく昭和の空気について書くつもり

  だったが、それではあまりに重苦しい。そこで今回から少し見方を変えて

  死の思索をつづけたい。」

 そして、今私たちの使っている日本語のルーツが、大和言葉か中国語かで、すなわち漢字が訓読みか音読みかでいろんなことがわかる、「死もその一つである」とします。

 例示として、訓である「恋」と音である「愛」の関係や、植物では日本列島に自生していた「桜」や「松」と渡来植物である「梅」の関係をあげています。本論から外れますが、前者の「恋」と「愛」について、「日本には愛が存在しなかった」という刺激的な文章を綴っていますので、メモを残します。

 「 男も女もあれほど恋の達人であり猛者であったのに、一方、愛となると

  日本人ほど疎い人びとも少ない。友愛、博愛、愛国、愛社、人類愛、家族

  愛、夫婦愛でさえどこかかしこまって、やけによそよそしい。何やら人に

  押し付けられている感じがする。その理由はこの国にはもともと愛などな

  かったからである。」

 さらにダメ押しするような文章を続けています。

  愛という言葉がなかったということは愛という言葉で表わす実体もまた

  なかったということである。王朝中世の歌人たちがあれほど恋に執したの

  に、愛が一度も歌に詠まれなかったのはその一例にすぎない。古代のこの

  欠落が長く尾を引いて日本人はいまだに愛の意味がよくわからないのでは

  ないか。」

 

 では、本論である「死」のことです。梅と同じく大和言葉のような顔をしているが、「死」は漢字の音であり、「死」も「死ぬ」も大和言葉にはない、「まず死という漢字が中国から伝わり、そこから死ぬという動詞が生まれた」のだとし、次のように想像をとばしています。

 「 ここから想像すれば、死という漢字が伝わる以前の日本人は死を知らな

  かったことになる。もちろん日本人も死ぬ。しかし死という現象を漢字の

  死が表わしているようなものとしては理解していなかったのではない

  か。」

 だから、「漢字の死に相当する大和言葉には「なくなる」「ゆく」「みまかる」」という言葉があるけれど、これらには「漢字の死にあたる厳粛な断絶の響きがない」のであり、「あくまである場所から別の場所へのゆるやかな移動」なのだと断じています。そして、最後に、次号に向け、こんな問いを導いています。

 「 つまり古代の日本人は漢字の死のようには死ななかった。では古代の死

  はどのようなものだったのか。

 

 こうした問いをうけた今月号、5月号連載第8回では「『おくのほそ道』の宗教地図」のタイトルで、古代の、仏教以前の日本人の死生観に迫っています。「おくの細道」の全行程150日、2400劼療喘罎卜ち寄ったお寺を拾っていくと、鎌倉仏教と平安仏教という二つの宗教圏が「同心円状に広がっている」ことがわかり、そのさらにその外側には仏教伝来以前の宗教圏の名残りがみられるとし、次のとおり説明を加えています。

 「 近くの里の人がなくなると、亡骸を岩の窪みに納めて波や風が清めるの

  に任せた。のちに仏教が広まると、この風葬の跡が仏道の修行場と

  なった。」

 だから芭蕉の尋ねた松島や立石寺には、それぞれ海辺と山の岩場に、古代の風葬、のちに修行場の痕跡が残されていることを指摘しています。そして、古代において風葬された人の魂は、仏教でいう「西方の極楽や地下の地獄にはゆかない」で、「そこにとどまって懐かしい子孫や里人の暮らしを見守りつづける」とし、次のとおり古代人の死生観を綴っています。

 「 人は命を失うと、魂はすみやかに里から渚や山へ移行する。そうした死

  生観がかつて日本の島々にはあった。」

 こうした論考を通して、以下のような抽象性の高いテーゼを、長谷川は2011年の東日本大震災直後に起きた東電福島第一原子力発電所の事故と関係づけて、冒頭で言葉にしています。

 「 新しい言葉の誕生によって世界が変わる。いいかえれば、世界は言葉で

  できている。

 ですから、前月号と今月号で展開された「四世紀あるいはそれより前、文字のなかった倭の国に中国から漢字がもたらされたとき」、「世界の組み換えが次々と起こったはず」であり、「その一つに死があった」というわけです。そして、当時の倭人たちが「なくなる」「ゆく」「みまかる」という言葉で表わしていた人の最期と、「死という漢字の意味する命の断絶」とは明らかに異質であったとしています。

 こうして中国から渡来した死という漢字が、それまでの人の最期について「連続」から「断絶」へと変わったとき、世界が変わったということを、長谷川は自らの癌体験を根っ子において論じたのであろうということができます。

 

 ここでは、長谷川の論旨をノートすることだけでとどめておくことにします。というより、それはそういうことなのであろうという以上に、長谷川の論考を批評する言葉を私がもたないためではありますが、それでも、ここであえてノートしておこうとしたのは、それだけインパクトをうけたということにほかなりません。

 この連載「隣は何をする人ぞ」が、どこへ向かうのか、楽しみです。

 

◈「一つの旅の終わりに」ー阿部昭『単純な生活』の終着からー

 直近のブログで途中下車して紹介したりした阿部昭の『単純な生活』に再乗車していましたが、やっと終点に着きました。

 むかしならといって笑われそうですが、2日ほどあれば読み通していたであろう小説を、コロナ情報に右往左往しながら少しずつ読んできました。昨日読んだことをすぐに忘れてしまう今の私には、こんなストーリー性のない小説の方がふさわしいのかもしれません。

 今からふりかえると、早すぎた晩年ともいえる、50歳を前にした阿部昭の連載長編小説は、凝縮した言葉で構築した短編小説を中核においてきた阿部にとって冒険でもあったといえます。この機会に、阿部の後期の作品を読みかえしていきたいと思っています、ぼちぼちと、忘れる前に。

 

 ラストからふたつの目の項、「百二」で、阿部は、この連載の二年半をふりかえり総括しています。そして、この期間を何によって生きたかといえば、「おそらく当人以外には取るにも足りない些細な事柄、笑止なくらいこまごましい、もろもろの事物の力によって生きた」のであると綴っています。そして、その事物、つまり小説のコンテンツを列記していますので、長々しくなりますが引用しておきます。

 「 ーーかれのみすぼらしい猫どもや引地川べりの家鴨たちの行状、岡崎の

  八丁味噌や水団の味、鎌倉行のバスの窓から見る海やフランスの田園風

  景、西日をよける葭簀や食べ過ぎる枝豆、「かわいそうなぞう」の話や

  『にんじん』の挿絵、それからまた、新婚時代の日光の思い出、Y君二世

  の誕生、LG君のパリからの手紙、小さな雑貨屋さんの小母さん、Mが

  拾ってくれたバルト海の小石、昔の中学の先生の水彩画、妻の癌ノイロー

  ゼ、等々。」

 かくして、「まことに、事物の助けなくしては、われわれは一日として生きられず、一行とて書くことができない」、こんな感慨を吐露して締めくくっています。

 前稿(「雲間に密やかな光をさがしてー阿部昭『単純な生活』からの途中下車ー」)には、前記の太字で示したエピソードを紹介しました。

 そして、「贅沢な自粛」を自認し、この変化の少ない暮らしを「単純な生活」とは呼べまいかと思ったりする私としては、阿部の言葉に共感するところが大きいのです。

 

 屋上屋になりますが、そのあたりのことをもう少し書かせてください。

 連載の2年半を終えるにあたって、狭い行動半径で身辺の記録のみが多かったけれど、人生を旅する者として「紙の上のそれであれ、一つの旅の終わりに」あるような心境でいる、と阿部は述べています。そして、「では、単純な生活とはなにか、何であったというのか」という、もう一度、書き始めたときの自問に戻っています。

 こんな生活であっても、本当のところは「単純のようであっても単純なものではなかった」、「むしろ世間並みに複雑怪奇と呼ぶほうがふさわしいものかもしれない」と感じている阿部は、「しかし、それでも」と、次の文章を書きつけています。

 「 しかし、それでも単純な生活というものはあるにちがいない。そういう

  言葉がある以上は、それをこの目で見たいという願う気持ちがあって不思

  議はない。そこで私は苦しまぎれに、はなはだ横着にして陳腐な言い草な

  がら、「どこを探すまでもない、それはわれわれの心の中にあるのだ」と

  答えて退散したいと考えている。」

 阿部の言いたいことは何か、「細部にこそ真実は宿る」ということか、やはり阿部にとってこの2年半においても「到底数え切れぬそれらのデテールの一切が、作者の生活には必要であった」と述懐しているのです。この鑑賞の対象ではない人生を生きるということは、それぞれの人生を旅することであり、そこに文学の源泉があるし、書くことの不思議もあるのではないかと、阿部は言いたいのでしょうか。

 ここで私が言葉にしておくとすれば、実生活という複雑怪奇な現実との乖離はいつも存在するけれども、心のありようとして、いうなれば心に大切なことを見失わないという芯をもって、「単純な生活」を希求することが、阿部の「心の中にあるのだ」とする「単純な生活」ということではないのかと思ったりしているのです。今は、阿部の『単純な生活』を読んで、「単純な生活」とはそのようなことではないかと感じています。 

 

 また後戻りするようですが、「六十六」の冒頭に、「心臓の故障という思わぬ事故で、この二た月、読者の皆さんにご無沙汰してしまいました」とありました。短期の入院生活もあり、ここで一息ついて、作家暮らしを離れて、連載を休載したのでしょう。

 病院のベッドの上で、阿部は、「つくづく考えた」とあります。「筆一本の暮らしになって今年でちょうど十年」、寡作、非流行の作家でも「なにやかや必要に迫られて書いているうちには心臓がおかしくなるのか……そもそも言葉というものが、心臓に、悪いのか」と自問します。そして、「作家生活」という四字を反芻しながら、「心臓の問題ではなく、心の問題」ではなかったかと気づいたことを記しています。 

 鵠沼に一軒しかない古本屋で中桐雅夫の『会社の人事』という詩集を買い求めたのだそうです。そして冒頭の「やせた心」という詩を「正しく自分の事として」読んで、次のように思ったのです。

 「 お医者さんも私に上手には説明できなかった私の病気について、この詩

  はかくも言葉少なに、しかも余すところなく答えてくれている!「やせた

  心」というのこそ、現在の私の本当の病名にちがいないと、そう思ったの

  です!」

 めずらしく阿部は「!」を二回使っていますが、次の文章を続けています。

 「 私はこの詩人よりはずっと年下である。老い先もまだそれほど短いとは

  言えない。しかし、だから、私の心が彼の心よりやせていないという保証

  はない。その反対でしょう。人類はだんだん年をとっていくのだから、誰

  の心も、いよいよますます、痩せ細って行っても不思議はないのではない

  でしょうか。少なくとも、いまはそう思いたくなる時代ではありません

  か。」

 病気と縁遠かったという阿部が、病気の診断をうけて、こんなふうにも思ったのだなと、私は申し上げるしかありませんが、阿部があと8年ほどしか生かされていなかったという事実を知っている今となっては、まことに残念だなという気持ちをかみしめるだけです。

 

 仕事から完全に離れてすぐに、私は、当ブログに「«仕事をする人»をみるとー旅の写真<仕事>編ー」を書いていますが、その中で阿部と同じく中桐雅夫の「やせた心」を引用して、この詩と「当時も今も」共振していることを告白しています。

 ご大層というしかありませんが、仕事は「自分の生きる証としての<信仰>のようなものだったかもしれない」、そういう自分に呆れ、否定さえしている自分を自覚しながらも「働いている、仕事しているという動詞の価値への信頼を失うことができなかった」とも記しています。

 自己美化というほかありませんが、今となっては膨大に費やされた自分の時間(「自分の時間」とは何でしょう)を全否定することがおそろしかったともいえるのかなと思っています。

 それから4年をへた現在、阿部の印象的なフレーズ「一切が歳月という慈悲に和らげられて、古ぼけた写真のように、淡々しく、なつかしく思えるだけですが」に近いような心境になってきたみたいなのですが。

 

 ここで阿部の『単純な生活』とお別れし、追記しておくことにします。

 『毎日新聞』5月8日付夕刊に、作家の山崎ナオコーラを取材した藤原章生記者の署名入り記事「「無理に働かない」広まる予感」が掲載されていました。その記事に、私が名前しか知らなかった山崎ナオコーラの発言として書かれたものを、長文ですが、引用しておきます。

 「 家にいても仕事ができるし、会議もオンラインで十分。ハンコ押す意味

  って何?とか、必要のない飲み会ばかりだったねとか、わかってきました

  よね。小さな世界にいても遠くにつながると実感したから、外へ外へでは

  なく、内へ内へと頑張る人が増える気がします。」

 「 コロナの影響で働かなくても堂々としていればいいという考えが広まる

  と思う。『稼がないと』『同僚に迷惑がかかる』と思って休めなかった人

  も、根っこには『働かないと社会人じゃない』という思い込みがあると思

  う。お金を稼ぐのが人間だという考えです。でも、コロナで価値観が変わ

  り、前より休みやすい社会になると思うし、働く働かないで線引きする考

  えも薄まるのではないでしょうか。」

 きっと私の心の奥底には「働いているのが人間だ」という意識が刷り込まれていたし、なおそこから自由になっていませんが、コロナはそうした既成概念をゆさぶることになるのかを注視しておこうと思います。それが人間の自由とか多様性を広げる方向であれば、なおのことすばらしいのですが。

 

◈個人としての記憶をもつことー閻連科のメッセージからー

 昨日(5/14)、全都道府県に対して発出されていた緊急事態宣言が、39県で解除されました。まだ関係文書を読んでいないので不明な点が多くありますが、ほんの1週間前の宣言の延長にあわせて「出口戦略」という言葉が先行して独り歩きし、政府を早期解除へ追い込んだ(「追い込んでもらった」という意識かもしれません)という図式ととらえています。ですから、専門家というより、政治側に重心の傾いた判断であるように受けとめています。

 万事に対策の遅れが指摘されてきましたが、今回の解除だけは性急な印象があります(当ブログでも紹介した宮沢孝幸京大准教授に触発され、私自身は自粛推進派ではありませんが)。ここで書く必要はありませんが、心もたないことを思い知った医療体制の再構築をはじめ、前途が多難であることは申し上げるまでもありません。

 

 中国の武漢は1月23日から4月8日までの76日間も封鎖されていましたが、NHKBS1で『封鎖都市・武漢 76日間 市民の記録』が放送されました。封鎖期間中に、武漢在住でインターネットで日記を公開して反響を呼んだ郭晶という29歳の女性と、武漢の市民の声を伝えつづけた北京のネットラジオ『故事FM』が主に登場していますが、昨年末の12月30日にいち早くコロナウイルス(タイプは調査中)による肺炎の発症について警鐘をならした眼科医である李文亮(1986-2020)についてもふれていました。

 この情報のネットでの掲載行為を「インターネット上で虚偽の内容を掲載した」として、1月3日に公安当局から訓戒処分を受け、その後も武漢中心病院でコロナ対応に当たっていたのですが、自身も感染し、ついに2月6日に亡くなりました。そして、3月5日、中国政府から烈士として表彰されたという方です。

 この「李文亮」の名前も登場する文書に、といってもオンライン講義の原稿だそうですが、心を揺さぶられました。北京在住の作家である閻連科(1958-)は、2月下旬(原稿は2月20日付)に教鞭をとる香港科技大学の大学院生らに北京から最初のオンライン講義をしたのですが、中国では転載と削除が繰り返されたと報告されている「論争的文書」だそうです。

 日本語翻訳文は、『ニューズウィーク』3月10日号に掲載されたものをネットで読むことができました(2020.4.3「ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト【特別寄稿】」)。閻連科による別の文書や方方の武漢日記を含め、別途の機会に設けて紹介することとし、今回は原稿の最後の方の部分だけをメモするにとどめます。

 

 この「この厄災の経験を「記憶する人」であれ」とタイトルされた文書において、閻連科は、自らと同じく文系で「生涯にわたって言葉を頼りに、現実と、記憶と付き合っていく」であろう学生たちに対し、新型肺炎をいかに記憶していくのか、個人の記憶力を鍛えよ、そしてその記憶力によって生み出した個人の記憶を大切にせよ、と強く呼びかけています。

 最終項「警笛を聞き取れる人に」から引用します。最初は、個人の記憶が集団である国家や民族の記憶に包摂されてしまう、変えられてしまう危険性を指摘しているところです。

 「 言葉を記憶することにおいて、幾千万人もの個人の記憶はさておき、集

  団の記憶、国家の記憶および民族の記憶は、歴史の上ではいつも、我々個

  人の記憶力と記憶を覆い隠し、変えてしまうものです。今日において、

  今、新型肺炎がまだまだ記憶として固まっていないこのとき、われわれの

  周囲では、既に高らかにたたえ、躍起になって祝う銅鑼と太鼓が鳴り響い

  ています。まさにこの点において、諸君に、新型肺炎という災禍を経験し

  た諸君に、記憶力に優れた人になってほしいのです。記憶力で記憶を生み

  出せる人に。

 この文書の日付である2月20日は武漢が封鎖されてから1ヵ月足らずの時期であったということを確認しておきましょう。そして、近い将来の国家宣伝を予測しつつ、次の文章を続けています。

 「 予測可能な近い将来、銅鑼や太鼓の音を鳴り響かせ、詩文が飛び交い、

  「新型コロナウイルスという国家の戦争」に勝利したと大騒ぎして高らか

  にたたえる声が上がるとき、諸君にはそんな空疎な歌を高らかに歌う物書

  きではなく、ただ個人としての記憶を持つ嘘偽りのない人間でいてほし

  い。

   至る所で盛大な演出が繰り広げられるとき、舞台の上の役者でも朗読者

  でもなく、その舞台に拍手する人でもなく、舞台から最も遠いところに

  立って、黙ってそのパフォーマンスを見つめながら熱い涙に目を潤ませ

  る、やりきれない思いを抱く人でいてほしい。

 最後に「李文亮」にも登場してもらって、ライティングを学ぶ学生に向け、次のメッセージを発しています。

 「 李文亮のような「警笛を吹く人(警鐘を鳴らす人、告発者)」になれない

  のなら、われわれは笛の音を聞き取れる人になろう。

   大声で話せないのなら、耳元でささやく人になろう。ささやく人になれ

  ないのなら、記憶力のある、記憶のある沈黙者になろう。われわれはこの

  新型肺炎の事の起こり、ほしいままの略奪と蔓延、近くもたらされるであ

  ろう「戦争の勝利」と称される万人の合唱の中で、少し離れたところに

  黙って立ち、心の中に墓標を持つ人になろう。消し難い烙印を覚えている

  人になろう。いつかこの記憶を、個人の記憶として後世の人々に伝えられ

  る人になろう。

 断片的な引用は危険ですが、こんな閻連科のメッセージをどのように読まれますか、あああの情報統制の中国のことだからという感想でしょうか、それとも私たちにも通ずる普遍的な警鐘として感じられましたでしょうか。私は、両方の気持ちで読んだのです。そして、胸に迫ったということです。

 藤原辰史の「パンデミックを生きる指針」を読んで以来の「文の力」を感じました。

 

 最後に、その藤原辰史の文書を中心据えた当ブログ(2020.4.24「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉から―(2・完)」)の冒頭に引用したパオロ・ジョルダーノの文章をそのまま再引用したいのです。「新しいステージ」という合唱が始まっている今、もとより自分に向けてではありますが、本稿を読んでいただいた方にも、もう一度届けておきたいからです。

 「 すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現し

  たいのだろうか。

 「 コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうちに復興が始まるだろう。だ

  から僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおり

  になってほしくないのかを。

 

2020.05.10 Sunday

雲間に微かな光をさがしてー阿部昭『単純な生活』からの途中下車ー

 仕事から離れて以来、大学の聴講生となって、週に2回ほど講義を聴講してきましたが、今日、初めて遠隔授業というやり方で受講しました。聞いたこともなかったWebexを活用したリアルタイム配信型のオンライン授業です。今回はイントロダクションとして、今期の授業の方法を説明されただけですが、70名程度の学生たちが自宅から参加されていました。

 国文学という科目で『平家物語』を中心に歴史叙述のあり様がテーマですが、同物語には<転形期>だからこその面白さと豊かさがあると、講師であるH教授から説明がありました。そして、こうした遠隔授業の実施ひとつをとっても、このコロナの時代はのちのち<転形期>だったと呼ばれるであろうとコメントされたのです。

 

 今日(5/7)から「緊急事態宣言」の延長期間に入りました。多くの人たちが予想していたこととはいえ、「贅沢な自粛」を自認する私でさえ、ちょっと重くるしいものがあります。

 新しいフェーズというのでしょうか、新たな段階に入ったのだと感じました。今更のようですが、政府においても市中感染の広がりとPCR検査体制の不備という現実を否定できなくなったということです。

 当ブログ(2020.4.4「「桜は来年も帰ってきます」ー山中伸弥教授の新型感染症サイトー」)で、同サイトのトップに新型コロナウイルスとの闘いは短距離走でなく「1年は続く長いマラソン」との認識が示されていると紹介しましたが、政府の専門家会議も「長丁場」という言葉を使いながら、そうした認識の共有を打ち出さざるをえない状況になったといえます。

 さらにいえば、山中教授のサイトのトップから、「ウイルスとの闘い」、「闘い」という言葉が消去され、「正しい行動を粘り強く続ければ、ウイルスの勢いは弱まり、共存が可能となります」というように「闘い」が「共存」という言葉に替わっています。つまり、今は「全力疾走に近い努力が必要」だが、「その後の持久走への準備も大切」であり、それが相まって「共存」を可能にしていくのだという認識なのでしょう(「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」)。

 まともな専門家であれば、当然の認識なのでしょう。最初から、どうしてこうした認識に立った提言が十分にできなかったのか、でもそうはいかなったという現実があり、それはどうしてかという問いが生じます。

 もとより専門家会議の主要メンバーにそうした認識がなかったわけではなく、未知のウイルスに対し、万事が準備不足の中で手探りでの緊急対処が迫られ、「長丁場」というような枠組みが許されなかったというのが現実だったというべきでしょうか。それでもなお、もっと前に軌道修正の局面があったのではないかとの疑問が残ります。 

  

◈「新しい生活様式」ですかー政府専門家会議『状況分析・提言(5月4日)』ー

 しばらくは新型コロナウイルスについて半可通で書かないでおこうと思いながら、本編の前書きのつもりではありますが、もう少し続けます。

 現時点で私は専門家会議の5月4日付『新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言』しか読めていないことをお断りしたうえですが、この文書からは、「医療提供体制」の不備と危うさ、とりわけ入院患者を引き受ける医療機関の対応能力が既にギリギリ状態であるか、新規感染者の発生ですぐに逼迫する状況下にあるか、こうした医療提供体制への逼迫圧力が強く滲み出ています。こんな苦渋というか、恐怖のようなものが根っ子にあるのではないかというのが、私の率直な印象です。

 前記のウイルスとの「長いマラソン」「共存」という認識も、医療提供体制の脆弱さという制約条件のもとで、糊塗されていたのではないかと思ったりもしました。

 少々乱暴を省みずに申し上げるとすれば、医療費の抑制という大命題のもとで、長年にわたり、進められてきた諸対策の帰結が、今日の医療体制の不備と硬化を招き、今回のような新感染症への対応力を奪ったのではなかろうかと、私は理解しています。

 ですから、「緊急事態宣言」の解除条件は、新規感染者の発生数や陽性率などはもちろんですが、重症者対応への医療提供体制こそが鍵となってくるものと思いました。それが専門家会議の本音ではないのかと推測しています。

 いずれにしても、人材育成など短い期間ではできないことも多いわけですが、今は可能なことから、医療提供体制への緊急かつ重点的な資源投入が必要だということになります。

 

 今回の提言には、「新しい生活様式」という言葉が初めて登場しました。前提として「対策の強度を一定程度緩められるようになった地域」という条件をおいたうえで、次の提言を行っています。

 「 再度感染が拡大する可能性があり、長丁場に備え、感染拡大を予防する

  新しい生活様式に移行していく必要がある、と指摘した。」

 そして、これまでその重要性を訴えてきた「行動変容」を踏まえ、「新しい生活様式」の具体的なイメージとして、「今後、日常生活の中で取り入れていただきたい実践例」を(別添)としているのです。そこでは、感染防止の3つの基本である「/搬療距離の確保、▲泪好の着用、手洗い」をベースに実践例の細目を列記したものとなっています。

 これを否定しているわけではありませんが、いの一番におかれた「人との間隔は、できるだけ2m(最低1m)空ける」だけを取り上げても、可能な場合に対応する基準とすることは同意できたとしても、あらゆる場面で実践することなど不能な命題であることが気がかりです。たとえば、医療、介護の現場はもとより、今の対策の中核である保健所内をはじめ、エッセンシャルワークに取り組んでいる人びとの職場ですらできていないわけです(テレビで視聴する厚生労働省内の担当部局、クラスター班なども)。そして、再開するときの学校の教室(再開した学校で、二部制で交代で登校しているケースもありましたが)、一般のオフィスなどでも、いろんな工夫はありえても、工夫の枠を越えるような課題ということになりませんか。

 前稿で紹介した宮沢孝幸京大准教授の「新型コロナウイルスを100分の1に減らす大作戦」の具体的な処方箋は、基本のところで「新しい生活様式」とも重複していますが、実践性において可能なものに絞っているところに基本的な相違点があります。

 今後「新しい生活様式」をどのように位置づけ、広く社会で実践可能なものとしていくのか、今のような作文レベルですましていいわけではないと申し上げておきたいのです。

 

 無知を棚上げして書いたついでに、PCR検査についてもふれておくことにします。

 今回の『状況分析・提言』では、「(補論)PCR等検査の対応に関する評価」に相当の紙数をさいて、どうして日本においてPCR等検査能力が早期に拡充されなかったかを丁寧に説明しています。一つ一つの説明は事実に反したものと思いませんが、こうした状態をブレークスルーできる方策を提言できているかといえば、そうではないのです。

 それだけ難しい課題だともいえますが、従来からの公衆衛生行政に引きずられてきたし、今もなお、その枠を越えた提言をなしえていないことは物足りないといわなければなりません。相当以前から、山中教授や島田山梨大学長の具体的な提言がマスコミによく登場していますが、文科省との関係など、それができない理由があるのでしょうか。

 粉骨砕身でがんばっておられる専門家会議のメンバーに失礼というべきですが(どうしてPCR検査が諸外国に比べて少ないのか、どうして増えていかないのかという多くの国民の疑問に答えようとされたのですから)、長い言い訳を読まされたと感じたのは私だけではないでしょう。それこそ出口戦略などというためには、抗体検査も必要でしょうが、その前提として希望する方にPCR検査を提供できる体制の整備がやはり必須のように思っています。

 

◈日常と非日常というイメージの変化ー平野啓一郎の言葉からー

 長い言い訳ではなく、長い前書きが続きます。

 先月、コロナの時代への視座として、2回にわたり、文書やテレビ画面から拾遺できた言葉を、当ブログで書きとめました(2020.4.17、24「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(1)(2・完))。そこに追加しておきたい言葉に出会ったので、紹介しておきます。

 5月5日『毎日新聞』朝刊の「オンライン座談会 コロナ禍を生きるには」(歴史学者の磯田道史、作家の平野啓一郎、社会学者の富永京子の3氏)において、平野さんが冒頭でしている発言のことです。当たり前の発言といえばそのとおりですが、自分もそう思っていたことを言葉にしてもらったような、そんな快感が私にはありました。

 

 現状について問われた平野さんは、ここ数年の日本で多くの死者を出すような地震、台風、水害などの災害が発生し、一方で感染症も次々に起こり、そして今回の新型コロナ問題だという現実を指摘したうえで、日常と非日常の関係について、次のように変化するのではないかと、鋭く指摘します。

 「 僕たちは日常がずっと続き、非日常は切れ目のようにたまに訪れ、その

  都度、傷口が回復して日常に戻るというイメージで生きてきました。これ

  からは非日常と日常が頻繁に入れ替わるようなイメージで生きていくと思

  います。」

 非日常は繰りかえされる日常の点景として存在していたものが、コロナの時代以降は日常と拮抗するようなウエイトで出現してくるのだというイメージが一般化するということでしょうか。作家らしい喚起力をもった言葉に、私は驚きましたし、そうであろうと思ったということです。

 点景だからこそ「非日常」であったのです。それが点景でなくなるのなら、日常と非日常の区分は曖昧なものになっていくではないでしょうか。これまでの常識がひっくり返されることが日常化する世界、これが「転形期」と呼ぶべきものでしょうか。

 こうした変動にどう対処していくべきか、平野さんは次のとおり、常識的ともいえる発言をストレートに続けています。

 「 非日常が訪れるたび、社会がそのダメージを全面的に被り、何もかもス

  トップするというシステムでは到底存続していけない。非常時には非常時

  なりに、活動を持続できるハード面、ソフト面の整備を進め、可能な限

  り、ダメージの少ない形でスイッチできるシステムを構築してゆくべきで

  す。」

 では、「ダメージの少ない形でスイッチできるシステム」とはどのようなものでどう構築していくのか、座談会ではあまり展開できているようには読めませんでしたので、ここまでとします。

 ここでは、コロナの時代の前後で「非日常と日常の関係においてイメージの転換がある」という平野さんの言葉は、私にとって、一つの視座となるであろうと感じたという事実をメモしておくことにします。

 

◈鎌倉の海へー黒田三郎の詩からフォークソングへー

 やっと本編です。

 といっても、前稿(2020.4.30「単純な生活というものーウイルスから行動変容とヴェネツィアなどー」)でも書いていたように、阿部昭の『単純な生活』を読んでいるのですが、いまだ半分ぐらいしか読めていません。それでも、ちょっと途中下車させてもらって、気になったところをメモしておきます。

 この400頁の小説は、昭和55年1月号から57年6月号にかけて『婦人之友』に2年半連載されたものを単行本にしたものだそうです。漢数字の番号で「」から「百三」まで103項に区切られていますので、毎月3乃至4項が書き継がれたのでしょう。今は「五十八」あたりを、私は味わって読んでいます。

 この小説中で心臓の不調についても語っていた阿部昭は、7年後の平成元(1989)年5月に急性心不全により55歳で急逝されています。

  阿部昭『単純な生活』 1982年8月刊/講談社

 さて、「二十」「二十一」には、「私」が、つまり藤沢の鵠沼に住んで作家生活をおくる阿部が、「朝からあんまりいい天気」なので、「机の前にじっとしてはいられない気分」になって、自宅近くからバスに乗って鎌倉へ出かけた、そんな早春の一日が書かれています。こんな便利なルートを知ったのは2,3年前のことだそうで、それまでは鎌倉へ行くには電車を何本も乗り換えていたとあります。

 海側の席に座り、海を眺めている情景を、「江の島を過ぎ、腰越、七里ヶ浜、稲村ヶ崎、由比ヶ浜と海ぞいを走り続けて、長谷の町並に入る」などと地名をあげつつ、ひとしきり描写しています。

 そして、「二十」に記されたエピソードは、この当日ではなく、もっと以前のことで、大きな古本屋のその「店の隅っこに、自分のまっさらの小説集が、一冊、300円という値段をつけてられて」突っ込まれていたときのことです。「ーーそんなこともあった」と、阿部は次の文章を記しています。

 「 私はいささか胸痛む思いで、こっそり手にとってみた。新品同様なのに

  三百円か。

   なんだかそのままにしておくのは忍びない気がした。預けたわが子を引

  き取るみたいに、引き取って帰ろうかと思った。が、ふっと気が変った。

  自分で自分の本を買うのもつまらない。このままにしておけば、どこかの

  誰かが三百円出して読んでくれるかもしれない。そう考え直して、そのま

  まにしてきた。」

 

 続く「二十一」は、当日のことで、「古本屋ではない大きな書店」に入ったけれど、探していた本がなかったので、「黒田三郎という詩人の薄い詩集を一冊」買ったから始まっています。昼食にカレーを食べたりしたあと、美術館に入る前に「八幡様(鶴岡八幡宮)」の境内のベンチに座って、「詩集をぱらぱらめくっていると」から話が展開していきます。

 阿部は、「中学生の息子の国語の教科書で見たことがあった」「紙風船」という詩が目にとまり、「けれども、そのあとがいけなかった」と続けます。「別の詩の一節が不意打ちのように私をつかまえた」と、その一節を引用します。

 「 とおいむかし

   白々しいウソをついたことがある

   愛するひとに

   とおいむかし            」

 この「たった四行の言葉のために、私はいきなり二十何年前の自分に連れ戻されて、ひどくしんみりしてしまった」とあります。まだ学生だった頃に女友達と鎌倉を歩いていたことがあって、「彼女と将来を語り合ったことがあったような気さえしてきた」のです。こんな文章が続きます。

 「 やがて、彼女との事には、終りが来た。白々しい嘘と知りつつ、私は彼

  女に嘘をついたのではなかった。しかし、結果として、私が彼女に言った

  ことはすべて白々しい嘘以外のなにものでもなかったということになるの

  ではないか。」

 そして「おかしな一日だった。」と締めくくられる「二十一」の直前には、こんな文章がおかれています。

 「 ようやく立ち上がって境内の砂利道を歩きながら、また,木立の中の美

  術館に入って版画やポスターの間を歩きながらも、二十何年前の午後の空

  気を呼吸しているような、足が地から浮き上がったような、自分が誰にも

  見られない透明人間ででもあるような、非現実的な感覚につきまとわれ

  た。

   夕方、またバスに揺られて、薔薇色に染まった海辺を帰ってきたが、家

  に着くまでずっとそんなふうだった。」

  『単純な生活』p103 大沢昌助の装丁・カット(以下同じ)

 と、私はここから連想ゲームというか、数珠つなぎ状態となりました。

 残念ながら、「女友達」のようなエピソードではなく、黒田三郎(1919-80)の詩のことです。当ブログでも何回か取り上げているように(2016.1.10「再読・詩と出会うー黒田三郎ー」など)、読んだことがあるといえる数少ない詩人のひとりですが、「紙風船」は知っていたけれど、あとの「白々しいウソをついたことがある」という詩はまったく記憶になかったのです。

 手持ちの『定本 黒田三郎詩集』(1976年1月刊/昭森社)をめくってみると、若い頃の黒田の詩を集めた詩集『失われた墓碑銘』の「苦業」とタイトルされた一編だとわかりました。「紙風船」よりも以前に書かれた詩ということになりますが、阿部は「ぱらぱらとめくっていると」などと前後を変えて小説にしたということでしょう。

 そして、ネットで検索すると、「苦業」という詩を、小室等が曲にして歌っていることを知りました。「紙風船」も赤い鳥が歌っていたのですが、あのころのフォークソングはシンガーソングライターとしての自作詩だけでなく、わりと知られた戦後詩を曲にしていたことが思い出されてきたのです。

 とりわけ「雨が空から降れば」の小室等はそうであり、私の記憶では谷川俊太郎の詩をよく歌っていた、特に「死んだ男が残したものは」とか「いま生きているということ」のことをよく覚えています。

 ここでは、「苦業」の全編を引用し、併せて小室等の味わい深い歌唱のユーチューブを貼り付けておきます。

     苦業

 

  螺旋階段をのぼる

  石壁にかこまれた

  暗い

  けわしい

  石の階段をのぼる

  小さなランプをぶら下げながら

 

  階段が尽きさえすれば

  水平線が見えるのである

  あ 階段が尽きさえすれば!

 

  螺旋階段のぼる

  石壁にかこまれた

  暗い

  けわしい

  石の階段をのぼる

  小さなランプをぶら下げながら

 

  とおいむかし

  白々しいウソをついたことがある

  愛するひとに

  とおいむかし

 

 小室等「苦業」(1974年ライブ)

 この歌唱において、小室は、阿部を不意打ちした四行の冒頭「とおいむかし」を「とおいとおいむかし」と歌っており、また最後に「螺旋階段のぼる」のパートに戻って復唱し、余韻を残します。

 

 鎌倉には一度だけ訪ねたことがあります。最近のことといってもいい2013年9月末、親戚の結婚式に出席し、当時千葉の船橋にいた息子一家の様子をのぞき、その帰途に立ち寄ったのです。

 鎌倉駅近くの小さな市場の一角にあった鮨屋さんで、今の私たちぐらいの年恰好であった隣接の逗子に在住というご夫妻に声をかけていただきました。鮨屋のあと、小町通のイタリア料理店に案内してもらって、ワインまでごちそうになったという、私たちにとって思い出となる話も残っています。

 七里ヶ浜のホテルで泊まった翌朝には、一人で江ノ電と並行した国道を江の島近くまで歩いたりしました。ウエットスーツを着たおじさんがサーフボードを脇にかかえて自転車に乗っていたりもしました。朝ということもありますが、9月末の湘南の海、鎌倉の海は、どんよりと朝曇りしていて、江の島の向こうに富士山とはいかなかったけれど、今も記憶にとどまっています。

 鎌倉駅で荷物を預け、自転車を借りて、鎌倉五山に行ってみようとしましたが、鶴岡八幡宮の中までが精一杯で、そこから先の上り勾配を前にあきらめ、反対に海の方、長谷大仏の方へ取って返しました。そんな短い滞在の鎌倉が実体験の全てです。どちらかといえば、小津安二郎の映画のなかに、私の鎌倉はあるといえます。

 で、鎌倉といえば、今のコロナの時代は「いざ鎌倉」という表現もふさわしいように思います。

  鎌倉の海   [2013.9.30鎌倉の七里ヶ浜で撮影]

  月曜日のサーフボード(鎌倉海岸)

  鎌倉行きの江ノ電

 

◈時は過ぎゆくー安田謙一郎からバッハへー

 もう一つ、「年下の友人でチェリストのY君」が登場する「五十一」「五十二」についてメモします。このY君とは、阿部が学生時代に家庭教師を務めた安田謙一郎(1944-)であることがわかっています。

 「五十一」は、そのY君から暮れに(昭和55年)「よい便り」があったことから始まります。「いつにない高揚した文面」で「初めての子供、それも男の子が生まれたという知らせ」でした。「いつのまにか三十代も半ばを過ぎているY君の異例の感激ぶり」を、手紙の文面を引用して描写します。

 そして、「私は、ああそうだった、そうだったなあ」と肯きながら、10歳年上で三人の男の子の父親である阿部は、長男の誕生した「1月の末、寒い寒い真夜中」の記憶を引っ張り出していきます。「後日その場面をそっくり」使った小説も引用しながら、「初めて経験したわが子の出生場面に興奮していました」と、Y君の感激ぶりと自分の経験を共振させています。

 このことを「まるでついこないだのように思い起こされた」としつつ、次の感慨を書きつけています。

 「 そうして、早速にとペンをとってY君夫妻にお祝いの手紙を書きなが

  ら、私はちょっとばかり彼が羨ましかった、ねたましかった。なぜって、

  私のほうはもうそんな人生の感激に見はなされてしまって久しいような気

  がしているから。あの看護婦さんが洗っていた、つるつるの長靴みたいな

  やつが、もうこの春は大学受験とかで、自分で勝手に生れてきて勝手に大

  きくなったような口をきくのですから。」

  『単純な生活』p187

 続く「五十一」は、「されど、時は過ぎゆく、です。」の一行から始まります。つまり現在三十代半ばを過ぎたY君ですが、その彼がヨーロッパに留学した24歳の頃に時間を巻き戻します。

 横浜港からバイカル号で出発するY君を「彼はその時、二十四ぐらい、まだほんの少年のようでした」とし、そんなY君をまだ末の子が生まれていなかった阿部一家(夫婦と幼い息子二人)は「寒風の吹きつけるあの大桟橋の埠頭で」見送ったのです。

 そして、Y君留学の年に生まれ、「もうじき小学校を卒業する」三男に焦点をあてます。「聞けばY君も小学校時代は問題児扱いで、いまで言う「いじめられっ子」だったらしく」としたうえで、その三男は「才能でY君にあやかれるくらいならいいのですが、うちの子は問題児というその点だけが同君に似ているようで」、「私も家内もずいぶん心を痛めたり頭を抱えていたりしました」とあります。

 そんな三男が、「この冬休みに、卒業記念の文集に入れる作文を書きました」とし、その作文から「自分たちが問題児を作っておいて、問題児なんて呼ぶのはおかしい」「問題児と問題児をつくる人の関係は、二学期になって自然に消えて行った。ちょっとさみしい二学期だった」などを引用します。それから、最後に次の文章によって、「ずいぶんと心を痛め」てきた親として深い安どの気持ちを確かめているのです。

 「 親馬鹿みたいなものですが、私は構わないどころか、実はちょっぴり嬉

  しかったのです。息子にしては上出来だと言ってやりたい気さえしたので

  す。こないだまで、なにをされても言われても、されるがまま言われるま

  まだった子供が、いつのまにか自分のことをこんなふうに書けるように

  なった。これなら、もう安心だ。自分で自分を問題児と称するくらいな

  ら、もう大丈夫だ、こう思ったのです。なぜって、それこそがユーモアと

  いうものでしょうから。」

   『単純な生活』p247

 阿部昭は親として懸命だったのだ、そんな方だったのだなあと、その点にまったく自信のないわが身をかえりみてしまいます。

 名前だけ知っていた安田謙一郎は、我が国を代表するチェリストで、今も現役で精力的に活動されている方のようです。彼のレコード・CDをもっていませんが、チェリストにとって極北であるバッハの「無伴奏チェロ組曲」を、2015年に40年ぶりにリリースしたとありました。

 『単純な生活』の別のところで、阿部はバッハにふれており、特に「四十四」では、ヨハン・セバスティアン・バッハの妻であるアンナ・マグダレーナ・バッハにフォーカスして、その出会いと結婚に至るエピソードをアンナ・マグダレーナの回想を用いて書いています。この項の最後の一文には「単純」という言葉を使っています。

 「 人間の生活はかつてはそのように清らかだったのだ。静かだったのだ。

  単純だったのだ。……」 

 残念ながら、安田のバッハを演奏したユーチューブが見つかりませんので、ここではバッハの無伴奏チェロ組曲についてインタビューで語っている安田自身の映像と、安田本人がブログで阿部にふれた記事をアップします。今も湘南に住む安田と阿部の関係が透けてみえます。

 加えて、私の最も好きなチェリストであるアンナー・ビルスマがバッハの第1番を演奏する短いユーチューブを貼り付けさせてもらいます。

 なお、別のインタビューで、安田は、バッハの同組曲を「僕はバッハの音楽を¨敬虔で日常的な祈り¨のように感じているので、時を経る中で少しはその理想に近づけていたらよいのですが」と語っていて、印象的でした。そして、インタビューで話す安田の年輪の刻まれた風貌をみていると、確かに「されど、時は過ぎゆく」と感じたのも事実です。

  ◉2015.1.29「クラシックニュース/

          バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏に臨むにあたって

  ◉安田謙一郎ブログ 2018.12.14「鎌倉の海

 

  ◉アンナ―・ビルスマ「バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番(部分)

 

 もうひとつ付け加えておくとすれば、本稿で写真映像で示した『単純な生活』の表紙と内部の挿絵は多くの阿部作品の表紙となった大沢昌助画伯の手になるものです。こんな単純そうにみえる点や線だけで描かれた絵ともいえますが、この抽象画にある微妙な空間の配置は、どんな絵よりもある意味で日本的な美なのだと思っています。表紙カバーの絵は、この小説の通奏低音である鎌倉の海の波というイメージなのでしょうか。

 なお、当ブログにおいても、大沢昌助のことを書いたことがあります(2017.12.26「預けたままだった版画のことー「ギャラリー歩歩琳堂」ー」)。

 

 本稿で途中下車した『単純な生活』へ再乗車するにあたり、阿部の心の奥にある「単純な生活」のイメージの原型とでもいうものがあらわれた文章を紹介しておきたいと思います。

 「二十八」の最後のところで、フランス(阿部は思い立って一人でフランスの田舎町ツアーに参加しました)のルルドの街中で「フランシス・ジャムによく似た髭面の男を見かけた偶然に心を動かされた」ことから、「単純な生活」という言葉に突き当たる場面があります。

 「信仰なき私」が「中年に至ってカトリックに改宗した敬虔な詩人」であるフランシス・ジャムを云々するおかしいかもしれないがと断りつつ、次のとおり筆を進めます。

 「 ただ、私は「単純な生活」という言葉が、彼の口から八十年も前に発せ

  られ、紙の上に記されていたことに思い至ったのである。たしかに、

    おお 神さま どうか私が

    出来るだけ単純な生活(くらし)を続けるやうになさつて下さい。

   とジャムは書いてはいなかったろうか。   」

 そして、阿部は次の文章を続けています。

 「 神様なしで単純な生活があり得るかどうか、あるとすればそれはどうい

  う生活か、私にはわからない。しかし、私は私で、単純な生活を欲してい

  る。それが大それたことだというなら、せめても単純な生活を夢みてい

  る。」

 もはやこの阿部の文章に、私がさらに言葉を加えることは余計なことになります。それより、阿部と同じく「信仰なき」自分に対し、ここに「神なき者の祈り」に近い何かあるのではないかと問うてみようと思っています。

 

◈おわりにー「いま生きているということ」からー

 久しぶりに、ちょっとうなってしまうくらいの感銘を経験しました。前記した黒田三郎の詩から、その詩を歌う小室等につながり、その小室等が谷川俊太郎の「生きる」という詩を「いま生きているということ」というタイトルで歌唱するユーチューブに行き当たり、それを聞いて私は「感銘」などという大げさな言葉を使いたくなったのです。以前にも聞いたことがあったのですが、今のコロナ生活という時期だからなのか、当方の年齢ということもあるのか、今回は今までなく感じ入ったということです。

 ですから、この動画だけはアップしておきたいと思いました。元は1976年リリースのLP『いま生きているということ』が初出ですが、今回アップするュ―チューブは、ずっと後年の演奏ということになります。

  ◉小室等「いま生きているということ」(作詞:谷川俊太郎 作曲:小室等)

 

 これに関連して、谷川俊太郎がいわば原詩である「生きる」(1971年刊『うつむく青年』に所収、下記の写真は再刊(1989年刊)の同名詩集)について語っている記事を読みました(2018.9.21「インタビュー」㊟最後に「生きる」が引用されています)。

 谷川の膨大な詩の中で、半世紀以上にわたって広く愛されている詩の一つが「生きる」ですが、谷川本人は「よくできた詩とは思っていない」とし、「でも、きっちりと完成した詩よりも、どこかほころびがあるほうが、人は入っていけるんですよ」と語っています(㊟2013年に刊行された岩波文庫の自選詩集にも採用されていません)。

 この詩がポピュラーになった理由について、谷川は自分なりの分析だがとしつつ、加藤周一の「「いま・ここ」というのが日本人の感性の基本だ」との考え方から(加藤にとって必ずしも肯定的に評価していたわけではないが)、この詩では「「生きているということ」だけじゃなくて「いま」とついているところがミソなんじゃないかな」と発言しています。

 そして、インタビューアーの永江朗が分断と対立が激しくなっている時代にあって「「生きる」という詩によって人々がつながっていくのは感動的」と発言したことを受けて、谷川は次とおり答えています。

 「 それは言葉の力ですね。僕は作者の力だとあまり思わない。もちろん僕

  が書いたんだけど、自分の中から言葉が出てきたというよりも、過去の膨

  大な日本語の集積の中からこういう言葉を自分が選ぶことができた、とい

  う感触なんですよね。」

 

  谷川俊太郎『詩集 うつむく青年』  1989年10月刊/サンリオ

 今回、「生きる」と「いま生きるということ」の詞に少し違いがあることに気づきました。小室が加筆したのかどうか知りませんが、谷川と小室の関係ですから、いずれにしても相互了解のもとでのことでしょう。

 「生きる」の詩句でインパクトを受けたのは、2連目の「すべての美しいものに出会うということ/そして/かくされた悪を注意深くこばむこと」、そして最後の5連目の「人は愛するということ/あなたのいのちと手のぬくみ/いのちということ」です。いずれもその詩句の前に「生きているということ/いま生きているということ」からつなげると、その深度がまっすぐ伝わってきます。

 

 このような時期に、すなわち視界不良の非日常という大状況のなかで日常を手さぐりしているともいえそうな日々において、「いま生きているということ」の意味を問われているということもできます。そんな問い直しにとって、刺激や、きっかけを与えてくれるのではないでしょうか。そして、それぞれの「いま生きているということ」にまとわり絡みついた糸の塊りをほぐしほどくことが、今だからこそ可能なときかもしれません。

 実際はいろんな生きる現実が無数に存在しており、逆でしょうとの声が聞こえますが、私個人としては、そこから生じてくるものが「単純な生活」と呼べるものとありたいと思ったりします。

 いずれにしても、ぶあつい雲間に密かな光をさがして、かけがえのない毎日を意識して過ごしたいと願っています。

  雲間から光が差して(播磨灘)  [2020.4.27播磨町新島で撮影]

 

 

プロフィール
profilephoto
70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
最新の記事
                         
カテゴリー
カレンダー
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
                                      
月別更新一覧
            
コメント
                                      
リンク
                        
サイト内検索
Others
            
Mobile
qrcode
            
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM