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2016.12.06 Tuesday

『捨身なひと』から《辻征夫》へ

 12月。まだ5時前だというのに池の向こうは沈む夕陽。ススキの表情はまだまだ晩秋。これまで訪れたことのない寺田池に時々足を運ぶようになってから一年が経ちました。

 昨日(3日)は孫が通う保育園のお遊戯会でした。舞台上で立ちつくしていたような昨年とはちがって、二歳になった今年はぎこちなくではありますが、手や足を動かして踊ろうとしています。この会もちょうど一年ぶりのこと、その変化、成長を目のあたりにすることができました。

  寺田池の夕景 2016.12.2撮影

 

 カバー絵のイノシシと書名にひかれて小沢信男さんの『捨身なひと』(2013年12月刊/晶文社)を手にとると、《辻征夫(ゆきお)》の名前があって驚きました。

 驚いたのは、久しぶりにというか、積読していた辻征夫をちょっと読んでみようかと、何日か前にちょうど本棚から取りだしたところだったからです。辻征夫さん(1939-2000年)は死後に選詩集が何冊も出版され、昨年は岩波文庫の一冊ともなった「現代抒情詩の第一人者」として評価の高い方です。

 当ブログでこれまで取り上げた茨木のり子、黒田三郎、長田弘そして谷川俊太郎などとちがって、一応ですが読みましたとまで言えない詩人ですが、なぜそれほど特別な詩人なのかなあと思って手に入れたままで、長く積読にしていたというわけです。

 ここでは簡単に、小沢信男さんや岩波文庫の編者である谷川俊太郎さんによる辻征夫像と、今回それこそまだぱらっとだけ読んだにすぎませんが、フムフムと感じた詩を引用紹介してみることにします。

 

 『捨身なひと』は、小沢信男さん(1927-)が、花田清輝ら四人の畏敬する先輩と、一回り年下の辻征夫という敬愛する後輩、併せて五人のことを書いた文章を集めたものです。この魅力的な書名は装幀の平野甲賀さんが「捨身のひと」よりだんぜん「捨身なひと」だということで決まったと記されています。

 

 辻征夫がどう「捨身の人」であったかについて、小沢さんは次のように書いています。

 「 辻征夫は捨身の人であった。

   彼が遺した十余冊の詩集を読んでいけば、おのずと感得されるのでしょ

  うが、一言よけいな説明をすれば、自身が詩人でしかありえない運命に捨

  身であった。人間がこの世に生きてあることのいわくいいがたい味わい

  を、言葉を織ってさながらに掴みとる。いのちがけの繊細な作業かもしれ

  なくて、紙と鉛筆のその冒険に、彼はいさぎよく勇敢でした。」

 二人の交友は辻さんの死までの15年間、詩の雑誌の投稿作品の選者として初めて出あい、小沢さんは「昼寝から覚めてきたようなボッとした」辻さんとなぜかウマがあい、「余白句会」と呼ぶ句会をつくり、辻さんの「真剣にあそぼうぜ」の呼びかけとともに、続いたとのことです。

 辻さんの俳号は<貨物船>、亡くなる三ヵ月前の句会で(「脊髄小脳変性症」という難病であった) 「最高点をかっさらってにこにこしていた」そうです。その句は《満月や大人になってもついてくる》で、小沢さんは「生来の詩人の生涯からこぼれおちる、これも一滴のようだった」と表現しています。

 辻さんと知り合った頃、小沢さんは現代詩文庫『辻征夫詩集』を立ち読みし、あの茫洋とした雰囲気の昼寝男が「おそるべき純度の詩人であることを悟った」のだということであり、その交友から「人の見ぬ聞かぬものを、いきなり聴きとり見てしまう男」である詩人辻征夫を知ったと記されています。

 

 この『捨身なひと』は小沢さんにとって「ひよわな文学青年が、いきなり文学老年になってしまうまでの、わが生涯の決算の書でもあるような」もので、たんなる回顧の枠をはみ出し、「いまはむかし、かくもチャーミングなひとびとがおりました」というとても魅力的な本です。

 この本と出会い、私も辻征夫さんの詩をすぐに読んでみたくなったのです。

 『捨身なひと』小沢信男著(2013年12月刊/晶文社)

 

 谷川俊太郎さんは編者として『辻征夫詩集』(谷川俊太郎編/2015年2月刊/岩波文庫)に「辻さんの言葉を頼りに」という小文を書いています。

 谷川さんが辻征夫さんとその詩にかくも共感と信頼を寄せていたことが、私にはちょっと驚きでもありました。辻征夫が谷川さんとちがつて音楽を必要としなかったのは言葉が音楽と同じ源から湧いてくるからであり、「言葉の音韻よりもっと深く、詩と音楽が一つとなるところ、その場所を名指すにはもう<魂>という言葉しかないでしょう。辻さんは、山高帽から兎を跳び出させるかわりに、魂から言葉を取り出す魔術師でした」というのです。そして「辻征夫という詩人に対する私の人間的な信頼は、彼がいなくなってしまった今も深まるばかりです」と、手放しと感じられる谷川さんの称揚ぶりにはびっくりさせられます。

 まあ、谷川さんの辻征夫礼賛は、現代詩の冒険者としての同志的な共感であり、谷川さんが必要としなかった給料生活者(学校の先生とかではなく都営住宅サービス公社のサラリーマン)としても辻さんが生きてきたこと、<労働>と<詩>の相克を生きてきたことに対する敬意でもあったのでしょう。

 

 1996年の谷川さんとの対談で、前々年に網膜剥離の大手術を受け大切な右目をそこなった辻さん(当時55歳)は谷川さんから老後のこと(具体的なプラン)を聞かれて次のように語っています。

 「 ないですよ。それに現在の日常が少し辛い所にあるものだから。いや、

  家庭問題とか言うんじゃないですよ(笑)。生活を維持していく面でちょっ

  と辛いんだけども、やめるわけにもいかないし、まだ子供も全然独立して

  いないし、困っちゃってるんですよ。どこまで持つか、っていう感じだな

  あ。」

 「 仕事は住宅の関係で、他の仕事のあいまに苦情処理とか、難しい問題が

  全部ぼくのところにくるんです。要するに、足音がうるさいという上下の

  トラブルとか、一人暮らしの人で、新聞がたまっていて一週間も姿が見え

  ないとか……親族を探しても見つからないと、おまわりさんに立ち会っ

  もらって、ドアを壊して開けてみることもある。そうするとたいてい亡

  なっています。」

 辻さんは都営住宅の管理の仕事をされていたのです。こうした日々に「唇には歌でもいいが/こころには そうだな/爆弾の一個ぐらいはもっていたいな」と詩に記す辻さんですが、谷川さんは「爆弾を抱えて生きることが詩の原動力にもなっていた」とし、「辻さんは、実生活とバランスを取りながら、その<高貴な現実>を繊細で優雅な詩に変換していきました」と評しています。

 

 「詩で大事なことの一つは厳密さということなんだね」と詩に残した辻さんの詩について、谷川さんは次のようにも書いています。

 「 辻さんは近所の人に話しかけるような口調で詩を書きます。実生活でも

  そうであるように、詩でもいい加減なことは言いません。いい加減な言葉

  は使いません。荒唐無稽な幻想を書くときも正確に、誠実に自分の身の丈

  に合った言葉で書きます。妙な言い方ですが、詩の骨格が散文なんです。

   いわゆる詩的な表現を、辻さんは生理的に受け付けなかったと思いま

  す。(以下略)」

 小沢さんと谷川さんが辻さんと辻さんの詩について書いていること、例えば<おそるべき純度の詩人>とか<魂から言葉を取り出す魔術師>とか、そんなことを私がどれだけ感じとれたかと問われたら、はなはだあやしい限りです。今はそんなことに拘泥することなく、とにかく<厳密>の反対の<曖昧>なままで辻征夫の詩の引用まで進むことにしましょう。 

  『辻征夫詩集』谷川俊太郎編(2015年2月刊/岩波文庫)

 

 谷川さんが辻さんの「詩の骨格は散文だ」としているからだけではありませんが、ここに書き写しておきたいのは「珍品堂主人、読了セリ」と「玉虫」という二つの散文詩です。ふつうの行分け詩「かぜのひきかた」など代表作といわれている詩はもっと多くありますが、この二篇は私に届いたインパクトが大きかったこともあって選びました。

 

 でもその前に岩波文庫版では選詩されていませんが、「屑屋の瞑想録/●小型トラックの助手席の男の放心」を引用しておきます。私には谷川さんのいう「<労働>と<詩>の相克」が端的に感じられるからです。40代のサラリーマンの孤独ということを、これが自分なのか、ともすれば非人間性に傾いていく自分を途方にくれて見ているような詩として、かつてサラリーマンであった私にはグサッとくるものがありました。

 

    屑屋の瞑想録

     ●小型トラックの助手席の男の放心

 

 都営高島平アパートの前の路上の

 小型トラックの助手席でおれは

 土木技師Nが現場から戻るのを待っていた

 おれは運転ができないからいつまでだって

 待っていなければならない

 黄色い小さな蝙蝠傘をさした男の子がひとり

 ひどくきまじめな顔で通り過ぎ

 そのあとから赤ん坊を抱いた女が歩いて行った

 そういえば おれはいつの頃からか

 人間を尊敬していないのではないか

 家族だけはひとなみに守り 数少ない

 友だちと談笑はするが人間は

 尊敬していないのではないか

 

 黄色い小さな蝙蝠傘をさした男の子と

 赤ん坊と若い主婦は遠ざかり

 都営高島平アパートの前の路上も日暮れてきたが

 土木技師Nはいまだ帰らず

 おれは枯葉と紙屑を数えはじめた

 あの紙屑のひとつひとつには

 実はおれの青春の詩が書いてあるのだが

 それはあの男の子と赤ん坊と若い母親に

 語りかけるはずの言葉だったのだが

 いまは雨に打たれて

 ただ濡れているのである

 

  『辻征夫詩集成』1996年4月刊/書肆山田 前記の詩はこの本から引用

 

 さて、「珍品堂主人、読了セリ」と「玉虫」です。わりと長いですが、書き写すことによって、ちょっと辻征夫に近づけるかもしれないと願うからでもあります。

 前者は、辻さんの父が亡くなった1982年からしばらくして書かれた詩で、1987年刊行の詩集『天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想』に入っています。谷川さんから、現代詩へ取り入れる韻文について「辻さんのぐらいの下手度で「珍品堂主人、読了セリ」ぐらいだと安心できるけど(笑)」といわれており、辻さんは「短歌ふうのものがふわっと口をついてでてきちゃった」と説明しています。

 後者は、広島の郊外で原爆を体験した父が母子の疎開先である長野に帰ってきたことがテーマとなっており、1998年に刊行された最後の詩集『萌えいづる若葉に対峙して』に入っています。小沢さんは「人の見ぬ聞かぬものを、いきなり聴きとり見てしまう」という辻さんの特質をその付き合いからも強調していますが、五歳の辻さんが父母の再会などそっちのけで<玉虫>を息を凝らして見てしまうシーンが切りとられています。

 

    珍品堂主人、読了セリ

 

 死去のこと

 知らすべきひとの名簿つくり

 我に託して死にし父かな

 (昭和五十七年七月七日、向島ヨリ父ト二人、車ニテ都立駒込病院ニ向フ。

 入院ノコト決定セシハ六月末日なり。同日、電話ニテ父ニ呼バレ、後事ヲ

 託サル。大方ハ諸手続キノ説明ナリ。万一ノトキノタメノ名簿、入院マデ

 ニ作成ストイフ。タダ聞キ、頷クノミ。車、浅草ノ裏町ヲ通リタレバ、自

 ヅト懐旧譚出ル。父ノ少年時ヲ過シシ町ナリ。入谷ヲ過ギルアタリデ、名

 簿、受ケトル。折シモ朝顔市ナリ。)

 

 珍品堂主人読みたし

 おまへちょっと探してくれと

 死の前日にいひし父かな

 (井伏鱒二ハ、父ノ大学ノ先輩ナリ。面識ナシ。因ミニ久保田万太郎ハ小

 学校ノ先輩ナリ。面識サラニナシ。昭和五十七年九月二十五日、亀戸駅ビ

 ル新栄堂ニテ同書購入、父ニ渡ス。同夜、夕食ノタメ階下へ行クトイフヲ

 説得シテ病室ニトドメ、食事運バセテ父ト晩餐ヲ共ニス。幼児二人アレバ、

 母、妻ハ階下ナリ。父、「黒い雨」ノコトナド少シ話ス。昭和二十年八月

 七日、近郊ノ山中ヨリ出デ、一兵士トシテ広島市内ヲ歩キシコトアリ。コ

 ノコト、三十有余年殆ド語ラズ。翌九月二十六日午後八時三十分、二度メ

 ノ心筋梗塞発作ニテ死ス。享年七十二。肺癌手術後六十日メナリ。)

 

 そのかみの浅草の子今日逝きぬ襯衣替へをれば胸あたたかし

 (葬儀ヲ行ハントスルモ宗派ヲ知ラズ、寺トノツキアヒモナシ。タシカ✕

 ✕宗トノ家ノモノノ朧ナ記憶ヲタヨリニ、葬儀社ニマカス。花輪ハ謝辞ス。

 枕頭ノ珍品堂主人一巻、棺ノ中ニトイフ思ヒ浮カベドイレズ、後日読了セ

 リ。)

 

 傘さして位牌一本買ひに行く仏壇仏具稲荷町かなし

 (右ノ一首、四十九日ヲ旬日後二控ヘテ詠ミタリ。)

 

 では、次に「玉虫」の方を続けて引用します。

 

    玉 虫

 

  二階の座敷に日があたっていて、祖母が窓辺の椅子にかけて微笑んでい

 る。窓の外は物干台だろうか。朝顔の鉢が二つ見え花も幾つか咲いている

 が、昭和十四年の朝顔はどれもみなセピア色だ。祖母の隣に半袖のワンピ

 ースの母もいて、彼女が抱いているへんなものがどうやら生まれたばかり

 の私らしい。戦争は始まっているが誰もが勝つと信じていて、二階の座敷

 で笑っている。

 

  遠く日本アルプスの尾根が見える善光寺の裏のゆるい坂道を、日傘をさ

 した母が下って行く。昨日も一昨日も十日前も、この坂を下って長野駅へ

 行った。《広島までの切符をください。大人一枚…》私が顔を覚えていな

 い父が広島にいて、広島には原子爆弾が落とされた。可哀想に、ノブコさ

 んは五歳の子供を抱えて未亡人になってしまったーー。誰もがそう言った

 けれど、わがままで頑固なノブコさんは納得しない。《とにかく広島に行

 って探してきます》

 

  まなじりを決して、まっすぐ前方を見て、駒下駄に日傘で坂道を下るノ

 ブコさんの遥か遠く、善光寺の裏門の方から、小さな荷物を肩にかけた男

 が、あたりの景色を眺めながらのんびり登って来る。兵隊の帽子を被って

 いるけれど、復員兵ではないらしい。復員兵がいまどきあんな格好で、ぶ

 らぶら歩いて来るものか。

 

  やがて両者が接近し、相手の顔がはっきり見えたとき、ノブコさんは何

 か叫んだ。すぐ後ろで私も叫んだ。それから、彼女は男に駆け寄って、男

 の胸で泣いたそうだ。昼下がりの坂道で、大声で泣いたそうだけれど、私

 はその声も聞かなかったし二人の姿も見なかった。母が叫んだ丁度そのと

 き、かたわらの木に、絵本で見たとおりの玉虫がいるのを発見して、私は

 動顛していたのである。

 

  玉虫は、私の手が僅かに届かない高さにとまっていた。眼の位置と風に

 羽のひかりを微妙に変える玉虫を、母を呼ぶことも出来ず、木の幹に両手

 を当てて私は息を凝らして見ていた。その日は夜になっても(と母は後々

 まで言っていた)私は玉虫のことばかりをとめどなく喋り続け、父は、自

 分がやはり原爆で透明になって帰って来たのではないかと思ったそうだ。

 そうではなかったのだろうか。

 

 いずれの作品もある種の家族の物語といってもよいものです。父の戦争からの帰還(昭20)と父の死(昭57)。二つの詩を読むと、辻さんの父は昭和20年8月6日の原爆が投下された日は郊外の山中にいて、翌日は兵隊として市内に出てきて歩いたことが分かります。そして<黒い雨>の記憶は外部には封印されたまま、死の前日になって息子である辻さんにポツリと話されたということになります。家族のことですから当たり前といえば当たり前ですが、20数年の時と空間を経て、二つの詩が呼応しているように感じられたので、並べて書き写すことにしました。

 私にとってインパクトが大きかったのは、詩としての鮮やかさというだけではなく、ちょうど10歳年上の辻さんが72歳の父を失くした関係とほぼ同じことが、辻父子と同年齢だった時に私と私の父の間にも生じたのだと気づいたからです。そして、私の父も戦争について語らなかったという多くの父親と同じ父ではありましたが、時にもらした南の島の戦争についての言葉をぼんやりとしか記憶していない自分を改めて意識したからでもあります。おぼろげな記憶からは、総攻撃にさらされなかった南の島では、戦争とは戦闘などというより、飢えや病による心身の衰弱との戦いだったとの主旨の話が浮かんできたのです。

 

 今回、小沢信男さんの『捨身なひと』に導かれて、辻征夫さんの詩を少しですが読む機会が得られたことを喜びとしたいと思います。

 詩を詩として批評することなどもとより諦めているようなものですが、私にとって詩とは何か、なぜ詩が必要なのかという問いを意識したりもしました。私にとって詩とは凝縮された言葉によって立ち上ってくる<他者が生きているさま、他者の人生>と出会い向き合うことであり、このことを通じて<自分が生きているさま、自分の人生>と向き合い発見することではないのかと思い至りました。

 私はさまざまな方法によって書かれた言葉を読むことなしにあるいは語られた言葉を聞くことなしに日々を暮らしていけないなあと感じていますが、そんな言葉の渦に巻きこまれ時に方向感覚を失くしてしまう私にとって、詩とは大切な事の本質とか真実とかを教えてくれるものだ、だから詩は必要なんだと考えてきたのかなと、今は偏りをおそれず答えておくことにしましょう。

 

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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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