2017.06.30 Friday

またまたですがー宮下規久朗『ヴェネツィア 美の都の一千年』ー

 もう離れよう忘れようとしているのにまた出会ってしまう、そんなことを繰り返しているようでもあります。逆のことの方が当たり前の人生なのに、そんなことに出会うと運命を意識してしまいます。

 そんなことで、またまたですが、ヴェネツィアです。

 

 気にはなったけれど手に取ることのなかった昨年6月新刊の新書を、先月、古本屋の棚に発見したとき、これは仕方ないかと手に入れることにしました。『ヴェネツィア 美の都の一千年』(2016年6月刊/岩波新書)です。

 著者の宮下規久朗さんは、私が聴講に通う大学の教授であり、私が午前中の聴講を終えて坂を下っていると、ぜいぜいと息を切らしながら急な坂を上ってくる先生とよくすれ違っているのです。

 そんな身近なことに加え、当ブログでヴェネツィアのことをしつこく書いてきて、街全体が美術であり美術館だと確信しつつも、その後、ティツィアーノのことを書いているとき、ヴェネツィア美術の全体像が何もわかっていないことを、今更のように思い知ったからでもあります。

 ・2016.1~4 「水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィアー」(1)~(5)

 ・2017.3.15 「近づく春に、ティツィアーノ

 

 本書は小著ですが、ヴェネツィア美術一千年の通史です。宮下先生が強調する「美術の歴史は町の歴史と重なり、両者は不可分なのだ」ということを前提としつつ、本書では「ヴェネツィアで見られる作品を中心に、ヴェネツィアの美術と歴史の歩み」が概観されています。そして「とくに、軽視されがちなヴェネツィアのバロック美術を見直そうとした」と記されています。

 冒頭の「イタリアのうち、どこか一か所行くならどこがよいかと問われたら、私は迷わずヴェネツィアと答える」から本書は始まります。「美術史を志したときから長らくヴェネツィアはあこがれの地」であり、世界一の美術の宝庫であるヴェネツィアは「今でも人にいちばん薦めたい都市である」とする宮下先生です。そんな方による長く狂おしいヴェネツィアへの愛の告白であり結晶ともなっています。

 そして、最後には「私はもう二度とヴェネツィアに行くことはないだろう」「本書は、私のこの町への愛と惜別の証として書いた」とあります。このことは本稿の最後でふれることにします。

 

 ヴェネツィアの美術の発展は稀有の海洋都市国家としての地理・地勢的かつ経済・社会的な環境と切り離すことができませんが、具体には建造物やモニュメントと一体となった絵画や彫刻として表現されているです。本書には新書という制約のもとで多くの写真図版が駆使されていますが、章立てによる明確な世紀区分のもと、それ自体が美術でもある建造物やモニュメントが提示されたうえで、絵画や彫刻を論じるという方法をとっています。

 「実際にヴェネツィアを旅行するときのガイドとなるように」との宮下先生の意図もふまえ、本書は構成されているのであり、大変に概観しやすいものとなっています。

 一言断わっておくとしたら、長いカタカナの建造物名や人名がごちゃごちゃして辟易することになりますが、そんなことはうっちゃっておいて、読む人はまずは通史として通読してみることが大切だと申しあげておきたいと思います。

 

 まあそんなことより、諸般の事情が許されるのなら、この本をポケットに突っ込み、とにかくヴェネツィアに出かけてみたらいかがでしょうかということになりますが。

【注】

 本稿では、その章立てにしたがって、宮下先生の記載から選択し、上段に主な建造物<○○/△△>、下段に主な画家・建築家[○○/△△]を表記しています。そして、私自身の頭の整理に資する意味もあって、最小限ですが、章ごとに箇条書きで宮下先生の文章を引用することします(〔○○○〕は私のメモです)。

 なお、アップした写真はいずれも一昨年5月にヴェネツィアで撮影したもので、本書と関係のある建造物と絵画の映像です。残念ながら美術作品は一部を除いて撮影していませんので(こんなガイドとなるような本もなかったですし、9年前のアカデミア美術館で膨大な展示を前に茫然自失してしまったトラウマもあったりして)、例えば18世紀を代表するティエポロなどの作品は画像がないことをお断りしておきます。

  本書に掲載されたヴェネツィア本島の地図 分かりにくくて申し訳ありません

  赤く囲んだ建造物は下記に写真が掲載されているもの

 

◈「第1章 曙光の海」ヴェネツィアの誕生/6~12世紀・初期中世

  〈サンタ・マリア・アッスンタ聖堂/サンタ・マリア・エ・ドナート聖堂〉

 ・ ヴェネツィアはビザンツ帝国との結びつきを強めることでイタリア半島

  での脆弱な立場を補強した。/現在のクロアチアからギリシャ、さらにエ

  ジプト、シリアにいたる広大な地方に勢力を拡大し、地中海でもっとも有

  力な海洋国家となった。

 ・ ヴェネツィア発祥の地はトルチェッロ島である。/サンタ・マリア・アッ

  スンタ聖堂、このヴェネツィア最古の教会には今なお森閑とした雰囲気が

  漂い、金色モザイクのうちに深い宗教性が息づいているようだ。

 

◈「第2章 地中海制覇への道」共和国の発展/13~14世紀・ゴシック

  〈サン・マルコ大聖堂/サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂/

            サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂〉

   [パオロ・ヴェネツィアーノ/ヤコベッコ・アルベレーニョ] 

 ・ ヴェネツィアの国力を飛躍的に発展させたのが十字軍だった。/十字軍に

  便乗してパレスチナや東地中海に進出し、香料貿易によって大きな利益を

  あげた。

 ・ ヴェネツィアの政教一致政策が、ヴェネツィアの教会や宗教芸術に世俗

  性や独自の華やかさを付与することになった。/サン・マルコ聖堂が純粋

  なビザンチン様式であるということは、教皇庁や神聖ローマ帝国に対する

  ヴェネツィアの立場を明確にするという意味を持っていたのである。

 ・ 13世紀からヴェネツィアには教会の建設ブームが訪れる。/ドミニコ教

  会とフランシスコ教会は(中略)この二つの修道会はライバル同士であり、

  多くの地域〔ヴェネツィアにおいても〕で同時期に聖堂を建設し足跡を残

  した。〔フランシス修道会のサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖

  堂には一昨年5月の旅の最終日に訪ねました。カタール航空の午後便に乗るから行

  けたのです。そうでなければ足を運べていない気がしますし、本稿の絵画関係の

  写真もほぼ撮影できていないことになります。そしてティティアーノの「聖母被

  昇天」にも出会うことができました。〕

 ・ 14世紀までのヴェネツィアは経済発展期にあたり、(中略)独自の美術が

  生み出されることはなく(中略)、創造性や洗練さよりもきらびやかさや豪

  華さが追及された。

 ・ パオロ・ヴェネツィアーノは、ジョットやピサーロの影響によってその

  厳格さを緩和し、(中略)華やかな色彩と巧みな説話表現によってヴェネ

  ツィア絵画の方向性を確定した。

  サン・マルコ大聖堂[1063年着手→1094年完成] [2015年5月に撮影、以下も同じ]

  中世ヴェネツィア最大の記念碑にしてヴェネツィアのシンボル

  サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂[1250年着手→1338年完成]

  ヴェネツィアに進出したフランシスコ修道会がすぐに建設したゴシック様式の聖堂

  パオロ・ヴェネツィアーノ「ダンドロの半円飾り」1339年 フラーリ聖堂

 

 

◈「第3章 黄金時代」絶頂期のヴェネツィア/15世紀・初期ルネサンス

  〈サン・ザッカリア聖堂/カ・ドーロ/ドゥカーレ宮殿

   [ジョヴァンニ・ベッリーニ/アンドレア・マンテーニャ/カルパッチョ

                             /サンソヴィーノ]

 ・ 15世紀はヴェネツィアの政治経済が絶頂に達した時代であった。/オス

  マン帝国との戦闘が始まる1498年までがヴェネツィア共和国の歴史上

  もっとも平和で安定した全盛期となる。

 ・ 15世紀半ばには「テラ・フェルマ(陸の国家)」の維持を強化し、それと

  ともにイタリア各地のルネサンスが流入することになった。それにより、

  トスカーナのルネサンス様式の建築が建てられ、その内部には古典的な墓

  廟や彫刻、自然主義的な絵画の祭壇画が設置された。

 ・ 1440年代からヴェネツィアはトスカーナの新様式に反応し、ようやく

  1460年代にジョヴァンニ・ベッリーニによってヴェネツィアのルネサンス

  絵画が確立したとされる。/アントネッロ〔当ブログで昨年のシチリア旅行で

  最も印象的であった、あのアントネッロ・ダ・メッシーのこと〕の様式を吸収

  し、自然主義的な細部描写や光や大気の表現に成し、また線描が目立つ

  様式から色彩と色調を中心とするやわらかい様式創出した。〔ヴェネツ

  ィア絵画は線描より色彩といわれていますが、本稿の最後でもふれてみることにし

  ます〕

 ・ ベッリーニはイタリア美術史において、光に照らされた風景の美を

  もっとも早く表現した画家であった。ベッリーニの弟子ジョルジョーネは

  こうした風景や光への感性を発展させて、牧歌的な風景画を描く。

 ・ 再建されたドゥカーレ宮殿は、当時のイタリアの統治者の居城や市庁舎

  と異なり、軽やかで祝祭的であり、要塞のような重厚さはまったく見られ

  ない。そのため以後、ヴェネツィアを訪れる者に、この町が内乱とは無縁

  で平和が保たれていることを印象づけたのである。

  ドゥカーレ宮殿[たびたびの火災により現行の形は15世紀半ば] 統治機構のすべてを含む

  ゴシックからルネサンスのヴェネツィア美術を代表するモニュメント

  カ・ドーロ(黄金宮殿)[1434年建造] 当初は全体が金箔で装飾されていた

  ジョヴァンニ・ベッリーニ「フラーリの祭壇画」1488年 フラーリ聖堂

  アンドレア・マンテーニャ「聖セバスティアヌス」1497年 カ・ドーロ

  マンテーニャの厳格な人物造形等はベッリーニに影響を与えたとされる

 

◈「第4章 爛熟の世紀」動乱のルネサンス/16世紀・盛期ルネサンス

  〈サン・マルコ広場/サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂

                     /レデントーレ聖堂/リアルト橋

   [ジョルジョーネ/ティツィアーノ/ティントレット/ヴェネローゼ

                              /パラーディオ]

 ・ ヴェネツィアは、16世紀には政治的・経済的に陰りが生じるが、文化は

  さらに発展し、黄金時代を迎える。/とくにこの時期のヴェネツィアは、

  絵画のティツィアーノや建築のパラーディオのように、西洋美術史上で圧

  倒的な規範となる天才を生み出したのであった。

 ・ パラーディオは、古代神殿のようなフォサードをもつサン・ジョルジョ

  ・マッジョーレ聖堂やレデントーレ聖堂を建てたが、いずれもヴェネ

  ツィアの景観の重要なメルクマールとなる。

 ・ 〔ダ・ヴィンチの影響でスフマートを開拓した〕ジョルジョーネ以降、ヴェ

      ネツィア派は、フィレンツェ派の線描に対して色彩を重視する様式として

  歩み始める。

 ・ ベッリーニ工房に入り、ジョルジョーネの弟弟子であったティツィ

  アーノは、長い画家人生のほとんどをヴェネツィア共和国の公式画家とし

  て過ごしたが、その名声はヨーロッパ中に広がり、(中略)その多彩な才能

  と飽くなき想像力から「画家の王子」と呼ばれる。

 ・ ヴェネツィアはそれによって〔「それ」のことは最後の方で引用する〕ロー

  マに匹敵する美術の中心地となり、ローマの線描に対するヴェネツィアの

  色彩という図式が定着した。/(中略)素描よりも色彩を重視するヴェネツィ

  ア絵画は、輪郭線と色彩が溶解するようなティツィアーノの表現主義的な

  晩年の様式において、その極限に達している。  

  サン・マルコ広場[1537年以降の図書館等の建造により現在見るような大空間に変貌]

  世界で最も美しい広場として有名ですが

  サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の近景[1559年着手→1610年完成]

  パラーディオはローマで古代建築を学び1570年にサンソヴィーノの跡を継いで建築総監督

  レデントーレ聖堂[1576年のペスト流行からの解放を記念して建設]

  ティツィアーノ「聖母被昇天」1516-18年 フラーリ聖堂

  ヴェネツィア最高の画家によるヴェネツィア美術の最高傑作

  ティツィアーノ「ペーザロの祭壇画」1519-26年 フラーリ聖堂

  聖母を中心とした左右対称ではなく右の高みにおいて対角線上に人物を配した斬新な構成

  ティントレット《聖ロクス大同信会館2階大広間》1576-81年 聖ロクス大同信会館

  聖ロクス大同信会館の壁画はティントレットが20年以上かけて取り組んだライフワーク 

 

◈「第5章 衰退への道」バロックのヴェネツィア/17世紀・バロック

  〈サンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂/カ・レッツォーニコ/サン・モイゼ聖堂

   [パルマ・イル・ジョーヴァネ/ルカ・ジョルダーノ/ロンゲーナ]

 ・ 16世紀に政治経済的な凋落の傾向が始まったにもかかわらず、文化の絶

  頂期に達したヴェネツィアは、17世紀にはすべてが衰退していく。17世紀

  はヴェネツィア美術史にとっても一種の暗黒の時代であったといって

  よい。

 ・ 17世紀は、ローマでバロック美術が生まれ、(中略)ヴェネツィアにもそ

  の波が押し寄せた。その最大の巨匠が建築家ロンゲーナで、(中略)ヴェネ

  ツィアの伝統をたくみにバロック化するのに成功した。サンタ・マリア・

  デラ・サルーテ聖堂はその代表作で、ヴェネツィアにおけるバロックの幕

  開けを告げるものになった。

 ・ 二つの惨事〔1575年と1630年のペストの大流行〕は近世ヴェネツィア社会

  を襲った甚大な悲劇であり、ヴェネツィア文化の底につねに流れていた死

  という水脈を顕在化させた出来事である。しかし、前者の終息の際には

  パラーディオによるレデントーレ聖堂、後者のときはロンゲーナによるサ

  ンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂が建設され、ヴェネツィアの都市景観

  に新たな美を加え、さらにそれぞれレデントーレの祭りとサルーテの祭り

  という祝祭となって、忌まわしい記憶が昇華されているのである。

 ・ 17世紀には全ヨーロッパ的な芸術家や作品の移動が活発になり、15、

  16世紀に見られたヴェネツィア美術の一貫性と独自性がなくなってし

  まったのである。〔突出した個性が平準化し、トップランカーが引きずりおろ

  されるというようなことか〕

  サンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂[1631年着手→87年完成]

    近くによるとバロックてす

  カ・レッツォーニコ[1649年ロンゲーナ着手→1756年マッサリ完成]

 

◈「第6章 落日の輝き」ヴェネツィアの終焉/18世紀・後期バロック、ロココ

  〈ジェズアーティ聖堂/ラビア宮殿/フェニーチェ劇場

   [ティエポロ/アントニオ・カナル(カナレット)/ジョルジョ・マッサリ]

 ・ 徐々に衰退の道をたどってきて、そのまま西洋の辺境に落ちていくと思

  われたヴェネツィアは、そのままでは終わらなかった。共和国滅亡前の18

  世紀、異様なほどの文化の高揚を示すことになる。

 ・ 18世紀初頭のヴェネツィアでは、新貴族や教団によって一種の建設ラッ

  シュがおこり、文化への投資もさかんになった。16世紀のヴェネツィア派

  の黄金時代を担ったのが、ドゥカーレ宮殿の装飾に代表されるように、

  もっぱら共和国政府であったのに対し、第二次ヴェネツィアというべき18

  世紀のヴェネツィア派を生み出したのは、新興貴族や教会の富だったので

  ある。

 ・ 18世紀のヴェネツィアが、政治的・経済的には無力であっても、文化の

  面では多くのものを発信し、ヨーロッパ的芸術の一中心地となったという

  のは驚異である。

 ・ ジャンバチスタ・ティエポロの軽やかな装飾様式はバロックの最後の光

  芒を示すものであり、彼はジョット以降のイタリア美術を締めくくる最後

  の巨匠となった。

 ・ 安定と自由に満ちたヴェネツィアには、「グランド・ツアー」の流行と

  あいまって旅行者が増大し、観光産業が隆盛する。/観光客への土産物とし

  てヴェドゥータ(都市景観図)が人気を博した。/アントニオ・カナル(通称カ

  ナレット)の作品や素描は、主に版画家ブルストロンによって大量に版画化

  され、それが世界中にヴェネツィアのイメージ〔名所としてのヴェネツィアの

  典型的なイメージ〕を流布させることになった。

 ・ この世紀の終わり、ヴェネツィア共和国がまさに終焉を迎える5年前の

  1792年にフェニーチェ劇場が誕生した。/この劇場はヴェネツィア共和国

  一千年の歴史の終盤に登場し、今なおヴェネツィア芸術の粋を見せてくれ

  ており、まさに、ヴェネツィアという都市の記憶装置にして、ヴェネツィ

  ア文化の生き証人であるといえよう。

  ジェスアーティ聖堂[1726年ジョルジョ・マッサリが着手→36年完成]

  ティエポロの代表作があったようですが 対岸のジュデッカ島から撮影しました

  フェニーチェ劇場[現建物は2003年に再建されたもの] 

  度重なる火災からのフェニーチェ(不死鳥)

  同上の劇場内部

 

◈「終章 生き続けるヴェネツィア」

  〈ヴェネツィア・ビエンナーレ/ペギー・グッゲンハイム美術館

 ・ 18世紀末にヴェネツィア共和国はナポレオンの侵攻によって終息し、フ

      ランス、次いでオーストリアに支配された後、イタリア王国の一部に組み

  込まれた。

 ・ ヴェネツィアはビエンナーレだけでなく、意外にも近現代美術の宝庫で

  もある。カ・ペーザロ内の近代美術館やペギー・グッゲンハイム美術館で

  は充実したコレクションを見ることができる。

 ・ ヴェネツィアという都市は、中世から現代にいたるあらゆる美術を受け

  入れてきたが、やはり共和国の最盛期であった15世紀から16世紀のルネ

  サンスと、18世紀の美術が最もヴェネツィアらしい。その時代のヴェネ

  ツィア美術こそは、西洋中に影響を与えたまさに中心地であった。そして

  そこにはヴェネツィアという町の魅力が凝縮しているようであり、ヴェネ

  ツィアの景観や雰囲気を見事に反映しているのだ。

 ・ ヴェネツィア美術を代表するティツィアーノの作品〔フラーリ聖堂の

  《聖母被昇天》とサルヴァドール聖堂で見る《受胎告知》〕には、この町の運命

  のすべてを表しているように見える。町の歴史と美術とが不可分に結びつ

  いたヴェネツィアほど、芸術に生命を与える環境はないといってよい。

  ペギー・グッゲンハイム美術館[18世紀のパラッツォ・ヴェニエール・ディ・レオーニを活用]

  同上 グラン・カナルのテラスにおかれたカルダーの彫刻

  ビエンナーレの展示(ジャウメ・プレンサ「TOGETHER」)

      サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内

 

◈おわりに

 通読していただくべき本を、引用の断片で切り刻んでしまったようでちょっと恐縮しています。

 おわりにあたり、本稿の前段で記した二つの宿題について、これも引用が中心となりますが、述べてみることにします。

 

 一つ目は、ヴェネツィアがローマに匹敵する美術の中心となり、ローマの線描に対するヴェネツィアの色彩という図式が定着したことの要因です。《色彩》のヴェネツィア絵画というイメージを定着させた画家たちの継承と発展のドラマです。

 「 ヴェネツィア美術の頂点をなす16世紀ヴェネツィア絵画は、ジョヴァン

  ニ・ベッリーニの暖かい光と色彩によって開幕し、ジョルジョーネの詩情

  豊かな様式を経て、ティツィアーノがそれにローマの古典主義を融合させ

  て超人的な高みにまで上昇させた。そして、ティントレットはティツィア

  ーノの劇的な表現力と構成を、ヴェネローゼはティツィアーノの華麗な色

  彩表現と構想力を継承して発展させたといえよう。」 

 では、ヴェネツィアの生み出した絵画が色彩豊かで華麗であるのはどうしてなのかという疑問が残りますが、宮下先生は本書の最初の方で、美術史家のジョン・スティーアがそのことをヴェネツィアの特殊な環境に求めていることを紹介しています。「水に浮かぶヴェネツィアは、空と海が近接し、どこもかしこも水の反射によって非常に明るく、色彩もきわめて鮮明に映る。一方、水蒸気は逆に色彩を吸収することもあり、とくに冬はすべての光景をモノクロームに還元してしまう。湿潤な空気のうちに不断に移ろうこうした視覚体験から、線描よりも色彩を重視するヴェネツィア絵画が生まれた」と、スティーアは主張しているようなのです。これに続けて宮下先生は次のように書きます。

 「 たしかに、色彩と変化にあふれたこの町に行くと、誰しもが景観への関

  心が呼び覚まされ、視覚の喜びに浸ることができるが、視覚芸術はこうし

  た感性や逸楽の延長にあるものだ。」

 例えば絵画の山があるとして、これはローマ、これはフィレンツェ、こちらはヴェネツィアなどと仕分ける能力はまったくありませんが、《色彩》のヴェネツィア絵画がヴェネツィアの町という特殊な環境によって育まれたことは否定すべくもないと、私も理解しています。

 

 ヴェネツィアほど都市と美術とが結びつき、渾然一体としたえもいわれぬ魅力を生み出している町はないと断じる宮下先生は、逸楽のうらに死のはりついたヴェネツィアが誘惑する一日について、次のような言葉を記しています。

 「 海の香りのする迷路のような町を歩き回りながら教会や美術館でヴェネ

  ツィア美術を鑑賞し、新鮮な魚介を中心とするヴェネツィア料理を白ワイ

  ンとともにいただき、夜はオペラかコンサートに行ってヴェルディやヴィ

  ヴァルディを聴く。そしてその余韻に浸りながら静まり返った町を歩いて

  橋を渡って宿に帰る。そんな一日が、ヴェネツィアの提供する最大の魅力

  にほかならない。これほどの贅沢は、ほかの都市ではなかなか味わえない

  だろう。少なくとも、それがすべて徒歩圏で収まる町はない。少し無理を

  しても、一生に一度くらいは体験する価値はあるだろう。」

 

 最後、もう一つの宿題です。こんな旅嫌いの人でも骨抜きになってしまうような文章を刻む宮下先生はどうして「もう二度とヴェネツィアに行くことはないだろう」と記しているのかということです。

 娘さんが22歳のときに突然がんにかかり、三年前に逝ってしまったとのことです。「それ以来、美術だけでなく、人生にもこの世にも意味を見出せなくなって現在にいたっている」と、宮下先生は記しています。もう幸せな気分でヴェネツィアを味わうことはできない、ヴェネツィアにはもう行けないと感じられたようです。

 それでも、本書刊行の前年、遺骨の一部を撒きたいと思い立ち、「カーニバルの賑わいとは無縁な沖合いの島に建つサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の前の広場の階段」から海に撒かれたとあります。

 そして最後に「本書は、私のこの町への愛と惜別の証として書いた」とし、「ヴェネツィアの彼岸で待っていてくれているはずの娘の麻耶に、本書を捧げたい」と結ばれています。

 大学への急な坂をぜいぜいと息を切らしながら上ってくる宮下先生の顔を思い浮かべると、粛然たる思いにとらわれてしまいます。

  サン・マルコをのぞむサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂前の広場

2016.04.21 Thursday

水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(5)ー

◈ヴェネツィアという「美の壺」
 ときどき『美の壺』というテレビ番組をみることがあります。正式にはこのメインタイトルの前に「鑑賞マニュアル」というサブタイトルが付されており、この「壺」とは「ツボ」のことのようで、<美>をよく感じたり分かったりするための視点やコツを伝授しようということかなと思います。

 ではヴェネツィアの「美の壺」とは問われた場合、私は、自動車のない世界で「船(ヴァポレット)に身をゆだねる」「路(カッリ)をひたすら歩く」そして「言葉にできないヴェネツィアの魔力(非現実感のようなもの)を感じる」とでも答えることになりそうです。
 
 前号の最後のところに次回でヴェネツィアのことを終えるにあたり「ブローデルの地中海史観からみたヴェネツィアの歴史をいっしょに考えてみたい」と身のほどしらずなことを書きました。
 そして今も軽々に「ヴェネツィアの魔力」などと書いてしまいましたが、フェルナン・ブローデルはヴェネツィアの魔力は定義することが困難であり、その時間の流れ方はふつうとちがっており、他のヨーロッパの古い町のように想像力を働かせるのも「無益な業」だと言います。それほどヴェネツィアは<過去>がいたるところに偏在しており、<現在>は自分から逃げ出してしまうからだと言いたいようなのです。
  「 ヴェネツィアの魔力を定義し、明確に捉えることは困難だと思う。そ
   れと意識もせずにその魔術にかかり、誘惑に屈するのだ。ヴェネツィア
   の魅惑、神話、誘惑を産み出すのは、幻想や夢に近い非現実感なのであ
   る。/ 訪問者の趣味や生き方や教養がどんなものであれ、それらがすべ
   て異郷感として肉体に染み込み、目撃したのか夢見たのか、しかとわか
   らぬ世界にいるような印象を与える。いまだかつて見たことのないもの
   の与える奇異感。よく知らぬものへの転落。」
  「 ものみなを包みこむ、柔らかくぶあつい壺にはまり込んだかのような
   のだ。執拗なまで単調な知覚は、最後には真理の幻想を産み出す。」

 非現実感とは「夢見心地に誘われる」ことであり、ブローデルはヴェネツィアの魔力のようなものを前記の引用のとおり「柔らかくぶあつい壺」と「壺」そのもののイメージでも表現しています。

 最終の今号では、ヴェネツィアとはなんだろうを考えるうえで旅の後で読み直すことになったフェルナン・ブローデルによる『都市ヴェネツィア-歴史紀行-』(1986年11月刊/岩波書店)の<ヴェネツィアの歴史>に関する記述の中から、印象的な部分を紹介させていただくことにします。


◈二つの世界の接点という位置ー地中海という視角ー
 『地中海』は20世紀最大の歴史家のひとりとして数えられるフェルナン・ブロ―デルの主著であり、師リシュアン・ルフェーヴルによって「歴史学の革命」と呼ばれました。
 この『地中海』を読んでいない私が、プローデルの地中海史観と書くのは誠に軽はずみなことですが、『都市ヴェネツィア-歴史紀行-』の叙述、とりもなおさずヴェネツィアの繁栄と衰退は地中海世界が一つの経済圏として世界の中心であった時代と、そして次第にそうでなくなっていく時代とを照応させたものとなっていますので、この勇み足もお許しをいただければと思います。

 地中海とは、紀元前の昔からフェニキア、カルタゴ、ギリシァなどが内海をわたり植民都市を建設したり支配・被支配を繰り返してきた地域です。先日のシチリアへの旅でも改めて感じたのですが、東海岸のシラクーサは当時のギリシァ最大の植民都市であり、タオルミーナともども、現在の最も有名な観光スポットはいずれも<古代ギリシァ劇場>なのです。
 地中海はそんな人とものの交流と、支配・被支配の歴史を有する地域であり、地中海岸のヨーロッパ側に位置するヴェネツィアがそのような地理的な影響から逃れられるはずもないわけですし、この地中海に面していたからこそ、今のヴェネツィアの景観をつくりあげることになった<都市国家ヴェネツィア>の繁栄と栄華がありえたことは素直に理解できるところです。
 見えにくい地図をアップしていますが、ヴェネツィアは、地中海の全体からしますと、ヨーロッパ側から突き出たイタリアが真ん中あたりであり、そのまた東側アドリア海の奥に位置しています。地中海貿易で覇権を争ったイタリアの他の都市ジェノヴァ、ピサ、アマルフィがイタリアの西海岸であるティレニア海に面しているのに対し、ヴェネツィアは東側のアドリア海に位置していることに注意してください。
 ヴェネツィアに大がかりな交易をすすめる力さえあったら、最も意識すべきところは東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノーブルであり、さらにはシリア、エジプトであったということになります。

 プローデルは、この地勢的な特質を、ヴェネツィアはローマ帝国の分裂によって生じた二つの世界の接点に位置していたとし、次のように記述しています。
  「 民族大移動の打撃のまえにたちまち崩壊する西ローマ帝国と、旧ロー
   マ帝国以上に長く命運を保ち、もろもろの特権を守り抜き、遠目には
   堂々として威厳にみち、古代ギリシァの富を手許に引き寄せて生命の
   糧とした東ローマ帝国(ビザンチン帝国とも呼ばれる)である。」
  「 海の道、この町に向って流れる川の道、この町のためにすでにアルプ
   スを越えて通じていた陸の道に恵まれていたヴェネツィアは、二つの帝
   国から利益を引き出す。/ ヴェネツィアは、隷属状態を思わせる面も
   あったとはいえ、とにかく後者に属する利点をもち、後者のために働く
   ことになる。」
  「 最初、ヴェネツィアはみずから望んでコンスタンティノープルの熱心
   な召使であろうとし、そういうものとして立ち現れる。というのもコン
   スタンティノープルは羨望に値する都市、信じがたいほど裕福な、黄金
   に富み、目も綾な絹織物に富む都だったからだ。/そしてヴェネツィア
   は塩、麦、奴隷など、その首都が求めるものを、すべて運びもたら
   す。」

 このようなヴェネツィアの交易活動はビザンティウムを越えて、かなり早い時期にイスラムの岸辺に達するのです。823年には、エジプトのアレキサンドリアから、福音書作者聖マルコの貴重な遺骸がヴェネツィアにもたらされ(金で買い取った、さらには盗み出したという説もある)、聖マルコとその象徴としての獅子が、この町の守護聖人となるのです。
 これに先立ち697年には貴族の投票によって総督ドージェが選出され、これをもってヴェネツィア共和国の誕生、建国とされています。

 ヴェネツィアは、こうした地理的、時代的な背景から、キャッチアップの条件をしっかりと掌中としながら、繁栄と栄華に向って長い航海に乗り出していくのです。


  地中海の全体地図

  地中海の東側の地図

◈兎と亀の競争ー都市国家と領土国家ー
 地中海という大きな舞台において、ヴェネツィアというような小さい都市が大活躍できたのはなぜか。近現代の国家ではないにせよもっと力の強い王国・帝国に先行して最前線へ登場してくることができたのはなぜか。こんな問いに対し、ブローデルは、寓話風に説明しています。
 紀元1000年頃から、ヨーロッパがついに最初の近代性を創始した時、優位を競う闘争がはじまりました。ブローデルは、都市国家=兎と領土国家=亀に喩えており(「ようするに昔からよくある競争だった」としています)、この争いでは身軽で敏捷な兎=都市国家がいわば足を引きずっていた亀=領土国家に先行することになったと説明します。
  「 都市国家は近代性を目ざして軽快に船を進め、通商を開き、非常に早
   い時期から、それと知りもせずに、一種の資本主義を再創出する。その
   産みの親はヴェネツィアだと考える人もいたほどだ。」
  「 亀もたしかに走ろうと努めたのだ。しかし長年月にわたる社会的・政
   治的・経済的危機や、百年戦争と呼ばれる、いつ終わるともない障害物
   競走のために、かなり長い間、近代化競争に加わることができなかっ
   た。巻き返しに出るのははるかのちのことでしかない。というのも、亀
   も巻き返しに出るからだ。」
  「 こうしてもろもろの都市のほうが先行する。つまり今度は兎のほうが
   分別を備えていた。幸運にも恵まれた。」

 そして幸運の例として、前述のヴェネツィアの地理的な条件、二つの世界の接点に位置していたことを指摘しているのです。

 後でもふれますが、当時の情勢においては都市国家の方が経営体としてより効果的・効率的に機能できたのだというのがプローデルの考え方であるようです。当時の都市国家はいわば意思決定の迅速性、資本の集中投下、軍事的な機動性等において(ある種の近代性にちがいありません)、図体のでかいいわゆる領土国家よりも勝れていたと言いたいようです。
 イメージとしては、戦後日本の護送船団方式とか、諸外国からみて日本株式会社と呼ばれたことと少し似ているかもしれませんね。

 こうしてヴェネツィアは、東ローマ帝国、すなわちビザンチン帝国を養分として育っていき、11世紀の末に興った十字軍という好機にとびつき、さらに勢力を拡大していきました。分割された帝国を踏み台に、広大な領土を手中に収めるとともに(1204年コンスタンティノープル占領)、島々や中継ぎの港など、海を支配し、確実に富を増す足場を手に入れたのです。
 ブローデルは、この本を書いている1984年の世界というこの不条理きわまりない世界の市民である私たちに、審判者を気取る権利はない(今も(ヴェネツィアと)同じような悪事を働いている)としつつ、次のように総括しています。
  「 なにはともあれ、ヴェネツィアがー昨日のヨーロッパ諸国民と同じ
   くー力と暴力と欺瞞のうえに栄華を築いたのはまぎれもない事実であ
   る。とにかく死ぬのに数世紀の時間をかけた病人のようなビザンチン帝
   国を、最初は経済的に搾取し、やがて政治的に利用することによって
   ヴェネツィアはのし上がったのだ。その点は述べておかなければならな
   い。」

 この象徴として、サン・マルコ寺院を取りあげ、「異様なまでに装飾過剰であり、途方もなく異邦的に思えるのではなかろうか?」とし、「ビザンチンそのものにほかならない心臓をもって何世紀ものあいだ生き続けられた」こと(コンスタンティノープルの戦利品も飾られている)を指摘しています。
 ローマカトリック教会の建築といっても建造の時期によって多様ではありますが、確かにサン・マルコ寺院からは東方の色や形を誰もが感じることになりますね。


  丸屋根、金モザイク、16世紀になって正面がゴチック様式に作り変えられた
 
  聖マルコの象徴である獅子

◈繁栄と栄華の源(みなもと)ー共和制の持続ー
 ヴェネツィアが繁栄と栄華の頂点にあったのは、1380年に主要な敵であったジェノヴァとの戦いに勝ってラグーナの出口にあたる近隣のキオッジャを奪回したことによって、その後1世紀以上ものあいだ優位が確立できていた時期だとされています。
 ブローデルによると、この期間、15世紀という時期は「地中海全域のみならず全ヨーロッパの交易はヴェネツィアを重心として展開され」、「今やヴェネツィアの貴族たちは大規模な交易によって莫大な利益をあげ、あらゆる交通と貿易の支配者としてゆるぎない地位を占めた」と記しています。

 こうした成功の鍵を、プローデルは何よりヴェネツィア共和国政府の業績であり、これをヴェネツィアが都市国家としてヨーロッパで最初の近代国家であったことに見出しており、この都市国家は領土国家が何世紀もかけた特徴をすべて備えていたとしています。
 たとえば、15世紀の経済活動の停滞期には、《ガレーレ・ダ・メルカート》(通商船団)を武装させるべく大型の運搬船を国家が建造し(現在もカンナレージョ地区に造船所がありますが、当時は世界最大の工場であったらしい)、利用者に貸し出しを行い、当時のヨーロッパの経済世界全体に蛸の足にように手をのばしたようです。
 また一種の諜報機関、情報機関を創設して、監視や情報収集力を高めるような政策も断行するなど、いわばプラグマティズムを徹底して追及することのできた政治体制であったのであり、「マキァヴェリ以前に、いや誰よりも早く、ヴェネツィアは、実際面において、国家理由と国家犯罪を発見していたことになる」とブローデルは評しています。
 そしてこう書くのです。
  「 愛国主義、植民地主義、帝国主義、資本主義などは、ヴェネツィアが
   産み出したと言えないにせよ、−これらが仰々しい洗礼名をはるかにの
   ちのことだったが、古い時代にすでに現実として存在していたのでーの
   ちに19世紀の強大国がそうしたのと同じように、ヴェネツィアはなんの
   やましさも覚えることなくそれらを実行していた。」

 こんなヴェネツィアの栄華の描写は不完全なのは言うまでもないとことわりもしています。
  「 勇気、芸術的趣味、美的感覚、生きる喜び、さらに市会の政治技術、
   円滑に動く機構、叡智に満ちた政治、私はそれらに言及することを忘れ
   た。」


 このようにブローデルは、ヴェネツィアという都市国家の権力機構の近代性をその繁栄の原動力として強調しています。
 この共和国の権力機構は実に1797年のナポレオンによる侵略まで連綿と続いたのです。ヴェネツィアの貴族、市民、庶民の三層構造において、貴族だけが参政権をもつものであり、現代の共和国とは同じではありませんが、その権力機構を概観しておくと、下の写真の中の図のような形態となるようです。議会と執行機関と司法機関がこの図の中に組み込まれています。
 この図を掲載した資料
(「ヴェネツィアの権力機構」)はネット検索で入手したものであり、その正誤は分かりませんが、概ねこんなものだったのでしょう。詳しく書きませんが、貴族全員(時代によるが25歳以上の男子1000〜1500人)からなる大評議会はいわば国民総会であり、その一部としての元老院(16世紀には総数260人)が国会にあたるもののようです。
 ドージェという元首と国家財政を管轄するサン・マルコ財務官(9人)は終身任期ですが、その他の役職はいずれも任期が1年以内と短いものでした。それならドージェの独裁になりそうですが、それを許さないようにその権限が細かく制限されていたとあります。
 この資料の筆者は「各役職がお互いに複雑に監視し合い、制限し合うように組織が作られていますね。これは早い話が官僚国家なのです」とし、「ヴェネツィア共和国は、人間というものを信じないことから、こんな複雑な政治形態を採用したのかもしれませんね」と書いています。


  ヴェネツィアの議会の組織図

  元老院の組織図

  ドゥカーレ宮殿、この中に大評議会の間、元老院の間などがあります

  左側が旧政庁、右側が新政庁 かつて執行機関がここにありました

 いつものように脈絡もなく長くなりそうですが、事のついでということでブローデルの代表作『地中海』を紹介しているブログに依拠して補足しておくことにします。
 このブログとは熊本大学の苫野一徳さんという若い方(熊本なのですね)で名著紹介をブログで2010年から続けておられます。それこそ「引用」を中心としているので、私にとっては、とても手の届かない本の言葉(もちろん日本語に翻訳されたもの)を読むことができてありがたいのです
(「苫野一徳Blog(哲学・教育学名著紹介)」のプローデル『地中海』(1)分)
 『地中海』においてブローデルはいわば「長波」「中波」「短波」の三層構造によって歴史を把握することを提唱しており、この大冊はこの順に三部から構成されています。この中の長波「ほとんど動かない歴史」を扱うところ、「環境の役割」が論じられる部分で気になったところを紹介しておきます。

 プローデルによると、「実は、地中海は根本的な貧しさと戦っている」のであり、その土壌の特徴を次のように書いています。
  「 地中海の土壌には、不毛な石灰質があり、塩の呪いに満ちた広大な土
   地があり、平原はブロン・デュ・マンの語った「硝石」がいっぱいで、
   耕作しやすい上地は少なく、耕作できる土壌は不安定である。性能の悪
   い木製の無輪犂だけで浅く耕す、痩せた土地の表層は、風や激流の流れ
   のなすがままである。」

 シチリアの中部高原地帯では石灰岩が山肌から露わになったところを多く見かけました。こんな痩せた土壌が支配的な平野部を土地改良するためには、開拓するためにはお金がかかり、新しい土地は常に金持ちに支配されてきた、だから「地中海では大土地所有が法則」だというのです。このような膨大な金のかかる平地の整備のために、人びとは商業貿易を必要としたのだとし、ブローデルはこう論じます。
  「 より正確に言えば、こうした貿易は、豊かな資本を持つ、外部に開か
   れた大商業都市が行うのではないか。我々が話題にすることができた16
   世紀のすべての土地改良事業は、まさにヴェネツィア、ミラノ、フィレ
   ンツェ.....といった大都市地域のなかである。」


 苫野さんは、ここで「イタリアで近代資本主義の芽が出た1つの理由があるのかもしれない」とつぶやいているのですが、この商業資本主義と呼ばれるような15〜18世紀の大商人(資本家)の戦略について、もう一つの主著である『物質文明・経済・資本主義』の中でブローデルは次のように書いています。
  「 われわれが問題としている諸世紀において、われわれは大商人が、少
   数でありながら、最高度に戦略的なポジションである遠隔地交易の鍵を
   握っていたこと、彼らがニュースの伝搬が緩慢できわめて高価な時代に
   おいては比類のない武器である情報の特権を、自分たちのために持って
   いたこと、一般に彼らが、国家と社会の暗黙の支持を得ており、その結
   果、彼らがつねにまったく自然に、良心のとがめを感じることもなく、
   市場経済のルールをねじまげることを示す必要があろう。」

 このような書き方は、前記のヴェネツィアの繁栄と栄華についてのブローデルの表現と通底していますが、だからヴェネツィアの繁栄と栄華を否定しているのではないことに留意しておきましょう。
 いずれにせよ、こうした諸条件のもとで目くるめくようなヴェネツィアの繁栄と栄華は導かれたのです。


◈歴史は終わっていないー衰退と成熟の狭間ー
 老いにも同じことがいえそうですが、衰退の自覚はなかなか難しいようです。繁栄と栄華の時代は高揚のただ中に衰退をも用意しているものであり、その最中に衰退の準備は始まっています。

 ブローデルは衰退に向かったヴェネツィアのことを語る前に、次のことを強調しています。
  「 16世紀とともにヴェネツィアが衰退に向かったのは事実である。しか
   し、瓦解の様相を呈したわけでもなければ、すべてを問題として提起す
   るような人間的錯誤の論理的結果でもないこの交代については、いささ
   か苛立ちをこめて弁護したいと思う。そんなことが許されるだろうか?
   私としては、許されるどころか、絶対に必要だと思う。」

 教科書ではかくかくしかじかで「繁栄を謳歌していたが、衰退に向かうことなった」で記述が終わってしまうことになるが、歴史とはそういうものではないのだ、とりわけヴェネツィアはそうではないのだ、「死んだわけでもなければ無に帰したわけでもない」と言いたいのでしょう。

 衰退に向かった大状況を、次のように記述しています。
  「 16世紀が真に始まった時、ヴェネツィアはもはや女王のようにヨー
   ロッパの中心に位置していたわけではない。ヨーロッパはもはやヴェネ
   ツィアの回りを回っているのではなかった。ほんの短いあいだ、1550
   年ないし1560年ごろまでであるが、中心となったのはアントワープ
   だった。次に奇妙にこみ入った形で、1579年から1621年までは商人・
   銀行家のジェノヴァが中心としてふたたび浮上し、さらにそのこと今度
   はアルステルダムが取ってかわる。」


 その背景として、オスマントルコ帝国が1453年にコンスタンティノープルを占領し、16世紀初頭にはシリア、エジプトを支配下においたが、これは「香料、胡椒、薬種の取引と、毛織物と絹織物の輸出で生命を保っていたヴェネツィアにとっては必要不可欠な地域が掌握された」ことを意味していたのです。
 一方、スペインでは、1479年カスティリアとアラゴンを統合し、積極的に太平洋に乗り出していき、アメリカ大陸の発見と植民地化とともに、西地中海を支配していったし、フランスでも王権の強化が進んでおり、兎と亀の亀=領土国家たちが大いに活気を取り戻した時期なのです。
 この東と西の接点においてひんぱんに戦いが生じたのであり、特に1571年のレパント海戦では、ヴェネツィアはスペイン艦隊といっしょになってオスマントルコ帝国に華々しい勝利をあげました。ブローデルは「衰退のまえのこの勝利が、まことに奇妙な里程標であることは認めなければならない」とし、隆昌のあとには引き潮がくるのであって、しかも「引いて行く水は満ちてくる潮よりはるかに速い」と書いています。
 このことが『地中海』では次のように書かれています。
  「 地中海にとっては、レパントの海戦の後、地中海の大戦争は終わっ
   た。大戦争は北にあり、大洋の西にーしかも数世紀にわたってーであ
   る。そこにこそ大戦争は存在するはずであり、またそこで世界の心臓
   が鼓動を打つ。」

 経済の重心は地中海から西へ、北へと移動していきます。

 同時にヴェネツィアは資源の制約や疫病にも直面していましたが、『地中海』ではこんなふうに記されています。
  「 15世紀末から、柏の量が少なくなり、ヴェネツィアは自国の森のなか
   で残っているものを破壊から守るために一連のきわめて厳しい措置を取
   る。この問題は、次の世紀の間、ヴェネツィア政府にとってますます深
   刻なものとなる。」

 『地中海』が扱うのは「長い16世紀」(1450年〜1650年)であるが、この間の最大の特徴は、ブローデルによると人口の急増であり、大方の歴史現象がこの人間の数の上昇に左右されていると考えていますが、慢性的な食糧不足とともに、外に開かれていたヴェネツィアは疫病にも襲われたのです。
  「 こうした災禍が、飢饉と重なると、都市人口の絶えざる更新が起こ
   る。1575年から1577年のヴェネツィアは、恐るべきペストの流行によ
   って荒廃してしまい、町の4分の1ないし3分の1にあたる5万人が亡く
   なった。」


 このように地中海の女王から転落していったのにもかかわらず、ブローデルは、よく調べてみると、共和国の命脈が絶たれる18世紀末にむかって、経済活動のレベルは維持されていたことに驚いているのです。
  「 15世紀ないし16世紀に世界中の航路に遣わしていた以上の船舶を、市
   会が操っていたことがわかる。ヴェネツィアは依然として商人をもち、
   実業家と資本に溢れていたのだ.....。産業は本土の諸都市に浸透し、本
   土で行われる農業は、しばしば新機軸を取り入れ、新種の栽培を試みて
   いた。」
  「 1669年から1798年にいたる、1世紀ちょっとのあいだに、ヴェネ
   ツィアではそれぞれ約40の館と教会、1ダースの劇場、半ダースの病
         院、1ダースの《スクォーラ》が、あるいは建てられ、あるいは建て直
        されているのだ。それに、本土に散在する約600の別荘を加えなければ
        ならない。」

 今の景観、私たちに非現実感を与えずにはおれない景観は、<最盛期>だけでなく、この<衰退期>においても形成されたのだと言いたいのでしょう。

 そして、ブローデルは、ヴェネツィアの18世紀を「否定しがたい活力に満ちた啓蒙の世紀」として、相当の紙幅をとって、いろんな視点から描写しています。
 ここでは、さすがに逐一お付き合いいただくのを避けておきますが、イタリア全土に比べて遅くはじまった季節はずれに熟した果実である「眩いばかりのヴェネツィア・ルネッサンス」から、力を増した諸国との政治外交政策、絵画、演劇や音楽等の文化芸術面、年の初めから暮までつづく祭り、こうして成熟したヴェネツィアが呼び寄せる観光旅行の中心地としての進展などにいたるまで、これでもかとプローデルはその愛を表明しています。

 そして19世紀がヴェネツィアを破滅させたということになります。ついに1866年、ヴェネツィアはイタリア王国に編入されるのです。
  「 《静謐このうえない共和国》を併合した新国家イタリアは、二度と
   ヴェネツィアに国家存在を与えない。ドージェも十人会議も、数々の
   官職も消滅してしまう。なんと残念なことだろう!」
 

  フェニーチェ劇場 1790年頃に建設

  仮面を制作販売しているショップ

◈これからのヴェネツィア
 ブローデルがこの本を執筆していたのが1984年頃、もう30年も前のことであることを踏まえなければなりませんが、今号で紹介した過去の歴史をふり返った「生きている過去」の章の次に、「ヴェネツィアー今日・明日」の章をおいて、ヴェネツィアの現在と将来についても言及しています。

 まず現状認識としては、「この町をとりまく環境が変化した」(「この町」とはヴェネツィア本島を指している)と、すなわち沿岸部であるマルゲーラ・メストレ地区の工業化(コンビナート)と同地域の人口の急増が同時に進行していく一方、反対にヴェネツィア本島は人口が減少している、それもドラスチックに、このことによる環境の変化です。
  「 この一連の動きはヴェネツィアの手に負えず、《静謐このうえなき共
   和国》は庶民を失っていく。ヴェネツィアの職人がすこしずつ姿を消し
   ているのだ。観光客がどっと押し寄せれば、労働者も仕事にありつく。
   しかし冬になれば、細々と生命をつないでいくしかない。それに、車で
   もバイクでも好きなように乗りまわせる近隣の町に引っ越して行くのも
   多い。とどのつまりは今日より18世紀のヴェネツィアのほうが人口が多
   かったのだ。どうみてもこの診断は深刻だ。」

 また、この本土の産業化の進展に伴う、物理的変化、すなわち環境負荷が高まり、地盤沈下によるアクア・アルタの危険性、洪水の危険性がさらに増しています。最近では、地球温暖化という問題、これによる水位の上昇という影響を無視できなくなっているとも言われています。


 こうした人口構造の変化として現れているように「ヴェネツィアはますますヴェネツィアであることをやめ」つつあり、それに反比例するように観光客の役割は並外れて増大しているとブローデルは考えています。それでもヴェネツィアが生き続け、あいかわらず幅をきかせているとすれば、それはこういうことでしょうと説明します。
  「 世界全体がそう望み、願っているからであり、奇跡がなおも続くよう
   に、言い換えれば《静謐このうえない共和国》の思い出、宮殿、催し、
   感動、他に類を見ない魅力が保たれるよう、あらゆる努力を惜しまない
   からだ。」

 ペギー・グッゲンハイムに代表されるようにヴェネツィアという肉体の血管に「一滴また一滴と外国の血が流れ込む」ことをそれでいいのだとプローデルは断じたうえで、歴史の寛大さに身をゆだねることだけがヴェネツィアの使命ではなく、新しい自己創造が不可欠であると「ふだんよりいっそうの熱情をこめて」いわば訴えるように書いています。
  「 ヴェネツィアは新たに自己を創造しなければならない。あるいはヴェ
   ネツィアの自己創造を、人々が助けなければならない。自己創造、すな
   わち、まず選択し、次に前進の一歩を踏み出すことだ。/自分自身に注
   ぐこの努力のなかでもっとも重要なのは、人間的基盤と言うべき庶民を
   緊急に再創造することであろう。」


 もっと簡単なことは、そして重要なことは「目を未来に向け、広大な世界を手なづけ、この町の必要に従わせることである」とし、そのために「イタリア全体、ヨーロッパ全体、そして世界全体を動員することだ」と主張しています。
 一つは、全世界の戯曲の上演や映画祭の通年開催など、ヴェネツィアをありとあらゆる文化の交差点に位置づけることだとしています。
 二つは、イタリア政府の了解をえてヴェネツィアをなかば自由都市になれるように努力すべきであり、自由港にすることはできないかと提案しています。
 さらに三つは、世界中のあらゆる国家が、ヴェネツィアに足場を持つべきであり、たとえば全世界に開かれた国際大学を創設してはどうか、現にあるジョルジョ・チー二財団を拡大強化して、この国際事業をゆだねるのがいいのではないかと大変に具体的な提案も行っています。

 30年近くを経た現在、私にはこれらの提案の現状を評価できる能力が欠けています。残念ながら、ブローデルが執筆していた頃より、物理的な環境の改善は進んでいるようですが、この連載の2回目の最後のところに注書きしたように、ヴェネツィア本島部分の人口は、30年前よりさらに大幅に減少しており、少なくとも庶民を再創造することには成功していないのではないかと評価せざるをえないのかなと思います。
  
㊟ヴェネツィアの人口
           1871年   1951年      1984年     2015年
   本島      129
千人          175 千人            88千人           56千人
   全体                   164千人            327千人           338千人          264
                                     ・
「全体」は本島、それ以外の島しょ部、そしてマルゲーラ・メストレ等
            の本土部分の合計です。


  ペギー・グッゲンハイム美術館 大運河からの景観

  このあたりにジョルジョ・チーニ財団が所在 サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼から

◈おわりに
 昨年5月に再訪したヴェネツィアのことを書き継いできましたが、今回は最終回として自分に対するメモとして、その歴史をプローデルに依拠して整理してみました。
 辛気臭くて読む気持ちになれないような内容になってしまって申し訳ありません。私にとっては、これを書くことで、ヴェネツィアをヴェネチアたらしめた要因は、いろいるあるけれど都市国家がひとつの経営体として機能できたことがダイナモになっていたことが理解できたように思います。
 そこから派生して、地中海をめぐって展開されてきた歴史、また地中海という海を媒介とする歴史との関係で、たとえば瀬戸内海、日本海というような海とその周辺地域の歴史との相同性のこと、さらに資本主義の発生の要因と過程のこと、ウェーバーやゾンバルトの資本主義の発生論との関係など、勉強してみたいことも出てきたことはよかったのかなと思っています。

 でも「これからのヴェネツィア」のところを書いていて少し辛くなりました。理想を言えば、ヴェネツィアはEUの共同管理するような自由都市になることがよいのでしょう。けれども、現行の世界情勢はそれを許さない方向にますます向っていると言わなければなりませんね。

 私にとってのヴェネツィア紀行を書くにあたって、導き手となった『ヴェネツィア暮し』の著者である矢島翠さんに再登場していただいて締めくくることにいたしましょう。
  「 私の予想に反して、ヴェネツィアは<暮し>のあるまちであった。時
   のとまった、化石のようなまちでなく、大運河の屋敷のうしろで、カル
   パッチョの絵の脇で、人びとが生きているまちだった。
    もし私たちの孫の世代にとっても、さらにそのあとの幾世代にとって
   も、このふしぎなまちが同時に生きたまちであり続けるためには、むか
   しのヴェネツィア人の念頭にはなかった多様な要素の間に、きわめて難
   しいバランスを求めなければならないだろう。」

 また1987年9月と付された「あとがき」では実感をこめて次のようにも書いています。
  「 小さな運河のほとりや小路の奥に、歩行者を待ち伏せしている魅惑
   は、いつまでも尽きることがなかった。壮麗な舞台の片隅に群衆のひと
   りとして出番をもらい、晴れがましさのおすそ分けにあずかっているよ
   うな、たのしさもあった。しかし、それと同時に、日本に生まれた私に
   とって遠い記憶に残っている暮しの肌ざわりに通じるものが、ここには
   あった。車も、電車もなく、人間の歩く速度と範囲をもとにして、ある
   いはのんびりとした舟の動きに従って、運ばれている生活なのだった。
    そしてまちから目をあげて、潟と、そのかなたにある海を見るとき、
   過去それぞれの時代に異る寓話を提供してきたヴェネツィアは、20世紀
   の終りには、人間の存続についての寓話を物語っているように思われ
   た。」


 亡き矢島さんにもう一度30年後の今のヴェネツィアに出かけてもらって、その「暮し」をみていただいたり、この不思議なまちの「生きている」様を診断いただければ、どのようなことを書かれたのだろうと想う気持ちでいっぱいです。
 私自身はヴェネツィアを再訪する機会をもてたこと、そしてヴェネツィアの魔力に触れることができたことを感謝しています。
 でもヴェネツィアのこれからのことが心配になってきて、困ったことにまた出かけたくなったりして。
                            【終わり】

〚後記〛
 ◉ ヴェネツィアのことを5回にわたり書くことができました。私にとって
  は、思い入れの強いまちのことを記録しておくことができたということに
  なります。
   最近とみに、すべては偶然であり、でも必然であったのかもしれないと
  同時に感じたりもします。この世に生をうけたこと自体がすべてのはじま
  りだといえばそのとおりですが、こんな海外への旅においても、最初にイ
  タリアに行こうとしたこと、そして強く印象に残ったまち、ヴェネツィア
  を再訪しようとしたこと、今は偶然のことであったし、必然であったよう
  にも思ったりします。
   偶然と必然が同時に感じられたようなとき、私たちは「不思議」と呼ん
  だりするのでしょうか。
   たしかにヴェネツィアは「不思議のまち」でした。
      ◈水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(1)ー
    ◈水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(2)ー
    ◈水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(3)ー
    ◈水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(4)ー


  ◉未掲載の写真の中から

  ヴァポレット

  手漕ぎ舟

  朝の大運河

  ペギー・グッゲンハイム美術館
 
  小橋(名前は分かりません)





  







 

2016.03.12 Saturday

水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(4)ー

◈歩くことの喜びがからだにひびき
 ヴェネツィアの小路を歩く喜びは格別なものです。
 「道」より「路」がふさわしい直線など知らない<路>そのものからくるもの、そして唐突にあらわれる運河や橋からくるもの、さらには自動車、自転車が歩行を妨げることがないところからくるもの。
 いろんなところから、歩く喜びがわいてきますし、歩くこと自体が楽しくなるまちです。歩くことは目的地に向かう手段でもありますが、同時に歩く行為自体がからだに、心にも喜びをあたえてくれます。

 ヴェネツィアに滞在した4泊5日で歩数計の記録からしますと、50劼阿蕕な發い燭海箸砲覆蠅泙后D6時頃からは1時間余ばかり一人で歩き、それ以外は家人と歩いたことになります。
 ヴェネツィアに限らず、朝早く、まだ自動車があまり走っていない時間帯の歩行はいいものですし、特に自動車を想定していない時代に形成された「道」ではなく「路」の多い旧市街地ではそうなのです。そうだとしても、ヴェネツィアはやはり別格だなというのが今回の旅の記憶です。

 第2号でブローデルを引用しながら書かせてもらったとおり、ヴェネツィアは、小さな島を少しずつ広げつつ、運河システムで島の集合体がつなぎあわされて街並みがつくられた都市です。つなぎあわせの最後に「《カッリ》つまり狭い街路が、間質組織のように作用して、ぱっくり開いた傷口もいずれふさがるように、すべてがゆっくりとつなぎあわされたのだ」、そんな街路がヴェネツィアの<路>なのです。
 ですから、路はまっすぐではありえませんし、行きどまりもしばしばありますし、昔々は小さな島だった島同士は、必ず橋で結ばれており、その橋を通らない限り別の島に行くことができません。こうした路の成り立ちに迷路といわれる由縁がありますが、運河がメインの幹線道路とすると、歩行する路はサブの支線にあたるのかもしれません。これがヴェネツィア本島の路なのです。
 典型的な都市計画、まっすぐな道路を交差させた碁盤の目状を基本に、升目それぞれに建物その他を建設していくようなやり方とは逆の方法や経過をたどって形成された都市がヴェネツィアです。そして、それを構成する最後のパーツが路であったことは強調しておいてよいことでしょう。

 今号では、前半部分では歩いた「路」などを紹介することとし、後半部分では私の節穴では分からなかったというのが正しいのですが、「暮らし」が少しだけ顔をのぞかせているような情景についてもふれたいと思います。


  はっきりしませんが、黒の実線が歩行または船行したところです。

◉リアルトあたりでぐるぐる歩きもあったけれど
 今回の小路歩きではあまり迷うことがありませんでした。
 6年前のヴェネツィアでは、1日だけの自由行動日にドルソドゥーロとサン・マルコの両地区を歩きましたが、サン・マルコ地区で迷ってしまい、どのようにしてホテルに帰ればいいのかと困ったことを覚えています。

 今回も迷わなかったわけではなく、リアルト橋のサン・マルコ側で、運河に沿った路には階段が繰り返し続いていたので、ヴァポレット船着き場をたった百mばかり移動するために少し街中に廻りこむことにしたのですが、その時、迷ってしまいました。
 人の流れの後をついていくことが迷わないための鉄則なのですが、あまりにも観光客が四方八方からあらわれ、そして四方八方に動いていくために、幹になる流れを見出せず、どうついていくのがいいのかなと思ったとたん、迷っていました。結果としては迷い子だった時間は長くありませんでしたが、ぐるぐると同じところを回っているような感覚でしたし、膝の痛くなってきた家人は不機嫌になってきますし、いささか困りました。それでも「リアルト↛」という案内標識をたどっていくと、なんとか大運河に出ることができました。
 これ以外にも一人で歩くときにどちらの路へ歩こうかと迷うこともありましたが、とにかく運河とか広場とかにたどり着いて、ここはどこだと確かめるというやり方で、大事に至らずにすみました。

 今回、迷うことが少なかったのは、いろんな理由が考えられます。
 まず、大運河とジュデッカ運河に挟まれて分かりやすいドルソドゥ―ロ地区のホテルを拠点にできたということ、加えて、サン・マルコ広場やフェニーチェ劇場等には出かけたものの、迷いやすいサン・マルコ地区にはあまり近寄らないようにしていたことがあります。いわば予防線をはっていたことになりますか。
 ツアーであった前回とはちがって、今回は定められた時間に遅れずに到着しなければという縛りもなく、気持ちの余裕をもって歩けたということもあります。また前回とは事前の情報量が段違いに多く、ポイントになる建物や広場が一定程度は頭に入っていたため、そこをみつければ何とかなると思えたことも大きかったのでしょう。
 先ほど鉄則ということを書きましたが、矢島翠さんの『ヴェネツィア暮し』を読んで、後述するとおりヴェネツィアで歩くときはあくまで「大勢順応主義」で対応すべしという知恵を得ていたこともあるかもしれません。でも、リアルトの迷い子になったときとは逆に、朝の早い時間帯は歩いている人が少ないので(だいたいは働く場所に急ぐ人です)、後をついていくという原則だけでは難しい感じもしましたけれど。
 足膝に問題のある家人には許容歩数というものがありますので、すべてはできませんが、いっしょに歩く前に、なるべく一人歩きで下見していたことも影響していたのだと思います。 
 迷宮は迷うから楽しいのではないのかといわれる向きもあるかもしれませんが、あまり心に不安でなく、少し余裕をもってさまよい歩けることがヴェネツィアを歩く喜びではないか、いずれにせよ、私にとってヴェネツィアをぶらぶら歩くことは本当に喜びでした。

 どうして楽しいのか、どうして喜びなのかという前に、ヴェネツィアの路のイメージを確かめておきましょう。
 ヴェネツィアの小路の数は3千といわれているようですが、路の呼び方はイタリアでは小路を<ヴィア>であるのに対し、ヴェネツィアでは<カッレcalle>といいます(ヴェネツィアでは何かにつけイタリア共通とはちがう独自の表現を使うところだそうです)。
 すべてがカッレではなくて、運河沿いの広い通りはフォンダメンタとかリーヴァ、建物の下をくぐるアーケード状の路はソットポルテゴかソットポルティコ、運河を埋めて作られた路をリオ・テッラ、枝分かれした路をラモーと呼んでいるようです。
 路と同様、広場もピアッツァと呼ぶのはヴェネツィアではサン・マルコだけであり、他はカンポと呼ばれています。広場は、小路が流れ込み、流れ出る場所であり、人びとが集まってきては思い思いに小路へと分かれていく中継ステーションとなっています。


  ヴァポレットのジリオ船着き場からの小路《カッレ》 たんなる隙間みたいです。
 
  リアルトあたりのフォンダメンタ、リーヴァ これがヴェネツィアでは幹線です。

  ジュデッカ運河沿いザッテレ河岸 フォンダメンタ
  石橋の上をまたぐように仮設の木の橋が架けられ歩き(走り)やすくなっています。

  サン・ポーロ地区 ソットポルティゴ ここも歩いてみるべきでしたが。

  サン・ポーロ地区 ソットポルティゴ 
  どのような場所に出るのか分からないままで歩きました。

  運河を埋め立てたリオ・テッラ 矢島翠さんの棲んだ家の前の路です。

  運河沿いの路 ずっと向こうまで橋がなく行きどまりが多そうです。

◉唐突な出現と驚きの繰り返し
 ヴェネツィアの特に変哲もない石畳の小路を歩くことが、どうして楽しいのでしょう、そして喜びとなるのでしょう。

 まず路そのもののことです。ふつう旧市街の道はでこぼこになった敷石で歩きにくいことがよくありますが、ヴェネツィアはすべてではないけれど、路の表面にでこぼこがあまりなく、とても歩きやすいのです。昔も馬車は通らなかったし、今も自動車が走らないということで、石畳がいびつにすり減ることがなく、人間の重さぐらいではすり減り方が少ないし、すり減ってもわりと均等だということがあります。
 まちの成り立ちから路の幅が狭いことはもちろんですが、一定でないことも歩くリズムという面からして、大切だと感じています。建物の都合で道幅が決まってくるような路は広い狭い広い狭いを繰り返し、歩くことにリズムを与えてくれます。精一杯ギリギリまで館を建設したためか、直線である距離が短く、建物に沿ってカクカクと折れたり、昔の水の流れを反映した運河の蛇行に沿うように自然な曲線となっていることも多いのです。
 その上、狭い路の両側には建物が立ち並んでいて、視界の幅も届く距離も制限され、風景を遮蔽しています。

 ヴェネツィアの路にはまっすぐな直線道路を歩くときの遠いなあの距離感と正反対の感覚が備わっているようです。遮蔽された視界で路を歩いていくと、目の前に広場、あるいは運河と運河にかかる橋が唐突に出現し、いっきに視界が開けることは、橋をわたる上下動とともに、そのたびごとに風景を更新してくれます。目的地が視界に徐々にあらわれるのではなく、ヴェネツィアでは突然眼前に迫ってくるのです。先の見通しのきかない迷路を抜けると、そこはという驚きが私たちを楽しませてくれるのです。
 そんな驚きの繰り返しによって、私たちの歩行感覚が影響をうけないことなど想定できません。
 目的地があるとして、そこに到達できたときには、唐突な驚きといっしょに出現するのであり、達成感は倍増します。仮に目的地などがない場合であっても、想定などしていなかった風景、景観が唐突に眼前に広がったとき、私たちが元々希求していたもののようにさえ感じられるのです。
 それが、大運河やアカデミア橋のような大物ばかりでなく、小さな運河や橋であったとしても、歩くという行為のはての唐突な場面の転換、いいかえれば跳躍するような次元の上昇は、ヴェネツィアという舞台の転換といえるものであり、結局混沌から出発するしかない精神活動の原点にふれるような行為なのだと思います。
 こんな閉塞と開放の連続する起伏は歩くことの喜びをからだにひびかせるのです。


  .撻ー・グッゲンハイム美術館への向かう小路 こんなに光が差しているのは珍しいです。

  ▲撻ー・グッゲンハイム美術館前の小運河沿いの小路 小学生の団体も続々集まってきます。

  リアルト辺りのフォンダメンタ 小路を抜けるとパッと大運河が広がっていました。

  アカデミア橋 やっとホテル近くにもどってきたことが分かります。

  ヴェネツィア大学付近の小橋 橋の上でしばし佇んでみたくなります。

 ヴェネツィアの路は自動車が走っていないだけに静かです。たとえフォンダメンタの路のように、そばの運河でモーターボートなどの船がけたたましくエンジン音をたてていたとしても、それでも十分に静かなのです。静かだと別の音が聞こえてきます。自他の歩いている靴音はもちろんのこと、フォンダメンタに打ちつける運河の波音、小運河を進むゴンドラの漕ぎ手と客の話す言葉などもそれぞれの輪郭をもって聞こえてくるのです。
 
 毎回ご登場いただいている矢島翠さんは、ヴェネツィアほど「歩行者の身うちを、耳には聴こえない音楽のよろこびでみたす町はあるだろうか」とし、ほかの町とちがって、「ここヴェネツィアでは、広場の人々のざわめきや、小路の壁にこだまする話し声や靴音は、町の音楽のなかにやわらかくとけ込み、その音域を一層ふくらませている」と、<音楽>をキーワードにしていつもの卓抜な比喩を展開しています。
 ヴェネツィアの路と歩行の関係についてこう表現しています。
  「 ここでは多くの街路はまことに細く、まことにひそやかで、数多くの
   小さな橋の階段の上り下りをふくみながら、急に大小の広場の晴れやか
   なひろがりに出会い、斉唱とこだまのひとときを持ったのち、また無数
   の方角に向って寺院や屋敷や民家の壁と壁のはざまに散っていくから
   だ。ちょうど弦楽器や管楽器のソロで奏でられていた旋律が、相寄って
   力強く高鳴る合奏となり、やがてまたいずれかの楽器にデクレッシェン
   ドでひき継がれていくように。そしてその継起において、歩行者がどの
   方向に向って小路をたどろうと、彼の行く手には水が、大小の運河が、
   さながら通奏低音のように、見え隠れするのである。」 


  サン・マルコ広場に次いで広いサン・ポーロ広場 朝早くベンチに座っている人がいません。

◉「センプレ・ディリット」という道案内
 ヴェネツィアの住人が道案内をもとめられたら、「センプレ・ディリット(ずっと、まっすぐ)」と表現するようです。それは写実的な道案内をしようとしても、不能だということが分かっているからなのでしょう。ややこしくて地図なんか描けません、たとえ描いてみてもなかなか実際の役に立てませんというのが「センプレ・ディリット」の根っ子にあるみたいです。
 言語的能力のない私は、もちろん道案内をもとめるようなことはしていませんので、ヴェネツィアの住人のこんな対応を、実際には経験していません。でもヴェネツィアを歩いてみて、そうかな、そうだろうなと感じます。無理にがんばると道不案内をもっとこじらせてしまうのだから、こんな閉じられた島空間においては、「センプレ・ディリット」なんだと納得できてしまいます。

 矢島翠さんは「センプレ・ディリット」を「ずっと、まっすぐ」「まっすぐ行けばよろしい」と日本語で書いていますが、第(2)で紹介したフェルナン・ブローデルは、というより、翻訳した岩崎力さんはこれを「流れについて行きなさい」と訳しています。
  「 まったくの未経験だとしても、あなたが取り返しようもなく迷ってし
   まうことはない。これまでもしばしば繰り返された忠告が、無垢な人々
   を救ってくれる。「流れについて行きなさい」と人は彼に言う。つまり
   は人の流れに。」

 直線が支配的ではないまち、迷宮都市であるヴェネツィアでは、この<まっすぐ>は幾何学的な意味にあらず、社会力学的な意味なのであると矢島さんは注釈し、「人が進んで行くあとについて行くこと」がヴェネツィアの<まっすぐ>の定義なのだと喝破しています。
 私も経験したのですが、ああ迷っているのかと思っても、ぐるぐると歩いているうちに、ガイドブックに載っている名所に突き当たると、そこを「定点」として、目的地に向ってまた新たな方向づけができる、更新された「センプレ・ディリット」で人の流れについていくということです。
 矢島さんの言葉で締めることにしましょう。
  「 ひとり、ふたりとぬけて行く者のあとを追ってはならない。あくまで
   大勢順応主義でゆくべきである。
    しからば、たとえば小運河のほとりで、左に二人、右に三人と分かれ
   た場合には、どちらに<まっすぐ>行ったらいいだろうか。−これに対
   してわがヴェネツィアの生字引は、即座に、「ひとりでも多い方につい
   て行けばよろしい」と答えてくれた。たしかに私たちは、この「センプ
   レ・ディリット」の方式で、十中八九、成功したのである。」


 今回歩いたぐらいであまり確信めいたことを言うのはいかがかとは思いますが、この「人の流れについて行く」という教訓の有効性を実感できたように思います。


  .凜Д優張ア大学に向かう途中の小広場 ここで路は分かれています。

  ▲凜Д優張ア大学の塀際の路  橋の手前から出入りします。
  
◉「暮らし」などみえやしないけれど
 今回の旅でヴェネツィアの住人の暮らしぶりについて感じてみようとある程度は意識しましたが、特に何かがみえてきたとはいえません。ただ、少しだけ<暮らし>を支えている事柄かなと感じられたことを、レンズを通してメモしておきたいと思います。

 他の都市でも同じですが、市場などでの買い物、住家の前に出してあるごみ袋、歩行や船行で出会った人びとの表情や姿などから、今いる場所の近くで暮らしているであろう住人のことを感じただけです。前に注釈したとおり、本島に住む人の数はピークの三分の一ぐらいに減っていますので、住宅、物価、働き口等々、暮らしにくい現実が横たわっているのでしょう。
住人といっても、デイリーではない金持ちも相当数いることでしょうから、いわば庶民の暮しは古ぼけた壁の中にあってなかなかみえてこないまちだと思います。

 まずはリアルト橋のサン・ポーロ側の市場の風景です。
 屋外テントの野菜・果物や花の市場、その北側に大運河に沿って屋内の魚市場と続いており、ヴェネツィアの台所となっています。往時は金融・商取引の中心だったところです。観光客も多く、ごったがえしていますが、観光客は特に生魚をあまり買うこともないのでほとんどが覗いて楽しんでいるだけです。
 写真は魚市場の横手の街路にせり出した魚屋さんで地元客が魚を選んでいるところです。少し駆け引きしている様子が見られました。青物市場でも多くの住人がカートを押しながら買っていました。
 またドルソドゥーロ地区のサン・バルナバ広場近くには、小運河に停泊させた船の中に店頭のように野菜、果物や花まで一杯並べて売っていました。ヴェネツィアらしい光景として写真に収めました。


  .螢▲襯閥瓩の魚屋 平目みたいな魚でしょうか。何か交渉しています。

  屋内の魚市場のディスプレーです。日本とは少しちがいますね。

  リアルトの青物テント

  リアルトの市場に運んでいるのか、別の場所で船のままで小売するのかわかりませんでした。

  .汽鵝Ε丱襯淵亶場近くに停泊した船の青物屋さん

  ∈限Δ量邵擇呂覆鵑討いΔ里任靴腓Δ。
 自動車がない、むやみと観光客が多いとなると、運搬、物流が問題となりますが、基本は船です。段差が多いまちのつくりから、人力も必要不可欠なものであり続けています。国内の物流イコールトラックのようなわが国では考えられない物流状況ですね。
 昼間は交通量が多いためでもあるからか、朝早い時間帯が物流の中心となっているみたいです。水にぬれることを防ぐためでしょうか、何でもといってよいほどビニール袋に入れられていますので、荷物の中味はほとんどわかりません。下の方の写真も種類はよくわかりませんが、ホテルの洗濯物を搬出したり、搬入したりという船もみかけました。
 おじさんが手押し車で何かを運んでいるのにアカデミア橋で出会いました。サン・マルコ側からドルソドゥーロ側へ木製太鼓橋的なアカデミア橋を人力で運ぶ後ろ姿に驚いて撮影しました。建築資材、小麦粉、砂糖、何を運んでいるのか分かりませんがすごいものをみた気になりました。
 どうして船を使えないのかなと思いましたが、わざわざ大きな階段状の橋を人力で運んでいる理由が想像できませんでした。


  朝7時前、大運河を使って物資郵送中です。

  ビニール袋の色で何かを区分しているのでしょうか。

  .▲デミア橋を越えてやっとドルソドゥ―ロ地区側に着いたところです。

  △じさんが一段一段慎重に運んでいます。
 一般のごみは住んでいる家の前の路に黒い袋に入れておかれています。矢島さんの頃は分別なしだったと書かれていますが、今も分別ということもなさそうです。ヴェネツィアを象徴している鳥は海鳥ではなくて鳩やカラスです。朝早く食料をめがけてゴミ袋を食い破り、ごみが散乱しています。
 観光客によるごみもありますが、朝早くから作業員が路の掃除をしながら、ごみ袋も集めて回り、ごみ運搬船に積み込んで別の島の焼却場へ運んでいくようです。写真には収めていませんが、朝早く歩いていると、そんな仕事風景にもよく出会いました。


  こうして家の前におかれます。確かに住人がいる証拠です。

  鳩がごみ袋を破っています。

  こんな服装の作業員たちが朝早くから活躍しています。
 こんなことだけで住人の暮しがみえるわけではありません。総じて住人とみられる方は、観光客を無視しているわけではないけれど、私たちは関係ないよ、私たちには別の時間が流れているのだという雰囲気が感じられました。こちらの思いこみなのでしょうが、日本に来た外国観光客に対する私たちの態度も、直接仕事と関係のない住民にとっての態度は同じなのかもしれません。
 ヴェネツィアの住人とおぼしき人びとの表情からは、陽気なイタリアンという一括りではなく、堅実で落ち着いた雰囲気や、伝統菓子屋の親子のようにこのまちで暮らす誇りのようなものなどが強く感じられました。


  食堂で私たちの近くでテーブルを囲んでいた家族連れです。

  夕方、職場からの帰りを急ぐ人びとも多いようです。

  サン・バルナバ通りで伝統菓子屋を親子3人(父・母・娘)が営んでいます。

  ホテルそばのカ・レッツォーニコ船着場でヴァポレットをまつ人びとです。

  23時近くのヴァポレット、観光客もいますが、中心はサン・マルコ辺りで働く人びとです。
  本島以外に帰宅を急ぐ人も多いと想像できます。

◉サン・バルナバ小路を歩いていくと
 今回のヴェネツィアで一番よく歩いた路はサン・バルナバ通りでした。
 ヴェネツィアの3、4泊目はアカデミアからヴァポレットで1駅だけのカ・レッツォーニコ船着場脇に移動して、大運河に面した小さなホテルでした。大運河から、近くのサン・バルナバ広場を通ってジュデッカ運河に向って横断するようにわりとまっすぐな小路がのびているのです。これがサン・バルナバ小路《カッレ》です。大運河からジュデッカ運河までの道のりは7、8百mぐらいとそれなりに距離がありました。
 観光客は私たちもその一員なのですからいることはいるのですが、サン・マルコ近辺とはけた違いに少なく、地元の生活感も感じられる地域でした。写真でみていただくと、ふつうの都市では疑問の余地なく小路ですが、自動車通行を基準としないヴェネツィアでは小路といってもカップルがすれ違うことのできる程度の幅がありました。大運河から半分近くは両脇に商店、レストランなどが並んでいますが、半分をすぎるところから商店がなくなり、住家だけになってきます。このあたりまでくると、静かな、ひそやかなといっていい空気が感じられました。
 この小路は、ホテルの前から続いているので、4日目の孫たちへのおみやげや旅の最後の夕食、最終日の伝統菓子屋さんでのおみやげ購入など、うろうろするのに楽しい通りでした。

 午後から飛行機という最後の日、朝早く一人でサン・バルナバ小路を歩いてジュデッカ運河に向いました。昨日からの天候を引きずったような曇り空なのが残念でしたが、ジュデッカ運河に出て、もう一度、ザッテレ河岸《フォンダメンタ》を歩こうという算段です。
 サン・セバスティアーノ教会の前で折れて、さらに歩いていくと一気にジュデッカ運河に向って視界が開けます。ああこんな高揚した旅の感覚も今日で終わりと感じながら運河と運河の向こうの建物の連なりを見入っていました。すると、急に陽が差してきて、運河がキラキラと光り、思わずシャッターを何回も押しました。最後においた写真➂い呂修里箸の光景です。風景というより、光景と呼びたくなりました。

 ヴェネツィアの歩行が何か特別なものを孕んでいるのがご理解いただけたでしょうか。受容できる感覚とは、脳の中に既にあったイメージと照合しているようなことが大部分ではないかと私は感じているのですが、最初の海外旅行で一番印象に残りこうして再訪した思い入れの強いヴェネツィアであれば、いよいよそうなのかもしれません。でもそれが裏切られることもあるのがヴェネツィアの歩行の楽しさ、歩くことの喜びかなと今は感じています。
 これは、こんな<水の上に人間がきずいた不思議>である都市の不思議空間がもっている「力」なのだと思っています。

 ヴェネツィアの歩行は<山歩き>より<街歩き>を好んできた私にふさわしいものだったといえるのでしょう。<自然>より<人工物>の方に好奇心が傾く私の性向にフィットしたのであり、これを絶対のものとして称揚することはまちがいなのではとも思います。
 そんな私のヴェネツィアを歩くことの喜びを感じていただければと願っています。


  ‘泙蟠のなかを歩きます。 サン・バルナバ広場

  ▲汽鵝Ε丱襯淵仂路はこんな感じです。

  ➂橋の上までくると家人の足膝が限界で逆戻りしました。

  ‖膠寝呂鬚澆討らホテルから出発します。

  ⊃事のあと、サン・バルナバ広場に戻ってきました。

  ➂ぶらぶらと歩いてもうすぐ大運河にたどりつきます。 

  .汽鵝Ε丱襯淵仂路を歩いていくとサン・セバスティアーノ教会が目の前です。

  ▲献絅妊奪運河まで出てきましたが、曇り空が残念です。遠くにレデントーレ教会。

  ➂曇り空からさっと一条の陽光がジュデッカ運河に注がれました。

  ぐ豕い貌泙蟠がこんな空に変貌しました。

 今号で4回目でしたが、もう一回だけヴェネツィアのことを書いて終わるつもりです。プローデルの地中海史観からみたヴェネツィアの歴史をいっしょに考えてみたいと思っています。

                         【続く:(1)(2)(3)/(5)へ】








 

2016.02.25 Thursday

水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(3)ー

◈ラグーナを渡り、島から島へ-これもヴェネツィア-
 これもヴェネツィアなのだと思いました。
 今回のヴェネツィアでは、本島、これもたくさんの島の集合体(100以上の島が400ぐらいの橋でつながれている)なのだという話は既に書きましたが、ここからラグーナに点在する島にも船で渡りました。といっても、観光地となっているような島、ムラーノ島、ブラーノ島そして本島と切り離せないような位置関係のジュデッカ島、隣接するサン・ジョルジョ・マッジョーレ島だけのことです。今号ではそんな島のことを紹介してみたいと思います。
 前号で紹介したヴェネツィアを逆S字形に貫くカナル・グランデ(大運河)こそ、この特異な都市であるヴェネツィアの象徴ですが、この本島だけでヴェネツィアがヴェネツィアとして成り立っていたわけではありません。潟(ラグーナ)に点在する島々はヴェネツィアの都市機能、経済活動を支えてきた大切なピースなのです。今もなおそうした側面を有しているようです。
 このあたりのことを、『ヴェネツィア暮し』の一章として「島」を取りあげた矢島翠さんは「島々はそれぞれに固有の役割と顔を持つ」「島はまた、孤立と静寂の、少なくともそれらの性質を期待される場所である」と、端的かつ的確に定義しています。避病院、軍事拠点、来訪者や巡礼者の一時滞在施設など、人間の方に近づけると、死者、そして「わが身の隔離」を求める、求められる、修道士、病者、兵士が典型です。今になれば、次第にその役割を終えた島々、そして海流の変化や沈下などにより放棄せざるをえなくなった島々。したがって「潟は、無数の物語をとじ込めた、一冊の本である」と書いています。
 そんな島々を包含した都市(都市国家というべきでしょうか)が、ヴェネツィアなのです。
   
㊟ヴェネツィアの島嶼部(本島、本土以外)の人口は2015年で28千人であり、
     本島の半分ぐらいです。


  ヴェネト潟の島々 わかりにくいですが
  
◉鐘楼の上から四方八方を-サン・ジョルジョ・マッジョーレ島~ジュデッカ島-
 ヴェネツィア3日目の朝、ホテルからごく近いザッテレからヴァポレット2番に乗り、ジュデッカ運河を横断し、ジュデッカ島に沿って、4つの目のサン・ジョルジョ停留所で下船しました。目の前にサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会が白い石を光らせながらそそり立っていました。運河から教会堂の扉まで100mもないぐらいで、船着場からはあまりに近すぎて全容をおがめるわけではありません。
 建築物の見方としてヴェネツィアが特徴的なことは、前号のカナル・グランデからの眺めもそうなのですが、全容のためには、全体と対峙するためには、対岸か、船の上がよいポジションだということです。水の上に人間がきずいたというしかいない都市ですから、こうなったともいえますが、何らかの美意識が働いていたといってもまちがいないでしょう。その美意識が現代のようなものではなく、もっと宗教的な意味合いがあるとしても、それは当時の美意識だといえるものだと思います。
 蛇足ですが、この小さい島はサミットの草創期、イタリア開催の最初の1980年と次の1994年の2回にわたり開催されたことでも有名で、何より十分な警備が可能だというのが開催地となった理由だったようです。
 

  右からサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、ジテッレの救貧院、レデントーレ教会

  サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の遠景

  同上教会の近景   
 この島にはこの教会の鐘楼に上がることを目的としていましたので、案内の矢印に沿って回廊をとおり、エレベーターへ急ぎました。待つこともなくエレベーターで一気上がると、四方八方<ああー>という眺めが広がっていました。天気は少しかすむぐらいの晴れ、正四角形の四辺からの眺めは現実感をますます失わせるものでした。写真をとりながら、何回かぐるりとめぐったと思います。普段は一つのところにとどまることのできない私たちですが、わりとゆっくりと滞留しました。
 エレベーターのある塔であっても、エレベーターが着いたところからさらに階段を上がっていかなければならない塔もあったりして、家人の足膝に問題のある私たちは難渋するのですが、今回はエレベーターを下りたところが即、一番天辺でした。このこともよかったのでしょう。
 ああ知ってる知ってると、サン・マルコ広場あたり、カナル・グランデとジュデッカ運河に挟まれた地先の税関跡の黄金球とサルーテ寺院のドーム、ジュデッカ島の見事な弓なりを画しているレデントーレ教会とジテッレの救貧院、そして切れ目のない船の点景に見入っていました。あれはリド島なのか、遠くにかすんでいます。ヴェネツィアの魚の形がみえるわけではありませんが、本島をわしづかみにできるような感覚を味わっていました。まあ文字どおりのお上りさん状態でした。5月のさわやかな風に包まれて、脳天気な幸せを感じていました。


  対岸のサン・マルコ辺り

  左側がジュデッカ運河、その右側がカナル・グランデの出入口

  ジュデッカ島 手前の白い建物がジテッレ救貧院、その向こうがレデントーレ教会

  遠くにリド島

  サン・マルコ広場の東側、スキアヴォーニ河岸
 こんなヴェネツィアの風景をとどめようとすると、写真のフレームにドーム上の守護聖人の銅像が繰り返し入ってきました。鐘楼からは、その像の入った風景の方が入っていないものより、ずっとしっくりと収まるみたいで、その背中からは、本当にヴェネツィアを守ろうとしている意志が感じられてくるから不思議です。なんとよく考えて設計されたものか、大きさも立ち姿も、この島と本島の位置関係を明確に意識して教会全体が作られたものにちがいありません。
 この像について、ヴェネツィアに須賀敦子の足跡を訪ねる『須賀敦子のヴェネツィア』(2001年刊/河出書房新社)の著者である大竹昭子さんは書いています。本の性格から須賀敦子さんにいっしょに歩行するように写真を撮影し、文章を刻んでいるのですが、ここだけは少し踏み外したような大竹さん自身の興奮が感じられます。いい文章だと思いますので、少し長くなりますが、引用しておきましょう。
  「 なぜかその後姿が気になり、視線が釘づけになったのだった。右手
   に旗をかかげ、左手に盾をもって、腰をちょっと曲げて立っている。
   頭の後ろには聖人であること示す皿のような後光が付いている。じっ
   と見ているうちに、熱い感動がこみあげてきた。それは干潟から発展
   した地盤のゆるい土地に石の町を建設するというとんでもない考えに
   とりつかれ、知恵をしぼり、試行錯誤を繰り返してきた人間たちのこ
   とを、立ったままじっと見守ってきたこの像への共感だった。無数の
   時間の蓄積が、彼の後ろ姿に投影されているようだった。」

 聖人が自らドームの天辺に上ったわけはなく、「聖人のまなざしを頭上高く配することを考えたのは、人間たちだった」とし、この像への共感は、そうした人間たちへの共感なのではないかと、現代を生きる大竹さんらしい文章を続けて締めくくっています。
  「 聖人の像を建築物の上に立たせることで、人間を高みから見下ろす視
   線を意識しようと努めた。自己を律してよりよく生きようとする意志
   を、その視線が支えてくれると考えたのだった。根底に人間たちへの信
   頼がある。人間の「救いがたさ」を知りつつも、それを乗り越えようと
   するはっきりとした意志がある。どこまでも人間らしくあろうとする、
   人間をあきらめない思いに敬服したのだった。」

 この教会堂は1578年に着手して1615年完成といわれていますが、守護聖人像はヴェネツィア・ルネッサンスの精神と呼ぶべきものかもしれません。


  サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会のドームにたつ守護聖人像

  左にジュデッカ島(長い骨)、右にドルソドゥーロ地区(堅い背中)

 エレベーターを下りてきて、装飾のない回廊にぽつんと立っている像が目に飛び込んできました。ここに置かれた意味はわかりませんが(最初からこの場所にあったとは思えません)、ドーム上の聖人像と呼応して、私はここで支えているよと語っているみたいです。教会の堂内にもどり、内部を見渡してみると、直前から始まったばかりのビエンナーレ2015の展示があることに気づきました。この教会も会場の一つとなっているですが、金属線を編まれて作られた巨大な幼子の顔のようなものです。角度や光の具合によってははっきりと見えないのですが、よくよく見ると目を閉じた子どもの顔です。よく見ようとする意志を求める、これも現代の祈りのかたちではないのかなと感じました。
 教会の外には、対岸のサン・マルコ近辺がラグーナを挟んで同一地平にみえました。くっきりとみえるのですが、どこか蜃気楼の向こうにゆらいでいるようにもみえました。いよいよ現実というものがわからなくなってきます。
 今回のヴェネツィアでいい印象をもらった場所でした。どこがおススメかと尋ねられたら、このサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の鐘楼をその一つとして奨めたいと思います。


  どのような由来のものか不明

  ビエンナーレの展示物 ジャウメ・プレンサ『TOGETHER』

  ほんとに目の前 サン・マルコ辺り
 元のザッテレまで帰りのヴァポレット2番に乗ると、ジュデッカ島に沿うように、次の停留所がジテッレ、その次はレデントーレと続き、つまりはサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、ジテッレ救貧院、レデントーレ教会というパッラーディオ(1508-1580年)が設計した建築物が間をおいて連続して現れてきます。写真でフォサードをみていただいてもそれぞれちがうのですが、それでも同じ建築家の手になるものと聞くと、やはりどこかに類似点、古典的な均整感のようなものを共通して感じました。
 パッラーディオは若いころは石工でしたが、トリッシノという人文学者に見出されて独学で建築を学んで建築家として大成した人です。ヴェネツィア以外のヴェネト地方、特にヴィチェンツァなどでパラッツオやヴィラを多く手がけました。晩年になってヴェネツィアでも活動し、5つの宗教施設を設計していますが、その3つがザッテレの対岸にプロポーションよく並んだように建っているのです。彼の建築はローマ時代の建築手法に基づくといわれ、彫刻家や絵描きが建築を手がけるのとはちがって、最初の専業の建築家とされています。私としては、堅固だけれど重くなく、過剰ではないが緊張感があって、とてもすっきりとしている印象を強くもちました。そこに古典復興、ルネッサンスの精神を感じると書きたくなりますが、実のところは、私にそんなことはわかるわけではないのですが。


  サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会

  ジテッレの救貧院

  レデントーレ教会 このフォサードは完全なプロポーションの一例といわれる
 レデントーレ教会が建立された経緯は、ペストのすさまじさを今に伝えるものです。1576年、ヴェネツィアの住人の四分の一がペストに奪われ、元老院はペストの災厄が去ったら聖堂を建立するという誓いを立てました。その年の後半にペストが激減したため、レデントーレ教会はパッラーディオを設計者として着手され、15年かかって完成したとのことです。パッラーディオは完成を見ることなく途中で亡くなりましたが、彼の意図に沿った仕上がりであったといわれています。
 「対岸から見た時に天国に至る大きな扉、門に見えるように設計されている」のだそうです。とてもそんなことに理解が及びませんが、対岸であるザッテレから斜め前方にみた時に、フォサードだけでなく、後ろの高いドームと2本の尖塔といっしょになった教会の姿は確かに美しいと感じました。人間の精神との関係を追及した結果の建築物の形体として、粛然たる気持ちにもなりました。
 7月の第三日曜日には、ペスト終焉を祝って、ザッテレの河岸からレデントーレ教会の前まで浮橋(船を使う)が架けられ、そこを渡って教会に詣でる祭りが今も続いているようです。望外のことですが、一度渡ってみたいものです。


  レデントーレ教会の遠景 別の日の朝にザッテレから撮影 これは美しい

◉小さな船旅-ムラーノ島~ブラーノ島-
 サン・ジョルジョ・マッジョーレ島に出かけた前日、ヴェネツィアに着いた翌日にはまず近くのペギー・グッゲンハイム美術館を再訪しました。午後はどうしようかということで、元気なうちにムラーノ島からブラーノ島に足を伸ばしてみようかとなりました。
 今回の言語不通の個人旅行で終始ガイド役となってくれたのは「アーモ・イタリア旅行ガイド」でした。このサイトで激賞のジュデッカ島の食堂で昼ご飯を食べてからと、ザッテレ停留所から対岸のパランカまでヴァポレットに乗りました。レストラン<La Palanca>は「カフェ、バール風の店内からは想像できない極上の料理が食べられます」と評されていましたが、わりと許容範囲の広い私たちもまあまあですなとなったことはさておき、ここでワインを一本空けたこと、水もがぶがぶ飲んだことが後々に響くことになりました。

 
  ジュデッカ島のパランカ停留所からザッテレ河岸をみる

  レストラン「ラ・パランカ」 左はまぐろのステーキ
 まことにいい天気です。ムラーノ島はリド島経由で行くしかない、まあ大丈夫やろといつもの調子でヴァポレットに乗り込みました。ゆったりと船旅でも思っていましたが、二人とも昼のワインで頻尿気味というかそのものになってきました。リド島までもたないという話になって、ビエンナーレ会場の臨時停留所で途中下船しました。ビエンナーレをみることもなく、次の船に乗りましたが、ムラーノ島までにもう一回途中下船という羽目になりました。
 サン・マルコの東側は、岬のサンテレナ島まで相当の距離があることがわかりましたし、そこを魚の形の尾びれのところをぐるっと回りこみ、北側のムラーノ島、ブラーノ島などの島々への発着点となっているフォンダメンタ・ヌォーヴェまではさらに遠いことがわかりました。カナル・グランデとは全くちがう風景が続きました。


  ビエンナーレ会場の臨時停留所

  臨時停留所で出会った少女
 ヴァポレットはディーゼルエンジン音を響かせ、「プリコラ」と呼ばれる水路を示す標識の間を進みます。この狭い水路を切り裂くように、モーターボートはスピードをあげ、ヴァポレットを揺らします。私たちの前には、観光客にはみえない母と子がどこかの島へでも帰る途中なのか、大きな声を立てずに静かに座っています。
 こんなわけで、本島から1劼曚鼻∩イ10分ぐらいのムラーノ島に、私たち自身の不測の事態というせいだけでもなく、ゆっくりと時間をかけて到着しました。小さな船旅の味わいがありました。


  プリコラと呼ばれる水路標識 これを抜くと敵は立ち往生したらしい

  ヴァポレットで出会った母と子  ムラーノ島かどこかの島に帰るのか

  モーターボートとヴァポレット
 ムラーノ島はご承知のとおりガラスの島です。ヴェネツィアのもう一つの顔として、天正少年使節や岩倉具視使節団も案内してもらった島です。
 13世紀以来、ガラスの仕事はとても強い火を使うため火事を心配してこの島へ移転させたといわれていますが、もちろんガラス職人を島に閉じ込めて、企業秘密、ガラス器の製造技術を外部に漏れないようにすることももう一つの目的でした。一時はものすごく隆盛を極めました。16世紀頃にフランスの鏡やボヘミアの高級ガラスが進出するまでは、高級製品としてはヴェネツィアの独占体制が続きましたので、とても豊かな島であったみたいです。
 ムラーノ島のファ―ロ停留所で下船して、ガラス器を展示する店の並んだ通りを歩いてみようかとなったのですが、ここで時間をかけていてはブラーノ島まで行くことができなくなりそうで、すぐのブラーノ島行きを提案しました。そんなに深い思いがブラーノ島にあるわけでもないのに、いい加減なことですが、後で家人からは折角ムラーノ島に来ているのに、さてはショッピングをさせては大変だと企んだのではないかとお叱りを受けました。既にワインの影響は消えていたと思います。今となってはおかしな固執であったのですが、交通関係の案内は私の役割ということでブラーノ島へすぐに出発することにしました。
 言い訳ではありませんが、矢島翠さんは、ムラーノ島には地球上のすべての人間はガラスに絶大な関心をもっているという先入見が脈々と生きているようで、これでもかとガラス器製造・販売の店が続くさまは専制的な感じで反発したくなると書いています。
 「 島へは何度か足をのばしても、私はがんこに財布を開けなかった。
   人はガラスのみにて、生きるものにあらず。ー 」


  ムラーノ島のガラス工房
 
  フォーロ停留所近くのガラス店
 ブラーノ島へは、40分ぐらいとありますが、小一時間、揺られていたように感じました。思ったより遠い島だというのが実感です。これもご承知のとおり、ブラーノ島はレース細工と、このカラフルな家並みで有名な島です。小さいだけにムラーノ島よりも観光客が多いように感じました。
 レース細工は16世紀から17世紀にかけてヴェニシアン・レースの名で珍重され、高級品では独占体制を維持していましたが、フランスが王立レース製造所まで設立して独占に待ったをかけたようです。こうして一時は衰退していましたが、19世紀末からは技術の復活に努力し、今もがんばっています。家人はレース店に入って、言葉が通じず、結局どこで製造したかわからないようでしたが、ハンカチを買いました。
 家の壁はペンキで塗られており、定期的なメンテが行き届いているためか、急に空の色までまぶしくなったようです。霧深いなかを漁から帰ってきた漁師が自分の家をまちがえないようにときっぱりとした色を塗ったのだといわれていますが、はっきりとした正解があるわけではないみたいです。矢島さんの表現力にかかれば、こうなります。
  「 はでなピンク、あざやかな水いろ、青、紫、黄、赤・・・家々が一軒
   ごとに、塗り分けられている。ディズニーランドのアイディアを先取り
   したような島だ。」

 ブラーノ島からみえるトルチェッロ島はヴェネツィアの出発点となった島で(かつて2万人を超えた人口は今は60人(1984年当時))、須賀敦子さんと矢島翠さんの二人がともに熱く語るサンタ・マリア・アッスンタ教会のモザイクの聖母像をみたかったのですが、とても無理なことでした。

  狭い運河を挟むメインストリート

  この色彩と洗濯物 

  レース店、おみやげ屋に集まる観光客
 帰りのヴァポレットは、墓の島であるサン・ミケーレ島が傾いた陽をあびてキラキラと光っているそばを通りました。フォンダメンタ・ヌォーヴェとサン・ザッカリアの2ヵ所で乗り換え、うす暗くなりはじめたアカデミアに帰り着きました。二人ともやっとのことでいうほど疲れていました。
 ホテルのバールで軽食でも食べて寝るかと話していたのですが、今夜は作る人が帰ってしまったといわれ、仕方なく近くのレストラン(サン・トロヴァ―ゾ)に出かけました。前回のヴェネツィアの自由行動で、アカデミア美術館とペギー・グッゲンハイム美術館をはしごしてから、遅い昼食を食べたところです。団体客でいっぱいでしたが、なんとか席を確保できました。
 大勢の団体客が帰って室内ががらんとすると、見覚えのあるウェイターの東洋系の顔がありました。サーブしてくれた6年前と比べて貫禄がついています。終わって帰ろうとして、家人が6年前のことを片言の英語で話すと、自分も覚えているといって、帰り際にレモンチェッロを2杯おごってくれたのです。「ありがとう、ありがとう」といって、長い一日が終わりました。
 本当に覚えていたかどうか半信半疑でしたが、それはそれであたたかい気持ちになって、長い長い一日を終えました。その日は4時間ぐらい乗船していたことになります。小さな船旅でした。


  サン・ミケーレ島 ヴェネツィアで亡くなるとここに眠ります

  サン・ザッカリアの停留所近く
 
  リストランテ・サン・トロヴァ―ゾの前庭
 今号では、本島以外の島に出かけたことを書きました。島で少しの時間をすごすことで何かがわかったわけではありませんが、資料などを読んでみて強く感じたのはひとつの都市(国家といってもよいのでしょうが)における中心と周縁の関係です。
 中心部である本島がヴェネツィアとして生きていく、つまりまっとうに機能するためには、ベネト潟内の周縁部にある島々がそれぞれ一定の役割を果たしていく関係にあったということです。中心の本島にとってリスクのある人や施設などを、周縁である小さな島に配置していくことでヴェネツィアの都市機能を安定的に効率的に発揮させる関係にあったということです。
 これを都市戦略や機能分担とかの言い回しになるのかどうかはわかりませんが、そうした関係性は島であるだけに、ヴェネツィアでは隠しようもなく顕わになってしまいます。あまり見たくもないことが多いのですが、国家、都市、地域のことなどを考えてみようとするのであれば、避けてとおれない視点だと改めて確認できたように思います。
 今の我が国とも貫通していることは申し上げるまでもありません。


【補足:レデントーレ教会と須賀敦子さん】
 今号の島から島への基点となったのは、ジュデッカ島をのぞむドルソドゥーロ地区のザッテレでした。ヴァポレットはこのザッテレ停留所から乗船した私たちを島々に連れて行ってくれました。
 須賀敦子さんはヴェネツィアの芝居染みた虚構性の強いまちに比べ、「この運河のおだやで日常的な明るさにほっとこころがなごむ」と書いており、ザッテレの河岸が好きだったようです。好きな理由の一つが、「ひろびろとした運河の対岸に、パッラーディオの設計になるレデントーレ教会がほぼ正面に眺められるからだ」と書いています(「ザッテレの河岸で」//『ヴェネツィア案内』共著、1994年刊/新潮社)。
  「 この建造物を通して、私は、この16世紀を代表する建築家を理解し、
   愛することを覚えたと思う。そして、まるでそのことをたしかめるみた
   いに、私は、夜、船着き場の雑踏がしずまるのを待ってこの河岸になん
   どか来たことがある。深いブルーの空の下、照明を受けて燦然とかがや
   くレデントーレを見て、ほっとして宿にもどる。」
  「 この教会が再度ヴェネツィアを襲ったペストの終焉を願って、《レデ
   ントーレ=人類の罪をあがなうキリスト》に捧げられ、建立されたのは
   16世紀後半である。運河の水面を広場に見立て、静かに流れる水面をへ
   だてて見るときだけ、この建築の真の量感がつたわるという非凡なアイ
   ディアを編み出したパッラーディオは、竣工後[着工後のまちがいか?]
   わずか4年で、内陸の都市ヴィチェンツァで生涯を終えている。」

 カナル・グランデで感じた水面と建物の関係性ということが、パッラーディオにおいてもテーマとしてあったことが確認できたように思います。須賀さんは心に引っかかる建築物は何回も見ることにしていたらしく、そうでなければ、見ることにならないと、何回も見てそして待つことが須賀さんがどこか気になる建築物や事物との対し方、態度であったにちがいありません。それは長く発酵のときをへて彼女の文体となったように。
 須賀敦子さんの宿とは、私たちの宿泊したホテルの斜め前にある「アッリ・アルボレッティ」のことだったみたいです。夜に船着き場が静まった後にレデントーレ教会の遠景を見ることもできたのに、そんなこともできずに、もはや時計を逆回ししてもどることもできなくなりました。


  ヴァポレットを前景にしたレデントーレ教会

  右側がホテル「アリ・アルボレッティ」 左側はアカデミア美術館
                     【続く:(1)(2)/(4)へ】
 


 



 

2016.02.13 Saturday

水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(2)ー

 サンタ・ルチア駅頭に二つのトランクとともに降り立ったとき、さてホテルまでうまく行き着けるかということだけで、ついにヴェネツィアにもどってこれたという感慨を覚えるような余裕もなかったのです(ですからサンタ・ルチア駅の写真は撮らないままでした)。
 昨年5月17日、日曜日の午後2時過ぎ。大運河に面したヴァポレット(水上バス)の切符売り場で、4泊5日に適合する時間券がなく、7日券を2枚買って(あんなに役立つとは知らずに)、大運河を各停で運航している1番に乗り込みました。なんとか家人の席を確保し、両手が自由になって目を外に向けると、そこはまぎれもなくヴェネツィアです。
 フィレンツェからの特急列車がメストレを出て、鉄道橋に入ったときラグーナの広がりに高ぶった気持ちがやっとよみがえってきました。モーターボートは高速で走り回っていますが、各停のヴァポレットは大運河をゆっくりと進みます、これがちっとも嫌ではありません。もちろん生活者ではない旅行者にとってのヴェネツィア時間なのですが、現代の社会では当たり前の自動車が走っていないまちだからでもあります。生活者にとっても、自動車が走らないまち、自動車で移動できないまちなのです。
 前回(2009年5月)はバスでローマ広場に入り、そこからツアーの皆さんと水上タクシーでホテルへ直行したのですが、今回はこんなかたちでヴェネツィアに足を踏み入れました。ヴァポレットのエンジン音は大運河の船上からの風景を引き寄せ、だんだんと喜びがわきあがってきてすっかり魅了されていました。いつもながら単純ですが、着いて20分ほどで、これがヴェネツィアだったのか、これがヴェネツィアなんだとウキウキと楽しくなっていました。

 あまたの著名な書物はもちろん、そして今は私のような無名の者が数の知れずブログなどで、ワンアンドオンリーのまち、ヴェネツィアのことを語ろうとしている時代です。他者にとって不要といえばまったく不要ですが、各人それぞれにとっての<ヴェネツィア>を発見したことを言葉や映像にすること、それを表現することは一人ひとりにとっての喜びの確認だと思うのです。
 前回にふれた矢島翠さんの『ヴェネツィア暮し』には「あらゆるレベルのきまり文句が積もり」、「ヴェネツィアというまちを殻のように包んで、ことばのまちが築かれている」とし、こんなことが書かれています。
  「 ヴェネツィアをめぐって書かれたことばは、どれもペン先から生まれ
   る傍らから、新たなーあるいは耳にタコができるほど聞きあきたー紋切
   り型となる運命にあるように思えるのは、なぜだろうか。裏返していえ
   ば、この想像を絶するまちについての人間の表現は、決して独創的には
   なり得ない、という予見が、気軽に人びとの口をひらかせ、安心して筆
   をとらせるのかもしれない。」

 ということで、言い訳めきますが、紋切り型をあまり恥ずかしがらずに書いてみることにします。とにかくヴァポレットに乗ってただただヴェネツィアを味わっていたのが今回の旅であったと感じていますので、今号では大運河からみえる建物、その作り出す風景のこと、そしてこの街並みの成り立ちのことにもふれたいと思います。
 書き忘れていますが、サン・マルコ広場の手前、アカデミアでヴァポレットを下りて、歩きにくい石畳みの上をトランクを引っ張り、無事ホテルにたどり着きました。


  ラグーナ(潟)上の鉄道橋、もうすぐサンタ・ルチア駅

  サンタ・ルチア駅前広場のヴァポレット これは逆方向でローマ広場行き

  ヴェネツィア本島地図 カナル・グランデのイメージ(サン・マルコ広場まで3.8)
  ◉:左上はサンタ・ルチア駅  左中下はアカデミア

◈水から直接建ちあがる館、その風景ーカナル・グランデからー
 ヴェネツィア(本島というべきでしょうか)には中心となる街路、いわゆる目抜き通りがありません。あるのはカナル・グランデ、裏返しのS字形の大運河であり、これが水上の目抜き通りとなっています(サン・マルコ広場まで約3.8劼判颪い討△蠅泙)。「ウォーターフロント」は世界の都市再生のシンボルとなってきましたが、ヴェネツィアにはウォーターフロントしかありません。
 今回の旅で一番数多くシャッターを押したのは、カナル・グランデから眺めた風景、景観です。14、15世紀に建造され古びているにもかかわらず(もちろん多くが修復、リノベーションされていますが)、水面から直接建ちあがる大きな館(パラッツォ)や教会はとても魅力的でした。キラキラと光るエメラルド色の水面と青い空、そして長い時間が堆積した深い色をたたえた建物のフォサードに、圧倒されるというより、どこにもない空間を楽しんでいたのだと思います。大運河は目抜き通りですから、建物は正面玄関を水に向けているのです。このことを、ヴェネツィアの建築に詳しい陣内秀信さんは次のように書いています。
  「 ヴェネツィアのように直接水から建物が建ち上がって、正面玄関を
   水に向けているという姿は、アムステルダムにもなければブルージュ
   にもないし、蘇州だってこうはいきません。ヴェネツィアだけのもの
   です。」
 カナル・グランデの眺め、特に船からの眺めが異次元の世界に入りこんだ風景、景観として、私が感得できたのは、ヴァポレットの速度が遅く、しかも安定していること、両岸の船駅に交互に停まりながら進んでいくために両岸の建物との距離にも遠近が生じること、こんなことも相まってのことであったのでしょう。今号のブログでアップした映像は屋敷(パラッツォ)が中心になっていますが、私はヴァポレットなどの船や、そこに乗船している人びともいっしょに写っている方が、今という時代の<ヴェネツィア>の生命感をもっと豊かに感じとれると思っています。
 もっと事前に調べていれば意識して撮影できたのですが、帰ってきてから、撮影した写真をガイドブックに出ている建物と照合してみると、有名らしいいくつもの宮殿を撮影できていないことが分かって少しがっかりしました。でもそんなことはどうでもよいのかもしれません。前回の経験から美術館や教会の中で美を発見することが<私のヴェネツィア>ではないのではないかと疑念をいだいていた私は、船に乗ったり、歩いたりして<ヴェネツィア>という空間に身をおいて、その発する光と影をじっくりと感じてみるしかないと考えていましたといえば、後付けになりそうだけれど。


  トルコ人商館 現自然史美術館  13世紀ヴェネト・ビザンチン様式

  サン・スタエ教会堂

  パパドーポリ館 

  カ・フォスカリ  現ヴェネツィア大学 15世紀後期ゴシック様式

  カ・レッツォニコ 現ヴェネチア18世紀美術館
 ヴェネツィアの形容句はいろいろあります。「水の都」「アドリア海の花嫁」がもともとですが、塩野七生さんの「海の都」というのもあります。祝祭空間たるヴェネツィアを象徴するような「劇場都市」「演劇都市」「祝祭都市」、そしてまちづくりといった面から「ヒューマンスケールの都市」「エコ・シティ」と呼ぶ人もいます。「五感の都市」とか、近現代都市との比較において希有なヴェネツィアをとらえて「光と影の都市」という表現も使われているようです。
 これぞ紋切り型のオンパレードかもしれませんが、この中にまったく不適合だと感じる形容句はなく、こんなきまり文句が私たちのイメージを決定づけている側面を否定できますまい。ただ、こんな形容句をぶら下げて、ヴァポレットに乗ったり、歩いたりしているわけではなく、ヴェネツィアが放射してくる光と影が心の奥底にあると思われる五感の塊に響いてきたとき、<ヴェネツィア>への愛を疑う術を失うのです。
 でも、この空間があまりにも特異であるからこそ、非現実と紙一重であり、しばらくすると、ヴェネツィアで経験したこと、ヴェネツィアの存在そのものに疑いというか、本当に現実だったのかという感慨に囚われてしまうことがあるように思います。だから、再び、それを確かめたくなるというのが、<ヴェネツィアの魔力>というものかもしれませんね。
 ヴェネツィアは非日常的な空間体験のまち、確かに人びとを酩酊にいざなう力をもっています。

 ここで、<眺めのよい部屋>ならぬ眺めのよい大運河に沿った館(パラッツォ)の中で内部に入ることができたカ・ドーロを紹介しておきます。カ・ドーロは「黄金の館」の意味で完成時には壁面に金箔が貼られ、15世紀に建造され、ヴェネチア・ゴシックの傑作だとガイドブックなどには書かれています
。現在はジョルジョ・フランケッティ美術館として公開されています。
 カ・ドーロには出発の前日(20日)に出かけましたが、2、3階はカナル・グランデ
に開かれた広い室外空間があって運河越しに魚市場をのぞむことができ、しばし美しい眺めを楽しむことができます。1階は、他の建物と同様、居室をつくらず、直接運河から出入りができるようになっていたようですが(まさに正面玄関)、今は安全のために鉄網が設けられていました。
 これだけのパラッツォは元々は総督(ドージェ)、貴族、大商人あるいは外国の商館のためのものであり、当然、今は使用目的が違い、個人で使っているようなところはないのでしょう。豪華絢爛かどうかはよく分かりませんでしたが、いずれにしても豪壮な館でした。この日は雨模様でもあり、少し暗い印象があったことは残念でした。やはり青い空と光に満ちた運河の水がいっしょでいてほしいと感じたのです。


  カ・ドーロ1階 壁面にも注意  以下もすべてカ・ドーロ

  1階の床面 美しい

  1階からの大運河風景

  1階から2階、3階壁面を見上げると

  運河に面した3階ベランダ

  3階ベランダからの大運河風景 対岸には市場などが見える

  フランケッティ美術館のマイベスト1
 こんなカ・ドーロのような大邸宅であっても、天井や階段に木が使われていることに驚きましたが、矢島翠さんはヴェネツィアの家のつくりは土地の特性と密接に関係していることを、先ほどの陣内秀信さんの説明で腑に落ちたというようにこんな説明をしています。
  「 陣内氏によると、地盤のゆるい土地では、建物の一部だけが沈んで、
   曲がったりする。そんな場合、石でつくってあると意外に弱いが、木は
   天然のバネを持っているので、変形を吸い取る。そこで、壁は煉瓦でつ
   くるが、床や梁や屋根組みはすべて木を使う。そこに「ベネチアの佇ま
   いの優しさ」の秘密があるという。」

 街並みの主な構成要素である建造物について、この木材の使用と、それに伴う建築物の印象への影響について、いわば内部構造の違いが外部構造の見え方(同じ石造であっても<堅固さ>と<優美さ>の差異のように)にも反映してしまうという指摘は大変に興味深いものだと感じました。

  カ・ドーロの天井 すごい木組み
 
  3階への階段 今は使われていない

◈地上の美しさ、地中にある森が支え
 カナル・グランデという目抜き通りを自動車に振り回されることなく、そのど真ん中をヴァポレットという愛想のない水上乗合バスがヒューマンスケールのスピードでゆったりと進んでいく。ヴェネツィアの地上の美しさとは、ヴァポレット上の放心した私の目にとびこんでくるもの、そこからの眺め、直接水から建ちあがるパラッツォが運河と空と一体になった景観ではないだろうか。今回の旅で私はそこにひとつの答を見出したのだと思っています。もちろんそれは無数の答のひとつでしかありません。
 では、こんな景観がどのように作り出されてきたのかということをここでは確認しておきたいのです。この問題は書物やネット上でもさまざまな角度から論じられていますが、私がどう理解しているかをできるだけ簡単に整理しておきたいのです。
 前回からの矢島翠さん『ヴェネツィア暮し』とともに、フェルナン・ブローデルの『都市ヴェネツィア-歴史紀行-』(1986年8月刊/岩波書店)にも依拠しながら、試みたいと思います。この二冊はいずれも1980年代半ばのヴェネツィアの経験に基づいて書かれ、同時期に刊行されたものです。ブローデルは20世紀歴史学を革新したアナール派の大学者ですので、次号以降でブローデルのヴェネツィアの歴史の見方にもふれることができたらと考えています。ただし、同書のブローデルの射程はヴェネツィアの歴史的考察にも及んでいますが、結局のところ、ヴェネツィアへの愛情の表明という色彩の方が濃い書き物なのです。
 これらに加えて、ネット上公開されている陣内秀信さんの講演録なども参考としています。

 すべてはアドリア海に面したヴェネトの潟(ラグーナ)から出発しました。外敵から身を守るために、ラグーナに浮かぶ群島(最初は5世紀頃のトルチェロ島だったといわれています)に本土から移住してきた人びとがヴェネツィアをまさに形づくっていきました。ラグーナは本土から流れこむ川の土砂が堆積する浅瀬の多い湿地帯というべき湾であり、ところどころに小さな島ともいえない島が頭をのぞかせていたのでしょう。
 陣内さんによると、9世紀初頭からヴェネツィアでは現在のリアルト橋あたりを起点とし、「数多くの有力家が島を一つずつ占領し教会堂を建て、小さな集落を築く」という町づくりがはじまったとしています。これらの各島は水で囲まれた教区として独立し(だんだん70ぐらいの教区ができあがる)、島相互間の移動手段は舟のみであったが、約3世紀にわたる初期形成時代に、運河システムによって島の集合体を結びつける独特の都市構造を見出したのです。だんだんと運河を限定して狭め、カナル・グランデ(元々は川の流れ、ラグーナの水の流れに沿ったもの)を残して、隣接の島へは橋をかけることによって、現在の街並みが形成されたのだとしています。
 このことについて、少々長い引用ですが、プローデルは次のように表現しています。
  「 ヴェネッイアは島々の総和によって形作られた迷宮であり、基本単位
   がまず建てられ、ついでつなぎあわされて《密度の高い都会》となった
   集合体なのだ。家々、運河、河川(最初は柵で、次に《フォンダメンタ》
   と呼ばれる石の塊で縁取られた)、そして最後に《カッリ》つまり狭い街
   路が、間質組織のように作用して、ぱっくり開いた傷口もいずれふさが
   るように、すべてがゆっくりとつなぎあわされたのだ。」
  「 このように建築工事が急増したさいにも、その敷地となったのは潟で
   あり、浅瀬であり、海水に覆われたもとの川床であった。それらはいわ
   ば、なにがどうあろうと服従し適応しなければならなかったカンヴァス
   だった。すべての、すくなくとももっとも主要な部分の出発点はリアル
   トとドルソドゥーロだった。館も家も橋も、ここを背骨として、その両
   側のあらゆる方向に伸びていった。」

 全体の絵があって形成されたものではなく、それぞれの島の<総和>としてのヴェネツィア、全部で100以上の島が400ぐらいの橋でつながれているのが現在のヴェネツィア本島なのです。ですから、直線の感じられないまちヴェネツィア<水の上の迷宮都市>が形成されたのだというわけです。
 この街並みの形成には経済的繁栄が基盤にあったことはいうまでもないが、ここではふれないでおきます。


  ヴェネトの潟 アドリア海とは三つの出入り口で結ばれている
 元々水面に頭を出した島を核としているとはいえ、そもそもどうしてこのような街並みが成り立っているのかは、水面下に聞いてみなければなりません。よく書かれていますが、そもそも「まち全体が、無数の木の杭の上に載っている」のであり、ヴェネツィアのまちを水面下で支えているのが杭の森なのです。縁取られた<フォンダメンタ>の上に街並みが形成されるとき、こんな潟の地層(底30mぐらいの深さまではやわらかな泥)では基礎が何より大切なことは素人でもわかります。
 プローデルはこんな書き方をしています。
  「 館にせよ、家にせよ、基盤として、木の杭を、もしできれば樫の木を
   垂直に打ち込まなければならなかったが、いくつかの森をつぶすほどの
   量が必要だった。百万本の木の幹がラ・サルーテ寺院を支えている。砂
   と泥に埋められた大森林が、ヴェネツィアをのみこんでしまうかもしれ
   ない水、つねにこの町をのみこむ危険のある水のうえに辛うじて支えて
   いるのだ。」


  サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会 1687年完成
 具体にどのような基礎杭なのかについて、土木学会の資料(『国内の構造物基礎における木材利用事例と設計方法の変遷』2012年3月)で確認しておきましょう。火災の危険から木造建築を止め石造建築へ変化していった15世紀における基礎地盤づくりは「なるべく硬い材質の木材を選び、20cmの角か丸で2mから5m程の杭を、先端を釘のようにとがらせ、沼(泥)地の中にすき間もできないように打ち込んでいく」と説明されています。特に建物の壁や柱の下、運河に沿う部分では集中的に深めに杭が打たれたのです。

  木杭の上に木桁を組み、その上にイストリア石をおく

  あの重そうな石造のリアルト橋の完成は1592年
 こんな水面下に打たれた無数の木材の基礎の上に、今も建物は水から直接建ちあがって、あの景観を発しているのです。
 矢島翠さんは、この成り立ちをきっちりと説明したあと、次の簡潔で見事な比喩をヴェネツィアに寄せています。
  「 こうしてヴェネツィアは、巨大な水生植物に似て、無数のひげ根を泥
   中におろしながら、水面にこの世の不思議と思われる花を、咲かせてい
   るのです。」 


 プローデルの本の写真は、イタリアの著名な写真家クイーリチによるもので、大運河添いをヘリコプターの上から撮影したものが掲載されています。30年以上前のものですが、今の街並みとあまり変わっていないように感じます(失礼千万ではありますがその本の頁を私が撮影しています)。
 この変わらないさ加減(内部は変化しているが)もヴェネツィアそのものなのでありましょう。


  大運河  ̄Δ魯ンナレージョ地区 左はサン・ポーロ地区

  大運河 上はドルソドゥーロ地区 下はサン・マルコ地区

 こんな不思議なまちを築いてきた歴史、多くの困難に立ち向かい持続に賭けてきた歴史、そして未来への困難と希望の狭間におかれた現在。
 これからもまだしばらくはヴェネツィアとお付き合いをお願いできたらと思っています。
【補足】
 ・ ヴェネツィアの人口について、特に本島部分は
2015年は56千人で、ピークだった
      1951年の175千人に比べ、約1/3ぐらいまで大幅に減少したと報じられています。
   なお、本土側、他の島しょ部を含めた市全体では264千人で、これも減少傾向にあ
  ります。


                        【続く:(1)/(3)へ】



 
2016.01.25 Monday

水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(1)ー

 ヴェネツィアのことだけは書いておきたいと思うのですが、なかなか書き出すことができません。身のほどしらずというべきですが、所詮はこんな旅でしたという文章にせよ、少しは自分らしいものを書きたいと望んでいたのです。
 このブログにおいてもパンテオンのところで昨年5月にイタリア旅行をしたことを記しました。最初の退職のあとで何回かの機会をえた海外への旅もそろそろ終わりが近づいているという実感があり、それなら初めての場所をめざすより、もう一度ヴェネツィアだけには行っておきたいと願ったのです。
 今回のヴェネツィアは、ローマ、オルヴィエート、フィレンツェを経て、最後の行き先として列車で入り、4泊5日滞在しました。結局、何かを見たり感じたりしたような、でも無為の日々であったような、ただ歩いたり船に乗ったりしていただけのことだったともいえるでしょうか。少しの充足と、まだまだ不足がないまぜになった思いが残りました。
 人生万事がそういうことではないでしょうかという声が内部から聞こえてくるのを感じながら、とにかく始めたいと思います。


  サンタ・ルチア駅でおりて最初に撮影した写真

◈何ものかに導かれるように
 ヴェネツィア2日目の朝6時、いつものように一人でカメラだけぶらさげてホテルから飛びだしました(小さなホテルでは宿直の方が私の姿を初めて見てびっくりされることが多いのです)。泊まっていたのがアカデミア美術館近くのホテルで、大運河とジュデッカ運河にはさまれたドルソドゥーロ地区(ヴェネツィアの本島は6つの地区に区分されていますがその一つ)ですから、まずはその先端のところまで行ってみようと、朝陽でキラキラと光るジュデッカ運河に沿ったザッテレの河岸を歩きました。


  ザッテレの河岸からのぞむジュデッカ運河とジュデッカ島
 折り重なる建物の向こうにサンタ・マリア・デラ・サルーテ寺院の白い伽藍の上方の部分がみえてきたので、そろそろ先端が近づいてきたと左折しました。ヴェネツィアらしい小路ではなく、細長い広場(あとで小運河の埋め立て地と知りました)のような空間が広がっていました。そこに並んでいる古い建物のドアの上に、「92」「92A」「92B」と番地表示がありました。
 そのとき、ああ、そうかもしれないと胸騒ぎがしました。ドルソドゥーロ○○番地という住居表示は他のどこにもない1ヵ所だけに決まっています。さも発見でもしたように、だとすると、そうだ、これらのうちのどれかにちがいないと思ったのです。「92A」だけが現居住者がいないようで、それらしい看板が出ていました。やっぱり「92A」だったよなあと記憶をまさぐりましたが、確信はもてず、ホテルに帰って確かめるしかないと、写真だけ撮ってサルーテ寺院の方へ向かいました。


  細長い広場、右手、木の向こうが92番地

  これが「92A」の住居表示

  左側が「92A」の出入り口 四階がありそうですが別の家のものか

 サルーテ寺院から突端の元税関跡(今は現代美術館)をぐるりと回って、その日の午前中に行く予定のペギー・グッゲンハイム美術館の脇を抜けてホテルに戻りました。

  サンタ・マリア・デラ・サルーテ寺院

  ドルソドゥーロ地区の突端 夕陽ではなく朝陽です
 関空からの飛行機のなかで長時間読んでいた本を急いで開き、著者が1983年11月から8ヵ月の間、伴侶と暮らした家がドルソドゥーロの「92A」番地であったことを確かめました。この三階建ての家のことについて著者は一章を割いているのですが、こんなふうに書いています。
  「 前世紀末頃建ったとおぼしい三階建ての内部は、複雑な縦割りと横割
   りが錯綜しているようだった。イストリア石の屋敷(パラッツォ)には遠
   く及ばないにせよ、最初はかなり大きな家だったものを、数家族用に仕
   切ったのだろう。[中略]わが家は、一、二階は一室ずつで、三階に多数
   のL字型に並んでいる、頭でっかちの間取りを持ち、両隣と不規則に入
   り組んでいた。 」
  「 このまちの古いすまいの場合、いかにみすぼらしげな入口や、がらん
   とした一階の様子だけであるじの暮し向きを判断するのは間違いのも
   と、といわれている。そもそも一階は、人間様が常時陣取っているべき
   場所ではない。ときどき運河からあふれ出て、住宅のなかまで無遠慮に
   訪問してくる水を迎え入れるために、あけておくべき階なのである。」

 この本の著者は矢島翠さん(1932-2011年)、書名は『ヴェネツィア暮し』(平凡社ライブラリー/1994年刊)で、最初は1987年に朝日新聞社から出版されたものです。伴侶とは、加藤周一さん(1919-2008年)、「知の巨人」と称された加藤さんがヴェネツィア大学で日本のことを教えることになったため、この<水の上に人間がきずいた不思議>のまちで8ヵ月を暮らすことになったのです。
 ずっと前に買ったままで放置していた同書をイタリアに向かう飛行機のなかで他のことに煩わされることなく集中して読んでいると、これはすばらしい本だ、ここに本当のヴェネツィアがありそうだ、矢島さんはとてもすぐれた文章家だと圧倒されました(矢島さんは共同通信社の女性記者の草分け)。そして、普通は記憶に残らない「92」という番地表示の数字まで覚えてしまっていたし、サルーテ寺院の近くなんだが頭に入っていました。でもこんなフラフラ歩きの最中にまさか本のなかの「家」が特定できるとはとても想像していなかったのです。


  平凡社ライブラリー版

 「えっ、それがどうしたの?」と枝雀からくすぐりを入れられ、家人からもそれはそれはと呆れられそうなことをこのブログにわざわざ書いているわけです。が、私には、<何ものかに導かれるように>その番地「92A」の前に立ったように思えるのです。落語の富くじ、今の宝くじに当たるより難しいことではないか、私には、この出来事によって<自分にとってのヴェネツィア>がもっと特別なまちになったような気持ちになりました。
 少々大げさすぎますが、少し足もとが浮いたような感覚の<旅>という場においては、ミーハーになれるというか、こんなことまで喜ばしい気分にさせてくれました。
 『ヴェネツィア暮し』には今回以降も登場してもらって、この拙い文章に少しでも深みと重みを与えることができたらと、いつものとおり他人頼みでヴェネツィアへの旅を紹介していきたいと思います。
 なお、タイトルの「水の上に人間がきずいた不思議」も『ヴェネツィア暮し』のあとがきから取らせてもらいましたが、別のところで矢島さんは「人間が現世にきずきあげた不思議、目のおどろきとよろこびの視覚の共和国」とヴェネツィアのことを表現しています。そのとおりというほかありませんね。


 『ヴェネツィア暮し』の目次 ピントが甘いです

 さて、矢島翠さんがいつ亡くなられたかを調べていると、この『ヴェネツィア暮し』を大絶賛しているエッセイの存在を知りました。上野千鶴子さん(東大名誉教授、社会学者)が柴田元幸責任編集の『モンキービジネス』Vol.14の<Japanese Classics>に寄稿した「テキストのヴェネツィア、読む悦楽」のことです。
 矢島さんが亡くなったのは2011年8月のことで[2008年12月の加藤さんの死から3年弱のことでした]、この雑誌は2011年夏号なので、上野さんはこのエッセイを矢島さんの亡くなる直前に書いたことになるのでしょう。上野さんらしく(私はほとんど読んでいませんがフェミニズムの視点から鋭角的な批評する人という思い込みがあります)、もっともっと矢島さんには書いてほしい、こんなすごい書き手を放っておく世の編集者は目が節穴だとし、こんなことを書いています。
  「 共同通信社初の海外女性特派員としてニューヨークに滞在中に、当時
   フランス人女性と結婚していた加藤さんと出会い、熱烈な恋愛の末に、
   離婚して再婚したという。その後、海外の大学を転々として教えた夫に
   同伴し、高齢でなくなるまで加藤さんを杖のように支えた。映画評を書
   いたこともあり、その高い文章力で知られる矢島さんが、結婚してから
   筆を折ったのが不思議である。 」
  「 かつて表現者であった才能ある女性が、とりわけ同じように表現者で
   ある伴侶を得るとともに、脇役に廻ることがしばしばだが、彼女もその
   例に漏れないのだろうか。そのような女性にとって、伴侶の死は、痛手
   にはちがいないが、一面で解放でもあるはずだ。わたしの編集者魂はう
   ずいて、このひとにもういちど書いてもらいたい、とせがむ。私自身の
   読む悦楽のために。 」


 『ヴェネツィア暮し』への絶賛は、「ここに練り絹のような感触を持ったエッセイがある」からはじまり、あえて常套句を使うとして「文字どおり「珠玉」のようなエッセイ」「掌中珠をころがす思いで、なんども反芻し、くりかえし読みたい思いに駆られる、数少ないテキストのひとつである」と、手放しの称賛なのです。そしてタイトルにある「「読む悦楽」をこれほど味わわせてくれる書物」に帰結するのですが、私のような読者に、間違ってはいけませんぜと釘を刺しています。
  「 本書は、ヴェネツィア旅行を計画しているひとには、なんの役にも立
   たない。旅行ガイドではないからである。[中略]だが、同じ場所を訪れ
   ても、あなたが経験するものは同じではない。ヴェネツィアから帰って
   きた旅行者が、本書を読んだとしたら、自分はいったい何を見てきたの
   か、と悔し涙に暮れるだろう。
    だが、どちらの読み方もまちがっている。本書が描くのは、矢島翠と
   いうひとりの個性が経験したヴェネツィア、彼女の言語的遂行のそとに
   は、どこにもない世界だからだ。 」

 さらにダメ押しをしています。
  「 同じように、ヴェネツィアに行っても、矢島翠の「ヴェネツィア」に
   は出会えない。ゴンドラに乗っても、リアルト橋にたたずんでも、足跡
   をたどって周辺の島へ、ムラーノ、ブラーノ、サン・ミケーレと足を伸
   ばしても、けっしてあのヴェネツィアにはたどりつけない。それどころ
   か、実際に自分が訪れたヴェネツィアとの落差に、愕然とするばかり
   だ。 」

 だから、この「たぐいまれな日本語で書かれている」『ヴェネツィア暮し』を読んで「読む悦楽」を味わえばよいのだとし、上野さんは「このヴェネツィアは、矢島さんが日本語使用者のために贈ってくれたヴェネツィアだ」と断じています。

 ヴェネツィアに旅してきた旅行者として、少なくとも自分のなかの空っぽさ、ヴェネツィアを語るべき言葉の貧弱さを自覚すると、上野さんに反論することは難しいといわざるをえません。それだけ『ヴェネツィア暮し』がテキストとして屹立しており、読者のいい加減な同調を許さないテキストだというのは正しいのだと思います。
 それはそれで認めたうえで、だがしかしと言いたい気持ちが残ります。正直なところ、私ははじめから『ヴェネツィア暮し』を旅行のガイドブックとして読んだのではないが、矢島さんのヴェネツィアを味わうことによって、矢島さんのヴェネツィアの人とまちと風景への言葉を、わずかでも自分の言葉と響き合わせることによって(幸運にも恵まれる必要がありますが)、少しは旅が豊かなものになるのではないかと考えていたことは事実だと思います。
 こんな願いは、本書が知性と感性の豊かな教養人として矢島さんだけではなく、たとえば「芥」という章では、ヴェネツィアのごみ問題をきっちりとした調査研究を踏まえて書くというジャーナリストとしての一面も十分に発揮されているからでもあります。
 <何ものかに導かれるように>矢島・加藤夫妻の暮らした家の前に立ったように、断片にせよ、『ヴェネツィア暮し』の<何ものかに導かれるように>、私の歩いたり見たりと響き合っていないのか、この「水の上に人間がきずいた不思議-ヴェネツィア」の旅を続けてみることにしましょう。

 今回は、本書の内容を紹介する場ではないのでこれぐらいで閉じたいと思います。ただ先のエッセイで上野さんは『ヴェネツィア暮し』から矢島さんの特質を示す文章を数多く採録していますが、ここでは次の冒頭の文章のみ書きつけておきます。
  「 ヴェネチアは、天井の釣り人に釣りあげられて、アドリア海の奥の
   生簀に、そっと入れられた魚に似ている。 」

  
 『ヴェネツィア暮し』から17世紀の鳥瞰図 「魚」に見えますか


  『ヴェネツィア暮し』から略図 なんとなく「魚」の形です

  手持ちの地図 ドルソドゥーロは地図の本島下側の部分で「硬い背なか」の意 
                          【続く:(2)へ】 


 

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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