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2019.04.29 Monday

遥かにノートルダムは遠ざかりー森有正のことー

 先々週15日の夜のパリ、ノートルダム大聖堂の火災は明け方まで続きました。これを報じるわが国のニュースは、尖塔が崩れ落ちる光景と、これを沈痛な面持ちで見上げる市民(「信者たち」との表現もありました)が讃美歌を歌うシーンを中心に報道していました。そして、ノートルダム大聖堂は、フランスの人びとにとって特別なもの、いわば「心のよりどころ」なんだとの説明を加えていました。

 フランスでは、出火から8時間を超えて続いた火災の成り行きを、多くの国民がテレビで同時に見守るという21世紀的状況があったようです(PCでは世界同時に見ることができたのでしょう)。そう思うと、私は断片的なニュース映像でしかみていないわけですが、2001年9月11日の同時多発テロでニューヨークのWTCビルが崩落していくライブ映像から、さらに2011年3月11日に東日本大震災の大津波が海から陸へと押し寄せてくるライブ映像へと、想像を飛ばしてしまいます。

 

 フランスに出かけたことのない私ですから、反応はといえば、えらいことが起きてしまったのだなという、いささか冷淡で距離感のあるものでした。今になると、フィレンツェのドゥオーモだったら、ちょっと違う反応だったのかもしれないと思ったりもします(「クーポラの見える街でー池上俊一『フィレンツェ-比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(1)(2)(3・完)」)。

 続いて意識に上ったのは、日本で「ノートルダム大聖堂」に相当する建築物といったら何だろうかという自問であり、そして「森有正」のことでした。ここでは、前者の問いはさておき、後者の「森有正」のことを、ごく主観的に書いておきたいのです。

 森有正の書く文章には、ヨーロッパ文化を象徴する記号として「ノートルダム」がよく登場していました。森は数冊の詩的かつ思想的なエッセー集を上梓していますが、1967年刊の『遥かなノートル・ダム』、そして亡くなった直後、1976年刊の『遠ざかるノートル・ダム』、このニ冊のタイトルには「ノートル・ダム」が使われています。

 本稿では、いつもは自分のために半可通な説明を試みようとしますが、そんなことはできるだけ抜きにして、「昔の恋人」だったかもしれない森有正のことに少しだけふれておきたいのです。

 

 ちょっとその前に、ノートルダム大聖堂の火災を各国のメディアはどう報じたかについての記事からピックアップしておきましょう(2019.4.16「クーリエ・アンテルナショナル(仏)」)。キーワードは「政教分離」です。日本のメディアでこのことばを使っている例を、私は知りません。

 以下、上はドイツの「南ドイツ新聞」、下はイタリアの「イル・ジョルナーレ」という、いずれも日刊紙です。

 「 ノートルダムは単にパリの中心に位置しているだけではない。この大聖

  堂はパリの心臓でもあった。フランスという国のキリスト教的なルーツ、

  この国の政教分離の歴史と黄金時代の記憶そのものだった。」

 「 ノートルダム大聖堂が火災に見舞われたが、この大聖堂は、しばらく前

  から国家から見放されて崩れつつあった。

   (中略)この大聖堂を救うためのSOSは2017年から発信されていた。(政府

  が積極的に修復工事の資金を出さなかった)フランスという政教分離が徹底

  している国で、ノートルダムは焼け崩れることになったのだ。

   そのことを国家は直視せず、修復の資金集めも民間任せにしているよう

  である。」

 注目した「政教分離」は、ヨーロッパがキリスト教の支配的な中世から、血なまぐさい宗教戦争を経て近代へと展開していくうえで原動力となり、現在の自由と平等を柱とする西欧民主主義の根底にある原則なのだと理解しておく必要があるのでしょう。だからこそ、前々稿(「毎年のようで恥ずかしいのですがー「元号」と「時代区分」ー」)の最後でふれたとおり、ポピュリズムは「政教分離」を逆手にとって、「政教分離」のレベルに差のあるイスラム系の移民とその子孫、そして難民受け入れを批判しているという図式があるのです。だから、現代のデモクラシーの立場から、「ポピュリズム」というレッテルを貼って、単純に否定してしまうことが難しいというわけです。

 政治学者カノヴァンの「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のように着いてくる」という文章を再引用しておきましょう。単純な分析は不適ですが、今回の大阪府域における政治現象は、このカノヴァンのことばを想起させずにはおれません。

 

 さて、森有正(1911-76)のことです。

 明治の政治家である森有礼の孫として、特権的で特殊な環境の下で教育を受け、長じて東大の仏文科の助教授となっていた1950年にフランスへ留学したものの、帰国せず、そのままフランスに残り、パリで教育・研究活動に従事し、日本へ戻る決心をして準備の進んでいた1976年10月に65歳でパリで急逝した方です。ですから後半生である26年間をパリで過ごしたことになります。デカルトやパスカルを専門としていたものの、どちらかといえば、一般向けに書かれたエッセーの著作によって、高名な知識人として知られた存在であったといえます。森のエッセーとは、結局、自らの人生と思索をことばで表現することで、つまり自らの「思索」と一体となった「生き方」を提示することによって、日本人、とりわけ若者にそれぞれの「生き方」を問い、揺さぶり、励ますものだったといえます。

 もちろん私は、学生時代に森のエッセーを読んでいたのです。それも力を入れて読んでいたつもりなのです。「憧れのパリ」などという感覚はありませんでしたが、東大助教授の職をなげうって、清貧のなかで、真摯に生き方を探求しつつ思索する知識人というイメージだったのだと記憶しています。森のエッセーは、ほぼ同時代の産物であり、同じ空気で呼吸しているちょっと人間離れした男の全力投球の姿を、真横から眺めるように読んでいるというライブ感がありました。もちろんそれだけではないでしょう。何より熱情のこもった、ある種デーモニッシュな文体に、どう生きたらいいのかと迷い子の若者は、この場合は私ですが、訳もわからないいまま引き込まれていました。

 

 あれから半世紀近く立った現在、かつての私の「森有正」への恋を語ろうとすれば、以上のようなことになろうかと思っています。読んでも読んでも、ああこういうことかと思っていても、森の最も力を込めて繰りかえし繰りかえし書いていた「経験」の思想は、私の頭に確かな焦点を結ぶことはなかったのです。それでも「恋の残り香」があって、森有正は私の導き手であるというイメージは残っていたようなのですが、森の急死によって、森有正への恋は唐突に終わってしまいました。同時代と苦闘しながら生きている人としての森は、もはや実在しなくなったということなのでしょう。

 というのも、私自身の外部環境が変化していました。当ブログでふれてきたとおり、1年間の治療を経て復学した学生生活で音楽や映画との関係が深まり、眉間にしわを寄せるだけが人生とはいえないのではないかと思い、2年後、1976年4月には遅くなった就職をして、全く未知の世界でどう暮らしていくかが最優先になっていました。ここで森への恋は終わっていたのでしょう。それでも1976年の秋に森の急死を知ったときに動揺したことを覚えています。直後の同年12月に刊行された前記の『遠ざかるノートル・ダム』を手に入れていますから、レクイエムとして読んだのかもしれません。

 今、出版元である筑摩書房は、森有正の紹介文のなかに「深い哲学的省察に満ちたその¨思想エッセー¨は、西洋思想を学ぶ者のみならず、自己に誠実であろうとする多くの読者に迎えられた」との文章をひそませています。ああそんな言い方もできるのか、何とも恥ずかしいといわなければなりませんが、まあ長く引きずってきた青春の終わりでした。

  LPレコード『思索の源泉としての音楽・森有正』の裏面の一部

 今回、私は森有正が亡くなった直後に刊行された『遠ざかるノートル・ダム』を前半分ほど読んだだけで書いています。その冒頭におかれ書名にもなった「遠ざかるノートル・ダム」(1974年『展望』12月号)というエッセーで、森有正はパリ滞在の25年間を、ノートル・ダムとの邂逅から、接近し、再発見があり、深まり、そして「遠ざかる」に至る四半世紀として回想しています。

 「パリへ来てから25年の間、私はいつもノートルダムのかたわらに在った」という一文からエッセーははじまります。1950年9月末、初めてパリに着いた日の「雨に烟るシテ島に立つノートル・ダムの淡くかすむ影絵のような姿」を望見し、これが「ノートル・ダムとの最初の出会いであると共に、パリとの邂逅であった」としつつ、でも「いつも同じようにというわけではなかった」と、森は続けています。

 最初の1年は「パリ生活への定着に忙殺」され、ノートル・ダムは「意識の下に睡っていた」けれど、ある初冬の夜、「私共の眼前に立ち塞がるように聳え立っていた」、そして「これほど繊細でニュアンスに富むノートル・ダムを見たことはなかった」と記しています。「この夜をもって、ノートル・ダムは私にとってエヴォカシオン[喚び起し]の一つの源泉になったのである」と、パリ留学から日本へ帰るべき1年後に、このままパリから離れないこと、すなわち森にとって大そう重い決断を下したことと絡めて記憶されているのです。このときからノートル・ダムはパリ、フランス、ヨーロッパという存在(当然「精神文化」を含んだ全体)の象徴として、森の前に在ったことになります。 

 そして10年後、森は「友人の手引きで、左岸第5区のノートル・ダムに面する小さいアパート」に転居し、「朝に夕にノートル・ダムを眺め」られる暮らしになりました。けれども「だんだん年をとり、色々責任や用事が多く」なってくると、ノートルダムの存在を意識せずに過ごすことも多くなってきます。一方、パリ滞在が長くなり、森はパリの「平凡な街角に美しさを感じ始めるように」なっていましたが、「そういう或る日、不図ノートル・ダムを見ると」、次のような感慨が生じてきたのだと書いています。

 「 それがいかに美しいものであるか、外のものと桁違いに優れたものであ

  るか、が沁々と感ぜられたのである。こうして自然、外界、天候、季節、

  またパリの町全体の小さいまた大きい美しさ、そういうものとの接触から

  ノートル・ダムが輝き出すようになって来る。(中略)こうして、ノートル

  ・ダムはパリに住む者の伴侶になって来るのである。」

 森有正は、こうしたノートル・ダムとの関係を、「融合して来る」とか「町の内側から見えて来る」と表現しています。「その美しさが本当に私共に露われるようになる」のは、「その全体をすでに含んでいる感覚が成熟を遂げなければ」ならないのであり、「今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来る」ものだというのです。それが「パリの町の内側から見えて来る」ということなのです。

 このエッセーの書かれる前年の1973年、大学都市日本館長に任ぜられた森有正は、ノートルダムの傍から、来仏した25年前と同じ建物へ移り住むことになりました。このことを、森は「偶然以上のものを感じている」とし、ノートルダムと共に在った25年間が次のことを教えてくれたとします。

 「 民衆の生活形態と造形はそこに(㊟国民として存在するという歴史的社会

  的性質を有する或る必然性)ささやかではあるが、否定出来ない美の根拠を

  構成している。外側から把握するのは仲々むつかしいが、全く不可能でも

  ない。そういうものが抗うすべもなく結晶しているノートル・ダムは、そ

  の直接的美観の下に、こういう民衆の生活の内側から、その主体面からの

  み近づき得る美をもっている。」

 だから、日本人の自分には「蝕知し難い部分が含まれる」が、「唯一、確かなことがあ」り、「それは、ノートル・ダムの傍らに在った四半世紀のパリ生活が私を決定的に内面へと向かわせたことで」あるとします。そのことはまた「ノートルダムという大造形が、その揺るがし難いその巨大な存在性によって、そのことを教えてくれたのである」と、自らの現在地、到達点を括っています。

 続けて、次の文章がおかれています。

 「 こうしてノートル・ダムは私から、あるいは私はノートル・ダムから遠

  ざかり始める。或る時、或る場所で邂逅し、接近し、抱擁し、交接を遂げ

  た男女が離れて行くように。」

 このような直截な表現によって、ノートル・ダムとの関係性がはっきりと変化したことを言葉にしています。これからはどこに住もうと「私の今後の仕事は、日本の中に決定的に定位されることになるだろう」とし、「出発の準備は、今度こそ終わったのである」と述べています。つまり、「ノートル・ダム」という存在が、エヴォカシオン[呼び起し]でなければならないという状況から、森有正自身が変貌したということです。そして、このエッセーは次の文章で締めくくられています。

 「 どこへ向ってであろうか。それはもうノートル・ダムのない国へ、法隆

  寺もない国へ向かってである。私の内面は今激しくそこへと私を促してい

  るのである。もうこれからは、パリについて直接更めて書くことはあるま

  いと思う。」

 

 以上、森有正とノートルダムの関係について、本稿では避けるつもりだった「半可通な説明」を試みてしまったようです。

 森有正の死から2ヵ月後に出版された同書には、辻邦生(1925-99)が「著者のあとがきにかえて」という文章を寄せています。二人の出会いは1957年のパリであり、森有正自身が「あなたの先生だから」と呼んでいた関係なのです。

 前記の森の締めくくりの文章を引用しつつ、辻は次のような思いを書きとめています。

 「 私は、先生が死を予感されて遺言をそこに書きとめたような気がしてく

  る。しかし先生の真意は、この「人間」という、日本でもなく、西洋でも

  ない、普遍の領域であったことは間違いない。」

 また同時期に書かれた別の文章(「ある生涯の軌跡」)で、辻は、次のような感慨を抱いたことを書き残しています。

 「 氏の葬儀も終り、幾日か信州の山にこもって氏の諸著作を読みふけって

  いるうち、私は、死の直後に受けた<突然の中断>という印象が薄れるの

  を感じた。むしろ森有正氏がパイプオルガンの演奏に没頭し、日本館館長

  の職を引きうけたとき、すでに、あるものが完成し、ただそれを、完成し

  た環のなかで深めるために、こうした具体的現実的な行動を選ばれたにち

  がいない、と思うようになった。」

 辻は、森有正の思想の中心である「経験」の内容を「感覚のかたまり」と理解していて、森自身、「この「感覚のかたまり」が感覚的事実から経験の層を経て、思想へと純化・析出される過程」を「思索と呼んでいた」のです。このように確認できたとき、森有正は実は「何ものか」にむかって進んでいるという進み方をしていたのではなく、別の方法をとっていたのではないかということに、辻は気づくことになりました。

 「 森有正はもともとどこか別の遥かな地点にむかって旅をしていたのでは

  なく、比喩的に言えば、ひたすら自分にむかって遥かな旅をしていた。そ

  れこそが真の思索であり、真の普遍性に達することであると信じていた。

  −−そのことに私は気づいたのであった。」

 最晩年の森有正の境地、すなわちその「思索」「思想」がノートル・ダムの呼び起しを必要としない地点まで到達していたのだと、「完成」ということばを用いて、辻は「遠ざかるノートル・ダム」というエッセーを媒介として説明しようとしています。

 こんな辻の見方について、とても当否、是非を云々しようもありませんが、パリで森の傍にいてその思索的営為を身近で見て感じて考えてきた辻が、先生であった森の生徒として、敬愛ということばだけで収まりきれない「森有正」という人間を追慕しているのだと、私は感じたのです。

 なお、森の最後の文章に「ノートル・ダムのない国へ、法隆寺もない国へ」とあります。ノートルダムの火災から私の意識に上ったこととして、「森有正」と、もう一つ「日本で「ノートルダム大聖堂」に相当する建築物はと」という自問がありました。森有正がどこまで考えた結論かわかりませんが、「法隆寺」ですか、皆さんはどう思われるでしょうか。

  森有正著『遠ざかるノートル・ダム』函の表面 1976年12月刊/筑摩書房

 最後に森有正が繰りかえし説いた「経験」についてもふれておくことにします。それこそ「半可通未満の説明」になりますが、ふれずに終われないと思ったのです。結局、私は森の「経験」について「理解」できた気持ちになったことはありませんでしたし、今もできていないわけですが、以上の文章を書いていて、また辻邦生の文章を読んでいて、そうしておきたいと思ったのです。

 森有正の思想の核である「経験」は、辞書にあるような定義は不可能なのでしょう。それは丸山真男が森有正のことを「自分の哲学を周辺の部分しか述べないで終わってしまった」、「だから森哲学というのは、周辺から窺う以外ないんです」と評していることとも関連しているといえます。

 森有正の文章から引用します。

 「 変化と流動とが自分の内外で激しかったこの15年の間に、僕のいろいろ

  学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って

  言うと感覚から直接生れて来る経験の、自分にとっての、置き換え難い重

  み、ということである。」

 「 経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとす

  る、というのと全くちがって、自分の中に、意識的にではなく、見える、

  あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れて来ていて、自

  分とわかちがたく成長し、意識的にはあとからそれに気がつくようなこと

  であり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ、とい

  うことの理解を含みます。」

 前者では、経験は「感覚から直接生れて来る」、後者では、「自分と分かちがたく成長し、意識的にはあとからそれに気がつくようなこと」だと、森は説明しているのです。この森有正の「経験」は、前記した「遠ざかるノートル・ダム」から部分的に引用した文章、ノートル・ダムの「美しさが本当に私共に露われるようになる」のは、「その全体をすでに含んでいる感覚が成熟を遂げなければ」ならないのであり、「今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来る」という表現に、呼応しているものだといえましょう。

 

 このことに関連して、辻邦生は、前記のとおり「「経験」の内容を「感覚」のかたまりと理解して」いると述べており、同じ「著者のあとがきにかえて」において、次のように表現しています。

 「 先生はつねに真の「経験」に達するまで、「感覚」を通して思索し生活

  することを教えた。あることが本当に身体でわかり、そのような確乎とし

  たものとして感じられ、それが動かしがたく私たちの中に存在していると

  き、それを先生は「経験」と呼ばれた。」

 次の長い文章へ続いていきます。この文中冒頭の「身体の中に実現された知恵のごときもの」という辻邦生の「経験」理解を明示したことばは、今の私にとって最も説得的な説明だと受けとめています。

 「 先生の求めたのは、こうした身体の中に実現された知恵のごときもの

  あって、単なる哲学的な知識ではなかった。西欧からただ知識だけを学ん

  でいた日本に対して、先生が根本的に抱いた疑問は、こうした表面的な文

  化摂取の態度だった。先生は日本にも真実な「経験」があり、その「身体

  的に確実に在るもの」が「日本」というものなのだ、と繰りかえして書か

  れている。そのような「経験」の層で深まってゆくことがなければ、いか

  に文化がすすみ、物質的に繁栄しても、それは人間が人間となる本来の

  「自由」を生みださない、というのが、先生の基本の考え方だった。」

 ここには、森有正が「経験」ということばに込めた内容ばかりではなく、その背景、ここでは明治の日本が開国とともに急激に近代化を図っていく過程において、西欧の文化を表面的に摂取してきたという前提が説明されています。和魂洋才ではないけれど、この問題意識が森有正にあったことはまちがいないのでしょう。最後にもう一度、ここに立ち戻ることにします。

 

 これも前記した辻邦生の文章に「森有正氏がパイプ・オルガンに没頭し」という一節がありましたが、ちょうど手元に『思索としての音楽・森有正』というタイトルで没後の翌年1977年にリリースのLPレコードが手元にあります。森のパイプオルガンの演奏やNHKテレビで森が話した内容の一部が収録されています。そのライナーノーツには森自身が文章を寄せており、「経験」について、次の一文を残していました。

 「 人間は誰しも生きることを通して、自分の中に「経験」が形成されてい

  く。今、経験ということを説明していることはできないが、それは煎じつ

  めれば、人間が過去からうけついだ歴史的なもの、それが、自己の働きと

  仕事とによって、自分自身のものとして定義されること、そういうものだ

  と思っている。」

 繰りかえすことになりますが、森は「人間が過去から受けついだ歴史的なもの」を「自己の働きと仕事」によって、「自分自身のものとして定義される」、それが「経験」なのだと述べています。

 この森有正の文章を受け、著名な音楽評論家であった吉田秀和は、「森さんはここで、人生と思索と音楽の三つは同じ根でつながっているだけでなく、結局同じ営みなのだということを示している」としつつ、森の文章に次の説明を与えています。

 「 彼は人間が過去から承けたものを自分の働きで自分のものにする仕事を

  経験と呼んだが、それは個人が他人(つまり人類)の経験を自分のものにす

  るということと同時に、自分の経験を進んで他人の前に提出するのを恐れ

  ないことでもあり、そうなければならぬと主張している」

 この森の「経験」について、吉田は「過去から承けたもの」を「他人(つまり人類)の経験」と読み替え、それを「自分のものにする」ことだと理解しています。前記の辻邦生の「身体の中に実現された知恵のごときもの」という説明と同様、森自身の説明よりも、むしろ私にはわかりやすいものとして受けとめることができました。

  森有正/話・オルガン『思索の源泉としての音楽』1977年/日本フォノグラム

 ここで、森有正の「経験」に少しでも接近するために、森の強調している「経験」と「体験」の区別、峻別について確認してみることにします。

 森の文章を引用します。

 「 経験と体験とは共に一人称の自己、すなわち「わたくし」と内面的につ

  ながっているが、「経験」では<わたくし>がその中から生まれて来るの

  に対し、「体験」はいつも私がすでに存在しているのであり、私は「体

  験」に先行し、吸収する。」

 このことに関し、辻は、言葉をかえればと、「経験」も「体験」も「それらはともにわれわれが現実に経過する行為を通してわれわれの内側に重層し、獲得されてゆくあるものなのだ」としたうえで、「しかし「体験」はわれわれが偶然的に人生のまにまに外側から与えられるもので」あるとしつつ、森有正の文章を引用しながら、次の対比を試みています。

 「 「体験」のなかでは、すべてが主観の歪みのもとに置かれている。われ

  われがそう感じ、そう味わっているのであり、それに自己満足し、容易に

  そこに安住する。

   これに対して「経験」とは、たしかに「現実そのもの」でありながら、

  同時に「自分を含めたものの本当の姿に一歩近づくということ、更に換言

  すれば、言葉の深い意味で客観的になることである」(『ひかりとノート

  ルダム』)と言える。」

 森と辻の表現からピックアップすると、「体験」は<すでに存在している私>が<主観>的に恣意的に<感じ、味わって>自足しているものであるのに対し、「経験」は内面的に<その中から<わたくし>>があらわれ<客観的>に<自分も含めた本当の姿に近づく>ものであると、対比させることができるでしょうか。わかったかと問われたら、わかったと答えにくいのですが、なんとなく感じるところがあります。

 このような森有正の「経験」の性格について、辻は、「引用は無数に続けられる」とし、次のとおり説明しています。もどかしいということなのか、少し嘆いているようでもあります。

 「 ある意味では、「経験」について言及されたものを引用するとすれば、

  結局は著作全体を引用するほかない。言葉をかえれば、氏は執拗に「経

  験」についてのみ語り、ひたすら「経験」のヴァリエーションを思考し書

  きつづけるのである。」

 これは前記の「周辺の部分しか述べないで終わってしまった」という丸山真男の森哲学評と関係しているようにも感じますが、私としては、「経験」という概念の性格そのものの問題であろうと思っています。

 

 いよいよ袋小路に迷いこんだ感覚がありますが、「最後にもう一度、立ち戻ることにしたい」としていたところに戻って、森有正の「経験」の背景にあったものを確認し、本稿を終えることにします。

 以上の「経験」とは何かという問いの総括としてふさわしいのではないかと、今回、私が感じた森自身の『木々は光を浴びて』からのいささか長い引用文から始めます。

 「 人間がつくった名前と命題に邪魔されずに、自然そのものが感覚の中に

  入って来るよろこび、いなそれは「よろこび」以前の純粋状態だ。(……)

  自分がまず在って何かを感覚するのだ、という事態から抜け出さなければ

  ならない。充実した感覚こそ、自我というものが析出されて来る根源では

  ないだろうか。(……)感覚の処女性という表現によって、私は、ものと

  の、名辞、命題あるいは観念を介さない、直接の、接触を、意味する。そ

  の接触そのものの認知を私は経験と呼ぶのである。」

 辻によれば、森有正がヨーロッパにとどまったのは、<名辞、命題あるいは観念>すなわち「「言葉」のみで構築した思索の建造物に、真の「経験」を与えること」、ただそれだったと強調します。つまり「真の「経験」を持たぬ「名辞」だけで、それだけの構築物をつくりえたという自己の能力(そしてそれは明治以後の日本の特殊な能力の質にかかわってくる)に対する、言い知れぬ嫌悪感」であったというのです。それは、森が日本で思索し研究を続けてきた「成果物」のことであり、それは「自分」そのものということもできます。この「明治以降の特殊な能力の質」とは「広義には、明治以後の「経験の定義を経ない、単なる空疎な名辞」の群」であるといえます。

 そのために森がとどまったヨーロッパでなそうとしたことについて、辻は「その一つは日本でつくりあげた「名辞」(言葉)そのものの破壊であり、もう一つは、まったく名を必要としない、「もの」との直接的な接触」であり、「この二つの側面は、一つのことの両面として、同時的に進行していく」と説明しています。ですから、こうした森有正は、辻のいう次のことに注力していくことになります。

 「 氏はパリでそうした「符牒」にすぎになくなった「言葉」に、真の人間

  の歴史的な、伝統的な「経験」をそそぎこもうとした。そしてそれはた

  だ、自分の「経験」が蓄積し、重層し、結晶して、ある疑いようのない

  「身体的に確実なもの」「あらゆる爾後の行動の制約になるもの」となる

  まで、忍苦してまつほかなかった。それは恣意的、偶然的に生れてくる

  「体験」と戦い、それを克服するものでもあった。」

 こうした苦闘を経たものが、森有正の「経験」というものであったといえるのでしょう。先に引用した「ものとの、名辞、命題あるいは観念を介さない、直接の、接触を、意味する。その接触そのものの認知を私は経験と呼ぶ」へと、導くことになりました。

 

 こうした思想的営為は、その背景からも、森有正の早すぎた晩年に「日本の精神的体質にメスを入れることに」向かわせることになります。辻邦生は、次のように表現しています。

 「 森有正氏にとって「経験」の欠如した思索の構築物は良心性の発条と

  なったが、それは同時に明治以後の日本という「名辞、命題、あるいは

  観念」のみを介した、真の「経験」の欠如した、精神風土の告発を必然

  的に含むことになる。氏の晩年の思索の方向がこのようにヨーロッパを

  学びながら、なお依然としてヨーロッパの「経験」に達し得ない日本の

  精神的体質にメスを入れることに向ったのは、一つの必然の成り行きで

  あった。」

 このことは、機会があれば別稿でいうことにしたいと思います。「半可通未満」のままで続けることはさすがにできません。

 こんなレベルではありますが、森有正の「経験」から半世紀、グローバルな世界の進行と分断、多文化の共生と摩擦などが問われる現在において、森の「経験」という基本姿勢はすでに無効となっているのではないかという問いに対し、こうした時代だからこそなおさら示唆に富んでいるかもしれないと、私は感じています。

 

 さて、ノートルダム大聖堂の火災から、「森有正」のことが意識に上り、若いころに「森有正」に恋していたことだけを主観的に書いておこうとしていたのですが、予定していなかった後半部も加えてしまいました。余計なことというしかありませんが、私のためのメモ書きという当ブログの性格だから仕方がないと居直りのようなことを申し上げ、お許しをいただくしかありません。

 若いときに恋していた「森有正」に失恋した事実に変わりはありません。もはや再燃することはないでしょう。「森有正」からの三行半というより、理解不能の巨魁に、小さな現実で生きていかなければならない私自らが身を引いた、身を守ったということなのでしょう。

 でも、今回書いていて、若い日の恋は半世紀を経ても何がしかの記憶として消えずに残っていることを知りました。そして、ちょっと恥ずかしいことではありますが、我が身のなかに確かに存在していると気づくことになりました。

 

コメント
管理者の承認待ちコメントです。
  • -
  • 2020.01.27 Monday 03:58
コメントをお寄せいただきありがとうございます。
そんな風に読んで感じていただけこと、私にとっても大きな励ましです。
ブログを書いておきながら、森有正の「経験」というものを、私は十分に理解できたと申し上げることができません。
でもしかし、このますます「経験」から離れようとしている時代にあって、「身体の中に実現された知恵のごときもの」を求めた森有正の思想は、いよいよ一つの道標となるものだと考えています。
  • パンテオンの穴
  • 2019.07.08 Monday 12:25
森有正に関する貴重なおはなしをうかがうことができ、まことにありがとうございます。
森氏が追い求めた真の経験というおはなしは、これからのわたくしの生活にとって、すでに83歳ですが、
大切な指針となってゆくとおもわれ、感謝です。
  • 山本和男
  • 2019.07.08 Monday 11:18
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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