2020.02.13 Thursday

雪景色をコウノトリが舞うー三度目の写真家ソール・ライターのことー

 久しぶりに映像ではない本物の雪でした。播但道を北上するバスが生野峠にさしかかると、雪が舞いはじめ、あたり一面、雪景色になりました。遠くの山も近くの山も雪の白さでキラキラとまぶしく光っています。そもそも県北の但馬地域に足を踏み入れたのは何年ぶりのことでしょう。

 今年の雪なしの異常気象も、先日来の冷え込みで、やっと初めて平地でも雪が積もったのだそうです。こんな気象異変に「地球温暖化の影響かもしれないけれど」と前置きするのが当たり前になっていますが、「かもしれない」という表現はもはや誤りというべきでしょう。次第に慣らされて、私たちは異常が平常になってしまいます。

 とはいえ、暖房のききすぎたバスの車窓から、雪が演出した真っ白な光景を、久しぶりですと眺めていただけのことです。それでもちょっとワクワクした気持ちを抑えられませんでした。

  生野峠の雪景色 [2020.2.9撮影、以下同じ]

 今週の日曜日(9日)、自治会の日帰り研修旅行に参加しました。峠を下り、平地になると、いつの間にか、雪がやんでいました。バスは豊岡市に入り、円山川沿いに建設中のコンクリート製の堤防に視界をさえぎられながら北上し、県立コウノトリの郷公園に到着です。園内には昨日までの雪が残っていました。

 同公園の職員の方から、30分ごとに10分程度、コウノトリの解説を聞くことができます。かつてコウノトリは日本の各地に生息していましたが、1971年にはついに野外の国内個体群が絶滅してしまいました。その後、旧・ソ連から受贈されたコウノトリにより、1989年になって飼育下繁殖に成功し、以後、毎年繁殖に成功して、2005年に試験放鳥を開始しました。2007年になると豊岡盆地で野外での繁殖に成功し、2017年には野外コウノトリが100羽に到達し、全国47都道府県すべてで豊岡生まれのコウノトリの飛来が確認されました。そして、現在は近隣の府県においても、新たに繁殖地が拡大している状況なのだそうです。

 コウノトリは、世界で極東地域にのみ生息する大型の肉食性鳥類で、「湿地生態系の食物連鎖の頂点に位置する頂点捕食者」だと説明されています。こうした野生復帰の試みは、日本と韓国で進められていますが、現在でも、極東全体で2000羽あまりしか生息していない絶滅危惧種なのだそうです。

 この野生復帰の意義を、そのグランドデザインでは、人の住まない広大な地域への再導入ではなく、人里への野生復帰であるという点が強調されています。そのためには、人とコウノトリの共生が不可欠であり、その困難さが次のとおり綴られています。

 「 コウノトリは河川氾濫原の代償湿地としての水田を主要な餌場とするた

  め、農業従事者との最低限の軋轢は避けられず、この軋轢により農家が受

  けるコストを上回る物質的・精神的恵みをコウノトリそのものあるいは野

  生復帰プロジェクトが与えない限り、現代の地域社会がコウノトリを受け

  入れることは困難である。」

 したがって、「環境と経済の好循環に伴う地域づくり」の促進が前提だとし、次のとおり結論づけています。

 「 コウノトリの野生復帰は、自然の回復・再生であると同時に、地域づく

  りであると位置付けられ、持続可能な共生社会という世界的な課題に向け

  て、明確な展望を与えることになる。」

 このように格調高く宣言されていますが、さて実情はどのようなものでしょう。多目的ルームから、公開飼育ケージで羽を広げると2m以上もあるコウノトリが餌を啄む姿を見ていただけでは、そんなことはわかるはずもありません。コウノトリの舞う雄大で美しい姿を眼底に残しました。

 いずれにしても、なかなか息の長いプロジェクトであることははっきりしています。公園周辺の水田で無農薬で栽培されたコメは「コウノトリ米」として、自宅近くのスーパーで魚沼コシヒカリを上回る価格で販売されています。

  コウノトリの郷公園の飼育場に集まったコウノトリ

  二羽のコウノトリが舞う(コウノトリの郷公園)

 さらに北上して、城崎へと向かいました。その間、円山川沿いに前述したコンクリートの堤防(というより高いコンクリートのフェンスみたいです)が、建設中の箇所を含めてずっと続いています。これは平成16年10月の台風23号による大水害(円山川の本流と支流の決壊により広域に浸水しました)を受けた治水対策なのでしょう。これも息が長い仕事です。東日本大震災の津波被害への対策としての巨大堤防が問題視されましたが、この比較的に低く薄い堤防フェンスでも川面が見えにくくなり、ちょっと無粋ですが、いろいろと検討された結果なのでしょうから、観光客の発言は控えておきます。

 ウン十年ぶりの城崎温泉は、日曜日ということもあって、さらには古くなった店を改造した新しい店も目立っていて、活気がありました。そして、県南平地で舞う雪という現象に驚き喜んだ子どもの頃を思い出しながら、真新しいホテル旅館で昼食を楽しみました。

  城崎川の両岸(城崎温泉)

 

 さて、同日(2月9日)、いつも録画するNHK・Eテレの日曜美術館に、写真家ソール・ライターが登場しました(『写真家ソール・ライター いつもの毎日でみつけた宝物』)。

 この番組をみて気づいたことなど、少しだけメモしておくことにします。

 当ブログでソール・ライターを取り上げるのは、三度目になります。だから、タイトルには<三度目の>があります。2016年にはドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』、そして2018年には伊丹市立美術館で「ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展」にそれぞれ接することができて、その印象を書きとめています。といっても、いつものように識者たちの情報やコメントに依存しつつ書いたものなのですが、特に後者には思い入れがあります。

 わが家の台所にはソール・ライター展のポスターが貼ってあって、ちょっと隠れファンになったつもりでいました。

 🔹2016.5.29 「急がない人生ー写真家ソール・ライターー

 🔹2018.5.4     「日常で見逃されている美の贈り物

            −再び写真家ソール・ライターに出会うー

  日曜美術館のタイトル [2019.2.9放送のテレビ画面を撮影、以下同じ]

 前回の展覧会から、3年という短い期間で、再び今東京で展覧会(「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター展」Bunkamura ザ・ミュージアム)がひられています(3年前にはなかった「永遠の」という言葉が付加されています)。それで、日曜美術館ということになったのでしょう。

 こんな短期間に、大規模な写真展が続けて行われるのは、きっと稀有なことでしょう。それは前回の展覧会で多くのファンや支持者が生まれ、それ以降もSNSで「ソール・ライター風」という写真がアップされるなど若い人を中心に支持が広がっていることが後押ししているのでしょう。またソール・ライター財団でライターの残した膨大な作品群のアーカイブを制作中であり、こうした取り組みで新たに発見された写真などもあることが背景にはありそうです。

 前記したとおり隠れファンだと思っていましたし、前回の展覧会の人気ぶりにも気づいていましたが、その後のカルト的人気の沸騰というか、そんな持続・拡大の状況については全くといっていいほど知りませんでした。

 

 さて、ソール・ライター(1923-2013)の伝記的なことは、前記の当ブログでも書いていますので、ここでは最小限にしておきます。

 ピッツバーグでユダヤ教の高名なラビの家に生まれたソール・ライターは、神職につく道を自ら閉ざし、画家になるべくニューヨークで出てきます。画家では食べていけず、写真家で生きる道を選び、一時はフッショッンの分野で名声を得ますが、そこになじむことなく、1980年代初頭にスタジオを完全に閉鎖して表舞台から姿を消し、あとはイーストヴィレッジの自宅アパートで絵を描いたり、周辺でストリート・スナップを撮影するという日々の暮らしを、その死に至るまでずっと続けた人です。

 でも、というか私たちには喜ばしい幸運になりますが、2006年ドイツのシュナイデル社から8万点という膨大な写真群の中から50年代を中心に路上スナップを集成した『アーリー・カラー』という写真集が出版されて、再び名が知られるようになりました。そして、現在、世界中で「写真家ソール・ライター現象」とでも呼びたいような状況になっています。

 ただ、注意しておかなければならないのは、2000年代にソール・ライターの写真を再び世界が発見したことになりますが、それ以降も、その暮らしぶりは全く変わることはなかったというところです。こんなタイムスケジュールの日々から生まれた写真作品とは、日曜美術館の番組タイトルの「いつもの毎日でみつけた宝物」だということになります。

  写真家かくたみほさんがソール・ライターの旧宅で撮影した写真

 今回の日曜美術館で、ソール・ライターの写真について改めて頭を整理する機会をもつことができました。

 まずソール・ライターの独特なまなざし、それは写真の技法と直接関係していますが、彼の写真を愛するかくたみほさんという写真家が登場して、実際に撮影しながら説明するシーンがあります。三つ特徴、すなわち「ガラス」を利用して撮影し、「ポイントカラー」を意識的に用い、さらに「1/3構図」で画面の一部や片隅に注意を誘導する、そんなソール・ライターのまなざしが彼の写真を生み、私たちがひきつけられるのだと語っていました。そして、ソール・ライターがことさら愛したモチーフとして、「傘」「雨粒や水滴」「雪」をあげていました。

 ソール・ライターは、同時代の写真家があまり採用しなかったカラー写真を撮り続けてきました。前記の「ポイントカラー」と直接関連しますが、多くの人びとがライター写真に感じる共感はそこにあるのだと思っています。モノクロ写真がプロの写真家の印のように今も思っている私ですが、画面にライターの次の言葉が登場したとき、少なくともライターのカラー写真については反論する余地がないと感じました(この色彩についてのライターの考え方は前ブログでも紹介しています)。

 「 誰もがモノクロのみが重要であると信じていることが不思議でたまらな

  い。美術の歴史は色彩の歴史である。」

 以上のことは、ぼんやりと感じていたことではありますが、こうした分析的なアプローチによってよりクリアになった気がします。

  「美術の歴史は色彩の歴史だ」(ソール・ライターの言葉)

  ソール・ライターの好んだモチーフ  峪院

  同上◆ 岷粒や水滴」

  同上 「雪」

 初めて知ったこともありました。

 ソール・ライターの妹であるデボラのことです。若きソール・ライターは、10代から20代にかけてのデボラのポートレートを撮り続けており、100枚近く残っています。今回の展覧会には、前回にはなかったそのモノクロ写真が展示されているそうです。

 番組では、妹デボラを少年だった兄ソールの唯一の理解者であり友人であった人物として紹介されていました。つまり偶像崇拝を否定するユダヤ教において写真の映像はタブーだったけれど、ソールとデボラの関係は深い信頼で結ばれていました。妹デボラの存在が兄ソールの芸術への跳躍を支えたという構図です。20代に入って妹デボラは精神のバランスを崩し、精神病院に入院し、ついに病院外へ戻ることはなかったという事実も説明されていました。

 写真分野の評論家として私の信頼している飯沢耕太郎さんは、番組に登場し、妹デボラのポートレートを前に、悲哀感という言葉を用いつつ、このポートレートにはデボラの「未来の予感」というべきものがキャッチされている(意図しなくてもキャッチしてしまっている)と語っていて印象的でした。

  妹デボラのポートレート

  妹デボラのポートレート

 今回の番組で最も印象的だったのは、テレビに登場することを断った柴田元幸さん(新時代のアメリカ文学の伝道者というべき翻訳家・東大名誉教授)が、その代わりとして番組に寄せた文章です。その文章は、ソール・ライターの写真とその人への愛情と洞察に満ちたものであり、しかも柴田さんの思い出にも重なって、私はもちろん、きっと番組を見ていた多くの方にも、深い余韻を残したものと想像しています。

 ソール・ライターの写真からは、「イデオロギーや自己主張の匂いがしない」し、また前述したように<ガラスや鏡の利用>や<1/3構図>のような要素があるにもかかわらず「写真家が操作している、コントロールしているという印象もない」と指摘します。このように「作品に自分への執着が感じられないのと同じに、人生でも名声や成功を求めませんでした」、そんなところに、柴田さんは「一種爽やかな励まし」受けているとし、そう「思えてこないでしょうか」と問いかけているのです。

 その背景を、柴田さんはこう思っています。「自分を主張すること」が美徳とされるアメリカ的なものの反射もあって、今の日本の国にいると「自分らしさを見つけないといけない、自分の力量を世界に向けて発信しないといけない、といった掛け声ばかりやまかしい」と感じることが多いけれど、ソール・ライターの写真とその人からはそのような声が聞こえてきたりしないからだ、だから他人のことはわからないが自分にとっては爽やかなことなんだと、柴田さんは考えているようなのです。

 こうしてソール・ライターへの愛を表明したうえで、前述のドキュメンタリー映画で字幕も担当した柴田さんは、次の彼らしい文章で締めくくります。

 「 ところで、映画のなかのソールのくっくっという温かい笑い方が、誰か

  に似ているなあとずっと思っていたんですが、あるときそれが、僕に文学

  の素晴らしさを教えてくれた中学校の国語の先生の笑い方だと気がつきま

  した。」

  映画の中でソール・ライターが「くっくっ」と笑ったところ

  上記の文字部分は柴田元幸の文章の最終段落

 もう一つだけ付け加えておきます。

 番組の最終盤に、柴田元幸さんの文章のテロップが流れたあと、番組を締めくくるシーンが続きます。ソール・ライターの生き方に傾斜する発言に傾きがちな司会者たちを、笑顔ではありますが、ちょっと制するかのように飯沢耕太郎さんは「でもね、写真がまずいいのよ」と語ります。その生き方は今の閉塞感におおわれたような日本において憧れをもって迎えられるものだとは思うけれど、「やはり写真がいいのよ」と、重ねて強調していました。

 先ほど、柴田先生から、ソール・ライターの写真には、いわば取ってつけたような意図が感じられないとの話が出ていたけれど、それこそ意図を感じさせない写真の撮り方を長い時間をかけて身体化したのがソール・ライターであり、その写真ではなかろうかと発言を続けます。

 そして、現在のソール・ライターの写真への関心の高まりというものは、「写真を見ることの面白さ、写真を読むことの面白さ」を長い間一貫して論じてきた自分にとって、うれしいことだし、ありがたいことだと思っているというのです。こんなソール・ライターには、写真への入り方について「すごくいい答えがある」と喜んでいるのであり、だから「ソール・ライター、ありがとう」という気持ちなんだと述べていました。 

 最後に、飯沢さんは「いい写真家はいい生き方をするのよ」と断じるように発言しました。

 私自身は飯沢さんの全体的な論旨をなるほどと思って聞きましたが、最後に発した言葉に「えっ」となりました。

 

 本稿を閉じるにあたり、もう一度、飯沢耕太郎さんの「写真家とは何者なのか」に登場してもらおうと思います(『フォトグラファーズ』(1996年4月刊/作品社)の冒頭「ロバート・フランク 写真家であるためにー序文にかえてー」)。「もう一度」というのは、2017年の神戸で開催された「ロバート・フランク展」を報告する長くなったブログの締めくくりとして、やはり使わせてもらったからです(「「ボクの写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank : Books and Films,in Kobeー(2-(2))」の最後)。

 飯沢さんは、同書の「あとがき」で写真家になりたかったけれど、その望みを果たすことができなかった者として、自身のことを語っています。それは大学の写真学科に入ってすぐに「あの機械仕掛けの眼球を巧みに使いこなして、輝くばかりのイメージをつかみとってくる能力が自分には決定的に欠けている」ということがわかったからだとします。

 ですから、飯沢さんにとって、写真家とは「輝くばかりのイメージをつかみとってくる能力」の持ち主だということになります。そして、ロバート・フランク論でもある「序文にかえて」に戻ると、写真家に「写真によって「生かされる者」」という定義を仮に与えておいて、次の文章でその定義に説明を与えています。

 「 写真を撮影することで彼らは生き続けるための力を手に入れ、逆に彼ら

  の生にまとわりついた感情やエネルギーの束が投げ入れられることで、写

  真はそれを見る者を刺し貫くような輝きを帯びる。そのような相互作用

  を、自らの生の過程でいやおうなく体現している者こそ、写真家の名にふ

  さわしいのではないか。」

 前出の柴田元幸さんは、『ソール・ライターのすべて』(2017年5月刊/青幻舎)所収の「うしろからあなたの左耳をくすぐる写真」とタイトルされた文章で、全くの同世代であるロバート・フランク(1924-2019)とソール・ライターを対照的な写真家、芸術家だとしても論じていました。そして、19世紀の大詩人を引っ張り出しつつ、その姿勢において、前者がホイットマンの詩の「自己拡張的」に、一方、後者がディッキンソンの詩の「自己消去的」に、それぞれ通じるものだと説明しているのです。

 このように二人の写真家をその写真のモチーフやイメージにおいて対照的と理解することは正当だとしても、その本質は、飯沢さんの定義する「写真家」としての基本条件が備わっているという点で同根である、と私は強調しておきたいのです。すなわち、飯沢さんの前記引用文中に記された「写真を撮る人とその人に撮られた写真の相互作用」の切実さが疑いようもなく二人の写真家に存在していると申し上げたいのです。この相互作用を、フランクもライターも「自らの生の過程でいやおうなく体現して」います。

 いわば飯沢さんのいう「イメージの輝き」という点でロバート・フランクの写真と同じく、ソール・ライターの写真もまた、まぎれもなく輝いています。それを可能にしたのは、「輝くばかりのイメージをつかみとってくる」才能はもとよりですが、それだけですませたくなければ、そのうえに「写真によって生かされている者」として毎日をいかに生きるか、その在り方にも大いに依拠しているのだといえます。

 それが「いつもの毎日でみつけた宝物」としてのソール・ライターの写真なのだと、私は思っています。

 だとすれば、日曜美術館で飯沢さんが最後に発した「いい写真家はいい生き方をするのよ」は、こうした飯沢さん流の<写真家の定義>との関係で語られた言葉として、腑に落ちることになります。

 

 なお、この日曜美術館(『写真家ソール・ライター いつもの毎日でみつけた宝物』)はNHK・Eテレで2月16日日曜日の午後8時から再放送されます。一方、今回の「ソール・ライター展」(「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター展)は、伊丹市立美術館ではなく、美術館「えき」KYOTOに巡回します(本年4月11日〜5月10日)。

  妻ソームズ・パントリーのポートレート(1960年)

 

2020.02.07 Friday

エドワード・ホッパーでつながって(2・完)

 エドワード・ホッパーの絵について、補足的な内容になりますが、前稿((1))からの続きです。図像の関係もありますので、あわせて読んでいただければと思います。

 

 最初の補足は、ホッパー(1882-1967)とアンドリュー・ワイエス(1917-2009)との比較になります。あきれたことに、今回のブログを書くまで、ワイエスの方がホッパーより年上だと思い込んでいました。実際は、ホッパーの方がワイエスより35歳も年上で、活動期間は重なっているとはいえ、ホッパーは19世紀に育てられた人なのです。画題の主な場所は、ホッパーが大都会ニューヨーク、一方のワイエスがメーン州の田舎と対称的に捉えつつも(二人ともそれだけではないことも知りましたが)、繰りかえしますが、画面から多義的な「物語」が登場してくるところ、川本三郎さんの言葉を使わせていただくと、画面の奥にある<遠い世界へ連れられてゆく>ところが共通していると思っていましたし、今もそれが人をひきつけるのだと考えています。

 二人の画面は、青木保本のタイトルの「静寂」という点で共通していますが、「距離」という点では異論が出てくるのかもしれません。

 ここでメモしておきたいのは、あるサイト(「壺斎閑話」)で指摘されていることです。つまり二人の画家の絵は「失われつつ古きよき時代のアメリカの反響」であり「人々はそこにノスタルジックな懐かしさを感じた」という共通項をもちつつも、次の違いがあるのではないかという指摘です。

 「 だが微妙な相違もある。ホッパーの絵の中の人物は、人に見られること

  を意識しているかのように、何かしら人に語りかけるようなところがあ

  る。これに対し、ワイエスの人物は、風景に溶け込んで、自分自身の中に

  埋没しているようなところがある。」

 そう指摘されればそうかなと、無知な私は思ったりもします。この画面に登場する人物の「微妙」な相違点は、モデルとの「距離」という問題なのかもしれません。こんな視点からみると、ワイエスの絵からはモデルとの距離感において重たい情念というべきものの介在が強く感じられるのです。

 ワイエスの代表作「クリスティーナの世界」(1948年)と、ホッパーの「ホテルの部屋」(再掲)を並べておきます。

  アンドリュー・ワイエス「クリスティーナの世界」(1948年)[前掲書p88]

  エドワード・ホッパー「ホテルの部屋」(1931年) [前掲書p82]

 以上、とりとめのない紹介になりましたが、ホッパー絵画につき、まとめにならないまとめをしておきましょう。

 以前から、私は、平たい言葉を使うなら、ホッパーの絵がどこか奇妙で謎めいた要素を引きずっていると感じてきました。その印象に変わりはありませんが、やはり時代の子としてのホッパーを感じずにはおれないのです。

 20世紀の戦間期から戦後初期までのアメリカの興隆、そして覇権国へという歩みにおいて、これを支える市民社会の虚像を排した実相を、自身が属する白人中産階級の冷徹な視線で「静寂と距離」を意識しつつ描写してみせたのが、ホッパーの絵だということになるのでしょう。

 それから半世紀余りを経た21世紀の現在、ホッパーのように描いたとしたら、どんな絵が生まれるのかと想像することは、興味深いですし、おそろしいような気がします。トランプ現象を生み出した今のアメリカでは、そもそも白人中産階級は細っていてホッパーのような安定した視線を持続することが困難なのでしょうし、ましてこれが21世紀の「アメリカン・シーン」などと断じることのできる対象が見い出せないのではないかと思ったりもします。このように思い込んで書いてしまいましたが、現在のアメリカの具象画において、ホッパーのような、ワイエスのような画家は存在しているのかどうか、何か知っているわけではありません。でも、どうも時代を象徴するような芸術家が生まれにくい現世界のような気がしてならないのです。

 このように現時点からふりかえると、ホッパーの絵画は、やはりよき時代の「アメリカン・シーン」の象徴であったのだと解することができます。ですから、画家としてのホッパーは、少し変な言い回しになりますが、幸運にもよき時代を生きたと言うことができそうです。

 以上の私の感想は、時代の子としての制約のなかで、時代を象徴する芸術を創造できたホッパーを軽んじるものではありません。ただ全くの個人の才能といっても、いろんな環境条件が整っていなければ、芸術創造もできないのだという人間観から発出しています。

 ホッパー壮年の「自画像」(1925-30年)をアップしておきます。

  エドワード・ホッパー「自画像」(1925-30年) [前掲書の裏表紙]

 

 ここでは、関連情報についてメモしておきます。

 カーリン・クローグ(1937-)とピアノのスティーヴ・キューン(1938-)が共演したCDアルバムが、手元に2点あります。『NEW YORK MOMENTS』(2003年)と『TOGETHER AGAIN』(2006年)で、いずれもホッパーの絵がジャケットになっています。

 ノルウェーの国民的歌手であるカーリン・クローグは、私にとって、とても上手いけれど好みとはいいにくいジャズ・シンガーでしたが、ジャケットのホッパー絵画にひかれて買ってみたら、がらりと印象が変わりました。まあ才気走った感じの強かったとクローグとキューンだったと記憶していたのですが、二人のいわば前衛的なスピリットは変わらないにせよ、ともに60歳を超えて、テンポをぐっと遅くして、ゆったりと演奏してくれているのです。それがお互いの音を聴き合って音楽を探ろうとしているかのようで、すごくいいのです。

 前者は30年ぶりの共演盤だったそうで、やはり30年の年輪は馬鹿にできません。このアルバムの1曲目に、30年前の共演時にもリリースしたのと同じ曲、キューンの作詞作曲した「The Meaning of Love」が入っています。英語の歌詞を調べてわかっても、こんな内容だと説明できないのが情けなく悲しいですが、ユーチューヴを発見しましたので、貼りつけておきます。

 後者は前者が好評につき<アゲイン>をということで制作されたのでしょう。こちらはボーカルとピアノだけの完全なデュオアルバムで、まさに対話的でとても美しい作品です。ホッパーの絵は1927年の「自動販売機(Autmat)」というタイトルだそうですが、絵からはどのような自動販売機なのか、全くわかりません。

 それにしても、21世紀に制作されたCDアルバムのカバーにホッパーの絵を採用したのはどうしてなのでしょう。デザイナーの趣味趣向にすぎないのか、アルバムで演奏するジャズ・スタンダード曲が創作された時代の雰囲気を濃厚に象徴する絵画だからなのか、はたまた、ひとり物思う女性の絵柄が演奏曲とシンクロするからか、いろいろと想定できますが、結局、わかりません。クローグとキューンが望んだとしたら、面白いですね。

 これと関連しますが、本の表紙にもホッパーの絵はよく使われているそうです。私の読んだのは、村上春樹が翻訳したアメリカの作家グレイス・ぺイリーの『最後の瞬間のすごく大きな変化』と『人生のちょっとした煩い』の二冊だけですが、探しても出てきません。ちょっと奇妙な味わいという点で、ペイリーの短編小説とホッパーの絵が共鳴しています。ブックカバーのデザインに採用されたホッパーの絵をみていただくためにアマゾンの「グレイス・ぺイリー」とリンクさせておきます。

 🔹カーリンクローグ&スティーヴ・キューントリオ

     「The Meaning of Love

  前掲の『ニューヨーク・モーメンツ』(2003年)CDカバー

  クローグ&キューン『トゥギャザー・アゲイン』(2006年)CDカバー 

 ここで、エドワード・ホッパーとはお別れします。この機会にサイトなどで今までしらなかったホッパーの絵の映像を多数みることができました。そして、うまく説明できないままではありますが、もっと確信をもって、ホッパーの絵がグッド、好きだと言えそうです。

 

 屋上屋を続けます。

 今回、ティッセン=ボルネミッサ美術館でシャッターを押した写真を調べていて、ジョルジョ・モランディ作品を1枚見つけました。この美術館にモランディ作品があったことを完全に失念していました。2016年1月に兵庫県立美術館で『モランディ展』をみて、当ブログで報告したのです(2016.1.11「反復と想像ーモランディ展ー」)。その中で、2009年のローマ国立近代美術館で出会ったモランディ作品にふれながら、2014年のティッセン=ボルネミッサ美術館のことは書いていません。記憶とはそんなあやふやなものなのでしょう。ホッパーとの出会いが大きかったから、モランディは消えていたというのは勝手な思い込みにすぎません。

 それで、前稿で同じ「静物」というタイトルでプラド美術館に展示されていたスルバランの絵画にふれましたが、壺を並べただけの作品という点では共通していることに思い当たりました。ああそうなのかもしれない、モランディ作品の独歩性だけに目を向けていたけれど、こういう脈々としたつながりがあるのかもしれないと感じたのです。

 もう一度、スルバランの「静物(ボデゴン)」とリンクしておきます(前稿とは違う映像で)。

  ジョルジョ・モランディ「静物(Still Life)」 [ティッセン=ボルネミッサ美術館で撮影]

 さらに余計なことをメモさせてもらいます。当ブログで、今回ふれたスペイン旅行(マドリード⇒グラナダ⇒バルセロナ)のことは通観する紀行文として書いていませんが、特に印象的だったことを、次のとおりスポット的に書き残しています。

 🔹2015.11.14「音楽があるということ

 🔹2017. 7.10 「クチナシの香りから7月は始まり

          ー『サクロモンテの丘-ロマの洞窟フラメンコ-』ー」 

 🔹2017. 8.20 「バルセロナで美の喜びと出会う

          −モンタネールのモデルニスモ建築−

 🔹2019. 5.26 「グラナダの出会いから

          −高階秀爾『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰』−

 

 こうふりかえると、3泊のグラナダと4泊のバルセロナのことは書いていますが、2泊のマドリードは写真の掲載を含め、一度もふれてこなかったことになります。

 だからというとおかしいのですが、最後に、私にとってのマドリードという写真をアップさせていただくことにします。到着から一夜明けた2日目、2014年12月21日に撮影したものから選びました。そして、翌朝、鉄路でグラナダへ出発したアトーチャ駅の風景を1枚だけ追加しました。

 朝早いレティーロ公園を通り抜け、プラド美術館で開館前から並び、圧倒され、今回報告したティッセン=ボルネミッサ美術館でしばし楽しみました。ホテルに戻り、一人でサラマンカ地区を歩き回り、夕刻からはバルめぐりというオプショナルツアーに二人で参加しました。

 5年余り前、やはりまだ若かったのかなと感慨をもよおす今日この頃です。

  奇妙な木の刈込み姿にびっくり(レティーロ公園) [以下、2014.12.21マドリードで撮影] 

  開館前のプラド美術館

  ティッセン=ボルネミッサ美術館のエントランス

  12月の午後を走る(サマランカ地区)

  青春映画の一場面が思い浮かんで

  背中に夕陽を浴びて歩く

  夜のマヨール広場で回るメリーゴーランド

  有名バルには入り込む余地がなくて

  アトーチャ駅はクリスマス休暇の人々で長蛇の列 [2014.12.22朝に撮影]

                       【終:(1)、(2・完)】

2020.02.07 Friday

エドワード・ホッパーでつながって(1)

 久しぶりにエドワード・ポッパーの絵が好きなことを思い出しました。先日(2月2日)の『毎日新聞』朝刊「今週の本棚」で、川本三郎が青木保『エドワード・ホッパー 静寂と距離』(2019年11月刊/青土社)という本を書評していたのがきっかけでした。

 川本さんの文章を読んでいたら、本当にそうだよなという気持ちになりました。でも、いつ頃「いいな」と思ったのかはっきりしません。それこそアンドリュー・ワイエスに興味をもった頃に関連して知ったということなら、30年ぐらいも前ということになります。

 映像でなじんでいたホッパーの絵画を初めて現物でみたのは、はっきりしています。2014年12月21日日曜日、スペインのマドリード、ティッセン=ボルネミッサ美術館です。膨大といっていい教科書に載るような絵画群の中でエドワード・ポッパーの絵だと意識できたのは、何回も写真で認知していて既視感があったからでしょう。「ホテルの部屋 Hotel Room」(1931年)とタイトルされた油彩画です。私のSDカードには、同美術館でホッパーの絵画を撮った写真が3枚残っていますが、そのうちの一枚です。

 どうもこの絵はこれ以外にもみたことがありそうだと探したら、カーリン・クローグのCDジャケットと、TASCHENのニューアート・ベーシックシリーズの一冊である『エドワード・ホッパー』の図版の一枚としても再会できました。まことにたわいのない内容となりますが、エドワード・ポッパーでつながりましたので、今稿ではポッパーのことをメモしておきたいと思います。

 まず、「ホテルの部屋」の映像を三点並べてみます。

  エドワード・ホッパー「ホテルの部屋」(1931年)

              [2014.12.21撮影/ティッセン=ボルネミッサ美術館]

  カーリン・クローグ&スティーヴ・キューントリオ『ニューヨーク・モーメンツ』CDカバー

  TASCHEN『エドワード・ホッパー』p82より

 微妙に、というより色合いに差異がありますが、それはお許しをいただいて、まずどんな言葉が生じますか。私は「さびしさ」「孤独感」などです。音のない「ホテルの部屋」で一人の女性が下着姿で読書をしているシーンですが、本当に本を読んでいるのかと思ったりもしました。今なら、放心してスマホをただのぞき込んだりしているのと同じようだと感じたりもします。ホッパーの絵は「見る」というより「読む」という方に誘われる絵のようです。つまりある切り取られた時間というより、もっと幅のある時間を感じる、多義的な「物語」が浮かんできてしまうと、私は感じますが、それは私だけのことではないでしょう。そこにもホッパーの絵の魅力があります。

 前記の書評で、川本さんは、この本を「文化人類学者の著者は、ホッパーの魅力を「静寂と距離」で語ってゆく」とし、「「静寂」とはホッパーの絵の静かさ」であり(大都会を描いても喧騒とは無縁)、「「距離」とは、ホッパーが、対象に過剰な思い入れをせず距離を持っているから」とまとめています。こうして「静寂と距離」をキーワードとしてホッパーの絵をみる青木が指摘するその絵の特色を、川本は次の文章にしています。

 「 ホッパーはアメリカの中流階級の日常生活だけを描く。人物は笑ってい

  ない。そもそも喜怒哀楽の感情が示されない。建物も街も書き割りのよう

  な平板さがある。余計なものがそぎ落され、劇的要素がない。」

 そして、川本さんは、著者である青木が「ホッパーの絵に描かれたもの、そして描かれていないものを見てゆこう」としていると評しています。

 確かに、私にとっても、ホッパーの描いた絵を通じて描かれていないものを感じられることが、つまり先に述べたように多義的な物語があらわれてくるところが、ホッパー絵画の拒み切れない魅力と感じていたし、今もそれは変わりないように思っています。見えたままの現実を省略したり変形させることによって、画面が多義性を帯びてくるとでも表現できそうです。

 

 ひとまず、書評から離れて、エドワード・ホッパー(1882-1967)の絵の本物と予期せずに出会った体験を記しておくことにします。

 まだ第三の勤めに出ていた頃、2014年の年末に休暇をとって、初めてスペインを旅しました。だから土曜日出発で同日の夜、最初に着いたのはマドリードでした。翌日曜日、何をさておいてもということで、ホテルからレティーロ公園を通り抜け、開館前のプラド美術館のチケット売り場に並びました。

 プラド美術館には2時間近く滞在し、質量とも、重厚かつ豪奢なマンモス美術館の展示作品に、なんというか歯が立たず、すっかり疲れ果てた感じになったのです。ベラスケスとゴヤなどの有名な作品群が放つ強烈なオーラに、その毒気のようなものに、ちょっと辟易としたのでしょう。それから5年余をへた現在、いわば中和剤であったかもしれませんが、スルバランの壷を並べただけの静物画(『静物(ボデゴン)』)が、「静謐」という言葉はこの愛すべき作品のためにあると思った記憶がぽっかりと浮かび上がってきます。

 旅に出る前は、ピカソの『ゲルニカ』を展示するソフィア王妃芸術センターも検討していましたが、プラド美術館からほど近いティッセン=ボルネミッサ美術館の方へと足を向けました。マドリードの都心、家族連れも多く、急ぎ足の人などいない、ゆったりとした日曜日の空気感につつまれていました。

 ごくさりげないお屋敷の門扉を入ると、広い敷地に美術館とは別棟に大きなカフェテリアがありました。私たちもそこで腹ごしらえをしておこうとなったのです。

  ティッセンボルネミッサ美術館、日曜日の昼下がり [以下、2014.12.21撮影]

  同美術館のカフェテリア/テラス席には喫煙する老夫婦

  同美術館のチケットブース

 ティッセン=ボルネミッサ美術館へ足を踏み入れると、プラド美術館との違いにまず驚きました。とにかく光の具合が違うのです。同美術館は外光も取り入れて展示されていて、とにかく明るくて、それだけでも軽快な空間でした。だからといってコレクションが軽いというわけではありません。13世紀から20世紀に及ぶ「驚異」の「すごい」コレクションであり、プラドと同様、教科書で載っている画家たちの作品がずらりと展示されていて、1時間、1日で見て回ることなど、本来は不適で不能なのです。

 時代順に鑑賞するように順路があって、三層の展示室を上から下りていくことになります。プラド美術館ではノーですが、こちらは写真撮影もできます。だからなんとか記憶を呼び出すことができているのですが、ホッパーの3点以外に写真を撮影した作品はごくわずかで、やはり疲れて気力が萎えていたのでしょう。ティツィアーノもカラヴァッジョも、そしてドガもモネも、さらにはピカソもカンジンスキーもロスコも展示されていたのに残していません。

 それで、エドワード・ホッパーです。4点展示されていたようですが、私は3点しか確認できていません。どうも複数個所の展示室に分かれていたようで、映像をみたことのある「ホテルの部屋」を発見し、こんなところにホッパーが、おやおやと行きつ戻りつして、やっと3点を写真に収めたのです。

 20世紀アメリカ絵画の隣の部屋だったでしょうか、ドイツ表現主義の名前を知らない作家たちの具象画に、プラドで感じなかった、いわば同時代的な興味を覚えていたのですが、「ホテルの部屋」を発見したとき、それと通じるものがあることを明確に意識しました。とはいうものの実際のところ、通り過ぎてから、えっと「ホテルの部屋」に戻ったのが真相です。いずれにせよ、ドイツ表現主義に比べて、ホッパー作品はずっと抑制した表現ではありますが、ヨーロッパとアメリカという違いを超えて、20世紀社会を表現するという視点からすると共通した部分を強く感じたのだと思っています。

 「ホテルの部屋」以外の二つのホッパー作品を撮った写真を掲示しておきます。初期といってもよい1921年の「Girl at Sewing Machine」はその後のホッパー絵画の展開を予期させますが、別室に展示されていた1944年の「The ¨Martha Mckeen¨of Wellfeet」というヨットの絵はキャプションを確かめるまでホッパーと分かりませんでした。

  エドワード・ホッパー「Girl at Sewing Machine」(1921年)

  エドワード・ポッパー「The¨Martha Mckeen¨of Wellfeet」(1944年)

 このティッセン=ボルネミッサ美術館を概観しておくために、当日、美術館にあった簡単なリーフレットの表紙と、分かりにくいですが、コレクションの名品を一覧とした見開きページを撮ったものも貼付しておきます。表紙は、15世紀末イタリアのフレンツェで活躍したドメニコ・ギルランダイオの「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像」であり、一覧の中にはホッパーの「ホテルの部屋」(右端の列上から3段目)も掲載されています。

 かくしてアメリカではなくスペインの明るい展示室で、エドワード・ホッパーの絵の本物、特に「ホテルの部屋」に出会えたことになりますが、このことでそれまでのイメージが変化したのかと問われても、そんなことはありませんと答えるでしょう。私のぼんやりさ加減ということかもしれませんが、膨大な20世紀絵画の中でも特に心惹かれる画家であるとの確信が深まったと申し上げておくしかありません。

  ティッセン=ボルネミッサ美術館のリーフレット表紙

  同上リーフレットのコレクション一覧/見開きページ

 さて、もう一度、書評の方に戻りましょう。

 川本さんの書評の中で具体的な作品名として登場しているのは、代表作「ナイトホークス(夜ふかしする人々)」(1942年)です。TASCHENの表紙(一部)と見開きページを撮った写真でイメージを把握してもらってから、もう少し青木保と川本三郎のエドワード・ホッパー観を続けて紹介することにします。

 ホッパー作品を「画像コレクション」としてまとめてアップしているサイトがありましたので、ざっと覗いていただくのもいいかもしれません。

  「ナイトホークス(夜ふかしする人々)」部分(1942年) [前記『エドワード・ホッパー』表紙]

  同上、全体 p78-79

 表紙のように絵の部分と見開きの全体から受ける印象の違いは面白いのですが、この絵についてホッパー自身は次のように発言しています。

 「 「夜ふかしする人々」は、夜の通りに対する私のイメージを表したもの

  であり、必ずしも特別孤独なものを表したわけではない。私は情景を極め

  て簡略化し、レストランを引き伸ばした。無意識ながら大都会の孤独を描

  いたのである。」

 そう、「無意識ながら」に着目しつつ、本題に入りましょう。川本さんは、この「ナイトホークス」のように、そして「画像コレクション」を見ていただいた方はお分かりいただけるとおり、「いわゆるアメリカン・シーン」というべきアメリカの日常風景を題材とするホッパー絵画を、二つの言葉、すなわち<超越性>と<未視感>という言葉を用いて、その魅力の根源を解いています。

 ホッパーにとってアメリカの日常とは、20世紀の戦間期から戦後にかけた時期に白人の中流階級の視線でとらえたものですが、その日常風景が非日常性を帯びてくる、つまり何気ない風景が「特別な風景」に見えてくることを、川本さんは次のとおり綴っています。

 「 町のなんでもないカフェ、アパートの部屋、商店、あるいは燈台、ガソ

  リンスタンドといったアメリカの日常風景が、見ているうちに超越性を

  びてくる。」

 「 「女ひとり」「男ひとり」「ベッドのふたり」「建物」「燈台」「空っ

  ぽの部屋」……、ホッパーの絵はどれも何気ないアメリカン・シーンばか

  りだ。それでいて、いままで見たこともないような特別な風景に見えてく

  る。」

 そして、この<超越性>というマジックを可能にしているのは、青木が指摘する「遠くから差し込んでくる日の光であり、さらに絵の片隅に必ずといっていいほど描きこまれる闇」であり、こんな「光と闇の対比」こそが<超越性>を生んでいるというわけです。

 作家のジョン・アップダイクがホッパーを「マスター・オブ・サスペンス」と評したという話を紹介し、「この「サスペンス」とは、描かれている日常の世界のすぐ背後で、何かとてつもない悲劇が起こっているかもしれないという静かな恐怖といってもいい」と述べています。

 このように日常の風景の背後にひそむ非日常を想起させることは、最初に私自身の印象としてホッパーの絵からは「多義的な物語が浮かんでくる」と記したこととも通じています。

 こうしたホッパー絵画から「特別な風景」が見えてくる状況を、川本さんは<未視感>という見慣れない言葉で表現しています。フランス語では「ジャメ・ヴュ」であり、「デジャ・ヴュ(既視感)」の反対語だそうですが、「ホッパーはいわば「ジャメ・ヴュ」の画家といえようか」としています。

 そして、この書評を次の文章で締めくくっています。

 「 「(ホッパーの)画題は常に日常生活の中に求められている」と著者は言

  う。にもかかわらず見ているうちにここではないどこか、遠い世界へ連れ

  られてゆく。日常の画家ホッパーの非日常の魅力を丁寧に語った好著。」

 以上、青木本への川本さんの書評は、ホッパー絵画の理解として、私のふわっとした印象とも重なり、それが言語化された思いがして、ここで取り上げることにしたのです。

 

 まだ補足したいのですが、容量制限になってしまったようです。通常により、はるかに字数が少ないはずなのですが、よく理由がわかりません。

 切りのよくないところですが、次稿でもう少し続けます。

                         【続く:(2・完)へ】

 

2020.01.23 Thursday

「共時態」のカタチー木下晋展「いのちを刻む」ー

 どこかふわふわとしたままで、25年目の「1.17」は私の傍を通りすぎました。直近の当ブログ(「「調和と進歩」か「進歩と調和」かー数字合わせじゃないけれどー」)で、「私にとって、1995年は前半生と後半生の基点となっている年である」と書いたのですが、書いただけでは内在化したとはいえません。

 

 ギャラリー島田で開催中の<コレクション+シリーズNo.7「25年目の1.17」>と<木下晋展「いのちを刻む」>へと足を運びました。

 前者は、この時期に合わせて開かれたのでしょう。これまで同ギャラリーでみてきた作家たち、たとえば津高和一さんや栃原敏子さんたちの作品群とともに、私の知らない作品にも出会いました。震災死された大島幸子さんが長田を画いたなつかしくて好ましい作品たち、そしてその長田の街が燃える朝を画面に収めた林哲夫さんの「1995年1月17日長田」の存在を知りました。

 林さんはこの絵を地震の直後なのか、いつ頃に描かれたのでしょうか。テレビでヘリコプターからの映像でみていた光景が、山手側からの視線で捉えられています。街並みは画面の下側に影のようにへばりつき、長田の鷹取あたりか、その一角から立ち昇る黒い煙は、風に流されて西上方へと広がっています。画面中央の朝の太陽も空を覆う煙によってかすんでいます。

 この画面から、私はものの焼ける匂いを感じたのですが、それは震災から3日目の19日の朝、地下鉄板宿駅から地上へ出て、一体に立ちこめていた匂いが私の中に棲みついているからなのでしょう。空襲によって焼尽した街の匂いはどのようなものだったのか、1.19の匂いがまだ染みついて離れていない以上、被災者といえない私にとっても、震災は亡くなっていないと思っています。

 かつて震災についてふれた当ブログを読み直し(「21年目の<記憶>ーメモリアルウォーク2016ー」、「雨のメモリアルデーにー元号の変わり目を前にしてー」)、私なりに、というか私にとっての震災を反芻しておくことにします。

 

 ギャラリーを主宰する島田誠さんは、震災と震災後の神戸に深く向き合ってこられた方です。今回は島田さんが協働したというべき美術作品とともに多くの文字資料が展示されていますが、「この25年を静かに振り返りたいと思います」と綴られています(ギャラリー島田HP)。

 忘れてはならないのは、島田さんは、震災後「新しく変わるべき神戸の姿を求めて厳しく行政や組織化された文化組織を批判してきた」方であり、その「文化的土壌の変革」という地点に立ち、多くのプロジェクトを手掛けてこられたことです。そして、「2001年の神戸市長選で私が批判派の責任者であった時の陣営におられ」た晩年の多田智満子さんが遺した「ざれうた」≪御政道批判すなわち打首の昔を今になすよしもがなー現代の権力者ー≫を引きつつも、<行政もフェア>の項で島田さんがプロデュースしたプロジェクトを「緊張関係の中で県・市は相応の支援で応えてくれた」とも記されているのです。

 この「震災から25年」と題した文章の最後に、今後のギャラリーについて「これからの日々も絶えず何事かが起こり続ける場でありたい」との決意を表明されています(蝙蝠日記2020.2「震災から25年」)。

  林哲夫「1995年1月17日長田」

  大島幸子の長田を画いた絵

 一方の木下晋展「いのちを刻む」の方は地階が会場です。

 木下晋(1941-)作品のギャラリー島田での展示は10回を数えるそうですが、私は最初の方、つまり前身である海文堂ギャラリー時代の1991年、93年、95年(震災の年にも展示されたのです)ぐらいしかみていないのではないでしょうか。もちろん一度みたら忘れられない強靭な鉛筆画なのですが、人間の本質というより「むき出しのいのち」という言葉がふさわしい情念のこもったような画面に、甘っちょろでやわな私はビンタを張られてどやされたみたいで、ちょっと逃げ出したくなる感覚もあったことを記憶しています。つまりすごい画家だけれど、好き嫌いで判断できそうもない絵だということです。いわば井上光春が「全身小説家」と表現されたように、木下晋はまぎれもなく「全身画家」だと受けとめていたのです。

 今回は、NHKの『日々、われらの日々〜鉛筆画家 木下晋 妻を描く〜』(NHK・Eテレ/2019年12月21日放送)を、うーんという気持ちでみていました。木下さんの生い立ちが辛酸であったことに、それに立ち向かった木下青年の激しく軋むようなパワーに、彼の鉛筆画との接点を確認した気持ちがしました。でも、だからといって、単純に作品を鑑賞する力が深くなったとはいえないでしょうし、むしろバイアスがかかってしまったのかもしれません。今回の展示作品を前にして、当方も十分に加齢したのだからといっても、残念ながら、私には木下さんの鉛筆画に正面から対峙できる精神を持ち合わせていなかったことに変わりはありませんでした。

 テレビの撮影当時は制作中であった妻君子さんを描いた「願い」と「生命の営み」という大きな鉛筆画が、過去の代表的な作品とともに展示されてしました。やはりテレビ映像で既視感のあるその画面の迫力に圧倒されましたが、1980年代の瞽女・小林ハルさんの肖像は改めて素晴らしいと思いました。ハルさんの見えない目は全てを見抜いていると、みている私が思えてしまう表現を、木下さんの手はどうして実現できたのでしょうか。また「合掌」する手を描いた作品をみていると、思わず手を合わせるという自分の行為が嘘々しいものに思えてきてなりませんでした。

 

 ギャラリー主人の島田誠さんは、今回の展覧会に寄せた文章で、かつて松永伍一(1930-2008)が木下作品に与えた言葉「ひたすら人間の本質を見据え、その照り返しとして、いま生きている自分が同じく生きている他者との間の生命の紐帯を自覚し、そして地上からいずれは消えていく者との間に共時態=synchronieをつくり出したその証しを表現してきたのである」を引用しています。そのうえで、最後に島田さんは「木下晋の作品を、細部を緻密に描き込むことをもって、写実的なリアリズムを趣旨としているとは思わない」、そして「彼の作品は過剰な何ものかをメッセージとして発している」との評言を書きとめています。今の私は、この見方、批評が的確で妥当なもののように感じています。

 木下晋さんは「個展に寄せて」という文章で、「十数年に及ぶパーキンソン病に罹った妻をモデルに、介護しながらライフワークとして作品を制作し続けている」とし、次の言葉で締めくくっています。

 「 人はそんな風にして、選べなかった時代や身体に宿る命を使い切る事で

  旅立つのだろう。パーキンソン病を完治出来る未来は現在無くとも、妻の

  闘病姿に寄り添い自分にも訪れる生死を夢想しながら作品を制作してい

  る。

   その事が、私に遺された画家としての使命感であり、誇りに想うの

  だ。」

 この言葉に私は深くうなづくことができました。このことはテレビドキュメンタリーの映像から私も感じていたことであり、極点のような二人の関係に偽りはなく、それが稀有なことなのです。この二人の関係は、まさに松永さんの用いた「共時態」のカタチそのものというべきであり、このことを木下の鉛筆画の本質として早い段階で指摘していた、今は亡き松永さんの慧眼にも心底驚きました。

 もともと松永さんは、描く木下さんとモデルとなった小林ハルさんをはじめとする他者との間に生じる関係の在り様を、共に時間を共有し、今風の言い方をすると化学反応を起こした関係を、「共時態」と呼んだのだと思います。今はそのモデルが妻である君子さんであることはきっと同じではないはずです。木下さんの文章にある「颯爽としていた妻」の記憶が消えない以上、別の意味でもっと難しい局面があることも想像されますが、それを乗り越える何かが、描く人としての木下さんに備わっているのでしょう。

 私自身は、木下作品が放射する島田さんのいう「過剰な何ものか」にただただ打たれたながら、しばし目を閉じて立ち尽くしました。これを芸術家の魂の一つのありようとして、あるいは人間関係の本質、愛と呼んでもいいのでしょうか、そのことの極致のようなものとして、受容といえないまでも、理解しておきたいと念じました。

 かくして、木下晋の作品にまた出会えた、というよりまた出会ってしまった、という感覚を抱えながら、ハンター坂を下りました(ギャラリー島田HP)。

 

 どちらでもいいことかもしれませんが、木下さんの鉛筆画の画面右下には、「2019.7.21」のように制作がフィニッシュしたであろう日付が刻印されています。制作年に加えて月日まで書かれた絵を、私はほとんどみたことがありません。

 これは毎日毎日鉛筆をひたすら走らせる行為そのものが木下さんにとって「いのちを刻む」ということなのだから、そして共時態の同伴者の「いのちを刻む」ことでもあるのだから、作品が出来上がったとして自分がその手を止めた時は、木下さんにとって大変に重いことなのだと想像しました。ドキュメンタリーの「日々、われらの日々」というタイトルにはこうした含意があるのでしょう。そして、描く対象の他者との共時態の日々の証しとして、「制作年月日」は記録されているのではないかと、勝手に思い込んでいます。

  木下晋「願い」 2019.7.21

  木下晋「視線のゆくえ」 2017

 

 以上を前書きとして、本論で佐伯泰英『惜櫟荘の四季』の紹介を予定していました。でも前書きが長くなってしまいましたので、次稿とします。

 ここでは、昨年末にアップした「思えば遠くへー成田一徹『神戸の残り香』ー」を追補しておくことにします。それは二つのビルについての簡単な報告となります。

 一つ目は、私が旧居留地にあるビル群の中で最もバランスのとれた代表的なものだと考える「商船三井ビルディング」についてです。

 前回は成田さんの切り絵となっている「雄叫びをあげるライオン」が見つからなかったとしていましたが、改めて見上げると、最上階の壁面にビルディングの守り神のようにそのレリーフは一定の間隔で並んでいました。確かにライオンがいたのです。

 成田さんの切り絵は、レリーフとほぼ同じ高さの目線から描かれていますが、下から見上げるしかない写真では、子どものライオンがちょっと口を開けた、かわいい顔のように見えたりしませんか。少なくともライオンの雄叫びのような威嚇を感じることができません。

  「大阪商船三井船舶ビルディング」中央区海岸通/1922年竣工

  同上の最上階のレリーフ [2020.1..16撮影]

 二つ目は、もっと古い1911年(明治44年)竣工の「海岸ビルヂング」についてです。

 前回は外からだけ写真を撮ったのですが、今回はちょっとビル内に入ってみたのです。今も管理人室があって、ちゃんと管理人の方が窓口に座っていました。入り口から3階へとまっすぐに続く大階段は写真ではうまく撮れていませんが、なかなかの迫力です。

 さらに驚いたのは、2階まで上がって3階を見上げると、ステンドグラスの天井が登場したことです。さすがに最古老の風格のあるビルヂングでした。

  「海岸ビルヂング」中央区海岸通/1922年竣工

  同上 1階フロアから見上げた大階段 [2020.1.16撮影]

  同上 2階から3階へと続く階段と天井のステンドグラス

 

 先日は二つ目の勤め先で知り合った皆さんとの懇親の場があって、今日は退職時に勤務していた仲間との例会と続きます。後者は11年続いています。これも「思えば遠くへ」の類かもしませんが、お世話をしてくださる方がいてこそ続けてこられたのでしょう。ありがたいことです。

 ということは最初の退職から11年、子どもが小学校6年生になろうかという期間なのです。ああという声にならないため息とともに、冬の雨が降り出した真夜中に、生きてきたというより、生かされてきたという思いが脳裏をよぎっていきました。

 

2019.07.16 Tuesday

人は一本の木であるべきージャコメッティとヤナイハラー

 ジャコメッティという名前は、教科書からはじまる美術教育のなかでその彫刻作品の写真とともに優れた現代作家として認知していましたし、その後もいろんなテキストによって「見えるものを見えるがままに表現するという探求」を続けた彫刻家であるとのイメージが染みついていました。でも、ジャコメッティ彫刻の現物と自覚的に出会ったのは、2010年の夏、香川県直島のベネッセハウスのエントランスホールでのことであったと記憶しています。

 もちろんジャコメッティの彫刻がそこにあることを知らなかったのですが、ホールにポツンと彫刻が1点だけ置かれていて外に何もなかったので近づいたのでしょう。台のプレートにジャコメッティという名前と作品名が記されていたのでしょうが、それを確認する前から、この鉛筆のような特徴的なフォルムはジャコメッティだろうと疑っていませんでした。先ほどネットで調べると「石碑の上のディエゴ機(1962年)というのが作品名だそうです。

 長い石碑?の上に、途中で腕の断ち切られた半身像が乗っているブロンズ彫刻は、映像で私の知っていたジャコメッティの針金のような歩く全身像的な彫刻とちがい、刀剣を逆さに突き立てたフォルムに、どうしてか何だかこれいいよなあという心の動きを感じたのです。どこがいいの、すごいのという私の中の他者の問いかけを蹴散らし、こんなに全体も一番の上の頭部もアンバランスに細長いのに、顔貌もよくわからないのに、ここには確かに人間が存在しているらしい、やはり迫力がすごいやと思ったことは覚えています。

  アルベルト・ジャコメッティ「石碑の上のディエゴ」(ベネッセハウス)[2010.6撮影]

 

 先週、神戸に出た日、ぽっかり夜まで時間が空いたので、大阪の国立国際美術館まで足を運びました。そして「コレクション特集展示 ジャコメッティと」をのぞきました。前年に同美術館が、アルベルト・ジャコメッティ(1901-61)のブロンズ彫刻「ヤナイハラ」を収蔵したことを記念しての特集展示です。普段ならできない大阪遠征をしたのは、久しぶりにジャコメッティの彫刻に出会うことができると思い立ったからです。

 コレクション特集展示に《機佞あれば《供佞發△蠅泙后今回の《機[5.24-8.4]は、彫刻「ヤナイハラ機廚2013年に収蔵の油彩画「男」を核に、同館のコレクションからジャコメッティとほぼ同時代に制作された作品群や、他の美術館から借りたジャコメッティ作品・資料を展示するものです。一方の《供[8.27-12.8]は、同じくジャコメッティの「ヤナイハラ機廖崔法廚魍砲箸靴董▲献礇灰瓮奪謄の生きた時代を超えて、「20世紀終盤から今日までの、新しい表現」を代表するような作品を同館のコレクションからチョイスして配置し、新たな光で照らしてみることが、意図されているようです。

 コレクションに加わった彫刻「ヤナイハラ機廚蓮圻機佞任垢ら《供佞發△蠅泙后L霪盡彊忘遒鬟皀妊襪箸靴織屮蹈鵐債刻は2点のみなのだそうです(何点も制作されたようですが一応の完成は2点だけ)。ですから、最初の完成作品が《機佞如◆圻供佞麓,亡粟した作品で、この2点を鋳造したブロンズ彫刻は全部で7体しかありません。そのうちの1体がこのたび収蔵された「ヤナイハラ機廚世箸いΔ海箸砲覆蠅泙后

 

 地下1階と2階にしか展示スペースのない奇妙な国立国際美術館には無料で入場できました(特集展示の方は65歳以上無料)。地下1階の展示スペースは、前半の1-3パートがジャコメッティと同時代のコレクションからの絵画と彫刻が並べられ、後半の4-6パートがジャコメッティとなります。

 私にとっては前半パートも面白く足が止まったのですが、あとでふれることとし、ここでは本丸、「ヤナイハラ機廚縫侫ーカスして紹介します。4パートには彫刻「ヤナイハラ」(1960-61)と絵画「」(1956)が並んで展示され、あとはジャコメッティが矢内原伊作をモデルとして制作する場面などを撮影した写真が何点か並んでいるだけです。5パートには、他の美術館から借りた矢内原がモデルとなったデッサンが10数枚と「裸婦立像」という小さな彫刻1点だけが展示され、6パートには、同じく書簡や手帖が整然と並んだ展示ケースに加え、1982年に東京芸術大学で行った矢内原伊作の講義《アルベルト・ジャコメッティについて》の録音、つまりヤナイハラの声が流れています。

 後から振りかえるとこんな報告になりますが、ジャコメッティの彫刻が「ヤナイハラ機廚函嵳臧慘像」の2点だけだったことは、事前の勉強の足りない私には拍子抜けでした。えっ、これだけですかと感じたということですが、今から振りかえると、かえって「ヤナイハラ機廚縫┘優襯ーを集中することになってよかったようにも思えます。

 彫刻「ヤナイハラ機廚砲弔い討了笋慮斥佞茲蝓△泙困六笋離メラに写った「ヤナイハラ機廚鯤造戮討澆泙后

  アルベルト・ジャコメッティ「ヤナイハラ機1960-61/正面 [2019.7.10撮影]

  同上 正面

  同上 左側面

  同上 正面

 白い台座のうえに、赤い壁を背景にブロンズの「ヤナイハラ」はありました。「ありました」と書いてしまいましたが、私は「在る」「存在している」という言葉が最初に浮かびました。彫刻という三次元の立体が置かれているのですから、「在る」というのは当たり前かもしれないけれど、これか、これなのかという、生々しい実在感のようなものを強く意識しました。

 同じ部屋に展示された写真の中の矢内原と似ているかと問われたら、まあそうだけれど、でも似ていないかもしれないと答えるしかないでしょう。そんな問いは、「ヤナイハラ機廚鯀阿砲垢襪函¬妓だということをすぐに感じることになります。ジャコメッティの眼差しを通したヤナイハラ、ある人間の肖像がそこにある、ある人間は確かに存在しているという感覚に至るのです。

 このとき、つまり「ヤナイハラ機廚醗貘舒譴蚤侈未靴燭箸、彫刻の大きさを何も感じていなかったと思います。がしかし、6パートから戻ってきて、もう一度をみようとしたとき、写真を撮ろうとしている鑑賞者の姿とともに目に入ってきたときに、「ヤナイハラ機廚実寸法が大きくないことに初めて気づきました。少し離れた位置から撮った下の写真はだいぶ極端に見えていますが、とにかく小さいのです。ホントに小さいのですが、目の前にすると、そんなことは感じないのです。

  「ヤナイハラ」の前で撮影する人たち

 面白い出来事がありました。上の写真に写る同年配の女性が、「ヤナイハラ機廚鯀阿法▲妊献メをいじりながら、何回か、どうしてだろうとつぶやいているのです。「どうされましたか」と、いつもはしないおせっかいをしてしまいました。シャッターを押すと、「ヤナイハラ機廚、彫刻表面の青銅色というか、黒味がかった色ではなく、内部の青銅の黄金色に写ってしまうということなのです。

 絞りや色味などを自分で調整して撮影することが好きでやっていたら、こんな色(黄金色に輝く「ヤナイハラ機)になってしまったのですと言われました。カメラ任せ、オート撮影しかできない私は、あなたの方がずっとレベル高そうですね、私はオートだけなのでと、とにかくオートに戻してみたらどうですかと勧めるしかありません。そうしてみると、私の目にみえている色に近い色に戻っていました。なんだかカメラの先輩面をしてしまったようで、私はちょっと恥ずかしくなりました。

 不思議でもなんでもないことでしょうが、彫刻の表面の色ではなく、内部の色がデジカメに鮮明に現れるところに面白さを感じたのです。私の並べた4枚の「ヤナイハラ機彈命燭凌味も背景の赤を含め、目に見えた色と少し違うのですが、そういえば、一番下の顔を拡大したものには、皮膚という表層の奥の黄金色の片りんが現れているようです。

  ジャコメッティの制作風景(「ヤナイハラ」気兇はわかりません)

  矢内原伊作とジャコメッティ(場所はわかりません)

 ジャコメッティのモデルとして最も多く登場するのは、弟のディエゴ(直島の彫刻や今回展示の油彩画「男」のモデルだと推測されています)と妻のアネットなのだそうですが、もう一人加えるとすれば、日本人の矢内原伊作(1918-89)でした。

 知り合ってモデルとなった経緯は割愛して、モデルとしてジャコメッティのアトリエで過ごした年代と日数についてだけ書いておきます。哲学専攻の矢内原は1954年から2年間の予定でパリに留学していますが、その帰国間際、知り合って1年のジャコメッティに挨拶に行ったところ(アトリエに行ったことはなかった)、ちょっと君を描こうと言われて、よい留学記念になるからと喜んでジャコメッティの前に座ります。これが1956年10月のことですが、「ちょっと」が実に72日間となってしまって、矢内原は帰国を何度も延期することになりました。

 それからも、当時、大阪大学で教えていた矢内原は、翌57年の夏休み、59年、60年、61年もジャコメッティに招かれてパリへと出かけています。ポーズを取り続けた延べ日数は230日に及んだと記録されています。

 パート4で美術館側が用意した説明プレートには、「ヤナイハラ機廚蓮▲皀妊襪鬚弔箸瓩4度目の夏となる1960年8月に「「ヤナイハラ機廚鮴犬爐海箸砲覆覿同作業が始まりました」とあります。それまではデッサンと油絵だけでしたから、初めての彫像であり、翌61年の夏に、「矢内原をモデルとした彫像が2点、完成に至」ったのです。油彩が20点以上現存するのに対し、前記したとおり、完成したブロンズ彫刻はわずか2点のみでした。粘土の塑像をブロンズにすべく型取りするのは弟のディエゴであり、ディエゴは「自らの作品に満足せず永遠に完成させようとしないジャコメッティの重要なアシスタント」であったと紹介されていました。

 

 矢内原はジャコメッティについて多くの文章を残しており(それが日本におけるジャコメッティの評価を高めた一因だといわれています)、私も本をもっていますが、今回、読み返しませんでした。それは、ちんぷんかんぷんであった苦い記憶しかないからです。その代わりというわけではありませんが、『芸術新潮』(2006年7月号)の「特集ジャコメッティ」を斜め読みしました。このことで何か理解が深まったかと問われたら、うむと沈黙するしかなさそうですが、キャッチコピー的タイトルとともに、もう少し補足しておくことにします。

 特集全体の副題は「アルプス生まれの全身芸術家」です。「アルプス生まれ」を強調していますが、私にはわかりませんでした。「全身芸術家」という表現は、本稿では論じませんが、やはり説得的でしょう。さらに4ページにわたる年譜のタイトルは「ある芸術馬鹿の一生」です。その年譜に添えられた年代ごとの小見出しを時代順に並べてみると、「寒村の芸術一家に生まれて」「イタリアで古典に開眼」「家具デザイナーもやりました」「シュルレアリスト誕生?」「母と林檎の夏」「像は縮むよ、どこまでも」「実存主義のヒーロー」「受賞と癌」「最期の旅」です。いかがでしょうか、どれか引っかかるような言葉はありましたか。自分に問うてみると、やはり「実存主義のヒーロー」などという、少々面映ゆい呼び名で記憶していたようです。

 いずれにしても「全身芸術家」と「ある芸術馬鹿の一生」は、20世紀美術のヒーローでもあった彫刻家の実像を喚起させる力をもっています。

  『芸術新潮』2006年7月号表紙 「特集 ジャコメッティ アルプス生まれの全身芸術家

  同上 特集のトップページ見開き

  同上 特集中の「ジャコメッティかく語りき」見開き

 『芸術新潮』の特集には、上の写真の3枚目「ジャコメッティかく語りき」と題する語録が見開きページとなっています。その中に、「人は一本の木であるべきなのだ。」があって、よくわからないなりにジャコメッティの彫刻の本質が現れているようだと思いました。

 さらには、「彫刻とは、手でこねるという最も原始的な芸術、ロバ引きのような最も遅れた芸術だ。」、そして「ぼくは作品のなかに人間の感情を表現することはできない。ぼくはただ頭を構築しようとしている、ただそれだけのことだ。」というジャコメッティの言葉もチョイスしておくことにします。「ぼくは外面に苦労するだけでたくさんだ。内面まで関われないよ。」という言葉を追加しておきましょう。

 

 この特集の解説者は保坂健二郎という当時30歳の若手研究者です。編集者も思い切った決断をしたことになりますが、サルトル、ジャン・ジュネそして矢内原伊作という実存主義とセットで語られてきた「ジャコメッティ像」へのアンチテーゼを多分に意識しながら、神話の解体を目論み、長期取材して言葉にしています。編集者による特集全体のコピーには、「浮かびあがってくるのは、まったくあたらしい、愛すべきジャコメッティ像」とあります。その当否の判断を、私は留保しておきます。

 そのほんの一部、「モデルとの親密な関係がアヤシイです」という項から、矢内原伊作に関係する部分をメモしてみることにします。

 ジャコメッティのように「人間という存在の「真実」を芸術において探求するためには」、他者としてのモデルが必要となり、「それも愛しき他者でなければならない」のです。なぜなら「徹底的な剥奪を許してくれると同時に、その剥奪を自分自身が痛みとして感じられるような相手でなければ、自分を含む人間の真実などわかるはずはありませんから」というのです。

 そんな「理想の他者」が矢内原伊作であり、ジャコメッティ芸術の本質を理解してもいたヤナイハラがモデルになると、ジャコメッティの探求は「答えではなく、不可能を目指すようになってしまう」と保坂さんは考えていて、次の文章を記しています。

 「 矢内原は帰国を何度も延期してまで制作につきあいますが、完成ではな

  く探求し続けることが目的である以上、それは苦しみに彩られた終わりな

  き旅となります。これをジャコメッティ研究者は「ヤナイハラ・クライシ

  ス」と呼ぶのですが、しかし端から見れば危機でも、ジャコメッティに

  とっては、理想の旅でした。」

 そして、私たちが思わずジャコメッティの作品に見入ってしまうのはなぜかとの問いに、次の文章で答えています。

 「 それが彫刻や絵画に本質的な問題を扱っているからでもない。そうでは

  なく、愛し愛されているがゆえに許される「剥奪」と「贈与」の物語が、

  そこに滲み出しているからではないでしょうか。モデルを「眼差し」、そ

  のモデルに「眼差さ」れる。そうした視線のやりとりの流れのなかで、

  ジャコメッティはまさしくその手をもって、相手の外見を剥ぎ取り、本質

  を紡ぎ出し、それを肖像(モデル)に再び送り返したのです。」

 保坂さんは、ジャコメッティの作品を見て、「芸術は愛の問題である」と考えたようです。

 面白いですね。一つの見方です。外れていないように思います。ジャコメッティにとって、「理想の旅」であったということは、「理想の他者」であった矢内原自身にとってもまた、重なる困惑もあったでしょうが、「理想の旅」であったにちがいないと、私は確信をもつことができました。

 

 前記の「答えではなく、不可能を目指すようになってしまう」と重なり合いますが、保坂さんによると、ジャコメッティのエッセーに次の文章があるとのことです。

 「 一つの彫刻は一つの物(オブジェ)ではない。それは一つの問いかけであ

  り、質問であり、答である。それは完成されることもあり得ず、完全でも

  あり得ない。そういったことは問題にすらならない。」

 なんという不可能な理想でしょう。そんな理想と付き合いつづけながら、ポーズをとってただ座っている時間に、矢内原は対話的に哲学していたといえるのではないでしょうか。ジャコメッティとの旅についてあれだけの文章を残し、それが矢内原にとっても生涯の主たる文章であったのですから、ちょっと常人では想像しようもないような特別な時間が存在していたのであろうと思いたくなります。

 

 最後に、NHK日曜美術館(1999年5月2日)で、加藤周一が、ジャコメッティについて、次のように語ったそうで、引用しておきます。

 「 ジャコメッティはドナテーロ(1386-1468)からロダン(1840-1917)を

  媒体として、それまでの20世紀を代表する彫刻家と見てよい。彫刻という

  意味にもよるけど彫刻家としては、ぼくはジャコメッティに最も感動す

  る。

   絵画のルオーのように、流行の主流派からちょっとはずれた場所で、主

  流に抗しながら自分自身の型を見いだし、それを究極まで創りだしていく

  点にジャコメッティという天才の特質がある、」

 

 さて、ジャコメッティ以外の作品についても、軽くふれておきます。

 パート1は、収蔵品のなかから、ビックネームであるセザンヌ、ピカソ、カンディンスキーなどの絵画をチョイスしており、その中にジョルジョ・モランディ「静物」(この美術館のコレクションにあったのです)もいっしょに展示されていました。モランディ、贔屓の引き倒しにすぎませんが、負けていませんでしたよ(「反復と創造ーモランディ展ー」)。

 続くパート2は、彫刻作品です。この美術館らしい荒川修作の前に、舟越保武「原の城(はらのじょう)」(1971年)、ジャコモ・マンズー「枢機卿」、佐藤忠良「帽子・立像」と、3点の人物全身像が並ぶ一角には、「ヤナイハラ機廚惶泙瓦Δ箸垢訛を止めさせるに十分なものがありました。

  右から/舟越保武「原の城」/ジャコモ・マンズー「枢機卿」/佐藤忠良「帽子・立像

 その中でも、テレビの映像だけで知っていた「原の城」には、全身に強く訴えかけてくるものを感じました。1637年から翌年にかけて起こった天草四郎を中心とするキリシタンと農民の反乱、すなわち島原の乱、天草の乱のことが題材となっています。最終的には、《原の城》に立てこもった3万7千余人といわれている人びとが全滅するという悲惨な結末を迎えるのです。

 この全身像の完成より10年前に《原の城》を訪れたとき、明るい長閑な丘の上に立った舟越は、「この異様な静寂は、天草の乱のあとの放心状態がまだ続いているためではないか」と思ったと語っているのだそうです。そして、討ち死にしたキリシタン武士の姿を「雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿」として描きたいと願い、この来訪から3年後に「かぶとをかぶった武士のやつれた首」の彫刻を2つ作ったうえで、そのまた7年後に制作されたのが、この全身像だったのです。

 このまがった背中のうえに載せられた放心したような顔、そして目に、衝撃を受けました。幻想、幻影、亡霊との境い目にあって、地霊たちの叫びを受けとめるように立っているキリシタン武士の姿には、舟越の強い異議申し立てと祈りが表現されています。

 ここにもまた、ジャコメッティ彫刻と共通する「人間という存在の「真実」を芸術において探求する」という営為が現れていると断言してもいいのだと思いました。

  舟越保武「原の城」1971年 正面 

  同上 左側面

  同上 正面

 続くパート3には、いわゆる《具体》の作家たちの、1960年前後に制作された作品が中心に展示されています。「ヤナイハラ機廚汎瓜期の制作ですが、《具体》は激しく抽象を追及していました。

 パート1-6とは別室のパート7とパート8には、1960年代から80年代にかけての日本人画家の作品が並んでいました。

 これまでに美術館でみてきた作家なのですが、私のイメージと少し落差があると感じた3人の画家のいわゆる抽象画を撮った写真を載せておくことにします。《具体》の二人、吉原治良は「赤と黒」ではなく「グレーと白」という色彩が、白髪一雄は「墨色一色」ではなく「多色」であることが、そして8パートの菅井汲は私のイメージにあったスガイの形と違う「形」であることが、私にはそれぞれ印象的だったのです。

  吉原治良「無題」1963年

  白髪一雄「天雄星 豹子頭」1959年

  菅井汲「S.14&S.15」1990年

 パート7-8をざっとみてから、別室のパート4へと引き返し、最後にもう一度「ヤナイハラ機廚北瓩蠅泙靴拭G心に見ている若い人を邪魔しないように、遠くから眺めていることにしました。

 矢内原伊作は東京育ちですが、ジャコメッティのモデルになっていた頃は関西にいたのですから、「ヤナイハラ機廚鰐瓩襪戮ところに戻ったということになるでしょう。

  「ヤナイハラ」と対面する人

 地下1階の展示室から地上階へと上がってきた私は、フロアにマリノ・マリーニを発見しました。1949年制作の「踊子」というタイトルのブロンズ彫刻です。ジャコメッティの「ヤナイハラ機廚鬚澆討た私の眼には、正反対という印象がまず飛び込んできました。大きさ、量感、マチエール、この場を支配しているのはジャコメッティのビリビリとした緊張感というより、マリーニのゆったりとしたユーモア感覚です。けれど、いずれの彫刻も、強い実在感、生命感という点では共通しているといえるのもしれません。

 当ブログでも書いてきたのですが、マリノ・マリーニ(1901-80)への思い入れは強いのです。すべては偶然のことかもしれませんが、最初に美術品なるものを手に入れたのもマリノ・マリーニの版画でしたし、フィレンツェのマリノ・マリーニ美術館には最初(2009年)と二度目(2012年)の海外旅行で2回訪れています(「クーボラの見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(1)」)。そして、マリーニは他の彫像、彫刻をみるときの私の基準点という道標になっていると思っていたのです。

 奇しくも同じ1901年に生まれたジャコメッティとマリーニという二人の彫刻家の手が作りだした彫刻は、どうしてこんなにも違うのでしょう。二人の彫刻はいずれもいいし好きだしというのは我ながらどんな了見なのでしょう。いや、違うのは個性であり、本質は同じといえるのかもしれません。いいものはいいのだと思いつつも、基準点を揺さぶられるような感覚もいだきながら、美術館を後にしました。

  マリノ・マリーニ「踊子」1949年

  マリノ・マリーニ美術館(フィレンツェ) [2012年1月撮影]

 

 5月の東京行で上野や恵比寿の美術館に出かけたこともあって、近頃ずっと遠ざかろうとしている美術館へのバリアが低くなっていたためか、こうして大阪まで行くことになりました。美術館というより、美術であれ音楽であれ映画であれ「芸術」との遭遇は、やはり私にとってビタミンのようなものです。もういいやではなく、上手くいい機会に出会えるようにしたいものです。

 とにかくこの日の大阪は迷い道でした。東西線の新福島駅から地上に出たところ、展示を見終えて美術館を出たところ、中之島のフェスティバルホールの地下に降りたところ、あわせて3回も東西南北の方向感覚を失いました。こんな迷い爺さんは「70歳問題」というものの一つなのでしょうか。

 結局のところ、美術館にも、大阪駅にも、なんとかたどり着けましたが、大阪の街に悪態をつくことはできず、こんな自分自身に呆れるほかありませんでした。

 

 

2019.05.28 Tuesday

グラナダの出会いからー高階秀爾『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰』ー

 「「受胎告知」の絵を、目的の一つとして旅をしています」と、その方から聞いたとき、ああそんな旅もできるんだと思ったことは鮮明に覚えています。

 その方とは若い日本人女性で、パリのOECDに出向中とのことで、クリスマス休暇を利用した旅をされている途中でした。グラナダのパラドールで宿泊した翌朝、私たち二人で朝食をしていたとき、日本語が聞こえたものですからと声をかけてもらったのです。

 ひとしきり話がはずんだのですが、彼女は今よく使われる「鉄女」だそうで、パリに来てからは、休暇のたびにヨーロッパ中を、鉄道旅行をされているようでした。今回も、スペイン国内だけでなく、ドイツやスイスとかも回る予定で、その日は、私たちと同様、アルハンブラ宮殿見学を目的にちょうど同敷地内にあるパラドールに宿泊されていたのです。

 どうして「受胎告知」なのですかという問いに答えていただいたとは思うのですが、はっきりと覚えていません。いろんな旅先の街で教会や美術館を見学するとき、意識的に「受胎告知」をテーマとする絵画をみることにしておくと、その見学が興味深く楽しいものになるからというようなことではなかったでしょうか。アルハンブラ宮殿のような特別の目玉はなくても、鉄道を乗り継いでいくどんな小さな街でも、「受胎告知」なら共通するテーマになるし、だんだんと比較する面白さもわかってくるのでという話だったかと思います。

 さらに今までに出会った「受胎告知」で語りたくなる絵画はと尋ねたように思います。でも、そのとき、私が思い浮かべることができたのは、フィレンツェのサン・マルコ修道院(美術館)でみていたフラ・アンジェリコの図像だけだったこともあって、せっかくの彼女の答えは何も記憶に残っていません。

 年が明けて4月には、出向を終え、パリを離任して東京へ戻ることになるとのことでした。

 このグラナダでの出会いは2014年12月23日のことでしたから、早くも4年半前のことになります。

 

 このことが頭に残っていたからか、「受胎告知」をテーマとする新書を手にしました。高階秀爾著『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰』(2018年11月刊/PHP新書))です。

 ちょっと美術の好きな初心者が、高名な美術評論家・美術史家である高階さんから、たくさんの図像もみせてもらいながら、2時間ぐらいの講演を聴かせてもらうという趣向の小著です。だから、《受胎告知》をテーマとする絵画をコンパクトにわかってもらうことが主眼になっていますが、さすがに年季の入ったプロフェッショナルな高階さんらしい明快でかつ本質的な内容が連発されているとの印象が残りました。

 当ブログのカテゴリーとして「アート」を設けている者として恥ずかしいのですが、キリスト教史や美術史を少し齧っている方であれば、ごく当たり前のことですら、私は何も知っていないのだと分かりました。今回やっと知ったという気になったことを、本稿ではメモしておくことにします。

  高階秀爾著『《受胎告知》絵画で見るマリア信仰』 2018年11月刊/PHP新書

  カバーの絵画は「ジェンティレスキ《受胎告知》1623年制作

  同上、カバー裏面の「目次

 本書の基本スタンスから確認しておきます。

 《受胎告知》は聖書を主題とする絵画の一例で、このような聖書に基づく絵画(彫刻を含みます)は、キリスト教の普及啓発というべき布教、いわば民衆の教化戦略の重要な手段であったというのが、本書のベースにある見方です。つまり、キリスト教は、教義を広く伝えるために聖書や聖人伝に基づく絵画や彫刻を重視しており、教義プロモーションの手段として、プロパガンダの手段として、美術が使われたというのが、基本的な視点なのです。

 そして、こうしたキリスト教の普及戦略の底流には、各時代の社会的な背景である、商業、交易の活発化と都市化の進展とともに、疫病、紛争などの災厄、これと関連しますが、宗教改革などが存在しています。だから、一口に《受胎告知》をテーマとする絵画といっても、描き方、表現様式にも、そうした時代的、社会的な状況が色濃く反映されているのだと、高階さんは、意を尽くして語っています。

 以上を踏まえながら、高階さんは、本書の副題にある「マリア信仰」という視点を重視しつつ、《受胎告知》が「もっとも多彩に花開いたのは、ゴシックの頃からルネサンスを経て、バロックに至るまでの間」、「すなわち、長い歴史においては、わずか数世紀のことにすぎない」と結論づけています。

 

 現代に生きる高階さんは、「そもそも《受胎告知》は非現実的で実際にはあり得ないストーリーであることは承知のとおり」とします。そのうえで、《受胎告知》の絵画は、「大天使ガブリエルが聖母マリアのもとを訪れて、イエス・キリストの誕生を予告する場面を描き出して」おり、「わずか数分間の出来事であっただろう」とし、そして「聖書では1ページにも満たないあっさりとした記述」であることを確認しています。

 他の《アダムの創造》《最後の晩餐》《聖母子》などともに、《受胎告知》が大きな主題となった理由として、高階さんは「深遠であると同時に、身近で親しみやすい側面も兼ね備えており」、「数多くの芸術家たちの想像力を刺激する」とともに、「その時代、その時代の民衆の心をとらえてやまなかった」からであると述べています。

 このことは「身近で親しみやすい聖母マリアの存在が大きい」のだとし、その背景に431年のエフェソス公会議で「キリストは神人両性であることと、マリアは「神の母」という聖なる存在であり、特別な人間であることが明確に結論づけられた」という歴史的事実を指摘しています。この結論は中世以降のヨーロッパ社会に強い影響を及ぼしましたが、「やはり神なので畏れ多く、ちょっと近寄りがたい」イエスよりも、「親しみやすいマリアを仲介者として、天上の神に執り成してもらうことを民衆は望んだ」とし、高階さんは「マリア信仰」の肝のようなことを次の文章としています。

 「 マリア信仰が盛んになるのはゴシック時代以降のことだが、崇敬の念を

  抱くと同時に、どんなに貧しい人間でも、どんなに卑しい人間でも、安心

  して保護と救いを依頼できる優しい存在として親近感が持たれるように

  なったからである。」

 かくして、「マリア信仰」は盛んになり、ゴシックの時期以降、「ヨーロッパの各都市でこぞって《受胎告知》が描かれるようになった」のです。

 

 それでは、時代をおって、《受胎告知》の描かれ方や表現様式の変遷を、高階さんの図像を利用しつつ、確認しておきましょう。

 まず、13~14世紀というゴシックの時代には、都市の発達にともなって大規模な教会堂が次第に増え、内部には装飾が施され、「絵画はいわば「文字を読めない人たちのための聖書」という役割を担った」です。

 この時代の背景として、1347年から51年にかけてのペストの蔓延や、1339年からの百年戦争など、疫病や紛争に伴う社会的な不安との関係を、高階さんは指摘しています。ですから、パリのノートルダム大聖堂(「わたしたちの貴婦人」の意で「聖母マリア」のことを指す)をはじめノートルダムという名称の教会の建設が相次いだのです。

 ゴシックの頃から、親近感のある存在として、マリアは「より人間的に表現されるようになり、表情も穏やかに変わっていく」のです。この時期の《受胎告知》の代表的なものとして、高階さんは、イタリアのパドヴァのスクロヴェー二礼拝堂のジオットなどともに、シモーネ・マルティーニを取り上げ、次のような表現を与えています。

 「 マリアは「神の母」を示す玉座に腰をかけていて、威厳ある存在として

  描かれているものの、その表情は、人間の娘として驚きや不安を隠そうと

  していない。つまり威厳がありながらも、人間的で親しみやすさも兼ね備

  えた人物像としてマリアは表現されている。」

  シモーネ・マルティーニ《受胎告知》部分1333年制作 /本書83p

 続く15世紀半ばのイタリアに端を発するルネサンスという時代は、フィレンツェをはじめとする都市国家で経済的に成功を収めた者が修道院や教会に積極的に寄進する一方、私邸にも宗教美術が飾られることになったのだそうです。

 高階さんは、ルネサンス美術を語るうえで見落としてはならないというのがフランドル美術だと強調しています。経済力を後ろ盾とした市民文化が発達した同地域では「油彩画」「遠近法」の技法、それを活かした「柔らかい光と豊かな色調」とともに「細やかな室内描写」「自然の風景の導入」など写実的表現や細密描写が発達したのです。そして、このフランドル美術が、イタリアのルネサンス美術に大きく影響を与え、花開かせたというわけです。

 マリア像は、「親しみやすいばかりでなく、自然な趣」で描かれるようになったとし、高階さんは、その表現方向を次のとおり括っています。

 「 人間中心主義であり、遠近法にしてもそうだが、人間の目で見てどう見

  えるのかが問われた。その結果、マリアも「神の母」というより、人間で

  あることが強く表現されるようになった。」

 こうして写実的表現が求められたとし、ボッティチェリ、ピエロ・デ・フランチェスカ、ラファイエロらとともに、レオナルド・ダ・ヴィンチの背景に風景を描いた《受胎告知》を代表的な作品として紹介しています。この《受胎告知》は「大天使ガブリエルとマリアが向かい合い、その背後に遠近法の表現による風景」が広がり、「幾何学的な構成の中に自然がきちんととらえられている」と、高階さんは記述しています。

 今はウフィツィ美術館にある20歳をすぎたばかりのダ・ヴィンチが描いたとされる《受胎告知》を10年前に初めてみたとき、私はこれがダ・ヴィンチなの、へぇーというぐらいの感想しか出てこなかったことを覚えています。

  レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472年頃制作 /本書124p

 先を急ぎたいのですが、フラ・アンジェリコの《受胎告知》にも高階さんはふれています。「建物を立体的かつ写実的に描く技法」の進化事例として取り上げられているのですが、サン・マルコ修道院(美術館)の階段を上った二階の廊下の壁と、かつて僧房内であった室内にある、二点の《受胎告知》を比べています。つまり、僧房内のものは「余計な描写は徹底的な省き、現世的な喜びを排除」しており、「ひとつの修道院内で同じ主題を扱いながらも」、フラ・アンジェリコは「見る対象をはっきり区別し、意識して違う表現」を行ったのだと指摘しています。

 私にとっては、今も《受胎告知》といえば、この廊下にある作品の方のなのです。美術館といっても、修道院がそのまま使われていて、その現場の空気感(教会の内部空間とも違います)にも後押しされたというか、つまり私にとって最もふさわしい場で出会ったからではないかと思っています。

  フラ・アンジェリコ《受胎告知》上:1440年/下:1441-43年制作 /本書112p

  フラ・アンジェリコ《受胎告知》ポスター

  サン・マルコ修道院(美術館)の2階廊下《受胎告知》 /[2015.5撮影]

 ゴシック(直前のロマネスクにもふれていますが)、ルネサンスに続いて、高階さんは16世紀前半に顕著になったマニエリスムという表現様式を一つの時代として区切っています。

 1932年生まれの高階さんは、学生の頃には「大雑把に言うならば13、14世紀はゴシック、15、16世紀がルネサンスで17世紀がバロックと習った」とし、この「マニエリスム」が美術史に定着したのは、第二次世界大戦後、10年を経た後のことにすぎないと注意を喚起しています。そして、日本においても、若冲や蕭白が「奇想の系譜」として注目され始めたことと、時期、内容とも「不思議な符号」をみせていると述べています。

 ルネサンスの様式美を大胆に変化させようとする動きとして、マニエリスムの絵画の特徴を「奇怪で幻想的、エキセントリックな傾向を強調した様式であり、極端な明暗のコントラストや歪められた遠近法、強烈で大胆な色彩構成、さらには不自然な人体プロポーションなど」としています。

 

 この時代の社会的背景として外せないのは「宗教改革」のことです。プロテスタントは「偶像や聖人崇拝をいっさい否定し」、「マリア信仰さえ否定された」のです。こうしたプロテスタントの美術に対する厳しい対応は、カトリックに逆バネとして働きます。1545年に始まり、1563年に終結したトレント公会議では、カトリックは「絵画や彫刻が人々の心情に及ぼす影響を重要視し、信仰を深めることを目的に積極的に美術を活用しようという方針」を打ち出しました。つまり宗教改革に対する反撃として、宗教画を非常に大きくクローズアップしたと、高階さんは記したうえで、《受胎告知》の描き方への影響を次のとおり表現しています。

 「 ゴシック期にはマリアに親しみやすさが求められ、ルネサンス期には自

  然で日常的な表現が特徴だったが、マニエリスムの時代には幻想的で神秘

  の世界の出来事として《受胎告知》が描かれるようになった。

   (中略)マニエリスムの時代はあらためて神秘性が強調されたのであ

  る。」

 宗教改革で火がつき、各地で宗教戦争も相次ぐという不安定な社会情勢のもとで、人びとは「目を背けたくなる現実があるからこそ、幻想的な美術に惹きつけられた」のでないかというのです。

 

 この時期の代表的な画家として、ティツィアーノやヴェネローゼというヴェネツィア派の画家をあげ、これに続く系譜として、クレタ島に生まれ、ティツィアーノの工房に身をおき、スペインで活躍したエル・グレコの名を記しています。エル・グレコの《受胎告知》の1枚は、大原美術館にあります。動きの大きなポーズの作品で、設定も夜になって神秘性が強調されています。

 長く大原美術館の館長をしている高階さんは、グレコの《受胎告知》が大原美術館に所蔵されている経緯にふれています。このような他の近現代を中心とする所蔵作品と異質な作品を購入するにあたっては、死後、名声の衰えていたグレコが「20世紀を迎えてフォービズムや表現主義などの新しい芸術運動」を背景として再評価する動きのなかで、大原孫三郎と児島虎次郎の強い信頼関係があって初めて実現できたこととして、深い感慨をもって書きとめています。

 不思議なことに、小学生の頃に大原美術館でみた絵画として今も記憶しているのが、偶然にも、このグレコの《受胎告知》なのです。 

  エル・グレコ《受胎告知》1590-1603年頃制作 /本書148p

 マニエリスムに続くバロックは16世紀末頃からイタリアに現れ始め、17世紀にはヨーロッパ全土に行き渡りました。

 マニエリスムの特色をさらに強く打ち出したのが、バロックですが、その違いを明確に見出すことは難しいと高階さんは書いています。そのうえで「あえて言うなら」と、より「派手で大袈裟」であり、「ダイナミズムも明暗の差」も激しく、さらには「色づかいが華やかでより鮮烈である」としています。

 このことは《受胎告知》にも反映されると、次の特色を明記しています。

 「 大天使ガブリエルが宙に浮いているという絵画的演出は、(中略)バロッ

  クの頃には典型的な表現とすらいえるようになった。

   また、マリアが後ろを振り向いたり手を前に出したりといったダイナ

  ミックな動きの表現が顕著となった。そして表情にも、驚いた心のうちを

  強調する表現が多く見られる。

   さらにルネサンス期に始まった水平的な構図は影を潜め、バロックでは

  対角線構図や上下構図がよく用いられた。(中略)対角線をより強調した構

  図がバロックの特色である。」

 カトリック教会による大衆教化の手段としてバロックの画家たちに期待されたのは、「宗教の持つ超越性をあらためて強調」することであり、「キリスト教に権威と神秘を取り戻す」ことでした。

 

 バロックの代表的な画家として、高階さんはルーベンスやジョルダーノとともに、二人に先立ち、大きな影響を与えた創始者として、カラヴァッジオをあげています。「非常に強い明暗で、生々しい現実的なさま」を描いたカラヴァッジオは、まさに前記のバロックの特色を体現していました。

 カラヴァッジオが、いつ頃「バロック絵画の創始者」と評価されたのか知りませんが、これも第二次世界大戦以降のことではないかと思います。こうした画家に対する評価の上下動、再発見、再評価の動きなども、ただ研究の進化というだけでなく、奇想の系譜のように、時代状況の産物である側面があることも忘れてなりません。

  カラヴァッジオ《受胎告知》1608-09年制作 /本書164p

 さて、続く18世紀、ロココと呼ばれていますが、高階さんは18世紀には「《受胎告知》の隆盛期は終わりを告げ」、「19世紀に入るとますます《受胎告知》やキリスト教絵画は描かれる機会が減った」としています。どうしてそうなっていったのかという問題は、本稿では割愛し、まさに近現代と呼んでいる時代の反映とだけ記しておくことにします。

 今では《受胎告知》は美術館が守り、「多くの人たちに伝える役割」を担うようになっています。本書の最後の文章を引用しておきます。

 「 《受胎告知》は本質的にキリスト教絵画である。人々を信仰に導くた

  め、そして神の栄光を讃えるために描かれた。美術館や展覧会のために描

  かれたわけでは決してない。

   人々はジオットやダ・ヴィンチ、グレコらの絵を鑑賞したのではなく、

  深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである。」

 

 これで本書の紹介は終わりですが、一つだけ追加させてください。

 グラナダの頃に比べて、私にとって、新たな《受胎告知》が加わりました。アントネッロ・ダ・メッシーナの「受胎告知のマリア」です。告知する大天使ガブリエルが登場していなくて、マリアだけの顔と手の表情だけなので、これを高階さんの《受胎告知》としてカテゴライズされるのかどうか知りません。

 この2016年4月1日の昼下がり、パレルモのシチリア州立美術館で出会えた驚きと喜びは、今も鮮明です。この邂逅は、当ブログに2016.9.28「大樹のようなカオス・パレルモ(その2)ーシチリア・パレルモ紀行(2)ー」に書いています。観光ルートから外れた美術館の、誰もいない無防備な部屋に、二重のガラスで防備された「受胎告知のマリア」から発せられた光を忘れることができません。

  アントネッロ・ダ・メッシーナ「受胎告知のマリア」1476、77年頃?制作

                   [2016.4.1撮影/シチリア州立美術館、パレルモ]

 

 以上、グラナダの出会いから、4年余を経て、やっと「受胎告知」の絵画について学ぶ機会を得ました。それだけでなく、「受胎告知」をはじめとするキリスト教美術の存在理由、その社会的役割が、現在の写真を中心とする平面図像の存在を不可欠とする広告宣伝、さらには広く広報全般というものとも共通した部分があることを知りました。

 そこに人間の本質のようなものを見出し、現代を生きる人間と、宗教、信仰との関係など、思いは拡がりますが、安易に語ることはできません。

 帰国されたであろうあの方は、今も、鉄道に乗って旅をされているでしょうか。日本でなら、《受胎告知》に替わるような目的は何なのでしょうか。仏像なのでしょうか。元気でやっておられることを祈るほかありません。

 

 2014年12月のアルハンブラ宮殿のこと、グラナダのこと、そしてスペイン旅行のこと、もっと書いておきたい気もしますが、通り一遍の感想を超えられそうにありません。一人の観光客の撮った写真そのものですが、パラドールとアルハンブラ宮殿の映像を添付させていただくことにします。

 なお、当ブログでは、これまでにスペイン旅行に関係する記事を3点アップしていました。

 🔹2015.11.14「音楽」があるということ

 🔹2017.7.10「クチナシの香りから7月は始まりー

            『サクロモンテの丘-ロマの洞窟フラメンコ』ー

 🔹2017.8.20「バルセロナで美の喜びと出会う

                 ーモンタネールのモデルニスモ建築ー

  パラドール・デ・グラナダのエントランス  [2014.12.23撮影]、以下同じ]

  パラドール・デ・グラナダの中庭 

  アルハンブラ宮殿「アラヤネスの中庭」

  アルハンブラ宮殿「ライオンの中庭」

2019.03.26 Tuesday

それでも春はー石井一男とアリョーシャ展のことー

 北からの風が冷たく感じられる一日でした。陽ざしが弱く長続きしなかったせいでもありますが、春本番近しと感じる数日が続いた後だっただけに余計にそんな体感があったのでしょう。

 どこか寒々しい空気に包まれた喜瀬川沿いの桜の並木、そばに近づいてみたら、それでも蕾がふくらみ来週には確実に咲き始めそうないきおいなのです。こんなに気温が上下に大きく変動する季節にあって、桜はどうして開花を決めているのでしょうか。

 気温の乱高下とともに人間の心の振幅も大きくなります。年度という単位で会社や団体が動いていることも多くて、そんな場合は当然、退職する人がいて就職する人と入れ替わることも多い季節です。

 昨夜は、かつていっしょに仕事をしていた方が退職するということで、小さな集まりがありました。何よりあるレベルの健康を保って退職できることが、とにかく「よかったなあ」という思いなのです。「大過なく」などはまずありえないわけで、まあいろいろとあっただろうけれど、こうして退職の日を迎え、次の道に歩んでいけることを、ささやかに、でも深いところで、喜びあってもいいのではないかという気持ちなのです。いっしょに働いたなどといっても何もわかっていないといえばそのとおりですが、そういう気持ちになれるのも、ある一定の時間と場を共有した者同士の関係があるからです。

 私自身は退職して10年ということになりますが、私が関わってきた人たちは、その現場から確実に、そして誰もいなくなる状態が近づいていきます。もちろん、それは悲しいことでもつらいことでもなく、めぐりくるものとして受け容れることなのでしょう。

 それでも春はめぐってきます。

 

 大中遺跡公園内のツバキは、華やかな花を咲かせています。そして、枯れた気配もないまま咲いていたときの姿で落下しているさまに、「夭折」という言葉が反応して、ちょっと心を騒がせたりします。

 円満寺二郎さんによると(『図書』2019年3月号)、中国の「椿」は日本のツバキとは別物の高木だそうです。「まだ寒いうちから華やかな花を咲かせて春が近いことを知らせてくれる」ツバキに「椿」をあてたのは、「中国にも同じ形の漢字があるのを知りつつも、いわゆる「確信犯」的に生み出された可能性が大」であると説明しています。そして、「そう考えると、この花に対する先人の深い思い入れが感じられないでしょうか」と結んでいます。

 寒い間から同公園内でずっと全面葺き替え工事の続いていた弥生時代の住居一棟が修復をおえて、遺跡にしては真新しい姿で立っています。少し恥ずかしいそうでもあります。

  喜瀬川沿いの桜の蕾 [2019.3.23撮影、以下同じ]

  大中遺跡公園内 ツバキの花

  同上 落下したツバキの花

  同上 葺き替えの完了した弥生時代の復元住居

 

 前述の退職する方を囲む会の前に、ハンター坂を上がり、ギャラリー島田へ足を運びました。

 石井一男さんと未知のアリョーシャ(アレクセイ・クリビン)という画家の共同展をみておきたかったのです。二人の画家の作品がそれぞれ17点ずつ、計34点が展示されていて、おおよそ二人の作品が1点ずつ交互に横並びになっています。アリョーシャ作品は石井さんの作品より少しだけ大きいくらいで、並んでいても違和感がありません。

 まず、こんな石井一男さんの絵をみたことがない、こんな石井作品もいいものだなあ、というのが私の最初の印象でした。「こんな」というのは、絵のテーマ、モチーフのことです。石井さんといえば「女神像」ですが、同ギャラリーで毎年開かれている個展を少なくとも4年続けてみていると、そのなかで新たなモチーフを手探りされているような印象を受けていました。でも、今回はそれが意識的に展開されていると感じられたのです。

 もとより、石井作品のテクスチャというのか、画家としての個性の表現において「不連続」だといっているわけではありません。でも、今回、アリョーシャさんの作品をみてから描いた、その作品に心を動かされて描いたと想像される石井さんの絵からは、明らかな「変化」が感じられてドキドキしたのです。それはある意味でアリョーシャさんという他者の作品が媒介することによって、石井一男さんはその声に応答するように描いたのではないか、だから普段みせることのない姿があらわれたのではないか、というような憶測もしたくなったのでした。

 🔹ギャラリー島田HP 作家紹介「石井一男」

 

 こんな私の印象など、ギャラリー島田の島田誠さんや、媒介役となった片山ふえさんという方が書かれた文章を事前に読んでいたことがそうさせたのではないか、と問われたら全否定することはできません。確かにそうした面はありますが、それが全てだと言ってしまいたくもありません。

 お二人の文章から、今回に至ったいきさつを想定するとこうなります。

 ロシア文学翻訳家である片山ふえさんが、来日中のアリョーシャの父で高名な画家であるガガ・コヴェンチュークを自宅に招いたとき、食堂にかかっている石井一男の「女神」に、ロシアのペテルブルクの画家ガガさんは強く惹かれます。石井の絵に息子であるアリョーシャに相通ずるものを発見し、石井さんとの面会を強く望みました。そして、片山さんはその実現を島田さんに依頼し、ギャラリー島田で、巨体の持ち主であるガガさんは石井さんと会う機会を得たのだそうです。2007年のことです。そのとき今は亡きガガさんの持参したアリョーシャの絵を、石井さんは「食い入るようにじーっと見つめ」ていたとあります。

 それから10年余、昨年、島田さんは、片山さんから届いたアリョーシャの作品データに感銘を覚え、「このロシアの孤独を抱えた作品を紹介できないか」と思い立ったのです。そして、単なる展覧会ではなく、「そこから生まれ、動き出すものが欲しい」と願い、「石井さんに話をし、アリョーシャの作品を見てもらった」ことから、今回の展覧会に至ったというわけです。

 こうしたいきさつは、下記に貼付しているギャラリー島田のHP、メルマガでお読みいただければいいのですが、島田さんの次の文章を引用させてもらいたいのです。

 「 いつも「なかなか描けない」という石井さんが持ってきた作品群はいま

  までにない世界があった。魂が響き合うとはこういうことなのだと私の魂

  もまた揺さぶられた。ここに多くは語らないが、不思議な縁が形をなして

  きた。

   こんなことが起こるとは!」 

 直近のメルマガ(2019.3.24)には、こうあります。

 「 石井一男の魂がアリョーシャの魂とふれあい、命の泉を覗き込んだよう

  な瑞々しさと力強く燃える激しさを秘めた世界へと拓いた。

   出会うべくして出会った。運命的なものを感じます。」

 🔹ギャラリー島田HP「アリョーシャと石井一男 3/16〜27」

 🔹同上スタッフブログ「3/16スタート 1FTrois アリョーシャと石井一男」

 🔹ギャラリー島田メルマガ 「1467号 3月15日」

 🔹同上          「1468号 3月24日」

 

 今は、とても残念な、とても情けない思いにとらわれています。それはちょうど石井一男さんが二人を媒介することになった片山ふえさんとともに、在廊されていたのに、きちんと尋ねることもできないままであったことです。

 何を訊きたかったのか、石井さんには「今回の経験はいかがでしたか」「アリョーシャの絵をどう受けとめられましたか」「アリョーシャの作品を見てから描いた作品もあるとのことですが、どのような手順で創作されましたか」「こうして生まれた作品ですが、これまでの作品との関係、違いというものをどう思っていますか」「今後の創作活動に何かもたらすことになると思われますか」など、尋ねておきたかったという思いが残ったということです。

 私が訊けたのは、「これまでにあまり描かれたことのない絵ですね」ということだけで、石井さんは「そうですね」と静かに微笑みを返されました。

 

 加えて、アリョーシャさんのことを、もっと片山さんに訊いておくべきでした。そして、石井さんの作品に気取られて、アリョーシャさんの絵をきちんとみることもできないで、ギャラリーから離れてしまったのです。

 ギャラリー島田のインフォメーションに寄せた片山さんの「不思議が紡ぐ不思議」のなかに、次の文章があります。

 「 アリョーシャは早くからその実力が認められ、若くしてロシア芸術家同

  盟に迎えられた画家だ。だが、内省的で、社会の矛盾を鋭く感じて煩悶す

  る彼は、創作においても不器用なほど誠実で、すべての作品に全霊を傾け

  るからなかなか仕上がらない。一方(父の)ガガさんはは速描きの洒脱な絵

  でパリで成功をおさめた「生き上手」。彼は息子の才能を認めながらも、

  その不器用さが心配でならないようだった。」

 今の私の脳裏にあるアリョーシャの絵は、並んでいた石井の絵に注目した関係で、それに照応したペテルブルクの建物を描いた作品です。暗い、冷たい、さびしいという感覚が先にきますが、それでもこうした絵を描かずにおれない画家の心に打たれます。それは一篇の詩といってもよく、「美」というしかありません。

 

 こんな二人の作品は写真で紹介することなど不能ですが、語彙の足りない私としては、やはり写真をアップしておくことにしたいのです。絵のうえのアクリル板、そして照明と外部からの光の関係で、まともに撮影できない状態の写真ですが、雰囲気を想像していただければとありがたいのです。

 私が最初に反応した石井さんの絵は、タイトルが「赤い壁」です。赤い壁には黒の亀裂が走り、真ん中で分かたれており、その前に小さく棒のようなひとりの人間が立っています。かつてギャラリー島田の前身である海文堂ギャラリーでよくみたアントニ・タピエス、アントニ・クラーベ、そしてルフィーノ・タマヨの版画作品にあったと記憶する壁のような画面を思い浮かべました。壁だったどうかわからないままでしたが、彼らの凹凸のあるテクスチャを、勝手にこの世界の本質を映す壁のようだと思い込んでいたのです。

 この横にあったアリョーシャの絵は「家のたたずまい」とタイトルされています。直接の関係は分からないけれど、うんうんとうなったのです。

  左が石井一男の作品 右がアリョーシャの作品  [2019.3.22撮影 ギャラリー島田]

  アリョーシャ(アレクセイ・クリビン)「家のたたずまい

  石井一男「赤い壁

 次は、今回の展覧会のポストカードになっている2点です。「冬の夜」の建物群を描いたアリョーシャ作品に対し、石井さんの絵は何かの巣らしきもののスケルトンというか、建物、家の内部が描かれていて面白いですし、一つ一つの部屋にポッとあかりがと灯っています。

  ポストカード 左がアリョーシャの作品 右が石井一男の作品

  アリョーシャ「冬の夜

  石井一男「

 最後は、アリョーシャの「市電の停留所」に対し、その画面の男が帰っていく先でしょうか、石井さんの絵は家の内部からもれてくる光が印象的でタイトルも「あかり」です。

 こうして二人の作品を言葉にしようとしていると、石井さんの絵はアリョーシャの絵に対するアンサーソング、それも共鳴、共振と同時に、ひそやかな光へ向かう精神を励まそうとしている絵でもあると、そして石井さんが無言でおくるアリョーシャへの手紙のようでもあると、今、私には感じられてならないのです。

  アリョーシャ 「市電の停留所

  石井一男「あかり 

 これが島田さんのいう「魂が響き合う」ということなのでしょうか。ペテルブルクと神戸、とてつもない距離をこえて、二人の画家が、二人の絵が、「芸術のありよう」「芸術の力」を示した小さな空間が、そこに現出していました。センチメンタルでしょうか、「せつなさ」とともに、静かに明滅する「希望」のあかりを、私は贈られたのだと思いました。

 

 今日(3/26)は気温が上昇しそうです。

 あたたかった先日(3/18)、ペダルをこいで出かけた海辺で撮影した春の海と空を、アップしておきましょう。

 そして、春はめぐってきます。

  東播磨港内 加古川市立海洋文化センターの地先より [2019.3.18撮影]

  同じ方向に流れる煙突の煙と雲

  夕景のなかを阿閇港に戻ってきた漁船

 

2019.02.05 Tuesday

尽くすアートというものーエリック・ゼッタクイスト『オブジェクト・ポートレイト』展ー

 早くも2月になってしまったと、お決まりの一言が飛びだしてしまいます。前月の1月に静かだけれど強いインパクトを私に残した展覧会を紹介したいと思います。

 大阪市立東洋陶磁器美術館で開催中の『オブジェクト・ポートレート』展(2月11日まで)のことです。最近は展覧会のために大阪までわざわざ足を運ぶことなど想定できないのですが、第二の勤務先が伊丹空港内にあって、その4年の間に一緒に働いた仲間はほとんど大阪在住の方でその集まりが大阪の心斎橋であったからです。ちょっとその前にということで、阪急の中津駅で下車し、近くの「編集工房ノア」の所在を確認して(別稿で報告しますが、なんというか「ホントやっぱり」という感じでした)、阪急本線に沿って徒歩で南下、梅田の「阪急古書のまち」をのぞいてから、中之島にある東洋陶磁器美術館までやってきましたが、せいぜい5千歩ぐらいの距離です。

 大阪というまちと縁遠った私ですが、第二の勤めのおかげで還暦を過ぎてから、大阪の凄みを、といっても神戸に比べての意味で、歴史の堆積やスケール感など圧倒的な差異を楽しんでいます。限られた範囲にしろ、中之島公会堂、中之島図書館をランドマークとする中之島の景観は、堂島川と土佐堀川の豊かな水量にも支えられ、私にとって、ザ・大阪ということになります。

 

 今回の展覧会は、写真家のエリック・ゼッタクイスト(1962-)(以下「」と表記します)が、館内に常設展示されている東洋の陶磁器からインスピレーションをえて撮影した映像を、方法は不明なものの、何らかのデジタル処理した写真作品が企画展として展示されています。その展示の仕方は、被写体となった陶磁器とその写真作品を近接して並べた展示(仮に<近接展示>と呼びましょう)、そして写真作品と陶磁器が離れた位置にあって同時に見ることのできない展示(同じく<分離展示>)、こんな二つに大別できます。

 アメリカのオハイオ州生まれのは、現代美術家の杉本博司(1948-)のもとで1992年までの10年間働きながら「現代的な写真表現と東洋の古美術」を学んだとあります。現在はニューヨークを拠点に活動しており、今回のように「古陶磁器の肖像」とでもいうのでしょうか、そんな展覧会を2014年にフィラデルフィア美術館、2016年にバンコクの東南アジア陶磁美術館でも開いてきたとのことです。

 そんなは、2016年に東洋陶磁器美術館の所蔵品のなかから34点の陶磁器作品を選んで撮影し、ニューヨークに持ち帰って同年に制作した写真作品が今回展示されているわけです。同美術館の出川館長は「ごあいさつ」のなかで次のとおり「作品相互の関係性を提示する試み」と記しています。

 「 本展でこれらの作品は、被写体となった古陶磁とともに展示されます。

  つまりこの展覧会は、現代美術と古陶磁という、それぞれ独立して鑑賞で

  きる芸術作品を同時に展示することによって、そこに現れる作品相互の関

  係性を提示する試みでもあります。」

 私の印象はと問われたら、えーこれが写真なのか、版画ではないのか、まあいいか現代美術の作品なんだからで始まりました。で、全体を通して、とっても面白かった、何だか充実した気分に満たされた展覧会だったという感想になります。どこが面白かったのかは、以下の何箇所かで書くことになりますが、前記の「作品相互の関係性」にポイントがあるのでしょう。

 そして、とりわけ、が本人の書いた文章において、こうした作品群を「尽くすアート」と呼んでいることにとても魅かれ、とにかくその文章を引用しておきたくなったのです。ですから、今回の紹介は、の文章を形としてとどめたい、読んでいただけたらというのが、何よりも優先しています。

 なお、こうしてブログで映像を見せることができるのも、この美術館ではマイカメラでシャッターを押すことができるからなのです。この記事の写真はいずれも、2019年1月24日に私が撮影したものです。

  大阪市立東洋陶磁器美術館の外観と巨大バナー [以下は全て2019.1.24に撮影]

  エントランス 上側の2作品はエリック・ゼッタクイストの写真作品(最後に再登場します)

  チラシ 表 このチラシに掲載のオブジェクト・ポートレートが以下で何点か登場します

  チラシ 裏  被写体の陶磁器と写真作品が横並べに掲載されています

 

 まずは、Zの長い文章を読んでいただく前に、2作品だけを、見ておいていただくことから始めましょう。

 最初は私が勝手に名付けた<近接展示>の例で、美術館外壁の巨大バナーやポスターにも使われている「青磁劃花葉文 八角水注(せいじ かっか ようもん はっかくすいちゅう)」で、北宋の11世紀頃の古陶磁です。左下がいわば本物で、右上がこれを基に制作されたZの写真作品です。一見するだけでは両作品の関係性が難しいですが、近接の利点を生かして双方をしばらく眺めているとやっと分かりました。どうしてはこの部分のこの形に目を付けたのでしょうか。この作品に寄せたによるキャプションを引用します。

 「 唐時代に外国から影響を受けた唐草装飾は、宋時代初期に禅からの影響

  を受け、よりシンプルになった。この美しい青磁水注に見られる、蓋を

  もった頸部と注ぎ口の間にみられる空間の、単純に幾何学的な形状は、こ

  の新たな美意識を証明している。同時にそれは私たちのモダンな感性にも

  訴えかけてくる。」

 はこの部分のこの形に「新たなる美意識」と「モダンな感性」の交差を発見して創造したことになります。

  青磁劃花葉文八角水注 宋代・11世紀/右上がの2016年インクジェットプリント作品

 続いて、もう一つの<分離展示>の例です。2階のラウンジに展示された大きな写真作品であり、かつ被写体の陶磁器は最小といっていい「白磁 角杯(はくじ かくはい)」です。この作品の関係性は、形状が外部の輪郭線と同じで、その全体の形体を平面にしており、わかりやすいものでした。ただし、の作品は二本の線で3分割されていて、陶磁器の展示と左右が逆になっています。陶磁器は写真作品が展示されたラウンジと別室にありますが、の作品を頭に入れて、被写体の陶磁器を探すのは宝探しみたいで面白いものでした。

 この作品はまだ分かりやすいものですが、後で紹介するものなどなかなか関係性が理解できないものもあります。このことは<近接展示>の場合でも生じるので一概に言えないものの、やはり<近接展示>と<分離展示>という展示の仕方も影響しているのではないかと考えてみたいのです。

 そして、付け加えておくとすれば、の「尽くすアート」と関連しますが、その写真作品に固有の作品名はないということにも注目しておきましょう。

  白磁 角杯 エリック・ゼッタクイストの写真作品 横幅は2m近くあります

  白磁 角杯  朝鮮時代・15世紀 

  ㊟<分離展示>の場合は写真と陶磁器を横並びで比べることができないことをお断りします。

 

 こうしたZの写真作品について、「えー」とか、「ふむふむそうか」というような感想をもっていただけたでしょうか。

 ここで、展示室に掲出されていたの作品を紹介する二つの言葉を写しておきます。美術館の担当者の手になるものでしょうが、私からはこのような言葉が出てこないなあというしかありません。展覧会を観た者としては、全面的ではないけれど、一定の説得的な表現だと受けとめることのできる内容をもっています。

 「     細やかな装飾と立体感を取り払い、

  スケールの大きな、「絵画的な」エッジの平坦なイメージを

                           つくることで、

          彼はさらに深く

      これらの形体のポートレートを単純化し、

           抽象化する。                」 

 「     器の一部分を拡大することによって、

    いかに力強い表現となることか、驚くべきことである。

        距離感を変えてより近づくならば、

          それは抽象化され、

         文字通りの主体は失われて、

       すべての色が相殺された黒い色面に、

     滲んだようなぎざぎさとした線で縁取られて、

        色彩のない空白へと姿を変える。

    このとき陶磁器の主体は取るに足らないものとなり、

        抽象芸術が観るものを包み込む。           」

 この文章から、当たり前かもしれないが、Zの創造行為は「単純化」「抽象化」が基本となっているということです。そのために「細やかな装飾と立体感を取り払」ったり、「器の一部分を拡大」したりすることによって、「スケールの大きい、「絵画的な」エッジの平坦なイメージ」を制作しているのです。そのことによって、古陶磁という形体のポートレートは抽象芸術に高められ、古い器とその抽象平面がお互いにインスピレーションを与えあっているように感じられるのです。

 

 そんなオブジェクト・ポートレートは、どうして「尽くすアート」なのか、の言葉に耳を傾けることにします。この記事を書く原動力となった文章は、展覧会場に「なぜ尽くすアートを制作するのか」と題して「エリック・ゼッタクイスト」の名で掲示されています。

 この文章で、は、アートには「喜ばせるアート」「売るアート」「叫ぶアート」そして「尽くすアート」と多様にあるけれど、私は「尽くすアート」を選んだと宣言しています。そのこころとは、「他の芸術に仕え、鑑賞者に教え伝え、彼らが相互に作用し、かつ体験を共有できる場を実現させよう」とするのが、「私のアートだからだ」と語っています。

 そして、のモチベーションは「伝道」という言葉に近いとし、私と「喜びを共有し、私の持つまなざしへと鑑賞者を転向させたいという欲求から生まれる」というのです。さらに文章は続きますが、後回しにして、私の理解を深めるためにも、の文章を全文、書き写します。

 「    なぜ尽くすアートを制作するのか

                        エリック・ゼッタクイスト

   

   数え切れないほど多様なアートが存在する。喜ばせるアート、売るアー

  ト、叫ぶアート、そして尽くすアートなどである。すべてはそれらの置か

  れた時と場所との関連性を追い求める。

   喜ばせるためのアートは、決して時代遅れにならない。なぜなら人はい

  つも、彼らを人たらしめているものを思い出す必要があるからだ。美、

  愛、欲望、そして平穏な気持ち、すべてはこの広大なカテゴリーに含まれ

  る。

   売るアートは、常にアーティストにとっての動機付けであり、かつ売る

  ことを目的としたアートが、アートそのものに変貌する。

   叫びは、基本的な人間感情を発散させる行為である。そうであれば、そ

  の感情をアートに流し込み表現するのは当然であろう。どの世代にも、

  れには独自の理由があり、我々も例外ではない。

   それでは、高貴なものも卑しいものも一様に、様々なインスピレーショ

  ンがあるなかで、なぜ私は尽くすアートを選んだのか? 私のアートは、

  他の芸術に仕え、鑑賞者に教え伝え、彼らが相互に作用し、かつ体験を共

  有できる場を実現させようとするものである。

   私は自らの衝動を一言で実現しようと試みてきた。残念なことに、それ

  は多くの知識人の心に恐怖を感じさせる言葉である。「伝道」というのが

  それだ。当然のことながら、宗教的な話をしているのではないが、私の伝

  道活動はそれと似たモチベーションに基づいている。それは喜びを共有

  し、私の持つまなざしへと鑑賞者を転向させたいという欲求から生まれる

  のである。

   さらに言えば鑑賞者には、今日の世界における自分の居場所のみなら

  ず、時代を超えて広がる人類の一連の繋がりのなかで、自分がどこに位置

  づけられるのか、自分の目で確かめてほしい。私は、今日容易に理解され

  るようになった抽象表現を用いて、私が昔から主題としてきた造形によっ

  て表現されている、古代の美の理想を伝えるーいわば鑑賞者たちの「目を

  騙して」理解してもらうのである。その際、人類の共通性について目を向

  けてほしい。何千年もかけて我々の祖先が生み出した同一の物に、同じ美

  しさを認める時、私たちはもはや互いに争うことなどできなくなってしま

  う。はるかに大きな世界や時間枠において、私たちは兄弟姉妹なのだ。も

  し、ほんのわずかな数の人であっても、一歩下がってこれを考えてもらう

  ことができれば、私のアートは役に立ったことになる。

   だから、現代の問題を声高に叫ぶのでもなく、目先の利益を追うのでは

  なく、私のアートには、美しく、今日的な意義のあるものであってほし

  い。我々の世代のみならず、未来においても同様に。人間はいつも過去と

  結ばれている必要があり、その関連性を永遠に追及することこそ、私が尽

  くすアートを制作する所以なのである。」

 「さらに言えば」以降の文章を、どこまで理解できているのか心もたないところもありますが、Zは古美術という造形を、自分のまなざしを通した「抽象表現」によって、鑑賞者の「目を騙して」、古代の美の理想を理解してもらおうというのです。このことによって、時と場所をこえて共通する「同じ美しさを認める時」、「人類の共通性」を目を向けさせることとなり、「はるかに大きな世界や時間枠において、私たちは兄弟姉妹」であると感得させることができるのだ、これが「尽くすアート」なんだといいたいのでしょう。そして、作品名を新たに付けずに、被写体となった古陶磁の作品名で共有しているのは、の「尽くすアート」という姿勢の現れでもあります。

 にとって、「私が尽くすアートを制作する所以」とは、「人間はいつも過去と結ばれている必要があり、その関連性を永遠に追及する」一つの方法であり、そこに「尽くすアート」の、そして芸術家としての存在理由をみているのです。この文章はの志の高さが印象的なメッセージというべきでしょう。

 私はと言えば、今回の展示を通じて、の写真作品が彼のまなざしの様々なバリエーションによって、被写体となった古陶磁と「美」において共振していると感じたのは事実です。いわば具体の造形と平面の抽象表現が、呼びかけ合っている、さらに言えば対話しているようでもあると感じられたのです。

 鑑賞者である私の視線は、の抽象表現から古陶磁へ向かい、もっと深く見ようとし、逆に古陶磁を見た視線をZの作品へ反転させるような行為を伴っていました。それは私に新たな視線を与えたようであり、つまり古陶磁の見方が揺さぶられたのであり、そこが面白かったり、意外であったり、不思議であったりしました。

 のいう「私たちはもはや互いに争うことなどできなくなってしまう」とまで感じたわけではありませんが、少なくとも、過去と現代、東洋と西洋という時と場所の間に分断線を引くということではなく、ある豊かなセッション、コラボレーションのありようを発見したと申し上げることは、私の印象から遠くはない表現だと思っています。

 以下において、<近接展示>と<分離展示>の事例を、あまり説明を加えず、数例ずつ上げておくことにします。

 

🔹<近接展示>事例

◍「青磁印花 蓮池水禽文 方形香炉」高麗時代・12-13世紀

  真上から見た形をゆらぎをもった輪郭線によって黒の平面として取り出しています 

 

◍「白磁印花 花喰鳥文 盤」金時代・12-13世紀

  裏側を斜め上から見て対比的な2本の曲線を、それも一部分だけを取り出しています

 

◍「三彩貼花 宝相華文 水注」唐時代・7-8世紀

  古陶磁をみる視力が弱いからか作品相互の関係性がよくわからないままでした

 

◍「紫紅釉 盆」明時代・15世紀

  貫入のひびわれた線を表現しています 以下は展示のキャプションです

「 「走泥文」は、焼成後に冷却される過程で形成される貫入の一種で、釣窯

 の特徴とされる。走泥文は作品ごとに異なり、本作では斜め前から見たかの

 ようである。」

 

◍「織部 切落四方手鉢」桃山時代・17世紀 

  把手の一部分をぐっと拡大したものです 私には鳥の嘴のように見えました

 

◍「白磁 壺」朝鮮時代・18世紀

  白い壺をグーンと縮小して右上にポツンをおいています 以下は展示のキャプションです

「 こうした大きな白磁の球体の壺は、満月に似ていることから「ムーン・

 ジャー」と呼ばれている。皮肉にもこの大きな壺を縮小し、広く黒い画面に

 配することで、闇夜に月が高く昇ってゆく様子を目にすることができる。」

 

◍「月白釉 碗」金時代・12-13世紀

  真横正面から残る上下の2本の微妙にゆらぐ線だけを白線として取り出しています

  ㊟上記の2作品には撮影する私が映りこんでしまっていますが、本当は真っ黒です

 

◍「須恵器 長頸瓶」奈良時代・7世紀末:右

 「緑釉 手付瓶」平安時代・10世紀:左

  右は瓶の輪郭を白色で半分だけ、左は瓶の把手の形状を黒色で、優雅な線を抽出しています

 

🔹<分離展示>事例

 以下は、<分離展示>の事例で、ここでは下の方に被写体となった古陶磁を、上の方にの写真作品というように、上下に並べています。鑑賞者にとっては、作品の相互関係性が<近接展示>に比べると同時に見れないことに伴う分かりにくさがあります。逆に、の作品を古陶磁を介在させずに独立したものとして見ることができる利点もありますが、の本意はそこではないのでしょう。

 

◍「青磁 八角瓶」南総時代・12-13世紀

  下の古陶磁から形体に近いリアルな線と瓶の表面の不規則な線を取り出しています

  山水画のスタイルのように見えます

  中国陶器のなかでも「古典」として位置づけられているのだそうです

 

◍「青磁象嵌 菊牡丹文 鶴頸瓶」高麗時代・12-13世紀

  ロビーにあったの作品から、被写体の古陶磁を探すことは結構難しかったです

  美しい文様が施されていますが、は外形の半分を白色でシンプルに取り出しています

 

◍「青磁 水仙盆」宋時代・11世紀末

  えー、これが水仙盆かと思いました 上から見た口の輪郭線をだいぶデフォルメさせています

  このレベルで残る5客のうちの1客であり、東洋陶磁器美術館の大切なお宝です

 

◍「青白磁 瓜型水注」不明     :右

 「白磁鉄地 壺」朝鮮時代・18世紀:左

  エントランスの上部に展示された2作品です

  「青白磁 瓜型水注」 注ぎ口を優美な形として取り出しています 

   以下は展示のキャプションです

「 「エレガンス」とは、宋時代の様式を最も特徴づける言葉である。この繊

 細なつくりの青白磁の水注は、豊かな弧を描くボディを持ち、そこから把手

 と頸、そして注ぎ口が優美に伸びる。また、内容物が冷めないようにするた

 めの承盤に、まっすぐに収まるよう考えられている。注ぎ口はとても洗練さ

 れており、輪郭を撮影すると、穏やかに水辺を舞う白鳥が現れる。」

  「白磁鉄地 壺」 全体の形体から左右を大胆にカットされています

  以下は展示のキャプションです

「 「古代のモダニズム」の好例となる本作は、大胆にももはやグラフィック

 アートである。作品の中心を切り取る描写によって、線は表面の局面を表す

 可変的な方法で湾曲する。これにより、私たちの心の眼が作品の全体像を満

 たすように導くのである。」

 ㊟このキャプションだけですが、私には分かりにくいものでした 

 

🔹おわりに

 先月に『オブジェクト・ポートレート』展をみて、これは面白いからと書いておくことにしました。私としては、の「なぜ尽くすアートを制作するのか」という文章を紹介したい、ブログに残しておきたいということでした。

 でも、今、「尽くすアート」をわかりやすく定義せよと問われたら、あまり自信をもって答えることができそうもありません。現代の美術家が、過去の美術(「美術」とカテゴライズされなくても何らかの「美」を見出した対象物)からインスピレーションを得て、自分の作品に反映させることは、よくあることなのでしょう。それこそ過去から営々と続いてきた営みであり、自分の美へ近づく普遍的な方法でもあります。もちろん、これらの全てが「尽くすアート」ではありません。の言う「尽くすアート」とは、もとの「美術」と不即不離の関係にある、いわば寄り添う関係にある「アート」を創造することではないかと、私は思っています。

 もとよりの今回の展示作品は、独立したアート作品として、十分に観賞にたえるものでしょう。でも、その場合、私は、ちょっとかっこいい現代の版画作品(写真作品ではなく)としてみるだけのことでしょう。私が「とても面白い」と感じたのは、もとの作品との作品が同じ空間に存在するというなかで、「作品相互の関係性」を通してそう感じられたのだと考えています。だから、の「尽くすアート」は、今回のような展示方法によって、その本来の姿を現すことができるのですし、Zが託そうとする機能を発揮することもできるのだということです。

 過去と現在、東洋と西洋、立体と平面、具象と抽象、こうした対比的な条件をつなぐものが、あるいは差異をこえるものが、「尽くすアート」とが呼びたいものなのかもしれません。本文でも記したとおり、こうした制作の行為は、対話的でないと成立しないのです。のまなざしによって制作されたポートレート作品は、過去の古陶磁との対話からしか始まらないわけですし、それが「尽くすアート」であるためには、対話が成立していなければならないわけです。「対話が成立する」とは、媒介者としての鑑賞者も加わり、一方向ではなく、双方向だということです。の文章中にある「過去と結ばれている」ことが実感できること、つまり「大きな世界や時間枠」において「同じ美しさを認める」ことに導かれる状態をいうのでしょう。

 古陶磁との作品が相互の関係性において、古陶磁への見方が更新され、古陶磁のリクリエーションにもつながってゆくことが、の「尽くすアート」のもつ究極の力というべきかもしれません。

 

 杉本博司のもとで10年間働いたとあります。下の写真は、杉本の「海景」シリーズのポスターの一部を撮影したものです。杉本は世界各地の海を水平線の高さを統一して撮影した作品をシリーズ化してきましたが、「海は結局1つであることを思い出させてくれ、ここが生命の原点であるというメッセージを与えてくれる」と評されています。ウィキには、その制作姿勢を「一貫して個人の存在を超えた時間の積み重なりや流れをとらえるためのコンセプトや方法を模索している」と描かれています。

 こじつけかもしれませんが、私はにも同じ制作姿勢を感じるのです。は「大きな世界や時間枠」において美の共通性を感得させるための「コンセプトや方法を模索」していると思うのです。それがの「尽くすアート」という「コンセプト」であり「方法」だと申し上げていいのでしょう。

  杉本博司「海景シリーズ」のポスターから

 

 最後になりますが、東洋陶磁器美術館のロビーには、私の好きなルーシー・リーの陶器が常設展示されています。エリック・ゼッタクイストが、今回対象とした古陶磁と同じように、ルーシー・リーの陶器に向き合い、作品化しようとするなら、どんな「尽くすアート」が創造されるのかと思うと、まだまだ興味は尽きません。

 今後ともエリック・ゼッタクイストの「尽くすアート」というコンセプトと方法の行方に注目していきたいと思っています。

  ルーシー・リー 作品名は不明 東洋陶磁器美術館ロビー

2018.12.09 Sunday

「おもしろい」の抽出ー『図書』の効用ー

 「ヴォイス オブ コーヒー」という店名の由来をご主人に確認できました(前号「11月の過ごし方ー上から数えた方がー」)。

 「お客様に、コーヒーの発するいい香りや深い味という声を聴いてもらいたい、楽しんでもらいたい、ということなんです」という答えが返ってきました。ご主人の方がコーヒーの声を聴くように仕事することなのかと思ったのだがとさらに問うと、「それは前提で、私がそのようなつもりで仕事をし、お客様もそう楽しんでもらいたいというのが趣旨なんです」とのことでした。

 当たり前といえば当たり前ですが、「ヴォイス オブ コーヒー」、店主の思いのこもった、とても真っ当な<店名>です。

  「ヴォイス オブ コーヒー」の看板 [2018.11.3撮影]

 

 このように名づけられた言葉の面白さ、いわば言葉の豊かさ(この場合は「漢字で書き表される植物名」ですが)に関する連載が、『図書』の11月号から始まりました。辞書編集者だという円満字二郎さん(明らかにペンネームだと分かりますが)が、<漢字の植物園in広辞苑>を連載タイトルとし、『広辞苑第七版』の植物項目を題材に、「植物と漢字について書き連ねてみようという次第」であるとしています。

 第1回の11月号は「11月、紅葉に深まりゆく秋」とのテーマで5項目を取りあげていますが、そのうち「05 サザンカだけが特別か?」を紹介してみましょう。「サザンカ」は漢字で「山茶花」と書くのに、どうして「サンサカ」ではなく、「サザンカ」なのかをめぐっての話です。『広辞苑』には「字音サンサクヮの転」と書かれていて、言語学では「音位転換」と呼ぶのだそうです。つまり「エレベーター」を「エベレーター」と言ってしまうのと同じように、「サンサカ(あるいはサンザカ)」を「サザンカ」と言い間違えたのが定着したものと説明されているようです。

 これで終わらないのが、円満字(まさか「円満」という名字ではないと思うのですが)の面白いところで、「サンサカ(サンザカ)」はそんなに言い間違えやすい言葉なのか、それなら「サンザシ(山査子)」も「サザシン」になってもおかしくないと、疑問(いちゃもん)を呈しています。

 私など、サザンカとツバキの区別がつくようになったのはごく最近のことです。といっても咲く時期が違っているためであり、同時に二つの赤い花が並んで咲いているようなことが起きたら(ふつうありえませんが)、区別できそうにもないぐらいのレベルなのです。「山茶花」と「サザンカ」の関係、そこに「音位転換」という存在を感じたことはこれまでに一度もなかったので、興味深く読みました。

  サザンカ(大中遺跡公園) [2018.12.5撮影]

 続く12月号「12月、寒さの中の楽しみ」も5項目で、その中から「08 ソヨゴは常緑樹の代表?」を取り上げてみましょう。植物名の漢字には「いくら考えてもその由来がはっきりしないものがよくある」とする円満字が「私のお気に入り」というのが「ソヨゴ」です。漢字での書き表し方は「冬青」だそうで、「まるで常緑樹の代表選手のような、立派な名前」です。

 でも、モチノキ科の常緑小高木で「正直、それほどメジャーではない」ソヨゴが、なぜそうなのか。円満字は「漢字の神様は、「松」「杉」「樫」などなど、メジャーな植物には、漢字一文字で書き表される名前を与え」たとしたうえで、次のことを考えたと書いています。

 「 ソヨゴは、残念ながらその選にはもれました。だからこそ、「冬青」と

  いう立派な二文字名をゲットできた。残りものには福があるって、本当な

  んですね!」

 ウム、ちょっとこれはホントかなと、私は思ってしまいますが、いかがでしょうか。たとえば「オモト」は三文字の「万年青」で書き表していますが、これはどう考えますかと、円満字に尋ねてみたくなります。

 きっと見ているはずのソヨゴがどんな木なのか、私には判別がつきません。下の写真は、似ているのかと思って撮影した同じモチノキ科で、ソヨゴと同じ時期に赤い実をつけている「クロガネモチ」です(さらに熟するとソヨゴと同じく実が黒くなるようです)。

  クロガネモチ(播磨町役場に隣接する小公園)  [2018.12.5撮影]

 

 始まるものがあれば、終わるものもあります。『図書』12月号で、1年半続いた齋藤亜矢さんの連載<ルビンのツボ>が最終回を迎えました。

 この方のエッセーに刺激を受けた私は、当ブログ(「ことのほか寒い冬ですがーカモのスピンに驚いてー」)で言及し、文章の末尾に聞きなれない<芸術認知科学>という学問領域を付する齋藤を、「まあ一人の書き手が誕生したといえるのかもしれません」などと、さもエラそうに評したりしたのです。

 私が紹介したのは、齋藤の「自然の美、人工の美」(『図書』2018年1月号)で、「自然を美しいと感じるのはなぜか。自然の美に感動することと、人工の美、つまりアートに感動することは違うだろうか」という問いに言葉を与えようとしています。その結論的な理解を、私は次のように書きました。

 「 齋藤は最初の問いに対し、「自然の美」を人知を超えたものとしてとら

  え、「自然の美と、人工の美であるアートに感動する」こととの切り離せ

  ない関係、つまりアートは自然の模倣というより自然からの抽出であると

  いう点を強調しているように読みました。私の理解の不十分さを意識して

  いますが、最後の「……その起源はとても近いところにある」という結語

  には強い説得力を感じたのです。」

 今、改めて読み返すと、ごく近々に接した伊津野雄二の彫刻や言葉との親近性に気づくことになりました(「いい午後でしたー伊津野雄二と松村光秀の彫刻ー(1)(2)」)。伊津野は、先史時代の造形や文様を、厳しい自然への畏怖と生への希求の形象化であると考えている人であり、「自然の美しさは、自分のちっぽけさを感じることと隣り合わせのような感じがする」と書く齋藤の自然とアートの関係論と通じ合うものです。

 そして、新潟絵屋の大倉宏さんが、伊津野の自然との交換関係を重視し、伊津野の女性像について「山里で暮らす日々に、伊津野が接し、交換してきた具体的な自然のイメージでもあるのだ」と感じると書いているのを、前記のブログで紹介しました。このような伊津野の彫刻は、齋藤の「アートは自然の模倣というより自然からの抽出である」との考え方と、<とても近いところにある>のではないかと、私は考えています。

 したがって、伊津野彫刻の<交換してきた具体的な自然なイメージ>とは、齋藤のいう<自然から抽出>された何かに他ならないと理解したいと思っています。

 

 さて、齋藤が『図書』に連載してきた<ルビンのツボ>、過去5回分のテーマは「仮想と現実」「二次元と三次元」「要、不要」「単純と複雑」そして最終回は「主観と客観」です。京都造形芸術大学の齋藤准教授にかかる「教員紹介欄」には、専門分野をやはり「芸術認知科学」とし、プロフィールに<認知科学から芸術にアプローチし、芸術を生み出す心の基盤を明らかにすることで「人間とは何か」の理解をめざす>と記されています。

 この研究は「見る」という行為への特別な関心を抜きに成り立たたないものと思いますが、齋藤はそのルーツを<ルビンのツボ>で、生まれつき右目が弱視で、高校一年生のときに網膜剥離にかかり、完全に光を失ったという自分の体験に帰しています。だから、「幼いころからの「見る」ことへの興味が、現在の研究テーマの原点なのかもしれない」と振りかえっているのです。とにかく赤ん坊だった頃から病院で眼の検査と治療を続けてきたこともあって、「見る」ことに鋭敏になり、強く意識してこざるをえなかったのだと思います。

 過去5回の連載のうち、11月号の「単純と複雑」にフォーカスし、齋藤の<自然からの抽出>論を、もう少し紹介してみることにします。

 日本モンキーセンターの公益財団化に際してロゴマーク(《HP》参照)の作成に携わった経験から、齋藤はそのプロセスを通し、「自然からの抽出のむずかしさとおもしろさ」を感じることができたとしています。で、このような機能を重視するデザインでなく、アートであれば、「むしろいかにステレオタイプではないものを抽出するかが」肝心なのではないか、そしてふだんの「見る」が意味処理しようとするものであるのに対し、「アートのツボは、わたしたちに「見る」をさせないことにある」のではないかと、齋藤は理解したのです。そのうえで、次のとおり「見る」ではなく「視る」「観る」を用いて、アート体験を言葉にしています。

 「 作品に表現されたモノは、既存のスキーマから外れていたり、「何か」

  であること自体を拒否したりする。そのときわたしたちは「何か」として

  「見る」のをあきらめて、そのモノ本来の形や色や質感をそのままじっく

  り「視る」。そうして作品と向きあううちに、埋もれていた記憶が掘り起

  こされたり、思いがけない連想につながって自分なりの意味が見いだされ

  たりする。それが「観る」という主観的な体験ではないかと考えてい

  る。」

 このアート体験観は抽象表現主義や現代アートの作品を多分に意識したものですが、齋藤は晩年の熊谷守一の単純な線や形で描かれた「ネコ、アリ、石ころ、雨粒」などの作品に、そんな「意味ではない部分、それも自然からぎゅっと凝縮されエッセンスが抽出されている」と感じると書いています。「一見単純に見える形や色に表現されているのは、むしろ自然の多様さや複雑さの方」であり、「とことん「視る」ことではじめて見える世界を、作品をとおして垣間みせてくれる」と、高く評価しているのです。

 そして、この小エッセーの結語として次の一文を綴っています。

 「 意味の外にあるおもしろいものを抽出できるように、複雑な自然を複雑

  なまま「視る」目を養っておきたい。」

 これは人間の認知の実態(認知科学による<知>)を踏まえた齋藤の芸術観が背景にあるのでしょう。人は往々にして必要なものだけに注意を向ける「選択的注意」によって暮らしていますが(そうでなければ生活しにくい)、一方で不要な情報にこそ「おもしろい」と感じるものがあるというのも事実でしょう。つまり人間は偏った世界しか見ていない、見えていないのであるが、齋藤は「こんな見えていないものやゆがんでとらえているものがたくさんあるからこそ、芸術が生まれ、芸術を楽しむことができるのだと思う」と考えるのです。だから、アーティストとは「人に見えていない「おもしろい」を抽出して表現につなげる」人なんだというわけです。

 したがって、「アートとは自然からの抽出である」とする齋藤の基本認識は、「複雑な自然を複雑なまま「視る」」ことによって「意味の外にあるおもしろいもの」を抽出する」ことと翻訳することができるのでしょう。言葉のうえで浅薄な理解をしているだけのようで不全感が残りますが、人間の認知には偏り、限界があるからこそ、人間には芸術のようなもの、人知を超えた自然への畏怖を源流として抽出されたものが不可欠であるとの知見を、齋藤の一連の考察から送り届けられたものとして、私は受けとめたいと思っています。

 人間の認知が全てだとする思い上がり、「人間には偏った世界しか見えていない」ことを自覚しておくことが大切なのでしょう。それがまた「芸術」なるものを体験することとつながっています。

 

 今回も『図書』に依存してというか、刺激をもらってブログを書いてしまいました。この月刊というサイクルで届く岩波書店のPR誌は、たこつぼに入り込みがちな「私」を、新鮮な風でリフレッシュさせてくれます。そんなかっこいいものではないにせよ、インスピレーションの源でもあるのです。

 当ブログを始めた2015年11月に、『図書』が800号を数えたことを書いています(「『図書』800号」)。同号の「年間千円の愉しみ」という対談のなかで、このタイトルにちなんで、池澤夏樹が「家賃100円の書斎」と言い換えていることを紹介しました。ホントにそうだなあと思います。

 それから丸3年、特集号もあって、12月号で<840号>となっています。

 

 さて、最後に山田風太郎(1922-2001)の『あと千回の晩飯』にふれておくことにします。

 不用意にも、最近のブログ(「記念日の強がりー『思泳雑記』の三年ー」)で、三年にひっかけて、いかにも読んだように『あと千回の晩飯』という書名を使ってしまったのです。今回、20年以上前に刊行された同書を古本で手に入れて読んでみました

 当時も今も山田の晩年の刮目すべき死生観という評言が多くあるように思います。実際に読んでみると、それはそれでまちがいではありませんが、意外なところもあります。山田72歳、「病徴というより老徴」を意識し、「晩飯を食らうのもあと千回くらいなものだろう」との思いをテーマに、平成6年10月から『朝日新聞』朝刊にエッセーの連載が始まりました。だが半年で中断となり、またその半年後の平成7年10月から再開され、翌平成8年の10月まで続いています。合わせて1年半の掲載期間でした。

 この中断中に何が生じたのか。50年間病院に行ったこともなかったという山田は、急速な視力低下で致し方なく眼科を訪ねたところ、何の自覚もなかった糖尿病による眼底出血だと診断され、そのために入院治療を余儀なくされました。さらに追い打ちをかけるようにパーキンソン病も発見され、その治療のための薬で幻覚症状を起こし、大腿骨骨折に見舞われていたのです。

 再開後、山田は、タイトルの「あと千回の晩飯」に自縄自縛になって、「あと千回くらいしか晩飯が食えないのなら、その千回を事前にみずから予定したい」と思い立ったのです。「そんなものがあれば私も助かる」と奥様にもいわれ、数年前の六十代に短期間続けた<食事記録>にもとづき、具体化しようとしますが、挫折します。そのてんまつの核だと思う部分を、少し長くなりますが、書き写してみます。

 「 思いみれば6、7年前とは、歩行速度がちがう。身体の屈伸度がちがう。

  そして食い物の咀嚼力がちがう。従って味覚もちがってくるばすだ。

   六十代と七十代。

   若い眼で見れば、どちらも大した差のない老人に見えるだろうが、実際

  にその両方を体験してみれば格段のちがいがあることは、近来しみじみと

  痛感していることではないか。これも七十代にして知る初体験にちがいな

  い。

  「そもそも食い物を予定表によって食う、などということがまちがってる

  のかも知れん。こんなことはよそう」   」

 それはそうなのでしょう。

 『あと千回の晩飯』は、今年の流行語大賞「そだね」を連発できるエッセー集でした。これからも引用したくなることもあるでしょうから、今回はここまでにしておきましょう。

  

  山田風太郎著『あと千回の晩飯』 1997年4月刊/朝日新聞社

 
 

2018.11.25 Sunday

いい午後でしたー伊津野雄二と松村光秀の彫刻たちー(2・完)

 前号((1))が松村光秀展を紹介する途中で終わることになってしまいましたので、その続きから始めます。

🔹松村光秀展「寂滅為楽」《その2》

 松村の作品の根底にあるものは、何なのでしょうか。そこにふれなければなりません。

 今回のトークにおいても、島田は松村の生涯についてその言葉にできないような過酷な歩みを静かな口調で語りました。前記の「訃報 松村光秀先生逝く」のなかでは、ごく簡潔に「在日として、また両親の不和、母の自殺、幸福な家庭を築きながら火事で妻子4人を失うという悲劇に見舞われたことなど」と記しています。繰りかえすことになりますが、別のところ<メールマガジン2006.4.16>では「朝鮮からの渡来、貧困、家族離散、母の狂死、最愛の妻子の焼死、作品焼失など」とあります。まことに「安逸に過ごしてきた者」には立ち入ることはもちろん想像することさえはばかられます。

 そして、島田は、「その生い立ちが抱えたもの、経験が与えたものを人間として勇気をもって直面し、受容し、それを表現という行為に昇華してきた松村さんの姿は仰ぎ見る高峰に感じた」とし、ギャラリーHPの<ギャラリー島田の作家たち「松村光秀」>で、「その到達した境地はとてつもなく深」く、「そこを覗き込むように」作品を見ていると、そんな表現をしています。

 その結論に至る前の文章で、松村の作品の描き方について、島田は「思想史」というような思い切った言葉を使って、次のとおり書いているのです。

 「 氏のように技法上の表現力に卓越していてなおかつ描く内容が蛙を描こ

  うが、猿を描こうが、すべて画家自身の投影であるかのような描き方は突

  き詰めていけば、自画像を描き続けているようで、ながく氏の仕事を見続

  けていると、いわば氏の思想史を共有する思いになる。そして最近の円熟

  した仕事は当然のこととして内面の円熟と相応している。」

 

 こうした過酷といっていい経験を、島田の言葉を使わせてもらえば、とりわけ1979年の「住居、絵画諸共、最愛の夫人と三人の子供さんまで失う!という奈落の底へ落されます」が、「強靭な精神力で現実を直視し」、松村は素晴らしい作品を生み出していったのです。

 沖縄・佐喜眞美術館での最初の展覧会(2007年1月)へ出向いたときの松村の姿を、島田は回顧しています(<メールマガジン2014.7>)。今は同美術館の館長補佐で、当時は大学生だった佐喜眞潤さんが三線を弾き、「松村先生が踊りだし、そして涙された情景が、まざまざと蘇ります」と、深い感慨をもって書き留めています。過酷な運命に翻弄されてきた沖縄の歴史を思い、島田は、「個人的とはいえ氏の歩みと沖縄は重なっても見えます」と記してもいます。

 松村がなくなった翌年、2013年3月~5月にかけて、同美術館で「謎の絵師 松村光秀を偲ぶ展」が開かれますが、同美術館のブログには、松村の人生と作品に思いをはせ、次の言葉が記されています。

 「 沖縄の「まぶいごめ(魂込め)」に通ずる感覚でしょうか。松村氏が「作

  品は、沖縄にあるとどこよりも喜んでいるように見える」と言ってくだ

  さったのも沖縄の魂との共振だったのかもしれません。」

  「」 2009

 この「面」はもとより、前号にアップした「羅漢座像」も、やはり松村の自画像というほかなさそうです。

 前号で2006年の松村光秀展「躯・姿」のテーマである「羅漢像」についての島田の文章を引用しましたが、次のようにも書いています。

 「 聖者というより修行者ですね。それも俗界・市井の。それが素晴らしい

  のです。ご欄になっていただく以外にないのですが、自然体の松村羅漢な

  のです。」

 今回の展示で、私自身は初めて意識して松村の彫刻に向き合うことができた気持ちがします。松村の彫刻からは、木の塊が放つなんともいえない哀しみをユーモアで内包した「魂のありよう」が立ち上ってくるようなのです。

 今回のトークとの関係もあったのでしょうか、「木の塊」の作品と作家、その人物像の「魂」との切り離せない関係、その一点において、松村も伊津野も同じ地平に立つ彫刻なんだと、今は思えるのです。

 

 松村光秀が亡くなってから6年、今回のトークで、島田は、このように高く評価されるべき作家にもかかわらず、松村の作品が正当に評価されにくい現状にあって、このまま埋もれてしまうことに対する強い危機感を、率直に吐露していました。今回の展示にかかる<インフォメーション2018.11>では、次の切迫感のある言葉で訴えています。

 「 松村の筆力は藤田嗣治に負けづとも劣らない。そして宿命を背負いなが

  ら目差しはいつも天に向けられていたことを思うと、松村光秀を埋もれさ

  せてはいけないと私は歯噛みする。」

 

 最後にもまた島田の言葉を、すなわち前記(<ギャラリー島田の作家たち「松村光秀」>)の結びのところを引用しておきたいのです。

 「 惨事から27年の月日が流れました(㊟「惨事」とは1979年のこと)。歳月が押し

  流したもの、押し流せなかったもの。沈殿したもの、洗浄したもの。それ

  らが交差した作品から、天上の静謐と地上のひたすらな生がせめぎあっ

  た、密やかな歌声が聞こえ、香りが匂ってきます。自在の境地に達した

  飄々とした姿の中に生きている哀しみも、密やかな喜びも滲みでていま

  す。」

 私には、島田の現在の切歯扼腕が「腑に落ちる」ように思いました。

 

🔹ギャラリートーク「語らう彫刻 語らうひととき」

 ギャラリートークのことは、前段で伊津野雄二展と松村光秀展を紹介したところでも、何回かふれてきました。「いい午後でした」ということになったのは、企画者である林に誘導された島田があまり肩に力を入れずに、それぞれの作家との交流や思いを語ったからでしょう。そして、何より二人の作家へ深いシンパシーをもって同行してきた、同行できたという、島田の歩みに重なるところがあったからなのでしょう。

 二人ともギャラリーにとって大切な作家という共通点をもちながらも、島田との直接の関係は、片や伊津野は最近といっていい2009年から今も続く現在進行形であり、一方、松村は作品としてはingの関係であっても本人とは1986年から亡くなる2012年までの27年間ですでに過去のことになっています。

 一見して雰囲気の違いが際立つ二人の彫刻を並べてどう語られるのかと思っていましたが、伊津野と私(島田)、松村と私、そして私から見た二人の作品ということでした。林は<ギャラリー島田公式ブログ>で「全く異なるお二人の世界ですが、共通するのは人物像というところでしょうか」と書いています。トークのなかで、「二人の共通点」として、島田は「創作、芸術に対し、真摯、誠実そして信条をまげないで取り組むところかな」という趣旨の話をしていたように記憶しています。

  ギャラリートークの島田誠さんと林淳子さん

 トークでは、最初に伊津野雄二展を開催した2009年5月のことにも話が及びました。ちょうど新型インフルエンザに罹患した人が神戸で確認されたとの報道があって、展覧会へ来られる方がずいぶんと少なくて困ったという話です。それだけではなくてと、林からは、ちょうどその頃、島田の奥様が厳しい状態にあって、島田にとっては大変なときであったのだという発言もありました。

 <蝙蝠日記2009.8「読み返すことができない本」>によると、島田の奥様、島田悦子さんが亡くなられたのは、伊津野の展覧会のあった同年5月の翌月、「6月24日午前2時に神に召された」とあります。「享年63歳。闘病22ヶ月でした」とあって、島田は「この22ヶ月の日々は悦子の63年の生涯と私たちの41年の生活を凝縮するものでした」とし、その闘病中の奥様の傍にいた時間は「それは汲めども尽きぬ、「かけがえのないこの人」の在り方を教える、二度と読み返すことの出来ない「1冊の本」でした」と書いています。

 そして、そのとき伊津野からもらった言葉を記しています。その後半の5行は「なにものもうめることはできないでしょう/いかなる言葉も そして音楽も/ただ夏から秋 そして冬へとかわりゆく朝の光や/梢の葉ずれの音のように 美しいものがふりつもって/心の空寂を すこしずつ うめていくことを 祈っています」でした。

  「家の中の森」 2009

 この「家の中の森」という彫刻は、トーク会場の中に前の路上に面して展示されていましたが、普段は島田がベッドルームにおいているものだとの説明がありました。この彫像の佇まいから、海文堂ギャラリー時代から何度か言葉を交わした、亡くなられた奥様を想像してしまうことを、私はとどめることができませんでした。こうして図ったみたいなタイミングで、ちょうど初めての伊津野の展覧会がギャラリー島田で開かれたということを聞き、私は不思議な「物語」を読んだような気持ちになったのです。

 その頃、私はフワフワと宙に浮いた日々であったように覚えています。2009年の3月末で公務員を定年より1年早く退職し、次の仕事まで3ヵ月間のインターバルがありましたが、ちょうどその期間にあたります。ギャラリーが元町三丁目から北野坂へ移転してから、私はほとんど足を運んでいなかったのです。情けないことに日々の雑事に気取られて心の余裕をもてなくなっていたのかもしれません。生活に組み込まれていた習慣が失われると、だんだんと足が遠のいてしまっていたのです。ふたたびギャラリー島田へ足を向けさせたのは、島田の存在はもちろんですが、伊津野雄二であり、石井一男、須飼秀和などの作品がもつ力であったと思っています(「ギャラリー島田へ向かって」)。 

 そして、最初の伊津野雄二展の頃は、二人で初めての海外旅行中でした。奥様が亡くなられたことも、ギャラリーインフォメーションで知って驚いたという記憶なのです。

 

 さて、先に松村光秀の作品の行く末に対する島田の強い危機感について紹介しましたが、トークでは、ギャラリーを取り巻く環境の厳しさについてもふれていました。このことは最近の<蝙蝠日記>でも何回か読んでいたことですが、今年はギャラリーの40周年記念で大規模な展覧会の連続開催と、もう一つの柱である「公益財団法人 神戸文化支援基金」の基金の拡充のことなどが続き、そちらの方に意識が傾いていたのです。

 直近の<蝙蝠日記2018.12「賞を受ける」>では、石井一男さんの神戸市文化奨励賞の受賞にふれたうえで、最後のところに「とはいえ」からはじまる文章がおかれています。少し長いですが引用します。

 「 とはいえ、ギャラリーを取り巻く環境は厳しくなるばかりです。私たち

  の作家、作品への拘りは時の風潮に2周遅れくらい離されているようで

  す。時代を読むことは大切です。でも時流に乗ることには抵抗がありま

  す。私たちが為してきたこと。それは「抗う」ということでした。未来図

  は私たちを見失うことではあってはなりません。今回の、ギャラリー島田

  の存在そのものをauction marketにかけてみる。そんな捨て身は「井の

  中の蛙」だと思いますが、試してみようと思います。海外のauctionへの

  挑戦、今回の試み。共に、単なる作品の競売を目指しているわけではあり

  ません。ギャラリー島田の目指すところも問い、続く作家たちのマーケッ

  トへの道を探しています。ご支援をお願いいたします。」

 そうか、そういうことか、心の支援しかできない者としては、いささか辛い気持ちになりますが、新たな挑戦と受けとめるべきなのでしょう。

 

 伊津野雄二による画廊主の定義は、ギャラリー島田で展覧会をひらく作家が書くという「メモリアルブック」に書かれたとあります(<蝙蝠日記2014.7「今を生きることとアート」>)。島田は次のとおりコメントしています。

 「  絵かきの気づかない

    絵のなかの たからものを

    釣れるひと

   そこまで、ユーモラスな挿絵とともに書かれていますが実は書かれてい

  ない続きがあります。

    ただし、古来、成功例はまれ

    多くは徒労に終わることが多い

   はい。その通りですね。」

 いろんな局面に伊津野は登場してきますね。この4年前の<蝙蝠日記>には、伊津野の画廊主の定義に関する文章の前に、冒頭の「ギャラリーをやっていれば画商だろう、ギャラリストだろうと言われてもピンと来ない」から始まる「ギャラリー島田」の基本姿勢を確認するような文章がおかれています。いわば島田のギャラリー論が展開されています。

 その文章で、島田はギャラリーが創造的発信装置になるようにしたい、ともに生きていることを共感できる場でありたいとし、次の言葉を続けています。

 「 皆さんからみれば、私は美術のことよりも社会的な発言に偏っていると

  思われるかもしれません。しかし表現に関わるものが、現代の抱えるさま

  ざまな課題にどのように向き合っているのか、そしてどのように生きてい

  るのかは、とても大切なことだと思っています。」

 こうしたギャラリー運営についての島田の基本姿勢は、同時に島田の生き方そのものだということになります。

 

 このこととも関連するように、2016年9月と翌2017年6月に甲南大学で島田は講演しており(主催はNPO法人 想像文化研究組織)、ギャラリーインフォメーションなどの文章から受けとめてきた島田のメッセージがよりクリアに確認できたと勝手に思い込み、それぞれについて私は当ブログで感想を書きました。

 タイトルは「ある回想ー「託されたことを生きて」ー」と「「テオ」な人ー「生きている時代と向き合う」ということー」です。それぞれのタイトルにもあらわれているとおり、前者で、島田は自らの人生や仕事の足跡について「託されたことを生きて」という言葉を与えて<批評的に回想>したのです。そして、年を重ね、ある到達点ともいえる境地に至った島田は「「託された」志を見失うことなく、<志の縁>を紡いでいこう」とされていると、私は感想を記しています。

 前者の講演で語り残したことを「生きる実感の共有」というテーマで語ろうとした後者で、島田は、「現代という時代と向き合うとの視点から、「画商」として、一人の人間として、その生き方の根っ子にあるもの」を、マニフェストのような言葉で抽出しました。「生きる時代と向き合い、そのことが自分の表現、創造とどう関わっているのかという問題意識」をもった作家と作品に、ギャラリーとして付き合ってきたし、これからもそうしていきたいとの意思を表明したのです。そして、今を生きる作家と画商の抜き差しならぬ関係、島田はそのたたずまいにおいて、ゴッホの弟、そんな「「テオ」な人である志をもち続けてきた方」として、私は表現しています。

 ここで申し上げたかったのは、松村光秀、そして伊津野雄二、二人とも島田にとって「生きる時代と向き合って」自分の表現、創造を続けてきた作家であり、そんな二人の作家との伴走の積み重ねが、今回のギャラリートークにも映し出されたということなのです。

  「なぞの指揮者」 2016

 伊津野が島田だとして手渡したのであろう、この「なぞの指揮者」と名づけられた小さな彫刻は、合唱の指揮者であった島田を模しているのでしょうか。「導き手」としての島田に寄せる信頼と、波で揺れる船の上においても前を向いて立っている島田への一抹の不安が、ギャラリーの現状の厳しさを聞いたせいでもあるのか、私には感じられるのです。

 伊津野と松村の彫刻の話からずいぶん横道に逸れてしまいました。私には、ギャラリー島田の航海の行方を、無責任な立場から見守り続けていくだけしかできないのです。前記のギャラリーを取り巻く環境の厳しさをコメントした「とはいえ」から始まる文章の前には、ギャラリー40年の航海は「何度も難破の危機に直面しながら優秀なクルーの力で航海を続けることが出来た。ふり返れば、私なりの志を形にしてきた航跡が遥か彼方へ続いているのを感慨深くながめています」とあります。

 「託されたことを生きて」、そして「どう託していくか」ということ、それは大変に難しい舵取りなのでしょうと、遠くから祈っているほかありません。

 

 島田の文章を読んできた者として、島田の故佐本進さんへの敬愛の深さを感じています。<蝙蝠日記2018.11「遺言」>の最後には、佐本の言葉を引いて「佐本先生の精神は私そのものである」と書いています。その引用された佐本進の言葉(「わが心のシノプス」からの抜き書き(佐本進『天の劇場から』))は次のとおりです。

 「 多分強者になりえないという、自分自身の実感と、虚構や覇者を排すべ

  きであるという明確な自覚は、今なお、ぼくを暖めつづける体温そのもの

  であり、かつていささかの苦渋と挫折に色どられた春の日の体感に由来す

  る陰影が、今日、なお執拗にぼく自身をドン=キホーテさながらに理由な

  く困難な状況に立ち向かわせているようである。」

 お許しをいただければ、この佐本の言葉の前段、つまり「実感」と「自覚」は、私自身でもあります。でも後段の「理由なく困難な状況に立ち向かわせている」という勇気がないのが決定的にちがっています。

 ギャラリー島田のあるリランズゲートビル(1986築/安藤忠雄設計)の中庭

 

🔹おわりにー私の<伊津野雄二>体験ー

 ギャラリートークから刺激を受けて書いてみようとしたことで、伊津野の作品のタイトルが分かりました。伊津野の小さなテラコッタを2014年6月に手に入れたのですが、作品名をすっかり忘れていて、今回ギャラリーで調べてもらって確認できたのです。「秋の書物」というタイトルでした。

 さらには、伊津野の作品集『光の井戸』(2013年10月刊)に、伊津野による写真で「秋の書物」の彫像がその詩句とともに掲載されていたことも知ったのです。作品集をちゃんと見たつもり、読んだつもりでしたが、いい加減といえば、いい加減なことです。私の何も考えないで撮った写真と伊津野の写真を、じっと見ていると、別の彫像のようにも感じます。

 「秋の書物」というタイトルを感じられるかと問われれば、わかりませんと答えるしかなさそうです。首の傾きと視線の行方は本を読むことに通じているかもしれないと思っても、こじつけのような気がします。これに対し、今回の展覧会には、「春の書物」という木彫が出品されていて、こちらは本のページを開いて両手でもって、身体と本の間に春の青い草がのびて顔を出している彫像なのです。

 「秋の書物」の女性像は、昨年伊津野の彫刻展を開催した長野県東御市梅野記念絵画館の佐藤館長の言葉を借りると、「柔らかに気品をたたえた眼差し、限りない慈しみ、そして瞳にひそむ意思」というようなことになるのでしょうか。私は沈思しているように感じたりもしますが。

  「秋の書物」 制作年不明

  同上

  「秋の書物」 『伊津野雄二作品集 光の井戸』40p

  「春の書物」 2018

 最後に、前号で、伊津野の芸術論として、「あとがきにかえて 耳飾りのなかの世界」を紹介し、伊津野が「芸術」の存在する意味を見事に言葉にしていることに驚いたことを書きましたが、これに関連して追記しておくことにします。同じ作品集の冒頭におかれた「彫刻家への手紙」です。

 この手紙では、伊津野の彫刻論が19行の言葉で定義されているように感じます。前記の文章で、伊津野は「形」の根源にあるものを「祈りの領域に属する」としたうえで、海原をわたるカヌーから突き出されたフロートに象徴させた「イメージは人々の現実を支えてきました。時にそれは歌となり形となり物語となりました」としています。この伊津野の「イメージ」と本人の「彫刻」が言葉になっているのです。

 ここでは、これも失礼千万ですが、19行のうちの11行を抄録しておくことにします。

 「 彫刻は、かたちという言語でかたられるものがたりであるには違いない

   のだが

   いや かたちそのものなのだが しかしおそらく彫刻はかたちではない

   かたちでないものをつくるのに僕たちは かたちしか使うことができな

   い 

 

   音楽(うたごえ)や詩(ことば)や美術(かたち)はすべて、ひとつのものから

   生まれているにちがいない

   あるimageと 心のなかのかたちは大気のなかでゆれ振動し干渉する

   世界をまきこんで、みずからをくりひろげ、おしひろげる

 

   心とかたちが おなじものであればどんなにすばらしいか

   かつて人々が祈りのなかにもとめたかたち、もう一つの現実としての

   imageが 人々の厳しい現実、運命をからくも生きぬくことを

   たすけたように この心のなかのかたちが 今も生きるための力を与え

   るものであることを切にねがう。                」

 それにしても、「かたちでないものをつくるのに僕たちはかたちしか使うことができない」とは、腹の底にズシンと響きます。伊津野の彫像から聞こえてくる「うたごえ」や「ことば」の存在を、その意味を、的確に表現しており、それこそ「腑に落ちる」体験となりました。

 

 本稿はすべて島田の言葉にインスパイアされています。いやおんぶにだっこしてもらったというしかないのですが、最後も、島田の言葉で締めくくることにします。

 やはり前号で部分的に紹介するという失礼をした、伊津野の作品集に寄せた島田の「大切なものはここに」の最後の一節を引用しておきます。

  人は等しく彼岸へ海原を往くこの船の乗客である。無数の細かな偶然が

  降り積もって私たちはここに「大切なもの」を抱いて生かされて在ること

  を伊津野の彫刻が、言葉が語りかけてくる。それは「心のなかのかたち

  が、今も生きるための力を与えるものであることを切にねがう」と若き友

  への手紙で書いたことの証しであり、それは、そのままに、私たちの望み

  であり「見ることのないあした」への一歩を踏み出す励ましである。」

 この文章には、島田が伊津野に感じる「心の基層における同質性」、つまり「魂の共振」という交歓が存在しています。

 

 ギャラリートークが終わり、再び伊津野と松村の彫刻を見てからギャラリーをあとにすると、秋の陽は早くもかたむき、トアロードは夕景の感じられる冷涼感につつまれていました。いい午後でした。

  トアロードと山手幹線の交差点から六甲山系をのぞむ [11月3日撮影]

                    【終:(1)へ/(2・完)】

 

プロフィール
profilephoto
70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
最新の記事
                         
カテゴリー
カレンダー
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
                                      
月別更新一覧
            
コメント
                                      
リンク
                        
サイト内検索
Others
            
Mobile
qrcode
            
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM