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2020.05.26 Tuesday

「解除」という空気感のなかで

 日曜日(5/24)の昼頃、自宅の開け放たれた窓からも、子供たちの声は聞こえてきません。もちろん公園に出かけると、その姿をよく見かけていますが、ここには届いてきません。週明けには、登校日が設定され、その翌週の6月1日から小中学校が再開される予定だそうです。

 私たちの自治会は1200戸と今は図体が大きいのですが、それは最近のことなのです。といっても、ここ40数年の間に広い田園空間が段々と宅地に開発され、昭和40年代は100戸に満たなかった地域がこんな戸数規模に膨らみました。そして、私たちの住む旧市街と呼びたいコアな居住地は、高齢化が進行し、子供たちの数もグーンと減ってしまったというのが実情なのです。だから、このたびの休校や外出自粛だけが原因ではなく、もともと子供たちの声が聞けるのは、登下校時くらいだということになります。

 

 先日(5/21)、関西3府県は、緊急事態宣言の対象区域(特定警戒都道府県)から解除されました。4月7日に指定されてから、46日ぶりということになります。一部を除いて休業要請が解除されたことに伴い、確実に変化があらわれてきますが、どうも以前と同じということにはならないでしょう。「贅沢な自粛」というほかない私たちのような者は、水面下から少し顔を出して、様子を伺っていると申し上げるのがいいのでしょうか、そんな感じがしています。それはどうも私たちだけではなさそうです。

 もとより、これで新型コロナウイルスとのお付き合いが終わった、あるいは共存できる状態になったと信じる理由をもてないからで、「感染拡大の第2波」にどう備えるかという、短い中休み、よく言えば小康状態の時期だと受けとめているからです。ですから、「新しい生活様式」と名付けられた感染予防のスタイルを試みつつ、当面は手さぐり状態が続きます。

 レベルの違いは別として、専門家にしても、後追いで一定の解釈はできたとしても、手さぐりということに変わりはなく、確実に未来を予測することはある前提条件のもとに確率の範囲内でしかできないのではないでしょうか。

 今の私自身にありそうな、安堵というより「そしてコロナは続く」という疲れと不安のようなものを探ろうとして、当ブログを読んでくださる方にとって書いても詮方のないことを書いてしまったようです。俳句、短歌の添削のように、劇的にレベルアップする、そんなことは神頼みというべきで期待してはいけないのでしょう。

 

 俳句の添削に思いが跳んだのは、「プレバト」の夏井いつき先生のこともありますが、昨日、池内紀編『尾崎放哉句集』(2007年7月刊/岩波文庫)を手にして池内の解説を読んでいたからです。

  口あけぬ蜆淋しや

  口あけぬ蜆死んでゐる

 尾崎放哉(1885-1926)が、小豆島で亡くなる年(大正15年)の秀句とされている作品です。放哉は上段の<もとの句>を詠みましたが、師にあたる荻原井泉水(1884-1976)が「淋しや」を「死んでゐる」と添削したとあります。「とたんに淡い叙情句が厳しい死の造型になった」と、池内さんは記しています。

 同じく死を前にした、放哉といえば、という句をもう2つだけ。

  咳をしても一人

  入れものが無い両手で受ける

 この時期の放哉の俳句を「すべてが末期の目で見てとった心象風景であった」とする池内は、「相手が死を生きているのを承知の上で、師が二人三脚を買って出た」と説明しています。時制の断絶というべき美学が際立ちます。

 そして、井泉水が放哉の原句を添削した句を3つばかり並べておきます。

  いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞

  お粥をすする音のふたをする

  一つ二つ蛍見てたずね来りし

 これら放哉の<もと句>を、井泉水は、次とおり添削しました。

  壁の新聞の女はいつも泣いて居る

  お粥煮えてくる音の鍋ふた

  一つ二つ蛍見てたづぬる家 

 井泉水は尾崎の一年上、一高俳句会のメンバーとして知り合っています。なんとも不思議な二人の関係ですが、尾崎の死が1926年、半世紀のち1976年に井泉水は亡くなり、それから20年後の1996年に、取り壊されようとした井泉水の物置小屋から、放哉の句稿は発見されたのだそうです。

 こうして眠り続けてきた、今、耳に覚えのある放哉の俳句は、70年の放浪の旅から奇跡的に生還をはたしたことから、私たちの手元に残りました。

  池内紀編『尾崎放哉句集』 2007年7月刊/岩波文庫

 現下のパンデミックの時代において、こんな二人三脚的かつ超越的な添削者という存在、つまりそんな都合のよいリーダーを期待してはならないと強調しておきたいのです。そして、不安の時代は、無謬性をおびた権威的な指導者を招き入れやすいことは歴史の教えるところですが、この操作された情報の洪水の中で、私たち一人一人が正しい知識をできるだけもち、誤謬を正しながらさらに対処していくしかないことをかみしめておきたいと思うのです。

 このような意味で、本稿では、最近のコロナ関連情報で気になったことを、もう少しメモしておくことにします。

 

◈正常性バイアスということー永田和宏からのメッセージー

 細胞生物学者にして歌人である永田和宏は、ウイルス学の専門家ではないが無責任な放言にならないように注意しつつ発言することは大切だと断ったうえで、今次のパンデミックに関連して「正常性バイアス」のことを書いています(2020.4.26、27付『京都新聞』「パンデミックには正しい知識こそ」)。

 前稿(「個人の記憶というものー閻連科のメッセージからー」)で全体性に回収されない<個人としての記憶をもつこと>の重要性についてふれましたが、永田和宏についても当ブログ(2018.9.2「8月の終わりは夏の終わりー永田和宏「記憶する歌」ー」)でやはり「記憶」ということに関連して書いたことがあります。永田が自分の若い頃からの数千首の短歌に「私の時間が残っている」ことのありがたさ、つまり作歌当時の記憶がまざまざと立ち上がりリアルに感じなおすことができることを「私の時間に錘を付けるということなんだ」と言及していることを紹介しました。こうしたはたらきをもつ短歌とは「事実の説明を犠牲にして、感情の核を抽出するものだと言えるだろう」との永田の発言を、私もなるほどと感じたのです。

 

 長い前置きになりましたが、この「正常性バイアス」という言葉は、いつもよくあることですが、聞いたことはあるけれど説明せよと言われても自信がない言葉のひとつでした。永田は、斎藤茂吉が長崎医専の教授であった大正8年(1919)の暮れにスペイン風邪に罹患して長く苦しんだ時の歌を引用しながら論じています。この正常性バイアスとは、「誰もが多かれ少なかれ持っている」ものだが、「自分だけは大丈夫だろうと、根拠なく思う性癖である」あるいは「これしきのことでに騒ぐなんてみっともないと、高をくくる傾向と言ってもいい」と、永田は説明しています。

 そして、<しかし>としたうえで、次のとおり注意喚起しています。

 「 このような<疫病>の流行に関しては、この<正常性バイアス>が感染拡

  大の最大の原因になる。あなたがACE2タンパク質(㊟)を持っている限り、

  あなたも間違いなく、感染した世界の250万人の人と同じ確率で感染す

  る。そう思うことがまず大切である。」

  ㊟ 細胞の表面にあるコロナウイルスレセプターですべての人にある

    このタンパク質が、なぜウイルスの標的として利用されているかは不明 

 この永田の書いた文章を知ったのは、山中伸弥教授の「新型コロナウイルス情報発信」サイトに連続して掲載されている黒木登志夫(山中は「私の尊敬する癌研究者」と紹介しています)の「コロナウイルス通信」(5月12日)でふれてあったからです(のちほど再登場してもらいます)。

 黒木先生は友人だという「永田先生は、あなたがACE2をもっている限り、世界の250万人と同じ確率でコロナに感染し、流行に一役買ってしまうと警告しています」と念を押しつつ、さらに下記の斎藤茂吉がスペイン風邪に罹ったときの短歌資料を追録しています。

  スペイン風邪罹患時の斎藤茂吉の短歌等

 このような「正常性バイアス」は私自身にも確かにあることを感じています。そのうえでということになりますが、「正しくおそれる」「正当にこわがる」という言葉との関係に思いが及びます。

 「正しい知識」というものにも限界がありますし、どこまでいっても不確実性が消去できないことを考えあわせますと、良性と悪性に区分できると仮定すれば、良性の「正常性バイアス」というものは人類に染み付いた生きる知恵のようなものかもしれないと思ったりしました。

 変なことを書いていますが、良性の「正常性バイアス」とは、当ブログ(「単純な生活からーウイルスから行動変容とヴェネツィアなどー)で紹介した宮沢孝幸京大准教授の説く自律的な行動変容の前提である「知識と胆力」の「胆力」に通じるところがあるのではないかと、私は感想をもったのです。

 

◈更新された山中教授の「5つの提言」

 前記した山中伸弥教授の「新型コロナウイルス情報発信」サイトには、当ブログでも二度ほど紹介したように、「5つの提言」が掲載されています。最初は3月31日付、4月9日付の更新に続き、4月22日付で再更新されてきましたが、5月14日付で全面的な更新が行われています(「5つの提言」)。

 お読みいただければそれでいいのです。以下では、自分のために確認する意味で少しメモしておくことにします。今回(5月14日付)の「5つの提言」は、感染者が減少し、緊急事態宣言が解除されるという時点において、何が必要なのかを提言しようとしたものです。

 「提言1 対策はこれからが本番。賢い行動を粘り強く続けよう。」で、最近のように新規感染者数の減少が見られても「油断大敵」だとし、「ウイルスの勢いが少し弱まっている時期に今こそ、次の波に備えた準備を整える必要があります」としています。

 このベースに立ち、「提言2 国民全員が日常を見直し、人と人の接触を減らそう」と訴えています。この「提言2」のなかで、提言の3、4、5となる3つの対策「・感染者の同定と隔離」「・医療と介護体制の整備」「・ワクチンと治療薬の開発と大量製造」がポイントとなることを提言しています。したがって、「提言2」が肝ということになりますが、<基本再生産指数>という言葉は使わないで「R=2.5」の説明からつなげていきます。したがって、感染者数を横ばいにとどめるためには「人と人の接触を4割にする、すなわち6割減にする必要がある(=1-1/2.5)」というわけです。ですから、「国民全員が自ら生活を見直し、人との接触を6割減に維持する心構えが必要です」としたうえで、6割減の長期的持続は経済への影響が甚大であり、「6割減ではなく、5割、4割と社会・経済活動の制限を緩和するために」は、前記の3つの対策の実行が必要不可欠であるという構造になっています。

 「提言4 医療や介護従事者を守ろう」「提言5 ワクチンと治療薬の開発・大量製造を推進しよう」は、従来から継続する提言(ポイントの重点化と明確化が図られています)と理解しますが、「提言3 感染者の同定・隔離システムを充実させよう」は同じく継続的、延長的な内容も含むものの、こうした3つの具体的な対策のトップにおかれていることが、私の目を引きました。

 「提言3」の全文を引用しておきます。

 「 誰が感染しているかわからない状況でRを1程度にするためには、国民

  全体が人と人との接触を6割減らす必要があります。しかし、感染者を同

  定・隔離することによりRを効率よく減らすことが出来ます。R=2.5の

  時、10名の感染者から25名の2次感染者が生まれます。しかし、10名の

  うち4名を同定し隔離することにより2次感染を予防すると、残り6名から

  15名への2次感染がおこります。Rは1.5に減ることになります。クラス

  ター対策の重要性は効率的にRを減らすことであると言い換えることが出

  来ます。PCRや抗原検査を拡充することにより感染者を見出す割合を増や

  すことが出来ます。感染者の多くは、入院の必要のない軽症や無症状の方

  です。これらの方を快適、安心に隔離することのできる宿泊施設の体制強

  化も必須です。」㊟太字は筆者がいれたものです

 今回の「5つの提言」は、緊急事態宣言が解除されていくなかで、感染の拡大を抑制しつつ社会経済活動も緩和していくためには「Rを効率よく減らす」という柱を立てて整理されたのでしょうから、当然の結論だと理解していいのでしょうか。

 確かに、医療の対策が重症、中等症患者のための医療の確保に力点がおかれてきたし、今もその整備が第2波に向けて最大の課題であると私は認識しています。ですから、「提言4」の前に位置づけられた「提言3」に少し戸惑い、驚いたのかもしれません。

 私としては、「提言3」が軽んじられている状況への警鐘として、そして、PCR検査等の充実強化(感染者の早期の<同定>)とその陽性者(入院を必要としない)への対応(早期の<隔離>)という対策こそ感染拡大を抑止する要諦であると強調しているものと、つまり「提言4」のためには、「提言3」の実行が大前提という関係にあるからだと理解しておきたいと思っています。

 加えるなら、「新しい生活様式」「ニューノーマル」という形の感染予防の協力体制について、山中教授なりの評価(効果に限界がある?折角の実践協力効果も一つのクラスターの発生によって減じられてしまうというような)が根底にあるのかもしれないと想像することもできそうです。

 いずれにしても、ネームバリューということもあってメディアによく登場されていますが、多忙にもかかわらず、科学者として責任をはたそうとされている山中教授の姿勢に、私だけでなく多くの方が信頼を寄せています。

 

◈「予防対策の本質」と「集団免疫閾値」のことなど

 以下も、山中教授のサイト(「専門家、書籍から学ぶ」にアップ)で紹介され、その発言が掲載されている三人の学者の文章から、印象に残ったところをメモしておくことにします。

◉「予防対策の本質」など−川村孝京都大学名誉教授−

 まず、今年の3月まで京大健康科学センター所長であった川村孝が、新型コロナウイルス対策を「小括」している文章から取り上げます。

 「予防対策の本質」という項です。下記の表により「必要な衛生活動」は表の《人と物への接し方》がすべてであり、この予防策が徹底できれば、移動や営業、集会や娯楽は禁じられるべきではないのに、「世の中は本末転倒になっているように思われます」と述べています。

 そして、「3密」ばかりが強調され、「「物を介した感染」に対する注意がおろそかになっているように感じられます」とあります。

 なかなか鋭い指摘だと思いました。政府が5月4日付で発表した「「新しい生活様式」の実践例」では、感染防止の3つの基本を「/搬療距離の確保、▲泪好の着用、手洗い」として、「人を介した感染防止」に特化されており(もちろん「物を介した感染」にとっても間接的な抑止効果が期待できますが)、「物を介した感染」への目配りが弱いようです(空気中の飛沫は自重から落下するのであり、それが付着した物を触ったことによって感染するケースが多いという前提に立っています)。もとより、事業者に対しては、人の触わりやすいドアノブやテーブルなどの物に対するアルコール消毒などとして例示されているところですが、確かに私たちの新生活スタイルにおいても、もう少し強調されてもいいのではないかと感じました。

 なお、「移動や営業、集会や娯楽の禁止」について<本末転倒>と評されているようですが、感染拡大が急増している状況下では、不可避の対策であったし、これからもそうであると私は理解しています。

  川村孝の「感染予防の本質」(部分)

集団免疫理論の虚実ー宮坂昌之大阪大学招へい教授ー

 免疫学の大家として知られている宮坂昌之は、在英国際ジャーナリストという肩書の木村正人によるインタビュー記事によって(テレビ出演もされている)、その発言が注目されている方です。そのうち集団免疫についての記事(2020.5.16「一般に信じられている集団免疫理論はどこがおかしいのか、免疫の宮坂先生に尋ねてみました(上)」)から紹介します。

 宮坂先生の発言は、私の思い込みを正してくれたと思っています。私の思い込みとは、ワクチンがない中で、新型コロナウイルスの感染拡大を止めるためには、「6割程度の人が免疫を保持することが必要である」、これが集団免疫の考え方であるということです。ですから、報じられている抗体検査の現状では、まだまだコロナウイルスの感染流行は止まらないことになるなあ、どうなっていくのかなあと理解していたのです。

 

 宮坂先生は、この集団免疫の理論に対し、明確に「違う」と否定しているのです。その前提である「われわれはこのウイルスに対して免疫を持たないので、無防備な状態で感染が広がると集団の中の60%ぐらいの人たちが感染するだろう」という考え方について、「私はこの仮定は違うと思います」と、宮坂先生は主張しているのです。

 この根底には、個体レベルのウイルス排除は、獲得免疫だけでなく、自然免疫の2段構えであるからだと説明します。そして、「今まで集団免疫は、獲得免疫の、しかも抗体というパラメーターだけを見て判断していましたが、私はそれが間違っているのではないかと思っています」、つまり自然免疫が強かったら獲得免疫が働かなくってもウイルスを撃退する可能性があるのであり、今回はそういうことが起きているのかもしれません」と指摘しています。

 「例えば」と、「武漢市」と「ダイヤモンド・プリンセス号」のことを例示し、2つとも「感染した人は全体の2割程度」だし、「集団の6割も感染するようなことは観察されていない」と説明します。もとよりそれは隔離措置や接触制限をすることによって実効再生産数が小さくなったということであり、「かなりの人たちは自然免疫だけを使ってウイルスを撃退した可能性があるのかもしれないということです」と述べています。

 以上から、「予想よりもずっと低い集団免疫閾値に落ち着く」と結論づけ、次の予測を立てています。

 「 特にこのウイルスが起こす免疫はあまり高くなく、持続も短いようなの

  で、免疫学者の目から見る限り、集団の60%もが免疫を獲得するような状

  況は、余程良いワクチンが出てこない限り起こり得ないでしょう。」

 そして、スウェーデンの集団免疫を前提とする対策を否定的に評価し(「外出制限を厳しくせず多くの死者を出した」)、次の文章で締めくくられています。

 「 集団免疫閾値はこの新型コロナウイルスの場合、60%は成立しない。た

  ぶん良くて20%だと思います。2割だったら今後ワクチンができてくると

  確実にそこは到達できると思います。

   ナチュラルな状況で人が感染して治るという状況だと、おそらく毎年、

  このウイルスにお付き合いすることになると思います。」

 

 もとより私にはこの宮坂先生の発言を評価する能力を持ち合わせていないわけですが、状況証拠的には正当な考え方ではなかろうかとみています。私のような思い込みを誘発させた、北海道大学の西浦教授たちの「このウイルスは何も対策を立てないと人口の6割が感染して何十万人もの人が死ぬかもしれない」という対策の前提となった考え方が独り歩きしている状態に対し、宮坂先生が明確に「間違い」と指摘されている意味は大きいと感じました。

 

◉「選択と集中」と院内感染対策ー黒木登志夫元岐阜大学学長ー

 著名な癌研究者であるとともに、「サイエンスライター」でもあると山中教授が評する黒木登志夫は、3月28日を皮切りにこれまで12本の新型コロナウイルス問題にかかる情報発信をしてきています。すべてではないですが、私のような素人にもわかりやすい内容ですので、愛読してきました。

 その中から、2つだけを簡単にメモしておきます。

 一つは、保健所と地方衛生試験所の現状について「選択と集中」というタイトルで警鐘を鳴らしているところです(2020.5.12付「コロナウイルス(11)」)。お定まりかもしれませんが、いわゆる「選択と集中」というお題目の対応で、保健所や地方衛研が弱体化してきた中で、今回の事態を迎えているという指摘です。昨年話題となった公立・公的病院の統合化対策(厚労省はコロナ対策で再編統合の期限延期を通知したとあります)も取り上げつつ、次の文章によって「選択と集中」を批判しています。

 「 このような一連の動きの背景にあるのは、「選択と集中」「グローバル

  化」という、経済至上主義の考えです。私は、「選択と集中」が大学を疲

  弊させていると繰り返し主張してきました。感染症の研究分野はともする

  と、「選択」され「集中」されるような研究分野です。しかし、大学は大

  事にしてきました。それが、いま役に立っているのです。コロナは、これ

  までの「選択と集中」「グローバル化」のような考え方を変えねばならな

  いことを教えてくれたのです。」

 学長として苦労された方でしょうから、より実感があるのでしょう。これはポストコロナの最大の思想的課題といってもいいのかもしれないと思います。災害とか、感染症とか、通常の時間感覚が別次元にある課題への対応は、新自由主義以降の世界にとって最も苦手な分野なのです。さて、どうなることやら、現代を支配する思想の自己否定を伴う変化、転換が求められるわけですから、やはり大きな岐路だというべきでしょう。

 公務員の端くれだった私は、効率化論者でなかったけれど、保健所は何をしているのかな、もっとコンパクトでもいいのかなと思っていたことは事実なのです。もっと複眼的な物差しが必要となります。時代の産物としての人間とその思想の限界、壁という存在を否定することができない以上、これからの人びとに託す、期待するしかないようです。

 

 二つ目は、直近号で「院内感染対策」について3病院の事例を独自取材されて整理されているところです(2020.5.20付「コロナウイルス(12)」)。

 和歌山済生会有田病院、岐阜大学病院、そして東京医科歯科病院という院内感染防止に成功した3病院の対策に共通しているのが、「第二次接触者:接触した可能性のある人を同定し、PCR検査を徹底」「職員:コロナの検査、医療に関わる職員のPCR検査」「入院患者:入院前のPCR検査」「外来患者:過密防止、事前問診など」「病院長:強いリーダーシップ」の5点だと指摘しています。

 そのうえで、黒木先生は、「院内感染予防にはPCR検査がいかに重要であるかが分かります」と強調しています。つまり「自前のPCR検査なしに院内感染は抑えられない」としているのです。

 にもかかわらず「分かっていないのは厚労省」だとし、病院の自己負担で検査している状況を、つまり「厚労省がわずかな負担を渋っている」ことが、院内感染を招き、ひいては医療崩壊を招くと、怒りを爆発させています。

 直近に厚労省の対応に変化が出ている可能性がありますが、医療費の抑制という大命題の圧力のもとでしか判断を許されてこなかった厚労省のトラウマということかもしれません。すなわち前記した言葉にあった「本末転倒」は至る所にある、それは私たち自身にも巣くっています。だからといって、現状が許容されるわけではなく、一つ一つ変えていく、変わっていくしかありません。

 

◈おわりにー新型コロナウイルスの顔ー

 前項の黒木先生の通信には、東大の河岡義裕教授(政府の専門家会議のメンバーでもある)から提供を受けたという「細胞内で増える新型コロナウイルスの見事な電顕写真」が掲載されています。「見事な電顕写真」とありますが、どうなのでしょうか、下記にその写真の写真をアップしています。

 永田和宏の別稿によると、人間の細胞の大きさは10ミクロン(100分の1mm)ほどらしくて、こんな小さな世界でウイルスは細胞内に入り増殖していることになります。人間の細胞は60兆個もあるらしく、細胞を直線に並べると、実に60万劼箸いΔ海箸砲覆蠅泙后C狼紊15周できるだけの長さになります(毎日10卻發として、地球1周の4万劼肪するには11年を要します)。そう聞けば生命体としての人体は実に驚異的な世界なんだと思わざるをえません。

 この電顕写真を見ていて頭に浮かんだ映像は、大中の県立博物館敷地内の池で観察できる蓮の成長です。冬入りの頃に片づけられて何もない池の面に、3月のある日、クラゲのような半透明の小さな円形が少しずつぽっかりと浮かんできます。4月の声が聞こえてくると、このクラゲ状のものが少しずつ緑を帯びて大きくなり、ある日、これは蓮の葉にちがいないと気づきます。池一面に緑の島が点在して増殖していきます。こうした蓮が成長していく姿を、このウイルスの増殖の写真に重ね合わせたのです。

  細胞内で増えるコロナウイルスの電顕写真

 

 昨日(5/25)、残っていた首都圏と北海道の緊急事態宣言が解除され、全面解除となりました。それぞれ1週間ずつ解除のタイミングが前のめりではなかったかという根拠なき感覚もありますが、これからどうなっていくことでしょう。この「解除」という空気感のなかで、宣言期間中にトレーニングで積み上げた「感染拡大防止」への予防感覚はアクティヴの持続というか、健在を維持できるでしょうか、試行錯誤の日々が待っています。

 以上、テーマはもとより書くという行為自体についても「不要不急」という文字を思い浮かべながら、それでも書いてしまいました。黒木先生が批判する「選択と集中」は、きっと「不要不急」という言葉が嫌いでしょうね。

 学校の再開にあたり、教師も生徒も、フェースシールド、フェースガードを付けて授業している風景が報道されていますが、それはそうかもしれないけれど、当事者ではない「贅沢な自粛」の私としては違和感なしに眺めることができませんでした。そして、マスクをして真夏の強い日差しの中を歩くことは、私にはちょっと想像しにくいし、想像したくないのですが、皆様はいかがでしょうか。

 今でもけっこう暑いのにとボヤキながら歩いていて、一輪だけ咲き始めたハナショウブに出会うことができました。

  ハナショウブ(播磨町野添北公園内) [2020.5.24撮影]

 

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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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