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2016.12.31 Saturday

「多少のご縁」もあって

 大晦日になりました。

 なんだかんだと身辺はもとより、この国や世界にもあったはずなのに、刻みこまれた言葉もなく、今はあっという間の一年だったという感慨だけが残されています。

 皆様はいかがでしょうか。

 それにしても忘年会、年忘れとはなんなのでしょう。新しい年に向かうための人の世の知恵なのかもしれませんが、はいはいそうですかと言いたくない気持ちもあります。

 剥がれ落としてしまった言葉を探して戻そうとしても、なかなか蘇ってきません。今は、道端に落としてきてしまった言葉のかけらたちに、反復して新たに出会うことができたらと願っています。

 

 最近当ブログでふれた『捨身な人』(「『捨身な人』から辻征夫へ」)の著者である小沢信男さんは、『東京骨灰紀行』(2009年9月刊/筑摩書房)の<あとがき>で次のように書いています。

 「 けんそんでも自慢でもなく私は、米の生える木をろくに知らず、鰯の一

  匹掬いもせず、火打石で火がおこせず、まして井戸を掘ったおぼえもな

  い。つまり生存のための労働が、なにひとつできないままに、八十年も生

  きのびてきました。」

 まさに自分のことでもあるなあと思いました。

 小沢さんは東京、都会だからこうして「はんぱなでくのぼうたち」がうろついておられるのだと続けているのですが、私などは都会ともいえないこの地にいても<生存のための労働>を何一つできないままで六十七年も生かされてきました。

 

  一日は一日にあらず大晦日   東 一爽

 

  どの星も一つ年取り除夜の鐘  岩井善子

 

 長谷川櫂さんの『日本人の暦 今週の歳時記』(2010年12月刊/筑摩選書)、「12月24日ー12月31日/年惜しむ」から引用した句です。

 

 ともかく、この一年、多少はありましょうが、当ブログを読んでいただいた皆様に深く感謝しています。

 「袖振り合うも多生(他生)の縁」といいますが、私としては「多少のご縁」もあって読んでいただけたのではなかろうかと思っています。

 ともあれ、ブログ開始から一年に際しての思い(「『思泳雑記』の一年」)でおりますので、来年も道連れになっていただければ幸いです。

 

 この年齢やら何やらもあって、軽く「よいお年を」を口にすることがはばかられるような切実さがなきにしもでありますが、だからこその「よいお年を」のあいさつを皆様に送ります。

 

 

 

    

 

2016.12.27 Tuesday

曇りのち晴れ・ナポリ(その1)ーシチリア・ナポリ紀行(5)ー

 年末です。こんな押し詰まった時期になっても、あっという間の一年でしたとの月並みな言葉しか出てまいりません。

 糸魚川ではあんな大火災が起きてしまうとはなんとしたことでしょう。1976(昭51)年の酒田大火以来の規模だそうですが、大火は天候が激変するタイミングで発生しやすいのです。

 

 カターニャを出発して1時間もたたないうちにプロペラ機は高度を下げ、市街地に近いナポリ・カポディーノ空港へ着陸しました。すぐにタクシーに乗りこみ、ホテルの名前と住所を書いたメモをみせると、シーシーと出発です。

 ナポリでは高速道路を利用することなくガタガタと振動の激しい石畳の道路を通って市街地に入っていきます。他の都市では空港から高速道路を使わずに中心市街地にまで到達するところはないよなあ、いくら近距離だといっても、伊丹空港でも使うのになあと独り言ちていました。

 若い運転手は「ポンペイ、ポンペイ」と、お安くしとくよと言ったか言わないか、とにかくポンペイに連れて行きたがっています。明日はОKかとの誘いにノーノ―と断っていると、着いたよとホテルの影も形もない小さな広場に横づけし、そこの通りをまっすぐにいけと言っているようです。いつものとおり、まあ仕方がないかと下車しました。

 

 この世は想定外だらけではありますが、タクシーがホテルの前に着けられないのは初めてのことです。とにかく人出が多くてかつ建物も道もホコリで汚れた膜が貼られているかのように見えます。家人をその場に座らせて、大きい方のトランクを引っ張り、積年の通行が刻まれた歩きにくい石の道をとにかく前進しました。

 ホテルの情報案内にもこんな話は出ていなかったよなあとぼやきつつ、中庭のある古くて大きな屋敷の一角が改装されてホテルとなっていると調べていましたので、50mぐらい進んだところのそんな屋敷の中庭に入ってみたのです。遠くから家人の日本語が「通り過ぎたみたいよ」という声が聞こえ、ホテルの人が急ぎ足で笑顔を出しました。

 ホテルの入り口は道に面していたのですが、私は目に入らないままで前を通り過ぎていました。じっとしておれず歩いてきた家人がホテルの人にマイハズバンドは向こうにいると助けを求めたというわけです。それでホテルマンが探しにきてくれたというのが真相のようです。

 

 後でわかったことですが、この通りには昼の時間帯は住人や事業者だけがОKでそれ以外はタクシーでも通りに入ってこれないようでしたし、それに途中が工事中で通り抜けできないのでどこかでUターンしないと通りから出ることもできない状況でした。 

 かくして私たちの3泊4日(4/8-11)のナポリは始まったのです。

  サン・ジョルジョ・マッジョーレ通り 写真の奥の方から手前に歩いてきました

  国旗のあるところががホテル入り口となっています

  こんな中庭のある屋敷まで歩いて入りましたが

  古い外壁にこんなホテルの入り口だったのに通り過ぎてしまうとは

  通りを北進した一区画が工事中でこんなに狭くなっていました

 

◈ナポリで3泊4日

 シチリアが主目的であった今回の旅でナポリにも寄ってみたいと、どうして考えたのか、今となってははっきりしないのです。シチリアにはパレルモ、エンナ、シラクーサそしてタオルミーナ以外にも面白そうな街がたくさんあるのに、国内線まで使って最後にナポリを組み込みました。

 ガイドブックの「南イタリア」の中にシチリアがあって、全体のトップがナポリだったということもあったのでしょうか。ピッツァのためでもなくましてゲーテのためでもありません。シチリア王国、ナポリ王国が並んで紹介されていたこともあったのでしょうか。何より、まあ折角だから、またの機会といってもなかなか来れそうにないしというのが一番だったのでしょう。

 スケールからからすると、4、5泊はしたいところですが、さすがに調子に乗りすぎてはいけないと、3泊に抑えることにしました。

 

 シチリアに比べて事前のネット調査はあまりできませんでした。ナポリの歴史地区は大きくは北側の<スカッパ・ナポリ>と南側の<サンタ・ルチア>に地区区分できそうでした。サンタ・ルチアの方の「サン・カルロ劇場」の予約サイトをいじっていたら旅の最後の夜(4/10)の演奏会が予約できたのです(もう一度やれと言われても自信がないぐらいですが)。

 で、たったの3泊だけですが、ホテルも先にスカッパ・ナポリで2泊、最後の日にサンタ・ルチアで1泊に分けることにしました。旧市街の中に宿泊するスタイルの私たちは、まだオフシーズンだったことも幸いしたのか、喧騒と雑踏のスカッパ・ナポリでは前記のホテルでしたし、サンタ・ルチアでも海岸通りに沿ったホテルが予約できました。

 

 空港からの運転手が誘ったとおり近くにはヴェス―ヴィオ火山、その紀元79年の大噴火によって人口2万人が一挙に埋まってしまったポンペイの遺跡、そしてソレントなどのアマルフィ海岸という大観光地も近いのです。でも長い歩行を避けたいということから、元々街中だけにしておくつもりでした。特に絶対行ってみたい場所は確定しないままで、ホテルと10日のサン・カルロ劇場が決まっていただけのことでした。

  <スカッパ・ナポリ>は上の方(北)、<サンタ・ルチア>は下の方(南)です

  カンパーニャ州の主な都市です

 

 ナポリは人口100万ぐらいのローマ、ミラノに次ぐイタリア第三の都市にしてカンパーニャ州の州都であり、都市圏は300万人という大きなものです。シラクーサやタオルミーナはもちろんのこと、パレルモとも比較にならないスケールなのです。

 ガイドブックでは、イタリアの南北問題というか人口的にも経済的にも北高南低が進行しており、ナポリはカオスの町、ごみごみして不潔で治安にも問題がある街として紹介されることが多いのです。一方で、南の太陽と歴史風土からナポリ人のフレンドリーで陽気なところ(いい加減なところも含め)をイタリア人の原点とするような紹介のされ方もよくみかけます。

 ナポリとローマは大阪と東京の差異に近いものかもしれません。シチリアと同様、外国人による長い被支配の歴史が大いに影響していることもあるのでしょう。

 

 ナポリに滞在したともいえない私たちの3泊4日から、ナポリがどうこういえませんし、あるいはナポリの人について何か特別な印象をもちえたなどと思っているわけではありません。どちらかといえば観光客の方をより多くみることになったともいえますが、私は美と醜、清と濁、晴と曇が混沌としている大都市の躍動感を感じたということだけは申し上げることができるでしょう。

 <サンタ・ルチア>は美と清と晴、<スカッパ・ナポリ>の方が醜と濁と曇とあえて区分もできますが、私は<サンタ・ルチア>の方に軍配を上げているわけではなく、大いに<スカッパ・ナポリ>も面白く興味をもったのですから、人間とはややこしいものです。

 

 いつものゲーテではあまり芸がありませんので、また後にしておくこととし、江國滋著『イタリアよいとこ 旅券は俳句』(1996年12月刊/新潮社)に登場してもらいます(今や江國香織さんの亡き父ということで知られていそうですが)。

 このイタリアへの旅に江國さんは岩倉具視を特命全権大使とする1871(M4)年の使節団の見聞をまとめた『米欧回覧実記(四)』(久米邦武編/岩波文庫)を持参していたようです。この本から100年以上前の使節団がイタリアをどう見たのかについてうまく引用しながら、江國さんは軽いタッチで旅日記を書いています。

 当時、ナポリの人口はイタリア最大の都市だと記されていますが、ナポリの街の方の印象は次のとおり綴られています。

 「《府中ノ人民ハ、多ク無学ニシテ、懶惰性ヲナシ、街上ノ塵芥払ハス、車

  馬狼藉ナリ(略)此行欧米十二国ノ各都府ヲ略歴観シタルニ、此府ノ如ク清

  潔二乏シク、民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ》」

 この引用の後に江國さんは「そんなに悪くいうことはないじゃないか、と思う」と続けています。追い打ちをかけるようですが、下の写真は朝の散歩(4/9朝)の時に通ったホテルから少しだけ南に歩いたところの広場の様子です。鳩の群れに昨夜(金曜日)の狂騒ぶりが想像されますが、これからの掃除でこのままではありませんので注意をお願いします。

  ホテルから少し離れた広場(4/9朝7時頃)です

 

◈喧騒のスパッカナポリへ

 ナポリはご多分にもれずギリシァの植民都市が起源となっています。ナポリはギリシァ語の「ネアポリス」新しいポリスのことです。最初に建設されたパルテノパから数キロ離れた今のスカッパ・ナポリのあたりに紀元前3世紀頃に移動し、新たに建設された都市が今のナポリです。ある店の主人は「ナポリ」と発音していても、私の耳には「ネイポリ」「ネイポリ」と聞こえました。

 ギリシァ人の都市計画では東西南北に格子状の通りが敷かれるのですが、東西の通りを「デクマーノ」、それと交差する南北道が「カルディーネ」であり、それが交差するのが都市の心臓部というわけです。スカッパ・ナポリとはイタリア語で「真っ二つに割る」という意味で、ギリシァ時代の「デクマーノ」がこれにあたり、2本の東西道の南側の方がスカッパ・ナポリと呼ばれています。一本の道ですが、イタリアの大学めぐりのサイトから、下の「スカッパナポリのアカデミックな名所」によると、西側はベネデット・クローチェ通り、東側はピアジオ・デル・リプライ通りとなっています。この街を南北に分ける東西の道を地元の人はスパッカ・ナポリと呼んでいるようです。

 全く聞いたことがなかったのですが、通り名となっているベネデット・クローチェ(1866-1952)はここに住んでいた今世紀最大の哲学者であり、文部大臣も歴任した政治家でもあった人みたいです。

 

 ガイドブックなどでは北側の東西道(トリブナーレ通り)を含め、この地区の全体をスカッパ・ナポリと呼んだりもしているようですので、私もこうした意味も含めて使っています。

 したがって、スパッカ・ナポリは2千年以上の歴史が刻みこまれた道路であり地区なのです。17、18世紀の建築物や教会などが密集し、昼間は石畳みの狭い表通りに多くの観光客がどこからか入りこんできて、喧騒と雑踏のカオス世界というか、沸き立つような空間を現出させています。

  Hマークが宿泊したホテルであり、スパッカ・ナポリの通りから少し南に下ったところです

  左側のピンクあたりがホテルから近いところです

 

 午後遅くホテルに着いて(4/8)、とりあえずスパッカナポリで何か食べようかと外へ出ました。メインストリートであるベネデット・クローチェ通りまで来ると、写真でみていた光景が目に飛び込んできました。たくさんの人びとが狭い石畳の通りを密集して歩く光景です。

 すぐ近くのサン・ドメニコ広場のピッツェリアがまだ開いていたので、そこでピッツァをおいしくいただきましたが、その時のビールが効いたのか、バールでエスプレッソを飲んでも眠気がとれません。ちょっとホテルに戻り、一寝入りしてから、疲れがどっと出たような家人をそのまま寝かしておいて、もう一回歩いてくるとホテルを出たのです。

 

 掲載している写真はその時に撮影したものです。どんよりとした曇空は残念ですが、とにかく歩いてみました。教会、そこには広場と彫像があったりしますし、飲食店、おみやげ物屋さん、パテオの中にも宝飾や服飾関係の商店が所狭しという感じです。

 特に17世紀から続くキリストの生誕を人形とジオラマで表現した「プレセーピオ」ばかりを並べているサン・グレゴリオ・アルメーノ通りは見物客でひしめきあっていました。自転車ツアー的なものがあるのか観光客とおぼしき自転車の集団が戻ってきたり、時にはバイクが後ろに人を乗せて歩行者をよけながら走っていたりもしています。

 いろんな人がいます。といっても観察などできないのですが、観光客はもちろんのこと、地元の商売や事業の関係者、東側にある大学の学生なども多いようです。歩いていると、しっかり見ることもできずに、ただいっしょに速足で歩いていただけのことでした。

  ベネデット・クローチェ通りの西の端、右がジェズ・ヌーボォ教会、左がサンタ・キアラ教会

  スパッカ・ナポリの通りが狭いことが分かります(4/8以下同じ)

  ベネデット・クローチェ通りを少し東に進んだところです

 

  自転車ツアーの一行が帰ってきたようです

  サン・グレゴリオ・アルメーノ通りです

  クローチェ通りに沿ったサン・ドメニコ広場のあたりです

  赤い外壁の建物にはナポリ東洋大学日本語学科が入っています

  くたびれた通りから想像できない華やかな空間がパティオの中に広がっています  

  

 この一人歩きで最も気になった、気に入ったのは古本屋街です。これまで訪れた都市で古本屋が集中した地区に出かけたことがなかったので、よけい新発見という気分でした。

 主要な南北道であるトレド通りまで出て地下鉄のダンテ駅のところをちょっと北上してからトンネルになっているところを東へ行くと、ベッリーニ広場がありますが、その間、100mほどでしょうか、スパッカ・ナポリ地区の方へ入っていくところに古本屋とか出版関係とかそんな店舗が立ち並んでいました。2、3店を覗いて本棚を見ましたが、まったく読めない書名ばかりで恥ずかしくなってゆっくりと眺めることはできませんでした。写真集などを尋ねてみればよかったのですが、今、思うと疲れからか気力が不足していました。

 ある店の前では、観光客とおぼしき老夫婦がショーウインドゥの中の本か版画のような印刷物を物色しているようでした。夫が入りたがっているようでしたが、妻が押しとどめているような仕草があって思わず笑いました。あきらめたのか、夫の方はショーウインドゥをカメラで撮影しています。

 スカッパ・ナポリには13世紀に創設されたナポリ大学、今や学生数10万人のマンモス大学があることもこの通りの形成には大きかったのでしょう。

 

 ベッリーニ広場にはジャズが流れていました。生演奏をしているグループがいます。これを聞くともなく黙って座っている同輩の男たちが大勢います。そんなお金のかかるテーブルなんかに座らないよというように、ほんの近くでは若い人たちが石に腰かけて語り合っていました。

 広場の前には古代地下都市ネアポリスの掘削穴の入り口がありました。

  ダンテ広場、白い小さく写っているのがダンテ像です(4/8以下同じ)

  地下鉄ダンテ駅の北側トンネルには古本屋が並んでいます

  もっと覗いてみたらよかったのですが

  夫の方があきらめて写真を撮ろうとしています(勝手なストーリーですが)

  ベッリーニ広場です これが古代地下都市ネアポリスの関係でしょうか?

  後ろでサキソフォンを演奏しているからか無口です

 

 ちょっと話を、最初に入ったピッツェリアに戻します。

 ホテルからクローチェ通りまで出て東へ150mほどのサン・ドメニコ広場にあるピッツェリアにギリギリの時間に飛びこみました。如何せんガイドブック掲載のピッツェリアは遠すぎました。しばらくして昼休憩に入ったらしく私たちだけになってしました。

 普通はマルゲリータとマリナーラぐらいしか食べないのに、特別のチーズやトマトという表記に弱く、そんな2品を頼みました。味と量には満足しましたが、お腹がいっぱいになり、晩ごはんになってしまいそうだという話になりました。ピッツァは高いものでも10€程度というのがいいですね。

 こんなことしか考えることがないのかということになりますが、晩ごはんはどうしましょうかと外に出ると目の前にガイドブックにあった「バール・スカトゥルキオ」という発音できない菓子の名店があります。今夜はこれにしておこうかと、これも発音しにくい「スフォリアテッラ」と「ババ」を手にしてホテルに戻ることにしました。

 クローチェ通りからホテルへの曲がり角のところに小さなバールがあります。そこに入り、この旅を通じて最高のエスプレッソをいただきました。ホテルへの帰り道の途中で、アジア系の青年が店番をしていたところで、いささか古くなったみたいなオレンジを買ってホテルに戻ったのです。ウィ・ジャパニーズと言ってウェアフロムと尋ねたところパキスタンと答えてくれました。

 シチリアからの移動日(4/8)は、夜遅くホテルの部屋で菓子とオレンジとビールを食しただけで、これ以上の行動もなく休息にあてたのでした。

  奥に看板が上っているのがピッツェリアです(4/8以下同じ)

  注文したピッツァとビールです 奥の方がグッドでした

  「バール・スカトゥルキオ」の内部です

  上段右が「スフォリアテッラ」下段右が「ババ」  

  店名は不明、今回の旅行中で最高のエスプレッソでした

 

◈雑踏を離れてーサンタ・キアーラ修道院のキオストロー

 朝の散歩(4/9)時は曇っていましたが、さあ出発という頃には晴天とまでいかないものの少し明るくはなってきました。

 まず、ホテルから近くのサンタ・キアラ教会まで歩き、教会をスルーして、キオストロ(回廊)に入りました。スパッカ・ナポリの喧騒と雑踏を離れて、「静謐な空気」が流れる場所だとされていたからです。

 マヨルカ焼のタイルを貼った八角形の列柱が立ち並ぶ中庭は、とてもすっきりとした空間でオリーブやオレンジの樹が植えられ、桜の一種のような花も満開でした。マヨルカ焼のタイルは、オレンジやレモンの木や花や実も描かれ、暖かみのある南国というか地中海風の色彩感覚となっています。回廊部の壁や天井のフレスコ画は聖書の物語などが描かれているのでしょうか、淡い色彩が中庭の色彩と共振して、大変に美しい空間となっていました。

 確かにスパッカ・ナポリの喧騒とは無縁の空間で鳥の鳴き声が聞こえてきそうなぐらい静寂です。

 

 博物館が併設されており、長い歴史のある調度品が、言葉がわかるともっとよかったのに思わせるように上手く展示されていました。裏に回ると、ローマ時代の浴場の跡が保存されていて、その上を歩いて見学できるようになっていました。スパッカ・ナポリのこの地域が古くからの市街地でかつ中心地であることの証左でもあるのでしょう。

 パレルモもそうでしたが、18世紀の改装によって豪華にバロック装飾されたサンタ・キアラ教会も1943年の大爆撃で消失してしまいました。今はゴシック様式で再建されており、簡素なデザインはバロックで満腹となった人たちからはかえって評判がよいようです。

 文字どおり落ち着いた穏やかな気持ちで見学することができました。ナポリ2日目(4/9)は気分よくスタートを切ったのです。

  キオストロ(回廊)のマヨルカ焼の円柱の立つ中庭です(4/9以下同じ)

  回廊部のフレスコ画が中庭からの光にやさしい光で応答しています

  オリーブやオレンジ以外にもこんな桜のような花の咲く樹(アーモンド?)もあります

  博物館の内部です すごい迫力の金属(銅?)製の像です

  ローマ時代の浴場の跡です

 

 このキオストロの出入り口のそばに、どうみても教会の敷地内なのですが、児童公園的なものがあります。ご近所の家族でしょうか、数家族が子供を遊ばせていました。教会から地域や市が借りたりしているのでしょうか、それとも教会が提供しているものなのでしょうか。

 そして教会外への小さい扉が開かれていてスパッカ・ナポリの路地の風景がみえており、確かに人びとが居住する空間でもあることがわかります。

  教会内に児童公園的な施設があります

  スカッパ・ナポリに居住する住民とつながっています

 

◈ちょっと極端だけれどー二つの美術館ー

 サンタ・キアラ教会と、クローチェ通りをへだてて目の前のジェズ・ヌーボォ教会の内部を見学してから、すぐにタクシーで国立カポディモンテ美術館へと向かいました。

 土曜日のカボディモンテの丘には広い芝生の上でサッカーに興ずる子どもたちの姿が目立ちました。18世紀に建設が始まり100年もかけて完成した巨大な元王宮は赤色の外壁が印象的で優雅で端正な外観をみせていました。誰でも利用できる公園の中に国立美術館があると思えばいいのでしょうが、日本では国立美術館の敷地内でサッカーしていることなどちょっと想像できません。

 

 この美術館はナポリ・ブルボン家が母方のファルネーゼ家から受け継いだ美術コレクションが展示されています。その質と量たるや半端なものではありませんでした。富の集中としての人間の歴史を思わずにはおれません。

 1787年2月25日に到着し、3月29日にシチリアへ出立するまでの1ヵ月余、ナポリに滞在したゲーテは3月9日に山嶺宮(カポディモンテ)に出かけており、「並べ方は気に入らぬが、貴重品ぞろいである」と記しています(『イタリア紀行』)。当時、この館は未完成だったことでしょうし、今と違って整理・展示も不十分だったことでしょう。

 壮麗な大美術館といってよい現在の国立美術館は、歴史を踏まえた展示を滞りなく展開しているといってよいのでしょう。土曜日というのにパラパラとでも表現したくなる鑑賞者数ですから、まことに勿体ないことです。

  カポディモンディ美術館前で少年たちがサッカーに興じています(4/9以下同じ)

  パルジャミーノの「アンテア」がバナーになっているのに美術館を留守にしていました

 

 関係ないと言われればそのとおりですが、失敗は館内の鑑賞の順番でした。部屋数が50室以上もあるのに、どこからどう回って鑑賞するのかという順番がはっきりしないままで、まあいいかと動いたものですから、時代や地域が行ったり来たりとなってしまいました。

 また、ないものねだりはよくないけれど、しても仕方のないことだけれど、どうしてもちょっとがっくりしてしまうことがありました。

 この美術館の看板娘と言われるパルジャミーノの「アンテア」と目玉というべきカラヴァジョの「キリストの磔刑」の2作品が留守中だったのです。ちょうどこの時期、カラヴァジョの方は日本に貸し出されていました。

 

 フラッシュがなければ写真を撮ってもいいといわれても、ほぼすべての作品がガラスの下にありますので、光ってしまって生でみる作品の印象からほど遠くなってしまいます。特にエル・グレコの絵はひどいことになっていますが、この作品は表現上光の冒険をしており時代を越えていいなあと思ったのであえて掲載しました。

 この美術館には教科書で読んだことのありそうな重量級の画家、彫刻家が、またその作品がずらりと展示されていますので、作品を限定してみるとか、2日に分けてみるとか、そんな工夫をしないとまあ訳が分からなくなってしまいます。こんな質と量を兼ね備えた美術館は、スケールが大きすぎて、私たちのようなたんなる観光客にとっては扱いかねるというか、始末に負えない事態になってしまうようです。

 そんな意味で、美の宮殿に圧倒されながらも、ちょっと極端すぎて印象が散漫になってしまったところがありました。

  ラファエッロ「アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿」1509-11年

  ボティチェリ「聖母子と天使」

  ティツィアーノ「ある少女の肖像」1545年

  エル・グレコ「燃え木でロウソクを灯す青年」1570-72年

  ゆりかごの間と言われています まさに宮殿です

 

 昼ごはんを食べてから、近世・近代美術の教科書のようなカポディモンテ美術館体験とバランスをとりたいねと、現代アート専門のドンナレジーナ現代美術館(通称はマードレ(MADRE))に足を運びました。この現代美術館はスパッカ・ナポリの北の端、聖マリア・ドンナレジーナ教会のそばに2005年にオープンしました。

 結論からいえば、ここも私たちには現代アートすぎて、先鋭すぎて、楽しむことができませんでした。えへーとか、あれーとか、そんな感嘆符を連発することになりました。ちょっと極端すぎて、手に余ったのです。片や重量がありすぎ、こちらはエッジが強すぎ、どちらもいささか旅疲れの出てきた二人には極端すぎてというのが本音の感想です。

 でも考えてみれば、旅が非日常だというのなら、極端なものこそ非日常の壺のようなものです。極端ではあったけれど、二つの美術館体験は、<たかがナポリ>ではなく、<脳天気のナポリ>でもなく、奥深い<されどナポリ>を思い起こさせてくれました。

 

 日本人作家では、杉本博司さんの写真作品がありましたが、これだけは撮影禁止となっていました。

 何より面白く感じたのは、屋外にある作品群?でした。屋上からハシゴが飛び出ていたり、ブロックだけが並べられていたりしても、これはこれでやはり作品でしょうし、うむ面白い作品だと感じたりもします。

 こうして少し感性が刺激されたら、下の写真にある隣接するアパートから洗濯物がぶら下がっている光景さえも作品に見えてきたりして困りました。それとも作品だったりするのでしょうか。

  現代美術のアイコンであるヨゼフ・ボイスの写真です(4/9以下同じ)

  インパクトがありますが、作家名も作品名も不明です

  屋上のハシゴは作品のはずです

  向こうの壁の洗濯物が作品に見えてきたりします

 

 方向感覚を失って現代美術館の外に出ると、そこはスパッカ・ナポリの雑然とした街です。急に我に帰った気持ちになりました。

 折角だからと大聖堂の内部に入ってから、歩数の上限数をはるかに上回ってしまった家人にもう少しもうちょっとだからと言いつつホテルまでのそれなりの道のりを歩きました。家人に少しづつ嘘をついてすっかりだましていたような舌触りが残ったのです。

  大聖堂(ドゥオーモ)の内部です

 

 夕食はホテルのあるサン・ジョルショ・マッジョーレ通りのトラットリアで食べました。土曜日ということもあったのか、私たちの同じような観光客とともに地元の方も多くて満員でした。

 食事の終わる頃、二人の楽師が入ってきて、二曲ほどナポリ民謡(「帰れソレント」ではありませんでしたが似ていました)を歌いました。二曲が終わると、客席を回ってチップを受けとるという仕組みです。よくわからない私たちは1€を渡しました。海外旅行でこんな流しのような楽師に出会ったのは初めてのことでした。

  洞窟のようなトラットリアです(4/9以下同じ)

  流しの楽師二人です

  クローチェ通りから150mほど南へ下ったホテルの入り口付近です

 

◈ホテルで出会った日本人

 ホテルの朝食会場で(4/9)「久しぶりに日本語を聞いたものですから」と声をかけられました。

 その方はアメリカ在住の日本人男性で私と同い年です。私たちのテーブルに座ってもらって30分近く話をしたのですが、今となっては人物の全体像として結ばれていることはなく<謎の男>のままなのです。情けないことにまともな質問もできないままでただペラペラと話していただけだったのでしょう。

 

 希薄な記憶を辿れば、鹿児島県生まれ、父親の仕事の関係で岩手県などにも住み、大学を出てから、アメリカに渡り、ニューヨークで仕事をされていたとのことでした。ある時期からフロリダ州のパームビーチにも住居をもち、ニューヨークとフロリダを行ったり来たりで暮らしてこられたようです。少し前に引退して、今はフロリダのパームビーチでセカンドライフを送っているとの話だったと思います。

 今回の旅は、朝食会場でごいっしょだった友人(白人男性)に同行して、イタリアの有名な街、ヴェネツィア、フレンツェ、ナポリとめぐってきて、明日にはローマへ入り、滞在を楽しみ、そして帰国する予定だということでした。その同世代の友人はガンを患っていて(今の病状はわかりません)、憶測も入りますが、今ぜひにと旅に出たのだという趣意の話もありました。

 何かの一つ覚えですが、ローマなら、パンテオンにぜひ行かれるように案内をしたりしました。

 

 私たちが夫婦だからというのか、子供のことを聞いてもらったりして「立派に成長されているのですね」などと言ってもらったりしましたが、彼の家族のことは尋ねることができませんでした。

 彼の言葉ではっきり記憶していることは「私は幸運でした」というフレーズが何回か登場したことです。後で調べると、パームビーチは高級別荘地として有名なところであり、彼の趣意は幸運にもアメリカで成功できたということかもしれませんが、もっと深いものだったのかなと今は感じています。

 大学を卒業してから初めて異国へ出て働き暮らしを立てていくことは想像を越えています。いろんな苦労を乗りこえてきた先に今の彼があるわけであり、そうした感慨をこめた「私は幸運でした」であったにちがいありません。

 

 きちんと話をすることは本当に難しいことだなあと改めて感じています。これでよかったのだという気持ちとともに、アメリカでの彼の歩みをもっと引き出すことのできなかったことがちょっと心残りです。

 スペインのグラナダでもそうだったのですが、ある程度の時間を共有して話をしていても、お互いに名乗ることはなかなかできないものです。

  ホテルの部屋から中庭を撮影したものですが、この2、3階部分がホテルです

  薄汚れた外壁とちがって内部(朝食のサロンルーム)は改装されています

 

◈須賀敦子のスパッカ・ナポリ

 須賀敦子さんはナポリをテーマに二つのエッセーを残しています。最初の著書である『ミラノ 霧の風景』(1990年12月刊/白水社)の「「ナポリを見て死ね」」と亡くなってから出版された『時のかけらたち』(1998年6月刊/青土社)の「スパッカ・ナポリ」です。二冊ともまちがいなく読んでいましたが、すっかり忘れていて、この旅を終えてから須賀さんのナポリと再会することになりました。

 須賀さんがナポリと実際に関わったのは、13年間のイタリア生活を終えて帰国し、大学の先生になってからのことです。1982(昭57)年には早春から夏までの数か月間、ナポリ大学で過ごすこととなり、最初1ヵ月のホテル暮らしから引っ越した先がスパッカ・ナポリのアパートだったのです。そのアパートは前記したベネデット・クローチェ通り、サンタ・キアラ教会に近接しており、ナポリ大学まではスパッカ・ナポリの通りを歩いて通っていたとのことです。

 特定はできませんが、このエッセーを読んで、私たちのホテルからごく近いところであったことがわかりました。

 

 須賀さんは二つのエッセーでスパッカ・ナポリの通りを次のように表現しています。

 「 不規則にどこまでも続くこの長い道路は、ナポリの旧市街の道路がほと

  んどそうであるように、すすで汚れたように黒く油光りのする石畳で舗装

  されていた。」

 「 紀元前、ギリシアの植民地として、のちにはローマ皇帝の直轄都市とし

  て、ここに町がひらかれたとき、すでにこの都市の幹線道路として、設計

  された道路だというのだが、ここでも、石とヒト、聖と俗、高貴と卑賎が

  ひしめきあって、ふしぎな世界をかたちづくっている。」

 「 スパッカ・ナポリという名の通りは、《中略》ナポリ人の心のなかにい

  ろいろな色合いでしっかりと根づいている、活気にあふれた、世にもおか

  しな通りなのである。そこでは、人間とあわゆる営みが四六時中、あらゆ

  る不協和音を奏でながら同時進行を続けている。」 

 

 「「ナポリを見て死ね」」は須賀さんが小学校一年のとき、洋行中の父からとどいた絵葉書に父が書いていた「ナポリを見て死ね、という言葉があります」から出発するエッセーです。40数年をへて訪れた須賀さんの目にうつったナポリは長雨と清掃業者の長期ストライキで汚れきった道路であり、「もっと灰色で、もっと悲しげ」なものでした。ナポリで暮らしはじめた須賀さんが感じていたのは次のような困惑だったと記しています。

 「 この都会には、秩序とか、勤勉とか、まがりなりにも現代世界に生きる

  と自負する私たちが、毎日の社会生活において遵守しなくてはならないと

  自ら信じ、人にも守らせようと躍起になっているもろもろの社会道徳を

  真っ向から無視して、大声で笑いとばしているようなところがあるのだ」

 日を経るにしたがい、こんなナポリにもだんだんと慣れていき、「徐々にスパッカ・ナポリおよびそれが代表する庶民のなかにいて、いらいらせずにいられるようになったばかりか、これを愉しむことも覚えはじめた」のです。そして須賀さんはナポリの関係で性急に答えを求めることをしなくなり、ある納得に到達するのです。

 「 この町は、全体をうけいれるほかないのだ、そんな思いが私の考えを占

  めるようになった。部分に腹を立てていると、いつまでたっても、この町

  と友だちにはなれない。まず、全体をうけいれてから、ゆっくりと見てい

  ると、ある日思いがけない贈物をくれることがある。それは、同時に、思

  いがけなく足をすくわれる危険をつねに伴ってもいるのだが。」

 そして、このエッセーを次のように結んでいます。

 「 父の「ナポリを見て死ね」は、思いがけないかたちで私を訪れたのだっ

  た。観光客として五十年も前にナポリを訪れたときの父の年齢は、ナポリ

  に仕事をもって半年住みついた私の年齢の、ちょうど半分ぐらいだった。

  だが、父も娘も、それぞれの角度からこの町を識り、この町を愛し、それ

  ぞれが「ナポリを見て死」ねることになった。」

 

 もとより3泊4日の私にとって、須賀さんのナポリを自分に引きすえてみようなどとは考えていませんが、そこで暮らしていたらと想像すると、近しいものを感じたりするのではないかと思ってみたりもします。

 訳が分からないとき、カオスなどという言葉を使って納得しようとしてしまいますが、都市の歴史が堆積した、今もその営みが続いているスパッカ・ナポリは「ふしぎな世界」をかたちづくっているのでした。

  右の方に黒い線のようにみえる通りがスパッカ・ナポリ(真っ二つのナポリ)です

  スパッカ・ナポリ沿いにサンタ・キアラ教会の鐘楼がみえます(4/10午後ヴォメロの丘から撮影)  

  左下にはスパッカ・ナポリの通りが高層ビル群までのびています

  ナポリ港の向こうは二こぶのヴェス―ヴィオ山です

 

 この「シチリア・ナポリ紀行」は年内に終えることを予定していましたが、今回は<スカッパ・ナポリ>編で終わってしまい、ナポリ<サンタ・ルチア>編を残してしまいました。

 年初には完結させるつもりでいます。

             【続く:(1)(2)(3)(4)/(6・完)へ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016.12.22 Thursday

ブルーなCHETー映画『BORN TO BE BLUE』ー

 今日は音楽を流しながら書いています。

 映画をみる数日前からはじまり、映画をみてからも続いています。チェット・ベイカーの手持ちのCDがかかっているのです。スタンダードナンバーの数々、スローなテンポでメロディーをストレートに吹くトランペットが今の私にはぴったりきます。

 年齢が重なっていくと破調が日常になって、心のありようにパンクという語彙を見いだしたりしていますが、かえって音楽のキャパシティは狭くなり、今の自分に必要なものだけになってきたように思います。

 

 複雑よりシンプル、テクニックより一音の響き、難解より分かりやすさ、リズムよりメロディー、速いより遅く、長調より短調、開放・主張より内向・内省、シンフォニーよりソロかコンボ、自分の音楽の好みを書きだすと、こんな言葉の断片に出会うことになります。といっても、そこに総体として音楽がないと始まらないのですが。

 チェット・ベイカー(1929-1988)の音楽はこんな好みに寄り添ってくれるのです。今回、一番驚いたことは、前期というか、1950、60年代こそチェットだと思っていたふしがあるのですが、60年後半から70年代前半の中断を挟み、後期である70、80年代のチェットの音楽はすごいぞと感じられたことでした。そんなにたくさん聴いているわけでもないのに恥ずかしいのですが、元々からあったチェットの音楽の志向がいよいよすごみをもって顕在化しているのです。

 そこには流麗なメロディーというより、結晶のような一音、一音があります。立て板に水で語る志ん朝より、時々口ごもってしまう志ん生の語り口に本当の落語世界を感じることと似ているようです。

 

 さて、先週みた映画とは「BORN TO BE BLUE」という原題の『ブルーに生まれついて』(ロバート・バドロ―監督/2015年)です。前記した中断期を中心にチェット・ベイカーを描いた作品です。

 50年代に一世を風靡していたチェット・ベイカーが、66年頃といわれる麻薬のトラブルで顎と歯を折られ、トランペットが吹けなくなり、その苦悩から再生していく過酷な過程を描いたものというのがストーリーの簡単なスケッチです。50年代のニューヨークでマイルス・ディヴィスから「女子供相手の二枚目か」との言葉を投げつけられ麻薬に手を染めていくエピソードも挟まりますが、基本は麻薬の売人に殴打される事件から、音楽活動の中断、そして音楽シーンへの復活という数年間のドラマということになります。

 主演のイーサン・ホーク(1970-)は「渾身の演技」と評されています。アメリカの俳優としては珍しくホークについてはビフォアシリーズの三作で私も一癖ある演技で注目していました。ホークは、チェット・ベイカーの音楽が大好きだったみたいで、この映画で表現したかったことについて、次のように語っています。

 「 僕が表現したかったのは、゛悪い゛の仮面の下に隠された人間の姿だ。

  チェット・ベイカーに対する愛情を感じられなければ、彼を演じたりしな

  い。もちろん修正を加えて美化したくもない。彼はたくさんの問題を抱え

  た人間だった。僕はそういう人物を、愛情を持って演じたかったんだ。」

 この映画はそうなっています。ホークがチェットの名唱で知られる「マイ・ファニー・バレンタイン」「アイブ・ネバー・ビーン・イン・ラブ・ビフォー」をなりきって歌っているのには驚きでした(トランペットと歌のトレーニングを半年間ほど行ったということです)。そして、ホークらしくちょっとひねりを加えたチェット・ベイカーに対する思いも口にしています。

 「 僕がチェット・ベイカーの何が大好きかというと、彼がキャリアにおい

  てよい評価を一度も得られなかったという事実だね。面白いよ。初期のこ

  ろは高く評価されたが、人々は彼を笑い物にした。それなのにレコードは

  売れ続けているなんて最高だ。芸術家はいつも理解されたいと思っている

  が、時には理解されないものなんだ。僕らはそのことから刺激を受けるこ

  とができると思う。」

 シネ・リーブル神戸では、少なくとも年内は上映が続くみたいです。

 

 ◈『ブルーに生まれついて』公式HP

 

  『ブルーに生まれついて』チラシ表側

 

 映画の最後には、原題にもなっている「ボーン・ツー・ビー・ブルー」が歌なしで演奏されます。「ブルーに生まれついて」というスタンダードを用いて、<ブルー>という色でチェット・ベイカーの音楽そして人生を表現しようとしたのでしょう。

 ネット検索で出会った≪inamorimethod≫というブログで藤澤ゆかりさんという方がこの曲の歌詞を次のとおり<概略>としてまとめています。

 「 クローバーに囲まれて暮らすように生まれついた人がいるようだけれ

  ど、僕は緑色のクローバーなんて見たこともない。だってブルーに生まれ

  ついたのだから。頭上の黄色い月だって金色に輝く光が眩しすぎて僕の目

  には映らない。だってブルーに生まれついたのだから。君に出会ったとき

  世界は輝いていたけれど、君が去ってその世界は色褪せてしまった。それ

  でも君を愛する喜びを知り僕は幸せな方かもしれない。だってブルーに生

  まれついたのだから。」

 村上春樹さんの『村上ソングス』でもこの歌が紹介されているようですが(読んだつもりですが見つかりません)、そこでは「ブルーに生まれついた」のは男性ではなくて女性の方になっているとのことです。どちらでもいいのかな。歌う性によって入れ替わってもいいのかもしれませんね。

 私たちの「青」とアメリカの「ブルー」には感情表現の比喩において何がしかの違いがあるのかもしれませんが、チェット・ベイカーの音楽を色であらわすということになったら、やっぱり「ブルー」以外の色を思いつくことができません。

 

 イーサン・ホークが「レコードは売れ続けている」というとおり、アマゾンに掲載されているチェット・ベイカーのアルバム数は実に511枚というびっくりの数です。チェットが謎の死(事故、自殺、他殺などの説がある)をとげて30年近くがたっていますが、それほどチェットの音楽を好きな人がたくさんいるのだということなのでしょう。

 映画の中では、人気投票でマイルス・ディヴィスを抜きニューヨークにやってきたチェット・ベイカーに冷たい言葉を投げかけるマイルスが悪役として描かれています。でもチェット・ベイカー本人は50〜60年代のマイルスについて「僕がジャズ・トランぺッターとしてのスタイルを決定的にしたのはあの頃のマイルスだ。あの演奏を聞いて、その真似をしたんだよ」と1986年に語っていたと、ヒロ川島という方が書いています。それほど畏敬すべき存在がマイルスだったというべきでしょう。

 

 50年代と80年代のチェット・ベイカーの容貌について、ジェームズ・ディーンを彷彿とさせる甘いマスクといわれたチェットが麻薬でボロボロになって波乱の人生が刻みこまれたチェットへと変化したとよく言われます。アルバムのジャケットをみても、後期のチェットの姿にはどこか痛々しさを感じてしまうのですが、音楽はそうでないのだということを今回聴きなおしていて気づいたことが何よりよかったです。

 歌手というよりトラぺッターとしてのすばらしさがストンと胸に落ちました。ささやきかけるような歌い方だからトランペットもそうなのだろうというのは大いなる誤解であり、チェットのペットは中低音域の温かく力強く、ビックトーンであったといわれています。

 50年代と60年代を代表するアルバムをユーチューブから貼りつけておくことにします。前記のヒロ川島さんは「片や手探りで感傷的な25歳の若者の感性」と「57歳の男の研ぎ澄まされたロマンチシズムの結晶」と対比して表現されています。

  左側 『チェット・ベイカー・シングス』1954、56年録音 1956年/パシフィック

      右側 『レッツ・ゲット・ロスト』1987年録音 1989/RCA

 

 ◈『チェット・ベイカー・シングス』

 

 ◈『レッツ・ゲット・ロスト』

 

 「健康」は大切ではありますが、「健康でない」ことを不必要に忌避してしまう社会なのかなと危惧を感じてもいます。「ブルー」という色の感情表現にもそんなところを感じます。「ブルー」で何が悪いと悪態をついても詮方ありませんので、ここは一人でブルーなチェットの音楽を楽しむことにいたしましょう。

 最後に「ボーン・ツー・ビー・ブルー」を、私の大好きな歌手であるビヴァリー・ケニーが残したアルバムからの音源を残しておくことにします。

 

 ◈「ボーン・ツー・ビー・ブルー」同名のアルバムから

2016.12.18 Sunday

今年も口笛文庫とトンカ書店の『冬の古本市』

 先日も当ブログでご案内させてもらった口笛文庫とトンカ書店の『冬の古本市』(12/15(木)-18(日))へ金・土曜日の二回足を運びました。

 昨年に引き続きトアロードBAL6階の明るくて広く天井の高い会場で、通常の古本市には見られない雑貨なども展示されており、搬入・展示・搬出の大変さが思いやられますが、特に土曜日の方は大盛況でした。二つの店舗で普段からよくお見かけしている方もおられましたが、この会場でやっているからこそ顔を出したお客様もたくさん来られていたようでした。

 昨年もレポートしましたが(「「よくやったね」冬の古本市」)、今年も私には楽しい棚が並んでいました。冬支度の私には長期滞在を許さないほどのBALの暖房が誤算で、もうちょっと服装に注意すべきだったと反省しました。 

 展示しなければならない本や物の量との関係でスペースの確保が難しいかもしれませんが、交流スペース的なもの、特に足膝に問題をかかえる高齢者たちがちょっと座って読めるようなイス付きの空間があってもよかったのかもしれません。といっても、土曜日の午後はほんとにたくさんの人で、広い会場でもスペースなどは取れそうにもありませんでしたが。

 ともあれ、大変な労力をかけて、古本市を開催してくれた二人の店主にお礼をいいたいと思います。

  BAL6階、『冬の古本市』の会場入り口から撮影しました

  ガラス越しに雑貨などが置いてあるスペースを撮影しました

 

 買いたくなってしまう本や写真集、そしてCDも多くて困りましたが、孫たちの絵本とともに、何冊か買うことができました。

 そのうち書名が既知であったのは、当ブログで続編にもとづき紹介したことのある月の輪書林の高橋徹さんの最初の本(『古本屋 月の輪書林』1998年3月刊/晶文社)だけです(「古本目録の世界ー『月の輪書林それから』ー」)。ですからそれ以外の本を選択するのはその時々の興味や好奇心の方向というタイミングとか、結局はカンのようなものなのでしょうが、下の写真の高橋さん以外の3人の著者についても別の本で読んだことがあって、その印象というか評価が影響していることは否めません。

 長谷川郁夫さんは今はなきあの小沢書店の創業者であり、私には書肆ユリイカ・伊達得夫の評伝『われ発見せり』の著者として記憶しています。長谷川櫂さんも俳人として著名な方ですが、当ブログで「ラーメン屋がラーメンを作るということの平安を思ふ大震災ののち」という短歌を取りあげたことがあります(「そして人生はつづく」)。

 池内紀さんの本は結構たくさん本棚にありますが、今回の『目玉の体操』(2014年11月刊/幻戯書房)という本は知りませんでした。池内さんは背中の小リュックにいつも「写ルンです」を入れているらしくそれで撮った写真と文章を「絵になる風景」として雑誌に連載していたものがまとめられた本です。『目玉の体操』という魅力的な書名にひかれて買ってしまいました。

  今回入手した本のうち4冊です

 

 この古本市の会場であるBALの6階ホールが来年は使えなくなるというふうに聞いています。古本屋をはじめて10年ぐらいの若手店主二人によって、意欲的でちょっと挑戦的なイベント風古本市が昨年初めて開かれ、今年は2回目ということになります。私にとっては年の瀬の大切なイベントだと思っていますので、今年で終わりになってしまうとなると、とても残念ですね。BALに匹敵するような会場といってもなかなか難しそうで心配です。

 時間の余裕があって店舗に足を運べる私たち世代ならまだいいのですが、ここでの『冬の古本市』の場がなくなることによって、古本の新たな読み手の誕生につながっていくような機会が失われれること、それが一番心残りです。

 路面店である口笛文庫には、近くでくらす若い母と子が本をもとめてよく顔を出していますし、わかりにくいビルの2階のトンカ書店には女性を中心に遠くからも足を運んでくる人がおられるように見受けています。それぞれ何かが生まれるような「場」の予感があるのです。

 イベントが義務的になってしまうことはよろしくないことではありますが、二人にがんばる気持ちがあるのなら、続けてもらえたらと願っています。大変そうなのでどうかなと懸念しつつ、今後の展開を希望してしまいます。

 所詮、限られた好きな人のための古本屋(それも大切ではありますが)という定型化された枠を越える可能性のある<口笛文庫>と<トンカ書店>のこれからに期待しています。

  金曜日午後に撮影しました。 土曜日はこのアングルに10人以上が入る盛況ぶりでした

 

 

 

 

 

 

2016.12.15 Thursday

遠ざかる記憶の風景ー庄野潤三『夕べの雲』をめぐってー

 遠ざかる<記憶>を包んでいるベールに、あるきっかけで小さな裂け目ができることがあります。

 最近、そんな経験をしました。新聞記事に導かれて40数年前の記憶の風景がちょっと顔を出したのです。

 勿体をつけるようなことではありませんが、毎日新聞の「名作の現場」第21回(2016.12.3朝刊)が庄野潤三の『夕べの雲』であり、これがきっかけとなって、大学生の時、友人が東京で開いていた中学生を対象とする学習塾の臨時講師として真夏の一週間を過ごしたという記憶と出会うことになりました。科目も内容もお任せというのが友人の方針だったため、自分で選んだのが国語でテキストを『夕べの雲』としたのです。

 また、その時テキストとして使った講談社文庫版『夕べの雲』の小沼丹さんによる解説文の最後に記された<なお書き>にも驚くことになりました。当ブログでよく引用させていただいている須賀敦子さんがイタリア在住時にこの出版直後の『夕べの雲』(単行本1965(昭40)年月3月刊)をイタリア語に翻訳していたということです(1966年12月伊訳本刊行)。この事実も読んだことがあったかもしれませんが、こんなきっかけがあってぼんやりとした像が焦点を結ぶことになりました。

 今回のブログでは『夕べの雲』という小説そのものを、まして庄野潤三の文学を論じるというより、この本をめぐっての「記憶のかけら」としか呼びようもないものを書いてみることにしました。

 

◈多摩丘陵の一軒家へー1961(昭36)年ー

 まず、きっかけ、触媒のはたらきをした新聞記事のことです。

 庄野潤三(1921-2009)さんの『夕べの雲』は1965(昭45)年に単行本となっていますが、元は日本経済新聞に1964(昭44)年9月から翌年1月にかけて連載された<新聞小説>だったのです。庄野さんの新聞小説としては同じ新聞に1955(昭30)年に連載された『ザボンの花』に続く2作目でした。

 庄野さんは小田急線の生田駅から20分強急な坂を上った多摩丘陵の丘の頂上(90mぐらい、京都の吉田山と同じ高さ)に一軒家を建て、1961(昭36)年に練馬から引っ越すのですが、この家とこれを取りまく自然が小説の舞台となりました。『夕べの雲』はその多摩丘陵の家で暮らす庄野一家ならぬ大浦一家の日常が大切なものを扱うようにえがかれており、何か事件が起こるわけでもなく説明しやすい特別な筋のようなものはありません。

 今回、引っ越し直後からの周辺の開発によって、すっかりニュータウンとして変貌した名作の現場である多摩丘陵へ、案内人として庄野家を訪れたのは作家の島田雅彦さんです。この家に引っ越したのと同じ1961年に生まれた島田さんは「大浦、細君、晴子、安雄、正次郎の五人家族は多摩丘陵の自然を満喫しながら、この地にふさわしい生活を獲得していくのだが、現在の平均的住環境と較べれば、「大草原の小さな家」のような開拓生活といっても過言ではなかった」、そして東京オリンピックの年に新聞連載された『夕べの雲』は「多摩丘陵の自然を謳歌しつつも、開発によって失われるものへの挽歌となっている」と記しています。

 島田さんは、元のままの庄野潤三の書斎で、3人のモデル、91歳の「細君」、69歳の「晴子」、65歳の「安雄」に出会って、当時の暮らしをいきいきと語る3人の話を聞きながら、半世紀の時を経た都市近郊のニュータウンの廃墟化、山林化にも思いを馳せています。

 

◈江東区南砂での一週間ー1971(昭46)年ー

 こんな新聞記事を読んでいたら、冒頭に記した遠ざかっていた記憶の風景、真夏の東京、江東区南砂という土地、半住半工とでもいえばよいのか、40数年前の下町の風景がぼんやりと浮かんできました。

 夕立ちのあまり期待できない路はほこりをまきあげ、近くの川や水路はすえたような匂いをはなっていました。クーラーのない木造アパートの一角が教室となっていました。1969年に開業したばかりの地下鉄東西線の南砂町駅からごみごみした商店街を通り抜けた先にあったように記憶しています。

 予備校の寮の四人部屋で同室だった友人N君は事業の才覚もあったのか、入学したW大の名称を冠した学習塾を始めていました。静岡生まれのN君がなぜこの地で学習塾を開こうとしたのか覚えていませんが、夏休みに何の予定もなく過ごしているという京都の私を慮ってか、東京へ招いてくれたのでしょう。それが何年のことかがはっきりしないのですが、テキストとした文庫本が発行されたばかりであった1971(昭46)年、3回生の真夏のことではなかったか、その可能性が最も強いのです。

 学習塾には10数人ばかりの中学生が通ってきていました。その顔かたち、服装などもはやベールの奥にも残っていないというべきですが、まだまだ団地もマンションも少なかった時代でしたので、ほとんどが地元で育った子どもたちでした。大学への進学率が急上昇した時期でしたし、学習塾という場が広く求められるようになった時期と重なっているのかもしれません。

 

 どうして数学や英語ではなく、国語、それも『夕べの雲』をテキストに選んだのか。『夕べの雲』をどのように使って何を教えよう、伝えようとしたのか、謎というしかありません。

 国語については、工学部に籍を置きながら勉強に身が入らずに、小説を中心に人文関係の本ばかりを読んでいた頃でしたので、自分が教えるとしたら国語にしたいと思ったのでしょう。私以外の講師であるN君とその友人は法学部でしたので、3教科を分担するとしたら、私は数学だったのでしょうが、まことに勝手なことに国語を選ばせてもらったのです。

 現時点からの想像が入ってしまいますが、『夕べの雲』を選んだのは、「大浦」一家という家族が登場するほぼ同時代の物語であり、その一人「安雄」が中学生の設定だったからということが大きかったかもしれません。今風にいうと、<ちょっといい話>の断片がぎっしりとオムニバスに並べられており、性的なことなど心配になるような描写もなく、文章は平明で、中学生があまり苦労しないでも読むことができることなど、テキストとしてぴったりと思ったのではないでしょうか。今から思うと、「公害」という言葉がよく使われていた頃であり、当時の南砂は大気と水質の汚染された地域でしたので、小説の舞台である多摩丘陵の自然環境からほど遠い世界でしたが、そんなことまで考えが及ばなかったにちがいありません。

 当時の準備メモもノートもなく、テキストとなったであろう定価200円の講談社文庫版(1971(昭46)年7月1日発行)が手元に残っているだけです。学習塾で教えることが決まり、テキストを探している状況で、出版されたばかりの文庫で読んだ『夕べの雲』をテキストに選んだというのが事の真相だったのでしょう。200円の文庫本は学習塾の教材として買ってもらえる値段の範囲内でもあったのでしょう。

 

 それでは『夕べの雲』をどのように使って教えたのか、そして教えたかったこと、伝えたかったことは、と考えてみても、ベールの裂け目からは何もみえてきません。

 『夕べの雲』という読みやすくうつくしい日本語で書かれた小説を、あまり読むことがないだろうから、いっしょに読んでみようということだけだったかとも思います。いわば理想の家族というものが想定できたとして、それに近い印象のある大浦一家の『夕べの雲』はありそうでもありなさそうでもある<おとぎ話>として理解していた面があったかと思います。でも、われわれも少しじっと思い返してみると、現実の自分たち家族にもテキストのエピソードに近似したことが発見できることを、中学生たちにも伝えようとしていたのかもしれないと想像してみますが、それはさすがに今思いついたことにすぎません。

 

 私の手持ちテキストになった『夕べの雲』の目次を開けてみると、全13章のうち5章に鉛筆で○を付けた跡がありますので、1週間でこの5章をみんなで読んでみようとしたのでしょう。

 今回、改めて読んでみた印象は、高度成長期の都市近郊に住む家族が毎日毎日を大切にして精一杯暮らしている様子がえがかれていることに変わりがないのですが、その底には庄野潤三の人生観、この今大切にしている生の空間、時間の裏側に<危うさ>がピタリと貼りついているような、いつかこわれてなくなるものだという無常観というか、諦観というべきか、そんな人生観があることがよくわかります。だからこそ、戦争を経験し冷徹に人の世と生をみる眼をもった庄野さんだからこそ、その大切にしたい日常の断片の集積からなる大浦一家の物語には、悪や負の事件を意識的に排除したものとなったのでしょう。

 5章のうちに「コヨーテの歌」があります。「進めラビット」という5分間のテレビアニメ番組、ラビットとタイガーが連れ立って世界を旅し、行く先々で悪漢の一味のために危うい目に出会う話です。子どたちといっしょにみている中年の大浦が最後の場面で「もう助からない」と思ってしまうことについて次のように書かれています。

 「 中年に達した大浦のような男が、ラビットとタイガーの運命に一喜一憂

  するのは、漫画の世界の出来事でありながら彼等がいつも旅しているとい

  う一点で、どこかわれわれの送っている尋常な人生に似たところがあるか

  らだった。

   ……少なくとも恐ろしさの内容では変わりがないかも知れないものが自

  分の人生にも起り得ることを感じているからであった。」

 また「コヨーテの歌」の別の箇所では、安雄と正次郎が遊んでいて日の暮れかかる頃に杉林の谷間から二人の声が聞こえてくるという場面では、大浦が感じているおののきのような感覚を、庄野さんは次のとおり表現しています。

 「「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが

  帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろ

  うか」

   すると、彼の目の前で暗くなりかけてゆく谷間がいったい現実のものな

  のか、もうこの世には無いものを思い出そうとした時に彼の心に浮ぶ幻の

  景色なのか、分からなくなるのだった。 

   そこにひびいている子供の声も、幻の景色なのか、分からなくなるの

  だった。」

 正の感情にあふれているように感じられる『夕べの雲』には、この年齢になって読むと、失われていくものとしての愛の対象である家族の空間、時間を、いつくしむように文章に刻んでおきたいという庄野潤三さんの強い意志がはたらいていたのだと、そしてその強い意志の背後にある<おののき>に近いような不安の存在についても、少しは分かった気持ちになりました。

 

 ともあれ、江東区南砂、あの涼しさのかけらもなく町工場の機械音が聞こえてくる中で、1971(昭46)年の夏休み中の中学生たちにははなはだ迷惑なことではありましたが、『夕べの雲』をいっしょに読むことを試みたのでした。いったいどんな顔で、どんな話をしたのやら、若き頃の恥多い一断面であったにちがいありませんが。

  いつの頃からでしょうか、N君と音信普通の状態になったままなのです。このことが記憶のベールがさらに分厚くなった理由(わけ)かもしれません。

  『夕べの雲』1971(昭46)年7月1日刊/講談社文庫 こんな表紙カバーはもうないみたいです

 

◈『夕べの雲』へと向かう10年ー1955(昭30)年〜1965(昭40)年ー

 ここで、脱線の脱線をしてみます。

 綾目広治さんという文学研究者(ノートルダム清心女子大教授)が「庄野潤三の家族小説ー1960年代を中心にー」という論文において「『夕べの雲』は、都市移住者の家族の物語であり、寄る辺のない都市移住者が拠り所とするのが家族であることを語っている小説」だと評しています。戦後、そして高度成長という社会変貌の中で「大きな観念や超越的なものにすがることが出来ず、共同体が崩壊した後に、人間が拠り所を見出すことのできるものがあるとすれば」、「それは家族である」と語っているのが庄野潤三の小説だと論じているのです。

 「家庭は、拠り所を失った現代人を支えてくれる、残された最後の砦なのである」と位置づけつつ、同時にその家庭が崩壊したとしたらどうだろうかと提起します。そしてその証左として庄野潤三さんの芥川賞受賞作『プールサイド小景』(1955(昭30)年刊)と代表作とされている『静物』(1960(昭35)年)を取りあげます。これらの小説では実際には家庭が崩壊したのではなく、前者が一歩手前であったり、後者が立ち直った地点から危機が暗示的に語られているだけなのですが、家庭の崩壊は実存的不安を露呈させるのであり、つまり最後の砦、寄る辺を失うことによって、宗教や共同体などに頼ることのできない「我々の生の、その孤独な有り様があからさまになるからである」というのです。

 特に村上春樹さんが『若い人のための短編小説案内』で「きわめて興味深く、またすぐれた作品です。文学史の中にきらりと残る作品」と評したことで多くの新しい読者を獲得したのが『静物』です。『夕べの雲』の5年前に書かれた『静物』には、今回改めて読んでみると、小説上の<細君の自殺未遂>をほのめかす文章が3箇所に現れます。川西政明さんの『新・日本文壇史』を読んでいない(その第十巻に<妻の自殺未遂>として事件は昭和23年に起こったと書かれているそうです)と、とても気づきにくい書き方であり、ただ夫婦の間にある亀裂の存在、そんな時期があって現在の家族がここにあるという暗示めいた書き方がなされているのです。

 

 家庭の崩壊の予兆を含み込んだ『プールサイド小景』から『静物』を経て、『夕べの雲』への10年間は、庄野潤三さんが構築しようとした家族空間に向って進んでいく期間であったのでしょう。『夕べの雲』以降、そんな危機の予兆などどこにも感じとることのできないような作品が次々に発表されていくことになりますが、『夕べの雲』には「表面上にはあらわれ出ないが危機を内在させているかもしれない家庭生活を、必死で守ろうとする者の祈りが伝わってきた」とも、綾目さんは書いています。

 そして「『静物』を読んできた読者にとっては、なおさら祈りが、穏やかに痛切に伝わってきた」と続けていますが、私も同じ感想をもちました。こうした崩壊の予兆を乗りこえた祈りの精神が『夕べの雲』を<おとぎ話>にとどめることなく、「失われるものとしての今の家族の空間と時間」の世界を高い緊張度をもって描き切った作品たらしめたのだという思いに至りました。

 

 もう一つだけ補助線を加えるとすれば、私の愛読書である『ガンビア滞在記』に関連することです。

 1957(昭32)年秋から1年間、ロックフェラー財団の奨学金で、庄野夫妻は留学先のケニオン大学のあるオハイオ州ガンビアという全人口600人という小さな町で暮らしました。夫婦同伴という条件があって3人のお子さんを夫人のお母さんに預ける決心をしているのです。庄野さんというより夫人の決心の方が大変だったにちがいありません。『ガンビア滞在記』はその1年間を記録報告したような小説ですが、庄野夫妻にとって、二人の関係にとって、家族にとって、この1年のもつ意味は大きかったのだと思います。

 逆に言えば、帰国して『ガンビア滞在記』をまとめた後で、『静物』が書かれた意味は大きいのではないかと思ったりします。もちろん実人生と小説はちがいますが、ガンビアの1年が「妻の自殺未遂」を暗示する内容の小説を書いて発表できるだけの「実人生の状況」をもたらすことにおいて大きな意味をもったのではないかと申し上げたいのです。もちろん7年後に書かれた『夕べの雲』を準備した1年であったといってよいのかもしれません。

 

 長谷川一さんという文学研究者(明治学院大学教授)が後期の『けい子ちゃんのゆかた』の書評において庄野作品の「日常」というものについて次のように書いていますが、ちょっと強すぎる表現だけれど実人生の危機を乗りこえ到達した庄野文学の基底というべきものだと、その最初の到達点が『夕べの雲』であったのだと、私は理解しました。

 「 庄野作品の「日常」とは、理念にもとづいて世界を再構築するという庄

  野の意志をどこまでも押しとおしていく様相なのである。そのありよう

  は、呵責なきまでに徹底されており、そのため表面上の温和な相貌に相反

  して、どこか尋常ならざる迫力ー異様さ、といいかえてもよいーを強く印

  象づける。」

  『プールサイド小景・静物』1965(昭40)年2月28日刊/新潮文庫 

  『ガンビア滞在記』2005.10刊/みすず書房≪大人の本棚≫ 単行本は1959(昭34)年刊

 

◈須賀敦子と『夕べの雲』、そして庄野潤三

 まだ作家ではなかった須賀敦子さんがイタリア在住時の1966年に『夕べの雲』をイタリア語に翻訳していたことを、すぐに受けとめきれませんでした。二人とも好きな作家としてわりと読んできた者としては、二人がそんなに近くにいたことは喜ばしいことでありますが、二人のテーマ、文章から受けとっている印象からは、えっそうなの、とちょっと不思議な気持ちになったのです。

 

 須賀敦子(1929-1998)さんは、都合約13年という月日をイタリアで過ごしました。イタリア人の夫ジュゼッペ・リッカとともに、コルシア書店に拠をおきつつ、1960年代半ば頃、最初は二人で、すぐに一人で日本の近現代文学をイタリア語に翻訳する作業に没頭していたとのことです。谷崎潤一郎、井上靖、川端康成、夏目漱石、森鴎外、中島敦などとともに、庄野潤三の『夕べの雲』もその一つでした。はっきりしませんが、日本で出版された直後に翻訳してイタリアで出版された作品は『夕べの雲』ひとつだった可能性もあります。

 翌1967年6月に夫が急逝するという不幸がなかったら、この翻訳の仕事はもっと続いたかもしれませんが、1971年の帰国によって永遠に中断されることになりました。この翻訳作業は、還暦で作家デビューすることとなる須賀さんを準備する重要な過程の一つであったことは確実でしょう。

 

 脇道にそれましたが、なぜ『夕べの雲』だったのかという問いに須賀さん自身が答えています。伊訳を出すこととなる出版社に勤める友人からクリスマス向けに適当な小説はあるかとの話があって、次のような強い思いから『夕べの雲』を押したと書き残されています(1968.2.24/日本経済新聞「゛日本のかおり゛を訳す」)。

 「 この小説(『夕べの雲』)は読んで以来ずっと私の頭を離れなかった。読

  んだ時すぐにこの本をイタリア語に訳せたら、と思った。この中には、日

  本の、ほんとうの一断面がある。それは写真にも、映画にも表せない、日

  本のかおりのようなものであった。ほんとうであるゆえに、日本だけでな

  く、世界中、どこでも理解される普遍性をもっている、と思った。」

 続けて、でも編集者に説明しようとすると、次のとおり説明の途中で自信を失ってしまうとも記されています。

 「 語ってきかすべき筋立てというものがないのである。「丘の上に、もの

  を書いてくらしをたてている父親と、その妻と、三人の子供が住んでい

  て、秋から冬まで、いろいろな花が咲いたり、子供が梨を食べたり学校に

  おくれそうになったりする話です」では、どうにも格好がつかない。」

 そうでしょうねと微笑みたくなりますが、それでもフェロ社という出版社の編集長が気に入って、1966年の夏の間ずうっと翻訳に取り組み、同年12月に出版されたとのことです。

 

 松山嚴さんは庄野潤三の死後、庄野家を訪れて夫人から話を聞いていますが(『須賀敦子の方へ』)、それによると、須賀さんは3度庄野家を訪ねており(最初の訪問は1967年秋頃、夫を亡くした直後)、2度目の時に、ブナの木を持ってきて植えたそうです。その木は、「リッカさんの木」として大切に育てられ、松山さんのインタビュー時(2011年)にも45年の時を経て健在でした。

 

 講談社文庫版『夕べの雲』の解説を担当した小沼丹さんは、イタリア版『夕べの雲』へララ・ロマーノという作家が寄せた序文の一部を紹介しています。

 「 彼女(ララ・ロマーノ)は「この作品の意義は、詩以外のなにものでもな

  く」その魅力は、ここに扱われた題材の選択と、それを展開してゆく語

  調の完璧な一致にある」と云って、次のように述べる。

  「この作品にあっては、いのち、人生のいとなみへの愛、日々の仕事への

  愛が、いかなる感傷主義(または道徳主義)のあとをもとどめず、心理主義

  も自然主義もこれを汚していない。それがしかも終始『自然な』作品にお

  いて為し遂げられているのである。奇蹟とでも云うべきなのか」。」

 <序文>ということもありますが、作品の意義を「詩以外のなにものでもない」と読まれたのですね。もとより私も『夕べの雲』に詩のにおいを感じてきましたが、須賀敦子さんが『夕べの雲』に心が動いた理由もそこにあったのでしょうか。庄野潤三の文学空間は、その家族の肖像は、遠くイタリアで生きる須賀敦子にとって、霧の向こうにある憧憬だったのかもしれません。

 

 私の場合、「わりと読んできた」といえるような作家は限られています。そのうち以前はよく読んでいたけれど今は読んでいない作家を除き、これまでもわりと読んできて今も読んでいる作家という括り方をすると、庄野潤三と須賀敦子の二人は自分の中ではその中にすっぽりと入る数少ない作家です。

 須賀敦子さんというおそるべき本の読み手が『夕べの雲』に寄せた強い思いに戸惑い、その真実というか、二人に通底する文学の質を説得的な言葉にすることができないもどかしさを感じています。

 今は言葉にできないまま、若い私が『夕べの雲』に何がしかの感動を覚え、これを学習塾のテキストとした事実を<遠ざかる記憶の風景>として大切にしておくことにしましょう。

 本から離れることのできなかった私を介して、これまで思ってきたより、庄野潤三と須賀敦子という二人の作家が近くにあったこと、そして、二人の文学が共通の基盤をもっていたにちがいないと気づくことができたこと、を喜びとしたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

2016.12.06 Tuesday

『捨身なひと』から《辻征夫》へ

 12月。まだ5時前だというのに池の向こうは沈む夕陽。ススキの表情はまだまだ晩秋。これまで訪れたことのない寺田池に時々足を運ぶようになってから一年が経ちました。

 昨日(3日)は孫が通う保育園のお遊戯会でした。舞台上で立ちつくしていたような昨年とはちがって、二歳になった今年はぎこちなくではありますが、手や足を動かして踊ろうとしています。この会もちょうど一年ぶりのこと、その変化、成長を目のあたりにすることができました。

  寺田池の夕景 2016.12.2撮影

 

 カバー絵のイノシシと書名にひかれて小沢信男さんの『捨身なひと』(2013年12月刊/晶文社)を手にとると、《辻征夫(ゆきお)》の名前があって驚きました。

 驚いたのは、久しぶりにというか、積読していた辻征夫をちょっと読んでみようかと、何日か前にちょうど本棚から取りだしたところだったからです。辻征夫さん(1939-2000年)は死後に選詩集が何冊も出版され、昨年は岩波文庫の一冊ともなった「現代抒情詩の第一人者」として評価の高い方です。

 当ブログでこれまで取り上げた茨木のり子、黒田三郎、長田弘そして谷川俊太郎などとちがって、一応ですが読みましたとまで言えない詩人ですが、なぜそれほど特別な詩人なのかなあと思って手に入れたままで、長く積読にしていたというわけです。

 ここでは簡単に、小沢信男さんや岩波文庫の編者である谷川俊太郎さんによる辻征夫像と、今回それこそまだぱらっとだけ読んだにすぎませんが、フムフムと感じた詩を引用紹介してみることにします。

 

 『捨身なひと』は、小沢信男さん(1927-)が、花田清輝ら四人の畏敬する先輩と、一回り年下の辻征夫という敬愛する後輩、併せて五人のことを書いた文章を集めたものです。この魅力的な書名は装幀の平野甲賀さんが「捨身のひと」よりだんぜん「捨身なひと」だということで決まったと記されています。

 

 辻征夫がどう「捨身の人」であったかについて、小沢さんは次のように書いています。

 「 辻征夫は捨身の人であった。

   彼が遺した十余冊の詩集を読んでいけば、おのずと感得されるのでしょ

  うが、一言よけいな説明をすれば、自身が詩人でしかありえない運命に捨

  身であった。人間がこの世に生きてあることのいわくいいがたい味わい

  を、言葉を織ってさながらに掴みとる。いのちがけの繊細な作業かもしれ

  なくて、紙と鉛筆のその冒険に、彼はいさぎよく勇敢でした。」

 二人の交友は辻さんの死までの15年間、詩の雑誌の投稿作品の選者として初めて出あい、小沢さんは「昼寝から覚めてきたようなボッとした」辻さんとなぜかウマがあい、「余白句会」と呼ぶ句会をつくり、辻さんの「真剣にあそぼうぜ」の呼びかけとともに、続いたとのことです。

 辻さんの俳号は<貨物船>、亡くなる三ヵ月前の句会で(「脊髄小脳変性症」という難病であった) 「最高点をかっさらってにこにこしていた」そうです。その句は《満月や大人になってもついてくる》で、小沢さんは「生来の詩人の生涯からこぼれおちる、これも一滴のようだった」と表現しています。

 辻さんと知り合った頃、小沢さんは現代詩文庫『辻征夫詩集』を立ち読みし、あの茫洋とした雰囲気の昼寝男が「おそるべき純度の詩人であることを悟った」のだということであり、その交友から「人の見ぬ聞かぬものを、いきなり聴きとり見てしまう男」である詩人辻征夫を知ったと記されています。

 

 この『捨身なひと』は小沢さんにとって「ひよわな文学青年が、いきなり文学老年になってしまうまでの、わが生涯の決算の書でもあるような」もので、たんなる回顧の枠をはみ出し、「いまはむかし、かくもチャーミングなひとびとがおりました」というとても魅力的な本です。

 この本と出会い、私も辻征夫さんの詩をすぐに読んでみたくなったのです。

 『捨身なひと』小沢信男著(2013年12月刊/晶文社)

 

 谷川俊太郎さんは編者として『辻征夫詩集』(谷川俊太郎編/2015年2月刊/岩波文庫)に「辻さんの言葉を頼りに」という小文を書いています。

 谷川さんが辻征夫さんとその詩にかくも共感と信頼を寄せていたことが、私にはちょっと驚きでもありました。辻征夫が谷川さんとちがつて音楽を必要としなかったのは言葉が音楽と同じ源から湧いてくるからであり、「言葉の音韻よりもっと深く、詩と音楽が一つとなるところ、その場所を名指すにはもう<魂>という言葉しかないでしょう。辻さんは、山高帽から兎を跳び出させるかわりに、魂から言葉を取り出す魔術師でした」というのです。そして「辻征夫という詩人に対する私の人間的な信頼は、彼がいなくなってしまった今も深まるばかりです」と、手放しと感じられる谷川さんの称揚ぶりにはびっくりさせられます。

 まあ、谷川さんの辻征夫礼賛は、現代詩の冒険者としての同志的な共感であり、谷川さんが必要としなかった給料生活者(学校の先生とかではなく都営住宅サービス公社のサラリーマン)としても辻さんが生きてきたこと、<労働>と<詩>の相克を生きてきたことに対する敬意でもあったのでしょう。

 

 1996年の谷川さんとの対談で、前々年に網膜剥離の大手術を受け大切な右目をそこなった辻さん(当時55歳)は谷川さんから老後のこと(具体的なプラン)を聞かれて次のように語っています。

 「 ないですよ。それに現在の日常が少し辛い所にあるものだから。いや、

  家庭問題とか言うんじゃないですよ(笑)。生活を維持していく面でちょっ

  と辛いんだけども、やめるわけにもいかないし、まだ子供も全然独立して

  いないし、困っちゃってるんですよ。どこまで持つか、っていう感じだな

  あ。」

 「 仕事は住宅の関係で、他の仕事のあいまに苦情処理とか、難しい問題が

  全部ぼくのところにくるんです。要するに、足音がうるさいという上下の

  トラブルとか、一人暮らしの人で、新聞がたまっていて一週間も姿が見え

  ないとか……親族を探しても見つからないと、おまわりさんに立ち会っ

  もらって、ドアを壊して開けてみることもある。そうするとたいてい亡

  なっています。」

 辻さんは都営住宅の管理の仕事をされていたのです。こうした日々に「唇には歌でもいいが/こころには そうだな/爆弾の一個ぐらいはもっていたいな」と詩に記す辻さんですが、谷川さんは「爆弾を抱えて生きることが詩の原動力にもなっていた」とし、「辻さんは、実生活とバランスを取りながら、その<高貴な現実>を繊細で優雅な詩に変換していきました」と評しています。

 

 「詩で大事なことの一つは厳密さということなんだね」と詩に残した辻さんの詩について、谷川さんは次のようにも書いています。

 「 辻さんは近所の人に話しかけるような口調で詩を書きます。実生活でも

  そうであるように、詩でもいい加減なことは言いません。いい加減な言葉

  は使いません。荒唐無稽な幻想を書くときも正確に、誠実に自分の身の丈

  に合った言葉で書きます。妙な言い方ですが、詩の骨格が散文なんです。

   いわゆる詩的な表現を、辻さんは生理的に受け付けなかったと思いま

  す。(以下略)」

 小沢さんと谷川さんが辻さんと辻さんの詩について書いていること、例えば<おそるべき純度の詩人>とか<魂から言葉を取り出す魔術師>とか、そんなことを私がどれだけ感じとれたかと問われたら、はなはだあやしい限りです。今はそんなことに拘泥することなく、とにかく<厳密>の反対の<曖昧>なままで辻征夫の詩の引用まで進むことにしましょう。 

  『辻征夫詩集』谷川俊太郎編(2015年2月刊/岩波文庫)

 

 谷川さんが辻さんの「詩の骨格は散文だ」としているからだけではありませんが、ここに書き写しておきたいのは「珍品堂主人、読了セリ」と「玉虫」という二つの散文詩です。ふつうの行分け詩「かぜのひきかた」など代表作といわれている詩はもっと多くありますが、この二篇は私に届いたインパクトが大きかったこともあって選びました。

 

 でもその前に岩波文庫版では選詩されていませんが、「屑屋の瞑想録/●小型トラックの助手席の男の放心」を引用しておきます。私には谷川さんのいう「<労働>と<詩>の相克」が端的に感じられるからです。40代のサラリーマンの孤独ということを、これが自分なのか、ともすれば非人間性に傾いていく自分を途方にくれて見ているような詩として、かつてサラリーマンであった私にはグサッとくるものがありました。

 

    屑屋の瞑想録

     ●小型トラックの助手席の男の放心

 

 都営高島平アパートの前の路上の

 小型トラックの助手席でおれは

 土木技師Nが現場から戻るのを待っていた

 おれは運転ができないからいつまでだって

 待っていなければならない

 黄色い小さな蝙蝠傘をさした男の子がひとり

 ひどくきまじめな顔で通り過ぎ

 そのあとから赤ん坊を抱いた女が歩いて行った

 そういえば おれはいつの頃からか

 人間を尊敬していないのではないか

 家族だけはひとなみに守り 数少ない

 友だちと談笑はするが人間は

 尊敬していないのではないか

 

 黄色い小さな蝙蝠傘をさした男の子と

 赤ん坊と若い主婦は遠ざかり

 都営高島平アパートの前の路上も日暮れてきたが

 土木技師Nはいまだ帰らず

 おれは枯葉と紙屑を数えはじめた

 あの紙屑のひとつひとつには

 実はおれの青春の詩が書いてあるのだが

 それはあの男の子と赤ん坊と若い母親に

 語りかけるはずの言葉だったのだが

 いまは雨に打たれて

 ただ濡れているのである

 

  『辻征夫詩集成』1996年4月刊/書肆山田 前記の詩はこの本から引用

 

 さて、「珍品堂主人、読了セリ」と「玉虫」です。わりと長いですが、書き写すことによって、ちょっと辻征夫に近づけるかもしれないと願うからでもあります。

 前者は、辻さんの父が亡くなった1982年からしばらくして書かれた詩で、1987年刊行の詩集『天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想』に入っています。谷川さんから、現代詩へ取り入れる韻文について「辻さんのぐらいの下手度で「珍品堂主人、読了セリ」ぐらいだと安心できるけど(笑)」といわれており、辻さんは「短歌ふうのものがふわっと口をついてでてきちゃった」と説明しています。

 後者は、広島の郊外で原爆を体験した父が母子の疎開先である長野に帰ってきたことがテーマとなっており、1998年に刊行された最後の詩集『萌えいづる若葉に対峙して』に入っています。小沢さんは「人の見ぬ聞かぬものを、いきなり聴きとり見てしまう」という辻さんの特質をその付き合いからも強調していますが、五歳の辻さんが父母の再会などそっちのけで<玉虫>を息を凝らして見てしまうシーンが切りとられています。

 

    珍品堂主人、読了セリ

 

 死去のこと

 知らすべきひとの名簿つくり

 我に託して死にし父かな

 (昭和五十七年七月七日、向島ヨリ父ト二人、車ニテ都立駒込病院ニ向フ。

 入院ノコト決定セシハ六月末日なり。同日、電話ニテ父ニ呼バレ、後事ヲ

 託サル。大方ハ諸手続キノ説明ナリ。万一ノトキノタメノ名簿、入院マデ

 ニ作成ストイフ。タダ聞キ、頷クノミ。車、浅草ノ裏町ヲ通リタレバ、自

 ヅト懐旧譚出ル。父ノ少年時ヲ過シシ町ナリ。入谷ヲ過ギルアタリデ、名

 簿、受ケトル。折シモ朝顔市ナリ。)

 

 珍品堂主人読みたし

 おまへちょっと探してくれと

 死の前日にいひし父かな

 (井伏鱒二ハ、父ノ大学ノ先輩ナリ。面識ナシ。因ミニ久保田万太郎ハ小

 学校ノ先輩ナリ。面識サラニナシ。昭和五十七年九月二十五日、亀戸駅ビ

 ル新栄堂ニテ同書購入、父ニ渡ス。同夜、夕食ノタメ階下へ行クトイフヲ

 説得シテ病室ニトドメ、食事運バセテ父ト晩餐ヲ共ニス。幼児二人アレバ、

 母、妻ハ階下ナリ。父、「黒い雨」ノコトナド少シ話ス。昭和二十年八月

 七日、近郊ノ山中ヨリ出デ、一兵士トシテ広島市内ヲ歩キシコトアリ。コ

 ノコト、三十有余年殆ド語ラズ。翌九月二十六日午後八時三十分、二度メ

 ノ心筋梗塞発作ニテ死ス。享年七十二。肺癌手術後六十日メナリ。)

 

 そのかみの浅草の子今日逝きぬ襯衣替へをれば胸あたたかし

 (葬儀ヲ行ハントスルモ宗派ヲ知ラズ、寺トノツキアヒモナシ。タシカ✕

 ✕宗トノ家ノモノノ朧ナ記憶ヲタヨリニ、葬儀社ニマカス。花輪ハ謝辞ス。

 枕頭ノ珍品堂主人一巻、棺ノ中ニトイフ思ヒ浮カベドイレズ、後日読了セ

 リ。)

 

 傘さして位牌一本買ひに行く仏壇仏具稲荷町かなし

 (右ノ一首、四十九日ヲ旬日後二控ヘテ詠ミタリ。)

 

 では、次に「玉虫」の方を続けて引用します。

 

    玉 虫

 

  二階の座敷に日があたっていて、祖母が窓辺の椅子にかけて微笑んでい

 る。窓の外は物干台だろうか。朝顔の鉢が二つ見え花も幾つか咲いている

 が、昭和十四年の朝顔はどれもみなセピア色だ。祖母の隣に半袖のワンピ

 ースの母もいて、彼女が抱いているへんなものがどうやら生まれたばかり

 の私らしい。戦争は始まっているが誰もが勝つと信じていて、二階の座敷

 で笑っている。

 

  遠く日本アルプスの尾根が見える善光寺の裏のゆるい坂道を、日傘をさ

 した母が下って行く。昨日も一昨日も十日前も、この坂を下って長野駅へ

 行った。《広島までの切符をください。大人一枚…》私が顔を覚えていな

 い父が広島にいて、広島には原子爆弾が落とされた。可哀想に、ノブコさ

 んは五歳の子供を抱えて未亡人になってしまったーー。誰もがそう言った

 けれど、わがままで頑固なノブコさんは納得しない。《とにかく広島に行

 って探してきます》

 

  まなじりを決して、まっすぐ前方を見て、駒下駄に日傘で坂道を下るノ

 ブコさんの遥か遠く、善光寺の裏門の方から、小さな荷物を肩にかけた男

 が、あたりの景色を眺めながらのんびり登って来る。兵隊の帽子を被って

 いるけれど、復員兵ではないらしい。復員兵がいまどきあんな格好で、ぶ

 らぶら歩いて来るものか。

 

  やがて両者が接近し、相手の顔がはっきり見えたとき、ノブコさんは何

 か叫んだ。すぐ後ろで私も叫んだ。それから、彼女は男に駆け寄って、男

 の胸で泣いたそうだ。昼下がりの坂道で、大声で泣いたそうだけれど、私

 はその声も聞かなかったし二人の姿も見なかった。母が叫んだ丁度そのと

 き、かたわらの木に、絵本で見たとおりの玉虫がいるのを発見して、私は

 動顛していたのである。

 

  玉虫は、私の手が僅かに届かない高さにとまっていた。眼の位置と風に

 羽のひかりを微妙に変える玉虫を、母を呼ぶことも出来ず、木の幹に両手

 を当てて私は息を凝らして見ていた。その日は夜になっても(と母は後々

 まで言っていた)私は玉虫のことばかりをとめどなく喋り続け、父は、自

 分がやはり原爆で透明になって帰って来たのではないかと思ったそうだ。

 そうではなかったのだろうか。

 

 いずれの作品もある種の家族の物語といってもよいものです。父の戦争からの帰還(昭20)と父の死(昭57)。二つの詩を読むと、辻さんの父は昭和20年8月6日の原爆が投下された日は郊外の山中にいて、翌日は兵隊として市内に出てきて歩いたことが分かります。そして<黒い雨>の記憶は外部には封印されたまま、死の前日になって息子である辻さんにポツリと話されたということになります。家族のことですから当たり前といえば当たり前ですが、20数年の時と空間を経て、二つの詩が呼応しているように感じられたので、並べて書き写すことにしました。

 私にとってインパクトが大きかったのは、詩としての鮮やかさというだけではなく、ちょうど10歳年上の辻さんが72歳の父を失くした関係とほぼ同じことが、辻父子と同年齢だった時に私と私の父の間にも生じたのだと気づいたからです。そして、私の父も戦争について語らなかったという多くの父親と同じ父ではありましたが、時にもらした南の島の戦争についての言葉をぼんやりとしか記憶していない自分を改めて意識したからでもあります。おぼろげな記憶からは、総攻撃にさらされなかった南の島では、戦争とは戦闘などというより、飢えや病による心身の衰弱との戦いだったとの主旨の話が浮かんできたのです。

 

 今回、小沢信男さんの『捨身なひと』に導かれて、辻征夫さんの詩を少しですが読む機会が得られたことを喜びとしたいと思います。

 詩を詩として批評することなどもとより諦めているようなものですが、私にとって詩とは何か、なぜ詩が必要なのかという問いを意識したりもしました。私にとって詩とは凝縮された言葉によって立ち上ってくる<他者が生きているさま、他者の人生>と出会い向き合うことであり、このことを通じて<自分が生きているさま、自分の人生>と向き合い発見することではないのかと思い至りました。

 私はさまざまな方法によって書かれた言葉を読むことなしにあるいは語られた言葉を聞くことなしに日々を暮らしていけないなあと感じていますが、そんな言葉の渦に巻きこまれ時に方向感覚を失くしてしまう私にとって、詩とは大切な事の本質とか真実とかを教えてくれるものだ、だから詩は必要なんだと考えてきたのかなと、今は偏りをおそれず答えておくことにしましょう。

 

2016.12.02 Friday

「トランプ」が当選した世界とある映画のこと

 分からないなあと思っているテーマを分からないままで書こうとすることがあります。今回もそうです。

 分からないままで書くことによって、何か少しわかった気になったり、何かヒントを得たような気になったり、そんなことを繰りかえしているのかもしれません。

 

 今回は現代の超大国であるアメリカにおいてトランプ大統領が誕生するという世界をどう理解したらいいのかというのがテーマといえばテーマです。

 そんなことを私が自頭で考えることなどできませんので、最近、ウーンと反応した新聞記事などを紹介することで接近を試みることにします。

 

 まず、選挙前の9月中旬にトランプ支持者、トランピストを取材した中山俊宏慶応大学教授の報告からです(東京財団「トランピストたちの実相」2016.10.11)。

 なかなかトランプ支持者の姿は見えてこないが(「隠れトランプ派」)、中山教授は、トランプは「原因」ではなく、「症状」であり、アメリカの現状に対する負の衝動、居場所を失った人々(トランプ支持者)にとってトランプこそが「ラスト・ベスト・チャンス」なのだと理解しようとしています。

 「トランプ現象はドナルド・トランプの特異なキャラクター抜きに考えられないが、トランプという人は完全な空洞であり、そこにはイデオロギー的な信念も思想も何もない」のであり、「ただただ人々の不満や怒りを無目的に吸い込むブラックホールのような存在だ」といいます。

 したがって、「トランプ現象は、格差の問題も内包しつつも、それは経済の次元で起きている現象ではなく、人々の意識の間で起きている現象、いわばアイデンティティの喪失が生み出した社会的病理である」と分析しています。

 なんとなく納得させられますが、顔の見えにくい支持者に押し上げられるように、ブラックホールたるトランプは大統領選挙に当選しました。

 

 次に、「極論が面白がられ、次々に拡散され消費されていく」ネット社会は冷静な議論を不可能にさせる傾向が強く、政治家にも<キャラ立ち>が求められており、今回の米国大統領選はそんな『キャラ立ち選挙』だったというのが岡田斗司夫さんです(『毎日新聞』2016.11.29「トランプという嵐/選挙も「キャラ立ち」勝負」)。

 選挙においても「「アンチ」も含め、感情に訴え、話題を集めた方が勝ち」の社会変化を従前から指摘してきた岡田さんは、トランプのことを「『暴言王』になることで、ポリティカル・コレクトネス(差別や偏見を避けた表現)に疲れた時代に『本音でモノを言える男』というキャラ作りにも成功した」と分析しています。

 この記事を担当記者は「ネット社会がキャラ立ち選挙を後押ししているなら、その流れは止まらないだろう。日本では、どんなキャラの政治家が求められていくのか。その陰でさらに分断は深まるだろうか」と結んでいます。

 岡田さんの見立てにも一定の説得力を感じたりしますが、いかがでしょうか。中間組織の解体と個人化が進行する社会にあって、ネットを媒介役として人びとの意識というか、心性というようなものが大きな揺れを伴いながらもある傾向として形を現わしていく現象のこと、そこは「分かりやすい」ことがキーワードになりがちだということにも注目しておかなければならないなあと、古い私としては改めて感じました。

 

 では、長期的な視点という面からの記事もみておくことにします。

 まず、米社会学者、イマニュエル・ウォーラ―ステインさんへのインタビュー記事です(『朝日新聞』2016.11.11「トランプ大統領と世界」)。 

 ウォーラ―ステインは、現代の近代世界システム(15世紀半ばから17世紀半ばまでの構造的危機の時代を経て作り出された資本主義経済からなる現行システム)は500年後の今日また、構造的な危機を迎えており、もはや「現行システムを今後も長期にわたって続けることはできず、全く新しいシステムに向かう分岐点に私たちはいる」と考えています。しかし、その来るべき新しいシステムがどんなものになるのか、過去もそうであったように、知るすべをもっていない(予言などできない)との立場です。

 こうした構造的危機の時には予想外の動きが起こりやすく米国はその混乱を止める手立てをほとんどもっておらず、そんな「新しいシステムに向かう分岐点」の時代にあって、米国民はトランプ大統領を選んだのだというのです。状況的には「多くの人が職業を失い、経済的に苦しんでいるという事情」を背景に「黒人や女性、ヒスパニックら、新たに力をつけている人たちから『国を取り戻す』という意識にアピールした」のは事実であったと説明しています。

 アメリカと同様に、「苦しい状況を生み出した『仮想敵』を攻撃することで『国を再び良くする』と約束する政治集団は各国にたくさん存在し、今後も増えることでしょう」と、トランプ現象の拡大についても言及しています。

 

 グローバル化の影響を問われ、ウォーラ―ステインはグローバリゼーションそのものへの懐疑を口にします。すなわち近代世界システムからすると今のグローバリゼーションは近代世界システムが始まった500年前から続いてきたものであって、「流れによって利益を得る時は皆が開放的になるが、下向きになると保護主義的になるという循環が繰り返されてきた」のだとします。したがって、今、グローバリゼーションと呼んでいるものも、この上向きのサイクルのことを呼んでいるだけのことであり(グローバリゼーションと呼ぶに値しない)、先進国の現状からすると「すでにスローガンとしての価値はなくなりつつある」と発言しています。

 新しいシステムが生まれるまでは、古いシステムが機能し続け、「資本主義システムのルールの下で覇権を奪い合う競争を続ける」ことになるとし、現在、2150年の世界を予想することは不能ではあるが、一方でバタフライ効果という言葉があるといいます。「私たちはみんな、小さなチョウ」であり、つまり「誰もが未来を変える力を持つ」のだとし、「良い未来になるのか、悪い未来になるのかは五分五分だ」というのです。

 その意味ではトランプも一匹のチョウに過ぎないのであって、「大切なのは、決して諦めないことです。諦めてしまえば、負の未来が勝つでしょう。民主的で平等なシステムを願うならば、どんなに不透明な社会状況が続くとしても、あなたは絶えず、前向きに未来を求め続けなければなりません」という発言でインタビューは結ばれています。

 

 こうしたウォーラ―ステインの発言、近代世界システム論は別としても、少なくとも現代のキー用語であるグローバリゼーションへの見方、長期的には近代世界システム内の変動にすぎないとでもいうのでしょうか、この考え方は、私には説得的なのものです。したがって、トランプ大統領の出現に動揺して未来を黒く塗りつぶしてニヒリスチックになってしまうのではなく、<良い未来>を求め続けなければならないということにも賛同します。

 がしかしというか、今の私が近い将来に起こりうることを想像するなら、痛く暗いことばかりが増幅されてしまい、ウォーラ―ステインの考え方に「はいそうですか」で済ますこともできないと感じているのも事実なのです。

 

 もう一つ、日本の社会学者である大澤真幸さんの見方を紹介します(『毎日新聞』2016.11.21「トランプという嵐/資本主義の先、見据えよ」)。

 大澤さんの考え方は後ほど前記のウォーラ―ステインの見方とかけ離れていないことを付言しますが、トランプを支持した人びとの心理あるいは現象を大澤さん本人の造語である<アイロニカル(皮肉的)な没入>という社会学用語で説明していますので、そこから紹介します。

 「アイロニカルな没入」とは、たとえば<ナンチャッテという感覚>で宣伝しているテレビCMのシャワーを浴びて自分で自分を笑うようなノリを承知しているのに、それに踊らされてつい商品を買ってしまうようなこと、つまりは「冗談と本気の区別があいまいなまま、どっぷりとはまっていく現象」のことのようです。

 大澤さんはこの<アイロニカルな没入>を「『俺はトランプみたいに愚かではない』『差別発言をよく平気で言えるな』と口ではばかにしなから支持している」<隠れトランプ派>と呼ばれた人びとにも、同じような心理、病理をみているのです。「笑いや冗談の対象としている<大物>をいつのまにか信じ始める」という不思議な現象が、すなわち<アイロニカルな没入>が「世界で最も重要な国の重要な選挙で起きた」ことに大澤さんは驚いたというわけです。

 

 そして、「今回の結果で重要なのは『普通に考えたら……』という言い方が通用しなくなったこと」だと、大澤さんは強調しています。この背景には多くの人びとが「普通でないこと」を求めている現実があるのであり、明らかな変化を、劇的な変化を求めている、先進国が主導してきた新自由主義、グローバル資本主義を大前提とする社会という「現状からの変化を切実に求めている」と、大澤さんは考えるのです。

 トランプの勝因の一つは現状の経済システムに対する米国民のうんざり感であり、求める変化について明確なイメージをもてずにいる現状を踏まえると、「長い目で見れば『トランプ選択』は米国が通らなければならない道だった」ということになり、トランプは通過点のような存在、「一種の壊し屋という役割なのです」とも言っています。

 そして同時に日本が進むべき道を見出していくためには、想定外のトランプ当選に日米関係の心配をするだけではなく、「トランプ氏の先を見据え、今の資本主義をどう変えていくのか、その代替物はあるのか。そんな議論が国内でもっと広がらなければならない」と主張しています。

 

 大澤さんとウォーラ―ステインを同じ地平で論じることはいかがものかという点もありますが、長期的にみて世界の現状(世界システム)を危機とみていること、そして危機をどう乗り越えていくか、また乗り越えた先の明確なイメージをもちえていないという認識において共通しているところがあります。

 この記事の最後のところ、「日本も閉塞感がまん延している。既成政治家を排除する下からの圧力が高まる可能性は否定できない。その「革命」は、差別や格差のない社会の実現にどうつながっていくのか」との担当記者の問いかけに、私も戻ってしまうところがあります。

 しかしというべきか、ウォーラ―ステインが<一匹のチョウ>の比喩を持ち出しているように、最後に立つべき位置、方向は「どんなに不透明な状況が続くとしても」前向きに<良い未来>を求め続けること、やはりそこにあります。

 そのためにも、誰もわからない<未来>ではあるものの、<良き未来>とはどのような未来であるべきなのか、その議論が不可避なのはいうまでもありませんが。

 

 さて、映画のことです。

 同じ『毎日新聞』随時連載の「トランプという嵐」で、加藤典洋さんは「新たな「ゴジラ」が来襲」との見出しで、復活した映画「シン・ゴジラ」をトランプ政権誕生と重ねて、米国はカウンターパートナーである相棒ではなく、代わりにトランプという<シン・ゴジラ>が太平洋を挟んで存在することになったと表現されています。

 『シン・ゴジラ』をみていない私は、最近みた『帰ってきたヒトラー』(デヴィット・ヴェント監督/2015年ドイツ映画)に、2012年に出版されてベストセラーとなった同名の小説を映画化した作品ですが、トランプが当選する今の世界と共通する危うさを感じとりました。

 2014年に蘇ったヒトラーが現代のメディア社会で活躍し、モノマネ芸人とみて喜劇として笑っていた観客、ドイツの市民たちが、単純なビジョンを執拗に疑いを挟むことなく語るヒトラーに魅了され、次第に虚実の境目がなくなってきたと感じたりすると、ぞくっと寒気がして恐怖と戦慄を覚えてしまうようなそんな映画となっています。

 この映画のレトリックは私には複雑であり(つまり分かったといえない)、ここで十分に論じる能力がありませんが、この映画では1933年のナチスによる権力掌握を、つまりワイマール憲法下で国際連盟脱退の賛意を問う国民投票と選挙でヒトラーが圧倒的な勝利を収めたことを、その当時の<国民>と現在の<国民>に通底する危うさを絡めて、訴えていることは明らかです。ヒトラーなるものを生み出した当時の<国民>というものの責任が浮かび上がってきますし、同時に<帰ってきたヒトラー>に幻惑される現在の<国民>に対しても、1933年の国民と違うといえるのかを問いかける内容となっています。

 この映画では<帰ってきたヒトラー>に次のセリフを語らせています。

 「 1933年には国民はだれひとり、巨大なプロパガンダ行為で説得させられ

  てはいない。そして総統は、今日的な意味で<民主的>と呼ぶほかない方

  法で、ばれたのだ。自らのヴィジョンを非の打ちどころがないほど明確

  に打ち出したからこそ、彼を人々は総統に選んだ」「真実は、次の二つの

  うちのひとつだ。ひとつは、国民全体がブタだったということ、もうひと

  つは、国民はブタなどではなく、すべては民族の意志だったということ

  だ」

 文脈はあると思いますが、2013年7月29日に麻生太郎蔵相が「ナチスの手口に学んだらどうか」と発言したことをついつい思い出しました。

 

 こんな<帰ってきたヒトラー>と、今回のトランプが当選したことが直接関連づけられると考えてはいませんが、大澤さんの「人々は『とんでもない』と笑いながらも、無意識のレベルでひかれていく。『普通に考えたら』という声を無視し、ひんしゅくを買うことを恐れない人だと思い始めるのです」との分析を、私は否定することができませんし、そこに共通する影のようなものを見出したのです。

 それで私もぞくっと寒気がしたというわけです。

 <アイロニカルな没入>ということは私たちの日常生活でも普通に見られているものなのですから、それが政治の世界で起こりうることは想定内のことであり、現在のメディアの変容、劣化や、その背景にあるネット社会の現実のことを想像すれば、これまで以上に危うさが増していると、残念ながら私自身も感じているといわざるをえないのです。

 

 以上、米大統領選挙でのトランプの当選をめぐる言説で気になった記事などを紹介しました。

 トランプの当選に危うさとともに世界の変質を感じた私にとって、分からないままであることに変わりはありませんが、分からないなりに逃げ出してはいけないとの動機が与えられたと感じています。

 <良い未来>のために何を願うのか、それが問題です。ウォーラ―ステインを再引用するなら、「民主的で平等なシステムを願うならば、どんなに不透明な社会状況が続くとしても、あなたは絶えず、前向きに未来を求め続けなければなりません」であり、500年単位というわけにはいきませんが、目先だけでない少し長く射程をとって考えたいと願っています。

 「トランプ」が当選する世界を目のあたりにして、<民主的で平等なシステム>を願う基盤そのものが崩れていこうとしているのではないかと多くの人びとが懊悩している現在、諦めるなどという贅沢はないといわなければなりません。 

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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