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2020.08.23 Sunday

ピュシスとロゴスの間で生きる人間という存在にー漫画版「風の谷のナウシカ」を起点とする『コロナ新時代への提言2』をみてー(2・完)

 もう一度、漫画版『風の谷のナウシカ 7』(1995年1月初版発行/徳間書店アニメージュ・コミックス・ワイド版)を読み直しました。謎だらけであった前回より視界が開けたと書きたいところですが、相変わらず心もたないのです。でも、このナウシカの物語を起点とする『コロナ新時代への提言2』(以下《提言2》と表記)での福岡伸一の発言は、当たり前ですが、福岡によるひとつの見方(福岡のナウシカ論)を反映したものであることを確認できたと感じています。

 後半にあたる本稿では、ひき続き《提言2》での発言を紹介するとともに、その発言の根っ子にあるものを補足する観点から、漫画版の画像と言葉についても追補的なかたちで紹介してみたいと思っています。

  宮崎駿『風の谷のナウシカ』第7巻表紙

 前稿((1))において、ピュシス(自然)とロゴス(言葉・論理)の相克関係にある人間にとって「理想的に語られることの多い「共生」といっても矛盾だらけのものだ」という福岡伸一の言葉を紹介しました。

 そんな福岡の「ウイルスと人間は共に進化し合う関係」との見方を導入として、人類と感染症との関係について「共生」が求められているとする山本太郎長崎大学熱帯医学研究所教授の考え方を、先行する当ブログ(2020.7.23「ディスタンスというものー映画『コロンバス』に寄せてー」)で紹介しました。その際、山本は「共生といっても、もちろん完全な共生ではなく、私たちにとって「心地よいとはいえない妥協の産物としての共生かもしれない」」としていることも付記していました。

 ここでは、その後、山本の『感染症と文明ー共生への道』(2011年6月刊/岩波新書)を斜め読みしましたので、山本が必要だとする「共生」の背景をもう少し補足しておくことします。

 山本は、感染症と人類の関係について「適応の限界」、「過ぎた適応の副作用」という視点を強調します。このようなことは社会文化的適用にもみられるとし、「狩猟がうまく行きすぎると生態系のバランスは崩れる」「牧畜がうまく行きすぎでも牧草地は荒廃する」を例にあげつつ、「病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた「適応」といえなくはないだろうか」と、次のとおり問題を提起しています。

 「 感染症の根絶は、過去に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化す

  る。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性

  がある。」

 そして、ミシシッピー川や黄河の洪水対策としての堤防の嵩上げをどこまでも続けることができないのと同様に、「感染症のない社会をつくろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるかもしれない」と、山本は説明しています。だから「大惨事を保全しないためには、「共生」の考え方が必要になる」とし、次のような結論を述べています。

 「 重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して「心

  地よいとはいえない」妥協の産物で、どんな適応も完全に最終的なもので

  ありえないということを理解することだろう。心地よい適応は、次の悲

  の始まりに過ぎないのだからる」

 以上から、「21世紀には、「共生」に基づく医学や感染症学の構築が求められている」が、そのためのコスト、「共生のコスト」を必要とすると、山本は注意を喚起します。喩えると「ミシシッピ川における堤防建設以前の例年程度の洪水」といったものかもしれないが、現代の医学は、致死性を有する感染症を見過ごすことはできず、もてる手段を用いて対処しようとすることになります。この「共生」と「適応」の方向が相反するという問題について、山本は、「こうした問題に対処するための処方箋を、今の私はもっていない」としたうえで、次の結語で、この新書を締めくくっています。

 「 どちらか一方が正解だとは思えない。適応に完全なものがないように、

  共生もおそらくは「心地よいとはいえない」妥協の産物として、模索され

  なくてはならないものかもしれない。そして、それは、21世紀を生きる私

  たちにとっての大きな挑戦ともなるのである。」

 このような山本の「共生」の捉え方は、《提言2》における福岡の「共生」「共存」についての発言と近しい関係にあると思いませんか。私は、そう考えています。

 

 あえて、一言付け加えると、山本の「共生」と「適応」の関係性は、福岡のピュシスとロゴスの関係性に似ているともいえそうです。山本の「適応」はロゴスの力に負うところが大きいですし、「共生」の方はピュシス、生命といってもいいのでしょうが、その本質から離れていないというイメージなのです。

 

◈『コロナ新時代への提言2』が提起したこと

           −福岡伸一の発言を中心として−(2-2)

 前稿では、福岡の「コロナ問題が問いかけるもの」「ピュシスとロゴスというキーワード、その間にある存在としての人間」、そして伊藤亜紗の「「利他性」の本質」、さらに福岡の「ウイルスの営みの利他性」と、こんな小見出しを付して、二人の発言を紹介しました。

 ここでは、もう一人の提言者である歴史学者・藤原辰史の発言から紹介を始めます。なお、ここでの藤原の発言は、本年4月にアップした当ブログ(「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(1)(2・完)」)と深く関係していることは申し上げるまでもありません。

 

◉歴史から今のコロナ問題が見えてくるー藤原辰史の発言 

 歴史という視点から、藤原辰史は、スペイン風邪をはじめ感染症との関係で私たち人間の犯してしまいがちな失敗の背景や原因を探っていきます。そして、現下のコロナ問題から見えてくる私たちの「危うさ」を確認し、私たちにとって今、心に刻んでおかなければならないことを指摘しているのです。

 「パンデミックを生きる指針」という広く反響を得た文章の冒頭「人間は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭のぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。私もまた、その傾向を持つ人間のひとりである」というナレーションを受けるように、藤原は、現在のさまざまな経済危機と感染するリスクというなかで国民が不安にかられているような時期には、私たちはとても分かりやすく単純なメッセージを求めてしまうものだといいます。

 例えば、1914年に始まった第一次大戦の終結時期をその年のクリスマス前にはと公式に発言したり(実際は1918年にやっと終結しました)、アジア太平洋戦争時のわが国でも実際は敗退していたのに「転進」という言葉で発表したりするなど、過去の歴史は、非常時において為政者や権力者の発するあいまいな言葉に人々がふとすがってしまいがちであることを教えているというのです。だから、コロナ禍の現在においても、そんなわかりやすくうっとりにするような言葉に警戒を続けていかなければならないのだと警鐘を鳴らします。

 後ほどナチ時代のことに言及するからでしょうか、《提言2》には唐突に「人種主義」という言葉が登場します。人種主義にはいつも甘いメッセージが組み込まれていて、つまり設定として「あなたは正しいのだ」ということが前提になっています。このことが大変に危険なのは、正しいあなたというものを点検する自分が消えてしまうことだといいます。本来は自分たちの頭で考え、これは敗退なんだ、撤退なんだということで、次の新しい方策を考えていかなければならないのだけれど、構造の回転のなかに巻き込まれてしまうというのです。やはり自分の頭で、それを点検し続けなければならないことを教えてくれたのが、今回の新型コロナウイルスなのだと、藤原は発言しています。

  番組内の藤原辰史  峭渋い硫鹽召亡き込まれてしまう/それを点検し続けなければならない」

 もう一つ、コロナ下での問題を、まるで戦争のように勝ち負けの判断をするようになっていないだろうかと、安倍総理、トランプ大統領の映像を背景に、そんな問いを投げかけ、歴史をふりかえると戦争が私たちの間に排除を生んできたと説いています。

 つまり勝ち負けという大きな目標は強い力を発揮し、勝つためならいろんな犠牲を払ったりすることが日常的なことだという状態になります。太平洋戦争時には、勝ちというものに対し、少しでも足を引っ張るような人たちを「非国民」と呼んで決めつけ排除したりしました。今、たとえば魔女狩りのように、感染地域や医療従事者に向かって攻撃的な言葉を集中して投げつけたりすることが起きています。いわゆる自粛警察というもので思い浮かぶのは、ナチ時代の私服の民間監視員による相互監視であり、さらに進めば地域の住民同士による監視や、自分の頭のなかでの自主監視までエスカレートしていった様相と、どこか似ているように感じると、その「危うさ」を指摘しています。

 

 さらに、藤原は、封鎖の2カ月間にわたり毎日の状況を日記を綴って公開を続けた中国の武漢在住の作家である方方の言葉「(文明国家であるあるかどうかの)基準はただ一つしかない/それは弱者に接する態度である」に心打たれたとし、藤原は今のコロナ禍の問題と絡めて語ります。

 パンデミックがどこにしわ寄せがいくのかについて、方方が先の言葉で明らかにしてくれたし、今回、私たちが今日までどこに目をつぶってきたのか、食肉工場での感染拡大やごみ処理問題を例に挙げながら、藤原は私たちが何に支えられているのか、その現実が見えてきたというのです。

 そして、藤原は、コロナ禍で厳しい状況(生きることが苦しくなったり、生活することが困難になったり)に陥った人たちが、そのとき、それでも何とか生きていけそうだと思える社会こそが、文明国家であるはずなのに、いつの間にか物質に囲まれていることが文明国家の基準だと思うようになってしまったといいます。今や、私たちの生活というものが、本当の意味で深いところから問い直されているのではないかと問題提起しているのです。

  番組内に登場した中国の作家である方方の写真 

  「(文明国家であるとかどうかの)基準は/ただ一つしかない/それは弱者に接する態度である」

  番組内の藤原辰史◆

  「文明国家の基準/生きていけそうと思えることか/モノに囲まれていることか」

 前記の方方の武漢日記の日本版は、『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』のタイトルで、来月9月9日に河出書房新社から刊行されるとのことです。中国でははじめはネット上で公開されていましたが、政府当局の検閲によって削除されたり、ネットユーザーによる集中攻撃を受けたりするなか、アカウントを変えたりしながら、不当な攻撃に反発するように日記は続けられたのだそうです。当然のことながらという言葉を使ってしまいますが、中国においては、単行本としての刊行の目処は立っていません。

 なお、前記の「文明国家の基準」についての文章は、2月24日の日記に登場したそうですが、藤原の「パンデミックを生きる指針」からフルバージョンを再引用しておきます。

 「 一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、ク

  ルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学

  技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントがで

  きるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のも

  のを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ

  一つしかない。それは弱者に接する態度である。」

 

 続いて、藤原は、福岡の問いにも答えるような形で、「共生」や「潔癖主義」というある意味で美しい言葉にひそむ闇というものを、ナチ時代の歴史から解剖していきます。

 

◉潔癖主義の闇を乗り越えるためにはー藤原辰史の発言◆

 前稿の最後のところ、「ウイルスの「利他性」」についての福岡の発言に続いて、《提言2》は漫画版『風の谷のナウシカ』の図像を用いつつ(下記はその一部)、「人類と腐海の「共生」は可能なのだろうか」という問いに続いて、「「共生」という美しい言葉で人びとを導き世界を変えた政党、それがナチスだ」というナレーションが流れます。

  番組内の映像  ナウシカは腐海の秘密にふれます

          「きっと腐海そのものがこの世界を浄化するために生まれたのよ」

  番組内の映像  ナウシカは自分も含めた現人類の秘密にも気づきます

          「私たちが汚れそのものだとしたら……」

 藤原は、ナチ時代の1933年には動物保護法、35年には植物保護法が成立し、これを農学者のトップとして先導したのがコンラート・マイヤーだと切り出します。マイヤーの、ナチ政権のめざす農業の理念とは自然との「共生」を重視した減農薬、有機肥料のサスティナブルな方向性のもので、今の私たちの考え方とも近いものであったと、藤原は説明します。

 でも、その農業には動植物との共生は含まれていたけれど、他民族との共生は含まれていなかった、つまり自然との共生をめざす農業であったが、マイヤーの頭の中には、アーリア人以外の人間とは共存できないという人種主義がふつうに共存していたのだと指摘します。こうしてユダヤ人などが虐殺されますが、それがガス殺、つまり消毒に用いる薬品によってガス殺していたわけで、ある何かを象徴しているようだと、藤原は述べています。

 

 この負の歴史が伝えるものは、潔癖主義の恐ろしさだとし、藤原はブロイエルという研究者がナチスのことを「清潔の帝国」と呼び、清潔志向に取りつかれた政治集団だと評したことを紹介します。

 このように無駄とか、邪魔などを一斉に消したくなるということは、20世紀に起こっていたことだとし、人間の人間に対する潔癖なクレンジング、また人間の人間以外の生物に対する潔癖なクレンジングは、両方がリンクして進められてきたのだと、藤原は補足します。

 そして、こうして潔癖主義にみんなが走ってしまう、潔癖主義は、いつも感染しやすいものであり、感染というなかで自分の行動の幅がだんだんと狭まっていくと、藤原は発言し、潔癖主義というものの危険性を指摘しています。

  番組内の藤原辰史 「潔癖主義は感染する」

 続いて「潔癖主義は止められるだろうか」というナレーションを受け、私個人の考えと断ったうえで、福岡は、行きすぎた消毒文化というものはかえって生きている「生命体」としての私たち、ピュシスとしての生命にとって害作用を及ぼすと考えていると語ります。

 そして、もともと私たちは不潔な生物であり、さまざまなものを受け取り、出したりしているのだが、ある種の潔癖主義が暴走しないようにするためにはどうすればいいのでしょうかと、画面ごしに、福岡は藤原に問います。

 

 この福岡の問いに対し、藤原は、現代の農業テクノロジーの問題から語り出します。純粋なモノ、清潔なモノを志向する風潮は農業にも及んであり、培養肉というような屠殺というステップを外してキレイな肉を提供するテクノロジーが展開されはじめており、食べ物や農業もキレイなモノとして私たちが消費するという志向の高まりを指摘します。

 だがしかしと、福岡の人間観に賛意を表しつつ、藤原は、そもそも人間は穢れと清潔を両方持つ存在であり、食べ物に象徴されるように、口から摂取しお尻から出す、口は上水道につながり、お尻は下水道とつながっており、いわば上水と下水の間(はざま)にあるのが人間の定義だと説明します。そして、現在のキレイすぎる人間観を見直していくことが、今回のコロナ問題で私たちが見つけていかなければならない人間観だというのです。

 ですから、人間と人間にしても、人間と自然にしても、そんな簡単に共生できるものではないという地点に立つことが、この悪循環から逃れるポイントだと思いますと、藤原は福岡の問いに答えています。

 

 ここで付言しておくと、前段の「悪循環」とは、上水と下水の間にある、清潔さと穢れを併せ持つ人間存在の現実から乖離して、そのような人間が歯止めなく清潔を、潔癖に求めていくことにより生じてくる状態のことを指していると、私は理解しています。

  番組内の藤原辰史ぁ 崗綽紊伐漆紊隆(はざま)にあるのが人間」

 さて、ここからが《提言2》のハイライトというべき部分になります。

 番組冒頭で、福岡は、コロナ禍の現在、読み直したい本として漫画版『風の谷のナウシカ』をあげ、このナウシカ物語の最大の謎である「ナウシカはなぜ《約束の神殿》を破壊したのか」という問いに答えようとすることで、人類の文明の行く末をとらえ直したいとしていたところです。

 なお、《約束の神殿》とは、前稿においても記載したとおり、宮崎駿自身が《予定調和のユートピア》、福岡が《人類再生のために密かに準備されていた約束の場所》、赤坂が《旧人類のプロミングした未来のシナリオ》と、それぞれ表現しているところです。

 以下では、番組のために漫画版の映像化された図像を前段と後段に分けて掲載し、それぞれのナレーションを紹介したうえで、藤原の最後の発言、そして福岡の総括的な発言を紹介します。

 

 まず、藤原の最後の発言前に5枚の図像を並べ、ナレーションで補足します。前記の《約束の神殿》は漫画版で「墓所」と呼ばれていますが、その前にナウシカがたどり着いた「庭」(この場所も《約束の神殿》の一部だと私は理解しようと思います)の場面ということになります。

 (図)で、ナウシカは相棒である小動物テトを埋葬しています。そこに庭の主が登場して導かれます。そこは理想郷のような場所で((図)、(図))、穢れの一切ない世界でした。でも、ふとナウシカはテトの死を忘れかけている自分におそれおののくのです(図)。この庭は、ナウシカを墓所へ行かせないように足止めするためのワナでした。そこは、死の悲しみや不安すら排除された、穢れのない世界であり、ナウシカは違和感を覚えました。

 (図)で、ナウシカの声、ナレーションの島本須美の声で、図像のセリフ「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては、何も見えないのではないかと……」が流れます。そして、ナレーションで、ナウシカは汚濁を排除した世界では、人は生きられないとさとる、というところで、藤原の発言へ移行します。

 なお、ナウシカはこの庭の主に別れを告げ、墓所へと出発します。 

 番組内の映像[図] ナウシカが死んだテトを埋葬します

  番組内の映像[図] その庭には滅びたはずの木や草がありました

  番組内の映像[図] ナウシカは「安らかな世界」を感じます

  番組内の映像[図]  ナウシカはテトの死を忘れていたことにおののきます

  番組内の映像[図]  ナウシカは庭の主に問います

       「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないかと……」

 藤原は、少なくとも、上記の一連の映像を見て、発言しています。漫画版ナウシカの7巻を読んだのかどうかはわかりませんが、彼なら目を通しているようにも思います。

 これって(上記の映像のこと)今の私たちそのもの、私たち自身、むしろ、決定的に、穢された世界を生きていかざるをえないのであり、どのように折り合りながら、ノイズと共に生き続けていくのかということを考えさせられたと、藤原は反応します。ナウシカのいう、完璧なキレイすぎる生態・調和の世界を私たちが夢見てしまう、このことはものすごくディストピアだと私は思うと続けています。

 そして、自分の違和感に正直になることは(ナウシカのように)、これからの社会を考えていこうとするとき、他者との関係で、葛藤やすれ違いも生じることだろうけれども、そんな対立を対立としてしっかりと受けとめ、そこからヒントを得て、新しい社会においてこんなこともありうるかなというところを見つけていくということではないかとします。 

 最後に、テレビの前の私たちに一番伝えたいというメッセージということでしょうか(ディレクターに促されたのかもしれませんが)、ポツリと、でも確信をもって、藤原は、「思考停止してはいけない」ということ、「思考停止を絶対にしてはいけない」と発言しています。

  番組内の藤原辰史ァ  峪弭幼篁澆靴討呂い韻覆ぁ

 以上、藤原の発言は、パンデミックを生きる私たちに過去の歴史から学ぶべきことを伝えようとしたということになります。それは私たちのパンデミック下における現状のありよう、例えば権威者の言葉に踊らされがちで、相互監視的に排除に同調してしまったり、極端な潔癖主義に一斉に走りそうになってしまう、またそれでいて一番しわ寄せがいく弱者の現実を見ようとはしていない、そんな私たちが忘れてはならないことを、私たちに問うているといえます。そして、こうした現状に抗するためには、自分の頭で点検し続けること、また思考停止しないことというように、私たちがコミットする主体であり続けることを求めていると、私は感じました。

 最後の清潔と穢れの人間観、清浄と汚濁の世界観というべき部分は、《提言2》という番組全体が福岡の考え方を中心軸に、起点と終点、言い換えると、問いと答えという関係として構成されている以上、藤原の発言がわかりにくくなったという感は否めません。でも、それこそ思考停止を拒む藤原の発言は、福岡の発言を補強的に支え、共振する関係にあるといえます。

 

◉ピュシスとロゴスの間にある人間が覚えておかなければならないこと

                        ー福岡伸一の発言ぁ

 最後に《提言2》を締めくくる福岡の総括的な発言は、下記の漫画版からの映像のあと、3分を超えて続きます。

 冒頭で提示した「大きな謎」について、福岡は正面から答えようとしています。もちろん、ある種のカタルシスはありますが、注意しなければならないのは、絶対視してはいけないということです。最後に、福岡は私たちへさらなる問いを投げかけたのだと理解しておいた方がいいのかもしれません。

 

 この漫画版からの映像は、次の言葉とともに流れます。

 (図)でナウシカの向かった墓所が示され、ナレーションは「ナウシカは墓所にたどり着く。そこはかつての人類が汚濁をなくそうと超高度な文明を残した場所。不老不死すら可能とする文明。」

 そして、「ナウシカは墓所の主に問う」というナレーションに続いて、映像のナウシカのセリフがナウシカの声で流れます。ここでも書いておきましょう。「生きることは変わることだ/王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう/腐海も共に生きるだろう……」(図)。「だがお前は変われない/組みこまれた予定があるだけだ/死を否定しているから……」(図)

 墓所の主の声「お前は危険な闇だ/生命は光だ!!」。これに対し、ナウシカ「ちがう/いのちは闇の中のまたたく光だ!!」(図)。

 ナレーションで「そして、ナウシカは墓所を破壊」(図)。

 続けて、「ナウシカの決断をどう捉えるべきなのか。/コロナ新時代を我々はどう生きるべきなのか」と、問いを投げかけます。

  番組内の映像[図] シュアの地にある巨大な墓所

  番組内の映像[図] ナウシカは墓所の主と対峙します 本文参照

  番組内の映像[図] 本文参照

  番組内の映像[図] 本文参照

  番組内の映像[図] 墓所は破壊されます

 この問いに、福岡伸一は、次のように答えます。ここでは、福岡の発言をできるだけ忠実に再現しておくことにします。

 「 私は、「パワーを求めないことが真のパワーだ」ということを、ナウシ

  カが発見したんじゃないかと思いました。

   パワーとは権力や武力のことですが、人間の文明というのは、人間が言

  葉、論理、あるいはある種の虚構をロゴスによって発見したことによって

  発展してきました。ですから、ロゴスの本質は、論理だし、効率性、生産

  性、そしてアルゴリズムによって達成する最適解ですよね、これは、まさ

  に我々、今の社会がAIを使って求めようとしている方向です。そして、こ

  のことが行き着く先は、完全に制御された我々の暮らし、究極のロゴスの

  神殿なわけです。それは、ピュシスとしての我々の生命の在り方を完全

  損なってしまうものでもあるわけです。

   ですから、計画された社会、制御された経済、あるいは完全にコントロ

  ールなものとして成り立っている文明というものを、ナウシカは、本来の

  ピュシスの在り方とは違うということで、これはもう一度やり直すべきで

  はないということで、(墓所を)破壊したと、私は思います。」 

 以上は、前者の「ナウシカの決断をどう捉えるべきなのか」に対する福岡の回答ということになります。

  番組内の福岡伸一ぁ 屮淵Ε轡は本来のピュシスではないと破壊したのではないか」

 「 人間は愚かですから、やはり同じ過ちを繰り返してきましたし、これか

  らも繰り返すと思います。やっぱり歴史から学んだ教訓というものが活か

  されるとすれば、それはですね、ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、

  ピュシスの逆襲を受けたようなことが、過去に何度もあり、そのことをや

  はり思い出して、ロゴス的に行きすぎた制圧のやり方は破綻してピュシス

  があぶり出されてくることを覚えておかなくてはならないことにつながっ

  てくると思います。」

 これが、後者の「コロナ新時代を我々はどう生きるべきなのか」についての福岡の発言ということになります。

  番組内の福岡伸一ァ 屮蹈乾硬に行き過ぎた制圧はピュシスがあぶり出されてくる」

 そして、この最後の福岡の発言とともに《提言2》はエンドとなります。

 エンディングの映像は、漫画版の図像が使われており、ナウシカの声でセリフ私達の生命は風や音のようなもの……/生まれ ひびきあい//消えていく」(図)が静かに語られ、フェイドアウトします。

  番組内の映像  本文参照

 

 お付き合い下さった皆様は、この《提言2》の最後におかれた福岡の総括的発言をどのように読まれましたか。漫画版ナウシカを、特に最終7巻を読まれていない場合は、本稿でも前提となる説明を省いてきたこともあって、「これって何」ということになったかもしれません。この7巻を二回読んだつもりの私ですが、適切な短文で補足して理解を助けることができないのです。

 私自身は、前者の発言を、それこそ逆説的ではありますが、ロゴス、論理上、説得的なものと受けとめました、一方、後者の発言については不充足感というか、最後にもう一度福岡に謎かけされたような思いも残りました。

 

 この福岡の発言、ナウシカの物語への福岡の読みの根底にあるのは、現代の文明への批判です。とりわけ、「アルゴリズムによって達成する最適解」に象徴される「今の社会がAIを使って求めようとする方向」に対する深い懐疑があります。ロゴス一辺倒で走ることを止めない現代文明の行く末へのおそれのようにも感じます。

 そして、福岡の懐疑の根っ子には、番組冒頭の問いである「生命とは何か」「自然とはいったい何か」に対する福岡の到達点というべき、生命観、自然観があり、人間の生命もまた自然の一部を構成する存在であること、つまり人間とはピュシスとロゴスの間で生きる存在、なんとか折り合いながら生きる存在であるという人間観があるといえます。

 ナウシカの世界は、最終戦争から1000年後の世界であり、いわば現代文明の行き着く先ともいうべき、高度に文明化した社会が破壊された後の世界なのです。破滅の危機に立った高度な文明は、人類を含むすべての生命(生物)を遺伝子操作して変えることによって、いつの日か腐海が浄化した後に人類が再生するための核(人間の卵)を墓所として残したというのが物語の構造です。そこには前記のナレーションにある「かつての人類が汚濁をなくそうと超高度な文明を残した場所。不老不死すら可能とする文明」を再生するブログラムが集約された場所でした。

 この「高度に文明化された世界」とは、福岡にとって、繰りかえしますが、現代の人間文明がロゴスの力で向かっていった先にありうる世界であったのです。福岡が懐疑する文明が行き着いた先の世界が、崩壊の危機に直面し、後代に残した、福岡の言葉を使えば《人類再生のために密かに準備されていた約束の場所》すなわち「究極のロゴスの神殿」なのです。

 そして、そのとき再生されるべき人間のビジョンに、ナウシカは、生命のある人間を発見できずに生命を喪失した人間のようなものをみたのだといえます。ですから、この墓所の謎に直面したナウシカは、福岡の言葉でいえば「本来のピュシスの在り方と違うということで」、墓所のブログラムによる再生を否定し(「もう一度やり直すべきではない」)、墓所を破壊したと、福岡は解釈した、読み解いた、言葉が軽いのであれば、自らの生命観、自然観、人間観と深く共鳴するものとして、「ナウシカの決断」を受けとめたということができます。

 これは前者への福岡の回答ですが、それはまた、ぐるっと一回りして、冒頭の「生命とは何か」「自然とは何か」という地点に戻ってくるということもできます。

 

 いたずらに言葉を重ねてしまいました。

 後者、すなわち「コロナ新時代を我々はどう生きるべきか」についての福岡の発言は、不充足感があると書きましたが、それは「ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、ピュシスの逆襲を受けたようなことが、過去に何度もあり」という具体事例について、確信がもてないからです。

 例えば、藤原の発言にあったナチスによるユダヤ人等の虐殺とか、人間の諸活動を起因とする地球温暖化のとどまることを知らない進行だとか、人間のコントロールできない原子力利用の結果としての福島原発の事故とか、いろいろと想定できますし、カタカナ表記のヒロシマ、ナガサキもそうかもしれませんが、どうなのでしょうか。番組全体からすると、理解できるはずだということになりますが、具体の事例に言及しなかったことは(福岡は言及したが、番組の構成上、カットされたということかもしれません)、少し不親切ではなかったかと、私は思いました。

 そしてまた、では私たちはどう生きるべきかについて、福岡は十分な言葉を与えることのないままで締めくくったのではないかという不充足感もありました。でも、これはむしろ、福岡が、《提言2》が、現下のパンデミック(コロナ新時代)を生きる我々に対し、ロゴスの力によって成り立っている現代の文明の行く末について、本当にこれでいいのでしょうかと謎かけ、というか問題提起したのだと考えることもできます。

 私はそう受けとめることにしたいと思います。

 

 もう一つだけ、言葉遊びになるかもしれませんが、付記しておきます。

 「〇〇すぎた(過ぎた)」という言葉が、福岡と藤原の発言に頻発しています。それだけでなく本稿の最初に記した山本太郎長崎大教授も「共生」との関係で「適応」に関して使っています。

 福岡の最後の発言には「ロゴス的に走りすぎた」「ロゴス的に行きすぎた制圧」、そして藤原への質問にも「行きすぎた消毒文化」と表現されていました。藤原には「完璧なキレイすぎる生態・調和の世界」「現在のキレイすぎる人間観」もありました。山本には「過ぎた適応」として「うまく行きすぎた」が使われています。

 ここで申し上げておきたいのは、この「〇〇すぎた(過ぎた)」は、あるべき加減を超えたとか、極端とかということになりますが、それは「共生」「共存」という状態にとって最大の難関になるということです。藤原の「潔癖主義の闇という問題」(「潔癖すぎる」などといいますが)、福岡の「ピュシスとしての生命という問題」において、また山本の「感染症との共生という問題」において、「〇〇すぎる」状態はその実現を阻む方向性だということです。

 福岡が述べているとおり共生は矛盾だらけの困難なものですが、当ブログでも引用した山本の「私たちヒトは、微生物との複雑な混合物以外のなにものでもないのかもしれない。そうした「私」が、同じような複雑なマクロ(自然)の生態系に守られて生きている(生かされている)。それが、人の存在なのであろう」という地点に立つことが、「〇〇すぎた」ことに陥らないようにするキーではないか、そして心地よいとはいえない妥協の産物である「共生」への道ではないかと、私は考えています。

 人間は人間だけの世界で生きることができないのですから(地球上に人間だけの世界は想定できない)、完璧に消毒されたキレイな世界で生命は生命たりえないと、私も思っています。

 

◈あわりにならないけれど

 すいません。息切れしてしまいました。漫画版のナウシカを補足的に紹介するなかで、《提言2》の発言を、もっと掘り下げようと思ったのですが、やはり私には無理でした。

 いずれにしても、福岡伸一の問いのおかげで、漫画版『風の谷のナウシカ』の世界に初めて少しふれることができたことを感謝しています。

 

【追録】なぜナウシカは「約束の神殿」を破壊したのか

            ー『風の谷のナウシカ』7巻から少し補足してー

 前記のように、説明抜きですが、ナウシカの7巻から気になった画像を拾遺し、《提言2》で使われた映像の前後に並べています。なお、7巻の掲載ページ数を付記しています。

ナウシカは汚濁を排除した世界(庭)を去ることを決意した

  [p130/再掲] そして「永い間、疑問でした」と庭の主に問います。

  [p132/再掲] ナウシカは自分の生命観を言葉にします。

         このページが《提言2》のエンディングで使われたものです。  

     [p132] 生態系も生命も作り変えられた事実に戦慄します。

     [p133] ナウシカは真実を確かめようと墓所へ行こうとします。

      「この庭は墓所の貯蔵庫です……/中心ではありません」

     [p172] ナウシカは墓所への途中、自分の生命観を再確認し、「ちがう」と叫びます。

 

墓所の主の言葉にナウシカは「否」と答えた

      [p195] ナウシカは、墓所の主と対峙します。

      墓所の主は、今は永い浄化の時で、やがて再生の時が来ると語ります。 

     [p196] 墓所の主は「世界の再建に力を貸してくれ」とナウシカに呼びかけます。

     [p196] 墓所の主の呼びかけに、ナウシカは「否!!」と拒絶します。

     [p198] ナウシカは「あくまであざむくのか」と迫ります。

      「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ

       /生命は生命の力で生きている」

      [p198/再掲] 《提言2》にも登場する図像が2枚続きます。

     [p198/再掲] ナウシカは墓所の主に真実を語れと迫ります。

     [p199] 墓所の主は「旧世界の墓標であり、同時に新しい世界への希望だ」と説きます。

     [p200] ナウシカは、墓所を作った人達が「清浄と汚濁こそ生命だということに」を

      なぜ気づかなかったのだろうと自問します。

    [p201] 墓所の主は「娘よ、お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるにまかせるというか?」

      とナウシカに迫ります。

     [p201/再掲] 「人類はわたしなしでは滅びる」「それは虚無だ」と言う墓所の主に対し、

         ナウシカは「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」と返します。

      [p202] ナウシカは「すべては闇から生まれ闇に帰る」「お前達も

       闇に帰るがよい!!」と言い放ちます。

                  【終:(1)へ/(2・完)】

 

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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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