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2018.06.17 Sunday

ひんやりとした一日ー『万引き家族』のことー

 一昨日は(6月15日)、ひんやりとした一日でした。夕刻には、乾いて冷たい北からの風が強く吹きました。梅雨入り直前から半袖、半ズボンのウォーキング・スタイルにきり変わっていたのに、いささか不似合いな空気感でした。

 

 こうして何も考えないで歩いているうちに、「米朝首脳会談」なるものも終わっていました。この会談の評価は、トップ同士が直接対話したという事実を重いものとしつつも、今後の具体化に向けた課題の大きさとその困難さについて言及するものがほとんどであったと思います。

 昨朝の新聞でも(『毎日新聞』6月16日)、毎月連載中の「保坂正康の昭和史のかたち」が、[米朝首脳会談の核心]と題して取りあげていました。保坂さんは、朝鮮戦争になんらかの形でピリオドを打つかどうかが歴史的会談のゆえんではないかと注視してきたけれど、共同声明にはそれはなかったのであり、「惜しまれる」と書いています。すなわち一部で予想されていた「平和協定移行への署名」まで結果的に至らなかったにせよ、「平和協定は北朝鮮の非核化、米国による体制保証の前提でもあり、この方向が確認されたこと自体、朝鮮戦争は休戦段階から終戦の段階に入り、いわば両国間の戦争状態は終わったとの言い方もできるだろう」と、保坂さんはみているようです。そして、このコラムのタイトルを「朝鮮戦争、休戦から終戦の段階に」としており、これが保坂さんにとって[米朝首脳会談の核心]だというわけです。

 朝鮮戦争は、1950年6月から「東西冷戦の代理戦争の形で武力衝突」がはじまり、3年余も戦闘が続いて、53年7月に休戦協定が締結されたのです。それから65年をへて、初めて、今回の会談が行われたのですから、まさに「画期的」であったのだと、第二次大戦後の歴史に長くコミットしてきた保坂さんとしては感慨をもって受けとめたのでしょう。

 

 さて、米朝首脳会談が行われた日に(6月12日)、『万引き家族』(是枝裕和監督/2018年)という映画をみました。前週の土曜日から公開されたところで、平日にもかかわらず、満席状態でした。60代後半の私たち二人よりもっと年上の、それも女性客の姿が目立ちました。もちろんカンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞したという情報の洪水が、私も含め、この動員を招くことになったといえます。

 それはさておき、『万引き家族』はどうでしたか、と問われたなら、いかなる感想になるのでしょう。単純に答えにくいですね、この映画は単一の結論へと導くことを拒む映画であり、ストンと腑に落ちることはなく宙ぶらりんにされて、なんだかふむーーと複雑に絡んだ印象に戸惑うような気持ちになりました、それでもいい映画でしたよ、見ていただいて時間の損にはなりませんよ、まあこんな感想を書いておくことにします。

 おことわりしますが、この映画を否定的に見たというわけではありません。もとより見たいものを見たという感じではありませんが、見ておくべきものを見たという感覚なのでしょうか。血のつながらない5人に幼い女の子が6人目として加わった一つの屋根の下での生活を、そんな疑似家族というべき日常が親密な雰囲気を醸しだす前半から、後半はあるきっかけでそれが一気に壊れていく、崩れてゆく有様が描かれています。明と暗、善と悪、真と偽など、いわば価値軸の両極に揺さぶりをかけることによって、見る人の心を、宙ぶらりんの気分へと連れていくのです。

 

 補足的に二つのことをメモしておくことにします。

 一つは是枝監督へのインタビュー記事(『西日本新聞』2018年6月8日)からです。是枝監督は、これまで「社会に対するメッセージを伝えるために映画を撮ったことはない。どんなメッセージかは受け取る側が決めること」と何度も発言してきていますが、でも「思い」はあるはず、「今作も、一つの家族を通じて社会のひずみをあぶり出したのではないか」と、記者は質問したのだそうです。これに対する是枝監督の発言を引用します。

 「 家族を通して社会を見ようとした、ってのは違う。社会からこぼれ落ち

  た『見えない人たち』をきちんと可視化しようとした。」

 「 (前略)家族はこうあるべきとか、やっぱり母親がいいとか、いつの時代

  なんだと思うけど、そんな告発のために映画は作らない。(万引き家族は)

  確かにひどいやつらかもしれない。でもみんな今、その先を考えなくなっ

  てきている。僕がやるのは、あの家族をきちんと描くこと。じゃないと社

  会は見えてこないから。」

 このインタービューの最後に、記者の感想である「彼らは社会から断罪され、一家は散り散りになっていく。見る人の心が締め付けられる」という質問に対し、是枝監督は次のように語ったとあります。

 「 でもね、単純に共感できるようには作っていないつもりなんですよ。

  だって、彼らを引き裂いているのは私たち(社会)なんだもん。意地悪で

  しょ。へそ曲がりなんですよ、僕は。

 見る人それぞれではありますが、これが映画を見終わってどこか割り切れない気持ちというか、なんだか混乱させられた気持ちになる根っ子にあるものかもしれません。是枝監督が自覚的にそのように映画を作っているとすれば、社会の一員である観客として宙ぶらりんにされた感覚は当たり前で、そこに美談や悲劇に回収されない是枝映画の凄みがあるのだというべきでしょう。

 

 もう一つは、カンヌ映画祭で審査委員長をつとめたケイト・ブランシェットが、ラスト近くの警察での取り調べシーンで<泣く>安藤サクラの演技を絶賛していたと、是枝監督が報告していることです。

 演出方法ですが、取り調べシーンに限っては安藤や尋問する側の池脇千鶴へ事前に脚本を渡さず、問題のシーンは、尋問する側の池脇にはホワイトボードに書いた台詞を見せるが、尋問を受ける安藤には何も見せないという条件下で撮影したとのことです。

 ではどんなシーンかです。警察の取調室、池脇千鶴演ずる刑事が、対面する安藤サクラを取り調べています。安藤が子供を産めなかったことを「羨ましかった。産めなくて」などと意地悪な質問を浴びさせたあげく、それで血のつながらない2人の「子供たちになんて呼ばれていましたか」と、とどめをさすのです。疑似家族で母親の役割を担ってきた安藤は、絶句してしまい、ついに抑えていた涙がこぼれてきて、それを手のひらで何度もぬぐいつつ、「なんだろうね」少し間があって「なんだろうね」と声をしぼりだす、そんなシーンなのです。

 この映画を最初から見てきた者にとっては、安藤といっしょになって、家族とは、正義とは、この社会の現実とは、「なんだろうね」と言いたくなる強度が備わったシーンとして立っていました。

 この安藤の演技について、是枝監督は、別のインタビューで次のようなことを語ったとあります。

 「 普通、女優であれば、大粒の涙を見せようといったわかりやすいお芝居

  になるんですが、あんな泣き方をする女優を僕は初めて見ました。身も蓋

  もないよね(苦笑)。」

 「 あのシーンでの安藤さんがすごいのは、そこで¨安藤サクラ¨に戻るわけ

  ではなく、ちゃんと信代として座っていて、信代として泣いているところ

  です。決して素ではないことが見ていてわかり、僕は鳥肌が立ちました」

 ㊟すいません。尻切れですが、PCの不調なのか、これで終わります。

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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