2020.08.30 Sunday

ちょっといい話に再会してーキャロル・スローンのジャズ・ボーカルー

 前稿の最後に「息切れしてしまいました」と書いたとおりです。本稿では、キャロル・スローンの音楽(ジャズ・ボーカル)について、特になんだかいい話だなあと感じたエピソードを紹介してみようと思っています。

 

 といいながらも、『風の谷のナウシカ』のラストをまだ少し引きずってもいます。もとより息切れは本当ですが、容量オーバーもあって、最後の部分「【追録】なぜナウシカは「約束の神殿」を破壊したのか」は「◉ナウシカは汚濁を排除した世界(庭)を去ることを決意した//◉墓所の主の言葉にナウシカは「否」を答えた」までで終わってしまい、予定していた残りを掲載できなかったのです。その部分「◉ついにナウシカはオーマの光で「人間の卵」破壊した」と「◉最後にナウシカは「生きねば……」という言葉を発した」を、下記に貼り付けさせてもらいました。

 

 赤坂憲雄著『ナウシカ考』の書評で、福岡伸一は、赤坂の結論を「ナウシカの物語は、黙示録ではなく、黙示録のプログラムを最終的に拒絶する反ー黙示録」なのだと受けとめ、そう書いています(福岡伸一「宮崎駿の苦悩や逡巡、透徹を追体験 名作を深く精緻に読み抜く論考」)。

 既に引用紹介しましたが、赤坂自身は川上弘美との対談の最後に、考察をさらに続けていくと発言しています。その発言を再録させてください。

 「 漫画版では、黙示録的な善悪の戦いが決着したわけではありませんね。

  とりあえず、旧人類のプログラミングした未来へのシナリオを破壊しまし

  たが、それをはたして全否定できるのか、ナウシカの選択は正しいのか。

  漫画版は我々に、改めて問いの立て直しを求めています。それをさらに考

  えていきたいとと思います。」

 赤坂は、漫画版の投げかけた謎である「黙示録的な善悪の戦いが決着したわけではない」という立場を表明し、ナウシカの選択が正しいのかそうでないのか、その判断をなお留保していると読むことができます。

 

 福岡が「大きな謎」とした結末について、ネット上で署名・無署名に関係なく、多くの論考が展開されていて、その深度に感心しました。正直なところ、私にはついていけないと情けなくもありました。

 その中で「杉本穂高」の署名入りの記事は、赤坂の『ナウシカ考』とスーザン・ネイピア著『ミヤザキワールド 宮崎駿の光と闇』の二冊を踏まえて手堅く考察していますので、参考のためにアップしておきます(「『風の谷のナウシカ』に表れる宮崎駿の矛盾とは? 『ミヤザキワールド』と『ナウシカ考』、2冊の書籍から考察」)。

 漫画版の結末について、赤坂の「人間の決定的勝利の挫折がむき出しになったものだ」という見方に対し、ネイピアが「過去への罪悪感と未来(少なくとも西洋的なテクノロジーがもたらす未来)への絶望感」と赤坂とは違う言葉で挫折を表現し、ナウシカ物語は「キリスト教的なものと東アジア的なものが対立し、最終的には東アジア的なアニミズムが勝利する物語」であると評していると紹介しています。

 そのうえで、次のとおり自身の見方を提示しています。

 「 漫画版『風の谷のナウシカ』とは西洋への憧れを抱いた宮崎氏が、失望

  や絶望を経て東アジア的アニミズムの思想への転換が如実にあらわれた作

  品であると言える。作中の言葉を借りれば、宮崎氏の思想が「破壊と慈悲

  の混沌」のように入り混じった作品なのではないだろうか。」

 このことはまた、立花隆が、ジブリの鈴木敏夫との対談で指摘する「この世界は簡単には善悪の図式ではまったく割り切れない構造をしている」「清いものと汚いものが混在しているのが、我々の世界である」、この二つのメッセージが『風の谷のナウシカ』7巻から強く発信されていて、その後の宮崎作品にも基調として反映されていると語っていることに通じているといえます。

 

 もう一つだけ、無署名の記事ですが(「漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて」)、ナウシカは葛藤(矛盾を受け入れないといけないとしつつ、墓所の主という矛盾は否定しなければいけない)を受け入れて生きていく生き方を選択した、つまりロゴスの力を象徴する「墓所の主」を批判し、もっと原初的な生命を尊重して生きていくことを決断したと理解する論考があります(福岡の理解に近似しているのでしょう)。

 ニーチェのニヒリズム「自分の生きる価値が何ものかによって与えられることを否定して、生きることそのものを肯定していく生き方」に依拠して、ナウシカは前者の生きることに絶望するような「受動的ニヒリズム」に悩まされていたが、後者の生きることそのものを肯定するような「能動的ニヒリズム」に、最後は墓所の主と対峙するに至って目覚めたのだという見立てなのです。

 このパースペクティブは混濁する私にとって大変に魅力的なものです。漫画版の最後のコマにある「生きねば/……/……」(下記参照)は、「破壊と慈悲の混沌」であるナウシカが葛藤を抱えたままで選択した「生きること」への心の声であったのではないかと、私はひとまず思うことでナウシカから離れることにします。 

 

 以下が、前稿(2020.8.23「ピュシスとロゴスの間で生きる人間という存在にー漫画版「風の谷のナウシカ」を起点とする『コロナ新時代の提言2』をみてー(2・完)」)の最後に続いて掲載できなかった部分です。

 

◉ついにナウシカはオーマの光で「人間の卵」を破壊した

 墓所が破壊され断末魔の状態で、ナウシカとトルキアのヴ王がそれぞれ自問するようにつぶやきます。

  [p211] ナウ「……泣いているのです//卵が死ぬと……」

       ヴ王「たまご…⁉/清浄な世界にもどった時の人間の卵か?」

       ナウ「自分の罪深さにおののきます//私達のように凶暴ではなく

                おだやかでかしこい人間となるはずの卵です」

       ヴ王「そんなものは人間とはいえん……⁉」

  [p212] ヴ王「気に入ったぞ/お前は破壊と慈悲の混沌だ」

  [p212/再掲]  墓所の断末魔

 

◉最後にナウシカは「生きねば……」という言葉を発した

 墓所が破壊されたあと、ヴ王も亡くなり、ナウシカはその娘クシャナと言葉を交わし、出発を呼びかけます。

  [p223] クシャ「それはわたしとあなただけの秘密です//

           生きましょう/すべてをこの星にたくして/共に……」

  [p223]  ナウ「ハイ//さあみんな出発しましょう/どんなに苦しくとも」 

          誰の言葉でもなく(ナウシカなのでしょうが) 

                    「生きねば/……/……」

  [p223/最終のコマ全体]   左下に「おわり /1994.1.28」とあります。

     「クシャナは生涯代王にとどまり、決して王位につかなかった」

 

◈キャロル・スローンのこと知っていますかー心やすらぐ音楽とはー

 キャロル・スローンは1937年生まれのジャズの歌い手であり、今も現役最年長歌手として活躍中だそうです。

 この方のことをブログで書いておこうと思ったのは、今年の夏、その魅力を再発見したからです。というのは、半年前から故障して動かなくなっていたCDプレーヤー一体型のアンプの同型機種を、先月にネットオークションで格安に手に入れることができました。これと並行して、家のあちこちに散在していたCDを一つのラックに集約を図ったのですが、その過程でキャロル・スローンのCDを手に取ることができて長いこと聞いていないことに気づいたのです。

 それから1ヵ月、一番よく聞いていたのが(ただ耳元を流れていたということなのですが)、キャロル・スローンのボーカルなのです。後ほどジャズ歌手の世代論もしたいのですが、1960年代以降に登場した歌い手では、オランダのアン・バートン(1933-89)の次に愛聴していたのが、キャロル・スローンでした。しばらくぶりで聞いて、心地のいい歌に再会できた気分になったのです。

 CDといっても手持ちのたった3枚をとっかえひっかえしていただけことですが、手持ちのLPが6枚あって、そのライナー・ノーツを読んだりもしていて、ちょっといい話に再会できたことも後押ししてくれました。ネットでも登場したりしていることだし、今更ではないかと思いましたが、そんな話に反応したりする私の気分にも関係していますし、軽い気持ちで紹介するのもいいかなという気持ちになったのです。

 

 そんないい話の前に、事前知識として、キャロル・スローンは、1962年に24歳のとき2枚のLPを大手CBSソニーから出してメジャーデビューしますが、その後、14年近くもレコーディングの機会に恵まれず、やっと75年に自費出版の形でLP『SUBWAY TOKENS(サブウェイ・トークンズ)』を出すという長い不遇の時代があった人です。

 そして、ちょっといい話にも関係しますが、日本の熱心なファンたちのプッシュもあって、1977年40歳のときに初来日してから、82年、83年、84年と連続して来日しています。そのときのコンサートとレコーディングが大きな評判を呼んで、そのことがアメリカへ飛び火し、やっとアメリカでも再認識、再評価されて「押しも押されもしない存在」になっていったという珍しい経歴をもつジャズ歌手がキャロル・スローンなのです。

 私がLPとCdを入手してよく聞いていたのは、2000年代の10年余りの期間なのでしょう。だから、同時代に聞いていたのではなくて、キャロルが知る人ぞ知るシンガーと評価されてからのことです。当時の慰めだった寺島靖国などのジャズ本からキャロル・スローンを称揚する情報を導き手として、中古レコード屋さんで探して求めたのでしょう。そうして知ったジャズ歌手は数多かったのですが、その中で、60、70年代に登場した数少ない歌い手が、アン・バートンであり、キャロル・スローンでした。そして、その少し低目の温かいシャウトしない歌声に魅せられたのだと思っています。

 

 当ブログの「音楽」というカテゴリーの記事は11本しかありません。ジャズ歌手はジューン・クリスティ(1925-90)だけです(2016.1.31「再聴・歌と出会う(1)ージューン・クリスティー」)。その記事には、ジャズは学生のころからの大切な音楽だったけれど、ジャズ・ボーカルはずっと後になって聴き始めたということを書いています。そして、その理由めいたことを、「年を重ねて、仕事関係の書類や資料を読むことが毎日の中心となってしまっていた頃」に「50年代に活躍した多くの歌手のスタンダードがささくれ立った心にやすらぎを与えてくれると発見したところから始まっているように思う」と記しているのです。その系譜につながるけれど、もっとコンテンポラリーな感覚をもっていたのが、キャロル・スローンであり、アン・バートンです。

 仕事から離れて久しくなり、いよいよ音楽が遠のいていくように感じている現在からすると、ちょっと気恥しいことを書いているなと思ったりしますが、その時点の記憶を言葉にすると、そういうことだったのでしょう。ともあれ、下記には手持ちのキャロル・スローン名義のCDとLPの画像を並べています。録音時でいえば、1961年から1986年の25年間にわたり、24歳から49歳までのキャロル・スローンだということになります。

  『Out of the blue(アウト・オブ・ブルー)』 1961年録音/62年CBSソニー

  『As Time Goes By(時の過ぎゆくまま)』 1982年4月東京録音

  『バット・ノット・フォー・ミー』 1986年10月ニューヨーク録音

[左上] 『ソフィスケイティッド・レディ』   1977年11月東京録音

[右上] 『キャロル・シングス』      1978年11月ニューヨーク録音

[左下] 『キャロル・スローン・ライヴ ウィズ・ジョー・ピューマ』 1983年アメリカ録音

[右下] 『ア・ナイト・オブ・バラッド』  1984年5月18日東京録音

 ・LPはこの4枚の外、上記『アウト・オブ・ブルー』と下記『サブウェイ・トークン』が手持ち

 

◉ちょっといい話

 ちょっといい話は二つあります。前記の『サブウェイ・トークンズ』(自費出版らしい素っ気ないアルバム・ジャケットですが)というLPのライナーノーツに色川武大と大滝譲司が寄稿していますが、それぞれから一つずつということになります。

   『SUBWAY TOKENS(サブウェイ・トークンズ)』 1975年アメリカ録音

 それで、色川武大(阿佐田哲也)(1929-89)のこと、ご記憶にあるでしょうか。本名と( )内の筆名を使い分けていた作家で、亡くなる直前の『狂人日記』を私は同時代に読んだ記憶があります。何より自伝的小説『麻雀放浪記』で人気を博しました。

 このライナー・ノーツは、「現役のジャズヴォーカルの世界で、好きな歌手を一人だけあげよ、といわれたら私はすぐに、キャロル・スローン、と答えるだろう」との一文から始まっています。

 1977年10月、キャロル・スローンがニューヨーク・ジャズカルテットのシンガー(メインではない)として初来日したとき、アメリカでの過小評価に「怒りに近いものを感じていた」色川は、友人でジャズ狂の大滝譲司と組んで、滞日中の10月16日に「彼女をひと晩招いて、キャロルを聴く小パーティ」を「ごくプライベートに知友を」呼んでひらいたのだそうです。

 「当夜、キャロルのできはすばらしく、というより乗りに乗って、3時間近く、打ち合わせなしに歌いまくってくれた」のです。そして、私たちが差し出すギャラを、「今夜はとても嬉しいからいいよ」と、「どうしても受けとらなかった」とあります。次は「自分で堂々とギャラを受け取れる歌手になっているからね」と言ったのだそうです。

 このパーティに参加した和田誠(1936-2019)は、キャロルの二枚のLPを抱えてきていて、「それを見たキャロルが、あっと声を出すほど嬉しい表情をしたことを覚えている」と、色川は記しています。

 それからのキャロル・スローンは、色川がこのライナー・ノーツを書いた初来日から5年後の1982年にはアメリカでも押しも押されもしない存在になっていたのです。色川は「私もなんだか他人事でなく嬉しい」と、素直に喜びを表現しています。

 

 このライナー・ノーツに、色川が寄せたキャロル・スローンのジャズヴォーカルについての評言を、私には表現できそうもないので引用しておきます。

 「 彼女の唄の大きな特長は、音程のよさ、そして音のひとつひとつを選定

  してくる感覚の鋭さであろう。こんなにソフィステケイテドな歌手を私は

  知らない。彼女は実にユニークで、大胆に原曲を唄い変えるけれども、聴

  くと、あ、この曲に一番ふさわしい衣装を着せているな、と思う。同時に

  テクだけでない、暖かい唄心がみなぎっているのである。」

 そのとおりなのでしょうが、私は「暖かい唄心」に傾斜して、その美質を意識しています。そこは「ひんやりとした唄心」と感じたりもするアン・バートンとの特質の差異を感じているのです。

 

 付録として、和田誠の描いた阿佐田哲也の似顔絵をアップしておきます。昨年亡くなった名イラストレーターの和田には、映画の名せりふを集めた『お楽しみはこれからだ』シリーズでも楽しまさせてもらいましたが、1984年に阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を初めて監督として映画化しています。

  和田誠描画「阿佐田哲也氏」 『和田誠肖像画集 PEOPLE2』(1977年初版)所収

 

◉ちょっといい話

 もう一つは、大滝譲司のライナー・ノーツの方にあるいい話で、『サブウェイ・トークンズ』に収録の二曲がオスカー・ピーターソンに捧げられていますが、そのわけのことです。

 60年代の初め頃、キャロル・スローンがまだ20代前半であった頃ということになりますが、オスカーのトリオがニューヨークのヴィレッジヴァンガードに出演していたとき、ちょうどその向かい側のクラブでキャロルは歌っていました。ある夜、オスカーはその店へやってきて、キャロルに美しいバラード『マイ・シップ』をリスエストしたのだそうです。キャロルは大張り切りで、「メロディーを大フェイクして」唄いました。「終わってオスカーを見ると、まるで無表情」、それからも毎晩やってきて、同じ『マイ・シップ』をリスエストしますが、キャロルの歌唱に相変わらず無表情を崩すことがなかったそうです。キャロルは「私の歌が楽しそうではない彼を見て私は当惑の度が増すばかり」でした。

 ある夜、とうとうキャロルは、この歌に飽き、「もう歌に色づけして尾ひれをつけたりせず、ただ単純にあっさりと」歌いました。するとオスカーは「満面に笑みを浮かべ、暖かい拍手をくれた」のです。 

 このことを、キャロル・スローンは、次のとおり述懐し、このアルバムの曲を捧げたわけを語っています。

 「 後になって私は彼が何を言おうとしていたのかがわかりました。歌手は

  カッコよく歌おうと、すぐ歌をくずし、曲げて歌うが、もっと自分を押さ

  えなければいけない。『マイ・シップ』『カッテイジ・フォー・セール』

  『アイ・ディドント・ノウ・アバウト・ユウ』のようなすばらしい曲を誰

  がメロディーを変えて聴きたいと思うでしょうか。こういう曲は、書かれ

  たそのままで完璧なのです。私は教わったことがキチンと私自身のことに

  なっていることを望み、この曲をオスカーに捧げます。」

 大滝は「日本人のジャズ歌手と称している面々に、耳をかっぽじいて聞いてもらいたい言葉だ」と続けていますが、今はどうなのでしょう。

  『シェークスピア・フェスティバルのオスカー・ピーターソン』 1956年録音

   真ん中がピアノを弾くオスカーピーターソン

 前記の色川のキャロル・スローンのヴォーカルについての評言にもあったとおり、キャロルのフェイクとかスキャットとか、それはそれで楽しくて素晴らしいのですが、私は、単純にあっさりと歌われた唄に「暖かい唄心」が最も感じられて心地いいのです。使い古された比喩で言うと、足し算の洋食と引き算の和食というか、あまり崩さないストレートな歌唱に日本人の嗜好があらわれているのかもしれません。

 文化論に及びそうですが、やめておきましょう。

 

 以上、えっ、どこがいい話なのと言われそうです。ある人にとって「ちょっといい話」は他者にとってどうでもいい話なのです。たとえば家人にとってもそうでしょう。私にとっては、音楽に関係する少しほっこりするようなエピソードなんですと申し上げるしかありません。

 

◉仕方がないことだけれどー50年代と60年代の落差ー

 ジャズ、とりわけジャズ・ヴォーカルの世界は、アメリカの音楽市場では、50年代に最高潮の隆盛期を経て、60年代には急に反転転落し、一気に縮小しました。メインストリームから滑り落ちたジャズ・ヴォーカルは、キャロル・スローンの事例にもあるように、いわゆるレコード会社からアルバムがぱったりと出ないという状況に陥ったのはまちがいなさそうです。

 上記の写真にある1984年に日本で録音された『ア・ナイト・オブ・バラッド』のライナーノーツで、大滝譲司は、音楽市場がロックに占領されてしまったからだとし、キャロル・スローンをはじめ「1960年以降に絶頂期を迎えたジャズ歌手及びジャズ系歌手は不幸だった」と、無念の気持ちを言葉にしています。レコード・ビジネスは、ロックが商売になるとすれば、「音楽の質やすぐれた歌手などより利益に目を向け」たのだというのです。そんな60年代のジャズ・ヴォーカル受難の時代を、次のとおり表現しています。

 「 60年代以前にすでに一家を成していたグレート・ソング・スタイリスト

  たちは、それでもまだ輝かしき時代に築いた名声で活動のチャンスがあっ

  たが、¨若手たち¨にはまさに悪夢と苦難の時代だった。キャロル・スロー

  ンはその代表格といえる。」

 されど、「そんな中でキャロルは自分を見失うことなく自分の道を歩いてきた」と、大滝はキャロル・スローンを称えているのです。

 

 音楽ビジネスというものの影響は、確かに大きなものだったといえます。日本でも同じ傾向であったといえますが、その規模、山の高さが違いますし、アメリカのスタンダードに相当する歌謡曲の全盛期でマイナーであったジャズは影響を受けつつも、マイナーとしてのしぶとさが日本のジャズファンにはあったということができます。そんな目利きのファンたちは、キャロル・スローンを見落としたりしなかったということが、私の心に灯った前記の「ちょっといい話」なのです。

 でも、日本でのキャロル発見が具体化したのは、どん底だった60年代ではなく、やはり持ち直しの兆しのみえた70年代、それも後半であったことを忘れてはなりますまい。そして、外野のそのまた外野の私は、それから30年近くも遅れてキャロル・スローンに出会ったことになります。

 さて、半世紀を経たネット時代の現在、音楽ビジネスの変貌も著しいと想像しますが、どうなのでしょう。旧態依然の私などとはちがって、どんなふうに音楽に、音楽ソースに接することが多くなっているのでしょうか(新譜のレコード・CDショップは成り立たない状況のようです)。現実を知る努力もしようとしないままで、私はすぐに仕方がないことだけれどになってしまいますが、かつてのキャロル・スローンのような才能ある若手の育っていける環境がいよいよ厳しくなっていそうで、そのことを何よりおそれます。

 それにしても、音楽の世界の様変わりは、それはコマーシャルの世界にとどまらないようにみえますが、やはり社会と世界の様変わりと直接関係していると、感じざるをえませんね。

 

 最後に、キャロル・スローンの歌唱を三曲、いずれも音質に問題がありますが、ユーチューブを貼り付けておくことにします。

 一曲目は、1961年録音の前記『アウト・オブ・ブルー』から「The More I See You(ザ・モア・アイ・シー・ユー)」です。24歳のキャロル・スローンは、若い時からキャロル・スローン以外の何者でもなかったというしかありません。

 二曲目は、1982年録音の『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』からタイトル曲の「As Time Goes By(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)」です。この曲を録音した日の1982年8月29日のその夜に、キャロルはイングリッド・バークマンの死を聞いたとあります。最後の語り「Louis,I think this is the the beginning of a beautiful friendship(ルイ、これは美しい友情の始まりだ)」は映画『カサブランカ』からの名セリフです。

 三曲目は、さらに年輪を重ねたキャロル・スローンのライブ映像で、オスカー・ピーターソンがリクエストしていた「My Ship(マイ・シップ)」です。「Never Never Land」に続いて後半にこの曲が登場しますが、オスカーの教えを忘れていないストレートアヘッドな名唄と申せましょう。歌い終えたキャロルの笑顔が物語っています。

 

 ◈「The More I See You(ザ・モア・アイ・シー・ユー)」

           (作詞:マック・ゴードン/作曲:ハリー・ウォーレン)

 

 ◈「As Time Goes By(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)」

           (作詞・作曲:ハーマン・ハプフェルド)

 

 ◈「My Ship(マイ・シップ)」

           (作詞:アイラ・ガーシュイン/作曲:クルト・ワイル)

 

 当ブログと直接関係しませんが、手近に「As Time Goes By」があったものですから

 

 

 

2020.06.07 Sunday

ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー

 先月の終わり(5/29)、午後の陽の傾きはじめたころに、姫路の的形海岸までちょっと足を伸ばしました。的形海水場の近くに、ちょうど5月にリリースされた吉田慶子のCDを購入できるというカフェがあると知ったからです。家人に同乗させてくれるよう頼んで出かけたのですが、山陽電車の的形駅からは、驚くほど狭い道しかないなか、なんとか「ハンモックカフェ」にたどり着くことができました。この的形漁港は須貝秀和のなつかしい風景の世界でした。

 当ブログで記事(2018.7.14「このひそやかなものー吉田慶子のボサノヴァー」)をアップしたことのある吉田慶子のHPを偶然にものぞいたら、6年ぶりに新しいCD『tauras』を発表したとあり、入手可能先として「ハンモックカフェ」も掲示されていたのです。えっ姫路にということで、電話すると、今はテイクアウトだけの営業だが、もちろんCDも手渡しできますとのことでした。

 普段ならまたにしようかとなりますが、毎日同じところを歩くだけの自粛生活に倦んできたのか、久しぶりに遠出することにしたのです。

  静かでなつかしいたたずまいの的形漁港 [2020.5.29的形漁港で撮影、以下同じ]

  二段重ねのトレーラーハウスのハンモックカフェ(上段にカフェとベランダあり)

 トレーラーを二段重ねしたハンモックカフェの階下に、テイクアウトの窓口があって、吉田慶子のCDと自家製だというカンパーニュパンだけをお願いしました。吉田のHPに「姫路の美しい店」とあった内部をのぞいてみたかったのですが、通常の営業再開は慎重に8月ぐらいからにしたいという店主から、漁港の突堤の先まで歩いて行けますよと教えてもらったのです。

 カフェの南隣には赤い外壁の目立つ「オクムラボート」という大きな船の工場がありますが、そこを回り込むように海へ向かうと、港と海水浴場を隔てるように一本の突堤が延びていました。その先には釣りをする家族連れがいて、さらにその沖には小さな島(上島というらしい)が浮かび、近くには一隻の漁船が停止して操業しているようです。深呼吸がしたくなります。

 こんなのびやかな光景に、陶然、そして呆然としてしまいしまた。

  突堤の付け根辺りから播磨灘をのぞむ

  突堤の先には釣りの家族連れが(その向こうに見えるのは「上島」か)

  沖では漁船が操業中(向こうの島影は「淡路島」)

 さて、吉田慶子さんの新CDです。『tauras』は坂ノ下典正というギタリストとのデュオアルバムです。2019年2月14日と5月11日に東京の祖師谷にある「カフェ・ムリウイ」でのライブを録音したものです。的形のハンモックカフェの主人に聞いたところ、このCDはもちろん吉田慶子のライブで長くサウンドを担当している国重哲也という方が姫路出身なのだそうです。

 ギターの坂ノ下は「国重哲也さんのお陰で静かな夜の雰囲気が封入された音源になりました」と記しています。吉田自身も「深い音の世界に潜り込んだような気持ちの夜でした」とし、「こうして残してくれた国重哲也さんにとても感謝しています」と書いています。まさに静寂にかぎりなく近づいた「ひそやかな」な贈り物という気持ちにさせてくれるサウンドです。

 なお、この「ひそやかな」という言葉は、吉田の2007年のアルバム『コモ・ア・プランターひそやかなボサノヴァ』からで、私には「吉田慶子=ひそやかな声・歌」として一体化しているのです。

 吉田のアルバムでは初めてとなる日本語詞の歌が3曲入っています。そのうち「ヴァイア コン ディオス」(音羽たかし訳詞)には「かすかにひびく かねのおと/こころにしみる うたごえも」という部分がありますが、アルバム自体を体現しているような歌詞だと申し上げていいでしょう。なお、もう2曲は「今日の日はさようなら」と「テネシーワルツ」です。「ヴァイアコンディオス」と「テネシーワルツ」はいずれも江利チエミが1950年代初頭に歌ったという共通点があります。

 吉田慶子のュ―チューブはあまりアップされていないのですが、坂ノ下のギターとともに演奏した「テネシーワルツ」と、ベースとのデュオである「バードランドの子守歌」の2曲をリンクしておくことにします。もとより「テネシーワルツ」はこのアルバムより以前に採録されたものです。

 ◉「テネシーワルツ」坂ノ下典正ギター

 

 ◉「バードランドの子守歌」増根哲也ベース

  『tauras』吉田慶子(vo、g)、坂ノ下典正(g) 2020.5リリース

 店主夫妻のDIYでつくったというハンモックカフェのテイクアウトコーナーには、月刊で無料配布の『WAY OUT WEST』が並べてあって、2ヵ月間神戸へ行けずに手にできていなかった<5月号>と<6月号>をいただきました。

 この藤岡宇央を編集・発行人とするジャズマガジン(ジャズ情報やライブスケジュールを掲載)を、私は表紙のイラストレーションとともに愛読しています。この5月号には、未知の「坂入りお」という方が「Things That Remain 変らないもの」というタイトルで寄稿されています。この方は、1990年代に渡米して、2000年よりニューヨーク「The Jazz Gallery」の芸術監督として、アーティストの発掘と育成に貢献されている方のようです。この力のこもった寄稿文を読んで、なるほどそうでしょう、そうなんでしょうと、刺激をもらいつつ考えさせられました。

 坂入は、この新型コロナによるパンデミックを経験し、音楽業界にパラダイムシフトが起こるのではないかという意見に対し、「生で音楽を聴くという体験はそんなに簡単に代償できるものはないのだ」と明確に否定しています。この坂入の確信は、ちょうど90年代にインターネットが広く一般に普及した頃に、音楽業界に大きなインパクトを与えるのではないかと問題となったときの経験(結局、本質において変わらなかった)が反映しています。

 この非常事態に際してインターネットを利用してオンラインコンサートやイベントを行えるのは、便利で有益で本当にありがたいことだとしつつも、次のとおり述べています。

 「 しかし、平和で安全な日常が戻り次第、皆が生の刹那でしか味わえない

  音楽を求めることは必至だ。人々が音楽と対話する方法にCovid-19によ

  るパラダイムシフトはなく、さらに重要なことに、生で共有する音楽体験

  に勝るものはないのだ、殊更ジャズに関しては。」

 つまり坂入は、「人間は身体的な接触が必要な生き物だ。他人の息遣いを感じずに幸せに生きていくことは難しい」という人間の本質がそんなに簡単に変わりようがないとすると、「音楽とその価値、そしてそれに対する私たちの基本ニーズは変ることはない」と信じているというわけです。だから何でもオンラインにと急いではいけないのであって、「私たちの根本を支える変わらないものを大切にしていかなければならない」と、寄稿文を締めくくっています。

 ライブからはるか遠くに隔たったところにいる私は、坂入の意見を敬意をもって読むことはできても、簡単に論評することなどできません。でも、今の日本であれば感染予防ガイドラインということになりますが、ポストコロナ下でのライブの制約というものが、人間の「生の音楽を聴くという体験」に、じんわりと変容をもたらすことになるのかもしれないと危惧したりはしますが。

  『WAY OUT WEST』2020.5月号の表紙

  『The Jazz Gallery』のロゴマーク

 この雑誌名「WAY OUT WEST」の由来を知らないので、関係がないのかもしれませんが、ソニー・ロリンズの1957年録音のアルバムに同名の名盤があります。私にとっては、ジャズのレコードを買い始めた最初期に(1974年頃か)、ハンプトン・ホーズやアート・ペッパーのコンテンポラリー盤とともに手に入れた一枚として記憶しています(2017.9.20「ジャズを聴き始めた頃にー四枚のレコードからー」)。

 ユーチューブに音源がありますから、アップしておきます。

  ◉「ウェイ・アウト・ウエスト」1957年/コンテンポラリー

       ソニー・ロリンズ(ts)、レイ・ブラウン(b)、シェリー・マン(ds) 

  『WAY OUT WEST』2020年3月号〜6月号の表紙

 ポストコロナの時代状況において、「音楽」というものの機能はとても大切で見直す必要があるとの意見を聞きました。NHKのBS1スペシャル「コロナ新時代への提言ー変容する人間・社会・倫理」という番組のなかで、京都大学総長で霊長類学者である山極寿一の発言です。

 番組の一部分を切り離して取り上げるというのは危険でもありますが、ひとつの仮説としてみておくことにします。人間は、コミュニケーションの重要な手段を、後発的な「言葉」だけでなく、本来、身体と身体を共鳴させることで得られる信頼、共感というものにも依存して社会を形成してきたが、コロナの時代にあって、その後者の手段が失われようとしている、いわば言葉だけでつながる世界に放り出されたことになったのではないかという危惧を、山極は表明します。そして、人間は、「言葉」を発明する前に、「音楽」というものを、言葉よりも古いコミュニケーションの手段として、「意味」というより「気持ちを伝える」という手段として発明したのではないかと思っていると山極は続けたうえで、この「音楽」というものの機能、働きに注目したいと述べていました。それは現在、ミュージシャンがリモートで発信する「音楽」に、多くの人びとが癒しを与えられていることがその証左だとします。

 ですから、コロナの時代にあっても、人間同士の共感を基にした人間らしい社会であるためには、「言葉」だけではなく、「音楽」というものが十分に機能することを重視していくべきではないのかという趣旨の発言であったかと、私は理解しました。いささか私の言葉に変換しすぎてしまった説明になりましたが、こうした趣旨の提言であったと思っています。

 山極のいう「音楽」のイメージはもう一つはっきりしませんが、それでも、前記の坂入の「生で共有する音楽体験」というものと、ずいぶんと近くにあるような気がしませんか。それは、山極の人間の本来もっている「身体と身体を共鳴させることで得られる信頼、共感」ということにも依存して社会をつくってきたという見方と、坂入が論考の前提とする「人間の本質である身体的接触」を通して他人の息遣いを感じることなしに「幸せに生きていくことが難しい」という考え方が、同じ根っ子をもっているからということができます。こうしたコミュニケーションの手段が抑圧されたところでは人間は十分に人間たりえないとしたら、ポストコロナの時代において、「音楽」はこれを補助することのできるコミュニケーションの手段だと考えてもいいように(大層ですが「芸術」を持ちだしてもいいのかもしれませんが)、私は感じています。

 もちろん、私は、山極のいうミュージシャンが配信している音楽に癒されているというのでもなく、まして坂入の「生で共有する音楽体験」をもっているわけではありませんが、本稿で書いているようにCDという媒体を通した音楽も、そうした一部だというのなら、私もその一人だと申し上げても、間違いではないのかもしれません。坂入なら、それはそれで音楽体験だけれど、最高の「音楽体験」は「生で音楽を聴く」ことなのだけれどなどと、やんわりと否定されるような気もしますが。

 いずれにしても、「音楽」というものをめぐって、「言葉」を通してではありますが、ちょっと刺激を受けた体験であったということになります。

 

 CDにしろ、音楽のある時間が増えました。それは吉田慶子の新しいCDを聴きたいという精神状態になっていた5月下旬、つまり緊急事態宣言の「解除」という空気感のなかで、「贅沢な自粛」を自認してきた私も、ちょっと気分を変えたくなったということでしょう。

 机に座っている時間に、CDから音楽が流れているだけで、「聴いている」とはとても言うことができません。「音楽のあるステイホーム」と恰好つけても仕方ありませんが、それでも時に発見することがあります。

 たとえば1975年録音の高橋悠治のバッハです。グレン・グールドのバッハばかり流していましたが、こんなCDをもっていたのかとかけてみると、怪物と表現されてもいる高橋悠治の初心を感じたのです。高橋編曲の「フーガト短調」の音源がユーチューブにありましたのでアップしておきます。

  ◉「フーガト短調BWV578《小フーガ》(編曲:高橋悠治)」1975年録音

  『Yuji Plays Bach』高橋悠治(pf) 録音:1975年7月東京

  同上 曲目一覧

 漁港の対岸の丘に「住吉神社」のある的形の海辺から、帰りは未舗装だが幅員のある海水浴場(今は潮干狩りで開場していました)のためのアクセス道路を通って山電大塩駅の方へ抜けました。

  的形漁港に面した住吉神社の鳥居(停泊中の船名にも「住吉」が)

 帰途の途中、隣接する高砂市曽根町の「曽根天満宮」に立ち寄りました。60年以上も前のことになりますが、父の母、私の祖母が神社近くで一人暮らしをしており、父に連れられてよく訪ねていたのです。そのとき、この美しく整えられた境内を通り抜けていたような記憶があらわれてきました。

 往事茫々と申しあげるほかありません。

  曽根天満宮の本門と本殿 [2020.5.29曽根天満宮で撮影]

  もちろん60年前からあったはずですが(曽根天満宮の境内)

 

2019.08.06 Tuesday

ジャズの<真実>というものー映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』ー

 先月、『ビル・エヴァンス  タイム・リメンバード』(ブルース・スピーゲル監督/2015)というドキュメンタリー映画をみました。立ち見が出ていたという東京とはちがいますが、神戸アートヴィレッジセンターにしては結構な客数が入っていて、そして年齢層も幅広くて、ビル・エヴァンスというジャズ・ピアニストの変わらぬ人気あるいは関心の高さがうかがえるものでした。

 ビル・エヴァンス(1929-80)は、ジャズという音楽、それもジャズ・ピアニストではと問われたら、私の場合も最初に反射的に名前の出てくるジャズ・ジャイアンツです。この映画は、足かけ8年ほどかけて制作されたもののようで、エヴァンス本人の言葉や演奏の映像、そして共演をした多数のジャズプレーヤーを中心に、故郷の人びとや家族などへのインタビューによって、緊密に構成されています。これまで私はレコード、CDのライナーノーツや関連書籍から断片的な情報を記憶しているわけですが、この映画によって、もちろん新たに知ったことも多くありましたし、その乱雑な記憶の断片が統合されたような、反対にもやもや感が一層深まったような気持ちにもなりました。

 そして、最近かげりのみえる音楽への接し方に、カツを入れてもらったことが何よりでした。つまり、この映画がきっかけとなり、ビル・エヴァンスのCD、レコードを久しぶりに聴くことなったということです。

 

 この映画をみて、私自身が強く印象に残ったことをまず書きとめたうえで、ビル・エヴァンスの音楽、ジャズの音楽の本質について綴った後藤雅洋さんの文章を紹介してみることにします。それは、後藤さんの文章が、私の抱いた統合感やもやもや感に応答してもらっているように思えたからです。

 おことわりしておかなければならないのは、本稿は当該映画のパンフレットの力に負っていることです。つまり後藤雅洋さんの文章はこのパンフレットの冒頭におかれたものですし、映画をみながら私の反応したエヴァンス本人や関係のジャズマンたちの詳言もまた、最近にしてはめずらしくパンフレットに「字幕」が採録されており、これに依拠して確かめることができたからです(劇映画ならシナリオに相当)。つまり、このパンフレットがなければ、本稿はそもそも成り立たなかったのです。

 

 本映画の映像で一番印象深かったのは、ビル・エヴァンスのピアノに沈み込むように背を丸くしてまるでその音を確かめるように鍵盤に指をおく、あの姿勢、あの姿です。それはもとよりポーズではなく、エヴァンスが集中して自分の音楽を演奏しているときに自然に現れたスタイルだったのでしょうが、この姿形は、はやい晩年に至るまで変わることなく一貫していたようで、エヴァンスと同義といってよいイメージとなっています。

 今回のチラシやパンフレットの表紙には、日本人写真家の中平穂積(というより新宿のジャズ喫茶・バー「DUG」主人)によって1970年にニューヨークの「トップ・オブ・ゲート」というジャズ・クラブで撮影された写真が使われています。この姿形はエヴァンスと同義と書きましたが、<ビル・エヴァンスの音楽>というものと一体化したイメージとして、つまり彼の音楽と切り離すことのできない演奏スタイルのイメージとして、スピーゲル監督もまた、映画全体の映像の中核においたものと思います。

ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』ブルース・スピーゲル監督/2015年[チラシ表面] 

 この映画の中に何回も登場するエヴァンスの演奏スタイルと呼応しているようなエヴァンス本人の言葉にも出会って驚きました。

 映画の冒頭部、映画全体の主旋律を呈示するところで、「自分の音楽をゼロから創り出したい 積み上げるように/というのは、1音を弾くごとに自分が見えてくるんだ」という語るエヴァンスの声が流れます。こんな言葉が映画の字幕として登場したとき、「1音を弾くごとに自分が見えてくるんだ」からこそ、あの姿形で、エヴァンスはピアノを弾きつつ自分のピアノの音を聴いて自らの音楽を創造していったのだと、ああそうだったのだと今さらのように感じたのです。エヴァンスの音楽は、というより、ジャズの演奏は再現性を求めることのできない一度限りのもので、それがジャズの本質に通じています。

 

 ビル・エヴァンスといっしょに演奏していた方の言葉に宙づりされたような噛み切れない驚きがありました。

 スピーゲル監督がビル・エヴァンスについての映画をつくろうとしていたころに出会ったというベーシストのチャック・イスラエルズ(1931-)の言葉が気になりました。前記の「エヴァンスの声」よりもさらに冒頭、「皆が知りたがる/どんな人物だったかわからない/でも知るべき全てはその音楽の中にある」と、事故死したスコット・ラファロを継いだベーシストの言葉から映画は始まっています。後段はそのとおりと感じますが、前段のビル・エヴァンスという人のことはわからないというのはどういうことかと引っかかったのです。

 文字通り、エヴァンスの人物像は複雑で説明しがたいけれど、そんなことより音楽が全てをもの語っているのだから聴いてもらえればそれでいいのだということなのでしょうか。最初の字幕だから余計に気になったといえますが、スピーゲル監督は意図なくイスラエルズの言葉>をおくわけはありません。

 そして、ビル・エヴァンスと2枚のアルバムを制作した歌手のトニー・ベネット(1926-)の言葉が、イスラエルズに続いて登場し、そして映画の最後にもこれに照応する言葉が語られます。冒頭部では、「何より彼から学んだのは/ひたすら真実と美を求めること」であり、一方、最後の部分には「亡くなる少し前ビルから電話があった/「美と真実だけを追求し他は忘れろ」と/以来この言葉が僕の人生訓さ」がベネットのインタビュー画像とともに種明かし的に登場します。これが映画のキーワード、主要なテーマなんだと気づくのです。

 二人のデュオ・アルバムを聴いたことはありましたが、こんな人間関係があったとは知りませんでした。最後の「美と真実だけを追求し、他は忘れろ」のフレーズは、映画のチラシにも印刷されており、このビル・エヴァンスとその音楽を追求した映画のテーマであり結論のようなもの、ビル・エヴァンスその人が「美と真実だけを追求した」人生だった、それも<ジャズの美と真実>の、ということなのでしょうか。では「美」と対比される「真実」とはなんだろうかという棘のような疑問が残りました。

ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』 [チラシ裏面]

  ビル・エヴァンス ビレッジバンガードライブ コンプリート』3枚組CD

 最後にもう一つ。

 映画の中に登場する楽曲の多くは知っていましたが、これまで曲名を意識したことのなかった<ピース・ピース>という曲に、久方ぶりに揺さぶられるような感覚をもちました。<マイ・フーリッシュハート>以来のことかもしれません。ビル・エヴァンス名義の2枚目のアルバム『エブリバディ・ディグズ』に入っていたそうです。トリオではなくソロで演奏していて、私などエヴァンスはやはりファースト・トリオだと染みついてしまっていることが、これまで聴く耳をもたなかった原因かもしれません。

 前記のチャック・イスラエルズが再登場し、<ピース・ピース>の演奏について「聴いたらわかるさ/その美しさが泣きたくなるよ/何ていうかビルは話しかけてきた/誰とも違う方法で」という言葉で語っています。映画で知って手持ちのオムニバス盤CDで聴き直しましたが、イスラエルズの「話しかけてきた」という表現がふさわしい音楽で、ちょっとドビッシーの音楽に近い響きを感じました。そのCDの解説で岩浪洋三さんはいささか大げさかと思いますが、「豊潤なまでのイマジネイションを音楽のはしばしにまで行きわたらせて、聞き手の心を美の感動で包み込むような演奏である」と書いています。

 <マイ・フーリッシュハート>や<ワルツ・フォー・デビイ>だけがエヴァンスではないよと教えてもらいました。

  ビル・エヴァンス モダン・ジャズ・ジャイアンツ』CD 

  同上 3曲目「ピース・ピース」

 さて、以上、映画をみて強く印象に残ったことを言葉にしてみました。

 エヴァンスの人物像の、彼の音楽と生活の関係の捉え難さ、そして、ジャズの<美と真実>という「真実」を置き換えるべき言葉の浮かんでこないもどかしい思い、エヴァンスのアルバムを聴き返しながら、着地点のみえない宙づりにされた気分が残っていました。

 数日後、たまたまミカエル・ハース監督の長編第2作である『アマンダと僕』をシネ・リーブル神戸でみて感心し、ちょうどこれに呼応するようにアートヴィレッジセンターで上映中の同監督の第1作『サマーフィーリング』へと足を運んだのです。このとき、『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』のパンフレットが目にとまり、字幕が採録されていることを確認して手に入れることにしました。だから、ここから、本稿ははじまったといえます。

 

 帰りの電車で、パンフレットを開き、冒頭の後藤雅洋さんの「ビル・エヴァンスについて」というタイトルの文章を読みはじめたとき、粟立つような共振感覚を覚えました。

 そこでは、私が言葉にできなかった問いが提示され、私の印象に重なる映画の言葉を起点として、後藤さんなりの回答を与えようとしていたからです。今から思うと、映画とパンフレットの間には一週間という期間があったものの、後発のパンフレットによって私の映画への印象が誘導ないし変形されているという側面を否定できませんが、お許しをいただくことにしましょう。

 後藤さんは、ジャズ入門者にビル・エヴァンスの名盤『ワルツ・フォー・デビイ』を推奨するのは、その音楽が「わかりやすく、奥が深い」の一言に尽きるからだとはじめています。こうしたエヴァンスの音楽に対する現行の評価・イメージは、前者の「わかりやすく・親しみやすい」までで止まっており、後者の「奥の深さ」に到達してないように思うとし、では「奥が深い」とはどういうことなのかとの問いというか、問題を提起しているのです。

 そして、映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』は、ビル・エヴァンスの「音楽が持つ「深み」に到達する極めて有効な通路になっている」と評価し、その「有効な通路」である理由を、委曲を尽くして述べているのが、このたびの後藤さんの文章だといえます。

 

 それでは、その内容を要約してみます。

 前記した映画の冒頭の詳言、チャック・イスラエルズとトニー・ベネットの言葉が、「エヴァンスの音楽が持つ独自の強度と、その実直そうな外見を裏切る不可解な人物像を手際よく示唆している」、そしてこれらは冒頭から「映画の結論を示唆している」詳言でもあるのだと、後藤さんは導入していきます。前者の「エヴァンスの人柄について尋ねられるけれど、まったくわからない」という主旨の詳言から、「ジャズの闇」「ジャズの業」、言い換えて「表現者の闇」という言葉を引き出してきます。一方、後者の「エヴァンスから真実と美を追求することを学んだ」からは、表現者における「真実」とは何かと自問しつつ、「ジャズの真実」をかみ砕いて「本物のジャズ」と考えれば腑に落ちると、後藤さんはいうのです。

 前者と後者の詳言をつなぐように、後藤さんは「ジャズミュージシャンにとって、自己表現を行うことが最重要課題」なのだから、ビル・エヴァンスの音楽が「本物のジャズ」であるとは「言い換えれば本質的な「自己表現」がエヴァンスの演奏において実現されているということになるだろう」とし、続けてビル・エヴァンスの「本質的な自己表現」を成り立たせていた背景へと、後藤さんは展開していきます。前者の詳言、エヴァンスの人物像が不可解であったというイスラエルズは続けて「しかしすべては彼の音楽を聴けばわかる」と語っているとおり、エヴァンスの演奏にはエヴァンスその人が全部表現されている、すなわちエヴァンスは「本質的な自己表現」ができていると、イスラエルズが考えていたことに注意しておきましょう。

 

 この背景を、後藤さんはエヴァンスの家族関係や女性関係、さらに終生麻薬から離脱できなかったことなど、どこかに脆さと奇矯さを併せ持つ人物像、何より「音楽が一番」という偏った気質が、人間として生活していくうえにおいて存在自体の「弱点」となっていた点に注目します。逆にこうした「存在の弱さ」こそが「エヴァンスをして音楽に救いを求める動機となっているのだ」とし、演奏行為が常に「音楽を通じた自己実現」につながる保証のないジャズ」の世界において、コンスタントに高いレベルで演奏を続けたエヴァンス音楽の「奥の深さ」とは「彼の存在としての「矛盾」こそが原動力となっているのではないか」と結論づけています。

 いわばエヴァンスという矛盾をはらんだ存在は、ジャズという音楽を通じて表現するほかなく、そのことが「本質的な自己表現」を可能にさせていたのだと、後藤さんは主張しておきたかったようです。

 なお、ピアノに前のめりで沈み込む演奏スタイルは、「1音を弾くごとに自分が見えてくるんだ」と本人の言葉にあるように、「本質的な自己表現」の基盤となっていたともいえましょう。

 

 そして、最後に、後藤さんは、以上のような逆説的な結論を、次のような文章に変奏させ、映画を称揚しつつ、締めくくっています。

 「 ジャズマンが「本物」とみなす、表現された「自己」を裏付けるはずの

  エヴァンスの内面は、「一貫性」とは程遠いのだ。この根源的矛盾。エ

  ヴァンスの実像は画面が雄弁に語っているので詳細は省くが、彼はこのど

  うしようもない内面の矛盾、葛藤を鎮めるため、ひたすら音楽に集中・耽

  溺したのではないだろうか。優れた音楽が生み出される背景の深い闇、そ

  してそれがそのまま音楽の奥深さに繋がるジャズの闇、業の深さをここま

  であからさまに描いた映画は珍しい。それが『ビル・エヴァンス タイム

  ・リメンバード』を第一級のジャズ映画とみなす理由だ。」

 

 以上で後藤さんの文章を要約できたととても思えませんが、これ以上は堂々巡りになりそうで、これくらいにさせてもらいます。

 ビル・エヴァンスという人間の生活(人生)と音楽はいつも矛盾とか破綻という関係をはらんでいたけれど、この根源的な矛盾というものこそが、類いまれな音楽的才能(テクニックを含めて)をもつエヴァンスを、自分の音楽創造へと駆り立て、つまり「本質的な自己表現」を可能にさせ、「わかりやすく・親しみやすい」だけでなく「奥の深い」音楽を、美だけでなく真実=本物のジャズを実現していったと後藤さんは理解していると、私は読んだのです。

 したがって、エヴァンスにとって、ジャズという音楽は、究極は喜びであったはずですが、それは厳しい刻苦を通じた救済というべきもの、言い換えると音楽を通じた<自己の表出>による<魂の救済あるいは解放>というべきもの、であったかもしれないと、私は想像しているのです。

  中平穂積写真集『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』p128-129

  演奏するビル・エヴァンス 1970年7月/ニューヨーク「トップ・オブ・ザ・ゲイト」

 実は、後藤雅洋さんの文章に触発されて、当ブログに書いた記事がもう一つあります。これを補助線の一つとして使ってみましょう。

 ちょうど2年ほど前に「ジャズを聴きはじめた頃にー四枚のレコードー」のタイトルで、1974年の春に初めてジャズのLPレコードを買って聴きはじめた頃のことを書きました。そのうちの1枚が、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』だったのです。

 この文章を書こうとしたのは、後藤雅洋さんが定期購読の月刊PR誌『図書』(2017年9月号)に寄せた「ジャズ・レコード100年」を読んで、ジャズの聴き方について、それはジャズの本質に関わりますが、私にとって目からうろこの刺激的な論考であったからです。そこでは、ジャズの聴き方において、往々にして「メロディ」で把握する傾向があるが、それはジャズの敷居を高くする要因だと指摘しています。そのうえで、ジャズの聴き方は、リズム、ハーモニーを含めた「音楽の三要素」から漏れる要素が大切だとし、それは<「音色」⇒「声質」>や<「ニュアンス」⇒「語り口」>が大事で、これを味わうのがジャズなんだと、後藤さんは強調しているのです。

 そして、同じ噺を何度聞いても面白い落語を例にあげつつ、ジャズもまた、楽器の音色やフレーズ(節回し)に注意をはらって聴いてみると、同じ演奏でも聴こえ方が全く違ってくるから、「ぜひお試しあれ」と勧めているのです。

 

 以上のような後藤さんの主張は、ジャズを「音色」や「フレーズ」という個性の表出に重心をおいた音楽として捉える音楽観を示しています。「音色」や「フレーズ」とは<個性の表現><自己の表現>と密接にかかわっています。つまりビル・エヴァンスの「音色」や「フレーズ」にこそ、まぎれもない「ビル・エヴァンスという存在(個性)」が表現されているのであり、優れたピアニストほど自他を区別する際立った、つまり個性的な「音色」や「フレーズ」を持っています。

 今回の後藤さんの論考のとおり、ジャズの<奥深さ>や<真実>というものがジャズプレーヤーの「本質的な自己表現」なくして存在しえないとすれば、ビル・エヴァンスのワンアンドオンリーの「音色」や「フレーズ」は「本質的な自己表現」の実現を証明していることになります。

 2年前の「ジャズの聴き方」についての後藤さんの提案は、今回の<ジャズの真実>、<本物のジャズ>というものを理解するうえにおいて、切り離せない関係にあると、私は確信しています。だから、ジャズの<奥深さ><本質>に通じる<ジャズの真実><本物のジャズ>は、この「ジャズの聴き方」によって正当な評価を与えることができると考えています。

 

 いずれにしても、映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』は、ビル・エヴァンスの人生が、逃れられない矛盾、葛藤の只中にあって<ジャズの美と真実>に捧げられたものであったことを表現していたのだと、今、私は感じています。

 では、矛盾、葛藤を抱えていなければ、<本物のジャズ>そして<ジャズの真実>に到達できないのかと問われたら、どうでしょう。私にはわかりません。あくまでビル・エヴァンスというジャズの世界においてモーツァルトやベートーヴェンに匹敵することになっていきそうな音楽家にとって、そうであったのだというほかはないでしょう。

 この映画と出会い、直接的にはその映画パンフレットが相乗して、浅いレベルにせよ、<ジャズの真実><本物のジャズ>へと話を進めていくことができました。文章の展開において論理性に欠けた部分を修正しきれなかったとの思いが残りますが、ビル・エヴァンスに、そしてビル・エヴァンスの音楽にちょっと近づけたような気がして、そのことを楽しんだ私がいたことを報告させていただきます。

 

 本稿で繰りかえして言及した3曲を、ユーチューブから、貼り付けておくことにします。

 なお、<マイ・フーリッシュハート>と<ワルツ・フォー・デビイ>は、1965年3月19日のロンドンでのライブ演奏で、ベースは前記のチャック・イスラエルズ、ドラムスはラリー・バンカーです。あまり音質がよくないのですが、ビル・エヴァンスの演奏スタイルをということでアップしました。

 

 🔹「マイ・フーリッシュハート

 

 🔹「ワルツ・フォー・デビィ

 

 🔹「ピース・ピース

 

2019.04.18 Thursday

音楽はオールドフレンドーサイモン&ガーファンクルー

 音楽がオールドフレンドになってから久しいと感じています。大そうな言い方になりますが、日常という地平から音楽が遠のいているという感覚をもっています。私にとっての日常というか、暮らしに欠かせないものを問うてみても、テレビ、本、映画、美術、歩行などと並べて、音楽をピックアップすることがためらわれてしまいます。

 このことは、当ブログを始めた頃にアップした記事(2015.11.14「「音楽」があるということ」)で告白していて、テレビのデジタル化によって録画の質・量が向上したことが、間接的に音楽との距離を遠ざけることになったのかもしれないと書いています。もちろんテレビ番組の録画や映画を通じて音楽に接することはよくありますが、私の中で、音楽との距離感は身の回りにCDやレコードを再生する装置があってもほとんど機能させていないことに直結しています。つまり、音源再生やコンサートを通じて、いわば直に音楽を経験する時間がグーンと減ってしまったのです。

 もう一つの理由として、皮肉なことに、このブログの、準備も含め、文章を綴るために必要な時間が、これも間接的に音楽の時間を埋めているのかもしれません。バックグラウンドミュージックとして音楽を流しながら作業することには、ちょっと違和感があるのです。

 

 いつものとおり長い前置きになりましたが、今回は、あのなつかしいサイモン&ガーファンクルの音楽に再会できたことを書いておこうと思います。

 それは、自発的にというより、ひょんなことがきっかけとなりました。

 

🔹ひょんなきっかけー「橋本治」という人ー

 ひょんなきっかけとは、『S&Gグレイテスト・ヒッツ+1』(1984年3月/大和書房)と題する本を「花森書林」で手に入れたことです。この小説集の著者は橋本治であり、サイモン&ガーファンクルの代表曲のタイトル、すなわち「SIDE-A」7曲、「SIDE-B」7曲、そして「AND」1曲の計15曲のタイトルが、それぞれ表題となった短編小説で構成された作品集なのです。だから、この本の目次は、サイモン&ガーファンクルのベストアルバムとしてLPレコードに集められた曲集といってもおかしくないのです。

 15編のうち9編は1978年から雑誌『野生時代』に掲載されたもので、残りは書き下ろしですが、あとがきで、橋本治は「5年前は下手だった」ので「5年経ったら書き直した」と記しています。にもかかわらずなのか、だからしてなのか、この本の表紙には「今、時代が<新しい青春小説>を生んだ。天才・ハシモトがS&Gの名アルバムにのせて贈る圧倒的傑作。」とあります。

 そんなことはわかりませんが、私はほとんど読んでいない橋本治という作家名より、本の書名に魅かれたのでしょう。とにかく、私は、この小説を読む前から、このタイトルを見ただけで、サイモン&ガーファンクル(以下では「S&G」と表記します)を聴きたくなってしまいました。

  橋本治著『S&G グレイテスト・ヒッツ+1』 1984年3月刊/大和書房

  同書の裏表紙にある目次一覧

 ここで橋本治(1948-2019)という人のことにふれておきましょう。

 というのは、現時点で、定期的に愛読するウェブ上の文書で最も好きで敬愛する津野海太郎の直近の文章(2019.4.5「往年の眼力(読書日記)」)によって、読まないままでちょっと得体のしれなかった橋本のことが少しわかったような気になったからです。

 今年の1月末に亡くなった橋本治への追悼文を読んでいて、同じ団塊世代の人たちにとって、1968年11月の東大駒場祭ポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男 東大どこへ行く」を描いた橋本治の登場がもっていた意味の大きさをあらためて知ったと、10歳ほど年上の津野は自分はショックを受けなかったとしつつ記しています。こうしてイラストレーター、コピーライターから出発した橋本は、その後作家として常識的な尺度に収まらない活動を続けてきました。

 津野は、数多い追悼文の中で、内田樹の文章だけが「世代限定でない橋本治の力」をズバリ指摘していたと評価していますので、再録させてもらいます。

 「 ……橋本さんがその全作家活動を通じて実行したのは説得でもないし、

  教化や啓蒙でもない。ひたすら説明であったと思う。(略)橋本さんの「説

  明衝動」をドライブしているのは「やさしさ」である。「どうして物を

  知っている人間は、物を知らない人間に対してやさしくないのかなァ」と

  橋本さんは書いていた。だから、橋本さんの書くものはすべて「物を知ら

  ない人間に対するやさしさ」に溢れている。その気づかいを「徳」と僕は

  呼ぶのである。(「橋本治さんは仏さまのような人でした」)」

 こうした内田の文章を受けて、津野は橋本の作家活動について「勉強衝動」と「説明衝動」の視点から論じていますが、割愛し、最後の文章だけを引用しておくことにします。

 「 「勉強」と「説明」ーーそのどちらもが学校教育によって形骸化され

  た、くすんで、うっとうしいコトバである。ところが、そのくすんで、

  うっとうしいコトバを橋本治という場におくと、意外にも、それがいきい

  きと新鮮なコトバとしてよみがえる。すたれて古びたコトバから、そこに

  本来あったはずのよろこびをあやうくすくいとる。そのような知的マジ

  シャンの名人芸がいま失われた。そういうことなのかもしれない。」

 津野と内田によると、これまで作家として論じられることの少なかった(というより難しかった)橋本治という人はこんな作家だったのであり、『S&G グレイテスト・ヒッツ+1』は、1977年の最初の小説『桃尻娘』に続くまだ初期のころに書かれたものでした。

  橋本治の「1968年11月の東大駒場祭ポスター」

 

🔹あの頃ーS&Gの記憶ー

 私的な記憶になりますが、サイモン&ガーファンクルの音楽との出会いを確認しておくことにします。

 先の橋本治の「とめてくれるなおっかさん」が話題となった1968年は、田舎の高校を卒業して東京で浪人生活をおくっていました。千葉の下総中山にあった予備校の寮から御茶ノ水の予備校に通う毎日でした。学生運動が頂点にさしかかった時期にあらわれた橋本のコピーを知っていましたが、それだけのことだったと思います。高校生の頃にビートルズをスルーしたように、橋本のコピーも「それなに」と思ってやり過ごし、大学入試がどうなるのかを気にかけていたのでしょう。

 そんな1968(昭43)年、S&Gの代表曲「サウンド・オブ・サイレンス」は映画『卒業』公開(日本では1968年6月)に連動して再発売され、オリコンチャートをかけあがり大ヒットとなりました。私といえば、カルチェラタンと呼ばれた御茶の水の学生街に流れていたのを聞いたことはあったでしょう。でも映画を観ることなど思いもよらない頃で、この時点も見事にスルーしていたのです。もとより私には感度などというものがないに等しいのだと振りかえるしかありません。

 

 S&Gの音楽をはっきりと意識したのは、映画『卒業』をみたとき、大学入学後の1969年(1970年かもしれません)のことでした。映画の全編にS&Gの楽曲が多用されており、気持ちよく美しい響きは無知な私にとって新鮮というほかなく、異次元を体験したような気分になったのです。

 特にラスト、主人公の青年ベンが結婚式の始まった教会へ駆けつけガラス戸を叩いてエレーンと叫んで花嫁といっしょに逃げるシーン。そこに流れる「サウンド・オブ・サイレンス」は映像と音楽が重なり合うように共鳴して圧倒的でした。その歌詞が映画の字幕に表示されていたのかどうかは不明ですが、今となっては、なんと難しい言葉が歌詞となってしかも詩句だけが先行することのない音楽になっていることに驚愕したのだと記憶しているのです。こんなふうに「歌詞」と単純に呼ぶことがはばかられる本格的な「詩」であっても十分に「音楽」になるのだと知ったということなのでしょう。

 事前にS&Gはポール・サイモン(1941-)とアート・ガーファンクル(1941-)という小学校からの同級生というユニットであることぐらいは知っていたでしょう。でも今のようなネット情報のない時代ですから、そしてレコードの再生装置をもっていないころでしたから、その後は、たまにラジオから流れるS&Gの音楽を、ああいいなあと聴いていただけのことだと思っています。

 

 もう一つの記憶は1973(昭48)年のことです。

 当ブログで何度もふれてしまっていますが(それだけ私の人生においてエポックなことでした)、学部卒業直前に診断された肝臓病(今の病名では「C型慢性肝炎」です)で大阪市の十三市民病院に7ヵ月間入院していたことがありました。夏の終わりのころだったでしょうか、消灯時間後にイヤホーンを通して流れてきた「明日に架ける橋」を聴いていたときに、不意に涙が流れたことが結びついて記憶しているのです。

 楽曲の演奏と同時に歌詞の意味を日本語で理解する能力は当時からありませんので、番組の中で事前に歌詞の説明があったのでしょうか。それも頭に入れながら聴いていて、自分の無力を、つまり「明日に架ける橋」になれそうもない境遇におかれていることを再確認したためであったのでしょうか。当時、私には、両親を含め他者が私の「明日に架ける橋」になろうとしていることが全くといっていいほどみえていなかったのです。

 記憶ほど危ういものはありません。後で繰りかえし反芻するなかで自分で脚色してセンチメンタルな記憶にしてしまっているのではないかと疑ってもみます。でも「涙」の背景までは確信がもてないのですが、「明日に架ける橋」を聴いていて涙が流れたことだけは、本当の出来事だったと思っています。 

 

🔹S&Gの詩と音楽

  私のS&G体験は、半世紀前後も以前ということになりますが、「研ぎ澄まされた凄み」と表現したいすばらしい音楽体験としてずっと残ってきたように思っています。二人のハーモニーはもちろんですが、どちらかといえば楽曲の作り手であるポールよりアートの透き通った天上的な高音に魅せられていたことを覚えています。

 でも同時に、病院ではジャズが自分の音楽だと思い、退院後、下宿に廉価な再生装置を備え、S&Gのレコードを買うことより先に、ジャズのレコードを探しはじめました。その後も、音楽に対する現実の嗜好は、ジャズから、日本語のフォーク、クラシックのピアノ曲、ジャズボーカルなどへと次々と広がりながら行きつ戻りつしていきました。そして、出会いから20年以上経ってから、私にとって古典であるS&Gの中古レコードを再び聴いてみようと手に入れたりするようになったのだと思います。

 今回、再生しようとレコードとCDを探しましたが、たった二組しかありませんでした。日本編集のベスト盤であるギフトパック2枚組『サイモン&ガーファンクル<青春の軌跡>』(1973年)と『ポールサイモン・ソング・ブック』(1969年/最初の英国盤は1965年)しか出てきません。確かにアート・ガーファンクル単独のレコードもあったでしょうし、1981年にS&Gが復活し、53万人もの観客が集まった『セントラル・パーク・コンサート』もよく聴いていた記憶があるのですが、途中であきらめました。

 

 今、それこそ音楽に現役感のある若い人たちにS&Gを聴いてもらったら、どんな感想が飛びだすでしょうか。えー、50年も前にこんな音楽が全米1位になったの、日本でもこんなものが流行ったのか、やっぱりずいぶんと古びた音楽じゃないか、こんな感想が返ってくるでしょうか。こんなことをおそれつつではありますが、今回、私の再聴した感想をズバリと書けば、この50年前の楽曲群は、ああなつかしいだけではなく、古びてもいないし、普遍的な力をもった詩であり音楽だと感じたと申し上げておきたいのです。私にはポピュラー音楽の歴史を俯瞰する能力はありません。けれど、S&Gの音楽は、フォークを原点とする詩を詠うというスタイルをポップ音楽へ見事に持ち込んでみせた(今の表現では「アップデートした」というのでしょうか)という点において、20世紀音楽の古典たるべきポジションにふさわしいものだと確信しました。

 結局、こんな私の感想は、今は音楽から離れた位置にいる者として、いわば音楽から見離されようとしている老人による強がりのようなものなのかもしれないと心配になったりもします。でも何か感想を書こうとしたら、自分の感じたことを書くしかありません。たとえば、日本語の音楽であれば、中島みゆきに近い部分を感じますが、彼女は、S&Gと違って、今もなおingの創造者であり表現者なのです。一方、S&Gは、間欠的に活動を繰りかえしてきましたし、ポール・サイモンの方はソロでは継続的に創造者かつ表現者であったわけですが、私の再聴できたS&Gの楽曲は、1960~70年代前半の作品に集中しているところが違っていて、比較が難しいのです。けれど、虚心にS&Gの音楽を聴いていると、やっぱりとても美しいし、かつ力強いし、音楽的な冒険もやっているようだし、その上、詩句は今もなお現代を照射しているところが感じられるのです。

 改めて、先の代表的な2曲だけでなく、「アイ・アム・ア・ロック」「スカボロー・フェア」「冬の散歩道」「ボクサー」「コンドルは飛んで行く」「キャシーの歌」等々、粒よりの楽曲群だったことがわかります。総じていえば、S&Gの音楽とは、内省的でセンシティブな若者(ポール・サイモンということになりますが、天才的個人だけでなく時代背景やNYという環境もあります)が、激動する60年代のアメリカ社会の現実に正面から対峙する中で生まれた歌であり、その意味では次代への「明日に架ける橋」たらんとしたものであったといえるのかもしれません。そして、今、読んでいても、ポールの歌詞(彼の思索と洞察の結実なのでしょう)は、60年代の問題が、50年後における現代の問題ともオーバーラップしていることを証明しています。

  『サイモンとガーファンクル<青春の軌跡>』ギフトパック/1973年/CBSソニー

  『ポール・サイモン・ソング・ブック』1965年発売分と同じ

 ここでは、もう少し、前述した代表曲「サウンド・オブ・サイレンス」にふれることにしましょう。

 「サウンド・オブ・サイレンス」は、不思議な経過をたどりました。1964年にサイモン&ガーファンクルは最初のアルバム『水曜の朝、午前3時』でデビューしますが、惨憺たる売上げに傷心し、二人は逃げるようにイギリスへの旅に出てしまいます。ポールだけがイギリスに残りライブハウスで歌っていた1965年に、アルバム収録曲だった「サウンド・オブ・サイレンス」(伴奏はポールのギターのみ)を、プロデューサーが二人に無断でアレンジを加えて(エレキギターやドラムなどによってビートを強くした)オーバーダビングし、シングル曲として発売したところ、大ヒットしたのです。そして、映画『卒業』(最後に流れるのは新バージョンだそうです)にも使われ、全世界でヒットしていくという道をたどりました。

 これら3つのバージョンは、当然、ボールとアートの二人で歌っています。今回、私の手持ちにあった『ポール・サイモン・ソング・ブック』、ポールがイギリスで録音し1965年8月に発売されたアルバムですが、この中でポールは一人で「サウンド・オブ・サイレンス」を歌唱していて、合わせると全部で4つのバージョンがあるということになります。

 

 以上は伝記的事実ですが、私が気になるのは「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞です。のちにポールはこの詩作に4ヵ月をかけたと語っています。

 この機会にギフトパック盤の日本語訳をはじめ、ネットでいろんな日本語訳に接してみましたが、なんだか腑に落ちないところが残ります。私の理解力が足りないことはもちろんでしょうが、ネット上において同趣旨のことが論じられたりもしています。題名の「the Sound of Silence」にしても、最初に日本語タイトルで候補になっていたのが「孤独の世界」だったのであり、直訳の「沈黙の音」をはじめ、「沈黙という音」や「沈黙の世界」などがネット上で挙げられています。最後の「沈黙の世界」と翻訳された方が掲示板に記しておられるとおり(2011.12.5「「沈黙の世界」~訳と解釈」)、ポール・サイモンは「現代は沈黙の支配する世界、人々が本来の言葉を発する事をしない世界なのだ、という事をこの歌で言おうとした」のだとされています。私もそのように理解したいと思っています。

 「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞は全部5連からなっています。その後半の3連、先の「沈黙の世界」と翻訳された方は、第3連で「現代社会についてのビジョンの内容」を、「誰も世界の真実に触れる歌を書こうとしない」などと提示し、これを受けた第4連では「「僕」の側からの働きかけ」として現代社会の人びとに呼びかけはするが当然のように無視され、そのうえで、第5連で「ネオンの神の支配」として、すなわち「現代の世界を支配する神、つまり、商業主義という事」を、「コミュニケーションの不在、会話の拒否、一方的な押し付け」(=「沈黙の世界」)に象徴される支配的な現実として描いていると解釈されているように理解しました。そして最後に、こんな文章をおいています。

 「 そして、この現代の全能の神も、沈黙の閉ざされた世界に対しては、

  「ささやく」ことしかできません。自らが手を貸した沈黙の世界をどう

  処置する事も出来ないわけです。「僕」の言葉が音のない雨粒となって

  落ちていったように。それは放置され、今後もガンのように増殖してい

  くのだ、という事になります。」

 この文章を書かれた方の真意をどこまで理解できているのか自信がありませんが、50年後の現在に通じる示唆が与えられているように感じています。この21世紀の情報社会において、一方的に、大きな声、大きな音はたれ流しされているが、どこに真実があるのか分からない、本当の言葉がみつからない、対話のきっかけは遮断され、分断され、無力感という沈黙の世界が支配している、こんな雑だけれど、一定の真実でもある表現を使ってみたくなりました。

 

 いささか大げさになりました。もう一つだけ付け加えておきたいのは、第3連で「誰も真実の歌を書こうとしない」などとしたうえで第4連の冒頭に「¨Fools!¨said I」という、これを否定する詩句がおかれています。S&Gの二人バージョンではハーモニーを崩さず歌っていますが、1965年の『ポール・サイモン・ソング・ブック』では、ポールが怒りを抑えきれないように「Fools!」を「馬鹿者」とでもいうように強い調子で歌っています。こちらの歌い方にポールの真意があったように感じました。

 日本語訳の記載のある「サウンド・オブ・サイレンス」と「明日に架ける橋」(いずれも訳詞は「Kei」とクレジットされています)を、ユーチューブから貼り付けておきます。

 ◎「サウンド・オブ・サイレンス 

 ◎「明日に架ける橋

 

🔹「ふつう」という問題ー橋本治の「明日に架ける橋」ー

 S&Gの音楽を再聴する機会を、ひょんなことからつくってくれた橋本治の『S&G グレイテスト・ヒッツ+1』のことにも言及しておきましょう。

 橋本の初期の短編集ということになりますが、最近、ほとんど小説を読んでいなかったせいか、はたまた、若者である「僕」「ぼく」の饒舌的なモノローグを共通項とする作品だからか、ちょっとしんどかったというのが本音です。

 

 ここでは「明日に架ける橋」をタイトルとする短編を取り上げますが、その前に「サウンド・オブ・サイレンス」にもふれておきたいのです。前述したとおり全15編はS&Gの楽曲のタイトルを作品名としているわけであり、それぞれが独立した内容になっています。ただ、「サウンド・オブ・サイレンス」と、それに続く「アイ・アム・ア・ロック」だけは、一連の作品となっているのです。

 大学生である「僕」がある朝目覚めたら「ただの岩になっていた」というようなカフカ的世界なのです。ああでもありそうだし、なさそうだし、とモノローグするだけの内容なのですが、「アイ・アム・ア・ロック」の最後に、落語でいう「下げ」が待っています。一週間ほど岩状態が続いたあとで、「なんだか腹が減ってきた」という身体感覚から、「あ、そうだ。飯を食いに行こう」になって、「岩状態」から離脱するのです。そして、最後の一行は「斯くして僕の新しい人生は始まったのである。」で終わっています。

 明らかに「アイ・アム・ア・ロック」の歌詞「僕は岩 ぼくは島なのだ」に触発された内容ですが、私にはどこが「サウンド・オブ・サイレンス」へのレスポンスなのはよくわかりません。一週間の「岩状態」は「沈黙の音」に通じているのでしょうか、これもよくわかりません。「僕の新しい人生」とは、青春からの旅立ち、大人になる意志の表明ではないかと思ったりもしました。

 

 それで、橋本治の「明日に架ける橋」です。

 1970年に発表されたS&Gの「明日に架ける橋」の歌詞は「サウンド・オブ・サイレンス」などとちがい、シンプルな詩句からなっており、「Like a bridge over troubled water/I will lay me down」が繰りかえされます。もともとゴスペルに原曲があったといわれており、今回、ネットで検索してヒットした中で、泉山真奈美という方の文章(2011年「歴史を彩った洋楽ナンバー/第12回」)から締めの部分を引いておきます。

 「 この曲のメッセージを凝縮するなら、「見返りを求めない献身的な救い

  の精神」であろう。そして1970年代当時、とりわけヴェトナム戦争以降

  の社会の不穏な空気に漠然とした不安を感じずにはいられなかった人々の

  心に、曲のメッセージは深く沁み入ったのである。あれから40年以上も月

  日が流れたけれど、大震災を経験した多くの日本人を含めて、今も世界の

  あちこちでこの曲に励まされる人々がいるはずだ。」

 さて、橋本の小説の方です。主人公は14歳、そんな「ぼく」は歩くことのできない障害をもち、一週間に1回、大学生のボランティアに付き添われて車イスで病院へリハビリに出かけています。小説は「ひとりで歩いていた」夢を見たからはじまり、病院でのリハビリ、そして帰り道に町を散歩したりします。学校へは行けず、ボランティアから教えてもらっている状態です。

 この間、「ぼく」は「自分がふつうにしていればふつうの人間になれると思っていたけれど」、「ぼくはふつうの人間になれないかもしれないなァ」、でも「やっぱりぼくは、ふつうの人間だと思うんだ。だって、ふつうの人間みたいに、……頭の中でものを考えることができるんだもの」と、《ふつう》という言葉をグルグル反芻しながら自問自答を続けていきます。そして、こう思ったりもします。

 「 ぼくは好きで、人とちがっていられるんじゃ、ないんだよ。ぼくははじ

  めからこうだったんだよ。どうしてぼくはいっしょうけいめいにがんばら

  なくっちゃいけないの?ぜったいに、ぜったいに、ほかの人はいつだって

  ずるいよ。だったなんにもしないんだもの。ほかの人はいつだってふつう

  に生きていられるんだもの。見るだけなんて、やっぱりずるいよ。ぼく

  勉強なんて、したくない!」

 このように思いながらも、最後の場面、「ぼくにはなにができるんだろう?人になにをしてあげられるんだろう?」と自問しつつ、かつて病院で同室であった少年に「ぼくは思わずにっこり笑った」ことを思い出します。でも、その少年は「チェッ、バッカらしいのォ」と反応したとあります。それでも、少年は「ぼくだって、人に笑いかけてあげることぐらいはできるんだって」という事実にぶつかります。

 「今のぼくにはなんにもできない」けれど、「希望などもたないほうがいいけれど、でも絶望だけだと、やっぱりなんにもなくなるもの」に続く、最後の文章を書き写します。

 「 雨はズーッと降っていて、おでこはだんだん冷えてくる。頬っぺたを窓

  ガラスにくっつけて、ぼくはひとりで練習するんだ。誰かがぼくの前に来

  た時、なにかをしてあげられそうな誰かが来た時、¨ウン¨と笑いかけてあ

  げれるように。

   雨は静かに流れている。ぼくはいつでも思うんだーー誰かになにかをし

  てあげたいって。」

 まずい紹介ですが、この短編は、S&Gの「明日に架ける橋」に対する橋本治らしいレスポンスであったことだけはわかっていただけたのではないでしょうか。若き橋本は、「I will lay me down」をこう解読したのです。

 「ふつう」ということにこだわらざるをえない少年が、自分のことだけでなく、他者というものを見出し、「誰かになにかをしてあげたいって」という地平へと到達していく物語だといえます。前述のとおり「明日に架ける橋」に対し、泉山さんは「見返りを求めない献身的な救いの精神」というメッセージの存在をみていますが、「希望などもたないほうがいいけれど」と自問する少年は自分のなかにもそのような可能性の萌芽を発見する成長の物語です。比べようもないことですが、学生時代の長期入院によって私の直面することになった問題とも無関係とはいえないでしょう。

 この橋本治の「明日に架ける橋」は、彼の作家的想像力の確かさを疑うことのできない作品だと思っています。

 

🔹おわりにーオールドフレンドである音楽ー

 若きポール・サイモンが作詞した「旧友(オールド・フレンド)」は、暗い色調を帯びています。年老いた仲間(友人同士)が、冬の公園のベンチ(両端)にブックエンドのように座り、オーバーコートにうずまって、夕暮れを待っているという情景が描かれます。そして、続く詩句は次のようなものです。

 「 Can you imagine us

         Years from today,

         Sharing a park bench quietly?

         How terribly strange

         To be seventy.

 

         Old friends,

         Memory brushes the same years.

         Silently sharing the same fear……

 

   君には想像できるかい

   今から何年も先に

   ぼくたちがぽつりと公園のベンチにいる姿を

   70歳になるなんて

   とても不思議だな

 

   年老いた仲間

   想い出が同じ何年間かを駆け抜ける

   静かに同じ怖れを抱きながら          」

           [前記のギフトパック盤より/ただし翻訳者名は未記載]

 この詩句からは辛そうな情景が浮かんできますし、70歳に手が届きそうな私も「とても不思議だな」とは感じています。でも、実際の私はこうした情景を現実としていないわけですが、本質においてはこのようなものかもしれないと思ってみることはできます。

 私は、ベンチの両端に「私」と「音楽」が静かに座っている姿を想像しています。オールドフレンドですから、あまり口をきくことはなくても、お互いに相手のことを気づかい思いあっている関係でありたいのです。そして、今回のように第三者から声かけがあれば、すぐにまた近づいて親しくなれる関係を続けていきたいのです。そのような意味で、橋本治は私が旧友であるS&Gの音楽と再会するのを媒介してくれたということになるのでしょう。

 それにしても、ノンジャンルといわれる時代にあって、クラシックでは古典は古典で懐メロなどといわれませんが、ポピュラーでは往々にして懐メロ扱いされます。半世紀前のS&Gの音楽は私にとっての古典というだけでよいのかもしれないけれど、ただなつかしい音楽にとどめてしまうことはもったいないような気がします。ポップ音楽は時代との密着度が高く、そのことが壁にもなっているのかもしれません。だが21世紀の初頭が過ぎ去ろうとしている現在、ジャンルをこえて20世紀の膨大な音楽群から古典の存在を明らかにしていくことも大切だと思っています。

 古いものだけを珍重するのではなく、こうした営為こそ(批評行為)が現代の文化というものの一側面でなければならないのでしょう。

 

 以上、まことに下手な比喩で恐縮ですが、私は、オールドフレンドである音楽と、つかず離れずといいますか、よき関係でありたい、そして時々はかくあらねばなどという義務的なものでなく、鶴見俊輔の「社会的な枷からの自由」を得た老人として、虚飾を排した本質を楽しめる関係であり続けたいと願っています。

 

2018.07.14 Saturday

このひそやかなものー吉田慶子のボサノヴァー

 こんな蒸し暑い梅雨明けに、道路や家に流れ込んだ土砂をけんめいに片付けている映像が流れています。私の同輩や先輩と見受けられる年配の方々が汗を流している姿を、気の遠くなるような思いで眺めました。

 

 先週から、すっかり忘れていた<音楽を友とする暮らし>が少し戻ってきていました。雨で外出もできずに鬱陶しくなる日、何か音楽をと思って手がのびたのが、吉田慶子のCDでした。それから、机の前にいる時間にはいつも、彼女の音楽が、彼女のポルトガル語が、ひそやかに響いていました。

 手元にある二枚のCD以外にリリースされているかしらと調べてみると、最近、といっても2014年ですが、もう一枚が出ていました。数枚の自主制作盤を除く、いわばメジャーのCDはこの三枚だけです。無性に欲しくなって、入手可能な方法であるアマゾンを通じて注文すると、今週の月曜日に届きました。私にとって、初のアマゾンです。足の動く間はアマゾンなど使わないぞと決めていたはずなのに、どうしたことでしょう。

 手元にあった二枚のCDは、数年以上前に中古のレコード屋さんで、何かで読んで知っていた吉田慶子のだと見つけて、ようやく手に入れたものでした。それまでに聞いてきたボサノヴァ、ブラジル音楽とはまた肌触りのちがう音楽で、美しいというほかなく静かに胸をうつ音楽で、私の中に比較すべき対象のない音楽として住みつくことになったのです。

 この機会に、吉田慶子の音楽を、三枚のCDを、こんな歌い手もいるのだということを紹介させてもらうことにします。

 

 ここで、ぐだぐだ書いてしまう前に、まずは吉田慶子の音楽を感じてもらいたいので、ユーチューブをアップしましょう。

  ◎「Sabor a mi-keico yoshida & shigeharu sasago

 

 どうして吉田慶子のポルトガル語はこんなに美しく響くのか、バイオグラフィーもわからず、もしかしたら小野リサさんと同じでブラジル生まれなのかなと思ったりしていました。今回、ネット上で2015年のインタビュー記事に出会うことができましたので(「マイライフ、マイジョアン」)、少しだけわかったような気になった点を、まず書きとめておくことにします。

 27歳のときに人生が変わったとあります。仕事帰りにCDショップから流れてきたブラジル音楽に興味を覚え、夢中で傾倒していきます(「恋に落ちたというしか言いようのない感じですね」に「そう(笑)」と返しています)。仕事をやめ、30歳を過ぎて定期的にライブで歌いはじめ、2000年にはポルトガル語を習っていた留学生夫婦の帰国にあわせ、ブラジルへ行き(音楽のためだけではありません)、半年間滞在して帰国、それからずうっと音楽活動を続けて、今に至るという方のようです。

 東京生まれ、小学校に上がる前に福島の南相馬に移住し、高校卒業後、地元で就職(銀行?)、結婚して子供が生まれ、そして離婚して、再び両親と暮らし始めた頃に出会ったのが、ブラジル音楽だったのです。「「わたしはなにをやりたいんだろう?」みたいなことを考え始めて。/その流れのなかで離婚もしたし。/そのすぐあとなんですよ、ブラジル音楽に出会ったのは。」と語っています。とにかくそれまで縁もゆかりもありませんでした。

 それから10数年を経て、2011.3.11の震災を経験し(南相馬の自宅は緊急避難準備区域)、避難した東京へ拠点を移しました。そして子息も社会人となって一人立ちされたとあります。「あの震災はわたしにとっても、やっぱりすごく大きかったですね。/で、ひとことで言うと、「好きなことをやって生きていこう」と、さらに強く思うようになりました」と、地震のあとは、自分がイヤなことはやらないという気持ちがより強くなったと繰りかえしています。

 もちろん、好きなこととは「わたしがやってきたことは、うんと小さくて、こじんまりしてて、けっして華やかなものじゃないけど、それが好きで好きで、地震の前から、ずーっとやってきたことなんですよ」という<吉田慶子の音楽>にほかなりません。 

  『JOAO GILBELTO in Tokyo』2003年の初来日時のライブ録音 

                 ライナーノーツの見開きページ

 ◎「Chega de saudade-Joǎo Gilberto

 吉田慶子が最も影響を受けたのが、というより、何より好きな音楽家は、最初は「なんだろう、このボソボソ声」と感じていたジョアン・ジルベルトだといいます。「ジョアンのギターと歌の世界って、そこですべてが完結されているの。メロディーとリズムとハーモニーがすべてその中に入ってる」、その傾倒ぶりは「ほんっと完璧。ポルトガル語の響きも含めて、わたしが美しいと思うすべてがそこに入っているんです。それに気づいてからはもう夢中(笑)」だったそうです。そしてジョアンのデリケートな歌唱法を、音楽を、吉田慶子は自分の音楽の表現として身に着けていったといえます。

 ボサノヴァの神様と呼ばれることのあるジョアン・ジルベルト(1931-)は、1950年代後半のボサノヴァ音楽の誕生に、アントニオ・カルロス・ジョビンらとともに、創始者の一人として関わった人です。ボサノヴァ音楽とは、その母胎となったといわれる1930-40年代のサンバ音楽「サンバやショーロをはじめとするブラジルの伝統的な大衆音楽、特にサンバ・カンソン」を基に、「中産階級の若者たちが求めていた心地よく洗練されたサウンド、「新しい感覚」のサンバとして成立した」と、ウィキにはあります。

 ジョアンはささやくように歌うとよくいわれていますが、吉田慶子もCDの帯には「奇跡のウィスパー・ヴォイス」「時間の流れを止めるようなウィスパー・ヴォイス」などとされ、その歌い方において同質のものを感じられる方も多いことでしょう。吉田慶子の個性が、本質が、ジョアンへと導き、導かれたと申しあげるしかないのですが、インタビューの最後のところで「なによりジョアンを聴いていて思うのは、音楽は勝ち抜きじゃないってこと」という、吉田慶子が自身の音楽のマニュフェストとしているようなジョアンの音楽への思いを語っています。

 「 そう。音楽も、今は勝ち抜きみたいになっているでしょ。オーディショ

  ンがあったり、売れることが大事だったり。音楽業界のしくみ的に、勝ち

  抜いていかないと音楽そのものをやり続けられないようなところもある。

  私もジョアンを聴く前は、そういうものだと思っていたんです。でも彼の

  音楽はそういうところにはないんですよね。誰とも競わずに生まれる美し

  い音楽。そういう音楽を演奏して歌っていく道もあるんだなぁと、私は彼

  と出会って知ったの。そういうことをね、ジョアンを聴くと感じると思う

  し、そういう場所にこれからもずっと自分がいられたら幸せだと思う。」

 「誰とも競わずに生まれる美しい音楽」とは、吉田慶子の音楽そのものなのであり、私の感じた「比較すべき対象のない音楽」とも通じています。

 

 さらに、このインタビューでは、ジョアンの音楽と関連づけて吉田自身の音楽も語られています。吉田慶子のレパートリーはボサノヴァ誕生前後の時期を中心とするブラジル音楽ですが、ジョアンの音楽が陽気で華やかというブラジル音楽とはちょっと異質な表現であるように、ご本人もまた自身の音楽がブラジル音楽的ではないのではないか、と興味深い告白をしています。ジョアンが好きで自分の音楽につながっていると感じているところを、次のように話しています。

 「 ジョアン・ジルベルトはボサノヴァと言われるけど、実際に歌っている

  のは古いサンバカンソンなの。彼が歌うとボサノヴァと言われる、という

  だけで。つまり彼は、サンバカンソンから華やかさを取りのぞいて、楽曲

  の核みたいなものを抽出したんですよね。楽曲を大事にすることで、その

  曲をまったく別の物としてよみがえらせた。わたしがジョアンを好きなの

  はそこなんです。だからわたしも歌うときは、楽曲の核、美しさの核を大

  事に思って歌っています。」

 「美しさの核」、そぎ落としたあとにみえてくる核、そのエッセンスを「美しい」と感じて成立しているのが、吉田慶子の音楽なのでしょう。また、ポルトガル語、とても言葉を大切に歌っているように感じられる吉田慶子ですが(もちろん大切に歌っていますが)、「どちらかといえば歌詞そのものはあまり重要視してないの」と、次のようにも話しているのです。

 「 日本語の歌詞をあまり聴かないのも、ひとつには歌詞があるかもしれな

  いですね。歌詞が音楽の邪魔をして、曲に入り込めないんです。音の美し

  さに感動したいのに、具体的な言葉がいっぱい入ってくると集中できな

  い。わたしは¨音¨を聴く人間なんだと思う。」

 歌詞がわからないまま歌うのも全然平気と笑いながら、「だって、こんな美しい曲なんだもん!って」とし、「わたし、自分の気持ち表すことに興味がないですよ。¨主張¨じゃなくて¨表現¨なの」と語っているのです。吉田慶子にとって、この《表現》とは、そぎ落とす作業を頑固なまでに徹底し、楽曲からみえてきた美しさの核をモノトーンに際立たせることであり、それが吉田慶子の音楽というものなんだと、このインタビューから、私は2枚のCDによって感じてきた印象と突き合わせるように受けとめました。

 これは、くりかえしモーツァルトやベートーヴェンを演奏するクラシックのすぐれた演奏家にも通じる姿勢ですね。

 

🔹『コモ・ア・プランタ〜ひそやかなボサノヴァ(COMO A PLANTA)

                                               [2007年/オマガトキ]

 このCDがメジャー1枚目です。2007年にリリースとありますが、録音は2003年に行われています。このアルバムでは、ライブで歌うようになってからずっと歌ってきた、いわばブラジルの古典的名曲(私などが思い浮かべる「デサフィナード」などの代表曲ではありませんが)が取り上げられています。

 このアルバムに参加している田庫秀樹というミュージシャン(tb、pf)のことを、先のインタビューで吉田慶子は、彼がいなかったら、歌うすべもなかったし、今もやってなかったかもしれないと感謝しています。いろんなところで吉田の声が小さいと言われても、田庫さんだけは「よしんつぁんはそのままでいいんだ」と言ってくれた、彼という味方がいたからと楽しく歌ってこられたと語っています。

  上記CDのジャケット[オモテ]

  同上CDの見開きページ

 ライナーノーツの担当した渡辺亨は、吉田慶子のOld Fashioned的なボサノバに耳を澄ますと、セピア色がかった風景写真のイメージが浮かぶとし、次の感想を記しています。

 「 (前略)ともあれ、この時に胸にこみあげてくる懐かしさともの悲しさ、

  全身を毛布でくるまれたような温もりを¨サウダーヂ¨と呼ぶ。(中略)だ

  が、いずれにせよ、吉田慶子の歌に耳を傾けていると、心が安らかにな

  る。それは、彼女がずっと大切にしてきた音楽を、まるで自分の子供を慈

  しむように歌っているからに他ならない。」

 このCDの1曲目に取り上げられている「Nunca 決して」を、ユーチューブと、国安真奈訳で一番の歌詞をどうぞ。 

 ◎「Nunca-Keico Yoshida

    決して

    たとえ世界が頭上に崩れてこようと

    神がお命じになろうと

    たとえそうだとしても

    あなたとは仲直りするわ

    でも決して

    夢物語を失う時に

    心まで埋めてしまってはいけない

    私のようには

 

🔹『パレードのあとで〜ナラ・レオンを歌う(DEPOIS DA BANDA PASSAR)

                                               [2009年/オマガトキ]

 2枚目は、ボサノヴァ誕生に関わり、「ボサノヴァのミューズ」(軍事政権下で本人はこの呼称を拒絶し、プロテストソングへ傾斜)とも呼ばれたナラ・レオン(1942-89)が短い生涯で取りあげた歌の中から選曲されています。そう選曲もまた「ひそやかなもの」なのです。ライナーノーツで吉田慶子は、このアルバムをナラ・レオンへのオマージュだとしています。

 「 ナラ・レオンは私のあこがれです。強く、凛とした歌声、その生き方。

  感受性が強く、繊細で、60年代の苦しい軍事政権下では美しいばかりの

  ボサノヴァは歌わなかったナラ。/その時その時の自分の気持ちにいつも

      正直に向き合ってきたナラ。/どんな歌を歌っても話すように自然な彼女の

      歌声は時を超えて、距離を超えて、ブラジルから遠く離れた日本の私に

    「歌う」という希望をくれました。/このアルバムはナラ・レオンにたくさ

  んの感謝をこめて。没後20年、2009年の春に。」

  上記CDのジャケット[オモテ]

  同上Cdの見開きページ

 ライナーノーツを担当した佐藤由美は、吉田慶子の音楽を、彼女の人格の一面で、かつ本質を、ナラ・レオンとも重ねているように思われますが、次のようにとらえて書いています。

 「 つつましく儚げにみえながら、吉田慶子の歌には、ゆるぎない芯の強さ

      がある。誠実さからくる声高でない主張、あるいは自由を尊ぶ信念という

  べきかも知れない。彼女の歌声は、おそらく人へ、ただ癒しを授けるため

  だけにあるのではない。聞き手へそっと知の探究をうながし、探索の果て

  に味わえる密やかな愉しみを共有しませんか?とでも、語りかけているよ

  うにも思える。感謝。」

 そのとおりなのでしょうね、ということ。残念ながら、このCD中の曲はユーチューブになさそうなので、替りに素敵な一曲をどうぞ。

 ◎「Chove chuva-keico yoshida & shigeharu sasago

  ナラ・レオン『美しきボサノヴァのミューズ』1971年パリ録音

 ユーチューブから、少女時代から近くにいたロベルト・メネスカルと共演している映像をどうぞ(いつどこでの演奏かがわかりません)。

  ◎「ナラ・レオンとロベルト・メネスカル

 

🔹『カエターノと私 (CAETANO e EU)[2014年/コアポート]

 これがアマゾンで注文した3枚目。ボサノヴァにとどまらない、幅広く活躍するブラジル音楽のカリスマというべきカエターノ・ヴェローゾ(1942-)の楽曲から選曲して吉田慶子は歌っています。信頼するプロデューサーからの誘いがあって、約1年がかりで制作されたものです。

 ライナーノーツに吉田は、ペドロ・アルモドバルの映画『トーク・トゥ・ハー』のなかで、メキシコの古い歌「ククルクク・パロマ」を歌うカエターノを今も忘れらいないとしたうえで、次のように記しています。

 「 カエターノ・ヴェローゾを歌う、これは私にとって夢のような試みでし

  た。膨大な彼のレパートリーから選んだ歌は、言葉がぎっしりと詰まった

  哲学的なオリジナルや、彼の歌で素晴らしさを再確認したブラジルやアル

  ゼンチンの古い名曲などさまざま。すべてを通して、彼の音楽の中にある

  ¨静けさ¨を壊さぬよう、ひとつひとつ大切に歌いました。

   2009年にナラ・レオン集を録音した時、軍事政権下で「オピニオン」を

  歌うナラの気持ちを、こんな平和な時代に生きる私が歌えるんだろうか、

  と自問自答していましたが、2014年の今、たった5年の間に、世の中と私

  の気持ちはだいぶ変わりました。時が、流れています。」

  上記CDのジャケット[オモテ]

  同上CDの見開きページ

 今回ライナー・ノーツを担当しているのは、ブラジル音楽関連でその名前をよく見かけることのある中原仁です。中原は最初に出会った頃の吉田慶子の歌声がよほど印象的だったのか、次のように表現しています。

 「 慶子さんの囁くような歌声は、静かで繊細で、宙に消え入りそうな時も

  あるけれど、声は小さくても歌ごころを聴き手の心に届ける遠心力を備え

  ていた。聴き終えた直後、穏やかな余韻に浸ることも忘れて「貴女の声は

  ボサノヴァを歌うために神様から与えられたものだ!」と叫んでしまった

  ほどだ。と同時に、松尾芭蕉の名句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の世界

  観にも通じる美学を感じた。」 

 それから吉田慶子の音楽活動に接してきたこともふまえつつ、次の文章を付け加えています。

 「 トレードマークの繊細なウィスパー・ヴォイスに加え、浮世離れしたド

  リーミーな佇まいもある慶子さんだが、音楽家としての彼女はいい意味で

  頑固者。自分の理想をしっかり見据え、決して妥協しない。僕自身、レコ

  ーディングの現場やライブのリハーサルなどの場面で何度も彼女の芯の強

  さに接してきた。確固たる強さを備えた人だからこそ、囁くような歌声が

  聴き手の心まで届くのだと思う。」

 これもまた吉田慶子の音楽と人となりをよくとらえた評言なのでしょう。このCDの3曲目に入っている「ドミンゴ(日曜日)」を、ユーチューブと、同じく国安真奈の訳で一番の歌詞をどうぞ。

  ◎「Domingo(ドミンゴ)-keico yoshida

     廻る、みんなが廻る

     この午後の周囲を

     この立派な広場の周縁を

     そして人の輪の中心に佇む一輪の薔薇

     広大な広場の

     午後の頂点で

     薔薇は僕を待ってない

     薔薇のような、佇む少女

     なにも待ってはいない

     僕を待ってはいない 

  カエターノ・ヴェローゾ『カエターノ・ヴェローゾ』1985年ニューヨーク録音

 せっかくですから、カエターノ・ヴェローゾが歌う「ククルクク・パロマ」のユーチューブをアップしておくことにしましょう。かつて映画『トーク・トゥ・ハー』もみましたが、この場面が一番背筋にきたシーンでした。

  ◎「Caetano Veloso-Cucurrucu Paloma

 

 さて、吉田慶子の音楽を、ご本人へのインタビュー記事や、彼女の音楽を愛する方々の文章から、私の印象に響きあう言葉を引用することで、紹介してみました。

 ナラ・レオン集の「パレードのあとで」というタイトルのように、私もカーニヴァルの終わったあとに遠くで静かに響いているブラジル音楽を偏愛してきたのでしょう。ジョアン・ジルベルト、そして吉田慶子の音楽はそうした指向とぴったりとくるものです。

 さらに、吉田慶子の音楽は、ポルトガル語で歌われているのに、ご本人も「ブラジル的じゃない。ものすごく日本的」と語っているような感覚が備わっていて、より近い親しみが感じられるのかもしれません。何が「日本的」かという問題をきちんと考える能力がありませんが、吉田慶子の文化的土壌に日本の地があるのはいうまでもないこと、そこでとどめておくことにします。

 

 ひつこいのですが、私が音楽の道標として読んでいた方に今は亡き黒田恭一(1938-2009)がいます。その黒田が先にふれた2003年に初来日したジョアン・ジルベルトのライブ録音盤に付されたパンフレットのなかで、彼の音楽を語っている文章を引用してみたくなりました。それは<吉田慶子の音楽>とまっすぐにつながっていると感じさせてくれます。長くなりますが、次の文章です(「ジョアン・ジルベルトのアブラッソに感謝して」から抜粋)。

 「 声高に叫ぶだけでは伝わらない淡い、真実な思いがある。血の涙より心

  揺さぶる寂しい微笑がある。ほんとうに大切なことを口にする人は、青空

  を見あげて大きく手を広げているとは思えず、きっと、うつむいて、静か

  に呟く。きみはぼくの太陽だと愛をまっすぐ訴える「オ・ソレ・ミオ」の

  情熱を、むろん嘘といってしりぞけることはできないが、それだけが愛の

  歌とはいいがたく、口数少ないだけに切実な愛の歌もあることを、ぼくは

  ジョアン・ジルベルトから学んできた。

   にもかかわらず、それから後、ジョアン・ジルベルトの名声が高まるの

  に反比例するかたちで、時代が異常な勢いで商業主義の媚びと蛮勇で塗り

  つぶされていって、彼の音楽の静けさと優雅さを尊ぶための余裕を

  失った。しかし、ジョアン・ジルベルトの音楽をすでに愛している人たち

  は、日々、彼の音楽にたちもどって、音楽にとっての、そして生きていく

  うえでのもっとも大切なものを心によみがえらせている。ジョアン・ジル

  ベルトが孤高ということばを思いださせる暗さやとりすました感じから遠

  く離れたところでほほ笑んでいるのは、彼の音楽を愛する人たちからの暖

  かい思いに包まれているためである。」

 吉田慶子はマイナーポエトだからこそより純粋に、ジョアン・ジルベルトの音楽についての黒田の言葉を体現しているといえるのかもしれません。吉田慶子の音楽はほほ笑んでいます。

 いつものとおりいささか大仰な紹介になってしまった観がありますが、私にとってこれからも<吉田慶子の音楽>を楽しんでいくうえで、ありがたい機会となりました。

 

 ユーチューブから2本。ジョアンとカエターノの共演、カエターノのジョアンに寄せる敬愛ぶりがほほえましいのです。そして最後に吉田慶子をもう一曲。美しいと思われませんか。

  ◎「Caetano Veloso & Joǎo Gilberto-Besame Mucho

 

  ◎「Lindeza-keico yoshida

 

2018.02.18 Sunday

ふと寒さの緩んだ日にーエリック・サティの音楽ー

 長く続いた寒い日々のあと、ふと寒さの緩んだ日。

 いつもの服装で歩くと、すぐに体温が上昇してきて、毛糸の帽子、マフラーそして手袋を次々と外しました。そうか久しぶりに風もなく10℃を超えるという天気予報を実感したのです。

 大中遺跡公園では、ケヤキはきっぱりと葉を落としたままですが、梅はといえば、つぼみがふくらみ、ちょっとあわてんぼうが花弁をひらいています。あと二週間くらいでしょうか。春を待つ気持ちがあるわけではありませんが、こうして季節は動いています。

 

 当ブログで紹介することもあった「近藤流健康川柳の集い」(「ここにも「おかしみ」の世界が」)が今年もひらかれました(「毎日新聞」2018.2.11朝刊)。司会者の水野アナは「ケヤキの描かれた金色のドレス」で登場したとあり、それはラジオ番組に寄せられた一句「ケヤキ言う裸一貫やり直し」にちなんだということです。

 同アナは「17文字の向こうに人生が見える」として朗読を披露、そのなかでがんで闘病中の男性の句と入院中の病院で川柳の輪が広がっていることを紹介しました。その75歳の男性は「いやな人きっと誰かの好きな人」という句が好きで看護師さんに話したところ、それがきっかけで病院で川柳を楽しむ患者や看護師のつながりができたそうです。そして「病に加え、過去にまだ30代だった息子を亡くした悲しみ」を抱えた彼が今の心境を詠んだ「両の手にかかえきれない夢がある」の一句で、コーナーが締めくくられたとあります。

 2017年の年間大賞等を受賞した四句を書き写しておきます。それにしても、この世界はなんと心のつぶやきに満ちていることかと思わざるを得ません。「そうだ、そうだ」とすぐに共感できたりする川柳ばかりではありませんが、「なるほどそうかもしれない」と自分の心を広げてくれる力をもっています。

 結局のところ、<心のつぶやき>という点では私のブログも同じといえば同じことで、17文字で書くことができないだけなのかもしれません。

 

  年齢を十ほど捨てて街に出る

 

  でもうれし世辞の一声「変わらんな」

 

  不機嫌な夫は他人より他人

 

  お父さん喋らんといてややこしい

  ケヤキの裸木(大中遺跡公園) [2018.2.14撮影]

  梅のつぼみ(同上) [同上]

 

🔸しばらくすると聞きたくなってーサティのピアノ曲ー

 エリック・サティ(1866-1925)の音楽は、しばらくするとまた聞きたくなります。

 サティのピアノ作品はたくさんありますが、私にとってサティの音楽とは、代表作といわれる「ジムノペティ(第1~3番)」と「グノシェンヌ(第1~6番)」の二曲に尽きるといってもいいくらいなのです。再生装置への登板回数はグレン・グールドが弾くバッハ「ゴールドベルク変奏曲」に匹敵します。バッハの方がグレン・グールドというピアニストに固執しているのに対し、サティの方はピアニストによって選んでいないようです。

 「ようです」などと他人事みたいですが、最近、サティを弾くミシェル・ルグラン(1932-)の中古CDを手に入れ、ほかにどんなピアニストのCDがあったかなと探すと、下記の写真にある6枚でした。いずれのCDにも「ジムノペティ」と「グノシェンヌ」が入っています。不思議なことに、ルグラン盤には「グノシェンヌ」が入っていませんが、それはルグランの考えがあってのことでしょう。

 このルグラン盤とほぼ同時に、『エリック・サティ』(アンヌ・レエ/2004年6月刊/白水Uブックス)という本にも出会って、ちょっとしためぐり合わせを感じてしまったのです。そんなことで、今回はサティの音楽のことをメモしておくことにしました。

 

 サティの音楽が極東の島国で人気を博したのは1980年前後のことだったそうです。現代音楽の世界ではもっと以前から異端にして前衛である「知られざる好奇心をそそる存在」として知られた存在だったのですが、広く知られることになったのはその頃のことでした。テレビや映画の劇中音楽、CMでもよく使われてきましたし、それから40年近くたった現在もそうです。病院などの公共空間でも流れているとのことです。

 そんなことで私の耳にも届いたらしく、いままでに聞いたことはないようなピアノ曲だと「ジムノペディ」に魅かれたにちがいありません。ある種の思い込みも加わっていそうですが、『日曜美術館』にも頻出していて、一息入れて場面を転換するつなぎの際に、あるいはサティと同じフランスの画家たちを紹介する際によく挿入されていて、「これはなんなんだ」となったんだと記憶してしまっています。

 こんなことで、サティのCDがあったらついつい手を出してきたのでしょう。今回のルグラン盤を含めて7枚のうち最も古い録音は高橋悠治盤の1976年で、70年代はこれを含めて2枚、80年代が4枚(87年が1枚、88年が3枚)、最も新しいのが1993年のルグランということになります。80年代後半になにかブームのようなことが起こったのかもしれません。私が購入したのは、CDの制作年からすると、2000年前後が多かったのでしょう。

 一昨年の2016年はサティ生誕150年ということもあって、コンサートをはじめCDも続々と発売されたそうで、「サティ人気は幅広い年齢層の音楽ファンにすっかり定着したと見ていいだろう」と報じられたことを、ネットで知りました。もとより私の目や耳にはまったく入ってくることなく、いつの間にか通り過ぎていたのですが。

 

 さて、私にとって、サティの「ジムノペディ」と「グノシェンヌ」の魅力とはなんでしょう。

 音の数が少なく、音と音の間に不思議な間(ま)があって、複雑な和音もなく、ゆったりとした旋律が、ピアノの音が粒だって聞こえます。奇妙な脱力感と集中力を誘う力もあって、耳をすますとなつかしく蠱惑的でシンプルな美しさが際立つ旋律がくっきりと聞こえてきます。静寂という言葉を使いたくなると同時に、甘美、官能的といってもいいのです。どこか東方の響きというか、西洋からみた東方というエキゾチズムが感じられます。

 サティの音楽は聞こうとしていないと、いつの間にか短い曲が終わってしまっているという感じで、波立つ心を鎮めてくれる作用もあって、邪魔しない「ながら音楽」としても超一級です。

 こんなサティの二曲は、クラシック畑のピアニストが弾いていても、カテゴリーなど超越した音楽だとのイメージをずっと抱いてきました。クラシック音楽からイメージしてしまう肩ひじ張った大仰さから離脱した音楽、つまり鎧や兜を外した音楽として受容してきました。いわゆる環境音楽的な見方(実際にそんな使われ方もしていますし)もできるでしょうが、比較するもののない音楽というのが、私の印象の根底にあります。

 

 サティは在学していたパリ音楽院を1886年に退学し、シャンソン酒場であるカフェ・コンセールの「雇われピアニスト」で糧をえつつ、1888年に「ジムノペティ」を、1889~91年には「グノシェンヌ」を作曲しています。ですから20歳前半の作品だということになります。この二曲以外にも生涯にわたり作曲活動を続けていますし、三十代のころには世間の注目をあびたりもしていますが、総じて異端にして前衛という立ち位置を崩さないままで(本人の意思かどうかは別として)、変わり者であり続けました。手持ちのCDでも二曲以外にも多くのピアノ曲が演奏されていますが、私には、とどのつまりが「ジムノペティ」と「グノシェンヌ」ということになってしまいます。

 今回入手した『エリック・サティ』で、アンヌ・レエは、この二曲のことを「郷愁にみちたメロディ、低音の和声の虜になっているそのメロディに、第二、第三のメロディが加わる。時が流れる、純粋な持続ー『ジムノペティ』、『グノシェンヌ』だ」と表現しています。こうした初期のピアノ作品に、アンヌ・レエは「酒飲みで、冗談好きで、いたずらっぽい近眼の目つきをしたサティ」というあの親しみ深いサティとは対照的に「陰鬱で、繊細で、世紀末的なのである」との形容を与えています。

 そして、別のところでアンヌ・レエは「『ジムノペディ』の若々しいメロディスト」「『グノシェンヌ』の内気な夢想家」」とも述べており、この表現が、私には一番ぴったりときました。

 

 こんな私のような初期作品に執着する嗜好について、アンヌ・レエは「人が好きになると、その欠点まで愛おしくなるものだ。サティの音楽の愛好者が、最も不器用で、ナイーブで、真実味のある初期の作品をとりわけ愛するのもそのためである」とします。いやいやと反論したくはありますが、そうなんでしょうねと説得されてしまいます。

 この文章に続けて「彼以前には、こんなふうに作曲した者はなかったし、彼以降にもこんなふうに作曲する者はないにちがいない」としたアンヌ・レエは、サティの初期作品が「ヴァーグナーの死の三年後、フォーレやフランク、ダンディやサン=サーンスが、かずかずの交響曲や協奏曲や交響詩を生み出していた時代」に作曲されたものなのだと指摘しています。

 そんな19世紀末のフランスで名もなき若者が作曲した「最も不器用で、ナイーブで、真実味のある作品」が21世紀初頭の現在において数多くの賛美者を途切れさせないのはどうしてなのでしょう。そこに謎めいた<サティの音楽>の本質、真髄が、それは<音楽の><現代の>という言葉をあてることもできそうですが、あるにちがいありません。

 ここで手持ちCDにもある高橋兄妹のユーチューブを貼り付けておきます。高橋アキの方は手持ちCDと同じ音源からのもので、高橋悠治の方は2017年に新たに録音したCDのPR動画であり、曲の頭だけを並べたものですが、いい音なので聞いてみてください。

 

 ◎高橋アキ「ジムノペディ第一番ほか」

 

 ◎高橋悠治「エリック・サティ 新・ピアノ作品集」

 

 本稿では、斜め読みしただけのアンヌ・レエをはじめネット情報からサティの音楽や生涯を、たとえばドビュッシー、コクトー、ピカソとの関係をからめつつ、長々と語ることはやめておきましょう。

 とりわけアンヌ・レエは、日本でいうとちょうど明治と大正時代を生きたフランス人であるサティの人生と音楽を、同胞らしいドキッとする辛辣な言葉を用いつつ、「社会的な単独者」であり「音楽的にも単独者の作品」として描いていますが、ここでは、限られた引用にとどめることにします。

 まず、アカデミックな教育を超えたサティの音楽の単独性について、「サティの音楽は、音楽史上類縁をもたない。だからこそ、すぐにそれとわかるのだ」とし、次のように書いています。

 「 裸で歩く音楽、「それに合わせて人が歩く音楽」、通りすぎる音楽、

  そのシルエットがかすかに何かを思わせる音楽。サティの作品には年

  がなく、どんな作曲家のどんな作品にも論理的に結びつくということが

  ない。一度は忘れられ、いまや再発見されたが、ことによると、また忘

  れ去られるかもしれない。だが、ナイーブさが若さの代わりになるとす

  れば、たったいま生まれたばかりのような顔をして、サティの作品はま

  た甦るだろう。それはまさに単独者の作品なのである。」

 この音楽上の単独性について、アンヌ・レエは楽理的な側面をさまざまな箇所で展開していますが、私にはちんぷんかんぷんです。とにかく「調性の放棄」とか「和声進行の伝統の無視」とか「拍子記号や小節線などの廃止」とか、サティは「従来の音楽のルールをことごとく破壊し、因習にとらわれない自由な作曲態度」の人であったということなのでしょう。

 

 かといっても、この社会的、音楽的な単独者は、生きる時代から逃れることはできないわけです。アンヌ・レエは時代の流行と無関心ではいられなかったサティの音楽的なバックグラウンドの遍歴を次のようにまとめています。

 「 「薔薇十字会」の芸術がパリ中の人気をさらった当時は、ジョゼファ

  ン・ぺラダンの傍らで「中世風(ゴシック)」だったし、ドビュッシーより

  早くから反ヴァーグナー派であり、ピカソ以前に反印象主義者であった

  し、ストラヴィンスキーに先立って新古典主義者だった。「飼い馴らされ

  たキュビズム」の時代にはコクトーと行動を共にし、最後にはピカビア

  流れを汲む衝撃のダダイストだったのである。」

 こんなサティの音楽の時代性、現代性について、アンヌ・レエは次のように総括しています。

 「 好かれているか拒否されているかによって、魅力的にもなれば嫌味たら

  しくもなる。サティは一筋縄ではいかない人物だった。とはいえ、彼の作

  品はひとつの時代の証言であることに変わりがなく、しかもその時代たる

  や、ロマンティスムから現代への結節点にあたる、非常に興味深い、波乱

  に富んだ時代だったのである。」

 19世紀末から20世紀初頭にかけての時代を生きたサティは、パリがパリであった時代、「現代への結節点」にあたる時代にあって、音楽を創造した人でもあるということです。繰りかえしますが、19世紀末の時代、現在からすると「現代」が顔を覗かせていた時代にあって、その先端に位置していたパリという都市文化の混沌が、「サティの音楽」を生み出したという側面を忘れてはならないのでしょう。

  ミシェル・ルグラン(P) 1993年録音 

 このルグランのCDのライナーノーツに、サティへの深い傾倒で知られるピアニストの島田瑠里が文章を寄せています。このCDで、ルグランは「ジムノペディ」の第1~3番を3つに分けて、各々1つおきに配列し、別の曲を挟むという構成をしています。つまり全6曲で一括りの塊として演奏しているのではないかと島田はみているのです。

 このルグランの試みを、「応々にして芸術家はその最初の作品において生涯のモチーフを直感する」という島田は「ルグランにとってサティの「ジムノペディ」が生涯のライトモチーフであることをこの編成によって示そうとしたのだろう」と推測しています。「ジムノペティ」はサティの音楽の起点であり、極点でもあるということなのでしょう。

 

 このライナーノーツのなかで、島田自身のサティへの特別な感情の根っ子には、「全体を支配する反ワグネリアン的感情が私にとってサティと通底していた」ことがあるとも告白しています。つまりサティの根っ子にある音楽の志向と、島田は自らの志向との一致を見出していたことになります。

 私には「反ワグネリアン」なるもののことをぼんやりとしかわからないのだけれど、またいささか距離のある類推かもしれないけれど、たとえば写真家にたとえると、土門拳よりも木村伊兵衛の方にずっと親近してきたこととも通じているみたいです。これまでの私自身の音楽への傾向からすれば、とりわけクラシックというカテゴリーでの好き嫌いからしますと、こんな反ワグネリアン的感情に寄り添ってきたのかもしれないと思ったのです。

  左:高橋悠治(p)1976年録音 / 右:高橋アキ(p)1979-88年録音

  左:フィリップ・アントルモン(p)1979年録音 / 右:ローランド・ペンティネン(p)1988年録音

  左:アンヌ・ケフェレック(p)1988年録音 / 右:島田瑠里(p)1987年録音

 これら6枚のCDのうち、一番最初に入手したのが高橋アキのベスト盤であり、一番よく聞いてきたのもこの1枚です。まったく無知なままで手にしたローランド・ペンティネンのCDは彼が25歳の録音ですが、その若々しく鮮烈な演奏に驚いたものです。たとえば、「ジムノペディ第1番」で比べると、ぺンティネンの演奏時間3分10秒に対し、最も長いルグランは4分00秒です。どちらがいい悪いではありませんが、歴然とした違いは私の耳でも聞くことができます。

 🔸別の事例として、グレン・グールドによる「ゴールドベルク変奏曲」の「1 Aria」

  は1955年録音の1分53秒に対し、1981年録音盤は3分5秒なのです。

 

 高橋兄妹の言葉を引いて、サティの音楽へのメモを終えることにいたしましょう。

 兄である高橋悠治(1938-)は、昨年の再録音盤をリリースするにあたって、次のような文章を記しているそうです。

 「 こんど誘われて1枚にまとめた再録音では、貧しいものの音楽、小さな

  もののつつましさ、ひそやかさ、その息づかいや、鍵盤に触れるその時に

  生まれる発見から次の一歩が決まるような、どことなく危うい曲り道を辿

  る、音から次の音へのためらいがちな足どりの、未完の作曲家サティにふ

  さわしい進行中の記録にとどめておきたい気があった。」

 年齢を重ねて、「あらためて試してみよう」という高橋の言葉はやはり味わい深いものですし、これを実現させてしまう「サティの音楽」の力を再確認した感じがします。

 

 妹である高橋アキ(1944-)は、音楽評論家で亡夫の秋山邦晴(1929-96)とともに、我が国への「サティの音楽」の紹介を牽引してきたピアニストです。

 そんな彼女が先のアンヌ・レエの本に『サティ連続演奏会覚え書』という文章を寄せています。このなかで、秋山と二人が中核となって企画した1975年から足かけ3年におよぶ、渋谷の小劇場ジァンジァンでの「異端の作曲家エリック・サティ連続演奏会」のことにふれています。この演奏会は12回続いたそうですが、とくに840回繰り返す『ヴェクサシオン』の演奏をオールナイトで、40名(その中には作曲家である柴田南雄、武満徹、黛敏郎、坂本龍一などもいました)が演奏に参加して、約13時間かかって840回を弾き終えたという「何とも楽しい思い出」についても書いています。

 その文章の最後に、本稿の表題「しばらくすると聞きたくなって」の元になった、といっても私の長いサティ経験からの本音とも重なりますが、ジョン・ケージのエピソードを交えつつ、サティの音楽の本質を綴っています。

 「 秋山は96年に亡くなってしまったしまったけれど、私はいまでも変わら

  ずサティを弾きつづけている。一時のブームは去っても、あるときジョン

  ・ケージがあの素敵な笑顔で私に語ったように「サティの音楽は聴き飽き

  たと思ってもまたしばらくすると聴きたくなるものだ。私にとってサティ

  は<きのこ>のようなもの。たくさん食べても、しばらくするとまた食べ

  たくなるものだから」。すでに蒔かれたエリック・サティという<きの

  こ>の胞子は、すでに空気中にたくさん舞っていて、またどこかに菌糸を

  ひろげては、時代を超えてひょっこり顔を出しつづけることだろう。」

 この文章から10余年をへた現在も、そのオフィシャル・サイトをみると、高橋アキはサティを弾きつづけています。

 

 こうしてサティの音楽に思いをめぐらしますと、サティという人間が孤島で生まれ育ち暮らしていたとしたら、同じ音楽を創造することはないということです。結局、パリという都市の文化的な坩堝のなかで、サティの個性が、反アカデミズムを自覚したサティが、時代の風をうけて、分身たる音楽を創造していたという当たり前の事実に突きあたります。

 サティがサティであることの力の源泉はどこにあるのでしょうか。アンヌ・レエのいう「最も不器用で、ナイーブで、真実味のある作品」にこそ、サティの音楽の本質があって、だからこそ、私を含め多くの人びとが、「しばらく離れていてもまた聞きたくなる」ことを繰りかえしているのです。

 こんな事実には、どうも音楽だけにとどまらず、詩の、芸術の、ものごとの本質というべきこととの関係がありそうに感じられます。

 ともあれ私に音楽の部屋があると仮定しますと、サティの「ジムノペディ」「グノシェンヌ」はなじみの客、常連客ということになります。サティはべったりと座り込んで長居する客ではありませんが、ちょっと放っておけない客としてこれからも付き合っていきたいと思っています。

 

2017.09.20 Wednesday

ジャズを聴きはじめた頃にー四枚のレコードー

 初めてジャズのLPレコードを買ったのはいつの頃だったのでしょう。絶対ということでもありませんが、1974(S49)年の春であったと思っています。

 元の4畳半の下宿から、同じ大家さんの少し離れた8畳間へ移転して、春から新生活がはじまりました。新生活とは大げさですが、前年の3月から約1年間、実質的に大学を休学していたものですから、私にとっては新生活のようなものだったのでしょう。といっても、5年前に大学へ入学した時の新生活とは違って、内定していた就職を断り療養していた後ですから、自分への歯がゆさもあり、両親に対する申し訳なさも手伝って、ちょっと鬱とした新生活のはじまりでした。

 今の私のありようはこんな長い親がかりの学生時代(予備校もありましたし)をおくったことと無関係ではありえないのでしょう。大切なことに出会うのが万事にスローモーな私は、ジャズという音楽に出会ったのも、オイルショックでトイレットペーパーが店頭からなくなったと大騒ぎしていた昭和49年の療養期間、特に7ヵ月の入院生活で消灯時間をすぎてもイヤホーンでラジオを聴いていた頃でした。本とか文学という洗礼は大学入学直後から浴びましたが、ジャズだけではなく音楽という何だか「すばらしいものがある」と本当に知ったのはこの期間だったのです(なんと遅いことでしょう)。

 何か救いのようなもの(といえば格好のつけすぎで逃げ場所のようなものであったか)をどこか欲していたのでしょうか。

 

 こんな再びの新生活のはじまりに、廉価なものではありましたが、レコードの聴ける再生装置を買ってもらって新しい下宿に持ち込んだのでした。ですから、初めてのLPレコードはほぼ同時に買ったにちがいないということなのです。最初に手に入れたレコードは『ザ・トリオ/ハンプトン・ホーズVOL.1』です(1974年制作の印字があります)。このレコードからジャズが聴こえた時の緊張と喜びを、それだけは不思議と覚えています。

 ハンプトン・ホーズ(1928-1977)は陸軍のGIとして1953年から2年ほど滞日していて日本の本格的なジャズ・ブームに刺激を与えたピアニストですが、このアルバムは帰米直後の1955年6月に吹き込んだもので「CONTENPORARY JAZZ 1500 SERES」の1枚です。きっとNHK-FMで放送されていた「ジャズ・フラッシュ」という番組で熱心に紹介されていて、それを病院のベッドで聴いていたためなのでしょう。

 

 今回、ジャズを聴きはじめた頃によく聞いていた四枚のレコード(ジャズ入門者用という紹介でもあったのか、ホーズのは名盤ですが、それ以外の三枚は超名盤です)を、おそろしく久しぶりにターンテーブルにのせました。よく回していたせいかいずれのレコード盤にもレコード針による傷がありました。

 最近の私ならちょっとリズミックすぎて敬遠しそうですのに、ハンプトン・ホーズが弾く楽曲に共通する躍動感は、ある種の感傷もあってか、何だかいい気分にさせてくれました。

  『ザ・トリオ/ハンプトン・ホーズVOL.1』[コンテンポラリー/1974]

 

 そんな70年代のNHK-FM「ジャズ・フラッシュ」の内容はあまり覚えていないのですが、週替わりのパーソナリティのなかで特に児山紀芳さん(1936-)という方が好きになりました。80歳をこえた今も同じNHK-FMで「ジャズ・トゥナイト」という番組でDJとしてジャズの伝道師を続けておられるとは驚きです(ネットで調べてみて知ったのです)。児山さんは「スイングジャーナル」の編集長を通算17年にわたってつとめた方で、私のよく聴いていた頃は編集長時代の30台後半から40台前半でした。その温かく親しみやすい語り口、何よりもご本人が聴いてよかったと評価したレコードだけをピックアップし、その本質、美点を私たちリスナーにも届けたいという熱い姿勢がこちらに伝わってくるところがよかったのだと思っています。

 スイングジャーナルの編集長を退いて、1980年代にはアメリカのレコード会社のマスター・テープ保管庫に通い、埋もれた名演奏の発掘に情熱を傾け、「コンプリート・クリフォード・ブラウン・オン・エマーシー」(1990)などを世に出しました。こんな児山さんは世界のジャズ関係者から「BOXマン」(未発表音源を探し出しCDのBOXを作ってしまう達人とでもいうことなのでしょうか)の愛称で尊敬されているそうです。

 

 未発表音源を発掘する以前の放送でも、児山さんはクリフォード・ブラウン(1930-56)への傾倒を懇切にリスナーに語っていたということなのか、一枚目のハンプトン・ホーズに続いて手に入れたレコードのうちに、同じ1955年録音の『スタディ・イン・ブラウン/クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ・クインテット』があります。それ以降、愛称ブラウニーのレコードを中古レコード屋さんで何枚も入手しましたが、ほんどレコードを聴かなくなってからも『クリフォード・ブラウン・ウイズ・ストリングス』と『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』の2枚はごくたまにターンテーブルにのることがあります。

 今回、62年前に録音された『スタディ・イン・ブラウン』を久しぶりに聞いてみて、トランペットの演奏技術で天才だったといわれるブラウニーのトランペットが発する輝かしいばかりの音色と、どこか暖かみのあるというか、人間味のある音楽に揺さぶられました。クリフォード・ブラウンがすごいというのは、楽器の巧さだけで発揮できるサウンドではないところです。それがジャズなんだと申し上げたいのです。

 そして誰からも好かれたというブラウニーは翌1956年6月、ピアノのリッチー・パウエルとともにその妻の運転する車に同乗して次の演奏地へ向かう途中、視界のよくなかった夜に交通事故死(3人とも)してしまいました。

 

 本稿を書くきっかけとなったのは、当ブログを読んでくださっている方にはまたいつものことかになりますが、『図書』9月号の後藤雅洋さん(1947-)の「ジャズ100年」(本当は「ジャズ・レコード100年」が正しいのだそうです)を読んだからなのです。東京四谷でジャズ喫茶「いーぐる」を大学2年の時に開業してから50周年ということで、「いーぐる」は、そして後藤さんは、「ジャズ・レコードの歴史の半分に関わって来た」ことになります。

 この「ジャズ100年」で後藤さんは今のジャズ・シーンの現況とともに、「いまだに「敷居が高い」と思われている「ジャズ」の魅力」についてわかりやすい紹介を試みています。後藤さんが「ジャズ」のことをあまり興味のない人にもその魅力を伝えようとしたエッセーに、私はなるほどと、これまで言葉にできなかったことを教えてもらえたように思い、感謝したくなりました。

 まず後藤さんは、「敷居が高い」のには理由があって、それは「聴き方に誤解」があるからというところから始めます。「私たちは音楽を「メロディ」で把握しようとする傾向」が強いようだとし(確かにそうですよね)、「そうした時「でたらめのように聴こえる」ジャズのアドリブが理解の妨げ」になっているというのです。音楽の三要素と教えられたメロディ、リズム、ハーモニーは、音楽として「一緒くた」になって聴こえてきますが、「私たちのメロディを優先的に認知する傾向」が「ジャズの敷居」の一つなのだというわけです。

 ではどうすればいいか、リズムやハーモニーに着目して聴くこともいいのですが、後藤さんは「ジャズではむしろ学校で習う「音楽の三要素」からもれる要素」が重要だとし、それは「音色」と「ニュアンス」だと指摘するのです。そして、次のような例えで説明を加えています。

 「 例えてみれば、話の内容が譜面に書けるメロディだとしたら、リズムは

  まさに会話のリズムで、「音色」は「声質」にあたり、「ニュアンス」は

  「口調」あるいは「語り口」でしょうか。そうなのです、ジャズは「話の

  内容」より「声質」や「語り口」を味わう音楽なのです。」

 この説明は私にはビーンと響きましたが、後藤さんは「同じ噺を「何度聞いても飽きない」のが、落語の凄い」ところでジャズも全く同じなんだとさらに念押ししています。ジャズは「演奏のやりようによって面白くも、またありきたりのものにもなる」のだから、「ジャズの聴き方」は次のように試してみたらと続けます。

 「 要するにミュージシャンそれぞれの個性に注目するような聴き方をする

  ということですね。そしてその個性の指標として、楽器の音色やフレーズ

  (節回し)の微妙な表情に注意を払ってみるのです。つまり「視点」を転換

  してみるのですね。たったこれだけのことですが、同じ演奏でも聴こえ方

  がまったく違ってくるはずです。ぜひお試しあれ。」

 最近は毎日落語を流しながら寝ている私にとっては、ジャズと落語の本質に共通するところがあるとの説明を大変説得的なものと受けとめました。

 以上のような説明は従来もなされていたとは思いますが、でも今回の後藤さんのエッセーの趣旨はわかりやすいと思いませんか。クリフォード・ブラウンのレコードで感じた「輝かしいばかりの音色」や「人間味のあるサウンド」というのも、後藤さんの「ジャズは「話の内容」より「声質」や「語り口」を味わう音楽」なんだという説明に通じているようです。

 もとよりジャズにもいろいろあるのでしょうが、その本質や魅力はそのあたりにあって、つまり音楽の三要素にとどまらず、「音色」や「フレーズ(節回し)」という個性の表出に重心をおいた音楽としてとらえる、そんな聴き方がふさわしいということを、後藤さんの言葉から、これまでの私の実感に照らして確認できたように思っています。

  『スタディ・イン・ブラウン/クリフォード・ブラウン&マックス・ローチクインテット』

                              [エマーシー/1974]

 

 何だか音楽をよく聴いているように書いてしまっていますが、そうではありません。当ブログで「音楽」というカテゴリーを設けつつも、これまで書いてきたのは、いかに音楽を聴く時間が減ってきているのか、現に少ないのかを前提に、それでもこんな音楽に出会えましたという報告でした(「「音楽」があるということ」「すぐそばにーキース・ジャレットの音楽ー」など)。

 もとより音楽が嫌いになったというわけではありませんが、音楽に接する時間が減少したというはっきりとした事実は否定できません。音楽に接する時間の長短は問題の本質ではないでしょうし、今はもっと興味のあることができているということにすぎないでしょう、と言われれば「そうですね」と申し上げていいのかしれません。毎日が日曜日だとなんだかカントの日課ではありませんが、やることが決まってきてしまうということかもしれません。でもカントではない私はちょっとさびしいと感じてもいるのだと思います。

 大きな要因はやはりテレビの存在にちがいありません。ジャズをはじめ音楽に出会った頃は、テレビとは無縁の生活だったのです。今の自由に録画したテレビ番組をみる時間には(大切なものに出会うことも多いのですが)、テレビ以外のことに使うしかなかったのです。

 もう一つの要因はこのブログの影響も大きいかもしれません。誰に期待されているわけでも、強制されているわけでも、全くないのですが、今は実生活上でわりとウェイトが大きくなってきました。自分のためにやっているわけで、制約といっても自分の能力という制約だけですから、自分でコントロールしてやっていくしかありません。自分の能力以上のものを求めるのは愚かしいとわかっていても時にはトライしようとするところに問題があるのですが。

 今回のブログは後藤さんのエッセーをきっかけに、四枚のレコードを聴き直すことができたわけで、こんなやり方も音楽に接する上手な機会づくりだということにしておきましょう。

 

 三枚目のレコードは、あまりにも有名な傑作『ワルツ・フォー・デビー/ビル・エヴァンス・トリオ』です。

 この1961年録音のライブ・アルバムは、聴いた人、そして語った人、さらに書いた人、いずれも無数と申し上げてよいのであって、私が何を書こうが屋上屋なのです。このアルバムの冒頭曲である「マイ・フーリッシュ・ハート」はジャズという音楽を聴いて、今までで一番全身をわしづかみされた経験をもったというか、とにかく最も心を動かされた演奏であったという記憶があります。まさに私事ですが、少しだけ遅れて手にした本レコードを、四枚の中に入れたのはそんな理由です。

 1961年6月25日日曜日、ニューヨークのヴィレッジ・バンガードでのライブ演奏が、本アルバムともう一枚(『サンディ・アット・ザ・ビレッジ・ヴァンガード』)の二枚のLPレコードとなり、今も「永遠の名盤」として不動です。現在のピアノ・トリオにおけるインター・プレイの規範であり模範となったのがこのビル・エヴァンス(1929-80)のトリオだったのですが、天才ベーシストのスコット・ラファロ(193-61)はこのライブの10日後の7月6日に自動車事故で亡くなってしまいます。この2枚は突然の悲劇によって追悼盤として世に出たものでした。

 

 直近のブログで写真家ロバート・フランクが優れた「編集者」でもあるとして、その「編集力」にこだわった関係で、もう一つ付け加えておきたいのです。どうでもいいことかもしれませんが、お許しください。

 元のライブのコンプリート盤(CD3枚)は当日の演奏を時系列に並べたものですが、当日は実に午後と夜の計5セット、全22曲を演奏しました。複数回演奏した曲もありますので、ネットの曲数としては13曲です。二枚のアルバムにそれぞれ6曲ずつ収められていますから、1曲を除く12曲がアルバム化されています。例えば『ワルツ・フォー・デビー』の方は先述の1曲目「マイ・フーリッシュ・ハート」がSET1の4曲目、次2曲目の「ワルツ・フォー・デビー」が最終のSET5の3曲目でtake2が採られるなど、まさに編集という行為の存在を伝えたかったのです。

 この編集作業、つまりどの曲をどの演奏を選択し、どう並べるということがベストなのかという作業によって、LPレコードは成立しているのです。CDになって長時間の収録が可能になって、もちろん演奏の自由度が高まるなどのプラスもありますが、冗漫になっている面があると思っています。

 ロバート・フランクの写真集『アメリカンズ』は2万7千枚のネガの中から83枚を選択し、並べたというのですから、同列に論じられませんが、当然、音楽の分野においても、特にレコードやCD制作においては「編集力」が不可欠な要素だと申しあげていいのでしょう。

  『ワルツ・フォー・デビー/ビル・エヴァンス・トリオ』[リバーサイド/1975]

 

 ああ「また冗漫になってしまう」とがっくりします。先ほどCDはLPレコードに比べ「冗漫」になりやすいと書きました。当ブログを書いている私もそのことをいつも意識していますが、結局、毎回、全く意識していないような文章を綴ってしまいます。

 「すっきりとして余韻がある」ことを望んでいたとしても、気づいたことを選択しないで何でも書いてしまうということなのか、それこそ根本的に「編集力」が欠落しているのでしょう。

 

 四枚目は一枚目の次に手にしたと信じている『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』です。1957年1月の録音ですが、東海岸で活躍するマイルス・デイヴィス五重奏団が西海岸地方へ巡演した機会をとらえ、そのピアノ、ベース、ドラムスの「ザ・リズム・セクション」と呼ばれたビッグな3人と、西海岸でめざましく活躍していたアルトサックスのアート・ペッパーが1回(1日)限りの邂逅(ミーツ)で制作されたレコードです。

 アート・ペッパー(1925-82)は麻薬中毒、薬物中毒で何回も音楽活動の中断を余儀なくされました。同じウェストコーストのトランぺッターであるチェット・ベーカー(1929-88)とよく似ています。先述の後藤雅洋さんの表現では刑務所やリハビリテーション施設への入所を繰り返す「ペッパーの活動歴は当然彼の「出所期間」に限られ、一直線ではなくいわば「点線的」に記録されている」ことになるというわけです。その「重要な「点」のひとつが1956年出所後の数年」で、「ペッパーといえば「56年物か57年物が豊作」がファンの常識でも」あると記しています。

 今回、このレコードから流れ出る音楽は、意外と軽く輝かしくて明快な「音色」と「フレーズ」から、あふれるばかり情感が立ち上がってきて、低音から高音へ移行していくタイミングではいっしょに舞い上がっていくような感覚にとらわれました。後藤さんにかぎらず、日本人のペッパー好みは「哀調を帯びた感情表現」にある、本場アメリカで軽視されがちな「翳り・陰影感」のある繊細な感情表現にあるとの説明がよくなされています。私の感じた「あふれる情感」は「意外と軽く輝かしくて明快な」の奥に、「哀調」のようなものが秘められていること(別のレコード、例えば『モダン・アート』などはもっと直截に現れています)から生じてくるのかもしれません。

 ビル・エヴァンスの「マイ・フーリッシュ・ハート」は、「あふれる情感」という点では同じかもしれませんが、私を取りまく空気を森閑とさせる強い力によってずっと地中に引きこまれるような、正反対の心の中へ降りていく感覚がありますが、二人の音楽にどのような違いがあるのでしょう。

 

 70年代に音楽活動へ復帰したアート・ペッパーには、児山紀芳さんとのエピソードがあります。児山さんは1971年に薬物中毒者のためのリハビリ施設であるシナノン収容者に入所中であったアート・ペッパーをわざわざ訪ねるのです。日本のファンの思いを伝えたことでしょう。その1年後にアート・ペッパーは音楽シーンへと復活します。そして楽曲「MANBO KOYAMA」を作曲し、児山さんに捧げています。

 そんな劇的な復帰を果たすペッパーの評価は50年代ペッパーを支持する「前期派」と復帰後のペッパーを擁護する「後期派」に二分されたと、後藤さんは回顧しています。後藤さんは所詮「仲間内の「楽しいジャズ談義」の域を超えるものではない」としつつ、音楽的には50年代ペッパーの方によりシンパシーを感じるが、復帰後の「八方破れ的ともいえるアグレッシヴで」ハードな「後期ペッパーもわかる立場」だと告白しています。50年代のペッパーの名演は内面の葛藤を抑制していたからの「深い表現」だったのに対し、復帰後のペッパーは「むしろ「内面の葛藤」自体を曝け出した「はらわたの音楽」ともいえる」と、後藤さんは表現しています。

 私は復帰後のペッパーのレコード・CDも聴いていますが、50年代ペッパーとはやっぱり少し違うかなあという地点でとどまったままで、それ以上の感想は持ち得ていませんでした。ペッパーと二重写しになるチェット・ベイカーのことは当ブログ「ブルーなCHETー映画『BORN TO BE BLUE』ー」で、次のようにふれたりしています。

 「 今回、一番驚いたことは、前期というか、1950、60年代こそチェット

  だと思っていたふしがあるのですが、60年代後半から70年代前半の中断

  を挟み、後期である70、80年代のチェットの音楽はすごいぞと感じられ

  たことでした。そんなにたくさん聴いているわけでもないのに恥ずかしい

  のですが、元々からあったチェットの音楽の志向がいよいよすごみを

  もって顕在化しているのです。」

 何もわかってはいないのですが、「すごみ」という言葉のもつ破天荒さは、長いとはいえない人生を燃焼させるような後期の二人のジャズに共通しているのかもしれません。

 

 相当長期の中断期間を挟んで(中断といってもペッパーが訪れてきた児山さんにブルースの演奏を聴かせたように入所中であっても音楽から遮断されていたわけではありません)、ペッパーとベイカー二人の前期と後期の印象が、そして評価が分かれているということを綴っていると、ロバート・フランクの写真のことを意識してしまいます。

 会期末の迫っている「ロバート・フランク展・神戸」(最終日が1日延長して9月23日)ですが、この展覧会から得た印象を核としてロバート・フランクの写真作品を紹介してみたいと思っているからなのでしょう。1940年後半から50年代にかけての写真と、映画を中心とした時期を挟んで、それ以降の写真を、どう理解すればいいのでしょう。できれば、そんなことも踏まえて、書くことができればと思っています。

 基本は同一人物という共通基盤があっての差異であり、編集力はもとより批評力などとは縁遠い私としては、どちらかといえば、差異を受けとめつつ、一人のアーティストの本質を見出したいと願ってはいるのですが。

  『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』[コンテンポラリー/1974]

 

 40年余の時を経て、ジャズを聴きはじめた頃に、強い印象を残した四枚のレコードを聴き直すことができました。どうして五枚でなかったのか、よくわかりません。ブログをはじめた際にも「再聴」という形で音楽に再会したいと思いつつも、数珠つなぎで目の前に現れる新たなテーマに翻弄されていましたが、今回はこんな形でジャズと出会った頃に戻ることができました。

 それにしても、1974年春、あの下宿の2階にいた青年たちは、今はどうしていることか。さしもの長かった夏も、確実に季節は移っていきます。

 

 

 

2017.02.28 Tuesday

手がかりとしてー「音楽」と「言葉」の関係ー

 久しぶりの大阪でした。前ブログでもふれた第二の勤務先のOBたちが集まったのですが、その前に中之島の大阪市中央公会堂とひとつ道を挟んだ「大阪市立東洋陶磁美術館」に立ち寄りました。NHKの日曜美術館でも放送された「台北 國立故宮博物院 北宋汝窯青磁水仙盆」という特別展が開かれていたからです。

 台北の故宮博物院から、世界に6点しか残っていないという北宋汝窯の青磁水仙盆の4点と、これに倣って清朝皇帝が作らせた景徳鎮官窯の青磁水仙盆1点が初めてそろって海外に出品されています。これら5点に、東洋陶磁美術館の所蔵する北宋汝窯の青磁水仙盆を加え、計6点の「青磁水仙盆」が一つの部屋に展示されていました。

 

 その6点の中でも、展示ケースの右肩に「人類史上最高のやきもの」の文字が貼られた「青磁無紋水仙盆」はカタログには「「神々しい」という形容が最もふさわしいやきものである」と書いてあります。テレビで見ていたのでその小さいことに驚きはしませんでしたが、このようなやきものを語る言葉がみつからないといういつもの経験をしたというしかありません。

 「人類史上最高」とか「神々しい」という表現が邪魔してしまうこともあるからなのか、私も「美」といえば「美」を感じはしましたが、どう美しいのかを表現する術がありません。色と質感と形と分解してみると、やはり「天青(てんせい)」といわれる色と、それと表裏一体の質感に、表現できないときに使う「いわくいいがたい」魅力を感じたというしかありません。

 同室の6点の「青磁水仙盆」の色「天青」は同じといえば同じですが、違うといえば確かにそれぞれ違うのです。貫入の有無など質感の違いも影響しているからなのか、「人類史上最高」という銘打ったやきもの(「青磁無紋水仙盆」)には貫入がなくその色は最も青味が「淡い」ように見えます。また常設展の韓国青磁の色にしても私には十分に美しいのですが、青と白が溶け合ってたたえられている透明感という点で比べるとはっきりと違いはありそうです。やはりこの透明感こそが「北宋汝窯青磁水仙盆」というやきもののポイントなのかもしれません。

 

 こうして6点だけにしぼって展示されることは見る者にとってわかりやすいことですが、「美」を小さく閉じ込めてしまい、とりもなおさず感受性の方向を強制的に操作されているようでもあります。ガラスケース入りの展示はいたし方がないのでしょう。韓国青磁を同じ部屋に並べて「北宋汝窯青磁水仙盆」6点との色や質感の違いを際立たせてみせるとか、ないものねだりではありますが、違う展示の方法もあったのかもしれません。

 いろいろと虚ろな言葉を私が並べてみせるよりも、東洋陶磁美術館HPで特別展の展示物をのぞいてみていただいた方がずっといいのでこれぐらいにしておきます。

 階段室の壁に貼られた大きなポスターの前だけが「記念撮影コーナーとして」で写真撮影が許されていて、閉館の5時近く記念撮影する人がいないタイミングでいろんな角度から撮影してみました。しかしながら、私が実際に見た「色」とはほど遠いものであり、「天青」とは優秀な機械であってもなかなか出せない色なのでしょう(この特別展は3月26日までの予定で開催中)。

  左肩に「記念撮影コーナー」とある場で撮影しました 私が実際に見た色とはちがいます

 

 日が傾きかけた館外に出ると、目の前が大阪市中央公会堂です。これまでも何回か見ていますが、やっぱりかっこいい建物です。昔はもっとくたびれて見えましたが、2002(H14)年に保存・再生工事が終わってからは、川にはさまれた中之島という位置も相まって、私にとっては大阪のランドマークとなっています。

 この中央公会堂は1913(T2)年に着工し、1918(T7)年に竣工していますので、当ブログ(「日曜日のキャンパス、百年前のこと」)で取り上げた今の「原爆ドーム」である「広島県物産展示館(1915年)」などと同じ頃に建築されたものです。大きなアーチ状の赤レンガのフォサードが目に入りますが、意匠の細部には「広島県物産展示館」の設計者であるヤン・レツェルが学んだオーストリア「セセッション」のデザインも取り入れられているとのことです。近代化を象徴する百年前の建築物になっています。

 

 大川、土佐堀川側に沿って東へ歩いていくと、鮮やかな黄色に塗られた観光遊覧船が下流に向かっていきました。堺筋である難波橋の上に立つと、川の水が盛り上がったような空間に、中央公会堂、その向こうの高層ビル群があるたたずまいは、長いスパンの歴史が詰め込まれ、ちょっとフォトジェニックな風景となっていました。

 総じて傾斜がきつく雨でも降らなければ水量のごく少ない神戸の川とちがって、大阪の川は水量が豊かであり、そのことが都市風景にちょっとちがうアクセントを与えています。

 懇親会の会場へと松屋町筋を南に歩いていくと、通りの向こう側にもうひとつの近代建築というべき商家建築の名残りに出会いました。あとで調べると、昭和初期の建物で登録文化財とされており、これまでも丁寧に手が加えられてきているようですが、今も現役の薬局として使われています。 

  東洋陶磁美術館の前から撮影した大阪市中央公会堂です(2017.2.24撮影、以下同じ)

  東洋陶磁美術館の前から土佐堀川側を航行する観光遊覧船です

  堺筋へ右折した難波橋の上から下流側を撮影した風景です

  松屋町筋のビルの谷間にある近代商家建築の名残りのような建物です(昭和9年築)

 

 またまた前置きが長くなりました。少し前にポロックの絵について書いたときにもふれましたが、今回の青磁水仙盆のような美術や音楽に接し、何がしか心の動き(「心がときめく」と書きたいのですが)が生じたとき、そんな心の動きを的確な言葉で表現できないものかともどかしく感じることがよくあります。私自身は美術や音楽を語る言葉をもっていないことを自覚し、もはや手遅れとあきらめているのですが、やはり興味があるのでしょう。どこか言葉を超えたところにありそうな美術や音楽を言葉にすることに愚かしさを感じているのも事実です。

 別の言い方として美術も音楽も感性に訴えるものであり、よけいな言葉など要らないのだという意見もありますが、感性でとらえたものも言葉で表現されるのですから、言葉など要らないといってしまうのは乱暴なことだし、それで済むものでないとも確信しています。

 最近、音楽と言葉の関係について「手がかり」となるような本と出会いましたので、今回は私にとって「手がかり」となったように思える文章をあまりバイアスを入れないで引用してみることにします。まあどの部分を引用するかがバイアスといえばバイアスということになりますが、このことが、次のステップの「手がかり」になることを願って試ることにします。

 

 その本とは岡田暁生音楽の聴き方(2009年6月刊/中公新書)です。副題として「聴く型と趣味を語る言葉」とあり、表紙カバー裏には「本書の狙い」が次のとおり記されています。

 「 音楽の聴き方は、誰に言われるまでもなく全く自由だ。しかし、誰かか

  らの影響や何らかの傾向もなしに聴くこともまた不可能である。それなら

  ば、自分はどんな聴き方をしているのかについて自覚的になってみようと

  いうのが、本書の狙いである。聴き方の「型」を知り、自分の感じたこと

  を言葉にしてみるだけで、どれほど世界が広がって見えることか。規則な

  き規則を考えるためにはどうすればよいかの道筋を示す。」

 この新書は<狙い>に沿って5章に分けて周到に筆がすすめられていますので、まずは各章の表題を並べてみます。

 第一章 音楽と共鳴するとき  −「内なる図書館」を作る

 第二章 音楽を語る言葉を探す −神学修辞から「わざ言語」へ

 第三章 音楽を読む      −言語としての音楽

 第四章 音楽はポータブルか? −複文化の中で音楽を聴く

 第五章 アマチュアの権利   −してみなければ分からない

 いつものように残念なことではありますが、私は全体を理解できましたとは言い難い状況ですし、第三章から第五章は音楽と言葉の関係についての実践的な方法を含むもので自分にはとても対応できないことも意味しています。でも、少なくとも「音楽」と「言葉」は切り離すことができない関係であり、「言葉なくして音楽を聴くことができない」ことは腑に落ちましたので、そこに焦点をあて、このブログでは第二章に特化して引用紹介することにします。

 

 第二章の冒頭には他の章と同様に、章のシノプシスがおかれていますので、まず全文を引用します。

 「 音楽は語れないと頭から信じ込んでしまわない。「音楽は言葉を超えて

  いる」という決まり文句は、ロマン派が作り出した近代イデオロギーなの

  だ。実際は言葉なくして音楽を体験することは出来ない。そして語彙や語

  りのロジックが増えるほど、人はよりよく聴ける。「音楽を聴く」とは

  「音楽の語り方を知ること」でもある。そして音楽を語る語彙は出来るだ

  け身体に響くものがいい。」

 この文章から大きくは二つのこと、「ロマン派が作り出した近代イデオロギー」とは、そして「「音楽を聴く」とは「音楽の語り方を知ること」でもある」とは、いずれもどういうことかとの問いに直面します。これらの問いに本書で第19回吉田秀和賞を受賞した岡田さんがどう答えているのか、その記述に沿って説明してみます。

 

 まず近代イデオロギーの方です。

 最初に注意が喚起されています。音楽がかつての呪術の痕跡を色濃く残す芸術であり、そのことは音楽を口にすることに禁忌なり罪悪感がつきまとうことの根源にあること、今日でも多くの人にとって音楽は神秘であり魔術なのだから、「言葉では到達出来ない何かがあると信じるからこそ、私たちはかくも深く音楽の魔力に魅了されるのだろう」ということを前提として断っています。

 でも、「しかしながら」と、次のことを事実として指摘します。

 「 「音楽を言葉にすることは難しい」/「言葉にすることがためらわれる」

  ということとある程度切り離して考えなくてはならないのは、「音楽を前

  にした沈黙をことさら人々が聖化するようになったのは比較的近代に

  なってからのことだ」という事実である。」

 「音楽は言葉に出来ない」という発想自体は、19世紀、正確には18世紀末のドイツ・ロマン派の詩人たちのものであり、それが「今日に至るまで私たちの音楽の聴き方/語り方に強い縛りをかけている」と岡田さんは述べつつ、次のようにまとめます。

 「 ニーチェが言うところの「神が死んだ」十九世紀にあって、音楽がかつ

  てのミサの代理を果たし始めたのだ。「汝はみだりに神の名を口にするべ

  からず」ー音楽を言葉にすることへの禁忌のルーツは、このあたりに

  あったものと思われる。」

 近代は産業化の時代でもあって、広範な市民階級抜きではありえず、彼らは美術や音楽の鑑賞者/購買者として台頭します。音楽の「する/聴く/語る」の分業化というなかで仲介者たる芸術ジャーナリズムが力をもちはじめ、「一方に音楽の神格化、他方に音楽の詐欺商売化」という両極端が同時進行し始めたのが近代の音楽界であり、そんな近代空間に生まれたのが「音楽は言葉ではない」というレトリックだったのだとし、岡田さんは次の結論を下しています。

 「 音楽を宗教なき時代を救済する新たな宗教にしようという勢力と台頭し

  てきた市民階級の聴衆を相手に音楽でもって商売をしようとする勢力との

  利害関係がぴったり一致したところに生まれたのが、「音楽は言葉ではな

  い」というレトリックだったことが分かる。」

 この「近代イデオロギー」が作り出された理由については、私の引用が不適切なのかもしれませんが、正直なところ物足りなさがあります。もちろん否定ではないけれど、ドイツロマン派の詩人たちに多くを負わせるのはいささかしんどい、ちょっと水をかけるようですが、そう思います。でも「音楽を人々が聖化するようになったのは比較的近代になってからのことだ」という事実はあったのでしょう。

 

 さて、二つ目の問いです。

 岡田さんは、前述の音楽の近代イデオロギーに対する適切な批判として、ストラビンスキーが自伝の中で展開したバイロイト批判を取り上げます。彼はバイロイトの聴衆が「高い入場料を払い、チケットを持っている自分のステータスを鼻にかけ、「素晴らしい」などと品定めしながら、まるで信者のように厳かに振る舞う」ことについて、<信者>としてではない<聴衆>としてのありようにつき、次のように批判しているようです。

 「 聴衆の態度というものはまるで正反対である。信仰にも、盲目的な服従

  にも左右されない。演奏に対して、称賛するか拒絶するかである。人はた

  とえ意識しなくても、判断してからうけいれる。批判の機能が本質的な役

  割を演ずる。この二つの明らかに別の思考方向(「信者と聴衆」の意)を混

  同することは洞察力の欠如、悪趣味の証拠である。」

 この批判を踏まえ、岡田さんは音楽に対して「信者」たらんとするか、それとも新しい時代の「公衆」としてそれに接するかは個人の自由だが、後者「公衆」の立場を選ぶ限り、ストラビンスキーの指摘のとおり「たとえ意識しなくても、判断してからうけいれる」ことをせざるをえないのであって、「批判の機能が本質的な役割を演ずる」のだとし、次のように強調しています。

 「 だからこそ音楽を語ることの意味はある。公衆たらんとする限りにおい

  て、私たちは大いに音楽について語っていいし、語るべきなのである。

   音楽の少なからぬ部分は語ることが可能である。それどころか、語らず

  して音楽は出来ない。このことをどれだけ強調してもしすぎではない。」

 実際のところ、音楽家にしてからこそ、批評言語を駆使して「音楽」をつくっているのであり、「音楽家の能力はかなりの割合で自己批評能力に比例する部分があるのではないか」と岡田さんは考えます。音楽の「トレーナー」や「プライベートレッスンの先生」などは「どこがどう悪くて、どう直せばいいか」を正確に教えるために存在しているのであり、実は彼らは「音楽批評家」なのだと岡田さんは言うのです。

 そして「音楽は言葉によって作られている」ことの何より説得力のある証として、一流の指揮者のリハーサル風景(DVDになっているようです)を取り上げ、次のように記しています。

 「 特にチェリビダッケやフリッチャイやクライバーの練習風景は、見る者

  すべてに鮮烈な印象を与えるはずである。天衣無縫に音楽をやっていると

  見える彼らだが、リハーサルでは絶え間なしにオーケストラを止め、詳細

  極まりない指示を出している。流麗な音楽は、実は言葉によって吟味熟考

  され、修正され、方向づけられた結果なのである。しかも彼らが音楽に貼

  りつける言葉は、ただ説得力があるばかりか、どれも本当に面白い。こう

  いうものを見ていると、ひょっとすると「音楽を語ること」は「聴くこ

  と」以上に楽しいのではないかとすら、思えてくるはずだ。「音楽は言葉

  に出来る/音楽は言葉で作られる」ということの意味の、これ以上説得力

  のある証はあるまい。」

 長い引用になりましたが、このことは私にも分かりますと申し上げてよいでしょう。

 さらに音楽家が使う言葉は「精神性」とか「宗教的」といった観念的な表現をまず使わないのであり、音楽家の言葉の特徴を次のように説明します。

 「 それどころか、彼ら(音楽家)は、身体的実感を伴わない物言いを、何よ

  り軽蔑する。「音楽家を納得させる語彙」の第一条件は、形而上学的でな

  いこと、つまり身体的であることだという印象がある。」

 このような身体的実感を伴う物言いについて、興味深い事例として、例えば先述の指揮者の指示である「四十度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」とか「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」等を挙げています。岡田さんはそれを典型的な「わざ言語」と呼び、その機能の有効性は、身体との共振を作り出す言葉として、「リアルな身体感覚をどれだけ喚起出来るか」にかかっているのではないかと強調しています。

 そして、日本固有の問題として、次のように指摘します。

 「 音楽の営為が「すること」(作曲と演奏)/「聴くこと」(享受)/「語るこ

  と」(批評)のトライアングルから成ると考えるなら、輸入音楽の場合、異

  文化理解という点で最もハンディが生じやすいのが「語ること」である

  のは、否定できまい。」

 したがって、「私たちの聴いている音楽の大半が、輸入された音楽である以上、「音楽は語れない(語る必要はない)」という信仰が増幅される条件は、十分すぎるくらい揃っていた」わけだというのです。だからこそ、我が国の音楽文化には、「音楽を言葉にする」際に、前記の身体感覚を喚起する「比喩」を伴う言葉として「わざ言語」を作り出すことが求められているとし、その事例として村上春樹の文章を引用しながら説明しています。

 

 そして、岡田さんは、第二章の締めくくりに、「音楽を語ること」の大切さ、あるいは必然性というものを、次のとおり、それこそ語りかけています。

 「 再三繰り返すが、音楽文化は「すること」と「語ること」とがセットに

  なって育まれる。しかし「音楽を語ること」は決して高級文化のステータ

  ス、つまり少数の選良の特権であってはならない。どんなに突拍子もな

  表現であってもいい。お気に入りの音楽に、思い思いの言葉を貼りつけ

  みよう。音楽はただ粛々と聴き入るためだけではなく、自分だけの言葉

  添えてみるためにこそ、そこに在るのかもしれないのだ。理想的なのは、

  音楽の波長と共振することを可能にするような語彙、人々を共鳴の場へと

  引き込む誘いの語彙である。いずれにせよ、音楽に本当に魅了された

  き、私たちは何かを口にせずにはいられまい。心ときめく経験を言葉に

  ようとするのは、私たちの本能ですらあるだろう。」

 

 第二章で最も合点がいったのは、音楽家が音楽を作り出すときの言葉の働きについての説明です。「音楽は言葉で作られる」ともいえる現実、事実は「音楽は言葉に出来る」ことになると申し上げてよいのでしょう。

 このように音楽を「する人」にとっての真実は音楽を「聴く人」を排除するものではありません。ただし、「音楽は言葉に出来る」ものであっても、「聴く人」にとって実際はなかなか容易ではありませんが、そのためには、はなから「音楽は語れないと頭から信じ込んでしまわない」でもっともっと「音楽を言葉にする」ことが大切だと、岡田さんは主張していると理解できます。

 さらに「聴く人」がそれぞれのかけがえのない音楽体験をベースに、「音楽を言葉で語る」場合、「する人」である指揮者のようにはいかなくとも、その語彙は「身体に響くもの」、身体と共振するものがいいと強調している理由も分かるような気がします。

 

 本書の「おわりに」には、まとめを兼ねた「聴き上手へのマニュアル」が28個にわたり箇条書きで列記されています。私にはとても対応できそうにないことが多いのです。したがって、本書の全体を理解できたと申し上げるわけにはいきませんが、本書から「言葉なくして音楽を体験することはできない」「音楽を言葉にすることを躊躇しない」でいいのだということを学ぶことができたと、それは音楽と言葉の関係についてとても大きな「手がかり」となったと考えています。

 本書はいわゆるクラシック音楽を対象としていますが、岡田さんも書いているとおり、音楽全般に通じることでもあります。

 

 本書の第一章の最後のところには村上春樹によるシューベルトのピアノ・ソナタをめぐるエッセーの締めくくり部分が引用されています。岡田さんは「音楽を聴くことの究極の意味について、これにつけ加える部分は何もあるまい」としていますので、最後にその村上さんの文章を再引用しておくことにします。

 「 そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となっ

  て、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類した経験は

  少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料

  として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったと

  したら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまで

  に寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をする

  のだし、ときとして、まるで恋するように音楽を聴くのだ。」

 もとより音楽についての個人的体験だけにとどまることではありませんね。 

 

【追伸】

 当ブログで紹介したNHKBSプレミアム『築地市場 魚河岸の誇りと涙』の再放送が決まりました。

 3月4日(土)午後1時30分〜3時00分です。

2016.10.16 Sunday

いい音楽と出会えますー二本のドキュメンタリーー

 ボブ・ディランのことなどすっかり頭から消えていたのに、今回のノーベル賞受賞によって思い出された方もきっと多いことでしょう。

 私もその一人ですが、ファンとはいえません。ボブ・ディランの印象は、こんな難しい詩を楽曲として歌っているのだということでした。

 レコードやCDはと探してみても今のところ一枚ずつ見つかっただけですが、思いがけず薄い文庫本も一冊見つかりました。角川文庫として1974年(昭和49年)に発行された『ボブ・ディラン』(サイ・リバコブ、バーバラ・リバコブ著/池央耿訳)です。今<あとがき>を読むと、若き池さんは預言者のようにディランの本質を見抜いていたのではないかと驚きます。

 ビートルズは、ボブ・ディランに接した時、何よりもディランの詩に打たれ、自分たちの詩が児戯に等しく思えたと述懐し、以後、言葉自体に意味のある詩を書こうと努めるようになったという話があることを紹介し、<表現者としてのディラン>を次のように論評しています。

  「 表現者としてのディランに注目する時、私は彼を音楽家であるよりは

   むしろ詩人であると思う。フォークであれ、ロックであれ、彼の成功し

   ている曲はいずれもその言葉によって評価を受けるべきものと言って

   良い。」

 彼を理解しようとすれば「音楽形式を離れて、彼の歌の言葉を虚心に辿ってみる」とよいのであり、そこには「終始変わらぬデラシネの歌が流れているはず」だとし、「言葉を通したアプローチ」が不可欠だと強調しています。そして将来を予言したような次の言葉を書きつけています。

  「 帰属すべきサブカルチュアを持たぬディランは終生アウトサイダーの

   道を行くであろう。アウトサイダーなるが故に、彼には孤高の影があ

   る。世に容れられることはもとより彼の望むところではあるまい。彼は

   歩き続けるに違いない。その果てには、恐らく彼の世界観に照射された

   小宇宙が拓けているのであろう。」

 今となればいかがなものかという部分はあったとしても、少なくともディランはずうっと歩き続けてきた詩人であり、その言葉を楽曲として表現し続けてきたことは疑いようのないところです。

 

 手元にあるレコード『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』はディランの4枚目のアルバムで1964年(昭和39年)にリリースされたものです。なぜ買ったのかわかりません。この4枚目のアルバムはプロテストソングから個人的な内省への転向という問題をさらに混乱させることになったといわれていますが、この中の一曲「マイ・バック・ページズ」はディランの訳詩といえばこの人であった片桐ユズルの訳で読むとなんだか難しいものだったのだと改めて感じます。6連の歌詞にはいずれも「Ah、but I was so much older then、I´m younger than that now(ああ、あのとき私は今よりもふけていて/今はあのときよりも ずっとわかい。)」というフレーズがリフされ印象的です。

 この曲の歌詞について、前記の文庫本では、その時のディランの意図を次のように推し量っています。

  「 この曲で彼はきわめて正直に、かつては世界の問題についてすべてを

   知っているように思っていたが、今ではそのころよりも「若くなった」

   と言っている。歌詞はやけにもたもたしているが、しかしボブの実に人

   間的な魅力の一つである公平無私な率直さは顕著に示されている。」

  「 彼は率直に、自分でそう思い込んでいたほどには物を知っていないの

   だと言い、さらに、彼の軽蔑している頭の空っぽな、口先だけはべらべ

   らとよくしゃべる説教師に自分自身がなりかけている危険を感じると

   言ったのだ。自己分析に曲をつけた注目すべき歌がここに生まれたので

   ある。」

 プロテストソングを歌っていたころの自分への反省とか悔恨なのでしょうか、もっと抽象的にいうと若年寄のように何もかも分かったように振る舞っていたということに対する自嘲、自省なのでしょうか、長くなるので第一連と第二連のみとしますが片桐さんの訳詩を書き写しておきます。

    マイ・バック・ページ

 

  耳のなかで縛られた真紅の焔が

  高くころがり大きなワナー

  焔の道に火とともに跳ねる

  思想をわたしの地図としながら。

  渕であうだろう。じきに、とわたしは言った。

  熱いひたいのしたで誇らかにー

  ああ、あのときもわたしは今よりふけていて

  今はあのときよりも ずっとわかい。

 

  なかばうちあげられた偏見が跳び出し

  「すべての憎しみは引き裂け」とわたしはさけんだ

  生きることは黒と白だというウソが

  わたしの頭蓋骨からしやべる夢をみた

  銃士のロマンチックな事実は

  深い基礎をもっている ようだ

  ああ、あのときもわたしは今よりふけていて

  今はあのときよりも ずっとわかい。

    [以下、略]

 なお、川本三郎さんの『マイ・バック・ページーある60年代の物語』という書名はディランの「マイ・バック・ページズ」からとられたとのことです。

  『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』1964年/CBSソニー

  『ボブ・ディラン』サイ&バーバラ・リバコブ著、池央耿訳/1949.3刊・角川文庫

 

 最近、映画館で音楽ドキュメンタリーを二本続けてみることができました。いささか疲れ気味で普通のドラマ映画よりライブ場面の多い音楽ドキュメンタリーの方が見やすいし、ダイレクトに響きやすいかなと安直に思ったからです。

 二本ともいい映画でしたし、超絶技巧のびっくりするような演奏を楽しむことができました。元町映画館の『パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト』と、神戸アートビレッジセンターの『ソング・オブ・ラホール』です。二本ともまだ上映中なので取り急ぎ情報提供の意味でお知らせすることにしました。

 とにかくいい音楽に出会える映画です。

 

 二本の映画に共通していることは、伝統に支えられた音楽がグローバルという時代にあって外部の音楽と出会うことによって、伝統的な音楽を基盤としながらも、自分(自分たち)のオリジナルな音楽を創造していくという状況が核となっていることです。

 基盤となっているのは、前者がスペイン南部アンダルシアのフラメンコですし、後者が私たちの縁遠いといってよいパキスタンの芸術都市といわれたラホールにおける伝統音楽です。

 

 『パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト』は天才ギタリストの音楽と人生を真正面からみつめています。

 パコ・デ・ルシアは貧困にもがきつつフラメンコギターから出発しましたが、群を抜いたテクニックと音楽性から、国内外のフラメンコを基盤としない音楽家からのオファーを受け、彼らとのコラボによって「即興」と出会い、ワールドワイドな活躍を続けてきた音楽家です。この映画の完成をみる直前2014年に66歳で心臓発作により急逝しています。私はリストの超絶技巧のピアノ曲が面白くないというのと同じ感覚で超絶技巧のギタリストなんだと勝手に決めつけてまともに聞いたことはありませんでした。

 印象的だったのは、彼のような音楽家でもコンサート前の緊張が尋常ではないこと、集中を高めるためには一人にならないといけないこと(ギターを弾く爪をやすりで適切にそろえることをはじめ様々なルーチンがある)であり、何より聴衆の反応がどうこういうより前に、自分が満足できる演奏を追い求めているのだと率直に語っているところです。自分を満足させることのできる演奏をすることが、結果として、聴衆によい音楽を届けることになるという考え方なのでしょうか。

 パコは死を予期していなかったのでしょうが、映画の最後までマジョルカ島で自分を孤独の状態において苦悶しながら音楽を創作しているさまは、そして演奏水準の維持のために常にギターを弾いているさまは、華やかな超絶技巧とはまた別の一面をみた思いがしました。表現をするためには孤独でなければならず、自由を確保しておく必要があると、パコは考えていたのでしょう。

 それにしても、パコのギターの何というのか音圧とでもいうべきか、左手が響かせる音の強さにたまげました。演奏は灼熱でもこんな内省的な雰囲気をまとった男であったことに、演奏との落差に驚いたのです。

 この映画は5歳でギターをやめたというパコの長男であるクーロ・サンチェスが監督しており(この作品で「ゴヤ賞」ベストドキュメンタリー賞を受賞)、パコ・デ・ルシアよ、もって瞑すべしとの感が深いです。

  『パコ・デ・ルシア 灼熱のギタリスト』クーロ・サンチェス監督/2014年スペイン

 

【映画予告編】

 http://www.youtube.com/watch?v=H-0eLXg-l84

 

【2006年のコンサート】

 http://www.youtube.com/watch?v=Nv34G5b-ty8

 

 『ソング・オブ・ラホール』は厳しい状況下にあるパキスタンの音楽家たち(サッチャル・ジャズ・アンサンブル)がユー・チューブでブレークし、ニューヨークのリンカーンセンターで演奏することになった顛末をドキュメントしています。

 ラホールはもともと芸術都市といわれ、50年前にはパキスタンの「ロリウッド」として映画の聖地であったとのことですが、1970年代後半のイスラーム化の波、そして90年代のタリバン勢力の台頭によって、歌舞音曲にまで弾圧の手がのび、映画産業は衰退し、音楽家たちは活躍の場を失いました。このままではダメだと、ロンドンで成功したラホール出身者が音楽スタジオを創設し、伝統音楽を継承・再生するために優秀な演奏家を集め、乾坤一擲の思いで、伝統楽器を使ってジャズに挑戦することにしたのです。

 そして「テイクファイブ」をカバーしたプロモーションをユーチューブに投稿したところ、100万件以上のアクセスを記録して注目を浴び、ついにはリンカーンセンターの音楽監督であるウィントン・マルサリスが自分のビッグバンドと共演する相方として、彼らをニューヨークへ招待することになるのです。

 

 カメラはラホールでの音楽家たちの暮らしの窮状とともに家族愛を静かにみつめています。街中で起こった紛争の映像が流され、少数派であるシーア派の音楽家が「宗派がちがうだけで殺すなんて」と嘆くシーンは胸を打ちます。これは宗派がちがってもこれまで共存してきたことを示しているともいえます。またビッグバンドとの共演のためにアンサンブルの中からピックアップされた数名だけがニューヨークへ旅立つのですが、参加できないバイオリニストの様子もドキュメントされています(バイオリンを修理する職人もいなくなってしまった)。このように現在のラホールの困難を感じさせながらも、ラホールの市井には人間の暮らしや他者を思いやる感情が息づいています。

 

 印象的なことは、ニューヨークでのリハーサルで打楽器であるタブラなどはすぐに溶け込むのに対し、最初はシタールが合わず場違いのようになってしまうところです(私でもおかしいと分かります)。最初の奏者(チラシの表面のシタール奏者)は演奏水準の低さからマルサリスに拒否され、見えにくいですが裏面のシタール奏者と交替を余儀なくされるところです。職人気質のおじさんたちは焦りもみせますが、何とかしようとホテルの部屋で厳しく練習に励むのです。

 もっと印象的だったのは、リハーサル後にニューヨークの街へ出て街中に流れる音楽とともに自由を感じ大いにかつはにかんだように笑っている彼らの顔であり姿です。今や古びた言葉にされてしまった感のある<万人に共通する人間の感覚、感情>の存在を信じたくなるシーンです。

 

 今年8月の映画公開に合わせてサッチャル・ジャズ・アンサンブルのピックアップメンバーが日本にもやってきたそうです。彼らは自分たちの暮らしを少しでも立てていくために、そしてパキスタンの伝統音楽、伝統楽器を継承させていくためにも、音楽活動が広く世界中から注目されることを願っているのです。彼らはラホールでは日本の伝統楽器の家元のような存在なんだと感じました。プロフェッショナルであることはもちろんですが、新しいことにもトライする追い込まれた者の強靭さを併せもっています。

 彼らの演奏のすごみを知っていただくために、予告編に加え、「テイクファイブ」の演奏も貼り付けておきます。作曲者であるデイブ・ブルーベックは「最も面白く他に類を見ないテイク・ファイブの録音」だと絶賛したとあります。

  『ソング・オブ・ラホール』シャルミーン・ウベ―ト=チナーイ他監督/2015年アメリカ

  同上 裏面

 

【映画予告編】 

 http://www.youtube.com/watch?v=fSepumfQkd4

 

【「テイク・ファイブ」演奏】

 http://www.youtube.com/watch?v=dO_tC99prRs

2016.08.24 Wednesday

すぐそばにーキース・ジャレットの音楽ー

 まだまだ終わりそうもない夏のせいなのか、オリンピック三昧が長く続いたせいなのか、なんだか疲れています。

 せっかく、こんな時間をあたえてもらっているのに、そんに急いでどうするのという声が聞こえます。じっくり本でも読んだらどうなのと思っても、それもちょっとしんどいなあという体たらくなのです。こんなときは、ほんとに久しぶりに音楽でも聴くことにしましょう。

 

 あまり迷いなく取り出したのはキース・ジャレットの二枚のCDです。

 最近の愛聴盤、というほど音楽を楽しめていないのですが、『JASMINE』と『The Melody At Night,With You』です。この二枚の共通点は、キース・ジャレットの自宅スタジオで録音されていることです。前者はベースのチャーリー・ヘイデンとのデュオ、後者はピアノソロなのですが、いずれもスタンダード曲をゆったりとストレートに演奏しているところが近しいのです。

 録音・発表の順番は逆で、後者の『The Melody At Night,With You』は1998年録音で翌99年リリースされ、前者の『JASMINE』は2007年録音で2010年にリリースされています。この10年の間にキース・ジャレットの発表したアルバムはライブ録音ばかりで、スタジオ録音はこの二枚だけだということです。

 

 キース・ジャレット(1945-)はジャズ・ピアニストのトップとして長く活躍を続け、完全即興のピアノ・ソロ・コンサートという分野の扉を初めて開けた演奏家でもあります。そんな彼が1996年でのイタリアのコンサート中に演奏が続けられない状況となり、「慢性疲労症候群」と診断されます。辛い時期を経て、キースが1998年に入ってやっとピアノを弾けるようになるまで復活の兆しがみえはじめた頃に自宅で録音されたのが後者の『The Melody At Night,With You』だそうです。

 この二枚のCDは、いつものキース・ジャレットの演奏と少し様相がちがうのです。凛とはりつめたような緊張感とか、これでもかという流麗さや躍動感や切れ味の鋭さとか、そんな特質は横においておかれます。これまでも無縁であったわけではありませんが、メロディーの繊細な美しさ、やわらかくやさしい音色、ピアノをたたくというよりまるで軽くトントンとするようなタッチが終始際立っているように感じます。きっとそんな単純なことではないでしょうが、音楽の分からない者にとっては、いつもと次元のちがうレベルで、肩の力を抜いて若い頃から耳に入って記憶された楽曲をいつくしむように「ありのまま自然に演奏」していると思うのです。

 そんな音楽を聴いていると、おだやかで安らかな気持ちになれますよという効能を語ってもしようがないですね。そこに今の私がもとめている大切な音楽があることを感じさせてくれる音源というほかありません。

 ちょっとリスナーにも覚悟をもとめてしまうキース・ジャレット音楽の高踏性や尖鋭な音楽性から離れ、リスナーのすぐそばにいてピアノを弾いてくれているような錯覚を抱かせてくれます。少なくとも私にはそう感じられるのです。

 

 この二枚のアルバムによって、キース・ジャレットはライブパフォーマンスでの圧倒的な演奏というハレの音楽に加え、一人で、またヘイデンのベースと二人だけで、弾きなれた自宅のピアノに向かいあって自然に湧き出してくるケの音楽を、方法意識とともに発見したのだと申せましょう。

 

 リリースされた順に書けばいいものを『JASMINE』を先にしたのは、一昨年に急逝したチャーリー・ヘイデン (1937-2014)というベーシストを1976年録音『クロースネス』というヘイデン名義のアルバムにおいてキースとのデュオを聴いてから最高のベースだと信じてきました。30年前の耽美的な「エレン・ディヴィッド」から歳月をへた彼らの魂の対話ともいうべきデュオをほんとにすばらしいと感じたからです。

 それにユーチューブのなかに『JASMINE』の1曲目の「For All We Know」を探すことができたからです。PCの音には限界はありますが、アルバムの雰囲気がわかっていただけるでしょう。できればヘイデンのベースのピチカートも聴いてほしいのです。

 ライナーノートの締めくくりには、「Call your wife or husband or lover in late at night and sit down and listen.」とあります。夜に聴いてほしいのですね。

  『JASMINE』KEITH JARRETT/CHARLIE HADEN   2010/ECM RECORDS

    同上 裏面

 

「For All We Know」

   http://www.youtube.com/watch?v=qU6UoJxGMeo

 

 先に録音された『The Melody At Night,With You』に病後の晴れやかさがあるとは思わないでほしいのです。行きつ戻りつしながら一枚一枚薄皮をはぐように回復を確かめている「明」より「静」にかたむいた感情の流れが感じられます。自分がたどってきた道程(みちのり)を回想しつつ祈るようにメロディーを綴っています。もちろん「奏でて」いるのですが、「綴って」いるといった方がふさわしい音楽です。タイトルに「At Night,With You」とあるように夜に聴いてほしいというのが、『JASMINE』と共通していますね。

 1曲目の「I Loves You Porgy」のライブパフォーマンスをユーチューブから貼り付けていますが、CDの音源ではもっと訥々と弾いています。

 このアルバムは「For Rose Anne.Who heard the music.Then gave it back to me.」と、闘病を支えた妻ローズ・アンへの感謝が捧げられています。

  『The Melody At Night,With You』KEITH JARRETT   1999/ECM RECORDS

  同上 裏面

 

◈「I Loves You Porgy」

   http://www.youtube.com/watch?v=o3D8Ri84hmw

 

 さて、『毎日新聞』8月23日朝刊の「月刊 時論フォーラム」を貼り付けておくことにします。世界的に「資本主義の行方」とりもなおさず「民主主義の行方」が問題になっている現状を、水野和夫法政大学教授が紹介してくれています。

 政治家にかぎらず、我が国の学者やジャーナリズムは現状を追認する理屈だけを並べるしか存在を確かめる術がないと思いこんでいるようだと感じることも多くなっています。こうした現状に対する強い警告でもあるのだと私は読みました。

 

  ◈http://mainichi.jp/articles/20160823/ddm/004/070/012000c

 

 

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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