2019.08.15 Thursday

トラムに乗ってー旅の写真からー

 先日、4K・8K放送のPRを兼ねてということでしょうか、NHKの地上波で『8Kヨーロッパ・トラム紀行「チェコ・プラハ」』が放送されました。わが家のオールドテレビでは、色合いを少し薄く感じましたが、映像の精細さは一段階レベルアップしたようでした。

 6年前の夏、プラハの街で路面電車のトラムに乗っていた記憶がよみがえりました。番組に登場していたトラムの系統には乗っていないように思いますが、見覚えのある街並みが登場したりして、私たちをなつかしい気持ちに連れてってくれたのです。

 

 ゆっくりと本を読む気力を萎えさせる猛暑を言い訳に、これまでの海外への旅の中から、トラムの写真をピックアップしておこうと思い立ちました。

 私はトラム、鉄道のファンではありませんが、外国語不通の私にとっては地下鉄やバスよりも利用しやすく、街や地元民の様子も見やすく感じやすいトラムが好きなのです。その速度感や開放性において楽しく優れた乗り物です。もちろん旧型・新型の車両が並んでいたら、旧型に乗ります。どこかで昭和40年代に次々と消えていった京都の市電を引きずっているのかもしれません。

 旅行中にトラムをよく利用して印象深かった3都市、すなわち2010年(平成22年)の香港、そして2013年(平成25年)7月のプラハ、同年12月のリスボンのトラムについて紹介することにします。といっても、撮影して残っていた写真からチョイスして並べるだけです。唯一渡航4回と多いイタリアは、最初のミラノではトラムがあったものの乗れず終いでしたし、ローマではほんの数分だけ乗っただけでそもそも写真を撮っていなくて紹介できないのです。

 香港は宿泊したホテルがトラムに至近の場所だったことが大きかったみたいです。そしてプラハとリスボンは、ツアーの最終地点で、いわゆる延泊によってそれぞれ3日間余分にフリーで滞在できたからです。家人の足膝に問題があったこともあって、どこかに行くために乗るというだけでなく、乗るために乗る、乗って楽しむために乗る、観光施設としてのトラムという感覚でした。

 なお、プラハとリスボンへの旅の記憶は、当ブログではそれぞれ<キュビズム建築>(「ここにしか存在しないとはープラハのキュビズム建築ー」)と<アズレージョ>(「アズレージョの記憶にープラハからリスボンへー」)をテーマとしてアップしています。

 

🔹あの自転車男の激走にー香港ー

 香港のトラムは、なんといっても2階建て車両であることが特徴です。今や、2階建て車両での運行は、世界で3都市にしか残っていないとのことですが、その一つです。

 香港島の北側、金鐘(アドミラルティ)、高層ホテルから長大なエスカレーターを使って降りたところに、東西メーンストリートがあってトラムの駅と直結していました。初めて広告塔みたいな車両に乗り込んで2階へ上がろうとしたときの緊張を覚えています。とにかく私でも狭くて、手すりを離さずに慎重に上りました。進行方向への最前列が空いていたので、そこに座りました。

 9月の暑い香港でしたが、窓が解放されていて、風が通り抜けていて、意外と過ごしやすいのです。

 

 香港らしいといえばそうなのですが、度肝を抜かれたのは、鈴なりの室外機がむきだしになった雑居ビルです。あれから9年、あのエネルギッシュさに驚いた雑居ビルの今は、どうなっているでしょうか。

 そうこうするうちに、ガイドブックで読んでいた北角(ノースポイント)のループ線へと90度曲がると、えぇーという光景です。チュンヨン・ストリートという市場なのでしょうか、その真ん中をトラムはゆっくりと進みます。やってくるトラムなど関係ないといわんがばかりに路線内を歩いたり商売していたりする人びとを、トラム上の私たちはハラハラして眺めているほかありませんでした。ここにループ線を設ける前から、この市場通りがあったのでしょうか。そうだとしたら、見事な演出だと申し上げるほかなさそうです。

  ホテルからエスカレーターで下ったところがトラムの駅でした(金鐘) [2010.9.18撮影]

  車体は白、赤、黄、青、緑など多色で、これは赤のトラムです

  メーンストリートに向けて室外機がむき出しになった雑居ビルです

  北角ループ線のチュンヨン・ストリートでこの軌道をトラムが走ります

 この北角(ノースポイント)で、西行きに乗り換えて、来た道をたどるように進んでいくと、目を疑いました。ちょうど軌道の真ん中に自転車に大きな荷物を積んだ男があらわれ、トラムのすぐ前を走っているのです。路上駐車の多い車道よりも走りやすいということなのか、それにしても豪胆なことだとヤキモキドキドキさせられます。トラムに追いつかれそうになると速度をアップして全力疾走なのです。振り向きもしなかったようだけれど、背中でトラムの視線を感じていたのでしょう。この間、3、4分はあったかと思います。目的地に近づいたのか、右方向へ曲がってくれたときにはほっとしました。

 どの都市のトラムでもそうなのですが、時間帯によって、地元客と観光客の割合が変化します。この写真のケースは、午前中だったので地元客が多かったように見えましたが、午後になると、グーンと観光客が増えてきます。もちろん1階より2階の方が人気があって、観光客は当然のことですが、新聞を読む地元客も2階へ上がります。

 いろんな車体がありそうでしたが、何回か乗った私たちのシートの座面は、すべて木製だったと思います。何せ軌道が狭く、カーブなどの揺れは大きく、ブレーキの音も響きますが、気楽に乗っている私たちには、それもまた遊園地気分というわけです。そう思えば、先の自転車男もジェットコースターのようにスリリングな一幕をプレゼントしてくれたのかもしれません。

  トラムの前方を全力疾走する自転車男です

  2階席でゆっくりと新聞を読む女性です

  木製シートの2階席には風が通り抜けます

  白と青のトラムが手を伸ばせば届く狭さですれちがっています

 トラムとともに香港を楽しませてもらった乗り物、、ピークトラムというケーブルカーとスターフェリーの写真も載せておくことにします。

 それにしても、ああ香港という感深しです。この2日間、香港国際空港の様子が報道されています。遊園地気分でメモしているときに書くことではないかもしれませんが、一国二制度の虚構と実体が露呈しています。当時、私たちを案内してくれた観光タクシーの方は、兄を頼ってであったか、台湾から移住してきたとの話でした。どんな背景があったことでしょう。

 国家という人為的形態がグローバル化という前で、さらに柔軟性を失いソリッドになっていくこと、そのことが今の世界の現実の一つです。そして、前ブログの「民主主義の後退」という事態が世界各地で現象しているのも、幅広く考えれば、その噴出だと捉えることもできそうです。

 香港の人びとに平穏がもどることを祈ることしかできせん。

  ビクトリア・ピークからは高層ビル群の広がる光景が見渡せます [2010.9.17撮影]

  白い屋根に緑のツートンというピークトラムの車体です

  白と緑の船体、中環と尖沙咀を結ぶスターフェリーです [2010.9.19撮影]

 

🔹夏の光のヴォルタヴァ川にープラハー

 7月半ばだというのに、中欧ヨーロッパの冷涼さを感じた旅でもありました。ブダペスト2泊、ウィーン2泊、そしてプラハへという朝、ツアーバスに乗り込もうとして、ツアー仲間は異句同音に「寒い寒い」と薄いコートを羽織っている方も多くありました。プラハでは延泊3日を含めて5泊したのですが、その間、次第に夏らしさがもどっていきました。

 プラハのトラムは、地下鉄もありますが、この大都市の交通の中心です。総延長140辧34系統、あまり比較データはありませんが、堂々たるネットワークです。元々は中心市街地に居住する市民が、周辺の工業団地など働く場所へ移動するための手段として建設されたもののようですが、今は、どうでしょう、逆になっているのかもしれません。なお、リスボンも同じですが、1870年代に馬車鉄道として開業し、いずれも20世紀前後に電気運転となっています。

 香港とリスボンとの違いは、複数車両が連結されて運行しているところです。両都市に比べて、軌間が幅広く、走行の速度も少し速めですが、安定しているように感じました。

 

 延泊の1日目からトラムを利用しました。私には大通りと呼びたくなるヴァーツラフ広場の突きあたり、地下鉄A線とB線がムーステク駅で交差するナームニエスティというのでしょうか、この新市街地の中心地が大ターミナルとなって、トラムは四方八方に伸びています。新市街地といっても、他の都市では旧市街地に匹敵する歴史をもっているのです(それだけプラハの旧市街地はさらに古いということなのです)。

 よくわからないいまま、行けるところまでといってみようよと何回かトラムを利用しました。何せ野外建築博物館と呼ばれる街ですし、歩かないので足も痛くなりませんから、家人も賛成です。

 

 先日のテレビ放送をみていて、家人がまず思い出として話したのは、トラムの車内で笑顔を交わした母子が途中の駅で降車して、その赤ん坊が、窓越しの家人に向かって手をふってくれたことでした。こんなことをこれまで経験しなかったかなあと思いますが、彼女にとってよほど印象深い出来事だったのでしょう。ちょっと聖母子像のようでもあったのです。

 このトラムを少々殺風景な折り返し点まで乗って、引き返してくるタイミングであったかと思うのですが、私の方は、前日の教会での観光客向けコンサートで、リードバイオリンを弾いていた男性(すばらしいバイオリニストだと感じて記憶に残りました)が、トラムからホームに降りたとき、その姿を、窓越しにしっかりとこの目で確認したのです。黒のバックパックというラフなスタイルでしたが、手にはバリオリンケースを下げていたので見間違いではないでしょう。世間は狭いよということか、こんな不思議な遭遇に驚きました。

 音楽の都プラハでは、1989年のビロード革命の後でも、こんなレベルのバイオリストがあまり音楽を聴こうとしない観光客を相手に演奏して苦労しているのだという、勝手な妄想的ストーリーを思い浮かべてしまったものでした。

  朝早くからプラハの街を赤・白ツートンのトラムが走っています [2013.7.12撮影]

  マサリク駅へ向かって直角にカーブを回っているトラムです

  新市街地の中心、ナームニエスティのターミナルです [2013.7.14撮影]

  家人に手を振ってくれた母と子です 

 プラハの中心には、ヴォルタヴァ川があります。川があると橋があります。

 トラムに乗り、ヴォルタヴァ川河岸を南下して、もしかうまくいけばぐらいの気持ちでいたら、<キュビズム建築>を、外からだけですが見学することもできました。キュビズムという絵画、彫刻の世界で新潮流となったムーブメントを、建築分野においても実現したのは、プラハだけなのです。もとより1910年代の短期間のことでしたが、当時のプラハは先端的な芸術文化都市でもあったのです。

 ひょんなことからキュビズム建築のことを事前に知っていたので、これがそうかふむふむと眺めることができました。だが、予備知識がなくては、自分の眼でキュビズム建築を発見することは、私には無理でしょう。第一にこれだけ分散して少数だけ残っている場合は、なおさらのことです。

 夏の光に満ちたヴォルタヴァ川は、美しく輝いていました。最大の観光名所といっていい15世紀初頭の完成だというカレル橋は、朝早くガランとした橋上では結婚写真の前撮りなどがのんびりと行われたりしていましたが、午後にはすし詰めのようなラッシュアワー状態になっていました。

 でも、ほんの1か月前に、大雨でヴォルタヴァ川の水位が急上昇し、水辺のカンパ・ミュージアムには大量の土砂が流れこんだそうで、くっきりとその跡が残っていました。ミュージアム内では復興のための支援金を募っていたようです(言語不案内なので)。

  キュビズム建築の残るヴィシェラド地区を新型車両が走ります [2013.7.14撮影]

  前記辺りからヴォルタヴァ川の上流に向かって広がる風景です(遠くにはプラハ城) 

  前月の洪水で美術館内に大量に流れ込んだ土砂を撮影した写真が掲示されていました  

                                    [2013.7.13撮影]

  マーネス橋上のトラムから撮った下流の風景です(遠くの橋はカレル橋) [2013.7.14撮影]                   

 旧市街、新市街中心のトラムには、やはり観光客も多いようでしたが、全体としては、トラムそのものを楽しむ人は多くないのでしょう。輸送力の高いことからも、市民の足としての機能性と合理性が備わっていると、プラハのトラムからは感じました。

 白と赤のツートンカラーである旧型の車体は、ウィーンの車体も似ていて、乾いた夏の空気のなかで、フォルムの美しさを楽しませてくれました。それは旧市街、新市街の博物館級の建築物ともフィットしています。新型車両の方は、その現代的デザインが不協和音的な面白さがあるといえそうであり、これはこれでなかなかだと申し上げていいのでしょうが、やっぱり旧型かなと、旧型の人間は思ってしまいます。

  車内空間は香港とリスボンよりゆったりしています [2013.7.14撮影]

  新市街を走行するベーシックなトラムです [2013.7.15撮影]

 この旅の前半に立ち寄ったブダペストとウィーンのトラムの写真をアップしておきます。

 両都市の中心といっていい場所、すなわちブダペストはドナウ川に沿って、ウィーンの方はリンクに沿って、それぞれ走っている姿です。当たり前のことですが、ウィーン、ブダペスト、プラハと、かつて、といっても100年前の第一次世界大戦頃まで続いていたのですが、同じハプスブルグ家の支配下にあった大帝国の古都としての雰囲気がそれぞれに残っていたと申し上げていいでしょう。

 午後8時になってもまだまだ明るい中欧ヨーロッパの夏、この三都市のトラムは街に根づいていました。

  夏の遅い夕刻にブダペストのドナウ川沿いを走行するトラムです [2013.7.7撮影]

  ウィーンのリンクに沿って走行するトラムです [2013.7.9撮影]

 

🔹アルファマ地区の急坂ーリスボンー

 「ケーブルカーと市電に揺られてふらふらしていました、だからなのか、素朴でゆったりとした人懐っこい雰囲気の街でしたよ」、リスボンはどんなところかと聞かれたら、こう答えると、前掲のブログ(「アズレージョの記憶にープラハからリスボンへー」)に書いています。そして、市電=トラムについて、「急な坂が多く、しかも狭くカーブのきつい道を走っている」場所も多くあって、「レールの湾曲が大きく連続するところでは、木を用いた古い車体が相乗し、本当にギーと音を立てつつ文字通り「揺れる」のです」と描いています。

 リスボンのトラムは、地下鉄の整備やバス代替の進行などによって、最盛期よりもグーンと縮小しており、路線数が5系統と、プラハに比べ、小規模なものです。もちろん市民の足でもありますが、どちらかといえば、観光資源化しているのではないかと、今から6年前ですが、観光客である私には感じられたのです。リスボンのトラムのために申し添えるとすれば、世界遺産であるジェロニモス修道院のあるベレン行きは新型車両の連接車で、他の単体運行の旧型車体のトラムより高速運転されています。

 車体は黄色と白色のツートンで、ブダペストと同じカラーリングです。軌間は900个函▲廛薀呂呂發箸茲蝓香港よりもさらに狭く、これを反映してか、車体は、ごく小柄という印象なのです。一見、むかしのミニュチュア・モデルのようで、なつかしいとか、かわいいとか、レトロとか、そんな表現がぴったりきます。観光的に最も有名な路線は、28系統で、リスボンの街を東西に貫くように、マルティン・モニスという東の丘の上から、サンジェスタ城の周囲の坂道を周るように下り、テージョ川近くの中心市街地を西進し、ふたたび坂道を上りながら、西のエストレーラかカンポ・デ・オウリケまで運行されています。観光専用貸切車両も走ったりしているようでした。

 ツアーの最終日である12月25日のクリスマスの午後、ツアーでご一緒だった10人ほどの方を先導するみたいな役目をうけたまわり(延泊のためにリスボンのことを少し勉強していたというのにすぎませんが)、ケーブルカー3ヵ所と、このトラム28番とを、一気に乗りまわしたのです。で、道に迷い、みなさんにご迷惑もかけてしまったりしたのですが、これで得た予備知識が延泊時に役に立つという皮肉なことになりました。

 オフシーズンの12月でしたが、クリスマス休暇の関係もあって、トラム28番の小さな車体はギューギュー満員でギシギシと音を立てて走ったのです。

  テージョ川に面するコメルシオ広場辺りでトラムが顔を覗かせました [2013.12.27撮影]

  前記と同じバイシャ地区を走行するトラム28番です

  ツアー一行のみなさんと乗った満員のトラム28番です [2013.12.25撮影]

 帰国の前日、延泊3日目、ガイドブックで「アルファマ泥棒市」が開かれることを知り(火・土曜の週2日)、トラムの中心ターミナルであるフィゲイラ広場から、12系統に乗って東の方、アルファマの丘の上にあるサンタ・クララの蚤の市をめざしました。ゆっくりと座れるくらいの車内です。

 少し走ると、急な狭い坂道が始まり、カテドラル=大聖堂の脇を抜けてさらに上っていくと、サンタ・ルジア展望台があります。私の視力だと対岸がはっきりしないくらいに広いテージョ川の眺望がひらけています。湾なんだと言われても区別がつかないくらいで、日本にこういう河口付近をもつ河川があるのでしょうか。もうすぐ泥棒市の最寄駅です。

 トラムを降車して徒歩3分、「泥棒市」はにぎわっていました。まあ骨董市のようなものですが、何でもありというような品ぞろえです。大勢の客が丘の下の方からトラムとは別ルートで上ってきていて、途中まで車を使っているようなのですが、どこに駐車しているのかはわからないままでした。

  ターミナルであるフィゲイラ広場を走行するトラムです [2013.12.28撮影]

  トラム12番に乗ってアルファマ地区の泥棒市をめざします

  坂道の途中にあるサンタ・ルジア展望台からはテージョ川がのぞめます

 泥棒市からの帰り、ここまで来たらサンジェスタ城にまであと少しですが、家人の負担も考えて、トラム28番に乗って、ツアー一行と途中までしか行けなかった西の終点まで行ってみることにしました。

 前回のクリスマス時とちがい、28番に乗りこむと、何とか座ることができました。アルファマの坂道は、せいぜい二本のトラム軌道+αぐらいの幅員しかありません。私たちの乗るトラムが下りはじめると、上りの軌道を使って、スポーツバイクの男が体をゆすって、トラムぎりぎりに急坂を上ってきます。このスピード感は上りのトラムでは追いつけないでしょう。これだけで幅一杯の上り軌道に自動車が入ってきても、慣れているのでしょう、あわてることなく懸命に上ってゆきました。

 バイシャ地区の市街地まで降りてくると、トラムのホームは鈴なりの観光客ではみ出しそうです。やっぱりトラムはすごい人気です。次のトラムにということで停車せずに素通りしました。これでは途中での乗り降りはやはり無理だと、終点のエストレーラ大聖堂のところまで行って、折り返しの28番を待ってもどってきたのです。

 こんな古いタイプのトラムの魅力とはなんでしょう。私には知らない世界ですが、ビンテージカーに乗っているような魅力に近いかもしれません。車体の色やデザインに対する愛着とともに、懸命に走っていることを直に体感する「音」や「揺れ」というものでしょうか。とりわけ観光客にとっては、子供にとっての遊園地の乗り物のようで、知らない街、知らない世界への扉を開ける玉手箱として、いつもワクワク感がすぐそばにあります。

  下りトラム28番の車内から上ってくるスーツバイクの男を撮影しました

  昼過ぎになると、すれ違った上りトラムは満員です

  エストレーラ大聖堂付近の西の終点から東行きに乗り換えます

 ツアー一行のみなさんといっしょにケーブルカーの急停車騒動(急停止により30分ほど車内で待機し、別の車両に移動しました)に巻き込まれましたが、そんなピッカ線の写真をアップしておきます。ピッカ線は、下っていった先にテージョ川の景観が広がっているのですが、この写真ではよくわかりません。

 市内3ヵ所のケーブルカーは、わが国でのイメージとちがい、丘の街リスボンの市街地において高地と低地を結ぶ大きなエレベーターのようなものです(そういえばサンジェスタのエレベーターもありました)。

 リスボンの前に2泊したポルトからも、写真をアップしておきます。ポルトにもトラムがあったのですが、乗ることができなかったので、替わりにドン・ルイス1世橋の上を走るトラムならぬメトロの写真です。でも、橋上の歩行路を歩く者にとってはその走行音が聞こえないくらいで、それはそれは危険を感じました。

 トラムではありませんが、マイ絶景ということで載せておくことにします。

  ツアーのみなさんと急停止したままのピッカ線のケーブルカーを別の車両に

  乗り換えています                   [2013.12.25撮影]

  ポルト、ドン・ルイス1世橋の上をメトロが走行しています [2013.12.23撮影]

  ドン・ルイス1世橋の歩道の脇をメトロが音もなく走り抜けます

 

🔹おわりに

 今回取り上げた3つの都市、その街の記憶は、トラムと密接に結びついていることを再確認することになりました。それは、その街とトラムの結びつきの深さを示しているといえます。加えて、私たちのような楽しみ方をされる方も多いかと想像しますが、移動手段として乗るのではなく、乗るために乗る、乗って楽しむために乗るという利用の仕方をしているからなのでしょう。

 だから、トラムの記憶は、街の記憶となっています。

 

 2009年の退職後、職場旅行以外で初めて海外旅行を経験し、すっかり病みつきとなりというよくあるケースだったのだと思います。

 今から振りかえると、2013年にヨーロッパへ2度も出かけたのは、ちょうど2回目の退職と1ヵ月のインターバルということもありますが、やはり前年の私の手術が後押ししたのでしょう。

 ポルトガル旅行の写真ファイルの最後に、「「行けるときに行っとき」「行けるときに行っておこう」ありがとうの旅でした」というメモを残していました。当時の偽らざる心境だったのでしょう。

 

 最初のイタリア旅行から10年、早いものだと申し上げるしかありません。最後の海外旅行であるシチリア・ナポリの旅から3年余、私たち二人のパスポートは切れたままになっています。

 2015年11月に開始した当ブログは旅の記録を目的としていたわけではありませんが、その年の5月に2度目に訪れたヴェネツィアを言葉にしてみようというのが一つのテーマではありました。

 今日はお盆、そういえば両親は海外旅行などしていないままだったなあと思い出したりします。まあそれが時代というものではあると言い訳しておくしかありません。

 今後の見通しなど何もありません。だんだんと能天気な願いなどしにくくなってきますが、できたらもう一度は出かけてみたいと願っている<今日この頃>ではあります。

 

2019.06.29 Saturday

坂と丘と谷の街ー東京への小さな旅でー(2・完)

 久しぶりに仕事をしたような気持ちになりました。地域活動の関係で県や市の補助事業に応募するための作業をしていたのです。元地方公務員だからなのか、依頼があって引き受けたのですが、実際の補助申請業務を担当した経験がなかったこともあって、ごく少額の補助といえども、ずいぶんと手間暇のかかるものでした。思えば、公務員として審査する側で話を聞いたりすることはあっても、応募する側に立ったことはなく、今さらながら、補助申請する側の負担の大きさ、大変さを思い知ったのです。立場が入れ替わって、初めて分かるということの典型ですね。

 完全に仕事から離れて3年余、今の日常では忘れかけている種類の責任感のようなものを意識して作業したことが、久しぶりの仕事気分になった原因なのかなと思っています。私自身は地域のどこにどのような施設や設備があるのかというベーシックな情報さえ無知だったわけで、その意味では、居住する地域のことを知る一歩となりました。

 と、このようなわけで、一応、応募作業も一段落しましたので、10日ぶりに前稿((1))の続きに取りかかることにします。

 

🔹上野(その2)ー時を遡行するように丘のヘリを歩き//不忍池は祝祭空間ー

 3日目、夕刻には東京を離れる日、ふたたび上野公園に足を運びました。友人と東京都美術館で待ち合わせする家人についていったのです。前日は国立西洋美術館だけで終わってしまったこともありますし、私の方は恵比寿の東京都写真美術館に行くことができたらくらいしか予定がなかったこともあって、折角だから、もう一度、上野公園を歩いてみようかとなりました。

 

 この日は、月1回のシルバーディだということで、公園口から出るとすぐに、前日よりさらに人出の多いことに驚いたのです。公園の案内板前の人垣を抜け、前日の国立西洋美術館を右手に、少し奥まった東京都都美術館まではほんの短い距離でした。本日は無料でクリムト展だからなのでしょうか、結構長い行列ができています。入館1時間待ちというような声も聞こえてきます。11時に友人と待ち合わせる家人をベンチに残し、ほなごゆっくりねと、公園の奥へと歩いてみることにしました。

 地図らしい地図はもっていませんでした。こうして本稿を書こうとして地図で確認しているだけの後追いですが、東京国立博物館の手前で左折して旧東京音楽学校の奏楽堂から東京藝術大学の美術学部と音楽学部の間の公道を歩きました。緑も多く、近隣の方もゆっくり歩いていて、いい雰囲気です。

 同大学美術館の前から、家人へ上手く出会えたのかと電話したら、出会えたけれど、あまりの入館待ちなので、別のところにしようかと話していたところだというのです。じゃー東京藝術大学美術館の方は静かで大丈夫だからこちらの方へ来たらと誘いました。数年ぶりの家人と友人は、クリムト展というより「語り合う」ことが大目的です。二人がやってくるのを待ち、音楽学部の正門前で二人の記念写真を撮り終えて、ではまた後でと別れることにしました。

 

 がらりと空気が変わりました。公園の境い目などわかりませんが、大学のキャンパスの切れ目あたり、江戸、明治、大正そして昭和へとDNAが続いてきたような街並みが残っていて、タイムスリップした街角に立ったように思ったのです。

 そのなつかしい四つ角で、左折か右折か、直進かで迷いました。今から思えば、右へ行けば、行ってみたいと思っていた谷中の街中だったようですし、直進すれば、聞いたことのあるような言問通りにすぐに突きあたったはずです。でも、強い日差しのなかを長時間歩く気力もなく、午後には東京都写真美術館まで行ってみようとしていたことも思い出し、上野公園から離れていく方向ではなく、沿っていって山手線をめざすことにしようと、左折を選んだのです。

 こうして、行くあてなど何もないまま、公園のヘリにあたるような道をぶらり歩きすることにしました。

  東京都美術館(見えにくいですが入館待ちの方々が並んでいます) [2019.5.15撮影]

  東京藝術大学音楽学部正門前

  東京藝術大学キャンパスの西四つ角

 先の四つ角から歩き出し、昼食のために入った湯島のとんかつ屋まで、せいぜい歩いていた時間は1時間余りだったと思います。ですから、たったの4、5劼らいの道のりでした。歩行の途中、地下鉄千代田線の根津駅方面という案内板もありましたが、とにかく公園から離れないよう注意してずうっと下っていったら、不忍池の北東端に出ていたという按配でした。

 すぐ近くに護国院という能舞台のある寺がありますが、人っ子ひとりいません。もちろん低層マンション的なコンクリートの建物も多くあるのですが、どこかに歴史を感じさせるような古い家並に溶け込んでいました。「谷中」「根津」そして「池之端」という地名の力も大きかったのかもしれません。これはこれは漱石、鴎外の小説の世界のようだと思っていたら、「鴎外」の文字に出くわしたのです。

 

 そうです、ハイライトは、森鴎外の旧居跡に出会えたことでした。池之端4丁目の電柱の看板に「水月ホテル鴎外荘/森鴎外旧居跡」とあって、途中の交番でも確認したら、まっすぐ道なりだと教えられたのです。

 池之端3丁目の鉄筋コンクリート造のホテルに抱かれるように、つまり館内に、1886(明治19)年築の森鴎外の旧宅はありました。だから、ホテルの中へ入らないと、旧宅は見えないのです(旧宅の門が再現されていることを後から知りましたが)。しばし躊躇のうえで入館すると、着物姿の女性から「いらっしゃませ」の声が飛んできましたが、ちょっととおことわりして写真を一枚撮らせてもらいました。

 こうして後で調べると、鴎外が28歳のときに結婚して最初に住んだのが、当時「上野花園町」が地名であったこの家だということです。鴎外はここで「舞姫」をはじめ、「うたかたの記」「於母影」という初期作品を書いたのだとあります。面白いのは、ホテルは、この旧宅を活用して営業していることで、旧宅の部屋を「舞姫の間」「於母影の間」と名付け、今も宴会場、コンサート会場として使っているのだそうです。

 

 1日目に出会った高校時代の友人は、70歳という年齢に関連しての話しだったと思いますが、夏目漱石(1867-1916)が亡くなったのは49歳だったのだと強調していました。最初の小説『吾輩は猫である』が発表されたのは1905年であり、それから亡くなるまでのごく短い期間であの有名な小説群を書いたというわけです。そんな漱石の凝縮された人生を、私たちがあっと思っていたら70歳になっていたという事実と対比させようとしていたのでしょうか。

 一方、森鴎外(1862-1922)は、漱石より5歳年上で、『舞姫』の発表が1890年ということで小説という点でも先輩であり、しかも漱石より6年あとまで生きていますが、それでも1922年に60歳で亡くなっています。私たちは(他者まで巻き込むのはよくありませんが)、なんという大人になれない、成熟できない時代を生きてきたのでしょうか。

 いずれにしても、藝大から一歩踏み出したときに目の前の街並みから放射されるタイムスリップしたような感覚にとまどいながら、「上野の台地」のヘリを回り込むように、不忍池へとひたすら下っていったのです。もちろん「坂と丘と谷の街」を実感していたことは申し上げるまでもありません。

  「上野ー本物に会えるまち〜台東区〜」の地図部分 台東区役所制作

  森鴎外旧居跡近くの古い建物 今も使われていそうです

  森鴎外旧居跡ー水月ホテル鴎外荘の内部から撮影

 上野駅からこんなに近いところに不忍池が位置することを知りませんでした。歩いてきた私からすると、坂の下、丘の下に思いがけず広い水面の不忍池があったという感じです。

 池のたもとにあった案内板には、先史時代は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた入江であり、その後の海岸線の後退とともに取り残されて池になったと説明されています。不忍池は「坂と丘と谷の街」の谷筋にあたることになります。

 

 上野の台地と不忍池の間に遊歩道があって、ちょっとした広場にもなっています。池の中央には弁天島があって弁天堂があります。その向こうには高層ビルが林立していて、ちょっとアンバランスな魅力といっていい景観です。

 この遊歩道や広場には、テント張りの店がずらりと並んでいて、ちょっとしたバザールとなっていますし、弁天堂とつなぐ橋上の両側に屋台が出て、まるで縁日のお祭りへと導かれる通路であるかのようです。外国人観光客が目立っています。池と反対側の上野の丘には石の鳥居の向こうに五絛天神社がシーンとした空間をつくっていますが、この一角はまるで祝祭的な空間です。

 前稿で2日目の国立西洋美術館のあるあたりとJR上野駅正面玄関の周辺とを、いわば丘の上と下を、聖と俗として対比しましたが、この日も歩いて下ってくると、聖から俗へ移動したという印象が強く残りました。

 

 そもそも、この広い遊歩道は、1884年に競馬場をつくるために、もっと広かった池の一部を埋め立てたときに走路として整備されたものなのだそうです。1892年までの短い期間ですが、春と秋に不忍池を周回する形で競馬が行われていたとあります。森鴎外が池之端のあの旧宅を住まいとしていたときに、ちょうど競馬場として使われていたのですね(鴎外は後年の1911~15年に連載された小説『雁』で不忍池を登場させています)。

 第二次大戦中には、この1m以下の水深しかない不忍池は、食糧増産のために水田(不忍田圃)として利用されていました。その跡地を野球場にするとのプランもあったそうですが、1949年に池のまま保存することになったのです。

 もう一つ目立っていたのは、やはり蓮です。江戸からあったのは確からしく、1677年に出版された「江戸雀」という本に不忍池の蓮が読み込まれた和歌(「涼しやと池の蓮を見かへりて/誰かは跡をしのばずの池」)が載っていると説明がありました。5月中旬ではまだこれからという状態でしたが、蓮の新緑(こんな珍妙な言い方はないでしょうか)を楽しむことができました。

  不忍池の西側の遊歩道と広場

  五絛天神社の鳥居

  不忍池の弁当堂と不忍通りの向こう側に立つ高層ビル 

  不忍池の南側からの蓮池風景

  蓮の新緑?

 不忍池の西南、野外ステージまでやってくると、12時半頃になっていたでしょうか。さてどうしようかと案内サインを探すと、湯島という地名がありました。ここからは上野駅より御徒町駅の方が近いようだと推測し、春日通りを御徒町方面へ向かいつつ、何本かの南北の路地を行ったり来たりしながら、蕎麦屋でもないかと昼食場所を探しました。

 そうこうするうち、それらしいのれんが下がった店を見つけました。蕎麦屋かもと近づくと、とんかつ屋です。湯島天神下「蘭亭ぽん多」とあります(「ぽん多」という超有名店とは別店です)。前日に続く「とんかつ」にちょっと逡巡もありましたが、それより日射による疲労が背中を押しました。江戸弁の歯切れの良さと高飛車の境い目のような言葉使いの店主でしたが、とにかくランチというとんかつ定食を頼みました。

 ああ面白いと思ったのは、「当店、とんかつは低温で(百度)揚げます」、だから「少し時間がかかりますのでお急ぎの方はご予約下さい」という手書きのちらしが主人敬白・押印でぶら下がっていたことです。赤字の(百度)はそのままです。ホントに出てきたとんかつの衣は、茶色ではなくごく薄い茶色で、今までにない触感でした。肉部分もピンク色だけれど火が十分に通っていて、最近はやりの低温調理のようでした。ランチといえども、前日の倍額はするのですから、もっと期待してしまいましたが、まあ私の舌はこんなものでしょう。

 上野広小路と春日通りの交差点から、北の方には「上野のお山」の緑をのぞむことができました。上野界隈は、聖も俗も、もっとゆっくり長く歩いてみたい街でした。

  とんかつ屋「蘭亭ぽん多」ののれん

  上野広小路と春日通りの交差点 緑は上野の丘

 

🔹広尾・恵比寿ー南部坂の消失点へ//24年目の誘惑と場所をめぐる物語ー

 東京へ着いて最初に向かったのは広尾でした。

 ホテルから出たのが午後1時半頃かと思います。今回の東京行の主目的である高校時代の友人たちとの待ち合わせは、京王線府中駅の4時半で、まだ3時間あるから余裕十分と踏んだのです。

 地下鉄大江戸線の都庁前から六本木まで行き、そして日比谷線に乗り換えて広尾まで一駅だからと思っていたのです。最初から、大いなるミステークでした。ホテルの部屋から都庁前駅のホームまで10分はかかりますし、とにかく六本木駅での地下鉄の乗り換えには何回となく折れ曲がる長距離歩行と大深度の高低差移動が避けられず、これに要する時間にまいりました。ほんの30分程度であろうとの予測がはずれ、全体で50分近くかかってしまいました。

 結局、広尾から新宿に戻り、初めての京王線への乗り換え時間を加味すると、広尾での滞在は1時間もなくなってしまったのです。

  地下鉄六本木駅の構内図

 長い前置きになりました。こんな隙間のような時間を使って広尾へ寄ろうとしたのは、当ブログに書いたことがありますが(「再聴・歌と出会うージューン・クリスティー」「築地の魚河岸ー昭和の終わり「小説・TV・写真集」ー」)、1986(昭61)年10月から翌87(昭62)年3月の半年間ほど、南麻布4丁目の学校施設で研修を受けつつ敷地内の寮で暮らしたことがあるからです。33年ほど前、私は37歳でした。

 有栖川公園(正式名称は「有栖川宮記念公園」)の東、南部坂を上り切った当時の自治省の地方公務員研修機関である自治大学校の施設は、今は何の跡形もありません。平成15年に立川の方へ移転したのです。よく歩いていたところを、たとえば麻生十番へ向かう坂道を、あの頃のように歩いてみたいということもありますが、私はその不在というか、その消失を確かめておきたかったということになるでしょうか。

 まあバカバカしいといえばそのとおりですが、もう一つどうしようもないことだけれどという理由もあったといえます。兵庫県からは3人が同時期に研修に来ていたのですが、その一人であるNさんは50代で白血病のために亡くなりました。さらに寮の二人部屋で同室だった北海道のKさんも数年前に亡くなっています。詮方のないこととしかいいようがありませんが、二人の不在を、その姿と声に接していた場所で感じておこうと思ったのです。

 

 エスカレーターもエレベーターもない広尾駅を上がって、すぐに麻布台の方へ向かい、南部坂に並行して西に広がる有栖川公園へ入りました。この麻布台の傾斜をそのまま活かした公園は、私の過ごした昭和の終わり頃とあまり変わっていないようです。こんなにきつい傾斜だったっけと思いながら上っていくと、広場があって有栖川宮の騎馬像があらわれてきます。

 近隣の保育所でしょうか、多国籍の子どもたちが遊んでいます。もう少し進むと、東向きの入り口があって、道路を挟んで自治大学校があったはずですが、当然、今は影も形もありません。すると、自治大学校のあった場所はココだという自信が不安に変わっていることに気づきました。道路を渡って確かめようとしましたが、よくわかりません。どうも今はこの介護付き高齢者用マンションが建っている場所あたりであろうというくらいのことです。

 ことほど左様に、大切であっても、消えてなくなったものの記憶は実にあやふやなものです。そして、言葉を交わしていた人の記憶もやはり淡くなっていきます。私自身は自分のことを感傷的な人間だとは考えていませんが、自分にとって大切であった場所、今は消失しているが存在していた場所へのこだわりから抜けられません。だから、南部坂の頂点へと足を運んだのでしょう。結局、きれいさっぱりでいいのだと思いつつも思いきることもできないのが、私であり、もしかしたら、あなたでもあるのではないでしょうか。

 なつかしのコーヒーも飲まず、新宿へと急ぎました。日比谷線で広尾から一駅、六本木と逆方向の恵比寿まで出て、JR山手線へ乗り換えて戻ったのです。およそ30分くらいだったでしょうか。京王線府中駅4時半待ち合わせには、ギリギリで間に会うことができました。

  有栖川公園の有栖川宮騎馬像  [2019.5.13撮影]

  自治大学校跡?に建つ高齢者用マンション 南部坂を上ったたところ

 さて、戻って3日目の上野、湯島のとんかつ屋をあとにして、JR御徒町駅から山手線に乗って恵比寿駅へやってきました。動く連絡通路であるスカイウォークも使いながら、恵比寿ガーデンプレイスの一角、東京都写真美術館をめざしました。

 必ずと決めていた上野の国立西洋美術館とはちがって、この写真美術館の方は、うまくスケジュールが合えば行きたいと思っていたので、ラッキーという気持ちでした。広大だったであろうサッポロビール工場の跡地を大規模開発してできた恵比寿ガーデンプレイスは、1994年10月に開業し、その翌年の11月に東京都写真美術館がオープンしています。その頃から、出張の機会に一度は立ち寄りたいと思っていましたが、ついに実現できないままでした。阪神淡路大震災の発生した同じ1995年から、開館24年目にして初めて訪れたことになります。

 当時は(自分でカメラを手にすることはなかったが)、著名な写真家の写真、アートの境い目に位置するような写真作品を、絵画より、彫刻より、自分にとって大切で近しいものと思い、芸術表現として、絵画や彫刻に劣らず、重要なものとみるようになっていました。私のように美術館などにあまり足を運ぶことなどできない者、つまり本物に接することのできない者にとって、印刷物としての作品を見る場合は、絵画、彫刻より、写真の方が数等優れている、すなわち元々写真はプリントするものだという性格からもそうなんだと考えていて、このような考え方は、今も変わっていません。たとえば、写真展のカタログは、絵画や彫刻の展覧会の図録と比べると、本物と偽物という区分けは極端な表現だとしても、写真展の方に軍配をあげてしまうということです。

 

 エントランスからしてノックアウトされました。それは大げさですが、入館する前からカッコいいのです。エントランスの右手の独立した壁の三面に、それぞれ1点ずつ掲示された巨大写真が迎えてくれました。ロバート・キャパの「Dディ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸、1944年6月6日」、ロベール・ドアノーの「パリ市庁舎前のキス」(1950)、そして植田正治の「妻のいる風景 A」(1950)です。開館時からこういうエントランスだったのでしょうか。複合施設のビルの一部が美術館になっているマイナスを逆手にとって、通路のようなエントランスの空間を利用したアイディアです。

 特に、ドアノーと植田の作品は、私にとっても、最も心ひかれてきた作品でした。ドアノーのことを当ブログでも取り上げようとしてきてまだ実現できていないのですが、植田正治のことは、鳥取大山の麓にある彼の名前を冠した写真美術館との出会いを中心に書くことができました(「再見・写真と出会うー植田正治ー」)。ふるさと境港で生涯アマチュア写真家を貫いた植田の写真がこんな形で称揚されていて、とてもうれしくなったのです。

 思えば、「写真美術館」の魅力は、1998年7月に鳥取大山の「植田正治写真美術館」(東京都写真美術館と同じ1995年に開館)を訪れて初めて知ることになったのです。同美術館にはもう一度出かけており、大山を懐にいだいた高松伸設計の写真美術館は、私にとって大切な記憶の場所となっています。

 さすがに、ここ恵比寿は、上野の美術館のような人出とは無縁です。「写真」が付く美術館はどのように認知されているのでしょうか。

  東京都写真美術館のエントランス  [2019.5.15撮影]

  東京都写真美術館のエントランス

  エントランスの巨大写真 /田正治「妻のいる風景 A」

  エントランスの巨大写真◆.蹈戞璽襦Ε疋▲痢次屮僖蟷堋舎前のキス」

 ちょうど二つの企画展が開かれていました。ユージン・スミス、奈良原一高、内藤正敏そして山崎博という4人の写真家の収蔵作品を紹介する「場所をめぐる四つの物語」と「宮本隆司 いまだ見えざるところ」です。

 最初にみたユージン・スミスの「カントリー・ドクター」に鷲掴みされました。あとの奈良原の「軍艦島」、内藤の「出羽三山」も記念碑的な組写真ですし、宮本のポートレートも、大変に優れた作品なのにちがいないのですが、最初の一撃にやられてしまい、印象が薄まってしまっています。

 

 1948年、今から70年前のアメリカのコロラド州クレムリング、人口2000人ほどの小さな町のたった一人の医者である32歳のアーネスト・セリアーニの生活と仕事がここにあります。『ライフ』誌の依頼をうけた30歳直前のユージン・スミスは、同世代のセリアーニとすぐに意気投合し、撮影したとあります。そして、同誌に、30数枚の写真を発表したのが「カントリードクター」で、フォト・エッセーの古典的な名作として、こうして今も展覧されています。この写真は善悪の二元論を超えて存在しています。

 一言で語るとしたら、まるでカメラが存在しないように写っている写真だということです。ほとんどが大怪我や手術、臨終近くのシビアな場面ですから、カメラの存在など気にすることなどできなかったともいえますが、やはりスミスとセリアーニの深い信頼関係なくして、この写真は存在していなかったでしょう。もちろん膨大な数の写真の中から選択して残した1枚1枚であることはいうまでもありませんが、スミスはその手間暇をまったくおそれていませんし、彼のフォト・エッセーは撮影行為の前段階なくして成り立たないものだと改めて感じました。

 美術館側が「場所をめぐる四つの物語」というテーマの最初に「カントリードクター」をおいたとおり、コロラドの田舎町という土地、場所の存在なくして、このローカルを深く掘って普遍へと向かう人間の物語は生まれなかったということでしょう。そのような意味では、場所という存在の重さを意識させられたといえますし、たとえば30代の半年間過ごした広尾という場所にこだわった私の意識の底と、比べようはないのですが、場所をめぐる物語として、どこか通じるところがあるのでしょうか。

  「場所をめぐる四つの物語」チラシ表

  『ユージン・スミス写真集』の表紙 「楽園への歩み」1946年

 ひとつ気づいたことがあります。どうでもいいようで、どうでもよくないようでもあります。

 今回のチラシに使われた写真(今回の展示では最後に位置していました)のキャプションは《夜通しで手術を行った後、台所で休むセリアーニ医師、コロラド州クレムリング1948年》とあります。一方、同写真美術館で購入し、今回の東京で唯一の土産だった『ユージン・スミス写真集』(2017年11月刊/クレヴィス)では、同じ写真が《分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師》となっているのです。

 どちらかが正しいのか、あるいは両方とも正しいのか、何か経緯でもあったのか、調べようとしましたが分かりません。キャプションによって、命名によって印象が変わるという事例でしょうか。私自身はセリアーニ医師の深い疲労感と虚ろな眼差しが敗北した男に見えてきてしまい、前者だけでなく後者も正しいのではないかと推測したいのですが、いかがでしょうか。

  「カントリードクター」のチラシ写真の顔部分

  「カントリードクター」の一部

 ユージン・スミス(1918-78)といえば、私たちの世代の者にとって、1970年に水俣に住んで水俣病の患者と家族を取材した写真家として記憶されています。同じ『ライフ』誌に1972年6月「排水管からたれながされる死」を発表したとあります。このミナマタの写真群を、私はこわくて辛くて正視できなかったという情けない記憶があります。このとき結婚して同行したアイリーン・美緒子・スミスは、ユージン・スミスの写真と彼の姿勢を、前掲した写真集に寄せた文章で次のとおり書いています。

 「 彼の中にはアートとジャーナリズムが共存していた。そして一体だっ

  た。アーティストなのか、それともジャーナリストなのかという概念はな

  かった。どちらかを優先するともう一つが弱くなるということではなく、

  両方が一つとして磨かれることにより良い仕事が出来るとしばしば主張し

  ていた。」

 同じく前掲の写真集の冒頭におかれたユージン・スミスの「水俣で写真をとる理由」から、一部を引用しておきます。

 「 写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたまーほんのときたまー

  一枚の写真、あるいはひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことが

  できる。写真を見る人によるところが大きいが、ときには写真が、思考へ

  の触媒となるに充分な感情を呼び起こすことができる。」

 今回がそのような経験であったとしたら、いいのでありますが。

 

 写真美術館の1階が映画館になっているのを横目に帰途につきました。

 恵比寿駅とガーデンプレイスは平たんであるスカイウォークで結ばれており、わかりにくい状態になっていますが、スカイウォークから外を見ながら移動していると、結構、恵比寿の街は高低差のある土地であることがわかってきます。

  東京都写真美術館のエントランスホール 照明の曲線が優美です

  恵比寿ガーデンプレイスの入り口部分

 実は、このあと、東京駅に直行せずに、地下鉄日比谷線で恵比寿から一駅の広尾に、ふたたび立ち寄りました。もう一度ぐるりと歩いて、最初の日に時間のなかったコーヒーを飲んで、記憶の残像を探してみただけです。裏通りの理容店は変わりがないようでしたし、下町風の広尾商店街へ向かう交差点もかつての記憶と重なってきました。

 プレイスというより、スポットで記憶の重なる場所をもとめただけなのですが、南部坂を上った先の記憶の場所が消失したスポットは黒点のままで、周辺の記憶と重なった場所とちがい、クリアなイメージとして私のなかに戻ってくることはありませんでした。

  広尾の裏通り 理容店は33年前のままです [2019.5.15撮影]

  広尾商店街へ向かう広尾の交差点  

  「渋谷川流域の台地」 大竹昭子『日和下駄とスニーカー』p101

 この「広尾・恵比寿」の項の最後に、地下鉄で一駅というこの地域のことを、上記の「渋谷川流域の台地」として説明する大竹昭子さんの文章を紹介しておきます(『日和下駄とスニーカー』2012年7月刊/洋泉社)。

 「 恵比寿・広尾・麻布など、雑誌でよく取りあげられるファショナブルな

  エリアがあるが、よく見るとこれらは川で隔てられ二つの台地で分かれて

  いる。恵比寿から広尾で抜ける途中で渋谷川を渡るが、ここで別の台地へ

  と上がっていくのだ。恵比寿は高輪台地の西にあり白金や高輪と地つづき

  で、広尾は麻布台地の南端にあって青山・六本木・赤坂と連続してい

  る。」

 この記述に続いて、大竹は、台地のうえには宮家の屋敷が造られたことを指摘しつつ(そのひとつが有栖川宮邸で今の有栖川公園)、実際は、大邸宅は高台だけで、渋谷川の方へ下っていくと小さな家が目立ちだすとし、散歩の途中のこうした劇的な変化が東京を歩く楽しみだとしています。まさにコアな東京は「坂と丘と谷の街」だといいたいようなのです。

 この大竹の文章によって、私は、自治大学校や写真美術館の所在する場所が、渋谷川という谷筋の北側と南側の二つの台地の端にそれぞれ位置している関係を理解することができました。

 

🔹おわりにー「東京」なるものへのアンビバレンツー

 先月5月半ばの東京への小さな旅で足を運んだ街、場所のことを書いてみました。最近、旅と呼べるものから縁遠くなってしまっていたからなのか、こんな2泊3日でも、日常から離れた旅だったのだと、今は思っています。

 久しぶりという言葉がふさわしいほど、長く出会っていなかった友人たちと再会できたことが何より大切な旅であったはずですが、前々稿(「いつの間にか6月がー茨木のり子『歳月』ー」)の冒頭で記したとおり、そのことはしばらく沈殿させておくことにします。

  新宿新都心の都庁前を仕事に急ぐ人びと   [2019.5.15撮影]

  新宿新都心の新宿中央公園で太極拳でゆっくりとからだを動かす人びと

 東京、一括りにできるものではありませんが、言葉としての「東京」は、ずうっとアンビバレントな感情を誘発させる存在でした。今、年を重ね、東京という存在がどんどんと遠くに離れていくように感じていますが、今を生きる人間の一人として、東京問題は同時に日本問題でもあると理解しています。

 中央と地方、大都市圏と地方圏、発信地と受信地、集積地と資源提供地、人口集中地域と過疎的地域、これ以外にもいろんな表現ができそうです。定性的には、中心と周辺、強大と弱小、集中と分散、支配と被支配などと対比的な言い方もできます。

 こうしたいわば中心と周辺の関係を意識することにおいて、私たち地方で生活する者にとって、「東京」は相反する感情、<魅了>と<反発>を同時にかきたてる抽象的な存在でもあるということです。このことは、非東京在住者として、よくある性向、態度だと思いますが、実際のところ、東京在住者にはなかなか理解しにくい心理的倒錯でもあるでしょう。

 

 私自身の記憶をたどれば、東京を意識した最初は、新幹線の開通するもっと前に、父が何か用事で東京へ行くことになったとき、いっしょに行きたい、特急に乗りたいとだだをこねたことです。あまり子供らしくなかった私がひどく泣いて父母を困らせたという記憶があるのです。

 それから、最初の大学受験のとき、浪人生の時代、京都での大学生活の終わりに就職面接を受けたとき、いずれも東京でなければなどと思っていたわけではないのですが、結局、東京へ向かっていたという事実もあります。そして、その後は、地方公務員として働いてきた関係で、中央官庁を意識して仕事してこざるをえず、おかげでというべきか、数十回の東京出張という経験(日帰りも多かったのですが)をもちました。

 この間、本稿で書いた広尾での半年間もあったというわけです。仕事とは別に、親戚や友人の結婚式、息子一家の転勤など東京に行く機会もありました。思えば、就職してから今までという期間に、実際に足を運んだ回数は京都よりも多く、最多訪問の都市といえるのではないでしょうか。

 こうしていい悪いではなく、東京は、私を吸引した場所であり、私に憧れの思いを抱かせたところであったということができます。と同時に、そうした自分を嫌悪し、強く反発させたところでもありました。愛憎半ばするという言い方もできるでしょうか、私は東京に対し、アンビバレントな感情を持ち続けてきたし、今もそうだと申し上げてもいいのでしょう。

 

 今日のようにいろんな意味で首都圏に集中が進むとは、つまり強いものはさらに強く、弱いものはもっと弱くという一人勝ちの状態になることは、予想のレベルを超えているのではないでしょうか。もちろん私たち世代にとっては若い時から、その傾向が顕著であったわけで、中央集権と地方分権、一極集中と多極分散などというテーマが、国のかたちのあり方として議論されていました。でもどうでしょう。今や、そんなテーマは、主要な課題として認識されていないのではないでしょうか。

 目先の<効率>と<スピード>を最優先する、待つことのできない社会の帰結先が今の姿なのです。山高ければ谷深しです。強大、巨大であることは脆弱性と裏腹の関係にあります。阪神淡路大震災がそうであったように、都市直下型の大地震が大都市部で発生したらというイフを、私たちは意識したくない、さらにいえば狂騒のなかで意識することを遮断されています。

 首都圏を含め、人口減少が顕著になっていく次世代、次々世代に向けて、どのような国のかたち、社会のかたちがあるべき姿なのでしょうか。

 思わず、最後に変てこな横道にそれてしまいました。アンビバレントな反発のベクトルがそうさせたのです。笑ってお許しください。

 

 昨年、息子一家が7年の東京生活を経て神戸で暮らし始めたこともあって、東京へ行く理由がなくなってしまったように感じていたところ、こうして友人たちが誘ってくれて、東京への小さな旅が実現できたことをとてもありがたく思っています。

 でも、これでこれから東京へ行く機会はあまりないのだと意識したのですが、少しさびしいことだけれど、今の年齢と生活からして当たり前のことなのだと自分に言い聞かせました。

  1929年築の鈴木ビル(銀座一丁目) この一角に森岡書店 [2019.5.14撮影]

  額縁の「東京」ーホテルの部屋の窓から [2019.5.15撮影]

                            【終:(1)

 

 

2019.06.14 Friday

坂と丘と谷の街ー東京への小さな旅でー(1)

 今さらのようなタイトルです。東京、それも23区内が「坂と丘と谷の街」であると、これまでも読んで知っていたつもりですが、今回のたった2泊3日の小さな旅で、実感として再確認できたように思ったということです。

 前稿(「いつの間にか6月がー茨木のり子『歳月』ー」)で書いたとおり、高校・大学時代からの友人と出会うための東京であり、1日目、2日目とも夕刻から夜まで彼らと談笑していたのですから、本稿では残るほんの短い空き時間に歩いた東京の街で印象に残ったことをメモしておこうと思います。今回は、友人との関係がメインであり、特に準備をして、たとえば参考になりそうな地図をもって出かけたのではありません。だから、ほとんどは着いてから、家人と二人で、あるいは一人で、思いの向くまま移動しただけなのです。

 

 予防線を張るようですが、いつも寝るときに聞いている桂枝雀の落語に「植木屋娘」という演目があります(昭和57年10月6日「大阪サンケイホール」にて収録)。そのマクラの冒頭で枝雀師匠は、この噺を「余り面白くありません」からはじめています。続けて「仕方がないのでございます。面白いとか、おかしいというようなことは、いわゆる客観的に客体として存在するというような性質ではございません。すべて主観的な、主体的な問題でございます」、ですから、「聞き手の皆さん方のセンスによるわけでございます。面白いと思や、何だって面白い訳でございますし、面白くないと言や、何だって面白くないのでございます」と客を笑わせ、噺へと導いていきます。

 こんな長い言い訳をしたうえで、メモにとりかかることにしましょう。

 

 今回、友人たちと出会った街を除いて、今回、ちょっとだけでも足跡を残したといえる街は、「新宿」「上野」「広尾・恵比寿」の三ヵ所だけです。それぞれが一括りできないほど広うござんすなので、実際に足を運べたのは、そのまたピンポイントに限られています。

 2泊したホテルは、都庁と道を挟んだ高層ビルの一角でした。主体的に選択したというより、新幹線往復切符込みの宿泊プランが掲載されたカタログで、巻頭特集として連休明けもあって大変にお得になっていたからです。それに東京へ着いた当日に友人たちと待ち合わせする京王線府中駅との関係で行きやすく帰りやすい場所だということもありました。

 もはやなつかしい言葉となってしまった感の新宿新都心(副都心)計画は、新宿ターミナルの西側すぐのところ、旧淀橋浄水場跡地を開発するもので、1960年に都議会で議決されてスタートしました。その後、1971年の京王プラザホテルを皮切りに、1980年に竣工した今回のホテルが入居する小田急センチュリービルなど、今や200m級の超高層ビルが林立しています。その締めくくりともいえるのが東京都庁だったそうで、旧庁舎のあった丸の内から、この地に移転したのが1991年(平成3年)4月だとあります。ですから、新都庁は「バベルの塔」をもじって「バブルの塔」だと揶揄されたわけです。

 現在、こうした新宿新都心の超高層ビル群は、すでに30~50年の時を刻み、大規模なメンテナンスやリニューアルの段階になっているようで、あちらこちらで工事が行われていました。

  新宿新都心のホテルの部屋から見たわせた光景 [2019.5.15撮影]

 

🔹新宿ー巨大ターミナルの偉大なる迷路//高層副都心のエイジングとはー

 のっけからですが、新宿を乗り換えのターミナルとして利用したのは、失敗でした。お上りさん同然の70歳に近づいた二人が自由に的確に歩けるところではありません。日々利用されている方は大丈夫なのでしょうが、突然、このターミナルに放り出された利用者が、無秩序と混沌が支配する広大でかつ高低差の大きい空間を、案内サインだけを頼りに歩くのは、大変なところだし、まして心安らかに歩くなど不可能に近いというのが、私の総体的な実感です。

 お世話になった新宿ターミナルのために書いておくとすれば、タコ足配線という言葉のとおり、継ぎ足しを続けて今のターミナルが存在できているのですが、この全体を把握しコントロールしつつ工事と運行を継続させてきた組織と人間の能力に、天才と偉大を感じているということです。皮肉めいた言い方になっているかもしれませんが、そうではありません。この新宿ターミナルは、首都圏の膨張にその都度対応していた結果、いつの間にかこうした姿になっていたのであり、その現実対応力に心底驚嘆したというのが、私の偽りのない感想でした。何より、工事と運行を同時にやっていかなければならないのです。

 

 このメモを書くために検索すると、「新宿駅の乗降客数が世界一」という記事が何件もヒットします。2016年の1日乗降客数は347万人、西武新宿駅・新宿西口駅を含めると371万人とあります。途方もない数字です。ギネスには「the world`s busiest station 」と表記されているそうです。

 もとより乗降客といっても、乗り換え客のダブルカウントや、逆にJR線同士の乗り換え客が含まれないなど、一概に確定できない数字ですが、とにかく今のところ世界で最も忙しいターミナルなのでしょう。この乗降客数は横浜市の人口に匹敵すると書かれています。

 

 今回、つくづく感じたのは、この巨大ターミナルの迷路性は、面的な広がりだけでなく、高低差がさらに増強します。ホテルから新宿への移動は、地下鉄大江戸線の起終点である都庁前駅から1駅です。この大深度を走行する地下鉄駅は、地下7階に相当しているとの図があります。余裕をもって移動しているつもりでも、ウロウロ、キョロキョロという時間もあって、想定外の時間を要してしまいます。別の鉄軌道との連絡経路にあっては部分的にせよ、下りのエスカレーターが完備されておらず、自分の足膝を使わなければならないという困難もあります。瞬時の判断力と根気を失った私には辛ろうございました。

 私たちよりももっと高齢の方や、障害のある方にとっては、さらに大変な苦労なのでしょう。避けたくなるターミナルではありますが、どうしても使わなければならない方にとっては、一定の習熟が前提となるターミナルであると申し上げておかなければなりません。

 JRの5路線を含め、新宿ターミナルに乗り入れている鉄道は、12路線です。私に何かが見えたわけではありませんが、日日は大きなトラブルもなく、口を閉じた乗降客がひたすら乗り換えに急いでいる姿にただ圧倒されました。

 私たちに対処できたのは、京王線を往復1回使った以外は、とにかくJR新宿駅構内に入ってしまうこと、それから焦らず山手線か中央線を利用して行きたいところにたどり着くことでした。そして、JR線について、首都圏と関西圏との明らかな相違は、安全向上と転落防止のための「ホームドア」の整備が圧倒的に首都圏の方で進捗していることです。混雑度に差異があることも影響しているのでしょうが、JR東日本の名誉のためにメモしておきましょう。

  新宿ターミナルの現状 (新宿ターミナル協議会(東京都都市整備局)資料より)

  新宿ターミナルの現状◆(同上)

 目の前の都庁には一度だけ出張で行ったことがあります。1990年代、地下鉄都庁前ができたのは1997年(平成9年)だそうですから、それよりもっと前ということになります。新宿駅から(今から思うと地下鉄丸ノ内線新宿駅か)、ホームレスの人たちのブルーシートがえんえんと続く地下道を歩いていった記憶があります。ただ都庁舎に入り、簡単な用件を済ませただけだったのですが、エレベーターの待ち時間の長さに閉口したことを覚えています。このときの街全体の印象は、なんと人工的な高層ビル空間かということでした。

 今回、新宿新都心が私に残したのは、エイジングと、先にふれた工事中多数ということです。私にとって、エイジングとは基本的にいい意味なのですが、20数年前の記憶とオーバーラップさせてみると、この場所に街がなじんでいるなあという感覚です。それは建造物のエイジングはもとより、地下鉄だけでなく、ビル群をつなぐアクセスの整備が進んだことや、何より緑が多く大きくなったことが一番影響しているように感じました。超高層ビル群を西側でぐっと支える位置で、新宿中央公園が緑豊かに存在していることも、全体のイメージに与える影響が大きいのではないかと思いました。

  都庁への交通案内図 (東京都ホームページより)

 晴れた3日目の朝6時台に都庁と新宿中央公園をぐるりと歩いてみました。

 都庁舎は、第一庁舎、第二庁舎そして議事堂からなっています。前回の高層ビルのまがまがしさというか仰々しさを意識しなかったわけではありませんが、こちらがエイジングしたせいなのか、これはこれでなかなか立派やないかというのが、ほとんど人のいない空間に立って、都庁舎と向き合ったときの第一印象でした。

 望遠機能の弱いカメラのレンズをのぞきこんでいると、いいなあと感じたのは、ファサードだけでなく使われている「細長い格子状のパターン」です。濃淡のグレーの石を組み合わせたものですが、ちょっと茶色の汚れも浮かんできており、いいエンジングになっていました。これは、設計者の丹下健三ではなく、スタッフの一人である中村弘道という方が大阪の豪農家屋の天井から引用したといわれていますが、丹下自身はコンピーターチップのデザインだと、外向きには説明しているのだそうです。

 都庁舎の玄関レベルから一段低くなった位置に議事堂と都民広場があります。この空間はちょっと素敵といってよさそうです。私の趣味の問題かもしれません。わが国の現代彫刻家でレジェンドの作家たちの彫刻が、議事堂に向けて半円形の都民広場の凹に沿って、8作品が並んでいるのです。淀井敏夫、佐藤忠良、柳原義達、舟越保武、そして、写真を掲載した朝倉響子などです。すべての作品にカメラを向けましたが、私にとって朝倉の「Mari」というタイトルの1984年制作の作品が、35年の時を貫通して、最もカッコよく21世紀の女性を表現してくれているように思ったのです。

 まだ7時前だというのに、「とちょう保育園(Tocho Nursery School)」と小さなプレートのある施設に、職員の方でしょうか、一人の女性が入っていきました。そのすぐ横には「東京都民平和アピール」という金属板がブロンズの草模様を冠にして掲げられています。1995年3月10日の「第5回東京と平和の日記念式典」にあたり採択した長いアピール文が刻まれています。東京の大空襲、そして広島と長崎の原爆投下を指摘したうえで、「いかなる哀悼の言葉も意味を失ってしまうほど非情かつ残酷なもの、それが戦争のもたらすあらゆる惨禍であり災害であります」と続け、平和は人類共通の目標だとし、次の決意を明示しています。

 「 私たちは、軍縮と核兵器の廃絶を機会あるごとに強く訴え、戦争の惨禍

  を再び繰り返さないことを誓います。日々の生活において、平和を脅かす

  問題に、毅然として立ち向かい、忍耐づよく取り組むことに決意しま

  す。」

 そして、5点のアピール文を列記しているのですが、これは長くなるので割愛しましょう。このアピールから四半世紀、私たちは「忍耐づよく」を手離そうとしています。いかに今を生きる私たちが、平和を願いつつも、ノーマ・フィールドのいう「本気で<平和>を語ることの困難」な時代に直面しているのかということを、私は澄んだ朝の空気を吸い込みつつ、ではどうして語りうるのかと自問していました。

 こうしてエイジングを評価した都庁舎ですが、15年が経過するころから「雨漏り」「老朽化」が問われており、膨大な修繕費をかけて手を入れ続けているのが実情のようなのです。エイジングと老朽化は、表裏一体ということなのでしょうか。今回、新宿新都心の超高層ビル群で工事中のビルが多くあったことを考え合わせると、一皮むけばということでもあるのかもしれません。

 いずれにせよ、超高層ビルというものは、時間によって古びてゆくことを許さない、いわばピカピカ、キャピキャピであり続けることを本質としているということができるでしょう。この本質とは何なのか、現代というものの虚ろさと愚かさに通じているように思っています。 

  東京都庁 第一庁舎 [2019.5.15撮影]

  同上 壁面のパターンデザイン

  東京都議事堂

  朝倉響子「Mari」1984年制作 都民広場

 朝、目覚めたとき、25階だというホテルの部屋の眼下には、そんなに広いとはいえない新宿中央公園の緑と、ラジオ体操や大極拳をしていそうな豆粒大の人たちが見えました。超高層ビル群の超現実性を、新宿中央公園はどこかしらバランスをとっているかのようでした。都庁の方から公園に入っていくと、近くのホテルで泊まっていたのであろう外国人の方々が、スポーツ着で写真を撮り合いながら、ベンチに座っていたり、走ったりする姿に多く出会いました。

 ぶらぶら歩きをしていたら公園の一番奥に接するように熊野神社がありましたが、1960年に廃止された淀橋浄水場と隣り合っていたのでしょうか。ホテルに戻ろうとしていると、富士見台という看板がありました。道を挟んで目の前には、都庁の第一庁舎がそびえています。公園のなかで一番高いところだそうで、といっても「東京湾中等潮位+45米」なのです。「はるか西方に秀麗な富士を仰ぐ展望台」とありますが、樹木とビルに囲まれ、とても見えそうにありません。その富士見台のてっぺんには、「六角堂」と呼ばれる東屋があって、浄水場時代から残る唯一の建造物だそうです。

 豆粒のように見えた水の広場では、近隣の住人なのでしょうか、十数人の人たちがゆったりとした動作で太極拳を楽しんでいました。

 ホテルに戻ると、さっき富士山が見えたよと家人は喜んでいうのですが、残念ながら、すでに雲におおわれて見えなくなっていました。

  ホテルの部屋から見た眼下の水の広場(新宿中央公園)

  公園を走る人(新宿中央公園内)

  富士見台のてっぺんに立つ「六角堂」(新宿中央公園)

 ホテルの近く、建設中の新ビルに隣接した旧ビルに、朝食の店でもないかと通勤ラッシュの収まった9時台にのぞいてみましたが、ビル内のATMもコンビニも、そしてエレベーターにも長蛇の列ができていて、早々に退散することになりました。超高層ビルで働くのも大変です。

 

🔹上野(その1)ー丘の上の宝物の森へ//俗なる世界へ「ああ上野駅」ー

 2日目、3日目と2日続けて、山手線の外回りで上野へ出かけました。2日目は、事前に予定していたのですが、ル・コルビュジェ(1887-1962)の設計した国立西洋美術館です。開館60周年を記念した企画展が開催されていて「世界遺産で「ル・コルビュジェ」の原点を観る」とのコピーにひかれたのです。何より世界文化遺産の登録を称揚するテレビ番組が刷り込んでくれた、美術館の建築そのものへの興味が一番でした。

 これまでに上野というか、上野公園に足を踏み入れたのは1回だけです。33年前、1986年秋から翌年の冬までの半年間、研修のために東京で寮暮らしをしていたその年末に、家人と子供たちが上京してきたとき、パンダに会おうと上野動物園に連れて行ったのです。

 

 山手線が上野へ近づくと、日暮里駅、鶯谷駅と聞き覚えのある駅名が続きます。これらの駅ががけ地のへりの下方、つまり谷底にあって、電車がそのヘリを沿うように走っていることに気づきました。帰宅してから、大竹昭子さんの『日和下駄とスニーカー 東京今昔凸凹散歩』(2012年7月刊/洋泉社)の「ガケベリ散歩」で確認したにすぎないのですが、ガケの下にある駅だな、えらく段差の大きいところだなと思ったのです。この部分の山手線は、永井荷風が「偉大」とたたえた「上野台地」のへりを走っていたのです。

 このことは、国立西洋美術館から、いわば聖から俗へ、上野の繁華な街へ下っていったときに、上野駅でいうと公園口から不忍口に向かって降りていったときに、「上野の台地」の大きさをやっと自覚することができて、これはホントに「坂と丘と谷の街」なんだと思ったというわけです。

  ガケべリ図(上野~鶯谷~日暮里) (大竹昭子著『日和下とスニーカー』46p)

 さて、上野駅の公園口の方から出てすぐ前の道路を横断すると、目の前が東京文化会館、そのすぐ右手に国立西洋美術館がありました。2016年の世界遺産登録に際してのテレビ番組などでみていたこともあってか、美術館の前景、外観には、ああこれか、これなんだという既視感がありました。そして、昨今の美術館建築と比べると、ずいぶんと小ぶりな建物なんだと感じました。

 あとで知ったのですが、このル・コルビュジェ設計は本館で、これに隠れるように新館もあったのです。本館の開館したのが1959年のことで、20年後、ル・コルビュジェの弟子であった前川國男(1905-1986)の設計した新館が1979年にオープンして展示スペースが二倍になったとあります。さらに、18年後の1997年には、前川亡きあとの前川建築設計事務所により、企画展示室が増築されています。こうして三段階で美術館は収蔵作品の増加に対応して展示スペースの拡大など必要な面積を確保してきました。

 なお、同じ前川國男の設計による東京文化会館は、美術館本館と呼応するような形で建っていて、国立西洋美術館にかかる師匠ル・コルビュジェの元々の設計案にあったものの予算の制約などから実現できなかった劇場ホールを現実のものとしたといわれています。

 

 建築写真には青い空がほしいのですが、ポツポツと雨が降り出しました。曇り空のなかで、広い前庭におかれたロダンの「考える人」像の近くやいろんな位置から美術館にカメラを向けてみました。

 コンクリート製のピロティの上に直方体が載っている外観は、その形と色、質感からして、飾り気のないすっきりと端正な容貌です。つまりパッと見たかぎりでは、余計な贅肉感のない筋肉質の体形といえばいいのでしょうか、建築材料や建築技法上、20世紀建築の原形質のような外観なのです。それでもどこか、ことさら主張しているわけではないけれど、見方によってはさりげなく主張している建築だということができます。

 都庁舎のように石を贅沢に使ったモニュメント性の強い建築に比べたら、コンクリートに玉石を並べた外壁は、つつましく一見チープのようにも見えます。都庁舎の設計者である丹下健三は、元は前川事務所の出身ですが、この違いはなんなのでしょうか。規模、予算、何よりも時代が違うのですから、比較しようもありませんが、ル・コルビュジェの美術館からは、人間の手から離れきっていない、ベタな言い方ですが、手のぬくもりが感じられるのです。

 新宿新都心の超高層ビル群にエイジングのありかを探したりもしましたが、この美術館はエイジングを許容し、よく手入れさえすれば、本物のエイジングを楽しむことのできる建物です。そして、今この目の前にある落ち着いた相貌は、その意味を教えてくれているようです。本館は開館60周年なのですから、まさに還暦を迎えた渋いたたずまいと表現してもまちがいではないでしょう。

  国立西洋美術館の全景  [2019.5.14撮影]

  同美術館のピロティ

  同美術館の外壁パネル

 内部に入ると、1階の中心にある19世紀ホール(メインホールだが広くない)へ導かれることになります。三角形のトップライトから自然光がそそぎ、建物を支えるコンクリートの2本の柱がオブジェのようにもみえる展示スペースからスロープへと誘導され、眼下の景色を眺めながら、ゆっくりと上っていくと、2ヵ所のバルコニーが姿をあらわしてきます。この吹き抜けのホールを囲むように2階の展示室は配置されていて、3階の照明ギャラリーからも自然光が取り込まれています。

 やはりいい意味でこのコンパクトさは悪くないですね。といっても、ル・コルビュジェという名前がなくとも同様に思えるのかと問われたら、口をつぐむしかなさそうですが、この垂直移動を組み込んだ空間はリズミックでわくわくさせられますし、とてもすばらしい空間だと思いました。

 

 今回の企画展である「ル・コルビュジェ 絵画から建築へ-ピュリスムの時代」は、故郷のスイスからパリに出てきて、第一次世界大戦終結直後の1918年末、ピュリスムの運動を推進し、先端を行く芸術家たちと交流するなかで、今回展示されたような絵画も描いていたことを教えてくれました。こうした数年を経て、絵画から建築へ、本名のジャンヌレからル・コルビュジェへ、私たちの知っている20世紀建築の旗手となる建築家がさっそうと登場してきたというわけです。

 といっても、今回の展示をざっとみただけで、私にその関係が腑に落ちたということではありません。いわば後知恵になりますが、芸術運動としてのピュリスム(純粋運動)の経験なくして、企画展のコピー「見つかった。何が?ー建築が。」はありえなかったのだとし、20世紀建築を牽引した建築家ル・コルビュジェはかくして成長を遂げたのだというストーリーは大変に興味深いものでした。

 そして、美術館のパンフレットによって、こうした準備を経てル・コルビュジェが「近代建築の5つの要点(ピロティ・屋上庭園・自由な間取り・横長の窓・自由な立面)」や「無限成長美術館」などのテーゼを打ち出していったことを知りました。この「5つの要点」とは、建築材料や建築技法だけでなく、生活を豊かにする仕組みを併せて、その調和と実現を図ることを意図し、1926年以降にまとめたとあります。そして、このル・コルビュジェの建築思想が、国立西洋美術館において完全ではないにせよ実現されていることを知りましたし、周到に実現させようと、前川國男をはじめ日本の弟子たちといっしょに努力を続けたことも学ぶことができました。

 たとえば、前記した玉石が埋めこまれた外壁は、柱が荷重を支える構造のために、取り外し可能なパネルとして作られていますし、本館→新館→企画展示室という増改築も、収蔵品の増加に対応していく「無限成長美術館」の基本的な原理に基づくものだそうです。この美術館には、新館の増築によって、本館を取りこんだ美しい中庭が出現したのです。

  国立西洋美術館の19世紀ホール 奥にスロープ

  スロープから見た19世紀ホール 2つのバルコニー

  新館から見た中庭、本館 新館の緑紬タイルもいい感じです

 ここで強調しておきたいのは、国立西洋美術館の宝物は、「ル・コルビュジェの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」と初めて7ヵ国3大陸をまたがって登録された世界文化遺産の一つである建築としてだけではなく、収蔵品そのものもそうだということです。ル・コルビュジェの企画展は早々に切りあげ、ぐっと見学者の減る常設展の方を回りました。えっえっ、なんとなんとの連続というか、西洋近現代美術のベストアルバムを聴かされたような気持ちになりました。私のような半可通の者でも名前だけはよく知っている代表的な画家の作品がこれでもかと連続して並んでいるのです。その画家の名前だけでなく、作品一つ一つもレベルが高く、こけおどしのように展示されたものではありません。さすがに東京の国立美術館だわいという嫉妬めいた言葉を吐きたくもなりました。これはまちがいもなく、「上野の森の宝物」です。

 この美術館は元々松方コレクションの入れ物だったのでしょうが、第二次世界大戦後の作家たちの、新たに購入、寄贈、寄託を受けた作品群も、文字通り圧巻でした。ピカソ、ルオー、ミロ、ポロックそしてサムフランシスときりがありません。そして、収蔵品だからこそ、わが国の美術館ではめずらしく鑑賞者のカメラで撮影することもできるのです。ここでは、ジョアン・ミロとともに、今回、初めて画家名も作品も知ることになったヴィルヘルム・ハンマースホイだけをアップさせてもらいます。

 展示室と展示室をつなぐ廊下に一つだけポツンと展示されていたハンマースホイの絵は、シーンとした空気をたたえ、静かに何かを語りかけてきます。美術好きから笑われそうですが、私にとっては発見でした。こんな画家がデンマークにいたのか、この「北欧のフェルメール」と評される画家の展覧会が来年の冬には、上野公園内の東京都美術館で開かれるとのことです。

  ジョアン・ミロ「絵画」1952年制作 [2019.5.14撮影]

  ヴィルヘルム・ハンマースホイ「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」1910年制作

  「ハマスホイとデンマーク絵画」展(2020.1.21-3.26/東京都美術館)のチラシ表

   <ハンマースホイ>と<ハマスホイ>の2種類の表記があります

 このあと、ちょっとしたドタバタ劇がありました。もちろん大したことではなく、昼食をどうしようかとなったのです。上野だから、やはりとんかつにでもしようか、33年前に子供たちと食べたのもとんかつだったしということになりました。世界遺産の美術館のピロティに腰をかけて、家人のスマホで「とんかつ 名店 上野駅」で検索したのですが、店は多くあっても起点となる駅の全体像がわからないままでは店の位置も特定できにくかったのです。食い意地のはった私たち二人は、すでに美術館を後にする前から、俗の方へ進みだしていたことになります。あとから思えば、公園口から上野駅に入って次の御徒町まで一駅だけ移動して、御徒町近辺で探す方がずっと合理的だったのですが、そこまで気が回らなかったのです。

 まあとにかく歩いて上野駅の南の方へ行ってみようとしたのです。この下り坂から「上野の台地」の高低差を体感できたのはよかったのですが、駅前を素通りして最初はアメ横の方向へ向かったり、小一時間もウロウロしてぐじゃぐじゃになったので、とにかく駅前に戻ってみることにしました。

 やっと映像で記憶のある上野駅の正面玄関口が見えてきたのです。不思議ですね。まず頭をかすめたのは、井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌があったなあということです。今は死語になっている集団祝職、その集団就職者の愛唱歌となった同歌は、1964年に、前の東京オリンピック年にリリースされています。「どこかに故郷の 香をのせて/入る列車のなつかしさ/上野は僕らの 心の故郷」などの歌詞まで浮かんだのではありませんが、この正面玄関口は、集団就職者が東北一円から上野駅に着いたときの映像とともに記憶しているのです。今は外国人観光客がスーツケースを押している姿が目立っていました。

  JR上野駅正面玄関口  [2019.5.14撮影]

  JR上野駅東側

 正面玄関口という起点がはっきりしたことによって、ようやくとんかつ屋の位置がつかめてきました。駅の東側をさらにうろついて、1時半をすぎて、やっと「みの房」という店へたどり着きました。これが有名店なのという店構えでしたし、「唄える酒処」という看板にびっくりしましたが、さすがに疲れていて躊躇なく入りました。内部は壁一面に居酒屋メニューが張り出されていましたが、それは夜用のようで、昼はとんかつメインの定食を提供しています。千円札でおつりがくる値段ですが、誠実につくられたとんかつをおいしくいただくことができたのです。

 このとき、次の3日目の昼も続けて、とんかつを食べることなろうとは知る由もありませんでした。

  とんかつを食べた「みの房」

 

 それでは、ここで区切りをつけて、後半を続編とします。次稿では、【上野】の後半部分と、3ヵ所目の【広尾・恵比寿】、そして、私にとっての「東京」なるものとはをまとめてみるつもりです。

                        【続く:(2・完)へ】

 

2018.09.25 Tuesday

クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(3・完)

 フィレンツェの3回目((1)(2))です。

 今回は、前半で1、2回目に未掲載の名前も知らないような街角の写真(すべてではありませんが)から<拾遺>しておくことにします。後半では池上俊一が『フィレンツェ』で主張している問題提起(とりわけ私たちの世代にはそうであった、あの「ルネサンス」の通念に対するアンチテーゼ)についてコメントすることで、全3回を締めくくる予定です。

 いずれも不要といえば不要なのですが、遊んでいるなあと笑って読んでいただければと思います。

 

 さて、その前に、ナポリに関するブログ(「曇りのち晴れ・ナポリ(その1)ーシチリア・ナポリ紀行(5)ー」)で参照させていただいた江國滋の『イタリアよいとこ 旅券は俳句』(1996年12月刊/新潮社)に再登場してもらいます。

 といっても、前回のブログで中心となったサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラとアルノ川について、1871(明治4)年に日本を発った岩倉使節団の見聞をまとめた米欧回覧実記(四)』(久米邦武編/岩波文庫)から関係分を、江國著から再引用しておくだけのことです。先入見など持ちようもなかった頃の日本人が受けとめたフィレンツェの印象として、その文体とあわせ、興味深いものだからです。

 失礼な言い方になりますが、江國さんもフィレンツェについて基本はこの二つだけを取り上げていることからしますと、<観光客>である日本人にとってやはりこの二つのランドマークが最大の見どころなのでしょう。

 

 まず、ドゥオーモとクーポラのことですが、『回覧実記』から三箇所が引用されています。最初はフィレンツェには「寺が多い」から始まり、江國は初めて出会った「淫工」という言葉に驚いています。

 「 府中ニスヘテ二百五十ヶ寺アリト云、羅馬「カドレイキ」教会ハ、多ク

  寺刹建テ、荘厳ヲ極ム、其淫工ハ驚詫スルニモ余リアリ」

 「 「サンタマリア」寺二至ル、此寺ハ一千二百年、羅馬教ノ全欧地に蔓延

  シ、民財ヲ侵漁セシ盛時二アタリ始メテ経営ヲナシ、造営ノ工ヲ用フルコ

  ト、四百年ノ星霜ヲ経テ、落成二至レリ」

 「 仰キ見レハ目ヲ暈セントス、長大ノ人モ、堂傍ニ傍フテ立ツヲミレハ、

  其微小ナル、蜩ノ老樹ヲ抱ケルカ如シ」

 江國は『回覧実記』の記述を「あながち誇張ともいえない」と記しています。そんなことを感じてしまう下記の写真も写っていました。

  早朝のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 [2012.1.6撮影]

 次に、アルノ川についてです。

 「 「アルノ」河ノ清流アリテ転回シ、府ノ中腹ヲ流レ、(略)水清ク流疾

  シ、時ニ斜湍ヲ作リテ水勢ヲトトム、瀉瀉淙淙トシテ声アリ、我行ノ宿セ

  ル「ホテル」ハ、正ニ其斜湍ノ側二アリ」

 「 此閣(ウフィツィ美術館)ノ楼上ヨリ、飛楼ヲ作リ「アルノ」河橋ノ中身

  ヲ廊道トナシ、河南ノ市街ニ接連シ、民居ノ上ニ、廊道ヲ作リテ、王宮二

  接ス」

 当時のアルノ川は、現在と同じだと思うのですが、後半のヴェッキオ橋とヴァザーリの回廊は明らかだとしても、前半の「斜湍」とは何のことでしょう。カッライア橋とアメリゴ・ベスプッチ橋の間にある<堰>のことなのでしょうか。この<堰>はアルノ川の水量や流れの速度を調節する機能をもっていそうなので、これのことかもしれません。

 だとすれば、江國が書いているとおり、使節団のホテルは百三十年を経て江國が宿泊したホテルと同じアルノ川右岸沿いの<エクセルシオール・ホテル>という可能性が高くなります。あとでこのホテルは再登場します。

  エクセルシオール・ホテル [2015.5.14撮影/オニサンティ広場]

 フィレンツェは、イタリアの諸地域が統合されて王国となった1861年から4年後の1865年に新生イタリア王国の首都(トリノから移転)となっています。このため、1865年から大規模な都市改造工事が進められ、5年後には都市景観が一変した(ドゥオーモのフォサードが完成したのもこの一環でした)、と池上は記しています。1871年にはローマへ首都が移転してしまいますが、岩倉使節団のフィレンツェ訪問は1873(明治6)年のことですから、景観が一変したフィレンツェを歩いたことになります。

 『回覧実記』では、フィレンツェという街が次の言葉で描かれています。

 「 去年ノ統計ニ、人口十六万七千〇九十三人アリ、其繁華ハ、以太利国第

  六オレトモ、都府ノ美麗ニシテ、風景ニ富メルコトハ、米蘭府ニモ超越ス

  ルヘシ」

 

🔹フィレンツェ街歩き拾遺ー犬も歩けば棒に当たりー

 しばしば書いているとおり、海外旅行ではどの街でも、早朝は一人で、それ以外は家人と二人で、とにかく歩いています。そして行き当たりばったりで、シャッターを押します。もちろんフィレンツェも例外ではありませんでした。

 ここでは、この街で偶然にすれちがったり、ぶつかったりしたフィレンツェのできれば「名もない」表象の断片を並べてみることにします。選択力に欠けるため数多くなってしまいましたが、ここから何か特別の「フィレンツェ」を、引き出せるわけではないし、引き出そうしているわけでもないことをお断りしておきます。

 

,△箸らじわりと効いてきてー中央駅ターミナルー

 最初から無名とはいえません。

 ターミナル駅は<終着駅>と呼ばれるように、どこか懐かしい響きがあります。このフィレンツェのターミナル駅は正式には「フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅」なのだそうです。その名のとおりサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の北側、ファサードと反対側にあります。

 この中央駅を使ったのは、三度目の旅行で、オルヴィエートからの到着、ルッカへの出発・帰着、そしてヴェネツィアへの出発のときです。駅前で自転車をレンタルするときにも足を運びました。こんなことで駅の外観を見てはいましたが、ふふん「えらくすっきりあっさりしているなあ」という感じでした。それが気になりだしたのが、ルッカに行くためにサンタ・マリア・ノヴェッラ広場に面したホテルから歩いて駅に向かっていたときだったと記憶しています。かなりの距離をへだてた地点から、正面の全景、横長の直方体、黄褐色の石の外壁と、小さい面積のガラス面だけから成り立っている駅舎が、朝の光にキラキラとしている姿が、旧市街の建物群に酔っていた眼にはなんだか新鮮に映ったのです。

 よく用いる言葉を使うなら、こんな変哲もない色と形をした駅舎が、どうしてか魅力のあるものに思えてきて、じわりと効いてきた感覚があったのです。

 

 あとで調べると、ムッソリーニの時代、1932年のコンペで採用されたもので、ジョヴァンニ・ミケルッチを中心とする若いトスカーナ出身の建築家グループが設計しました。フィレンツェ在住の中島浩郎・しのぶさんの『素顔のフィレンツェ案内』(2003年9月刊/白水Uブックス)によると、最初は「新聞はまちがえて梱包箱の写真を掲載したらしい。本当のモデルは中に入っているはずだ」などと揶揄されたりしたみたいです。それが今や、「偉大なフィレンツェの流れを汲む二十世紀の代表的建物」と高く評価され、ミケルッチ(1891-1990)はブルネレスキ、ミケランジェロの後継者とまで言われているらしいのです。

 こんなことを読んでしまうと正当な評価はできそうにありません。ピエトラ・フォルテという石を使ったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会と、同じ石が基調となった中央駅は、お互いの様子を伺うように対面し、教会の垂直性と対比的に、水平性が強調されていてなどと説明できそうですが、もうやめて先を急ぎましょう。

 この駅の西側には郊外と結ぶトラムが2010年に開通し、発着場となっています。このトラムは第2、第3号線が今年中に開通するという記事もあります。コムーネの単位では、現在の人口が38万人だということで、前記した岩倉使節団の頃の17万人から倍増しているわけです。世界に冠たる観光地である旧市街という交通困難区域をかかえるフィレンツェは、このトラムを21世紀のインフラとして期待しているということなのでしょう。

  フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(中央駅) [2015.5.15撮影]

  トラム1号線の発着場(中央駅の西側) [2015.5.15撮影]

 

△泙襪妊機璽スのようにー旧市街地道路事情ー

 フィレンツェ旧市街の交通は、一言でいえば「ぐじゃぐじゃです」という表現が当たっているのです。

 駐車場なき市街地には、元々狭小な幅員の道路に、当然のように自動車と自転車とバイクが一列縦隊で駐車し、片側交通を余儀なくされ、たとえ歩道があっても人が肩を並べて歩くと、一人は車道にはみ出すような狭さなのです。そして、悪びれることなく、自動車はその横をすうっと走り抜けます。三度目に訪ねたとき、アルノ川河岸道路には新たに自転車専用道路がマーキングされたりしていましたが、これも慣れないと大変です。

 中央駅はまたバスのターミナルともなっていますが、歩く私たちの脇をすり抜けて、カッライア橋へ向かう路線バスは「まるでサーカス」のようで、これが日常のことなのです。

 でも、時間が折り重なった旧市街の路を歩くことは、私のような者にとっては、代替できるもののない楽しみです。

  フォッシ通りをアルノ川へ向かうバス [2015.5.14撮影]

  サント・スピリト地区のY字路 [2015.5.17撮影]

  夜の街路(サンティ・アポストリ通りから) [2012.1.5撮影]

 

O地を抜けてもまた路地で

 旧市街を歩いていて気になってしまうのは、「路地」と呼んだらいいのか、あの先の見えない道です。躊躇なく入っていく人は在住者なのでしょう。観光客はなかなかそうは行きません。ヴェネツィアであれば、通り抜けなくては目的地に着きませんが、フィレンツェなら迂回路もあったりするのでそこまでの必然性はありません。

 旧市街の路地というものは暗号のようなものです。わけもなく暗号を解読できるのかどうか、それが在住者と観光客を分けるメルクマールとなるのでしょう。だが、観光客にとっても、この路地を歩いて行った先に何があるのだろうというワクワク感が、街を楽しくしています。

  サンティ・アポストリ通りからの路地 [2012.1.4撮影]

  ウフィツィ美術館近くの通り抜け路地 [2012.1.4撮影]

 

な發い栃發い董赦上のフィレンツェ人ー

 フィレンツェの人とはどのような特徴があるのか、そんなことはわかりません。前ブログで「クーポラこそ最大の芸術」だとした森田義之さんに登場してもらいましたが、森田は、留学生仲間が集まると、フィレンツェ人の「冷やかさと閉鎖性」に対する不満や悪口でもちきりになるのが常だったと記憶を呼びだしています。そして、フィレンツェの長い歴史のふれつつ、こんな評言を書きとめています。

 「 フィレンツェとフィレンツェ人の性格は一筋縄では捉えきれません。

  きんでた知性、旺盛な創造的エネルギー、とぎすまされた美的感受性と

  いった正のメンタリティが、傲岸なまでの自意識、制御不能の激情といっ

  た負のメンタリティと、わかちがたくむすびつき混じりあっている。」

 それが、またフィレンツェの生みだした美術や建築の個性そのものでもある、と森田は書いていますが、本当のことでしょうか。

 いずれにしても旧市街に住む人びとは、特別な誇りをもっているのであろうと想像できます。それは歴史と伝統のただ中にいる者が、自分を、ひいては街を守る、維持していくための鎧のようなものかもしれません。

 こう思ったりしていると、どうも井上章一が指摘していた京都の市中に(洛中)住む人びとの感情に近いものではないかと比喩してみたい誘惑にかられます(当ブログ「「京都ぎらい」から離れてー「洛中的中華思想」なるものー」)。最近、外国人観光客がけた違いに増加している京都、そしてそのただ中に在住する京都人、そのメンタリティがどうなっていくのか、とても興味深いものがあります。

  朝早くカヴール通りですれちがった修道士 [2012.1.6撮影]

  日曜日のフィレンツェ市民  [2012.1.6撮影/ピッティ宮前広場]

  仕事帰りの二人 [2015.5.14撮影/コルドーニ広場]

 

ナ襪蕕靴見えるようでー窓からの居住事情ー

 二度目のフィレンツェ、宿泊したホテルの部屋、きっと5階だったのですが、約2mぐらいの距離を隔てた目の前にアパートの部屋が並んでいて、窓をあけると真ん前に赤いホウキが吊るされていました。だから驚いて写真を撮ったのです。室内より外の方が邪魔にならないということなのかなと思ったりしましたが、暮らしの道具というより、なんだがアクセサリーのように見えて仕方ありません。でも真相はわからないままです。

 ヨーロッパ都市の市街地では、石と木という素材に根本的な差異があって、建物の外壁が日本の外部との遮断を目的とする塀の機能も兼ねているということなのか、観光名所の建造物からほんの数メートルのところに、ふつうの市民が居住していて、最初は不思議に感じたりもしました。たとえば、ローマのパンテオンも同様でしたが、たとえば法隆寺、東大寺を想起すれば、その違いがより明瞭でしょう。下の写真は元教会であったマリノ・マリーニ美術館の窓から、すぐそばにアパートの窓が密集して見えていて、ここにも人びとの営みがあることが感じられるのです。

  ホテルの部屋の目の前に赤いホウキが [2012.1.7撮影/ホテル・ベルキエリの部屋から]

  マリノ・マリーニ美術館の窓からの風景 [2012.1.7撮影]

 

δ垢せ間が積もっていてードア、もう一つの街の<顔>ー

 旧市街を歩いていると、よく目につくのは、ドアです。建物の外壁は同質で連続していることが多いのですが、ドアには個性があるからです。教会の顔であるファサードと同じように、やはり<顔>ということなのでしょうか。どの街の旧市街でもそうですが、まず一戸建てのようなものはなく、集合的に居住する建物がほとんどですから、ドアは自他認識、自己確認のために大切なものといえます。現実に不便なことはあっても、古めかしい外観と、今風の内部空間の落差を、現代の居住者は楽しんでいるということかもしれません。

 一口にドアといっても、よく手入れが行き届いたものから、古いままのものまで、現実には幅があります。ドアだけに注目した写真集があるぐらいですから、そこにあらわれる個性が、住む人を、そしてその街全体の雰囲気を、表現しているともいえます。

 下の写真のうち古い方のドアのような枯れ方はさすがにめずらしいケースですが、よくみると覗き窓は最近手を入れられたもののようです。

  サント・スピリト地区のドア [2012.1.4撮影]

  サント・スピリト地区のドア◆[2012.1.4撮影]

  鉄製の馬止め(サント・スピリト地区) [2012.1.4撮影]  

 

Д侫レンツェの胃袋ー中央市場などー

 中央市場には、おみやげの調達やなにやらで、三度のフィレンツェで毎回出かけています。何より驚いたのは、2015年の三度目のとき、2階に大フードコートが整備され、すっかり様変わりしていたことです。従前から路上には観光客をターゲットとする革製品や衣類を扱う店が立ち並んでいて、これに阻まれ、中央市場の全体像を見ることは難しいのです。

 前記したように統一王国の首都になったことを契機に進められた都市改造計画の一環で、中央市場は、元々ローマ時代より市場のあった共和国広場から、サン・ロレンツォ地区の現在地に移転してきたもので、1870-74年に建設されたそうです。ジュセッペ・メンゴーニの設計したフィレンツェを代表する近代建築だと言われています。中央駅とちがって、建築としての中央市場には魅力を感じることもなかったのですが、そう言われると、赤い鉄骨とガラスをふんだんに使った建物に19世紀後半の市場建築との共通性を感じます。

 「フィレンツェの胃袋」と呼ばれているそうですが、建造物としての中央市場は、文字通り隠れた、隠された<近代建築の代表作>といえるのでしょう。

 

 その下の2枚の写真は、冬でも暗いうちから開いているフィレンツェの食らしい伝統的な店で、シニョリーア広場で朝早くからやっているランプレドットの屋台店、そしてサント・スピリト地区のこちらも朝早くから朝食客でにぎあうバールを載せてみました。

  フィレンツェ中央市場 [2015.5.17撮影]

  ランプレドットの屋台 [2012.1.4撮影/シニョリーア広場]

  早朝のバール [2012.1.7撮影/サント・スピリト地区]

 

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 二度目のフィレンツェ、2012年1月5日、シエナの次に立ち寄ったピエンツァで食べた昼ご飯のイノシシの煮込み料理が重くて(ツアーの皆さんも同様の感想でした)、夕食は軽く済ませようとアルノ川の右岸道路を下流に向かって歩きました。カッライア橋からさらに進むと、オニサンティ広場があって、二つの5つ星ホテルが顔を突き合わせているのです。

 その片方のエクセルシオール・ホテルでビールとサンドウィッチでもと、思い切って1階のバーに入りました。人柄のよさそうな年配のバーテンダーが一人だけで対応していて、二人でどう話したのか忘却の彼方ですが、結局、予定プラス、ミネストローネという野菜スープをオーダーできました。これがまことに上等のコンソメスープに野菜の角切りが浮いている代物で予想以上においしくて記憶に残っています。

 あとでホテル情報を調べると、屋上にフィレンツェの全景が眺望できることで有名なラウンジがあったのに行きそびれたことになりますが、これでも私たちには十分な冒険でした。

 

 翌1月6日の夕食も、ツアーで出向いたモンテリッジョーリでの昼食がきちんとしたもので、家人の足も限界にきていた事情もあって、ホテル近くで軽く食べることにしました。ホテルからごく近くのサンタ・トリニタ広場にある前日とは打って変わって現代的なバールのとてつもなく高いガラスドアを押しました。どうも立ったままで飲んでいる人が多く、座って軽いものにしろ食べものを注文している私たちは例外のようでした。

 しばらくして、モデルさんのような格好いい男女の一団が入ってきました。その様子をチラチラ見ていると、同じ広場に面したフェラガモ本店から出てきた人たちのようでした。フェラガモの客というより働いていたりする人たちなのでしょう。パーティ前のアペリティーヴォという感じで、その華やかさに店内のボルテージは一気に上昇しました。私たちはちょっと身のおきどころのない感じがしてしまい、なんだかそそくさと店を出た記憶が残っています。

 ここでメモしておきたかったのは、そんなことではなく、歴史的建造物に入っているフェラガモ本店(博物館を併設しています)のショーウインドーなどのデザインのことです。ちょうど夜ということもあってか、これぞイタリアの現代デザインの先端にして最上質のディスプレーが光っていました。

 フィレンツェは、前記のエクセルシオールの内装・調度品のような古典デザインからこんな現代デザインまで、新旧のデザインが高いレベルで共演している街でもあります。

  エクセルシオール・ホテルの1階バー内部 [2012.1.5撮影]

  レストランバーSABELLEの高いドア [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ広場]

  フェラガモ本店の夜のショーウィンドゥ [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ広場]

 

切り取られた映像ー求められる建築ー

 建物の写った映像を、部分で切り取ってみると、その建築資材の質感とともに、抽象性を帯びてくる、いわば本質にあるものが見えてくることがあります。このためには、ズーム最大4倍の手持ちカメラでは限界があって、PCの機能を使って部分を切り取る、さらに拡大することになります。下の写真は、そのような意図で切り取った3枚になります。建築設計といっても、素材から逃れようもなく、必要な壁の厚み、重量の分散などの諸要因によって外壁のテクスチュアから窓の大きさや形まで構造的な限界が決まりますが、こんな条件の下で、美しく見える意匠デザインを洗練させていったにちがいありません。

 3枚目の写真は、無名ではなく、サン・マルコ美術館(修道院)の2階の内に面した僧房棟を、逆側の廊下の窓から撮影したものです。この小さい窓は、一部屋の僧房に一つだけ穿かれた穴のように見えます。前記の建築家中村好文が記しているとおり、間口約3m、奥行約2.5mの小部屋の僧房が40部屋以上も並んでいるのですが、部屋の内壁にはフラ・アンジェリコとその一派のフレスコ画が描かれています。修道士はその部屋で祈りと瞑想をしていたことになりますが、その窓の小さいことは、建築の法、構造的な限界からの必然ではなく、その修道生活そのものから、いわば神の法がもたらした必然でした。

  パラッツォの角 [2015.5.17撮影/場所は不明]

  小さな礼拝堂 [2015.5.15撮影/場所は不明]

  元僧房の窓(サン・マルコ美術館) [2015.5.15撮影]

 

至るところにーアノニマスなアートー

 多くの方が発語するに至るであろう「フィレンツェは都市(まち)全体が芸術だった」という辻邦生の言葉を先に紹介しました。私のSDカードにも、あっと思ってシャッターを押したであろう映像がたくさん残されています。名づけられた名前があるはずですが、私にはほぼ不知のものです。

 1枚目は、観光客向けのオペラ・コンサートに出かけたサン・モナカ教会の天井画、だいぶ剥げ落ちたフレスコ画ですし、2枚目はサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の修道院の中庭にあった大理石のレリーフです。3枚目の彫像は、どこで撮影したのかもわかりませんが、映像を見て初めて、左手で天秤をかかげた人物像であることが判明しました。最後の4枚目は、名も知らないのではなく、マリノ・マリーニの現代彫刻です。いずれも映像で初めて見たような気になって、これはいいかもと気づいたものばかりなのです。

  サン・モナカ教会の天井画 [2015.5.15撮影]

  大理石のレリーフ(サンタ・マリア・デル・カルミネ修道院内) [2012.1.4撮影]

  天秤をかかげた彫像 [2012.1.4撮影/場所は不明]

  20世紀の人物彫刻(マリノ・マリーニ美術館) [2012.1.7撮影]

 

それは突然のようにあらわれて

 前記で<抽象>という言葉を使いましたが、視線を変えると、古い街にも美に転化するような「もの」「風景」が潜んでいます。普段は全く見えてこないのに、それは突然のようにあらわれてきて、私を喜ばせてくれることがあります。たとえば、下の3枚は、そんなふうに見えたものです。

 1枚目は、圧倒的に鉄が主材であった時代、前記Δ療汗修稜六澆瓩汎瑛諭鍛冶屋仕事の精華というべき造形です。2枚目は、三度目のフィレンツェで泊まったホテルの部屋から撮影した新聞・チケット店です。真上からの視線であったから、この八角形の屋根、クーポラのドラムと同じ八角形に出会うことになりました。3枚目は、朝焼けのアルノ川とヴェッキオ橋ですが、DNAの写真のような抽象的な揺らぎが見えています。

 現実にはなかなかそうはいきませんが、人間と自然の造形は、豊かな情報に満ちています。

  鉄製の飾り柱?(ピッティ宮前広場) [2012.1.4撮影]

  八角形のスタンド [2015.5.16撮影/サンタ・マリア・ノヴェッラホテルの部屋から]

  朝焼けのアルノ川 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上から] 

 以上、フィレンツェという街への、私にとって文字どおりの<拾遺>でした。暇なことだなと、笑って読んで見てもらえたら、うれしいです。

 映像と抱き合わせになった記憶の断片を、こうしてたどりなおしてみる作業は、時間の経過が後押しする思い込み、肥大化はもとより、美化も避けることはできません。でも、それをすべて誤解、曲解だと否定してしまうことより、記憶というものの一つの形、本質でもあると思うことにいたしましょう。

 

🔹時代区分というものー「中世」とは「ルネサンス」自身の半身かー

 池上俊一の『フィレンツェ』という岩波新書をきっかけとして、私にとってのフィレンツェ像を書きとめてきました。本稿を閉じるあたり、池上による問題提起とその結果について、コメントしたいのですが、別稿に回すことにさせてもらいます。

 本稿の(1)で整理した「ルネサンスは連続か断絶かー池上俊一の問題提起ー」もふまえ、少し情報収集しただけで、池上のルネサンスへの問題提起は、従前から歴史学における基本問題となっていたことを、恥ずかしことですが、初めて知ったのです。そして、このルネサンスとはどのような時代かという問い、視線というものは、とくに「中世」と「ルネサンス」という時代の連続性・不連続性をめぐる論争として現れており、その前提である「時代区分とは何か、どのように考えるべきか」という基本的な問いにまっすぐつながっていることも理解できました。つまり私の問題意識の重心が「ルネサンス」そのものから、それを析出した「時代区分」の考え方の方に移行したのです。

 というわけで、この「時代区分とは何か」というテーマを、ルネサンスを一つの素材としながら考えてみたいと思い、別稿とすることにしました。ここでそれができればいいのですが、知識、能力の不足もそうですし、やっと手元に用意した下記の二冊を読んだうえで(きちんと読めるのか心もたない限りですが)、論じるべきであろうと考えたのです。

  ジャック・ル=ゴフ著『時代区分は本当に必要か?』 2016年8月刊/藤原書店

  澤井繁男著『ルネサンス再入門』 2017年11月刊/平凡社新書

 ここでは、その別稿のためにも、池上の問題提起の結末というものをのぞいておくことのします。

 『フィレンツェ』の「はじめに」において、池上は、私たちの世代に根強くある「中世=暗黒時代、ルネサンス=明るい近代の序曲」という既成概念を超えて、つまり「ルネサンスの革新性を持て囃す言説を多少とも相対化してみたい」という意向を表明していました。そのためにルネサンスの先鞭となったフィレンツェの歴史を「ルネサンス期を中心としつつも、古代から現代まで辿っていくつもりである」としていたのです。

 では、この狙いに対し、池上は、「あとがき」で、その結果をどのように述べているでしょうか。

 『フィレンツェ』を執筆していて、池上は「フィレンツェ史において中世とルネサンスを分けて語ることの不可能性」を「つくづく痛感した」と記しています。そして、一応、5-14世紀前半の「中世」と14世紀前半-16世紀初頭を「ルネサンス期」とし、心ならずも「中世を「否定」「克服」「転換」したところに明るいルネサンスが現出した」と叙述せざるをえないところもあったけれど、本当にそれでよいのか、と感じていたとしています。だから、「多くの場面で、私は「中世」を語っているか「ルネサンス」を語っているか、自分でもわからなくなってしまった」と、池上は告白しているのです。つまり「中世」と「ルネサンス」を判然と区分することの困難性を強調しています。

 これに続いて、上記の中世史の泰斗であるジャック・ル=ゴフの生前最後の著作である『時代区分は本当に必要か?』にふれ、池上は「私はますますルゴフ説に賛同したくなってきた」とし、「ルネサンス人が否定しようとした「中世」とは、「ルネサンス」自身の半身を指していたのだから」と書いています。その<ルゴフ説>なるものを、池上は次のとおり記述しています。

 「 ルネサンスというのは、実際は「中世」において何度も出来した古代復

  興・文化刷新の現象を指す概念と捉えるべきであり、いわゆるー14-16世

  紀のー「ルネサンス」は、いくら華やかで革新的に見えようと時代を根底

  から転換させるような出来事ではなかった。中世というのは、その内に常

  に革新の運動を秘めた時代なのであり、ただあまりに慎ましかな時代だっ

  たので、自らそのことを喧伝しなかっただけだ、と述べている。」

 池上は、先のルゴフの著書から引用することで、当初の「ルネサンスの革新性を持て囃す言説を多少とも相対化してみたい」という狙いの解答を、説明しようとしているともいえます。また、「「中世」とは「ルネサンス」の半身を指していた」というのですから、「連続性」の中に、同時に「断絶」をみているようでもあります。

 でも、失礼な言い方になりますが、池上は、本稿の私と同様、結局「感想」めいたことしか書いていないように感じています。新書版では無理というより、100対0というような問題ではないのでしょう。それほど「歴史」なるもの、「時代区分とは何か」という根元的な問いへの考察がなければ、「ルネサンスとは何か」について、簡単に結論を出せるものではないのでしょう。

  

 当たり前のように、通念、既成概念の共有を前提に書いてきましたが、もはやそんな単純な見方は、今や影を潜めているようです。だから、高校の教科書においても、「ルネサンスは近代の始まり」はかつてのことであり、「近世」という時代区分とか、出版社によっては「中世との断絶が強調されすぎてはならない」と書いている教科書もあるとのことです。

 19世紀の近代ヨーロッパが「ルネサンス」という概念(歴史学上の「時代区分」でもあります)を生み出し、これをベースとした「中世」との「断絶」論の優勢な時代を経て、20世紀の歴史学の積み重ねによって「連続」論を強調する学説が展開されたという現実はそのとおりあったわけです。現在もなお、さまざまな形で論争というか言説が展開されているそうですが、「中世」と「ルネサンス」というものを、「連続」か「断絶」かという二分法の一方で括ってしまうことは、それは「連続史観」と「断絶史観」と表現されていますが、どうもできそうにないというのが、現時点の歴史学の到達点のようなのです。

 このあたりのことは、池上の『フィレンツェ』では無理があり、ル=ゴフの『時代区分は本当に必要か?』を読んで、別稿で考えてみることにします。

 

🔹おわりに

 変わった終わり方になってしまいましたが、これでフィレンツェへの三度の旅を締めくくることにします。

 もし、幸運にも、四度目ということがあるなら、こうしたいと思うことが膨らんだ気持ちがして、それが本稿を書いた余禄なのかもしれません。

                        【終:(1)(2)

2018.09.15 Saturday

クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(2)

🔹すっかり忘れてしまいー前回から今回へー

 前回((1))から2ヵ月ぶりで「フィレンツェ」に戻ってくると、たった2ヵ月ほど前のことなのに、そのとき読んだり調べたり、そして思ったり考えたりしていた内容を、すっかり忘れてしまっていて、いささかぞっとしたような心持ちになります。ちょっとひどくなった、たんに老いの進行というだけでなく、自分の内側に発見できた言葉から離れて書こうしているからではないのかとの疑いが頭をもたげます。

 

 これまでにも海外旅行で訪ねた街のことを当ブログでメモしてきましたが、前回は最多の訪問回数(といっても3回だけ)にもかかわらずトライできていない「フィレンツェ」を取り上げました。そして、三度のフィレンツェへの旅で出会ったものを再構成してみるとともに、その前段で、『フィレンツェ』という新書で池上俊一がフィレンツェの歴史を古代から現代までたどることで見えてきた<ルネサンス>なるものへの見方についても紹介しました。

 前回のブログを書くことで発見というか、確認できたのは、私にとっての<フィレンツェ>と<ヴェネツィア>の関係です。私は<フィレンツェ>に不完全燃焼的な印象が残っていましたが、それは、どうも<ヴェネツィア>との相対的関係によるものらしいということです。つまりフィレンツェよりヴェネツィアの方の印象が強くて、濃くて、だから二つの街とも時代を超越した空間に包まれたという皮膚感覚は同じく残っているにもかかわらず、相対的にフィレンツェへの印象が軽くなっていたのです。

 でも、前回、具体にフィレンツェの街のことを書こうとしていると、そのおかげなのか、歳月というスクリーニングによる作用なのか、まざまざと眼前に浮かんでくるものがありました。それはベタの極みというべき「ドゥオーモの大ドーム、フィレンツェの代表色である赤褐色の瓦のクーポラであり、川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観」でした。そして、前回の最後のところに書いたとおり「フィレンツェという歴史が堆積した空間にただ身をおいていたことに深い喜びを感じる自分を再発見」することができたのです。

 

 今回は、そんなフィレンツェの象徴にしてランドマークというべき二つ、クーポラアルノ川のことを中心に、もう少し詳しく書いてみる、というか残されていた写真を並べて見えてくるものを言葉にしておくことにします。 

  フィレンツェ五十五宝マップ 『芸術新潮』2005年1月号より

  フィレンツェの市壁の拡大  橙:1170年代  青:284-1333年

 

🔹クーポラこそ「最大の芸術」ー「現場の人」ブルネレスキという建築家ー

 「フィレンツェ最大の芸術作品は何だろうと考えると、私はこのクーポラではないかと思います」という文章に出会いました。『芸術新潮』2005年1月号の特集で「至宝55選!フィレンツェ・ルネサンスに見惚れる」の解説を担当した森田義之(愛知県立芸術大学教授[現名誉教授])という方がそう断じています。

 フィレンツェはお宝だらけではあるが、結局はこのクーポラに尽きるのではないかというご意見なのでしょう。ある種、この虚をつかれたような意見は、イタリア美術史の研究者である森田教授が、フィレンツェの至宝というべきものをリストアップして丁寧なコメントを加えたうえで発したことです。クーポラは誰もが認知するフィレンツェのシンボルであっても独立した芸術として意識することがなかったから、「最大の芸術作品」だとする森田発言に驚いたのです。

 したがって、「至宝55選」をほとんど知らない私が軽々に同調することなど失礼千万といわざるをえませんが、そう言われればそうだよなあとその尻馬に乗りたくなったのも事実なのです。

  ドゥオーモのクーポラ [2012.1.7撮影/デパート・リナシェンテ階上カフェ]

  ドゥオーモのクーポラ◆[2015.5.15撮影]

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とクーポラ [同上]

 この巨大なクーポラは、日本語で大円蓋などと訳されていますが、石積み建築としては現在でも世界最大です。その建設の過程にこそ、興味深いエピソードが詰まっています。

 フィレンツェのドゥオーモとして、先行するビサやシエナを上回る規模をめざしたとされるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、1296年に起工され、内外情勢の変化によって繰り返し中断を余儀なくされながらも、1380年に身廊部分が完成し、1410年代には中央上部にクーポラの基部となる八角形のドラムが築かれたことによって、1418年にはドーム部分であるクーポラを残すのみとなっていました。

 さて、こうした負けてはなるものかと前例のないような大きな聖堂ができあがり、いざ肝心の屋根であるクーポラを載せようという段になってみると、はたと困ったのです。願望はあっても実現の方法がわからない、つまり工事の方法が、誰にもわからなかったのです。

 このとき登場したのが、時代を反映して彫刻家から出発し、その後ローマの古典建築から学んだといわれるブルネレスキ(1377-1445)です。ルネサンスという時期の建築家といえば必ずトップで登場する天才建築家です。1418年、大聖堂にいかに合理的な工法で丸屋根を架けるかという設計コンクール、その後の紆余曲折をへて、「誰もがほとんど不可能だと考えていた前代未聞の難工事の設計と工事の全責任を一手に引き受けて」見事にやり遂げたのです。

 その方法とは、従来のようにアーチ型の仮枠(内側に木材で仮の支えとなるものを作る)を組まないで、二重シエル方式(仮枠なしに内側と外側にレンガを直接積み上げていく方法、内側と外側の壁が互いを押し合う構造によってバランスをとるという方法)という画期的なものでした。ドームの壁用の煉瓦を特注サイズで作り、それを矢筈状に、巻貝の模様のように渦巻き状に積み上げていくことでドーム全体が構造的に一体になることによって、強度と安定を確保したのです。

 

 ついには1434年にクーポラの頂頭部が閉じられ、1436年にはローマ教皇がやってきて献堂式が行われました。でも、これで終わりではなく、クーポラ頂頭部にのせるランターンは別の建築家の設計で、ブルネレスキが亡くなる年である1446年に工事が始まり、1461年に完成したのだそうです。

 もとより聖堂建設は世紀をまたがるほどの長期間を要することはよく聞く話ではありますが、尋常ではない規模(ということは予算も莫大ということになります)であるフィレンツェのドゥオーモももちろん例外ではなかったのです。

 クーポラとランターンの工事だけでも40年、最初の1296年の着手から数えると、1436年のクーボラ完成とした場合でも足かけ140年、1461年のランターンまで完成とした場合は170年近くの大事業であったということになります(それでもファサードは未完成のままでした)。

  ドゥオーモ配置図(大聖堂の西にサン・ジョヴァンニ洗礼堂)

  クーポラの壁の傾斜度数

  クーポラの壁の内部構造

 クーポラを載せるという難工事を可能にした工法について、ネットで情報を集めて読んで、前記の文章を一応書いたのですが、私には建築学的に簡潔な説明を加える能力がありません。そこで、現代日本の建築家である中村好文さんがブルネレスキのこと、その建築のことを書いた文章(『芸術新潮』2001年8月号「フィレンツェ 中村好文流 花の都の楽しみ方」)によって、この一筋縄ではいきそうにない天才建築家のことを紹介しておくことにします。

 いろんな資料からエピソードを読みあさり、ブルネレスキという人の建築家としての力量や人間像を思い描いてきた中村好文が強調しているのは、ブルネレスキが地に足をつけた「現場の人」であったということです。つまり「いつも現場の状況をありのままに観察し、そこで起こっている問題に対して的確で具体的な対策を立てられる」という<したたかな現実家>という相貌が、建築家であるブルネレスキの根っこにあったというのです。

 たとえば、高いところで作業する職人たちが食事やトイレでいちいち下に降りていかなくていいように、上の現場近くに調理場のある食堂や売店を設けたこと、暗い現場に照明装置をつけたことも紹介しています。さらには工事のために新たに無数の道具や機械を考案したりしたようで、中村は「自分の眼と気持ちと身体を決して現場から離すことのない熟練の映画監督のような建築家像」が浮かんでくるとしています。

 

 今でもブルネレスキ生誕何年には大規模な展覧会やイベントが開かれるほどで、難事業であったクーポラ工事の立役者として「フィレンツェ市民栄誉賞」ものの建築家であり続けていると、中村は書いています。そして、鎌倉時代に東大寺の南大門を作った僧侶兼建築家である<重源>はブルネレスキに匹敵する功績があったと思うが、フィレンツェとブルネレスキの関係のようにはなっていないのはどうしてなのだろうと自問し、次のように自答します。

 「 結局は建築というものに対して一般の人の関心の度合いが高いか低い

  か、つまり建築に対する「民度」の問題だという気がします。」

 この建築に対する「民度」の問題は、やはり池上が強調していたように「コムーネ(自治都市)という文明体が最高度に発展したのが」フィレンツェであり、つまりドゥオーモは私たちみんなのものだという意識が、こんな彼我の違いとなっているのかもしれません。加えて、建造物の燃えたり壊れたりという視点からみると、木造と石造という建造物の資材の違いが、建設や耐久の期間の差異となって現れるという面が、底流で影響しているともいえるのでしょう。

 それにしても、当時のフィレンツェで生きた人びとは、クーポラだけでも20年近くかけて一段ずつ積みあがっていくのを、街中のどこからでも見ることができ、そして、日々見守り続けることができたのです。そして、なんといっても街のDNAに刷りこまれたクーポラをつくった親方がブルネレスキなのです。

 

 さて、中村は、この大ドームに「大きな花の蕾のようなクーポラのふっくらとした形と色はたとえようもなく優雅」という表現を与えています。上の写真からもわかるとおり、八角形の底部から立ち上がるクーポラは、完全な半円ではなく、少し縦長の中村のいう「花の蕾」の形状をしているのです。私などドーム=半円と思い込んでいたきらいがありますが、このクーポラを初めて近くのリナシェンテというデパートの屋上から眺めたとき、その形の魅力を初めて発見できた気持ちになりました。

 また、街の至る所に存在する宝物だらけのフィレンツェにあっても、クーポラこそ「最大の芸術」ではないかと評した森田義之は、次の言葉でクーポラを讃えています。

 「 物理的に巨大なのは当然として、そのフォルムの美しさはたとえようが

  ありません。ゴシック風にやや尖った、意志的で力強いカーヴ、ヴァーミ

  リオンの屋根面を、八本の白い大理石のリブが分割する明快なデザイン。

  パラッツォ・ヴェッキオの塔のように猛々しく威嚇するではなく、すっき

  りと優雅な姿のうちに、フィレンツェという都市の誇り、文化的・政治的

  ・経済的な自信と優位性を、高らかに主張しています。」

 奇しくも、二人とも同じ<優雅>という言葉を使っています。

 

 こんなに全体写真を撮影することが難しい建築物はないよなあと思った記憶が残っています。それはドゥオーモの縦横の巨大さに比して、周りの空間が広場と呼べないような狭さで、近くの建物と近接しているからです。今のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東には元々、別の聖堂が並んでいて、その旧聖堂を解体して、洗礼堂の東に建設したのが現在のドゥオーモなのです。建設途中でさらに計画を拡張したこともあって、とりわけ東側からクーポラを見上げてみてもあまりよく見えないぐらいなのです。

 ところが、遠くて小高いミケランジェロ広場からは当然のこととして、フィレンツェの面的に広がる旧市街の至るところから、クーポラは顔を出しています。旧市街にはクーポラより高い建物がないことも大きいのでしょう。ですから、フィレンツェという巨大な船から顔を出し、「私はここにいます」と550年以上にわたり呼びかけ続けてきたクーポラは、これぞシンボル、これぞランドマークということになります。

  グラティエ橋からみえるクーポラ [2015.5.15撮影]

  ドゥオーモのクーポラ(サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅前広場) [2015.5.15撮影]

 前記の中村好文の文章で「到着すると、とりあえず挨拶するように訪れる建物」だということを読んでいたためでしょう、2015年5月、3度目のフィレンツェで、最初にサン・マルコ美術館でフラ・アンジェリコの『受胎告知』との再会を果たしたあと、次に近くの「捨子養育院」に向いました。雨が降っていたうえに、今美術館となっている施設は工事中で休館していました。だから、正直なところ、ゆっくり楽しんだという記憶はありません。

 捨子養育院はブルネレスキの初期の作品でルネサンス建築の代表作です。前回、池上のフィレンツェの「名誉」を背景とした「いわば拡大家族に擬せられた施設」ではなかったかという解釈を紹介しましたが、本格的な子供福祉センターであったというわけです。

 

 降りやまぬ雨と無造作に駐車している車の大群(工事車両か)に邪魔されて残念でしたが、何といっても目立つのはロッジア(開放アーケード)です。中村は「建物の台座のレベルを人の背丈ぐらいまで広場より上げ、そこにこの地方で採れるピエトラ・セリーナという緑灰石の石でつくった細身のコリント式列柱をたてて」ロッジアを作ったと表現しています。そう言われてみると、アーチが繊細で美しくしかも石なのに柔らかくて、ありがちな重さというものを感じさせないのです。この捨子養育院はアンヌンツィアータ広場に面していますが、その後、二方も同じようなロッジアが作られ、三方が回廊で囲まれた空間となっています。

 捨子養育院のアーチの間には、「彩抽テラコッタすなわち艶出しエナメルで着色したテラコッタ」がはめ込まれています。中村の助けを借りると、その青色の円形陶板には「布巻きにされた捨子たちの微笑ましい姿態の数々」「お襁褓とも、腹巻きとも、帯とも、包帯ともつかない布でぐるぐる巻きにされて、ちょっと腰をよじったりして両手を広げて立って」いたりして、なんとも愛らしいとしています。

 したがって、この広場は力んでしまってどうだといわんばかりの雰囲気は皆無で、すべてがさりげなく、調和のとれたやすらぎを感じることのできる場所となっています。現場から離れることのなかったブルネレスキの極端に流れずアイディアをコントロールできる天才性の発露であり、ルネサンスと呼ばれることになった時代の到達点を体現しているともいえるのでしょう。

 

 こんな捨子養育院のことを、ルネサンスを意識する池上は、「合理的なプランで秩序だっていて、一目でわかる明澄な比例関係が何より特徴」で、「全体のコンセプトはギリシャ建築の厳密な比例関係に倣っている」と説明しています。そして、細部はフィレンツェのロマネスク(ロマネスクといってもフィレンツェのアレンジが加えられたロマネスク)、「サン・ジョヴァンニ洗礼堂やサン・ミニアート・アル・モンテ教会からの借用のようだ」とも書いています。

  捨子養育院のロッジア [2015.5.15撮影/アンヌンツィアータ広場]

  捨子養育院のメダイヨン(アンドレア・デッラ・ロッビア作) [同上]  

 ブルネレスキでもう一つだけ。サンタ・クローチェ教会に附属する「パッツィ家礼拝堂」です。晩年の作で、中村は次の文章を残しています。

 「 僕には、ブルネレスキという比例関係にこだわった建築家が晩年にたど

  り着いた建築の境地のようなものが、「ショートパンツをはいて背伸びし

  ている女性」を連想させるその外観に窺えるように思います。」

 この礼拝堂のあるサンタ・クローチェ教会へ足を運ぶことのできた2012年1月の2度目のフィレンツェも雨の日でした。このメディチ家と競い合ったというパッツィ家、その礼拝堂は教会の内部を通り抜けた修道院の中庭に面していました。ほとんど人のいない回廊から暗く沈むような礼拝堂を、へえーとただただ眺めていたことだけを覚えています。

 

 最後にブルネレスキ建築の形態上の総括。

 先にブルネレスキの捨子養育院についての池上の見方を紹介しましたが、その建築を次のとおり定義づけています。そして、それは古き「ゴシック的形態」を打破したことになるが、皮肉なことに、さらに古い「ロマネスク的形態」の復活という側面もあったのだというのです。

 「 ブルネレスキは、古典的形態たる半円アーチや古代式円柱さらには平坦

  天井を利用し、立方体・半球体・正方形と円形を巧みに組み合わせること

  で、明晰にして秩序ある空間、シンメトリーとプロポーションの極北を、

  建築のあらゆるところに実現した。」

  パッツィ家礼拝堂 [2012.1.4撮影/サンタ・クローチェ教会回廊]

 

🔹ファサードという顔の力ー外面だけではわからないけれどー

 この項では、前項の建築という文脈もあって、教会の顔というべきファサード、街の顔ともなっている教会のファサードを取りあげます。

 前項では、中村好文、森田義之そして池上俊一の文章の引用によって、自分の記憶にあるブルネレスキ建築を再構成しようとして、いつもの長広舌になってしまいました。今項は、基本、意識的に撮影したとはいえないが、それなりにストックされていた教会、聖堂のファサードの写真を掲示するにとどめておくことにします。

 

 と、書いたはなからですが、その前に、三つほど留意点を書いておくことにします。

 まずファサードが「顔」である由縁について述べてみましょう。

 私のような普通の観光客がヨーロッパの街に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが、大建造物である教会であり、それもファサードです。未知の人に初めて出会ったとき、その顔にあらわれた多くの情報から、その人の人となりを脳が読み取ろうとします。教会のファサードも同じなのです。私は自動的に、ファサードから、教会の内部を想像しますし(結局、内部に入っても違いが把握できないのですが)、ある街の重要な顔として街の全体像を描いてみようとしています。

 顔という外面だけでわかるものではないけれど、理解の一歩目は顔からという気がします。もちろん顔と全体が完全に一致することはなく、繰りかえし、その差異を確認しながら、印象や理解を修正していく、変容させていく過程をたどっているようです。

 こうした理解の過程は理想的ですが、観光客としてはそんな余裕はないのが一般的で、事前のガイドブックからえた情報と突き合わせていることも多いのです。さらに私のように事後において、街の顔というような外面から得た情報を、別の情報、たとえば雑誌の特集記事から再構成して、また旅をしたように錯覚して楽しむこともあります。

 とにかく、ファサードは化粧をしていようがすっぴんであろうが、「顔」だから、特別でかつ大切だということになります。したがって、教会のファサードの製作は、これに関わる人びとの精神を象徴するものであり、そんな「顔」の骨相には街の成り立ちと時代の諸相が反映しています。

 

 次に「様式の混在」と「地域の独自性」についてもふれておきましょう。

 教会、それも大規模な教会は、前記のドゥオーモもそうですが、長い期間にわたって建設されることが一般的です。ですから、建築の基本様式が「ロマネスクゴシックルネサンスマニエリスムバロック」と変遷すると説明されていても、同じ建造物に様式が混在していることも多いということです。もちろん壊れたり壊されたりすることも多く、そのたびに何回も改築修復が繰りかえされていることが普通なのです。

 前記したとおり池上俊一が「フィレンツェのロマネスク」と表現しているように、基本様式に地域の独自性、アレンジが付け加えられているのです。とりわけコムーネが発達し、国家的な統一の遅くなったイタリアでは、地域の独自性が強く出ているといわれています。

 したがって、「様式の混在」と「地域の独自性」からすると、教会のファサードを単純に基本様式で仕分けすることなどできないというわけです。

 

 三つ目は、フィレンツェという都市の色調のことです。

 これも森田義之に依拠していますが、イタリアでは、古い街の色調は建材である石の色が決定していることが多いのだそうです。地域ごとに採れる石が違うからで、フィレンツェでは、パラッツォ・ヴェッキオなどの壁体となっている黄褐色の「ピエトラ・フォルテ」が基調となっています。加えて建物の内部とか前記の捨子養育院のロッジアとか、明るいグレーの石「ピエトラ・セレーナ」も多く使われています。

 それになんといっても、クーポラの瓦の色、ヴァーミリオンの色こそ、フィレンツェの色として記憶に残ります。高いところに上らないと、フィレンツェの屋根屋根をおおう赤褐色は見えないのですが、クーポラだけは遠くからでも見えていて例外だというわけです。

 大理石は遠くから運んでくる貴重品であることから、外壁に用いるのは教会だけで、ドゥオーモとサン・ジョヴァンニ洗礼堂という例外を除くと、ファサード部分に限られているのだそうです。「カッラーラ産の大理石」を地にして「プラート産の大理石」や「マレンマ地方等のピンク色の大理石」で「幾何学的なパターン」を描き出していることになります。

 

 またまた長い前置きになりましたが、まずは大物、大規模な教会、ドゥオーモであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、代表的な修道会であるドミニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、そしてフランシスコ会のサンタ・クローチェ教会の三つです。

 いずれも13世紀後半から建設された教会ですが、細かな情報は省いて、ファサードについてだけ補足しておきます。製作順でいくと、サンタ・マリア・ノヴェッラはアルベルティの設計で1470年に完成(ルネサンス様式)、サンタ・クローチェは長く未完のままでニッコロ・マタスの設計で1863年に完成(ネオ・ゴシック様式)、そしてやはり途中で中断されたままであったサンタ・マリア・デル・フィオーレはエミリオ・デ・ファブリスの設計で1887年完成(ネオ・ゴシック様式)ということです。えっ、あとの二つは19世紀の完成なんだ、それまで今と同じファサードを見ていたのではないのです。それにしても、教会の躯体が完成しているに、現在のサン・ロレンツォ教会のフォサードのような荒削りのままであった(サンタ・マリア・デル・フィオーレは半分ぐらいはできていた)ことは驚きです。

 好き嫌いでいけばいかがでしょうか。極端にいえば、デザイン的には○△□の世界です。ドゥオーモのファサードは、華麗、華美、豪奢とともに、やりすぎという言葉が出てきてしまいます。宗教的な高い熱量がやはり行き過ぎを誘発してしまうのでしょうか。どれほどすごいなあと思っても、私からは<美>とはちょっと別物だと申し上げるしかありません。

 となると、やはりルネサンスらしい緊張と均衡を反映したサンタ・マリア・ノヴェッラの顔が一番美しいと感じています。これも池上のいう「シンメトリーとプロポーションの極北」というべきでしょう。

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 [2015.5.16撮影]

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂◆[同上]

  サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 [2015.5.15撮影]

  サンタ・クローチェ教会 [2012.1.4撮影]

 次は、初期のロマネスク様式の二つ。2回目のフィレンツェで宿泊したホテルの目の前にあったサンティ・アポストリ教会(「フィレンツェの古いドゥオーモ」と呼ばれることもある由緒ある教会とは知りませんでした)と、グラティエ橋上から撮影しただけのミケランジェロ広場に近いサン・ミニアート・アル・モンテ教会です。

 前者のファサードは前記の「ピエトラ・フォルテ」の石材でしょうか、後者は大理石です。前者の深く刻まれた年輪にはこれでもかの大理石のファサードを解毒するような効能を感じます。教会の内部にも入ってみましたが、頑固なまでに原型を守っている素朴な雰囲気の空間です。

 後者は玄人的なフィレンツェ好きに隠れたファンが多いそうで、池上のいうとおりいろんな後世のフィレンツェ建築に借用されているとのことですが、一見すると、そのファサードは、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会とサンタ・クローチェ教会に通じるものがあります。いわば池上のいうフィレンツェ的なロマネスクの典型的な代表モデルなのでしょう。

  サンティ・アポストリ教会 [2015.5.16撮影]

  サン・ミニアート・アル・モンテ教会 [2015.5.15撮影/グラティエ橋上]

 次は、大理石が使われていないファサードを二つ。メディチ家の菩提寺的な役割をはたしてきた教会として知られるサン・ロレンツォ教会と、アルノ川左岸のサント・スピリト教会です。いずれもブルネレスキが改築設計を手がけたといわれています。

 二つのファサードとも、いろんな事情からファサードは未完成のままになったのですが、後者のファサードは18世紀に今の形になりました。前者の方は、その後もファサードの改築プロジェクトが何度も持ち上がりましたが、現在まで実現できていないとのことです。もう一つ歯車が合わずなかなか実現できないといういわば不運の宿命なのかもしれませんが、前者の荒々しい石の素朴なたたずまい、後者のクリーム色に見える漆喰?が全面に塗られたシンプルなフォルム、いずれもすばらしいと思いませんか。私は、とてもいい顔をされたお年寄りに出会ったときのような静かな感動を覚えたのです。

  サン・ロレンツォ教会 [2015.5.17撮影]

  サント・スピリト教会 [2012.1.4撮影]

 最後は、夕食のために歩いていたときに撮影した教会を二つ。ですから内部に入ることなく外から眺めただけのサンタ・トリニタ教会オニサンティ教会です。はちみつ色というのでしょうか、そんな広場の照明のなかで、このような文化芸術都市の中心市街地の景観に溶け込んでいたように記憶しています。

 夜のために細部が分かりませんが、前者のファサードはベルナルド・ブォンタレンティの設計で16世紀の終わりころに完成(マニエリスム様式)し、後者はマッテオ・ニジェッティが手がけて1637年に完成(バロック様式)したのだそうです。昼の顔ではなく夜の顔で記憶してしまいました。

  サンタ・トリニタ教会 [2012.1.7撮影]

  オニサンティ教会 [2015.5.14撮影]

 

🔹空がひらけてーアルノ川と橋のリズミックな景観ー

 この項では、クーポラと並んで、「川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観」のことを書いておくことにします。というより、手元に残る写真から選択して掲示しておきたいのです。

 

 アルノ川は、フィレンツェの旧市街を北と南に分けるように東から西へ流れています。イタリアでは大きな川ですが、私の知っているフィレンツェの旧市街あたりでは、川幅がせいぜい100mから150mぐらいで、石造の4つの橋が架かっています(フィレンツェという自治体単位だと8つあるようです)。私の短い滞在期間ではいつも水量が豊かで日本の川のように河川敷が見えているようなことはなく、水の流れがゆったりしていて、どうかするとどちらが上流か下流か分からないほどでした。私の渡った4本の橋は、上流から、つまり東側から、グラティエ橋、有名なヴェッキオ橋サンタ・トリニタ橋、そしてカッライア橋です。前記のオニサンティ教会のところから少しに下流にアメリゴ・ヴェスプッチ橋もありますが、そこまで足を伸ばしていません。橋間の距離も近く、東端のグラティエ橋から西端のカッライア橋まで約1劼阿蕕い任靴腓Αそして、両岸とも、建物がびっしりと立ち並んで迫っています。

 こうした街の中心を流れる川は世界中にあることでしょう。でも、例えば同じイタリアでローマのテベレ川は川幅がもっと広いですし、私の訪ねることのできたプラハのヴォルタヴァ川、ブダペストのドナウ川も旧市街を貫通していますが、比較になりません。極端な例を持ちだすとすれば、川ではないですが、ヴェネツィアの大運河ぐらいの規模を想像していただくのがいいのかもしれません。

 アルノ川の北側の旧市街は川から1劼鯆兇┐同まで広がっていますが、フィレンツェの旧市街全体でも東西南北せいぜい1.5~2劼糧楼脇發房まってしまうと申し上げていいでしょう。いわばモータリゼーションの時代の市街地ではなく、徒歩で人間が移動していた時代の市街地です。そして、そんな稠密な旧市街地の真ん中に、アルノ川と橋がぽっかりと空いた空間を提供してくれているのです。

 人工物である建物群のただなかに、川の水という自然物が存在し、上流にはミケランジェロ広場の丘、下流にはピサへ向かって緑の広がりがあって、自然物でもある人間がそれを目にし、その存在を感じていることになるのです。

 

 フィレンツェでは、観光客はもとより、居住する人びと(働いている人は新市街からの方も多いでしょうが)を含め、旧市街のアルノ川の橋を使わないで、何か事を済ますことができません。結局、何回も、この空間を行ったり来たりすることになるのです。

 だから効果抜群なのです。前回、アルノ川と橋の空間は、クーポラとともに「見失った方向性をリセットするする定点」であり、困ったときなど「とにかくアルノ川まで出てしまって」位置を確認することになると書きました。つまりはフィレンツェ地図の定点として街のことをあまり知らない人びとにも安心感を与える効果です。

 もう一つは、フィレンツェというそれこそお宝だらけの街に放り込まれ「おびただしい点と線の輝きにエネルギーを使い果たし」、感情をかき乱される混乱のなかで、はっと我に返るというか、ほっと一息つけるのがアルノ川と橋の空間だということです。私自身はほとんど無知で感覚の鈍い旅行者であまり関係はありませんが、それでもボッチチェリやフラ・アンジェリコなど芸術の宝庫で何かを求めようとする人びとの熱のようなものに圧倒されてしまい、いささか辟易としてしまったあとで、アルノ川と橋の空間は心を静める効果があったと告白できるでしょう。そんな鎮静的な効果があるということです。

 こうした二つの効果をもつアルノ川と橋の空間は、フィレンツェという街に安心感と安定感を与えているといえます。それにこの空間自身がもつ美、両岸に迫る建物の連なりにアルノ川と橋がリズミックに作りだす景観自体が、もう一つのフィレンツェでもあります。

 

 前回紹介したとおり、フィレンツェには、2009年5月、2012年1月、2015年5月の3回、旅行者として訪れましたが、このアルノ川空間には、朝の散歩が可能な日は必ず、そして観光の途中、夕食の前後などにも、足を運んでいます。2回目と3回目のSDカードからチョイスして、簡単なコメントを付して掲示することにします。

 まず、2012年1月4日、2度目のフィレンツェに到着した翌日の3枚です。朝食の前にべェッキオ橋から下流側を撮影しました。二枚目は目玉であるヴァザーリの回廊を歩くツアーに参加して、出発点のウフィツィ美術館から写した橋の連なりと左岸に頭を突きだしたサン・フレディアーノ聖堂です。そして、三枚目はヴァザーリの回廊、すなわちヴェッキオ橋の階上の真ん中あたりから、同じく下流を写したものです。 

  アルノ川とサンタ・トリニタ橋 [2012.1.4撮影/べェッキオ橋上]

  アルノ川と橋の重なり [2012.1.4撮影/ウフィツ美術館]

  アルノ川と真ん中に鳥が [2012.1.4撮影/ヴァザーリの回廊の窓から]

 次に4つの橋をそれぞれ紹介します。ヴェッキオ橋の上流からのグラツィエ橋です。上のファサードで紹介したサン・ミニアート・デル・アル・モンテ教会が橋の向こうに小さく写っています。

 上流から撮ったヴェッキオ橋です。階上はヴァザーリの回廊となっています。さらに手前はボートクラブだそうです。ユニークで面白い橋に違いありませんし、橋上には真ん中あたりに開けた空間があるとはいえ、残念ながら、私には渡っていても橋という感じがしません。

 そして、サンタ・トリニタ橋カッライア橋です。似ていますし、どちらも美しいといっていいと思います。下流のバスも通っているカッライア橋あたりは川幅が少しだけ広くなっているせいか、アーチの数が違います。

  グラティエ橋と遠くの丘にアル・モンテ教会 [2015.5.15撮影/ヴェッキオ橋の上流]

  ヴェッキオ橋 [2015.5.15撮影/上記に同じ]

  サンタ・トリニタ橋 [2015.5.15撮影/ヴェッキオ橋上]

  カッライア橋 [2015.5.15撮影/サンタ・トリニタ橋上]

 続いて、一日のうちの時間帯別です。すべて2012年の1月撮影です。残念ながら、天候の関係もあって、多くの人が称賛する夕暮れの風景は撮影できていないのです。

 一枚目は、ようやく明けかかった冬の朝焼けで、サンタ・トリニタ橋上で、二人連れを意識して歩きながらシャッターを押したものです。次は冬の午後、晴れたアルノ川を、カッライア橋から上流を撮影しました。そして三、四枚目のピンボケ写真は、冬の早く訪れた夕刻と夜です。

 こうしてみると、偶然のこととはいえ、やはりアルノ川に架かった二階建てのヴェッキオ橋が、ヴェネツィアのリアルト橋のように、この景観の大きなアクセントになっていることが否定できません。

  アルノ川の朝焼けとカッライア橋 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  午後のヴェッキオ橋 [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  夕刻のヴェッキオ橋 [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  夜のヴェッキオ橋 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上]

 次に人が写っている写真です。

 2度目のフレンツェに着いた翌朝、2012年1月4日の朝早く、ヴェッキオ橋からアルノ川の上流にレンズを向けている女性です。続く写真は、アルノ川はアスレチックのための空間ともなっていますが、2015年5月15日、右岸沿いに下流へとランニングしている女性です。

 最後は、サンタ・トリニタ橋の右岸たもとに立つ彫刻の人です(街の守護神なのでしょうか?)。

  ヴェッキオ橋からの撮影する女性 [2012.1.4撮影/ヴェッキオ橋]

  アルノ川右岸を走る人 [2015.5.15撮影/サンタ・トリニタ橋近くの右岸道路]

  サンタ・トリニタ橋右岸の彫刻 [2015.5.16撮影]

 最後の1枚です。晴れた朝、今となるとフィレンツェに滞在していた最後の朝、カッライア橋上から、上流に向かってシャッターを切りました。なんて白く鏡のように水面が光っていることでしょう。

  アルノ川という空間 [2015.5.17撮影/カッライア橋上]

 ガイドブックに書かれていることですが、古代ローマの頃からあったヴェッキオ橋は、1333年の大洪水で流され、その十数年後に現在のように両側に建物が並ぶ回廊風の石橋として再建されたのです。そして、ヴァザーリの回廊は、それから2百年もあと、1565年に建設されました。大洪水はこれで終わったわけではありません。サンタ・クローチェ教会で写真入りで紹介されていたので気づいたのですが、半世紀ほど前の1966年11月4日の大洪水によって、フィレンツェは広い範囲でまさに湖と化したのです。

 以上、いずれしても、アルノ川と橋のリズミックな景観は、フィレンツェと切り離すことのできないものですから、訪れることがあったら、ぜひ足を運んでいただけたらと思っています。

 

 悪い癖ですが、あと1回だけ続けさせてください。

                      【続く:(1)/(3・完)へ】

 

2018.07.02 Monday

クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(1)

 いざ旅をしてみようとなっても、同じ場所を選びたくなるのはどうしてなのでしょう。実際に未知の土地へ足を運んだら喜びを感じることも多いのでしょうに、もう一度行ってみたいが先に立ってしまいます。

 退職の年(2009年)に始まり7年間続いた海外への旅をふりかえってみても、フィレンツェには三度訪れたことになります。三度はフィレンツェだけで、二度というのが、ヴェネツィア、ローマ、上海の3都市です。当ブログを開始してからの海外旅行は1回だけで、この旅のことは「シチリア・ナポリ紀行」として報告しましたし、その前年に出かけたヴェネツィア、オルヴィエートをはじめ、上海、バルセロナ、プラハ、リスボンなども取り上げてきました。

 ではどうして三度のフィレンツェを書こうとしなかったのか、それはたんなる偶然というより、やはり理由(わけ)があるように感じていました。対象があまりに巨人すぎて、消化不良を起こしてしまい、歯が立たないという感覚はたしかにあります。でも程度の差はあっても、フィレンツェにかぎったことではなさそうです。ではどういうことかと自分に問うても、納得できる言葉が見つかりませんが、私にとってのフィレンツェを一つに絞ることができない、一つの視点からフィレンツェ像を定着することはとてもできそうにないなあと感じていたのだと思っています。

 今回、フィレンツェへの旅のことを書いておこうとしたきっかけは、本年5月刊の池上俊一という方の『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』(岩波新書)を読んだからです。というより、最後の海外旅行から2年余、私にとって不完全燃焼観のある「フィレンツェ」のことをやはり書いておこうと準備を始めていたときに、同書の刊行を知り、せっかくの機会だからとなりました。

 

 フィレンツェへの旅(2009年5月/2012年1月/2015年5月)の概要は後述するとして、二度目のフィレンツェへの到着から書きはじめることにします。

 パリ、ローマと乗り継いで、フィレンツェの旧市街、アルノ川右岸に面したホテルへ到着したのは真夜中になっていました。へとへとのツアー客13人は押し黙ったまま、中世へタイムスリップしたサンティ・アポストリ通りの石畳を、ホテルへと向かいました。この光景が、時代を超越した空間に包まれているという皮膚感覚のようなものが、私にとってフィレンツェ体験の一つの核になっているのだと、今回改めて写真を整理していて気づきました。

 大観光都市の点、線のお宝というより、面、空間としての街のたたずまいが、何よりフィレンツェだということです。こんな面、空間があって、点と線のお宝も活かされている、そんな街がフィレンツェなんだと、色のさめかかった記憶のなかから、そんなイメージが現れてきました。

  真夜中にホテルへ [2012.1.3/サンティー・アポストリ通り]

 フィレンツェの点、線のイメージは、そんなに網羅的に観光していない私でも、絵画や彫刻を含め、いろいろと残っています。だけれど、今やスクリーニングされて、何よりまざまざと眼前に浮かんでくるのは、これぞベタのきわみということになりますが、何よりドゥオーモの大ドーム、フィレンツェの代表色である赤褐色の瓦のクーポラであり、川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観なのです。

 このクーポラアルノ川は、フィレンツェという街がフィレンツェであるためのランドマークとなっています。私にとっては、朝の散歩から、昼の路地歩き、夜のブラ歩きまで、見失った方向性をリセットする定点となっていました。首を上方へふると、街のいろんな地点からクーポラが顔をのぞかせていますし、それでもなお困った場合は、とにかくアルノ川まで出てしまって、旧市街にかかる四本の橋との関係から位置を確認することができるのです。

  ドゥオーモのクーポラ [2012.1.7撮影/ラ・リナシェンテ屋上]

  ドゥオーモのクーポラが月と並んで  [2012.1.7撮影]

  サンタ・トリニタ橋とヴェッキオ橋の見えるアルノ川風景 [2015.5.16撮影/カッライア橋]

  夜のヴェッキオ橋  [2012.1.7撮影/アルノ川右岸]

 ここまで書いてきて、これもまたベタといっていい「フィレンツェは都市(まち)全体が芸術だった」という辻邦生の言葉(『美しい夏の行方』1989年7月刊/中央公論社)に再会しているように感じています。おびただしい点と線の輝きにエネルギーを使い果たし、街中に身をおいてほっと一息ついた多くの方が、きっと同じような感想を抱いたのではないでしょうか。

 私自身、芸術の美にあこがれつつも、感性や知識の欠落を自覚するとともに、その至上主義的な傾向を忌避してきた者として、恍惚感にからめとられたようなフィレンツェ賛美には同調すまいという構えをもっていたのでしょう。でも今となってみると、具体の表象が霧散し、フィレンツェという歴史が堆積した空間にただ身をおいていたことに深い喜びを感じる自分を再発見しています。

 

 そんな私にできること、本稿では、池上俊一の『フィレンツェ』を起点として、というより、この新書にある歴史記述を参照しつつ、私が歩いて出会った表象を、その背景も視野にいれつつ、綴ってみようと考えています。

 池上の小冊子は、フィレンツェの歴史を、ルネサンス期を中心におきつつも、古代から近現代まで通史的にまとめたものです。新書版という制約のなかでも、池上がルネサンスの通説?に対する違和感を押し出していることに、私は驚きました。最初に池上の問題提起を紹介したうえで、三度のフィレンツェへの旅を概観し、ブログに残しておきたいことをピックアップし、ぼんやりとカスミのかかった記憶に形を与える作業を試みることにします。この作業を通して、池上のいう「古代から現代まで一貫して流れる「フィレンツェ性」というべきもの」とクロスできるなら、それは望外ということになります。

 と気取ってみたところで、結局は、旅の写真を再整理するだけで終わってしまいそうではありますが、とりあえず池上の問題提起からはじめることにいたしましょう。

 

🔹ルネサンスは連続か断絶かー池上俊一の問題提起ー

 池上の『フィレンツェ』は、ルネサンスのクリシェ(決まり文句)へ、まず冷や水を浴びせることから始まっています。つまりルネサンス期のフィレンツェとは「因習に囚われた中世社会から絶縁して、個人それぞれが自由な人間性の発露へと飛翔した、特別な美の世界をまず最初にもたらした」という固定観念に対し、「いささか胡散臭いところがないだろうか」という問いを投げかけています。

 これを読んで、私たちの年代の者が教科書ですりこまれた「中世という暗黒時代から人間を解放しようという運動がルネサンス」だという通念に対し、池上が問題提起していると感じたのです。中世の「暗」「黒」に対し、ルネサンスは「明」「白」というような、人間世界の単純な対比、線引きは、さすがにこれまでの人生経験が許さなくなっていましたが、同時に「三つ子の魂百まで」とされるようにどこかに残滓があるのもまた事実でした。ですから、この池上の姿勢に刺激をもらいながら、本書を読むことになりました。

 

 新書の帯裏には、本書で「フィレンツェ」と「ルネサンス」を論じようとするための池上の方法と方向が、冒頭の「はじめに」の文中から引用されています。先の問題提起を、「相対化」という言葉を使って説明しているような文章ですが、再引用してみます。

 「 私はこれから本書で、フィレンツェの歴史を、そのもっとも輝かしい時

  代であるルネサンス期を中心としつつも、古代から現代まで辿っていくつ

  もりである。そしてルネサンスの革新性を持て囃す言説を多少とも相対化

  してみたい。それはフィレンツェという都市の世界史上の意義・価値を貶

  めることを意味しない。むしろ逆である。ルネサンス期にとどまらない、

  古代から現代まで一貫して流れる「フィレンツェ性」とでもいうべきもの

  の偉大な存在を炙り出してみせようというのだから。」

 そして、本書全体を通して、古代以来一貫してトスカーナ地方の中心であったフィレンツェという町を理解するためには、「それを作り上げた歴史の「重層性」を注視しなくてはならない」と強調し、フィレンツェのルネサンス理解について次の確信的な言葉を書きつけています。

 「 紀元前から中世までの歴史の積み重ねがあってはじめて「ルネサンス」

  という輝かしい文化現象が出来(しゅったい)したことは疑いない。」

 だからこそ、古代から現代に至るフィレンツェの歴史を通観しなくてはならないのだというのでしょう。ちなみに、帯の表には「歴史の重なりこそ この町の尽きせぬ 魅力の源だ」とあります。

  池上俊一『フィレンツェー比類なき文化芸術都市』 2018年5月刊/岩波新書

 もう少し具体的に書いてみることにしましょう。

 市街地のど真ん中に最古層の「古代」が残っているフィレンツェは、ローマ都市の建築物や神様が中世・ルネサンス期にも維持されていて、「フィレンツェ市民の精神の中にずっと生きながらえ、ローマ史との繋がりをたえず意識しつづけていた」と、池上は記しています。

 そして、古代には「二つのフィレンツェ」、すなわちアルノ川北側の右岸「異教的なローマ都市フィレンツェ」と、2、3世紀の頃にはその対岸に「キリスト教的なフィレンツェ」があって、「1000年くらいの長い年月をかけて、徐々に第二のフィレンツェの精神が第一のフィレンツェに浸透していくのだ」と描いています。初期のキリスト教会は商業の中心から遠く外れた周縁部に建てられたのであり、いわば「キリスト教は外部・周縁からジワジワ浸透する」という歴史があったのだとしているのです。

 

 この最古層の古代から版図を広げた第二層「中世」都市のフィレンツェについて、池上はルネサンス期を導くことになる土台として、三つの要点を強調しています。

 第一は、「コムーネ(自治都市)という文明体がフィレンツェで最高度に発展したということ」、第二には「中世におけるキリスト教信仰の深化がそのままルネサンスにも引き継がれていったこと」としています。この第二の要点からは、古代から由来しルネサンス期に再興した異教文化や世俗価値との関連が問題になりますが、池上は「両者は矛盾するどころか支え合って、ルネサンスの文化と社会を作り上げていったのである」と指摘しています。

 そして第三に「中世の社会関係の基軸である家族・親族関係が、他の社会的結合関係と調合されネットワークを広げながらルネサンス期に奮い立ち、「名誉」という観念を介して芸術作品を盛り立てたという事情」があったと述べています。

 このルネサンスという文化現象の基盤として、フィレンツェという商業都市が、ヨーロッパの地殻変動から影響を受けながら(もちろん影響も与えています)、ヨーロッパ世界の都市中の都市として、経済基盤の拡大と地位の向上を果たしてきた事実と実績があったといえます。

 こうした古代都市、中世都市であった蓄積の意味を、池上は次のように記しています。

 「 これら先立つ時代が、たんにルネサンス期のための土台になったという

  だけでなく、15世紀を前後する時期にフィレンツェ市民たちがルネサンス

  文化を形成していく際に、たえず古代・中世の先例、範型が呼び戻され、

  参照されていったということでもあり、ここには「革命」とか「断絶」以

  上に「連続」があるのである。」 

 こうして池上は、断言はしていないものの、ルネサンスの革新性を<相対化>することによって、中世とルネサンス期の関係について「断絶」よりも「連続」の方へ傾斜した見方を明確に示しているものと読みました。

  ローマ時代の城壁の拡大と主要教会の位置 池上俊一『フィレンツェ』p29

 前後しますが、古代から現代まで一貫して流れる「フィレンツェ性」なるものについて、池上は遺伝子のようなものとして、次の特徴をまとめています。

 「 政治面での「自由」「平等」「共和制」への熱烈な希求であり、芸術面

  では「比例」と「調和」を重んずる独自の芸術意志と美的感覚である。ま

  た都市計画や建築の外観、広場に飾られる彫刻作品や人々の習俗に明瞭な

  「男性性」なども、特徴のひとつに数えられよう。」

 つまり、こんな不変の遺伝子をもつフィレンツェでは、各時代がおかれた内外の諸状況・条件のもとで、それぞれ固有の文化が花開いたのであり、14世紀後半には後に「ルネサンス期」と呼ばれることになった文化表象が幅広く展開されたのだというのです。したがってフィレンツェという都市の歴史は古代から現代までの歴史の積み重なりとして、一貫した筋道で見通すことができるのではないかと、池上は主張しているものと、私は理解しました。

 

 『フィレンツェ』の各章では、ルネサンス期を中心に各時代の特質と、時代を貫通する繋がりが、コンパクトに概観されていますが、これが成功しているか否か、残念ながら、私にはよくわからないというのが正直なところです。もとより池上の『フィレンツェ』と、私のように21世紀のフィレンツェを通過しただけの旅行者が出会った表象の断片を関連づけようなどと大それた願望はもっていませんが、以下では、同書を見失ってしまうことのないようにしつつ、旅の記憶をメモすることにします。

 そして、できれば、最後にもう一度、池上の問題提起に戻ってみたいと考えています。

 

🔹三度のフィレンツェー何と出会ったのかー 

 ここでは、三度のフィレンツェへの旅を概観し、記憶から浮かび上がる表象の断片を簡単に整理しておくことにします。

 いつものようにデジカメで撮影した写真が、記憶回復ツールのキーとなっています。なお、残念なことに、一度目の旅はSDカードが手元になく印刷した写真しか残っていませんので、掲載写真は二度目、三度目に撮影したものを使っています。

 まあ、特別に印象的であったと記憶する「もの」「場所」などをピックアップし、本稿の後半部でもう少し詳しく書いてみたいと思っています。

 

度目[2009年5月/2泊]ーヴェネツィアに眩惑されてしまいー

 退職した年の5月、実質的に最初の海外旅行、某旅行社の定番・初心者用ツアー、イタリア11日間、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ各2泊、アッシジに立ち寄り、最後にローマ3泊というコースでした。

 フィレンツェにはヴェネツィアから鉄道で移動しました。フィレンツェ中央駅近くのホテルから添乗員の方に誘導されて、ドゥオーモの内部見学からシニョーリア広場、そしてウフィツィ美術館入場へという超王道コースを、在住日本人ベテランガイド付きで急ぎ足で回りました。とにかく観光客であふれていましたが、私たちとちがって、近くのロッジアの階段にゆったりと座り込んでいる大勢の人たちの姿も目立っていました。

 ドゥオーモが近づくと、ミラノ、ヴェネツィアで見かけなかった多色の大理石でデザインされたフォサードや外壁に度肝を抜かれた感覚をもちましたが、そんな驚きの在りかを味あう間もなく、急かされるように大聖堂の内部へと誘導されました。そしてクーポラの真下から、あのヴァザーリが描いたという天井画「最後の審判」を、なんて高いところにと茫然と見上げました。

 そして、クーポラや鐘楼に上るのはそれぞれでお願いと言わんばかりに、シニョーリア広場へ移動したのです。ヴェッキオ宮殿の壁の小レリーフはミケランジェロのものらしいと秘密めいた説明を聞いてから、ウフィツィ美術館の大階段を上ったのです。膨大な展示の中から、これだけはとボッチチェリ「春」「ヴィーナスの誕生」、ダ・ヴィンチ「受胎告知」ら有名どころを駆け足で説明をうけましたが、ふむふむと思っているうちに終わってしまいました。ただ短い自由時間に出会ったピエロ・デラ・フランチェスカ『ウルビーノ公爵夫妻の肖像』の不思議な印象が強烈で、帰ってから調べたことを覚えています。

 

 今ふりかえると、直前のヴェネツィアというワン・アンド・オンリーの海上都市にすっかり眩惑されていて、文化芸術都市の巨人であるフィレンツェでさえも相対的に割を食った、つまりフィレンツェに対峙するエネルギーがヴェネツィアで吸いとられしまい枯渇していた、あるいは受容する感覚装置が麻痺してしまっていたというべきではなかったかと思っています。

 あのロッジアで座っていた観光客も、歩き疲れ、人疲れの観光中に一息ついていたのでしょうが、そういえばフィレンツェが放射するエネルギーの前に放心したように見えなくもなかったなあと思い返しているのです。

 洗礼堂・ドゥオーモ・鐘楼  [2012.1.6/ドゥオーモ広場]

  ドゥカーレ宮殿・ウフィツィ美術館・ロッジア [2015.5.15撮影/シニョリーア広場]

 二日目は、終日自由行動。ツアー有志と中央市場でおみやげ探しの後、別行動で事前に予定していたマリノ・マリーニ美術館へ。迷いながらなんとか到着できました。どうしてマリーニ(1901-80)なのかは、ブログを始めたころに書いたとおりなのです(「ギャラリー島田に向かって」)。つまり、まだ昭和の時期に往時の「海文堂ギャラリー」で、美術作品なるものを最初に購入したのが、「赤い馬に赤い人がまたがり、両手を広げている」マリーニの版画作品であったというご縁があるのです。さらに、ちょうど直前にはヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム美術館でマリーニの彫刻作品が屋外の中心的な場所に展示されているのを見て、マリーニのことなどよく知らないままなのに、自分がほめられているような気持ちになっていたりもしました。

 このようなことで、元教会の建物を改装して1988年に開館したマリノ・マリーニ美術館を訪ねることができたことに、少なからぬ感懐を覚えていました。そして、よく考え抜かれた展示のなかに身をおき「数人の見学者しかいないなかで存分に楽しむことができ」、私にとって、一度目のフィレンツェのハイライトになりました。今も、こんなに長時間(といっても2時間程度なのでしょうが)を美術館で過ごしたことはなかったように思っています。

 うれしい気持ちを抱えながら、添乗員から教えてもらったバール「プロカッチ」をのぞきましたが、注文の言葉が全く出てこなくてフリーズしてしまい、ただ指さしするしかなかったことを覚えています。

  マリノ・マリーニ美術館フォサード [2012.1.7撮影]

  マリノ・マリーニ美術館内部  [2012.1.7撮影]

 翌3日目、フィレンツェからアッシジに向かう前に、バスでミケランジェロ広場へ立ち寄りました。記念撮影タイムでしたが、ここで事実上初めてドゥオーモのクーポラと出会ったのだと感じています。

 フィレンツェの旧市街を一望できる丘の上から、クーポラは一頭地抜いた高さと、他の建築物と物差しが違うような大きさで、そこにありました。これこそランドマークというべきなのでしょうが、大げさにいうと、このクーポラが中核にあって、現在のフィレンツェの市街地が存在しているように見えたのです。クーポラの完成は1436年とありますから、いわゆるルネッサンス期の高揚を象徴するものだったのでしょう。古代から積み重ねられた歴史の蓄積が、フィレンツェの赤褐色の市街地から、後にルネサンスと呼ばれる時代のエネルギーに後押しされて、ぽっかりと浮上したもののように感じました。

 「初めて出会った」と書きましたが、このクーポラの偉大さを、これを可能にしたというブレネレスキへの興味も、このとき「初めて発見した」という表現が適当なのかもしれません。

  2009.5.17撮影の写真(印刷分)を今回撮影したもの

 

Ⓑ二度目[2012年1月/5泊]ー今から思うと幸運だったー

 一度目と同じ旅行社のスポット企画「花の都フィレンツェと美しいトスカーナ7日間」とネーミングされたツアーが、二度目のフィレンツェでした。1月3日出発9日帰国という必要な休暇日数が少なくてすむ時期、アルノ川右岸沿いの同じホテルに5連泊で観光地引き回され度の少ない旅程、円高を反映した割安感のある旅行代金という三拍子がそろっていました。最初のイタリアから2年たち禁断症状も出てきていて、急に参加することにしたのです。

 それ以降、このような企画はなさそうなので、今となっては幸運な機会だったなと振りかえることができます。冬でしたがあまり寒さを感じることもなく、かえって観光客の少ない時期であったことは、フィレンツェを味わうという点ではよかったのだと思っています。

 

 ツアーの目玉は、ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-74)生誕500年ということで、ふつうは入れない「ヴァザーリの回廊」を歩くというイベントでした。翌4日、まずウフィツィ美術館に出かけていくと(まだ開館前だったためか美術館の展示室には入れませんでした)、係員の人があらわれ、大トビラの鍵を開け、その開けたところがすぐ階段になっていて、それを降りていくと、対岸のピッティ宮殿まで約1丗海「ヴァザーリの回廊」に出るのです。私たちツアー一行は日本人ガイドから説明を聞きながら歩いていくのですが、管理責任のある係員の方は一行から少し離れて後をついてくるという形で進んでいきます。

 700枚もの肖像画を中心とした絵画が展示されていましたが、もったいないことに、今は記憶から全く消えています。今記憶にあるのは、窓から見える豊かな水量のアルノ川とサンタ・トリニタ橋・カライア橋がおりなす景観です。ふつうの観光客は入れないのに回廊を歩いているという優越の気持ちが皆無だったわけではありませんが(後になって特別の別料金で可能と知りましたが)、それだけのことであったと申しあげていいのかもしれません。とにかく、一度目の最後にクーポラを発見したと感じたと同じように、「ヴァザーリの回廊」でアルノ川の景観を発見することになりました。

 このヴェッキオ橋の2階部分を取りこんだ「ヴァザーリの回廊」は、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1565年に完成しています。遡って上級市民であったメディチ家が共和制のもとに実権を握ったのが、1434年のことです。クーポラの完成と同じ時期です。それから約100年、その間有為転変はありつつも、あくまで共和制の下でのメディチ家寡頭支配という文脈に注意が必要ですが、ついに1532年には君主制が開始され、あとを継いだコジモ一世は王朝の偉大さを鼓吹するために、フィレンツェの都市改造に取り組んだのだそうです。その責任者がヴァザーリであり、大公と家族が地上を歩かないでドゥカーレ宮殿と対岸のピッティ宮殿を往復できるように作られたのが「ヴァザーリの回廊」であったというわけです。

  ヴェッキオ橋・サンタ・トリニタ橋・カッライア橋 [2012.1.4撮影/ウフィツィ美術館内]

   ㊟2階部分の窓の一つから下記の写真を撮影しました

  ヴァザーリの回廊からのアルノ川上流風景 [2012.1.4撮影/ヴァザーリの回廊]

 ツアーとしてフィレンツェ内で案内されたのは、「ヴァザーリの回廊」のすぐ後に「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」もありましたが、次の三度目で再訪することになった「サン・マルコ修道院(美術館)」には6日に案内されました。

 もちろんといっていいのか、フラ・アンジェリコ(1390/1395頃-1455)の「受胎告知」です。ドゥオーモのクーポラが完成したのが1436年でしたが、その少し後の1439-44年頃にドメニコ修道会厳守派のサン・マルコ修道院は今のかたちに建て直されたのだそうです。「受胎告知」は階上の僧房棟へ向かう階段を上った入り口のところに描かれたフレスコ壁画です。

 この美術館の特異なところは、修道院の僧房棟がそのまま美術館になっており、小さく狭い40室の僧房(次回に登場してもらう中村好文によると3m×2.5mくらい)の壁に、フラ・アンジェリコや弟子たちによるフレスコ画が描かれていることです。ちょっと美術館とは思えない、修道士たちの信仰生活の気配が染みついているのです。そのような生活の正反対にいる者としては、声を出すことはもちろん、想像することさえはばかられるような、畏れ入るという感覚にとらわれたことを告白しておかなければなりません。

 フィリッポ・リッピと対比的に語られることの多いフラ・アンジェリコ(修道士アンジェリコという通称です)は、聖者のような画僧の生涯をおくったといわれています。約100年後、先ほどのヴァザーリはあの列伝で「この修道士をいくら褒め称えても褒めすぎることはない。あらゆる言動において謙虚で温和な人物であり、描く絵画は才能にあふれており信心深い敬虔な作品ばかりだった」と記しているのだそうです。

 修道士の精神生活に平安をもたらす絵、これはこれで絵の機能を考えていたということもできますが、私が著名な絵画で実際に見ることのできた作品のなかでは、外のどの絵よりも「何かを主張することを感じさせない絵」であると感じたのです。もとより主張しないことで雄弁に語っていると言われればそのとおりなのですが、信仰をもたない者の独り言なのでしょう。

  サン・マルコ修道院の回廊 [2012.1.6撮影]

  その時購入した「受胎告知」のポスター

 今回のツアーでは、トスカーナ地方のフィレンツェ以外のコムーネ、すなわちシエナ、ピエンツァそしてシエナの砦であった小さな村のモンテリッジョーリへも足を伸ばしました。冬の1月とはいえ、オルチャ渓谷は緑を失うことなく、自然と人工のあわいを感じさせてくれました。

 池上の『フィレンツェ』は、都市自治体であるコムーネを、「政治・経済・社会・宗教・文化全般」にわたる、盛期中世(10-14世紀半ば)の文明化装置であったとしています。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝のパワーゲームをかいくぐって(ついたり離れたりも繰り返しながら)、自治権を拡大してきたのが北イタリアのコムーネであったというわけです。フィレンツェはもちろん、シエナもピエンツァも、有力なコムーネでした。

 

 5日のシエナ行きは、どうしてなのか、いつもの朝の散歩ができないほど早く、ホテル7時半出発でした。トスカーナにおいてフィレンツェの最大のライバルであったシエナ(熾烈な覇権争いが繰り広げられました)、銀行業の発達はフィレンツェより早く、いまでも現役の銀行が営業しているとのことで、いかにもそれらしい建物が紹介されました。宗教的行事のためか入場できなかったドゥオーモからカンポ広場にやってくると、その広さに驚きました。フィレンツェには、年に2回パーリオと呼ばれる競馬が開催されるカンポ広場に匹敵するスケール感をもつ広場はないようです。今のシエナ市民の中にかつて宿敵であったフィレンツェへの微妙な感情があるのかどうか定かではありませんが、まだ住む人の息遣いを感じる旧市街の独自性は十分に残っているようでした(中世の面影は大観光都市のフィレンツェより色濃いといえます)。

 複数の丘からなるカンポ広場のすり鉢状の傾斜に驚く視線の向こうには、冬の陽ざしにすっくと立つ「マンジャの塔」が光っていました。その高さ102mは現在もトスカーナで一番高いそうです。階段で上れると聞いて、同じツアーのご夫妻と並んで待ちましたが、バスの出発時間の関係で断念したのは、心残りとなりました。

 このご夫妻の旅慣れぶりは徹底していて、とにかく荷物の量の少なさ、それぞれの手荷物プラス二人で小さなキャリーバッグ1つだけで、大きなトランク持参の私たちはすごいですねと笑っておくしかありませんでした。

  シエナのカンポ広場  [2012.1.5撮影]

  マンジャの塔(カンポ広場) [2012.1.6撮影]

  モンテリッジョーリ(シエナの防衛砦) [2012.1.6撮影/城壁から]

 このツアーは、5泊7日の旅程といっても、実行動は丸4日間だけです。ツアーとして、いっしょに食事したのは、最初の3日間の昼食だけでした。フィレンツェの外へ出かけても、戻ってくると、あとは自由行動でしたから、夕食の前後に歩いたりする余裕がありました。街歩きという意味では、朝の散歩だけでなく、夕刻、夜とわりに時間帯をえらばずに動くことができました。

 人通りのない狭い路地を通り抜けるのはためらわれたりしましたが、その秘密めいた迷路性はやはり魅力でした。こんな路地への偏愛は、あまり特殊ではなく、私は人間のもつ普遍的な志向だと思っているのです。ライトアップされた夜のフィレンツェもやはり美しいというほかなくて、性能の悪いデジカメでもたまにはいい写真を撮ることができました。なんといっても道に迷うことのないアルノ川近辺がその主役です。

 ちょうど1月6日の夕刻、ヴェッキオ橋あたりをふらついていて、東方三博士兄弟会が主宰する「マギ祭」の騎馬行列と偶然に出くわしたりしました。池上の『フィレンツェ』では、広場や街路が舞台となって、野外でもルネサンス文化が展開されたことにふれています。この「マギ祭」はキリスト教関連の敬虔なる祭儀の一つとして紹介されていますが、ある面でフィレンツェの遺伝子である共和制、その共同体意識を象徴する世俗性の際立った謝肉祭やカレンディマッジョのような祭りの存在が強調されています。

 行動できる最後の日、7日は丸一日自由行動でしたから、もちろん「マリノ・マリーニ美術館」を再訪し、ゆっくりと旧交をあたためたのは申し上げるまでもありません。この冬の晴れた日の午後、レプブリカ広場に面したラ・リナシェンテという百貨店らしきものの屋上屋外バールへ上がりましたが、コートを着込んだ客で満員でした。本稿の前の方で使った写真の景観、青空のもと、クーポラが手の届きそうなほど眼前にある光景が、そこにあったのです。

  マギ祭の騎馬行列  [2012.1.6撮影/ヴェッキオ橋近く]    

  ヴェッキオ橋からアルノ川左岸をのぞむ  [2012.1.7撮影/アルノ川右岸]  

  屋上バールの眼前にあるクーポラ [2012.1.7撮影/ラ・リナシェンテ]

 

Ⓒ三度目(2015年5月/3泊)ー自転車に乗ったけれどー

 一度目のフィレンツェから6年、フルタイムの仕事から退いた年の5月、最初の旅をほぼ逆回りにたどる個人旅行に出かけました。ローマ2泊、オルヴィエート2泊、フィレンツェ3泊、最後にヴェネツィア4泊というコースで、これが三度目のフィレンツェです。

 フィレンツェにはオルヴィエートから鈍行電車で3時間くらいかけて着きました。中央駅から徒歩数分、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場に面したホテルの部屋からは、滞在中、同教会のフォサードと広場が調和する完成された光景を楽しむことができました。

  サンタ・マリア・ノヴェッラ教会と同広場 [2015.5.14撮影/サンタ・マリア・ノヴェッラH]

 翌日は、家人の足膝のこともあって、中央駅前のサイクルスポットで2台の自転車を借りて出発しました。

 最初は二度目のフィレンツェで出会ったサン・マルコ美術館へ向かったのですが、着いたころには、雨が降り始めていました。とにかくとサン・マルコ修道院に入場し、「受胎告知」へ急ぎました。当たり前ですが、僧房棟の階段を上がったところに変わらず存在していました。最初にこれを見てしまったのがいけなかったのか、僧房の各室に描かれたフレスコ画を落ち着いてみようとしましたが駄目でした。これでベッドと机がおいたら狭いというしかないだろうと、小さな部屋と窓をのぞきこんでいると、数百年前のことなのに、同じ人間がここで修行していた、信仰生活をおくっていたという事実を想像できない自分がいました。

 次はブルーのごみ袋でつくったようなカッパを着て、近くの捨子養育院へ行きましたが、同美術館は閉館日でした。雨脚が強まってきたので、近くの考古学博物館へ雨宿りのために入場しましたが、そこで何を見たのか、出会ったのか、全く記憶にないのです。

 捨子養育院は1455年の開設、クーポラのブレネレスキによるルネサンス建築の代表だそうです。池上の『フィレンツェ』によれば、「子供好き、可愛がりは、とりわけ15世紀に入って顕著な傾向」である一方で、「子供の遺棄や子殺しの悪しき慣習も継続」しており、同養育院はより専門的、本格的で、いわば子供福祉センターであったというのです。池上は、フィレンツェのコムーネは子殺しや捨て子の増加を許しがたいものと考えており、この養育院を「家族」を守りつつ「都市」の名誉を確保するというフィレンツェの精神に基づく、いわば拡大家族に擬せられた施設ではなかったかと解しています。

 

 雨も小降りになりましたが、いったんはホテルに戻ろうと、サンタ・クローチェ教会の横を通り、グラツィエ橋をわたってアルノ川左岸道路をすすみ、カッライア橋で右折して、フォッシ通りをサンタ・マリア・ノヴェッラ広場へと戻ってきました。グラティエ橋からは、遠くミケランジェロ広場のさらに上方の初期キリスト教会の地にあたる「サン・ミニアート・アル・モンテ教会」のフォサードが望見できました。

 このサイクリングは旧市街地内の外側をぐるっと四分の三周するような行程ですが、自転車でなければ私たちにはとても無理な距離です。初めてのフィレンツェ自転車行は、自動車が気になってアルノ川を楽しむような余裕がありませんでした。ホテル近くで遅い昼食を食べてワインを飲むと、まあもういいかという気分になったという体たらくです。マリーノ・マリーニ美術館に三訪する機会を自ら失いました。

 あとは夜に、再びカッライア橋を徒歩でわたり出かけた、サント・スピリット地区のサン・モナカ教会で開かれた観光客向けオペラミュージック・コンサートの写真が残っているだけです。

  フラ・アンジェリコの「受胎告知」と向き合う [2015.5.15/サン・マルコ美術館内]

  サン・マルコ美術館の僧房棟内 [2015.5.15撮影]

  捨子養育院のロッジア  [2015.5.15撮影/サンティッシマ・アヌンツィアータ広場]

 翌日は、旅行前から予定していたルッカを訪ねました。ピサにしようかと迷いましたが、フィレンツェからの距離と駅に貸自転車があるとの情報を得て決めました。二人だけだと電車に乗ることすら大変ですが、ルッカ駅になんとか到着、自転車を借りて、一周4.2劼両詈匹念呂泙譴慎貉坡垢惴いました。

 まずは、城壁の上が遊歩道になっていて自転車走行が可能ということで、走り始めると、古い車のパレードがあって面食らいました。後で理由がわかったのですが、これは北イタリアを走り抜ける世界最高峰のクラシックカーレースである「ミッレ・ミリア」がちょうどルッカを通過する日で、街の人が参加する協賛イベントだったのです。神聖ローマ帝国の辺境伯領であったトスカーナの中世前期の頃には、ルッカが中心で、続いてビサやシエナ、フィレンツェが台頭してきたのです。したがって、まさしく古都だというわけです。

 雑誌『太陽』の「特集トスカーナの誘惑」(1995年7月号)の「ルッカ」を頼りにして(20年も前の雑誌です)、あまりに静かなヴィラ・グイニージ国立博物館(フィレンツェに先行してトスカーナの先進都市だったルッカの美術活動の粋が集められています)、そしてフォサード上方のモザイク画がめずらしいサン・フレディアーノ教会などを経て、ローマ時代の円形闘技場を広場にしたメルカート広場へたどり着きました。大変なにぎわいの広場には仕切りのテープが引かれ、わらで作った長方体の衝撃吸収パッド?がおかれていて、「ミッレ・ミリア」がここをパレードするらしいとやっと想像できたのです。

 こんな現代の祝祭日にジタバタしてもということで、広場の外周、1860年創業とあるトラットリアでゆっくりと食事をしました。それから、ドゥオーモなどを回ってから、最後にメインターゲットである「グイニージの塔」へ向かうべく再び動き出しましたが、非対称的なフォサードをもつドゥオーモに着いた頃には雨が降り出したのです。2日連続して雨のたたりです。ドゥオーモの内部にも入場することなく、裏手の方から「グイニージの塔」を写真に撮っただけで、駅へと急ぎました。

 ここでも二重の不運というか、ミステイクがありました。城壁を出てから、最初とは別の城門をまちがえて出てしまったことに気づき、駅へ戻るのに四苦八苦することになりました。やっと駅にたどり着き、すぐにやってきた電車に飛び乗ると、フィレンツェと逆方向のピサ行きで、次の駅で乗り換え待ちのあげく折り返す羽目になったのです。フィレンツェに帰り着くと、すっかり暗くなっていました。

 まあ、さんざんのルッカといえますが、これもまた旅というしかありません。グイニージ国立博物館の「笑っている」としか表現できない聖母子像(笑っているのは聖母だけ)が写真に残されていました。

  円形闘技場あとのメルカート広場 ミッレ・ミリアを待つ [2015.5.16撮影/ルッカ]

  グイニージの塔 てっぺんに大きな樫の木が [2015.5.16撮影/ルッカ]

  「笑う」聖母(作者・作品名不詳) [2015.5.16撮影/ルッカ・グイニージ国立博物館]

 その翌日、11時頃にはヴェネツィアに出発です。その前に、おみやげでも中央市場へ出かけました。6年前の中央市場から大改装されていて、従前の2階は野菜中心の生鮮食品が並んでいたのが、広大なイートインスペースのあるフィレンツェの食の見本市的な空間に変貌していました。

 しばらくぶらぶらしてから、昼食用のパニーニサンドだけ買って、ヴェネツィアへ向かうことにしました。

  フィレンツェ中央市場2階 大イートイン [2015.5.17/フィレンツェ中央市場]

  朝のミーティング  [2015.5.16撮影/フィレンツェ中央市場2階]

 雨に責任をもたせることなどできませんが、「不完全燃焼観のあるフィレンツェ」という思いが残っているのは、この三度目のフィレンツェが影響しているように感じています。これに続くヴェネツィアには一定の満腹感を得たことと比較して、よけいにそう思っているのかもしれません。

 雨が降らなかったら、ルッカに立ち寄らなかったら、フィレンツェは不完全燃焼とならなかったのか、そんなことはないでしょう。1日余分に歩いてもどうなるものではありますまい。結局、さまざまな要因が重なって、三度訪れたフィレンツェとは、好きなんだけれど、うまく思いが届かないような距離感のある関係だというしかありません。

 繰りかえすことになりますが、今になって「フィレンツェという歴史が堆積した空間にただ身をおいていたことに深い喜びを感じる自分を再発見」しているのですから、それでよしといたしましょう。

                           【続く/(2)へ】                      

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.03.19 Monday

接ぎ木を重ねるようにーあと何回の京都へー

 「京都市上京区黒門通上長者町下ル北小大門町〇〇〇」、なんとも長い住所表示です。

 今回、京都で1泊した宿のHPにはこうあります。行政上の住居表示は「北小大門町」だけかもしれませんが、「碁盤の目」となっている京都の街中ではこの表記の方がずっとわかりやすいのです。つまり黒門通と上長者町通が交差するところから黒門通を少し南へ下った位置だということになります。

 黒門通は堀川通から西へ3本目の南北の通り、上長者町通は今出川通から少し南の中立売通から南へ1本目の東西の通りです。ここは「西陣」と呼ばれる地域の一角です。なんといっても西陣織ですから、糸偏の工場、糸偏の職人たちが集積、密集している地域です。宿のある黒門通はもともと組紐関係が集まっていた通りで、今でも数軒は残っているようです。

 学生時代に友人が大宮通今出川上ルに下宿していたことがあって、左京区の北白川から自転車でやってくると、近くから機織りの音が聞こえていたことを覚えています。

  宿泊した『京旅籠むげん』の前景です   [2018.3.13朝に撮影]

 京都に泊まるといっても、結局のところ、いつもそうであったように、自転車で街中をふらふらと、ぐるぐると走っていただけのことです。久しぶりの京都行といっても、家人と二人でというのが2015年12月以来のことだというだけで、私自身は昨年も二度日帰りで訪れています。

 どうしようもないことなのに、あと何回の京都か、との少し切羽詰まった感もあったりします。併せて前回の京都(「ちょっとそこまでー師走の京都ー(1) (2)」)で膝の不調の深まりを自覚した家人が、シチリア・ナポリへの旅のあと、手術を決意し、右膝、左膝、そして両足からの抜釘の順に3回の手術をうけ、リハビリをへて、カンバックした記念の旅ということも後押ししたのです。

 

 ちょっと長めの学生時代をおくった京都は、私にとって、もとより生活者ではありえないけれども、純粋に観光客ともいいにくいという位置取りなのです。自分の家族ができてからも、遠くに連れていくことのできない甲斐性なしで、時々京都へ出かけるのがほぼ唯一の家族旅行でした。子供たちが大きくなると、師走の高校駅伝に家人と二人で出かけるのが恒例行事となって、京都との関係は途切れることなく続きました。 

 といっても、京都の何かを知っているのか、そんなことはありません。有名な観光地はほとんど行っていないままなのです。京都検定不合格です。ではどうして京都なのか、大げさになることをお許しいただければ、この街に「私なるもの」の根っ子があって、その後もそこに接ぎ木を重ねるように生きてきたという実感めいた思い込みを離れることができないからです。

  赤い地点の宿からマーカー線のあたりを自転車で走行しました

 今回の自転車走行の特徴は、従来の南北移動とちがって、東西移動が中心だったことです。つまり、左京区や下京区に宿をとると、南北に走行することが多くなりますが、上京区だと縦移動より横移動、東西に走行するウェイトが大きいのです。

 なだらかな坂の街である京都、その北大路は京都駅の南に位置する東寺の五重塔より高いところにあります。したがって、南から北への自転車走行は北から南に比べ、時間もかかるし、足への負担が大きく、きついのです。で、今回は東西移動中心に加え、天気は快晴で春満開の季節だったこともあって、わりとすいすいと、二日間にわたり十分に楽しむことができました。

 ということで、とりとめのない小旅行ではありますが、いわゆるベタな観光地も訪ねた今回の旅を報告させていただくことにします。

  黒門通今出川上ル付近の東西の通り

  和菓子屋『塩芳軒』 今回出会ったなかで一番美しいと感じた町家です

 

🔸西の御土居ー北野天満宮ー

 月曜日の午前10時というのに、京都駅バスターミナルは大混雑、なんとか市バス9番に乗り込んでも二条城バス停でやっと座れたぐらい。堀川中立売で下車。宿の女将の笑顔に迎えられ、地図をもらって宿の自転車を借りていざ出発。今出川通を西へ走行し、上七軒を斜めに抜けてやってきたのは、北野天満宮の東門です。

 家人は二度目、私は初訪問です。境内には、見頃の梅がたくさんあって、陽気もあってか、はなやいだ雰囲気です。青い空に白、赤、ピンクの梅のしだれ枝を、冬物のコートを着た観光客が見上げている様子は、「浮き足立つ」とまではいかないけれど、「浮き立つ」という感情の高まりが放出されているようです。ぼんやりと歩く私でも気づくぐらい、あちこちに天神さまのお使いである牛の像や彫刻がおかれていて、故事にちなんで臥した姿をしています。

 

 今もなお京都本のマストと信じて疑わない『洛中生息』(1976年10月刊/みすず書房)のなかで、杉本秀太郎先生は「京都で最もうつくしいお社は北野神社である」と断じています。「檜皮葺のこのお社の屋根の美しさは、視覚的というよりも味覚的なものだ。まるで京菓子のように、舌でこの屋根を味わいつつ、建築をなめまわして、何べんもぐるぐると歩く」とまで書いています。

 そして、「私は北野のお社を飽かずながめつつ、遠いイタリアの、フィレンツェの町を思い出すことがある」と告白しているのです。杉本先生、ちょっと大仰ではありますまいかと、茶々を入れたくなる私なのですが。

  浮き立つ北野天満宮の境内です      [2018.3.12撮影]

  これが神牛の一つです

 梅苑には入場料が要りますが、めずらしく茶菓子付きです(茶店風の休憩所があってそこで供されます)。北の方から入った私たちは紙屋川沿いの梅の方へ降りていきました。これが梅苑かしらと歩いていくと、「もみじ苑」の入り口で行き止まり、そこから小高い堤防へと階段を上がると、これが「御土居」なんだとわかりました。

 秀吉が築かせた土塁である御土居は、その残る遺構9箇所が史跡に指定されていますが、北野天満宮境内のものもその一つです。昨年7月のかつての仕事仲間と出かけた遠足でやっと探しあてた、寺町通沿いにある蘆山寺の御土居(「もはや京都は熱帯だーおじさんたちの遠足ー」)に比べると、こちらは桁ちがいに高く幅広く立派なものです。鴨川よりも西に位置する蘆山寺の御土居は東の遺構として唯一残るものですが、今回は西の遺構にも出会えたというわけです。

 御土居の上から眺めた北野天満宮の社は、杉本先生の文章を読んでから写真を見ると、その色と屋根の均整の美しさはなるほどなあと思わせてくれます。

 最初の平安京において中央を貫く朱雀大路が今の千本通の位置にあたっていたという時代はもとより、ずっと時代を下った秀吉の時代であっても、現代に比べたら、ずいぶんと街の重心は西の方へ傾いていたことがわかります。

 

 神社の一番南に位置する梅苑をぐるりと一回りしました。その手入れの行き届いた古木の梅林は、どちらがいい悪いという上下関係などありませんが、いつもの大中遺跡公園の梅林とは似て非なるものだとの印象をもちました。人工と野性とでもいうべきか、ともかく枝のクネクネ感がまったくちがいます。

 入場券から引換券を切り離して交換した天満宮そばの『老松』の「老松」というふわふわの煎餅をいただいてから、北野天満宮をあとにしました。 

  北野天満宮の境内にある御土居です

  御土居の上から撮影した北野天満宮の建物群です

  梅苑です 北野天満宮には梅50種、約1500本あると書かれています

 

🔸「三月書房」のいない三月ー寺町二条ー

 「この建物変わっている」と、うしろの家人から声がかかりました。堀川通を左折して中立売通を西へ少し進んだところです(油小路通との交差点西南角)。自転車をとめて見上げると、こりぁなんだというたたずまいなのです。正面のフォサードの上部にはレリーフがほどこされ、三本の柱の上に一体ずつなかなか大胆な女性像、裸婦像が鎮座しています。側面にも円柱が列柱としてすばらしいプロポーションをみせています。

 昭和60年と記されたプレートを読むと、1921(T10)年に「京都中央電話局西陣分局」として建設された建物で、夭逝した天才建築家である岩元禄(1893-1922)が設計した「文化的・芸術的に高く評価されている」ものだとあります。「建築の芸術性をひたすら追い求め」た岩元はわずか3点の作品を残したのみで、この西陣電話局は現存の唯一の建物だそうです。ですから、昭和59年から改修工事をすすめ、日本近代建築の黎明期をかざるこの建物の意匠を保存・再生することにしたのだと説明されています。

 裸婦像も岩元自身のデザインによるもので、彫刻家=建築家だったルネッサンスの時代を思い起こさせるような人物だったのでしょう。それにしても「えらい(ごっつい)遊んではるなあ」との印象です。この建物の2、3階部分は、一昨年から、岩元の建築への姿勢にも通じるであろう「西陣産業創造會舘」としても使われているとのことです。

  「旧京都中央電話局西陣分局」の正面フォサード上部です [2018.3.12撮影]

  同上のライオン像は岩元とは別の方のデザインです(ここに水槽が設けられていました) 

 北野天満宮で正午をすぎてしまい、予定していた千本釈迦堂はスルーして、近くの『鳥岩楼』へやってくると、多くの先客が店内の待合に座っていました。それならと、千本釈迦堂をあきらめ、えーいと一気に寺町二条あたりをめざすことにしたのです。

 堀川通から烏丸通の間、中立売通は自転車で走りやすく整備されており、烏丸通を渡り御所のなかを通り抜けて寺町丸太町に着くことができました。

 

 この寺町丸太町は師走の高校駅伝で男子の中継地点となっており、私たちはこの近辺でたびたび見学していました。ここから南の御池通にかけての寺町通は、京都に来たら必ず立ち寄る所になったのです。特に三月書房のある寺町二条界隈はなかなか味のある店舗も多く、奥深いところです。三月書房はこの地域の定点観測地点なのです。

 ちょっと三月書房をのぞいてからと思ったのですが、シャッターに貼られた紙片に「今後は月曜日と火曜日の両日を毎週休みます」との貼り紙が出ていました。『末廣鮨』もお休みです。休みがあるのは当然のことなのですが、高校駅伝の開催が日曜日に限られており、店が開いているのは当たり前と思い込んでいたのです。折角の機会なのに明日もダメか、三月書房のいない三月とは、がっかりです。 

 

 近くの『ブション』でランチのあと、一保堂を東へ入った新烏丸通の『ハイファイ・カフェ』の畳敷きに上がりました。コーヒーを注文すると、店主からだいだい15分以上かかりますがよろしいかと、前回と同じ問いかけがありました。もちろんです。目の前に並べられた本の中から薄い本を一冊抜き出して読んでいると、三分の一くらい読み進んだところで、ネルドリップでゆっくり抽出したコーヒーがやっと登場しました。この間、話しかけたりできる雰囲気ではありません。深い香りのコーヒーです。

 この本、橋口幸子の『いちべついらい 田村和子さんのこと』(2015年刊/夏葉社)は最後まで達しませんでしたが、同じ著者の『珈琲とエクレアと詩人 スケッチ・北村太郎』(2011年刊/港の人)と同質の死んで逝った人たちへの切々たる愛情が響いてきます。

 

 帰り際、店主に「みなみ館」が閉館しますね、また復活できるのでしょうかと尋ねると、どうも無理みたいなんです、京都からだんだんと行きたい映画館が消えていってしまうと暗い顔です。神戸は京都に比べて何でも劣るけれど、「パルシネマ」や「元町映画館」がなんとかがんばっているので映画館だけはまだましかもというと、大阪出身の店主からこのカフェを始める前はよく神戸へ通っていたとの話がありました。

 三月書房は毎週月・火曜日が休みになっていてホントに残念だというと、近くの「100000tアローントコ」という変わった店名の古本は数は少ないけれど、よい本が多いですよと教えてくれました。

 翌日も再び寺町二条界隈へと自転車を走らせましたが、「三月書房」はもとより、「末廣鮨」も連休でした。 

  昼下がり、寺町二条付近の寺町通です  [2018.3.13撮影]

 

🔸右目を開けてー相国寺林光院ー

 寺町二条をあとに東大路丸太町あたりをうろうろし、午後4時前に同志社大学の西側から相国寺へ着きました。宿の女将も絶賛していた相国寺の冬の「非公開文化財特別公開」を目当てにやってきましたが、4時で受付終了とのことで、同寺院内の承天閣美術館の方に入館することにしました。

 「山水ー隠谷の声 遊山の詩」と銘打った相国寺の山外塔頭である金閣寺、銀閣寺の名品が特別展示されていました。常設展示である伊藤若冲筆の「鹿苑寺大書院旧障壁画」が楽しみでしたが、とにかく部屋ごと再現されているので、正面から画までの距離があって(側面から覗くことはできますが)、照明も落とし気味で、私たちの視力ではちょっとしんどかったというのが正直な感想です。ただ氾濫する若冲の情報を浴びているせいか、その「葡萄小禽図」からは等伯、大雅、応挙というビッグネームと少し異なる若冲固有の現代性というものが感じられました。

 

 それにしても日本の美術館や寺院の内部で写真撮影が禁止されているのはどうしてなのでしょう。ずうっと仕方ないことで過ごしてきましたが、還暦以降のヨーロッパ旅行の経験からその常識が崩れました。ヨーロッパで写真撮影がダメだった経験は、教会内にある特別な絵画、カラヴァジョとティツィアーノの2枚ぐらいしか記憶にありません。ノーフラッシュであればОKが常識となっています。ヨーロッパは原則ОKで日本は原則禁止という差異が今も続いているようです。

 「第52回京の冬の旅」のパンフレットをみると、「📷特別公開箇所での写真撮影はご遠慮いただく場合がございます。」と表記されています。承天閣美術館はもとより、翌日、相国寺を再訪して特別公開を楽しんだのですが、やはりいずれも「写真撮影禁止」ということでした。

 一般的には著作権保護、作品へのダメージ防止、他の鑑賞者の妨げ回避とかが理由にあげられており、撮影者のマナーの悪化が言われたりもしますが、絶対なのでしょうか。最近は美術館でブロガーのためだけに公開して、それこそ拡散してもらうこともやっていますし、今回も禁止場所で堂々撮影している方を何人も見かけました。撮影禁止場所で撮影した映像をブログに掲載しているケースも多くみられます。

 自動車の影さえ見えない信号で青信号をじっと待っている心性にちょっと近い気がします。私など、自分のことも含め、そこに変な不自由さを感じてしまうのですが、そろそろ常識の転換をはかる時期ではないかと思っています。

  『第52回京の冬の旅』パンフレットの表紙です 

 翌朝、といっても10時前に相国寺の塔頭のひとつである林光院の前にやってくると、入場待ちの方がそれなりに集まっています。私たちもそうですが、パンフの表紙となっている林光院の襖絵がお目当てなのでしょう。

 多くの方が待っているからと、10時2、3分前に開門です。要所にガイドさんが立っていて、本堂の方へ誘導され、そこで座って説明を受けることになります。ちょうどパンフの表紙を飾った襖絵が左手にあり、右手には龍の襖画という環境です。20人以上の入場者を前にして、同年輩のガイドさんが上気した顔と声で懸命に説明してくれます。

 どんな経歴の方で、どんな経緯で、どのぐらいの頻度でガイドされているのか、ボランティアではあろうが報酬はというようなそんな下種の勘繰り的なことを想像してしまうのは、私と同世代の定年後の過ごし方への興味というしかありません。

 

 さて、襖絵です。パンフの表紙からおもしろいなと思ってはいたのですが、中国江蘇省出身の藤井勇泉という画家(現在は帰化)が他の部屋の襖絵とともに4年がかりで制作し、昨年に完成させたばかりということでした。住職からは「300年の歴史に耐える画」を描いてほしいと注文され、若冲をはじめ江戸時代の絵画を研究しつつ、勇泉さんは描いたのだそうです。

 表紙は『虎図』なのです。襖絵の常識のない私はなんだか肥った大きな猫が眠っているのだなと思い疑っていなかったのですが、ホントは虎なんです。真向いの『龍図』もグットです。この水墨画は細い線の一本、一本の気の遠くなる集積によってできていることを、ガイドさんは強調していました。もう一つわかったことは、眠っている姿と思っていたのに、虎の右目、点なのですが、片目をうっすら開けて、反対側の龍を警戒しているのだそうですと説明があったのです。まず何よりユーモアが感じられるところが新鮮です。二枚の襖絵が畳空間を挟んで対峙しているというか、呼応しあっているのはよくある表現方法かもしれませんが、私にはお見事、座布団3枚の世界でした。

 他の部屋には、部屋ごとのテーマ、松、ぼたん、梅などが描かれていますが、松の部屋に驚きました。コの字になった三方の襖にぐるりと、大きく太い「松」が描かれていて、そこに平面というより立体を感じたのです。つまり松の全体を見ようとすると、コの字の三方を一体として見ることとなり、それは平面ではなく、なんだか立体のように見えたということなのです。ヨーロッパの教会にも三方の壁を絵画などで埋めることもあっても、たった一つの題材で三方の壁を全部使って描かれていることは記憶にありません。

 それにしてもシンプルといえばシンプルです。松、ぼたん、梅だけが描かれているのですから。21世紀に描かれたという点では現代美術ですし、それを除けても、現代美術といえるのかもしれません。 

  相国寺林光院前の立看板です  [2018.3.13撮影]

 林光院でもうひとつ。「鶯宿梅」のことです。この1本の梅は林光院の庭に独立して立っていたからなのかもしれませんが、今回の京都行でみた梅のなかでもっとも美しいものでした。ほぼ全面が白い梅なのですが、そのなかに赤い梅の枝がのびています。紀貫之の娘である紀内侍の言い伝えなどの由来の説明はカットしますが、ガイドさんから鶯宿梅は紀貫之の屋敷にあった梅の木に、接ぎ木に接ぎ木を重ねて、今日に至っているとの説明を受けました。

 接ぎ木を重ねていったら、千年以上前の梅が今も存在できるのかどうか私には不明ですが、今回のブログ題を「接ぎ木を重ねるように」とした理由です。たとえ平安時代の原木に接ぎ木した梅の木であったとしても、この状況を連続したものといえるのか、はたまた不連続と考えるべきなのか、なかなか興味深いことです。

 

🔸だまし絵という世界ー相国寺法堂ー

 先を急ぐことにします。林光院から法堂・方丈の見学に向かいました。雲が写らないくらいの青い空に法堂の屋根はぞくっとするほど官能的な線を見せていました。

 法堂内の天井には狩野元信によって画かれた「蟠龍図」があって楽しみました。「鳴き龍」と呼ばれているようで、手を叩くために行列ができていました。あまり「八方にらみの龍」とはいわれていませんが、堂内を移動する位置ごとに龍の顔と目の位置が変化していて、不思議な感覚にとらわれます。

 もともと雲龍図は火災から守るという意味もこめられているそうですが、実を言えば、この法堂も応仁の乱などにより何度も全焼するという経験というか、前史をもっているのです。

  相国寺の法堂・方丈の立看板です [2018.3.18撮影]

  入場券で狩野元信の蟠龍図(部分)が印刷されています

  法堂の屋根と青い空、天候に恵まれました

 京都五山の第二位。金閣寺、銀閣寺が相国寺の山外塔頭であることを併せ、これが相国寺のプライドのようです。承天閣美術館内の一角にはそんな説明書きもあって、事実ではありますが、本当のところちょっと鼻白む思いもしました。ウィキに「京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付け」とありますが、そう理解しておいたらいいのでしょう。

 最後に変なことを書いてしまいましたが、あまり観光寺院にいかない私たちを楽しませてくれた相国寺を悪しざまに言うのは控えておきましょう。

  法堂の近くで撮影しました

 

🔸こんな近くにー出町枡形商店街ー

 林光院の方へ戻り、東門から外へ出て自転車を走らせると、すぐといっていいぐらいで、寺町通、そして出町枡形商店街の西端のアーケードが現れました。今回の京都では、旧西陣電話局に続くサプライズです。地元加古川より、地理に明るい部分もあると自負している京都なのですが、相国寺からこんな近くに枡形商店街があるとは予想できませんでした。

 私たちは自転車を押しながら商店街に入りました。まだまだ元気な商店街としてテレビで放送されることもありますが、空き店舗が埋まった所もあって新陳代謝の波は確実に来ているようです。火曜日ということもあってか、元祖鯖寿司で有名な『満寿形屋』の前だけに観光客の順番待ちができていました。

 

 その一角で「古本市出町枡形店」という店名の古本屋(CD、DVDも扱っています)に出会ってしまいました。ちょっとのつもりでのぞいたのですが、私たちにとって、いわゆるいい本が結構あってそして低価でびっくりしたです。家人は孫のために絵本えらびをやっていますし、私もランダムに並べられた、というより買取者別に無造作におかれた棚を順にみていきましたので、小一時間を過ごしていたようです。帰るときの本の重さを想像して、私は2冊、家人は3冊だけにとどめました。

 この店のチラシによると、「ご不要の本3冊とお店の本1冊(100円分)交換!」とあります。つまり本の物々交換的な仕組みを取り入れているようなのです。よくあるシステムなのか知りませんが、私の通う神戸の古本屋さんでこんな仕組みに出会ったことはありません。読んだ本を店の本と交換するというやり方はおもしろいですね。

 

 どうせ並んで買う気もないのに、豆餅の『出町ふたば』の脇をすり抜け、その休店(火曜日休みが多いですね)をわざわざ確認しておいて、鴨川の三角デルタに寄ることも忘れ、まあ芸がないことだけれどといいながら、寺町二条へと寺町通を南下しました。

 途中、昨年7月のおじさんたちの遠足で「染井の水」が給水地点となった梨木神社(御土居の東の遺構のある蘆山寺の向かい)では、植木剪定の真っ最中であり、多人数の若い庭師が木にとりついている姿にさすが京都を感じました。『京都密かな楽しみBlue修業中』の世界です。

  梨木神社では木の剪定中です 若い庭師職人の集団に驚きました [2018.3.13撮影]

 

🔸「金継ぎ」の心ー『京旅籠むげん』ー

 最後に今回宿泊した宿、『京旅籠むげん』のことを紹介させてもらいます。

 この5部屋からなる小さな宿=旅籠は、安政年間に建てられた古い町家を、2年以上をかけてリノベーションし、2016年9月にオープンしました。ですから、スタートしてからまだ1年半の新しい宿です。

 鹿児島出身だという三十代とおぼしき若い夫婦が館主と女将としてがんばっています。今回、二人とゆっくりとお話しできたわけではありませんが、その話の断片や過去の紹介記事[⦿]からは高い志が伝わってきます。

 ⦿「暮らすように旅してきた夫婦が作る京都町家の宿【京旅籠むげん】

  「旅好きなご夫婦の理想が形に「京旅籠むげん」

 

 リノベーションにかけた2年余という期間は長かったのではと尋ねてみたのですが、二人の鹿児島在住のご両親たちにいつまでやっているのだろうと相当心配をかけてしまいましたとの話が返ってきました。築160年以上という町家は人の住んでいなかった期間もあって、傷みが激しかったようですし、二人が理想に近づけようとする熱意も並々ならぬものであったにちがいないでしょう。こんな条件のもとで、古い町家の骨格と現代性を両立させるリノベーションは、現実と理想の妥協という面も必至であり、なかなか大変だったことは想像に難くありません。

 今の言葉でいうと、紹介記事にある内外を「暮らすように旅してきた」京都出身でない夫婦が京都へやってきて、分割して売ろうとされていた古い町家に出会いの運命を感じ、ていねいに手を入れて、この宿を「起業」したといえるでしょう。いわゆるゲストハウスといわれる中味を知っていない私が評価しようもないわけですが、旅館でもないし、ホテルでもないし、いいとこどりの現代の旅籠と呼んでいいのかもしれません。

 上京の西陣地域には、職住混在的な市街形成がなお残っています。現代の中心市街地である中京等に比べたら、マンションの数も少なく、狭い通りや路地に、小さめの民家や仕事場が密集・連坦しており、盛り場にしても、昭和のにおいが強く残る、そんな土地です。こんな一角にこの宿はあります。

  町家の骨格を残しつつ美しくリノベーションされています

  共有スペースでここで朝食が提供されます 奥は「中庭」「蔵bar」となっています

 おくどさんのある台所と食事スペースの境に、少し見上げる位置に、小ぶりの二枚の欄間が並んでいます。もともと台所のある土間と畳敷きの部屋を区切る障子の上に設けられていたものなのでしょう。女将の話では、最初は「そのへんに半ば打ち捨てられた状態」だったそうです。

 今は「むげん∞」に似たところもあって飾っておくことにしたが、欄間の彫られた箇所に欠けた部分があったため、それを「金継ぎ」の方法で補っているとの話でした。金継ぎはウィキで「陶磁器の破損部分を漆によって接着し、金などの金属粉で装飾して仕上げる修復技法」とされていますが、こんな「欄間」に応用しているのはユニークです。

 

 いささか強引のそしりを免れませんが、そんな工夫をして古い物を大切に再生する精神、それは物ばかりではなく「もてなしの心」にも通じています。「金継ぎ」がすごいと思うのは、壊れたものを元に戻して使えるようにすることにとどまらず、新たなプラスアルファの価値を与えることが可能だというところにあります。二人に備わったそんな精神を、「金継ぎの心」と呼びたいと思うのです。

 私たちの宿泊した日にはオーストラリアとノルウェーからの旅人たちがこの宿に荷物をおいていました。京都西陣の土地に、『京旅籠むげん』という舞台装置を手にした二人が、旅人たちと化学反応を起こして「金継ぎの心」を具現化していくことを願っています。

  台所と食事スペースの間におかれた「欄間」です

  欠けていた「欄間」を金継ぎしています 

 

🔸おわりにー「御池桜」ー

 こんなささやかな小旅行の顛末を、取り立てて記憶することもないような印象を、またまた針小棒大に書いてしまいました。

 二日目のランチをした御池通のレストランの窓外に、どう見ても梅ではなく、桜としか思えない光景がありました。「御池桜(おいけさくら)」と呼ばれていて、品種的には「冬桜」なのだそうです。この齢になっても、初めて知ることばかりです。

 もともとそうだったような気もしますが、ふつうの観光客になってきた感覚があります。これまで、なんだあんなもの何が面白いのか、どこが美しいのか、あんなにぞろぞろ歩いてどこが楽しいものか、そんな揶揄するような心の傾きをもって過ごしてきた感覚があります。齢を重ねて、もっと自然にゆだねるしかないのだ、そんなところに近づいているような気持ちです。これをボケてきたともいうのでしょう。

 最初に記したとおり、これまで接ぎ木を重ねながら生きてきたという実感めいた思い込みに、もう一本、加えてもらったとでもいえるでしょうか。こうした変化のようなものが感じられた、今回の京都小旅行でした。

  「御池桜」です(京都御池創生館前)  [2018.3.13撮影]

 鷲田清一の『京都の平熱』(2007年3月刊/講談社)によれば、「四角形で格子状に道路が走っている都市(たとえばロサンゼルスのような)は深い不安感を生む」とロラン・バルトが書いているそうです。

 そんな「バルトの心配をよそに」、京都の「碁盤の目」が住民を不安にしないのは、鷲田さんは定点があること、どこにいても「なじみの山が見える」からだと解いています。つまり「三方を山に囲まれたこの街では、山の姿で方向が分かる。どの道に迷い込んでも山の姿を遮ることがないのが格子状の道である」と、鷲田さんは、したがって「この街では道で迷うということがありえないのである」と断じているのです。この主張におおきな括りでは同意しますが、ちょっと「京都人」の嫌らしさのあらわれと感じる向きもあるかもしれませんね(「『京都ぎらい』から離れてー「洛中的中華思想」なるものー」)。

 相国寺林光院の襖絵、コの字型の三方の襖を全面使って描かれた「松」に、丸太町橋から眺めた、三方を山に囲まれた京都の街を重ねてみたい誘惑にかられています。

  丸太町橋から鴨川と北山を眺めました [2018.3.12撮影]

 

 

2018.02.28 Wednesday

アズレージョの記憶にープラハからリスボンへー

 プラハという文字に誘われて、小型本の『プラハ旅日記』(文化出版局/2001年刊)を手にしました。画家、版画家の山本容子さんがあこがれの街だったというプラハを2000年の春に初めて旅して、スケッチ用のノートブックに記した旅の記録です。

 当時の山本さんは、洗練された銅版画を描く人というだけでなく、自立した現代女性の代表格としてあこがれのアイコン扱いされていたのだと思います。だから、こんな立派な緑のカバーのスケッチ帖(中は真っ赤な紙に白色か黄色で描かれている)がほぼそのまま本として出版されていたのでしょう。

 

 山本さんならきっと<サティ>のことを描いているはずだと、少し探してみました。すると、手持ちの『わたしの時間旅行』(マガジンハウス/2003年刊)という、建設中のビルの仮囲いに毎日1点ずつ投影する(そして毎日累積させていく)ために制作した版画全385枚を記録した本のなかに、<サティの肖像>が見つかりました。

 前回のブログ(「ふと寒さの緩んだ日にーサティの音楽ー」)で<一筋縄でいかないサティ>を論じていたアンヌ・レエは、サティの古めかしい出立ちとして「鼻眼鏡と先細りに刈った髭、山高帽にコウモリ傘、寸づまりの上着と短すぎるズボン、それに埃だらけのゲートル」と記しています。 

  「エリック・サティ」 山本容子『わたしの時間旅行』マガジンハウス/2003年刊より

 

 山本さんの描いたサティの肖像は少しの違いはありますが、そんなサティのイメージを髣髴とさせるものです。誰の言葉かわかりませんが、そのページの下の方に「音楽家はもしかしたら最も控え目な動物かもしれない。しかし彼はそのことをとても誇りにしている。詩を台なしにする至高の技術を発明したのは彼なのだ」というキャプションが付されています。

  山本容子『プラハ旅日記』文化出版局/2001年刊

 

🔸小路には中世の記憶がープラハー

 カフカやクンデラ、ヤナーチェク、カレル・チャペックがお気に入りで、「気がつけばそんなプラハ的なものに囲まれていた」という山本さんは、彼らと縁のある場所を訪ねて歩いています。そして、当ブログ(「ここにしか存在しないとはープラハのキュビズム建築ー」)にも登場した黒い聖母の家=ブラックマドンナ(キュビズム美術館)にも足を運んでいます。

 山本さんはカフカの100年前、チャペックの50年前という「私の知っていたプラハ、私がイメージしていたプラハの街はそのまま存在していた」ことに不思議な感覚におそわれていたと書いています。あとがきの最後に、今回の旅のコーディネーターであったプラハの人、ヘイドックさんのことを次のように描いて締めくくっています。

 「 今、プラハをイメージしたときに浮かんでくるもの、それは紺色のカシ

  ミアのコートを長い間大切に着ている、ヘイドックさんのやさしい笑顔

  と、そのあたたかみ。時計台でもプラハ城でもなく、それが、私にとって

  のプラハのすべてだ。」

 

 山本さんの2000年春と私たちが旅した2013年7月の間に、プラハは街の基盤はそのままだとしても大観光都市として変貌した一面もあったかと想像しています(写真家田中長徳が1989年のビロード革命という<維新>後に、観光スポット化したキュビズム建築に「裏切られたような気持ち」がすると書いていたことにも通じています)。

 まあ、とりとめのない内容になりますが、少しだけプラハへの旅の記憶をメモさせてもらいます。

 建築博覧都市としてのプラハでなく、音楽の街としてのプラハ。モーツアルトは『フィガロの結婚』が大人気をえたプラハを1787年に訪れ、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』をこの地で作曲しています(最近の映画『プラハのモーツアルト』)。確かに2013年の夏にもどこからか音楽が聞こえてきた印象が残っています。カレル橋の上では複数のジャズのコンボが、旧市街広場では電子ピアノが、7月の日本から来た私たちには「清涼」がぴったりくるプラハの青い空の下で演奏されていました。

  旧市街広場 二本の尖塔が「ティーン教会」/左隣が「石の鐘の家」

        /この二つの建物の間にあるがティーンスカー小路  [2013.7.12撮影]

  「石の鐘の家」/市民ギャラリーでビクトル・コーラー写真展  右端がティーンスカー小路

 

ティーンスカー小路(私はそう呼んでいます) 早朝に撮影

 

 旧市街広場の東面には、二つの尖塔をもつ「ティーン教会」と、その北隣に「石の鐘の家」が並び、その間に東にのびる「ティーンスカー」という地名のついた小路があります。

 ツアーの最後日で朝からプラハ城などの観光スポットをめぐったあと自由行動となった2013年7月12日の午後遅く、「石の鐘の家」にある市民ギャラリーでビクトル・コーラーの写真展を見てから外へ出ると、まだ日が傾いていないのにすでに7時を過ぎていました。宿泊していたホテルへの近道として朝に偵察済みのティーンスカー小路(こう呼ばせてください)を、さて夕食はどうしようかと歩いていると、すぐに声をかけられたのです。

 私と同じ年頃の60代の小柄で人の良さそうなおじさんが、メニューブックを手にして食事はいかがと誘っているらしいのです。観光地でもほとんど声をかけられたりすることのない私たちは驚いたのですが、家人の足膝も限界を超えていたこともあって、ついふらふらと、温顔のおじさんによって落ち着いたレストランへと導かれたのです。海外旅行で店の前の呼びかけに応じて入ったのは後にも先にもこの一回だけです。

 舌の記憶は残っていませんが、料理の写真は残っています。チェコらしい茹でパンの「クネドリーキ」をはじめて食べました。

 

 翌朝にティーンスカー小路を通ったときに、昨夜のレストランは「ツェルニースロン」というホテルの食堂であったことがわかりました。このホテルは1359年築の指定建造物を利用しており、「中世の雰囲気が漂っている」とコメントされていて、観光スポット群と至近であることが高く評価されています。

 このホテルのすぐ前に「ウンゲルト」というのでしょうか、ジャズクラブがあって、「行ってみたいね」にはなったのですが、翌日にツアーと別れて延泊した3日間のホテルはヴァーツラフ広場の南の方に所在していたこともあって結局出かけることができませんでした。プラハでは観光客向けの教会内バイオリンコンサートへ足を運んだだけですが(これはこれで相当に上手いバイオリニストがアルバイトしていたようでした)、このジャズクラブに行くことができれば楽しい時間になったのにと、ちょっと残念な気持ちが残りました。

 ティーンスカー小路は朝の散歩やその後の観光のために一日のうちに数回も通りぬけましたが、大そう混雑している昼間とちがい早朝の時間帯にはその迷路性もあって、中世のプラハを味わえた道であったなと、今も忘れることができません。

  「ホテル ツェルニー・スロン」奥にレストラン 左がティーンスカー小路

  「ジャズクラブ ウンベルト」 ホテル ツェルニー・スロンの目の前

 

 ツアー一行と別れ延泊した3日を加え、まる四日間滞在したプラハは、ヴルタヴァ川(ドイツ語では「モルダウ川」で、スメタナ作曲の「モルダウ」として私たち年配者にはインプットされたのです)という芯があって形づくられた街なのだと、つくづく実感しました。そのヴルタヴァ川を挟む旧市街の東側とプラハ城のある西側地区をつなぐのが数世紀にわたり変わらぬ姿のカレル橋(14~15世紀に建造)です。超目玉観光スポットではありますが、大量の水をたたえたヴルダヴァ川と車の入ってこないカレル橋には、万事がせかせかとはしていない悠揚せまらぬ魅力がありました。

 下の写真はカンポ・ミュージアムの屋上からヴルタヴァ川と遠くのカレル橋をのぞんで撮影した1枚です。ちょうど前月には降り続いた大雨がヴルタヴァ川の増水を引き起こし、このためミュージアムが浸水したのです。それから1月をへて私たちが訪れた頃のヴルタヴァ川からそんなことは窺うことなどできませんでしたが、ちょうどミュージアム内の壁の一部に川水が達した跡を残し、その時の写真も展示して復興への支援を呼びかけていたところでした。

  カンポ美術館から撮影したヴルタヴァ川とカレル橋 [2013.7.13撮影]

 

🔸遠くて近いポルトガル

 さて、本稿では、先のプラハ行と同じ2013年の年末に出かけたポルトガルへの旅の記憶をメモしておきたいのです。

 手術後に焦ったように出かけた海外への旅について、直近の2015、16年のイタリア行のことは当ブログでも書き継ぐことができました(「水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(1)~(5)ー」「歩く喜び、目の愉しみーシチリア・ナポリ紀行(1)~(6)ー」)。また2013年の中欧と2014年のスペインのことは建築的な視点から前出のプラハのキュビズム建築とバルセロナのモデルニスモ建築(「バルセロナで美の喜びに出会うーモンタネールのモデルニスモ建築ー」)をテーマに書くことができています。

 それで、ポルトガルのことだけが、まとまった言葉にできていないのです。加えて、今後、あと一回だけ海外へ旅する機会が得られたとしたら、やはりポルトガルもいいなあ(「そだね」という声もあり)との気持ちもあって、おぼろげな記憶に逆い、ポルトガルへの旅の記憶を反芻しておこうと考えたのです。

 

 では焦点を絞ってとなりますが、「アズレージョ」にすることにしました。というのは、写真を見返すと、意識的に「アズレージョ」を追っていたわけでは全くないのに、「アズレージョ」の写っているものがたくさんあるのです。それだけポルトガルの至る所に「アズレージョ」ありという状態だからなのでしょう。

 ということで、アズレージョに焦点をあてつつ、旅の印象を交えながら、容量の許す範囲で、コンパクトに綴ってみることにします。

 お断りということになりますが、「アズレージョ」の知識はネット情報からだけで、キュビズム建築やモデルニスモ建築より、さらに貧弱で不確かなものだということです。ウィキペディアに加え、何点か、特に<アズレージョ ピロ>HPの「アズレージョとは?」と<森田一弥建築設計事務所>サイトの「ポルトガルのアズレージョ」に多くを負っています。

 ポルトガルはユーラシアの西端に位置して物理的に遠い、だけれど、どこかに近いもの、なつかしいものが詰まっているように感じる、そんな所なのです。

 それでは始めましょう。

 

 2013(平25)年12月21日の早朝、前日はフランクフルトでの7時間超のトランジットもあって日付が変わってから到着したホテルから一歩踏み出すと、そこは高層アパートだらけのリスボンの新開地です。地下鉄オライアス駅に近づくと、タイルで装飾された出入口がありました。これも「アズレージョなんだろうか」から、ポルトガルの駆け足旅行が始まったのです。

  リスボン地下鉄「オライアス駅」出入口 [2013.12.21撮影]

 

🔸20世紀の「奇跡」ーリスボンからオビドス、ファティマへー

 この日は盛り沢山です。通常の行程では、最後にリスボン観光となりますが、ちょうど12月25日のクリスマスにあたり見学不可ということで、先だってサン・ロケ教会とジェロニスモ修道院にも立ち寄ることになったのです。

 サン・ロケ教会の簡素で地味な外観から想像できない内部のこれでもかの黄金装飾、そしてジェロニスモ修道院の壮大なスケールに、大航海時代のいささか常軌を逸したといいたくなるほどの繁栄の反映が感じられました。アズレージョといえば、サン・ロケ教会では「聖ロクスの奇跡」という初期のアズレージョがあることを知らないまま、豪奢な黄金の連打に打ちのめされ見逃してしまい、やっとジェロニモス修道院の回廊に青色と黄色のコントラストが美しいアズレージョに出会ったぐらいです。

 

 アズレージョとはポルトガルでは装飾タイルだけでなくタイルの総称だそうです。アズレージョは意識していなくても、今のポルトガルの街を撮影したらフレームに入ってくる、それほど建築(外壁、内装を問わず)に欠かせないもので、ポルトガル文化の典型的な要素となっています。

 元々はイベリア半島が8世紀から数世紀にわたり北アフリカのムーア人に支配されていた時代に持ち込まれたもので、15~16世紀に「イスラーム起源の技術を元にして」建物を装飾するようになったのです。その後の展開について、森田一弥さんの言葉を借りると「グローバルな視点でいえば、アフリカ経由のタイル文化とヨーロッパ経由のタイル文化が出会い、ポルトガルの歴史を経ることで育まれた、この地域固有のタイル文化」なのです。

  サン・ロケ教会  黄金装飾の下方にはアズレージョ [2013.12.21撮影]

  ジェロニスモ修道院の回廊部のアズレージョ

 

 リスボンをあとに北上し、王妃の地であったオビドス、そして1917年にマリア出現という奇跡が起きたというファティマに立ち寄り、暗くなってからコインブラのホテルに着きました。

 「奇跡」というのは聖書の中の話としか理解できない私にとって、20世紀の「奇跡」がローマ教皇庁によって公認され、何もなかったファティマの地に突如大聖堂が出現し、年間400万人、大祭日には数万人ものカトリック信者が集まるというのはにわかに信じられませんでした。この日は観光客もお参りの巡礼者も少ないものでしたが、巡礼者でしょうか、膝まづいたままにじり歩いて祈りをささげる姿に、ツアー一行もふうっと息を吐きました。

 もとより祈るという行為を笑うことはできませんし、宗教を否定できるものではありませんが、私には「奇跡」を信じることはできそうにありません。でも21世紀の現在も、「奇跡」を信じたいという人間が存在するという事実をどう受けとめればいいのでしょうか。

 

 20世紀に建設された現代建築風の大聖堂や宗教施設はどこか新興宗教の巨大伽藍のようでした。もう200~300年も経てば、現代建築風のうさん臭さが消えて、味わい深く歴史ある大聖堂に熟成、変貌しているのでしょうか。17~18世紀に建造された教会を、その300年後の今、私は歴史建造物として見ているのにちがいありませんから。

 広大な広場の片隅に祠のようなものがあって、その中の小さいアズレージョが祈りの対象となっているようでした。このような「人々の想いの込められた場所にまでタイルを用いる」ということに、前出の森田さんは直接ファティマのことを指してではありませんが、「ポルトガルの人々とタイルの深い結びつきを垣間見た思いがしたのである」と記しています。

  オビドスのアズレージョ(不明)  [2013.12.21撮影]

  ファティマの聖地の祠にあるアズレージョ

 

🔸大学の街のクリスマスーコインブラー

 翌22日は朝からコインブラの観光です。といっても、高台にあるコインブラ大学までバスで上がって構内を見学してから徒歩で中心市街地まで下りてくるだけです。1290年創立のコインブラ大学はポルトガルの最高学府であり、学生数は2万人を超えています。ポルトガル中央部の中心都市であるコインブラの人口は15万人ほどですから、そのウエイトがわかります。

 大学の門をくぐると美しい眺望のテラスが広がり、これを囲むようにコの字型に建物が立ち並んでいます。特にジョアニナ図書館が有名で、厳粛が形になったような内部空間でしたが、今でもコウモリを館内に棲まわせていて、夜のうちに紙を痛める虫を食べてもらっているとの説明がありました。

 コインブラには、図書館の隣の大学礼拝堂に「カーペットスタイル」と呼ばれる有名なアズレージョが、旧カテドラルにまだポルトガルで生産されていない時期にスペインのセビージャから輸入されたアラビア風のアズレージョが、それぞれ歴史的なアズレージョとして存在していたようです。もちろん後から知ったことで、後の祭りとはこのことです。

 

 年月の積み重ねが感じられる商店街には、外壁にアズレージョを貼った建物が数棟ありました。まあこれは建物前面の装飾というか、日本でいう商店の看板建築のように見えました。この通りで日本の金平糖というものの元になったお菓子を買いました。

 クリスマスが近いからか、旧カテドラルの前で学生コーラスグループの唄う聖歌?が12月の冷たい空気に溶けこむように響いていたことが、コインブラの印象として残っています。

  コインブラ大学のセレモニーホールの階段 [2013.12.22撮影]

  コインブラの商店の建物前面のアズレージョ

  旧カテドラル前の学生コーラスグループ

 

🔸アズレージョが目に飛び込んできてーポルトー

 コインブラから高速道路<A1>をさらに北上し、リスボンから北へ300劼離櫂襯肇ル第二の都市、ポルトへ入りました。ドウロ川の河口近くの北岸の丘陵地に市街地が広がっています。

 バスが街に入っていくと、洗濯物がぶら下がる、アズレージョの外壁をもった建物がすぐに目に飛び込んできました。ポルトは、19世紀に植民地であったブラジルが独立し、故国に戻ってきた人びとが中心となって産業化したタイル生産を開始した場所で、それ以降も中心的な生産地になっています。だからかどうかわかりませんが、街中には目に入ってくるアズレージョが他の街よりも多く感じられました。

 サンフランシスコ教会はサン・ロケ教会と同様、キラキラの金泥細工に圧倒されますが、外部の青いアズレージョが異彩を放っていました。普通なら石の彫像などが置かれている場所にアズレージョがあります。それがポルトなのでしょう。

  ポルトの市街地風景 アズレージョと洗濯物と [2013.12.22撮影]

  サンフランシスコ教会(ポルト)外部のアズレージョ

 

 ツアー4日目、12月23日、国境を越えてサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう一行と離れて私たちはポルトに残りました。ちょっと足膝を休めつつ、せっかくのポルトをぶらぶらする算段です。お目当てはガイドブックから得たアズレージョで有名な「サン・ベント駅」と世界一美しい書店と言われている「レロ・エ・イルマオン」でした。

 

 ホテルから「サン・ベント駅」に直行しました。まあ期待にたがわぬ光景でしたというのが私の印象のすべてです。1900年に建設されたサン・ベント駅舎そのものも、とても均整のとれた建築物として魅力的なのです。その30年後に駅構内の壁面を使って制作されたのがジョルジェ・コラソの手になるアズレージョです。四面すべてが使われ、上部には多色のアズレージョもありますが、基本はブルー一色、青単色のアズレージョなのです。使われているタイルの数は2万枚とのことで、ジョアン1世のポルト入城やセウタ攻略などポルトガルの歴史が描かれているとされますが、当時の庶民の暮らしという部分もあります。私にとっては、何が描かれているということより、青の美、ブルーモノトーンの美にノックアウトされました。

 地元の乗降客はアズレージョを見ることなく、通学、通勤のために行き交っています。でもひとたび問われたとしたら、このアズレージョのことを、「ポルトの誇り」「ポルトガルの誇り」と答えるでしょう。

 

 前出森田さんはバロックタイルによる大壁面のアズレージョの成り立ちについて、「比較的小面積の装飾に使われていたマジョリカタイルが、ムーア人のタイル文化と出会うことによって大規模装飾へと発展」し、「さらにオリエントから伝わった白地藍彩の染付陶器を模した色彩と、ヨーロッパの絵画文化を反映して生まれた」ものとされ、「ポルトガル独自のもの」と位置づけています。

 確かにこの「白地藍彩の染付陶器」とは中国の陶磁器のことであり、そして中国から伝わった朝鮮と日本の陶磁器にも通じています。

  ポルト「サン・ベント駅」構内のアズレージョ [2013.12.23撮影]

  同上➁

  同上 ジョアン1世のポルト入城の場面?

  ポルト「コングレガドス教会」 サン・ベント駅のそば

 

 本稿のために少し調べただけでも、ポルトには、サン・ベント駅以外にも、アズレージョの有名スポットが目白押しだったことがわかります。特に知らずにすぐそばまで近づいていたであろう全身がアズレージョにくるまれたような「アルマス聖堂」に到達できなかったことを残念に思っています。

 

 サン・ベント駅から徒歩でドウロ川の方へ向かいました。しばらく北上すると、昨夕、対岸のポートワイナリーから見上げたドン・ルイス1世橋です。2階建て構造のアーチ鉄橋で、エッフェルの弟子の設計で1881~86年に建設されました。上層は2005年からメトロと歩行者用に、下層は自動車と歩行者用として使われています。下から眺めた鉄のアーチは「美しい」の一言です。まさに鉄の彫刻です。

 道なりの私たちは上層の歩行者用の西側通路を歩いてわたりました。途中、ビュと風を切った感触があって、それこそビクッとしましたが、メトロが追い抜いていったのです。通路の幅は狭いし、柵といっても等間隔で立てられた低い棒だけだし、これは危ないと注意していたのに、メトロは音もたてずスピードを上げ、一瞬で通り過ぎたのです。ほんとにメトロと通行者の間に余裕などないのです。まあ日本の安全感覚からすると認められそうにありません。

 心底肝を冷やした二人でしたが、橋上からの景観は流行言葉になっている「絶景」です。カラフルな建造物も近づくとくたびれて色落ちが目立ったりもしていますが、この距離だと、坂の街であるポルトの建物のでこぼこ具合と多色的な重なり具合は魅力的な絵画だと言っても過言ではありません。

 

 もう一度ポルトガルに行くことができるなら、ポルトは再訪したい街であるし、年齢とともにふらふら度が増す足元が心配ではありますが、ドンルイス1世橋を歩くことは優先度ナンバーワンです。

 その時は、今回見逃したアズレージョについても楽しみたいものです。

  ドン・ルイス1世橋のメトロと歩行通路  [2013.12.23撮影]

  ドン・ルイス1世橋の全景

  ポルトの市街地 ヴィラノバ・ガイア地区からの眺望 

 

🔸アズレージョの歴史が凝縮されているらしくてーシントラー

 翌24日は雨の朝となりました。ポルトから一気に南下し、リスボンから西へ28劼離轡鵐肇蕕泙把捷圓靴泙靴拭M眛にクリスマスを控え、シントラの王宮の見学時間が午後2時までと制限されていたのです。

 15世紀初頭から数世紀にわたり、歴代の王によって離宮として夏の避暑や外国からの賓客の応接に使われてきた宮殿です。これが王宮かと訝しく感じるほど、メインフォサードは質素、地味、何気ないたたずまいです。中へ入ると反対に、得意の破天荒な内部空間にびっくりが連続しますが、アズレージョの連発に、それぞれいくら趣向が凝らされているといっても、いささか食傷したというのが見学後の正直な印象でした。12月の末に夏の離宮の内部空間を見学したということで、タイルの、石の冷たい感触が、死ぬまで幽閉されていた王の話も相まって、ちょっと痛々しく感じられたともいえましょう。

 

 歴代の国王が関与して集積したのが現王宮の姿ですが、二人の国王が中心人物でした。1415年頃からの建設を主導したジョアン1世と、1497年から1518年の大航海時代の富を背景とした建築のオーナーであったマヌエル1世です。このマヌエル1世はスペインのセビージャに特注したタイルを用いて宮殿のほとんどの部屋を再度装飾したとのことです。

 1498年にマヌエル1世はスペインを訪問し、アルハンブラ宮殿などに魅せられ、アラビア風のアズレージョを導入するという、ポルトガルのアズレージョの歴史に大きな役割を果たした国王だったそうです。

 

 下の写真は主な部屋で撮影したものですが、全体がよくわからないものばかりで恐縮です。このうち「アラブの間」のアズレージョはポルトガル現存で一番古いものだという説明がありました。「タイル技法による建築装飾」で最もバリエーション豊かな表現が見られるのがこのシントラ王宮だとされており、つまり「モザイクタイルからバロック風タイルに至るまで」が一堂に会した「ポルトガルのアズレージョの歴史が凝縮された建築」であると、森田さんは評しています。

 王宮から小雨の降り続く外へ出て、ケイジャータという菓子の専門店に向かいましたが、鮮やかなブルーのアズレージョに外壁を覆われた建物に目を奪われました。そういえば王宮のアズレージョは外壁にはなくすべて内部装飾、内装だったのです。

  シントラ王宮のメインフォサード 突き出た二本の煙突が個性的です [2013.12.24撮影]

  「白鳥の間」 27羽の白鳥が全部違う姿で描かれています 王宮で一番広い部屋です 

  「紋章の間」 最も豪華な部屋と言われています 重要な決定を下した部屋だそうです

  「カササギの間」 国王の執務室として使われていました

  「アラブの間」 このアズレージョがポルトガル現存で一番古いものだそうです

  「礼拝堂」 小さいですがアズレージョに包まれています

  王宮を出て目に入ったアズレージョの外壁

 

🔸ケーブルカーと市電に揺られてーリスボンー

 シントラからロケ岬を経由して、クリスマスイブの夕刻にリスボンへ戻ってきました。ツアーの1日目のリスボン泊を除いて、リスボンではツアーで2日、続いて延泊の3日の計5日間宿泊し、丸まる4日の活動期間がありました。こんな調子で書いていると長くなってしまいますので、先を急ぐことにします。

 

 アズレージョという視点からすると、1755年のリスボン大地震は大きな変化をもたらしました。これに先行する18世紀前半は、植民地であるブラジルで発見された金鉱から得た莫大な富によって、アズレージョは華やかなバロックやロココ様式の時代を迎えていたのです。そこに発生した大地震によって、リスボンの市街地はほとんど崩壊したことから(現在のアルファマ地区だけが倒壊を免れました)、その復興事業ではアズレージョを装飾よりも実用的なものとして用いる契機となりました。この簡素で機能重視のスタイルは復興を指揮したボンバル侯にちなんでボンバル様式と呼ばれています。

 今のリスボンから、こんな様式とかの情報を読み取ることなど私にはできませんが、アズレージョを意識して見たポルトのサン・ベント駅やシントラ王宮とはちがって、リスボンではそんなに意識することもなく街の風景に溶けこむアズレージョに出会いました。

 

 ここでは、私のカメラに残っていたアズレージョのある風景を下に並べておくことにとどめます。下の方にあるアレンテージョ会館ですが、アレンテージョとはリスボンより南の地方のことであり、その会館は、東京に都道府県名などの付いた〇〇会館が所在したりしているのと同様に、首都リスボンにいるアレンテージョ出身者・同郷者が集う拠点となっているのでしょう。その拠り所がアレンテージョの農村風景などを描いたアズレージョによって飾られているのです。

 一方、写真はないのですが、地下鉄の各駅には現代美術というカテゴリーで理解されるべき抽象的なアズレージョが大きなインパクトを与えていました。

  朝日に輝くアズレージョ(リスボンのシアード地区) [2013.12.21撮影]

  レストラン「ピカーニャ」店内(リスボンのジェネラス・ヴェルデス通り) [2013.12.27撮影]

  本屋のウィンドー(リスボンのバイシャ地区)  [2013,12.27撮影]

  大きなアズレージョ(グルベンキアン美術館)  [2013.12.28撮影]

  カーザ・ド・アレンテージョのアズレージョ(アレンテージョ会館内) [2018.12.28撮影]

  アレンテージョ会館のイスラーム風のパティオ  [2013.12.28撮影]

 

 ポルトガルの旅から4年以上をへた現在、リスボンはどんなところでしたかと問われたら、ケーブルカー市電に揺られてふらふらしていました、だからなのか、素朴でゆったりとした人懐っこい雰囲気の街でしたよ、とこんな応答をすることになります。

 「ケーブルカーと市電に揺られて」というテーマはたんなる比喩ではありません。特に市電の方は、急な坂が多く、しかも狭くカーブのきつい道を走っています。レールの湾曲が大きく連続するところでは、木を用いた古い車体が相乗し、本当にギーと音をたてつつ文字通り「揺れる」のです。

 そんなことで、なんだか回数も多く時間も長くケーブルカーと市電に乗っていたなあというのが、私のリスボンの「揺らぐことのない」イメージです。

 

 ツアーの最終活動日である25日のクリスマス、午前中にお決まりのベレンの塔、発見のモニュメントからアルファマ地区を散策して、午後はフリータイムとなりました。リスボンのへそであるロシオ広場でバスから降ろされたのですが、添乗員さんから午後はどうされますかとの声がかかりました。この問いかけにあまり反応されない皆さんをみていて、ではもしよければここから近くにあるケーブルカーにでも乗ってみましょうかという言葉が私の口をついて出ていました。複数回目のリスボンというご夫婦を除いて、中高年のご夫婦など10人以上のグループで動くことになったのです。私たちは延泊のためにガイドブックでリスボン情報を調べていたからということなのでしょう。

 今から思うと、普段の私にはできないようなことをしたことになりますが、それはそれで心に余裕をもった方が多く、私の情報が曖昧でうまくいかないときも笑い飛ばしてもらえる愉快な午後になりました。

 

 七つの丘の街といわれるリスボンには、市街地の中心に3本のケーブルカーがあります。日本でイメージするケーブルカーとちがって、市街地の段差のある2つの地区を、短時間(5〜10分程度)で上下移動する交通手段です。3本はそんなに離れていないので、一筆書きのように3本とも制覇しようとしました。

 最後のピッカ線に上部の乗降場から乗りこんで、「あれは海ですか」とテージョ川を指さす声に笑いを誘われながら、テージョ川へ向かって下りかけたとき、急に停車してしまったのです。なんの故障なのかそのまま30分ぐらい動かなかったのです。この間、運転員からは何の説明もありません。臨時添乗員の私はこれは困った、どうしようと思ったのですが、この騒動を楽しもうと停車の原因を面白おかしく推理して盛り上げてくれる方もいて、あっという間の30分でした。

 それから小ぶりで古めかしい車体の市電28番線に乗りこみ東の終点まで行き、また引き返すという悠長なことをして遊んだのです。この観光のための貸し切り市電としても使われることのある28番線は、クリスマス休暇でリスボンを訪れた観光客で超満員でした。

 

 私は先頭で添乗員のように先導していましたが、ケーブルカーや市電をつなぐために長い距離を歩かせてしまったせいか、後ろの方から「奥さんの足が痛そうですよ」などと私の家人の困憊ぶりを教えられたりしました。で、街の中心地であるコメルシオ広場のカフェにたどり着き、ごいっしょにお茶をしてから、さも知ったように最後にとサンジェスタのエレベーターの方へ案内しましたが、クリスマスで運転が休止していてがっくりでした。

 そして、もうだいぶ薄暗くなりかけたころ、クリスマスということでバスも人出も少なくなったロシオ広場に戻ってきて、お元気でと笑顔でお別れしたというのが、クリスマスの午後の顛末でした。

  ケーブルカー・グロリア線  [2013.12.25撮影、以下同じ]

  ケーブルカー・ラウラ線 右の建物の外壁はアズレージョです  

  ケーブルカーの車内

  超満員の市電28号線 狭い車内です

  サンジェスタのエレベーター ケーブルカーと同じ交通手段でもあります

 

 翌26日の午前5時前にツアー一行はホテルを出発しなければならないということで、前日にごいっしょした皆さんに挨拶することもできませんでした。それからの延泊の3日間、テージョ川の対岸へフェリーで渡ったり、クリスマスで乗れなかったサンジェスタのエレベーターを昇降したり、アルファマの「泥棒市」というノミの市へ足を運んだり、ファド・コンサートにも出かけたりと、うろうろして過ごしました。もちろんケーブルカーと市電がメインの足となりました。

 ここまでも通り一遍の感想を言葉にしてきただけですが、さらなる上乗せはやめておくことにしましょう。これから先にポルトガルの旅と関連した事象に出会ったような別の機会に、旅の記憶が化学反応して浮かんでくる言葉を待つことにします。

 

 最後に、異な経験として言葉にしておきたいのは、アメリカ人のご夫婦と食事をごいっしょしたことです。今から思うと、言語の不通がどうしようもなくて、やりきれなさだけが残っているという気持ちですが、それは一方的に私たちの問題だけでなくお互いの問題なのでしょう。この体験のあと、時間のある私が一念発起して英語を勉強するという行動にでも出ていたなら、それこそつながりをもって言葉にできるのかもしれません。でもしかし、そんなトライなど夢にも思わないわけですから、めずらしい体験だけに終わってしまっているのでしょう。

 延泊の1日目、対岸のカシーリャスから戻ってきた26日の夜8時すぎ、古いホテルのカウンターで、おすすめのレストランを尋ねると、ホテルからすぐ近くのレストランを勧められました。そのカウンターの女性は私たちの英語力を呆れずにたえ、懸命に理解しよう、役に立とうと努力してくれる方でした。その方が、先ほど私たちとエレベーターが同じだった白人のご夫婦に、同じレストランをおすすめしたのですよと教えてくれました。

 

 ホテルの外へ出ると、ほんの20~30mのところにレストランはありましたが、私たちとほぼ同年配のそのご夫婦がちょうどドアを開けて入ろうとしていたところでした。二人は私たちを目にとめ、驚いたように、さあお先にどうぞと入れてくださったのです。私たち二人は予約なしでは空きテーブルがないという状況らしく、一瞬困ったのですが、ホテルから事前予約していたご夫婦がごいっしょにどうぞと同席を申し出てくれたのです。今から思えば親切なことです。私たちが片言の英語も難しいことを知っていたら、どう反応されたかわかりませんが、とにかく私たちにはできそうにない親切に出会ったのです。

 夫の方はワシントンDCでコンサルタント(どのようなコンサルかはわからないままでした)をされており、息子さんが日本に英語教師として滞在したことがあって、今はハワイに住んでいることはわかりました。私も家人もいろいろとジェスチャー入りで話したつもりですが、ご夫婦は二人ともワイン1杯ずつの酒量で、私たちも右にならへでしたので軽く酔うことができなかったこともバリアになったかと思います。何をどうして食べたのか、私たち二人だけのときよりも少ない飲食量だったことだけで、それ以外はまったく記憶にありません。

 

 聞いたこと、話したことが再現できないのです。1時間半ばかり同席し、最後の方でお礼とともに英語を話せないことをソーリーとあやまって残念がると、自分たちも日本語を話せなくてというような趣旨の話を返されたのだと思います。息子さんの関係で日本への印象が悪くなかったことも幸いしたのかもしれませんが、そのようなご夫婦に巡り合ったのは幸いなことでした。

 今から思うと「もどかしい」という言葉はこんなことなんでしょう。二人を困惑させたであろうなと、まことに情けない気持ちですし、笑ってしまいたい気持ちもあります。でも、いやな記憶ではまったくありません。写真を撮影することさえすっかり忘れていました。それだけ舞い上がっていたのでしょう。

  市電28号線の西の起終点(エストレーラ) [2013.12.28撮影]

  サン・ジョルジョ城遠景(サン・ペドロ・アルカンタラ展望台からの眺望) [2013.12.26撮影]

  LIANAのコンサート 現代版のファドというのでしょうか [2013.12.28撮影]

  最後に歩いたリベルダーデ通り 路面のモザイクもアズレージョのようです[2013.12.28撮影]

 

 遠くて近いと感じたポルトガルの旅の記憶を、アズレージョに力点をおきつつ言葉にしました。私の能力不足ということではありますが、アズレージョは意外と言葉にならなくて困りました。それだけ長い歴史を背負い、今日も現役ということで、過去の遺産を評価するのと少し違うように感じています。

 どうして近いのかについては、ポルトガルと日本の関係史も関連しているのかもしれません。何せヨーロッパ諸国で日本にはじめてやってきたのがポルトガルです。鎖国で道が閉ざされるまで、日本との交易やキリスト教の布教において先頭を走っていたのがポルトガルでした。

 こんな関係が、パンや天ぷらから、煙草やカルタ、そしてボタンやシャボンまで、ポルトガル語が転訛した日常語が使われている背景にあります。 

 そして、現在の私たちのような観光客にとって、歴史・文化の豊かさはもとより、食事が他のヨーロッパよりも素材重視の調理法で口に合いやすいこと、全般的に物価がやすいこと、そして何よりポルトガルの人びとの含羞というか、自己主張の強さが前面出てくる欧米人と少しちがう柔らかさがすばらしいし、私たちにはありがたいのだと感じています。

 この背景には、周辺のヨーロッパ諸国に比べた、経済発展の進度の格差、有体にいうとその苦境という問題が横たわっていることが否定できないのでしょう。でも私の錆びたアンテナではそんな社会的な状況を生の体験として感知することができませんでした。

 

 アズレージョに相当する日本の建築文化の表徴とはと考えてみるのですが、浮かんでまいりません。本稿を綴るうえで指標となった森田さんのアズレージョの歴史論は、次の言葉で締めくくられています。

 「 アズレージョ文化は大航海時代の繁栄の時代を経ることで、ポルトガル

  人の「誇り」を表徴する素材として現代に至るまでしっかりとこの地に根

  を下ろすことになった。一つの文化が受け継がれるために無くてはならな

  いものが、それを担う人々の「誇り」である。我々がポルトガルで幾度と

  なく眼にしたのも「アズレージョ」とそれを「誇り」と思う人々の姿で

  あった。」

 

 最後の28日の夜に、小さなポスターでみたコンサートへ出かけました。元々パレスであった会場は街のど真ん中にあって土曜日かつ廉価なチケット代の三位一体で超満員の盛況でした。現代のソフィスティケートされたファドとはこんな感じなのかなと楽しみました。

 私にとってのポルトガル音楽は、やはりマドレデウスです。自動車のCMにも使われたマドレデウスの「海と旋律(O PASTOR)」を貼り付けて本稿を閉じることにします。

 

 ◎マドレデウス「海と旋律」 1994年東京コンサートライブ

2017.07.16 Sunday

もはや京都は熱帯だーおじさんたちの遠足ー

 祇園祭の始まっている京都へ日帰り(7/8)で出かけてきました。おじさんたち8人の一行です。ムシムシする梅雨の晴れ間の京都をレンタサイクルで駆け抜けたオトナの遠足、<おじさんたちの遠足>でした。

 午後4時すぎに三条京阪近くでレンタサイクルを返したとたんに降り出した雨は、一気に土砂降りです。前日も同じような状態だったと聞きましたが、熱帯のスコール状態となったのです。雨宿りもままならないまま川端通を北上し、居酒屋へたどりついたころには全員がびしょ濡れです。

 スコールは強弱がありつつも2時間くらいは続きました。もはや京都は熱帯だ、といいたくなりましたが、宴を終えるころにはすっかり雨もあがり、私には深い余韻を残す小さな旅となりました。

 

 仕事から離れていよいよ世間の狭くなった私には昔からの友人は別にして、グループでお付き合いが続いているのは3つぐらいしかありません。退職の時に所属していた職場と退職後にお世話になった会社のそれぞれの仲間、そして今回のグループです。

 このグループは10数年前にいっしょに仕事をしていた同僚の有志ということになります。最年長である私の退職という機会に集まったりして再会し、昨年、そして今年も3月に私に次いで退職を迎えたFさんを祝うために集まりました。その場で、Fさんから京都遊びの提案があって、今回の京都遠足が実現したというわけです。

 60代後半の私から、50代前半で最若手のHさんまで16年という歳の差がありますが、50代後半、退職まであと何年という期間が脳裏にちらつく人が多いグループなのです(8名の頭文字がアルファベット順にBFGHKOSTと一文字も重ならないのはちょっと面白い)。私以外はまだ現役のサラリーマンですが、サラリーマンの終盤になったからこそこんな集まりができるようになったといえるのかもしれません。

 少し気恥しい言い方になりますが、今となれば、私にとってサラリーマン生活の白眉だったのかな(このことは私個人の思い込みだということをお断わりしておきます)と振りかえる時期(4年)でもあります。そんな私にとっては、その期間に仕事場を同じくした人たちと、つまり同じ言語と時間を共有した人たちと、淡いものにせよ、あるつながりを意識できることは大変にありがたいことだと思っています。

 

 Fさんが企画した京都遠足計画の目玉は、最後に居酒屋の名店『赤垣屋』で打ち上げることです。もとよりグループにまるで京都を知らない人はいないのですが、最近よく京都に足を運ぶというFさん以外に、学生時代を京都でおくったのは私とBさんの2人だけですので、とにかく遠足らしい、修学旅行らしいところを行先のメインとすることにしました。

 目玉である川端通二条下ルの『赤垣屋』での午後5時宴会開始に向け、梅雨の真っ最中の蒸し暑さを考慮し、三条京阪に朝10時集合、レンタサイクルで移動することにしました。南禅寺、哲学の道、法然院、そして昼食(銀閣寺道『おめん』)、京都大学時計台、『進々堂京大北門前』で休憩します。それから下鴨神社、鴨川の河川敷サイクルロードを通って、梨木神社・蘆山寺へ、時間に余裕があったら『ハイファイ・カフェ』で足休めしてから、レンタサイクルを返却し、いざ『赤垣屋』へという行程です。

 京都市内の北東部の一部をぐるりと回るコースであり、見学先の中では南禅寺と下鴨神社が定番中の定番ということになります。

 

 最後に熱帯スコールが待ち受けていたものの、見学先では雨に降られることもなく、暑さでヘトヘトになりながらもおじさんたちの遠足は無事に終えることができました。人との出会い、別れは偶然のようにも必然のようにも感じることが多いのですが、今回の遠足においてもちょっといい出会いがありました。

 この顛末を遠足メモとして、いつも以上のだらだら作文となりそうですが、一つの記念として残しておくことにします。

  遠足のために用意した自転車の行路図の部分(赤マーカー)

 

🔹三条京阪〜南禅寺

 このレンタサイクルの自転車は重いなあとちょっと心配になりながら出発です。当たり前のように先導役をつとめた私ですが、出発してすぐに南禅寺までの予定コースを外れてしまいました。仕方なく通ることになった狭い横道には50年前の記憶と同じ格子のある民家も残っています。戦争で焼けることのなかった街中に長く居住している家が多いのが京都らしい風景だと視界に入れつつ、遠回りになりましたがなんとか30分ほどで南禅寺に着くことができました。

 

 さて、元気なうちにと三門前で記念撮影してから、ご立派と評するほかない三門に上りました。早くも汗だくですが、三門上は風があって助かります。三門の上はぐるりと一周できるようになっていて、湿気をたくさん含む空気の向こうに眼下の南禅寺境内とともに、京都市街のパノラマや東山の緑を楽しむことができます。あれが平安神宮の鳥居、向こうがホテルオークラでその向こうに市役所があってというように、まずは街の方向感覚を確かめました。歌舞伎の一場面で石川五右衛門が三門の上から「絶景かな、絶景かな」と見得を切るシーンでも知られています(事実に基づくものではないのだそうです)。

 安西水丸さんが写真家の稲越功一さんと日本中の街を取材した『町の誘惑』(宝島社/1994年刊)の冒頭はやはり「京都」であり、その中で「冬の晴れた日には、ぼくは南禅寺の三門に上る」とあります。冬ではなく梅雨の7月のせいか、「絶景かな」に届かないまま下へ降りました。

 

 続いて南禅寺の施設ではないのに、南禅寺といえば登場する水路閣です。琵琶湖疎水が流れる水路閣の上面が見える場所を探すことにしました。水路閣のアーチの下を抜けて南禅院の階段を上っていくと工事中の囲いがあり、さらに進んでいくと、勢いよく流れる水路が見えてきます。水路閣自体はレンガ造の重量感のある、ローマの水道橋のミニ版みたいな感じですが、水路部分は意外と狭いものでした。疎水分線(1890年(M23)完工)と呼ばれるもののようで、この流れと別の流れが合流して哲学の道の脇を流れる疎水となります。

 埼玉の中学生10数人が観光タクシーの年配の運転手さんから何か説明を聞いています。修学旅行の中学生が観光タクシーを利用するのかと驚きでもありました。もっと近寄り私とご同輩のような運転手さんの話も聞いてみたかったけれど、中学生たちがキラキラまぶしくておじさんたちは遠慮しました。彼らにはこんなおじさんグループはどのように写っていたことでしょう。

 他人様からの説明(ガイド)を敬遠される向きもありますが、フムフムと聞いて得心してみることも、それがネクストを想像するきっかけになるとしたら、それも旅の醍醐味かなと、最近では思うようになってきました。

  南禅寺の三門 [同行のOさんが撮影したもの、以下「Oさんの撮影」と表記]

  三門の上から南禅寺の東山側の眺め  [こちらは私が撮影、以下表記せず]

  水路閣の土台橋脚部分

  水路閣上の疎水が流れている水路部分

 

🔹哲学の道〜法然院

 南禅寺から哲学の道を重い自転車で北上します。この道の脇には先述した疎水分線が流れています。学生時代、私にとってこの道は歩く道ではなく、南禅寺へとランニングする道でした。今となっても、哲学は遠くにあるであろう憧れですが、憧れは憧れのままで終わりそうです。

 こんな暑い日に歩いているのは、外国のそれも短パン・Tシャツの白人系観光客がほとんどです。日本人はもとよりアジア系の観光客もあまり見かけませんでした(午後は様相がちがうのかもしれませんが)。

 

 そうこうするうちに哲学の道を東へ折れると、すぐに法然院に到着します。大文字山の西側に連なる善気山(東山三十六峰の一つ)が境内になっています。

 Fさんがまず墓所の方へ、谷崎潤一郎(1886-1965)の墓へと案内してくれました。そんなに大きくない自然石が二つ、3ないし4mの間隔で並んでおかれています。左の石には「寂」、右の石には「空」という文字が刻まれています。

 え、どちらも谷崎の墓なのかと思っていたら、ここで出会いがありました。墓守さん(60歳前後の男性です。こう呼ぶことにします)が掃除をされていたのです。昨夕の「夕立ち」を越えたスコールで上から流れ落ちた土砂や落ち葉をちょうど片付けていたところでした。うろうろしている私たちに「ああ谷崎さんのお墓ですよ」「左が谷崎夫妻、右が松子夫人のお家(森田家ということか)の墓です。谷崎さんはなかなかややこしい方ですから」とニッコリしつつ説明が入りました。あんなにいろいろあり気でややこし気にもかかわらず(といってもイメージだけのことですが)、墓石は「寂」「空」なのです。

 「出没する猪や鹿のために山の斜面が削られ、上から流れてくる、崩れてくるものが多くて困ります」という趣旨の話もありました。気さくな方らしく、掃除がすんできれいな谷崎の墓の前で、おじさんたち8人が並んだ記念撮影のシャッターを押してくれたのです。Tさんがタバコを吸いかけていたのでここでもいいのと言ったら、ちょうどその方も一服タイムを始めていて、思わず笑ってしまいました。

 そして法然院の墓所には戦前、戦後の京大の著名な先生方のお墓などが多くあると実名をあげて教えてもらいました。私たちが歩いていくそばにある墓を「それは○○です」などと声をかけてくれるのです。

 

 ちょっと満たされた気分で法然院の大きくはない境内に向かいました。Oさんが撮影した茅葺きの山門の姿は均整のとれた美であり、誰しもが宗教性を感じるエントランスです。山門をくぐり両側にある白砂壇と呼ばれる白い盛り砂の間を通り抜けると、苔むした庭園や池が迎えてくれました。

 現住職の梶田善章さんも著名な方のようですが、私の世代の者にとって、その父にあたる橋本峰雄さん(1924-84)は西洋哲学を専攻する仏門として、またべ兵連の結成に参加した方として記憶にあります。鶴見俊輔さんによる卓抜なポルトレで橋本峰雄は「すべて橋本さん一流の韜晦の下におこなわれた」と「韜晦」を強調しています。そして「日本の仏教には、いかがわしいところがある。一宗一派の管長として、そのことに眼をつぶらず、というよりも人一倍のはじらいをもってその事実をうけとめ、日本の仏教がもっている矛盾を一身にひきうけて考えようとした、ひとりの学僧だった」と書いています(『悼詞』(編集グループSURE/2008年刊))。

 

 今、法事を終えたばかりの黒い服を着た人たちが数人ずつ何グループに分かれて本堂から出てきて、墓所の方へ向かって歩いていきます。Tさんでしたか「どこか品のいい方が多いみたいですね」とつぶやいていました。

 なにか変な言い方になりますが、境内のたたずまいも含め、この寺は今を生きているのだということを強く感じたのです。

  法然院の山門 [Oさんの撮影]

  法然院の苔むした庭

  谷崎潤一郎の墓[左側](法然院)

 

🔹京都大学〜下鴨神社

 銀閣寺観光客の定番である「おめん」で昼食とし、少し汗のひいた体を自転車に乗せ、白川通から今出川通という高校駅伝等でお馴染みのルートを西へ走らせます。

 すぐに京大の北部構内に入り、湯川秀樹の基礎物理研究所の脇を抜け、「農学部グランド」で自転車を止めました。人工芝、タータントラック、仮設的な観客席(コーチングで使うのでしょうか)と、往時ともいうべき半世紀前の土だけのグランドとの落差を改めてかみしめたのです。とにかくカラフルになったウェアを着た学生たちの姿にひどく場違いを意識しました。

 本部構内ではただ時計台の周囲をぐるりと走行してから、「進々堂京大北門店」で一休みしました。先ほどのグランドの様変わりの反対で、店内は何ひとつも変化がないように感じます。その印象は、なんといっても人間国宝になるはるか前、1931年、当時27歳の若き黒田辰秋が制作した大きな机とベンチがゆるぎのない姿でそこにあるからです。楢材に拭漆という技法ですが、メインテナンスはどうしているのでしょうか。私も座ったことのある半世紀前と比べても、寸分のちがいも見いだせないということは、これはこれで空恐ろしいことかもしれません。

 

 ようしと立ちあがり、下鴨神社へ向かいました。京阪出町柳駅の前を通り、人通りの多い河合橋は自転車を押し歩きして渡りました。そして北上すると、下鴨神社の南入り口です。昔とおなじように自転車で参道を走れるかなと思っていましたが、「そんなん何年前のことか」です。自転車は乗り入れ禁止で、神社西南脇に設けられた駐輪場へと誘導されました。

 

 最初は下鴨神社の摂社である河合神社内に復原された鴨長明の方丈庵を訪ねてみました。堀田善衞さんの『方丈記私記』(筑摩書房/1971年刊)のことが頭にあったからです。長明は下鴨神社の禰宜の子に生まれながらそうなれなかった人なのです。

 まあとにかく小さくて狭いのです。一間だけの家屋をぎゅうっと縦にも横にも縮小したような姿です(広さは一丈(約3m)四方だから「方丈」です)。ちょっとしたテントを木製にしたような様子なのです。立て看板には、この住居はくぎを使わない組立て式であり、ひんぱんに引っ越した鴨長明はその度ごとにこの住居を解体して移動先で組み立てて使っていたという趣旨の説明文がありました。まあテント替わりといえばそんなものかもしれません。

 『方丈記私記』で堀田さんは、鴨長明のことを「人の住む住居なるものにひどく関心のある男」であり、「方丈記」は住居を主題として書かれたものだと論を立てています。あの冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして……(中略)……久しくとどまりたる例なし。」に続くのは「世中にある人と栖と、またかくのごとし。」であり、人の世の無常は水でも泡でもなく「人と家、住居」に托しているのだというのです。そして、この妙な組立て方式の家を自ら設計し、「実行実践するところに長明がいる」のであり、「本質的にこの男は実践者である。理屈は、いわばあとから来る」、そんな長明を、堀田さんは「無常観の実践者、という背理がそこにある」と記しています。

 

 表参道には露店がずらっと並んでいますが、これを避け東側の「糺の森」の方からゆっくりと北上します。糺の森は西の賀茂川と東の高野川の合流地点のデルタ地帯に広がっていた原生林だということで、今は応仁の乱の大火による縮小をへて、下鴨神社の社叢林となっています。

 境内には表参道をはさんで賀茂川の支流である「瀬見の小川」と高野川の支流である「泉川」が南北に流れていますが、東側の泉川に沿って歩きました。もっと鬱蒼としているのかなと思っていましたが、そんなに暗い森ではありません。情けないことに樹種を特定できませんが、いつのころからあるのだろうという大木が散見されます。もう朽ち果てた大木が神木として祭られているものもあります。昭和になってから台風や大水害によってクスノキが植栽されることになるなど、植生も変化しているようです。特徴としては、常緑の針葉樹が少なく、落葉樹中心の明るい森だと書かれていました。

 後から知ったのですが、法然院に墓のあった谷崎潤一郎が戦後10年ほど暮らした旧宅(「潺湲亭(せんかんてい)」)、今は石村亭(せきそんてい)と呼ばれていますが、糺の森の途中で東へ折れると、すぐ近くに今もあるとのことです。石村亭は糺の森を借景としているようです。なんと贅沢なことでしょう。

 

 赤い鳥居をくぐり、楼門、中門をとおり、本殿に入りました。干支で区分された小さい社殿が6つあることを初めて知りました。暑さと疲労のせいか、だんだん思考停止状態になってきました。<うし>の社殿で二礼二拍手一礼、そんなふりをしているだけで、とても祈る気持ちになれません。

 午後という時間帯もあったのでしょうか、観光客の数は南禅寺とは比較にならないぐらいに多く感じました。旗に先導された日本人グループもありますが、どこから集まってきたのかというほどの盛況なのです。浴衣姿の若い女性も目立っていました。

 糺の森を遊覧する馬車が客を乗せてゆったりと進んでいます。発着所の表示「大人1000円、小人500円」の「1000円」の上に赤太字で「500円」が貼られていて、大人は半額になっても、小人は半額にならないみたい、ちょっと変かも、とおじさんたちは笑ったりしたのですが。

  下鴨神社 南の鳥居 [Oさんの撮影]

  糺の森を遊覧する馬車 [Oさんの撮影]

  下鴨神社(河合神社)内 復原された鴨長明の方丈庵

  下鴨神社の糺の森

 

🔹鴨川サイクルロード〜梨木神社・廬山寺〜京都市歴史資料館

 下鴨神社をあとに、Fさん推薦の梨木神社・蘆山寺へと向かいます。葵橋を渡り、賀茂大橋から鴨川の遊歩道へと下り、サイクルロードを走ります。鴨川デルタには大勢の人たちが集まっていて、水遊びを楽しんでいました。こんな川が街のど真ん中にあるのは京都の底力の源泉です。今から振りかえると、2時間ばかり後のスコールによって危険なことはなかったのかなと心配になりますが、何の報道もないので大丈夫だったのでしょう。大きな川ですので、急激な増水はある程度緩和され、退避が可能ということなのでしょうか。

 右手に京都府立医大を見つつ、荒神橋のところで地上へ上がり、ここで次の予定のあるOさんとはお別れとなりました。

 

 で、7名になった遠足グループは、河原町通を横断し、すぐ近くの寺町通沿いの梨木神社で自転車をおりました。

 境内の「染井の水」は京都三名水の一つとされています。Fさんは京都を訪れたとき、この水をペットボトルへ汲んで持ち帰り、利用するとのことです。お湯状態になったペットボトルの水を捨て、冷たい「染井の水」を入れました。ごくっと喉を通る「染井の水」は甘露でした。

 寺町通をはさんで東側の蘆山寺へ入りました。紫式部の邸宅跡としても知られているようですが、当方がめざすのは御土居の遺構です。蘆山寺公式HPには御土居のことが詳しく説明されているのに、案内の看板などは見当たりません。ではと、源氏庭などの見学案内をスルーして、その奥にある墓所へ突入し、御土居の跡はあの一段盛り上がり藪となっているところにちがいないと見定めたのですが、何の標識も見つけることができません。私はこれに違いないだろうから、まあいいかと引き返す気持ちになっていましたが、Fさんはがんばって御土居の跡らしいところを移動しながら「史蹟御土居」と表記された石柱を探しあててくれました。

 天下統一を成し遂げた秀吉が戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、防塁や堤防を兼ねて築いた土塁と堀が御土居です。南北約8.5辧東西約3.5劼僚陳垢如△修瞭眤Δ洛中、外側が洛外と呼ばれたのです。現在、御土居の跡として9箇所が指定されていますが、蘆山寺の御土居跡は東側部分で唯一の遺構だそうです。それにしても、鴨川の西側にある蘆山寺が洛中の東端なのですから、そのころの洛中は、今の感覚からすると、えらく西寄りであったということになります。

 

 へえーこんなものかと墓所を通り抜け、寺の境内の方へ戻ろうとしていたとき、観光ボランティアだという男性と鉢合わせになりました。御土居を見てきたというと、おぬしたちやるなと、御土居だけでなく、墓所には皇族の陵墓がたくさんあると、次々と天皇の名前をあげて説明してくれたのです。私はもとより、いささか疲れのにじむおじさんたちがどこまで聞き取ったのか、はなはだ心もたないのですが。

 もう一つ耳寄りな話、近くに歴史資料館があるから寄ってみたらどうかと彼が教えてくれたのです。

 

 3時を過ぎたところで予定していた『ハイファイ・カフェ』は今日は客が多くて7人の受け入れが困難な状態でした。渡りに船と寺町通の新島譲記念館の近くの京都市歴史資料館へ入館しました。めずらしく無料です。もちろん冷房が効いています。ありがたく見学したり館内のベンチで休んだりすることができました。

 ちょうど企画展「鷹山ふたたびー祇園祭鷹山復興支援展ー」が開催中でした。元々は「後祭」で「鷹山鉾」として最後尾から二番目を巡行していた大規模な曳山でしたが、1826年に激しい夕立で破損し、それ以来、200年近く休山していたのです。それが2014年の「大船鉾」の復活にも触発されて、復興に動き出し、公益財団法人を結成して、200年後の2026年までの復興・巡行参加を目指して活動中ということです。

 1時間ばかり、見学よりも休憩に力点をおいて滞在させてもらいました。蘆山寺で出会った観光ボランティアの男性は大変熱心に展示を見学して勉強していたようで、ベンチで世間話をしている私たちに声をかけることをはばかられたみたいです。私たちもきちんとお礼を言いそびれてしまい、ちょっと申し訳ない気持ちになりました。

  蘆山寺 御土居の遺構「史蹟御土居」と表記

  京都市歴史資料館で開催中の「鷹山ふたたびー祇園祭鷹山復興支援展ー」 

  

🔹『赤垣屋』で打ち上げ〜お疲れ様

 レンタサイクルを返却し、いざ打ち上げへとなったのですが、最初に書いたとおりスコールに見舞われました。びしょ濡れになりながら昔の建物を使っている『赤垣屋』へたどり着き、Fさんが予約してくれていた一番奥の座敷に案内されました(Fさん以外の6人は初めての『赤垣屋』です)。

 いささか這う這うの体のおじさんたちでしたが、心がなごむことがありました。少し年配の女性がハンドタオルを数枚もってきて使ってくださいと言ってくれたのです。店の方のようには見受けられなかったのでどんな方なのだろうと話したりしていましたが、後で従業員の人に聞いてみると、現主人の夫人であることがわかりました。普段は店に出る方ではなかったようですが、びしょ濡れになった私たちを見かねて気を遣っていただいたのでしょう。

 スコール、店の内部、座敷の様子、数々の料理、こんな興味をもっていただけそうな写真は一枚もありません。写真の助けがなければ、的確に記述する能力の欠如が顕わになり情けなくなります。下手な食レポはやめておきましょう。『赤垣屋』は京都の居酒屋の代表格としてブランド化されてしまっていますが、タオルのことを含め、されど『赤垣屋』だったとの感を深くしました。

 ㊟『赤垣屋』で食した料理や酒を写真入りでレポしたブログ「旨いもん 三昧やん

   とリンクを貼らせてもらいます。

 

 反省会、打ち上げなんでもいいのですが、宴会だけよりも、朝から遠足してきたという全身の疲れとちょっとした達成感を味わいながら、食べて飲んでいると、次第に乾きはじめた頭からつま先まで充足感でみたされ、心地よい酩酊感覚がありました。ひょんなきっかけから企画した<おじさんたちの遠足>が無事に実行できてよかったなあと、充実感とともに感謝の思いがしました。私だけの感覚ではなく、みんなの共通した感覚であったことを祈りますが。

 何の話をしていたのか、といっても、まあいつものことですが、過去のいっしょに仕事していたときのこと、今の仕事のこと、共通した知り合いの消息、時事問題など、取り立てて申し上げるようなことはありません。なんとなく気心がわかった者同士が語らうのがいいのでしょう。

 退職した者、退職が予定に入ってくる者がほとんどというグループだということは、退職後の仕事と生活のバランスに関する話題が多くなることは否めません。退職後の仕事のやりがいと自分のやりたいこととのバランス、仕事の質と報酬との関係等々、「よく生きる」ということは、それぞれの個性によって違うのですから、こうでなければならないという答えはないのです。

 サラリーマン仕事から完全に離れた私には、同じ「よく生きる」という問いに退職後すぐに意識していたこととは別の問題、心身の衰えを含めた問題が横たわっているということになります。まあ基本は、約1年前に当ブログの「「残日録」そして<残日>のこと」で書いたことにそんなに変わりはないといえば変わりがないのですが。

 

 以上、<おじさんたちの遠足>を記念して残しておこうとしたメモは、締まりのないとりとめのないものになってしまいました。こんな小さな旅でも、不思議なもので、法然院、蘆山寺、赤垣屋で出会った人たちに負っているようにも感じています。

 いずれにしても、約1週間をへた今(7/16)、明日はもう祇園祭の山鉾巡行ですが、こんな遠足メモを書きつけていると、<おじさんたちの遠足>の余韻がじわっと深まってくるように感じています。今年の夏のビッグイベントがもうすでに終わってしまったようで一抹の空虚感をかみしめているところです。

 またの機会を期待することにいたしましょう。

 

【追記】

 法然院のHPに住職である梶田真章さんの法話がアップされています。その法話3は「観光」がテーマになっています。

 「観光」とは中国の『易経』の「観国之光」(他国の文化を観察してよく知る)から広まった言葉ですが、現代では「知る」ことから「見る」ことへ、「教養」から「見物」へ、観光という言葉の担う意味が変わってきたということなのでしょうと、まず梶田さんは提示します。だから、単なる見物のために訪れていただく方にも何らかの役割を果たしていくのが現代の寺院のあり方でもあるが、梶田さん、寺を預かる住職としては何がしかの宗教性を感じていただける場でありたいと願っているとします。

 法然院について言えば、「お寺の由緒や庭園の石組みの意味を知っていただくことが大事なのではなく、この地に寺を建て、そして今日まで寺を守り育ててきた人の心と出会っていただくこと、そしてその想いの中心に常に阿弥陀佛の存在が確かにあり続けていることを実感していただくことが最も肝要なことだ」と考えている、そして「真の観光寺院でありたいと改めて願っている」と、梶田住職は結んでいます。

 法然院のたたずまいは確かに梶田住職の意図が反映されているのかなという感想をもちましたが、観光に行く私たちの側からすると、とてつもない高いハードルであることは事実なのでしょう。

 今回は京都論とはほど遠いものとなりましたが、私にとって特別な町である京都をテーマに書いたブログには一端が垣間見えるかもしれませんので、リンクを貼ることにさせていただきます。

 ◇2015.12.29、31「ちょっとそこまでー師走の京都ー(1)(2)

 ◇2016.8.19

   「『京都ぎらい』から離れてー「洛中的中華思想」なるものー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.01.15 Sunday

「すてきな人生」のことーちょっと『シチリア・ナポリ紀行』の追伸―

 今朝(1/15)はキーンと冷たく晴れた空から雪が舞っています。

 一昨日からウォーキングのときに寒さを実感しました。

 少し歩いていると、まずニット帽を、次には首のスカーフを外し、最後には手袋も脱いでしまうというのが最近のウォーキングでしたが、寒波の到来、低温もありますが強い風がすぐに体温を奪ってしまうのでしょう。めずらしく出発したときの格好のまま帰宅することになりました。

 

 2017の年賀状に、一部の友人には「反自然の怪物である人間(ヒト)/矛盾の道を踏み迷うほかないのでしょうか」という趣意の添え書きをしました。こんなのもらって新年から迷惑な話かなあと思いながらも、そんなことを書いてしまいました。

 そんな言葉が自分の頭から出てくるような人間ではありませんので、元のネタがあります。私が50歳をだいぶオーバーしてから敬愛することになった北村太郎(1922-1992)さんの「すてきな人生」という詩から引き出した断片です。もちろん私の書いたことは今の私が本当に感じていることではありますが。

 この詩が入った同名の詩集『すてきな人生』(1993年3月刊/思潮社)は北村さんの亡くなった後に刊行されたものであり、「すてきな人生」という詩は亡くなる少しの前の70歳頃に書かれ、亡くなる5ヵ月前の『新潮』1992年5月号に掲載されました。

 長いですが、とにかく引用することにします。読みやすい日本語だけが使われていますのでお付き合いをお願いします。

 

    すてきな人生

 

 みんな、のんきな顔をしているけれど

 カラオケでうたったり、ウインクなんかしていたりするけれど

 いずれ地球は、ひびだらけになり

 ヒトは消えてしまうのを、とっくに心得ているのだ

 滅びない星なんて、ないことを

 

 ヒトの、ぼくたちの

 尊厳の根幹を震憾する、いろんなインフォメーションは

 朝のあいさつみたいに、さわやかに

 肉いろの夜のなかにさえ、交わされつづけていて

 でも、それが<意味>にしかすぎないのは

 氷った水のしたの影のように、たしかなのだ

 

 モノをほしがる物欲、のほかに

 ココロをほしがる心欲、まで持っているから

 ヒトは怪物、なのだ

 こうなったら、もう有るにちがいないのは

 むなしい無と観念して、矛盾の紫の道を踏み迷うしかない

 

 ほろびるのは、わかっていても

 しかし、無でいるわけにはいかないから

 難問の野原で懊悩し、もだえ歎き

 でも、にっこりしてカードを切ったり

 コロッケを、口いっぱい頬ばったりしている

 

 世界の終わりは、きっとくる

 そんなこと、大昔からみんな知っているのだ

 だが、<意味>として知っていたってなんの意味もないかもしれない

 或る日、青空の顎が開いて

 とつぜん命令形の、かみなりみたいな声が轟いても

 ヒトはシラケてしまうだけで、彼はひとりでも

 団欒していることができる、へんな生きものなのだ

 字引きをつかんだり、シイタケをいためたりして

 

 狩猟、農耕はもちろん

 ヒトのすることは、二本の足で立ち始めてから

 すべて環境破壊であり、ものごとを考えること自体

 ひどく反自然なのだが、だからこそ

 ヒトは生きて、怪物にならないわけにはいかない

 

 科学のおかげで、たくさんのヒトが長生きし

 たくさんのヒトが死んで、その差し引きをどう考えるか

 この土地では、毎年一万人が自動車で死ぬ

 十年で十万人、三十年で三十万人

 だが、だれも自動車をなくせとはいわず

 犬をつれて、夕方の住宅街を散歩したりしている

 

 たくさん殺そう、たくさん生かそうと

 反自然の怪物は、はげんできた

 どちらか片方、というわけにはいかないようにできているのがおもしろい

 そこがきちんとわかっているから、もう気晴らしをして生きるしかない

 <意味>なんて初めからないのだ、とあきらめて

 

 物欲、心欲はなくなるはずがなく

 ヒトの、ぼくたちの怪物性は

 いよいよ彩りゆたかになり、矛盾の垣根の

 無限につづく道ばたで、あいそよく頭を下げあう

 そして、みんななんでも知っていて

 たいそう有り難く、静かに息を吐きつづけるのだ

 

 いかがでしょうか。

 世界の本質のようなものを言葉にすることが詩のはたらきであるなら、この「すてきな人生」はいい詩ですし、すごい詩です。血液の癌であった北村さんが亡くなる直前という時期に書かれたとすれば、だからこそ書けたともいえますが、やはりとてもすごいことです。言葉が内向せず外に開いています。

 いろんな読み方ができそうですが、私には底知れない虚無の詩だとも読めますし、バルザックの人間喜劇のようなものが描かれている詩とも読めます。きっと両方、前者がベースにあって、その舞台で後者のような怪物たる人間(ヒト)が悲喜劇を演じている姿を、俯瞰の眼をもって、といっても超越したところからでなく、どうしようもない人間への深い愛憎の視点から書かれたものだと、私には感じられるのです。

 この詩では「人間」は使われることなく、あるのは「ヒト」です。私の年賀状の添え書きは、前半のところの「矛盾の紫の道を踏み迷うしかない」と、そのだいぶ後ろのほうの「反自然の怪物は」を使って書きました。「反自然の怪物である人間(ヒト)/矛盾の道を踏み迷うほかないのでしょうか」は、「人間(ヒト)」を加え、「紫」を外し、「しかない」を「ほかないのでしょうか」とぼやけさせただけのことなのですが。

 

 北村さんの詩に宇宙的時間と人類(ヒト)をみるとしたら、やはり思い出してしまうのは、谷川俊太郎さんが19歳のときに書いた「二十億光年の孤独」であり、これを併せて読んでいただくことにしましょう。

 

    二十億光年の孤独

 

 人類は小さな球の上で

 眠り起きてそして働き

 ときどき火星に仲間を欲しがったりする

 

 火星人は小さな球の上で

 何をしているか 僕は知らない

 (或いはネリリし キルルし ハララしているか)

 しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする

 それはまったくたしかなことだ

 

 万有引力とは

 ひき合う孤独の力である

 

 宇宙はひずんでいる

 それ故みんなはもとめ合う

 

 宇宙はどんどん膨らんでいく

 それ故みんなは不安である

 

 二十億光年の孤独に

 僕は思わずくしゃみをした

 

 若き天才詩人といわれた頃の谷川さんが書いた詩ですが、でも北村さんの詩とは違いますね。今の私は死の直前に書かれた北村さんの言葉の方にシンパシーをもちます。北村さんは結局のところ怪物である人間、ヒトを肯定も否定もできないわけで、苦笑しながら、この世界のことを言葉にしてサヨナラを告げているようです。

 

 さて、昨年3月末から2週間のシチリア・ナポリへの旅についてのブログを終えることができました。このブログ全体がそうなのですが、結局のところ自分のために書いているのに、最後のところは義務感みたいなものが出てきて困りました。(6・完)の最後の「長い旅の終わりに」で書いた心境のとおりですが、この間、私たち二人にいろいろとあったこともあり、ホッとしたというのが偽りのないところです。

 大層なことで恐縮ですが、写真部分が4割ぐらいありそうでかつ引用も多く文字数は大したことはありません。それでも浮かびあがってくる言葉を待つことの難しさを感じることになりました。私の読む紀行本は写真が入っていないか、入っていても少しですので、本一冊になるような内容を基本文字だけで描写することはやはりすごいことなのですね。写真におんぶしていてもそれなりでしたから。

 <紀行>という言葉を使える代物ではありませんが、この「シチリア・ナポリ紀行」に総称を与えるとしたらとちょっと考えてみました。できるだけ素直にという観点からしますと、シラクーサ編で小見出しに使った「歩く喜び、目の愉しみ」がいいかなあと思っています。

 

 こんな脳天気な気晴らしで遊んでいて書くことではありませんが、北村さんの「すてきな人生」に人間の悲喜劇を読むような視点から、ブログで使わなかった写真を1枚だけ入れておくことにします。

 エトナ山の旧火口、強風で近づけなかった私が反対側の旧火口のへりを風に抗して歩く人たちを撮った1枚です。ここに谷川さんの「二十億光年の孤独」という姿がみえていますし、北村さんの詩からインスパイアされた「反自然の怪物である人間(ヒト)/矛盾の道を踏み迷うしかない」が浮き出てきます。

 だからこそ北村さんの詩句「そこがきちんとわかっているから、もう気晴らしをして生きるしかない」ということになるのかな、と思ったりもしています。

  エトナ山の旧火口です(4/7撮影)

 

 最後にシチリア・ナポリ紀行の6回分を、(6・完)が容量ギリギリで余裕がなかったものですから、ここでリンクを貼っておくことにさせていただきます。

 

   『歩く喜び、目の愉しみーシチリア・ナポリ紀行ー』

 

   ◈大樹のようなカオス・パレルモ(その1)ー(1)

 

   ◈大樹のようなカオス・パレルモ(その2)ー(2)

 

   ◈白い石の残照・シラクーサー(3)

 

   ◈台地(テラス)と断崖・タオルミーナー(4)

 

   ◈曇りのち晴れ・ナポリ(その1)ー(5)

 

   ◈曇りのち晴れ・ナポリ(その2)ー(6・完)

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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