2019.10.08 Tuesday

「一生に一度だ。」ーラグビーワールドカップ2019ー

 先週、ワールドカップラグビーの試合に出かけました。神戸御崎公園球技場でのスコットランド対サモア戦(9/30)、そして花園ラグビー場でのフィジー対ジョージア戦(10/3)の2試合です。

 試合そのものを楽しむというのとは、少し違っていて、試合を包んでいる雰囲気を楽しんだということになるのでしょうか。それが試合を現場で観戦したということなんだといわれてしまえばそのとおりでしょうが、テレビ観戦のようには試合の状況把握ができないなかで、会場と観衆もいっしょになって醸しだす空気感にただ陶然となっていたのです。

 御崎では屋根を閉じたあのサウナ状態に、花園では急に降りだしたあの強い雨に、ちょっと疲れましたが、今となっては、それも忘れられない身体感覚として残りそうに思っています。

  ラグビーW杯のバナー [2019.9.30/神戸市営地下鉄海岸線「御崎公園駅」構内で撮影]

 私たちにはもともと会場に足を運んでみようという選択肢は全くありませんでしたが、W杯の自国開催でラグビー好きが頭をもたげた娘からのギフトでこうなりました。ウィークデーということもあったからか、高齢夫婦がその子供にあたる方に連れてきてもらっているような例(逆もあったかもしれません)を何件か見かけしました。

 神戸の方は試合開始2時間前の開場に合わせて新長田経由で地下鉄海岸線を利用しました。普段、外国人というと、東アジア系の人たちの姿が中心ですが、地下鉄の駅でも白人系の方々を数多く見かけました。あれも民族衣装というべきか、スコットランドのタータンのキルトを身に着けた男性がひと際目立っていました。

 そして試合会場へ向かう道筋には、スシやヤキソバなどジャパニーズファストフードを売る店が並んでいて声をかけています。公園内に入ると、大会スポンサーであるハイネケンの売り子さんたちが会場外にずらっと並んでいて、ビールを手にしている外国人の方もいます。試合の始まるずっと前だというのに、とにかく早く席へ急ごうとする心貧しい私たちと違って、まずは会場外から楽しもうということなのでしょう。

 会場に入っても、いたるところで記念撮影です。自撮り棒や三脚の持ち込みが禁止されていることも関係しているのでしょうか、係員、ボランティアの方が、そんな記念撮影のお手伝いに大忙しです。こうして全国の会場を巡っているような果報者の外国人の方も少なくないのでしょう。

 骨格の違い、つまり体の大きさに驚かされます。太るといっても、日本人などかわいいものです。サモアやフィジーからの方はおしなべてサイズ感が違いますし、私の隣に座った白人系の女性は狭い椅子のサイズもあってか領域侵犯も致し方なしです。

 大会当初は飲食物が持ち込み禁止とされていましたが、会場内で販売する食べ物が枯渇する事態が続出して、自家消費分なら食べ物の持ち込み禁止が解除されたのです。私たちは、パン類を持ち込むとともに、水筒にコーヒーや麦茶を入れて入場しました。御崎では不問でしたが、花園のゲートでは、少しでいいから水筒の中味を飲んでくださいといわれて、面食らいました。変なものを入れて持ち込もうとしていないかをチェックしようということでしょう。

 こんなことをダラダラ書いていたら切りがなさそうなのでやめておきましょう。2019年の私的な記憶として、ラグビーW杯の会場へ出かけたことが残るのは、確かだといえましょう。

  会場の外でビールを手にする人たち [2019.9.30/御崎公園球技場外]

  フィジーの応援でしょうか [2019.10.3/花園ラグビー場外]

  記念撮影の花ざかり [2019.9.30/御崎公園球技場内]

  試合の始まりを待つ観客席 [2019.9.30/御崎公園球技場内]

  雨にけむる花園ラグビー場 [2019.10.3]

 折角だから選手たちの迫力のある姿を、映像に収めておきたかったのですが、私の最大4倍ズームのカメラでは到底無理な話でした。御崎の席はスタンド上方にあったので、試合開始前だからと、一番下までおりてみましたが、選手たちの表情までうつすことなどできそうにありませんでした。

 キックオフ前には、御崎ではサモアの<シバタウ>、花園ではフィジーの<シビ>、というウォークライが行われましたが、小さくてよくわからず、ビジョンの方を見てしまいました。

 昔々、この御崎の前身であるグランドで、子供たちを連れて、あってなきがごときスタンドで神戸製鋼の試合を観戦していた頃には、選手たちが衝突するズシンという音まで聞こえてきました。そんな当時の非演出的なスポーツ観戦と、現在の音響や照明の加わった演出的なスポーツイベントとの落差に、やはり「昔はよかったな」というノスタルジーを感じずにはおれませんでした。

 

 観戦した2試合とも、前半の20分過ぎくらいまで戦況は拮抗していましたが、次第にサモアとジョージアが押し込まれ劣勢となり、スコットランドとフィジーがそれぞれ得点を重ねていく展開となりました。後半の後半、サモアとジョージアがトライをめざして相手陣へ攻勢をかけていこうとすると、会場には「行けぇー」「サモア、サモア」「ジョージア、ジョージア」の大合唱がこだまとなって反響し、なかには悲鳴に近い声も混じっています。「これ判官びいきやん」という最近聞きなれない言葉が聞こえてきたりしましたが、こうした<弱者>への応援は気持ちの悪いものではありません。

 ラグビーW杯は現在進行中です。9月20日の開幕から、11月2日の決勝戦まで、足かけ3ヵ月に及ぶ、40日を超える大会期間なのです。試合後の回復に時間がかかることから、試合と試合の間に相当期間が必要というラグビー特有の事情もあって、オリンピックはもとより、サッカーW杯よりも長い大会期間なんだということになります。

 開催国の日本が3連勝し、次戦のスコットランド戦で決勝トーナメント進出をかける状態であることが、現在のマスコミ一斉報道の<盛り上がり>のベースにあるのでしょう。さて、どうなることですか。私には先週の2試合だけでこれから会場に足を運ぶことはありませんが、11月2日の最終日までお付き合いしたいと思っています。

  試合前のサモアチームの練習 [2019.9.30/御崎公園球技場内]

  サモアの<シバタウ>  [同上]

  競り合うラインアウト  [同上]

  ラインアウトの駆け引き  [2019.10.3/花園ラグビー場内]

  試合終了のゴールポスト [同上]

 

 さて、ラグビーW杯2019の大会キャッチコピーは「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」です。このコピーを作成した吉谷五郎氏は、「『一生に一度だ。』というメッセージには、いまこの瞬間は一生に一度という思いを込めました」とし、「<一生に一度>という意味を与えることで受け手にとっての意義やメリットを高めたわけです」と説明しています。そして、元ラガーマンだという吉谷氏は、自身の死生観に由来するのではと自己分析しており、またスチィーブ・ジョブズの『毎日をそれが人生の最後の一日と思って生きれば、その通りになる』という有名なスピーチにも触発されたとしており、それがコピーに反映されているかもしれないと語っているのだそうです。

 改めてこのコピーをふりかえったとき、当ブログで2週間前以上前の9月23日付けでアップした前稿(「気がつけばそこに秋が来ていてー星野道夫の言葉に立ち帰るー」)との関連を意識しました。全く似て非なるもののようでいて、やはり近似していると感じざるをえないのです。私は、そのブログで老いとともに「もう二度と、できない、会えない、行けない、話せない、感じられない」という可能性の遮断を言葉にすることが多くなっていると現状を告白しています。だが、そのうえで、年齢という問題だけでなく、生まれてから死ぬまで「人間が生きるということは、一日一日が、あえていうなら、一瞬一瞬が、繰り返すことのできないことの積み重ねなんだ」と書いています。

 「もう二度とできない」は、「一生に一度だ」と通じていますが、過去と未来へ向けられたベクトルが反対を向いていて、「一生に一度だ」の方は、積極性と向日性を帯びています。でも、「もう二度とできない」と断念を意識する人間にとっても、これから生じることはやはり、すべて「一生に一度だ」ということにならないでしょうか。こんな当たり前のことをすぐに忘れるのも人間であることを忘れてはならないと、その文章で私は自分に問うています。

 いずれにしても、ラグビーW杯の会場に足を運ぶことなどないと断念していた私が、他律的であるにしろ、こうして機会を得られたことは、「一生に一度だ」という機会であったと申し上げるしかありません。

  ネットから印刷したものを撮影

 

 アイルランドに大金星をあげた直後のインタビューで、汗にぬれた顔に芝生を付着させた田村優選手の言葉が記憶に残りました。試合前に、ジェイミー・ジョセフヘッドコーチが<5行の俳句>を詠んでメンバーを鼓舞したというあの話です。

 田村選手の語った内容から想像するしかありませんが、「誰も勝つと思っていないし/誰も接戦になると思っていないし/誰も僕らがどれだけ/犠牲にしてきたのか分かんないし/信じているのは僕たちだけ」という「5行」です。私は、3行目と4行目がワンフレーズに聞こえたので、えっ「4行」じゃないのと、どうでもよいことを思ったりしたのです。

 「信じているのは僕らだけ」、それだけ最高の準備をしてきたのだ、そのことを信じようというメッセージだったのでしょう。選ばれし者たちしか経験できない重圧と歓喜を、今、彼らは味わっているのでしょう。軟弱な私など、これで終わりにしたいところでしたが、まだ試合は続きます。そして、サモアとの対戦を経て、選手たちは冷静にそれを自覚しているように感じています。

 広い意味のコミュニケーション、マネジメントなどいろいろ教えられることがありそうですが、突き詰めたという経験をもたないのかもしれない私が語ることではないでしょう。

 軽々に語ることはできませんが、サッカーとラグビーの代表資格、つまりチームメンバー構成の相違から生じる諸相は、比較を誘因するようなテーマだと感じています。

 

 元々ユニークなものと意識していましたが、前述の代表資格という問題に改めて感じるところがありました。サッカーとの比較が端的なのですが、ラグビーの代表資格の、いわば幅広さ、柔軟さは、これからの世界を想像すると、親和性を有していると理解しています。でも、忘れてはならないことは、ラグビーの代表資格は、元々、発祥の地である英国の人たち、選手たちが、旧植民地諸国の代表になりやすいように定められた背景があるということです。

 現下の世界には、排他的な「ナショナリズム」の鎧でしか統合性を維持できないという面があることからすれば、そのような偏狭さに回収されないラグビーの代表資格は一つの有用な仕掛けであろうと、私は考えているということです。そして、未来の日本社会をうつす鏡のようでもあると感じています。

 現在の代表資格の一つ「継続して36月以上居住している」という条件が、2020年度末から「60月」に延長されることが決まっていて、現在の「3年」が「5年」以上の居住という条件に変更されるわけです。だから、もしその条件が前倒しされていれば、アイルランドとサモア戦のゲームキャプテンを務めたラブスカフニ選手は、代表選手の資格がなかったということになります。

 

 それにしても4年は早いものですね。当ブログを始めてまもなく「ラグビーのこと」をアップしていますが、その冒頭は「ラグビーW杯が終わりました」という一文から始まっています。ですから、それから4年というわけです。

 続けて「今年3月にフルタイムの仕事を離れたこともあって、夜中の衛星中継をほぼ毎回リアルタイムでみることができました」とありますが、日本開催の今回はその点でさらに支障がありません。そして、このブログを読んだ若い友人(もうあまり若くないか)からは、「25年もお付き合いがありながら、ラグビーの話は聞いたことがありませんでした」とコメントがありました。

 とにもかくにも、番狂わせの少ないラグビーで起こったジャイアントキリングもあって今はラグビー狂騒曲のただ中にありそうですが、ただ中にありすぎて、本当のラグビーの素晴らしさが見えていないのかもしれません。ラグビーW杯が起点となって、多くの人びとにノーサイドの精神、友愛の精神が広がっていくことを期待いたしましょう。

 

2016.08.12 Friday

四年という節目ーオリンピックの夏ー

 地球の反対側から届く電波放送の虜になっています。

 地球表面の位置関係と同じように、時差12時間と時刻も正反対なのですが、リオデジャネイロ・オリンピックをテレビ観戦しています。ウィークデーの通勤がなくなったからなのか、これまで以上に長時間テレビの前にいるみたいです。

 おかげで当ブログにあてる時間が激減してしまいました。夏休みですから、そろそろ春のシチリア・ナポリ旅行記を書きはじめるつもりでいましたが、まったく手つかずのままです。

 アンチ・ドーピングなどと書きながら、競技スポーツの映像を見て感情の高ぶりをとどめることはできません。所詮、深刻な言葉を並べてみても、中味は単純、脳天気ということなのでしょう。

 

 当ブログ(「アンチ・ドーピングへの道」)で村野四郎(1901-1975)の『体操詩集』の一篇(「体操」)を【追記】として紹介しましたが、今朝(11日)の体操男子個人総合を見ていたら、今回のブログでこそ紹介すべきだったなあと思いました。この詩集(1939年刊)は村野の詩とベルリン・オリンピックの記録写真が組み合わされた当時としては斬新な体裁であったのです。

 今回は「吊環(つりわ)」「鉄棒(二)」を書き写しておくことにします。

 

    吊環(つりわ)

 

  僕は蝙蝠のように逆にぶら下る

  空のパラシュートが僕を吊り下げる

  僕はしばらくここに安定する

  かけよる人達を見ながら

  訝し相な人達の顔をみながら

  僕は

  僕の世界を理解して

 

    鉄棒 (二)

 

  僕は地平線に飛びつく

  僅に指さきが引っかかった

  僕は世界にぶら下った

  筋肉だけが僕の頼みだ

  僕は赤くなる 僕は収縮する

  足が上ってゆく

  おお 僕は何処へ行く

  大きく世界が一回転して

  僕が上になる

  高くからの俯瞰

  ああ 両肩に柔軟な雲

 

 前回は古びない詩だと書きましたが、いかがでしょうか。ベルリン・オリンピック当時の体操競技のスピード感や難度は、現代の体操と比較できるものではありませんが、「逆にぶら下る」とか「大きく世界が一回転して」とかは人間の基本的な身体動作として変わりはありませんね。

  『詩人村野四郎』㈶府中市文化振興財団著(2004年刊)より

 

 夏季オリンピックは四年に一度、うるう年に行われています。この理由は古代ギリシァ人の暦とか、それに基づく習慣との関係があるようですが、四年という期間は、オリンピックの関係者だけでなく、ひとつの節目になっていやしませんか。少なくとも私にとってはそうなのです。

 あやふやそのものの記憶から事実を呼び起こすときの指標、こんなこと、あんなことは○○オリンピックの年の出来事であったというように、私的なことはもとより、社会的事象も、オリンピックの開催年を一つの基準として核となる記憶を拡げて記憶の地図をつくっているようにも感じています。

 

 たまたまのことだとは思いますが、北京オリンピックの2008年(H20)とロンドンオリンピックの2012年(H24)と続けて、私の身体に異変のあった年であり、オリンピックの年の核となる記憶となっています。

 2008年の北京オリンピックの期間中(8/8〜8/24)に、久しぶりに職場でのソフトボール練習中に、鎖骨の左肩先を骨折しました。幸いなことに、折れ方がよかったので手術をしないですみましたが、人生初めてのことで驚きました。救急病院では手術が必要かもということでしたが、翌日の病院では固定するだけでよいとなり、ほっとして自宅に帰ると、北京オリンピックでソフトボールの第3位決定戦の真最中であった記憶が鮮明です。

 記録によると、8月20、21日の両日だけで、上野投手は一人で3試合を投げぬき、投球数は413に及んだとあります。そして日本はアメリカに勝って優勝しました。次回のロンドンオリンピックではソフトボールが実施されないことが決定しており、両国の選手たちが復活の願いを記した横断幕を掲げていたのをよく覚えています。

 ソフトボールはロンドンと今回のリオと競技から除外されていましたが、先ごろのIOC総会において、12年のブランクを経て2020年の東京オリンピックで復活することが決まりました。上野投手はその後も選手生活を続けており、できれば2020年まで続ける意向を表明されているようです。すごいことです。

 

 一方というか、4年後、2012年のロンドンオリンピックの期間中(7/27〜、8/12)はテレビ観戦しながらも、もう少し深刻に毎日を過ごしていた記憶が強いのです。

 前に当ブログにも(「春の風が吹いた一日」)前立腺癌の全摘手術を受けたことを書きましたが、ちょうどロンドンオリンピックの直前に生検で確認されたことから、どこでどのような治療を受けるかを迷いつつ、大学病院を紹介してもらって初めて出かけたのが開会式の当日だったのです。患者は癌だと聞かされるとあわててできるだけ早い治療着手を願いますが、病院側からは手術待ちの期間が早くて半年などと言われて困惑して焦っていた記憶が鮮明です。

 フェンシングのフルーレ男子団体で日本は銀メダルを獲得しましたが、8月5日の準決勝ではドイツとの接戦を奇跡的にものにしました。この試合をテレビ観戦しながら、そのあまりに目まぐるしい攻防の有り様に呆れていた記憶が残っています。当時のエース太田選手が防御マスクを外したときのしたたる汗に、自分のあがきのようなものを重ねていたように思います。

 その太田選手も、今回のリオオリンピックの個人戦で敗戦して、現役を引退する意向を表明しました。時は過ぎゆきます。

 私の方はいえば、10月の中旬に急に手術室が空きが出たから翌日に入院してもらえるならとの医師からの電話に飛びつくように応じて手術ができることになりました。私の前に声のかかった患者が明日入院と言われてもと断ったので次の私に順番が回ってきたのが真相だったみたいなのです。時が過ぎると、当時の大仰であった自分が恥ずかしくなりますが、そんなオリンピックの夏であった記憶が重なっています。

 

 長いようで短くもあり、短いようで長くもある「四年」の歳月は、今のリオオリンピックにおいても多くのドラマを生み出していることでしょう。

 確かに「四年」というのが竹の節目のようなもので、ひとつの節目になっているように私は感じています。人生80年だとしても節目は20回しかありません。

 

 1964年(S39)の東京オリンピックは10月10日開催でしたのに、2020年の東京オリンピックはこんなにも暑い時期(7/24〜8/9)の開催となる予定です。暑い地域からやってきた人びともびっくりということになりそうでいささかぞっとしますね。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

2016.07.31 Sunday

アンチ・ドーピングへの道

 少し風が感じられるようになった夕刻、いつもの歩行コースの途中にある小さな公園はいつもと様子がちがっていました。いつもは皆無といってよいのにえっと思うほどの人出なのです。いつもは見かけることのない若者たちがスマホを手にウロウロとし、またベンチに座って操作していたりします。

 近寄って確かめたわけではありませんが、ポケモンGOなのでしょう。単独か複数でも二人かでスマホをのぞき込んでいます。なかには中学生ぐらいの母娘連れとか、幼子を自転車に乗せた若い父親という組み合わせもいますが、高校生や大学生ぐらいの男性がほとんどです。

 この空間は、児童公園にみられる子供を介した親同士の、あるいは犬を介した飼い主同士の、そこにみられるささやかなコミュニケーションなど、まったく感じることのできない世界なのです。都市空間における群衆の中の孤独のように、スマホの画面との関係だけが行動を決めています。

 普段はどこにいたのだろうという青年がともかくも、こんな公園にたむろしている有り様が新鮮だともいえます。いつ頃までこんな様子が続くことやら。

 

◈超人たちの舞台空間ーツールドフランスー

 今年もツールドフランスが終りました。7月2日から24日までの23日間に休息日2日をはさんで21ステージ、全長3519劼猟甲場です。2回の個人タイムトライヤルを除くと19ステージの一日平均走行距離は182劼任△蝓△修譴1〜2千m級の山への上り下りが連続するというようなとてつもなく過酷で厳しいものです。常人からすれば超人たちがきそいあうステージ、壮大な自然を舞台とする演劇空間ともいえるのでしょう。

 NHKBS1で四回ぐらいに分けて放送されたダイジェストを楽しんだだけなのですが、加えてネットで毎日配信されるレポートと映像もフォローしていました[「Jsports」「cyclowired」]。特に「cycrowired」の編集長だという綾野真さんのレポートに、今風の表現だと、スタイリッシュな書き手を発見できたりもしたのです。

 

 こういうサイクルレースの面白さは、チームスポーツであるということです。力のあるサイクリストが勝つだけの個人レースだと思っていましたが、数年前にチームスポーツである現実を教えられました。チームはエースとアシストの役割分担がなされており、チームの戦略に基づいてレースが組み立てられます。ごく単純に言ってしまうと、風の抵抗という自然条件のもとで速く走るためには、エースへの風抵抗を減らして負担を軽減する必要があるわけで、アシストたちが風の抵抗を代替しながらエースを押し上げていく(「エースを引っ張る」と表現したりします)、そんな競技なのです。エースの能力が高いことは前提ですが、一人の力では勝てません。主役と助演のアンサンブルが最も大切になる舞台というわけです。

 コースの高低差等の態様によってスプリンターとクライマーのそれぞれに向き不向きがあり、スプリンター向きのコースではエースとアシストの役割が変更され、主役と助演が逆になったりすることも面白いところです。

 複数のチームが駆け引きを繰り返しながら競いますので、レースには無限のバリエーションが生じます。当初のシナリオどおりにはいかないわけで、そんな予定外の状況にチームとしてどのように柔軟に対処していくかが問われます。コンテはあるけれど完成したシナリオのないドラマという奴で、そこが魅力なのでしょう。

 

 もう一つの魅力は、ツールドフランスのレースの背景というか、舞台の大道具はフランス(今年のレースではベルギー、スペイン、スイスも通りました)の美しい自然やまち・むらであり、小道具は山岳の上り部分では道からはみ出て応援する観客たちです。

 フランスに出かけたことのない私ですが、池波正太郎さんのエッセーで知ったフランスの農村の豊かさと美しさが、レースの舞台空間を奥深いものとしています。世界中から集まった観客たちの狂騒ばかりが目立ちますが、近隣のまちやむらから集まった人びとが真夏の日差しを浴びて沿道からレースを楽しんでいる姿はあたたかい気持ちにさせてくれるのです。

 

 と書いてきて、今すぐに迫ったリオ五輪をまえにロシア・ドーピング問題が大きな話題となっていますが、ツールドフランスのドーピングのことにもふれておきたいと思います。今年のレースでドーピングの話題が出なかったようですから、ツールドフランスはドーピングから離脱できたのでしょうか。その検査体制はきちんと機能していたのでしょうか。

 1998年の勝者だったマルコ・パンターニのことをテーマにした映画『パンターニー海賊と呼ばれたサイクリストー』から刺激を受けて、当ブログでもドーピングのことを含めて取り上げました(「あるサイクリストの生と死ーマルコ・パンターニー」)。パンターニが勝った、彼のチームが勝った1998年には、フェスチナ事件というフェスチナというチームぐるみの組織ドーピング(チームカーから大量の禁止薬物が発見された)が発覚しました(チーム・フェスチナはレースから除外されました)。

 そして、パンターニがドーピング問題で出場できなかった1999年から2005年までの7年連続で総合優勝をなしとげたランス・アームストロングは、2012年に全米アンチ・ドーピング連盟(USADA)からドーピング違反で告発され、これに対してアームストロングが不服申立てを行わなかったことを受け、永久追放が宣告され、この7連覇の偉業はすべて剥奪されました。翌2013年にアームストロングはドーピングの事実を告白しています。

 ツールドフランスというか、サイクルロードレースのトップ選手たちがドーピング漬けになっていた実態が明らかになっていますが(検査機器等の能力向上によって過去の冷凍保存されていた血液を再検査した結果、多くの検体から禁止薬物が発見されたのです)、現在のツールが本当にドーピングを克服できたのかが問われています。

 

 超人たちのレースという表現しましたが、超人であることを要求されることがドーピングを誘発したのだと栗村修さんは考えます(「どうしてこんなに自転車レースではドーピングが出てくるの?」)。「要する、キツイからでしょう。極論すれば、どれだけ長くフィジカルへの負荷、つまり苦しみに耐えられるかで決まります。グランツールに至っては3週間苦しみぬいた選手が総合優勝です」と書いています。いうまでもなくグランツールの最高峰がツールドフランスなのです。

 栗村さんは自転車競技のドーピングを悲しいと思ってきたが「今はもう違います」とし、自転車レースは攻撃されるべくして攻撃されているのであり、これを乗り越えなければ、未来はないとしています。そして2013年12月と記された稿を次のように結んでいます。

  「 でも、もし、もしですが、他の競技にも同じようにドーピング問題が

   あるのならば、自転車が先頭でドーピングというトンネルを抜けられる

   可能性はあるかもしれません。いずれにせよ、光はその先にしかない

   と、今の僕は思っています。」

 

◈ロシア・ドーピング問題とIOCの判断

 リオ五輪の開幕まで10日余に迫った7月24日、IOCはロシアを全面排除せず、条件付きでロシア選手の参加を認める(各国際競技団体(IF)が出場資格を決定する)という判断を下しました。今月の18日に世界反ドーピング機関(WADA)は国家主導でドーピング違反を隠蔽したと認定して、ロシア選手のリオ五輪・パラリンピックへの参加拒否を検討するようIOCに勧告していたのです。

 今回のIOCの判断をめぐっては、アンチ・ドーピングの立場から「弱腰、責任回避、リーダーシップの欠如」の甘い決定だとして非難が出ている一方、潔白を証明できるクリーンな選手の個人の権利を大切にしたギリギリの選択だったとの評価もあります。また最初の告発者であるロシアの陸上選手であるステパノワ選手が、国際陸上連盟が参加を認めていたにもかかわらず、IOCの示した条件によって参加できなくなったことに対し、告発者保護の立場からも強い批判が出ています。

 ドーピングにクリーンだと思われる我が国にあっては、もっと厳しい判断が下されるべきだったという論調はあるものの、自国選手にドーピング問題が発生する経験の少なさが逆に作用しているからか、IOCの判断を全否定する意見は少なかったように思います。

 

 そんな中、スポーツ評論家なる肩書の玉木正之さんは、IOCにはロシアからさまざまな重圧がかかったようで、もっと毅然とした態度を取るべきであったIOCが今回の判断を下したのは、スポーツが政治に負けたといえると述べています。

 プーチン大統領は、国家的ドーピングというべき問題に対し、「スポーツが地政学的な圧力の道具にされている」と、政治によるスポーツへの干渉だと非難してきましたが、27日にもオリンピック選手を前に演説し、「国際政治を支配するルールが、スポーツに持ち込まれようとしている」、対立する欧米がロシアに圧力をかけていると強く批判したと報ぜられています。

 スポーツを政治と切り離して定位することは東京オリンピックの誘致活動などからしても非現実であることはいうまでもありませんが、アンチ・ドーピングのためには今回のIOCの判断がプラスにはたらくことはないことはだけは確かだと思います。

 いずれにせよ、ドーピングに国家が介在するという事態は、政治によるスポーツ利用そのものだといわなければなりません。

 

 では、これからのアンチ・ドーピング、ドーピングをどう排除していくのかが問われることになります。

 IOCの決定の直後に放送されたNHKの「時論公論」では、ドーピング問題がもたらすオリンピックの危機克服に向け、3点を指摘しています。一つは「反ドーピングの国際機関であるWADAの強化」をあげます。二つは「参加エントリーの前倒し」による厳しい事前チェックの実施です。そして三つは「罰則の強化、損害賠償も」であり、罰則強化や資格停止だけでなく、選手やチームに損害賠償を課す方向の検討も主張していました。

 いずれも無意味なことではなく実施すべきではありますが、競技スポーツが国家や営利組織等との結び付きを断ち切れない以上、アンチ・ドーピングへの道はなかなか険しいといわなければなりません。

 

 私のドーピングについての考え方、見方は、上でリンクした当ブログの記事中に書いた次の部分と変わりありません。というより具体の処方箋を伴った考え方をもちえているわけではありません。

  「 ドーピング問題は、スポーツだけでなく、強くありたいとか美しくあ

   りたいとか賢くありたいとか健康でいたいとか、人間の根源的な欲望と

   切り離すことはできないが、国家や営利組織等と結びつくとき欲望は奇

   形化、肥大化し、バッソンス(フェスチナ事件のときにチーム内で唯一

   ドーピングを拒否した選手)に対するような転倒した集団的な論理がまか

   り通ってしまう。

    現在もロシアの陸上競技が問題となっているが、過去のソ連や旧東ド

   イツなど、大リーグを含めてド―ピングの影はスポーツ界を色濃く覆

   っている。

    ドーピングの方法は先進的な医療やトレーニング理論と結びつき、そ

   れを規制する側が検査方法などで追いかけているのが現在の構図であ

   り、スポーツが社会化という営利化(プロ化として現れやすい)が進めば

   進むほど、その圧力は巧妙化しているのが現代なのであろう。」

 こんな現状認識の下で「正義」を追及するとはどのようなことなのか。これに続けて結論とはいえませんが、次のように締めくくっています。

  「 ドーピング問題は戦争や平和の問題と同じように、人間の根源的な欲

   望と切り離すことができないだけに容易ではないけれど、「正義」の基

   盤のもとに繰り返し愚直に追及していくしかなさそうなのである。「長

   年まかり通っていた」ドーピングは、けれど今も続いており、完全な解

   決はできないとしても、公正なルールをもとめ、されど続けていく。そ

   れが何より大切なことだ。」

 

 ドーピングの「正義」とは、国際政治における両義性をもった「正義」のようなものではなく、もっともっとシンプルにドーピングが行われない、行われていない状態を指しています。これは、選手の健康はもとより、スポーツ競技の健康、スポーツ精神の健康という価値が芸術文化的な価値に親近したものと位置づけようとする思想でもあり、こうした思想に根ざした対策の構築が期待されるところです。

 この時、ドーピングのどこが悪いという世界であったらしいサイクルロードレースの世界で、「正義」の実現を現実の姿として提示できることは大きな光になるような気がします。

 そして2020年の東京オリンピックは不安定局面の強まる国際政治に翻弄されることが懸念されもしますが、願わくばドーピング問題を克服できる舞台となることを祈りたいと思います。

 

【追記】

 村野四郎さん(1901-1975年)の『体操詩集』(1939年刊)を、アンチ・ドーピングと共鳴するような言葉はないものかと読んでみましたが、うまくリンケージできませんでした。

 でもこんな詩だったのかと思ったりもしましたので、ドーピングとは関係ありませんが、メモしておくことにします。古びていないことに驚きます。

  ◉引用は『詩人 村野四郎』馬場治子文(2004年11月刊/ネット武蔵野)から行いました。

 

    体 操

 

  僕には愛がない

  僕は権力を持たぬ

  白い襯衣の中の個だ

  僕は解体し 構成する

  地平線がきて僕に交わる

 

  僕は周囲を無視する

  しかも下界は整列するのだ

  僕の咽喉は笛だ

  僕の命令は音だ

 

  僕は柔らかい掌をひるがえし

  深呼吸する

  このとき

  僕の形へ挿される一輪の薔薇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016.02.21 Sunday

あるサイクリストの生と死ーマルコ・パンターニー

 そのサイクリストは2004年2月14日にイタリアのリエミのホテルで亡くなった。彼の名はマルコ・パンターニ(1970-2004)。死因ははじめ自殺とされたが、その後、コカインの常用によるオーバードースと発表された。
 パンターニはイタリアのロードレーサーの英雄で(イタリアではサッカーと並ぶスポーツ)、1998年には二大レースであるジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスのダブル優勝を飾った。
 翌1999年のジロ・デ・イタリアで優勝をほぼ手中した日の翌朝に行われた血液検査で、パンターニのヘマトクリット値(血球の体積比:ほぼ赤血球に等しい)が52と高く、健康を保護するためとの理由でレースへの出場停止が決定された。
 この出来事をきっかけに、パンターニはドーピングのレッテルを貼られ、その渦に飲みこまれるなかで、カムバックを模索しながらも、数年後の死に向かって苦しく過酷な日々が続いていくことになったが、亡くなってから10年を経た現在もなおイタリアでは人気絶大であり、偶像化がすすんでいるようだ。
 
 そんなパンターニの生と死について既存の映像と新たなインタビューから編集構成された『パンターニ-海賊と呼ばれたサイクリスト-』というドキュメンタリー映画(2014年/英/ジェイムス・エルスキン監督)をみた(私のわかりにくい説明より<予告編>をみていただきたい)。
 映画自体は、答えを断定できない重たい問い(パンターニはなぜ死ななければならなかったのか)を前にして、スター選手の栄光と転落のストーリーが展開するもので、よくある良質のテレビ・ドキュメンタリーの域を出ていないといわざるをえないのかなと思う。それでも過去の数々のレースの映像は多くの自転車ロードレースのファンを喜ばせるだけでなく、孤高のクライマー、走る哲学者と呼ばれた男がイタリア中を熱狂させた現場(イタリア国内のテレビ視聴率が50%超に達した)に立ち会っているような気持ちにさせてくれた。
 この映画のテーマは、自転車レースのカリスマであったパンターニの生と死であり、もう一つのテーマは彼の死と切り離すことのできないドーピングの問題であるが、正直な感想として、この映画のドーピングに対する態度は不明確で、分かりにくいものであったと思う。
 それは1990年代のドーピングに対する社会的な態度(必ずしも厳しいとはいえなかったし、その後もドーピングは続けられていくのだ)を反映しているといえるが、現在の規制からドーピングの事実だけを糾弾して断裁するのではなく、ドーピング問題に端を発して精神の均衡を失っていく、誇り高く繊細な心の持ち主であった人間パンターニの「悲運、悲劇」というメインシナリオが映画全体を支配しているということなのだろう。

 映画をみたあとでネット上のいろんな情報を読んで知った事実(であろうという程度かもしれないが)を書いてみよう。
 1999年当時、赤血球の濃度を上げて、より多く酸素を体内に取り込むことによって、運動機能(特に持久力など)を高めるという手法は、現在は禁止されているEPO(エリスロポエチン)によるドーピングであるが、まだ禁止薬物の対象ではなく(検出する技術がなかった)、イタリアのロードレース界ではヘマトクリット値も規制の対象にはなっていなかった。したがって、パンターニに対する2回の裁判においても、証拠不十分で無罪とされたのである。
 では、なぜ1999年のレース中に出場停止とされたのかが「謎」だというのが、現在の一つの論調であり、さらにはドーピングの存在を事実としながらも、なお謎は「謎」のまま残るというのが、今回の映画などの態度である。映画のインタービューの中では「水を飲むだけでは勝てない」との発言もあったし、医師によるドーピングが日常化していたという報道映像が組み込まれ、組織的なドーピングの存在を強く示唆していた。
 2013年には、フランス上院のドーピング調査委員会によって、パンターニが優勝した1998年のツール・ド・フランスで採取した血液を再調査し、パンターニをはじめ2位の選手など16名の血液からEPOが検出されたという結果が公表された。
 今となっては、「謎」とは、ドーピングの有無というより、1999年のドーピングスキャンダルの裏にマフィアの影があったのではないかというのが疑惑らしいのだ。当時、サッカー賭博の全貌が明らかにされ、サッカー賭博に手を出せなくなったマフィアたちが自転車競技に巨額の賭博を持ち込み、パンターニの確実な勝利では大儲けができないため、パンターニを出場停止に追い込んだのではないか。パンターニのレースからの排除はマフィアの陰謀によるものではなかったのかというのである。
 また、パンターニの死因そのものも、コカインのオーバードースでなく他殺の可能性を家族は訴えており、2014年にリエミ検察庁によって再捜査が決定されたようだ(その後の動きは分からない)。

 映画においては、その「謎」「疑惑」は両親のインタビューなどからも引き出されているが、もちろん真実はこれだという結論は提示できていないし、本人の口が閉ざされてしまっている以上、出せるものでもない。
 その中では母親が語ったこと、息子がプロチーム入りが決まった前夜に「自転車選手になりたくない」と訴えたという場面がどうも収まりきれないのだ。正確ではないが、「マフィア」という言葉もあったように記憶するが、勝つためにやらなければならないこと、同時に負けるためにやらなければならないこと、そんな中にマフィアの賭けもドーピングもあったのではないかと想像させるものなのである。
 当時の組織的なドーピングの存在を強く示唆している一方で、突出した才能であったパンターニ(1998年ツール・ド・フランスのドーピング(後でも出てくるフェスティナ事件)が問題になったときにこれに反対する選手側のスポークスマン役を引き受けていた)がスケープゴートにされたのではないか、でもそれは「謎」のまま残されているというのが映画の問題提起であり、結論ともなっている。

 前記のフェスティナ事件とは、ツール・ド・フランスに出場していたフェスティナのチームカーから大量の禁止薬物が発見され、チーム全体がツールから除外されたものだ。このチームの一員で一人だけアンチドーピングを貫いたクリストフ・バッソンスに関する記事(「ドーピングという闇の力に屈しなかった男、クリストフ・バッソンス〜なぜ正しきが責められ引退にまで追い込まれたのか?」2013年)を読むと、問題の根深さがよく理解できる。
 長くなるのでネットで読んでいただければと思うが、当時のフランスのスポーツ大臣が「ドーピングに対して戦っているあなたに対して刃を向ける、このスポーツ自体がおかしい」とバッソンスに書簡を送ったが、記者はこう結論づけている。
  「 しかしよく考えてみれば、この大臣の言葉さえも無きものにするほ
   ど、スポーツ団体のみならず、製薬業界、スポンサーなど大きな後ろ盾
   があったからこそ、ドーピング問題が長年まかり通っていたことを痛感
   させられる。」
 
◇併せて栗村修さんという方の文章も読んでみていただきたい(「どうしてこんなに自転車レースではドーピングが出てくるの?」)
 
 ドーピング問題は、スポーツだけでなく、強くありたいとか美しくありたいとか賢くありたいとか健康でいたいとか、人間の根源的な欲望と切り離すことはできないが、国家や営利組織等と結びつくとき欲望は奇形化、肥大化し、バッソンスに対するような転倒した集団的な論理がまかり通ってしまう。
 現在もロシアの陸上競技が問題となっているが、過去のソ連や東ドイツなど、大リーグも含めて、ドーピングの影はスポーツ界を色濃く覆っている。
 ドーピングの方法は先進的な医療やトレーニング理論と結びつき、それを規制する側が検査方法などで追いかけているのが現在の構図であり、スポーツが社会化という営利化(プロ化として現われやすい)が進めば進むほど、その圧力は巧妙化しているのが現代なのであろう。
 それは金融工学が正当な経済的行為と認められてしまう、最近のマイナス金利もそうかもしれないが、こんな奇形化・転倒化する現代社会に通じるものだ。それでもドーピング問題は公正なルール化という建前を前面に立てて対策が講じられようとしていることが、私には興味深いし、わずかにでも期待をつないでいきたいと思う。
 世界平和というときの「正義」の議論と同じく、ドーピング問題においても、正義の在りかは普遍性を有しているのであろうか。

 パンターニに戻ろう。糸井重里さん主宰の『ほぼ日刊イトイ新聞』があるが、そこにイタリアの著名なスポーツジャーナリスト(辛口批評で有名らしい)、フランコ・ロッシさんという方が一時「フランコさんのイタリア通信」を寄せていた。
 パンターニの亡くなる前年2003年6月30日付でフランコさんは「がんばれマルコ!!」を寄稿している。往年の偉大なチャンピオンが「もはやかつてのようではない自分に気付く時、自身の人間性さえ失って出口の見つからない迷宮に入りこんでしまう、ということが実際に起こります」とし、それが今のパンターニであり、「いまイタリアは、自分自身を失ったひとりのチャンピオンのために同情と悲しみに包まれています」と報告する。
 そしてジャーナリストとしてパンターニの情報を把握したうえで「マルコの名前を忘れないで」として、次のように彼の窮状を記している。
  「 生きることに病むということは、よりよい明日をイメージできなくな
   ることです。その病がマルコ・パンターニを押し倒し、彼をパニックに
   陥れました。
    イタリアで誰よりも愛された、この自転車チャンピオンは完璧に落ち
   込み、何か気持ちを高揚させてくれるものに頼って、事を解決しようと
   したのでしょう。」

 こうしてコカイン中毒になってしまったパンターニを友人たちが精神的なケアのできる病院に入れたとし、こう呼びかける。
  「 彼が勝利の栄光や名声や富を賭けて自転車を漕ぐ日は、二度と戻って
   はこないでしょう。
    でも、生きる喜びは勝利や名声や富だけではありません。彼がそれら
   から解放されて、「生きる喜び」を本当に味わえる日が早く戻ってくる
   ことを、僕は祈っています。
    がんばれ、マルコ!!」

 この記事の配信から8ヵ月も経たないうちに、翌2004年のバレンタイン・ディの夜にマルコ・パンターニは亡くなった。

 彼が亡くなったすぐ後に、フランコさんは「さよなら、マルコ・パンターニ」との一文を寄せ、パンターニが自殺したとし、誰も彼の死に「自分は無罪だと言える人はひとりもいない思いに僕らはたどりつきました。そして、後悔と悲しみに八つ裂きにされて、イタリア中が泣きました。」と書いている。
 1998年のダブルツール勝利の翌1999年のことを、「なにがただしかったんだろう。なにがまちがっていたんだろう」と自問する。 
  「 ところがその1年後、彼はドーピング検査で陽性と判定されます。そ
   して、その時まで彼をさんざん利用し、私腹をたっぷり肥やしたであろ
   う人々が手のひらを返したように態度を変えます。彼こそは自転車競技
   界のみならず、スポーツ界、いや世界の諸悪の根源だとさえ言って、マ
   ルコを突き上げました。でも、本当に彼だけの責任だったのでしょう
   か?
    マルコのおかげで素晴らしい感動を得た多くの人々が、彼の死に失望
   して泣くのを僕は目の当たりにしました。彼がひとりぼっちになった時
   に、なにも助けてあげられなかったことを、恥ずかしく思い、後悔し、
   悲しみに引き裂かれている人々を、僕は知っています。」

 
 この映画と同じくうまくまとまりがつかない。
 かつてかすかにその名前を聞いた覚えのあるマルコ・パンターニの生と死は
、パンターニの姿に深く感動した自分に失望したくないための集合的なファン心理、それを誘導してしまうメディアの欲望、いい時ははなばなしく持ち上げ、わるい時は徹底的に排除してしまうことの結果ではなかったかと思う。いうまでもなく、今のわが国でもよくみられる風景でもある。
 私としては、天与の才能に気付いた少年時代から、自転車を走らせ、誰もが厳しく感じる山登
りを得意とし、急坂をダンシングしながら急坂でないように一気に駆け上がり、どうしてと問われると「少しでも早く苦しみから解放されたいから」と答えていたサイクリストの一生として、その鋭利な風貌とともに記憶しておこう。
 一方、ドーピング問題は戦争や平和の問題と同じように、人間の根源的な欲望と切り離すことができないだけに容易ではないけれど、「正義」の基盤のもとに繰り返し愚直に追及していくしかなさそうなのである。「長年まかり通っていた」ドーピングは、けれど今も続いており、完全な解決はできないとしても、公正なルールをもとめ、されど続けていく。それが何より大切なことだ。
 

 


  


 


 

 
2016.02.09 Tuesday

スーパーボウル、そしてカレッジフットボール

 スーパーボウルをテレビで観戦しました。ライブでみるのは初めてのことです。
 スーパーボウルはアメリカンフットボールのプロリーグであるNFLのチャンピオンを決定する大一番です。毎年2月の第一日曜日に開催され、今回で第50回を数えています。米国ではスーパーボウルサンディ、スーパーサンディなどと呼ばれており、ある種の祝祭日になっているようです。昨日、アリゾナでキャンプ中の日本ハムファイターズが、アメリカ人スタッフたちに配慮して、午前中で練習を切り上げたと報じられていました。
 
 日本では、時差の関係で月曜日の朝からの生中継になることから、これまで録画ではみていましたが、ライブで観戦したことがなかったように思います。今回、初めて生中継をみることが可能になったというわけです。
 今年の開催地はカリフォルニアのサンタクララで、今の時期としては大変にあたたかな気候の中で行われました。
 普段からNFLの試合は中継録画という形でよくみていますが、生中継だと、普通はカットされているテレビCMの時間がそのまま中継されるので、その時間は試合が止まります。このインターバルに選手たちは慣れているに決まっていますが、いつも以上に真剣勝負であるスーパーボウルでは、ヘルメットごしの選手たちの顔には集中に水を差されたような表情が浮かんでいるようにも感じました。
 試合は大変に重いものでした。はなやかにパスが飛び交い、スーパーキャッチもあって、得点を取り合うという試合ではありませんでした。ブロンコスとパンサーズの両チームともディフェンスが強く、相手QBにプレッシャーをかけ続け、自由にプレーさせない展開が続きました。最終的には大方の予想をくつがえし、ブロンコスが24対10で勝利しましたが、大変に緊張感のある好試合でした。
 ブロンコスのQBであるペイトン・マニングは19年目の大ベテラン、衰えた肩に抗するように賢くプレーして勝利を手繰り寄せたのですが、老いたカウボーイのジョン・ウェインのようで、いささか残酷な感じもしました。

 この試合をみながら、ついつい昔のこと、どうしてアメリカンフットボールが好きになったのだろうとの思いにかられていました。
 我が地域のサンテレビで放送されていた全米カレッジフットボールという番組をみていたからにちがいないと思っています。ネットで調べてみると、確実とはいえないものの、1972年頃から10年ほど続いたと書いてあるのもあります。実況は西澤あきらさん、解説は武田健さん、今から思えば大変に贅沢なコンビでした。
 当時、武田健さんは関西学院大学のアメフト監督で、アメリカの最新のトレーニング方法や戦術を導入して、日大に対抗しようと腐心されていた時期だったのでしょう。その解説はアメリカに留学し(心理学)、現場でコーチングを学び、そして後進のわが国でフットボールを根付かせようとしていた同氏らしく知的なレベルが高く、かつ学生選手に対する温かい視線が感じられるものでした。この武田さんの話を引き出す西澤さんのアナウンスも絶妙でした(今はわかりませんが、つい先頃は現役最高齢のスポーツアナウンサーと言われていました)。この名コンビは、野球中継やその他のスポーツ中継と一線を画するものだったと記憶しています。
 このサンテレビ制作の番組は関西はもとより東京方面のUHF局でも放映されていたようで、ネットには、この番組でアメリカンフットボールが好きになったというコメントが掲載されています。
 アンソニー・デイビス、リン・スワン、当時の南カリフォルニア大学(USC)の大スターです。昨日の試合の選手さえ、名前の出てこない私がこの二人の名前は出てくるのです。RBのデイビスが圧倒的なアイコンでしたが、プロに入ってからはスターになれなかったのに対し、一方のWRのスワンは強かったピッツバーク・スティーラーズに入団し、スーパーボウルを連覇し、1975年にばザ・キャッヂでMVPに輝きました。昨日のスーパーボウルは第50回ということで歴代MVPが登場したなかに、リン・スワンもいました(いい顔してました)。
 このサンテレビ、全米カレッジフットボールをいっしよにみていた父が今の私よりも若い頃であったと思うと、不思議な気持ちになります。

 






 

 
2015.12.29 Tuesday

ちょっとそこまでー師走の京都ー(1)

◈風を感じてー全国高校駅伝ー
 師走の京都へ出かけてきました。
 全国高校駅伝にはもう10数回目ということになりますが、今回は4年ぶりの観戦でした。風もなく雲もなく、日差しは強いが、暖冬の日々の後では少しは冬らしい冷たさもあって、素晴らしいコンディションです。

 午前中の女子の部は、烏丸鞍馬口下ルの折り返し点の近くでみました。もっと北の紫明通でみたかったのですが、久しぶりだからかあるいは年をとったせいか所要の時間を読みまちがえていました。先行の広報車が「選手がやってきます」と通過していきます。歩道は応援のファンでぎっしりですが、貸自転車を下りてなんとか途切れたところに立つことができました。
 車道の反対側、北の方から先導バイクに続いて選手がやってきます。なんと地元兵庫「西脇工」の濃紺のユニホームがあらわれてびっくりしました。トップは厳しいかなと思っていたのですが、予想外の大健闘です。100mほど南の折り返し点を回ってこちらへ進んできました。私の方は写真をとっていると拍手もしにくいのですが、家人は拍手しながら「がんばれ」「がんばって」などと声援を送っています。
 「いけるぞ」「そうそうその調子」などコーチのような掛け声も飛んで、これぞ師走の高校駅伝という雰囲気がしてきました。高校の関係者などは自分のチームを追って別の応援場所にタクシーで向かう人もいるようですが、私たちのみたいな一般客は最後尾のチームが通過するまではきちんと応援することが暗黙のルール、マナーとなっていると思います。
 一瞬で通り過ぎる駅伝の行方は以前はラジオが頼りでしたが、今はスマホのテレビからの情報が主流となっています。家人のスマホからは「西脇工」が次の4区に入っても先頭をキープしている映像が流れ、2006年の「須磨学園」以来、遠ざかっている優勝もちらつき心が騒ぎました。
 午後からの男子の部の観戦に向かって移動し、さあ急いで昼ごはんというレストランの前で、スマホのテレビは「西脇工高」が逆転され(5位)、「世羅高」の初優勝を報じていました。少し残念ではありますが、常套句「いい夢をみさせてもらった」ということになりました。


 トップを走る「西脇工高」 追う「世羅高」

 折り返してトップを走る「西脇工高」3区の山本菜月選手

 男子の部は、御所の南、丸太町寺町近くでみることにしました。2区から3区への、そして宝が池で折り返した後、4区から5区へのそれぞれの中継点からあまり離れていないところです。
 「世羅高」の絶対有利、地元兵庫の「西脇工高」「須磨学園」は苦戦の予想が伝えられていました。「西脇工高」は依然として強豪校ではありますが、2002年以来、優勝から遠ざかっています。
 丸太町寺町の北側歩道から烏丸丸太町の角をみやると、先頭が角をまがり、点がみるみる人の形となって近づいてきました。2区は3劼虜任眞擦ざ茣屬任△蝓△靴も最後のスパートに入るところで、すごいスピードです。やっぱり「世羅高」です。肩から外したタスキを握りしめてぶっちぎりの快走です。
 いい加減なファンの私はここで地元高の上位進出をあきらめてしまうぐらいの序盤の展開となりました。最後尾の「八幡浜高」への声援が一段と大きく響きます。


 2区のラストスパート 先頭を疾走する「世羅高」

 3区へ 最後尾を走る「八幡浜高」
 折り返してくる選手たちを待つ間に(45分ぐらい)、冬の午後の傾いた影をひきずり、ファンはぞろぞろと道路の南側に移動します。道端のコンクリート垣に腰をかけたりして、スマホの画面をみる人が多くなりました。関係者でしょうか、携帯電話で連絡を入れている人もいます。中継点の近くだったからか、近くの狭い道でアップしている選手も目立ちました。
 トップの「世羅高」が通過してから(大会記録を更新して優勝しました)、次の「倉敷高」までのタイム差はえっと思うほど間隔がありました(実際は1分30秒ぐらい)。やっと「西脇工高」が23位で走り抜けていきます(最終は16位でした)。10分以上離された最後尾の「和歌山北高」が2台の白バイを引き連れて駆けていきました。
 ああ今年も終わってしまったと、私がそう感じているからにすぎないかもしれませんが、声援をおくったファンの足取りには一抹の虚脱感があるようにもみえます。今年も終わってしまったという共通感情をもっているからなのでしょう。

 
 御所の南 午後の長い影をひきずり、道路を北側から南側へ移動

 5区 振る応援旗はなく 拍手、拍手、がんばれの声援 

 5区最後尾の「和歌山北高」 その前に「八幡浜高」

 こんなせわしい師走に高校駅伝をわざわざ京都までみにいくなんてという問いに正確に答えることはできないと感じています。特にテレビと違って、レースの中味も分からないまま、あっという間に通り過ぎるだけの競技なのにという疑問があります。でもテレビで駅伝やマラソンをみていると、たくさんの方が沿道に並んで応援している光景、中にはテレビに向かって手を振ったり、歩道を懸命に走ったりする姿はお馴染みのことです。やはり生の面白さ、ライブ感覚の楽しさというしかないかなと思っています。
 そのあたりことを別の表現で行うとしたら、私は今を生きる風を感じるために歩道に立っているのだといいたい気持ちにかられます。選手が走り抜けていくと、身体の周辺に本当の風も生じているかもしれませんが、歩道の私たちまで本当の風が届くことはまずありません。あまり近づくと、整理員から「歩道から乗り出さないでください」と注意されます。ずっと以前に選手が歩道ぎりぎりに走ったときに風圧を感じた記憶がありますが、最近はそんなに歩道寄りを走る選手もいません。
 したがって、本当に風を感じているわけではありませんが、あの恥ずかしいような困ったような「青春」を体現しているみたいな選手たちが駆けていく姿に風を感じている、今を生きる風のようなものを感じているのです。そして、そんな風のようなものに包まれる舞台空間が好きなのでしょう。
 スピード、靴音のリズム、ハチマキの揺れ、そしてもっと前へという姿など、風という形なき形として師走の京都の路上にしっかりと棲息しています。

 正確には分かりませんが、最初に出かけたのは20年前ぐらいになるのでしょう。こちらも20年の年を重ねたことになりますが、最初の頃と「変化」していると感じていることを書いておきたいと思います。
 まずは、身体の変化です。特に女子の部は変化が大きいように感じます。元々強豪校はそうだったのですが、今や、路上の選手たちは全員が長距離選手らしいシェイプされた体型なのです。昔はいかにも一見して短距離や投てき、また他の運動部から借りてきた選手かもという選手がいたものですが、今はもう見かけなくなってしまいました。それはそれでチームスポーツの駅伝らしくて楽しかったのですが、ただ走るだけでないトレーニングも取り入れ、上半身も強化しているように感じます。
 
色が鮮やかになりました。選手たちのユニホームやコートの色のことです。色を説明する能力に欠けていますが、ビビッドなカラリングというようなユニホームが際立つようになりました。材質の変化と染色の向上、それを着こなす選手の意識、大人たちの意識も時代とともにやはり変化しているのでしょう。
 どのイベントでもお決まりのことかもしれませんが、観客に高齢者が目立つようになってきました。こちらが高齢者になってきたことが影響しているのかもしれませんが、60、70代の夫婦連れが目立ってきたように思います。いかにも仲よさそうな、いたわりあっているような、喧嘩しているような、口をききたくないような、いろんな老夫婦がいて、年末の恒例行事とされているようです。
 さらに地元の人の服装も変化してきたように思います。以前は家からそのまま飛び出してきたという姿、例えばちょっとだけ家事の手を止めて出てきたエプロン姿のような家族連れもよく見かけたのですが、今回は観光客も多い地点でもあったからか、あまり見かけませんでした。街中に長く居住する家々が多く残る京都らしい光景としてとても好きなのですが。

 いつの頃からか主催の新聞社の提供する応援の旗が配られなくなりました。コースと出場チーム一覧の入ったチラシは引き続き配られていますが、経費なのか、終わった後の処理という問題か、旗を振って声をからしてという応援風景はもはや見られなくなっています。

 マニアックなことを書いてしまったようですが、最後に思い出話をひとつ、ふたつ。
 ある年、私たちの近くで選手の「姓」を大声で呼び捨てて、例えば「○○行けー」というように応援する男性がいました。私たちはきっとあるチームの関係者(先輩、親・親戚など)にちがいないと思っていたのですが、多くのチームの選手の「姓」を呼んで声援を送っているのです。えっ、こんな人もいるのかと、思わず、おかしさがこみあげて、家人と顔を合わせて笑ってしまいました。その後、この方やチーム関係者以外のこんな方に出会いませんので、謎は謎のまま残っています。
 記録によると2006年の大会、今年選手を引退した小林悠起子さん(小野市出身、当時須磨学園3年)が2区を快走した後、私たちがうろついていたコープマーケットの駐車場の一角に敷いたマットのところに付き添いのチームメートとともにやってきました。思わず近寄り写真を撮らせてもらっていいですかなどとと聞いたのですが、レース直後なのでと断られました。マナー違反もいいところですが、なつなしい記憶として残っています。

◈美意識という気配ーHiFi Cafeー
 今年も終わりだの気分で、三月書房に立ち寄った後、コーヒーでもと寺町通の一本東、細い新烏丸通の「HiFi Cafe」に初めて入りました。
 町家をあまりいじらないで改装した店には靴を脱いで上がります。私にとってはあっという畳敷き空間が広がっていました。上がりの間を入れて三間続きの空間は、よく掃除が行き届き、豪華、豪奢ではないが、店主の美意識を感じないではおれないものでした。写真を見ていただいてもわかると思いますが、レコードのジャケットがキーディスプレーとなった空間です。こんな窮屈でなく、気分がゆったりする空間を演出する店主の美意識の在り処をのぞいてみたくなりました。
 「二人分で15分ほど時間をいただくのですが、新幹線の時間など大丈夫でしょうか」と尋ねられて驚きました。自家焙煎した豆をネルドリップで入れるから時間がかかるという意味なのでした。いえいえゆっくりで問題なしと入れてもらったコーヒーは、深煎りなのに柔らかい口当たりでおいしいものでした。
 大阪出身、横浜で働き、数年前に京都へやってきて、この町家を隣の大家さんから借りているという店主の物腰も柔らかな感じで、当然ですが、文は人なり、この空間との強いシンクロを感じました。音楽はカルロス・アギーレ(アルゼンチン出身)の静かだが強靭さを感じさせるもので、ゆったり陶然としたひとときを過ごすことができました。
 今回の京都行で、このカフェが最も心に残った場所になったと、二人とも感じました。
 ちょっとそこまでと京都に出かけられる際には、この空間に浸ってみることをお奨めします。


 こんな空間が広がっていました

 レコードのジャケットがこの空間の印象を決めています

 ここから靴を脱いで上がります

 こんなさりげない看板がひとつ









  





 
  













 


 

2015.11.12 Thursday

ラグビーのこと

 ラグビーW杯が終わりました。
 今年3月でフルタイムの仕事から離れたこともあって、夜中の衛星中継をほぼ毎回リアルタイムでみることができました。かたいソファーに頭をあずけての長時間観戦のためでしょうか、今はまだ虚脱感のようなものが目の奥や首筋に残っているみたいです。 

 優勝は、順当にニュージーランドとなりましたが、大番狂わせの日本の奮闘もあって、わが国ではラグビーブームらしいのです。サッカー、野球よりもラグビーを好んできた者にとっては、ちょっと身勝手ではないですかと言ってみたくなりますが、とにかく喜ばしいことです。

 ネット配信でみたフランスの通信社の記事が目にとまりました。優勝候補であるニュージーランドチームに帯同して密着取材した記者のものですが(記者仲間からは最も羨ましがられる仕事みたいです)、20年ほど前のフランスチームに帯同したことがあるようで、このときと比較しています。一言でいえば、プロ化の進展とチームの管理体制の強化について、なかば仕方がないとは思いつつも、昔をなつかしんでいる気配がにじみ出ています。
 20年前、選手たちは同じホテルの記者の部屋まで入ってきて、いっしょにタバコを喫い、ワインを飲み、そして話していたというのです(もちろんサッカーのトップチームだったら当時でもそんなことはできなくなっていたのですが)。今や、ラグビーでも、そんなことは想定外もいいところになってしまったようです。選手の周りをスタッフが厳重に取り囲み、選手の体調管理、スケジュール管理がいわば分刻みとなり、当然、取材がしたくともチーム広報が管理しており、フリーに選手に近づくことさえ容易ではないとのことです。もちろん自己管理の徹底とかいうものも表裏一体になっていることでしょうが。
 年を重ねた記者が昔は牧歌的でよかったいう記事を書いたにすぎないかもしれませんが、現代のかかえる問題が透けて見える気がします。もちろん取材側との合意の上で設定されたということになるのでしょうが、記者会見はどちらかといえば一方通行の場にしかならないことも多く、よほどのことがないかぎり、会見する側のイニシアティブが貫徹してしまいます。
 したがって、生の声、肉声というところからはほど遠く、たとえそうであっても記者とのやりとりから、本当のこと、複雑にして重層的な容貌としてあらわれる真実に近づいていくことはなかなか難しくなっているのが現在です。
 こうした現象、いわばスマートに管理された状況下で生じるディスコミュニケーションという現象は、スポーツの現場だけでなく、政治をはじめ、あらゆる分野に共通しているように思います。本来ディスコミュニケーションこそ、コミュニケーションの成立にとって重要な契機となるものだと理解しますが、その契機さえ遮断されているのが、現代のスマートにみえる管理が孕んでいる問題なのでしょう。

 だいぶ長くなってしまいますが、徳永進さんが学生時代に鶴見俊輔さんのコミュニケーション論のゼミにもぐりこんで、ゼミの最後に鶴見さんの語ったことをまとめているので、再引用しておきます。

「コミュニケーションって、AからBへ、BからAへ伝達すること、ではないんです。AがBへ伝えたことをBが受けとめて、はてと考え、考え込み、考え深め、考え直し、それをAに返す。するとAははて、と考え、考え深め、そうかあ、あっ、まてよ、なぜなんだろうと新たな疑問にぶつかり、それをBに投げ返す。問われたBは思いついた新しい考えをAへ。Aは別の新しい考えをBへ。それぞれが紆余曲折を経て、いつの間にかAはAダッシュにBはBダッシュに変わる(ダッシュの文字が見つかりませんでした)。変わるということがコミュニケーションの大切なところですね。」 
 
(『図書』2015年10月号 徳永進「<コミュニケーション>と<ディスコミュニケーション>」)

 書き写していて、とても身につまされてしまいました。

 

 2014.1.19   神戸製鋼スティーラーズ対東芝ブレイブルーパス(現ノエビアスタジアム神戸)

 なんだか話がそれてしまいました。
 ラグビーにもどりましょう。30歳台、40歳台のことがほんとに恥ずかしいほど断片的な記憶でしかないのですが、ラグビーの試合観戦に、今のノエビアスタジアムの前身である球技場やユニバ陸上競技場に子どもたちをつれて出かけたというのが残る記憶の断片のひとつです。
 もちろん神戸製鋼スティラーズの試合です。社会人ラクビーと呼ばれていました。林、大八木、平尾がいて、私の好きな綾城というフルバックもいました。日本選手権7連覇(1988〜1994年度)が始まる前後という頃、たった3、4回だけのことだったと思います。特に和田岬の球技場はスタンドがグランドに近くて、キックされた楕円級のボールがすぐそばに跳んできたことを覚えています。タッチライン際でぶつかる林や大八木のからだからズシン、ドスンという音がして(もちろん相手選手があっての音です)、びっくりしたものです。
 その頃も大きかったことは大きかったが、今のプロ化した選手たちのからだとはまったく別物のように見えます。ジャージの違いもありますが、トレーニング方法が進化し、プロ化した現在はそれにあてる時間も増えたのでしょう。当時のバックスの選手は、平尾にしても細く見えましたし、逆にフォワード第一列の選手はもっとアンコ型だったと思います。フォワード、バックスの区別がないように激しく動く今のワールドカップのレベルだと、サイボーグのような身体でないともたないのでしょう。
 こちらもひと昔前はもっと人間的だったみたいな昔話になってしまいました。とうにオーバーサーティーの子どもたちの記憶とあわせ、なつかしい思い出です。

 つい先日、ウォーキング経路の大中遺跡公園で、ゴム製の楕円球を蹴ってあそんでいる中学生たちを見かけました。これまでサッカーボールしか見たことがありませんので、初めてのことです。
 神戸製鋼が最後に日本選手権優勝(1995年1月15日)をはたした翌々日の朝早く、阪神・淡路大震災がおこりました。
 ラグビーはとてもいいスポーツと思いますが、なつかしい思い出にしてしまうことができない記憶のそばにあるのが私にとってのラグビーです。 
 
 
 
 






 
プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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