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2020.10.12 Monday

「生者は果たして死者のために祈り得るか」ー原民喜『夏の花』のことー

 中秋の名月でした。旧暦の8月15日にあたるという10月1日、日没直後のまだ少し明るみの残る東の空には、黄色くて大きな十五夜の月が顔を出していました。手持ちのカメラで撮影してみましたが、その大きさと色の感じが出ません。もう15分ほど歩いてから、同じ方角をみると、闇が深くなり、月は小さくなってしまったようで、色味だけがデジカメに写っていました。

 長谷川櫂さんの『日本人の暦』(2010年12月刊/筑摩書房)で「月見」を覗くと、長谷川自身の句に目がとまりました([ ]内は季語)。

 []   空よりも大きな月の上りけり

 [十六夜] 名月に一夜遅れてけふの月

 前句は、低空の月は大きく見えるという眼の錯覚、月の錯覚と呼ばれるものらしいですが、私にもやはり大きく見えました。後句は、今年は、中秋の名月の翌日10月2日、十六夜が満月だったそうです。

 芋名月ともいうらしく、これはこの日が里芋の収穫祭だったからだそうです(そういえば芋煮の夕食でした)。こんな長谷川の句も出ていました。

 [衣被]  衣被李白を憶ふ杜甫の詩(うた)  

  中秋の名月(日没直後)   [2020.10.1撮影、次も同じ]

  同 上(前記から15分後) 

 本稿では、原民喜(1905-51)の「夏の花」のことにふれたいと思います。

 正直に告白すれば、原民喜が執筆してから75年をへて、初めて「夏の花」を読みました。被爆した広島をテーマとする文学として、これまで多くの方が論じてきていて、そのことは繰り返し読んできたにもかかわらず、本体である「夏の花」という短い小説(これは小説なのでしょうか)を読むことをためらったままで放置してきたといえます。機会がなかっただけなのか、まあ怖がりですから、読んで受ける衝撃を怖れたのでしょうか。

 今回、その気になったのは、1970年に初版された晶文社版の『夏の花』(実際に手にしたのは1981年の10刷版です)のたたずまいに、偶然にも古本屋の棚で対面したからです。今はほとんどみられない函入り本で、その函を覆う絵に心が動いたのです。これは出会いというものであり、読んでみよというサインでもあろうと思ったのです。

 かくして、「夏の花」が「壊滅の序曲」と「廃墟から」に挟まれた三篇からなる『夏の花』を読むことになりました。私の予想とはちがっていました。このうち「夏の花」は、作者の感情、心象をほとんど押し出してこない文体で終始しているという点で、とても静かさをたたえていました。つまり起伏のある強い感情の表出が極力排されており、作者の目と耳でとらえた事実であろう映像の説明文と言いたくなる文章で、全てではないにせよ(この破調にも真実があります)、叙述されています。

 この30頁たらずの小説は、まぎれもなく読む私を強く牽引する力をもっている作品だと感じたのですが、初めて読んだときの「静かさ」という印象との関係を、どう理解すればいいのか、さらには「夏の花」が被爆した広島を描いた文学として高く評価されてきたことと、私の読後感との関係を探ってみたいと考えました。そして、「夏の花」を書いた、書かざるをえなかった原民喜という人物にも興味がわいたのです。このような作品を書いた原がどうして数年を経ずして自死するに至ったのかについても、一つの解釈でもいいので知りたくなりました。

 このために、晶文社版の解説を担当した竹西寛子と、2年前に岩波新書から『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(2018年7月刊)を上梓した梯久美子に、仲介をお願いすることにしたのです。というより、いつものことになりますが、二人の視点を頼りにして、納得できる言葉を探すことにしました。

  原民喜『夏の花』函の表 1970年7月刊(1980年10刷版)/晶文社

  原民喜『夏の花』函の裏

 上記は、晶文社版『夏の花』の函の表と裏です。この絵が誰の手になるものか、いつ頃に描かれたものなのか、この本の記述をはじめ、ネットで調べても手がかりはありませんでした。黒い背景に黄色い花と緑の茎が荒いタッチで描かれ、黄色い絵具を吹きこぼした跡のような点々が光っている、不思議な絵だといえばそうなのです。

 でも、「夏の花」を読めば、冒頭に書かれた、原が前年9月に亡くした妻の墓を訪れたときに持参した「黄色い小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった」という名称を知らない花なのであろうと推察できます。それは1945年8月6日に先だつ8月4日の朝のことでした。 

 

◈渡辺一夫との接点ー「狂気について」ー

 当時(1949年)、『三田文学』の編集を担当していた原民喜は、前年の9月号に寄稿してもらった「狂気について」が、それを標題とする「今度一冊の書物となり読み返すことができたのは嬉しいことだった」と、自身の「「狂気について」など」をタイトルとする短いエッセー(『三田文学』1949年9月号)に記しています。

 この原の小エッセーには、原の多くの作品が青空文庫に揃えられていることから、同文庫の助けを借りて、「夏の花」の理解を助けるために、少し幅広く原の文章を探しているときに出会ったものです。

 

 原は、寄稿者の名前を記していませんが、内容から、最近、当ブログでも紹介した渡辺一夫(1901-75)であることがすぐに分かりました。

 戦後の東西対立の先鋭化・深刻化(翌々年には朝鮮戦争が勃発しました)という時代状況のなかで、渡辺一夫は、前々ブログ(2020.9.19「今、「寛容」ということー渡辺一夫の言葉からー」)で直接取り上げた「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」と同じ1948年に、「狂気について」というエッセーを書いています。そして、ウィキによれば、翌1949年にこれらのエッセーを所収した『狂気についてなど』とのタイトルの単行本が、新樹社という出版社から刊行されています。

 渡辺は、前者の「人間が機械に……」で、人間は自分の作ったものの機械(制度や思想をはじめ)になりやすいという事実に立って、「割り切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解決を求め続ける」ことが大切だ、それがヒューマニズムであると主張していました。一方、その少し前に書かれたと思われる後者の「狂気について」においても、「人間は狂気に陥りやすいものだ(人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在だ)という人間性の認知」、この自覚を持たない、あるいは忘れている人間の精神状態が「狂気」というべきだと、同じヒューマニズムの視点から、「狂気」と「機械」を置きかえたような構造の文章で論じています。

 ですから、ヒューマニズムというものの心核には、原も引用する、次の自覚があるはずだと述べています。

 「 「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られ

  ます。私はそうは思いません。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒

  廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、「狂気」によって捕えやすい

  人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地

  道になされるものです。」

 そして、渡辺は「平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう」とし、「冷静と反省」が行動の準則とならなければならないと主張しています。

 

 この渡辺の言葉について、原は「僕は自分のうちに存在する狂気に気づき、それをどう扱うべきか常に悩んでいるものだが」としつつ、「しっくりと僕の頭脳に沁みてくる」と反応しています。

 そして、「昨日まで戦争という「狂気」の壁に」取りまかれていたが、また新しい戦争という危機がやってこないと断言できるだろうかとし、「こんな「狂気」を僕たちは僕たちの意欲によって避けることは出来ないだろうか」と、原は自問し、「戦争と暴力の否定が現代ぐらゐ真剣に考えられねばならぬ時期はないだろう」としています。

 最後に、原は、渡辺の主張に対し、ペシミスチックになりがちな自分を励ますような文章を残しています。

 「 これらの言葉は、一切が無であろうかと時に目まいがするほど絶望しが

  ちな僕たちに、静かに一つの方向を教へてくれるやうだ。」

 

 「戦争」は「狂気」の産物だとするなら、「原子爆弾」は「狂気」の行き着いた先の凶器というべきでしょう。

 ここで強調しておくべきは、広島の街を8月6日、7日そして8日とさまよい歩き、自分が「狂気」に陥りがちであることを自覚する作家の目と耳に焼き付いた被爆の諸相の映像と言葉の集積というものが、「夏の花」の前提にあったということです。まさに窮地に立った原民喜ですが、疑いようもなく、そんな作家としての目と耳は、働いていました。それは「狂気」のなせるわざではなく、「正気」というほかありますまい、と申しあげたいのです。

 

 そして、こんな苛烈な経験(被爆だけではありません)を経てきた原民喜が、それでもなお、渡辺一夫の言葉に肯定的な態度で接していることに、私はある種の感動を覚えるのです。

 先走りますが、1951年3月の原民喜の自死について、大江健三郎は、新潮文庫版『夏の花・心願の国』の解説で、次のように書いています。

 「 原民喜は狂気しそうになりながら、その勢いを押し戻し、絶望しそうに

  なりながら、なおその勢いを乗り超えつづける人間であったのである。そ

  のように人間的な闘いをよく闘ったうえで、なおかつ自殺しなければなら

  なかったこのような死者は、むしろわれわれを、狂気と絶望に対して闘う

  べく、全身をあげて励ますところの自殺者である。」

 つまり、原民喜という作家は、狂気と絶望に引き込まれそうになりながらも、戦争と原爆という「狂気」の産物を、自分自身の問題として、人類全体の問題としてとらえ、それを乗り越える人間精神につき、「渡辺一夫の言葉」のなかに「一つの方向」を模索しようとしていたといえるのではないかと、私は受けとめたいと考えました。

 この項では、原民喜は、「狂気」と「絶望」に対し、人間的な闘いをつづける人間であったことを確認しておくことにいたしましょう。

 

◈「被爆した広島が言わせる言葉」とはー竹西寛子の視点ー

 1945年8月6日、爆心地から2.5劼亮宅で被爆した、当時16歳であった竹西寛子(1929-)は、25年後の1970年刊の晶文社版『夏の花』に「広島が言わせる言葉」というタイトルの解説を寄せています。さらに35年後の原民喜生誕100周年祭(2005年11月/広島)では、「『夏の花』の喚起」と題する記念講演を行っています。以下では、《解説》《講演》と表記して区別します。

 本項では、竹西の視点に依拠しつつ『夏の花』を考えてみたいのです。

 

 その前に、『夏の花』の外形的な情報を共有しておきます。

 この単行本には、「夏の花」三部作といわれる、三つの短篇「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」がこの順番で並べられています。原民喜は、1944年9月に大きな存在であった妻を亡くし、住んでいた千葉から、翌45年1月に家業(陸海軍・官公庁用達の縫製業)を手伝うということで広島に帰ります。

 「壊滅の序曲」には、帰郷以降のことが、最終行の「原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」という時点まで描かれています。そして「夏の花」は、冒頭の妻と父母の墓参という8月4日のシーンのあと、8月6日の「原子爆弾に襲われた」ところから、被災から逃げようとして街をさまよい、6日夜を川の土手の窪地で越し、7日になって施療所にもなっていた東照宮の石壁の脇で24時間を過ごし、翌8日は長兄の用意した馬車に次兄家族たちと6人で乗って、避難先の八幡村にたどり着いたのは「日もどっぷり暮れた頃」だとあります。ですから、実質は3日間のことです。三つ目の「廃墟から」には、避難先の八幡村に着いて以降の厳しく辛い日々のこと(最後のエピソードには「あの当時から数へてもう4ヵ月も経ってゐる今日」とあります)が描かれています。

 ですから、「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」は、被爆前、被爆とその直後、疎開後という時制的な順に並んでいることになります。

 このことをあえて書いたのは、発表された順でいくと、いずれも『三田文学』に掲載されていますが、「夏の花」は47年6月号、「廃墟から」は47年11月号、そして「壊滅の序曲」は49年1月号と、「夏の花」が最初に発表されていて、これが書かれた順番でもあるからです。

 

 さらに、「夏の花」が発表されるまでの経過も知っておいていただいた方がよいでしょう。

 「夏の花」の元になった原稿は、八幡村の疎開先での食糧不足からくる飢えと被爆の影響による体調不良のなかで、年内、45年11月頃までには書き上げられていました。そのときの題名は「原子爆弾」でした。ですから、「最初の原爆小説と言っても過言ではない」との見解もあります。

 この原稿は、12月中ごろには亡き妻の弟である佐々木基一(1913-93)に送られ、『近代文学』の同人たちに鮮烈な印象を与え、同誌での発表が検討されたのだそうです。しかしながら、『近代文学』はプレスコードと呼ばれた占領政策の事前検閲を受けなければならなくなり、内閲に出したところ、全体として検閲にとおりがたいことが判明して宙に浮くことになりました。それから1年以上も経て、それもタイトルを「原子爆弾」から「夏の花」へと改題し、文章中の3ヵ所を一部削除したうえで(削除部分は1953年の『原民喜作品集』で復元)、事前検閲の対象ではない『三田文学』47年6月号に掲載されたという経緯がありました。

 

 《解説》の冒頭で、竹西は「被爆した広島を言う言葉」と「被爆した広島が言わせる言葉」があると、直観によるがとことわりつつ、区別があると提起します。そして、前者の「広島を言う言葉」には寛容になり得ない、狭量になる自分というものを自覚します。それは、被爆者の自己愛とか、郷土への愛着かもしれないが、「広島が言わせる言葉」が存在することを感じ、経験させられたことがあるからではないかと、この竹西の思いは被爆後25年の間に「強まることはあっても弱まることのなかった私の事実である」というのです。

 この「広島が言わせた言葉の原典としての重み」をもつものが、竹西にとっては、「原民喜の『夏の花』」だと確認しています。

 では「夏の花」を繰りかえして読むのはどうしてなのか、「夏の花」のどこが特別なのかについて、竹西の言葉を拾って引用すると、次のとおりです。

 「 うろたえぬ目、とまどわぬ耳。悲惨を、残酷をあらわし訴えようとした

  人々からとかくみすごされやすかった広島、締め出されやすかった広島が

  そこにあり、私はその配合に緊張し、また温まる。」

 「 言葉の刺激や喚起力の持続性、限定されているようでじつは無限定とさ

  えいえる言葉の、享受の自由の有難さをいまさらのように思う。」

 「 『夏の花』を読めば、こざかしく意味づけられていない広島と必ず会え

  るからである。[㊟以下には『夏の花』に書かれた内容の一端がわかる文章が続きますの

             で、少し長いですが引用します]

  夏の光があり、茶碗を抱えてお湯を呑んでいる黒焦の大頭があり、河岸に

  懸っている梯子に手をかけてまま硬直している死骸があり、地に伏して水

  を求める声があり、その中に玉葱が漂い、喇叭が鳴り、瀕死の人たちのあ

  らわな生きる闘争があるからである。」

 だから、原民喜の「夏の花」は、「広島が言わせた言葉の原典」だと、竹西は次のとおり定位しています。

 「 原民喜は、貴重な資質と意志とによって、意味づけのない広島を遺し得

  た稀有の人である。眩しく恐ろしい人類の行方についてのあらゆる討議の

  前に、一度は見ておかなければならぬもの、一度は聞いておかなければな

  らぬものがここにある。」

 

 この《解説》から35年を経た《講演》において、竹西は、自身が書く苦しさとわずかな喜びを知ったために見えてきたのが、「広島が言わせる言葉」というキーワードであったのであり、それから35年後の理解の深まりを次のとおり語っています。

 「 「広島」を言いたい気持ちは今も、私の中にたくさんあります。でも、

  「広島」という事実、「被爆の広島」という事実に反応する自分をまず言

  うよりも、反応を促した事実を見つめることの大切さを、原さんは教えて

  くれました。言葉で「広島を言う言葉」「広島が言わせる言葉」というの

  はまだ易しい。その違いをどういうふうに実感するか、それは全身的な経

  験になると思います。」

 「 原さんは作品そのもので、気ままに「広島」を言うことをたしなめてい

  る。そう思います。悔しさを言いたい、腹立たしさ、嘆かわしさを訴えた

  い。しかし、なぜそうなったか、悔しさを引き起こす原因を、事実をもっ

  と見極めなければ、その悔しさも腹立たしさも本当に言えることはないだ

  ろう。事実によって引き起こされた人間の内部の変化を性急に訴えるより

  も、変化を促した事実に注目する意識、忍耐、集中力を、原さんは、あの

  作品で示されたと、私は受け止めています。」

 続けて、この「あくまで事実を見通していく力を失ってはならない」ということは、「文学の根本」だと、竹西は原から教わったように思うと発言しています。

 

 《解説》の最後のところで、竹西は、鎮魂という行為について、元は「素直にいとしむ習慣」に生きていたが、今はかなり違って、「所詮死を経験できない生者」の「自分自身の魂鎮め」と思うようになったとし、次の文章を続けています。

 「 生者は果たして死者のために祈り得るか。『夏の花』は、作品全体で

  この疑問符を支えているように思う。この疑問符は、原民喜にとって、

  この時初めてのものではなかったけれど、己惚れや傲りへの警戒は、

  『夏の花』に一貫する叙事的文体にも充分読みとることができる。」

 だから、「言えるものなら、私もまた声をあげて、あの過ちはもう二度と繰り返さぬと言いたい。安らかに眠られよ、とも。だがそう言えない」のは、「人間と言わず、わが身が、わが心がはかり難いからである。頼みがたいからである」と、竹西は述べています。

 そして、「広島を言う言葉」と「広島が言わせる言葉」の区分から始まった《解説》を、次のように締めくくっています。

 「 被爆した広島を言う言葉は、さまざまな目的をもって、今後いっそうせ

  わしく賑やかに交換されるであろう。そして、広島を言う言葉が、時にど

  んな勢いを得ようとも、『夏の花』はそのようなことに関係なく、少しも

  色褪せずに在り続けるであろう。なぜなら、『夏の花』は、広島が言わせ

  た言葉で成り立ち、意味づけられていない広島を遺し、そのことによって

  まさに存在の表現に与り得ていると思うからである。」

 

 引用ばかりになりましたが、私は、この竹西寛子さんのなした一連の論考の説得力に圧倒されました。何に圧倒されたのか、簡潔に記しておきます。

 一つは、竹西のいう「叙事的文体」は、言葉は違えど、同じ印象をもったのですが、その背後にある、その基底にある、原民喜という作家の目と耳のありよう、精神のありようというものを、「広島が言わせる言葉」として「夏の花」を象徴させているところです。「事実を見つめること」が文学の根本であるという竹西の文学観の根っ子には、原の「夏の花」があるということになります。

 もう一つは、そんな原の精神のありようは、前項で記した「「狂気」と「絶望」に対し、人間的な闘いをつづける人間であった」という見方と通じています。それはまた、「狂気」や「機械」に陥りがちであるのが人間であることを「人一倍自覚した人間的な人間」というものの大切さとも直につながっているといえます。そして、竹西自身の「あの過ちは二度と繰り返さぬと言いたいけれど、言えない」という心のあり方にも、つまり竹西の「人間観」があらわれていて、原の精神のありようと共通の基盤を感じました。

 竹西寛子にとって、その文学観と人間観の形成において、原民喜の「夏の花」は、その作家の目と耳のありよう、精神のありようというものは、道標であり、導きの手でもあったのだと、私は思っています。

 

◈「被爆メモ」の存在と『夏の花』ー梯久美子の視点ー

 いつものとおり、たらたらと書いていると、掲載字数の制限が気になり出しました。できるだけコンパクトにします。

 梯久美子の『原民喜 死と愛と孤独の肖像』は、原民喜を幼いころから死にいたるまでを丁寧にたどりながら、「夏の花」はもちろんのこと、その自死への歩みを伴走しています。副題である「死と愛と孤独の肖像」とは、原が死の2年前のエッセーで「私の自我(ママ)像に題する言葉は、/死と愛と孤独/恐らくこの三つの言葉になるだろう」と書いているところから、採られています。

  梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 2018年7月版/岩波新書

 本項では、「夏の花」に関連したことに絞ることにします。

 「夏の花」は被爆直後の3日間が描かれていますが、原は雑嚢の中に入れておいた手帳に、7日の東照宮の境内で「原爆の落とされた瞬間のことから」書き起こされ、8日にたどり着いた八幡村で続きを書き継ぎ、全部で12ページ、2600文字を超える文章が残されました。この手帳のメモ、被爆メモが「夏の花」のもとになっているのです。梯は、「夏の花」を読んでみると、このメモの文章も、「単なるメモにとどまらない完成度をもっていることに驚かされる」と評価し、「心身とも極限状況にあって、限られたスペースにぎりぎりの簡潔さで事実を記そうとしたとき、原の内在する文章のリズムが、骨格のようにあらわれてきたのだろう」と述べています

 一つの事例でメモと本文を比較してみます。前年の妻の死で自分の臨終をも同時に見届けたようなものと思ったと書いた原民喜が、原子爆弾のことを、「夏の花」を書きのこす決意をする大変に重要な場面です。手帳メモには、次のとおり記されています。

 「 我ハ奇蹟的ニ無傷

   ナリシモ、コハ今後生キノビテ

   コノ有様ヲツタヘヨト天ノ命

   ナランカ。サハレ、仕事ハ多カルベシ。   」

 これに対応する「夏の花」の本文は次のとおりです。

 「 長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。

  さばさばした気持ちで、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。か

  ねて、二つに一つは助からないかもしれないと思ってゐたのだが、今、ふ

  と己れが生きてゐることと、その意味が、はっと私を弾いた。

   このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。 」

 この引用に続いて、梯は、次の文章で、「原爆投下後の地獄のような広島で隣人となった死者たちが、原を生きさせることになった」と説明しています。

 「 長いあいだ原は厄災の予感に怯えてきた。それが現実になったとき、ま

  ず生きのびられまいと思っていた自分が、なぜか無傷で生きのびた。幼い

  頃から怖れ、怯え、忌避していた現実世界、それが崩壊したとき、生きる

  意味が、まさに天から降ってきたのだ。」

 言葉が足りませんが、梯の本を最初から読んできた者には説得的なのです。

 

 また梯は、もともと原は心象風景のみを書きつづけてきた作家であったが、この原子爆弾という事態に遭遇して「目と耳でとらえた事象の記録に徹する文体」(竹西のいう「叙事的文体」と同趣旨でしょう)を選んだとし、原自身の変化を強調しています。ですから、「全体を通して、比喩的表現はほとんど見られない」としたうえで、その延長線上というべきか、メモにはない内容が二ヵ所だけ付け加えられていると指摘します。その一つは、8日の馬車から見えた街の姿を、カナまじりの詩で表現しているところです。前記の比喩表現と同様に、未曽有の光景をどう伝えるかを考えた末だろうがとし、原は「この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応しいやうだ」に続けて、次の詩を本文に挿入しています。

 「 ギラギラノ破片ヤ

   灰白色ノ燃エガラガ

   ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ

   アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム

   スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ

   パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ

   テンプクシタ電車ノワキノ

   馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ

   ブスブストケムル電線ノニホヒ            」

 

 以上のように、『夏の花』は原の代表作であるが、原のどの作品とも異質であると指摘されてきたことを、梯は紹介しつつ、『夏の花』が広く読まれるきっかけとなった原の死から3年後の1954年の角川文庫版の解説で、近親者である佐々木基一の「巨大な死の積み重なりを前にして、それまでは死者の目で外界を眺めるのをつねとしてゐた作者が逆に生に甦ったという逆説にも由因する現象であろう」との文章を引用しています。この佐々木の説を「死から生へ、内から外へという原の内面の劇的な変化によって表現も変化したという捉え方」だと肯定しつつ、梯は、もう一つ見逃してならないのは「原の作家としての冷静な目と方法意識」だと強調しています。前記の被爆メモをあの文体で書いたのは「作家としての文学的直観に基いた主体的な選択」ではなかったかとし、梯は、この本を書く過程で蓄積した原の肖像から、次の文章で原の本質をとらえています。

 「 生来の繊細さと、それまでの言語生活で培った表現者としての理性、そ

  して死と死者に対する謙虚さが、大げさなこと、曖昧なこと、主情的なこ

  とを拒否した。メモに如実にあらわれている一貫したその姿勢の上に「夏

  の花」は書かれたのだ。」

 こうした梯の見方、批評は、竹西のほぼ隣に立っているように、私は理解しました。

 梯は多くの方への取材を通じて、数多くの新たな発見をして、この評伝にも書かれているように思いますが、最後の原の自死へと急ぎましょう。

 

 

◈「死によって生きていた作家」ー周到に準備された自殺ー

 原民喜は、1951年3月13日に東京、中央線の西荻窪と吉祥寺の間で鉄道自殺を遂げました。44年9月の妻の死、それから1年足らずで45年8月の広島での被爆に遭った原にとって、その死は周到に準備されたものでした。近くの下宿には、遺書が17通もあって、そのうち妻の弟である佐々木基一あての遺書には次の文章が記されていました。

 「 ながい間、いろいろと親切にして頂いたことを嬉しく思います。僕はい

  ま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死別れてから後の僕の

  作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。」

 遺書とともに残されていて、原の死後に発表された「心願の国」や「永遠のみどり」には、その遺書というべきフレーズも何回も登場しています。

 

 梯久美子は、三浦しをんとの「悲しみの詩人、原民喜を語る」という刊行記念トークイベントのなかで、本書は原民喜の「夏の花」にとどまらず多くの作品を読む契機にしてもらうことを目的とするなかで、彼の自死をどう書くかについて、「若い人たちに自殺を肯定すると受け止められるのではないか」と悩んだと発言しています。でも、「自死のことを避けてはいけないんじゃないか」と思って、「あえて序章にもってきた」と続けています。

 これに応えるように、三浦は、今の若い方たちが原の自殺を知っても「彼の遺した作品や言葉を読めば、それに引きずられることはないんじゃないか」と発言しています。

 埴谷雄高が弔辞のなかで言葉にした「あなたは死によって生きていた作家でした」に触発されるように、梯は、「死への想念にとらわれた幼・少年期があり、妻の愛情に包まれて暮らした青年期があり、孤独の中で書き続けた晩年の日々があった」とする原民喜を描くにあたって、原の評伝を彼の死から始めた意味を次のとおり記しています。

 「 原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そ

  うした考えに至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには

  持って生まれた敏感すぎる魂、幼い頃の家族の死、厄災の予感におののい

  た若い日々、そして妻との出会いと死別が深くかかわっている。

   死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮

  かび上がることがある。原は確かにそんな人のひとりであった。この伝記

  を彼の死から始めるのはそのためである。

 

 このように原民喜のことを考えた梯は、おそろしく原の作品を読み込み関係の方々への取材を重ねた結果であろう本書で、原の自死を表現しようとし、言葉を尽くしています。そんな中から、三つの文章だけを引用しておきます。

 「 最大の理解者である庇護者でもあった妻を戦時中に喪い、その後広島で

  被爆した原にとって、戦後の東京生活は、孤独と貧しさとのたたかいだっ

  た。その中で執筆し、ついに力尽きたのだった。」

 「 終戦直後、「夏の花」を書き、(妻である)貞恵の死の前後を書き、彼女

  に捧げる詩の数々を書いた原は、書くべきものを書くという意欲に燃えて

  いた。住まいを転々とする落ち着かない暮らしの中で、衰えた身体な鞭

  打って書き続けたのである。だがその後、心身に刻まれて消えることのな

  い惨禍の記憶と向き合う中で、死者たちのいる方へと魂は引き寄せられて

  いった。」

 「 原は自死したが、書くべきものを書き終えるまで、苦しさに耐えて生き

  続けた。繰り返しよみがえる惨禍の記憶に打ちのめされそうになりながら

  も、虚無と絶望にあらがって、のちの世を生きる人々に希望を託そうとし

  た。その果ての死であった。」

 本書を通じて、梯は、原の生涯について事実を積み重ねる中で、原の自死について安易な結論を示すことを避けながらも、ある種の必然のようにその死を受け止めようとしているように、私には読めました。

 

 そして、この三つ目の引用文に続けて、梯は、本書の最後に、遺稿である「死について」から長い文章を引用していますが、その一部を再引用しておきましょう。

 「 それから「死」もまた陰惨きわまりない地獄絵としてではなく、できれ

  ば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れて盲ひてし

  まうのではなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節

  を生き抜いてきた若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとっ

  ては大きな慰籍である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いて行くか

  わからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築

  いてゆくより外はないのであろう。」

 梯がこの文章を引用しているのは、原の自死を自殺という面だけでとらえられるのを避けるためでもあり、原が死の直前にこのような心境にあったことを読者に届けたかったということでしょう。本稿の最初の方で引用した大江健三郎の「全身をあげて励ますところの自殺者」との言葉にまっすぐにつながるものでもありましょう。

 私は書ききれなかった思いを残しつつ、竹西寛子の1970年『夏の花』解説文から、次の文章を引用しておきたいと思います。

 「 このやさしい詩人は、決して妻の死を、広島の死を描こうとはしなかっ

  た。妻の死の、広島の死の、さらに奥深くにある何かを怖れ、愛し、それ

  ゆえに祈り、だから意味づけることをしなかったし、事実できなかったの

  だと思う。そのような広島を遺し、被爆後6年目の早春に、原民喜は自ら

  死を選んだ。」

 

 本稿を書こうとしたときに分かっていたことだけれど、私には、原民喜の自死についてつくづく思考の射程が届かないことを思い知りました。

 前記のトークイベントで、梯久美子は「私は彼がどうしてそういう死に方をしたのか理解することが私にとって必要だったんですね」としつつ、思いを吐露するように次のとおり発言しています。

 「 はっきりと一言で言えるような結論は出ませんが、原民喜は絶望して死

  んだ感じでもないんですね。

 

◈おわりに

 中途半端感は否めませんが、このあたりにしておきます。

 今、私は、本稿を書こうとして原民喜の「夏の花」にとどまらず10篇ほどの作品(青空文庫のおかげで)を読めたことをよかったと思っています。

 

 原民喜の死の直後に『群像』1951年5月号に掲載された「心願の国」のなかで、寒い夜に喫茶店に入り「僕がこの世からゐなくなっても、僕のような気質の青年がやはり、こんな風にこんな時刻に、ぼんやりと、この世の片隅に坐つてゐることだろう」に続いて、「僕」が店を出て歩いていると、「向うから跛の青年がとぼとぼ歩いてくる」というシーンがあります。そして「(しっかりやってください)すれちがひざま僕は心のなかで相手にむかつて呼びかけてゐる」という地の文に続いて、次のパスカルの言葉が引用されています。

 「 我々の心を痛め、我々の喉を締めつける一切の悲惨を見せつけられてゐ

  るにもかかわらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできな

  い本能を持つてゐる。(パスカル)

 

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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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