2020.10.29 Thursday

変化から見えてくるものー「国勢調査」と「日本学術会議問題」ー

 自治会の役員をしていることもあって、今回、初めて国勢調査員を担当しました。このたった一度の経験でえた感想を、そのまま一般化できるとはもちろん考えていませんが、少しメモしておくことにします。

 NHKWEBにアップされた9月30日付の記事はそのタイトルが「国勢調査が「存亡の危機」に!?」とありましたが、私も同じような言葉が浮かびました。5年に一度の国勢調査は全数調査を前提とする基幹調査なのだという条件からすると、その前提が揺らいでいるのではないかということです。

 

◈調査方法の曲がり角に立ち会ってー国勢調査員の経験からー

 8月末に近隣の国勢調査員を集めた場で、市の担当者から、どのように国勢調査を進めていくのかという手順の説明がありました。そのとき、私は、これでは、回答をされないままの世帯が多く出てしまうのではないかと思ったのです。そんな問題意識から、市の担当者に確認しても、市の方針を基本にやっていただければそれでいいという反応でした。

 今から思えば、現実を知らないというか、身のほど知らずの大げさの奴だったかもしれないと苦笑して振りかえることもできますが、9月上旬から10月中旬にかけての調査期間中、ずっとモヤモヤしたまま、どう対応しようかと、どうしようもないことに悩んでいた気がします。

 私が懸念したのは、コロナ感染防止という観点から、事前に予定されていた手順に比べ、さらに調査方法が簡略なものになっていたことです。まず、最初の調査資料一式の配付(9/14-9/20)については、インターホン越しの簡単な説明と郵便受けへの投函を基本に、不在の場合の再訪問は1回にとどめ、それでも不在の場合はポスティングすることになっていたことです。そして、回答の方法は、インターネットによる回答(配付時〜10/7)と調査票に記入のうえで郵送(投函は10/1〜10/7)のいずれかの方法によることを原則とし、調査員が回収する方法は例外的な位置づけになっていました。さらに、調査期間が10月7日で終了した時点において、国センターのデータベースで調査員ごとに担当世帯の回答の提出状況が集約されて市から報告されますので、各調査員はそれぞれ回答未提出の世帯を確認して、この世帯へ回答を督促することになりますが、この方法も、「提出のお願い」などの文書とともに調査票を入れた封筒をポスティングすることが基本になっていたことです。

 以上の原則的な調査の手順は、調査員の負担が軽減されるものでもあり歓迎すべきところですが、大層な私は、このやり方ではダメであろうと想像し、自分なりの工夫をしてできるだけ回答していただきやすいようにしようと思ったのです。自分で作成した文書を、調査資料一式を配付する前に、ポスティングして注意を喚起するとか、また10月1日には、これも自分で作成した「忘れていませんか」という文書をポスティングして速やかな回答を促したりしてみました。そして、10月15日頃に市を通じて報告のあった回答が未提出の世帯への督促についても、できるだけ訪問して直接、回答を依頼する機会を得るよう努めました。

 こうして大原則を崩してしまわない範囲で、自分なりのプラスアルファをやってみましたが、市からの報告で、私の担当する100世帯弱のうち回答の出ていない世帯が一定数生じていました。結局、最終督促以降、回答未提出世帯が回答したのかどうかは、私たち調査員にはわかりませんが、最初の調査資料一式を配付した際に、直接対面してお願いした世帯の中にも、ある程度予想されたこととはいえ、未回答の世帯があったことに、<ああ>となったのです。

 ここで申し上げておきたかったのは、私がこんなにがんばったなどということでは毛頭なく、同時に私がこんなにバカでしたというのでもなく、今回のアプローチでは、国勢調査に回答しない、できない世帯が相当数生じる社会的な現実があるということです。それは、コロナ問題をふまえた調査の手順の簡略化に起因しているだけでなく、住環境はもとより、国民の意識や、ひいては地域社会の変貌などの社会構造の変化という問題があるのではないかというように感じたのです。

 

 国勢調査を担当する総務省は、回収率が低い(10月6日時点で53.1%)ということで、回答期限を10月20日まで延長する方針を発表しましたが、現場としては、この方針変更を反映させた対応はとることができなかったとみるべきでしょう。回収率、とくに未回収率と呼ばれる数値の中味を確認しておきます。

 総務省HPにアップされた「令和2年国勢調査」にかかるパワーポイント資料には、下記のとおり「平成27年国勢調査 調査票回収状況」が含まれています。その説明の前に私の全く知らなかった基礎知識の確認から入ると、国勢調査は、いわゆる対面式という、つまり調査員が担当世帯に直接説明し、一定期間後に、世帯が記入した調査票を受け取る(回収する)方法でずっとやってきました。そのことが難しくなる状況の変化に、前々回の2010年からは郵送での回答が全面的に取り入れられ、前回の2015年からはインターネットによる回答も本格的に導入されたのだそうです(独立世帯をもってから何回も回答してきていますが、あきれるほど何も記憶していません)。総務省によると、1990年までの回収率は「ほぼ100%」、95年に初めて未回収が「0.5%」が発生し、その後、未回収率が一気に増加する傾向にあるという状況です。

 さて、その未回収率、回答のなかった世帯の割合とは、何を指しているかということです。下記の図表によると、左下に「国勢調査の聞き取り率(%)の推移」とありますが、その率のことを、「未回収率」(=未回答率)と呼んでいるのです。その右に、「聞き取り」とは「不在等の理由で調査票を回収できなかった世帯を対象に、国勢調査令に基づき、調査員が「氏名」、「男女の別」及び「世帯員の数」を近隣の者等から聞き取って調査を実施」とありますが(調査項目の一部のみ)、端的にいうと、これが「調査票を回収できなかった世帯」のことであり、未回収率とは、それが調査対象全世帯に占める割合のことです。

 「聞き取り率の推移」として表示されているとおり、未回収率は、2000年「1.7%」、2005年「4.4%」、2010年「8.8%」、2015年「13.1%」と急激に増加しています。前記のNHKの記事では、「急増する「回答拒否」」と表現されています。総務省は、右下の「⇓」で「新型コロナウイルス感染防止のためにも、調査員回収(前回29.0%)をできるだけ皆無に近くなるように努力」(聞き取りの「13.1%」以外の「15.9%」は調査員が調査票を回収した割合です)としていますが、実際に、現在、問題視されているのは、今回2020年の国勢調査で、どのぐらい未回収率が上昇するのかということなのです。

 平成27年国勢調査 調査回収状況 「令和2年国勢調査(令和2年8月/総務省統計局国勢統計課)」から

 そんな中、下記の写真は、総務省の記者発表資料(10月21日付)で、延長した回答期限の10月20日現在の「インターネット及び郵送回答の状況」が公表されています。前回の回答状況に比べると、同じ10月20日時点において、合計で70.7%から81.3%へと回答率が高くなっています。このことで、回収率が高くなった、未回収率が低くなりそうだと予測することはミスリードです。

 なぜなら、調査員が直接回収した調査票、その回答割合が含まれていないからであり、前記したとおり今回は調査員の直接回収は例外扱いであり、これがぐっと減少することが予測されるからです。したがって、前回も今回も、市町村は10月20日以降に調査員から直接回収した調査票を受け取り、それが最終の回収結果に反映されることになりますが、今回は前回より少なくなるのが確実な情勢なのです。そして、その程度により、最終的な未回収率(聞き取り調査の割合)は決まってくるという関係にあります。

 総務省はまちがった発表をしているわけではありませんが、それにしてもミスリードを誘いやすい報道資料といえます。

  令和2年国勢調査 調査終了のお知らせ 総務省報道資料(令和2年10月21日)

 国勢調査は、大正9年(1920年)に第1回目が行われてから、ちょうど100年、今回で21回目となります。いわばエポックメイキングな年ですが、その調査の方法は大きな曲がり角にあるようです。

 社会の現実というものに疎い私は、今回、少し現実の一端を経験しましたが、具体のことは守秘義務もあって書くことができません。変化というものを一般化すれば、高齢者の一人・二人暮らし、女性の就労、単身者、夜勤の方などの増加、空き家の増加、アパート・ハイツには氏名(姓)の表示がないこと、仕事などの関係で複数の居住地をもつ方(住基登録との関係)の存在、居留守の常態化、さらに調査時点である10月1日には、職場の移動も多く、引っ越しを伴うケースなどが、未回答の要因として関連してくるようです。

 もちろん、私もその一人なのですが、調査対象区域は地元ということであっても、日ごろからお付き合いのほとんどなくなっているという現実(顔見知りでさえありません)、つまり地域コミュニティの希薄化ということも影響しているのでしょう。

 当然、外国人の方、さまざまな障害をもたれた方などのケースも多くあり、その調査方法も示されているところですが、そういう状況に直面したとき、私は適切に対応できたかどうか、自信がありません。ありがたいことに今回そうしたケースに、私は直面しなかっただけのことです。

 よくいわれるとおり、オートロックマンションの増加、プライバシー意識の高まり(このことも実感しました)なども、回答未提出世帯が増加する要因と指摘されています。前回2015年の未回収率13.1%は、全国の数値ですが、東京都は実に30.7%に上ったとあります。10世帯のうち3世帯は回答していないことになります。

 一方で、もう一つ感じたことは、やはりマンション問題が大きな要因かもしれませんが、調査対象世帯の把握もれという問題です。私の住む兵庫県においても、地元神戸新聞が「配布漏れ相次ぐ」という記事を報じていましたが、「単純な配布ミスに加え、調査員が住居と認識しなかったケースなどが考えられる」とあります。調査対象世帯の把握漏れが多い場合には、未回収率そのものも信憑性のうすい数値にならざるをえないのです。これでは、調査すべき世帯に調査の手が届かないわけです。調査員が、不在や空き室など居住の有無を容易に確かめることができない状況では、回答の前提となる調査対象世帯も明確にならないといえそうです。

 さらに、未回収の世帯について、自治体、市町村が保有する情報と突き合わせたりして調査の精度を高めるのでしょうが、住民登録をしていない世帯など、どこまで確認できるのか、ハードルが高いと想像しています。

 

 以上、いろいろ書いてきたことを社会構造の変化として、的確に記述することが、私にはできません。構造の変化とまで言えなくとも、社会的な意識、雰囲気の変化として、私たちは十分に感じていることではあります(といいながら、年齢と同じように、なかなか変化の実態は捉え難いものです)。そのことが、国勢調査の回答状況に何がしか反映していることは間違いのないところでしょう。

 そろそろまとめておきましょう。前記のNHKの記事には、日本の統計の歴史を研究している東京外大の佐藤正弘教授のコメントが掲載されています。

 まず、住民票などの多くの情報を行政が把握しているなかで、どうして国勢調査が必要かという記者の質問に対し、佐藤教授は八王子市が前回の国勢調査で把握した市内人口が578千人だったのに対し、直近の住民票に基づく人口は563千人で、15千人の差が生じていることを指摘します。ですから、「正確な居住実態の把握」のためには、日本に住むすべての人を対象とした「全数調査」を行うしかないのが現状だと説明しています。これが「全数調査の有意性」だというわけです。

 しかしながら、前記したように、対面式という調査方法の限界は明らかですし、それに替わるインターネット回答や郵送回答にも対面式に取って替わるだけのポテンシャルが想定できないとすれば、つまり、その証左として未回収率がさらに増加する傾向にあるとすれば、「国勢調査そのものの意義を問われる事態になりかねない」というわけです。

 佐藤教授は、「日本の国勢調査は、現在のまま続けることは現実的ではなく、早晩、抜本的な見直しを迫られる時が来る」と予測しています。そして、次のような見通しを述べています。

 「 ヨーロッパを中心に、プライバシー意識の高まりなどを受けて、「全数

  調査」自体を取りやめる国が増えている。行政が持つさまざまな情報を連

  結させることで統計を作成する「レジスター方式」と呼ばれる調査に移行

  している。」

 「 日本でも遠からず、法改正などをした上で、たとえば、マイナンバーを

  利用した「レジスター」ベースの調査になり、調査自体は人々の目には見

  えないところに移動していくと思っている。」

 ただし、この「レジスター方式」には、前記した「全数調査の有意性」を補うことにはならないと、記者は指摘しています。

 そして、佐藤教授の、市民による国勢調査データの活用に関する次の言葉を引用し、記事は締めくくられています。

 「 国勢調査は、究極のビッグデータであり、市民が自分たちが必要なこと

  を知るためのデータとして使われるべきだが、海外に比べて、日本はその

  方向性があまりにも弱いと思う。いまは、多くの人が「データを取られる

  だけで、自分に返ってくるものがない」という意識になっているが、「自

  分たちも利用して何かが出来る」という認識が広がれば、調査に協力しよ

  うという人も増えるのではないか。」

 

 佐藤教授の最後の発言が実現できるような政府であり社会であることを期待したいところだ、と今は申し上げておくしかありません。

 国勢調査の未回収率という問題は、これまでにもあった問題、全数調査の限界というものを顕在化させたといえるのでしょう。全数調査による人口といっても、程度の問題はありますが、完璧主義者からすると、まあ「だいたい」という実態であったのだということがわかりました。もちろん「だいたい」だから「日本の人口」とはいえないのだと主張しているわけではありません。そうした前提のうえですが、未回収率が増加する傾向によって、統計の信頼性に直結する「だいたい」というレベルがひどく揺さぶられているというのが現状だと、私は理解しました。

 足元の見えないまま、いたずらに年齢を重ねたという思いにとらわれることの多い昨今ですが、知らぬ間に社会を構成する人間のありようが変化しているのではないか、そして、50年という単位ではそれはそれで当たり前のことではないか、それが見えていないままであっただけのことではないかと、そんなことに気づかされて恥ずかしい気持ちになりました。そして、こうして5年近くブログを書いている当人としては、その変化を吟味して理解し、評価しておかなければならないという課題を突きつけられた感じがしています。

 いずれにせよ、変化を見通す眼力をもたないといけないなどと自覚することができたことが、なんだか負け惜しみのようですが、国勢調査員を経験させてもらった効用というものではなかったかと思っています。

 

◈<蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜>ー日本学術会議任命拒否問題ー

 標題は、戦前の新聞人である桐生悠々(1873-1941)の辞世の句です。反権力・反軍的な言論を展開し、信濃毎日新聞の主筆であった1933年の「関東防空大演習を嗤う」という社説が、陸軍の怒りを買い、退社を余儀なくされた言論人です。その後も亡くなるまで単独で言論活動を続けた人です。

 今回の日本学術会議の会員候補6名を、首相が任命拒否した問題は、「学問の自由」にとどまらず、思想・信条の自由、言論・表現の自由などにも影響の及ぶ深刻な事態として、私は受けとめています。ですから、どんなに力なき者であっても、<蟋蟀の鳴き続けたり嵐の夜>の精神を共有しなければならないと思っているのです。

 

 この問題については、それこそ多くの言説が私たちの眼や耳に入ってきますし(今更ながらデマの横行に驚きます)、今日(10月28日)以降の国会の質疑においても、何がしかのことが明るみに出てくることでしょう。ですから、本稿では、今回の任命除外6人中の一人、加藤陽子東大教授の発言を紹介するにとどめたいと思っています。

 その前に、「もの言う意思が萎縮」とタイトルされた記事を(『毎日新聞』10月27日付)、日本学術会議政治学委員長である苅部直氏へのインタービューでまとめた鈴木英生記者が、記事の最後に「聞いて一言」として書いた文章を引用しておきます。

 「 日本学術会議の問題は、研究を禁止されたわけではない。なにが学問の

  自由の侵害か、首をひねる人もいるだろう。戦前のようなハードな弾圧で

  はないが、おそらく権力者も意図せずに拡大適用や結果としての萎縮効果

  を実現させかねないのが、この問題の怖さだ。

 「意図」のないところに「意図せずに」はありません。「意図」をしていて、その「意図」をはるかに超えて効果が発揮されてしまう、そのような社会的現実を、ここ数年、私たちは目の当たりにしてきたことを忘れないようにいたしましょう。この前政権の成功体験を、すなわち、たとえ説明できなくても、強弁を通すことを、現政権は継承しており、これを引き返すことは自己否定になることを知っています。

  『朝日新聞』2020年10月27日付の記事から

 日本学術会議が新会員を選考し首相に推薦する流れ 『毎日新聞』2020年10月16日付記事から

 日本学術会議の会員選考方法の変遷 『毎日新聞』2020年10月7日付記事から

 では、加藤陽子さんに戻します。私の手元には、二つの短い文章があります。一つは、「加藤陽子の近代史の扉」という『毎日新聞』毎月連載の、10月17日付「「人文・社会」統制へ触手[学術会議「6人除外」]」とタイトルされた記事です。もう一つは、10月23日の日本外国特派員協会で任命拒否の会員候補者6人による記者会見(実際には登場した方はリモートを含め4人)が行われましたが、そこに加藤陽子さんが寄せた「所感」です。

 いずれの文章においても、今回の任命拒否(加藤は「除外」を使っています)の背景には、拒否された6人全員が学術会議第1部(人文・社会科学)の会員候補だったことに留意すると、今年の夏に25年ぶりに科学技術基本法(旧法)を抜本改正した「科学技術・イノベーション基本法」(来年4月施行)が成立し、この新法によって「旧法が科学技術振興の対象から外していた人文・社会科学を対象に含めた」ことがあるのではないかと述べているのです。

 歴史家の仕事は「作者」の問いの発掘にあるとしたうえで、歴史家たる加藤は、当事者という点はご留意いただきたいとしつつ、今回の問題の「「作者」たる首相官邸の側の思考の跡をたどってみたい」とし、その結果、「人文・社会科学の領域が、新たに科学技術政策の対象に入ったことを受けて、政府側が改めてこの領域の人選に強い関心を抱く動機づけを得たことが事の核心にある」というわけです。

 つまり、この新法は「解決すべき課題を国家が新たに設定し、走り始めたこと」を意味しており、元々の「自然科学に加えて、人文・社会科学も「資金を得る引き換えに政府の政策的な介入」を受ける事態が生まれる」と、加藤は注意を喚起しているのです。

  科学技術基本法等の一部を改正する法律の概要(部分) 

           科学技術・学術審議会(令和2年7月2日)参考資料から

 では、こうした科学技術・イノベーション法によって新たに人文・社会科学が科学技術振興の対象になったことと、今回の任命拒否という事態が、どうして結びつくのかについて、加藤は、毎日新聞の記事よりも、「所感」ではもっとストレートに表現しています。次のとおりです。

 「 日本の現在の状況は、科学力の低下、データ囲い込み競争の激化、気候

  変動を受け「人文・社会科学の知も融合した総合知」を掲げざるを得ない

  緊急事態にあり、ならば、その領域の学術会議会員に対して、政府側の意

  向に従順でない人々をあらかじめ切っておく事態が進行したと思う。」

 つまり、「新法の背景には、国民の知力と国家の政治力を結集すべきだとの危機感がある」のであり、結集に掉さす人文・社会科学部門の目障りな学者を除外しておこうしたということなのでしょう。

 

 続いて、加藤は、「科学技術」という日本語が、「意外にも新しい言葉であり、1940年8月の総力戦のために科学技術を総動員した際に用いられ始めた言葉だった」ことを指摘し、次のように締めくくっています。「所感」とも同趣旨ですが、最後の一行が胸に迫る毎日新聞の記事の方を引用します。

 「 このたび国は、科学技術政策を刷新したが、最も大切なのは、基礎研究

  の一層の推進であり、学問の自律的成長以外にない。国民からの負託のな

  い官僚による統制と支配は、国民の幸福を増進しない。2度目の敗戦はご

  免こうむる。

 「所感」の方では、最後の一行で「私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている」と記しています。

 そして、「2度目の戦争はご免こうむる」を読んで、加藤陽子の名著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(平成28年7月刊/新潮文庫)を多くの方が想起されたのではないでしょうか。

 こうした加藤の言説が、今回の背景の全てとは私は考えていませんが、その一つとして、正鵠を得たものであり、かつあまり論じられていない現状でもあることから、紹介させてもらいました。

 

 前記した加藤の「学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている」という言説を、つまり「学問の自由」の重要性を、私は素直にそう理解していますが、学術研究を関わったことのない私ですから、本当にそう言えるのかとの問いもありうるのかもしれません。少し別角度になりますが、内田樹さんの「日本学術会議問題について」(「内田樹の研究室」)により、少し補足を試みておきます。

 内田は、「菅政権が最優先する政治課題は「統治コストの最小化」です」と規定したうえで、「統治コストと国力はゼロサムの関係」にあると指摘し、新政権は「積極的に日本を「元気のない国」にする道を選びました」(㊟国力が低下する)とします。つまり、「政界にも、官界にも、メディアにも、学界にも、どこにも権力に逆らうものがいない社会」を作ろうとしたのであり、その一環である「日本学術会議への攻撃は「国力の向上」よりも政権の安定を優先する」という判断が導いた結論」であったと見立てています。

 こうした社会は、「元気のない国」というべきだと、次のとおり描いてみせます。

 「 市民全員が権利意識を持たず、政治参加もしない「イエスマン」ばかり

  の国では、統治コストがゼロに近づく。為政者にとってはたいへん統治し

  易いわけですが、その代償として、社会が停滞し、イノベーションも起こ

  らず、文化的生産力も学術的発信力も衰える。

 

 そして、メディアも市民も「日本学術会議のことなんか象牙の塔の問題だ」と対岸の火事視しているが、いまの学者たちの抵抗は「日本社会が「イエスマン以外には居場所がない」ものになってゆく流れに対するぎりぎりの防衛線」であり、これを座視していれば、「おべんちゃら社会」になり果て、次の状況を覚悟しておかなければならないと警告しています。

 「 学者がエビデンスや論理を軽んじて、ときの政権におもねるような研究

  結果を出し始めたら、もう日本の学術は終わりです。それは単に象牙の塔

  の威信が失われるというだけでなく、日本発のあらゆる情報に対する国際

  的な信頼性が損なわれるということです。」

 内田は、「政界」、「官界」、「メディア」におけるイエスマンづくりのために人事、資金、規制などを動員した前政権の中心の担い手であった現総理が、その成功体験を「学界」にも敷衍しようとしていると見ているのでしょう。その結果、「萎縮した社会において「文化的生産力も学術的発信力も」衰える」と強調しているのです。

 結局、加藤の最後の一行「私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている」と同じことを、内田は彼らしい視角から主張しているといえます。

 

 最後に、もう一点だけ追加しておきます。政府は、今回の任命拒否の根拠規定として、憲法第15条第1項「公務員を選定し、罷免することは、国民固有の権利である」との公務員の選定・罷免権を持ち出しています。これを起点に憲法第65条と72条を絡めて「推薦の通りに任命しなければならないわけではない」と答弁しているのです。下図のとおり、「国民主権の原理からすれば、首相が任命について国民、国会に責任を負う」というのです。

 この憲法、法令の解釈については、多くの憲法学者が批判しており、早稲田大学の長谷部恭男教授は、15条1項を「一般的、抽象的な理念を言葉にしている」として、実質的な権利を定めていないと指摘したうえで、「どう考えても憲法論としては乱暴な理論。丁寧な説明とは到底言い難い」と発言したと報ぜられています。法律のことに無知な元地方公務員である私でも、その奇天烈さ加減、アクロバチックな転倒ぶりに怒りと寂しさを覚えます。前政権で見てきたことが繰りかえされています。

 同じ法理でたとえば国立大学の学長なども無制限に政府の裁量で任命を拒否できることになります。このような詭弁を許してはならないでしょう。

  憲法の規定を巡る政府の主張 『東京新聞』web/2020年10月7日付記事から

 今回の任命拒否の背景には、2015年の立憲主義を蹂躙する安保法制に対する憲法学者にとどまらない人文・社会学者たちの批判、2017年に日本学術会議が出した軍事研究に対する声明などが、背景にあることは明らかでしょう。そして、その延長線上に、加藤陽子さんの指摘する問題があるのでしょう。

 そして、いま、政府自民党の動きに呼応するように、多くのメディア(メディアのイエスマンづくりは成功しています)が日本学術会議のあり方の問題点などを報道し、論点のすり替えに狂奔している姿を、私たちは見せられています。この問題の本質を見失わないようにしたいものです。

 

 いささか品性がよくないですが、思わず哄笑してしまった、そしてぞっとした上野千鶴子さんのツイッターの投稿を紹介します。憲法学者、水島朝穂さんの<直言>から『イエスマンの科学者ばかりを集めた日本学術会議から「学術」をとってしまったら、日本会議になってしまう』、そして、友人が送ってくれたという『このままだと、「学縮会議」になる』というものです。

 

2020.03.30 Monday

「本当のことを話してください」に応えるとはー森友問題・自殺した近財職員の<手記>をめぐってー

 今、手元にある『毎日新聞』3月19日朝刊の「森友学園への国有地売却 赤木俊夫・近畿財務局職員の手記(全文)」を読んだとき、私には喉が詰まるとか胸が塞がるとかと言いたいような心身の反応が起こりました。こうした事態へ追いこんだものへの怒りと同時に、どうすることもできなかった私たち社会の情けなさ、恥のような感情が湧きあがりました。

 先週の3月18日、2年前の2018(H30)年3月7日に自ら命を絶った赤木俊夫氏の妻が、国と財務省の元理財局長である佐川宣寿氏を相手取り、「真相の解明」を求めて裁判を起こました。そして、同日発売の『週刊文春』3月26日号で、大阪日日新聞の相澤冬樹記者による「森友自殺(財務省)職員遺書全文公開『すべて佐川局長の指示です』」との記事が掲載されたのです。

 そして、翌日の新聞で、前日に相澤記者の記事とともに公表された「手記」全文を、私が読むことになったという訳です。

 その後の動きはご承知のことと思いますが、真相解明のために再調査を求められた安倍首相と麻生大臣は、「新たな事実が判明したことはない」「すでに財務省で徹底的に調査し、報告書を出している」、だから「再調査を行うという考えはない」との態度をくり返し表明(答弁)しています。

 

 ごく限られた方に読んでもらっている当ブログですからネット上にアップされている情報を再掲しても仕方がないといえますが、もしも読まれていない方がいたならば、ぜひ読んでいただきたいと思ってあえて記事にします。そして、もとより当ブログは私自身のノートという性格をもっていますから、記憶する補助装置としてメモしておきたいということでもあります。

 何より、前記のスクープ記事を掲載した『週刊文春』が完売状況で記事が読めない状況だからという理由で、文春オンラインにおいて3月25日付で記事の全文が公開されているからでもあります。下記のとおりリンクしておきますので、まずは、この相澤記者の記事と手記(全文)を併せて読んでいただければと願っています。

 なお、余計なお世話ですが、【森友スクープ全文公開♯4】の「手記」全文を読んだうえで、相澤記者の記事を読んでいただけたら、どうして「手記」が公表されるに至ったのかなど、より事情が理解しやすいものと思います。

⦿【森友スクープ全文公開♯1】「すべて佐川局長の指示です」−森友問題

  自殺した財務省職員が遺した改ざんの経緯」  《1/2》 《2/2

⦿【森友スクープ全文公開♯2】「まさに生き地獄」−55歳の春を迎えるこ

   なく命を絶った財務省職員の苦悩」      《1/2》 《2/2

⦿【森友スクープ全文公開♯3】「「トシくんは亡くなって、財務局は救われ

  た。それっておかしくありませんか?」財務職職員の妻が提訴した理由

                        《1/2》 《2/2

⦿【森友スクープ全文公開♯4】自殺した財務省職員・赤木俊夫氏が遺した

  「手記」全文」                《1/2》 《2/2

 以下で、私なりの整理を加えていますので、もし余裕があれば、目を通していただければと思います。

 

◈「森友学園を巡る主な動き」を確認すると

 森友学園を巡っては、大きく二つの問題に分かれていて、どうして国有地が森友学園にあの金額で処分されることなったのかという問題と、どうしてどのように財務省が森友学園への国有地処分に関する決済文書を改ざんしたのかという問題に大別できます。もとよりこの両者は原因と結果という関係にありますが、赤木さんは国有地の売買処分自体を担当していないものの、後者の改ざんの当事者(本人の意思に反して)になってしまったという関係にあります。

 ここでは、後者を中心に「森友学園を巡る主な動き」として、時系列で整理しておくことにします。

  森友学園を巡る主な動き [赤木氏の「手記」など] (2017年2月以降) 

16(H28)年6月20日 ・森友学園と国が国有地の売買契約、鑑定価格からゴミ撤去費8億円余り

           を値引きした1億3400万円で売却

 

17(H29)年2月 8日   ・売却額を非開示とした処分の撤回を求め、豊中市議が提訴

 

     2月17日 ・安倍首相、関与なら議員辞任と発言

 

     2月24日 ・財務省佐川理財局長、交渉記録は破棄と答弁

 

     2月26日〜           [手記]・理財局の指示で、近財局職員らが日曜出勤、

                         決済文書の改ざんを実行(3月7日頃も)

18(H30)年3月 2日 ・朝日新聞、決済文書の書き換えの疑いがあると報道

               

     3月 7日                ・近財局職員の赤木氏が自殺

 

     3月27日 ・佐川氏、証人喚問で刑事訴追を理由に答弁できないを繰り返す

 

      5月31日  ・大阪地検、佐川氏ら38人全員の不起訴を発表 

 

               6月 4日  ・財務省、森友決済文書に関する調査報告書を公表

    

19(H31)年3月29日 ・検察審査会、佐川氏ら10人の「不起訴不当」の議決を公表

 

20(R 2)年3月18日                ・赤木氏の妻、国と佐川氏を提訴

                         ・赤木氏の「手記全文」が公表(週刊文春)

          ・安倍首相、麻生大臣、「再調査しない」と答弁            

             

     3月23日                ・赤木氏の妻による声明(安倍首相と麻生大臣

                          の2人は「調査される側」) 

 以上の経緯だけでもいろいろと見えてきそうですが、それはスルーして、赤木さんの「手記」が公表されることになった理由などについて、相澤記者の今回の記事などから確認しておくことにします。

 

◈「手記」が公表されるに至るまでー相澤記者の記事等からー

 少し注意して森友問題をフォローしてきた方が、私もその一人ですが、赤木さんの手記を読まれたとしたら、いかにも決済文書の改ざんがこうして行われたのであろうという既視感があったのではないでしょうか。と同時に、この事実を公に説明したい、伝えたいとの強い気持ちで書かれたのであろう「手記」を前に粛然たる思いに捉われたことでしょう。

 他人事にしてはなりますまい。私自身は、赤木さんが死なずに手記の内容を話してもらいたかったということはもちろんですが、赤木さんの自殺後すぐに、この手記が公表されていたとしたら、5月31日の検察の不起訴処分はどうなっていたか、これに続く6月4日の財務省の調査報告書はあのような形で出せたのかという詮方のないイフが脳裏をよぎったのです。

 それでも、存在があると言われながらも陽の目を見なかった赤木さんの手記が、こうして公表されたことはその遺志に沿うものであり、よかったと申し上げるしかありません。

 

 ここでは、「手記」をお読みいただいてることを前提に、外形的な確認だけをしておきます。

 赤木さんが書き残していたのは、「手記」と「遺書」です。「手記」は2種類あって、一つはパソコンで7ページにびっしりとまとめられたもので、冒頭に「平成30年2月(作成中)」とあり、「この手記は、本件事案に関する真実を書き記しておく必要があると考え、作成したものです。」と記されています。いわば「手記」の本体です。もう一つは、手書きで自殺した日の日付があるもので、最後に「事実を知っている者として責任を取ります」と書かれています。

 一方、「遺書」の方はすべて手書きで3通あって、そのうち1通が家族宛でなく「森友問題」という書き出しになっていて、「理財局の体質はコンプライアンスなど全くない。これが財務官僚王国 最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ。手がふるえる。恐い命 大切な命 終止符」と記されていました。

 

 今回、「手記」が公表された経緯、すなわち赤木さんが作成してから2年余を経て公表されるに至った経過のあらましを、相澤記者の記事等からたどっておくことにします。

 このスクープ記事を世に問うた相澤冬樹記者は、元NHKの記者で森友問題を担当していましたが、放送を巡って上層部と対立し、記者から外されたことから、赤木さんの亡くなった2018(H30)年の8月にNHKを退社し、現在は大阪日日新聞に属し、引き続き森友学園問題の取材を続けている方です。

 相澤記者は、赤木さんの妻である「昌子さん(仮名)」から(記事ではこう記されています)連絡があって(それまでは取材したことはなかった)、赤木さんの死から8ヵ月くらいの2018年11月27日に大阪梅田の喫茶店で初めて出会ったそうです(森友問題の取材が原因でNHKを辞めた記者だったからでしょう)。その場で昌子さんがカバンから取り出したのが「手記」でした。相澤記者は一読して興奮を抑えきれませんでした。コピー、写真、メモはどうかと問う相澤記者に対し、すべてダメだとし、「これは記事にしないでくださいね。相澤さんに裏切られたら私は死にます」と、昌子さんは言い残したとあります。

 後日談として記事にも書かれていますが、昨日(3月27日)の『毎日新聞』の夕刊に掲載された相澤記者へのインタビュー記事から、少し長くなりますが、相澤記者の発言を引用します。

 「 奥さんは手記を初めて読んだ時、夫がその内容を世の中の人に伝えてほ

  しいと望んでいることが分かったそうです。しかし、心ない扱いを受けて

  きた財務省、そしてマスコミの取材攻勢が怖かった。ただ、このままでは

  闇に葬られてしまう。誰かに託そうと、私に会ってくれたのです。だが、

  手記の内容に私があまりに興奮したので、彼女はちょっと引いてしまい、

  その時は渡すのをやめてしまった。実は、彼女は手記を渡したら、夫の後

  を追うつもりだった、渡さなかったことで自殺を思いとどまった、と後で

  聞きました。」

 こんな大変なことを発言していますし、記事にも「昌子さんが自死を思いとどまるという¨けがの功名¨をあげていたことになる」とあります。

 

 こうして相澤記者が「手記」を初めて読んでから、さらに1年4ヵ月後に今回の公表に至っています。ごく優しい人柄だという昌子さんがもともと公表を躊躇した背景には、夫が働いていて彼女にとっても親しみをもっていた近畿財務局への「配慮」と、公表した時に生じるであろう混乱状況への「恐怖」があったと、相澤記者は語っています。そして、その後、誠意のない態度をくり返した財務省や佐川元局長(昌子さんは二度手紙を送っています)を前に、赤木さんの三回忌を迎え、公表と提訴(民事)に踏み切る決心をされたのだそうです。この提訴の方向は、今年2020年に入ってから決意されたことだと、相澤記者は発言しています。

 提訴の方は、賠償請求という形式ではありますが、あくまで謝罪と真相の解明を求めるもので、訴状の冒頭は、次のとおり明記されているとあります。

 「 本件訴訟の目的は、第一に、なぜ亡俊夫が本件自殺に追い込まれなけれ

  ばならなかったのか、その原因と経過を明らかにする点にある。

 前記の毎日新聞のインタビューで、相澤記者は、3月23日に奥さんからLINEで届いたメッセージを紹介し、病院の待合室で流れる参院予算委員会の映像(音を小さくしているので)<うまく聞こえないのにみんながテレビに釘付けになりました。一生忘れられない光景です>とあったそうです。そして、「多くの人が共感してくれて、うれしいんですよ。2年もためらってきたけれど、思い切って公開してよかったと思っているはずです」と、相澤記者は述べています。

 

 相澤記者の記事には、赤木俊夫さんの人物像、公務員像とともに、いわゆる仲良し夫婦だった二人の関係が詳しく綴られています。それだけに、赤木さんの自死がたまらなくなります。赤木さんが、2017(H29)年の2月から改ざんの関わらざるをえなくなってから、4月と6月の二度の会計検査を経て、7月の人事異動でも希望していた異動がかなわず、精神のバランスが崩れ、同月から休職し、翌年3月の自死に至ることになりました。

 この項では、前記のインタビュー記事から、二点だけ追記しておきます。

 一つは安倍首相と麻生大臣の「再調査しない」という姿勢について問われた相澤記者の発言です。「再調査しない」という言葉より、その前段の「新たな事実はない」と言い切ったところに引っかかったとし、相澤記者は、次のとおり発言しています。

 「 一般の国民にとっては、「すべて、佐川理財局長(当時)の指示です」と

  いう内容をはじめ、今まで聞いたこともない事実が書いてあると、ふつう

  に思いますよね。でも、安倍首相や麻生大臣にとっては新事実はないんで

  す。つまり、手記そのものも含め、もうとっくに知っている話なんで

  しょう。」

 これはきつい皮肉でもなんでもなく、その言葉の通り受けとめておかなければならないことです。「とっくに知っている」ことだけれど、首相、大臣を含め周辺の人たちは別のストーリーで「うそにうそを重ねて」回避して既に終わったことだったのです。目の前の利害得失しかみない、みえない政治家にとっては過去のことなのです。自分たちで構築したストーリーだけが頭を占有していて、こうした新しい事実の提示を前にしても、何をいまさらの薄ら笑いを口元に浮かべているのが今の構図だと理解しておくべきです。

 この項で冒頭に記した「既視感」という言葉は、私もホントとウソの二つの<事実関係>が存在すると思っていたからだということになります。

 こうした「再調査しない」との対応を前に、3月23日に出された赤木さんの奥様のメッセージは、次のとおり痛烈です。

 「 安倍首相は2017年2月17日の国会の発言で

  改ざんが始まる原因をつくりました。

   麻生大臣は墓参に来てほしいと伝えたのに

  国会で私の言葉をねじ曲げました。

   この2人は調査される側で、再調査しないと

  発言する立場ではないと思います。             

                   赤木    

 

 もう一つは、相澤記者が「森友問題の不幸は常に「安倍政権は是か非か」という視点と絡めて語られるところだ」と強調していることと関係しています。つまり「安倍政権を支持する人と反対する人が完全に分断された構図の中で、この問題が出てきた」ことによって、この問題の真相に迫ることが困難になっており、「本来の入り口は「8億円の値引きは正しいか」という話だ」と述べています。

 続けて、次のとおり、発言しています。

 「 手記によって、新事実が出てきたのを機に、原点に立ち返って素直に考

  えてはどうでしょうか。改ざんについては佐川氏、土地取引については赤

  木さんの直属の上司だった人物がすべての真相を知っているはずです。こ

  の2人が国会に証人喚問されて事実を包み隠さず話せば、問題は終わりま

  す。私は、与党の自民党と公明党のホームページに、証人喚問するよう意

  見を寄せてほしいと広く呼びかけています。命を落とした赤木さんのため

  に、真相を解明したいという、ふつうの人間としての思いは、誰にも共通

  するはずです。

 「真実の解明」という行為の前提として、政権の是非が問われて政治問題化してしまい、結局「真実の解明」が阻害されてしまうと言いたいのでしょう。だから、相澤記者は昌子さんの「佐川さん本当のことを話してください」という原点に戻り、国会が国政調査権を発揮することを期待しているのです。

 後先になりますが、3月18日の提訴に際し、代理人弁護士から読み上げられた赤木さんの奥様のメッセージを引用しておきます。

 「 夫が亡くなってから2年が経ちました。あのとき、どうやったら助ける

  ことができたのか。いくら考えても私には助ける方法がまだ見つかりませ

  ん。心のつかえがとれないままで夫が死を決意した本当のところを知りた

  いのです。

     ≪中略≫

   今でも近畿財務局の中には、話す機会を奪われ苦しんでいる人がいま

  す。本当のことを話せる環境を財務省と近畿財務局には作ってもらい、こ

  の裁判で明らかにしてほしいです。そのためにはまず、佐川さんが話さな

  ければならないと思います。夫のように苦しんでいる人を助けるために

  も、佐川さん、改ざんの経緯を、本当のことを話して下さい。よろしくお

  願いします。

 このメッセージには、夫を助けることができなかったという苦しさとともに、夫同様に苦しんでいる近財職員をも視野に入れて真相の解明を求める強い思いが込められています。

 

 この願いに応えるとは、どのようなことでしょうか。

 率直にいうのなら、相澤記者とその周辺の人たち、というより赤木さんの妻の動き(再調査を求めるインターネットサイトを使った署名活動)を否定するものではありませんし、できるだけ多くの国民の意思を表示していくべきですが、現状において与党の一部を巻き込みながら国会の国政調査権が発動するなど、その実効性は容易なことではないと、私は思わざるをえません。

 といって対案があるわけではありませんが、併行して大阪地検が再起動するような方策とかは難しいのでしょうか。2018(H30)年5月31日の不起訴処分は、背後に当時法務省事務次官であった黒川弘務東京高検検事長の存在が取り沙汰されていて、今は定年延長問題の渦中にいる人物です。政府が彼の定年延長を決めたことについて、相澤記者は、前記のインタビュー記事で虎の尾を踏んでしまったと語っています。

 なお、赤木さんは「手記」とは別に、公文書改ざんの詳細なファイルを残しており、それは大阪地検に提出されていると、相澤記者は把握しています。「手記」の中の衝撃的な一行、「(大阪地検はこの事実関係をすべて知っています)」は、そのことを指しているようです。

 いずれにしても、赤木俊夫さんの妻から発信された「本当のことを言ってください」という真っ当な願いに、私たちの社会は応えうるかどうかが試されているというのが、私の関心事なのです。

 

◈「手記」と「財務省報告書」の異同ー新事実をめぐってー

 前項の最後のところで記したとおり、3月27日から、「第三者委立ち上げ 公正中立な調査を」求めるインターネットを使った署名活動が始まっています。

 そのサイトに掲載の赤木俊夫さんの妻のコメントには、「財務省は2018年6月4日に「森友学園案件に係る決済文書の改ざん等に関する調査報告書」を発表しました。しかし、この報告書の内容は曖昧で、なぜ夫が自死に追い込まれたのか、その経緯や原因を知ることができません」とあります。

 首相や財務省は「再調査をしない」理由として「「手記」と財務省の「調査報告書」の内容に大きなそごはない」と答弁しているわけですが、本当はどうかをみておこうというのが、この項の目的です。

 この財務省の調査報告書は、財務省のサイトにありますので、リンクしておきます。

 ⦿財務省/昭和30年6月4日「森友学園案件に係る決済文書の改ざん等

                        に関する調査報告書

 なお、以下、この報告書を「財・報告書」と表記します。

 

 お断りしたいのは、この「財・報告書」を読んでみても、当方の能力不足もありますが、前記の「曖昧」を絵にかいたような文章でなかなか結論が見えない内容だということです。

 相澤記者が辞めたNHKのウェブサイト(驚くほど詳細である)に助けてもらいながら、何点か指摘しておきます(NHK NEWS WEB 2020.3.18「森友文書 改ざん¨指示もと佐川元局長と思う¨自殺職員 手記」)。

 まず、「改ざんの指示」という最重要問題です。

 「手記」には、「元は、すべて、佐川理財局長の指示です」とあり、その指示の下で改ざんが進められたことが、本省と近財局の関係職員の実名をあげて具体的に記述されています。一方、「財・報告書」では「理財局長が方向性を決定づけた」としつつも総務課長等の部下が「深く関与していた」としていて、改ざんの指示主体が明確にされていないと読めます。つまり佐川局長は「指示」した主体ではなく、改ざんすべきであると「反応」した客体として描かれており、それが「方向性を決定づける」という文章となっているという関係です。

 ですから、佐川局長から、具体的にどのような指示があったのかについて「財・報告書」では言及されていないのであり、それは意識的にそう書いたと理解しておくべきかと思いますが、こうして「指示した」と「方向性を決定づけた」には、大きな差異があるといわなければならないと考えます。

 

 次に「近畿財務局の反発・抵抗」という問題です。

 「手記」には、くり返される修正作業の指示に「現場として私は相当これに抵抗しました」とあり、近畿財務局の「管財部長に報告し、当初は応じるなとの指示でしたが」本省からの指示に抗しきれなかったと記されています。一方、「財・報告書」においても、「近畿財務局側の統括国有財産管理官の配下職員は、そもそも改ざんを行うことへの強い抵抗感があった」との記述が数箇所にあります。この配下職員は赤木さんとその部下のことを指すものと思いますが、赤木さんという職員の「自殺」との関係については、明らかにしていないのです。

 公務災害認定との関係もあったのでしょうが、赤木さんの自殺と改ざん問題との関係については、ふれていないのですから、赤木さんの妻の「自殺に至る経緯や原因」を知りたいという希望は当然であると、私は理解しています。

 

 さらには「会計検査院への虚偽回答」「法律相談等内部検討資料文書の存在」という問題です。

 「手記」には2017(H29)年4月と6月に行われた会計検査院の検査に際し、「応接記録をはじめ法律相談の記録等の内部検討資料等は一切示さず、検査院には「文書として保存していない」と説明するよう本省から指示があった」とあります。そして、この時点において、こうした「法律相談の記録等の内部検討資料が保管されていることは」近畿財務局の関係職員は「承知していた」とあります。

 一方、「財・報告書」においても、こうした文書等存在していないとするウソの回答を続けたと認めていますが、こうした法律相談の文書の保存が確認された時期について、「平成29年10月から11月かけて関連文書を探索した結果、確認された」としていて、数か月前の会見検査時に該当の文書の存在を認知していたとする「手記」との食い違いは明らかです。

 したがって、「手記」が正しいとすると、2018(H30)年の2月国会での政府・財務省の答弁は、全くの虚偽答弁であるということになります。

 

 まだまだ突っ込みが不十分ということになるかもしれませんが、少なくとも「新事実はなかった」とか、「手記と報告書の内容にそごない」などという言い草は、通用しないでしょう。

 あまりにも明白なことを書いているようですが、今のホントとウソの逆転したような官邸政治という状況の下でこの「財・報告書」が通用してしまって、メディアもこれに切り込めない世界になっていることを、改めて私たちも自覚しておく必要があります。

 そして、今回の提訴と「手記」の公表がなければ、つまり赤木さんの連れ合いの勇気がなければ、「新しい事実」は白日の下に出てこないままであったのです。

 

◈その後の動きに驚いて

 以上、3月18日の「提訴」と「手記」の公表を目の当たりにして、そのことを知っていただきたいと、本稿を綴ってきました。それから一週間して、相澤記者の所属する大阪日日新聞などが「値引き8億円「問題ある」売却当事者が¨告白¨」を報じました(『大阪日日新聞』2020.3.26)。

 赤木さんの直接の上司である池田靖統括国有財産管理官が、昨年の3月に赤木さんの一周忌の直後に、赤木さんの妻からの求めで自宅を訪れた際に、池田氏から「8億円の算出に問題がある」という「告白」を聞いたとあります。

 このことが、前記した相澤記者へのインタビュー記事での発言、すなわち「土地取引については赤木さんの直接の上司である人物がすべて真相は知っている」につながっていますし、赤木さんの妻の「夫のように苦しんでいる人を助けるためにも」というコメントに現れているのかもしれません。

 新型コロナウイルス問題の渦中にあって、森友問題はどうしても後景に追いやられがちですが、忘れないで注視していきましょう。

 このウイルスのことを、先日の当ブログ「見えないものに挟み撃ちされて見えてきたこと」で書いたとおり、「嘘の連鎖を重ねてきた権力にある種身を委ねなければならないという転倒したシュールな状況」に、不幸にも私たちがおかれていると、認識せざるをえないのです。

 

 これまでに森友問題を経験して考えたことを、当ブログでは次の三つの記事にしてきました。一つ目の記事は、2017(H29)年前半の「見えすいたウソ」で固められた国会答弁を、そして二つ目と三つ目は、翌2018(H30)年の3月に明らかになった公文書の改ざんを、それぞれ踏まえて記事にしたものです。

 こうした記事から、2年後の新しい状況がどう見えてくるのかを、さらに書いてみようとしましたが、情けないですが、息切れしてしまいました。

 ⦿2017.8.5「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー

 ⦿2018.4.21「ウソの上塗り、なお「真実」は遠く

 ⦿2018.4.28「「公の文書」は《幻想》ではすまないのです

 ここでは、三つ目の記事から、今回の提訴と「手記」の公表をつなげておきます。その最後の方で、今次の公文書改ざんが東条軍閥内閣の「強圧政治と世論誘導策/官僚機構の腐敗と道徳的退廃/行政文書管理のずさんさと歴史的無責任」と同様の構図から生じているとする保坂正康さん、そして江戸から明治の日本は記録大国であったけれど、今は「改ざんする」「うそを書く」「残さない」という公文書3悪で歴史に残る問題を引き起こしているとする磯田道史さん、それぞれの文章を紹介したうえで、作家の星野智幸さんの文章にも言及しています。

 星野さんは、「公文書改ざんは国家が言論を独占する行為」であり、公文書の改ざんが日常的な世の中では、「個人の言葉」が権力側の恣意的な「公の言葉」に置きかえられてしまう、つまり「言葉」を公、すなわち権力が独占してしまったら、「完全な独裁国家」になってしまうと、危惧を表明しています。こうした流れを止めるためには、「まず人々が言葉の書き換えや改ざんに関心を持ち続ける」とともに「自らが「善」と「悪」の二極化のどちらかに陥らない」ことが大事だと強調しています。そして、次の文章を続けています。

 「 でも実際は官僚の中にも、改ざんや隠蔽をやめようと闘っている人がい

  ます。こうした人たちを排除せずに力に変え、議論していくことが大事で

  す。

 近畿財務局の赤木俊夫さんは、まさにこうした一人の公務員、改ざんに立ち向かった公務員であったのです。そういう方を大切にできないまま自死に至らせてしまったことは私たちの社会の反映ですし、取り戻すことのできない現実なのです。

 

 こんなニュースも入りました。前記したインターネットサイトを使った賛同書名活動(「私の夫、赤木俊夫がなぜ自死に追い込まれたのか。有識者によって構成される第三者委員会を立ち上げ、公正中立な調査を実施してください」)は、「2日たらずで15万人を突破した(同サイトのキャンペーンとしては最速で最多の賛同数だそうです)」と、相澤記者が報告しています。

 そして、赤木昌子さんが発信した感謝のメールを紹介しています。

 「 署名賛同者の数字にびっくりしています。2年間何もしてあげられなか

  ったけど、やっと遺書、手記を公にするという願いを叶えてあげられて、

  こんなにたくさんの人が応援してくださり、身体中に血が通って生きて

  いなあって気持ちがしています。全て皆さまのおかげです。」

 いずれにしても、今回の「赤木さんを忘れない」に寄せられた賛同署名は、私たちの社会が強権と不寛容を前提としないで協同性を再構築していくうえで、一つの道標となってくれるのではないかと、私は期待しています。

 

◈おわりに

 『サル化する世界』とタイトルされた内田樹さんの本がよく売れているそうです。彼のサイトでインタビューがアップされていて(2020.3.3「「サル化する世界」についてのインタビュー/2020.3.17「「サル化する世界」についてのインタビュー」)。

 内田さんは「サル化」を、「過去から未来にわたる広がりのある時間の流れの中に身を置いて、今ここでなすべきことを思量する習慣を失った現代人の傾向」のことを指し示す言葉として使っているそうです。それは産業の構造が変化し、「価値あるもの」を創造する時間がどんどん短縮化されたことが大きいと説明しています。だから、せっかく時間意識の拡大によって霊長類から分離して「人間」となったものの、現代人の時間意識は「ふたたび縮減し始めて」おり、こうした人間以前に向かう文明史的退化を「サル化」と呼んでいるのだと語っています。

 この「時間意識の縮減」は、現政権の「嘘をついても平気」「前後に矛盾のある言明をしても平気」「謝罪しても次の瞬間には忘れている」という症状だけを指しているのではありませんが、このことを問われた内田さんは次のとおり答えています。

 「 「長い目で見れば正直は引き合う」ということわざがありますが、これ

  は裏返して言えば「短期的に見れば嘘の方が引き合う」ということです

  (実際にそうだし)。ですから、「長い目で見る」習慣を失った人たちがシ

  ステマチックに「嘘つき」になるのは論理的には当然なのです。」

 こうした現政権の症状は象徴的な現象にすぎず(もちろんだから仕方がないとはなりません)、私たちの社会全体のことであり、その只中にいることを、私自身は痛いほど感じています。

 鋭く長い射程をもつ内田さんの見方に明確に反論できない私としては、愚直に「時間意識の縮減」に抗する自覚をもって、残された生を歩もうとすることしかできません。

 

 今回の「赤木俊夫さんを忘れない」は、そんな<文明史的退化>に直面する社会への異議申し立てとしても理解したいと、私は考えています。

 

2019.09.14 Saturday

いま一度、アテネに立ち寄ってー古代と現代の民主主義をつなぐものー

 暑くてたまらんわとぼやきながら、古代アテネの民主政について、定評のある橋場弦さんの本を読み解くことで、現下の危機に立つ民主主義はどう見えてくるのかという問題意識のもとで作業をしてみました(「古代アテネの民主政が語りかけてくることー橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』ー(1)(2・完)」)。

 ところが、掲載容量の関係もあって、肝心の最後が尻切れな終わり方になってしまいましたので、本稿では、特に新しい知見などあるわけではありませんが、もう少し私に見えてきたものを補足しておくことにします。

 

 と、その前に、池澤夏樹の『ギリシアの誘惑』(1987年4月刊/書肆山田)から、冒頭におかれた「アテネ物語」という小編を紹介させてほしいのです。

 ちょうど前記のブログを書いている最中で、ギリシア、アテネを意識していたからなのか、先日、花森書林の書棚に長く並んだままだったこの本に手がのびました。今は増補新版も出ているそうですが、私の手にあるのは1987年の初版です。池澤さんは、30歳のころ、1975年から3年ちかく、勉学でも商売でも公用でもなく「ただ住んでみたいがために」アテネで暮らしたと書いています。この経験が源泉となって、このエッセー集は生まれたのでしょうが、どちらかといえば私は散文詩の方へ傾いた文章として読みました。

 で、「アテネ物語」です。本にすれば、27頁くらいの小編で、アテネの印象、少々たいそうですが、池澤によるアテネの詩と真実が、凝縮された言葉で表現されています。ですから、私の紹介は作品をこわすだけになりそうですが、アテネのイメージを、それは古代も含めて、強く喚起しているように読めますので、許してもらって、一部分だけをみておくことにします。

 

 最初、アテネは二つの仮面をかぶっていて「なかなか素顔」を見せないからはじまっています。仮面とは二つの勘違いのことであって、一つはアテネが「きわめて古い町」だということ、もう一つはギリシアが「ヨーロッパだという考え」だとします。後者は、ギリシアは欧州の一部に違いないが、準ヨーロッパ的な「東欧であってしかも南欧」であり、「食物や踊りや迷信や結婚や宗教」に注目すると「東寄りの性格」をもっているのだというのです。

 興味深いの前者で、旅行者は古代の石の遺跡だけを見て早々に帰ってゆくのでわからないけれど、アテネとは古代と現代のあいだのほとんどない「奇妙な町」だというのです。池澤は次のとおり説明します。

 「 19世紀のはじめにギリシアが近代国家として独立した時、アテネはアク

  ロポリスの丘の北側に数百の人家が点在する田舎町に過ぎなかった。そこ

  を、古代をかつぐ人々が首都にしたてあげたのだ。1920年になっても人

  口はまだ30万人だった。今、遺跡だけでなく少しは町そのものにも目をむ

  けんとする観光客がバスやタクシーの窓から見る家並みは、ほかのヨーロ

  ッパの町と較べれば、ずっと新しいのだ。つまり、非常に古い部分と新し

  い部分が共存していて、それをつなぐものがないという、奇妙な町。」

 このことを私はまったく知らず、古代の繁栄から衰退したとはいえ、ローマとはいかないまでも、それなりの都市として命脈を連綿と保ってきて今があると思いこんでいました。現在の人口は1920年時点の2倍以上となり、大都市圏としてはギリシアの人口の三分の一が集中する街となっていますが、町の歴史としては連続性の希薄な、いわば中抜きだったのです。

 これら二つの仮面をはがさないと、アテネの真の姿が見えてこないというわけです。

 

 そして、池澤さんは、アテネ人の気質にもふれています。際立ったものとして、名誉心と虚栄とを強調していますが、このコインの表裏のような気質はプラスにもマイナスにも作用するのだと言いたいようなのです。

 名誉心は「ギリシア語でフィロティモと呼ばれるこの心理が、おのれを律し、どんな場合にも醜態を避け、恥を知り、毅然と顔をあげて相手を見る立派な人間を作る」のであり、だから「アテネは世界で一番安全な町の一つだ」と述べています。

 だが、名誉心はしばしば虚栄にも転ずるのです。つまり「何人かで食事をしているような場合だ」と、「どんなことについても、彼等を論破するのはまず不可能な」ことであり、「なにがなんでも譲らない。そして、とんでもない理屈をいくらでも並べ立てたり」するのだとあります。

 かくしてプラスはマイナスにも転化しやすいものですが、池澤さんは、こんなアテネ人の名誉心を次のように説明しています。

 「 アテネ人は徹底して個人であって、名誉心も個人のものだ。集団で動く

  のはとても下手で、おそらく兵士になっても正規戦では決して強くないだ

  ろう。しかし、ゲリラとなればいくらでもしぶとく、英雄的に戦いつづけ

  る。職務中とて、自分が大きな機構の一部分だとは思っていない。だか

  ら、銀行の窓口でも、航空会社のカウンターでも、個人の名誉をかけた論

  争がすぐにはじまる。客の列が長かろうが、上司が介入をこころみよう

  が、絶対に譲らない。名誉心万歳。」

 この気質はアテネ人であって、ギリシア人一般ではないのでしょうか。

 すぐに古代アテネとの関連を想像してしまいますが、そんな簡単なものではないでしょう。でも「個人の名誉をかけた論争」というものは、やはり古代アテネ民主政の民会、評議会、民衆裁判所を想起させます。そして、いわば集団同調性の特徴的な日本的ではなさそうである「徹底した個人」というもとでの民主政の成り立ち、民主主義の源流にも思いが及びます。

 

 アテネは「散歩にふさわしい」街で、アクロポリスなどの古代の遺跡が「歩いてまわるのにちょうどいい圏内にある」と、池澤さんは語ります。そして、とにかく「石の文化」だと、次の言葉を残しています。

 「 この町では古代はまことに近い。古典期のアテネはずいぶん多くの書物

  を残しており、それらはみな今でも新鮮に読むことができる。ソフォクレ

  スやプラトンの読後感は、すぐに街路の先にひろがる遺跡に投射される

  し、頭上には古代と変わらぬ明晰な晴天がある。アリストパネスの喜劇と

  同じ類の滑稽なやりとりは街中にあふれている。進歩や退歩があるのでは

  なく、変るものと変わらないものがあるだけだ。そして変わらない部分は

  人が思っているよりもよほど多い。石の文化はそれを遠慮がちに教えてく

  れる。」

 自然、気候が人間をより制約していた古代に誕生したギリシア文明、その文化のありようとしての「石の文化」だったのでしょう。前記の民会や民衆裁判所もまた、「明晰な晴天」のもと、屋根のないただ石の敷かれた場でひらかれていたのです。古代アテネの民主政といっても、こうした環境条件を軽視してはならないように思うのです。

 

 最後に、「アテネにはパルテノンという絶対の規範が存在」していることが、「凡庸な首都であることをやめて、長い長い時間をつらぬく一条の光を浴びる不思議な町となる」、そして「ここに住んでいると嫌でもこのアクロポリスの上の白い神殿に縛られざるを得ない」と、池澤さんは断言します。

 古代にはもっと大きな建物はいくらでもあるけれど、それらは「みな広大で専制的な中央集権国家」で生まれたのです。これに対し、アテネという、基本は合議制の小さな都市国家で、「10年ほどのうちにかかる大建築を完成させてしまった集中と持続と総意はやはり人を驚かす」と書いたうえで、池澤さんは「本当の驚異は建物そのもの」なんだとし、このパルテノンに「完璧」という言葉を与えています。

 「 だが本当の驚異は建物そのものである。この建物はその意図において、

  材質において、形態において、構造において、光によって変化する色調に

  おいて、完璧である。何をつけ加えることも何を取りさることもできな

  い。何年にらんでいても細部の線一本ゆるがない。遠方から望もうが、近

  くからふりあおごうが、どんな隙もない。この建物ができるまでは完璧な

  どという言葉はなかったのではないか。どうもおおげさなものいいになる

  が、それを懸念するうちにも神殿は背後から迫ってくる。いつもいつも気

  になってしかたがない。」

 そして、池澤さんは、「アテネ物語」の最後に、次の文章をおいて、アテネの町を括っています。

 「 アテネは幸福な町だった。人はまだ人として食事や会話を楽しむことが

  できたし、天候はきわめて好意的だった。この町ではだれ一人走ることを

  しなかった。だれもがまるで十歩も歩けばそこはブドウ畑であるかのよう

  に暮らしていた。しかし人をあまやかすこれらすべての神々の好意の背後

  に、完成という恐しく遠い求道的な概念の方へ人をそっとうながす白い神

  殿がある。大理石で作られた建物が言葉によるどんな構築物をも凌駕して

  いる。アテネに住むとはこの神殿の力を経験することにほかならない。」

 ペリクレス後の前5世紀後半から前4世紀後半にかけてのアテネ民主政の100年は、「言葉によるどんな構築物をも凌駕」する白い神殿であるパルテノンが背後から迫っているなか、展開されていたことに思い至ることになりました。

 かくして池澤が30歳の頃に経験して10年後に言葉にしたのであろう「アテネ物語」のアテネは、その後40有余年を経て、どうなっているのでしょう。つい先年には「ギリシア危機」を経験していますが、池澤さんの「変わらない部分は人が思っているよりもよほど多い」というままなのでしょうか、私はそうであってほしいと願っているのですが。

  池澤夏樹著『ギリシアの誘惑』 1987年4月刊/書肆山田

 

 さて、積み残しの本題です。

 前記ブログの後編の最後「抽選と選挙ーアテネ民主政が訴えかけてくるものー」という項において、現代の民主主義国家といわれる場所で生きる私、私たちが、アテネの民主政から受けとめておきべきこと、そして反省を迫られていることを、まとめておこうとしましたが、中途になっていました。ここでは、その続きでもありますが、あまり重複になることをおそれずに、もう一度、書いておこうと思っています。

 

 古代アテネの民主政を特徴づけたものは何であったでしょうか。

 現在より2500年も前に、アテネという都市国家においては、成人男子全員が政治に直接参加する仕組みを、徹底したアマチュアリズムのもとで精緻なシステムとして制度化していました。全員参加の対象である民会は別としても、評議会も民衆裁判所も、また公職のほとんども、全員を対象とする「抽選」や「輪番制」を基本に参加の平等性を担保しようとしていたことです。

 そして、この全員参加の仕組みは、市民にとって「政治に参加することが誇るべき行為」とみなされ、橋場先生が強調しているとおり、つまり市民の人生において「生活様式」にまで高められていたことに支えられていました。と同時に、参加は「責任」を伴っており、「だれもが政治に参加できるかわりに、いったん公務員になった以上だれもが責任を負わなければならない」という厳しい反面をもつものでした。

 つまりアテネの民主政は、「市民全員による政治参加の平等性の追求」が徹底された仕組みとして、私はイメージしています。

 

 一方、現代の民主主義を特徴づけるものはどうでしょう。

 それは、簡単に定義することは困難というべきですが、都市国家と規模の大きさにおいて比較にならない国民国家において、成人国民全員参加による普通選挙で選ばれた議会が存在し(併せて大統領を選挙する形態も多い)、その立法権と決定権を基本として三権分立の下で運営されている国民主権の「国家」だといえるのでしょうか。国民の政治参加は、直接ではなく間接が基本であるということになります。

 議会制民主主義、代表制民主主義と呼ばれますが、代議制それ自体は「優等者支配」というポテンシャルを秘めたものであり、政治参加の平等といっても一種の「擬制」を伴う仕組みです。さらに「国民全員参加の普通選挙」は、20世紀になって初めて実現したものであり、古代アテネと同列に論じられないにせよ、前述したアテネの都市の歴史が中抜きであったことにも似ていて、その間には2000年以上もの隔たりがあって、「民主主義」と呼べる政治共同体は成立していなかったということになります。

 

 古代アテネの民主政と現代の民主主義をつなぐものとはという問いに対し、ネット上で出会った川出良枝氏の論文(「「民主」と「自由」ーー二つの原理の再編成」)を参考としつつ、私は、「政治への参加と平等」という理念といえるではないかと答えたいと思っています。もとより単純に同じ土俵で比較できないのはもちろんですが、「民主主義の源流」に存在し人間社会を運営するうえで大切な理念というものが、形を変えて噴出したものとみることができるのでしょう。ですから、連続しているとは言い難いものの、アテネの民主政が「政治参加への平等性の徹底化」をベースに構築されている以上、無関係なものと捉えることはできないと考えます。

 川出論文は短いとはいえもっと奥深い内容なのですが、本稿では表層だけ利用させていただき、この論文中の<デモクラシー>と、「規模が国民国家まで広がるとなかなか現実味がないが」としつつ言及した<民主主義>とは何かについての定義めいた言葉を引用しておきます。

 「 デモクラシーとは、政治共同体の意思決定を、共同体の成員全員の平等

  な参加によって行おうとする制度であり、そのような平等な政治参加に

  よって意義を見出そうとする思想だと言える。」

 「 民主主義とは、自分がその成員であるところの組織の運営に対し、メン

  バー全員が当事者として臨まなければならないという、そのような考えだ

  と言ってよい。」

 どう感じられましたか。現実との落差に呆然としてしまいそうですが、私は素直に本来はそのようなことであろうと読んだのです。

 

 では、最初の問題意識に戻って、現代の民主主義といわれる国民国家で生きる者の一人として、古代アテネの実験から、受けとめるべきこと、あるいは反省を迫られることとは何か、それが本題でした。

 前稿において、私は、「政治への参加と平等」に照らして、三点のことを述べようとしました。一つが政治参加の前提となるいわば構成員の「当事者性」という問題、二つが「法治」という問題、そして、三つ目が現代の「参政権」という問題でした。前者の二点につきましては、前稿で書いていますので、補足だけをしておきます。

 

 一つ目の「当事者性」のことです。民主主義が成り立つためには、古代アテネの「生活様式」「文化」とははるかに隔たっているのはもとよりですが、内田樹さんの「民主政は政策決定に集団の全員が責任を引き受ける覚悟なしに成立しない」という考え方にも現実との距離を感じつつも、古代アテネのアマチュアリズムの核にある精神を継承する「無機的ではない人間」であることの重要性について言及していました。

 つまり現代は、「無機的な人間」へと誘導する力に満ちているのであり(俗にいう「骨抜き」という言葉が適合します)、これに抗する力をもたなければ「当事者意識」はますます減退することになります。内田さんのいう権力を持つ側から国民に「政治参加」の無効性を無意識的に植え付けていくような情報操作的な動きという問題はありますが(それは選挙権だけでなく被選挙権に及び「議員」の家業化を招いています)、それだけでなく現行の民主主義を標榜する制度の根本的な差異、すなわち「直接」ではなく「間接」であることの困難性を改めて意識しました。これは優劣というより、現代人に、古代アテネの市民の当事者性をそのまま想定なり期待するのは誤りと考えるからです。

 残念なことに、わが国の国民、市民の政治参加への当事者意識は、全権委任か、傍観者姿勢か、そんな方向に向かっているように感じています。当事者意識の向上を図るためのいろんな具体の提案もなされていますが、簡単なブレークスルーなど想定できないでしょう。現代の民主主義の隘路の根幹には、この「政治への参加と平等」を具現化するための起動力である「当事者性」という問題がつきまとっていると、今の私は考えています。

 

 二つ目は「法治」のことです。前稿でマルクス・ガブリエルの民主主義論を援用しつつ、古代アテネが人治から法治へと根本原則を移行させたことにより、民主政の安定を継続させることができたことを強調し、「法治からの逸脱」が常套化する現代の「民主主義」国家という問題を指摘しました。

 つまり「法治」とはマルクス・ガブリエルの民主主義の第1の層、社会の骨組みとして「誰もが法律の支配下にある。政治家も、国家元首も。全員が法律の支配下にある」ことといえますが、それが通用しない現実が眼前で展開されたりしているということです。

 ここでは、改めて、橋場さんの本から、アテネの法治を担保することなった「前403/402年に制定されたと考えられる法」の一つを再引用しておくことにします。

 「 役人は成文化されざる法にはいかなる場合にも従ってはならない。評議

  会ないし民会の決議は、法より優位に立ってはならない。6000人の秘密

  投票によって民会決議されないかぎり、同じ内容が全市民に認められるこ

  となしに、特定の個人に関する法を制定してはならない。

                    (アドキデス『第一弁論』87節)」

 この法って「役人」を縛っていないですか。今のわが国は一応「法治国家」ですが、現政権は何をしようとしていますか、例えば憲法改正の意味するところは何でしょうか、主権者たる国民が国家権力を拘束するというより、逆に国家権力が国民を拘束する方向ではないでしょうか。

 「法治」が意味するベクトルの逆転現象が、わが国だけではなく、世界中で発生していることに、現代民主主義の直面する危機があらわれています。

 

 最後の三つ目、国民全員が政治参加する権利としての「参政権」という問題です。前稿では頭出しだけでした。私の問題意識は、本来の「参政権」というものはもっと幅広いものだけれど、現代の民主主義においては、国民の「政治への参加と平等」という本質が、「選挙権」というものに矮小化され回収されてしまっているのではないかということです。古代アテネの「政治参加への平等の追求」の徹底された仕組みを念頭におきながら、そのような思いを強く抱いたということです。

 最初の「当事者性」という問題とも密接に絡んでいますが、もう少し焦点をしぼった議論なのです。前記のマルクス・ガブリエルと「民主主義」をめぐって対談した(「「欲望」の時代を生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の視点からー(2・完)」の【補論】)国分功一郎さんは、著書(『来るべき民主主義』)のなかで、間接民主政か直接民主政かという問題設定を批判しつつ、主張を展開しています。つまり「主権を立法権として定義し、立法府を決定機関と見なす(したがって行政機関を単なる執行機関と見なす)近代政治哲学の理論的前提が問題なのであって、間接か直接は問題ではない」のであって、「立法権によってすべてを統治することは不可能なのだから、結局は行政が様々な事実上の決定を下すことになるだろう」とし、次のように続けています。

 「 今、述べた通り、問題は直接か間接かというところにあるのではなく、

  立法権ですべてを制御しようという発想そのものにある。仮に有権者の全

  員が参加する直接民主制の議会が作られたとしても、実際の政策決定を行

  政が行うという問題は少しも解決しない。

   この意見は、「間接民主制は必要悪である」という勘違いによって、実

  際には行政が政治的決定を下しているという本質的な問題を覆い隠してし

  まっており、その意味で極めて有害と言わなければならない。」

 この国分さんの意見は、現実を踏まえており、大変に鋭いものです。私たちが「参政権」の名の下で「選挙権」を行使して選出された議員が直接関与する立法権だけで(いわゆる議会制民主主義のもとでは、政府という行政権に反映するとされているが)、実際の政治的決定(大小、高低など多様なレベルに違いはあるが)は行政によっても行われている、という現実を見よと、国分さんは指摘しているのです。つまり立法権は政治の決定権の全部ではなく一部を構成しているだけであるから、立法権とともに行政権にも国民の主権が及ぶことを基本に、「これからの民主主義」を構想していくことが重要ではないかというわけです。

 なお、先の対談において、国分さんは、国民、市民の行政権への回路として「公聴会をはじめとする幅広い知識を共有できる場を作っていく」べきだとのマルクス・ガブリエルの意見に賛同を表明しています。

 

 適切に表現できませんが、私は、参政権=選挙権、成人国民全員の行使が可能な状態にあるなら、それだけで民主主義の条件を満たしているという組み立て方に、強い違和感があるということです。別に古代アテネを持ち出すこともありませんが、古代アテネにおいて立法、司法だけでなく、行政を担う公職、公務員もまたほとんどが「抽選」や「輪番制」であったという事実からも、立法権が決定権を独占していると見なすことには無理があるし、危険性を孕むものと理解しています。

 現代の民主主義において、国分さんの主張するような国民、市民が参与する回路を用意することが、とりもなおさず国民全員の「政治への参加と平等」を一歩前進させていく途ではないかと申し上げたいのです。そのことは、当事者意識を高める方向へ力を発揮することになりますし、いわゆる「無機的人間」とは別の人間教育の場にも通じるであろうということができます。

 

 繰り返すことになりますが、もう一度まとめておきましょう。

 古代アテネの民主政と現代の民主主義は、2000年の時空を隔て、「成員全員が当事者として臨まなければいけない」という基本の精神のもと、「政治への参加と平等」という理念でつながっています。だが、具体の仕組みが古代アテネの直接性と現代の間接性という全く次元を異にすることが、現代の民主主義をとりまく問題の根底に存在しています。そして、現代の民主主義は、「政治への参加と平等」という権利と義務が成人国民全員による普通選挙、すなわち「選挙権」だけに焦点化される傾向にあり、多くの場合は「当事者意識」の希薄化を招くことになります。

 国民による選挙権の行使を通じて議会が成立して機能していますが、この議会の立法権が政治の決定権を独占しているとはいえず、多くの政治的決定が事実上、行政によって担われている現実を踏まえた対応が必要となります。そのためには、間接性を理由に危機対応を回避するのではなく、選挙以外にも幅広く国民が政治に接する多様な回路を具体化し、国民全員の「政治への参加と平等」をバージョンアップしていくことが不可欠となってくるでしょう。 

 このことは、「当事者意識」を高める方向へ力を発揮させることとなり、学校教育とは違う人間教育の場ともなって、民主主義の活性化、国民主権の具現化というステージにも通じていくことが期待できます。

 

 ああなんだか最後は作文になってしまいました。かつて公務員であったにもかかわらず、「民主主義」のことをあまり考えることなく、今に至ったということなのでしょう。

 池澤さんの「アテネ物語」に触発されて、いま一度、アテネに立ち寄って、「民主主義」を考えてみようとしました。こんなものになってはしまいましたが、私自身にとっては、いい機会になったものと思っています。

 

2019.09.04 Wednesday

古代アテネの民主政が語りかけてくることー橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』ー(2・完)

 前稿((1))の後半部、古代アテネの民主政の仕組みを、『民主主義の源流 古代アテネの実験』における橋場弦の叙述をなぞるようなかたちで、そのアウトラインを紹介してみました。もとより言及できたことが限られ、誤解を招く心配もありますが、どのように感じられたでしょうか。

 橋場はアテネ民主政を<参加と責任のシステム>として捉え、そのシステムの本質を「だれもが政治に参加できるかわりに、いったん公務員となった以上だれもが責任を負わなければならない」とわかりやすい言葉でも表現しています。政治のアマチュアリズムというのでしょうか、そのある種の徹底ぶりにはじめて接し、私は驚嘆したと申し上げていいでしょう。

 そして、この先行モデルのないなかで<実験>を重ねて獲得した精密なメカニズムは、たんにアテネという都市国家の制度(国制)というより、「参加と責任のシステム」の副題とした「アテネ市民の<生活様式>」というべきものではないかと考え始めました。

 

 このことを、橋場もまた、1997年刊の『丘のうえの民主政』から18年を経た、この2016年の文庫版のあとがきでふれています。次の記述です。

 「 市民たちにとって民主政とは、教科書で学習する理論や法制度などでは

  なく、長い時間をかけて父祖から伝承された生活様式であった。それは、

  土のにおいの染みついた身体性をともなうもので、祭典や供儀、宣誓など

  によって儀礼化された日常生活の体系でもある。」

 今の学問領域でいえば、文化人類学の対象となりそうな、ある種の「文化」として捉えることもできそうです。

 

 ちょっと離れますが、橋場が興味深いことを書いています。民会の開会に先立って一種の宗教儀礼、すなわち若い豚を殺し、その血を議場の周囲にまき、祈りと呪いを読みあげるという、浄めの儀式が行われていたようです。民会とギリシアの神々の関係について、橋場は次のとおり述べています。

 「 科学的・合理的思考を得意としたと言われるギリシア人だが、現実には

  じつに信心深い人々であったことも確かだ。彼らは、民会の議事とは神聖

  な行為であり、つねに神々が見守るなかで行われるものであると信じてい

  た。政教分離という発想は存在しない。事実、祭祀や祭典などの神事も、

  民会の重要な議題であった。」

 民会は、古代の宗教文化と離れて存在していなかったのであり、「市民」という表現の近代性の奥にある人間の生のありようという面がうかがえます。

 

 それでは、ペロポネソス戦争の時期におけるアテネの迷走と、その後の民生政の再生、そして終焉までを紹介したうえで、こうした古代アテネの民主政が訴えかけてくるものに、耳をすませることができたらと考えています。

 

🔹民主政の再生ー人治から法治へー

 本書の章立ては、第3章「参加と責任のシステム」という民主政の制度・仕組みから歴史の道筋にもどり、第4章は「迷走するアテネ」、第5章で「民主政の再生」そして最終第6章は「たそがれ」と続きます。本項のタイトルは「民主政の再生ー人治から法治へー」ですが、これを中心としつつも、アテネ民主政の危機の時代と、民主政の崩壊とその要因などを、前後にサンドイッチしておきたいと思っています。

 

 まず、<迷走するアテネ>です。

 長期にわたるペロポネソス戦争(前431~404)は、アテネの政治に混迷をもたらしました。橋場は、その頃の弾劾裁判や民会などが「群集心理のおもむくままに押し流されてしまったことは否定できない」と評価したうえで、そのことを当事者である市民たち自身はよく承知していたとし、それはすぐに「後悔した」という事実に現れているとします。そのようなアテネを次のとおり描写しています。

 「 戦争が泥沼化し、さらに前代未聞の疫病による惨禍を味わったアテネで

  は、非常時の興奮に押されて、民衆がしばしばこのような振る舞いを見せ

  た。それは、無制限の主権を与えながらかえってそれに振り回され、方向

  を見失って迷走する彼らの姿であった。」

 

 この間、2回にわたり、民主政が転覆し、それぞれ短期間ではあったものの寡頭政が成立しました。最初は前411年で、スパルタ側の和平申し出を「デマゴーグ」と呼ばれる主戦民主派のリーダーたちが何回も拒んだりして、戦局は混迷し、前415年に開始したシチリア島遠征の大失敗が引き金となって、400人が政権を独占する寡頭制が樹立されたのです。事実上の寡頭派によるクーデターですが、すぐに民主派の巻き返しにあい、数ヵ月でもろくも崩壊します。

 その後、アテネの敗色は濃くなり、小アジアの同盟諸国もスパルタ側に離反するなか、前406年、アテネは最後の決戦を挑み、決戦には大勝利したものの、「ケイモン」と呼ばれる暴風により多くの将兵の命が失われるという事態に、アテネの民会は「驚愕し、ついで憤激した」とあります。

 この「見殺しにしてしまった」責任を、現場にいた8人の将軍に負わせるべく訴追されたのが、本書で紙数を多く割いている「アルギヌサイ裁判」です。ここでは詳細を省きますが、手続きの違法性を主張したのが、そのとき当番評議員であったソクラテスもその一人であったというエピソードが紹介されています。橋場は、ソクラテスやプラトンが民衆裁判に侮蔑や敵意のような感情を抱くようになった原因が、このアルギヌサイ裁判にあったかもしれないと書いています。

 そして、8人の将軍のうち、国外逃亡した2人を除く6人はただちに処刑されました。このなかには、ペリクレスの息子である小ペリクレスもいて、「ペリクレスの家系はここに断絶した」とあります。

 この裁判は「衆愚と堕した民衆のやみくもな自傷行為の一例としてよく引き合い出される」ものだそうです。そして、熱からさめたアテネ市民はすぐに「後悔した」のでしょう。

 

 アルギヌサイの海戦で大勝したことは、その後のアテネの不幸を「むしろ決定づける方向」に作用したと、橋場はみています。2度目となる民主政の転覆は、前405年秋、最終の決戦であるケルソネソス半島で完膚なきまでに敗れ、スパルタに海上交通を封鎖されるなかで和平交渉が始まったが、全面降伏しかないにもかかわらず、当時の主戦民主派の指導者クレオフォンは和議に反対するという時期に起こったのです。この機に乗じて、また寡頭派勢力が頭をもたげてきました。

 寡頭派側に傾いた評議会の監視下でクレオフォンに死刑の判決が下され、さらに次々と民主派指導者が逮捕連行される混乱に陥りました。そして、1年後の前404年秋にアテネはスパルタに降伏し、海外領土をことごとく取り上げられ、全同盟国を失い、デロス同盟は解体します。そして、30人の寡頭派の首領による三十人政権が樹立したのです。民主政の制度をすべて否定した、この政権は恐怖政治を敷きますが、民衆の支持は得られず、民主派との内戦に敗れ、翌前403年に崩壊しました。

 こうして2度の寡頭派政権の樹立と民主政への再転覆について、橋場は、「民主政の復元力のほうが当時ははるかに大きかったことを意味する」と評価しています。

 

 さて、サンドイッチのパテの部分、<民主政の再生>です。

 こうしたスパルタとの争いのなかで、アテネは「超大国の地位から転げ落ち、ギリシア世界の覇権を奪われてしまった」は明らかでした。では、これでアテネは、その民主政は大きな痛手を受けましたが、ここで終わってしまったのかといえば、ノーだと橋場は強調しています。民主政の深化と徹底の歩みは「けっして衰えたわけではなかった」のだとし、そのことに次の「死と再生の物語」という表現を与えています。

 「 この前403年をさかいに、アテネ民主政は多くの反省と悔悟のうえに

  立ってみずからのシステムを再編し、新たな決意とともにふたたび息を吹

  き返したのである。それは、若々しいエネルギーにあふれてはいるが、

  いったん優れた指導者を失えばときとして暴走しかねない以前の民主政の

  ありようから、より成熟し、安定した姿へと生まれ変わった。この変容

  は、いわば死と再生の物語にほかならない。」

 私には、橋場のいつもの冷静・沈着な筆致が思わずハイトーンになっているように感じられたりしました。いわば「衆愚政」決めつけ史観を否定する立場を明確にしておこうという、歴史家としての強い使命感が現れているといえば、いささか私の見方がオーバーだということになるでしょうか。

 そして、さらに続けて、橋場は、「民主政は、むしろアテネが超大国の地位を失ったあとで、本物の光を静かに放ち始めたとさえ思われる」とし、その見取り図を説明していくのです。

 

 この前5世紀から前4世紀に移行しようとする時期に、アテネは民主政の再生に取り組みました。この際、「アテネの民衆は、いくつかの重要な基本原則を確認した」と、橋場は3点に分けて説明しています。

 まず、その第1は「寡頭派市民たちとの和解」です。この間、つまりペロポネソス戦争の末期のころ、寡頭派と民主派の市民は、弾劾裁判などの手法も利用しつつ、超法規な暴力も使って、血を血で洗う報復合戦である内戦を繰り広げるという悪循環に陥っていました。なんとしてでもその悪循環を断ち切ろうという取り組みでした。

 具体的には「一部の首謀者をのぞき寡頭派市民の罪を許し、これに対する民主派側の復讐を禁ずる大赦令も発効した」のです。何よりもポリス市民団の統合を最優先とする、民衆の自制心がもたらした結果であり、これにより「分裂という最悪の事態」を回避することができたとあります。

 その第2は、今後のアテネの国制について「市民たちが民会や民衆裁判所の場で主体的に議論を行い」、その結果「民主政という国制を基本的には将来も維持していくことを再確認した」ことです。この議論において、参政権を、一部の奴隷や外国人まで拡げる方向と、逆に土地所有者に狭める、という二つの主張も登場したようですが、市民の大多数が選んだのは、従来からの「アテネ人の両親から生まれた成年男子市民であれば、財産の多少にかかわらず平等に参政権を享受する」というペリクレス以来の原則でした。

 アテネ市民が自発的に選び取ったことが重要だと強調し、戦勝国スパルタは、結局アテネの内政に干渉することはあえてしなかったと、橋場は報告しています。

 

 次の第3が最も重要な原則です。それは、「法というものの地位を、そのときどきの民会の判断によっては容易に左右されない次元にまで高める」ということです。

 前述のアルギヌサイ裁判でみられたとおり「民主政の基本ルールを民衆自身が破壊するという、一種の自滅行動」につながり、このことがペロポネソス戦争末期のアテネに混乱招いた原因となったことを、市民は「後悔と自責」とともに悟らざるをえなかったというわけです。

 そして、法の地位の優位性を確認するために、四百人政権崩壊直後から始まり、その後の動乱で中断していた「全面的な法の改定・編纂作業を大急ぎで再開し、前403/402年までに完成させた」のです。この法の地位をめぐる変革について、橋場は、次の懇切な説明と高い評価を与えています。

 「 民主政を支える法を民会決議とは厳密に区別し、そして前者が後者に対

  して優位にあることを明確に確認したのである。誤解を恐れずにあえて現

  代風に表現しなおすとすれば、人治主義から法治主義へ、あるいはM・オ

  ストワルドのことばを借りれば民衆の至高性から法の至高性へと、民主政

  の根本原則は移動した。」

 <人治から法治へ>というわけです。このことがキーとなり、「これ以降前4世紀末に至るまで、法の支配のもとで安定して統制のとれた統治を民主政が維持できたことに貢献したと思われる」と、橋場は評価しています。

 具体的には、「それまでにない厳密な立法手続き」が定められることになったことです。つまり「立法における民会の役割がある程度制限され」るようになり、最終的な法案の批准は、民会がその年の裁判員のなかから任命した<立法委員会>という新たな組織に委ねられたのです。このことによって、「国家の根幹にかかわる法が、一度の民会決議で簡単に改廃されることがなくなった」というわけです。つまり「民会といえども違法な決議を可決することは許されなくなった」のです。

 

 こうした法の優位を実際に保障する制度として、「違法提案に対する公訴」という訴訟手続きを、橋場は取り上げて説明しています。

 この「違法な民会決議の成立を阻止し、そのような議案を民会で提出した動議提案者を処罰するための公法上の訴訟」は、詳細は省きますが、当時「法の番人」と呼ばれ、法治によって制御される民主政の防壁としての機能を期待されたのです。

 本来の趣旨どおり機能しなかったという評価もあるようですが、橋場は「実際には何の役にも立たなかった」というのは誤りだとしています。

 その他大規模な機構改革、そし<参加と責任のシステム>として前述した、公職者弾劾制度である資格審査と執務審査が、また民衆裁判所の3段階にわたる抽選システムが、それぞれ完成の域に達したことを詳細に記述しています。

 これも省略しますが、一つだけ紹介します。こうした背景にあるアマチュアリズムを再確認するように、民衆裁判に批判的で司法を専門の裁判官に委ねるというプラトン流の考え方を、アテネ市民は、民主政を廃止するまで拒絶し続けたという事実に言及しています。そして、プラトンの言説を引用しつつ、次の見方を特記しています。

 「 プラトンは、一方で裁判官の職権主義を主張しながらも、他方条件つき

  で裁判への民衆参加を不可欠であると認めているのである。彼はあくまで

  裁き手の資質や教育程度を問題にするのであって、民衆参加の原理そのも

  のを否定しているのではないようだ。」

 

 民主政アテネの市民像、先に<生活様式>とか<文化>ということばを持ち出したのですが、橋場は、<民主政の再生>を果たす「ポリス社会が現代と基本的に性質がことなる世界であった」ことを強調したうえで、次のとおりアテネ市民を再規定しようとしています。

 「 ポリス市民はわれわれの想像以上に政治意識が高く、また自律的な市民

  であった。またそうであることを理想とした。生産労働に専念するのは奴

  隷や在留外人にふさわしいとされ、政治や軍事そして裁判に参加できるこ

  とこそ、市民の特権であり名誉であった。だから彼ら本来の仕事とは、ポ

  リスの公務に従事することにほかならない。」

 この視点を忘れずに理解しようとすることにしましょう。

 

 以上、大事なところが省略によって抜け落ちているおそれをもちますが、いわば国際政治において沈没したアテネの<民主政の再生>をどう受けとめるべきでしょうか。橋場は、次の総括的な評価を与えています。

 「 たいへん興味深いことに、民主政の諸制度は縮小するどころか、むしろ

  逆に充実していったのである。アテネの徹底した民主政はしょせん帝国主

  義的支配のうえに咲いたあだ花という論評があるとすれば、その意味でこ

  れは事実に反する。」

 長くなってしまっていますが、元々の無知のうえに、橋場の記述に発見できるところが多いので、こうなってしまいます。

 

 それでは、この項の最後、<たそがれ>、つまり<民主政の終焉>です。

 終焉に先立つ、復活からのおよそ80年にわたって、アテネ民主政は「安定した歩みを続け」たという点を、橋場は強調しています。この間、<参加と責任のシステム>はますます整備され、「それらの完成した姿は前4世紀末にアリストテレスとその弟子たちの目に触れ、『アテナイ人の国制』42章以下にくわしくルポルタージュされることなる」と説明しています。

 具体例として、民会議場が二度にわたり改修・拡張されており、「民会への市民参加が以前より増大していった事実」をあげています。ペリクレスよりも100年後のほうが「民会参加のレベルは上昇して」いたのだというわけです。

 何度かふれたとおり19世紀以来の近代歴史学は、前4世紀のアテネ民主政を長い衰退過程とみてきました。その理由を、橋場は次のとおり説明します。

 「 ナショナリズムが幅をきかせていた19世紀の歴史学者たちは、列強間

  の競争に敗北しもはや超大国でなくなったアテネには、何の魅力も感じ

  なかったのである。ペリクレス的栄光に彩られた前5世紀と、アレクサン

  ドロス大王の輝かしい東方遠征に始まるヘレニズム時代との間の、色あ

  せた哀愁を帯びる谷間の時代でもあったのだ。」

 こうした考え方の枠組みは20世紀後半から再検討されつつあるそうですが、橋場もまた、それに連なる歴史家ということになります。本書全体で、この「決めつけ史観」に異議申し立てを行っているともいえそうです。

 

 以上のほかにも事例をあげて前4世紀のアテネを語っていますが、「専門分化の波」として、前世紀において政治と軍事を同時に体現していた将軍の性格の変化、つまり「政治家と将軍の機能分化」が進んだこと、さらには通常の行政部門でも財政の専門家が登場し、つまり「巨額の資金を扱ういくつかの財務官職が政策決定の中枢」を担うようになったことを特筆しています。

 いわばアマチュアリズムの原則を要石とするアテネ民主政にも、こうした「専門分化と集権化」という新しい事態が生じてきていたことになります。こうした変化、変質を民主政の衰退とみるか否かにつき、研究者の評価は分かれているようですが、橋場は「その変質がアテネ民主政の没落をもたらしたとまでは断言できないように思われる」と評価しています。

 

 いよいよ民主政の終焉となります。橋場は、その要因を、内部よりも外部にもとめて説明しています。

 ギリシアの北方、広大な領土をもつ新興国マケドニアが表舞台に登場してきます。ギリシアの北・中部を支配下におき、アテネを含む「南部の諸ポリス」への進出を図ろうとし、前338年、カイロネイアにおいてアテネ・テーベ連合軍と対戦することになりましたが、結果はマケドニアの圧倒的な勝利でした。ポリス諸国は、マケドニアの覇権のまえに屈し、「独立国家としてのポリスの歴史は、一応終幕を迎えることになった」のです。

 つまり「国家としての主権の保持」が「ポリス存立の大前提」であったにもかかわらず、それが喪失したのであり、橋場は、「数百年間存続したポリス市民の心理的秩序が、一挙にその根拠を否定されたことにほかならなかった」と、そのことが市民に与えた打撃の大きさを指摘しています。だから、というか、このカイロネイアの敗戦以降、「アテネ民主政が本当の意味で深刻に変質しはじめた」と、橋場はみています。すなわち「「民主政」という概念が中身を失いはじめ、空虚な題目に堕していった」ことを示すいくつもの事実を、「民主政転覆罪」や「エウクラテス法」などを例示しつつ述べています。

 そして、民主政の最期がやってきます。前322年、アレクサンドロス大王の東方遠征と前年の急逝を前にして、アテネをはじめとするギリシア諸国は対マケドニア反乱をおこします(アテネ民主政はアレクサンドロス大王よりさらに前のことでした(「今ごろになってーアレクサンドロス大王像の変遷から見えてくるものー」))。ラミア戦争と呼ばれますが、マケドニア代理統治者アンティパトロスの大軍によって制圧され、アテネにはマケドニア軍が進駐してきます。その監視の下で、クレイテネス以来180年以上続いてきたアテネの民主政は、次のとおり廃止されました。

 「 参政権は2000ドラクマ以上の財産をもつ市民9000人に限られ、国制は

  一種の富裕者寡頭制に変わった。あれほど精緻に整えられた民衆裁判所の

  制度も事実上廃棄され、役人の抽選制、同僚団制、ローテーションの原則

  なども撤廃された。民会手当もなくなった。貧民は民会への参加も許され

  なくなったからである。」

 ですから前322年で民主政はやはり消滅したとみるべきと同意したうえで、厳密に言えばと、橋場は、民主政の終幕した前322年以降のアテネにも言及し、80年ほどの間に「おもなもので8度政変が起こり、その間民主政が3回ばかり復活している」ことも付記しています。

 

 「かくてアテネ民主政は、世界史上から姿を消した」のですが、その滅亡原因についても、たんなる仮説と断りつつ、橋場は論じています。

 結論は、外部要因説であり、「民主政に内在する欠陥によって自滅したというよりも、むしろ外部からの圧力を受けて崩壊したという説明モデルのほうに、より真実らしいものがあるように思われる」としています。そして、続けて、次の説明を重ねて念押ししています。

 「 もちろん民主政の内部にも、なんらかの変質が起こっていたことは否定

  できない。市民たちの公共意識の低下など、内部要因を指摘する意見は根

  強い。しかし少なくとも民主政崩壊の直接にして最大の要因が、マケドニ

  アの軍事的制圧によるポリスの独立喪失であることもまた否定しがたい。

  市民みずからの自由意志で政治を行なう原則が否定されれば、もはや民主

  主義の生命が枯死したも同然だからである。」

 

 以上、従来は前5世紀の陰に隠れてきた前4世紀のアテネ民主政が、「人治から法治へ」と支配の原理を転換させることによる「再生」を経験し、その後の安定した歩みへとつなげていったものの、マケドニアの覇権によりついに「崩壊」にいたる歴史であったということになります。

 

🔹抽選と選挙ーアテネ民主政が訴えかけてくるものー

 以上が、本書『民主主義の源流』から、私が読み取ることのできた骨子だということになります。

 

 最終章である第6章の「たそがれ」の次に、橋場は短い「おわりに」をおき、本書の総括を行っています。その後半部分で、歴史家の本分とは「ほめたりけなしたりすることではなく、記録し説明することに尽きる」としたうえで、いわば橋場はその本分をあえて踏み外すように自問しています。つまり、「現代の日本に生きる一人の人間」として、「アテネ民主政の歴史を探求する意義はどこにあるのだろうか」、そして現在とまったく異質の環境に生きていた「古代ギリシア人の経験の何が、私に訴えてくるのか」というのです。

 そんな自問への橋場の応答、すなわち結論を先行させておくと、民主政というものの生命が何であるのかについての重要なヒントを、「ペリクレスが理想とした民主政とはたんなる国家制度ではなく、一つの生活様式であった」という点に見い出し、これを重視し、次のとおり述べています。

 「 われわれが現代を生きる限り、何かの専門領域にしばられるのは避けら

  れない宿命である。広い意味での官僚制なしに近代文明が一刻も維持でき

  ないのは、だれもが承知していることだ。にもかかわらず、民主政と官僚

  制は根本のところで相容れない。自分の専門領域だけに閉じこもる無機的

  な人間だけが社会を構成するようになったとき、民主政は生きることをや

  めるだろう。

 こうした橋場の自問に対する答えの根っこには、現代を生きる私たちが、社会から一個の機能になることを求められ、それ以外の能力をすべて切り捨てることを意味するのに対し、古代アテネ市民は、その対極にある生き方を理想とし、つまり「あらゆる方面にバランスよく、しかもそこそこの能力を発揮することが、民主政を支える市民としてふさわしい生き方だと考えていた」と、彼我を対比的に認識していることになります。

 そして、さらにその前提には、現代の日本に生きる橋場の民主主義についての危機感、「民主主義ということばは、もはや手垢のこびりついた一つの空虚な符丁にすぎなくな」り、「現在ではへたをすれば冷笑すら浴びかねない」という事態になっているとの認識を抱いていたといえます(この文章は1997年に書かれていますが、20年後の今も深まりさえすれ、変わっていなくて現在形のままです)。

 次の文章で、橋場は本書を閉じています。

 「 ポリス市民の生活様式をそのまま現代に再現できないことは、あらため

  て言うまでもない。彼我のへだたりはあまりに大きい。古典古代の単純な

  理想視は話をふりだしにもどすだけだ。だが古代ギリシアへの洞察は、自

  分が置かれている状況への反省にたえず私をいざなう。ギリシア人が民主

  政をめぐって試行錯誤した素直な足跡は、われわれの心に強く何かを刻み

  込むのである。」

 

 2500年、思えば遠くにきたものだとの感慨がわいてきます。

 橋場は、国制の原則としての民主主義を構成する人間の<生活様式>というものの差異を、何よりも決定的なものとして受けとめています。私は<生活様式>を<文化>と呼べるのかもしれないと前述しましたが、古代ギリシア、アテネと現代の<人間の条件>は気の遠くなるほど違っています。

 民主主義の源流として研究した古代アテネの民主政から、橋場は、現代という「専門領域だけに閉じこもる無機的な人間だけが社会を構成する」状況に対する強い危惧を、つまり「そうではあってはならない」という反省を「心に強く刻み込む」ことになりました。この「無機的な人間」という表現は、私には、先のブログ(「民主主義の後退という予兆のなかでー低投票率が語っていることー」)で紹介した内田樹さんの「民主政は政策決定に集団の全員が責任を引き受ける覚悟なしには成立しない」、そして投票を棄権するような「国民の比率がある割合を超えた時、その国の民主主義は終わる」という論旨と、いわば民主政における人間像と、まっすぐにつながってきます。   

 そして、時間を遡ることはできないのだから、現代の民主主義を構成する人間が「無機的ではない」ためにどうすべきなのかという重く深い問いを、私に、われわれに突きつけてきます。

 

 ここで、補助線を引いてみましょう。

 当ブログで取り上げてきたマルクス・ガブリエルの民主主義論です(「「欲望」の時代を生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の視点からー(2・完)」の【補論】)。M(マルクス・ガブリエルのことです)は、民主主義とは一つの制度であり、同時に人間の行動を組織化する方法だとし、二つの層から成り立つとします。すなわち、一つの層とは、「誰もが法律の支配下にある。政治家も、国家元首も、全員が法律の支配下にある」という社会の骨組みなんだということです。もう一つの層とは、「価値制度、価値体系」であり、その価値の基本的な考え方は、「「自由」、「平等」と、「連帯」の骨組み」だというのです。

 この二つの層を確認したうえで、Mは地球規模で直面している問題からすれば「民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれない」、だから「私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面している」といえると説明しています。そして、Mは、<価値>と<知識>を強調しており、特に価値のなかでは「平等」であり、知識とは「民主主義のなかで議論していくために絶対に必要な条件」であると説明しているのです。

 

 本稿の最後に、こうしたすごく真っ当なMの民主主義論と、本書の古代アテネの民主政と関係づけてコメントしておくことにします。

 前者、「誰もが法律の支配下にある」、つまり「法治」という問題です。アテネ民主政の再生において肝となったのは、「人治から法治へ」という根本原則を移動させたことであり、そのことがその後の安定した統治と民主政の維持が実現できたのだと、橋場が評価していたところです。

 私が申し上げたいのは、それこそ古代アテネの実験から生まれた知恵としての「法治」と、もとよりMの「誰もが法律の支配下にある」という現代の民主主義の原則は、無関係ではないということです。われわれが民主主義の後退や危機を感じている場合、かならずといっていいほど、「法治」からの逸脱、つまり「政治家も、国家元首も、全員が法律の支配下にある」という大原則からの逸脱がみられるのだということです。

 日本の最近の動向は憲法をめぐる諸問題など申し上げるまでもないですし、世界的にもむしろ当たり前になっているといえるのかもしれません。古代アテネの「法治」について、橋場は「近代国家におけるそれとは異質な文脈においてではあれ、成文法主義、基本法の優位、法の下の平等という原則が明示されている」と注意を喚起しています。

 私は、本書の叙述によって、現下の世界において、民主主義の基本原則である「法治」をないがしろにする傾向が顕著である状況を理解でき、そのことの問題性とその意味を強く意識することなりました。

 

 もう一つだけ、メモしておくとすれば、Mの民主主義論の後者、「価値体系」でいう「自由、平等、連帯」との関係で、古代アテネ民主政の<抽選>と現代民主主義の<選挙>という方法が、民主主義の本質にある「参政権」にどう関係するのかという問題です。だが、どうも紙数が尽きる状態ですから、この問題は、私の宿題として残しておくことにいたしましょう。

 

 強制終了で尻切れな終わり方になってしまいましたが、本書で民主主義の源流にあるものに出会わせてもらった橋場弦さんに感謝いたします。

                【終:(1)、(2・完)

 

2019.08.31 Saturday

古代アテネの民主政が語りかけてくることー橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』ー(1)

 本稿を書こうとしたのは、二つの理由があります。

 一つは、今年の4月から7月にかけて、「古典期アテーナイの訴訟文化」をテーマとする講義を聴講することができたからです。講義への私の理解度は低いと申し上げるほかないのですが、2500年前の古代ギリシアでは、多くの市民が裁判員になる仕組みのもとで、頻度高く裁判(「民衆裁判所」と訳されています)が行われていたし、その中味においても、2500年後の現在に通じる問題が訴訟として弁論されていたことに心底驚いたのです。一方、同時期の日本には文字に書かれたものは何も残っていないのだという当たり前の事実を思い返すことになりました。

 そして、その講義のなかで参考図書として示された橋場弦著『民主主義の源流 古代アテネの実験』(2016年1月刊/講談社学術文庫)を読んでみました。もともと学術書ではなく一般読者向けに刊行された『丘のうえの民主政ー古代アテネの実験』を改題して文庫化されたもので、元本の刊行年は1997年、今から20年以上前のことになります。

 この紀元前5~4世紀、つまりアテネ民主制の草創から廃止に至るまでの190年間の歴史を対象とする本書を一読して、これはきっと信頼しうる学者の手になる著作だとすぐに感じました。まだ30代後半の若手歴史家が20世紀後半の歴史学の成果のうえに誠実に描写した、現在からすると、徹底した直接民主主義を実現したアテネ民主政の歩みを、何度も、ああそうだったんだ、ああそうかもしれないな、と思うところがあったのです。

 

 もう一つは、最近のブログで民主主義をとりまく厳しい状況(「民主主義の後退という予兆のなかでー低投票率が語っていることー」)について書きましたが、その根底にある民主主義ってなんだろうという問題意識とスパークするところがあったからです。今の日本や世界において民主主義が危機に瀕しているさまを目の当たりしていて、私は「民主主義の原点」について何も知らないことによく呆然としてしまいます。そんな私には、『民主主義の源流』が語る、政治、行政、司法のあらゆる分野で、成人男子市民が幅広く参加するシステムから成り立っていた古代アテネの民主政の実態が、それは国家の制度というより社会生活の様式とも呼べるものですが、大きな示唆を与えてくれるのではないかと感じられたからでもあります。

 この文庫本の帯には、高橋源一郎さんが2015年6月25日の朝日新聞「論壇時評」に書かれた一文が引かれています。下記の写真のとおりですが、再引用しておきます。

 「 いま「民主主義」そのものの意味が問われる時代になって、その始原に

  まで遡って考えたいと思い、橋場弦さんの『丘のうえの民主政』を読ん

  だ。ここに描かれた、歴史上初めて「民主主義」を生んだ古代アテナイの

  人びとの壮大な実験が胸をうつ。平和の時代ではなく、絶え間なく続く戦

  争の最中にあって、アテナイの人びとは、熟議と公平を追求した。」

 

 以上のような理由で、本稿を<現代社会>のカテゴリーで書こうとしているのですが、ここで断っておきたいことがあります。

 それは、本書のなかで 橋場さんが繰りかえし述べている次の基本的な姿勢のことです。

 「 古典古代を単純に理想視するのが無意味であるのと同様、現代の高みか

  ら一方的に断罪するのもまた適切な姿勢とは言えないだろう。戒めねばな

  らないのは、古代の民主政をむやみに現代に引き付けて説明したり、ある

  いは双方の時代差を無視して現代の文脈でのみ解釈することである。」

 難しいことだけれど、表層の知識しかもたない私としては、そのような傾向に陥りやすいところを警戒しつつ、記述をすすめていきたいということです。

  橋場弦著『民主主義の源流 古代アテネの実験』 2016年1月刊/講談社学術文庫

  同上 帯の裏面 高橋源一郎の文章(2015.6.25「朝日新聞」論壇時評)

 

🔹訴訟にあふれる民主制アテネー<年に35~55日程度>の参加とはー

 聴講させてもらったたのは、神戸大学文学部の佐藤昇准教授の講義でした。講義では、民主政アテネの裁判制度につき、前半は制度の仕組みと素人裁判員の問題を中心に、後半は、裁判の内容というか、法定演説の記録から多くの具体例をあげて懇切に説明されていました。

 この佐藤先生が編者になって初学者向けにまとめられた神戸大学史学講座著『歴史の見方・考え方』(2018年5月刊/山川出版社)という本のトップに「人が人を処罰するというのはどういうことなのだろうー民主政アテナイの裁判と素人主義」との長い題の論文、というよりエッセー風の文章を寄せられています。ここでは講義の前半で説明のあったアテネの司法制度の仕組みを中心に論述されていて、『民主主義の源流』の内容の一部とも、当然ですが重なっています。

 本項では、アテネ民主制の中核と評されている裁判制度のアウトラインをイメージしていただけることを目標に、その概要をまとめてみます。

 

 参政権をもつアテネ市民は、外国人居留者や奴隷を除いた市民、さらに女性ではない成人男子市民ということになります(諸説あるが、18歳以上の成人男子市民は2~3万人程度だったとされている)。そのうち30歳以上の成人男性市民から裁判員候補者6000人を選ぶのです(前5世紀は抽選、前4世紀からは希望すれば終身の裁判員になれたとのこと)。ですから、対象の市民全体の「4分の1から3分の1近く」が毎年の裁判員候補者であったことになります。

 そして、裁判の行われる日の朝に、この裁判員候補者の中から、当日に必要な人数を抽選で決めていました。そして、複数の法廷のうち、どの法廷を担当するか、さらに、どの裁判を担当するのか、それも抽選で決めていました。つまり裁判の開廷日に、3段階の抽選をへて担当する裁判がやっと決まることになるという手順を踏んでいたのです。

 佐藤先生は、裁判員候補者の年間平均参加回数を推定しています。年間開廷日の日数、1日ごとの開廷法廷数、そして各法廷での必要人数(私訴の場合は201人、公訴の場合は501人)をそれぞれ推定して乗じた「年間延べ裁判員数」を裁判員候補者数6000で割って、算出します。結果だけ示しておくと、1年間に「1人平均35〜55日程度」ということになり、「頻度としては多くて1週間に1度、少なくとも10日に1度という程度」になるというわけです。

 裁判の手続き、どう審理し、結審したのかは、「裁判員が判定をおこなうために、原告・被告による弁論合戦」をしていました。これが終わると、抽選で選ばれた裁判員たちは準備された投票石をもち、投票壺にこれを投じ」ていました(弁論は複数回になることもあったとのこと)。無罪であれば、これで終了し、有罪の場合で量刑が決められていない場合はもう一度弁論があったうえで投票がおこなわれていたというわけです。

 ざっと、民主政アテネの司法、裁判は、このように市民が裁判員になって判断するものでした。

 

 また現代日本の裁判員制度を想起させつつ、佐藤先生は、アテネの市民裁判員、素人裁判員の「素人具合」についても注意を喚起しています。

 前記した裁判員候補者の参加頻度、さらには、周囲の「家族や友人、親類にいたるまで経験者だらけという状況」も加味しなければなりませんし、もっと大事なのは、後でふれる民会、評議会、700に及んだといわれる役人たち(ごく一部を除き、抽選で選ばれ、任期1年で再任なし)など、今からは想像できないぐらいに司法判断をくだす経験をかなり積んでいたと考えられます。

 だから、古代アテネの市民は実戦経験豊かな「素人」たちであったとし、佐藤先生は、次の見方を示しています。

 「 古典期アテナイは司法経験にあふれた社会であった。同じ「素人」裁判

  員であるとはいえ、これだけ日常的に実践的な司法判断の場にひたってい

  れば、古典期アテナイ市民は、司法判断をくだすことに対する心構えがそ

  うとうできていたとみてまちがいはないだろう。」

 くどくなりましたが、ここでは、現代とちがって、「裁判が社会のなかに深く組み込まれてい」たことを確認しておきましょう。

  古代アテネの民主政関連公共施設図 [神戸大文学部 佐藤昇准教授の講義資料から]

  裁判員の担当法廷決定のための三段階の抽選イメージ図 [同上]

 

🔹通説・ドグマのおそろしさー<衆愚制>と<盛衰史観>ー

 前項ではアテネ民主政における裁判制度に特化してまとめてみました。『民主主義の源流』の本編に入る前に、私たちに染みついたドグマのような視点を批判しているところをみておきましょう。

 「私たち」とはどのような世代かもわかりませんが、古代アテネの歴史を、世界史の教科書や参考書でどのように記憶されていますか。橋場の記述を使えば「前5世紀なかばに(ペリクレスなどの活躍により)黄金時代を築いたアテネ民主政は、その後ペロポネソス戦争(前431-404年)をさかいにして、無定見な民衆による衆愚政という病理にとりつかれ、前4世紀にはすっかり衰えて没落していった」であり、私もそのように記憶していました。この歴史観を、橋場は「盛衰史観」と呼んでいます。

 橋場は、本書の記述を通じて、ちょっと待ってください、そんなふうにアテネ民主政に<衆愚政>という価値判断のあからさまな用語で断罪的なレッテルを貼ってしまうことは、アテネ民主政を理想視してしまう歴史観と同様、適切な姿勢とは言えないと批判しているのです。そして、最近の橋場へのインタビュー記事(「【すべての世界史を学んだ人たちへ】東大教授が魅せる、教科書執筆の裏側」2018.6.24)では、20年以上前から関わっている教科書の改訂作業について語っています。驚いたことに、橋場は自身が担当する山川出版社の『詳説世界史』にあった<衆愚政>という言葉を「思い切って」オミット(除外)したと語っています。アテネの<衆愚政>は「例外的な出来事にすぎない」にもかかわらず、アテネ民主政を全否定する言葉、レッテル貼りだから、除外したのだというのです。 

 

 このようなドグマ的な歴史観が定着した背景には、ソクラテスやプラトン、それにアリストテレスというアテネ民主政と同時代に生きた哲学者が「多かれ少なかれ民主政に批判的な態度を取っていた」ことの影響を指摘しています。他方、「民主政の体制の側に立って書かれた古代の政治理論は、今日一つも伝わっていない」のであり、「一方的にうのみすることはできない」のだとします。もちろん、こんなビッグネームを背景に<強固な固定観念>としてヨーロッパの思想界に居座ってきたのであり、橋場は、この先入観を「注意深くはぎ取るところから仕事を始めなければならない」というのです。

 その根拠として、最近100年間ほどの間に「新しい史料や遺物が発見・発掘され」(その一つがアリストテレスの作とされる『アテナイ人の国制』です)、「アテネ民主政研究の状況がかなり変容した」ことを指摘しています。そして、「20世紀のこうした新しい研究がこれまであきらかにしてきた」のは、次のような従来の見方の変容を迫るものであったとしています。

 「 アテネ民主政が従来考えられてきたよりもはるかに整った、精密なシス

  テムを備えていたものであって、少なくとも群衆が気まぐれに行なう幼稚

  な政治体制ではないということであった。しかも民主政のしくみは、むし

  ろギリシア都市国家の衰退期とされる前4世紀に入ってから、ますますそ

  の完成の度合いを高めていったことまでも判明した。」

 「 こうした発見は、伝統的な古典史料が描かなかった(あるいは描こうとし

  なかった)アテネ民主政の知られざる側面をいくつも明るみに出し、それま

  でのものの見方に大きな変容を迫ったのである。」

 そして、橋場は、本書を含めたアテネ民主政の歴史にかかる自らの立場につき、次のとおり表明しているのです。

 「 19世紀的な価値観に支配されたこれまでの考え方からいったん自由に

  なって、民主政を担った古代市民たちの行動様式をていねいに掘り起こす

  作業が、その第一の前提とされていることは確かであろうと思われる。私

  もそのような立場を分けあうものである。」

 

 かくして、本書を読んで、私は初めて新しい見方にふれることができました。でも、どこかにアテネの歴史について刷りこまれた痕跡は残っていくのではないかと感じたりもします。それほど私たちの意識は、最初に与えられた言葉に影響ないし支配を受けるということであろうと思っています。

 前記のインタビューで、橋場は教科書から<衆愚政>という言葉を除外したあと、現場の高校の先生からクレームがあった、これまでの成立していた1つのストーリーが成り立たないというクレームがあったと語っています。つまりわかりやすいストーリーが崩されてしまったというわけです。

 さて、本編に入っていくことにしましょう。

  アテネ民主政の関連年表 [橋場の前掲書から]

 

🔹参加と責任のシステムーアテネ市民の<生活様式>ー

 アテネ民主政発展の起動力となったモチーフについて、橋場は「参加(パーティシペーション)」と「責任(アカウンタビリティ)」であったように思われるとしています。それは、民主政の歩みが、「この二つのからみあい、あるいは緊張関係によって、ある程度説明することができる」からだというのです。

 

 この「参加」と「責任」のシステムは、第3章で記述されていますが、その前の第1章では前490年のマラトンの戦いを勝利に導いたミルティアデスが、第2章では偉大な指導者として民主政アテネの発展をリードしたペリクレスが取り上げられています。

 ミルティアデスは、翌前489年の遠征に失敗し、その責任を問われて、裁判にかけられ、重い罰金刑を科されました。民衆の信頼を失うと、僭主復活の嫌疑に切り替わってしまったのです。民主政防衛のための公職者弾劾制度の画期として捉えられています。

 盛期アテネで15年以上も最高指導者で公私の区別にことのほか厳しかったペリクレス、そんなペリクレスも前430年に戦略方法の責任を追及され、会計上の不正の名目で裁判にかけられ、罰金刑に処せられたのです。橋場は、ペリクレス本人が整備した公職者弾劾制度によって、反対に裁かれるというパラドックスを、「アテネ市民団は、けっしてペリクレスの従順な臣民ではなかった。彼が育てた民主政のシステムが、その本人に牙をむいたのである」と描写しています。

 「前5世紀のペリクレスにいたるまでの時代、アテネ民主政は軍事指導者であると同時に政策立案者でもある将軍によりつねにリードされてきた」が、それが変容したのだと、橋場は、第2章を次のとおり結んでいます。

 「 ミルティアデスから始まったこの潮流は、ペリクレスの死をもって一つ

  の曲がり角を迎える。こののち、政治と軍事の双方に優れた指導力を発揮

  する貴族的かつ英雄的な将軍は、もはやほとんど現れなくなる。アテネ民

  主政は、ふたたび新たな段階を迎えるのである。」

 

 これに続く第3章は「参加と責任のシステム」のタイトルで、いったん時系列から離れ、橋場はアテネ民主政の仕組みについて説明を加えています。

 「参加の原則」とは、できるかぎり多くの市民に政治参加の機会を与えることであり、民衆の参加、政治のアマチュアリズムと言い換えることもできると、橋場は述べています。一方、「責任の原則」とは、前記の裁判員など、政治に参加した市民たち、すなわち政治家や役人の公的責任を追及するシステム、本書で「公職者弾劾制度」と呼ぶ仕組みを複雑に整備していたのだと説明しています。

 つまり、民衆参加という政治のアマチュアリズムを貫くためには、その裏面として、政治、行政、司法に参加した市民の公的責任を、一般市民が苛烈なまでに追求できるシステムを必要としていたことになります。

 

 以上を踏まえ、アテネ民主政の歩みとはとの問いに、橋場は、次のとおり展望を与えようとしています。

 「 二つの原則は、おたがいに他を刺激しあう形で、当初からもつれあいな

  がらアテネの民主政をつき動かしていった。独裁者の出現を警戒し、政治

  指導者の責任を一般市民が監視しようとする動きは、同時に政治への民衆

  参加を拡げる役割をも果たすようになる。やがて民主化が進展し、市民の

  政治参加がある程度まで徹底するようになると、今度は政治に関与する市

  民たちの責任をさらに厳しくチェックするようなシステムが求められる。

  このようにアテネでは、「参加」と「責任」がたがいを高めあう形でラセ

  ン状に発達していったと見ることができる。」

 この概観には、第1章、第2章の前5世紀から、第3章をはさみ、第4章の<迷走するアテネ>を経て、第5章は前4世紀の<民主政の再生>へ向かうという、アテネ民主政全体に対する橋場の視点なり、評価というものが、「ラセン状」という言葉に集約され現れているといえます。

  アテネの全図(3地域(市域・海岸地域・内陸地域)の分割状況) [橋場の前掲書から]

 では、橋場が参加と責任のシステムであるとするアテネ民主政にかかる具体の仕組みを、できるだけポイントにしぼって紹介することにします。

 「参加の原則」を体現する、成人男子市民の政治参加の対象は、代表的なものとして、「民会」、「評議会」、前記の「民衆裁判所」そして「役人たち」があります。

 まずアテネの最高議決機関である「民会」のことです。市民はだれでも参加し発言することができました。定足数規定のような存在の有無ですが。前4世紀においては、特別に厳正を要する案件の決議には6000人の定足数が必要とされ、しかもその採決は審議事項が特別な場合、無記名秘密投票であったことが確認されているそうです。

 開催頻度は月4回、年40回であり、最も重要な審議事項は「軍事行動の決定をも含む外交問題」であったとされています。これに関して橋場が意外だと書いているのは、「通常の国家財政や経済・教育をめぐる政策には、民会がほとんどタッチしなかったことだ」というところです。議題は評議会が先議して上程することになっていたが、評議会から回付された議題を否決し、民会は独自の民会提案を可決することもありました。

 では開会当日、民会は日の出とともに始まり、たいてい正午まで終わっていたようです。従来は市民の実際の参加程度を消極的に評価する研究者が多かったけれど、最近の研究では、これまでに考えられていた以上に、アテネ市民の民会出席率は高かったと推定されています(プニュクスの丘の民会議場は190年の間に二度改修されその都度広くなっています)。この参加にとって大切な要素は、出席すると支給される民会手当が前403/402年直後に導入されたことであり、手当の額の引き上げも行われ、参加を後押ししていたのだそうです(こうした手当はペリクレスによる裁判員手当の制度化が始まりで、その後拡充されていきました)

 

 次に民会が昼頃に終わると、午後に開かれていた「評議会」のことです。民会議場のあるプニュクスの丘を下ったアゴラ(広場)には評議会・民衆裁判所・各種役人の詰め所などの公共建築物が集まっていました(20世紀の発掘により遺跡は日の目を見ることになりました)。

 評議会は、前記の民会への議題提出にとどまらず、行政の最高機関として強大かつ広範な権限をもち、特に財政業務全般を監督していました。評議会はほぼ毎日開かれており、「実質的な政府当局と呼べる」機能を有していたと、橋場は記しています。

 これを構成する評議員は、30歳以上の成人男子市民から、10部族(後でふれます)それぞれから50人ずつ抽選によって選ばれ(つまり全部で500人)、任期は1年で、二期以上連続して就任できない決まりでした(生涯に二度までは可能)。ただし、評議会がすべての社会階層から公平に構成されていたかについては疑問があって、橋場は「1年間ほぼ毎日評議会に通うための時間的・経済的余裕に恵まれていたのは、やはりある程度富裕な人々に限られていた」ようだと、最近の研究を引きながらコメントしています。

 当番評議員という仕組みがあり、そのなかから一人の筆頭が選ばれ、神殿・国庫の鍵、国家の印章の保管や、民会・評議会の議題の準備、招集、そして外国使節の応対なども担当したそうで、「中央政府の中枢機関」として機能したとのことです。だが、当番は1ヵ月交代でしたし、その筆頭は「たった一昼夜だけだった」としています。

 ここで「部族」の説明をしておきます。アテネは神奈川県より少し広いぐらいの面積ですが、私たちのイメージする市域だけでなく、海岸地域と内陸地域の合わせて3地域に分割され、それぞれが10等分されており、その単位はトリッテュスと呼ばれていました。その「トリッテュスを3地域から1つずつ選び出し、その3つを組み合わせたものを1つの部族とした」のです。前508年頃のクレイステネスの改革の際に、それまでの擬制的血縁原理による4部族制にかわって、こうした人為的な原理によって定められた部族なのです。つまり民主政のための人為的な部族ですから、「部族は評議員や役人の選出母体であったが、このような理由で、特定の地域や血族の利益代表集団になりえなかったのである」と、橋場は記しています。

 

 続く、「民衆裁判所」については、最初に佐藤先生の概説をまとめましたので、割愛しますが、一つだけ補足しておきます。

 裁判員(「青銅製の名札」を携帯していた)のプロフィルとして、異説もあるようですが、20世紀後半に遺物である裁判員の名札から身元を調査研究した結果、「裁判員のじつに3分の2ほどが下級市民で、残りが中・上流市民であった」ことがわかったといいます。市民の墓から副葬品としてその名札が多く出土しており(富裕層より一般庶民の方が多い)、死者の生前における価値観を反映するとし、橋場は次の感想を書きつけています。

 「 ソクラテスやプラトンにとって民衆裁判は軽侮ないし敵視の対象でしか

  なかったのだろうが、裁判員の過半数を占める庶民にとって、そこに参加

  することは、民主政を支える市民の生きがいであり、矜持であったの

  だ。」

 

 最後は「役人たち」のことです。「上は将軍・財務官から下は汚物の処理や行き倒れの死体取り片づけを監督するものまで、アテネの民主政最盛期には国内だけでも700人にものぼる役人が働いていたと伝えられる」と、伝アリストテレス『アテナイ人の国制』の記述から説明しています。

 橋場が強調しているのは、アテネの役人たちが、私たちの想像する「官僚」とまったく違うことであり、何より「一人の役人が握る権限を極小まで細分化してしまおう」というアテネ民主政の根幹にあった精神なのです。上位の将軍や財務官など選挙で選ばれる少数の役職をのぞけば、役人はすべて抽選によって選ばれ、「その任期は原則として1年、再任・重任は許されず、どんな職務でも複数(たいてい10人)からなる同僚団が担当した」とあります。つまり行政のエキスパート(今でいう「官僚」)が職業として数十年もの間支配の実務を担当するという方式に、「腐敗と専横」を生む土壌だとして、アテネ市民はそれを選択しなかったというわけです。

 橋場は、次のとおり括ったうえで、「参加の原則」の表裏である「責任の原則」、すなわち公職者弾劾制度の説明にとりかかっていきます。

 「 アテネ民主政は、一方で行政に参加する機会を一般市民に拡げながら、

  他方で役人が職権を乱用することに極度の警戒を怠らなかった。抽選・任

  期1年・同僚団制度は、未然にそのような事態を防止しようとした方策の

  一つである。だが、役人の専横を抑制するシステムはそれにとどまらな

  い。役人は就任してから任期の終わるまで、つねに市民団の厳しい監督下

  に置かれ、その責任を追及される立場にあった。」

 

 さて、橋場のいうところの「公職者弾劾制度」を紹介してみます。この役人や政治家などの公職者を責任を問うための制度は、定期的なものと、不定期なものに大別できます。

 まず定期的なものです。前5世紀末までにほぼ完成したというそのメカニズムは、「抽選であれ選挙であれ、およそ公的に選任された役人はすべて」、就任する前と途中の<資格審査>と、就任1年後の退任時に<執務審査>を受けていたのだそうです。

 橋場は具体的に想像して記述していますが、えーと思うようなもので、これは大変だなと、現在進行中なのですが、地域の自治会や護持会で役職を担当している私からすると、とても比べようもない精密とよんでいい責任追及のメカニズムなのです。

 <資格審査>は、一種の面接諮問であり、「9人のアルコンは評議会と民衆裁判所で、それ以下委の役人は民衆裁判所」で、それぞれ就任前に審査を受けていました。ポイントは、専門知識・技能・適性などではなく、「あくまで立派な市民かどうか」ということであったそうです。アテネ市民の共通の認識として、役を務める教養程度は身に付けていて当然ということであったのです。

 任期が始まっても「行為に不正や過怠がないか」チェックを受けます。毎月の主要民会ごとに信任を挙手採決で問われますし、民会が不正を指摘すれば、ただちに役職を罷免されたり、裁判にかけられる場合もありました。併せて、毎月、会計報告を評議会に提出し、検査を受けていたとあります。

 これだけではありません。「ようやく任期も終わりに近づく。しかしむしろここからが正念場だ」と、橋場はもっと厳密な審査である<執務審査>を説明しています。

 審査は二つの段階に分かれ、第一段階は「会計に関する審査」であり、第二段階は「会計業務以外の執務一般に関する審査」であったそうです。会計報告である執務報告は会計検査官(10人)に提出され、金銭上の不正行為の有無を審査され、その結果を含めて全員を民衆裁判所に送ることになります。法廷では会計検査官は不正行為を行った役人を訴追することになり、一般市民からの告発も受けつけたとあります。

 次の第二段階、執務一般については評議会のメンバーから選ばれた執務審査官が審査に当たります。そして、執務審査官は「日中の人出の多い時間帯に、アゴラの評議場まえに着席し、一般市民からの告発を受けつける」のであり、告発があれば民衆裁判所に回付するという手順であったそうです。有罪と決まれば、「軽くて罰金、重くて公民権喪失や財産没収」、さらに「売国罪のような罪が立証されればもより死刑を覚悟しなくてはいけない」という苛烈なものでした。

 

 こうした定期的な審査にとどまらず、不定期の方、「なかでも政権の中枢にある人物を容赦なく裁きの庭に引き出す」<弾劾裁判>という仕組みがありました。前述のとおりミルティアデスやペリクレスも免れえなかった裁判のことです。

 弾劾法で「〔閏臉転覆ないしその陰謀、売国罪、およびL渦颪簓承腸颪任瞭圧陳鶲銅圓亮賄」という、重大な国事犯に用いられました。重要なことは「役人だけでなく、政治や軍事に参加するあらゆる市民」がこの裁判の対象となったことだと、橋場は注意喚起しています。

 市民からの告発を受けて、民会は審判を民会か民衆裁判所のいずれで行うか等々の裁判を方向付ける決議を行ってから、審判は始められたのです。デンマークの歴史家ハンセンに依拠しつつ、橋場はミルティアデスやペリクレスだけでなく、やはり「将軍が失脚あるいは処刑される例がきわめて多い」のが特徴だと分析しています。

 なお、教科書で私たちが学んだ「陶片追放」について、橋場は罪を裁く訴訟でないこと、実際に事例も少なく前4世紀には事実上役割を終えていたことから、アテネ民主政において果たした役割は弾劾裁判の方がはるかに大きかったと断じています。

 

 手短にしておこうとアテネ民主政の仕組みの紹介を始めたのですが、本稿を読んでアウトラインが理解できるように思うと、やはり膨らんでしまったというほかありません。

 ここでひとまず句点を打ち、次稿では、私の記憶に残る教科書理解とは全く別の見方になりますが、ペロポネソス戦争後に迷走、混乱に陥った「アテネ民主政」の再生を中心に、現在の私、できれば私たちに、アテネ民主政が語りかけてくることを考えてみたいと思っています。

 暑さばかりでなく胸苦しい日々が続きますが、次へつなげていきましょう。

                                                                       【続く:(2・完)へ】

 

2019.08.11 Sunday

民主主義の後退という予兆のなかでー低投票率が語っていることー

 先の参議院議員選挙は、大方の予想のとおり低い投票率でした。48.80%と、前回(2016年)の選挙(54.70%)を5.90㌽下回り、過去最低だった1995年参院選の44.52%に次ぐ低水準だったことはご案内のとおりです。

 

 当ブログ(「「70歳問題」を忘れてー映画『マイ・ブックショップ』の味わいー」)の最後のところで、告示翌日(7月5日)の毎日新聞に掲載された内田樹さんの「「民主制に1票」を」という記事を引用し、国会の惨状に顔をそむけたくなる誘惑に抗して、投票することの意味を確かめました。

 すなわち内田さんは「民主制は政策決定に集団の全員が責任を引き受ける覚悟なしには成立しない」とし、投票を棄権するような「国民の比率がある割合を超えた時、その国の民主主義は終わる」とします。だから、「投票とは、国権の最高機関の威信に対し、1票を投じることでもある。「民主制に1票」を。」なんだということでした。

 この記事のべースとなった「参院選にあたって」というロングバージョンの文章が内田さんのブログ(「内田樹の研究室」)に掲載されています。その文中に、低投票率は現政権が意図して目指していることであるとして、次の補足説明を加えています。

 「 私たちが自分たちの代表を送る先である「国権の最高機関」が空洞化し

  ている。[中略]国会の不調について報道されればされるほど市民の立法府

  への敬意は傷つけられる。

   でも、それはまさに政権が目指していることなのである。[中略]

   そして、いまの政権が目指しているいるのは、まさに「国会なんか要ら

  ないじゃないか」という印象を有権者たちに刷り込むことなのである。

   そうすれば投票率が下がる。国民が国会に対する関心を失えば失うほ

  ど、集票組織をもつ与党が低投票率では「常勝」することになる。だか

  ら、政府与党の関心は「どうやって投票率を下げるか」に焦点化すること

  になる。」

 これに続いて、今回自民党が「改憲」を選挙の争点としたけれど、その内実は「日本がこんな状態になったのは、全部憲法のせいだ。憲法さえ変えればすべてはうまくいく」という「ストーリー」を国民に刷り込み、それによって自らの政治責任を免れようとしているのだと、内田さんは国民への<刷り込み>という表現を繰りかえし使って、現下の政治・選挙を手厳しく批評し、忍びよる民主主義の危機について説いています。

 

 結果、内田さんの意(願い)に反し、というより懸念していた予想のとおり、選挙は低投票率でした。さて、この50%ラインを下回った投票率をどうみるのか、ということです。

 内田さんの「その国の民主主主義が終わる」のは、前記の記事では投票を棄権する「国民の比率がある割合を超えた時」であり、一方、ブログでは、政治的無関心で「第三者づら」して「オレの知ったことじゃない」と広言するような「人間の比率がある閾値を超えたところで」と書いています。

 今回の参院選の結果に関し、私は寡聞にして、まだ内田さんの発言や文章に接していません。もともと内田さんの<ある割合>や<ある閾値>は具体的な数値ではなく比喩的に用いられたのでしょうが、半分以上の有権者が投票していないという事実を前に、内田さんの警鐘を鳴らす「民主主義の終わり」が、ますます深まった結果となったというほかないでしょう。

 

 ここで、今回の投票率で気づいたことをメモしておきます。

 地域的には、東高西低だったといえます。近畿2府4県を含む以西を「西」だとすると、都道府県単位で投票率が50%に達しなかったのは、「東」の24都道県中「12」、「西」の23府県中「17」と、東北を中心に激戦区が多かったということなのでしょうが、「東」より「西」の方の投票率の低さが目立っています。

 また、期日前投票者数は前回選より6.8%増加しており、全投票者数の約1/3が「期日前」で投票し、投票日「当日」に投票した数は2/3であったということにも、私は注目しています。「期日前投票」ができる投票所が増えたということが影響していますが、全体の投票率が低かったからだともいえるものの、投票方法を見直す余地があるということになるのかもしれません。

 新聞記事で知ったことですが、世代間の較差、とりわけ若い世代の投票率が顕著に低かったという問題です。4年前に選挙権が導入された18、19歳の投票率は31%にとどまり、全体より17㌽も低かったのです。初の国政選挙となった前回(2016年)の参院選と比べても15㌽も減っています。18歳は34%、19歳は28%まで落ち込んでいて、選挙の実施自体を知らない層の存在など、この後もずっと投票に行かない、棄権することが習慣化してしまう怖れが指摘されています。 

 一方で、80代の投票率が70代に比べて顕著に低い、特に女性の場合は、30㌽も低くなっているとのことです。「健康寿命」というわけのわからぬ言葉だけれど、厳然たる事実としての老いの現実とみることもできます。若年層とともに、こうした高齢化という問題、とりわけ1人暮らしの高齢者など「投票弱者」問題の深刻さも忘れてはならないでしょう。

 

 正直に告白すれば、今回の選挙から、何を読み取るのか、あまりの予想通りの結果に、いつも以上に私自身は無気力になっています。それこそ内田さんのいう政権の思う壺状態だということができます。

 だから毎日新聞の関連記事ぐらいしか読んでいないのですが、その中で毎日新聞の「月刊時論フォーラム」(2019年7月25日付朝刊)から、吉田徹北海道大学教授の問題提起的な論考をみておくことにします。この「[参院選与党勝利] 民主主義衰退の予兆?」とタイトルされた記事は、今回の選挙結果を、世界的な民主主義の退潮の中に位置づけてみようとしたもので、無気力・無反応を決め込もうとしていた私も刺激を受けました。理解度の不足を感じつつではありますが、メモしておくことにしたいのです。

 吉田教授の寄稿文は、先の参院選は「大きな変化がもたらされることはなかった」が、「より長いスパンでみた時、この選挙は大きな意味を持つ可能性がある」という<予兆>の存在が基調となって展開されます。

 

 「今日の民主主義の後退は、選挙によって始まるのだ」という、レビツキー/ジプラット著『民主主義の死に方』(2018年刊/新潮社)の言葉を、まず吉田教授は引用します。そのうえで、同書が古今東西の事例の集積と分析に基づき(もとよりトランプ大統領の誕生を多分に意識しつつ)、「民主主義が瓦解させられる場合の幾つかの共通項」を抽出しており、この紹介から始めます。

 その共通項とは、)ー更垉ヾ悗簔羆銀行といった中立的機関の機能を、とりわけ人事権を行使して、党派化する、▲瓮妊アへの圧力や文化人を巻き込み、反対勢力をけん制する、政権が有利になるようなルール変更、とりわけ選挙制度が改編させられる、そして最後い脇盂阿隆躓,鬚△ることによって、求心力を高める、と整理されているそうです。そして、これらによって、「権力行使を制限する「柔らかいガードレール」が乗り越えられ、民主主義は死んでゆく」と、米国の二人の政治学者は分析しているとのことです。

 以上の紹介を踏まえ、吉田教授は、「過去6年半の間に、日本の民主主義がここに接近していっているようにみえるのは偶然であろうか」と、前記~い砲弔い洞饌領磴鮠椶靴あげながら、日本もまさに例外ではないことを説得的に記述します。例えば、国政選挙の直前に内外の危機をあおってきた事実い箸靴董16年の参院選は「「リーマン・ショック時」との比較を持ち出して世界的な経済危機が迫っている」、17年の衆院解散では「少子高齢化と北朝鮮という脅威という「国難」を突破する」、そして今回19年の参院選ではトランプ大統領のもとで「アメリカの対中貿易戦争を模倣したかにみえる、韓国に対する事実上の貿易制限措置」(吉田教授は「歴史問題を出所とする反韓国内世論を利用した政策ゆえ、より性質が悪い」と評価)だったことを指摘しています。こんな16、17年というごく最近の「危機のあおり立て」も、私たちはわすれがちです。

 

 かくして、『民主主義の死に方』での分析結果(日本についてはふれられていない)が、現在の日本に「偶然の一致と思えない」ほど合致していることを確認したうえで、次のとおり、ことわりを入れつつ、結論へと導いています。

 「 もちろん、民主主義が死にかけているとされるロシアやハンガリーやト

  ルコなどと日本を同列に扱う必要はない。記者が暗殺され、野党政治家が

  投獄され、司法の政治化が行われている事態と日本のそれは、スケールを

  大きく異にするのは確かだ。」

 吉田教授は、「そうであればこそ、事態は一層深刻といえる」とし、次の文章へと続けて締めくくっています。

 「 なぜなら、こうした民主主義の衰退や後退は、日本一国や安倍自民党と

  いう特定政権に固有の問題ではなく、世界的な民主主義の退潮の波を日本

  が後追いしているかもしれないことを指し示しているからだ。低投票率に

  加え、その意味でも、この参院選は象徴的と言える。」

 「かもしれない」と慎重な言葉使いではありますが、日本政治の現状認識は内田樹さんと重なっていますし、それに加え、世界的な動向を後追いしている日本の姿、つまりわが国の現状が民主主義の殺し方において先例(共通項)に不思議なほど一致していることを、この<時論>は説得的に展開しています。

 

 この『民主主義の死に方』という本を、私は読んでいないのですが、少しだけ書評を調べてみると、同書では「独裁主義的な行動を示す4つのポイント」を抽出していると紹介されています。もちろんその傾向は事前に検知しにくいからこそ問題が大きいのでしょうが、独裁者の卵を見分けるための<リトマス試験紙>となるポイントというものは、次の4項目だそうです。

 「⒈ ゲームの民主主義的ルールを拒否(あるいは軽視)する

  ⒉ 政治的な対立相手の正当性を否定する

  ⒊ 暴力を許容・促進する

  ⒋ 対立相手(メディアを含む)の市民的自由を率先して奪おうとする 」

 こうした予備軍たる「独裁者的候補者を排除するための責任は、有権者ではなく、民主主義の門番たる政党とその指導者にある」と指摘しているそうです。だが、この機能が失われているのが、今の世界であり、一見「より民主的なプロセスがトランプを大統領候補者にした」と説明しているとのことです。

 こんなこと日本は関係ないと言い切れるでしょうか。私にはこんな見方を否定できそうにありません。すなわち、いわゆる先進国と呼ばれていた国家においても、かつて民主主義の「柔らかいハードル」として機能していた「相互的寛容と組織的自制心という2つの規範」が放棄されつつあります。

 そして、独裁的、権威主義的国家の力の行使を表面的に批判しつつも、その誘惑に引っ張られるように、というより追随するように、先進諸国においても、<分断と排他と不寛容>が大手を振って闊歩するようになったのが、今の日本を含む世界の現状なのだと、私は悲観的に受けとめざるをえないのです。私たちの前には、<寛容と自制心>というものを、無自覚に、あるいは自覚的に、喪失ないし放棄した世界が広がりつつあると思われませんか。

 いずれにしても、今回の低投票率という現実は私たちに危険信号のシグナルを送っています。

 

 こうした先進諸国における民主主義の問題状況に関係するので、もう一つ、新聞記事(『毎日新聞』「激動の世界を読む」2019年8月8日朝刊)を紹介しておきます。遠藤乾北海道大学教授が「英国の分断が招く危機」のタイトルで、「機会主義者」であるボリス・ジョンソン首相の就任について論じています。

 先に先進国と呼ばれてきた国家においても「相互的寛容と組織的自制心」が失われつつあるとしましたが、議会制民主主義の母国的な英国においても無関係ではないと、遠藤教授は強調しています。ジョンソン首相は就任直後から「過剰な楽天主義と敵がい心に満ちて」おり、敵とは「内にあって英国を覆う敗北主義者」、外はもちろん「EU」であり、「敵と味方という熾烈な二分法」に基づき「チキンゲームをひた走る」という様相だと伝えています。

 遠藤教授は「議会制民主主義では、直接選挙で選ぶ大統領制と比べ、民意を間接的に媒介するゆえ、政治が穏健化する」というなつかしい教科書的な命題が、英国でも通用しなくなっているというのです。それは英国で20年以上続くEUをめぐる原理的対立が、政党からの立候補段階にも反映し、とりわけ保守党では政治家としての質を問わずに<親EU>的な候補者をはじき出す地域も多くあって、複雑な政治に対応していくべき政治家、議員の質を劣化させてきたのだと、遠藤教授は分析しています。

 このように「社会の根っこが両極化し、宗教対立のような様相」を呈すると、「間接民主制でも媒介しきれず、直接噴出する」ことを示しているとし、遠藤教授は、次のとおり結んでいます。

 「 これは、単なる一例ではない。長らく議会制民主主義の母国として尊敬

  された英国においてでさえ起きた出来事である。その意味で、重要な含意

  を持つ。すなわち、社会の根っこが劣化すれば、制度工学では抑えられ

  ず、国際関係にも直接響くということだ。」

 そう、日本もまた<議会制民主主義>と呼ばれる制度の下にある国家です。

 

 それにしても、1989年のベルリンの壁崩壊からの激動期に、短期的な混乱は避けられないだろうけれど、中長期的には明るい希望と展望、<民主主義の拡大と進展>を幻視していたときから30年、現在、私たちが生きている世界は民主主義の底が抜けてしまったのではないかと胸塞がれる出来事が次々と報じられています。

 どうしてこうなっているのか。どのような要因によって今の世界の変化が形づくられているのか。その根っこには何があるのか。こうした現代にあって、「民主主義」の価値とありようについて再定義・再確認が求められているのではないか。「国民主権」の可視化はどうすれば可能なのか。こんな問いの前に立ちすくんでいるのが、今の私であり、あなたなのでしょう。

 

 当ブログにおいて<現代社会>というカテゴリーがありますが、少しだけ読み直してみても、今回と同じ問題意識をもって書いている文章ばかりが並んでいます。カナリアというより、同じ音しか発声できないオームのようなものです。そのなかで、なんとか本丸に迫ろうとしているものの、中途で放棄してしまった原稿の山のようだと感じてしまいます。

 それでも、もし読んでみてやろうという奇特な方がおられるなら、二つの文章を紹介しておきたいと思います。

 一つは、この30年来の<社会と世界の変化>をどう理解すべきかという問いには、昨年10月21日にアップした「起点となることを願ってー「平成という時代」への視線ー(1)」という記事の「<変化>のとらえ方ーポスト工業化社会の変化の実相ー」という項が、日本を対象とする分析が中心であるものの、ひとつの形をなしているかもしれません。

 なお、この記事は(1)なのですが、今になっても(2)以降を書き継ぐことができないまま、現在に至っているのです。

 もう一つは、民主主義と、これをとりまく現状の背景をどう理解すべきかという問いには、本年1月26日にアップした「「欲望」の時代を生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』ー(2・完)」という記事の最後「【補論】「民主主義」についてのMの考え方」が、世界的な視野からの民主主義論を紹介できているかもしれません。

 なお、この記事の中で、宇野重規東大教授の「民主主義の後退」という朝日新聞への寄稿を紹介していますが、宇野教授は吉田教授と同様、『民主主義の死に方』を取り上げています。今年になってから自分で書いたものなのに、すっかり忘れていました。

 

 さて、この記事は、助走であり、これで終えたいと思っていましたが、昨日の『毎日新聞』の夕刊に「参院選後の日本に心を痛める」とのタイトルを附された河野洋平元衆院議長へのインタビュー記事が掲載されていました。

 河野議長は、今回の低投票率に「あの選挙で私が感じたのは、この選挙結果で議会制民主主義を続けられるのか、という危機感です」と述べています。投票率について、第2次安倍政権下で国政選挙が5回あったが、4回は50%台の前半、そして今回の48%と、「それほど政治と国民が乖離してしまっているです」と指摘しています。

 「『民主主義は最悪だ。これまで試みられた他の全ての政治体制を除けば』」という言葉を使いつつ、トランプ大統領の言動を例に、「世界的な民主主義の危機」とともに、「日本でも、国民が民主主義について疑念を持っていることは明らかです」との現状認識を語っています。「かといって、違う体制が良いとは思わない」ので、「だから民主主義を立て直すしかないのですが……」、そして「もう与党も野党もない。一致して、民主主義の危機に立ち向かい、政治と国民をどう近づけるか、知恵を出し合う時です」と強調しており、危機感の深さがあらわれていたとあります。 

 

 得意の堂々巡りになってしまいました。

 本稿では、今回の低投票率を、わが国の「民主主義の危機」として、それも「世界的な民主主義の危機」とも連動ないし追随したものとして受けとめる識者(私には信頼すべき人なのです)もいるのだということを確認しておきたかったのです。もちろん、私もまた、そう思っているわけです。『壊れ物としての人間』というタイトルの評論集がありましたが、「民主主義」に限らず、壊すことは簡単だけれど、作り直すことは容易なことではないという、この世界の基本原則に立つしかありません。

 猛暑の日々が続くなか、「民主主義の危機」、そんなことなど、どうでもよい、とにかく世界は勝ち負けなんだという価値観をよしとしない、そんなことに同調することができない、わが国の、そして世界中の心ある人びとに、この片隅から連帯のメッセージをおくりたいという気分です。

  夏の日差しの中で(神戸大学構内の馬場) [2019.8.2撮影]

 

 

2019.01.26 Saturday

「欲望」の時代に生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の視点からー(2・完)

 先週は、インフルエンザに罹患していました。松の内を過ぎたころからずっと体調に違和感がありましたが(それでも歩いていました)、10日ぐらいを経て、久しぶりに発熱し、インフルと分かったのです。最近は鼻穴に検査棒を突っ込むことでインフルとの診断が容易になったせいでもあるのか、インフルと言われたのは何年ぶりのことでしょう。

 しばらくMの言葉に接近しようともがいていたからではないかと思ったりしましたが、まさかそんなことは関係ないでしょう。

 

🔹M流の「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」(その2)

 前稿[(1)]は生煮えのままアップしてしまいました。それは私の限界ということで、とにかく書き継ぐことにしましょう。

 前稿はNHK出版新書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の蕎蓮哲学は時代との格闘だーガブリエルの「戦後哲学史」講座」を紹介しようとして、「🔹M流の「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」」に着手しました。「◍戦後哲学の3潮流とその限界」において「実存主義」「構造主義」「ポスト構造主義」へ向けたMの批評を紹介し、続く「◍ポストモダニズムとネオリベラリズム」では現在の社会、世界とまっすぐにつながるこうした思潮と、私たちが眼前にしている世界との関係についてふれました。

 これらを(その1)として前半とし、Mの「新実在論」とは何かというところから、後半の(その2)を再開します。

 

◍相対主義を越えてー「新実在論」へー

 現代哲学で「新実在論」と呼ばれる新たな潮流が生まれた契機について、Mは次のとおり語っています。

 「 哲学において、私が代表する「新実在論」を生むことになった大きな

  きっかけは、おそらく2001年と、そして2008年にあると思う。2008年

  の経済危機、その原因は、2001年の同時多発テロ、世界的なテロの始ま

  りともつながっている。

   これが、今僕たちが立っているところだ。僕たちはこの経済体制そして

  自由民主主義という概念自体の両方が陥った深刻な危機の余波を受けてい

  るんだ。」

 1989年のベルリンの壁崩壊からソ連邦の解体と続く戦後全体の地殻変動に伴い生じた新たなる希望を決定的に打ち破ることになったのが、このような21世紀初頭の大きな出来事です。こうした深刻な破綻を経験した現代世界を、哲学として正面から根元で受けとめるために、「新実在論」は前記したとおり「ある種の現実離れを起こしてしまうことになる」ポストモダンの相対主義を批判するところから登場してきたのです。

 

 では、「新実在論」とはどのようなものか、千葉雅也立命館大学准教授の力を借りましょう。

 千葉は、Mの『なぜ世界は存在しないのか』の翻訳版が刊行された機会に「新実在論」についてコメントしています(「半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考」2018.2.11)。この中で、今日の大陸哲学では「実在論ブーム」が広く巻き起こっているとしたうえで、「ガブリエルのいわんとすることの本体は、「本質主義vs相対主義」という対立から抜け出す第三の道を開くことである」と表現しています。

 そして、千葉は一例をあげて説明しています。富士山を、同時にAとBが見ているという場面です。

 本質主義によれば、富士山が唯一の存在であり、AとBそれぞれの視点における富士山は実在的ではなく、自然科学の立場で富士山の物質的・数理的に説明され、それだけが真であるということになります。

 これに対し、相対主義によれば、AとBそれぞれの視点における富士山がそれぞれあるだけであり、我々が問題にできるのはその主観的な構築による富士山だけで、実在的な富士山にはアクセスできないということになるのです。

 第三の道であるMの実在論では、AとBそれぞれの視点における富士山があるのは確かだが、物事の実在はそもそも特定の「意味」の場と切り離すことができず、それぞれが実在的なのだということになります。千葉は、Mの結論を次のとおり記述しています。

 「 以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」というのが「意味の

  場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している。富士山自体は

  どうかと言うと、諸々の実在的な見方の交差のことなのであるー「意味の

  場」から完全に孤立しているような富士山「自体」は考えようもない。」

 私などは煙に巻かれたような、それがどうしたと言いたくなってしまうのですが、もう一人、岡本裕一朗玉川大教授がMの「新実在論」を紹介している文章(「現代思想の新たな「天才」ーマルクス・ガブリエルの「新実在論」とは何か?」2016.9.16)をみておきます。 

 岡本は、千葉の「富士山」を「ベスビオス山」として、千葉の本質主義を「古い実在論」、相対主義を「構築主義」として記述し、「ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考えるのです」と理解しています。そして「精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向を批判」しつつ、「ガブリエルの「新実在論」は原理的な次元から再考しようとしている」のだと結論づけています。

 まだすっきりしませんが、Mの「新実在論」は、千葉の言う「本質主義vs相対主義」の対立、岡本の言う「古い実在論」と「構築主義」の対立を越えた第三の道を模索するものであることは、ちょっと分かったということにしておきましょう。そして、千葉は、次のように締めくくっています。

 「 見方はいろいろだという相対主義ならばまだ「認識論的」だったわけだ

  が、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底している、そんな

  バカなことがあるか!と。さて、日本ではどういう議論が起こるだろう?

   ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの

  特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味にお

  いて、それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示していると言えるかもしれ

  ない。」

 「ポスト真実のポストモダンレベル」という新しいステージに達した現代の世界を前に、「事実」「現実」というものも、さらにいえば「価値」というものも、「すべてほかの意見と同じぐらい良いものである」という概念を支持する相対主義の限界を受けて、Mの「新実在論」は登場してきたというのが、現在の思想状況と理解しておいていいのかもしれません。

 蕎呂遼粗で、Mは「最も深刻で今大事な問題は、事実とその表現、つまりそうした事実とイメージの落差にまつわるものだ」に応えないと、「哲学自体が現実離れしてしまう」と語っていましたが、まさに「新実在論」はこの最も哲学的な問いに応えようとする考え方であるということになるのでしょう。

 

 ここでたとえ回りくどくても、Mが「ポスト真実のポストモダンレベルに達した」ことの意味をどう説明しているのかをみておくことにします。

 新書蕎呂痢4 ポストモダンとは何か」 の最後に、金正恩とトランプとのシンガポール会談を例にあげ、SF映画のように超現実的に見えるが、つまりコンピーター・シュミレーションの中にいるような現実に思えないような感覚を受けるが、そうではないのだ、現実なんだと、Mは強調し、次のように語っています。

 「 何が起こっているかというと、まさに現実の階層の根本的な変化なん

  だ。だがそのようには見えない。なぜなら僕らは今、ポスト真実のポスト

  モダンレベルに達したからだ。

   僕がどのようにこの大きな世界のポスト真実というものを見るか説明し

  よう。インターネットの時代では、どうやらニュースを信じることができ

  ないらしい。多くのフェイクニュース、ヘイトスピーチ、そして現実の不

  当な、虚偽の描写がある。(中略)

   彼らは(㊟トランプたち)、僕らがすべてデジタルであるコンピューター

  ・シュミレーションの中で生きていると考えてしまう事実を利用してい

  る。彼らはこの思い込みの事実を僕らに対して利用しているんだ。」

 なかなか身に詰まされる批評です(私にもそのとおりだという感覚があるということです)。このような「現実」、すなわち「ポスト真実」を前に、どう対抗しなければならないかというのが、Mの命題なんだと、私は理解しました。

 

 さて、蕎呂虜埜紊旅燹5 新実在論へ」で、Mが論じていることを紹介しておきます。

 Mは、「新実在論」の立脚点から、相対主義の根幹にある「道徳的相対主義」を批判的に検討し、「僕らは道徳的事象に、選択肢など一般的に持たない」とし、「絶対的な道徳的事実が存在する」という事実を証明してみせています。相対主義に強く異議を唱えているのです。

 まず、「相対主義」という概念を取り上げ、「これが道徳的、社会的そして政治的領域で何を意味するのか、想像してほしい」から議論をスタートします。「意見の相違があるなら、僕らは通常、誰かが正しいに違いないと考える」が、相対主義は、そうではなく「ものごとの事実などない」と論じるものだとし、その例として、道徳的相対主義を説明しようとします。

 道徳的相対主義とは、「様々な道徳観があるという概念」であり、「あなたの数えたいだけの道徳観」があることになります。西洋の道徳観には普遍的な人権を信じているとの説明があるが、道徳的相対主義によれば、「実際には普遍的な人権などない」と論じられてしまい、「これらの道徳観の善悪を決する基準などない」ということになってしまいます。もし道徳観が好みの問題になってしまうならば、「正義などなく、あるのは征服だけである」と結論せざるをえなくなるとし、「ポストモダンで筋金入りの道徳的相対主義」のひとつの景色を、次のとおり表現しています。

 「 すべての政治的状況は違う道徳観からなり、お互いとぶつかり合い、西

  洋の道徳観に対してロシアの道徳観、カナダの道徳観に対してアメリカの

  道徳観など、異なるそれぞれの道徳観がぶつかり合っている。だから、社

  会的現実においてはー真実がなければー純粋な闘いが生じる。それがドナ

  ルド・トランプの世界観だ。結局のところ、正義などなく、あるのは征服

  だけだ。それが彼のビジネスモデルだ。」

 Mは反論に出ます。「相対主義は一般的に、真実ではありえない」、「もし相対主義それ自身が相対主義に対して相対的であるなら、それを信じる理由などまったくない、というわけだ」としつつ、道徳として、「子どもを拷問していいか」というシンプルな例をあげて反論するのです。「僕は、絶対的大多数の人間」が「「NO」と答えるだろうと説く」としたうえで、それは「「子どもを拷問するべきでない」といったような絶対的な道徳的事実があるということを直ちに証明する」とします。だから、この事実から、「絶対的な道徳的事実が存在するということ、道徳的相対主義は正しくないということがわかる」と論じています。具体の内容として次の例をあげています。

 「 子供を拷問するな。最低な両親でなければ、親を尊べ。嫌なヤツじゃな

  ければ、隣人にはよく接しろ。多くの事実がある。明らかな道徳的事実

  が、今提示したとても単純なものたちだ。人を殺すな。だから、これらの

  道徳的事実がある。」

 こうした証明こそ、Mは道徳的事実に対する「僕の答え」であり、「「新実在論」による、僕らの時代における重要な問いへの全般的な答え」だと説明しています。さらに、次の追加的な説明を加えます。

 「 道徳的事実は、他人の立場になって考えてみた時にわかる類のものだ。

  あなたが何かしたいことを想像してみてくれ。そしてこの場合の道徳的疑

  問は、「私はほかの人にそれをしてもらいたいと思うだろうか?」という

  ことだ。」

 だから「あなたは相手の立場から道徳的事実の意味を理解するんだ」、あなたが相手の立場に立つことによって「あなたが何をすべきか導き出すことができる。あなたがいる状況の道徳的事実によってだ」というのです。つまり「ポスト真実」の世界を前に対抗していくためには、ポストモダン的な相対主義を乗り越え、普遍性を追求していくことが不可欠だと、Mは哲学的な立場を明示しています。

 ふーん、そうだろうね、それでということになりますが、この道徳的事実の例も用いつつ、「じゃあ、何ができるのか?」について、Mは「今あなたに理解してほしい哲学的な結論」へと導いていきます。そして、そこに「ポスト真実」の現代社会、現代世界に抗する「新実在論」の哲学的な存在理由を見出しているのです。

 

◍「本当の事実」を見つけ出すためにはー「ポスト真実」の世界に抗してー

 前項の道徳的事実に立つために、必要なこと、大切なこととは何かについて、Mは「知識と科学」とともに、これに関連して「自分の「知る能力」を疑ってならない」ことだと強調しています。

 まず「知識と科学」から行きましょう。「理性的な人であれば、テーブルにすべての事実を議題に上げれば、あなたに異を唱えはしない。あなたが完全に状況を説明すれば、何をすべきかをも知ることができる」とし、「この知識がとても重要な理由」であり、だから、「知識と科学は道徳観を形成する上で絶対的に重要だ」というわけです。

 ここでは「精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向」を厳しく批判するMが、「知識と科学」の必要性を強調していることに注意しましょう。つまり「もし僕らが知識と科学を攻撃すれば、それにしたがって僕らは人間が道徳的になることを不可能に、またはより難しくしてしまうだろう」とし、次のとおり、現在、私たちが眼前にしていることと、Mは結びつけて説明しています。

 「 だから、現代の権威主義的人物が科学を攻撃することは、偶然ではない

  んだ。トランプのような気候変動を否定する人々は、実際の知識を疑うた

  めに科学的専門家を攻撃する。これを次の構造にまとめることができる。

   ポストモダンの独裁者ー僕らの時代の多く残念な反民主主義者、ポスト

  モダンの悪しき利用を目論む反啓蒙活動家ーには、次の計画がある。

   彼らはあなたを、あなたが知っていることを、本当は知らないと信じさ

  せたいんだ。それは新しいレベルの厄介な計画だ。」

 続けて「政治の仕組みがあなたに、「現実を知らない」ということを信じさせる。彼らは、あなたに二つの手があるとということを疑わせるように仕向ける」、つまり「疑わせる」や「知ることはできないと思わせる」のだというのです。こうして「あなた自身の知る能力を疑うということ」は、次の結果をもたらすと語っています。

 「 もしあなたが知る能力を自ら攻撃するようになれば、それに従ってあな

  たはあなた自身の道徳観を疑うようになるだろう。なぜなら道徳観は、僕

  らの知る能力の実践だからだ。だから、もしあなたが現実を知ることは不

  可能か、または難しいと考えるなら、それに従ってあなたは直ちに、道徳

  観を理解することも難しいと考えるようになるだろう。」

 そしてこれは「道徳的間違いを犯す可能性を高める」と、Mは警告しています。ポスト真実の危機に直面する私たちは、「真実」「事実」を究明するための「知識と科学」が不可欠と考えるのです。

 

 前稿で特記したように、Mは今は深い危機であり、そのためには「今何が起こっているかを理解する必要が大いにある」と強調していますが、それが理解できなければ、「僕らはおそらくこちらに向かってくるものさえ見えない力によって破壊されてしまうだろう」と続けています。だから「今こそ公的な領域で哲学が必要とされる時だ」としているのです。

 Mは、「僕が今あなたに理解してほしい哲学的な結論」をおおまかに言えばと、次の長いコメントを語っています。長くなりますが、そのまま引用しておくことにします。

  僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合

  わせはじめなければならない。経済的事実、宇宙に関する事実、そして道

  徳的事実。もし僕らが、何が事実か、何が明らかな事実かを知りさえもし

  なければ、民主主義の出番など絶対にないだろう。なぜなら民主主義と

  は、乱暴に要約すれば、僕が「明白な事実の政治」と呼ぶものに基づくも

  のだからだ。それこそが守るべき価値だ。民主主義は人々が実際に知って

  いることを集め、僕らが知っている点と点を結び、現実の系統的解釈を考

  え出す。そして現実の傾倒的解釈の上にのみ、つまり時に「現実がどのよ

  うなものかを知ることができない」という幻想を乗り越える解釈、この基

  礎の上にのみ、僕らの時代における大いなる疑問に答えはじめることがで

  きる。

 この真っ当な「哲学的な結論」を、架空の産物、理想上の産物として排することは、現下の「幻想の政治」に加担することになることでしょう。

  「今 何が起きているか 私たちは理解しなくてはならない」

       『欲望の時代の哲学ーマルクス・ガブリエル 日本を行くー』(NHKBS1/2018年7月15日放送)以下同じ

  「私たちがどこに立っているか? 知るためにね」

 そして、「ポスト真実の危機に直面した時」、答えは明白で「真実をもう一度試すことはどうだろう?」と勧め、そのためには、「僕と君は根本的には同じだ」、すなわち「現実と道徳的事実がどのようなものを知る能力を持つ人間であり、動物だ」としたうえで、次のように結んでいます。

 「 人間であり動物であることの合理性に関するこの洞察を、僕らの教育シ

  ステムに組み込むことが重要だ。そうしてようやく、僕らが絶えず直面す

  る嘘やフェイクニュースを疑い始めることができる。

   そして哲学はこれを手助けできる。なぜなら哲学の義務はイマヌエル・

  カントがすでに18世紀に古代ローマの詩人、ホラティウスの言葉を

  して、言った通りだからだ。

   Sapere Audeすなわち、知恵を持つことに勇気を持て!」

 Mは、道徳的事実を含めた事実の存在、その事実の普遍性、「同じ種の動物だから、僕らの間に深い違いなどない、地域的な文化の違いはあっても、深い違いはない」との理解に立って、「真実は理解できると仮定して、実際に何が起こっているかを理解しはじめること」を、私たちに求めているといえます。

  「「ポスト真実」ではなく 「モア真実」だと思います」

🔹【補論】「民主主義」についてのMの考え方

 今朝(1月26日)の朝日新聞に、宇野重規東大教授が「民主主義の後退」というタイトルで寄稿しています。この小論で、宇野は、独裁的指導者たちはもとより、民主主義を担うとされてきた米国、イギリスそしてフランスでも脆弱化が著しく、「民主主義ははたして大丈夫か」という疑念が増大する中、その背景や原因を論考する三冊の本を紹介しています。

 小見出し3つとともに簡単に紹介しておくと、最初の「寛容と自制心の規範ゆらぐ」では、「選挙で選ばれた政治家が、民主主義の制度を使って、徐々に、さりげなく民主主義を「殺す」事態こそが問題」で、「民主主義を支える「柔らかいガードレール」」が失われつつあると指摘する『民主主義の死に方』に言及しています。二つ目は「弱まる中産階級」で、「中産階級が現代のグローバリズムの下で弱体化し、民主主義が硬直化して変化に対応できていない」という現状分析を展開した『政治の衰退 フランス革命から民主主義の未来へ』を紹介します。そして三つ目の「多様性を阻むIT」では、「人が自らの好む情報にばかり接していることに危機感」を持ち、民主主義にとって重要な「熟議を通じて自らの考えを修正していく」条件が失われるばかりであることに警鐘を鳴らす『♯リパブリック』にもふれています。

 そして、宇野は小論を、次の文章で結んでいます。

 「 日本にとっても他人事ではない。日本政治に「相互的寛容」と「自制

  心」が見られるか。民主的説明責任が十分にはたされているか。同じよう

  な意見ばかりで集まっていないか。年初にあたって真剣に自問すべきであ

  ろう。」

 

 こうした宇野の小論とも深いところで共鳴しているように感じるMの「民主主義」論のさわりだけを紹介しておくことにします。

 NHKTVで、Mは「民主主義は情報処理の特定の形なのです。民主主義とは、一つの制度であり、同時に人間の行動を組織化する方法です。それ以上でも、それ以下でもありません。それが、民主主義です」と定義しました。

 新書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の犠呂砲いて、Mは民主主義には二つの層があると語っています。一つは、前記の定義から直接導かれる「誰もが法律の支配下にある。政治家も、国家元首も。全員が法律の支配下にある。それが、民主主義の現代のイデアだ」という社会の骨組みなんだというのです。そして、次のとおり追加的に説明しています。

 「 民主主義的な官僚制度は、選択的で人々が決めることができないという

  意味においては、民主的ではない。

   人々は、社会の仕組みを法律の支配下に置きたいと決めた。ただ、法律

  は、それ以外には人々とは何ら関係がない。それが民主主義の一つの層

  だ。」

 でも、これだけでなく民主主義にはもう一つ層があって、「価値制度、価値の体系」だと、Mは語っているのです。その価値の基本的な考え方は、「「自由」、「平等」と、「連帯」の骨組み」だとします。当然の発言になりますが、「連帯」についてだけ補足しておきましょう。たとえば、税金の負担に基盤をおく「福祉の概念」があるが、公共のための負担、それでよいと考える、それが「連帯」を意味することだと説明し、次のとおり確認します。

 「 「連帯」とは、僕がそれに同意するという意味だ。誰かが取るべきでな

  いものを取り上げていくのではなくてね。僕はこれが全部欲しい!なんで

  奴らは取り上げられるんだ?というのは、民主主義で共有される考え方で

  はない。だから、こうしたことに納得できることが民主主義の倫理の根本

  にある基盤だ。」

 この「連帯」は、「自由」「平等」のもとで、宇野のいう「寛容と自制心の規範」と、共通の基盤をもつもののように感じています。

 

 滞日中に、Mは哲学者の國分功一郎東工大教授と、「今、民主主義に何が期待できるのか」をテーマに、公開対談を行っています。

 Mの基調講演のタイトルは「危機に瀕する民主主義」でした。前記の民主主義の価値の本質を説明したうえで、「現在実施されている制度との間にある距離、隔たり」から民主主義の危機が生れているのだと、Mは語っています。ここでは、現代の民主主義の危機として、二つの大きな問題があると指摘します。一つは「真理と知についての危機」であり、二つは「不平等という問題」です。これまで紹介してきたMの発言とまっすぐにつながるものといえます。

 一言だけMの説明の言葉を補足すると、前者は「ポストトゥルースと呼ばれる事態」のことで「民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態」にあり、「きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要だ」ということであり、後者は「現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっている」ということだと語っています。

 

 二人の対談から、一つの問題「国民国家と民主主義の関係」に限定して紹介します。

 「民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれない」とMが発言している問題です。私たちが現在直面している問題、気候変動や経済的な格差という問題はグローバルな性格を持っており、国民国家だけで解決できないからだというわけです。つまり「私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう」と語っています。そして、カントの発想を紹介しながら、次のとおり発言しています。

 「 国民国家を超えて民主主義が拡張されてなくてはならないという発想

  は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主

  主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性と

  いう原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づか

  ない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になって

  しまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実

  現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。」

 最後に、この対談を通じた感想として、國分は、「ガブリエル氏が民主主義を論じる中で強調したのは点は二つある。価値と知識である」と書いています。「価値」の中でもとりわけ強調したのが「平等」であり、この価値の根拠を「事実」と述べたところに注目し、Mの議論は「「事実」「価値」「権利」がある意味で等号で結ばれている」と指摘しています。一方、Mの強調した「知識」とは「民主主義の中で様々な論点を議論していくために絶対に必要な条件のことを指している」とし、公聴会をはじめとする幅広い知識を共有できる場を作っていくべきというMの意見にも賛同しています。

 

 無駄かなと思いつつ、この【補論】を書いたのですが、民主主義をめぐるMの議論は、Mの「今あなたに理解してほしい哲学的な結論」を理解するための補足となったのではないかと考えています。

 

🔹おわりにー「5つの問題」に向かってー

 不全感の残る紹介となりました。それは主にMの「新実在論」とMの「哲学的な結論」の関係が、私の中でなおクリアな状態でないままで書いたことの反映なのでしょう。

 されどといいたいのですが、Mの「哲学的な結論」、それを導く現代の社会、世界をみる視点、着眼点には、もともと私にあったイメージをより明確する方向で作用してくれたという実感をもっています。だから、こんなくどいノートになったと思ってくださればと願っています。

 

 前出の岡本裕一郎玉川大教授は、現代において哲学者が取り組んでいる「5つの問題」があると整理しています。「(1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?/(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?/(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?/(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?/(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっていくか?」というものです。

 哲学者であるMは、こうした「5つの問題」を含め現代という時代と格闘する中で、ポストモダンの哲学を批判的に検証することで普遍的原理である「新実在論」に到達したのではないかと、その当否を批評する能力はないけれど、その点におけるMの誠実性について疑うことができません。

 前記の写真のキャプション、「今 何が起きているか 私たちは理解しなくてはならない」「私たちがどこに立っているか? 知るためにもね」、「欲望の時代に生きる」者として、そういう精神だけは忘れないでおくことにしたいと思っています。

                       【終:(1)、(2・完)】

2019.01.23 Wednesday

「欲望」の時代に生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の視点から―(1)

 1月に入ると、日没時間がぐっとのびてきます。夏とは正反対でこの季節は陽射しを探しながら歩いていますが、歩き終えるのが5時過ぎになることも多く、夕景の広がるその頃には気温の低下が直に感じられます。そして、ほんの4、5ヵ月前のことなのに、夏の空気や汗の感触をすっかり忘れてしまっていることに驚きます。

 気温というか、暑さ寒さの感覚は人それぞれというところがありますが、個々人にとっても年齢や環境の変化によって影響を受けているようです。真冬に、小中校生の軽装に出会うと、わが身の重装備ぶりをかえりみて、ドキッとしたりしています。真冬に短パンで走っていたこともあったのにという50年前の記憶を呼び起こしてみても詮方のないことでしょう。

 

 「こたつ」を使っておられますか。いつの頃からか、私はこたつを使わないで暮らしています。こたつにみかんは冬の茶の間の定番セットであり、そんな場から数々のドラマは始まっていました。ファンヒーターやエアコンの普及、畳敷きの茶の間の減少と隙間風の入らないマンションの増加、さらには温暖化の進行など、いろんな要因が想定できますが、どうなのでしょう。もう一度、こたつを出してみようということには、なりそうもありません。

 この「こたつ」について、もう一つ付け加えさせてください。桂枝雀の「宿替え」(『桂枝雀落語大全』第六集)には、転居先へ運ぶ家財を大風呂敷でつつむという場面があって、次のとおり語られるのです(昭和59年3月5日口演)。

 「 ……まずやぐらこたつのやぐらやぐら。ネーッこたつてなものは寒い時

  分には厄介にならないかんねん。暑い時にはなんじゃ邪魔になるようなけ

  れども、あーた、寒い時分には厄介にならにゃいかんねん。やぐらこたつ

  のやぐら、やぐら。それをこっち持ってこい。……」

 枝雀さんの口調を思い浮かべることができたらいいのですが、文章だけではちっとも面白くありませんね。当時、といってもいつの時代か分かりませんが、大風呂敷に包む家財一式のなかで「やぐらこたつ」が一番大きいのです。「暑い時には邪魔になる」けれど「寒い時には厄介になる」、そのとおりですが、今や、そんなこたつの感覚も共有できない世界になってしまいそうです。

  冬の夕景 [2019.1.9撮影/喜瀬川の橋上から]

  冬のバラ [2019.1.9撮影/播磨町役場傍の公園]

 

🔹「欲望」のもたらす両義性と危機の時代に向けて

 「こたつ」のこともそうですが、気づかないまま、いつの間にか失われたり、変化したりしている事柄は無数といっていいほどにあっても気づかないままのことばかりなのでしょう。そして、そうした変化の生じている現実を、社会を、世界を、クリアーにみること、さらにいえば理解したいと欲していますが、そんな目、そんな視点を、そんな言葉を、私はもはや持つことはできないであろうと自覚しています。

 昨年の梅雨の時期に、ドイツの若き哲学者 マルクス・ガブリエル(1980-)が9日間日本に滞在しましたが、その姿と言葉をおったNHKTV『欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~』をみて、ブログで紹介しました(「静寂が叫んでいるようだーマルクス・ガブリエルの視線の先はー(1)(2・完)」)。それは彼(以下「M」と表記しましょう)の言葉、視線というものに、分からないまでも私を触発するところがあったからにほかなりません。

 だから、昨年の暮れに放送された『欲望の哲学史 序章~マルクス・ガブエル、日本で語る~』(NHKBS1/2018年12月27日放送)を、年初の『欲望の資本主義2019~偽りの個人主義を越えて~』(NHKBS1/2019年1月3日放送)とともに録画しておいたのですが、先週、ようやく再生することができました。その結果、Mが番組の主なポイントに登場する後者はまだしも、Mがほぼ一人語りする前者は、哲学の基礎がないためもあってか正直なところチンプンカンプンだったのです。

 これで諦めきることもできず、これも昨年末に手に入れていた新書(『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』(2018年12月刊/NHK出版新書))を読んでみることにしました。この本の著者名は「丸山俊一+NHK「欲望の時代の哲学」制作班」で、丸山はNHKの「欲望」シリーズ?の担当プロデューサーだそうです。コアな部分は3章立てで、この部分にはMの言葉がほぼそのまま翻訳されていて、犠呂郎鯒7月の番組、蕎呂郎鯒暮れの番組、珪呂昨年7月の番組では短く編集されていたロボット工学の権威である石黒浩阪大教授との対話部分の詳細が、それぞれ文章化されています。そして、このコア部分の3章を、序章の導入と終章の帰結部分がサンドウィッチする形でになっていて、序章と終章は丸山が執筆したとクレジットされています。

 この新書の蕎呂諒が、取りつくしまのなかった昨年暮れのテレビ番組よりも、分かったとはいえないけれども少しは取りつくことができたという感じだったのです。もちろん本の方は行きつ戻りつが容易だからでもありますが、今回は、この蕎呂鬟瓮ぅ鵑砲靴董Mの言葉、Mの視点をレポートすることとします。

  『欲望の哲学史 序章〜マルクス・ガブリエル、日本で語る〜』(2018.12.27放送/NHKBS1)

   のタイトル画面

  『欲望の資本主義2019〜偽りの個人主義を越えて〜』(2019.1.3放送/NHKBS1)タイトル画面

  『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』丸山俊一+NHK「欲望の時代の哲学」制作班

      (2018年12月刊/NHK出版新書)   表紙カバー[表]

  同上 表紙カバー[裏]

 先ほど「NHKの「欲望」シリーズ?」などと勝手に書きましたが、「欲望の時代」「欲望の哲学史」「欲望の資本主義」(2019版は第3弾であり、過去の2年は『欲望の資本主義2017~ルールが変わる時~』『欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~』のタイトルで放送)、それにしてもこの「欲望」というタイトルにはどのような経緯や意味があるのでしょうか。現代の社会や資本主義の世界をみるキーワードとして、つまり時代のエートスをあらわす言葉として、NHK自身がその判断によって使ったのか、Mを含め誰かが使っているのを使ったのか、それとも私が知らないだけで現代の精神分析、哲学という分野でオーソドキシーとして用いられているのか、番組を詳細に見ることができたら説明のナレートがあったのかもしれませんが、明確なことは分からないままです。

 ここでは、新書の終章で、丸山が書いていることを手がかりとして理解しておこうと思っています。

 「人間には、「欲求」のみならず、「欲望」がある」ことが出発点です。「欲求」とは、たとえば「じりじりと日が照る砂漠を長時間歩いた果てに一杯の水を飲み干す衝動」であり、動物である人間にも当てはまります。だが、「現代を生きる多くの人間は、そうしたシンプルな「欲求」だけでは生きられない」のも事実で、生きることに必要な本能を越えた「欲望」という厄介な感情を抱えているというわけです。とりわけ現代社会にあっては、「スマートフォンを使っているというより使われていると言われても仕方がない時代に生きている」といわれるように、われわれは「欲望」をコントロールしにくく、「欲望」が「欲望」を生むような過剰で肥大化した時代に生きており、それは現代の社会、世界のありようと切り離すことはできません。

 そして、このことは人間を破壊する方向へ導く可能性を有する危機の時代ではないのか、というのが丸山の時代認識なのだ(Mの問題意識でもあります)といえるでしょう。いわば、だからこそ、この「欲望」シリーズ?を制作し、世に問い続けていることになります。

 繰りかえすことになりますが、人間の「欲望」について、丸山は、次の説明を加えています。

 「 それは、ある意味「本能が機能不全」になった時に生まれる、「錯誤」

  を伴う過剰なる感情だ。「欲望」は時に自らの生存にマイナスに働くこと

  にも作動する。残念ながら現代社会に蔓延する様々な中毒症状が、その存

  在を証明している。「わかっちゃいるけれどやめられない」「自分で自分

  がわからない」、そうした衝動にまでつながりかねない不安定なもので

  る。そして、その時代の社会のあり方、文化コードと深くつながって

  いる。」

 そして、もっと巨視的な観点から、「欲望」なくして生まれなかった「文明」「文化」のもつ二面性について、次のとおり記しています。

 「 それにしても「文明」「文化」とは、何とも両義的なものだ。素晴らし

  い成果、人間を人間たらしめる輝かしい達成でありつつ、同時に人間を破

  壊する可能性も内包する。本能を越えた「文明」「文化」を持つことは、

  時に善悪の彼岸を越えていくのだ。」

 ですから、丸山は、この両義的な存在である「欲望」に着目し、現代世界を描く番組制作のタイトルとして、「欲望」という言葉を冠にしたのであろうと、理解しておきたいのです。

 

 このブログでは、先に記したように、新書の蕎蓮哲学は時代との格闘だーガブリエルの「戦後哲学史」講座」のエッセンスを整理してみようとしているのですが、Mは同時代を生きる者へ呼びかける言葉の前に、次のような現代世界への問題意識を再確認しています。

 「 僕らは今深い危機の時代の中にいる。民主主義、気候変動、中東の破滅

  の可能性などの危機だ。危機の時代なんだ。危機の時代に何が起こるかと

  言うと、新しい観念が必要になってくる。われわれは、今何が起こってい

  るかを理解する必要が大いにある。」

 NHK制作チームも、丸山も、この部分は共有しているようですし、もとより私もそう感じているということです。ですから、私自身はいろんな限界から難しいというのは申し上げるまでもありませんが、それでも引用したMの「今何が起こっているのかを理解する」ためにMの思考と言葉の助けを借りたいと願っています。

 さらにいえば、いささか大仰ですが、実感や現実から引き離されるような装置に取りかこまれている現在に存在しているからこそ、私たち一人一人が「今何が起こっているのかを理解する必要が大いにある」のだと考えておきたいのです。

 

🔹M流の「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」(その1)

 さて、ここから新書の内容、その蕎呂鬟螢檗璽箸靴茲Δ箸靴討い泙垢、再読、再々読してみても、やはり筋道が十分に見えてこないのです。Mの「新実在論」と呼ばれる哲学の言葉と、現代世界で生じている事柄への哲学的な言葉とのつながりがみえてこないのです。それでもレポートするのは、反復になりますが、後者に向けたMの言葉に反応し、一定の共鳴する部分があるということにほかなりません。

 序章において、丸山は蕎呂砲弔い銅,里箸り説明しています。

 「 あえて、ヨーロッパの現代史と哲学の流れを講座番組風に解説しても

  らった(㊟欲望の哲学史 序章~マルクス・ガブリエル、日本で語る~のこと)。第二

  次世界大戦という凄惨な歴史の事実を受け止め、戦後、哲学は新たなス

  タートをきった。そこに生まれた、実存主義、構造主義、そしてポスト構

  造主義。これらの流れを概観すれば、けっして哲学がインテリの高等な言

  葉遊びなどではなく、時代との、社会との格闘の中で磨かれ、紡ぎ出され

  た思考の装置であることを実感してもらうことができるだろう。

   その上で、いかにも彼らしい、「世界史」を語りながら、それへの懐疑

  もまた見えてくる、という逆説的な展開となっている。」

 

 NHK401スタジオにスケートボードで乗り込んだ哲学者Mは、「最も深刻で今大事な問題は、事実とその表現、つまりそうした事実とイメージとの落差にまつわるものだ」から語りはじめ、この最も哲学的な問い(「認識論」と呼ばれる、知の論理のことでもある)に応えないと、「哲学自体が現実離れしてしまう」とします。そして、こうした「そもそも根本にある認識に関わる問いは、現代の社会、今日の人生に関わるすべての問いと根本的に関連している」とし、だから、「哲学は、とりわけ、僕らの時代により重要な役割を果たすと言えるだろう」と、哲学の重要性を確認するところから、スタートしています。

 この蕎呂離肇奪廖1 すべては哲学から生まれた」とタイトルされた項から、次の文章を引用しておきましょう。 

 「 情報時代、コンピューター時代、そしして僕らを悩ませる根本的な問い

  の多くが、実は根本的なところまで遡れば、哲学の問題だ。たとえば「政

  治」や「民主主義」といった用語も、元はと言えば哲学的な表現だったこ

  とを忘れないでね。現実に実行された、哲学的な考えなのだ。もちろんマ

  ルクス主義や資本主義も同じだ。すべて哲学的な考えだ。つまり、あなた

  にとって最も大事である人類の基本的な構造の多くが、哲学によって生み

  出されたのだ。」

 けれども、付随する多くの問題、その多くが間違っていることがしばしばであるから、「よりよくものごとを理解するために、僕らは現実に対する哲学的な概念をアップデートしなければならない」と続きます。こうしてMは、哲学者であるMの立場、すなわち「哲学的な概念をアップデート」することに挑もうとする本人の立ち位置を明示しているのです。

 以下、断片になりますが、Mの語った言葉から、私が反応できた箇所をピックアップして紹介します。

◍戦後哲学の3潮流とその限界

 哲学をアップデートするために、Mはまず戦後の哲学と、「重要なイベントの連鎖」と思われている「歴史」とのつながりを語ります(蕎呂痢2 現代哲学を振り返る」とタイトルされた項)。この「歴史」とは多くの悲惨な現実を生んだ第二次世界大戦であり、現代哲学において「知的な思考を刺激する一つの大きな場面」となりました。

 Mは、戦後すぐの「実存主義」、60年代の「構造主義」、そして70年代以降の「ポスト構造主義」という3つの潮流を、それぞれ「素晴らしい考え方」であると評価しつつ、同時に「間違っている」「問題もある」ということを語っています。Mとしては、みずからの「新実在論」を説明する前提としてだけでなく、現代世界の現実を語る哲学的な言葉のためにも、戦後の哲学を批判的にふり返ったのでしょう。

 

 まず「実存主義」は、「自分の人生以外に、自分の人生に意味を与えるものは何一つない」との言葉に集約でき、「実存は本質に先立つ」というスローガンにまとめることができると、Mは説明しています。すべての意味が破壊されたような第二次世界大戦の直後、多くの人びとが「神は二十世紀の恐怖とつじつまが合わない」、「自分の人生において、自分が唯一の意味の源だ」と考えたというわけです。

 「同時に問題もある」とMが説明しているのは、「人間的な活動において、哲学者が言う「主体」という根本的な概念が中心にあると考えていた」という点であり、「実存主義の場合、それは自分が自分の人生に与える構造だ」ということになるのです。

 

 この「自分が自分の人生に与える構造」が「外部の要素による結果」なんだと「実存主義」を批判して登場したのが、「構造主義」です。「構造主義」は、「自分の「主観性」、つまり自分の自分に対する感じ方は、構造のネットワークにおける一つの結節点、交わりの点のようなものだ」とし、「様々な要素(㊟家族、育った場所、記憶、経験した言説、文化的な価値観など)からできあがった構造が、人生に意味を与える、それが構造主義において基本的な考え方」なのだと、Mは説明しています。

 かくして1960年代に、ヨーロッパを中心に、「実存主義」に取って代わった「構造主義」ですが、60年代の終わりの別の破綻、つまり「二十世紀の恐怖の後で、社会を再構築するのが簡単だという考えが破綻した」という時期に直面するという問題が浮上したのです。戦前から戦後にかけての構造をそのまま引きずってきた歴史の流れを変えようとする動きは、ヨーロッパの学生運動となって表出しました。

 

 こうした時代状況に風穴を開けるように出現したのが、「ポスト構造主義」の哲学です。Mは多くの観点から説明していますが、自分の言葉になりそうもありませんので、ここでは60年代後半から70年代後半のフランスにおいて、静止的な構造を前提とする構造主義に対し、言語に着目し「近代的な物語を解体して「脱構築」しようした」のが、デリダであったとするにとどめます。

 Mは、「事実とその表現」という最も大事な哲学的な問題とともに、重要な「時間」という問題を、「現在、というものは、常に存在しないに等しい」と説明したデリダの論点を「素晴らしく深い洞察」としつつも、結局、多くの問題を引き起こしてしまうと説明します。すなわちポスト構造主義のように「構造、時間と歴史の概念を壊してしま」うという考え方を推し進めると、「ある種の現実離れを起こしてしまうことになる」、つまり「現実は逃げてしまうのだ」、同じように「事実もまた逃げてつかまえることができない」という言葉で表現しています。

 この「ポスト構造主義」の現実離れについて、Mはまた、「僕らが今取り組まなければならない深刻な状況にも、影響を与えている」とし、「事実をもはや知ることはできないという影響だ。事実がおそらく存在しないからだ」とも表現しています。このことが現下の「ポスト真実」と呼ばれる時代状況の背後にあるというわけです。

 

 「ポスト構造主義はまた、いわゆるポストモダニズムの始まりに対応」しています。では、モダニズムの前提となっている考え方とは何であるのか、Mの文章を引用して確認しておきます。

 「 近代性、啓蒙主義、民主主義などのベースにあるのは、ものごとはより

  よくすることができるという考え方だ。人類の「進歩」、科学と技術の

  「進歩」といった、「進歩」を信じた考え方だ。僕らはこの「進歩」の現

  実に生きている。そうだよね。それゆえに、歴史、構造、さらに時間を必

  要とするのだ。」

 それこそ、東西冷戦が継続し深まるなか、冷戦が熱い戦争としてあらわれたベトナム戦争という現実があり、さらにこうした様相から核を用いた第三次世界大戦と人類絶滅に対する深刻なおそれを、地球上の多くの人びとがリアルに感じていました。こうした時代状況に対峙した、1960年代、70年代、そしておそらく80年代の哲学の精神について、Mは「みなが解放され自由になるために僕らは、根本的にそしておそらく永遠にどのように社会を変えられるのだろうか?」というものであったと説明しています(「3 哲学から見る戦後史」の最後の部分)。

 それが本来のポストモダニズムであったはずだが、これを換骨奪胎したネオリベラリズムが登場してきます。 

 

◍ポストモダニズムとネオリベラリズム

 現代の資本主義のベースにあるネオリベラリズム(新自由主義)は、80年代初頭に、60年代、70年代初期に対するリアクションとして、「地球上の政治指導者と社会システムが」、「新しい種類の経済体系を発展させはじめた」潮流のことだと、Mは説明しています(蕎呂痢4 ポストモダンとは何か」とタイトルされた項)。

 そして、ネオリベラリズムは、「哲学者に挑戦するよう見事な経済的な概念を思いついた」のであり、「「ポストモダニズム」の悪しき側面が、経済的に実行されたとも言える」とし、次の仕組みだと語っているのです。

 「 もし本当に社会領域が実際にイメージの投影を中心として組織されるの

  であれば、その投影のメカニズムを自分のものとし、それにつながってい

  る人にものを売るためにそれを利用することができる。コミュニティにお

  けるセルフイメージの構築をコントロールすることができれば、階級闘争

  を支配し、統制できる。」

 つまり、ネオリベラリズムは、「ポストモダニズムの基礎的な概念」を表層的に利用し、「イメージとセルフイメージの投影にすぎない」、「巨大な広告産業」、さらに「文化産業」へと変えてしまったのであり、その対象、とりもなおさず人間を、人類を、操りはじめたのです。

 このポストモダニズムの基礎的な概念について、Mは「僕らは現実を見ることができない、社会的現実などない、そして映像の外に現実もなく、ただ一つの鏡がもう一つの鏡の横にあるという概念だった」とし、この概念の体現者であるトランプをポストモダン的天才だと評価しつつ、「だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう」と、立場を明確にしています。

 

 先走りすぎました。サッチャーとレーガンに代表されるネオリベラリズムと呼ばれる「純粋資本主義のダークシステム」が完全に優位になるかのように思えたころ、「突然、かすかな希望の光」がみえましたと、Mは語ります。そう1989年のベルリンの壁崩壊、その結果、ソ連も崩壊をはじめ、ドイツの再統一の実現と、ヨーロッパを中心に大きな地殻変動が起こりました。それは「新たなる希望」の時であり、この希望がどのように、何から構成されていたのかについて、Mは、次のように説明しています。

 「 この新たなる希望とされたものを、「ポストモダニズム」と呼ぶことが

  できるだろう。この文脈において、ポストモダニズムが何を意味している

  のかを説明しよう。ポストモダニズムは、自由民主主義が全世界秩序を引

  き受ける、という概念だという言い方もできるのかもしれない。そして、

  自由民主主義が新しい理想の実現をもたらす、と。その背景の一つは、特

  に重大な変化はなくとも歴史の方向性が保たれるような永遠の平和だ。

  「ポストモダニズム」によるグローバルな世界秩序ーそれは完全に開放的

  であるがーは同時に、皮肉なものだった。」

 ヨーロッパから遠くにある日本においても、確かにそうした「希望」のような雰囲気を感じていた面はあったのかもしれません(「歴史の終わり」との表現もありました)。

 平成の30年に重なる同時代の現実は、制約を無効化しよう(「改革」「規制緩和」が大手をふっていました)とするネオリベラリズムが基調となって資本主義経済体制はグローバル化の度合いを高めていきました。そして、今多くの人びとが実感しているのは、希望への期待が裏切られ、「混迷、分断、亀裂」の世界が、私たちの前に広がっており、理想の実現からほど遠く途方にくれている状況だといえます。

 だから、前記の「だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう」と、Mは「僕がお勧めしたい現代哲学である「新実在論」」を伝導しようとしているです。現代世界の現実と批判的に対峙する哲学者 Mは、「哲学は時代との格闘だ」という蕎呂離織ぅ肇襪里箸り、自らの哲学的立場として「新実在論」に到達しているのだと申し上げることができるでしょう。

 

 次は私の理解を阻むような肝心の「新実在論」ですが、ここで一応前半として区切り、次稿では、「🔹M流「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」(その2)」として「相対主義を越えてー「新実在論」へーから再開し、「「欲望」の時代に生きるということ」を考えてみたいと思っています。

                       【続く:(2・完)へ】

 

2018.10.21 Sunday

起点となることを願ってー「平成という時代」への視線ー(1)

 突然の秋の深まりにぼうぜんとしています。残された稲の穂が刈り取られるのをまち、大中のケヤキも桜もイチョウもその葉が色づきはじめています。日没近くの陽の光が不思議なかたちの雲を照らしています。こんな明らかな変化が目の前にひろがっているのに、季節の変わり目という不連続を、ようやく、はじめて自覚できたような気持ちがしました。

 継続、連続という、いわば慣性のただ中に在る者にとって、断絶、不連続という、変化を意識することは難しいことであり、少なくともしばらく経ってからやっと気付くものだと、今更のように感じたのです。

  まだ残っていた稲の穂 [2018.10.14撮影]

  ケヤキの葉も色づき始めています  [同上/大中遺跡公園内]

  日没が近づいた西の空に [同上]

 なんだか思わせぶりなことを書いてしまいましたが、来年5月の元号の替り目を前に、平成の30年間に<言葉>を与えようとした試みに出会いましたので、紹介してみることにします。それこそ平成という時代を生きてきて、今もそのただ中で生きている者が、同時代のことを言葉にすることは至難といわなければなりませんが、有識者の言葉を引き金に、いっしょに考えてみたいと思ったのです。

 同時代を言葉にしようとするならば、あまり遠くない過去を言葉にし、それとの変化の位相を測ることが不可避ですし、近道でもあるのでしょう。

 中核的な資料は、毎日新聞が今年8月に6回連載した『平成という時代』の「 第1部 語る」という記事と、その鼎談者の一人である小熊英二が編著者である『平成史 【増補新版】』(2014年2月刊/河出書房新社)です。補足的に同じ毎日新聞の夕刊特集「この国はどこに行こうとしているのか 平成最後の夏に……」と題した記事なども使うつもりです。

 今回の記事は、当ブログのカテゴリー「現代社会」で取り上げてきたテーマとつながっています。というより、そこで残された課題と新たに生じた疑問から引き出されたテーマで、また次へとつながっていくことになるでしょう。社会構造や社会意識が変化していることは明らかであるように感じているのに、なかなか見えてこない、言葉にできない私にとって、わが国の社会や世界の現状を認識するための起点となることを願って、トライすることにします。

 

 1989年(1月)の平成の始まりは、同年(11月)の<ベルリンの壁崩壊>など冷戦の終わりとちょうど重なっています。今にして思えば、わが国の戦後を規定した最大の条件は、多くの国がそうであったように、冷戦構造の一翼に組み込まれていたことだったと評価すべきと考えますが、小熊英二は、この重なりと、その後の政治・経済の不安定化が重なっていることを、「偶然でもあり必然でもある」と発言しています。

 かといっても、冷戦構造は、わが国の昭和期・戦後におけるリスク要因でもあったわけですが、冷戦の終わりは、ある種の秩序、安定の終わりであり、さらに広く深く、現代の世界の覆う混乱、混沌を招いてきたといえるでしょう。

 ここでは、平成の30年は冷戦後の30年(1991年のソ連崩壊とするなら28年ですが)に重なっているわけですから、平成という時代を言葉にすることは、たんなる元号の区切りという問題にとどまらず、現在の日本と世界へアプローチしていくうえで、区切りとしての意味があるのだと申し上げたいのです。

 

 本題に入る前に、紹介者である私自身のことにもふれさせてください。

 平成という時代は、40歳の直前に始まり、今、70歳の一歩手前にいるという30年でした。今から思うと十分に若かったというしかありませんが、父母と同居、妻は専業主婦、二人の子どもという家族構成、私は公務員というサラリーマン生活のただ中にありました。そして約30年後の今日、父母は亡くなり、二人の子どもは独立し、私は稼ぎ仕事からリタイアし、そして同じ家で老夫婦二人が暮らしているという状況です。

 ある時代の典型的な人生、高度成長期に成立した長期の正規雇用を前提とし、夫が外で稼ぎ、妻が家庭を引き受けるというモデル的な家族環境であったといえます。もちろん周りに例外も多くあったわけですし、私自身、これでいいのかという思いもなかったわけではありませんが、まあこれしかないと思っていたのも事実です。30年後の二人の子どもは、当たり前のように共稼ぎ生活ですが、これが時代の環境、制約、そして変化というものなのでしょう。

 もう一つ、当ブログでも何度かふれていますが、平成の始まりは私自身も大きな曲がり角にあったのだと、今から振りかえってみると、そういうことになります。大学生の頃に発病した慢性病が再燃してきて、4年間で3回の入院を経験しました。当面の完治が期待できない状況にあって、仕事に向けるエネルギーの制約・限界はもとより、近未来への不安のなかにいた時期なのです。どう過ごしてきたものか、30年後の今、こうして何とか命があるわけで、そしてこうして振りかえっているわけで、ブログで私が連発する「不思議」の大本はここにあるのだろうと思っているです。

 ともあれ、平成という時代を考えることは、私にとって、大人になり切れなかった大人として生きてきた30年を言葉にすることでもあります。私自身を問い直すことでもあります。ここで記すことは、こんな私と共振する言葉を書くことでもありますが、<私>という制約から免れていないことを忘れずに、つまり独善にならないことにも注意したいと思っています。

 

🔹平成の30年を<言葉>にすると

 平成という時期を、総括する言葉からみていくことにします。

 毎日新聞の『平成という時代』の鼎談者(といっても進行を毎日新聞の小松主筆がしているのですが)は、三谷太一郎[日本近現代史](1936-)、高村薫[作家](1953-)、そして前記の小熊英二[歴史社会学](1962-)の三人です。大老、中老、初老ともいうべき世代の三人ですが、歴史家でもある三谷と小熊の二人の発言に比べ、高村の発言の異質性が目立っており(作家と学者の使う言葉の違いというだけのことかもしれませんが)、その噛み合いのうまくいかない箇所も面白く読みました。

 

 本項では、6回連載の第1回「3識者 30年を回顧」での発言を中心にみておきます。小松主筆から「平成の30年を日本の歴史にどう位置づけていくか、平成の総論」を問われた三人は、概ね、次のような発言をしています。

 敗戦直後に少年時代を過ごした三谷は、平成の始まりに重なる東西冷戦の終えんによって、日米経済関係の基調が協調から競合へと移り、アメリカンスタンダードによる市場経済の確立と経済自由化が求められたことに起点をおいています。つまり50年代末に「業界団体が群生して政界や官界と接触し始め」た「組織化の時代」を経て、その<政官業複合体>は自民党の基盤を支えてきたが、「冷戦後、それが縮小し「非組織化の時代」が始まった」と、<組織化><非組織化>に力点をおいて説明しています。

 この<非組織化>は、企業の社会的機能が著しく減少したことにも関連していて、「企業を拠点とする日本の集団主義的な傾向、かつて日本文化を特徴づけるものとして強調されたその傾向が弱体化していった」のが、平成という時代だと評価しています。そして、「集団主義というものが日本の文化的特徴と言われた時代は」、三谷の実感では過ぎ去ったように思うと、括っています。

 

 一番若い、といっても50代半ばの小熊は、三谷の非組織化発言を受けるかたちで、労組や地域社会などの空洞化によって、従前の社会基盤が崩壊していく時代として、90年代以降のわが国と世界を説明しています。その背景として、インフォメーションテクノロジー(情報技術)の発展により、顔の見える範囲で関係を作る必要がなくなった状況を、「昔のように顔の見える範囲で組織を作る必要はない時代になった」と強調しています。そして、80年代以前の経済・社会的基盤は大量生産の製造業であったが、これが90年代以降相対的に後退していったのだと指摘しています。

 平成以前と以後では、二つの基盤が変わった、一つは「交通・通信の発達に伴う経済・社会的な基盤の変化」であり、二つは「記憶の基盤の変化」だとします。後者は、日本における天皇の代替わりだけではなく、世界的にも第二次大戦の最後のリーダーたちが次々と退場し、戦争を体験していない世代へリーダー層が移行していった時期でした。日本を含め、第二次大戦直後に新しい国の体制が世界中に成立したわけですが、このことは「世代交代を経て体制の起源の記憶が薄れていけば、体制の正当性が弱まり、不安定化していく」ことを意味しています。この説明に関連して、小熊は、前出の平成の始まりと冷戦の終わりが重なり、それが政治・経済の不安定化とも重なっていることは「偶然でもあるし必然である」と発言しているということなのです。

 

 私とほぼ同世代といっていい高村は、「日本という国の共同幻想の化粧がはがされ、掛け値なしの素の姿があらわになってきた時代だった気がする」と、二人よりもっと直截かつ抽象的な言葉で「平成という時代」を表現します。バブルの崩壊時に露呈した、一流と言われてきた金融、経済の、その企業組織の<いいかげんさ>にショックを受け、その<いいかげんさ>が刷新されないまま、グローバル経済にのみ込まれた結果として、現状を説明しようとしています。そして、昭和にはなかった「餓死者が時々出る」という<貧困の風景>が平成という時代にあらわれたことにショックを受けたとしています。

 私の人生の中で一瞬の夢を見たのは共産主義の「退場」のときだけだとしつつ、高村は、今の状況が日本だけの構造的な問題によるものと思われない以上、「未来に対する絶望が絶望の上塗り状態になって」いるとします。すなわちどこに希望があるかわからない状況だとし、「日本人どうする、日本どうするんだと自問自答しなければならない本当に厳しい時代に入った」と発言して結んでいます。

 

 私の要約のまずさもあって、三人の発言は彼らの意図する<平成の総論>に足りているかといわれれば、疑問が残ります。それでも、平成という30年の風景を、戦後復興から出発して歩んできたわが国社会の連続性を踏まえつつ、その変化をもたらした核にあるものを、それぞれの言葉で発言しているといえます。三谷は国際関係の変化、小熊はそれとともに情報技術の発展だとみているのであり、このような二人の分析に対し、高村は、作家らしい直感で、高度成長期に見えていなかった<いいかげんさ>という素の姿が露出した風景にみているのだといえます。

 平成という時代について、高村のデスペレートな評価が際立っていますが、三人とも前半生で蓄積してきた、つまり各自が抱いている<平成以前の時代>なるものとの関係において、差異、落差そして変化を言葉にしようという点では共通しているといえます。いわば地域、企業等から社会的統合が失われていったのが平成という時代であり、安易に用いるべきではないのですが、三人の<平成の総論>は、現在、よく使われている「分断」という言葉を想起させずにおれないのかなと感じました。 

  毎日新聞『平成という時代』(2018年8月)の題字

  同上の鼎談者の三人

 小熊英二が編著者である『平成史 【増補新版】』は、東日本大震災後の2011年夏から、若手研究者の共同研究として1年弱をかけて議論を積みあげ、分担して書かれたとあります。そして、2014年には<経済><外国人政策>の分野を追補し、【増補新版】が出たとのことですが、<総説>と<国際環境とナショナリズム>を担当した小熊自身は、この共同研究から多くのものを得たようです。それは前記の『平成という時代』の鼎談においても、小熊は、本人の発言内容はもとより、他の二人の発言へのレスポンスにも反映しています。

 本項では<平成の総論>に呼応する箇所を手短に記しておくことにします。小熊は<序文>のなかで、「いわば日本は、冷戦安定期にもっとも栄えた国であり、冷戦後のグローバリズム化と国際秩序変化に対応できなかった国である」とし、後者の歴史が「平成史」だともいえると、総括しています。

 つまり「日本が経済成長を謳歌した時期は1955年から1991(平成3)年であり、スターリンの死と朝鮮戦争休戦を経て、冷戦体制が固定化・安定化した時期から、ソ連崩壊によって冷戦体制が終結した時期にあたる」のであり、この時期はまた「日本政治の冷戦体制である「55年体制」の時期にあたる」と補足して、前段の総括を行っているのです。

 

 この<序文>に続く、各論よりも長文の<総説>では、作家の村上龍の80年代以降「文化的に大きな変化は何も起こっていない」という一文の引用から始められており、私は虚をつかれました。これに続いて、小熊は、平成の日本社会がかつてと明らかな変化があると感じているのに、なぜ「大きな変化は何も起こっていない」ように感じられるのかと、平成という時代の<変化>について問題提起をしています。

 したがって、平成史の課題とは、「「平成」においていかなる社会変化があったのか」というだけでなく、併せて「それに見合う変化の認識がなぜ成立しなかったのか」の二つであって、「とくに社会意識が社会変化に追いついていなかった状況を描写する」ことの必要性を強調して、小熊は<総説>の記述を始めています。

 この後者の問題は、本稿全体のテーマとしてフォローするつもりですが、ここで卑近な比喩をメモしておきましょう。平成の30年は、私をまぎれもなく高齢者、老人に変化させたのですが、自分の意識はその現実に追いついていないというようなものです。そんな私だからこそ、小熊が指摘する、平成という時代は、構造的な<変化>を刻んできているのに、そこに生きる者が、いわば運動体の内部にいる者が、その<変化>を意識することはなかなか困難であるという現実をどう理解すべきかという問いをもって進めていくことにします。

  『平成史 【増補新版】』小熊英二編著 2014年2月刊/河出ブックス

  同上の帯裏[掲載分野/副題/執筆担当者] 

 

🔹<変化>のとらえ方ーポスト工業化社会の変化の実相ー

 本項では、前項の<平成の総論>の背景にある社会構造の変化の実相を、具体的な時期区分とともに、『平成史 【増補新版】』の<総説>で小熊の展開した論述に依拠して整理しておくことにします。つまり平成という時期に表面化した<変化>を、先立つ時期との比較において、もう少し可視化させておきたいのです。

 小熊は、「平成史」を工業化時代からポスト工業化時代への変化として概説しようとしています。いろいろな見解があるとことわりつつ、戦後日本を、「1955年前後」、「1973年前後」そして「1991年前後」の三つの区切りにより時期区分しており、「平成」とは第三の区切りである「1991年前後」以降の時期に相当するとしているわけです。

 長くなるので数値は省略しますが、こうした時期区分の根拠を、産業別の就業者人口、経済成長率、人口増加率などの推移に求めつつ、「経済的には高度成長への突入とバブル崩壊、政治的にみれば「55年体制」の成立と93年の細川政権成立」が区分点で、第一次オイルショックという「途中の1973年前後に小さな転換がある」と説明しています。

 戦後日本の時期区分には、小熊自身が書いているように「諸説ある」わけで、同じ『平成史 【増補新派】』で<経済>を執筆した井出英策は、政府の経済政策という観点からですが、小熊と違う時期区分を示しています。井出の「時期区分」は本稿の最後に【参考】としてメモすることにしますが、私としては、ある状況(まとまりのある<変化>が顕在化してくる)が明白になっていく前の潜伏期間や助走期間をどう扱うかという問題ではないかと思ったりもしますが、とりあえず小熊の時期区分は分かりやすさという点で説得力があると考えています。

 

 さて、この「ポスト工業化社会」という言葉がどこまで一般的かわかりませんが、20世紀に成立した「工業化社会」の諸特徴に比べ、1990年代以降に新たな変化として鮮明になってきた社会構造を総称するものとして、小熊は使っているようです。

 あくまで日本のということですが、「ポスト工業化社会」に先立つ「工業化社会」の特徴はどのようなものだったといえるでしょうか。小熊は、大工場に大量の労働者が雇用され高賃金を受け取り、大量生産された画一的な商品を市場へ供給し、それを売るために大手広告会社とマスコミが生まれ、需要を創出していき、そんな製品を労働者が購買して企業の高収益を保証するような経済循環が成立していたと指摘します。だから、誰もが高賃金の大企業をめざそうとし、女性は主婦になる以外の選択肢が限られ、子どもに高学歴を与えようとし、同じような電化製品と新車をそろえました、そんな生活を多数がめざして営んでいた結果、社会全体を語れるような「新しいトレンド」が次々とあらわれてきたのが、この社会の特徴であると描写しています。

 そして、当然、政治面では、企業や地域や労組といった巨大組織をバックにした大政党が支配していたのです。

 

 もとより上記の小熊の言葉ですべてが包摂されるというわけではありませんが(いつの時代も区切りを超えて前の要素が連続するという入れ子構造になっていますが、特徴的、支配的な傾向はどうかという視点)、これに対し、「ポスト工業化社会」はどうか、小熊はまず次のことを書いています。

 「 情報技術が進歩し、グローバル化が進む。精密な設計図をメールで送付

  できるようになると、工場が国内にある必要も、作り手が熟練工である必

  要もなくなる。熟練工を長期雇用しておく必要はなくなり、企画を立てる

  少数の中核社員のほかは、デザインなど専門業務は外注となって、現場の

  単純業務は短期雇用の非正規労働者ですむ。製造業は先進国の高賃金と組

  織労働者を敬遠して、発展途上国へ出て行く。」

 こんな変化が基軸に登場してくると、どんな変化が社会に起きてくるでしょうか。IT技術により多品種少量生産と個別配送が実現し、大きな広告の必要性が下がり、DMやHPがとって代わり、新しい業種も生まれるが、一方で「マックジョブ」と総称される低賃金不安定労働が増加します。こんな正規雇用の減少は、大企業で特徴的だった福祉の切り下げと格差の増大を生じさせ、男性の雇用と賃金の不安定化により、女性の労働力率が上昇し、離婚率も上がる、そして若年者に非正規雇用が多くなり、晩婚化と少子化が進むという風景が社会的な変化として立ちあらわれてくるというわけです。

 こうした変化にともない、労働者階級や地域共同体は実体を失い、政治面においても左派政党や保守政党も支持基盤が流動化していくと、小熊は描写しています。

 小熊らしく、次のような個性的な表現で、ポスト工業化社会の<変化>の根っこにあるものを括っています。

 「 パソコンひとつで相手を選べる時代は、多様な選択の可能性が増大する

  が、自分も選択される側になる。相手とずっとつきあう必要はなくなる

  が、ずっとつきあってくれる保証もない。そのスピード増大し、過去の

  蓄積はすぐに陳腐化する。雇用も、組織も、取引も、男女も、家族も、

  育も、地域も、政治も、国家も、この選択可能性にまきこまれ、自由と

  チャンスと格差が増大していく。」

 

 以上の「ポスト工業化社会」⇔「平成という時代」を表現した小熊の言葉は、もちろんこの何倍もの分量で説明されているのであり、私の切り刻んでしまった言葉の限界を感じずにはおれませんが、いかがでしょうか。小熊の描写はよくマスコミ等で取り上げられる言葉を上手く相互に関係づけたようないささか図式的なきらいもある内容ですが、私は、平成の社会を、その変化の実相を、このように描写することもできるかな、まあ流石になるほどという感覚をもったのです。

 こうしたことに問題関心があっても、「工業化社会」の典型例を継続して生活してきた私のような者は、「ポスト工業化社会」の特徴、社会的な<変化>を感じとりにくい体質があるのでしょう。今に先立つ30年間に感覚してきたことを思い返そうとしても、その時々に、小熊の記している変化をどこまで実感できていたか、とても実感していたとはいえません。でも、今になってやっと、やはりそうした変化が起きていたのだと振りかえっているのが、私なのだと表現することが適当なのでしょう。

 今回、読んで理解した限りでは、小熊は、情報技術の発展、IT技術の展開、そしてインターネットが汎用化した社会(ネット社会)という、いわば情報通信革命と呼ばれる変化に、「ポスト工業化社会」への変化、転換の原動力を見出しているように感じました。

 80年代以前に、つまり「工業化社会」の真ん中で、未来への想像力は「モノ」の進化に向いており、情報通信革命などに及んでいなかった、ということを小熊は指摘し、だから前出の村上龍の「大きな変化は何も起こっていない」という一文になったのだと解釈しているといえます。確かに、携帯、パソコン、スマホというものは当時支配的な「モノ」の変化というカテゴリーと認識できずに、その影響力の巨大さを想像できなかったのです。

 これらがもたらした情報通信上の変化は社会構造そのものに影響を与えた、大きな構造変化を起こしたと、今になって、私たちは理解していますが、平成の始まりの頃、ワープロに右往左往していた私は、多くの人びとと同じように、現在の事態をかけらも想像できていなかったのです。

 

 次には、『平成という時代』に戻り、その情報通信革命がもたらした時代への反映(構造変化)についての発言をみておきます。

 連載の第4回「ポスト冷戦の民主主義」、第5回「情報革命時代の言葉」が、直接関係しています(第2回は「戦争の記憶と天皇」、第3回は「歴史をめぐる摩擦」ですが、本稿ではふれないでおきます)。

 前者の「ポスト冷戦の民主主義」の方は、見出しが「ネットが外した重し」であり、いわゆるネット社会が、現代の世界と日本に及ぼしている影響のなかで、最も重要な「ポスト冷戦後のデモクラシーの特徴」が取り上げられています。この問題は、当ブログでも繰り返し論じてきたことでもあります。

 まず、三谷は、国民主権、国民が統治することの具体的な意味をどれだけ考えてきたかに疑問があり、これが「今日に至るまで日本の民主主義の最大の問題」となっていると発言します。これはこれで本質的な指摘なのですが、続く、高村は、苛立ちを隠せないように、ネット社会が、民主主義社会の安定、その重しを完全に取り払ってしまったとします。その論法は、代議制民主主義によって多様な人たちが何とか共同体を営んでいて、一応安定が保たれていたのに、情報通信革命を背景に、すべての情報が速くなり、それに合わせるように「かつては沈黙していた社会の層が不満を表に出す」、と同時に経済格差の拡大で、「かつて民主主義社会を支えていた中間層が消えていく」、その結果、「声の大きいものが勝つ」、「そういう暴力的、独裁的な手法が逆にまかり通るようになっているのが今の民主主義社会の現実だ」というものです。

 民主主義的な手続きは本来、「非常に時間や忍耐を要する」という本質をもっているが、それが情報通信革命によって無効化されているのだという趣旨と理解しました(「決められる政治」という言葉が例示されています)。

 このスタンダードだけれど、作家らしい「炭鉱のカナリア」的な発言に対し、小熊は、学者らしい視点から、高村の意見を補足、再解釈するような発言をしています。本来、民主制は小さな国でしか成立できないのに、近代ヨーロッパで大きな国においても民主主義という無理なフィクションを行わざるをえなくなって登場したのが、代議制民主主義なのだ、いわば選挙貴族政だというのです。第二次大戦後の代議制民主主儀は、「同じ戦争を戦ったという国民としての集合意識」と、「地域社会では皆、顔見知りであった」という地域のまとまりという二つの前提があって成立していたが、今や、それらがなくなったのだと念押しします。

 加えて、情報通信革命の状況下にあって、「通信機器を使えばもっと話の合う人と地球の裏側からでも話ができる」のに、「選挙区で選挙をやったり、国で議会をやったりしていることが納得されなくなるのは無理もない話だ」ということとなり、「一応委任という形で議会はやっているが、納得でき」なくてネット上で意見が噴出するのだと説明します。だから、こうした状況は、代議制民主主義をはじめ、現在の制度の機能不全のあらわれだというわけです。

 では、どうするのといいたくなりますが、新聞紙面の制約なのか、話はここでとどまっています。

 

 この第4回に続く第5回「情報革命時代の言葉」で、高村は、最近の<言葉>というものの劣化を取り上げ、ちょっと悲鳴をあげているみたいな発言をしています。高村の実感からは、現在の文学表現はレベルの低下が著しいが、これはネット社会の広がりと関係していて、日本だけでなく世界共通の問題だとします。つまり職業作家と素人の境目が消えてしまったと感じるが、これは読者にその境目が分からなくなったからだ、「いわく言い難いものを感じ取る感性が日本人に」あったが、もはや期待できないというのです。「言葉が正しく言い当てる、物事を言い当てられる時代は終わったんだ」とし、こんな世界におそれを抱きつつ、慨嘆しているのです。

 これに対し、小熊は、「嘆いていても世界から取り残されていくだけかもしれない」というところまで踏みこんで話しています。すなわち、高村の言葉の劣化論は、「かつて高度な読み方ができる読者共同体があった」(そこを市場に日本現代文学が成立していた)ところから出ており、「そういう共同体が政治や文化にとって重要だ」ということは理解できるが、もはや現在の世界は変化したのだというのです。つまり「現代は、微妙な前提を共有できる共同体の範囲を超えて、交流が進んで」おり、それは「必然的に文化のあり方を変える」のであり、その変化を嘆くだけでは「懐古趣味、貴族趣味になりかねない」と、高村になだめるように発言しています。そして「作家が数値化できないものにこだわるのは分かる」が、「共同体を超えて共有できるのは何といっても数字ですから、グローバル化すれば数値化が進むのは当然」だとも説明しています。

 それでも、高村は、数値化できない世界があって、私たちは生きてきた、「人間は複雑な言語をいっぱい作り上げ、複雑な世界を言い当てられるようにして、世界観を広げてきた」が、その<言葉>を捨てようとしている、「ビジネスの世界はそれでもいいが、芸術とか数値化できない世界とかは終わっていくんでしょうね」と、いささか絶望的な感想をもらしています。

 最後に発言をもとめられた三谷は、「ネットがこういう形で文明を変えていったのはやはり驚異ですね」と、見出しの「変えた文明の「形」」の元となった発言をしています。

 ここで展開された議論は、作家一人の暴走的な発言ではなく、現代の情報通信革命という時代において、本質的な問題を照射したといえるのではないかと思うのです。これから世界が続いていくなら母国語と共通語をどうしていくべきかなど根元的な文明のあり方の問題になってくるものと、翻訳なくして広い交流など成立しようもない私としては、そう感じているのです。

 

 ここで前半を終え、次稿、後半では、日本の「ポスト工業化社会」、すなわち平成という時代に生じた<変化>の背景にあるものを、もう少し掘り下げてみてみることにしたい、そして、その変化に意識が追いつかないのはどうしてかという課題についても考えてみたいと思っています。

 

【参考】

   平成史 【増補新版】』の<経済>における戦後日本の時期区分

 同書の各論である<経済>は、小熊と同じ慶大教授である井出英策が担当していますが、そこでは平成の「経済現象」をとらえるために、「経済政策」の変容を通じて追跡しています。

 ですから、小熊の時期区分(「1955年前後」「1973年前後」「1991年前後」という三つ区切り)と違っていて当たり前なのですが、井出の時期区分は副題に「「土建国家」型利益分配メカニズムの形成、定着、そして解体」とあるとおり、これに依拠しています。

 「形成期」に当たるのは、高度経済成長から石油危機に至る「プロト土建国家期(1960-74年)」、「定着期」に当たるのは、国が借金をしながら成長を支える「土建国家期(1975-98年)」です。そして「解体期」が、利益分配機能を不全化する「土建国家解体期(1999年-現在)」というわけです。

 注目すべきは、井出が、わが国の経済政策、これは国の財政金融政策と直接関係していますが、「土建国家」という観点から、解体へ向かう分岐点を1998年おいていることです。小熊の「1991年」という区切りは冷戦の終わりという時点であり、バブル崩壊とも時期を同じくし、ほぼ平成の始まりに重なっているということでした。これに対し、井出は、90年代、すなわち平成の時代は「土建国家のフレームワークが全面化していく時期(公共投資と減税によって再び政府債務が急増していく)」であり、1997-98(平成9-10)年前後の時期を境に「日本経済は大きな変貌を遂げていく」なかで、土建国家の解体が始まる(利益分配機能がはたらかなるなる)と説明しています。

 もとより、平成の30年という期間に区切りを入れることは、平成にも紆余曲折があってのっべら棒ではないのですから、おかしくも何でもありません。

 ですから、小熊と井出の時期区分は、どちらが適切かという問題ではなく、いずれも正しいと評価しておいていいのでしょう。井出の描く平成という時代は、バブル崩壊を受けて土建国家モデルを全面化させたが、経済構造の大変化によって、そのモデルが行き詰まりを示し、このモデルに替わるべきレジームを作り出せていない時代であると、トータルに理解しておけばいいのかなと思っています。

 井出が作成した下図では、右端の「1999〜解体期」に明記された特徴(例えば「非正規雇用と所得の減少」「非婚化・晩婚化の加速」)は、小熊が「ポスト工業化社会」で描写した<変化>の特徴と呼応していることが、ご理解いただけるものと思います。

  『平成史『増補新版』』の211p

                          【続く】

 

2018.07.24 Tuesday

静寂が叫んでいるようだーマルクス・ガブリエルの視線の先はー(2・完)

  前稿は、毎日新聞の記事「広がる 「21世紀型ファシズム」」(2018年7月6日夕刊)の後半部「スピード社会は我々を壊す」を要約したところで中途半端な終わり方をしていました。続けて、その前半部の「政治の倫理は大事なものではなくなった」のポイントをメモするところから続けます。

 

 記事の冒頭には、「安倍晋三政権は、政治家が倫理から懸け離れてしまった現代の象徴」というマルクス・ガブリエル(以下「M」)が発したことばがおかれています。

 こうした記事の一つの帰結の前提として、Mは、ロシアのプーチン大統領など権威主義的リーダーが目立つ現代の政治を、ムソリーニによるイタリアのファシズムと似ているとします。そして、あまりなじみがありませんが、ムソリーニ時代の「未来志向」を強調する社会運動「未来派」をキーワードに「21世紀型ファシズム」を説明しています。

 「 未来は過ぎゆく時間の一部で、中身のない幻想です。ファシズムはこの

  幻想で大衆を動かす。つまり、未来を目指すなら、現在は悪であり、今の

  ルールを壊さなくてはならないと国民を誘導する。これは今の日本のみな

  らず世界に広がっている動きです。」

 政治スキャンダルをいくら重ねても政権が崩れない現状を、Mは「まさにファシズム的統治の成果」だとし、私たちがよく使う「無責任」というより「倫理」で読み解き、次のように語ったとあります。

 「 有権者はかつて、倫理を備えたリーダーか、そういうふりをする指導者

  を求めてきましたが、最近は政治にとり倫理は大事なものではなく

  なった。典型がトランプ、安倍政権です。」

 どうして「倫理」が問われないのかについて、Mは次の発言をしています。

 「 古い価値観を捨てなければラジカルな未来は開けないという絵空事のよ

  うな言葉が、人々の倫理を鈍らせるのです。安倍政権は経済を安定させれ

  ば政権は揺るがないとわかっている。政権の中身がどうあれ、どれほどス

  キャンダルが続こうと、権威主義、強い男のイメージが備わっていればな

  んとなく支持されると。」

 繰りかえすと、「古い価値観を捨てなければラジカルな未来は開けないという絵空事のような言葉が、人々の倫理を鈍らせる」というMのことばは、今この国で生じている現実として、私は重いものを感じています。

 Mのいう「古い価値観」とは何か、このような捨てるべきものと捨ててはならないものが混同され、あげくは転倒されてしまう政治の只中で、いわば、「現実」「事実」と「幻想」「ウソ」を天秤秤にのせると、「幻想」「ウソ」の方へ大きく傾いてしまい、そのことが「現実」「事実」に基づかなければならない「倫理」を摩滅させているのです。

 当然のことながら、Mの「21世紀型ファシズム」は、今や、世界を席巻する「ポピュリズム現象」と表裏一体をなすものです。毎日新聞は来日前のMにインタビューし、前掲の記事の2ヵ月ほど前に「ポピュリズム現象は? 社会脅かすウソの政治」(2018年5月14日夕刊)として報じています。この記事で補足しておくことにしましょう。

 「ポピュリズム現象」とMの「21世紀型ファシズム」の関係は必ずしも明示されていませんが、相互貫入、相互依存の関係にあるのは明確でしょう。つまり「ポピュリズム現象」は「21世紀型ファシズム」の産婆役、先導役であり、逆に「21世紀型ファシズム」は「ポピュリズム現象」の保護者であるともいえるのではないでしょうか。

 ともあれ、現代の狭義のポピュリズムは、歴史的事実を否定し、複雑な現実を単純化して、都合の良いウソをまとった幻想を主張する運動、もとより政治的活動だということができます。このようなポピュリズムという存在と一体となった「ウソの物語」に基づいて政治が行われることの危険性について、Mは次のように答えています。

 「 社会は「我々は何をなすべきか」を指し示す規範によって作られるシス

  テムです。そして、政治はこの規範を生み出すものです。ですから、(ウ

  ソの物語によって)政治が誤った事実と認識に基づくことになれば、社会は

  事実とかけ離れてしまいます。ポピュリズムは誤った社会を形として表出

  させたものであり、社会の存続を脅かす存在です。」

 「ポピュリズムは誤った社会を形として表出させたもの」は、インパクトのある表現です。こうした負のベクトルをもったポピュリズムに、今、どうして人々が魅了されるのでしょうか。

 このことについて、Mはフロイトを持ち出し、次のように説明しています。

 「 人の文化的活動は、心理学者フロイトが名付けた(本能的に欲求を満た

  す)「快楽原則」と、(社会の仕組みを考慮し欲求を制御する)「現実原則」

  が調和している時に成り立ちます。このバランスが崩れると人は心を病み

  ますが、私たちはこの二つが一致しにくい病める社会に暮らしているた

  め、複雑な現実を単純化して提供してくれるポピュリズムのような(都合の

  良い)「幻想」を求めるのです。」

 

 では、「ポピュリズム」が跳梁する「21世紀型ファシズム」を前にして、どうすればよいのか。高い壁とともに無力感を感じずにはおれない、かつ時間的な猶予が想像しにくい、この問いにMは答えています。

 前稿の最後に、Mは「人間を壊さないモデルだ。扉の向こうにあるのは不平等解消のあるべき姿だ」と発言し、求めるべき方向として「不平等の解消」を重視していることを紹介しました。

 さらに、具体的には、Mは、資本主義下でもできる話だとして、ベーシックインカム(最低所得保障)に加え、マキシマムインカム(収入の上限)(例えば月額50万€)が必要だと説明したそうで、次のことばを続けています。

 「 国レベルでも世界レベルでも今の不平等は過去最高。今の民主主義の危

  機もポピュリズムも権威主義も、不平等の問題から来ている。扉の向こう

  にあるのは、それを乗り越えた新たな社会モデルだ。」

 その理想への道は革命的な激変ではなく、「じわじわと時間をかけて人の精神が変わっていく」ことによるとみていて、次のように、半ば冗談っぽく、半ば真剣に、発言したとあります。

 「 北欧などにはそれに近い考えがあるし、日本は今こそ格差がひどいけ

  ど、かつては収入格差が極めて小さい良き価値観を備えていた。日本がモ

  デルになれるかもしれない。」

 

 以上、Mの現代の社会と政治、特に先進国に共通する現象、そしてこうした現象が日本にも象徴的に現れていること、こうした分析はそんなに目新しいものではありません(例えば当ブログ「「そんなもんなんだ」と思考停止する前にー世界を見つめる視点ー」)。でも、哲学者の視線というか、ドイツ人というか、そこから発せられることばはやはり際立った個性があります。

 Mが扉の向こうにみる「新たな社会モデル」、その根っこにある「人を壊さない社会」「不平等の解消」という視点は、私自身もそう考えていて同意します。ただし、その理想への道筋として「じわじわと時間をかけて人の精神が変わっていく」というイメージを、残念ながら持つことができません。そのためにどのような方法がありうるのか、さらにいえば実現の可能性という点で高い壁、いわばファイアーウォールの存在を意識してしまうということです。 

 

 さて、先のテレビ番組で、私がMの哲学の本質、というより人間観、世界観にちょっと接近できたと感じたところを紹介しておきたいのです。

 当該部分は、世界的なロボット研究者である石黒浩大阪大学教授の研究室を訪問した場面です。この訪問がMの希望なのか、NHKの用意したものか分かりませんが、9日間の日本滞在を切り刻んだ構成でまとめたテレビドキュメンタリーにあって、最も長く時間をあてたところで、私からしても番組中の白眉だと感じました。

 研究室へ案内され、教授自身の5代目というロボット、ヒューマノイド(教授は「これが私のコピーです。海外へ送り講演させたりもしています」と話します)を、Mはこれを興味深く見たりさわったりして「でもやっぱり心は無いように感じる」とつぶやくところから、対話(単なる平行線ともいえますが)がはじまります。

 Mが最も強く反論した部分(正面から異論を主張)だけを取り上げます。

 まず、石黒教授の発言です。各画面のキャプションを箇条書きにしました。

 「・私は人類の未来についてある仮定を持っています/

  ・人間が動物であることです/

  ・技術を使わなければ猿になる。/

  ・人間は初めから技術やロボットと密接に結ばれています/

  ・だから将来、人間とロボットの境界は消えるだろうと推測しています/

  ・なぜロボットにこれほど夢中なのかというと、それが我々人間の目標だ

   からです」

 

 この石黒発言に対し、Mは静かに、だけれどきっぱりと、次の意見を語っています。

 「・私の考えとは深い相違があるようですね。逆の意見です/

  ・そうはならないし、試すことすらすべきでないと思います/

  ・なぜなら私たちの倫理的価値の土台は進化上の祖先にあるからです/

  ・¨私たちは猿だ¨それが倫理の源です

 ここで石黒教室の外国人研究者が「技術の進歩が人間性を損なうのですか?」という質問を出します。この問いかけに対し、Mはそうではないと否定しつつ、さらに発言を続けます。

 「・いいえ全くそうでないと思います/

  ・人間性はその度合いが減ったりするようなものではありません/

  ・人間性とはすなわち動物であることです/

  ・人間という種は本質的に10万年間は変わっていないのです/

  ・だが技術によって我々の自己像は変わる/

  ・動物であることは変わらなくとも/

  ・技術の進歩への適応は自己認識を変えてしまうのです/

  ・それが私たちの倫理と行動様式を変えてしまうのです/

  ・それは民主主義の土台が揺らぐということです/

  ・コンピューターによる社会の支配につながりかねません/

  ・それが気がかりです/

  ・今のところ日本社会はまだ民主主義ですが、しかし民主主義は脅かされ

   ている/

  ・「動物としての自己像」が脅かされているからです/

  ・正しいかどうかわかりませんが、このような見方があることを伝えてお

   きます」

 石黒教授は人類の未来として人間とロボットの境界は消えるだろうと予測しています。これは、技術万能主義に基づく自然科学的世界像、とりわけ近い将来に人工知能(AI)が人間の知性を超えるというシンギュラリティ論の立場を表明しているといえます。

 この石黒の世界像、人間観に対し、Mは明確に反対する見解を述べています。石黒の論は動物、猿としての人間の基本から離れた(「踏み外した」ということでしょうか)ところに構築されたもので、結局、人間の存立を危うくすることになると指摘しているのです。いわば自然科学だけが客観的であり、万物の尺度だとする「科学主義」を、人間の現実を踏まえない大きな誤謬だと否定しているのです。つまり技術の進歩への適応は、知性をもつ猿としての人間の自己認識を変質させてしまう、その結果、人間の人間たる基盤(Mのいう「人間性」ということもできます)が脅かされ、「倫理と行動様式の変質→民主主義の土台の揺らぎ→コンピューターによる社会の支配」という経路を招来すると、強く批判しています。 

 以上、私にとってはテレビを見ていてすうっと頭に入ってくる二人のやりとりではないのですが、二人の立脚点の相違、人間観、世界観の違いが正反対の隔たりを作り出していることは明確に伝わってきました。

 

 斎藤哲也という方によるMへのインタビュー記事(「コンピューターは哲学者に勝てない」)をネットで読むと、もう少し理解が進んだ気持ちになりましたので、少しふれることにします。

 Mが今秋出版する予定の新しい本は「人間とは動物でありたくない動物である」という一文から始まるのだそうです。「私たちは、自分の中には非生物学的なものがある」と想像しているのであって、Mはそれが「知性(インテリジェンス)」だと説明します。

 このような人間が知性を用いて「思考することとは、見ることや触ることと同様、一種の感覚の様式」であり、Mは「思考と脳の関係は、歩くことと靴との関係に似ていて」、靴が歩くわけではないように、「脳という物質が考えている」わけではなく、だから「脳は複雑な構造をもつ知性の一部にしかすぎません」といいます。ですから「人工知能」というものは存在していなくて、その証拠に「「AI研究者の誰一人として「知性」とは何を意味するか」について何も教えてくれない」と、Mは批判するのです。

 したがって、石黒教授をはじめとするシンギュラリティ論は、こうした人間のもつ「知性」というものを理解していないことにおいて根本的な誤りがあるのだと、Mは断じているのです。

 

 こうしたシンギュラリティ論の基盤となる「自然科学だけを真実と捉え、それ以外の想像的な事象を虚構と見なす科学主義」を、Mは「民主主義を損なうことにつながる」とし、それは「人権や自由、平等といった民主主義を支える価値体系を信じないニヒリズムに陥ってしまう」からだと説明していますそして、ニヒリストは価値そのものを幻想や虚構と考えることからすると、ドイツのメルケルより金正恩の方が好きなトランプは「民主主義的な解決のさじを投げてしまっている」典型的なニヒリストだと、Mは評しています。

 残念ながら危機の時代に立たされているとするMは、「これからの100年のために、分かれ道の前でどちらに進むかを決めなければなりません」と語っています。一方の道は「世界規模のサイバー独裁や全人類の滅亡に続く」もので(中国の現状、テクノロジーと自然科学の力によって自由がどんどん失なわれて、監視社会化が進行していることを例示しています)、もう一方は「普遍的なヒューマニズムを追求していく道」だとします。そして、Mの道はもちろん後者ですが、次のようにインタビューで語ったとあります。

 「 あらゆる人間存在の中の同一性を認識し、それを人類のこれからの発展

  のための原動力にしていく道です。後者に進むのであれば、私たちは、さ

  まざまな人間存在のあり方を会議のテーブルに持ち寄り、グローバルな格

  差をなくしていくためのシステムを共につくらなくてはなりません。それ

  ができて、人類滅亡というファンタジーは消え去っていくのです。」

 この道に呼応するように、テレビの方では、次のようなことばが映像となっていました。

 「・近代合理性を更新するため国を越えた連携を強く求めている/

       ・だから呼ばれればいつでもどこでも行くよ/

  ・日本は強力な連携の相手だ/

  ・思索する人による理性的な社会をつくるためにね/

  ・なぜなら地球環境の問題は科学でしか解決できない

  ・また民主主義の問題は哲学でしか解決できない/

  ・日本がいないと解決できないと思う」

 正直に言えば、ここにみられるMの自信と決意は、私のような「ヒューマニズム」に価値をおく者にとっても、想像の矢が十分に届かず逆にファンタジーのような感覚を打ち消すことはできないのです。でもしかし、日本を、日本で思索しようとする人びとを、なくてはならない連携の相手と発言していることは、ある種の欧米思想のはらむ限界の乗り越えとして、Mの哲学?の現実性を証明しているのかもしれないと感じています。

 

 最後に、Mがテレビ番組「欲望の時代の哲学ーマルクス・ガブリエル 日本を行くー」のラストで、すなわち「静寂が叫んでいるようだ」の場面に続いて制作者のテロップが流れた、さらにその後、ほんとのラストで視聴者に向けて語ったのであろう映像がありました。それは奇妙に現実的で平易で生々しい、次のことば、メッセージです。

 「・日本に張り巡らされた社会の網の目は窮屈かもしれない

  ・だがそこにある見えない壁(ファイアーウォール)を乗り越えないといけ

   ない/

  ・日々 家族でも友人でも/

  ・冷笑的で 反民主的な態度に出会ったら/

  ・ノーと言おう みんなと違っても言おう/

  ・「自由」に考えることに 最上の価値を置くべきです

 このメッセージには、マルクス・ガブリエルの哲学、思想のエッセンスがあると思いました。

                        【終:(1)、(2・完)】

 

 

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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