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2017.10.13 Friday

「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank:Books and Films,1947-2017 in Kobeー(2-)

 ちょっとというか、だいぶ後悔しています。前回のブログ(2017.9.11(1))で、これは展覧会の外形的な案内報告だけれど、次回はロバート・フランクの写真と映画の内容を書いてみることにしますと書いてしまったことをです。

 あれから「ロバート・フランク:ブックス アンド フィルムズ,1947-2017;神戸」にはもう2回足を運びました。映画の方は早々にあきらめることとし、写真、写真集の展示だけにしぼりました。写真集ごとに新聞用紙に印刷され、おおむね4枚の垂れ幕となって展示されているロバート・フランクの写真の森をウロウロと行ったり来たりしました。そして、そんななかから、私が波動のようなものを感じた写真を手持ちのカメラで写したのです。原則は写真集ごとに<数枚の写真から構成された垂れ幕1本>と最も印象が強かった<写真1枚>を決めるという作業をやってみました。

 展覧会が終了してから2週間がたち、私の撮影したロバート・フランクの写真の「写真」を整理していて、私は改めて批評する言葉を持ち合わせていないことを確認したと申しあげるしかありません。今回のブログで行うのはこんな写真が展示されていたというレポートにとどまることをお断りしておきます。

 

 今回展示されていた写真集は全部で23冊で、もちろん全てシュタイデル社から新刊なり再刊されたものばかりです。それぞれの写真集の写真の一部が選定・構成され、垂れ幕として印刷されたというわけです。

 この23冊を三部に分けて紹介することにします。写真集はおおむね当初発表された順番で展示されていましたが、その順番にとらわれずに区分しました。特に根拠があるわけでなく、私の印象によるものにすぎません。

 第一部はフランクがスイスからアメリカへ旅立った1947年以降、1940、50年代に撮影された写真から構成された写真集8冊(うち4冊は2003年以降に初めて写真集として新刊されたもの)です。私のような年齢の者にとって、写真家の写真らしい写真ということになります。

 第二部はフランクが写真から映画の制作へと足場を移行させた1960年前後から、写真を再開した1970年代以降を包含した長期間にわたる写真集8冊です。ポラロイドカメラの使用、複数イメージの組み合わせ、画面上への文字の書きこみなど、ミックスド・メディアの作品が多い特徴があります。

 第三部は2010年以降ヴィジュアル・ダイアリー(目で見る日記)として現在進行中の一連の写真集7冊(1冊は元私家版)で、シュタイデルの同時的な伴走によって生み出されたものです。第二部から続く方法ではありますが、多分に時の流れを意識した古い写真と最近の私的な写真を組み合わせたものです。

 1924年生まれのロバート・フランクからしますと、第一部は20、30代で旅から旅へと移動していた時期に撮影した写真から編集した「初期」、そして第二部は「記憶の再構成」を繰り返した壮年から老年へのいささか長い「中期」であり、第三部は80歳をこえた写真家の現在進行形の心象風景をシンプルに編集した「晩期」とくくることができます。

 こんな区分など必要ないかもしれませんが、私が撮った「写真」を数多くアップする整理上の観点だとご理解いただきたいと思います。

 

 今回のブログを書こうとして、カタログ「ロバート・フランク特別号」をはじめ、ざっと読んでみましたが、圧倒的に説得的だったのは写真評論家である飯沢耕太郎さんの「ロバート・フランク 写真家であるためにー序文にかえてー」という文章です。今から20年以上前の『フォトグラファーズ』(1996年4月刊/作品社)の巻頭におかれたこの評論は、刊行直前の1995〜96年にかけて書かれたのでしょうから、フランクの長い写真家人生においてまだまだ道半ばの時点だったといえます。

 飯沢さんは、「初期」から「中期」へスタイルは変化したものの基盤そのものには変わりがないのではないだろうかと、次のように主張しています。

 「 『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』(㊟1952年手製本)の時代で

      も、現在(㊟90年代中葉)でも、彼が写真に求めているのは彼自身の経験し

  た(経験しつつある)生の総体を、肉声のなまなましさを保ち続けながら組

  織していくための方法論なのである。その意味では、彼の写真は常にプラ

  イヴェートな¨日記¨の1ページを引きちぎって、提示したものにほかなら

  ない。」

 つまり写真家とはその写真と生との強力な結びつきを自らの作品を通して示し続ける存在だとすれば、ロバート・フランクは「その典型、というよりも最も突出した存在」なのだといいたいようなのです。

 いつものことで恐縮ですが、飯沢さんのこの鋭利な批評に依拠しつつ、今回の報告をはじめることにします。

  手書きされた「展覧会名の表示」です

  写真集ごとにおおむね4枚の垂れ幕で展示されています

 

◉第一部:旅から旅へーストーリー嫌いー

 思えば、いわゆる写真展という場で写真をみることは限られていますし、まして大きな会場で数多く展示された写真をみたことは指を折って数えられるぐらいしかありません(当ブログ「再見・写真と出会う(1)ー植田正治ー」)。

 私は写真をみることを絵画や彫刻よりも好みますが、ほとんどは写真集や雑誌でみているわけです。その意味では今回の展覧会は稀有のことでした。でも写真集を単位とした今回の展示方法は写真集の写真から選び編集されたスタイルであり、写真展と写真集の中間的な鑑賞体験だったといえるのでしょう。

 

 1924年にスイス・チューリッヒで生まれたロバート・フランクは、「実践的な写真技術」の習得をへて、「スイスはあまりにも閉鎖的で、わたしには小さすぎた」と1947年にニューヨークへ渡りました。有力誌『ハーパーズ・バザー』に職を得ましたが、翌年すぐに辞し、職業写真家としてのコースから外れたのです。そして、この第一部で紹介する写真の撮影先への旅から旅の「ほとんど何かに取り憑かれたとしか思えない移動の連続」でした。

 飯沢さんは「この移動の時期に、彼の写真家としての基本的な眼差しが決定された」と記しています。

 

 フランクは50年代アメリカを象徴する『ライフ』の「文章と組写真を巧みに構成した¨ピクチャー・スートーリー¨」を、「はじまりとおわりのある、あのいまいましいストーリーってやつ」を徹底して嫌っていたそうです。つまり言葉によって補強ないし裏付けられた「写真」のありように不信をもっていたということです。写真そのものに帰れということでしょうか。

 そのアンチ・テーゼとしてフランクが確立した独特の叙述の形式が「写真の内容よりも、写真家とイメージを直接結び付ける」方法だったと飯沢さんは指摘し、次のように表現しています。

 「 個々のイメージがばらばらに投げ出された断片として孤立していなが

  ら、「目に見えない」より大きな感情によって緩やかに包含され、波のう

  ねりのように見る者を前に運んでいく叙述のスタイルだったのである。」

 キャプションなし、言葉なしで、見る者に「より大きな感情」のうねりを感得させる、ロバート・フランクの写真語法の到達点です。でもこれで終わらないのがフランクであり、第二部で大きな変化をみせます。 

 

🔹『Portfolio:40Fotos 1941/46』[2009|1941-46] ㊟[シュタイデル社刊行年|撮影年]

 スイスで自作したポートフォリオであり、これを持ってアメリカに渡ったフランクは写真家である自己の証明として用いた(『ハーパーズ・マガジン』でもこれを見せて職を得た)とされています。

 当たり前ですが、スイスらしい山と空の写真が多いのです。<1枚の写真>は、がけ地を下っていく二人の動きとがけ下の動かない家並みの対比が、フランクの感情の起伏と被写体への愛情があっていいですね。

 

🔹『PERU』[2008|1948]

 ペルーからニューヨークに戻り、手製で2巻本を作成したのだそうです。

 フランクの写真からは文明批評、批判的な眼差しではないものを感じます。故国スイスへの思いがあるのか、スイスよりさらに高地の山岳で暮らす人びととその営みがごくストレートに撮影されています。

 <組写真>はヨーロッパの芸術写真の趣のある緊張をはらんだ美しさが印象的です。<1枚の写真>(以下<>は省略)は事前の断りなしに素早く人物を撮影していたといわれるフランクらしく子どもの眼差しとうずくまる母親?、ペルーの山地の強い日差しもあってか、モノクロ写真の黒と白が強調されています。

 次の写真集ではブラックとホワイトがテーマとなって続いていきます。

 

🔹Black White and Things』[2009|1948-52]

 これも1952年にそれまで撮影した写真から選んで「黒」「白」「ものごと」の三章立てで手製本を3冊だけ作り、手元に1冊おき、あとは母親とニューヨーク近代美術館のエドワード・スタイケンへ贈ったとあります。

 今回展示された上の組写真は、写真集をみていないのではっきりしませんが、左側が「白」、右側が「黒」を組み合わせたのかなと思いますがいかがでしょうか。左の下の連作は映画を感じさせるパリで、右の最上段「荒野を踏み固めた道」はペルーで、それぞれ撮影されたものです。

 1枚の写真からは振り向いた厳しい眼差しが、次の『The Americans』への準備を感じさせます。

 

🔹The Americans』[2008決定版|1955-57]

 この写真集はフランクの最高傑作といわれ、同時代と若い世代の写真家に与えた衝撃の大きさは繰り返し論じられているそうです。

 グッゲンハイム奨学金を得て1955年から57年初頭にかけて全米を中古のフォードで走破し撮影したのがこの写真群です。50年代中葉のアメリカという当時の先端を象徴する世界を、冷静にひやりとした刃をあてて写真にしているように感じます。物質文明を謳歌するアメリカはそこになく、ここに登場しているのは意外にも表情に乏しいアメリカ人、どこか空虚で愁いを飲みこんだような人びとなのです。1枚の写真は何を語っているのでしょうか。

 私は移民であるフランクの視線、批評性を強く意識しました。この文明批評的な見方だけでなく、飯沢さんは「透明な記録者の視線ではなく、あくまでプライベートな¨旅¨の報告として編みあげられている」と注記しています。

 

🔹『London/Wales』[2007|1951-53]

 この写真集以降の4冊は、撮影当時は手製本にしろ何にせよ写真集とはならずに、2000年代になってから出版されたものです。

 豊かな金融街のロンドンと貧しい炭鉱街のウェールズが対比的に構成された写真集だそうですが、ここではウェールズだけのアップとなりました。石炭で黒んずんだ顔をした炭鉱夫からは、ある種の誇りが感じられるのです。その後は廃坑が続き石炭産業が壊滅していった来るべき変化の予兆を、我が国の炭鉱に関する写真、例えば土門拳の『筑豊のこどもたち』を、私は思い起こして立ちつくしました。

 

🔹Paris』[2008|1951]

 パリという都市の劇場性を強く感じる写真群です。パリを遊歩する人びとは舞台に登場するようにカメラに写っているようにさえ見えます。アジェを引用しているらしいのですが、私のフェイバリットな写真家であるロベルト・ドアノーやアンドレ・ケルテスのパリのイメージにも重なるところがあります。

 それにしても、1枚の写真のチューリップはドラマを予感させるではありませんか。この写真から、巧者のシナリオライターなら、簡単にドラマを作りあげてしまいそうです。

 

🔹『Valencia 1952』[2012|1952]

 1952年、長い内戦をへたフランコ時代のスペインのバレンシア、決して豊かといえない漁村の日常が軽佻浮薄からはるか遠く離れた形でそこに在ると感じさせてくれます。日常の賛歌というのではなく、そこには喜怒哀楽をこえた生きる意味さえありそうです。今回、私が最も強く波動を感じた写真群でした。

 展覧会の解説文には「威厳が貧困を凌駕している。それは、その後のフランクの写真撮影に対する姿勢を変えることになった」とあります。うむ、そうかもしれません。

 

🔹In America』[2014|1950代]

 フランクが1950年代のアメリカを撮影した写真群はお膝元のアメリカではほとんど知られていないのだそうです。スタンフォード大学に収蔵された50年代アメリカの写真を集大成することが意図されています。『The Americans』の写真22点に、新たに100点以上の写真が組みこまれています。もとより重なるイメージも多いのですが、今回の展示からは、トランプ大統領のもとでアメリカの亀裂が露呈していることが私にも届いているからかもしれませんが、黒人という問題がより提起されていると感じます。

 フランクは少なくとも自覚的に「スイスは小さすぎた」とアメリカへ渡ってきた移民であるのに対し、アフリカ系アメリカ人のルーツはそうではないわけです。1枚の写真からはその差別の根深さをやはり意識してしまうのです。

 

◉第二部:垂直の旅へー映画制作をへてー

 私が便宜上区分した第二部の写真をみる人はふつうなら第一部の写真との違いに驚きと戸惑いを感じることになります。私もその一人なのですが、写真家ロバート・フランクという同一人物がなした仕事として理解したいというのが基本姿勢です。この長い「中期」を一言で括るのは困難です。

 50年代アメリカ社会の見事な断面図というべき『The Americans』のあと、写真家のフランクは写真から離れ映画の制作に専心し、60年代は写真、写真集という観点からはほぼ空白の時期でした。写真に戻ってくるのは70年代に入ってからのことです。10年以上の空白のあと再び現れたフランクの写真は50年代の到達点をまるで否定ないし解体する方向で変貌していたわけです。

 飯沢さんがフランクの映画への傾斜について「プライヴェート・ムービーのほうに、個人的な感情を投影できる可能性を求めていた」と書いています。第二部以降のフランクの写真語法は映画製作で獲得した方法を写真へ投影させたという一面があります(70年代以降も映画の制作は続けています)。つまりそのことは第一部で引用した(フランクが写真に求めていたのは)「生の総体を肉声のなまなましさを保ち続けながら組織していくための方法論」という地点に収斂していくのではないかと考えます。

 

 フランクの伝記的な事柄ですが、「個人的な感情を投影」する方法論と関連するのでふれておきます。

 家族との関係です。1950年メアリーと結婚、二人の子供が生まれますが、69年にメアリーと離婚、70年に美術作家ジューン・リーフとカナダのノバスコシアに家を購入し、ニューヨークと行き来する生活をはじめています。その矢先、74年、娘アンドレアが飛行機事故のために死亡。享年21歳。4歳年上の息子パブロは精神を病み、94年に死亡(自殺とされる)。享年43歳。

 50年代から60年代にかけて、フランクと同世代であるアレン・ギンズバーグなどビート・ジェネレーションを代表する人たちと交流、友情。『The Americans』の序文はジャック・ケラアックです。アウトサイダーの姿勢を崩さないフランクにとっては映画の内容にも制作にも強く反映しています。もとよりその後の写真にも。そして多くの友人の死。

 今もフランクとリーフのNYとノバスコシアを往還する生活は続いています。

 

 フランクの写真へのカンバックは、日本の出版社からの写真集の制作依頼がきっかけとなったそうです。1972年に刊行の『The Lines of My Hand』で、そこでフランクは過去にさかのぼって「記憶」をたどり直しています。飯沢さんは「失われかけた生の記憶を求めて時間を逆行する垂直の旅のイメージの集積」だと表現しています。これに対し、本稿で分類した第一部の写真は「現在進行形で空間を横滑りに移動する旅の記録」だと対比させています。

 70年代以降のフランクは過去と現在の写真をコラージュや言葉の上書きなどのテクニックを駆使して組み合わせることによって、生の総体を再構成、再編集する方法、「個人的な感情を投影する方法論」を獲得したのだということができます。そんな時間と空間の広がりによって、第一部の写真は新たな輝きを帯びるとともに、自分の身辺に起きた数々の悲劇に対しても、主観だけに堕することのないある種の客観性をもち得たのです。いわば生の再構成という作業が写真家であるフランクに生きる力、生きる意味を与えています。

 この方法は、つまりフランクの生の総体を「編集」する作業は、第三部である現在進行中のヴィジュアル・ダイアリーまで、より自由度を高める方向で続いています。 

 

🔹『Zero Mostel reads a book』[2008|1963]㊟[シュタイデル社刊行年|当初刊行年]

 映画を2本撮ったあと、1963年にニューヨークタイムズ紙からの依頼で制作した写真集です。有名な喜劇俳優のゼロ・モステルが本をいろんな形と感情で読んでいる姿を演じ、これを撮影した作品です。モステルの演技力を全開させた、なんだか映画のスチール写真的なイメージです。

 展覧会の解説によると、アメリカの書店へ顧客のプレゼント用に献呈されたもののようです。読書百態とでもいうのでしょうか、面白いアイディアではありますが。

 

🔹『Me and My Brother』[2007|ー]

 1968年制作の映画『Me and My Brother』のDVDとともにスチール写真と台詞が収録されています。この映画はフランクの制作した最初の長編映画だそうです(85分)。タイトルの<私の兄弟>というのがビートニクといわれた人たちでしょうから、その共感の根っ子は、時代の先端を表現する反骨的な芸術家気質ということなのでしょうか。フランク自身は自分のことをマージナルな人間、道の端を歩く人間として表現したりしているのですが。

 1枚の写真はビートニクを代表する詩人アレン・ギンズバーグです。

 

🔹『The Lines of My Hand』[2008|1972]㊟[シュタイデル社刊行年|当初刊行年]

 展覧会の解説文によれば、この写真集は『The Americans』に次いで、フランクの「最も重要な本であり、時に告白を交えた自伝的な本作りの手法を確立した出版物」だと評価・説明しています。

 タイトル「私の掌の筋」とは手相を見るときの判断の材料となる人生の軌跡のことであり、過去の記憶をたどり直すことに通じているのです。過去から現在に至る写真を時系列に並べつつ、フォト・コラージュなど中期以降のフランクが多用する方式も含まれています。フランク自身は私は私だと確実に否定することでしょうが、写真家ロバート・フランクの再出発の原点となった写真集だといえましょう。

 表紙の絵は一緒に暮らし始めたジューン・リーフの手になるものです。そして1枚の写真は50年代に撮影された二人の子供の小さいころの写真です。

 写真集に掲載された「生きているだけで、素晴らしいじゃないか」とのフランクの言葉が解説文の冒頭に記されていました。

 

🔹『Storylines』[2004|ー]

 2004年のロンドンでの展覧会のカタログです。この写真集から、デザインとして「ゲルハルト・シュナイデル」の名前が登場しています。だからフランクとシュタイデルの最初の出会いはいつ頃だったのか、少なくとも2004年以前ということになりそうです。

 ポラロイド・カメラを1972年に使いはじめたとされていますが、1枚の写真は12枚のポラロイド写真に言葉を手書きで書き込み、組写真としています。HOSPITALとありますが、誰の入院姿なのかわかりません。

 

【追記】

 続き(第二部の残る4冊と第三部)は次のブログ(2-)で書くこととし、今回の展覧会、ロバート・フランクの写真、写真集を締めくくることにします。

 

 

 

 

 

 

 

2018.09.24 Monday

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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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