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2017.09.05 Tuesday

ここにしか存在しないとはープラハのキュビズム建築ー

 9月が始まりました。待っていたように風と空気が変わりました。

 「キュビズム建築」と呼ばれる建築様式があります。耳慣れないのは当たり前で、チェコ(旧チェコスロヴァキア)にしか存在しませんし、第一次世界大戦の前後の短期間で突然消え去ったのです。

 先日のブログでバルセロナのモデルニスモ建築のことを取り上げた際に(「バルセロナで美の喜びと出会うーモンタネールのモデルニスモ建築ー」)、チェコのプラハで出会ったキュビズム建築のことも残しておこうと思い立ちました。

 バルセロナ行の前年、2013(H25)年7月に中欧3都市観光ツアーに参加し、最後のプラハで3泊延長できたことから、こちらの方も偶然が重なって、キュビズム建築の実物に接することができました。その偶然の一つは旅行の数ヵ月前に、一冊の本(『チェコのキュビズム建築とデザイン1911-1925』(2009年3月刊/INAX出版))を手にしたということで、事前にプラハには「キュビズム建築」なるものが存在していることを知っていたのです。

 といっても、意識的にキュビズム建築を探訪して回ったわけではなく、プラハの町を歩いたりトラムに乗ったりしていて、本の図像で見ていたイメージに遭遇できたというのが本当のところです。

 

 プラハの街並みは美しく、中世から現代まで多様な建築様式を体現した建物が残っている、現役で使われていることから、建築博覧都市と呼ばれたりします。そんなプラハの町に溶け込んでいるようでいて不思議なアクセントとなっているキュビズム建築のことを紹介します。

  プラハ中心部を走るトラムです 何回もお世話になりました

   [以下の写真は全て2013年7月11〜15日プラハ滞在中に撮影したものです]

 

🔸美しい街並みに不思議なアクセントーキュビズム建築とはー

 プラハ城からカレル橋、そして国立美術館でのミンシャの「スラブ叙事詩」鑑賞を終え、お昼をだいぶ過ぎたころ、旧市街をツアー一行のみなさんと歩いていると、目の前にブラック・マドンナ(黒い聖母の家)がありました。予期していなかった唐突な出会いでした。早朝の散歩時にはちょっと探してもわからなかったのですが、こんな近くにあったのです。

 その時は近づくこともできずに、また後で来ようとなったのですが、遠目からは「キュビズム建築」の表象を何も感じることもなく、ちょっと外壁の色が変わっているけれど、どこがキュビズムなの、不思議なアクセントといえばいえるけれど、すっかり旧市街の街並みにとけ込んでいるなあというのが感想といえば感想でした。

  ブラック・マドンナです [2013.7.12撮影]

 

 ここで、「キュビズム建築」なるものの概略を記しておきましょう。

 チェコ・キュビズムとは、ピカソやブラックが主導したキュビズムに触発されて(1911年にピカソとブラックがチェコの画家たちに招かれ、プラハで展覧会を開いたとのこと)、1910年代にプラハで起こった絵画、彫刻、工芸、家具と幅広い芸術運動で、中心となったのは建築の分野でした。パリのキュビズムとほぼ同時進行だったことは驚きです。

 多くの識者は前期と後期に区分できるとしており、前期とは第一次世界大戦前の1911-14年の「結晶形や鋭角的な幾何学系で、多角柱形、多角錐形のモチーフ」を多用したキュビズム建築であり、後期とはチェコスロヴァキア共和国建国後の1918-25年の「明るい彩色の施された民族的モチーフである円柱や円弧」を多用したロンド・キュビズム建築です。なお、この後期のロンド・キュビズム建築様式は、キュビズムと区別してアール・デコだとの説もあるとのことです。

 前記の本(以下《キュビズム建築》と表記)に寄稿している藤森照信さんによれば、建築デザインの幾何学化といっても、水平と垂直の線と面ではなく、斜線と斜面を好んだところにチェコのキュビズムの特徴を見ています。

 キュビズム建築とされている個々の建築物は後ほど紹介しますが、斜線・斜面・結晶体という特徴が表れた柱と外壁の写真を掲げておきます。

  ブラック・マドンナの柱の上部で、斜線と斜面を多用する建築デザインです

  教職員住宅の外壁、窓の下の建築デザインがキュビズム建築の特徴です

 

 キュビズム建築を代表する建築家は、モデルニスモ建築の三銃士(ガウディ、モンタネール、カダファル)という呼び方にも似て、パヴェル・ヤナーク(1882-1956)、ヨゼフ・ゴチャール(1880-1945)、ヨゼフ・ホホル(1880-1956)の3人です。全くの同世代であり、ウィーンのオットー・ヴァーグナー(1841-1918)や、そのもとに学んだプラハのヤン・コチェラ(1871-1923)の影響下にあった(先行する彼らもかつては「前衛的な建築家」でした)、いずれも当時30歳そこそこの若手建築家でした。

 当ブログで取りあげたことのある現在の原爆ドームの建物(建設当初は「広島県物産展示館」1915年竣工)を設計したヤン・レツェル(1880-1925)もヤン・コチェラに学んだ建築家でした(「日曜日のキャンパス、百年前のこと」)。

 ヨーロッパ全域で20世紀初頭には近代建築の合理主義や物質主義に反発して建築の芸術性を強調する運動がみられましたが、そのチェコ版だったということができるでしょうか。3人のうちヤナークは理論家であり、1911年「多角柱と角錐体」という論文で、「自然界の現象には、すべて目に見えない力が働いている。その力でつくられた最も美しい形が結晶体で、これこそ建築の精神性を表現するのにふさわしい形態だ」と書き、これが今日ではキュビズム建築宣言と呼ばれているようです。ヤナークらは物質を斜めにカットしたりして、結晶体や角錐体に形を変えることで、物質に精神と活気を吹き込むべきだと考え、そうすることによってピカソが絵画で達成したのと同じ成果が建築という分野でも得られると信じていたと、《キュビズム建築》に寄せた一文でロスチラフ・シュヴァーハという方は記しています。

 こうした若手建築家が活躍できた背景には、第一次大戦直前のチェコが「ヨーロッパ有数の工業地帯となっていて、還流する資金でプラハ中心部の区画整備が進み、市街が拡張を続けていた」ことがあったとのことです。

 

 ここで藤森照信さんの文章に依拠して、20世紀のデザイン運動全体の中で位置づけてみましょう。

 ヨーロッパ全域で花開いたアール・ヌーヴォーの一つであるウィーン・セセッションが、それは1900年代、世界の20世紀新建築運動の先頭を切っていましたが、プラハに移植されて根付き、「1910年代に入ってキュビズムが芽を吹いた」という流れなのです。

 チェコ以外では、ドイツやオランダでは表現派、ロッテルダムではデ・スティルが生まれ、「ドイツとオランダがアール・ヌーヴォー以後をリード」し、「ドイツの表現派はバウハウスへと脱皮」しました。藤森さんは「バウハウスのホワイト・キューブのデザインこそが、アール・ヌーヴォーに始まった20世紀デザイン運動のひとまずの到達点」であり、この30年間が20世紀建築の成立過程だとします。この道のりは「植物的デザインから幾何学的デザインへ」といえるが、建築デザインにおける幾何学化を最初に実現したのがチェコ・キュビズムであり、チェコ独特の成果だというわけです。

 ホワイト・キューブにつながる幾何学化は水平と垂直の線と面によったのに対し、チェコ・キュビズムは「幾何学化が斜線・斜面に特化していた」点に特異なところ、特徴点があると注目しています。

 興味深いことに、藤森さんはチェコ・キュビズムの成り立ちを研究したといえないので答えることができないがと断ったうえで、「チェコ特産のボヘミアグラスのカットと何か関係はないだろうか」と書いています。

 

 前置きが長くなっていますが、なぜ「キュビズム建築」が短命であったのか(他の国のアール・ヌーヴォー以降の建築デザイン運動と同じことだといえばいえそうですが)、それは特にチェコにおいては、第一次世界大戦とチェコスロヴァキアの独立との関係とともに、建築技術という面から説明されています。

 前者について、シュヴァーハさんはキュビズム建築を先導した建築家たちがチェコスロヴァキアの独立との関係でもっと「国民性」を表現すべきだという方向に、いわば舵を転換したことであり、後者は藤森さんが指摘するとおり「鉄やコンクリートといった20世紀建築を代表する技術、材料」を使いこなす段階ではなかったことで継続性を持ちえなかったというのです。

 つまりキュビズムのフォサードは鉄筋コンクリートではなく「厚く積んだ赤煉瓦を斜めに削り、モルタルを塗って仕上げ」られていたのです(作業的には大変難しく、手間とコストのかかる仕事でした)。

 

 こんな情報の切り貼りのような言葉を並べていると、いつものことだと思いつつも、ちょっと情けなくなります。「キュビズム建築」を自分なりに受けとめることができていないのです。

 写真家である田中長徳さんは1975年のプラハ訪問を契機にアパートを借りて時々滞在するという生活を続けてきた方です。そんな田中さんは、1989年のビロード革命を「維新」と呼んでいますが、維新前にキュビズム建築に恋して「なかば本当にそこに棲もうとまで考えた」と書いています(田中長徳著『屋根裏プラハ』(2012年1月刊/新潮社)の「キュビズム建築に棲みたかった」/この本を旅の後で読みましたが、旅の前に読んでおきたかった)。

 巨大なものより小品を好み、泰西名画や歴史画よりキュビズム絵画を好む性癖だという田中さんは(私も同じ性癖です)、プラハとキュビズム建築の関係について、次のとおり記しています。

 「 プラハは、そこにキュビズム建築があるからキュビズム的なのではな

  い。もともとのプラハの存在がキュビズム的だから、そこから浸出した液

  体は正しい結晶体を作るのである。その水晶がキュビズム建築だ。」

 そして、建築博物館とされるプラハの重量級の建築物の中で、キュビズム建築に惹かれるのはその「軽さ」だといいたいようなのです。

 「 キュビズム建築ってやつは、プラハの数ある諸建築様式の中で、一番軽

  そうである。ルネサンスもゴシックもバロックも表現派もユーゲントシュ

  ティール(アール・ヌーボー)も安定と重量と装飾がもっぱらのテーマなの

  に、キュビズムにはそれがない。」

 

 以下、私が見たキュビズム建築をレポートしてみることにします。「私が見た」というより「目の前に出現したキュビズム建築といわれている建築物を見た」というが正しい表現でしょうか。ガイド本に縛られている私の限界です。

 書く前にどうなんだになりそうですが、有体に申しあげて、プラハのキュビズム建築の表象は、バルセロナのモデルニスモ建築のように強力な磁力と直接的な美の力を放射するものではないということです。それは幾何学化というか、結晶体を代表とする抽象形態を建築物に付与することによって、ヤナークのいう「物質に精神と活気を吹きこむ」様式だと、私は理解しようと思います。

 ピカソやブラックのキュビスムの提唱がそうであったように、キュビズム建築とは20世紀建築が条件づけられる合理主義や物質主義に反発しながらも、現代とまっすぐにつながる幾何学的デザインの先鞭をつけた建築様式であった(その意味では普遍性をもつ)、大変に重要な建築のこころみであったと申し上げてよいのでしょう。

 

🔸建築博覧都市に溶け込んだようでいてーブラック・マドンナ(黒い聖母の家)ー

 ブラック・マドンナは、ヨゼフ・ゴチャールの設計(1911-12年)で、バロックの建物の跡に、5階建ての百貨店として建設されました。「黒い聖母」とは元の建物にあったもので、新たな建物に引き継がれ、2階の角におかれています。現在は、3階から上が「キュビズム美術館」であり、2階は竣工時にカフェとしてオープン、その後長期間閉店していましたが、2005年に当時の姿に復元されて再オープンしています。

 カフェには二度ほど入店しましたが、今から思うと愚かしいことに、キュビズム美術館に入館しないままだったのです。よく理由は覚えていないのですが、わざわざ入らなくとも、カフェの内部デザインだけでこれがキュビズム建築なんだと満足していたからだといえそうです。

  ブラック・マドンナの2階角におかれた黄色いローブをまとった「黒い聖母像」です

 

◎その外観ーこれって何色ー

 ブラック・マドンナは旧市街の石畳みの路に挟まれた地先に位置しています。昔の百貨店といいながら、大きい建物ではありません。三方から見ることができますが、ちょうど真ん中が少し前へ突き出たような五角形になっています。敷地に合わせてということかもしれませんが、やはりたんなる四角形ではない五角形はキュビズムの斜線、斜面から来ているものでしょう。

 ぐっと近づくと、前掲の写真に見てとれるように、中央部の二本の太柱にはっきりとしたキュビズム建築の特徴、斜線・斜面・結晶体が表れていますし、中央ドアの装飾も菱形の連続パターンです。「KUBISTA」というショップのショーウインドーも六角形や五角形を使用しており、その内部も結晶パターンでデザインされた背景に、これがキュビズムだよなあと思わせるコーヒーカップや水差しが展示されていました。

 キュビズムとの関係は分かりませんが、前記のとおり外壁の色が私の記憶するかぎりのプラハの建築物で見かけなかったものなのです。茶色系、赤色をまぜこんだ濃茶色、そんな色ですが、なぜこの色であったのかについてふれた文章を知らないのです。上部の色は赤色が少し強く、ダークブラウンのツートンカラーということもできます。

 この小さい建物がランドマークになっているとすれば、この外観の色がプラハの灰白色の街並みにとけ込みつつ不思議なアクセントになっているからだと感じたのです。まあ建設されて百年以上経過しているのですから、街並みにとけ込んでいるのは当たり前といえば当たり前のことなのですが。

 

 自称「へそ曲がり」の田中長徳さんはブラック・マドンナの「軽さ」を次のように表現しています。

 「 それはありあわせの靴の空箱とトマトのボール箱とを数個積み重ね、こ

  れを適当に接着して、造りが悪いのでその角がねじれて勝手放題に箱の稜

  線を各方向に伸ばしているような、半時間のやっつけ仕事で未完成の印象

  を残した「ボール紙製の建築モデル」なのである。今にも動き出すか、そ

  のまま空飛ぶ家になりそうな気配がそこにある。」

 こんな表現を読むと、うむ、そうなんだろうかと思いつつも、たしかにキュビズム建築は他の建物の重厚感から解放されているようにも思えてきました。

  浅い五角形の形をしたブラック・マドンナです

  1階正面の柱です

  1階のショーウインドーに六角形や五角形が使われています

  ショップの全景です

  ショーウインドーに展示された商品と背景がキュビズム様式を象徴しています

 

◎グランド・カフェ・オリエントー何から何までー

 ブラック・マドンナの2階はカフェになっており、ホテルへ帰る途中に二度ほど立ち寄りました。外観とちがい、このカフェにある家具や食器、照明器具そして内装に至る何から何までキュビズムの意匠を帯びています。ゴチャールがデザインしたという壁に打ち付けられたギザギザの金属ハンガーにもキュビズムの記号が感じられてます。

 7月のプラハは午後8時を過ぎても大変に明るく、花の飾られたベランダでお茶にしました。コーヒーカップはもちろんですが、ベランダの鉄柵の形もちょっと普通ではなく、クの字形に作られており、これはキュビズムの垂直・水平よりも斜線を重視したスタイルなのでしょう。

 藤森さんは、外観でもカフェでもなく、階段室が一番よかったと評しています。そんなに広くない空間ですが、階段室の流麗といってよい白く塗られた鉄細工はベランダの鉄柵のクの字形と共通したデザインのようで、運動のある軽やかな空間を演出していました。

 田中さんのいう1945〜89年の赤いプラハで長く閉鎖されていたブラック・マドンナは「維新」後に今のような姿に復元されました。赤いプラハ時代に「最初の無垢の出会い」を持ち得た田中さんは、現在のブラック・マドンナを訪れるツーリストたちのことを「かわいそうに」と言いたいようなのです。

もとより「キュビズム建築」というガイドブック信号を埋めこまれたツーリストばかりではないのですが。

  グランド・カフェ・オリエントの内部空間です シャンデリアが目を引きます

  テーブルやイスは20世紀初頭のデザインですがキュビズムはそんなに感じられません

  壁に取り付けられた金属ハンガーで、これぞのキュビズムの意匠というべきです

  カップのデザインはよくありそうですが、これもキュビズムの反映なのでしょう

  ベランダの鉄柵も、クの字になっています

  ピントが甘いですが、藤森さんが一番よかったとする階段室です

 

🔸川沿いをトラムに乗ってーコヴァジョヴィチ邸ほかー

 午前中から歩き疲れた午後、足膝も痛いし乗れるところまで乗ってみようと、ヴルタヴァ川右岸をトラムで南下していたとき、《キュビズム建築》で見た覚えのある建物(「ラシーン川岸通りの三世帯住宅」)が現れわれました。急いで次の駅で逆方向へ乗り換えて一つ目の駅で下りると、幸運にも真っ白い外壁の印象的な「コヴァジョヴィチ邸」が広い前庭の向こうに端正な姿を見せていたのです。

 体表的建築家の一人であるヨゼフ・ホホルの設計(1912-13年)です。このヴィシェフラト地区は20世紀初頭に大規模開発されたところで、ホホル設計のキュビズム建築が3〜4棟集まっていますが、トラムから「三世帯住宅」を写真撮影しましたが、外観だけにしろ、ちゃんと見たのは「コヴァジョヴィチ邸」の一棟です。施主は建設会社のオーナーであるベジドフ・コヴァジョヴィチで、才能ある若手建築家を支援したパトロンでもありました。プラハ中心街から南へ3キロの地区にキュビズム建築が集中しているのは、「開発に携わった建設業者の物心両面にわたるサポート」があったからだといわれています。

  ヴルタヴァ川の右岸を南下するトラムで、ヴィシェフラト地区だと思います

 

 外周にしろもっと動いて写真を撮影しなかったことを、今頃後悔しています。私たち以外に観光客はいなかったのに正面近辺から撮影しただけで、お上りさん観光客は「これなのか」と満足してしまったみたいです。

 白い美しいお邸だというのが最初の印象です。情報がなければそれで終わりですが、どこがキュビズム建築なのかと最高4倍ズームのカメラを使って探してみると、あるあるなのです。純粋に斜線・斜面・結晶体から構成されたというべきフォサードは「伝統的な装飾を排し、窓ごとに壁面を分割して斜めの面で立体感」が強調されています。「簡潔にしてかつダイナミック。陰影に富む壁面が建物に力強い躍動感を与えている」との説明にその通りと声を掛けたくなります。

 門扉の間から撮影していた私が、手元を見ると、門扉の鉄格子や外周の塀柱にも疑いようもないキュビズムの立体がありました。それに広い前庭と建物の位置関係は敷地の形状のせいかシンメトリーではなく、それに前庭はブラック・マドンナの建物の形状のように五角形なのです。これは偶然ではなく、意識的であったにちがいありません。

 

 この建物を見たチェコの国民的作家カレル・チャペックは「雄大かつ簡素」と1914年に評しているそうです。そして、田中長徳さんの方はといえば、ブルタヴァ川沿いの「一番立派な邸宅風のなのはその「キュビズム度」があまり高くないので好きではない」と、キュビズム建築の好みを「やっつけ仕事で作ったボール紙の建築モデル」とする田中さんらしい悪態をついています。

  コヴァジョヴィチ邸の表側からの全景です 建物と前庭はシンメトリーではありません

  建物の上部をズームしています 斜線・斜面・結晶体のフォサードです

  上をさらにズームしています 最上部にも五角形があります

  正面の門扉です ブラック・マドンナのクの字形が登場しています

 これぞキュビズムの純粋系と呼びたい形状の塀柱です

 トラムから撮影したホホルが最初に設計した「ラシーンの三世帯住宅」の部分です

 

🔸こんなところにもーユングマン広場の街灯ー

 あ、こんなところにもあったのか、と近づきぐるりと回ってみました。ヴァーツラフ広場から少し奥まった場所にあるユングマン広場に、その小さな街灯はひっそりとたたずんでいました。

 あの3人ではないエミリ・クラーリーチェクの設計(1912-13年)です。平面デザインでもありそうなのものを立体化したという感じ、キュビズム絵画のキュビズム建築化を典型しているようでした。近づくと結晶体は明らかですが、外側の部分に水平の溝が施されており、いい感じです。灯のともっている街灯を見てみたかったというのが正直なところです。

  行き止まり感のあるユングマン広場にキュビズムの街灯はあります

  ズームすると、キュビズム感がいよいよはっきりします

 

🔸違和感もなくー教職員住宅ー

 早朝の散歩のさいに、旧市街のユダヤ地区の近くにその集合住宅はありました。ブラック・マドンナを街並みにとけ込んでいると繰り返し表現しましたが、この教職員住宅は違和感など何も感じられません。百年前なら、どう見えたのか分かりませんが、経年変化を受けた今も居住者がいるであろう建物は老朽化を浮かび上がらせながらも、しっかりとそこにありました。

 オタカル・ノボォトニーの設計(1919-21年)で、第一次世界大戦後、チェコスロヴァキアの独立後に竣工したものです。赤く塗られた窓枠も目立ちますが、窓の上下をサンドイッチしている「傾斜したフォサード」はシンプルだけに明確です。その傾斜面に四角錐を貼り付けた意匠がパターンとして並んでいます。よく見えていなかったのですが、屋根の方も幾何学パターンのようでした。

 これがなかったら、つまりのっぺりとした建物を想像しますと、やっぱりあった方が面白い、住む人にとってちょっと心豊かな日々が過ごせるかなという結論になりそうです。決して特異なデザインとはいえないけれど、キュビズムを採用した必然性を感じます。

 この教職員住宅のキュビズム意匠は、これを満載するブラック・マドンナやコヴァシェヴィチ邸とちがって、元の鉄筋コンクリートの構造体の上に付加されたデザインというべきであり、シンプルなだけにキュビズムの意味がより明解になったように思ったのです。

  教職員住宅のほぼ全景です 何の違和感もありません

  横から見ると、三角錐の出っ張り、そのキュビズム度はより明確になります

  建設当時はわかりませんが、現在は1階が店舗として利用されています

 

🔸これってキュビズム建築?ーアドリア宮ー

 この建物は私の方から見たというより、建物の方から飛び込んできました。新市街の中心に建つ宮殿、この威圧感、ど迫力、重量感はどうでしょう。キュビズム建築の後期と分類されることのあるロンド・キュビズムの代表的な建築物です。施主はイタリアの保険会社ですが、宮殿のような威容から、「アドリア宮」と呼ばれています。

 キュビズム建築を理論家として先導したパヴェル・ヤナークの設計(1922-25年)です。ヤナークは第一次世界大戦後、「建築は社会的要請に応えるべき」だとして、民族的なモチーフを用いたロンド・キュビズムを展開していったのです。私の感覚では、藤森照信さんが「ロンド(円弧)とキュビズムは矛盾して」おり、「これはキュビズムでなく、キュビズムに続くアール・デコという説もある」と書いているとおり、キュビズム建築とは思えないのです。

 田中長徳さんのいう「軽さ」を感じさせるキュビズム建築と対照的に、アドリア宮は威圧感、重量感が前面に出ていますし、キュビズム建築としては規格外の規模であることもキュビズム建築と思えない理由です。キュビズム建築の代表的な建築家が、キュビズム建築を離れて、その技術を利用しつつ新たに設計した建築物とみるべきなのでしょう、と私は思うのですが。

 

 コヴァジョヴィチ邸のヨゼフ・ホホルは、ヤナークとゴチャールのロンド・キュビズムへの転換に同調せず、彩色豊かなフォサードを「インディアンの酋長の顔のようだ」と揶揄したといわれており、第一次大戦後も戦前のキュビズム建築を貫いたのだそうです。

  こちらは側面の方ですが、アドリア宮の円弧と円筒を強調したデザインです

  もう少しズームしたアドリア宮、チェコの民族カラーだという赤と白の対比が華やかです

 

🔸おわりに

 プラハのこと、プラハの建築のこと、結局はプラハの魅力のことを文章にしたかったのでしょう。

 ただ1回の5泊だけのプラハで、プラハを語ることは、美しい町でしたよ、という以上に言葉にできないように思ったのです(田中さんのいう維新後に煤で汚れたプラハの町全体の建物が洗われたことも美しさに寄与していると言われます)。そんなこともあって、この地にしか存在しなかった「キュビズム建築」なるものを切り口に、プラハでの出会いの記憶を、SDカードに残された映像を頼りにたどってみることにしました。

 

 維新前に「最初の無垢の出会い」を持ちえた田中長徳さんが、前記の「もともとのプラハの存在そのものがひどくキュビズム的だから」としている文章がとても気になります。そうであるからこそ「キュビズム建築」が短期間にせよ成立した、存在しえたのだということでしょうが、その理由は田中さんの文章を読んでもよく分かりませんでした。

 一千年の古都、その歴史を形にした建造物が立ち並んでいるプラハ、建造物とは立体であり、立体を立体として何通りもの方法でフォサードの装飾を含めデザインしてきた、そうした建築様式がプラハには実物として存在しています。そんなプラハであるからこそ、加えて、1910年頃、ちょうど発展期にあったプラハであったことからこそ、先端的な芸術運動であるキュビズムを、平面だけでなく、建築という立体で表現するこころみが成り立ったのであろうと、私は想像しておきたいと思います。長く戦災に出会うことのなかったプラハの街で、ちょうどカフカは書いてもいたのです。

 田中さんは、維新後に観光スポット化したキュビズム建築に裏切られたような気持ちがして、「キュビズム建築に棲みたかった」の最後を「キュビズム建築だって?あれは二十世紀の初頭に流れ去った一瞬の流行り物であったな」と結んでいます。

 でもしかしといいたいのですが、「キュビズム建築」は20世紀建築を機能性や合理性を踏まえたうえで、幾何学的なデザインによっていかに無機質でないものにするのかというこころみであったのであり、現在ただ今の21世紀建築にも貫通している課題でもあると考えています。

 

 それにしてもバルセロナのモデルニスモ建築(影響した期間もその浸透度もキュビズム建築とは違いますが)、そしてプラハのキュビズム建築、私が心惹かれる建築がいずれも20世紀初頭というのが興味深いですね。ちょうど百年前頃のことですが、大きな都市の観光スポットとしてまとまりのある形で存在しているからというだけのことでしょうか。私には百年後の現在の建築物をそんな目で見ることができているとはとても思えないのです。というより、私には無理ですと白旗を上げてしまいます。

 結局、現代にも通じる、人間の生活と暮らしという実感のある空間における「美」、それもある時間の経過を通り抜けて定着してきた「美」への傾斜、愛着ということに尽きるのだと思います。

 

 7月のプラハは昼間が長く、5回の早朝散歩はいつも以上に長かったように記憶しています。それまでのデジカメをちょっとましなものに変えたこともありますが、写真として残したい建物や風景が多くあったからでもあります。でも夜を歩いたという記憶がありません。車の入ってこない旧市街の路地を夜9時を過ぎて歩くこともありましたが、まだまだ明るかったからです。

 夜のプラハを歩いてみたかったと思わせる文章に出会いました。デザイナーである皆川明さんです(『プラハアート案内』2006年3月刊/エスクァイア マガジン ジャパン)。

 「 プラハの街の美しさに、実際の生活を見ることは難しくなってきた。観

  光のためにあるショップやホテル、レストランが街の全体を占めてきてい

  るからだ。それでも建築物そのものに目をやれば、中世からの変わらない

  表情を見つけることができる。/現実の社会における制約が、理想の社会

  や本質的な生命の営みへの欲求をかり立てているようなことがあるのかも

  しれない。/プラハの夜、街を出歩くと無駄な灯りも音もない静かな、包

  み込まれるような空気がある。この安心した空気はチェコ人が望み、勝ち

  得てきたものなのだろうと思った。静けさの、何もないような時間に向

  かって、気持ちは高鳴り想像力が膨らんでいく。人がものを生み出す時は

  こんな夜が必要だ。深呼吸した。」

 ふたたびプラハに行くことはもはやないと思っていますが、ちょっと違う視点からプラハのことをまた書いてみたい気持ちになりました。

 

 

 

 

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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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