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2020.07.13 Monday

10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー

 臨時休業(4/14から)の続いていた神戸元町の古書店「花森書林」が、先日(7/2)、2ヵ月半ぶりに店を再開しました。再開の準備に日にちをかけるつもりだと語っていた店主の言のとおり(2020.6.10「六甲の坂に途中にー「口笛文庫」のたたずまいー」)、本棚の位置や角度など店内のレイアウトや本の並べ方(いわゆる「棚をつくる」ということなのでしょうか)にも手が加えられれていました。そんな店内の様子などはまた別途報告したいと思っています。

 本棚の前部に横になっておかれていたパンフレット風の小冊子に「辻征夫」という名前を発見したからでしょうか、『余白の時間 辻征夫さんの思い出』(2012年10月刊)を手に入れました。著者は八木幹夫、版元はシマウマ書房、いずれも聞いたことがありませんでした。でも、この2010年8月の講演録に加筆したという小型で薄い本は、辻征夫という詩人の詩へと誘ってくれ、とても気持ちのよい読書となりました。

 当ブログでは、小沢信男の『捨身なひと』に、私にとって「一応ですが読みましたとまで言えない詩人」であった辻征夫のことが取り上げられていて、この文章に刺激されて、「捨身の人」である辻征夫の詩の断片を紹介したことがありました(2016.12.6「『捨身なひと』から《辻征夫》へ」)。本稿は、この続きというより、八木幹夫という友情に厚い詩人仲間からの「捧げもの」「贈りもの」である小冊子を起点に、もう一度、辻征夫の詩を読み返し味わってみることにします。

 

◈敬愛する詩人への贈りものー「宿題」ー

 この80頁足らずの本の最後のところで、八木幹夫は「辻征夫を思うと、時々、ああ、いい詩人を失ってしまったなあという実感が湧きます」という言葉を発しています。そして、亡くなる3ヵ月前の辻の俳句「満月や大人になってもついてくる」を紹介し、「辻さんは満月のように私たちのうしろについてくるようです」と、名古屋の古本屋さんであるシマウマ書房の主催した講演を締めくくっています。

 八木幹夫は年少の詩を書く仲間かつ遊び仲間として、生前に14年ほど付き合ったという辻征夫(1939-2000)のことを、亡くなってからちょうど10年後のこの講演の冒頭で回想しています。辻征夫は「出会ったときから、そのヌーボーとした、飄々とした表情。そういうところに不思議な魅力のある人」で、寡黙だが「時々ぼそぼそっと声を出して、それがじつにユニークな、その場にいる人たちの心をふっとつかみ取ってしまう魅力的なジョークを言う人でした」とスケッチします。このように辻の人となりを紹介したうえで、続けて、八木は、次のようにも辻を評し、講演の中で、いろんな角度から、辻征夫という詩人と詩の本質へと話を展開させていきます。

 「 辻征夫というと、ユーモアのあるライト・ヴァースの詩人と言われがち

  なんですが、それは一面的で、実際の辻征夫は、一緒に話をしたり、その

  著作を読めば読むほど、じつは広範な知識を持っていて、自分にとても厳

  しい方だったということができます。」

 ここでは、八木の語る、その本質まで詳細に紹介できませんが、章立ての言葉から、八木の意図というものはうかがうことができます。「教養の深まり」「成熟した日本語」「批評意識のある抒情詩」ときて、「写真紹介」をはさみ、「吟遊詩人の闘い」「モノローグからの解放」「対話篇ーダイアローグの展開へ」「男性原理ー狼の悲哀」と続けています。辻征夫の詩の特質をとらえた的確な言葉が並んでいるものと、私は感じています。

 エピソードを一つ。八木の家に辻征夫が遊びに来たとき、ぼーっとしているような雰囲気の辻のことを「私の家内は、あの人がそんなに尊敬する詩人なの?偉そうには見えないんだけどって(笑)」だったそうです。そのあとで辻の詩を読んで「ああ辻さんはすごい」となり、「詩を読んで泣いたの初めて」とすっかり感動したそうで、「なにかのんきそうに見える実態と、書いているものが釣り合わない感じがする」と言っていたとあります。

 

 八木幹夫(1947-)はウィキにも詩人として掲載されていますが、私はその詩を読んだことがありません。相模原市内の公立中学校で36年間英語教師を務めるかたわらで詩を書いてきた人のようです(日本現代詩人会理事長も務めた)。八木も辻も後述する「余白句会」のメンバーで、同句会は辻と作家の小沢信男の出会いから、小沢を師匠として始められました。『捨身なひと』で辻征夫の肖像を描いた小沢は、八木幹夫についても、ポルトレを書いています。その中で、市民として堅実な家庭を築き、職場では信望が厚いと描いたうえで、「円満具足の詩人、それこそが八木幹夫なのだ」でも「この人には、過剰なものがある。ハートが温かすぎる。思いが溢れる」とも観察していました。

 そんな八木だからこそ、その人となりと詩を敬愛してきた辻征夫へ「10年目の贈りもの」として、この小冊子を捧げることができたのであろうと、私は理解したいと思っています。

 

 講演の最後に、八木が「自分の詩でもあるような、自分の詩でもありたいような」と朗読している辻征夫の「宿題」という詩(今から振りかえると早い晩年を予感させるものです)を再引用してみます。

     宿題

  

  すぐにしなければいけなかったのに

  あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった

  いまならたやすくできてあしたのあさには

  はいできましたとさしだすことができるのに

  せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて

  もうわたくしのしゅくだいはみてはくださらない

  わかきひに ただいちど

  あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて

  げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに

  わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった

 この詩は、1998年5月刊の最後の詩集となった『萌えいづる若葉に対峙して』に収められた一篇です(自筆年譜には「この頃より歩行の際バランスを崩すことが多くなる」とあります)。十代の萌えいづる若葉のころに詩を書くことを「しゅくだい」と思い定めた人が、早くから表現者であることに目覚めた人が、「この40年間骨身をけずってきた」地点から、出発点とその後の人生を振りかえっている詩だと読みました。もとより2年後の2000年正月に亡くなったときの辻(「脊髄小脳変性症」という難病で亡くなっています)の年齢をこえた八木もまた、そのような思いを同感していることとなります。

 そして、「詩」ではなくても、それぞれにも「詩」のようなものがあるとして、こうしたつぶやきのような感慨は、多くの人たちが共有しているといえるでしょう。

  八木幹夫著『余白の時間 辻征夫さんの思い出』 2012年10月刊/シマウマ書房

 

◈余白句会の効用ー「突然の別れの日に」ー

 先述の「余白句会」の発足のきっかけについて、前記の当ブログでも、辻征夫は詩の雑誌(詩誌『詩学』)の投稿作品の選者として年長の作家である小沢信男と出会い、「なぜかウマがあい、「余白句会」と呼ぶ句会をつくり」という小沢の文章を引用していました。

 八木はもう少し詳しく、選考が終わったあとの打ち上げの席で、辻が小沢の句と知らないで種村季弘のエッセーに載っていた「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地」という俳句がいいねと話しかけると、小沢は「ちょっと間をおいて照れ臭そうに「いや、それ僕の句なんだけど」」となったことがきっかけとなったと語っています。次の選考会のとき、辻は「小沢さん、ぼくらの先生になってくれない?」と頼んだそうで、辻の呼びかけに応えた詩人たち(八木幹夫もその一人)が参加して誕生したのが、「余白句会」なのだそうです。

 こうした句会の効用というものを、八木は、現代詩というのは一種の孤独な作業で、モノローグの世界だけれども、俳句はある意味で共同作業というところがあって「他者の意見が創作行為の中に反映される」ことを経験させてくれたのが、余白句会であったとしています(たとえば俳句の添削に関連した記事:2020.5.26「「解除」という空気感のなかで」)。そして「そういう俳句の現場はやはり面白かったし、言葉の鍛錬になった」としつつ、「詩を書くにも各々の肥やしになっていったという感じですね」と説明しています。

 ですから、ダイアローグの要素を取り込み始めたときに、「辻征夫の詩の世界が大きく膨らみ、のびやかになった」のであり、このことに句会、そして俳句の後押しもあったのではないかと、八木はみているのです。

 

 このあたりのことを、辻征夫のエッセーから探っておくことにします。

 「遊び心と本気」(「『ゴーシュの肖像』2002年1月刊/書肆山田」に所収)というエッセーのなかで、余白句会について、遊び心から始まり、遊び心を保って楽しくやって衰える気配のない背景というものを、次のとおり、「現代詩の成熟の自覚」に関わると述べています。

 「 かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩

  の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに《別の地点》という力みか

  らも自由であると自覚している。これは同時に、詩の成熟の自覚といって

  もいい。」

 つまり、戦後の現代詩は伝統的な短歌俳句の扱ってきた叙情性というものの否定から出発し、新しい詩の世界を構築しようとしたけれど、戦後40年、もはやそういう時代は過ぎたのだという認識を、辻は強く抱いていました。それは「元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思い」から来ているとし、江戸以来の俳句は「簡潔な認識と季節感の宝庫」であり、だから「現代詩にとっても貴重な遺産」だというのです。

 詩人たちの集まる余白句会から、「詩に何を持ち帰るかは各自の勝手」であるが、辻自身は自作の句を使って突き飛ばすような感じで「俳諧辻詩集」という連作を試みているのだと告白しており、次の思いを語っています。

 「 私にはときたまの連衆との座は一つの救いだが、他の詩人諸公にとって

  もあるいは思いは同じなのかも知れない。」

 

 前記の『ゴーシュの肖像』に収められた辻征夫の講演録「こんな詩がある」(1996年5月/愛知淑徳短期大学)には、辻の詩への思いとともに俳句への関心がより明確に語られています。

 辻は、幅広く自他の詩作品を紹介しながら、話を進めています。現下の詩というもの、難解という袋小路に入り込んだ現代詩の不毛を強く意識していたからなのか、講演中に二度ばかり、次の発言を繰りかえし強調しています。

 「 そういう状況になってしまった詩を、もっと生き生きとさせて、みんな

  が面白いと思って、面白いけれど何か考えさせられるなぁ、というものを

  作らなければいけない。一番大事なことは、生き生きしているというこ

  となんですね。」

 それを取り戻すためだったら、「下手な俳句だろうと、短歌だろうと、なりふりかまわないでやってしまう」とし、俳句を実作するようになったのは、「実作者になってしまえば「歳時記」を読む時の読みの深さが違ってくるのではないか」と思ったからだと述べているのです。その読みの違いは「詩の世界にも必ず現れて、何か変化が起きてくるはずだ」とし、二つの詩、「さようなら」と「突然の別れの日に」の順に作者名を伏せて朗読しています。

 この詩の作者は、「さようなら」が谷川俊太郎、「突然の別れの日に」が辻自身ですが、ここでは、辻の詩を引用します。

     突然の別れの日に

 

  知らない子が

  うちにきて

  玄関に立っている

  ははが出てきて

  いまごろどこで遊んでいたのかと

  叱っている

  おかあさん

  その子はぼくじゃないんだよ

  ぼくはここだよといいたいけれど

  こういうときは

  声が出ないものなんだ

  その子は

  ははといっしょに奥へ行く

  宿題は?

  手を洗いなさい!

  ごはんまだ?

  いろんなことばが

  いちどきにきこえる

 

  ああ今日がその日だなんて

  知らなかった

  ぼくはもう

  このうちを出て

  思い出がみんな消えるとおい場所まで

  歩いて行かなくちゃならない

  そうしてある日

  別の子供になって

  どこかよそのうちの玄関に立っているんだ

  あの子みたいに

  ただいまって

 なお、谷川俊太郎の「さようなら」という詩は、当ブログでも一度引用したことがありますので(2018.8.5「「行って帰ります」と「さようなら」ー美しい言葉はー」の【追記】)、ここでは引用を省略します。

 辻は、二つの詩を読んだあと、「どこか似た雰囲気のある作品だと思うんですが」といいつつ、「「さようなら」を読んで感じた不思議なものが、数年たって「突然の別れの日に」というぼくの作品になったんです」と説明しています。自作したとき、谷川の詩のことは忘れていたけれど、あとで気がついてみると、そんな不思議な事態が起こってしまっていたというのです。

 そして、種明かしのように、俳句との関係についてふれ、数年の隔たりがあるが、連句のようなものだった、つまり谷川の発句に対して辻が脇をつけた、という形になっていると思うんですと、辻は語っています。

 なお、蛇足ですが、辻がこの詩で感じてほしいと思っていたのは「子供の生命というものは個人を離れて自由に行き交っている。しかも、そういう記憶を失って、ぼくたちは悲しい大人になってしまう」というようなことだと述べ、詩の解釈の多義性へと話題を広げています。

  辻征夫著『ゴーシュの肖像』 2002年1月刊/書肆山田

 

◈「転調」という核心ー「あの日」をめぐってー

 この項では、詩集『かぜのひきかた』に所収の一篇、「ある日」をめぐっての話を紹介します。

 八木は、同書の「吟遊詩人の闘い」と表題された項で、「ある日」を引用して論じています。辻征夫は1939年生まれ、いわば安保世代であり、60、70年代という政治の季節において、詩人たらんとした辻は「個の問題と社会という問題とを常に対決して考えさせられる」只中にいたのだと、八木は説いています。当時は「一茎の花に目を向けて、一茎の花をうたう抒情詩人は現代では詩人たりえないという状況」にあったといえるのであり、そのようななかで1970年に辻の出した第二詩集のタイトルが『いまは吟遊詩人』であったように、八木は、そうした時代状況にあって辻が詩への基本姿勢を次のとおり確認していたとみています。

 「 辻征夫という人は、要するに文学の原点、根本にある憧れだとか、ロ

  ンというもの、それを捨てたらば、詩人としては駄目だということを常

  自分の胸の中に反復していた。」

 こうした時代を経てきたからこそ、八木は辻の詩の言葉がもう一つ深いところへ入り込むことができたのだと前置きして、「ある日」を朗読しているのです。まずは引用しておきます。

     ある日

 

  ある日

  会社をさぼった

  あんまり天気がよかったので

 

  公園で

  半日すごして

  午後は

  映画をみた

  つまり人間らしくだな

  生きたいんだよぼくは

  なんて

 

  おっさんが喋っていた

  俳優なのだおっさんは

  芸術家かもしれないのだおっさんは

 

  ぼくにも かなしいものが すこしあって

  それを女のなかにいれてしばらく

  じっとしていたい

 八木は、この詩の一行空けて「おっさんが喋っていた」という、主体の切り替え、また一行空けて「ぼくにも かなしいものが すこしあって」という、もう一度の切り替えという点に注意を促しつつ、次のとおり「転調」の技術というものを強調しています。

 「 こういう持ち込み方というのは、やっぱり技術がなければ詩は書けない

  ということの典型だと思いますし、そういう転調を辻さんは長い時間の中

  で獲得したんではないかと思うんです。」

 この「転調」という技術を、私にどこまで理解できているのか心配ですが、辻征夫は、八木が「吟遊詩人の闘い」と呼んでいる時代状況と向き合ってきた長期の修練や、前項でふれた俳句の実作を通じたダイアローグの可能性の探求などを経て獲得したということができます。

 でもいうべきか、詩の「技術」というものは、詩の書き方であり、詩の書き方は詩の技術にとどまることなく、辻の詩人としての生きる姿勢 人間としての生き方を密接に反映しているのではないかと、私は感じてもいるのです。

 

 ここでは、八木の「転調」という技術について基本は賛同しつつも、「ある日」という詩から別の問いを引き出した二人の文章に、ネット上ですが、出会いましたので紹介しておこうと思います。二つのブログ、林哲夫の「daily-sumus」と谷内修三の「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」で、八木の同書が出版された当時に、いずれも辻の「転調」という詩の技法とその実例としての「ある日」を取り上げていました。

 まず、神戸にはなじみの深い林哲夫の方です(2012.9.22)。

 林は、辻の詩を「かなり技巧派」だとし、「「ある日」も実に巧妙な作品である」と評したうえで、余白句会の誕生エピソードである小沢信男の句「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の墓地」を持ち出し、次のように断じています。

 「 考えてみると、「ある日」の作り方は「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨

  の墓地」とまったくと言っていいほど同じではないのか?辻の詩法(それ

  非常に現代詩的なものだと思うが)は俳句の構造をもっていると断言して

  いいように思う。」

 いかがでしょうか。私の理解不足なのでしょうが、私はなるほどそうですねと書くことができません。

 この俳句は「学成らず」と「もんじゃ焼いてる」と「梅雨の墓地」の三つの相互の意味関連のないパートから構成されており、このパートが意図をもって並べられると、急に映像と意味が浮かび上がってくるということと、「ある日」という詩の骨格が関連づけられるというのでしょうか。林は、こんな俳句の技法が、辻の詩の技法に取り込まれている、いわば身体化していると言いたいのでしょうか。

 辻の詩における「転調」の技術は俳句の構造に通じている、このような理解は、たしかに面白い視点だといえますが、私には、ホントにそうでしょうかという、違和感のようなものがなお残ります。

 林は、八木の『余白の時間』を「辻ファンには必読の一冊であろう」と記事を結んでいます。

 

 もう一人、谷内修三の方です(2012.11.18)。この方のブログは当ブログが対象とする本や詩人と重なることも多く、だからネットでヒットすることも多い人で、その質量はちょっと驚異的なのです。

 谷内は、先に引用した八木の「転調」にかかる文章を引用し、それを辻の「核心」にふれているとしたうえて、「それ自体はたしかに「技術」だと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)」はほんとうにすばらしいと思う」と肯定的に評価します。そのうえで、「ある日」を引用し、「私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる」と、谷内は疑念を表明します。

 「「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる」と、転調の技術の背景というもの、根っこにあるものを、谷内は探ろうとしています。そして、辻が抱え込んでいた「「業の深さ」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う」とし、この記事を、次のように締めくくっています。

 「 辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という

  形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生

  きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。そ

  の呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人

  なのだと思った。」

 この谷内の見方に違和感をもちつつも、全否定することができません。林の論への違和感とは反対に、つまり林の論は肯定したいけれど残る違和感であるのに対し、谷内の論は否定したいけれど否定しきれない違和感なのです。

 岩波文庫から『辻征夫詩集』(2015年2月刊)が谷川俊太郎を編者として刊行されたとき、谷内は自分のブログ(2015.3.2)で「谷川俊太郎って辻征夫の詩が好きだったんだ」「いや、想像したことがなかった」と驚きを記しています。谷内にとって、谷川の詩は論理的だが「理屈っぽくない」が、一方、辻の詩は論理的かもしれないけれど「理屈っぽい」と感じていて、谷川の詩のことばのスピード感と合わないと思っていたようなのです(谷川が辻の詩を高く評価していることが、谷内には理解できない)。

 最後のところで、「何とはなしに、あ、辻というのは孤独(ひとり)を生きたひとだったんだなあ、と思う。(そこが「ひとりっこ」の谷川と重なるのかなあ……。)」という感想をつぶやいています。

 こう思う谷内にとって、辻の「転調」の技術は、モノローグからダイアローグへの転調だといっても、「孤独(ひとり)を生きた」辻の「結局モノローグの変形」なのだと理解していたといえるでしょう。

 私にとってはどうかとなりますと、辻の「孤独(ひとり)を生きる」ということ、そして自己韜晦、自己隠蔽ということは、八木の紹介した辻の家族関係、交友関係という点から補助線を引くと、私自身がそうだという意識があるからかもしれませんが、ごくノーマルなものであったと受けとめることができます。つまり辻の「転調」がそのための技術だと断じることができないのです。私に辻の孤独など想像できないのだとの批判は受け入れたとして、谷内の辻の詩への見方は、「うさんくさい」という印象ありきでいささか一面的ではないかと思っています。

 にもかかわらず私が否定しきることができないと書いているのは、辻の「転調」の技術という詩の書き方と、生き方という抽象的なありようがやはり切り離すことができないものであろうと考えていることと関係しています。

 

◈おわりに

  ーエッセー「ある現場監督への手紙ー金子光晴「信頼」」ー

 今回、『ゴーシュの肖像』に所収されたエッセーから、辻征夫の死(2000.1.14)の前年1999年に発表されたものを集中して読んでみました。どのエッセーにも、死の影のようなものがあらわれています。そのうちの一つ、「ある現場監督への手紙」(1999.4『現代詩手帖』)を紹介します。

 辻は一人だけで行く酒場で(「ジョッキを傾けながら、1、2冊の本を前にあれこれ考えをめぐらす」ことを好むとあります)、やはり一人だけで来ていた建設の現場監督の方と出会い、その酒場だけで10年ほど「交誼」を続けてきたのだそうです。お互いの名前を知るようになったのも1年後であり、このような交誼が続くのは、その方が「私が黙っているときにはいつまでも黙っているという、私への配慮によっている」と、辻は記しています。

 ある編集部から「ふだん詩に接することの少ない読者に、現代詩のことばの森へ踏み入る一つの契機を」という要請を受け、辻はこの現場監督の顔を思い浮かべて書いたのが、このエッセーです。最後に金子光晴の「信頼」という詩を引用しているのですが、その直前の文章は次のとおりです。

 「 編集部からの要請にしたがって、ともかく一篇の詩を、私はこの手紙と

  ともに貴君に渡しますが、それをどう読もうと(あるいは読むまいと)貴君

  の自由です。手紙を読んだ後、おそらく少しとまどったおももちで、貴君

  がまたこの酒場に現れるでしょうか。そのときもし私の姿が見えなくて

  も、その次の機会次の機会と、三回までは私を探して下さい。それでもな

  お私の姿を見ることがなかったら、私はおそらく、二度と貴君の前に現れ

  ないでしょう。あえて告げることなく過ごして来ましたが、年齢を加えた

  貴君の顔に、いま眼鏡はぴったりとなじんでいますよ。」

 そして、辻が現場監督に読んでもらおうとした金子光晴の詩を引用します。

 

     信頼

 

   かつて大きな悲嘆もしらず

  眼前がゆき止まりになったおぼえもなく

  また、水のせせらぎ、雨の音の

  すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、

 

   妻は生涯背かぬもの、

  日や月の運行とともに

  一生は平穏無事なもの、

  けふが昨日と同じだったやうに

  あすも又なんの屈託もなしとおもふ。

 

  さういふ人をさわがせてはならぬ。

  さういふ人のうしろ影もふまず、

  気のつかぬやうにひっそりと、

  傍らをすりぬけてゆかなばならぬ。

 

  さういふ人こそ今は貴重である。

  さういふ人からにほひこぼれる花、

  さういふ人の信頼や夢こそ、

  ほんたうに無垢なのだ。荒い息もするな。

 辻は、このエッセーをどんな気持ちで書いたのでしょう。「私はああいうもの、貴君や貴君のお友だちには何の意味のないと思われるものに、この四十年間骨身をけずって来た」者から、ある現場監督への、長年の交誼に対する感謝と信頼の表明であり、遺言のつもりではなかったかと思っています。

 

 最後に、先に取り上げた「こんな詩もある」という1996年の愛知淑徳短期大学での講演において(学生たちを前にしていたのでしょう)、最後に辻自身によって朗読された自作の「蟻の涙」にふれておこうと思います。

 詩の専門誌ではなく、一般の何万という会員がいる雑誌から、「若い人たちを励ますような詩を書いてください」との依頼があり、とまどいながらも腹をくくって、先月(だから1996年4月)に書いた作品だと、辻は紹介しています。そして、続きを書くことになっているとし、「蟻の涙」で言っていることの疑問を書こうと思っていると語っています。それが前記の岩波文庫『辻征夫詩集』にも所収されている「蟻の涙2」です。

 「蟻の涙」と「蟻の涙2」を引用しておきましょう。

    蟻の涙

 

  どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく

  かずおおくの若いひとたちのなかの

  任意のひとりでもなく

  この世界にひとりしかいない

  今このページを読んでいる

  あなたがいちばんききたい言葉はなんだろうか

  

  人間と呼ばれる数十億のなかの

  あなたが知らないどこかのだれかではなく

  いまこの詩を書きはじめて題名のわきに

  漢字三字の名を記したぼくは

  たとえばこういう言葉をききたいと思う

  きみがどんなに悪人であり俗物であっても

 

  きみのなかに残っているにちがいない

  ちいさな無垢をわたくしは信ずる

  それがたとえば蟻の涙ほどのちいささであっても

  それがあるかぎりきみはあるとき

  たちあがることができる

  世界はきみが荒れすさんでいるときも

  きみを信じている

 続いては、この詩への応答というべき「蟻の涙2」です。

     蟻の涙2

 

  きみを信じている

  という言葉ほど

  ぼくを困惑させるものはない

  このぼくのどこに

  汚れていないもの

  無垢があるというのか

 

  蟻が涙を流すとは

  ファーブルも書いていないが

  蟻がいることだけは信じよう

  ほらぼくのなかで

  もう動き始めている

  黒い

  疑念の蟻

  問え!

  という言葉が聞こえる

  きみが自分を信じようと信じまいと

  激烈に問え!

 先に同じ講演のなかで、谷川俊太郎の「さようなら」と辻の「突然の別れの日に」は、辻自身が、連句の発句と脇の関係だと説明していたことを述べました。この「蟻の涙」と「蟻の涙2」の関係もまた、辻にとって自作自演のそういうものかもしれません。 

  谷川俊太郎編『辻征夫詩集』 2015年2月刊/岩波書店

 偶然にも出会った八木幹夫の『余白の時間』を読んで、久しぶりに辻征夫の人生と詩へと導かれました。辻は私より10歳年長ですが(八木は2歳年長)、どちらかといえば同世代、同時代という感覚なのです。私が書かれた詩と出会い親しんできたのは、もうひと世代の上の詩人たちであり、つまり戦中経験をもつ詩人たちに強い波動を受けてきました。

 それが変わったというわけではありませんが、辻征夫の詩が帯びている雰囲気には、成人した私の生きてきた1980年代以降の時代状況、空気感のようなものが刻印されているということを、今回、強く意識することになりました。一言で語ることなどできませんし、辻の詩の超時代性(普遍性)を否定するつもりもありませんが、それは社会というものの相対化と個というものの内心の重視、というものではなかったかと、改めて感じています。

 森有正の「経験」とは「自分というものを定義するもの」であり、「身体の中に実現された知恵のごときもの」という言い方がありますが(2019.4.29「遥かにノートルダムは遠ざかりー森有正のことー」)、辻征夫の詩は自らの感覚を通して「経験」へ向かおうとするところに立ち現れる言葉であった、と言えば、やはり大げさなことになるでしょうか。

 

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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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