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2019.12.15 Sunday

「自学ノート」に励まされてーNHKスペシャル『ボクの自学ノート〜7年間の小さな大冒険〜』ー

 先日、再々放送されたテレビ・ドキュメンタリー『ボクの自学ノート〜7年間の小さな大冒険〜』(11月30日NHK総合)に見入ってしまいました(5月1日BS1/7月20日Eテレ)。本稿を読んでいただいている方は視聴されましたか、ちょっと感想を聞いてみたくなります。

 

 梅田明日佳君、現在高校2年生、取材時は高1だったのでしょうか、プラモの箱が積みあがった部屋の本箱には小学3年生から続けてきた「自学ノート」が21冊並んでいます。「自学ノート」とは、小学校の宿題から始まったのだそうで、自分でテーマを見つけて学習したことを記録するためのノートのことです。彼の場合は、新聞のなかで興味を覚えた記事を切り抜き、調べてレポートしてコメントを加えたりするのが基本スタイルです。そして、近くに現場がある場合は、足を運んで確かめたり新たな疑問点を調べたりして、一つのテーマをさらに深めたり、広げていったりしています。そんな調査研究のアウトプットが、梅田君にとって「自学ノート」だというわけです。

 足かけ7年、あとでもふれますが、何を差し置いても、彼は「自学ノート」に長時間をかけて取り組んできたようです。彼の言葉では「趣味が習慣」となって、担任の先生という読み手がいなくなった中学生になっても、「部活代わりのように」これを続け、合わせて21冊になったのです。そして、高校受験という言葉が聞こえてくる中学3年生の夏休みに、北九州市立文学館が募集する「第9回子どもノンフィクション文学賞」へ応募するため、この「自学ノート」の7年間をベースに、その歩みをふりかえる原稿用紙50枚の『ぼくのあしあと 総集編』(以下<あしあと>と表記)を書きあげました。

 この作品は、中学生の部で大賞を受賞することになります(過去にも4回の受賞歴あり)。この文章が密かに反響を呼んだからなのでしょうか、現在の社会や教育の問題が透けてみえるからでしょうか、今回のようなテレビ・ドキュメンタリーになりました。そして、この少年の心の軌跡が、同時に母の子に寄せる思いが、彼の周辺にいる大人たちとの交流が、ほんの一部でも、私たち視聴者に届けられることになったのです。

 

 このドキュメンタリーの最後のナレーションは、<あしあと>の最後におかれていたのであろう文章「このノートは僕の歴史年表だ。これからも静かに僕を励まし続けてくれる」でした。同時に、この「自学ノート」は、母親を(ちょっと姿が映っただけの父親も)、周囲で関わっている大人たちを、そして、このテレビ番組を通じて、きっと多くの視聴者を、とりわけ生きづらさを感じている人たちを励ましてくれるものです。さらに、まちがいなく私もその一人です。

 「自学ノート」の7年間の軌跡をきちんとふりかえることはできませんが、本稿では、この「静かに僕を励まし続けてくれる」という梅田少年の言葉の意味をちょっと立ちどまって考えてみたい、というか、かみしめておくことができたらと願っています。

  『ボクの自学ノート〜7年間の小さな冒険〜』(2019.11.30/NHKスペシャル)のタイトル

  「自学ノート」にむかう梅田君

  「自学ノート」小3時にヨシダ眼鏡店を訪問した時のノート

 

 梅田少年の生活において、生きることにおいて、「自学ノート」とは、どのようなものなのでしょうか。 

 母親の洋子さんは、「だんだん小学2年生ごろから図書室で本を読むようになって、5、6年生の時はいつもあそこ(図書室)が居場所」であり「皆が遊んでいる時に絵を描いたり、作文を書いたりしているんですから」と、当番組のディレクターである佐々木健一さんのインタービューに答えています。番組内でも、小学4年生の頃までは家に友達が遊びに来ていたけれど、「自学ノート」に熱中するようになって、それからは友達も来なくなり、今もそれが続いていると、母・洋子さんは語っています。

 中学3年生で書いた<あしあと>には、冒頭で「自学ノート」が遊びの中心となってきたとの総括めいた言葉があります(北九州市立文学館HP「ぼくのあしあと 総集編」その1その2 ㊟)。そして中学生活について、「放課後、(中略)僕はダッシュで学校をとび出す。僕が家で新聞を切り抜いたり、何かを調べたり書いたりしている間に」、「放課後の学校にいない、ということは、中学生でありながら中学生の実態を知らない、ということになるのかもしれない」とあります。

 ㊟残念なことに途中までしか掲載されていないようです。

 また同じ<あしあと>には「公立小中 夏休み短縮の動き」という新聞記事に焦ったとして、「なぜなら僕は、夏休みと冬休みと春休みを心の支えとして何とか学校に行っている「どうにかこうにか中学生」だからだ」とし、小学生の時もやはり「どうにかこうにか小学生」であったと書いています。

 ですから、軽々にレッテルを貼るようなことは慎まなければいけませんが、梅田君は学校を休むわけではないけれど学校になじみにくい子供であったのでしょう。ドキュメンタリーに登場した同級生だったという少女は、梅田君はクラスの誰とも話していないようだったし、どんな人と問われても誰も答えられない謎めいた存在だった、そして中学生になっても「自学ノート」を続けているというのは梅田君だけであろうと、インタビューに答えていました。

 

 梅田君は、ドキュメンタリーのなかで、家ではペラペラしゃべれるのに、外では話すことが非常に下手だから、もどかしい思いもあって、「自学ノート」や手紙に熱中したのではないかという趣旨のことを語っています。いわば学校生活において孤立とか、孤独という言葉が浮かんできます。

 一方で、5ミリ方眼のノートにきっちりと書かれた自学記録を、他者に読んでもらうことを経験して、引っ込み思案でシャイとみられる少年には変化が出てきます。この他者とは、小3時からの時計店の社長であり、また北九州市の様々な文化施設・資料館㊟の館長とか学芸員たちのことです。こうした「自学ノート」を介する大人たちとの交流が、つまり「読んでもらえる人がいる」「コメントを入れてくれる人がいる」ということが、梅田少年に喜びを与え、さらに「自学ノート」に向かわせることになります。そして、佐々木ディレクターに、「自学ノート」の日々を、「ボクにとっての青春はこれだな」と答え、だから<あしあと>を書いたのだというのです。

 ㊟梅田君が「行きつけ」と称する場所が「安川電機みらい館」など6ヵ所あります。

 「明日佳君にとって「自学ノート」とは?」と佐々木ディレクターの質問に対し、梅田少年の答えは、次のとおりです。

 「 切っても切り離せない存在です。ボクの中では、必要不可欠なものに

  なっています。自分が今、どんなことを思っているか。以前、どんなこと

  を考えていたか。それを見直すことができる。自分の考えをまとめるもの

  であり、自分の心の支えでもあると思っています。」

 そして「子どもノンフィクション文学賞」の審査員であるリリー・フランキーさんは、明日佳君は自分のことを理解してくれると思える人には「ぐいぐいと押してくる」「ぜんぜんシャイではない」「むちゃくちゃ積極的」などの言葉で、私の梅田少年への通り一遍の印象をひっくり返す発言をしています。

 

 ここで、母親の洋子さんの思いにも触れることにします。

 梅田少年と誰よりも長くそばにいたし、今もいる母・洋子さんは、そんな明日佳君を「社会の中でやっていけないなあ。うちはダメやろな」と思ってきたとし、「明日佳のような子は昔もいただろうし、今もいる。その子どもたちはどうしたのだろう」という言葉を発しています。我が子と学校が求める子ども像との落差に苦悩してきたのでしょう。「明日佳は、明るくない、元気もない、積極的でもない、そしてコミュニケーション能力もない」、学校の求める子ども像と正反対のようにみえる我が子のことを、つまり<他の子とちょっと違うことをちょっと心配>したけれど、子育て期間中に悩みを共有できる人がいなかったと述懐しています。

 だが、「自学ノート」を介して知り合った北九州の大人たちやリリー・フランキーさんの言葉に励まされたと思っていると、佐々木ディレクターのインタビューに答えています。リリー・フランキーさんからは、明日佳君のことを「自分が何かをすることで、失うものがあることを知っている子だ」と言われ、表彰式の時に「この子、どんな¨変わったおじさん¨になるか、将来が楽しみ」との言葉をもらって、母・洋子さんはすごくうれしかったと言います。そして「変わったおじさんでもいいか」と思うようになって、「つらい時はリリーさんの言葉を思い出して元気を出すようにしています」と語っています。

 何よりも大切なことは、母・洋子さんが、不安の中で辛い時、厳しい時に、「私を助けてくれるのも「自学ノート」なのです」と語っているところです。

 

 ドキュメンタリーには、北九州の大人たちが数人登場していますが、そのうち二人を取り上げておきます。

 一人は前記した時計店「めがねの吉田」の社長 吉田清春さんです。小3の時、吉田さんのコレクション「珍しい時計126点展示」の記事をみつけ、見学に出かけたのです。元々時計好きという梅田君は、初対面のにこにこ顔の吉田さんから詳細な説明を聞いて感激し、手紙を送ります。そして、詳細なレポートを記録した「自学ノート」を持参して吉田さんに見せたようで、吉田さんは自分のブログでこれを紹介します。このことを、ドキュメンタリーの中で、梅田少年は「大事件でした」と語っています。

 それからも交流が続きます。ドキュメンタリーの中で、吉田社長は、自分とオーバーラップするところがあるという梅田少年に最近語ったことを説明しています。すなわち変わった子であることに、平均的でないことに、劣等感をもつ必要などないのだ、そんなことにフックされる必要はないんだよと言ったんですと強調していました。

 もう一人は安川電機みらい館の館長 岡林千夫さんです。みらい館を見学して「自学ノート」にレポートを書いた中2の梅田少年は、みらい館に手紙を送ると、岡林館長から招待されます。手渡した「自学ノート」には、、ノート余白に明日佳君へのメッセージが書かれていました。そこには「何にでもチャレンジして、失敗して、また、チャレンジすることを繰り返していました。今は、どんどん知識を増やしてください。そして感動してください」とありました。

 招待されてみらい館を訪ねた梅田君が岡林館長からの問いかけに理科が好きだと返答したところ、スウェーデンに長く住んだことがあってその個性を伸ばす教育と日本の学校教育の差異に意識的である館長から「安川電機に入らんかね?」と突然言われ、えっ?!と反応するだけで答えられなかったエピソードが紹介されました。そして、中学卒業後に館長から「知るを知る/知らざるを知らずと為す/これ知るなり」というはなむけの言葉を贈られたとあります。

 

 下記の番組を撮影した写真のテロップを、このドキュメンタリーは引き出しています。「人の十倍かかって書く」という梅田君は、小学校の担任の先生から、「時間をかければいいものはできるけど、効率的にやることが、社会で求められる」と言われたことを今も覚えていて、自分の中に深く残っていると語っていました。梅田少年は、痛いほど気づいているのです。

 母・洋子さんの心配もそこにあるのでしょう。中3の夏休みに応募の作文<あしあと>やら、おまけにポスターまで時間をかけて書いている明日佳君に対し、母のイライラは頂点に達します。それでも、佐々木ディレクターに母・洋子さんは「道筋はつけてやっても、結局歩いていくのは自分なんだから」と、自分の子どもではあるが、一人の人間として、一個の人格として接しようと努力されている語りは、この番組の頂点ではなかったかと、私自身の経験や年齢もあってか、そう感じました。

 その下の写真は彼女が2015年にしたためた書であり、この書を、明日佳君は好きだといって、自分の部屋に貼っているのです。福岡伸一著『ルリボシカマキリの青』(2010年4月刊/文藝春秋)のプロローグにある一節だそうです。母・洋子さんの手による書の部分(太字)の前に、一文を追加して引用します。

 「 私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きな

  ことがそのまま職業に通じる必要は全くないんだ。[㊟以下が母の手になる書

  の文です] 大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そしてその好き

  なことがずっと好きであり続けられることの旅程が、驚くほど豊かで、君

  を一瞬たりともあきさせることがないということ。そしてそれは静かに君

  を励ましつづける。最後の最後まで君を励ましつづける。

 母・洋子さんの明日佳君への愛の言葉といってしまえばよいのでしょうか、というより、我が子を理解しようともがき葛藤する母の一つの到達点というべきものとして、私は受けとめようと思いました。明日佳君もこの言葉に自分を投影したのはまちがいないでしょう。

 そして、お気づきのように、この言葉は、ドキュメンタリーのラストメッセージ「このノートは僕の歴史年表だ。これからも静かに僕を励まし続けてくれる」という梅田少年自身の文章に再生されているのです。これは社会的なコードからの解決とか妥協とかとは関係ないでしょう。迷い続けながらも、このように生きていくのだという明日佳君の思いの爆発なのだと、心の声なのだと、私は感じています。

  梅田君がひっかかっている先生の言葉

  ピンぼけですが、母・洋子さんの手になる書(福岡伸一の文)

 

 今回も、自分というものの狭い経験や現在地というものから、私の視線は飛び立つことができないものだと再確認するほかないようです。

 NHK・HPの番組広報の中で、佐々木ディレクターは、「不思議な子」「謎めいた存在」と周囲から思われていた梅田少年のことを、自分が「どんな子」かと問われたら、「考えさせられる子」と答えるだろうと書いています。少年の「自学ノート」に込められた心の軌跡への思いとともに、少年の姿から、できるだけ社会化した問いかけをも受けとめようとしています。というより、「否応なく考えさせられてしまう」と言いたいようで、次の「問い」を例示しています。

 「・「学び」とは本来、何なのか?

  ・「伝える」ってどういうこと?

  ・「大人」は、「これからの日本」は、どうあるべきか?」

 

 最後に、私は、佐々木ディレクターのような問いを感じないとはいえませんが、ここでは自分の現在地という狭小な経験から述べてみることにします。

 梅田君の「自学ノート」は、彼の小3という子どもの頃からの好奇心と探求心と表現意欲が結晶したものであり、社会的枠組み、諸規制と離れたもので、「学び」の本質があらわれていると、私は考えています。佐々木さんの「「学び」とは本来、何なのか?」と関わりますが、明日佳君の「学び」は社会的関係を背景とする「学び」とは、つまり学校という場とか、仕事という場とか、少し性格が違うもののように感じます。もとより学校や仕事という場において「学び」は存在しているわけで、そのことを否定しているわけではありません。でも、目的、成果、効率性などというもののの重視という点で、この重視という点から離れているのが明日佳君の「学び」であり、もう一歩踏み込めば、「学び」というものの純粋な形ではないかといいたいのです。

 さらに、誤解を招きそうな言い方になりますが、現在、70歳の私が今「学び」だと思っている状態と近いもの、すなわち老人の「学ぶ」ということと近いものではないかと申し上げたいのです。

 当ブログで大学の聴講生である私自身の「学び」に関連づけつつ(「通過点を重ねるようにー津野海太郎に導かれー」)、老年の「学びという営み」は「点数や成果のため」というだけでない側面をもっており、それゆえに「裸のと呼びたいような「喜びであり、楽しみ」に通じている」と書きました。それは、「学ぶ」ことが死によって終わりが来ることを前提とした「「通過点」としての「学び」」というあり方であり、そこにも「学ぶという手応え」はあるのだと、いささか強弁したのです。

 

 このような「学ぶ」というあり方に誘導され、別のブログ(「記念日の強がりー『思泳雑記』の三年ー」)において、「今の私にとって、ブログは「学び」の一つの方法であり、切り離すことができないものだ」と書きました。つまり私にとってブログと「学ぶ」は不可分の関係にあるのであって、たとえ「次の一歩を発見する」という成果は期待できないけれど、ブログを続けていきたいと言いたかったようなのです。

 前記したとおり、梅田少年は「自学ノート」を「自分と切り離せないもの」であり「心の支えでもある」と語っています。私とブログとの関係も、明日佳君と同じでそうだと思ったりしているのてす。

 関係ないと言えば関係のないことですが、<あしあと>の吉田社長との出会いのところで、梅田君は「僕のノートの写真も載っていて、ブログって自学ノートみたいだと思った」と書いています。

 私のブログを梅田君の「自学ノート」と同じ地平で論じることはできませんし、僭越なことです。だが、「学ぶという営み」という点で、その性格において、子どもの時期と老人という時期の「学ぶ」は、全く関係のないようだが、見方を変えれば、つまり「社会がはめる枷からの自由」という点においても、特に明日佳君の「自学ノート」のような「学び」の場合は、ずいぶんと近い関係にあると思っています。 

 だからこそ、私自身が、このドキュメンタリーの「自学ノート」を核とする明日佳君の「学び」にずいぶんと励ましを受けたように感じています。「このノートは僕の歴史年表だ。これからも僕を静かに励まし続けてくれる」という明日佳君の言葉をかみしめておくことにしたいのです。

 

 しかしながら、近い将来において、青年として、「社会がはめる枷からの自由」の状態でおれないであろう社会的存在として、梅田君はどう生きていくかという課題を捨象することはできません。

 本稿ではこれからの日本の教育のあり方はという問いをスルーして、でもしかしとだけ申し上げておきましょう。梅田少年に対する北九州の大人たちのような人たちが存在するのは事実であり、梅田青年にはそのような人たちとの出会いがあることを信じたいと、私は祈るばかりです。

 

 もう一つだけどうでもいいことです。梅田少年の中学校名は「思永中学校」なのです。「しえい」で検索すると「思泳」ではなく「思永中学校」がヒットするのです。

 私にとっては、驚くべき偶然であり、偶然だけれど不思議であり、このドキュメンタリーを思わず肩入れして見てしまったのは、こんなこともあったからかもしれません。

 いずれにしても、こうした地味なドキュメンタリーに大きな反響が寄せられたということに、自分の身に置き換え切実な気持ちで見入った少年少女やその親たちの存在を感じつつも、ある種の希望のような何かを、私は見出したいと考えています。

 

 当ブログでよく登場する大中遺跡公園の弥生後期から古墳時代にかけての復元竪穴住居は劣化がすすんでいます。全部で11棟の大半で屋根の部分が薄くなって雨漏りがするため、昨年から修復作業が始まりました。昨年に続き、今年は現在のところ3棟で茅葺きの葺き替えが行われています。

 古代もこんな高密度の茅葺きの住居だったのだろうかといぶかしく思う気持ちもありますが、完成に近づいた茅葺き屋根は、散髪直後の刈上げ頭の感じがしてなかなか格好のよいものです。茅葺き職人たちのトラックや自動車のナンバーは京都や岡山で県境をまたいでかなり遠くから通ってきているようです。

  大中遺跡公園の竪穴住居の茅葺き屋根修復作業 [2019.11.28撮影]

  同 上

  同 上

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プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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