<< ちょっとサイクリングへ | main | 「すてきな人生」のことーちょっと『シチリア・ナポリ紀行』の追伸― >>
2017.01.12 Thursday

曇りのち晴れ・ナポリ(その2)ーシチリア・ナポリ紀行(6・完)ー

◈朝の偵察行ーフニコラーレでヴォメロの丘へー

 今回の旅の実質的に最後の日(4/10)だというのに朝から曇り空です。翌日には飛行機に乗らなければならないのに軽くため息です。最後の日はとにかくヴォメロの丘に上がって「ナポリを見て死ね」という言葉とともに示されることの多いナポリのパノラマだけは見ておくつもりでした。

 

 朝の散歩のときにケーブルカーを使ってヴォメロの丘を偵察してみることにしました。終点からビューポイントでもある修道院を改装した国立サン・マルティーノ美術館まで歩いていくことができるかを確かめることにしたのです。スパッカ・ナポリのホテルからトレド通りを南下し、治安の悪さを云々されるスペイン地区を横目にしながら進むと、ウンベルト1世のガッレリアの目の前にチェントラーレ線の発着駅があります。午前中に移動する先のサンタ・ルチア地区のホテルから歩いていける距離でもあります。

 フニコラーレ(ケーブルカー)はヴォメロの丘へ向かってトンネルの中だけを走行します。日曜日の朝7時台ですから客はほんの数人だけです。意外ときれいな車体であり車内だと思っているうちに、途中で2駅停車し、10分ほどで終点のフーガ駅に着きました。さて、ここから国立サン・マルティーノ美術館までどうやっていけばよいのか、簡単な地図をもち案内板を探しながらここにはエレベーターがあるなあなどと歩いてみました。でも10分ぐらいのところで今日しかないことだしこれは家人の足膝では無理だなあ、これはタクシーしか方法がないと判断してすぐに引き返すことにしました。

 

 ヴォメロの丘は大都市の住宅街らしいたたずまいなのですが、神戸の六甲山麓よりずっと広い丘陵地であり、三本ものケーブル―カーで結ばれているのです。地下鉄も通っています。車社会とはいえ、道路が限られているうえ、歩行のためには階段が必至の丘上にあっては、観光のためのケーブルカーではなく、生活に不可欠な足となっているのです。絶景の名所に直結しているような都合のいい駅はないようでした。

 フーガ駅は内外とも瀟洒なたたずまいとでもいうのか、そのイタリアの近代デザインにカッコいいなあとうなりました。

  フニコラーレの駅の前のウンペルト1世のガッレリアです(4/10以下同じ)

  ヴォメロの丘の発着駅のフーガ駅です 丘の下のガッレリアとも共通する鉄骨造です

  フーガ駅を広場の方から撮影しました

  フーガ駅の狭い内部空間ですが、美しいデザインです

  ヴォメロの丘は住宅地となっています スパッカ・ナポリの雰囲気とはちがいます

 

 フニコラーレでトレド通りまで下りてくると、曇天から小雨が降りだしていました。なんてことだ、いわゆる絵葉書のようなヴェスーヴィオ山とナポリ湾の写真はいつも晴天です。これも運だし仕方がないよなあとスパッカ・ナポリのホテルまで歩きました。

 

 『イタリアよいとこ』の江國滋さんがナポリに滞在した2日間(1994年5月?)はあいにくの曇天で、ナポリから出かけたソレントの一瞬だけが晴天だったようで、゛眺望絶佳゛のナポリ風景は「いまひとつぱっとしない」ものだったと記されています。

 1日目の曇りぐあいから2日目の雨も当然予想してしかるべきだったのですが、江國さんは「ナポリ湾イコール快晴という先入観が抜きがたくあったもんだから、一夜明ければピーカンの上天気になるにきまっていると、あさはかにも決めこんでいたのだった」のです。

 結局、晴天にならなかったナポリを、江國さんは岩倉使節団『米欧回覧実記』の「天空常ニ晴朗ナレハ」の一語が目に突き刺さっていまいましく、「ナポリを見て死ねない」と思わずつぶやいてしまいます。でもホテル(私たちの宿泊したのと同じホテルでした)の窓ごしのナポリ湾を眺めているうちにあきらめの境地となり、「あきらめてしまえば、これはこれで贅沢なひとときだという気がしてきた」と書き残しています。

 

 私はといえば、降りだした雨に残念でくやしかった、怒っていたというより、慢性病とともに生きて染みこんだ人生観というべきか、仕方なしという気持ちでしたし、その一方で何かいいことがあるかもとの脳天気な願いを抱いていたのかもしれません。

  トレド通りからのスペイン地区の様子です(4/10以下同じ)

  奥にぼんやりと写っているのがヴォメロの丘です

  スパッカ・ナポリのベデット・クローチェ通りでは本格的な雨になっていました

 

◈「ナポリを見て死ね」の話

 ホテルを移動する10時半頃にはありがたいことに雨が上がりました。サンタ・ルチア地区のナポリ湾に臨み、その湾とサンタ・ルチア港の向こうにヴェス―ヴィオ山がみえるホテルへタクシーで移動しました。

 今回の旅では最初のパレルモから旧市街の小宿ばかりに宿泊してきましたが、最後の日はドアマンが荷物を運んでくれるようなホテルらしいホテルです。フロントの女性から「ラッキー」と言葉が聞き取れたのですが、私たちはシービューではないランクの部屋を予約していたのにラッキーにも眺望のよい部屋にお泊りいただけますという趣旨の話だったことが後でわかりました。

 部屋はまさにシービューの部屋であり、小さなテラスへ出ると、ナポリ湾と卵城そしてヴェス―ヴィオ山が一望できるロケーションで、二人ともたまにはいいこともあるねとうれしくなりました。でも青い空と光る海の世界というわけではなく、曇り空の世界だったのですが、私たちはささやかな幸運に十分に満足していたのです。

 

 シーズンオフからなのか、競争相手が増えているせいでもあるか、こんな立派なホテルのロビーが閑散としている様は、いささかわびしいものがありました。生地も仕立てもよいがちょっと古くなったジャケットを老紳士が着こなしているような感じ、それはそれでいいのだがやはり時代から取り残されつつあるという雰囲気があったことは否めません。

 私は自分もそうだからでもありますがこんな世界が嫌いではありません。日本であれば、解体撤去して全面建て替えということになりそうですが、イタリアではきっとこの建物を時間をかけて設備中心にリノベーションを図ることになるでしょう。どちらがよいのか一概にはいえませんが、これからの日本はイタリアのリノベーションをもっと学んで、しっかりと作ったコンクリートの箱を大切に使っていく方法を身に付ける必要があると思っています。

  11時頃、ホテルの部屋のテラスからのヴェス―ヴィオ山眺望です(4/10以下同じ) 

  サンタ・ルチア地区のホテルの閑散としたロビーです

 

 さて、「ナポリを見て死ね」はいつの頃からまた誰が言い出したことなのでしょう。結局のところ昔からナポリの人に言われてきたことだというしかないようなのです。

 1787年にナポリを訪れたゲーテは『イタリア紀行』にこう記しています。

 「 ずいぶんとたびたび書き立てられ、褒めそやされたこの町の風光と名所

  については、改めて記すことはなかろう。゛Vedi Napoli e poi muori!゛

  と土地の人は言っている。「ナポリを見て死ね!」」

 そのだいたい百年後、1871年の岩倉使節団『回覧実記』には次のように書かれています。

 「 以国人ノ諺二、那不児ヲ一覧シタル後二死ナント謂フトナリ、以テ其名

  勝ノ地タルヲ知ヘシ」

 ここでは<諺>とも表現されています。

 いずれにしても「死ね」という強い言葉がまず目に入ってきてナポリは特別という感じがしますが、平たく言ってしまえばナポリの<風光や名所>はとてもすばらしいということを強調しているだけのことだともいえるのですが。

 

 現在の代表的なガイドブック、『地球の歩き方 南イタリアとマルタ』においても<ナポリ>の冒頭で使われています。

 「 雄大なシルエットを見せるヴェス―ヴィオ山を背景に、美しい海岸線と

  数知れぬ文化遺産で彩られたナポリの町。「ナポリを見て死ね」の言葉ど

  おり、サンタ・ルチアから臨む美しさはイタリアでも随一といえよう。」

 <イタリアでも随一>とサンタ・ルチアから風景を称揚したうえで、スカッパ・ナポリやスペイン地区の混沌という多様性にふれ、そんな「ナポリの懐の深さ」という魅力を長い歴史のゆりかごで育まれたものだと記述されています。

 

 愚かしいともいえますが、言葉とはおそろしいもので「ナポリを見て死ね」が頭のどこかにあって、それがサンタ・ルチアと結びついていたのでしょう。

 午後にはシシリアンブルーならぬ、目の前にあわられたナポリブルーと邂逅できることになったのです。

  サンタ・ルチア地区とヴォメロの丘の地図です 右下赤印がホテルの位置です

  ナポリとヴェスーヴィオ山の位置関係です 10数と近接しています

 

◈天空は晴朗なりーパノラマのナポリー

 11時過ぎにサンタ・ルチア地区のホテルを出て、昔の海岸線であったというサンタ・ルチア通りのゆるやかな上り坂を歩きました(今は埋め立てで東側へ広げられています)。曇り空です。前日(4/9)に大きなイベントがあったであろうプレビシート広場を通り、今夜のサン・カルロ劇場の入り口を確かめてからウンベルト1世のガッレリアにやってきました。

 ガッレリアは工事中であり、衣服の量販店の進出や空き店舗も目立っていたり、ガラス天井に鉄骨のサビが付着していたりと、これが南北格差なのか、7年前のミラノのガッレリアとの落差にちょっとさびしくなったのです。

  プレビシート広場では大きなイベントがありそうです(4/9朝7時台)

  ウンベルト1世のガッレリアです ちょっとサビが目立ちます(4/10以下同じ)

 

 ヴォメロの丘をめざしてタクシーに乗りこみました。ほんとにこんなルートしかないのかと疑いたくなるほど大回りなのですが、後で地図でこの北回りのエマヌエーレ大通りを使うルートが基本なんだと確認しました。すぐ目の前のヴォメロの丘ですが、大回りと、ひどい渋滞が加わって30分以上もかけてやっと国立サン・マルティーノ美術館に着いたのです。

 

 思わずエーと声を上げそうになりました。もう曇り空ではありません。幸運にも晴れていたのです。少し霞がかかっていますが、とにかく晴天なのです。ジリジリと座っていたタクシーから下りると、突然「曇りのち晴れ」のナポリだったのです。

 ナポリを一望できるビューポイントとなっている美術館前のテラスからは、ナポリの街はもちろん、スパッカ・ナポリであるベデット・クローチェ通りがくっきりとした黒い一本線となっているのもわかります。少し霞んではいますが、サンタ・ルチア港の向こうに濃い藍色のヴェス―ヴィオ山がみえます。 

 

 展示スペースを素通りして奥の庭園に向かいました。南側にひらかれた庭園からはサンタ・ルチア地区とナポリ湾の眺望が広がっています。先ほどまで歩いていたサンタ・ルチア地区の建造物がよくわかるのです。その大きさのわかる王宮の偉容、その脇のプレビシート広場のサン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会の特徴的なドームが存在感を示しています。

 目の前に青く広がるナポリ湾の向こうには左にソレントのあるアマルフィー海岸がのびており、中央の小さな独立した青い影はカプリ島なのでしょう。いい気分になってきました。ちょっと水蒸気が対象との間にたちこめているせいなのか、肉眼でははっきりしていても、カメラのレンズでは海と空の境目が溶け合うようにあやしくなっています。

 <絶景>ばやりの風潮をどこかで苦々しく感じている私も、これはいい風景だ、気持ちのよい光と空気だと言いたくなる光景でした。「ナポリを見て死ね」を言葉通りに感じたなどとは申せませんが、そんな強い言葉を使いたくなることも想像の範囲内になったということができます。

 

 江國さんがいまいましく感じた『米欧回覧実記』の<天空常二晴朗ナレハ>が記載されたくだりは次のようなものでした。

 「 (ヴェスヴィオス火山は)海湾弓ノ如キ浜ヨリ抽テ、峰容ノ突兀トシテ奇

  峻ナル、画ケトモ成サルノ美アリ、(略)下ハ海水一碧二天ヲヒタシ、(略)

  群山青ヲ畳ミテ、背後ニ蜿蜒タリ、気候温和ニシテ、天空常ニ晴朗ナレ

  ハ、俯仰ノ間、ミナ奇絶ナル勝地ナリ」

 すごい表現力です。<天空常ニ晴朗ナレハ>といっても<常ニ>ではありえません。<常ニ>ではないからこそ貴重なのです。曇り空のナポリがタクシーに乗っている間に<天空は晴朗なり>へと変貌し、こんな光景と私たちを邂逅させてくれたのです。

  右奥はテラスからのサンタ・ルチア港とヴェス―ヴィオ山です(4/10以下同じ)

  同じくテラスからのナポリの市街地の眺望です

  美術館内の庭園からのサンタ・ルチア地区とナポリ湾です 向こうはアマルフィ半島です

  同じく奥の庭園からのナポリ湾です 空との境目が溶け合っています

 

 圧倒的な<眺望絶佳>に出会ってしまった私たちは館内の展示物をゆっくりみる雰囲気ではなくなってしまいました。

 ふわふわと定まらない足元でそそくさと通り過ぎた感じなのですが、巨大なプレゼーピオには驚きました。ゆっくりと細部までみていませんが、壁一面がそうなのです。ナポリでは12月にはキリストの生誕を人形ジオラマとしたプレゼーピオを飾るそうですが、その大がかり版がこの「クチニエッロのプレゼーピオ」なのです。近づくとちょっと生々しさの感じられる群像で、ナポリの人びとの暮らしが大きな舞台の上で群像劇として演じられているかのようでした。

 

 教会の十字架、その上の空はあくまで青い空になっています。たった1時間ほどの間にもいよいよ<天空は晴朗なり>となってきたようでした。

 外のテラスに出てみると、美術館からのびた影と光のコントラストの世界です。天空は晴朗なり。思わず、江國先生、ごめんと言いたくなる情景でした。

  「クチニエッロのプレゼーピオ」というのだそうです

  人形だからこその生々しさがあります

  神々しい青空と言いたくなります

  光と影のコントラスト、美術館のテラスです

  ヴォメロの丘上にある国立サン・マルティーノ美術館です(4/11朝撮影)

 

◈日曜日、青空のサンタルチア

 ヴォメロの丘から3時過ぎにはホテルに帰り着きました。

 ホテルの前はナポリを建都したという伝説の人魚セイレーン「パルテノペ」にちなんでパルテノぺ通りと呼ばれる海岸通りです。日曜日(翌月曜日の朝もゴミ運搬車以外は入っていなかったのですが)は完全に自動車がシャットアウトされた歩行者専用道路になっています。広い道路は日曜日の遊園地のような雰囲気です。

 

 夕刻からのサン・カルロ劇場に備えてホテルで休憩しておこうとなったのですが、ホテルの部屋の目の前にドーンと鎮座している石の塊のような<卵城>が気になって、ちょっと覗いてくるわと一人で卵城に向かいました。近づくと石の要塞みたいな城の巨大さに驚きます。10分も歩くと城の入り口まで着きましたが、閉まっているのです。いささかがっくりして、もっと近づくと平日は18時30分まで開いているというのに、日曜日と祝日は14時までと表示されていました。日曜日が短縮か、逆じゃないのと思いましたが、ここはカトリックの世界だからなのでしょうか。

 卵城という奇妙な名前は、古代ローマの詩人ヴェルギリウスが書き残した「城の基礎の中に「卵」が置かれていてそれが割れたときにナポリの街も終わりを遂げる」という古い伝説に由来するもののようです。後でガイドブックをみると、城の上からのナポリ湾は最高の眺めですとあったのでよけいに残念になりました。

 卵城の周りというか、その東の一角はボルゴ・マリーナと呼ばれレストランが軒を連ねています。船溜まりには数多くのヨットやレジャー船が停泊していますが、まだオフシーズンなのか活動している船は少ないようでした。卵城のそばからは遠くの水平線上にカプリ島がくっきりと浮かんでいます。

 

 ゲーテは海岸から少し高台の屋敷に招待されたときに眺めたサンタ・ルチアの光景を次のように記しています。

 「 眼下は海で、むこうにはカプリ島がみえ、右にはポジリポ、近くには

  ヴィラ・レアーレの散歩道、左にはイエズス会の古い建物、その背後には

  ソレントの海岸がミネルヴァ岬まで連なっている。これほどの眺望はヨー

  ロッパには恐らく二つとあるまい。少なくとも人口の稠密な大都会の中心

  にはない。」

 見聞の狭い私には何とも申し上げようがありませんが、それにしても大変な賛辞です。

 ゲーテはナポリに来てから、ドイツ、といっても当時はドイツの統一国家はないわけでワイマール公国、そして直前に訪れたローマとの比較を通じて、留保付きではありますがどんどん心が解放されているのです。「ここにいると、ローマのことなど全く思いかえして見る気にもなれぬ。当地の快濶な四囲に比べると、テヴェレ河の低地にある世界の首府は、僻地の古寺みたいに感じられる」と書き留めているぐらいです。

 こんな心持ちの旅人であったゲーテだからこそナポリの太陽の光に輝いているサンタ・ルチアの風景に魅了されたのでしょう。

 

 ともあれ、夜にでもなれば別のものかもしれませんが、サンタ・ルチアの風景はナポリの太陽の光がなければ半減してしまうことは否定できますまい。私たちのナポリの光景も忽然とあらわれた青空に助けられて記憶できることになりました。

  ホテルの部屋からの卵城です 左手前がレストラン街です(4/10午後以下同じ)

  パルテノペ通りからの卵城の全景です

  水平線から頭を出しているのがカプリ島です

  卵城の船溜まりにヨットを下ろそうとしているようです

 

 卵城をあきらめて仕方なしに日曜日のサンタ・ルチアをぶらぶらしてからホテルへ戻りました。

 私のような観光客ももちろんいたでしょうが、日曜日のサンタ・ルチアの海岸通りはナポリの人びと、それも家族連れが主役です。まだ薄いダウンをはおった人も多くカラフルとまではいきませんが、早春という季節感というところなのでしょうか。何か簡単なパレードも行われていたようで風船を手にした子供たちも多くみかけました。

 家族連れはどのあたりから集まっているのでしょうか。近所の方もいそうですが、スパッカ・ナポリやスペイン地区からも来ているのでしょうか。私の目には日本と変わらない家族連れだとしかみえませんでした。あえていえば、特に何か目的をもたずにぶらぶらしている、ぶらぶらするために歩いているという感じが日本よりも強いということがあるのかもしれません。

 

 この太陽とこの風景が一体化したというべきサンタ・ルチアと、ほんの数時間前に歩いていた雨のスパッカ・ナポリとの落差の大きさをどう理解すればよいのでしょうか。どんな都市にも、特に大きな都市には光と影とでもいうべき部分があって、両方(もとより二つに限りません)があって都市が成立していると思っている私としては、そんな一つの例、それも際立った例、極端に出現した事例として理解しておいてよいかなと考えています。

 前回、この両地区のことを念頭におき、美と醜、清と濁、晴と曇が混沌としている大都市と書きましたが、サンタ・ルチアとスカッパ・ナポリは反発しあう関係というより相補的な関係としてとらえることができそうだ、ナポリは二つの顔があって始めてナポリなんだ、それこそ懐の深いナポリなんだと、今は受けとめておくことにいたしましょう。

 後追いですが、こうして光に恵まれたサンタ・ルチアを体験できなければ、夜のうちに降った雪の朝のように全てを一気に変えてしまう力をもつ晴と曇の関係もわからないままだったことでしょう。

  小さなパレードが行われた後のようです

  とにかくゆったりと話しながらのぶらぶら歩きです

  こんな乗り物も登場していました

  卵城のマリーナから撮影したヴェスーヴィオ山です

 

◈場違いもまたよしーサン・カルロ劇場ー

 ホテルを5時過ぎには出て、午前と同じ道をたどり、プレビシート広場を横目にサン・カルロ劇場まで歩きました。6時からコンサートのために30分以上前に到着したつもりでしたが、エントランスにはきっちりとした服装の大勢の観客が集まってきています。

 あっ、こんなこともということがありました。セーター掛けの老紳士のような男が観客に声をかけ「無心」をしているみたいなのです。悪びれたところなど感じられません。何人かに断られていたようでした。

 

 じっと観察するような間もなく、ちょっと心配で握りしめていた自宅打ち出しの予約票を窓口で差し出すと、そのままもって入場口に行くように指示されて一安心です。予約のボックス席とエレベーターの位置を聞いてから劇場の中へ入りましたが、初めてのことばかりで動転していたのか導線がよくわからないままでした。ボックス席が三階か四階か忘れてしまいましたが、家人はエレベーターを使うこともできずに立派すぎる階段をぐるぐると上がる羽目になりました。

 ボックス席はもちろん初めての経験です。ドアと下までのカーテンのついた一つのボックスには5席あって前に3席、後ろに2席となっています。予約したときには後ろの2席しか残っていなかったので、私たちは前席より一段高くなった後ろの席に座りました。一番乗りです。まだまだ平土間にもボックス席にも空席が目立っています。

 文字通りのお上りさんですから、ブダペストやヴェネツィアのオペラ座を観光ツアーしたときと同様、私の目代わりのシャッターを何回も切ってやっぱり後ろの席からは撮りにくいなあとぼやいたりしていました。

 

 私たちのボックス席には、老婦人と中年のご婦人が一人ずつ入ってきて、私たちもブォナセーラと挨拶を交わしました。後からの中年のご婦人の方が自分の横の前席を示し、一緒に来るつもりの友人が来れなくなって、この席が空くことになったからどうぞと、ありがたいことに言ってくれたのです。

 喜んで家人はその前席に座らせていただくことにしました。

  席に着いた頃はまだまだ空席が目立っています(4/10以下同じ)

  これまでにみた劇場と同様、豪華としか言葉が出てきません

  おかげで前の席に座ることができました

  そうこうするうちに観客で席が埋まってきました

 

 サン・カルロ劇場は1737年に建設されたイタリアで最も美しい劇場の一つといわれています。当時ナポリを支配していたのはブルボン家出身のナポリ王カルロ3世でした。イタリアオペラは16世紀にフィレンツェで誕生したといわれていますが、18世紀に入るとその中心がナポリに移り、ナポリオペラの繁栄を支えたのがこのサン・カルロ劇場というわけです。

 

 でも今夜はオペラではなく、サン・カルロ歌劇場オーケストラによるコンサートです。指揮は韓国出身のハンナ・チャン(1982-)、一曲目のグリークの「ピアノとオーケストラのための協奏曲」はピアノがロシア出身のエフゲニー・スドピン(1980-)という同世代の音楽家です。

 前者がチェロの天才少女、後者がピアノの天才少年として世を驚かせた二人のようでしたが、チェロがヨーヨーマで、ピアノがファジル・サイでクラシック音楽の時間が停止してしまっている私はむろん二人を知る由もありません。ハンナ・チャンは11歳でロストロポーヴィッチ国際チェロコンクールで優勝し、その後指揮の分野にも進出した人であり、「指揮者の人生は宇宙に出て新しい惑星を発見するようなものだ」と語っているようです。

 

 黒のパンツ・スーツで登場したハンナ・チャンは華奢で小柄な女性ですが、遠くからでも背中から気迫がみなぎっていることが伝わってくる指揮ぶりです。スドピンは長身痩躯、絵にかいたようなロシア貴族の末裔的な風貌で、ピアノを知らない私でもそのテクニックのすごみがわかる演奏です。

 グリークの協奏曲、そして二曲目のシベリウスの「交響曲第一番」、南国のナポリでノルウェーとフィンランドの作曲家による両作品が演奏されました。私にはその音楽を言葉にする能力がありませんが、驚いたのはサン・カルロ歌劇場オーケストラの音量、音圧です。劇場によるものか指揮者によるものなのかは分かりませんが、とにかく力演、熱演なのです。総じて団員に年配の人の多いオーケストラはフルに音を発していたというのが、何より強い印象として残りました。

 ちょっと邪推すれば、いつものオペラのときはオーケストラボックスの中で演奏するオーケストラ全員が晴れの舞台上に勢ぞろいし、みなさんが高揚して気合入りまくりの演奏をしていたのかなと思ったりもしました。

 劇場の予約サイトをいじくって偶然ヒットし、最後の夜に、それも6時からというよい時間帯(前日は8時30分開演でした)に予約ができて、折角だからとやってきた私たちは劇場の雰囲気と相乗して陶酔することができました。

 サン・カルロ劇場前に掲示されていたプログラムです

  ピアノの脇に立っているのがグリークの協奏曲を弾き終えたエフゲニー・スドピンです

 

 一曲目が終わり休憩時間になるとさながら社交の場と化します。

 平土間は男性はみなさんジャケットを着ていて年齢層がボックス席より高いみたいで、あちこちで挨拶や話などでかたまりができています。古い教会でのコンサートだったパレルモでも知り合い同士がたくさんいるなあと感じましたが、華やかなサン・カルロ劇場ではさらにそんな印象を受けました。何か特別会員的な仕組みがあって、何とかシートとかで長く通ってきている雰囲気です。私たちのボックス席の二人のご婦人は少しちがうようですが、よく来場されていることは変わりがないみたいです。

 対面のボックス席は遠くてよくみえなかったのですが、こうして写真を拡大してみると、若い人も多くて、それぞれのボックスからちょっとしたドラマが飛び出してきそうで驚きました。シナリオライターなら何か書けそうです。

 二曲目の始まる前から、団員が舞台に戻ってきて、音を合わせてたりしていましたが、平土間の観客のご婦人と話している姿に、この劇場の歴史とナポリがあらわれているようでした。

 

 このような美しい劇場にまつわるナポリの歴史とナポリの人の気質がわかったような気になりますので、前回も登場した須賀敦子さんの「スカッパ・ナポリ」というエッセーから引用します。

 「 13世紀、すでにフランスのアンジュウ公の支配下にあったナポリは、16

  世紀からはアラゴン公の領土としてスペイン総督をいただき、さらに18世

  紀から19世紀にかけてはブルボン王家と、めまぐるしく他国の手から手に

  主権を握られるという、不幸な被植民地の歴史をあゆんできたナポリ人

  が、政治よりも美しい劇場に、ながつづきする論理より束の間の感情の悦

  楽に、たえず逃避を求めるようになったのは、ほとんど当然のなりゆきと

  いえるのだが、そのなりゆきを彼らは高貴に、あくまで優雅に生きてい

  る、それが私をこの町の人たちにひきつけるのだ。」

 そして、劇場の休憩時間のことを次のようにも表現しています。

 「 はしゃいだ女たちの会話から、彼女たちの多くが、芝居そのものより

  も、このフォワイエでの時間を待ちわびていたらしいのが感じられた。似

  たような環境でそだった友人たちと出会い、近況を知らせあっては、たが

  いの幸福度をたしかめあう。」

 

 このような場でこのような会話が華やかに演じられていたのが、私たちがこの目で間近でみた光景だったのでしょうか。サン・カルロ劇場はそれにふさわしい場でした。<芝居そのものより>というのは<音楽よりも劇場>だった私たちも同じことだったかもしれませんが。

 パレルモと同じくざっと見わたしても、休憩時のトイレ行きにおいても、有色人種なのかなという観客に出会うことはありませんでした。あえていえば、中央のボックス席のハンナ・チャンの関係者と私たちだけだったといえます。

 平土間が社交の場と化している様に、厳然としたヨーロッパ的な階層社会の存在を意識せざるをえませんでした。

  平土間にはこんなかたまりがあちこちでできています

  何かドラマがありそうな低層のボックス席です

  どんな話かわかりませんが平土間の婦人とチェロの団員が話をしています

  中央が二曲目を終えて拍手を受けるひときわ小柄なハンナ・チャンです

 

 コンサートを終えて家人はエレベーターで下りるためにしばらく待ったようですが、車椅子の方もいたようで歩いて階段を降りてきました。まだ8時すぎです。

 なかなか旅のハイライトになったねと、めずらしく家人の要望でサン・カルロ劇場を背景に写真を撮り、ホテルへの途中で夕食を食べようと来た道を引き返しました。プレビシート広場がライトアップされていて、昼間の家族連れよりもぶらぶら歩きの二人連れが目立ちました。

 

 サンタ・ルチア通りを下った途中にあるリストランテ・ピッツェリアに入店しましたが、ガイドブック掲載の名店にもかかわらず、そのリーズナブルな料金に驚きながら、半袖Tシャツの迫力のある面構えをしたカメリエーレに何品か注文しました。しばらくして、すべての料理がほぼ同時に出てきたときは、カメリエーレのイタリア語を全く解しない二人だったことがうらめしくなったものです。でもいつものまあ仕方ないかと、久しぶりの白ワインを飲みました。

 サン・カルロ劇場は私たち二人には場違いといえば場違いであったけれどちょっと興奮したね、そうよかったねと話したりしていたのです。

 

 そろそろ締めのエスプレッソとレモンチェッロにするかという頃、ちょっと首をひねると、壁際に見知った顔がありました。そうハンナ・チャンさんです。中央ボックス席に座っていた少し年上の婦人といっしょで今来たばかりのようでした。

 パレルモの教会コンサートでも私たちが軽く食事をしていたカフェ・バールに、先ほどまで舞台にいた楽団員がやってきて打ち上げ会が始まったので驚いたのですが、再びこんなことに遭遇することができました。これはこれは何としたことかと不思議の感に打たれたのです。

 楽団員が10人は座っていたパレルモとちがって、2人だけの今回は挨拶することを大いに躊躇しました。それでも私たちの喜びを伝えておこうと、帰り際に二人の席に近寄りヴォナセーラと「Good Music Thank You」の言葉を発しました。それは驚かれたことでしょう、ぎょっとされたようでしたが、それでも微笑みを返してもらったように思います。

 韓国人ではなく日本人だとすぐにわかったのでしょうか、私たちの英語がダメなこともあって、「Good」より「Excellent」がふさわしかったようですが、まあいずれにしても唐突すぎました。

 

 ホテルの屋上のテラス席からは、昼間入場できなかった「卵城」が闇の中から抜け出たように輝き、最後の夜が過ぎていきました。

  サン・カルロ劇場のエントランスと帰りを急ぐ観客です

  二人連れの目立つライトアップされたプレビシート広場です

  二人で座っている奥の方がさっきまで指揮していたハンナ・チャンさんです

  ホテルの屋上テラスから撮影した卵城です

 

◈光に恵まれてーヴェスーヴィオ山ー

 ナポリとヴェスーヴィオ山の関係は密接です。ナポリ湾を挟んですぐそこ、とにかく近いのです。

 紀元後79年の大噴火で一気にポンペイを埋没させたことで有名ですが、その後の大噴火によっても大きな被害をもたらしています。最近の噴火は1944年のことだそうで、現在は噴火していません。

 山麓から火口までの登山電車、フニコラーレが1880年に開通したそうで、記念して作られたコマーシャルソングが「フニクリフニクラ」です。日本でも<登山電車ができたので/誰でも登れる>と訳詩された「フニクリフニクラ」は今でも孫たちの音の出るおもちゃに入っているぐらいの人気ぶりですが、1944年の噴火で破壊され、それ以降運行されていません。

 「赤い火をふくあの山へ/登ろう登ろう/そこは地獄の釜の中/のぞこうのぞこう」「行こう行こう火の山へ/行こう行こう火の山へ」などという歌詞を読んでいると、ちょっとおそろしくなりますね。

 

 ヴェスーヴィオ山は標高1281mですが、遠くから二こぶとなっている右側の山頂のことで、左側のソンマ山(1132m)を頂点とする外輪山の中にそびえており、複合成層火山となっています。

 シチリア島のエトナ山は3千mを超えとてつもなく裾野が広い大火山であり、ヴェス―ヴィオ山とは規模が比べものになりません。でも大人口を抱える稠密な大都市であったナポリのすぐそばにいつもあったヴェス―ヴィオ山はナポリ人の心象形成にも大きな影響を与えてきたにちがいありません。

 今回、エトナ山には自動車にしろ登ることができて印象がより深くなりましたが、今となればナポリ空港からのタクシーの運転手の「ポンペイポンペイ」という誘いに乗ってもよかったかもと思ったりもします。もはや詮方なきことになりました。

 

 あのゲーテは1ヵ月ほどの期間に3回も登っています。その頃は噴火が続いていたころで、ゲーテは科学者的な関心で、というより科学者として、ナポリ、そしてカンパニア州という「楽園のただ中に聳えている地獄の山頂の他の奇観」をみてみようと接近を試みているのです。けれど楽園と地獄という両極端は「互いに相殺してしまい、結局無関心な感情しか引き起こさぬ」ものであると記しています。

 そして「もしナポリ人が、神と悪魔との間に挟まれていることを感じないなら、確かに彼らは一種特別な人間に相違ない」と結んでいるのです。ナポリ人の刹那的な性格、脳天気ぶりを皮肉っているようにも読むことができます。

 

 ともあれ、光に恵まれて、ヴェス―ヴィオ山は私たちを迎えてくれました。確かにこの山の入っていないナポリ風景は「ナポリを見て死ね」にならないかもしれないなあと感じたのです。

 飛行機に乗らなければならない朝(4/11)、海岸通りを西の方へ向かって歩き、反転してホテルの前に戻ってきた、ちょうどその瞬間、ヴェス―ヴィオ山を覆っていた雲間から太陽の光が滝のように降り注ぐ光景を目の当たりにすることができました。

 かくして、私たちは幸運にも光に恵まれたナポリを見たことがあると思って死ねることになりました。

  ヴォメロの丘からのヴェス―ヴィオ山です 左がソンマ山です(4/10以下同じ)

  卵城のボルゴ・マリーナからのヴェス―ヴィオ山です

  ホテルの部屋からのヴェス―ヴィオ山です 2017の年賀状に使いました

  4/11の朝、太陽の光が降り注ぐヴェス―ヴィオ山です(4/11)

 

◈長い旅の終わりに

 昨年9月から始めた「シチリア・ナポリ紀行」をそろそろ閉じなければならなくなりました。

 書き残したこと、書き損じたこと、いずれも多くあるように感じられてなりませんが、何ごとにも潮時というものがあります。サラリーマンの完全引退を機に出かけたシチリア島とナポリへの2週間の旅において、「私」、私と家人の「私たち」が、格好をつけることをお許しいただけるなら、心にふれてくる、心にふれてきたことを言葉にできないかと願っていましたが、私の能力では手に負えず土台無理なことでした。

 前にも書いたことがあるとおり、確かな意思もなくシャッターを押してSDカードに残った写真を手がかりに、私、私たちのその時、その時の印象や感情を探ることによって書いてきたともいえるのでしょう。

 それでも言葉にならないことばかりで、時代や時期はちがえど同じ土地についての先行者たち、ゲーテはもとより、辻邦生、須賀敦子、江國滋、長田弘、巖谷國士そして陣内秀信等が活字に残した言葉を頼りに、私、私たちの印象、感情に、よくいえば、形を与え、悪くいえば、ただ水膨れさせてきたということができます。

 

 昨年暮れに「ヤマザキマリ・北村一輝と旅するあなたの知らないイタリア」という番組がNHK・BSプレミアムで放送されました。

 シチリア島のセジェスタ神殿を背景にヤマザキマリさんはシチリアを「カッコいいおじいさん」だと発言しました。紀元前500年の頃から失敗も含めいろんな経験をさせられてきて、それでも毅然と受けとめたきたシチリアは若者のはずはなく「カッコいいおじいさん」だということのようです。

 番組の最後に、ヤマザキさんは、イタリアの歴史の成熟度が社会に反映し、自分にしか出せない表現を周りに負けずに表現する力をもっているのが今のイタリアの人たちだ、それはイタリア人の生活習慣やメンタリティにも染みこんでいると語っています。北村一輝さんのナレーションは「カッコいいおじいさん」はイタリアのことであったのだと締めくくられていました。

 

 長い旅をしてきた気持ちです。たった2週間の旅でしたが、ブログで書いてきたせいか、ずうっと旅が続いていたように感じられ、まるで9ヵ月の長い旅であったという感慨があります。最初に「ひとつの区切りとなる旅」と書きましたが、今は本当にそう思っています。

 もともと海外旅行は考えたこともありませんでしたが、2009(平21)年に退職となり、次の仕事まで3か月のインターバルがありました。信州松本にでも旅行しようかと提案しましたが、家人からは「こんなとき(退職)は嫁さんにお礼するもんや。国内ではダメ、海外に行きましょう」と却下され、その年の5月に私たち二人で初めて海外旅行に出かけることになったのです。なぜ行き先がフランスではなくイタリアだったのかはっきりしませんが、二人とも須賀敦子さんの影響を受けていたからなのかなと思っています。

 こんな契機で始まった海外への旅にたわいもなく「はまってしまった」のです。アジア、ヨーロッパ、でも同じ国に複数回出かけているのはイタリアの4回だけです。最初にいいなあと思ったら、続けようとする単純な私の性格があらわれています。なんだかフランスには行きそびれたままになっています。

 この間、手術などもあって残日を意識したりするようになってより加速したというのが実情です。健康寿命といわれますが、今はしばらくインターバルをおいて、もしまたという機会が出てくればトライできることを願っています。

 エポックとなったシチリア・ナポリへの長い旅をこうして終えることができたことに感謝しています。

              【完:(1)(2)(3)(4)(5)

コメント
コメント、ありがとうございます。
海外旅行のことは想定していなかったのは事実ですが、海外へ出かける方がうらやましかったのだとは思います。
すべてがそうかもしれませんが、いろんな偶然が重なって今があるということを実感しますね。
  • パンテオンの穴
  • 2017.01.15 Sunday 11:11
大作になりましたね。
旅のきっかけが奥様の一言だったとは初めて知りました。
今となってはご英断だったのではないでしょうか。
是非これからも色々なことにチャレンジしてください。
  • マラガ
  • 2017.01.14 Saturday 14:48
コメントする








 
プロフィール
profilephoto
70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
最新の記事
                         
カテゴリー
カレンダー
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
                                      
月別更新一覧
            
コメント
                                      
リンク
                        
サイト内検索
Others
            
Mobile
qrcode
            
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM