2016.08.29 Monday

川の真上にホームがー阪神武庫川駅ー

 狂おしい熱風とはちょっとちがう風を感じました。川の上にあるホームを、移りゆく季節を告げる強い風が吹き抜けていました。

 

 毎日乗降していると、これは珍しいかもしれないなあと感じています。阪神武庫川駅は武庫川をまたぐ鉄道橋の真上にホームが設けられています。ホームから線路を見下ろすと、軌道の半分ぐらいの幅の落下防止ネットがありますが、枕木の下には川面が広がっています。携帯電話を落とすと、一直線に水面まで落ちてしまいそうです。

 同じ阪神電車の芦屋駅のホームも芦屋川の上にあって類似の構造かと思いますが、芦屋川の川幅や流水域が狭いことから、水面が丸見えということではありません。武庫川が波立つ冬の風の強い日などは大変かもしれませんが、おだやかな日はさぞ気持ちがいいことでしょう。今までこんな開放的な駅に出会ったことがないような気がします。

 

 武庫川は東が尼崎市、西が西宮市の境界となっていますが、元々の武庫川駅は尼崎市側の川近くにあったのですが、大正時代に行われた武庫川の改修工事にともない、川の上に駅が建設されることになったものです。こんなユニークな駅のホームのすぐ南側には狭い人道橋が架けられていて、自転車が走ったりしているので、初めての時はこりゃどうなっているのと驚きました。

 改札口は尼崎側に二カ所と私の利用している西宮側に一ヵ所あります。尼崎側の改札口は川の上にありますが、西宮側の改札口は川の堤防を越えたところにあります。ですから改札口にはホームから延長される少し長いブリッジを通って向かいます。改札口を出ることなく海近くの団地と連結する路線距離1.7劼良雜棒鄒に乗り換えができます。そのまま改札口を出ると、近隣居住者以外の人たちは多くが近くの兵庫医大病院に向かいます。長いブリッジがうらめしいような覚束ない足取りの方々も目立ちます。

 

 こんな武庫川駅の成り立ちを日本経済新聞が報じた記事(「川をまたぐホーム 阪神武庫川駅(謎解きクルーズ」2014.9.20))を見つけましたので、リンクさせてもらいます。

 掲載の写真は最後の一枚を除いて8月27日に撮影したものですが、両側の河川敷は緑もたくさんあって、散策・散歩コースとなっており、近くの高校・大学の学生たちのトレーニングや釣りのスポットとしても利用されています。

 28日には「たそがれコンサート」の会場ともなるらしく、練習するトランペットのハイノートが高らかに響いていました。

  阪神武庫川駅の南側ブリッジからみたホーム、武庫川の上で右の狭い通路が人道橋です

  南側ホームからみた北側ホーム 武庫川の河川敷を多くの人びとが利用しています

  南側ホームから覗いた線路 武庫川の水面が丸見えです あまり見たことがありません

  こうして人道橋を自転車が通りすぎます

  みなさん赤ん坊に注目です 人道橋を人が歩いて通ります

  阪神武庫川駅、西宮側の駅舎です

  南側ホームからの阪神高速と兵庫医大病院です 以上2016.8.27撮影

  前日の盆踊りに続いて「たそがれコンサート」の会場にもなります 2016.8.28撮影

 

 前回のブログ(「すぐそばにーキース・ジャレットの音楽ー」)でキース・ジャレットが慢性疲労症候群のためにピアノが弾けなくなった時期があったと書きましたが、長部日出雄の『マックス・ヴェーバーの物語 二十世紀を見抜いた男』(2007年5月刊/新潮選書)を読んでいてああそうかもしれないと思いました。

 マックス・ヴェーバーの講義について、長部さんは「マックスの講義は、あらかじめ調べ抜き考え抜かれた主題を、語りながらさらに自在に展開して行く即興演奏の要素を、多分にふくむものであった。」としています。多くの学生はもちろんのこと先輩である学者にも鮮烈な印象を残したマックス・ヴェーバーはやがてひどい抑鬱状態に陥り、こうした講義ができなくなってしまい、後半生を大学から離れて過ごすことなるのです。

 キース・ジャレットは違う病であったにせよ、やはりきっと自らに過度の緊張を強いる完全即興のピアノコンサートで繰り返し演奏し、天才の名をほしいままにしたのですが、その蓄積が発病につながったのだと思います。

 天才社会科学者と呼ぶしかないマックス・ヴェーバーの講義と、キースの即興演奏はどこか通じるものがあったのだと、私は感じました。ある枠に収まることのできず創造性を追求せずにおれないない魂の持ち主である二人の魂のほとばしりが生みだしたものに私たちは感動するのですが、心身への負担には測りがたいものがあるのでしょう。即興はその場にいてこそのダイナミクスなのですが、今は本やレコードの形で享受するしかありません。

 そんなに無理しないでもと言いたくなりますが、持てる創造性の源泉を追い求める二人にそんなことを言っても無駄なことであり、これこそ人間の条件だというほかないのでしょう。

 キース・ジャレットは今も完全即興のピアノ・ソロ・コンサートで演奏を続けているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016.08.19 Friday

『京都ぎらい』から離れてー「洛中的中華思想」なるものー

 友人から、本年7月16日付『朝日新聞』「be on Saturday」の<みちのものがたり>が掲載された紙面を渡されました。毎週全国の<みち>を取りあげるシリーズですが、その回は「綾小路通(京都市)」がテーマであり、記事のなかに当ブログでも取り上げた杉本秀太郎や山田稔が登場しているからということでいただいたのです。

 

 記事を読んで驚きました。ちょうど読み終えたばかりの井上章一京都ぎらい(朝日新書/2015年9月刊)から発想を得た記事ではなかろうかと思ったからです。

 同書では「洛外人」と自己規定した井上さんがその視座から「洛中」の優越意識、「洛中人」の傲慢さをさまざまなエピソードによって指摘しているのですが、同書の冒頭に登場する「杉本家住宅」の所在する《綾小路通》が記事の<みちのものがたり>のテーマだったのです。同じ通りに生家のある高橋たか子(1932-2013)の京都への愛憎を芯として、杉本家住宅を保存運営する責任者である次女の杉本節子さんからも「ある意味では、私も京都ぎらいやろね」と、次の談を引き出しています。

  「 鉄格子のこの古い家、<鉄の鳥かご>から出たい、出たいと思ってい

   ました」

  「 でもね、父(杉本秀太郎)もまた京都からの脱出を望みながら、運命を

   受け入れ、生きたと思うんですよ」

 これらの言葉は、「洛中人」らしい立ち位置を示しているともいえますが、やはりそれはそうでしょうねと本音の告白として納得して受けとめました。

 記事中の二つの見出しは<「京都ぎらい」因縁の地>と<「伝統」と決別できない>であり、最後に「「京都ぎらい」が投げかける主題の大きさは、手軽に読める新書の域を優にはみ出している」と結ばれています。

 

 ベストセラーに縁のない私が早くも古本屋におかれていた『京都ぎらい』を手にとってしまったのも、「京都」への特別の感情がなせるところであったにちがいありません。『京都ぎらい』を楽しく読んでというか、井上章一の至芸を楽しんで、また「京都」のことを書いてみようかとしていた、ちょうどその時に新聞の記事をいただいたのでした。

 オリンピックや諸行事であっという間に二週間が過ぎてしまい、読んで感じたことも粗方忘れてしまっていますが、とにかく「2016新書大賞第1位」の太帯を巻きつけた『京都ぎらい』の紹介もかねて、当ブログでアップした「ちょっとそこまでー師走の京都−(2)」の続編として「京都」について書いてみることにします。

  綾小路通の地図 『朝日新聞』H28.7.16朝刊から 

 

◈「洛中的中華思想」とはー『京都ぎらい』の虚実ー

 「京都なるもの」を代表しているのは、「京都」の中の「京都」とは、洛中に生まれ住む私たちが体現しているのです。こうした洛中にルーツをもち居住する人びとに共通する自己認識の核のようなものを、井上さんは洛外、ひいては他地域に対する優越意識、差別意識だとし、これを「洛中的中華思想」だと断じています

 そして妙心寺のある花園で出生し、嵯峨で育ち、今は宇治に住む自らを「洛外生息者」だとし、これまで「洛中的中華思想」の餌食となってどれだけ苦しめられてきたか、その結果、いかに「洛中的京都主義」をうらんできたのかを、具体的な事例を満載して論じているのが『京都ぎらい』だといえます。

 同書を井上章一の<至芸>だとしたのは、井上さんのレトリックは「洛中的中華思想」をターゲットにしつつ、必ず自分にも向けられており、さらにはそこまで書くかという踏み外し感もあって、そのあざやかな筆さばきは鋭い切っ先をユーモアでくるみつつ苦味が残る舌触りで、<芸>と評するほかに適当な言葉がみつからないということです。読んでいると、ホントウとウソの境目を泳いでいるような感覚にとらわれてしまいます。

 

 『京都ぎらい』の最初のエピソードは、井上さんがまだ建築学科の学生だった頃の1977年に杉本家住宅を町家調査のために訪れたさいに、当主である杉本秀太郎さんと会ったときのことなのです。朝日新聞の記事にも引用されていますが、井上青年が嵯峨出身だと知って「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」との言葉を、杉本さんは発しました。このことを井上さんは「はじめてであった洛中にくらす名家の当主から、いけずを言われたのである」とし、「けっきょく、杉本氏も洛中の人だったのだと、私はうけとめることにした、ようするに、私は田舎者よばわりをされたのだ」としています。

 これを皮切りに、井上さんの神経を逆なでにする「洛中的中華思想」を反復増幅させてきたエピソードが怒涛のように繰りだされます。そんなエピソードを誇張した表現と読みとることもできますが、洛中洛外の格差を自覚した鋭敏な井上さんにとってはこれもそれも「洛中的中華思想」だと感じとられたのであり、同じ京都市内で京都の子として教育されてきたにもかかわらず、やはり「自分は京都の子ではない」と気づかされたというのです。

 そして、今や井上さんが「やや癖のある著述家になりおおせることができた」のは、京都の子ではないという崩壊感覚の体験がある種の屈折を与えてくれたおかげであり、「ついでのことだが」とことわりつつ、「洛中の中華思想」にもひとことお礼の言葉を述べておくとまで記しています。

 

 この小冊子というべき新書の章立ては、冒頭の「洛外を生きる」に続き、「お坊さんと舞子さん」「仏教のある側面」「歴史のなかから、見えること」「平安京の副都心」となっており、「洛中的中華思想」を裏付けたり、その実態、実相を暴いたり冷や水をかけたりするように展開されています。

 特に井上さんの専門といえる建築の歴史に関わる部分、現在の京都の大寺院が江戸幕府の保護のもとで再建、造営されたものが多く、応仁の乱以降の荒れ果てた京都を復活させたのは、四百年前の江戸の力なのだと喝破しているところが精彩をはなっています。

 「京都なるもの」とは、京都のまちに歴史的、文化的な優位性を付与する言説の総体が、そこに居住する人びとの無意識の領域までに深く刷り込まれた結果として形成される特権的な思考形態だとでもいえるのでしょうか。その「京都のまち」とは洛中のことなのだと意識することによって、洛外はもとより、東京をはじめとする他地域とはちょっと、というよりだいぶ「違いますわなあ」という優越意識、差別意識が「洛中的中華思想」なのだといえます。

 『京都ぎらい』はこんな「洛中の京都主義」を京都の寺院の再建などの視点から「ほんまにそうなん」とおちょくっているようにも読むことができます。

 

 この「洛中的中華思想」のように「京都人が鼻を高くするのは、首都のメディアが、彼らをおだててきたせいでもある。京都を美辞麗句でかざりつづけてきたことも、洛中でくらす人々をえらそうにさせている」と、洛外育ちの井上さんはおかげて迷惑をこうむってきたのだといいつつ、指弾しています。

 企画に困ったたら京都特集とはよくいわれますが、そういって鼻をうごめかす洛中の人たちが洛外を馬鹿にするのだな、「嵯峨などを低く見るのは、首都メディアにもてはやされ、うれしがっている連中だ」と、井上さんの指摘はなかなか手厳しいものです。

 私も「歴史的、文化的な優位性を付与する言説の総体」が「京都なるもの」の優越意識をくすぐり煽っているとみていますので、この点では井上さんの指摘を否定することができません。

 

 一方、「洛中的中華思想」へうらみ骨髄の感情をもっている井上さんは、ミイラとりがミイラになるというのか、洛中人の洛外人への差別意識と同根の差別意識を自分のなかに見出してしまいます。育った嵯峨にいた頃には西側の亀岡に、また今在住の宇治では南側の城陽に対し、そんなものはないと否定できない優越意識の存在を告白しているのです。

 井上さんはこんな優越意識、差別意識をきらっており、自己嫌悪を感じてきたのですが、そのような「洛外」に近接する外側の地域への優越意識が自らの中にも芽生え、いつのまにか自分も「京都人たちの中華思想」に汚染されてしまったと自己批評しています。

 これは井上さん一流のサービス精神からの批判と反批判のバランスのとり方だともいえますし、「差別」の一般論にも通じているともいえるのでしょう。

 

 さて、こんなに紹介してきて、身も蓋もないことを書きますが、私は「洛中的中華思想」を自分の見聞を通じて実感したことはありません。自分の鈍感さを示しているだけのことかもしれませんが、そうなのです。私が「洛中人」とのお付き合いがないこともありますが、「洛外人」ではなく「非京都人」であるからということもできます。

 この「非京都人」の立ち位置からは「洛中」に限定されない「京都」に住む人びとの優越意識を、私の京都への感情の裏返しとして想像することは十分にできます。つまり井上さんの「洛外人」からの屈辱意識はないけれども、京都以外でくらす者にとっては「東京」とともに「京都」という響きは<憧憬>にも通じる特別なものかもしれません。

 『京都ぎらい』は「洛外人」という視座をもち「京都」をよく知る井上さんが、私たち非京都人になり代わって、「京都なるもの」の固定化されたイメージにゆさぶりをかけたり、盲目的な「京都愛」に冷や水を浴びせた本として読めばいいのだ、楽しめばよいのだと、私は思いました。

 ベストセラーになったのは京都の人よりも「千年古都のいやらしさ」をうすうす感じている他府県、他地域の人、特に京都以外の関西圏の人たちが「京都ぎらい」という書名に魅かれて読んでいるからなのでしょう。

 新書の「2016新書大賞第1位」というカバーの右下に小さく、佐藤優さんの「京都の洛中の特殊性を語ることを通じて日本人の思考の鋳型について論じた秀逸な文化論」との表現が付記されています。ちょっと大げさですが、そんな本としても楽しむことができます。

  井上章一著『京都ぎらい』朝日新書/2015年9月刊

  新書をくるんでいたカバー

 

◈洛中と洛外ーその境目とはー

 井上さんの用いる「洛中」と「洛外」の境目をどのように理解すればよいのでしょう。

 「洛中的中華思想」の「洛中」とはどの範囲を指しているのでしょうか。ふあっと京都の街中ということでよいのかもしれませんが、具体には「洛中洛外図」の「洛中」の範囲や、豊臣秀吉が諸大名に命じて築かせた《御土居》に囲まれた範囲などということになります。

 それ以前の「洛中」とはさらに狭い区域を指していましたが(少なくとも東は鴨川の西岸まで)、御所の位置も含め、どこが中心といっても時代とともに少し移動変化していくものであったみたいです。したがって、繁栄している地域も1箇所に固定していたわけではないようです。

 京都の中心と郊外は「洛中/辺土」と呼ばれていたものが、応仁の乱の頃から「辺土」に替わって「洛外」という言葉が一般的になっていったとのことです。

 

 私が大学に入学した頃に「洛中」「洛外」という言葉と範囲を意識したことはありませんが(そんな言葉を私がもたなかったというべきか)、市電が外周する広い幅員をもった北大路通、東大路通、西大路通、九条通に囲まれた範囲が<歴史と伝統のある>京都の中心市街地であるとみていたことは確かです。それより周辺部である地域においてもどんどんと市街化が進んでいましたが、まだその感覚は残っていました。まあいわばこれが昭和四十年代当時の「洛中」というイメージだったということができそうです。

 井上さんがこだわる嵯峨とか伏見は京都市内だけれど中心市街地とはいえないと感じていましたし、京都市という行政区域外の宇治市などの周辺都市はもちろんそうなのです。

 当時から約半世紀が経過し、現在はさらに市街地が周辺部に広がっていますが、市街地が広がることによって、範囲というか、境目が不分明になっていくほど(行政区域の線引きしかわからないようになっていく)、逆に「洛中」にこだわる人たちが増えてくるのかもしれません。この流れにのり、ホントウの「京都」などというブランド化によって、「洛中人」による「洛中の中華思想」はさらに肥大化していくのではないかと思ったりもします。

 

 ヨーロッパの都市では、「旧市街」と「新市街」との区分があって、城壁が残っていたりすると「旧市街」と「新市街」の線引きは明瞭です。

 例えば当ブログで紹介したオルヴィエートは丘の上の城塞都市であり、旧市街は外へ広がる余地がなく、新市街は丘の下であり、その境目は明瞭です。またヴェネツィアはヴェネツィア本島という旧市街は島ということで隔絶しており、住みづらい本島から離れて、本島で働く人たちは海を隔てた本土のメストレ地区に居住して通勤していることが多いようです。少し様相が違いますが、ウイーンというような大都市でも、元の城壁を壊して整備されたリンクの内と外という区分がありそうです。

 こうした事例は特殊であり一般化できないかもしれませんが、このようなヨーロッパのまちにも「<旧市街>の中華思想」というような優越意識、差別意識が存在しているのかどうか、存在しているとしてどのような内容なのか興味があるところです。

 

 『探偵ナイトスクープ』から発信された<アホ>と<バカ>の分布図のように、大きな地域区分はあったとしても、細部では入り組んでおり、簡単に線引きができるものではないというような現実とも、「洛中」と「洛外」の境目は似ているのかもしれません。

 京都は大都市で、「洛中」はヨーロッパの「旧市街」に比べてずっと広大であり、政治・行政や繁華街だけではなく、問屋・商店や工場、そして住居が混在していることが特徴的だと思います。ヨーロッパの「旧市街」では想像すらできませんが、「洛中」にはマンションという新しい建物がどんどんと建設され、住みにくい町家を捨ててマンションに移り住む「洛中人」も多くいるようです。

 かくして「洛中」「洛外」の境目はだんだんと分かりにくくなっていますが、東京資本の流入、外国人観光客にとっての「京都」ということも相まって、だからこそかえって「洛中」が京都を代表しているというコア意識は強化されていくのではないかと思います。

 いずれにしても、「洛中」という具体の境目が溶け出しているのに反比例して、井上さんのいう「洛中的中華意識」は霧消していくではなく根強い「洛中人」の自己認識として命脈を保っていくのではないか、どちらでもいいけれど、そうではないのかなというのが私の見立てといえます。

  史跡御土居の位置図 『京都市情報館』より

  京都市電の路線図(1957年/76.8)

 

◈<京都>私の原イメージー甲斐扶佐義の写真ー

 私の京都、ある意味でいやらしい言葉になりますが、その原イメージに甲斐扶佐義(1949-)の写真があると思っています。

 私は、私と同年生まれの大分出身の甲斐さんが京都のまちを歩いて撮った写真を京都に下宿していた時にみたわけではありません。それが写真集にまとめられたのを、後からみたということになります。昭和40、50年代に、それ以降であっても甲斐さんの撮影した写真は、私がかつてみていたと思いたい京都であり、私があってほしいと考えている京都のイメージ、私の記憶の京都というべきなのでしょう。

 

 甲斐さんの写真と杉本秀太郎さんの文がコラボした『夢の抜け口』(2010年2月刊/青草書房)の本文で、杉本さんは甲斐さんの写真について次のように書いています。

  「 君に写された京都が、ほかの写真家の京都とちがっているのは何故

   か、少しわかってきた。君は京都に媚びない。京都らしさの前に平伏す

   ることがない。その代りに京都が君に媚びるときには、恐れおののいて

   下から見上げる。」

 また、鶴見俊輔さんは甲斐さんの写真を次のように評しています。

  「 甲斐扶佐義の写真集は、時代小説の世界を思わせる。それも、武士の

   城づとめの世界ではなく、武士でも用心棒となって巷に住む市井ものの

   世界である。子母澤寛、長谷川伸、山本周五郎、藤沢周平の作品と地つ

   づきのものだ。」

 私が言葉にできない甲斐さんの写真の束にまことに的確な言葉を与えています。その通りなのです。

 

 井上章一さんは甲斐さんの被写体としてもよく登場していますが、『ほんやら洞と歩く 京都いきあたりばったり』中村勝(文)甲斐扶佐義(写真)(2000年6月刊/淡交社)に「街の記憶」という一文を寄せています。

 井上さんは町並み保存運動をもうひとつ好きになれないとし、街の風景は変わっていくものであり、そのうつりかわりをおしむ思いはあってもうけいれ、自分の記憶へやきつけること、それでいいと思っていると言い切ります。

 そのうえで、この本には「中村さんや甲斐さんが、街の変貌をどう思っているかは知らない。しかし、私は自分のスタンスとちかい何かを勝手に読みとり、片想いめいた共感をよせている」と記しているのです。

 この文には井上さんの『京都ぎらい』と直結する言葉はありませんが、甲斐さんの写真に寄せる「片想い」のような感情は『京都ぎらい』の「洛中的中華思想」と対極する<京都の記憶>への井上さんの共感として理解することができそうです。

 

 甲斐さんの写真は、『京都ぎらい』が嫌悪を示す「洛中的中華思想」に平伏することのない<街の記憶>だといえます。私のような者の眼には十分にみることができないけれど、さらにみてきたわけでもないのだけれど、まあいわば私の内部には京都という「街の記憶」としていつも存在していると感じています。

 繰りかえすことになりますが、「洛中的中華思想」の被害を被ってこなかった非京都人たる私にとって、甲斐さんの写真が喚起するイメージは、<私の京都の記憶>の一部として通奏低音となって響いています。

  『夢の抜け口』 この本にも井上章一さんが推薦文を寄せています

  『ほんやら洞と歩く 京都いきあたりばったり』

  『STREETS OF KYOTO』(2001年刊)

 

◈私にとっての「京都」ー『京都ぎらい』との距離感ー

 井上章一さんの『京都ぎらい』を楽しく読んで、新たに目を拓かせてもらったところも多いけれど、それで私の京都感が変化したのかといわれれば、そんなことはありません。

 当ブログの「ちょっとそこまでの「京都」のこと」で書いたとおり、生活者でもなく観光客でもなく、長くおくることになった学生生活の場、二十代の前半を過ごした街としての「京都」への特別な感情に動揺を与えるものではありませんでした。私の京都への感情は京都への好き嫌いと関係なく存在しているからです。

 井上さんが「洛外人」から「洛中」を意識しているのと同じように、というのは失礼千万ですが、出生の地である加古川を離れてくらした京都との関係を、凡人として、非京都人としても、否定的に意識することは不可能なのです。まあ大げさにいうと、「私」というものの形成を京都抜きでは想像できないし、京都を否定すると私ではなくなってしまうという関係なのだと思っています。

 最初の方で「洛中的中華思想」を実感したことがないと書きましたが、実感がないからこだわりもありません。現在の京都をとりまく状況からしますと、「洛中的中華思想」はしぶとく形を変えてでも残存していくものと理解していますが、私にとっての「京都」とは関係がないということになります

 

 夏休みに帰郷せずに、クーラーのない下宿で本を読み、近くの市民に開放された北白川小学校のプールで毎日泳ぎの練習をしていた記憶があります。当時の私は上手く泳ぐこともできずに、近所の子どもたちや予備校生から水泳を教えてもらっていました。

 その頃、写真に目ざめていたら、カメラを手にとって、よくいっしょに遊んでいた子どもたちを撮影していたことでしょう。甲斐さんの『京都の子どもたち』とは似て非なるものであったにちがいありませんが、そうしていたに決まっています。

 甲斐さんの写真に、特に子どもたちの写真に、私の京都という街の記憶を重ねたくなるのは、こうした経験があったからなのだと思っています。私にとって、「京都なるもの」の大切なイメージというほかありません。

 

 ともあれ、井上章一さんの『京都ぎらい』は、私の「京都」への特別な感情に刺激を与えてくれたのは確かなことです。『京都ぎらい』によって引きだされた「洛中的中華思想」なるものは、<京都>を狭苦しい架空の箱の中に閉じこめてしまわないための大切な視座であると考えています。

 でも、私はそこから離れて、私自身の「京都なるもの」との付き合いが続いていくことを願っています。

  『京都の子ども』甲斐扶佐義写真集(2003年4月刊/京都新聞出版センター)

 

 

 

2015.12.31 Thursday

ちょっとそこまでー師走の京都ー(2)

◈わけわからんしー高倉通を五条から四条へー
 小雨のふりだした朝、高倉通を五条から四条へと歩きました。
 前夜に乗ったタクシーの運転手さんがこの短い区間の高倉通を北上するとき、「わけわからんし」を連発した地点を自分の眼と足で確かめてみたいと思ったからです。
 京都の街中の通りとしては別に何の変哲もない生活道路なのですが、この北向き一方通行の道は、2か所で直進できないのです。五条から北へ進み、松原通をこえ、高辻通まで達すると、大きなお寺、佛光寺にぶつかります。ここでまっすぐに進めなくなるのです。

 
 高倉通を五条通から北へ進む

 
 高辻通まで北進すると、佛光寺さんがどーんと
 南北の通りである高倉通はここを右折し、東西の高辻通と30mばかり共用したところで左折して北に向かいます。運転手さんはここで「わけわからんし」の第一弾を発したのでした。この高辻通は珍しく対面2車線ですから、私は運転手さんの「わけわからんし」に対し、へーなんでそうなのという気分でした。
 脱線しますが、仏光寺の塀にかかげられた「遭いがたくして、今、遭う事を得たり」は、親鸞が真実の仏法に出会えたよろこびの声だとのことです(『教行信証』総序)。信仰のことばとしてではなく読んでもなかなか意味深いものですね。


 高辻通は2車線

 高倉通は仏光寺の東塀に沿って北上
 高倉通は佛光寺の東塀沿いを北上し、仏光寺通にぶつかると、左折して、つまり西に進んでから、仏光寺通を共用してから、すぐに右折することなります。そして、そのまままっすぐに北進すると、綾小路通そして四条通に達するのです。この仏光寺通のところで運転手さんは第二弾の「わけわからんし」を発し、さらにぶつぶつと連発したのです。その理由は、仏光寺通は東行一方通行にもかかわらず、そのほんの20mもないと思いますが、その区間は高倉通は仏光寺通を共用して西向きに進まなければならないからのようでした。
 歩いてみて、やはりこれは少し不思議だと思いました。高倉通を機能させるためには仕方がないことなのでしょう。仏光寺通を左折したところで西から東に来る車とぶつかることになったら、こんな狭い道では大変です。近くに交番があって警官が立っていました。ちょうど歩いていたとき、西から進んできた車が左折して高倉通に入っていきました。
 昨夜のタクシーは少しだけ仏光寺通を西に進んで、すぐに右折して高倉通に入っていったのです。これが同時に起きていたら、どちらかが譲り合う必要が生じるのです。
 これはこれは「わけわからんし」もなるほどわけありだなと思いました。理由のある「わけわからんし」ということになりますね。だから交番もこの場所に置かれているのでしょう。
 短い乗車時間であり、運転手さんの意図は十分には確認できていないのですが、他の一方通行のところではあまりみかけないようですから、「わけわからんし」で危険を自己確認してくれていたのかもしれません。
 たわいもない話ですが、ちょっと謎がとけたみたいでうれしくなりました。


 仏光寺通 東行一方通行なのに、高倉通のために西行の矢印

 仏光寺通を西から東へ進んできた車が高倉通に左折

 高倉通綾小路 「和食 晴ル」(前夜はここで食事)

 わかりにくい地図ですが、 ↓△里箸海蹐如屬錣韻錣らんし」

◈ちょっとそこまでの「京都」のこと
 今や京都はフィレンツェのようになってきているようです。まだまだかもしれませんが、中心市街地や超観光地では、外国語が聞こえないままで歩くことは難しくなっているようです。
 こんな京都ですが、私にとってはちょっとそこまでの京都であり、そこに生活する者の京都ではないが、観光客とはいいにくいという位置取りなのです。電車で日帰りできる関西圏の人たちにも同じような方が多いのかもしれませんが、そんな感覚です。また大学時代を京都でおくった者、特に私のようにいたずらに長くいたものにとっては、よけいにそのような感覚が強いのかもしれません。ただ生活者と学生は違いますし、地に足がついていない分、よけいに抽象的な京都に対する愛着が残ってしまうといえるかもしれません。
 生活者としての私、こんなに不似合いな言葉もないとは思いますが、子どもたちがついてきてくれる間、家族でどこに行くかといえば京都だったのです。暇と費用という制約が大きかったのかもしれませんが、あまり遠いところへ連れていった記憶がありません。何かというと京都だったのです。
 
 今年亡くなられた杉本秀太郎さん(1931-2015年/京都の文人というにふさわしい方でした)が45歳のときに上梓された『洛中生息』(1976年刊/みすず書房)の一編「「京都」の流行」で、京都の流行は服装の流行と同様に作り出された流行だとし、その京都を作り出すものは映像であり、その映像の制作者の固定観念と京都古都ブームの本質について、次のように記しています。
  「「古都」ということばは、そのまま固定観念となっているので、「古
   都」が選択の規準の無謬性を保証してくれるかのように、かれら(映像
   制作者)は暗黙のうちに合意している。こうして新しさを生命とする流
   行が古さという観念に依拠して作り出したものが、京都古都ブームで
   ある(西洋では、ローマ永遠の都ブームという古い流行がこれに対応す
   るだろう)。したがって、この流行は、古さの尊崇ということによって
   流行本来の軽薄さを掩蔽し、その結果、流行そのものを美化している
   点が特徴的である。」

 この1974年に書かれた文章は、いろんな異論はあっても、特に「したがって」以下の文についてはその本質は今も成り立っているように思います。
 ・杉本秀太郎は当主として「杉本家住宅」を文化財として残す道を選んだ。

 杉本さんと同じく京都生まれでずっと京都で暮らしてきた鷲田清一さんは、『京都の平熱 哲学者の都市案内』(2007年3月刊/講談社)のなかで、京都文化を集約するものとして無粋を承知で取り上げるとしたうえで、京都の「得意わざ」を次の6つにまとめています。
  「<めきき>ー本物を見抜く批評眼
   <たくみ>ーものづくりの精緻な技巧
   <きわめ>ー何ごとも極限にまで研ぎ澄ますこと
   <こころみ>ー冒険的な進取の精神
   <もてなし>ー来訪者を温かく迎える心
   <しまつ>ー節度と倹約を旨とするくらしの態度 」

 そして、都市「京都」をこんなことばで哲学しています。
  「対抗軸がいっぱいある街にいると、ああ都市にいるのだなあとおもう。
   アブナイ両極端、これ以上行ってはいけないリミット、それらがはっ
   きり設定されている街では、そうそうかんたんに残虐な事件は起こら
   ないとおもう。人生の避難所と実験場とがいたるところにある街では、
   ひとはかえって堅実になるようにおもう。型にうるさい街、型を外す
   とあぶないことを知っている街では、たんなる型破りは馬鹿にされる
   だけだ。
   そんな両義性の満ちあふれた街、そう、なかなか一筋縄ではいかない
   街、その混沌が、スタイルとして、大なり小なり血と肉になっている
   街、それが京都だ。 」

 さすがにすごいことが書かれているなあと感じ入りました。

 最初に記したフィレンツェとは、市民、町衆を中核とする自治の文化が底流にあることや、職人を中心とする高度なものづくりネットワークが発達していることなど、古都というか、時代の豊かさの集積地であったことがもたらしたものでしょうが、そんなところが共通していると思っています。「都市」でなかった土地で生まれ育った私のような者にとっては、京都は何よりも「都市」なのであります。

 さらに考えていくことは今はできませんが、自分の身に即すると、こんな言説にもふれて刺激をいただきながら、ちょっとそこまでの「京都」であり続けていくであろうと思っています。


 三条通 ひそかに「京都の壁」と呼んでいます

 同じく三条通 1928ビル(武田五一設計) 元毎日新聞京都支局

 本年の最終ブログとなりました。
 しばらくはこんな調子でブログを続けていくことになりそうです。
 読んでくださった皆様、きっと私からブログをはじめましたと聞かされてしまった皆様だと思いますが、本当にありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。




 




 


 
プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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