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2020.07.03 Friday

手がかりはどこに、コロナ後の社会のありようをめぐってー広井良典の分散社会論を中心にー

 昨日(6/28)、地域の神社の草刈り清掃に参加しました。例年は5月末に当番制で行っていましたが、今年はコロナ問題があって中止となり、1ヵ月遅れで有志による実施となりました。曇っていてまだ助かったのですが、マスクを付けて作業していた方は私を含めて一人もいない状況でした。夏という季節にマスクを付けて作業することは、あまり現実的とはいえません。

 当ブログをのぞいてくださった皆様方は、「新しい生活様式」にどう対応されているでしょうか。屋外はもとより、空調のない屋内であっても、強度のある身体的な活動を伴うような場合、マスクの装着はもとより、ディスタンスの確保もなかなか難しいと実感しました。

 この「新しい生活様式」(兵庫県は「ひょうごスタイル」と呼んでいます)とは、「コロナと共生する社会」に向け、再開された社会経済活動における感染防止対策のガイドラインということになります。長い射程で経済を見つめてきた水野和夫法政大学教授は「感染症対策よりも経済を重視する姿勢が透けてみえる」との感想をもらしたうえで、次の見方を示しています(2020.5.18『毎日新聞』「シリーズ 疫病と人間」)。

 「 本来あるべき「新しい生活様式」とは「より遠く、より速く」そして

  「もっと多く」を求めず、「より近く、よりゆっくり」する生活様式に改

  めることである。そうしなければ、いつ感染するかもしれないと明日を心

  配して生きていかなければならない。」

 この「より近く、よりゆっくり」の実践可能な環境にある私のような者が、再び、学校へ通い出した子どもたち、テレワークや休業から職場に戻った親たち、そんな元の日常へ回帰しはじめた人びとへ「ちょっと立ち止まって」的な発言することは(もっともっと多様な状況の皆さんがおられますが)、公平を欠くことかもしれないけれど、続けたいと思うのです。

 本稿では、この言葉を手がかりとして、コロナ問題が提起した地球環境への負荷、グローバル化、大都市集中、格差と分断などの諸課題を前に、コロナ後の社会のありようをめぐる議論の中から、広井良典らの主張する「分散型システム」への転換という考え方について紹介を試みることにします。

 もちろん、私はコロナ以前から、この考え方の方向性を望ましいものと思っていますし、そうであってもらいたいと願っています。ただ実現可能性を前にすると、ハードルの高さを意識せざるをえませんが、今回のパンデミックによってより明確な選択肢として可視化されたといえるのではないでしょうか。

 イタリア人作家 パオロ・ジョルダーノの言葉にあった「いったい何に元どおりになってほしくないのかを」(2020.4.24「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(2・完)」の冒頭引用文)という問いを受けとめて案出されるポスト・コロナの社会のありようとして重要な提起ではないかと、私は理解したいと考えているのです。

 

 いつもの大中遺跡周辺ではなく、久しぶりに寺田池の周回遊歩道を歩くと、大輪のハスの花が咲いていました。6月になって7月が近づくと、咲いている花の種類が少なくなりますが、気づかないうちに季節はめぐっています。

  ハスの花が咲き出して(寺田池) [2020.6.28撮影]

 

◈ウイルスと人間は共に進化し合う関係ー再びの福岡伸一ー

 先に(4月上旬)ウイルスの本質を教えてくれた福岡伸一が、「コロナ共存「生命哲学」必要」とのタイトルの文章で取り上られていました(2020.6.15『毎日新聞』夕刊)。ニューヨークで客員研究員をしている福岡は、春休みを過ごして帰国予定であったが、現地での感染爆発で足止めされ、新聞掲載時には引き続き現地に滞在しているとのことです。

 前半は、先に紹介した内容と重なっています(2020.4.30「単純な生活ということーウイルスから行動変容とヴェネツィアなどー」の<おわりに>部分)。「ウイルスが現れたのは高等生物が登場した後」であり、「ウイルスは元々、私たち高等生物のゲノムの一部が外へ飛び出した」もので、時に私たちに脅威をもたらすけれども、「ウイルスは私たちの生命の不可避的な一部であるがゆえに、根絶したり撲滅したりすることはできない」、すなわちウイルスと人間は共存していくしかないと説明しています。

 そして「長期的にはインフルエンザと同様、このウイルスと共存する社会になる」と予見しますが、「来夏に延期された東京オリンピックまでにワクチンや特効薬がすぐにも完成し、霧が晴れたようにコロナ問題が解消する」という見通しには疑問を呈しています。こうしたワクチン等の開発は世界的な競争の様相を呈していますが、安全性の確認には長い時間を要するとして、政治的、経済的なものを紛れ込ませないことに必要なのが「生命哲学」であると強調しています。

 この福岡の「動的平衡」につながる生命哲学について私の理解は不十分ですが、福岡は新型ウイルスの教訓として「生命にとっての「多様性」の重要さ」を挙げており、「進化は決して強いものが生き残るのではなく、多様性を内包する種が生き残ってきた」と指摘しています。現代に生きる私たちは、最も身近にある自然というべき自分自身の生命を含め、「自然」をコントロールできると過信してきたことが今回のパンデミックを招いたとの認識を持っているようです。だからこそ、新型コロナウイルスへの対応として、「生命を守るという御旗の下に」、「生命哲学から見て、多様性や自由が管理され続けるのは望ましくない在り方」ではないかと問題を提起しているのです。

 ここでは、ウイルスと人間の関係性の根幹にかかる福岡の言葉を引用しておき、次に進むことにします。

 「 ウイルスに打ち勝ったり、消去したりすることはできません。それは無

  益な闘いです。長い進化の過程で、遺伝する情報は親から子へ垂直方向し

  か伝わらないが、ウイルスは遺伝子を水平に運ぶという有用性があるから

  こそ、今も存在している。その中のごく一部が病気をもたらすわけで、長

  い目で見ると、人間に免疫を与えてきました。ウイルスとは共に進化し合

  う関係にあるのです。」

 

◈盲点を突くコロナウイルスー「シリーズ 疫病と人間」からー

 毎日新聞には「シリーズ 疫病と人間」の総タイトルで、これまでのところ4月28日の山極寿一から6月28日の出口治夫に至る9人の識者の文章が掲載されてきました。理解できなかったものも、ピンとこなかったものも、反発を感じたものもありましたが、ここでは、後述する広井良典の分散型社会論、成熟社会論に関連すると思われる三人の論考を紹介しておくことにします。

 都合のいいところだけを切り出して紹介することは、誤解を招きやすくなりますが、このことも踏まえてお目通しいただければと思っています。

◉都市の歴史は資本の歴史ー水野和夫ー

 前記した経済学者である水野和夫の「新しい生活様式」についての言葉は、やはり同シリーズのものです。

 当該論考の冒頭で、水野は「新型コロナウイルスが人類に突き付けているのは、これからも「より多く」を追求することが進歩であり、文明社会であると信じ続けるか否かの選択である」と提示します。すなわち「都市の歴史は資本の歴史」でもあり、「都市に集積の利益がもたらされ、都市が資本を生み出す」という関係にあったとします。今回のウイルスは都市を直撃したのであり、いわば「集積のメリットが一転デメリット」へと変わったのだと、水野は認識しているようです。

 この「より多く」を追求することで、21世紀にたどり着いたのは「絶望するほどの二極化した世界」、すなわち富の集中だとし、日本の場合は企業に富が集中している現実を前にしていると説きます。ですから、新形コロナウイルスからの「出口戦略」として、膨大な内部留保を抱え込む企業に対し「減資132兆円」を迫れとする、いわば現代の資本主義の根本的な転換を主張しているのです。そして新たな「入り口戦略」を象徴するフレーズとして、「より遠く、より早く」「もっと多く」という現代の資本主義を特徴づける性格の対極である「より近く、よりゆっくり」を提言しているといえます。

 「新しい生活様式」による現実が「より近く、よりゆっくり」という性格を選択することなしに、「「より多く」を追求することが進歩であり、文明社会である」というドグマの転換は実現しないと主張されていると、私は理解しているのです。

 後述する「都市集中型」から「地方分散型」への転換という広井の命題は、水野の文明社会論、資本主義論ほどドラスチックとはいえないものの、変化の方向性を共有する関係にあるものと考えています。

 

◉二つの懸念からー山極寿一ー

 シリーズの最初の一篇(4月28日付)、霊長類学者・人類学者である山極寿一の論考です。

 アフリカでのエボラウイルスの経験から(ゴリラとチンパンジーの集合性の違いが感染に反映)、今回の新型コロナウイルスへと展開し、過去の感染症と比べ、「はるかに巧妙になっている」ことを強調しています。そして、最後の方で二つの懸念を提起し、私たちに求められることを提言しています。

 一つは、現時点では「ウイルスの感染を防ぐには人と人の接触を避けるか、複数の人が触れるような共有物を排除するしかない」が(「新しい生活様式」にもダイレクトに反映されている)、このことは「人類が進化と文明の歴史を通じて育て上げてきた人のつながりを断ち切ることに等しい」ことになります。つまり「人間の根源的な欲求を押しつぶす」ことであり、「この分断によって社会に共感力が失われる」ことが最も懸念すべきだと、山極は考えます。

 感染を避けるために、コミュニケーションと人間同士の関係が変化する可能性があり、他者と分断されてしまうと幸福な社会は築けないこととなり、国家や文化というレベルでの分断は不寛容を招くことになるのではないかとし、次のことを提言しています。

 「 そんな事態を招かないよう、多くの人と国境を越えて連絡を取り合い、

  地球規模の新たな連帯を模索すべきであろう。」

 もう一つの懸念は、「コロナ後に各国が猛烈な経済復興対策を取り、それがこれまで以上に地球の崩壊を招くこと」であると、山極は述べています。近年のウイルス感染症の原因は「自然破壊によって野生動物との接触を加速したこと」にあるのだから、こうした大がかりな経済活動によってさらなる新たな脅威をもたらす可能性があると警鐘を鳴らしています。

 そして、次の文章で締めくくっています。

 「 今私たちに必要なことは、グローバルな地球と国の動きと、私たち自身

  の身近な暮らしの双方で、人間にとって大切なことは何かということを

  じっくりと考えることである。コロナ後に、それが決定的な効果を生むだ

  ろうと思う。」

 コロナのずっと以前から日本で確実に到来する人口減少社会の社会構想として成熟社会論を提言してきた広井の所論は、山極の締めくくりの文章とも呼応していると、私は考えています。

 なお、言語コミュニケーションが分断されやすい状況下にあって音楽というものの機能を重視した山極の考え方については、先のブログ(2020.6.7「ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー」)で簡単にふれています。

 

◉人間の一人芝居だー池澤夏樹ー

 三人目は、最近の掲載(6月21日付)、作家の池澤夏樹の論考です。

 「今、世界の人々が向き合っているのは「人は人に対して感染源である」という状況である」という警句のような言葉から始まります。今私たちの生きている世界の現実はいかにして成ったのか、池澤はシニカルなユーモアを込めて綴っていきます。その結果、目の前にあるのは、昭和から平成へと「新製品を買って喜ぶことを何より優先してきた」国民が浮かれている間に、「資本の側はどんどんとグローバル化し、国家がコントロールできないものに育ってしまった」世界だと表現しています。

 ウイルスはそれぞれの国の弱点を突くとし、日本でいえば)賃腓蔑未旅餾帖↓⊇仞故┐猟祺爾罰亮造平邑の減少、37%という低い食料自給率(「他の国からの供給が止まれば我々はあっさり飢える」)だとし、次のことを念押ししています。

 「 政治家も財界人も目先の利を追うばかりで遠い先を見ていなかった。国

  民もそれでいいと思って浮かれていた。」

 今の世界の指導者たちを寸評したうえで「民主主義の尺度で測れば今世紀に入って世界は劣化の方向に動いてきた」とし、これからの世界を「我々は別の時代に入ろうとしている。そこは荒野であるらしい」とし、ホモ・サピエンスたる私たちへ次の現実を突きつけます。

 「 文化によって自然を改造して自分たちに都合がいいように仕立て直し

  た。それが行きすぎて、温暖化を招き、遺伝子を壊す放射性物質を撒き散

  らし、多くの種を絶滅に追い込んでいる。」

 そして、こんな見方はできないかと提示したうえで自ら否定してみせるという「一人芝居」を演じてみせ、次の文章を書きつけています。

 「 ヒトと自然が対峙するという構図も考えられる。では震災・津波やパン

  デミックはヒトの増長に対する抑制の機能なのか。いや、自然にそんなバ

  ランス感覚はない。いつか起こるはずのことが今起こっただけすべては

  ヒトの、人間の、一人芝居だ。」

 このような突き放した感慨を述べつつ、最後には、フォークナーのノーベル賞受賞スピーチの「私は人間の終焉を信じない」を引用したりもしています。

 レトリカルな文章だけれども、池澤は、この度し難い人間どもという覚めた自己否定の一方で、私たちに目覚めよと最後の「人間には魂があり、共感と犠牲と忍耐を担うだけの精神があるからだ」というフォークナーの言葉を引用しているのであろうと、私には感じられたのです。

 近未来のあるべき社会構造として分散型システムを構想する広井の所論の前提として、前記の戦後の高度成長路線の行き着いた結果として(それはそれで成功したといえるのですが)、今日の弱点である´↓がキーワードとなっていることは申し上げるまでもありません。

 

◈分散型システムへの転換は可能かー広井良典の所論からー

 広井良典(京都大学こころの未来センター教授)は、今次のパンデミックは「時代の大きな構造的な変化を象徴的する出来事になる」とみています。新型コロナという非常に強い外圧によって、その必要性は感じていてもなかなか実現しなかったものに、多くの人びとが気づき始めたと感じているというのです。ですから、「ポスト・コロナの時代こそ、これまでの価値観や行動を変えて新しい成熟社会にかじを切るべきだ」と提言しています(2020.5.15「ポスト・コロナ時代こそ 成熟社会にかじを切れ」NHK特設サイト)。

 このインタビュー記事は、現在の広井の考え方をうまく集約できていますので、この本稿の紹介での総論としてメモを試みておくことにします。

 

 新型コロナウイルスの感染拡大が、いわゆる過密都市、人口が大規模に集中しているところで進んでいることを指摘したうえで、広井は、一辺倒というべき資本主義の拡大成長路線とともに、過度な「グローバル化の負の側面が非常にはっきり出た」とします。「分散型システム」としての性格をもつドイツや北欧の国々を念頭におきつつ、今回のコロナ禍はこうした社会の方が強いということも明らかにしたと評価し、過度なグローバル化を抑え、ローカライゼーションという方向が重要になる、つまり「ローカルな経済循環や共生を志向し、そこからナショナル、グローバルへと積み上げていく社会」構造が重要だというのです。

 だから、今は危機だが、むしろチャンスと見て、東京の一極集中の是正について議論されてもなかなか具体的な動きとならなかったという事実も視野に入れつつ、一極集中の社会構造や価値観からの根本的な転換をめざし、「本来なされるべき改革や社会の変化を、いろんな形で進めていく契機とすべきではないか」と、広井は主張しています。

 これを後押しする一つの証左として、後述するAIを活用したシュミレーションの結果、すなわち日本社会の未来(2050年前後)への持続可能性にとって、東京一極集中という「都市集中型」か「地方分散型」かの分岐がいちばん大きな意味をもつことが分かったとし、そして、結果として望ましい方向と選択されるべきは「地方分散型」の方であったことを報告しています。

 そのためには、「地域内においてヒト・モノ・カネが循環し、そこに雇用やコミュニティ=つながりも生まれるような経済の在り方」である「コミュニティ経済」、つまり地域循環の経済が重要であると、広井は強調しています。

 

 コロナ以前からの広井の基本スタンスとして確認しておきたいのは、戦後の高度成長とともに急膨張した人口が減少に転じていく今の日本社会、こうした人口減少社会を悲観的なものとして捉えていないということであり、これまでのように経済的な豊かさだけを追求しても、結果的には豊かになれないのが今の日本だとみていることです。こうした前提に立って、「新しい成熟社会へかじを切れ」と主張しているわけで、インタービューの最後に、広井は、昭和と平成の帰結として目の前にある令和という時代に求められる「分散型システムの社会」のイメージを、次のとおり描いてみせています。

 「 令和という時代はそういうもの(㊟昭和と平成の拡大成長路線)を根本的に見

  直していく必要があります。新しい成熟社会の豊かさの方向にかじを切る

  時代です。山登りに例えると、ゴールをみんなで目指す時代から、一応頂

  上まで来たのだから、あとはそれぞれが、自由に創造性を伸ばし、自分の

  人生をデザインしていく。そういう方向に転換していくべきです。下りは

  360度開かれています。それが結果的に、経済や生産性にもプラスになり

  個人が自由な人生を歩めるようになるのではないでしょうか。」

 ここだけ読むと、いささか都合のいい飛躍ではないか、こんなバラ色の調子のよい未来社会などあるわけないよと否定したくもなりますが、後述する部分も読んでいただきたいと願っています。

 こうした「新しい成熟社会の豊かさ」のポジティブなイメージについて、前記した三人の識者の論考と関連づけるとすると、水野の「より近く、よりゆっくり」という生活スタイルとの関連は明らかですし、池澤のいう「目先の利を追って浮かれていた」という価値意識を転換しない限り、こうした地平を切り開くことができないということができます。さらに山極の「グローバルな地球と国の動きと、私たちの身近な暮らしの双方で、人間にとって大切なことは何かということを、じっくり考える」ということは、「新しい成熟社会の豊かさ」を体現する人間にとって大前提といえるものでしょう。

 

 ポスト・コロナで一つの想定されるトレンドについてメモしておきます。 

 ヤフーCSOで慶大教授の安宅和人という方が、今次の自粛生活で気づいたことを、「開疎」という造語で表現しています(2020.6.9『毎日新聞』掲載/「職住一体 郊外へ分散」)。

 「開疎」とは「開いてまばらな」ことであり、コロナ後のこの先、職場も働き方も「開疎」、つまり「開いてまばらな方へ向かうベクトルが働いている」ということのようです。この「開疎」を、安宅は自著で、日本の近未来として提示したのだそうです。リモートワーク、テレワークの浸透・拡充や職場の過密性の軽減(「島」を中心とした配置から、席をバラバラにしたコックピット型の座席配置へ)などが前提にあるようです。

 直感だとしつつ、安宅は次のような見方をしています。

 「 「この開疎の流れは、まず首都圏や地方の主要都市で起きると思いま

  す。」その方向性は単に都市での職住一体だけでなく、中心市街地から郊

  外へという流れも示しているそうだ。もちろんすぐに集中から分散へ変わ

  るのは難しい。それでも「ひとつの運動」として人々は分散に向かう。」

 こうした見方は、近い未来において「都市集中型」か「地方分散型」かに選択・分岐する局面があるという広井の所論と通じるものがあるといえます。

 

◉人口減少社会と重なってー戦後の政策展開「3つのステップ」ー

 広井の研究の原点には、現在の日本における「人口減少は果たして本当に社会にとってマイナスなのか」という問い直しがあります。

 わが国の人口は、下記の「日本の総人口の長期的トレンド」をご覧いただくと、2008年の1億2800万人でピークを迎え、2011年からは減少の一途をたどっており、現在の出生率が続けば、2050年過ぎには1億人を切り、さらに減少が続きます。

 この人口曲線で見ると、今は頂点を過ぎたばかりで、広井は「いってみればジェットコースターが落下するとば口にいるようなもの」と比喩しています。だから、「私たちはまさにターニングポイントにいる」「令和は人口減少がいよいよ本格化していく時代である」とし、広井は、次の文章を続けています。

 「 空間的にも、人の移動という意味でも、あるいは意識のうえでも、全て

  が東京に向かって流れていった人口増加時代から、いままさに人口減少時

  代に入っていくということは、これまでと逆の流れが進んでいくと考えら

  れます。」

 

 古くからの人口を振り返れば、長い間、横ばいで推移してきて、江戸時代に入り若干人口は増えたものの、3000万人程度に落ち着いて再び横ばいとなり、明治時代を迎え、急激な増加が始まりました。太平洋戦争時に一時的な減少があったものの、戦後は再び爆発的に増加してきたわけです。「歴史的に見れば人口が右肩上がりに上昇してきたこの100年間は、むしろ特殊な時代でした」と、広井は、大局的に見ればそうなると語っています。

 もちろん広井は、このままの人口減少によって、若者が少なく高齢者が多い社会構造が続くとさまざまな問題に発展するという認識は共有しているわけですが、どんな手を打っても今すぐ急激に上昇することは想定できないのだから、「出生率が緩やかに上昇し、やがて人口が下げ止まって横ばいになる時代を目指しつつ、当面は人口が減少していくことを前提に社会を考えるべき」だと述べています。このような考え方を前提とした「人口減少社会」なのであり、それが成長社会の先にある「ポスト成長社会」「成熟社会」であることが、広井の所論のベースになっているのです。

 したがって、今の日本の人口減少を問い直すと、将来の日本にとって大きな問題であるけれど、人口増加時代の価値観(「人口も経済も際限なく拡大・成長するはずだ」)から人口減少を悲観的にとらえてしまうことは、さらに社会的なひずみ、弱点を大きくすることにつながっていくと、広井は警告しているといえます。つまり、人口減少を一律的にネガティブとして捉えるのではなく、一定の人口減少を前提としつつ、希望のありかを探りつつ持続可能な社会構造を構想(デザイン)していこうというのが、広井教授の呼びかけであり、主張であると、私は理解したいと思っています。

 そして、前段でやや驚いてなんと「バラ色の調子のよい未来社会」なのかとコメントした広井の発言内容は、人口減少時代の新たな価値観をもつ人間が、持続可能な社会構造としての「新しい成熟社会の豊かさ」を求めていく基本的な姿勢を、「希望」を込めて表現したものだと感じています。

 では、このように人口減少社会にも希望はあるとする広井は、同時にまた、現在の日本社会は「持続可能性」において危機的といわざるを得ない状況だとし、その背景には、大きく3つの問題(重要ないし象徴的な事柄)があると説明しています。

 一つ目は「財政」で、膨大な借金を将来世代につけ回ししている状況にあることです。このことは世代間継承性における持続可能性の危機を意味します。

 二つ目は「格差拡大と人口減少」であり、90年代半ばから生活保護世帯ないし貧困世帯の割合が急速に増加している状況にあることです。若年層の雇用や生活が不安定であることは、未婚化・晩婚化の要因ともなり、さらに出生率の低下、人口減少の加速化の大きな背景となっています。

 三つ目は、広井らしい視点である「コミュニティやつながりの希薄化」であり、国際比較調査では、家族や集団を超えた社会的なつながりが、先進諸国で日本が一番低くなっています。いわば社会的に孤立している人間が多くなっているのです。

 これら三つの問題意識を踏まえ、次項で紹介する将来シュミレーションは実施されたのです。

 

 このシュミレーションを説明する前に、こうした社会構造を生み出してきたともいえる戦後の日本の政策展開について、広井の3段階論でふり返っておくことします(2018.5.27「ムラとマチを捨ててきた日本の未来はやっぱり「地方分散」にあり」/現代ビジネス)。

 まず「第一ステップ:いわゆる高度成長期(1950〜70年代ーー¨ムラ¨を捨てる政策)」だとします。この時期は「工業化」一辺倒の政策がとられたのであり、農業や農村の優先順位は大幅に下げられ、「農村から都市への人口の大移動」が進行していきました。

 ですから、この時期は農村部の社会減が最も多かった時期で、近年の人口減は次のことに留意しておく必要があるとしています。

 「 近年地方都市や農村部の人口減少が著しいのは、最近の社会減が主要因

  ではなく、むしろ高度成長期に農村部に残った人たちが高齢化し、近時に

  至って自然減が顕著になっているからなのだ。」

 この時期から食糧自給率は一貫して低下していったことは言うまでもありませんし、この時期に農村部の持続可能性は大きく損なわれたといえます。

 続く「第二ステップ:1980-90年代頃ーー¨マチ¨を捨てる政策」で、「アメリカ・モデル」と呼ぶべき都市・地域経済のあり方(「自動車ー道路中心の都市・地域モデル」)が政策面でも全面的に導入された時期だと、広井は説明しています。

 このことにより、第一ステップの時期にはまだかなりの賑わいをみせていた地方の中小都市の中心部は完全に空洞化が進むことになったのであり、このことは政策がうまく行かなかったからではなく、むしろ国の政策の帰結といえるのではないかとし、広井は「¨マチ¨を捨てる政策」と呼んでいるのです。

 そして、現在に至る「第三ステップ:2000年代ないし2010年代以降ーー転換の兆し?」だと広井は表現しており、「かなりの希望を込めて言えば、以上のような流れとは異なる新たな潮流と政策転換の兆しが見られつつある」と、期待を込めた見方を示しています。

 たとえば、高齢化の進展に伴う「買物難民」問題への対応として商店街の見直し、過度な低密度化の問題が顕在化し、若い世代の間にもローカル志向・地元志向の拡がりなどを、その兆しととらえる一方で、現状を次のとおり評価しています。

 「 (「ローカルな経済循環から出発してナショナル、グローバルへと積み

  上げていく」という広井の考え方とは違って)、いわゆるアベノミックス

  など、むしろ「グローバル経済から出発してナショナル、ローカルへと

  降りていく」という逆の発想の政策志向がなお強く、現在は政策の転換

  期ないし分水嶺というべきかもしれない。」

 コピーの「?」はそのような意味なのでしょう。

 以上の現在の日本の姿と問題を把握したうえで、次項のシュミレーション結果を考えていくことにします。

 

◉持続可能性をめぐるAIを活用したシュミレーション

       ー「都市集中型」から「地方分散型」への転換ー

 前記したとおりにわが国の持続可能性は危うい状況にあるのではないかという問題意識から、広井ら4名の研究者グループは、AIを活用した将来シュミレーションを実施し、その結果を2017年9月に公表しています(詳細は「AI活用により、持続可能な日本の将来に向けた政策を提言」を参照)。

 この研究のメインテーマは「2050年、日本は持続可能か?」であり、「現在とこれからの日本社会にとって重要と思われる人口、高齢化、GDPといった149の社会的要因をピックアップして、その因果関連モデルを」構築したとのことです。その後、AIを用いたシュミレーションにより、2018年から2052年までの35年間の期間にわたる約2万通りの未来シナリオ予測を行いました。そして、まず23のシナリオ・グループに分類したうえで、最終的に6つのグループに分類したとのことです(その分類のために/邑、∈眄・社会保障、E垰圈γ楼茵↓ご超・資源の4つの局面の持続可能性と、⒜雇用、⒝格差、⒞健康、⒟幸福という4つの領域に注目しています)。

 こうしたシュミレーションの結果は、下記の要約のとおりですが、広井による説明(重視すべき具体の政策は省略しますが)で補足しておきます(2018.5.26「2050年まで日本は持つのか?AIが示す「破綻と存続のシナリオ」」/現代ビジネス)。

 (1) 2050年に向けた未来シナリオとして主に「都市集中型」と「地方分散

  型」のグループに区分される。「地方分散型」シナリオの方が「都市集

  型」シナリオに比べ、相対的に持続可能性に優れており、「健康、格差、

  幸福等」の観点からは「地方分散型」が望ましい。

 (2) 8〜10年後までに「都市集中型」か「地方分散型」かを選択して必要な政

  策を実行すべきである。すなわち今から8〜10年程度後に、「都市集中

  型」シナリオと「地方分散型」シナリオとの分岐が発生し、以降は両シナ

  リオが再び交わることがないからである。

 (3) 持続可能な「地方分散型」シナリオの実現には、約17〜20年後まで継続

  的な政策実行が必要である。なお「地方分散型」シナリオにおいて、地域

  内の経済循環が十分に機能しないと財政や環境が極度に悪化し、(2)で述べ

  た分岐の後にやがて持続不能となる可能性がある。

 以上のシュミレーション結果について、広井は「私自身にとってある意味で予想外だった」としており、次のコメントを続けています。

 「 今回のシュミレーションが示したのは、日本全体の持続可能性を図って

  いくうえで、「都市集中」ーーとりわけその象徴としての東京への一極集

  中ーーか「地方分散」かという分岐ないし対立軸が、もっとも本質的な分

  岐点ないし選択肢であるという内容だった。

   言い換えれば、日本全体の持続可能性を考えていくうえで、ヒト・モ

  ノ・カネができる限り地域内で循環するような「分散型の社会システム」

  に転換していくことが、決定的な意味をもつということが示されたという

  点である。」

 なお、広井は、AIやその関連技術はなお発展途上であり、今回のシュミレーションも「初発的な段階にとどまり、一つの視点を提示したにとどまっている」と注記しています(試行錯誤の段階で引き続き深化させていく)。

 このシュミレーションから3年後、2020年のパンデミックに直面して、広井は「少々驚いた点がある」とし、それは「新型コロナを通じて浮かび上がった課題」がここ数年行なってきた「日本社会の未来に関するシュミレーションの内容と大きくつながる内容だったことである」と述べています。パンデミックや、その後に展望される「アフター・コロナ」の社会を予言していたかのような関連が見られたというのです(2020.5.29「コロナ後、日本はどうなるか?地方分散型への転換と「生命」の時代」/現代ビジネス)。

 「 一言でいえばそれは「都市集中型」から「分散型システム」への転換と

  いう点だ。」

 

◉「分散型システム」の意味

         −科学・技術の大きな流れを俯瞰して−

 最後に「地方分散型」「分散型の社会システム」の意味するところについて、前掲の文書から補足的な説明をしておきます。

 国土の空間的構造という面からいえば、ドイツのような「多極集中」だとして、次のとおりコメントしています。

 「 「多極集中」とは、中小都市や町村を含めて多くの「極」となる都市・

  地域が国土の中に広く分布しており、かつそうした極となる場所にはある

  程度集約的で中心部が賑わっているような姿を指している。」

 なお、この際、注意しておくべきは、現在進んでいるのは「東京一極集中」ではなく、首都圏並みに人口増加率の高い札幌、仙台、広島、福岡等を含めた「少極集中」と呼ぶべき事態であるとし、「多極集中」はその対となる国土構造としてイメージされています。

 

 こうした国土構造だけではなく、「分散型の社会システム」は「実はもっと広い意味を含んでいる」と、広井は次の二つを示しています。

 (1) 「働き方あるいは職場―家庭の関係性における「分散型システム」」で

  あり、従来より自由で弾力的な働き方ができ、仕事と家庭、子育てなどが

  両立しやすい社会の在り方のことです。

 (2) 「住む場所あるいは都市ー地方の関係性における「分散型システム」

  であり、ローカルな場所にいても大都市圏とのコミュニケーションや協

  働、連携がしやすく、オフィスや仕事場の地域的配置も「分散型」である

  ような社会の姿のことです。

 こうした働き方やライフスタイルは今回の新型コロナへ対応する動きが背景にありますが、最終的に最も重要なことは「それが個人の「幸福」にとってプラスの意味をもちうることだ」と強調しているところが特徴的です。

 

 さらに、科学技術の基本コンセプトの移り行きから、現在を「情報から生命へ」であるとし、今後は「生命」が基本になっていくという把握が重要だと強調しています。つまり科学は「この世界に存在する諸事物のうち、より複雑で根源的な現象」へと展開してきており、これからの行き着く先が未解明な領域を多く残す「生命」(生命現象だけでなく「ライフ」という言葉にある社会的な次元を含めたもの)だというわけです。

 そして、新形コロナ問題と絡めて、下記の図を全体的な展望として整理しつつ、次のとおり締めくくっています。

 「 新形コロナウイルスの感染拡大には、いわゆる格差や貧困といった社会

  的要因や都市環境の劣化が深く関わっており、しかも「グローバル化」の

  急速な背景とも密接な関係にある。

   「分散型システム」というテーマを含め、今回のパンデミックは、そう

  した広い視野と長い時間軸において把握されるべき事象なのである。

   新型コロナをめぐる展開を契機に考えていくべきは、私たちが生きるこ

  れからの時代の大きな展望なのだ。」

 

◈おわりにー花の少ない季節にー

 コロナ以前から、私は現下のアベノミックスを含め、いわゆる拡大成長路線の思想を転換すべきだという考え方を有してきたわけで、広井の所論のベースについても同感していました。今回、表層的ですが、コロナ後を視野に入れて紹介を試みても、その立場に変わりはありませんし、そうありたい、そうあってほしいと願う気持ちがより切実に強くなったと思っています。ただ、改めて、実現可能性という点で、分散型システムのための政策の束はなお少数派かつ異端派であるという現実に立つと、高い山を実感しているといわなければなりません。ブレークスルーがあるとすれば、それは広井のいうここ数年という時間しか残されていないのでしょう。

 こうして書いてみますと、広井の「分散型システム」「新しい成熟社会」は、直近のブログ(2020.6.24「忘れやすいことを忘れないためには)の冒頭でふれた宇沢弘文の社会的共通資本という考え方と、農業・農村のこと一つを取り上げても、その未来性と根源性において親和的であると確信できたと考えています。

 

 少し前になってしまいましたが、花の写真をアップさせてもらいます。

  アジサイのブルー(寺田池の保安林内) [2020.6.28撮影、以下寺田池は同日]

  クチナシの白い花(播磨町喜瀬川沿い) [2020.6.23撮影]

  ネズミモチが気になって(寺田池近く) 

  雨後に咲く大輪のハスの花(寺田池)

 

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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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