2020.10.12 Monday

「生者は果たして死者のために祈り得るか」ー原民喜『夏の花』のことー

 中秋の名月でした。旧暦の8月15日にあたるという10月1日、日没直後のまだ少し明るみの残る東の空には、黄色くて大きな十五夜の月が顔を出していました。手持ちのカメラで撮影してみましたが、その大きさと色の感じが出ません。もう15分ほど歩いてから、同じ方角をみると、闇が深くなり、月は小さくなってしまったようで、色味だけがデジカメに写っていました。

 長谷川櫂さんの『日本人の暦』(2010年12月刊/筑摩書房)で「月見」を覗くと、長谷川自身の句に目がとまりました([ ]内は季語)。

 []   空よりも大きな月の上りけり

 [十六夜] 名月に一夜遅れてけふの月

 前句は、低空の月は大きく見えるという眼の錯覚、月の錯覚と呼ばれるものらしいですが、私にもやはり大きく見えました。後句は、今年は、中秋の名月の翌日10月2日、十六夜が満月だったそうです。

 芋名月ともいうらしく、これはこの日が里芋の収穫祭だったからだそうです(そういえば芋煮の夕食でした)。こんな長谷川の句も出ていました。

 [衣被]  衣被李白を憶ふ杜甫の詩(うた)  

  中秋の名月(日没直後)   [2020.10.1撮影、次も同じ]

  同 上(前記から15分後) 

 本稿では、原民喜(1905-51)の「夏の花」のことにふれたいと思います。

 正直に告白すれば、原民喜が執筆してから75年をへて、初めて「夏の花」を読みました。被爆した広島をテーマとする文学として、これまで多くの方が論じてきていて、そのことは繰り返し読んできたにもかかわらず、本体である「夏の花」という短い小説(これは小説なのでしょうか)を読むことをためらったままで放置してきたといえます。機会がなかっただけなのか、まあ怖がりですから、読んで受ける衝撃を怖れたのでしょうか。

 今回、その気になったのは、1970年に初版された晶文社版の『夏の花』(実際に手にしたのは1981年の10刷版です)のたたずまいに、偶然にも古本屋の棚で対面したからです。今はほとんどみられない函入り本で、その函を覆う絵に心が動いたのです。これは出会いというものであり、読んでみよというサインでもあろうと思ったのです。

 かくして、「夏の花」が「壊滅の序曲」と「廃墟から」に挟まれた三篇からなる『夏の花』を読むことになりました。私の予想とはちがっていました。このうち「夏の花」は、作者の感情、心象をほとんど押し出してこない文体で終始しているという点で、とても静かさをたたえていました。つまり起伏のある強い感情の表出が極力排されており、作者の目と耳でとらえた事実であろう映像の説明文と言いたくなる文章で、全てではないにせよ(この破調にも真実があります)、叙述されています。

 この30頁たらずの小説は、まぎれもなく読む私を強く牽引する力をもっている作品だと感じたのですが、初めて読んだときの「静かさ」という印象との関係を、どう理解すればいいのか、さらには「夏の花」が被爆した広島を描いた文学として高く評価されてきたことと、私の読後感との関係を探ってみたいと考えました。そして、「夏の花」を書いた、書かざるをえなかった原民喜という人物にも興味がわいたのです。このような作品を書いた原がどうして数年を経ずして自死するに至ったのかについても、一つの解釈でもいいので知りたくなりました。

 このために、晶文社版の解説を担当した竹西寛子と、2年前に岩波新書から『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(2018年7月刊)を上梓した梯久美子に、仲介をお願いすることにしたのです。というより、いつものことになりますが、二人の視点を頼りにして、納得できる言葉を探すことにしました。

  原民喜『夏の花』函の表 1970年7月刊(1980年10刷版)/晶文社

  原民喜『夏の花』函の裏

 上記は、晶文社版『夏の花』の函の表と裏です。この絵が誰の手になるものか、いつ頃に描かれたものなのか、この本の記述をはじめ、ネットで調べても手がかりはありませんでした。黒い背景に黄色い花と緑の茎が荒いタッチで描かれ、黄色い絵具を吹きこぼした跡のような点々が光っている、不思議な絵だといえばそうなのです。

 でも、「夏の花」を読めば、冒頭に書かれた、原が前年9月に亡くした妻の墓を訪れたときに持参した「黄色い小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった」という名称を知らない花なのであろうと推察できます。それは1945年8月6日に先だつ8月4日の朝のことでした。 

 

◈渡辺一夫との接点ー「狂気について」ー

 当時(1949年)、『三田文学』の編集を担当していた原民喜は、前年の9月号に寄稿してもらった「狂気について」が、それを標題とする「今度一冊の書物となり読み返すことができたのは嬉しいことだった」と、自身の「「狂気について」など」をタイトルとする短いエッセー(『三田文学』1949年9月号)に記しています。

 この原の小エッセーには、原の多くの作品が青空文庫に揃えられていることから、同文庫の助けを借りて、「夏の花」の理解を助けるために、少し幅広く原の文章を探しているときに出会ったものです。

 

 原は、寄稿者の名前を記していませんが、内容から、最近、当ブログでも紹介した渡辺一夫(1901-75)であることがすぐに分かりました。

 戦後の東西対立の先鋭化・深刻化(翌々年には朝鮮戦争が勃発しました)という時代状況のなかで、渡辺一夫は、前々ブログ(2020.9.19「今、「寛容」ということー渡辺一夫の言葉からー」)で直接取り上げた「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」と同じ1948年に、「狂気について」というエッセーを書いています。そして、ウィキによれば、翌1949年にこれらのエッセーを所収した『狂気についてなど』とのタイトルの単行本が、新樹社という出版社から刊行されています。

 渡辺は、前者の「人間が機械に……」で、人間は自分の作ったものの機械(制度や思想をはじめ)になりやすいという事実に立って、「割り切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解決を求め続ける」ことが大切だ、それがヒューマニズムであると主張していました。一方、その少し前に書かれたと思われる後者の「狂気について」においても、「人間は狂気に陥りやすいものだ(人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在だ)という人間性の認知」、この自覚を持たない、あるいは忘れている人間の精神状態が「狂気」というべきだと、同じヒューマニズムの視点から、「狂気」と「機械」を置きかえたような構造の文章で論じています。

 ですから、ヒューマニズムというものの心核には、原も引用する、次の自覚があるはずだと述べています。

 「 「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られ

  ます。私はそうは思いません。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒

  廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、「狂気」によって捕えやすい

  人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地

  道になされるものです。」

 そして、渡辺は「平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう」とし、「冷静と反省」が行動の準則とならなければならないと主張しています。

 

 この渡辺の言葉について、原は「僕は自分のうちに存在する狂気に気づき、それをどう扱うべきか常に悩んでいるものだが」としつつ、「しっくりと僕の頭脳に沁みてくる」と反応しています。

 そして、「昨日まで戦争という「狂気」の壁に」取りまかれていたが、また新しい戦争という危機がやってこないと断言できるだろうかとし、「こんな「狂気」を僕たちは僕たちの意欲によって避けることは出来ないだろうか」と、原は自問し、「戦争と暴力の否定が現代ぐらゐ真剣に考えられねばならぬ時期はないだろう」としています。

 最後に、原は、渡辺の主張に対し、ペシミスチックになりがちな自分を励ますような文章を残しています。

 「 これらの言葉は、一切が無であろうかと時に目まいがするほど絶望しが

  ちな僕たちに、静かに一つの方向を教へてくれるやうだ。」

 

 「戦争」は「狂気」の産物だとするなら、「原子爆弾」は「狂気」の行き着いた先の凶器というべきでしょう。

 ここで強調しておくべきは、広島の街を8月6日、7日そして8日とさまよい歩き、自分が「狂気」に陥りがちであることを自覚する作家の目と耳に焼き付いた被爆の諸相の映像と言葉の集積というものが、「夏の花」の前提にあったということです。まさに窮地に立った原民喜ですが、疑いようもなく、そんな作家としての目と耳は、働いていました。それは「狂気」のなせるわざではなく、「正気」というほかありますまい、と申しあげたいのです。

 

 そして、こんな苛烈な経験(被爆だけではありません)を経てきた原民喜が、それでもなお、渡辺一夫の言葉に肯定的な態度で接していることに、私はある種の感動を覚えるのです。

 先走りますが、1951年3月の原民喜の自死について、大江健三郎は、新潮文庫版『夏の花・心願の国』の解説で、次のように書いています。

 「 原民喜は狂気しそうになりながら、その勢いを押し戻し、絶望しそうに

  なりながら、なおその勢いを乗り超えつづける人間であったのである。そ

  のように人間的な闘いをよく闘ったうえで、なおかつ自殺しなければなら

  なかったこのような死者は、むしろわれわれを、狂気と絶望に対して闘う

  べく、全身をあげて励ますところの自殺者である。」

 つまり、原民喜という作家は、狂気と絶望に引き込まれそうになりながらも、戦争と原爆という「狂気」の産物を、自分自身の問題として、人類全体の問題としてとらえ、それを乗り越える人間精神につき、「渡辺一夫の言葉」のなかに「一つの方向」を模索しようとしていたといえるのではないかと、私は受けとめたいと考えました。

 この項では、原民喜は、「狂気」と「絶望」に対し、人間的な闘いをつづける人間であったことを確認しておくことにいたしましょう。

 

◈「被爆した広島が言わせる言葉」とはー竹西寛子の視点ー

 1945年8月6日、爆心地から2.5劼亮宅で被爆した、当時16歳であった竹西寛子(1929-)は、25年後の1970年刊の晶文社版『夏の花』に「広島が言わせる言葉」というタイトルの解説を寄せています。さらに35年後の原民喜生誕100周年祭(2005年11月/広島)では、「『夏の花』の喚起」と題する記念講演を行っています。以下では、《解説》《講演》と表記して区別します。

 本項では、竹西の視点に依拠しつつ『夏の花』を考えてみたいのです。

 

 その前に、『夏の花』の外形的な情報を共有しておきます。

 この単行本には、「夏の花」三部作といわれる、三つの短篇「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」がこの順番で並べられています。原民喜は、1944年9月に大きな存在であった妻を亡くし、住んでいた千葉から、翌45年1月に家業(陸海軍・官公庁用達の縫製業)を手伝うということで広島に帰ります。

 「壊滅の序曲」には、帰郷以降のことが、最終行の「原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」という時点まで描かれています。そして「夏の花」は、冒頭の妻と父母の墓参という8月4日のシーンのあと、8月6日の「原子爆弾に襲われた」ところから、被災から逃げようとして街をさまよい、6日夜を川の土手の窪地で越し、7日になって施療所にもなっていた東照宮の石壁の脇で24時間を過ごし、翌8日は長兄の用意した馬車に次兄家族たちと6人で乗って、避難先の八幡村にたどり着いたのは「日もどっぷり暮れた頃」だとあります。ですから、実質は3日間のことです。三つ目の「廃墟から」には、避難先の八幡村に着いて以降の厳しく辛い日々のこと(最後のエピソードには「あの当時から数へてもう4ヵ月も経ってゐる今日」とあります)が描かれています。

 ですから、「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」は、被爆前、被爆とその直後、疎開後という時制的な順に並んでいることになります。

 このことをあえて書いたのは、発表された順でいくと、いずれも『三田文学』に掲載されていますが、「夏の花」は47年6月号、「廃墟から」は47年11月号、そして「壊滅の序曲」は49年1月号と、「夏の花」が最初に発表されていて、これが書かれた順番でもあるからです。

 

 さらに、「夏の花」が発表されるまでの経過も知っておいていただいた方がよいでしょう。

 「夏の花」の元になった原稿は、八幡村の疎開先での食糧不足からくる飢えと被爆の影響による体調不良のなかで、年内、45年11月頃までには書き上げられていました。そのときの題名は「原子爆弾」でした。ですから、「最初の原爆小説と言っても過言ではない」との見解もあります。

 この原稿は、12月中ごろには亡き妻の弟である佐々木基一(1913-93)に送られ、『近代文学』の同人たちに鮮烈な印象を与え、同誌での発表が検討されたのだそうです。しかしながら、『近代文学』はプレスコードと呼ばれた占領政策の事前検閲を受けなければならなくなり、内閲に出したところ、全体として検閲にとおりがたいことが判明して宙に浮くことになりました。それから1年以上も経て、それもタイトルを「原子爆弾」から「夏の花」へと改題し、文章中の3ヵ所を一部削除したうえで(削除部分は1953年の『原民喜作品集』で復元)、事前検閲の対象ではない『三田文学』47年6月号に掲載されたという経緯がありました。

 

 《解説》の冒頭で、竹西は「被爆した広島を言う言葉」と「被爆した広島が言わせる言葉」があると、直観によるがとことわりつつ、区別があると提起します。そして、前者の「広島を言う言葉」には寛容になり得ない、狭量になる自分というものを自覚します。それは、被爆者の自己愛とか、郷土への愛着かもしれないが、「広島が言わせる言葉」が存在することを感じ、経験させられたことがあるからではないかと、この竹西の思いは被爆後25年の間に「強まることはあっても弱まることのなかった私の事実である」というのです。

 この「広島が言わせた言葉の原典としての重み」をもつものが、竹西にとっては、「原民喜の『夏の花』」だと確認しています。

 では「夏の花」を繰りかえして読むのはどうしてなのか、「夏の花」のどこが特別なのかについて、竹西の言葉を拾って引用すると、次のとおりです。

 「 うろたえぬ目、とまどわぬ耳。悲惨を、残酷をあらわし訴えようとした

  人々からとかくみすごされやすかった広島、締め出されやすかった広島が

  そこにあり、私はその配合に緊張し、また温まる。」

 「 言葉の刺激や喚起力の持続性、限定されているようでじつは無限定とさ

  えいえる言葉の、享受の自由の有難さをいまさらのように思う。」

 「 『夏の花』を読めば、こざかしく意味づけられていない広島と必ず会え

  るからである。[㊟以下には『夏の花』に書かれた内容の一端がわかる文章が続きますの

             で、少し長いですが引用します]

  夏の光があり、茶碗を抱えてお湯を呑んでいる黒焦の大頭があり、河岸に

  懸っている梯子に手をかけてまま硬直している死骸があり、地に伏して水

  を求める声があり、その中に玉葱が漂い、喇叭が鳴り、瀕死の人たちのあ

  らわな生きる闘争があるからである。」

 だから、原民喜の「夏の花」は、「広島が言わせた言葉の原典」だと、竹西は次のとおり定位しています。

 「 原民喜は、貴重な資質と意志とによって、意味づけのない広島を遺し得

  た稀有の人である。眩しく恐ろしい人類の行方についてのあらゆる討議の

  前に、一度は見ておかなければならぬもの、一度は聞いておかなければな

  らぬものがここにある。」

 

 この《解説》から35年を経た《講演》において、竹西は、自身が書く苦しさとわずかな喜びを知ったために見えてきたのが、「広島が言わせる言葉」というキーワードであったのであり、それから35年後の理解の深まりを次のとおり語っています。

 「 「広島」を言いたい気持ちは今も、私の中にたくさんあります。でも、

  「広島」という事実、「被爆の広島」という事実に反応する自分をまず言

  うよりも、反応を促した事実を見つめることの大切さを、原さんは教えて

  くれました。言葉で「広島を言う言葉」「広島が言わせる言葉」というの

  はまだ易しい。その違いをどういうふうに実感するか、それは全身的な経

  験になると思います。」

 「 原さんは作品そのもので、気ままに「広島」を言うことをたしなめてい

  る。そう思います。悔しさを言いたい、腹立たしさ、嘆かわしさを訴えた

  い。しかし、なぜそうなったか、悔しさを引き起こす原因を、事実をもっ

  と見極めなければ、その悔しさも腹立たしさも本当に言えることはないだ

  ろう。事実によって引き起こされた人間の内部の変化を性急に訴えるより

  も、変化を促した事実に注目する意識、忍耐、集中力を、原さんは、あの

  作品で示されたと、私は受け止めています。」

 続けて、この「あくまで事実を見通していく力を失ってはならない」ということは、「文学の根本」だと、竹西は原から教わったように思うと発言しています。

 

 《解説》の最後のところで、竹西は、鎮魂という行為について、元は「素直にいとしむ習慣」に生きていたが、今はかなり違って、「所詮死を経験できない生者」の「自分自身の魂鎮め」と思うようになったとし、次の文章を続けています。

 「 生者は果たして死者のために祈り得るか。『夏の花』は、作品全体で

  この疑問符を支えているように思う。この疑問符は、原民喜にとって、

  この時初めてのものではなかったけれど、己惚れや傲りへの警戒は、

  『夏の花』に一貫する叙事的文体にも充分読みとることができる。」

 だから、「言えるものなら、私もまた声をあげて、あの過ちはもう二度と繰り返さぬと言いたい。安らかに眠られよ、とも。だがそう言えない」のは、「人間と言わず、わが身が、わが心がはかり難いからである。頼みがたいからである」と、竹西は述べています。

 そして、「広島を言う言葉」と「広島が言わせる言葉」の区分から始まった《解説》を、次のように締めくくっています。

 「 被爆した広島を言う言葉は、さまざまな目的をもって、今後いっそうせ

  わしく賑やかに交換されるであろう。そして、広島を言う言葉が、時にど

  んな勢いを得ようとも、『夏の花』はそのようなことに関係なく、少しも

  色褪せずに在り続けるであろう。なぜなら、『夏の花』は、広島が言わせ

  た言葉で成り立ち、意味づけられていない広島を遺し、そのことによって

  まさに存在の表現に与り得ていると思うからである。」

 

 引用ばかりになりましたが、私は、この竹西寛子さんのなした一連の論考の説得力に圧倒されました。何に圧倒されたのか、簡潔に記しておきます。

 一つは、竹西のいう「叙事的文体」は、言葉は違えど、同じ印象をもったのですが、その背後にある、その基底にある、原民喜という作家の目と耳のありよう、精神のありようというものを、「広島が言わせる言葉」として「夏の花」を象徴させているところです。「事実を見つめること」が文学の根本であるという竹西の文学観の根っ子には、原の「夏の花」があるということになります。

 もう一つは、そんな原の精神のありようは、前項で記した「「狂気」と「絶望」に対し、人間的な闘いをつづける人間であった」という見方と通じています。それはまた、「狂気」や「機械」に陥りがちであるのが人間であることを「人一倍自覚した人間的な人間」というものの大切さとも直につながっているといえます。そして、竹西自身の「あの過ちは二度と繰り返さぬと言いたいけれど、言えない」という心のあり方にも、つまり竹西の「人間観」があらわれていて、原の精神のありようと共通の基盤を感じました。

 竹西寛子にとって、その文学観と人間観の形成において、原民喜の「夏の花」は、その作家の目と耳のありよう、精神のありようというものは、道標であり、導きの手でもあったのだと、私は思っています。

 

◈「被爆メモ」の存在と『夏の花』ー梯久美子の視点ー

 いつものとおり、たらたらと書いていると、掲載字数の制限が気になり出しました。できるだけコンパクトにします。

 梯久美子の『原民喜 死と愛と孤独の肖像』は、原民喜を幼いころから死にいたるまでを丁寧にたどりながら、「夏の花」はもちろんのこと、その自死への歩みを伴走しています。副題である「死と愛と孤独の肖像」とは、原が死の2年前のエッセーで「私の自我(ママ)像に題する言葉は、/死と愛と孤独/恐らくこの三つの言葉になるだろう」と書いているところから、採られています。

  梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 2018年7月版/岩波新書

 本項では、「夏の花」に関連したことに絞ることにします。

 「夏の花」は被爆直後の3日間が描かれていますが、原は雑嚢の中に入れておいた手帳に、7日の東照宮の境内で「原爆の落とされた瞬間のことから」書き起こされ、8日にたどり着いた八幡村で続きを書き継ぎ、全部で12ページ、2600文字を超える文章が残されました。この手帳のメモ、被爆メモが「夏の花」のもとになっているのです。梯は、「夏の花」を読んでみると、このメモの文章も、「単なるメモにとどまらない完成度をもっていることに驚かされる」と評価し、「心身とも極限状況にあって、限られたスペースにぎりぎりの簡潔さで事実を記そうとしたとき、原の内在する文章のリズムが、骨格のようにあらわれてきたのだろう」と述べています

 一つの事例でメモと本文を比較してみます。前年の妻の死で自分の臨終をも同時に見届けたようなものと思ったと書いた原民喜が、原子爆弾のことを、「夏の花」を書きのこす決意をする大変に重要な場面です。手帳メモには、次のとおり記されています。

 「 我ハ奇蹟的ニ無傷

   ナリシモ、コハ今後生キノビテ

   コノ有様ヲツタヘヨト天ノ命

   ナランカ。サハレ、仕事ハ多カルベシ。   」

 これに対応する「夏の花」の本文は次のとおりです。

 「 長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。

  さばさばした気持ちで、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。か

  ねて、二つに一つは助からないかもしれないと思ってゐたのだが、今、ふ

  と己れが生きてゐることと、その意味が、はっと私を弾いた。

   このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。 」

 この引用に続いて、梯は、次の文章で、「原爆投下後の地獄のような広島で隣人となった死者たちが、原を生きさせることになった」と説明しています。

 「 長いあいだ原は厄災の予感に怯えてきた。それが現実になったとき、ま

  ず生きのびられまいと思っていた自分が、なぜか無傷で生きのびた。幼い

  頃から怖れ、怯え、忌避していた現実世界、それが崩壊したとき、生きる

  意味が、まさに天から降ってきたのだ。」

 言葉が足りませんが、梯の本を最初から読んできた者には説得的なのです。

 

 また梯は、もともと原は心象風景のみを書きつづけてきた作家であったが、この原子爆弾という事態に遭遇して「目と耳でとらえた事象の記録に徹する文体」(竹西のいう「叙事的文体」と同趣旨でしょう)を選んだとし、原自身の変化を強調しています。ですから、「全体を通して、比喩的表現はほとんど見られない」としたうえで、その延長線上というべきか、メモにはない内容が二ヵ所だけ付け加えられていると指摘します。その一つは、8日の馬車から見えた街の姿を、カナまじりの詩で表現しているところです。前記の比喩表現と同様に、未曽有の光景をどう伝えるかを考えた末だろうがとし、原は「この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応しいやうだ」に続けて、次の詩を本文に挿入しています。

 「 ギラギラノ破片ヤ

   灰白色ノ燃エガラガ

   ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ

   アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム

   スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ

   パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ

   テンプクシタ電車ノワキノ

   馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ

   ブスブストケムル電線ノニホヒ            」

 

 以上のように、『夏の花』は原の代表作であるが、原のどの作品とも異質であると指摘されてきたことを、梯は紹介しつつ、『夏の花』が広く読まれるきっかけとなった原の死から3年後の1954年の角川文庫版の解説で、近親者である佐々木基一の「巨大な死の積み重なりを前にして、それまでは死者の目で外界を眺めるのをつねとしてゐた作者が逆に生に甦ったという逆説にも由因する現象であろう」との文章を引用しています。この佐々木の説を「死から生へ、内から外へという原の内面の劇的な変化によって表現も変化したという捉え方」だと肯定しつつ、梯は、もう一つ見逃してならないのは「原の作家としての冷静な目と方法意識」だと強調しています。前記の被爆メモをあの文体で書いたのは「作家としての文学的直観に基いた主体的な選択」ではなかったかとし、梯は、この本を書く過程で蓄積した原の肖像から、次の文章で原の本質をとらえています。

 「 生来の繊細さと、それまでの言語生活で培った表現者としての理性、そ

  して死と死者に対する謙虚さが、大げさなこと、曖昧なこと、主情的なこ

  とを拒否した。メモに如実にあらわれている一貫したその姿勢の上に「夏

  の花」は書かれたのだ。」

 こうした梯の見方、批評は、竹西のほぼ隣に立っているように、私は理解しました。

 梯は多くの方への取材を通じて、数多くの新たな発見をして、この評伝にも書かれているように思いますが、最後の原の自死へと急ぎましょう。

 

 

◈「死によって生きていた作家」ー周到に準備された自殺ー

 原民喜は、1951年3月13日に東京、中央線の西荻窪と吉祥寺の間で鉄道自殺を遂げました。44年9月の妻の死、それから1年足らずで45年8月の広島での被爆に遭った原にとって、その死は周到に準備されたものでした。近くの下宿には、遺書が17通もあって、そのうち妻の弟である佐々木基一あての遺書には次の文章が記されていました。

 「 ながい間、いろいろと親切にして頂いたことを嬉しく思います。僕はい

  ま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死別れてから後の僕の

  作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。」

 遺書とともに残されていて、原の死後に発表された「心願の国」や「永遠のみどり」には、その遺書というべきフレーズも何回も登場しています。

 

 梯久美子は、三浦しをんとの「悲しみの詩人、原民喜を語る」という刊行記念トークイベントのなかで、本書は原民喜の「夏の花」にとどまらず多くの作品を読む契機にしてもらうことを目的とするなかで、彼の自死をどう書くかについて、「若い人たちに自殺を肯定すると受け止められるのではないか」と悩んだと発言しています。でも、「自死のことを避けてはいけないんじゃないか」と思って、「あえて序章にもってきた」と続けています。

 これに応えるように、三浦は、今の若い方たちが原の自殺を知っても「彼の遺した作品や言葉を読めば、それに引きずられることはないんじゃないか」と発言しています。

 埴谷雄高が弔辞のなかで言葉にした「あなたは死によって生きていた作家でした」に触発されるように、梯は、「死への想念にとらわれた幼・少年期があり、妻の愛情に包まれて暮らした青年期があり、孤独の中で書き続けた晩年の日々があった」とする原民喜を描くにあたって、原の評伝を彼の死から始めた意味を次のとおり記しています。

 「 原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そ

  うした考えに至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには

  持って生まれた敏感すぎる魂、幼い頃の家族の死、厄災の予感におののい

  た若い日々、そして妻との出会いと死別が深くかかわっている。

   死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮

  かび上がることがある。原は確かにそんな人のひとりであった。この伝記

  を彼の死から始めるのはそのためである。

 

 このように原民喜のことを考えた梯は、おそろしく原の作品を読み込み関係の方々への取材を重ねた結果であろう本書で、原の自死を表現しようとし、言葉を尽くしています。そんな中から、三つの文章だけを引用しておきます。

 「 最大の理解者である庇護者でもあった妻を戦時中に喪い、その後広島で

  被爆した原にとって、戦後の東京生活は、孤独と貧しさとのたたかいだっ

  た。その中で執筆し、ついに力尽きたのだった。」

 「 終戦直後、「夏の花」を書き、(妻である)貞恵の死の前後を書き、彼女

  に捧げる詩の数々を書いた原は、書くべきものを書くという意欲に燃えて

  いた。住まいを転々とする落ち着かない暮らしの中で、衰えた身体な鞭

  打って書き続けたのである。だがその後、心身に刻まれて消えることのな

  い惨禍の記憶と向き合う中で、死者たちのいる方へと魂は引き寄せられて

  いった。」

 「 原は自死したが、書くべきものを書き終えるまで、苦しさに耐えて生き

  続けた。繰り返しよみがえる惨禍の記憶に打ちのめされそうになりながら

  も、虚無と絶望にあらがって、のちの世を生きる人々に希望を託そうとし

  た。その果ての死であった。」

 本書を通じて、梯は、原の生涯について事実を積み重ねる中で、原の自死について安易な結論を示すことを避けながらも、ある種の必然のようにその死を受け止めようとしているように、私には読めました。

 

 そして、この三つ目の引用文に続けて、梯は、本書の最後に、遺稿である「死について」から長い文章を引用していますが、その一部を再引用しておきましょう。

 「 それから「死」もまた陰惨きわまりない地獄絵としてではなく、できれ

  ば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れて盲ひてし

  まうのではなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節

  を生き抜いてきた若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとっ

  ては大きな慰籍である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いて行くか

  わからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築

  いてゆくより外はないのであろう。」

 梯がこの文章を引用しているのは、原の自死を自殺という面だけでとらえられるのを避けるためでもあり、原が死の直前にこのような心境にあったことを読者に届けたかったということでしょう。本稿の最初の方で引用した大江健三郎の「全身をあげて励ますところの自殺者」との言葉にまっすぐにつながるものでもありましょう。

 私は書ききれなかった思いを残しつつ、竹西寛子の1970年『夏の花』解説文から、次の文章を引用しておきたいと思います。

 「 このやさしい詩人は、決して妻の死を、広島の死を描こうとはしなかっ

  た。妻の死の、広島の死の、さらに奥深くにある何かを怖れ、愛し、それ

  ゆえに祈り、だから意味づけることをしなかったし、事実できなかったの

  だと思う。そのような広島を遺し、被爆後6年目の早春に、原民喜は自ら

  死を選んだ。」

 

 本稿を書こうとしたときに分かっていたことだけれど、私には、原民喜の自死についてつくづく思考の射程が届かないことを思い知りました。

 前記のトークイベントで、梯久美子は「私は彼がどうしてそういう死に方をしたのか理解することが私にとって必要だったんですね」としつつ、思いを吐露するように次のとおり発言しています。

 「 はっきりと一言で言えるような結論は出ませんが、原民喜は絶望して死

  んだ感じでもないんですね。

 

◈おわりに

 中途半端感は否めませんが、このあたりにしておきます。

 今、私は、本稿を書こうとして原民喜の「夏の花」にとどまらず10篇ほどの作品(青空文庫のおかげで)を読めたことをよかったと思っています。

 

 原民喜の死の直後に『群像』1951年5月号に掲載された「心願の国」のなかで、寒い夜に喫茶店に入り「僕がこの世からゐなくなっても、僕のような気質の青年がやはり、こんな風にこんな時刻に、ぼんやりと、この世の片隅に坐つてゐることだろう」に続いて、「僕」が店を出て歩いていると、「向うから跛の青年がとぼとぼ歩いてくる」というシーンがあります。そして「(しっかりやってください)すれちがひざま僕は心のなかで相手にむかつて呼びかけてゐる」という地の文に続いて、次のパスカルの言葉が引用されています。

 「 我々の心を痛め、我々の喉を締めつける一切の悲惨を見せつけられてゐ

  るにもかかわらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできな

  い本能を持つてゐる。(パスカル)

 

2020.09.26 Saturday

「軽くてもおもい詩」をもとめてー『八木幹夫詩集(現代詩文庫)』を読むー

 詩にふさわしい読み方というものがあるなら、私は詩の読み方が分かっていません。では、小説など他ジャンルの本はどうなのと問われると黙ってしまうしかないのですが、そう思っています。当ブログで詩によくふれてもいますが、私はいい詩だ、好きな詩だとただ紹介しているだけのような気がしています。そして、引用する詩は、私自身より、年長の詩人によるもので、同世代と呼べる詩人の作品ではありません。

 ところが、今回、ひょんなことなら、同世代と呼ばせていただいてよい詩人の現代詩文庫(思潮社)を一冊読む機会がありました。というのは、当ブログに記事(2020.7.13「10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー」)をアップした関係で、著者である八木幹夫さんから連絡をいただき、おまけに2005年に刊行された現代詩文庫『八木幹夫詩集』を大変に厚かましくも「恵存」していただいてしまったのです。 

 この1947年1月生まれの、ほぼ同世代の詩人である八木幹夫の詩の束を、ときに共感し、ときに身につまされ、ときに頭をふりふり、ときに記憶の壺をたたかれ、ときにおどろきながら、楽しく読ませていただたのです。ここで世代論を展開しようというわけではありませんが、私は高度成長期以降に生じた<自然>や<地域>、そして<暮らしぶり>の大変貌という時代背景というものを無視して読むことができませんでした。それは八木の経験の根っ子にあるものであり、私の経験ともどこかしら近いところがあるのでしょう。 

 本稿では、いつものように他者の言葉に依存しながらになってしまいそうですが、「読書感想文」を残しておきたいと思っています。

 

 思潮社の現代詩文庫は、1968年に創刊され、半世紀を経た現在、300冊前後が刊行されています(著名な詩人の場合は「続」「続続」「続続続」として複数冊ラインアップされています)。私の本棚にも20数冊並んでいますが、ほとんどが20歳以上年長の詩人たち(いわゆる戦後派詩人)のものです。

 この『八木幹夫詩集』(2005年1月刊/思潮社(現代詩文庫))は、176冊目ということになります。1983年から2002年までに上梓された全7冊の詩集から選ばれた詩に加え、八木の詩論・エッセーが5本、そして他者による八木の作品論・詩人論が4本付されたという構成となっています。

 ですから、この現代詩文庫に掲載された八木幹夫の詩は、詩集発表時の年齢でいけば、1983年の36歳から、2002年の55歳までのほぼ20年間をカバーしていることになります。以来、現在の73歳までに発表された詩やエッセーも数多くあるようですが(詩集3冊、歌集1冊)、当然のことながら、今回読ませてもらった対象外となっています。ですから、私の読んだ八木の詩は中年・壮年期に書かれた作品だということになります。

  『八木幹夫詩集』 2005年1月刊/現代詩文庫176/思潮社

 八木の詩から受ける総体的な印象というものは、第五詩集『野菜畑のソクラテス』(1995年刊/ふらんす堂)を論じた鼎談(現代詩文庫に「頭の洗濯、心の掃除」として所収)での井上ひさしの発言の延長線にあるようだと、私は読み終えてそんな気持ちになりました。

 井上は、次のとおり文学者や詩人の役割を説明し、『野菜畑のソクラテス』はそんな可能性を感じさせる詩集だと発言しています。

 「 文学者や詩人の役割というのは、恋をしたり、けんかをしたりする庶民

  の話し言葉を、書き言葉に練り直して永久にとどめるということでしょ

  う。そうやって口語を練り上げ、鍛え上げた時、一国の最もいい文学言語

  が誕生する。」

 口語は日常生活と密接不可分といえますが、井上は、この詩集が「我々の営む日常生活」という経験が根っ子にあって、「読者に、日常を発見させる、つまりなんでもない日常を宝石に変えてしまう」ところがすばらしいと激賞しているのです。

 こんな言葉だけで、八木の詩業を総括することは短絡的でしょうが、「日常」の営み、ということは<人生の一日>への思いや感慨を、時間や場所を自在に往還しつつ、「批評」とは思えない言葉とシチュエーションで照射される八木の詩行のもつ<批評性><哲学性>という特質が、私にとっては何よりも印象的であったと、ひとまず記すことから感想文を始めることにします。

 

◈ゲンダイシへの懐疑と、「八木幹夫の詩」をもとめる旅へ

 いわゆる「現代詩」という言葉が含意するものとはなんでしょう。足場を外されてしまったような世界(「身体」とか「日常」が不在の世界ともいえます)を、委曲を尽くし洗練された言葉で表現されたものというイメージが、私にはあります。そして、どうかすると、私のような感度の低い読み手を拒むような高い壁を意識したりもしてきました。それが冒頭の「詩の読み方が分かっていない」にもつながっているようなのです。

 また前記の鼎談において、井上ひさしは、言語表現の最先端を切り開いていくという詩のすばらしさを認めつつ、それが「日常とは関係ない言葉、関係のない次元で行われていることが多いという印象」があって、私たちは詩を、現代詩を敬遠しがちになるのではないかと語っています。だから、つい「それがどうした」と言いたくなるとも発言しています。

 そのような難解という袋小路に入っていく「現代詩」の洗礼をうけるなかで、若くして詩(短歌も含めた短詩型文学全般)に目覚めた八木幹夫は、反発しつつ懐疑しつつも、自らの詩を求めて苦闘してきたにちがいありません。

 

 八木が、若い頃から敬愛してきた<西脇順三郎>をタイトルに入れた「百年後ー西脇順三郎氏に」という詩に(第六詩集『めにはさやかに』(1998年刊/書肆山田)に所収)、「ゲンダイシ」をめぐって、次の一節があります。

 「                   詩を書いていますか

            ゲンダイシはどんなふうになりましたか

   (そりゃあもうたいへんなもんです 実験ばやりで試験管の

    中からあぶくのように詩が湧き出しています)

                   それはよかった よかった

   (それでいいんですか)

                                        それでいい それでいいんですよ

   (そうかなあ そういうわけにもいかないんですけどね)    」

 八木は、この詩を、生前に一度もあったことのない西脇と会話する形で書きすすめていますが、「実験ばやりで試験管の中からあぶくのように」湧き出てくる「ゲンダイシ」に強い異和感をもっていたことがわかります。温和で度量の大きそうに見える八木幹夫ですが、「そうかなあ、そういうわけにもいかないんですけどね」とつぶやきながら、詩を実作してきたのではないかと、私は憶測しています。

 

 後ほど、本質において変わらないにせよ、八木の詩がどのように変化してきたのかについて考えたいと思っていますが、多くの識者が称揚する第五詩集『野菜畑のソクラテス』は八木の詩の一つの到達点であり、ある意味で「ゲンダイシ」への回答ではなかったかと受けとめています。

 この現代詩文庫の裏面に、清岡卓行が短く鋭い文章を寄せていて、現代詩の全体状況とそれへの反発のありかを、明晰な言葉で俯瞰したうえで、八木の『野菜畑のソクラテス』を批評しています。

 その前半部を引用してみます。

 「 第二次大戦後活発に甦った現代詩の多くは、やがて状況の変化のなか

  で、現実から少しずつ観念的、政治的、演技的、あるいは美学的に浮き上

  がった。この傾向への底深い反発の中心となったのは、庶民の日常性への

  愛着であろう。」

 この現代詩をめぐるパーステクティブに続き、八木の『野菜畑のソクラテス』について、次のとおり言及しています。

 「 そして、この長くつづく新しい傾向のあるときの緩みに、さらなる新し

  い覚醒の衝撃を与えたものの一つが、八木幹夫の『野菜畑のソクラテス』

  であった。庶民の生活をそれよりもいわば遥かに低姿勢の野菜畑の生態な

  どに重ね、写実と諧謔を交錯させたりして、笑いをともなう高い批評や、

  美をともなう深い瞑想などをもたらしたのである。」

 ですから、清岡は、「八木幹夫はこの詩集によって、現代詩における一つの貴重な位置に立った」と結語しています。

 この清岡の文章は、ホントにそうですねとうなずくしかない的確なものと読みました。清岡の「現実から少しずつ……浮き上がった」という時期、その潮流が主流となった時期とは、八木の20代、30代は重なっているのではないか、そして、それはまた、八木が中学校教師となり、結婚して子供が生まれ自分の家庭をもち社会人として歩んできた時期とオーバーラップしていたのではないかと想像しています。

 少し先走り過ぎましたが、こうした20数年の成熟期間を誠実に生きて、清岡のいう「この長くつづく傾向のあるときの緩み」に出現したのが八木の『野菜畑のソクラテス』であったということになるのでしょうか。そして、多くの識者も、「ゲンダイシ」のもつ弱点というものを突破することのできたモデルとして、なるほどと膝を打ったというわけでしょう。

  

 八木の大学時代の恩師?であろう新倉俊一が、やはり現代詩文庫に「六十年代末の移動祝祭日」というタイトルの短い文章を寄稿しています。学生時代の八木について、以下の記憶を書きとめています。

 「 (前略)八木君は、当時の詩誌を賑わしていた流行の詩風などにはさっぱ

  り見向きもしなかった。その態度は今も変わらない。やがて卒業の時期が

  来て、みなそれぞれの道へ別れていった。八木君も同じセミナーにいたや

  さしい女性を生涯の伴侶として旅立っていった。」

 八木は、流行の詩風に「さっぱり見向きもしなかった」ということなのでしょうか。近くにいた新倉先生ですから、そういうことなのでしょうが、私は、表層ではそうであっても、内面では大きな葛藤や不安と対峙していたのではないかと思っているのです。当時の主潮流が、自分の資質に合わないと思いつつも、これからどのような詩を書いていくのか、書いていけるか、怖れがなかったとはいえないだろうと想像しています。

 とりわけ、八木の詩論・エッセーのトップにおかれた「愛の歌を唄い続けた男、下村康臣」(2003年発表)を読むと、学生時代に出会った同窓の下村は詩を志す仲間であり、友人であったことがわかります。こんな表現が軽々しくてどうしようもないことは、30余年後の下村の死に際して八木がとった行動(手紙を含め)から、容易に想像できます。

 この現代詩文庫の解説(「「私」を覗くとき」)を担当した井坂洋子は、八木と下村の関係について、「推測にすぎないのだけれど」としつつ、次のとおり表現しています。

 「 タイプの異なる詩人下村康臣との濃いつきあいが、八木幹夫という詩人

  を根底から変えることはなかったと思うが、詩や思想の方向を固める鏡像

  となってくれたのではないか。」

 詩の志向において近くにいた下村ですが、八木は、強力な磁場をもつ下村を畏怖すべき友人であり鏡として、自らの歩む道を探しもとめていたのではないか、そして「八木幹夫の詩」をもとめる旅に出発したのではないかと、私にはそう思えてならないのです。

 

 次項では、濃密な幼年、少年、青年時代をへた八木が、今、私たちの思う「八木幹夫の詩」に到達する道程というものを考えてみることにします。

 

◈「軽くてもおもい詩」へ向かって

 結論より、どうでもいいことから、話を始める悪い癖が、私にはあります。

 この現代詩文庫は、前記のとおり全7冊の詩集から詩を集約したものですが、<全篇>を収録できた詩集が二冊あって、第三詩集の『身体詩抄』(1991年刊)と、前項でふれた第五詩集の『野菜畑のソクラテス』(1995年刊)です。この間に第四詩集『秋の雨の日の一方的な会話』(1992年刊)がありますから、立て続けに三冊が上梓されており、各詩篇の書かれた時期は前後しているものもあるかもしれません。

 前者の『身体詩抄』は全21篇、同文庫にして10頁、後者の『野菜畑のソクラテス』は全28篇、23頁です。ひらかなだけのタイトル「め」「け」「かげ」から「はら」「かわ」「からだ」までが並ぶ前者は、前二冊の詩集『さがみがわ』(1983年刊)、『少年時代の耳』(1988年刊)と比べ、一見して、一篇あたりの行数も、一行あたりの字数も、少なくなっています。そして、言葉自体も、相対的に平明なものとなっています。意識して書かれたのは明らかです。

 この『身体詩抄』と、「だいこん」「かぼちゃ」「きゅうり」から「法蓮草」「土」「ポイズンベリー」までのタイトルが並ぶ後者の『野菜畑のソクラテス』は、行数も字数も少し多くなり、かつ詩によってばらつきがあります。語調という点においても、前者の統一性に対し、後者にはバリエーションの多彩さがみられます。

 ここで、申し上げておきたかったのは、この両詩集が題材の統一という制約のもとで、意識して書かれたものであるという点では同じことですが、後者にはよくいえば自在さという特徴が感じられるということです。詩を知らないものが書くことではありませんが、『身体詩抄』でグリップした技法のうえで、もっと自由に鮮やかに踊ってみせた、その間には何か飛躍とか跳躍というものがあったにちがいないと、私は強く感じさせられました。

 『秋の雨の日の一方な会話』のタイトルと同名の詩には、次の三行が唐突におかれています。

 「 ぼくはこのごろ

   ぼくのことを語り出そうという

   勇気を少し持てるようになった   」

 このことは、同詩集の後半で「父」のクロニクルというべき複数の詩篇に結実しているように思いますし、続く『野菜畑のソクラテス』ではさらに自在に展開されており、ある達成というか、「八木幹夫の詩」というものが一つのスタイルを成したといえるのではないでしょうか。

 

 もっと突っこんで論じるべきところでしょうが、この現代詩文庫に「詩という恩寵ー八木幹夫詩集によせて」というタイトルで文章を寄せた小沢信男(1927-)におまかせしたいのです。というのは、これほど説得的な八木幹夫論をとても書けそうにないからです。

 前記の当ブログ(「10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー」)で、小沢による八木幹夫のポルトレについても簡単にふれており、重なるところもありますが、やはり紹介しておきたいのです。

 小沢信男は、1980年代の半ば過ぎでしょうか、辻征夫の要請をうけ、詩人たちの集まりである「余白句会」の宗匠となった方です。その句会の世話人になったのが詩人たちのなかで「一、二の年若」である、でも「一見むしろ年長の貫禄」のあった八木幹夫でした。ですから、句会の宗匠と世話人としても、この時点で出会いから10数年のお付き合いがあったことになります。

 

 小沢は、まず、刊行当時において、八木の全詩業を集約したものである現代詩文庫を読んで、こんな感想を述べています。

 「 初期の二、三冊は出会い以前の作品だけれど、それらもふくめて、一冊

  ごとになにかの扉が、ぐいぐいと目の前にひらけてゆく。そんなふうな快

  感がある。作者のこの足どりを、そのつど目撃してきたのだなぁ、という

  おどろきと、よろこびを、あらためて思いました。」

 私の「飛躍」「跳躍」という受けとめも、この小沢の記す印象に近いものかもしれません。

 そして、「過不足が人を詩人にする」という持論を提起したうえで、「円満具足、小市民の鑑のごとき八木家」であり「円満具足の詩人が八木幹夫」だと形容しつつ、でも「過剰なものがある。ハートが温かすぎる。思いが溢れる。たぶん当人が当惑するほどに」としています。ところが、八木の散文にはわりと正直にそれが現れているが、詩はそうではないと、『身体詩抄』を例に、次のとおり批評しています。 

 「 ところが、その詩をみよ。詩は溢れていない。いや、溢れるものをもの

  の見事に取りおさえている。数行ないし数十行に。たとえば<身体詩抄>

  の各篇の、いきいきと簡潔に完結していることよ。」

 そして、第三詩集以降の各詩集に対し、短いコメントを付していきます。

 印象に残る箇所を紹介すると、第四詩集『秋の雨の日の一方的な会話』のところでは、「八木幹夫の堅実な家庭は、そのまま詩の実験場にほかならないことを。この詩人は、円満具足というスリリングな綱渡りを歩んでいるのではないか」と、「ふいに気がつく」と述べています。

 続く『野菜畑のソクラテス』では、「制限によってこそのびのびとあふれるコツを、自家薬籠中のものとした」とし、「<身体詩抄>の、その「からだ」の扉を開けて、詩人は広野に出たのですね」と、感慨を吐露しています。

 第六詩集『めにはさやかに』(1998年刊)から第七詩集『夏空、そこへ着くまで』(2002年刊)について、「人生五十年。詩が、もうとっくに幸福に完結する青春の詩ではいられない。猥雑な散文的世界を生き抜く日々の堆積があって、そうして現れた<夏空、そこへ着くまで>」だと読んでいます。

 

 最後に、まとめの文章、八木幹夫に限らないのかもしれませんが、次の文章で締めくくっています。

 「 詩を、何十年も書きつづけるということは、辺境へ鍬を打ちこんでゆく

  ことなのだな。青年が、中年へ、壮年へ、そして老年へ、ひたむきにすす

  んでゆくよりない。そのとき詩という表現がもつ制約が、ゆたかな奥行き

  へと転じてゆく。詩の恩寵。

   五歳まで立って歩むことのできなかった八木幹夫に、恩寵がくだって五

  十余年。依ってくだんのごとし。」

 この八木幹夫の足どりを、「余白句会」をいっしょに歩んできたということもあってか、現役最長老の物書きといわれる小沢信男は、八木幹夫の詩の「よき成熟」を、よろこび、そして「ひたむきにすすんでゆくよりない」と励ましています。

 

 八木の詩には、故郷であり、現在も暮らす相模原の風土、父と母の生まれ育った津久井の自然のこと、川のこと、釣りのこと、野菜・果物、魚、虫、鳥、そして家庭のこと、家人や娘、友人、父、母、兄、叔母・従兄弟などの親戚の人びと(生者とはかぎらず死者もいます)、「八木幹夫」の過去と現在において関わり、経験としてきた人・モノ・風景が登場します。

 他者の言葉や詩句や俳句も詩の起点として登場したりもします。たとえば、「我は是れ何者ぞと頭頂より/尻まで探りたれども/探られぬところ 我なり」(一休宗純の言葉)や、「愛されず冬の駱駝を見て帰る」(清水哲男句集『匙洗う人』より)なども注入りで使われています。

 こうした「日常」という経験のベースへ、あるシチュエーションを用意し、そこへ一人の詩人が独自の視線を向けることから、詩が生まれています。

 そのためには、軽口やだじゃれも厭うことなく使って、いわば「詩」だという構えや緊張が少し弛緩した間隙に、核心へと批評の矢を放っているという感じがします。でも、その批評は全否定とか拒絶ではなく、大人としての余裕というか、複眼的、重層的な批評性というのが、「八木幹夫の詩」であり、その人そのものなのだと、私は感じています。

 前記した井坂洋子は、八木の題材との関係について、次の文章で八木の精神のありようを表現しています。

 「 本人を支えるのは本人ひとりではないと、頭ばかりでなく、心で知るこ

  の詩人の詩は、死者を含め、同時にたくさんの人たちが同一地平にいて、

  その織物を、自分のことばで乱暴に裁きたくないという配慮が見える。家

  族や友人、ヨっちゃん、きよこさんなどに対する視線はいたわりに満ちて

  優しい。そして勿論のこと、人ばかりでなく、畑の種をほじくる鳥やミミ

  ズ一匹にも同胞への視線がゆき届いている。」

 

 では、小沢信男の「ひたむきにすすんでゆくよりない」と思い定めた八木幹夫は、<詩の方向>をどこにもとめようとしたのでしょうか、どこに定めようとしたのでしょうか。このような問いがありうるとすれば、「軽くてもおもい詩」ではないだろうかと、私は考えています。

 もとより、現代詩文庫に掲載された20年間にわたるであろう八木の詩を読んで感じたことでもありますが、直接には、姓も生まれ育った土地も同じくする「八木重吉」の生家などを巡った際の八木幹夫の発言から来ています(「山羊散歩 その二/相模原・津久井/八木重吉の産土」(文・構成 中村剛彦)『ミッドナイトプレス・ウェブ』No.5/2013年5月)。

 この山羊散歩では、八木幹夫が、八木重吉(1898-1927)の生家や墓、詩碑をめぐり、彼の魂の足跡を辿っていて、それがレポートされているのです。このなかで、この29歳で亡くなっている八木重吉の詩が60歳を過ぎた八木の心を鷲掴みするのはどうしてかが語られています。

 八木幹夫は、次のように重吉の詩の牽引力というか魅力のありかを語っています。

 「 重吉さんの詩は、先にも述べたように極めて平易に書かれていて、また

  経験を基礎に書かれているけれども、決して人生訓の詩ではないってこと

  ですね。普通の人生の時間軸を超えたものがあるんです。

    《中略》

   重吉さんの詩は、事物とのコレスポンダンス(照応)によって生まれる。

  事物と主体が交感してもはや、主語、述語、といった文法が消えてしまっ

  ているのです。

    《中略》

   重吉さん自身のなかに自然が広がっているんです。そして永遠の時間を

  生きている。そういうところに私たちは引きつけられるんです。このよう

  な詩人はめったにいませんね。」

 そして、平明な表現で奥行き深く、難解なんです」と、締めくくりの発言をしています。

 そうだ、八木幹夫が詩というものの理想形としているのはこういうことではないか、と私は思いました。「平明な表現で奥行き深く、難解」から出てきたのが、「軽くてもおもい」という言葉でした。この「軽くて」と「おもい」に挟まれた「も」は必要かどうか、いささか悩みましたが、残しました。

 こんな短絡的な見取り図は、笑止千万というべきですが、『身体詩抄』から『野菜畑のソクラテス』へと至る試行によって、もともと祖型としてあった「軽くてもおもい詩」が「八木幹夫の詩」の方向として現れてきたのではないのかと、私は理解しておきたいと思っています。

  「山羊散歩」トップページ  2013年5月/『ミッドナイトプレス』No.5

 

◈好きな詩を引用しておきたくて

 以上、読書感想文的な感想を並べてみましたが、詮方のないこと、詩の分かる方が書いたらいいことだ、なんだか恥ずかしくなりました。ここでは、八木幹夫の詩のなかで好きな詩だ、「軽くてもおもい詩」だと感じた詩を、ちょっと短めの詩に限定して、以下の四篇を引用してみることします。

 まずは、第三詩集『身体詩抄』より「ほね」という詩です。

 

      ほね

 

  こじんまりした

  演奏会にでかけていった

  悲しいことが

  あったばかりなので

  きれいな

  音に

  会いたかった

 

  人の良さそうな

  その太ったフルーティストは

  コーヒーブレイクで

  こんなふうにいった

 

  フルートという楽器の原型は 骨ではないか

  という説があるのですよ 骨の髄を食べてい

  る時 ふと 音がする おどろいて  息を 吹

  き込む 済んだ魂の声が 太古の闇にひびく

 

  帰り道

  灰になってしまった

  きみを

  しきりに

  おもった

 最近、手で漢字を書かない私は、本筋から外れて、あれ、「太古」か、「大古」じゃなかったのかと思ったりしてしまいました。小沢のいう八木の過剰な心というか、優しさを感じます。

 

 次は第五詩集『野菜畑のソクラテス』より、「葱」という詩です。

 

     葱

 

  葱はもう永いこと

  脇役を演じて久しい

  

  朝の納豆

  夜の湯豆腐

  蕎麦の薬味

  焼き鳥の肉と肉のあいだ

 

  葱一本で独立すべきときが来ているんだ

  

  ねえ そうだろう

 

  ねぎらいの言葉もきかず

  葱はだまって

  まっすぐに背筋をのばしたままだ

  (土の奥深く白く長い根を隠して)

 清岡のいう「笑いのともなう高い批評」の感じられる一篇です。

 こんな比喩をすると笑われるでしょうか。この詩集を読んでいると、伊藤若冲の「果蔬涅槃図」が浮かんできました。この涅槃図には、どんな野菜や果物が描かれているのかなと調べてみました。88種類もあって、そのうち野菜等の栽培品目は50種類だそうですが、「葱」や「牛蒡」などは描かれていないのです。仏事には「匂いの強い大蒜や韮、などの五辛」が避けられたからではないかと指摘されているとのことです。

 実際に、八木は野菜づくりをされてきたようで、その経験がないと、この野菜涅槃図のような詩集はできなかったことでしょう。

  伊藤若冲「果蔬涅槃図」 水墨画

 続いては、第六詩集『めにはさやかに』から、「野の花」という詩です。

 

    野の花

 

  限りなく猿にちかく

  限りなく人にちかい

  百数十万年前の

  猿人の化石が発見された

  分析してみると

  その人骨もしくは猿骨の周辺には

  さまざまな花粉があったという

  とすれば

  死んだ仲間に向かって

  かれらは

  花を

  手向けたのだ

 

  限りなく人にちかく

  限りなく猿にちかい

  涙を

  ときに

  わたしも流す

 こんな考古学的な発見から想像を飛ばしています。「限りなく人にちかく/限りなく猿にちかい/涙を」、どのような「涙」なのでしょう。再度、清岡の言葉を使わせてもらうと、つい「深い瞑想」へと誘われていきます。

 

 最後は第七詩集『夏空、そこへ着くまで』より、同じタイトルの「白い家」という詩の二つ目、「1999年冬から春へ」という年次が記されています。この長い詩の冒頭の部分です。

 

     白い家

      −一九九九年冬から春へ

 

  夢を持て

  と他人にいおうとする瞬間

  夢を持つのは簡単だが

  夢を砕かれるのはもつと簡単だと

  どこかで気付いている

  十四歳の少年や少女にむかって

  夢について楽観的にはいえない

  その目 その唇 その脚 その腰 その胸

  その肉体全体で

  彼らは夢を実現している

  かつて

  わたしがもっとも手を焼いた

  性の

  はちきれんばかりの若さ

 

  夢を持て

  とは

  わたしにむかっていう言葉だ

        《以下、略》

 八木は、相模原の公立中学校で英語教師を36年間、勤めました。この経験は、ほとんど詩に書いていないとされていますが、このことが感じられる一篇です。八木のことですから、「14歳の少年や少女たち」にも深くコミットされてきたに違いありません。

 最近、『はちどり』という映画をみたのですが、私などからは霧散してしまった記憶の世界をひりひりする映像で描いた作品でした(今年、見た本数が少ない中ですが、ベストワンです)。韓国では「中2病」という言葉があるらしく、まさに微妙な時期ということです。

 そんな中学二年生を「その肉体全体で/彼らは夢を実現している」と、八木は受けとめたのでしょう。

   

  映画『はちどり』チラシ表 キム・ボラ監督/2019年韓国

  中学2年生の主人公ウニ(パク・ジフ)

 

◈おわりにかえて

 かくして、八木幹夫さんという同世代の詩人の作品をある程度まとまった形で読むことができました。私だけではなかなか踏み出せないままだったかもしれません。

 前項で引用した短い詩でも感じていただけるように、平明な言葉が使われていますが、わかりやすいかと問われたらいかがでしょうか、やはり「軽くてもおもい詩」だと、私は読みました。

 八木の詩を、「余白句会」との関係、中でも辻征夫の詩との関係、何よりも、前記した同世代に共通する高度成長によって生じた<自然>や<地域>や<暮らしぶり>の大変貌という時代背景から考えてみること、こうしたやるべきことをやれないままですが、ひとまず区切りをつけることにいたしましょう。

 これから当ブログでも、詩を引用するときに、同世代の詩人である八木幹夫の作品を引用できるようになったことを、八木さんに感謝したいと思います。

 現在も「ひたむき」に詩を書きつづけている詩人八木幹夫に、小沢信男のいう「詩の恩寵」というものを感じています。

 

2020.07.27 Monday

元町の路地にー再開した「花森書林」の店内を撮影してー

 今年の梅雨はまだ終わらないようです。早く明けてほしい気もしますが、数日して太陽ギラギラで猛暑がやってきたら、マスクを付けた屋外での作業など暑くてたまりませんなどと書いていそうです。

 前ブログ(2020.7.21「ディスタンスというものー映画『コロンバス』に寄せてー」)で紹介した映画をみた土曜日(7/18)の午後に、再開した古書店「花森書林」を訪ね、店主に頼んで店内を撮影させてもらいました。

 コロナ禍で、花森書林は4月13日に臨時休業し、80日の休業期間をへて7月2日に店を再開しました。先月に店主から再開準備に日にちをかけるつもりと聞いていたとおり、再開後、最初に訪ねたとき(7/4)、店内の様子にはだいぶ変化がみられたのです。ですから、今回、撮影した写真を使って、花森書林の店内を、「口笛文庫」に続いて(2020.6.10「六甲の坂の途中にー「口笛文庫」のたたずまいー」)、紹介できたらということになりました。

 パンデミックの始まった2020年という特別な年に、神戸元町3丁目の路地にある「花森書林」の店内の様子をスケッチしてみるというのも何かのご縁でしょう。所詮は、私の記憶のためのノートということであり、不十分なものになりますが、私といっしよにのぞいてみていただければと願っています。

 

 さて、花森書林の店内の様子をメモしようとして最初に気づいたのは、よく足を運んでいるといっても、実際は限られた部分の棚しかみていなかったなあということであり、だから、レイアウトや棚の本の並べ方が変化したといっても、従前の店内の本棚について記憶がマダラでしかないという事実でした。

 今回、改めて眺めてみたら、こんな本もそしてこんなに雑貨もおいているのかという新たな発見もありましたので、できれば気になった書名や著者名を書き添えてみたいと思っています。また、営業時間帯で、店主の話を十分に聞けたわけではありませんが、再開準備で店主のめざした方向性を少しは想像することもできましたので、そのあたりのこともメモしておくことにします。

 なお、花森書林は、昨年2月にそれまでのトンカ書店から場所を移転し店名も変更して開店したのですが、その際の店主の思い、こころざしは当ブログで紹介させてもらっていますので(2019.2.10「「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー」)、併せて読んでいただければと思います。

 

 では、元町3丁目、JR線の南側、「洋食ゲンジ」の角を南へ下ってすぐのところに「花森書林」はあります。全面ガラス入り口()には、手指消毒液とともに、従前からの「古本・雑貨」のプレートが立てられています。奥行きの深い店内です。もう少し近づくと()、「ほんのみせ はなもり」の下に「マスク着用中」が貼ってありました。

 さあ、中へ入りましょう。

   峅嵜構駑咫廚料慣福[2020.7.18撮影、以下同じ]

  右側のドア上部

 店内に足を踏み入れ2mくらいのところから全体を撮影しました()。大きくは左壁部中央部奥壁部、そして右壁部の4つのパートに分かれています。

 なんといっても、今回のレイアウト変更で目立つのは、中央部です。入り口からまっすぐの導線が確保されていますし、あとで見ていただくとおり、中央部の奥の方に文庫や新書等の棚が左右の壁部と平行して細長い直方体でつくられていたのが、今回、3つの部分に区分したうえで、それぞれが斜めに並べ替えられていたことです。従前に比べ新たな通路が確保されています。

 ちょっと大げさですが、これはコペルニクス的な発想の転回ではないかと私は感じました。

  E稿發料慣(左から、左壁部・中央部・奥壁部・右壁部)

◉中央部の前方

 ですから、中央部から見ていくことにします。

 中央部の手前は絵本や児童書のアイランドです()。絵本箱の下側にも()児童図書がぎっしり並んでいて、今江祥智の小説『優しさごっこ』『ぼんぼん』や、雑誌『しぜん』も揃っています。

  ぅウンターから撮影した中央部の前方

  ッ羆部の前方の下部 

◉中央部の後方

 中央部の後方、今回のレイアウト変更の目玉部分です。

 前記したとおり、文庫と新書を中心とした長い両面本棚が直線的におかれていたのを3つのパートに切り分け、左右の壁に対し、それぞれ斜め方向に3列並べてあります。従前は客同士が逆方向にスムーズにすれ違うことが困難な通路でしたが、足元が整理され、滞ることなく、動くことのできるレイアウトになりました。

 左壁部の方から撮影した写真()には2列しか写っていませんが、3列あります。入り口側の第1列の前面は、CDとDVDの棚でチャーリー・パーカーの顔写真を見ました。その他の5面の棚はいずれも文庫と新書が〇〇文庫、△△新書など種類別にまとめられ並んでいます(はちくま文庫など)。

 私は視力の関係で文庫本を遠慮するようになってから久しくなりましたが、このレイアウト変更でそれぞれに通路が、空間が確保され、本好きな人には見やすく探しやすくなりました。そして、一番奥から、入り口までの導線もはっきり見通すことができます()。

 新型コロナウイルスの感染防止ということもありますが、本棚の見やすさという点においても、店主の意図は成功しているものと感じました。

  左壁部から撮影した中央部の後方

  中央部の後方の棚

  ┗壁部から撮影した中央部の後方

◉入り口すぐの左壁部

 入り口のところにもどり、入ってすぐ左の棚には()、インディペンデント系の出版社の新本が並んでいます。海文堂ギャラリー時代からお馴染みの武内ヒロクニの『しあわせ食堂』、惜しまれつつ閉店した海文堂ことが書かれた『海の本屋のはなし』(苦楽堂)、そして、安田謙一『神戸、書いてどうなるのか』(ぴあ)などが並んでいます。下の方には個人誌やコミュニティペーパーもおかれています。

 そして、そのそばに、絵本の回転棚が並んで立っています。

  入り口左壁部の新刊本等棚

◉左壁部の前方

 続いて、その左壁部は、児童書と雑貨の本棚が連続して4本並んでいます。

 2つの目の棚()には、下部を除き「雑貨」が並んでいます。これまでもおかれていたのですが、今回の模様替えで、専用棚を設けてスペースが大きくなりました。店主に面白いものは問うと返ってきたのは、毛糸編みのねずみとエスキモーの人形でした()。閉店した近くのフレンチビストロ「猫熊矢」のエスカルゴ掴みも、お客様であった縁でおかれていました。

 このパートの一番右の棚にも()、上段にはカップなどの雑貨類がおかれていて、こうしてみると、表の看板のとおり「古本」だけでなく、「雑貨」の方も一定の主張をしています。

 本の方は児童関係図書が小説、絵本、図鑑等々、ずらりと棚をつくっていて壮観です。『宝島』『ガリヴァ―旅行記』『ピノッキオの冒険』『ハイジ』などの王道本とともに、山中恒、中川李枝子、そして庄野英二『星の牧場』という作家名、書名もありました。

 それにしても、私は孫の関係で必要なときしかのぞかないのですが、前記の中央部のアイランドと合わせて、「児童書」で括ることができるのか、その質量ともなかなかな充実ぶりです。

  左壁部の前方の雑貨中心棚

  エスキモー人形と毛糸編みのねずみ

  左壁部の前方の奥側の棚

◉左壁部の後方(凹部)

 少し奥へ進むと、左壁部には凹んだスペースがあります。

 ここの壁は()、展覧会等の展示スペースにも利用されているところですが、雑誌類、写真集、絵画・デザイン関係書などが集中しておかれています。手前の小型アイランドにも外国本も含め大型本がぎっしりと詰まっています。私は写真集・写真関係書を中心に毎回のぞいていますが、「口笛文庫」と同様、自宅の飽和状態と年齢を考慮してできるだけ写真集を買わないようにしていることもあって、実際、手に入れることは稀になっています。星野道夫、本橋誠一、橋口譲二などの写真集に魅かれます。足元の方には、ダイアン・アーバス写真集があって()、表紙の双子の女の子からにらみ返されました。

 棚の上は雑誌類とムック本で、特別な何かとは店主に尋ねると、その脇にまとめられた『暮らしの手帖』とか新旧の『ポパイ』()が揃っている棚を指してくれました。『ポパイ』の背表紙には、「シティボーイのABC´13」「シティボーイABC´14」とか、そんな言葉が複数回登場しています。今やシティボーイは死語になったのでしょうか。

 そして、左の側面、ドアの上には、創刊号だという『Lマガジン』が展示されています()。京阪神の街とエンタメ情報を掲載されたこの雑誌の創刊は1977年で、休刊が2009年だそうです(私の20代後半から60歳を迎える年までとなります、ああ)。この雑誌に掲載の地図を中心に、私は街歩きによく利用していました。創刊号の表紙の女性は、一見ソフィア・ローレンかと思ったりしましたが、じっと見るとそうではないようです。

 なお、壁にかけられたTシャツは、「70」のロゴ入りでペンギンブックス70周年を記念したものだそうです。

  左壁部の後方ほぼ全景

  ダイアン・アーバスの写真集

  雑誌『ポパイ』

  亜Lマガジン』の創刊号(1977年4月号)

◉奥壁部

 奥壁部といっても、壁との間にはカーテンで仕切られた空間があって、その前に右壁部へくっつくように2本の本棚が並んでいます()。

 左側が日本文学系の単行本、右側が海外文学系の単行本が中心です。忘れてはならないのは床の敷板に直接おかれた本もあることです。日本文学系では、新旧が混在していますが、井伏鱒二、福永武彦、安倍公房たちも、それぞれ複数の本が並んでいます。新しいところだと(といっても二人とも故人ですが)、久世光彦『飲食男女』や橋本治『ぬえの名前』というような面白いタイトル本が目立っています。

 海外文学系も同じことで、チャールズ・ブコウフスキーの『町でいちばんの美女』やポール・オースターなどのアメリカ文学から、ロジェ・グルニエ、山田稔訳の『別離のとき』、カズオ・イシグロ『日の名残り』まで、渋い品揃えとなっています。いつもこの棚に来ると、小説をほとんど読まなくなってしまったなあという思いがよぎります。

 二つの本棚の最上段には、神戸に関係する本が並んでいて、『むかしの神戸』から、中村よう『肴のある旅』、『ワンダフルコウベ』まであります。

  臼壁部の全景

  憶壁部の海外文学系棚の部分

◉右壁部の後方

 奥壁部の本棚を右へと回り込むと、バラエティに富む7本の本棚が連続して入り口に向かって並んでいます。まず、このうち入り口からは右壁部の後方、奥壁部から数えると、最初の3本の棚()を紹介しましょう。

 写真の左端が広い意味で哲学・思想関係本が集まっています。多いところでは、レヴィ・ストロース、ウンベルト・エーコ、チョムスキー、日本では鷲田清一、中井久夫、そして大森正蔵『流れとよどみ』もあります。私自身が読もうとして手に入れても読まないままになっている本が散見できます。

 その右隣りは映画と落語が中心の棚となっています。この棚の映画と落語関係本の充実ぶりは特筆すべきで、双葉十三郎『映画の学校』『ウディ・アレン自伝』とか、古今亭志ん生、三木助、米朝、談志関係本から、若くして一世を風靡した山本益博の『笑いのアンコール』の書名も見えます。足元を見れば、池内紀『きょうもまた好奇心散歩』というタイトル本もありました。

 そのまた右隣りの本棚()も実に個性的です。高野文子『ドミトリーともきんす』の隣にあがた森魚詩集『アガタ・モリオ1972-1989』、その下に近藤ようこ『猫の草子』があって、下の方にはマジックの本まで並んでいます。

 書名や著者名は、撮影した写真をズームして確認しているのですが、まあ何も見ていなかった、見えていなかった、ウムゥとあきれてしまいます。

  咳κ鰭瑤慮緤の奥から2本の棚

  官κ鰭瑤慮緤の奥から3本目の棚

◉右壁部の真ん中

 そのまた右隣りに、右壁部7本の真ん中、4本目の棚があります([21])。漫画と漫画関係本が中心で、ふだん私はスルーしますが、今回撮影してみて、好きな人には垂涎の棚であることがわかります。下の方には雑貨もあります。

 手塚治虫をはじめ、白土三平、つげ義春、水木しげるなどのビッグネームも並んでいます。石子順の評論もあります。私が見ているテレビ番組の原作『孤独のグルメ』もありました。

  [21]右壁部の真ん中の棚

◉右壁部の前方

 前記の順で行くと、全7本中の残る3本([22])、右壁部の前方ということになります。このコーナーは、店主の自己評価と違うのかもしれませんが、花森書林の特質のあらわれた、真骨頂というべき棚のように感じています。どのような分類が適切なのでしょうか、広く生活文化系の本とでもいうのでしょうか。

 著者が女性である本が、もちろん男性の著者も多いのですが、相対的に多いコーナーなのです。ここで性別を持ちだすのはよくないかもしれませんが、女性の店主であることの特性が発揮されているということができます。

 一番左の棚は、3本のなかでも一般書が多く、澤地久枝、富岡多恵子、大橋歩、森まゆみなどの本が幅広く集められていて、下の方には、茨木のり子を描いた後藤正治『清冽』もあります。直接棚とは関係なさそうですが、最上段には『宮武外骨 此中にあり』が鎮座しています。先のブログ(2020.7.13「10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー」)で取り上げた小冊子もこの棚で出会いました。

 真ん中の棚は、民俗学の関係本も多そうで、『鎌倉江の島七福神』という美装本が横置きされていたりしますが、広く女性の暮らしに関わるもの、インテリア、ファッション、旅、趣味関係の単行本と雑誌が中心となっています。

 その右側、入り口に一番近い棚は([23])、広く食物、食事、料理の本が中心です。ちょっと異質な塩野七生のコレクションも並んでいますが、食にかかる硬派の書き手である平松洋子の著作物が目立っています。全体としては辰巳芳子をはじめとする実践的な料理関係の本が大半で、レシピなどのムック本も大変よく揃っています。

    [22]右壁部の前方のほぼ全景

    [23]右壁部の前方の入り口カウンターから2本の棚

◉入り口すぐの右壁部

 そして最後のパートです。この細長手の長方形である店内の紹介は、まず中央部から始まり、いったん入り口付近に戻って、左壁部から奥壁部、そして右壁部をぐるっと周回してきました。再び入り口まで来ると、右壁部に、店主の居場所、カウンターがあります([24])。

 ここは、PCがおかれていて諸作業を行う場所であるとともに、レジとなっています。何より、たくさんのお客様との挨拶や接客の場でもあります。今は「仕切り設置」として透明シートがかけられていますが、それでも店主の明るく元気な声が響いてきます。店主のフレンドリーな性格もあってか、これまでの積み重ねというか、とにかく馴染みの客、声をかけ合う関係の人たちの多いのが、この店の大切な特徴でもあり資産でもあります。なお、店主の弟さんも、曜日が限られますが、店を手伝っています。

 ふだんは見ることのないカウンターの後ろの棚を写真のズームで見ていたら、めずらしい物・本が並んでいて驚きました。その中に近所の喫茶店と関係があるのかどうかわかりませんが、「ポエム」のネーム入りコーヒーカップ・ソーサーを発見してうれしくなりました。

    [24]入り口すぐの右壁部のカウンター

 

 以上が、古本屋「花森書林」の店内の様子です。その魅力を伝えておきたいと思い立ったのはよかったのですが、写真を見て思いついたことを並べただけの内容になりました。こんなことで遊んでしまったという反省もあります。

 でも、元町に行かれるような機会があれば、一度立ち寄ってみられたらいかがでしょうか。本にとってよい居場所であることは、本好きの方にとっても楽しい居場所になることに通じています。

 店主のモットーは、花森書林が「お客様の気軽にお立ち寄りいただける場所」であることなのですから。

 

 私が前のトンカ書店を初めて訪ねたのは、六甲の「口笛文庫」に初めて行った頃か、もう少しあとのことでしょうから、やはり10年ぐらいのお付き合いになるのでしょうか。店主とは本のことはもちろんのこと、海外旅行などの私的なことも話したりもする間柄となりました。この間、店主は二人のお子さんの出産もあり、前に入居していたビルのメンテナンス問題もあって、いつも大変だなと遠くからみてきました。

 今の場所に移転して、ほんとによかったなあと思っています。前の穴倉的な感じも嫌いではないのですが、やはり場所の力と全面ガラス張りの開放性が貢献しているのか([25])、明るく健康的というところが何よりです。その移転のとき、心機一転という言葉で心境を語っていましたが、今回の休業を経た営業再開もまた、そんな意欲の感じられる準備内容になった、つまり本にとっても客にとってもよりよい居場所になったと、私は感じています。これからの花森書林にとって、なかなか大変だったけれど、逆にとてもよい機会となったといえそうです。

 くりかえすことになりますが、花森書店が本と雑貨のよい居場所であり、かつお客様のよい居場所であり続けることを願うばかりです。

 

 昨年「70歳問題」などと当ブログで書いたりしていましたが、時は止まってくれなくて、昨日、誕生日ということで、71歳になりました。何と表現していいものか、あきれてただ乾杯するだけです。

 ですから、花森書林の店主、そして口笛文庫の店主には、もうしばらく通えると思うのでよろしくとお願いしておくしかありません。

  [25]カウンターあたりから撮影した入り口付近

 

2020.07.13 Monday

10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー

 臨時休業(4/14から)の続いていた神戸元町の古書店「花森書林」が、先日(7/2)、2ヵ月半ぶりに店を再開しました。再開の準備に日にちをかけるつもりだと語っていた店主の言のとおり(2020.6.10「六甲の坂に途中にー「口笛文庫」のたたずまいー」)、本棚の位置や角度など店内のレイアウトや本の並べ方(いわゆる「棚をつくる」ということなのでしょうか)にも手が加えられれていました。そんな店内の様子などはまた別途報告したいと思っています。

 本棚の前部に横になっておかれていたパンフレット風の小冊子に「辻征夫」という名前を発見したからでしょうか、『余白の時間 辻征夫さんの思い出』(2012年10月刊)を手に入れました。著者は八木幹夫、版元はシマウマ書房、いずれも聞いたことがありませんでした。でも、この2010年8月の講演録に加筆したという小型で薄い本は、辻征夫という詩人の詩へと誘ってくれ、とても気持ちのよい読書となりました。

 当ブログでは、小沢信男の『捨身なひと』に、私にとって「一応ですが読みましたとまで言えない詩人」であった辻征夫のことが取り上げられていて、この文章に刺激されて、「捨身の人」である辻征夫の詩の断片を紹介したことがありました(2016.12.6「『捨身なひと』から《辻征夫》へ」)。本稿は、この続きというより、八木幹夫という友情に厚い詩人仲間からの「捧げもの」「贈りもの」である小冊子を起点に、もう一度、辻征夫の詩を読み返し味わってみることにします。

 

◈敬愛する詩人への贈りものー「宿題」ー

 この80頁足らずの本の最後のところで、八木幹夫は「辻征夫を思うと、時々、ああ、いい詩人を失ってしまったなあという実感が湧きます」という言葉を発しています。そして、亡くなる3ヵ月前の辻の俳句「満月や大人になってもついてくる」を紹介し、「辻さんは満月のように私たちのうしろについてくるようです」と、名古屋の古本屋さんであるシマウマ書房の主催した講演を締めくくっています。

 八木幹夫は年少の詩を書く仲間かつ遊び仲間として、生前に14年ほど付き合ったという辻征夫(1939-2000)のことを、亡くなってからちょうど10年後のこの講演の冒頭で回想しています。辻征夫は「出会ったときから、そのヌーボーとした、飄々とした表情。そういうところに不思議な魅力のある人」で、寡黙だが「時々ぼそぼそっと声を出して、それがじつにユニークな、その場にいる人たちの心をふっとつかみ取ってしまう魅力的なジョークを言う人でした」とスケッチします。このように辻の人となりを紹介したうえで、続けて、八木は、次のようにも辻を評し、講演の中で、いろんな角度から、辻征夫という詩人と詩の本質へと話を展開させていきます。

 「 辻征夫というと、ユーモアのあるライト・ヴァースの詩人と言われがち

  なんですが、それは一面的で、実際の辻征夫は、一緒に話をしたり、その

  著作を読めば読むほど、じつは広範な知識を持っていて、自分にとても厳

  しい方だったということができます。」

 ここでは、八木の語る、その本質まで詳細に紹介できませんが、章立ての言葉から、八木の意図というものはうかがうことができます。「教養の深まり」「成熟した日本語」「批評意識のある抒情詩」ときて、「写真紹介」をはさみ、「吟遊詩人の闘い」「モノローグからの解放」「対話篇ーダイアローグの展開へ」「男性原理ー狼の悲哀」と続けています。辻征夫の詩の特質をとらえた的確な言葉が並んでいるものと、私は感じています。

 エピソードを一つ。八木の家に辻征夫が遊びに来たとき、ぼーっとしているような雰囲気の辻のことを「私の家内は、あの人がそんなに尊敬する詩人なの?偉そうには見えないんだけどって(笑)」だったそうです。そのあとで辻の詩を読んで「ああ辻さんはすごい」となり、「詩を読んで泣いたの初めて」とすっかり感動したそうで、「なにかのんきそうに見える実態と、書いているものが釣り合わない感じがする」と言っていたとあります。

 

 八木幹夫(1947-)はウィキにも詩人として掲載されていますが、私はその詩を読んだことがありません。相模原市内の公立中学校で36年間英語教師を務めるかたわらで詩を書いてきた人のようです(日本現代詩人会理事長も務めた)。八木も辻も後述する「余白句会」のメンバーで、同句会は辻と作家の小沢信男の出会いから、小沢を師匠として始められました。『捨身なひと』で辻征夫の肖像を描いた小沢は、八木幹夫についても、ポルトレを書いています。その中で、市民として堅実な家庭を築き、職場では信望が厚いと描いたうえで、「円満具足の詩人、それこそが八木幹夫なのだ」でも「この人には、過剰なものがある。ハートが温かすぎる。思いが溢れる」とも観察していました。

 そんな八木だからこそ、その人となりと詩を敬愛してきた辻征夫へ「10年目の贈りもの」として、この小冊子を捧げることができたのであろうと、私は理解したいと思っています。

 

 講演の最後に、八木が「自分の詩でもあるような、自分の詩でもありたいような」と朗読している辻征夫の「宿題」という詩(今から振りかえると早い晩年を予感させるものです)を再引用してみます。

     宿題

  

  すぐにしなければいけなかったのに

  あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった

  いまならたやすくできてあしたのあさには

  はいできましたとさしだすことができるのに

  せんせいはせんねんとしおいてなくなってしまわれて

  もうわたくしのしゅくだいはみてはくださらない

  わかきひに ただいちど

  あそんでいるわたくしのあたまにてをおいて

  げんきがいいなとほほえんでくださったばっかりに

  わたくしはいっしょうをゆめのようにすごしてしまった

 この詩は、1998年5月刊の最後の詩集となった『萌えいづる若葉に対峙して』に収められた一篇です(自筆年譜には「この頃より歩行の際バランスを崩すことが多くなる」とあります)。十代の萌えいづる若葉のころに詩を書くことを「しゅくだい」と思い定めた人が、早くから表現者であることに目覚めた人が、「この40年間骨身をけずってきた」地点から、出発点とその後の人生を振りかえっている詩だと読みました。もとより2年後の2000年正月に亡くなったときの辻(「脊髄小脳変性症」という難病で亡くなっています)の年齢をこえた八木もまた、そのような思いを同感していることとなります。

 そして、「詩」ではなくても、それぞれにも「詩」のようなものがあるとして、こうしたつぶやきのような感慨は、多くの人たちが共有しているといえるでしょう。

  八木幹夫著『余白の時間 辻征夫さんの思い出』 2012年10月刊/シマウマ書房

 

◈余白句会の効用ー「突然の別れの日に」ー

 先述の「余白句会」の発足のきっかけについて、前記の当ブログでも、辻征夫は詩の雑誌(詩誌『詩学』)の投稿作品の選者として年長の作家である小沢信男と出会い、「なぜかウマがあい、「余白句会」と呼ぶ句会をつくり」という小沢の文章を引用していました。

 八木はもう少し詳しく、選考が終わったあとの打ち上げの席で、辻が小沢の句と知らないで種村季弘のエッセーに載っていた「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地」という俳句がいいねと話しかけると、小沢は「ちょっと間をおいて照れ臭そうに「いや、それ僕の句なんだけど」」となったことがきっかけとなったと語っています。次の選考会のとき、辻は「小沢さん、ぼくらの先生になってくれない?」と頼んだそうで、辻の呼びかけに応えた詩人たち(八木幹夫もその一人)が参加して誕生したのが、「余白句会」なのだそうです。

 こうした句会の効用というものを、八木は、現代詩というのは一種の孤独な作業で、モノローグの世界だけれども、俳句はある意味で共同作業というところがあって「他者の意見が創作行為の中に反映される」ことを経験させてくれたのが、余白句会であったとしています(たとえば俳句の添削に関連した記事:2020.5.26「「解除」という空気感のなかで」)。そして「そういう俳句の現場はやはり面白かったし、言葉の鍛錬になった」としつつ、「詩を書くにも各々の肥やしになっていったという感じですね」と説明しています。

 ですから、ダイアローグの要素を取り込み始めたときに、「辻征夫の詩の世界が大きく膨らみ、のびやかになった」のであり、このことに句会、そして俳句の後押しもあったのではないかと、八木はみているのです。

 

 このあたりのことを、辻征夫のエッセーから探っておくことにします。

 「遊び心と本気」(「『ゴーシュの肖像』2002年1月刊/書肆山田」に所収)というエッセーのなかで、余白句会について、遊び心から始まり、遊び心を保って楽しくやって衰える気配のない背景というものを、次のとおり、「現代詩の成熟の自覚」に関わると述べています。

 「 かつて現代詩は、伝統的な文芸である短歌俳句とは別の地点に独自な詩

  の世界を確立しようとしたが、私たちはすでに《別の地点》という力みか

  らも自由であると自覚している。これは同時に、詩の成熟の自覚といって

  もいい。」

 つまり、戦後の現代詩は伝統的な短歌俳句の扱ってきた叙情性というものの否定から出発し、新しい詩の世界を構築しようとしたけれど、戦後40年、もはやそういう時代は過ぎたのだという認識を、辻は強く抱いていました。それは「元をただせば現代詩は痩せすぎたのではないかという思い」から来ているとし、江戸以来の俳句は「簡潔な認識と季節感の宝庫」であり、だから「現代詩にとっても貴重な遺産」だというのです。

 詩人たちの集まる余白句会から、「詩に何を持ち帰るかは各自の勝手」であるが、辻自身は自作の句を使って突き飛ばすような感じで「俳諧辻詩集」という連作を試みているのだと告白しており、次の思いを語っています。

 「 私にはときたまの連衆との座は一つの救いだが、他の詩人諸公にとって

  もあるいは思いは同じなのかも知れない。」

 

 前記の『ゴーシュの肖像』に収められた辻征夫の講演録「こんな詩がある」(1996年5月/愛知淑徳短期大学)には、辻の詩への思いとともに俳句への関心がより明確に語られています。

 辻は、幅広く自他の詩作品を紹介しながら、話を進めています。現下の詩というもの、難解という袋小路に入り込んだ現代詩の不毛を強く意識していたからなのか、講演中に二度ばかり、次の発言を繰りかえし強調しています。

 「 そういう状況になってしまった詩を、もっと生き生きとさせて、みんな

  が面白いと思って、面白いけれど何か考えさせられるなぁ、というものを

  作らなければいけない。一番大事なことは、生き生きしているというこ

  となんですね。」

 それを取り戻すためだったら、「下手な俳句だろうと、短歌だろうと、なりふりかまわないでやってしまう」とし、俳句を実作するようになったのは、「実作者になってしまえば「歳時記」を読む時の読みの深さが違ってくるのではないか」と思ったからだと述べているのです。その読みの違いは「詩の世界にも必ず現れて、何か変化が起きてくるはずだ」とし、二つの詩、「さようなら」と「突然の別れの日に」の順に作者名を伏せて朗読しています。

 この詩の作者は、「さようなら」が谷川俊太郎、「突然の別れの日に」が辻自身ですが、ここでは、辻の詩を引用します。

     突然の別れの日に

 

  知らない子が

  うちにきて

  玄関に立っている

  ははが出てきて

  いまごろどこで遊んでいたのかと

  叱っている

  おかあさん

  その子はぼくじゃないんだよ

  ぼくはここだよといいたいけれど

  こういうときは

  声が出ないものなんだ

  その子は

  ははといっしょに奥へ行く

  宿題は?

  手を洗いなさい!

  ごはんまだ?

  いろんなことばが

  いちどきにきこえる

 

  ああ今日がその日だなんて

  知らなかった

  ぼくはもう

  このうちを出て

  思い出がみんな消えるとおい場所まで

  歩いて行かなくちゃならない

  そうしてある日

  別の子供になって

  どこかよそのうちの玄関に立っているんだ

  あの子みたいに

  ただいまって

 なお、谷川俊太郎の「さようなら」という詩は、当ブログでも一度引用したことがありますので(2018.8.5「「行って帰ります」と「さようなら」ー美しい言葉はー」の【追記】)、ここでは引用を省略します。

 辻は、二つの詩を読んだあと、「どこか似た雰囲気のある作品だと思うんですが」といいつつ、「「さようなら」を読んで感じた不思議なものが、数年たって「突然の別れの日に」というぼくの作品になったんです」と説明しています。自作したとき、谷川の詩のことは忘れていたけれど、あとで気がついてみると、そんな不思議な事態が起こってしまっていたというのです。

 そして、種明かしのように、俳句との関係についてふれ、数年の隔たりがあるが、連句のようなものだった、つまり谷川の発句に対して辻が脇をつけた、という形になっていると思うんですと、辻は語っています。

 なお、蛇足ですが、辻がこの詩で感じてほしいと思っていたのは「子供の生命というものは個人を離れて自由に行き交っている。しかも、そういう記憶を失って、ぼくたちは悲しい大人になってしまう」というようなことだと述べ、詩の解釈の多義性へと話題を広げています。

  辻征夫著『ゴーシュの肖像』 2002年1月刊/書肆山田

 

◈「転調」という核心ー「あの日」をめぐってー

 この項では、詩集『かぜのひきかた』に所収の一篇、「ある日」をめぐっての話を紹介します。

 八木は、同書の「吟遊詩人の闘い」と表題された項で、「ある日」を引用して論じています。辻征夫は1939年生まれ、いわば安保世代であり、60、70年代という政治の季節において、詩人たらんとした辻は「個の問題と社会という問題とを常に対決して考えさせられる」只中にいたのだと、八木は説いています。当時は「一茎の花に目を向けて、一茎の花をうたう抒情詩人は現代では詩人たりえないという状況」にあったといえるのであり、そのようななかで1970年に辻の出した第二詩集のタイトルが『いまは吟遊詩人』であったように、八木は、そうした時代状況にあって辻が詩への基本姿勢を次のとおり確認していたとみています。

 「 辻征夫という人は、要するに文学の原点、根本にある憧れだとか、ロ

  ンというもの、それを捨てたらば、詩人としては駄目だということを常

  自分の胸の中に反復していた。」

 こうした時代を経てきたからこそ、八木は辻の詩の言葉がもう一つ深いところへ入り込むことができたのだと前置きして、「ある日」を朗読しているのです。まずは引用しておきます。

     ある日

 

  ある日

  会社をさぼった

  あんまり天気がよかったので

 

  公園で

  半日すごして

  午後は

  映画をみた

  つまり人間らしくだな

  生きたいんだよぼくは

  なんて

 

  おっさんが喋っていた

  俳優なのだおっさんは

  芸術家かもしれないのだおっさんは

 

  ぼくにも かなしいものが すこしあって

  それを女のなかにいれてしばらく

  じっとしていたい

 八木は、この詩の一行空けて「おっさんが喋っていた」という、主体の切り替え、また一行空けて「ぼくにも かなしいものが すこしあって」という、もう一度の切り替えという点に注意を促しつつ、次のとおり「転調」の技術というものを強調しています。

 「 こういう持ち込み方というのは、やっぱり技術がなければ詩は書けない

  ということの典型だと思いますし、そういう転調を辻さんは長い時間の中

  で獲得したんではないかと思うんです。」

 この「転調」という技術を、私にどこまで理解できているのか心配ですが、辻征夫は、八木が「吟遊詩人の闘い」と呼んでいる時代状況と向き合ってきた長期の修練や、前項でふれた俳句の実作を通じたダイアローグの可能性の探求などを経て獲得したということができます。

 でもいうべきか、詩の「技術」というものは、詩の書き方であり、詩の書き方は詩の技術にとどまることなく、辻の詩人としての生きる姿勢 人間としての生き方を密接に反映しているのではないかと、私は感じてもいるのです。

 

 ここでは、八木の「転調」という技術について基本は賛同しつつも、「ある日」という詩から別の問いを引き出した二人の文章に、ネット上ですが、出会いましたので紹介しておこうと思います。二つのブログ、林哲夫の「daily-sumus」と谷内修三の「詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)」で、八木の同書が出版された当時に、いずれも辻の「転調」という詩の技法とその実例としての「ある日」を取り上げていました。

 まず、神戸にはなじみの深い林哲夫の方です(2012.9.22)。

 林は、辻の詩を「かなり技巧派」だとし、「「ある日」も実に巧妙な作品である」と評したうえで、余白句会の誕生エピソードである小沢信男の句「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の墓地」を持ち出し、次のように断じています。

 「 考えてみると、「ある日」の作り方は「学成らずもんじゃ焼いてる梅雨

  の墓地」とまったくと言っていいほど同じではないのか?辻の詩法(それ

  非常に現代詩的なものだと思うが)は俳句の構造をもっていると断言して

  いいように思う。」

 いかがでしょうか。私の理解不足なのでしょうが、私はなるほどそうですねと書くことができません。

 この俳句は「学成らず」と「もんじゃ焼いてる」と「梅雨の墓地」の三つの相互の意味関連のないパートから構成されており、このパートが意図をもって並べられると、急に映像と意味が浮かび上がってくるということと、「ある日」という詩の骨格が関連づけられるというのでしょうか。林は、こんな俳句の技法が、辻の詩の技法に取り込まれている、いわば身体化していると言いたいのでしょうか。

 辻の詩における「転調」の技術は俳句の構造に通じている、このような理解は、たしかに面白い視点だといえますが、私には、ホントにそうでしょうかという、違和感のようなものがなお残ります。

 林は、八木の『余白の時間』を「辻ファンには必読の一冊であろう」と記事を結んでいます。

 

 もう一人、谷内修三の方です(2012.11.18)。この方のブログは当ブログが対象とする本や詩人と重なることも多く、だからネットでヒットすることも多い人で、その質量はちょっと驚異的なのです。

 谷内は、先に引用した八木の「転調」にかかる文章を引用し、それを辻の「核心」にふれているとしたうえて、「それ自体はたしかに「技術」だと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)」はほんとうにすばらしいと思う」と肯定的に評価します。そのうえで、「ある日」を引用し、「私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる」と、谷内は疑念を表明します。

 「「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる」と、転調の技術の背景というもの、根っこにあるものを、谷内は探ろうとしています。そして、辻が抱え込んでいた「「業の深さ」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う」とし、この記事を、次のように締めくくっています。

 「 辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という

  形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生

  きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。そ

  の呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人

  なのだと思った。」

 この谷内の見方に違和感をもちつつも、全否定することができません。林の論への違和感とは反対に、つまり林の論は肯定したいけれど残る違和感であるのに対し、谷内の論は否定したいけれど否定しきれない違和感なのです。

 岩波文庫から『辻征夫詩集』(2015年2月刊)が谷川俊太郎を編者として刊行されたとき、谷内は自分のブログ(2015.3.2)で「谷川俊太郎って辻征夫の詩が好きだったんだ」「いや、想像したことがなかった」と驚きを記しています。谷内にとって、谷川の詩は論理的だが「理屈っぽくない」が、一方、辻の詩は論理的かもしれないけれど「理屈っぽい」と感じていて、谷川の詩のことばのスピード感と合わないと思っていたようなのです(谷川が辻の詩を高く評価していることが、谷内には理解できない)。

 最後のところで、「何とはなしに、あ、辻というのは孤独(ひとり)を生きたひとだったんだなあ、と思う。(そこが「ひとりっこ」の谷川と重なるのかなあ……。)」という感想をつぶやいています。

 こう思う谷内にとって、辻の「転調」の技術は、モノローグからダイアローグへの転調だといっても、「孤独(ひとり)を生きた」辻の「結局モノローグの変形」なのだと理解していたといえるでしょう。

 私にとってはどうかとなりますと、辻の「孤独(ひとり)を生きる」ということ、そして自己韜晦、自己隠蔽ということは、八木の紹介した辻の家族関係、交友関係という点から補助線を引くと、私自身がそうだという意識があるからかもしれませんが、ごくノーマルなものであったと受けとめることができます。つまり辻の「転調」がそのための技術だと断じることができないのです。私に辻の孤独など想像できないのだとの批判は受け入れたとして、谷内の辻の詩への見方は、「うさんくさい」という印象ありきでいささか一面的ではないかと思っています。

 にもかかわらず私が否定しきることができないと書いているのは、辻の「転調」の技術という詩の書き方と、生き方という抽象的なありようがやはり切り離すことができないものであろうと考えていることと関係しています。

 

◈おわりに

  ーエッセー「ある現場監督への手紙ー金子光晴「信頼」」ー

 今回、『ゴーシュの肖像』に所収されたエッセーから、辻征夫の死(2000.1.14)の前年1999年に発表されたものを集中して読んでみました。どのエッセーにも、死の影のようなものがあらわれています。そのうちの一つ、「ある現場監督への手紙」(1999.4『現代詩手帖』)を紹介します。

 辻は一人だけで行く酒場で(「ジョッキを傾けながら、1、2冊の本を前にあれこれ考えをめぐらす」ことを好むとあります)、やはり一人だけで来ていた建設の現場監督の方と出会い、その酒場だけで10年ほど「交誼」を続けてきたのだそうです。お互いの名前を知るようになったのも1年後であり、このような交誼が続くのは、その方が「私が黙っているときにはいつまでも黙っているという、私への配慮によっている」と、辻は記しています。

 ある編集部から「ふだん詩に接することの少ない読者に、現代詩のことばの森へ踏み入る一つの契機を」という要請を受け、辻はこの現場監督の顔を思い浮かべて書いたのが、このエッセーです。最後に金子光晴の「信頼」という詩を引用しているのですが、その直前の文章は次のとおりです。

 「 編集部からの要請にしたがって、ともかく一篇の詩を、私はこの手紙と

  ともに貴君に渡しますが、それをどう読もうと(あるいは読むまいと)貴君

  の自由です。手紙を読んだ後、おそらく少しとまどったおももちで、貴君

  がまたこの酒場に現れるでしょうか。そのときもし私の姿が見えなくて

  も、その次の機会次の機会と、三回までは私を探して下さい。それでもな

  お私の姿を見ることがなかったら、私はおそらく、二度と貴君の前に現れ

  ないでしょう。あえて告げることなく過ごして来ましたが、年齢を加えた

  貴君の顔に、いま眼鏡はぴったりとなじんでいますよ。」

 そして、辻が現場監督に読んでもらおうとした金子光晴の詩を引用します。

 

     信頼

 

   かつて大きな悲嘆もしらず

  眼前がゆき止まりになったおぼえもなく

  また、水のせせらぎ、雨の音の

  すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、

 

   妻は生涯背かぬもの、

  日や月の運行とともに

  一生は平穏無事なもの、

  けふが昨日と同じだったやうに

  あすも又なんの屈託もなしとおもふ。

 

  さういふ人をさわがせてはならぬ。

  さういふ人のうしろ影もふまず、

  気のつかぬやうにひっそりと、

  傍らをすりぬけてゆかなばならぬ。

 

  さういふ人こそ今は貴重である。

  さういふ人からにほひこぼれる花、

  さういふ人の信頼や夢こそ、

  ほんたうに無垢なのだ。荒い息もするな。

 辻は、このエッセーをどんな気持ちで書いたのでしょう。「私はああいうもの、貴君や貴君のお友だちには何の意味のないと思われるものに、この四十年間骨身をけずって来た」者から、ある現場監督への、長年の交誼に対する感謝と信頼の表明であり、遺言のつもりではなかったかと思っています。

 

 最後に、先に取り上げた「こんな詩もある」という1996年の愛知淑徳短期大学での講演において(学生たちを前にしていたのでしょう)、最後に辻自身によって朗読された自作の「蟻の涙」にふれておこうと思います。

 詩の専門誌ではなく、一般の何万という会員がいる雑誌から、「若い人たちを励ますような詩を書いてください」との依頼があり、とまどいながらも腹をくくって、先月(だから1996年4月)に書いた作品だと、辻は紹介しています。そして、続きを書くことになっているとし、「蟻の涙」で言っていることの疑問を書こうと思っていると語っています。それが前記の岩波文庫『辻征夫詩集』にも所収されている「蟻の涙2」です。

 「蟻の涙」と「蟻の涙2」を引用しておきましょう。

    蟻の涙

 

  どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく

  かずおおくの若いひとたちのなかの

  任意のひとりでもなく

  この世界にひとりしかいない

  今このページを読んでいる

  あなたがいちばんききたい言葉はなんだろうか

  

  人間と呼ばれる数十億のなかの

  あなたが知らないどこかのだれかではなく

  いまこの詩を書きはじめて題名のわきに

  漢字三字の名を記したぼくは

  たとえばこういう言葉をききたいと思う

  きみがどんなに悪人であり俗物であっても

 

  きみのなかに残っているにちがいない

  ちいさな無垢をわたくしは信ずる

  それがたとえば蟻の涙ほどのちいささであっても

  それがあるかぎりきみはあるとき

  たちあがることができる

  世界はきみが荒れすさんでいるときも

  きみを信じている

 続いては、この詩への応答というべき「蟻の涙2」です。

     蟻の涙2

 

  きみを信じている

  という言葉ほど

  ぼくを困惑させるものはない

  このぼくのどこに

  汚れていないもの

  無垢があるというのか

 

  蟻が涙を流すとは

  ファーブルも書いていないが

  蟻がいることだけは信じよう

  ほらぼくのなかで

  もう動き始めている

  黒い

  疑念の蟻

  問え!

  という言葉が聞こえる

  きみが自分を信じようと信じまいと

  激烈に問え!

 先に同じ講演のなかで、谷川俊太郎の「さようなら」と辻の「突然の別れの日に」は、辻自身が、連句の発句と脇の関係だと説明していたことを述べました。この「蟻の涙」と「蟻の涙2」の関係もまた、辻にとって自作自演のそういうものかもしれません。 

  谷川俊太郎編『辻征夫詩集』 2015年2月刊/岩波書店

 偶然にも出会った八木幹夫の『余白の時間』を読んで、久しぶりに辻征夫の人生と詩へと導かれました。辻は私より10歳年長ですが(八木は2歳年長)、どちらかといえば同世代、同時代という感覚なのです。私が書かれた詩と出会い親しんできたのは、もうひと世代の上の詩人たちであり、つまり戦中経験をもつ詩人たちに強い波動を受けてきました。

 それが変わったというわけではありませんが、辻征夫の詩が帯びている雰囲気には、成人した私の生きてきた1980年代以降の時代状況、空気感のようなものが刻印されているということを、今回、強く意識することになりました。一言で語ることなどできませんし、辻の詩の超時代性(普遍性)を否定するつもりもありませんが、それは社会というものの相対化と個というものの内心の重視、というものではなかったかと、改めて感じています。

 森有正の「経験」とは「自分というものを定義するもの」であり、「身体の中に実現された知恵のごときもの」という言い方がありますが(2019.4.29「遥かにノートルダムは遠ざかりー森有正のことー」)、辻征夫の詩は自らの感覚を通して「経験」へ向かおうとするところに立ち現れる言葉であった、と言えば、やはり大げさなことになるでしょうか。

 

2020.06.24 Wednesday

忘れやすいことを忘れないためにはー『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』を読むー(2・完)

 「 私は、農業という概念規定より、むしろ農の営みという考え方にもとづ

  いて議論を進めた方がよいとのではないかと思う。

   農の営みは人類の歴史とともに古い、というよりは、人類を特徴づける

      ものとして農の営みの意味づけが存在するといってもよいのではなかろう

  か。このような意味における農業は、自然と直接的に関わりをもちつつ、

  自然のもつ論理にしたがって、自然と共存しながら、私たちが生存してい

  くために欠くことのできない食糧を生産し、私たちに供給するという機能

  を果たしている。」

 今から30年前の1989年に、経済学者である宇沢弘文(1928-2014)によって書かれたものです。こうした農業のもつ基本的性格が、工業部門の生産過程ときわめて対照的なものであるにもかかわらず、戦後の農政は、これを捨象して、農業にも、工業部門と同じく効率性基準を適用してきたと、宇沢は批判します。だから、農業の問題は、「一つの産業としての観点から眺めるのではなく、よりひろく、農の営みという、人間本来のあり方に深く関わるものとして考えなければならない」ということを強調し、「社会全体の安定性にとって、中核的な役割を果たしてきた」と評価したうえで、タイトルである「新農本主義を求めて」いくべきことを説いているのです。

 この「新農本主義を求めて」が所収された『「豊かな社会」の貧しさ』(1989年12月刊/岩波書店)は、日本において経済的な繁栄が明らかである一方で、人間的な貧困も同時に存在(拡大)しているというパラドックスの因って来たるところにつき、ノーベル賞に最も近いといわれた宇沢が、自己批判(主流経済学批判)を込めつつ幅広く所論を展開した名著です。余計なことになりますが、平成の30年間が宇沢の問題提起と逆方向に動いた時代として振りかえらざるをえないからこそ、ポスト・コロナの時代への想像力が求められている現在にあって、古びることなく最重要の文献ではないかと私は考えています。

 本記事の対象である『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』(以下「《本書》」と表記)は、満蒙開拓移民の思想的なバックボーンになったとされる「農本主義」というもの、さらにはこの国策を支えた「農学」という学問の責任についてもテーマとなっています。したがって、宇沢弘文の求める「新農本主義」とは何か、そして、これからの「農学」に求められるものは何か、そのような視点も大切にしつつ紹介していくこととします。

 

 前稿((1))では、4年前にアップした記事(2016.9.2「忘れてはならないことー東京農業大学満州報国農場ー」)(以下「《前ブログ》」と表記)を踏まえつつ、こうした「満洲報国農場」、その前段である「満蒙開拓移民」が推進されてきた背景事情の方に焦点をあてて、もう少し全体像に近づけるようトライしてみました。

 その結果、「満洲報国農場」とは、満蒙開拓移民政策の一環であり、かつその行き着いた先であったとし、次のように小括しました。

 「 満蒙開拓移民政策は「満洲国の治安維持(支配および対ソ防衛)と国内の

  農村窮乏対策」という二つの流れがを合致して成立したものですが、戦争

  の長期化と戦局の悪化にともない、重心が前者に傾斜していき、「総力戦

  体制を支えるための戦略へと変質」していったのです。つまり戦争の行方

  が怪しくなってきた段階になって、通常の移民政策や青少年義勇軍が手詰

  まりとなり、そんな中で無理やりにひねり出されたのが、「満洲報国農

  場」であったといえます。」

 以上の前半を踏まえ、後半である本稿では、次のテーマを意識しつつ、《本書》を読んで理解できたことをまとめるつもりです。

 まず、70数箇所あった「報国農場」のうち、「湖北報国農場」が唯一、大学を設置主体としていたのですが、このことと東京農業大学の系譜がどのように関係していたのか、そしてその大学が自らの「報国農場」の<悲劇>に対し、戦後はどうして無関心と無責任というべき態度に終始したのか、そのあたりの背景と理由を《本書》にもとづき報告します。

 そのうえで、この「満蒙開拓移民」とその行き着いた先である「満洲報国農場」という国策の推進にあたり、原動力となった人びと、特に農学者たちに焦点をあてて、彼らの言動から戦前と戦後をふりかえると何がみえてくるのか、「農本主義」と「農学」が果たした役割と責任を、《本書》と関連文書から探ってみることにします。

 

◈東京農業大学の系譜と「湖北報国農場」の消去

            −国策と「農本主義」の結びつき−

 小塩海平の書いた「あとがき」には、《本書》に関わった多くの人たちへの感謝が綴られています。「最後に、忘れてならないのは」、「湖北報国農場」の直接の後輩たち、その真剣なまなざしによって後押しし、支えてくれた「愛すべき東京農業大学国際農業開発学科の学生たち」だとし、《本書》は普段学内で聞かされているのとかなり違う角度から、例えば農大の「生みの親」榎本武揚や「育ての親」横井時敬のことを描くことになったけれど、それぞれ自身で吟味してくれるよう期待を表明しています。

 これに続いて、東京農大の知的状況について、今、「足達と小塩が危機感を抱いている」例として、「育ての親」である初代学長である横井時敬の言葉をあげています。「稲のことは稲にきけ、農業のことは農民にきけ」は、東農大のHPには「実学を重視する多数の言葉は今なお東京農大の教育に息づいています」とあります。このように横井の言葉は称揚されていますが、実は出典すら不明なのだとし、次のとおり厳しく批判しています。

 「 『横井博士全集』を読めば、この人のあからさまな農民蔑視は覆い隠し

  ようもなく、彼が農民から何事かを学ぼうと考えていなかったことは明ら

  かである。横井なら、まちがいなく「稲のことは俺にきけ、農業のことも

  俺にきけ」というに決まっている。」

 

◉東京農業大学の歩み、戦前から戦後 −「拓殖」をキーワードとして−

 1944年、45年に「湖北報国農場」に送り込まれたのは、東京農大専門部農業拓殖科の7期生と8期生(先遣隊等のために少数の6期生)でした。つまり、農業拓殖科は1938年に開設されており、数えるとそうなります。当時の専門部への入学は中学校又は実業学校を卒業しておればよかったので、通常であれば満17歳でしたが、戦況の悪化した1943年からは、中学校と実業学校の就学年数が1年短縮されたため、7期生と8期生は満16歳で入学してきたのです。今の感覚でいえば、そんな少年たちが北満の大地を逃避行したことになります。

 「拓殖」という言葉は、辞書では「未開の土地を開拓し、そこに移り住むこと」ですが、足達は、英訳が「colonization(植民地化)」であると指摘しています。1932年から満蒙開拓移民事業が開始されていますが、「植民地の開拓に貢献する人材」を育成することが社会的要請となり、東京農大だけでなく、1925年に現拓殖大学、1930年に国士舘高等拓殖学校、1937年に日本大学専門部拓殖科が開設され、翌1938年に開設されたのが、東京農大専門部農業拓殖科であったのです。

 

 以上を前置きとして、この「拓殖」をキーワードに、東京農業大学の歩みを確認しておくことにします。

 前記した「生みの親」榎本武揚、「育ての親」横井時敬とされるとおり、1891年に榎本武揚らを核とする徳川育英会「育英黌農業科」が創設され、これをもって東京農業大学の創立とされています。1893年には私立東京農学校となり、1911年に専門学校令により私立東京農業大学と改称し、明治農学の第一者と呼ばれた横井時敬が初代学長となりました。

 「育ての親であり、明治農学の祖とも」称される横井時敬(1860-1927//学長1911-27)について、小塩は、膨大な論考が収められた『横井博士全集』で「結局開陳されているのは「富国強兵のための農業論」である」と断じています。「横井の善意に基づく熱心さこそが、その後の日本における農本主義を引導していく原動力になったといっても過言ではない」と評しています。

 先の全集から、小塩は、「拓殖」に関連して横井の残した言葉を、次のとおり紹介しています。

 「 横井は満洲や韓国を経営するためには、農民の移住が根本であるとし、

  「独り満韓に対してのみ然るにあらず、北海道や樺太などに就きても、同

  様の意見を有し、要は我農民の蔓延を以て、我国の発展上最も肝要なるを

  信じて疑はざるなり」と論じている。」

 

 横井は、1925年に大学令による東京農業大学の昇格にも尽力したとあります。東京農業大学HP先の「東京農業大学のあゆみ」には、翌1926年に「学歌の制定」とあり、次の項は1946年の「世田谷キャンパスへの移転」(1945年5月の空襲により青山(常盤松)の校舎が焼失)まで記述がありません。つまり「満洲報国農場」の前史も含めて、いわば敗戦に至る20年間のこと、《本書》が主に対象とする時期について何の記述(特記)もされていないのです。

 実際には、前記したとおり1938年の専門部に農業拓殖科が開設され、そして1944年に「湖北報国農場」への派遣となりますが、その間、二人の学長が中心となって、「拓殖」をめぐる動きがありました。

 初代学長である横井時敬を継ぐ第二代学長である吉川祐輝(1868-1945//学長1927-39)は、東京帝国大学教授であった1904年に『韓国農業経営論』を著し、朝鮮半島の植民地化を主唱したとされており、1931年の満洲事変後すぐに東京農大での満洲農業科の設立を構想したとあります。これは一旦頓挫しますが、吉川を継いだ第三代学長の佐藤寛次のとき1938年の専門部農業拓殖科の開設によって実現をみることになりました。

 佐藤寛次(1879-1967//学長1939-55)は、《前ブログ》にも登場した主役の一人ですが、産業組合の研究者として著名な学者で、「1932年の満洲国建設に伴い、「満洲新国家の将来」という論文を著し、いち早く兵農組合を説い」たとあります。東京帝国大学教授であった佐藤は満洲における農業政策に積極的に関わっていきますが、小塩は「佐藤は決して不明のために国策に便乗したのではなく、自己のなすべき使命を冷静に見極めつつ自発的に国策を招致した積極的な責任を負っているのではないだろうか」と評しています。

 そして、「湖北報国農場」についても学長として関わっていきますが、後述するように、戦後も10年間学長を続けた佐藤は、「敗戦によって樺太や満洲の農場を失ったことにはしばしば式辞で述べたものの、学生が満洲で亡くなった事実については、決して語ろうとしなかった」のだとあります。小塩は、佐藤には良心の葛藤はあったに違いないが、「まるで何事もなかったように振る舞い続けた」としています。

 このように東京農業大学は創立から三代続けて、東京帝国大学教授を経験した学長であり、時代状況もあったのでしょうが、いずれの学長も「拓殖」すなわち内地から外地へ移住して未開土地を開拓していくことについて積極的なオピニオンリーダーであったのであり、国家の政策である「国策」と切り離せない存在であったということになります。

 

 戦後のあゆみについても、「拓殖」という視点から、確認しておきます。

 戦後、専門部拓殖科はGHQの指示により開拓科に名称を変更させられたとありますが、「学生の募集を行ったものの応募・入学者が得られず」、1947年3月で廃科となりました。

 戦後も10年間学長を続けた佐藤寛次が学長選で敗れ、第四代学長となった千葉三郎(1894-1979//1955-59)は衆議院議員・労働大臣経験者で、就任した理由の一つに全国の青年に夢を与えたいと農業拓殖学科の設置(復活というべきか)をあげていたのだそうです。そして、1956年に農業拓殖学科が新設され、杉野忠夫が学科長に就任したのです。

 この杉野忠夫は、前稿でも述べたとおり、1940年に満洲開発局の参与として「報国農場」の企画推進にあたった人物でした。この顛末について千葉が語った言葉(学長を退いた直後)が、杉野の著書に引用されていて興味深い内容なので、少し長いですが、次のとおりです。

 「 ところが4年前とはいえ、想像もできないくらい当時の日本の学界は消

  極的で、農業拓殖学科を設置することは諸外国を刺激するとか、あるいは

  日本人は海外パイオニアとして不適格であると論ずる者などもいて、なか

  なか許可がむずかしかったものです。しかし、石黒忠篤先生(参議院議

  員)、那須皓先生(駐インド大使)、磯辺秀俊先生(東大教授)などの非常な尽

  力によって、条件つきで許可を得たのです。それは農業拓殖学科の責任者

  として杉野忠夫氏を推薦されたことです。これはけっして天下りでも官僚

  の押し売りでもなく、終戦後、はじめて設置される農業拓殖学科が万一失

  敗してはならないという深い配慮で、わたくしもその御厚意に感謝し、あ

  りがたくお受けいたしました。」

 興味深いというのは、一つは農業拓殖学科の設置が諸外国を刺激するという部分で、戦前の「拓殖」とこれに果たした拓殖科への厳しい評価が背景にあったというところです。もう一つは、後述しますが、満蒙開拓移民の推進に深く関与した石黒忠篤と那須皓の名前が登場することで、そのラインで杉野忠夫も推薦されることになったのであろうと推察できることです。

 そして、1991年には、新制の農業拓殖学科は国際農業開発学科に変更され、「国際協力に貢献できる人材の育成」を教育目標にかかげ、今日に至っています(1998年に農学部の再編成で国際食料情報学部に所属)。足達と小塩は、現在、同学部同学科の教授ですが、小塩は、戦前と戦後の連続性に関連して、次のような見方を披歴しています。

 「 東京農業大学の場合も、専門部拓殖科(旧拓)の廃止と農業拓殖学科(新拓)

  の開設の間には10年近い断絶が存在するものの、杉野忠夫という結節点を

  通して見る時、植民地経営から海外移住、あるいは国際協力へと重心を移

  しながらも、ふさわしい自己改革を伴わずに他民族を裨益しようとする姿

  勢ど、いまだに満洲移民の面影を引き摺っているのではないかと思われ

  ることが少なくない。」

 これはたんなる批判というより、現職の同学科の教員として、農学に携わる一員として、自己批判もこめたものと理解すべきなのでしょう。

 前稿で引用した「当時、東京農大の拓殖科の特別講義に出講していた関係で、東京農大にもその一つを分譲することを満洲国側にいて企画していたのは私だった」と回顧した杉野忠夫が、戦後の農業拓殖学科の基本方向を定めるリーダーとなったという意味は、やはり重いといわなければならないのです。

 

◉「湖北報国農場」への大学の態度ー無関心と無責任ー

 前項の「拓殖」をキーワードとする東京農業大学のあゆみを通してみえてくるのは、1945年の「湖北報国農場」の実習に参加した学生・教職員から多数の死亡または行方不明者を出したという悲劇に対し、大学側は無関心と無責任な態度で終始一貫していることです。

 まず、直近のエピソードから一つ。足達の報告によると、2013年に竣工した「農大アカデミーセンター」の展示スペースに「満州報国農場」という項目があり、「満洲報国農場は、昭和18年(1943)、旧満州国東安省密山湖北に専門部農業拓殖科の訓練実習を目的として創設されたが、昭和19、20年の二回、農業拓殖科学生を送ったのみで終戦を迎え、7,500ヘクタールの土地を失った」と記されていました。これに対し、湖北報国農場からの生還者で組織した「湖北会」のメンバーは、農場の土地はもともと東京農大が所有する物件ではなかったこと、そして多くの学生と教職員が殉難したという記載がないことについて、抗議文を送りました。

 大学側の回答は、大学の責任をすべて無に帰した内容でしたが、その後の話し合いで「実習中の教員2名と学生56名が戦禍の中で亡くなり」というフレーズが挿入されたとのことです。しかし、削除を要求した「7,500ヘクタールの土地を失った」という文言はそのまま残されたとあります。

 

 多くの犠牲者を出した満洲の冬をなんとか生きのびた学生たちは1946年の6月から9月にかけて、「引きあげ船にのって、三々五々帰国」しますが、その間の大学の対応を確認しておきます。

 前記のとおり、1947年3月の廃科により、生還学生たちは他学科へ編入することとなったことから、拓殖科の卒業にはなっていないのです。このことが大学側の責任の所在を曖昧にした一因にもなっていると、小塩は記しています。一方、殉難した学生たちの遺族への報告は、生還した学生たちに直接実家へ出向かせていたとのことで、こうした対応に当たった生還学生はまさに「針の筵」の思いであったと回想しています。

 つまり大学は、亡くなった学生たちの遺族と厄介なことにならないように関わらないように、前面に立つことを避けていたというわけです。

 

 遡って終戦の年、満洲への勤労奉仕隊を拓務省と外務省が派遣を見送っていた中で、農林省だけは「報国農場」へ多数の少年少女たちを送り込んだのです。ですから、農林省の責任は大きいといえますが、小塩は、終戦時の学長である佐藤寛次の「一生涯の不覚」として次のことを報告しています。

 「 1945年5月の空襲で東京農大の青山の校舎を焼失し、学長が来たるべき

  敗戦を予期していたのであれば、6月下旬に満洲報国農場へ向かう第三次

  隊が敦賀で空襲を受け、舞鶴を出港後すぐに機雷に当たって座礁した時、

  引率の太田主事からの問い合わせに対して学生派遣の「取りやめ」の決断

  を下さなかったことは、佐藤の一生涯の不覚といってよいであろう。」

 

 さて、終戦の直後に佐藤学長はどう動いたのか、素早い対応に驚きます。

 すなわち終戦の翌日(1945年8月16日)には、軍用地の払い下げについて参謀本部と交渉し、世田谷の陸軍機甲整備学校の借入使用許可を取り付けたとあります(現在の世田谷キャンパス)。ちょうど、このころ、湖北報国農場の100名近い学生たちは、わけのわからないまま逃避行へと向かう途上にあったのです。

 三々五々、生還学生たちが戻ってくる前の1946年3月には、GHQの戦争責任を逃れるため、農業拓殖科の教職員を全員解職するとともに、1945年3月31日に遡及して住江金之教授を農業拓殖科長から解任し、太田正充助教授を同科長に任命しています。足達は、組織防衛のためとはいえ、不自然な人事であり、こうした手段で太田という一個人に報国農場の責任を押しつけるものであったと批判しています。

 太田と同じく責任をとるべきであった住江科長や佐藤学長は、それこそ不自然なことですが、この問題に沈黙を決め込んでいくことになりました。このことは、当然、大学側の態度となって反映されたといえるでしょう。

 

 1956年、新制の農業拓殖学科長に就任した杉野忠夫は、直後の1956年6月20日付『農大新聞』で満洲報国農場についてふれた中で「所が御承知の如くソ連の背信侵略と云う大東亜戦争最後の大悲劇によって満州開拓と云う民族的大運動は同志の惨澹たる全滅の悲劇を喫し、農大満州農場は太田教授以下ほとんど全員全滅と云う史上にも稀有の悲劇を以て終焉したのである」との文章を残しています。

 ここには、大学側の責任をスルーして本人の知らないままで太田教授に責任を集中させようという意図が透けてみえます。こうした対応につき、小塩は怒りを込めて到底看過できないと、次の点を指摘しています。

 「(1) 戦後になっても満蒙開拓を「民族的大運動」と称して理想化し続けて

    いる、

  (2) 「同志の惨澹たる全滅の悲運」と書いているが、少なからぬ生還者が

    おり、決して「全滅」ではない

  (3) 悲劇の原因は他ならぬ自分たちが創り出したにも拘らず、ソ連の侵略

    に全責任を転嫁している、などである。」

 

 かくして、東京農大「湖北報国農場」の悲劇というべき大問題は、終始、大学側の無関心(の装い)と無責任の態度を通して、記憶の消去や変形を受けてきたというわけです。

 この問題に2000年代前半から取り組んできた小塩と足達という現職教授は、パンドラの箱を開けたということになりますが、私の想像できる範囲では、学内では今もなお異端者として遇せられているように感じています。今日のように大学の規模が大きくなり、分野の細分化が図られている状況では、なおさら空間的にも時間的にも遠い出来事として忘れ去られる力学がはたらきます。

 しかしながら、《本書》は彼らにとって中間報告であり、二人はそれぞれ専門の研究とともに、この問題から離れることなく、農学のあり方まで視野が広がってきています。いずれにしても、生還学生たちの高齢化がすすんでいるという難しいなかで、途切れることなく発言を続けていくであろうことも、私は確信しています。

 

◈先達としての農学者たちの戦前と戦後

              ー「農本主義」の来し方を通してー

 満蒙開拓移民政策を推し進めた思想的バックボーンとして、「農本主義」と呼ばれるものがピックアップして論じられてきました。

 では、農本主義とは何か、どう定義されるのか、各国・各地域の幅広い環境条件と農業をとりまく歴史的過程(政治・経済条件を含め)のもとで、近代化・産業化の程度や時期や方向の違いによっても幅広いバリエーションが想定されるし、現実にそうだといえます。

 ですから、日本の農本主義といっても同じであり、そうであるからこそ「農本主義ー読んで字のごとく、農こそあらゆるものの大本とみなす思想」(1966/筑波常治)という定義でしか包括しようのないものだといえます。近代化の過程において農業・農村・農民の重要性を説く思想、農本主義的主張が登場・台頭する背景には、「農業社会から工業社会への移行の過程にあらわれた「近代化への対抗思想」(1977/中村雄二郎)」、つまり「産業としての農業の地盤沈下したという認識に基く農業・農村サイドからの危機意識」があると、野本京子東京外国語大学教授(現名誉教授)は述べています。

 そして、野本は、農本主義の日本的特質について、「家族小農経営を日本農業・農村の担い手として位置づけ、その生活・生産面での安定と十全な発達を第一義とし、発言し行動しようとする思想、ペザンティズムが根底にあると考える」(1999)と、ひとつの定義を与えています。この定義のようなものは、今回の読んだ文献のなかで、私が最もしっくりと同意できた日本の「農本主義」についての言葉です。《本書》においても、藤原辰史は、後述する橋本傳左衛門という農学者を論じる中で、その弟子である杉野忠夫の名前も出しつつ、次の農本主義についての認識を記しています。

 「 杉野も橋本も、農村と農民に害をもたらすという理由で資本主義を批判

  し、市場経済のルールに馴染みやすい大農経営よりも、小規模の家族経営

  の意義を強く主張していた。家族の労働力に根差した農業を推奨する考え

  方を農本主義、あるいはそのなかでもとくに小農主義(ペザンティズム)と

  呼ぶが、橋本もこの系譜から外れないどころか、その本流に立ちつづけ

  た。」

 

 では、このような農本主義の考え方が、満蒙開拓移民の推進とどう結びついたのか、昭和恐慌、農村恐慌の危機にあって、家族小農経営が立ちいかなくなるという農村の疲弊が顕在化する状況のもとで、これを回避させる方途として、前記の用語を用いるなら、「国内の農村窮乏化対策」として表舞台に立ったのだといえます。こうした要因だけで、満蒙開拓移民が政策として推進できるわけではありません。もう一方の満洲国の成立と支配の強化、関東軍の強力な軍事力という条件が、超国家主義として結びついて、初めて満蒙開拓移民をけん引することになったのだと、私は理解しているのです。

 以上の前置きのもとで、満蒙開拓移民の推進をリードした農政と農学、そしてこれに関連するリーダーたちの戦前と戦後をみていくことにします。

 

◉「満蒙開拓移民」の推進と農学者たちの役割

 《本書》では、1936年の二・二六事件で高橋是清蔵相が殺害されたことから、「満洲への移民政策が一気呵成に進められることになった」とし、小塩は、次の記述により、中心的な役割を果たした人物の名前をあげています。

 「 その中心的な役割を果たしたのが、日本国民高等学校校長・満蒙開拓青

  少年義勇軍訓練所長をつとめ「満蒙開拓の父」と呼ばれた加藤完治(1884

  -1967)、当時農村更生協会理事長であり、後に第二次近衛内閣の農林大臣

  になる石黒忠篤(1884-1960)、農林官僚であった小平権一(1884-

  1976)、農林経済学者で東京帝大教授の那須皓(1888-1984)、京都帝大教

  授の橋本傳左衛門(1887-1977)らであった。」

     ㊟「(生年-没年)」は追記しました

 そして、「彼らは関東軍と協力して大量の移民を満洲に送り込んだ」のだが、「「病弱な体を押して「没我的に」働きつづけた「裏方」こそ、杉野忠夫であった」と評しています。

 前記の野本は、「日本の「満州」農業移民政策の思想的系譜ー前史としての朝鮮移民事業に着目してー」(2020)で、「内原グループ」として前記引用文と同じ5名の名前をあげ、満蒙開拓移民の推進に果たした役割を論じています。同論文には、この5名がほぼ同年齢で東京帝国大学の同窓であり、1910年代から交友関係にあったこと、タイトルの「前史としての朝鮮移民事業」を推進するための1924年の朝鮮開発協会の設立にも中心的に関わっていたことが明記されています。ですから、満蒙移民のためにつくられた急ごしらえのグループではなかったことに注意しておきましょう。

 石黒と小平は「石黒農政」と呼ばれた農商務省で農政をリードする官僚・政治家であり、那須と橋本は農政にも深く関与した農学、農林経済学を代表する学者なのです(藤原の表現では「満州移民プロジェクトを推し進めることになる学者の二本の巨木といってよい農学者」)。そして、加藤は「移民・植民」を主唱するオピニオンリーダーであり、民間といいながら、石黒・小平の強力な支援を得つつ、拓殖教育のための学校長として活動した人物です。その役割が過大視されているとの見方もあるようですが、各自のめざす方策を実現していくための盟友関係にあったということができそうです。

 二人の農学者、那須と橋本が1932年2月17日に奉天で開催された関東軍統治部会議「満蒙新国家建設会議」に招へいされていたことについて(農林次官であった石黒は訪ねてきた加藤に、この会議のことを「満州移民の可否をきめる大討論会」と説明したそうです)、野本は次のエピソードを報告しています。

 「 二人は「満州移民の突破口」を開こうという意図のもと、満洲農業移民

  の必要性を説いたのであった。会議では農業移民案には否定的意見が多

  かったが、関東軍参謀板垣征四郎と石原莞爾は支持に回ったという。板垣

  や石原は移住適地を見てほしいと述べ、那須と橋本は関東軍の飛行機で空

  から満洲の大地を視察している。」

 同論文の結語として、野本は、こうした人物たちの盟友関係と時代の背景について、次の文章で締めくくっています。

 「 従来、満州農業移民については、「内原グループ」内ではとくに加藤完

  治への注目度が高かった。報告を通じて感じたのは、石黒忠篤や那須皓と

  いった官僚・学者も、必ずしも加藤に引きずられて行動をともにしたので

  はないということである。1920年代の農政史を踏まえて考えると、小作

  法の制定等がままならない状況下、地主的土地所有自体に切り込まない前

  提での農業問題への「ひとつの解」として、植民地朝鮮や満州への農業移

  民が、彼らにとっても次第に大きな意味を持つに至ったといえよう。その

  歴史的結末は周知のとおりである。」

 いわば「内原グループ」の有した意味の再考をもとめていますが、私も農政と農学の両輪という支えなくして「国策」としての満蒙開拓移民事業は成り立たなかったものと理解しておきたいと思っています。

 

 さて、戦後との関係です。

 《本書》には、藤原が橋本を論じた第3章以外にほとんど論じられていませんが、小塩は「食糧戦争」の連続性という視点から、農学者や農政者における敗戦意識の欠如、満洲開拓移民の帰結についての責任意識の欠如について、次のとおり断じています。

 「 私は、太平洋戦争当時の農政者や農学者たちは、おしなべて「食糧戦

  争」における自らの敗北を認めていないと断言できる。本書で折に触れて

  取り上げた人物たち、石黒忠篤にせよ、加藤完治にせよ、その他、橋本傳

  左衛門、那須皓、佐藤寛次、杉野忠夫、いずれも、戦時中の自らの責任を

  自覚することなく、ほぼ戦前と戦後が連続した認識のままに、その後も要

  職を務めたという特徴を指摘できる。」

 これはどうしてなのか。前記の内原グループのうち小平権一の名前がありませんが、同じことでしょう。もちろん日本の戦争責任というものの考え方の根っこに関わるものだともいえます。敗戦とは軍事的な敗北であり、軍部とプラスアルファにすべての責任がある、戦時体制のなかで「食糧戦争」の推進に努力してきた自分たちに責任はなく、つまり「食糧戦争」に敗北しているわけではなく、これからの再興のために力を尽くすことが自分たちの義務なのだという意識なのかもしれません。

 小塩は、戦後の食糧事情ということを指摘しています。つまり食糧事情は「植民地を失った戦後の方がむしろ悪化した面があり、「食糧戦争」は敗戦後も続いた」ことが、背景にあったのではないかというのです。食糧増産のための仕組みは名称だけ変えて戦後も継続していましたし、加藤の日本国民高等学校も満蒙開拓青少年義勇軍訓練所も名称を変更して続いていったのです。

 《本書》で問題として論じてきた「満蒙開拓移民」、その行き着いた先である「満洲報国農場」の<悲劇>をもたらした結果について、こうした政策をリードしてきた人たちは、農政においても、農学においても、主体的に責任というものを負おうとはしなかったということになります。彼らにとって戦前と戦後は断絶ではなく、連続であったというほかありません。

 

◉「橋本傳左衛門」という農学者の戦前と戦後

 先に述べたとおり《本書》の第3章の全体を、藤原は、前記の橋本傳左衛門の農学に対する分析にあてています。1923年に京都帝国大学教授となり、1940年から43年の間、満洲国開拓研究所長を兼務したという橋本は、前項の引用文にもあったとおり、マルクス主義者ではなかったけれど、資本主義社会への批判とそこからの突破の必要性という点では、同じ現実批判というパトスの持ち主であり、だから当時の「農本主義」にシンパシーを寄せていた学者であったと、藤原はみています。

 「満洲ブームの訪れた時代には、満洲移民にする適合する農業経済学を編み出」す一方、「敗戦後は手を翻して「私経済」的な個人主義を擁護して」しまうという、戦後の橋本の変節をどう理解すべきか、藤原は橋本の変節を前提のうえで、「その前段階である理論の形成過程と戦後も変わらなかった部分も同時に追って」行こうとします。そのために、三人の海外の農学者(チャヤーノフ、エーレボー、クルチモウスキー)の理論に対し、橋本の受容と理論形成を突き合わせて検証しています。藤原は、次のような小括を提示しています。

 「 戦前戦中の橋本の農学には、クルチモウスキーの翻訳やその解説にあっ

  たように、資本主義になじみにくい農家経済の身体性、あるいは、生態的

  なものが繰り返し立ち現れる傾向がある。これは、橋本の特徴というより

  は、資本主義経済に違和感を感じつつ学問の形成を試みる知識人に共通す

  る土台であり、時代の空気といえるかもしれない。しかし、戦後になる

  と、この橋本の農学の中心が非常に薄れてしまう。変節というのは、単

  に、満洲移民に関わった過去を抹消することだけでなく、過去にあった可

  能性もまた抹殺することを意味するのである。」

 

 私の理解不足と紙幅の限りために紹介というには足りませんが、藤原は、客観的かつ論理的に橋本の仕事を追っていくと、「家族と勤勉と共棲の農学の形成に関与」したとし、それは「マルクス主義を一つのアンチテーゼに設定しながら、それとは異なるかたちで、資本主義の乗り越えを誘発するとも読み取れる」と整理したうえで、次のとおり橋本の限界と不誠実を批判しています。

 「 そうしたプロジェクトのなかに、資本主義の矛盾の吐き出し口となった

  満洲での農業の実験もまた、ぴったりと当てはまる。橋本傳左衛門は、そ

  の中心部分に客観的には立っていたのである。

   けれども、橋本の農学と農本主義は、このような自己の立つ場所に無自

  覚であったし、大和民族の優秀性を説き、他民族の「レベルの低さ」や

  「怠惰」を強調し、戦前戦中は、大和民族が満洲国での指導的役割を果た

  すべく理論武装を試み、敗戦後は、そうした過去を自己の学問上からもみ

  消すことに腐心した。」

 そして、こうした橋本の「回避」を、橋本ひとりに帰すべきでないとして、戦後の農学という学問に対し、自分を含めた現在の農学者に対し、次のとおり誠実であることを求めています。

 「 戦後の農学もまたその回避への欲望から自由ではなかった。およそ、農

  学に携わる者で、資本主義経済のなかになじみにくい農業の特質を感じた

  者は、わたしも含めて、橋本のはまった落とし穴に再び落ちないという保

  証はないからである。」

 藤原辰史という有為な歴史学者の農業観、農学像が少しうかがえるようですが、この「資本主義経済のなかになじみにくい農業の特質」とは、冒頭の宇沢弘文の文章とまっすぐにつながっています。

 

おわりにー「新農本主義」とコロナ禍ー

 《本書》は、タイトルのとおり、「知られざる満洲報国農場」につき、インナーである学者たちが大学と対峙しながら白日のものにしていくことを通して、「農学と戦争」の関係における事実と現実を提起し、大学の「責任」だけでなく、こうした国策を支えた学問の「責任」を鋭く問うています。そのことはまた、現下の農学という学問のあり方についても自省を迫るものです。

 本稿では、《前ブログ》を踏まえて、「満洲報国農場」という国策の前提となった「満蒙開拓移民」政策の背景事情を歴史的に明らかにするとともに、「拓殖」をキーワードとする東京農業大学のあゆみと「湖北報国農場」への戦後の無関心と無責任の態度を確認し、こうした国策を農政と農学から支えた人物たちの戦前と戦後を「農本主義」という視点から望見してみました。

 なお、戦後75年、農業の現代的課題と「農本主義」というテーマを、宇沢の「新農本主義」を媒介させつつ、もう少し考えてみたいのですが、別の機会とすることにします。「満洲報国農場」と出会って4年、変な言い方ですが、忘れることに抗しつつ、少しだけ肩の荷を下ろした気持ちになりました。

 

 日本農業新聞の本年1月1日付「新農本主義 包容力と自治 国の基に」という年頭論説があって、それこそ宇沢の「新農本主義」、農業と農村の多様な価値を媒介させながら、「規模拡大に偏った農業振興」や「成長産業化政策」の限界を指摘しつつ、「多様な農業経営と農家以外の住民や移住者を含め、地域経済が成り立つ政策」の必要性を訴える内容です。

 このような形での宇沢の「新農本主義」の引用が適切かどうか疑問なしとはいえませんが、今次のコロナ危機によって、宇沢の「新農本主義」を含む社会的共通資本の経済学は再びテーブルに呼び戻されるものと、私は思っていますし、そうあるべきだと考えています。

 最後に、清水徹朗という方の論文(「戦後日本の農業思想と農政論」2020.6『農林金融』)から、ラストの文章を引用します。

 「 新型コロナウイルス問題はグローバリゼーション、都市集中、格差社会

  の問題点を浮き彫りにし、原発問題、地球環境問題とともに現代文明のあ

  り方が根本的に問われる事態に至った。農業政策は成長よりも環境と循環

  を重視し、地域、生態系、文化の視点を含んだものとするべきであろ

  う。」

 この紋切型のような文章に、この当たり前の意見に、私は次代への出発点をみたいと思っています。

                       【終:(1)へ/(2・完)】

 

2020.06.10 Wednesday

六甲の坂の途中にー「口笛文庫」のたたずまいー

 先週(6/5)、ちょうど2ヵ月ぶりに神戸へ出かけました。大学病院のあと、神戸の街を歩きましたが、私の節穴の目には、街の変貌というものが見えてきませんでした。緊急事態宣言下で自粛休業していた多くの店舗が再開されていたこともあるのでしょうか、自然災害とちがって、コロナ禍は自然や都市の風景を一変させるという性格ではないことに思い至ります。このことが大規模な災害に比べ、今回のような感染症の記憶を拠り所がなく忘れやすいものにしているのではないかとの論述もありますが、いかがでしょうか。

 本稿では、2ヵ月ぶりの神戸の街を万歩歩行して感じたことに少しふれつつ、最後に訪ねた古書店『口笛文庫』で店内の様子を撮らせてもらいましたので写真中心にゆったりと紹介することにします。

 

 神戸大学病院の南隣に港翔楠中学校がありますが、11時過ぎに病院を出ると、その校舎に貼られたメッセージが目につきました。このメッセージが歯抜けになっていて、おもしろかったのです。

 6月冒頭から学校が再開され、三密回避のためか窓が開放されていたためで、下記の写真では、上段から「〇〇〇〇の皆様/神〇を〇う〇様〇力に〇謝!/コ〇ナ〇負〇ずにが〇ば〇ま〇ょ〇!」となっています。正解は「神大病院の皆様/神戸を救う皆様の力に感謝!/コロナに負けずにがんばりましょう!」だそうです。もともと同中学校には、院内学級もあって神大病院と関わりが深いとのことですが、5月1日にこのメッセージは貼りだされました。同月20日には病院側も応答し、中学校の正面にある病院の渡り廊下に「応援メッセージをありがとう」と、お礼の言葉が掲げられたのです。

  港翔楠中学校校舎の「応援メッセージ」 [2020.6.5撮影、以下全て同日に撮影]

 病院へ入る際には、もっとものものしい感染防止対応があるのかなと思っていましたが、3ヵ月前と同じで、出入り口が正面玄関1か所に限定され、消毒用アルコールスプレーがおいてあるだけでした。病院に入り、ああと思ったのは、3月10日からだという「面会禁止」措置が今も継続していることです。

 病院内でも新型コロナウイルスの感染防止対策に伴う変化は特に感じられませんでした。泌尿器科の外来待合は相変わらず多くの患者でぎっしりで、ディスタンスどころではありません。次に診察してもらった放射線腫瘍科の担当医師に尋ねると、リニアック待合室では距離を空けて座ってもらうとか、今まで以上に消毒を徹底するとかぐらいかなとのことでした。

 一方、診療費の自動支払機の前に、スーパーのように立ち位置を表示するマークはないにもかからわず、患者たちはディスタンスをとって並んで待っていました。これは患者の自主行動といえるのでしょうか。

 

 病院を出て、強い日差しを避けるように日陰を探しながら歩いたのですが、人気洋食店「洋食の朝日」の前には、11時半頃だというのにディスタンスのとれていない行列ができていました。他方、あとで立ち寄った大丸では、「入口」と「出口」を分けたり、「入口」を入ったところで自動で発熱を監視する装置の前を通ることになっていました。

 私は決して口うるさい消毒じいさんではありませんが、神大病院の外来患者への感染防止のための対応はちょっと豪快、豪気のように感じたりしました(見えないところで本質的な対策はしているよということでしょうが)。それこそ何のエビデンスもないのですが、家人から別の病院の対応を聞いたりしていた内容に照らしてみると(病院外のテントでの体温測定など)、やはり、これまで院内感染が出ていないからという背景もあるのかなと邪推したくもなりました。

  神戸大学病院1階ロビー「面会禁止」のサイン

  神戸大学病院の自動支払機前の並ぶディスタンス

  「洋食の朝日」前の行列

  大丸神戸店前の「入口専用」「出口専用」の分離

 元町一丁目に『萬屋宗兵衛』がありますが、前稿(「ちょっと足を伸ばしてー的形の海辺にー」)に登場した『WAY OUT WEST』6月号で、4月に閉店したことを知りました。階下への階段の前には、「閉店しました。ありがとうございました。」のあいさつとともに、もう一つお知らせペーパーが掲示されていました。「いつも半ズボン姿でおみやげをくださったお客様ぜひご連絡ください。」とあって、ちょっといいストーリーが想定されて楽しくなりました。

 ジャズ中心のライブハウスである同店は、1999年に開店し、21年目を迎えていました。同誌掲載の店主挨拶によると「営業継続を考えていましたが、地下という立地でもあり、コロナ以前のようにはやっていけないとの結論に至りました」のだそうです。米国から帰国した直後のコンサートで聴いてその骨太の音にびっくりした記憶のあるトランペッターの広瀬未来さんが、次の文章(部分)を寄せ、感謝の意を表明しています。

 「 萬屋宗兵衛はジャズの間口を広げてくれたライブハウスでした。私自

  身、そして同世代のミュージシャン、リスナーのほとんどがその間口の広

  さの恩恵に授かったのではないかと思う。《中略》萬屋宗兵衛が広げてく

  れた間口から入った自分がこれからのジャズシーン(コロナウイルスとの共

  存も含め)について考える重要な時期に来ていると思う。萬屋宗兵衛、スタ

  ッフの皆様、ありがとうございました。」

 このように「萬屋宗兵衛」は、大きな役割を果たしたのです。私は1、2回ほど覗いただけですが、こうした店が名前をもった生命体であるとするなら、「閉店」することは生命のサイクルというべきでしょう。だから、いたずらに惜しいとか、残念だとか、申し上げることは失礼なこと、敬意に反することにもなるのではないか、私は思ってもいるのです。

  元『萬屋宗兵衛』前の貼り紙(元町通一丁目)

 昨年は、古書店の好きな私にとって、エポックな年でした。2月の『花森書林』(旧「トンカ書店」)の場所を移しての新たな出発(2019.2.10「「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー」)、そして、9月の口笛文庫と清泉堂の合同店舗である「三宮駅前古書店」、10月のまちづくり会館内に古書店共同運営で「神戸元町みなと古書店」がそれぞれオープンと続いたのです。

 「神戸元町みなと古書店」はまちづくり会館の開館とともに再開していましたが、「花森書林」はシャッターが下りていて「4/14(火)より臨時休業致します。」の貼り紙がありました。

 昨日(6/8)、「花森書林」の店主に確認したところによりますと、この機会ということもあって再開準備に日にちをかけるつもりで、オープンは6月下旬から7月初旬を予定しているとのことでした。乞うご期待です。

  『神戸元町みなと古書店』(神戸市立まちづくり会館内)は営業中

  『花森書林』の「臨時休業」貼り紙

 さて、本稿のテーマ、『口笛文庫』のことです。今回はいつものJR六甲道駅からとは逆に、阪急六甲駅で下車して、『六珈』でコーヒーを飲んでから、八幡本通の坂を下りました(JRと阪急のほぼ中間に位置しています)。

 以前から、私の好きな店内の様子(本が並べられたり積み上げられたりしているカタチ)を写真にしたいと店主に話していましたが、今回、やっと実現しました。本稿では、開店(2005年1月だそうです)から15年余を経過した現在(2020年6月)の古書店の姿をお伝えしたい(自分のためにも残しておきたい)と思っています。なお、参照していただきやすいように写真に番号〇を付しています。

 口笛文庫は、いろんな方のブログ等でも取り上げられていますが、ここでは『空犬通信』というブログの記事(2017.11.27「神戸で古本屋さん巡りを楽しんできましたよ」)とリンクしておきます。

 

 まず、口笛文庫が六甲の坂の途中にあることです。道を隔てた反対側から、全景()を撮影して驚いたのは、まさに坂道の途中にある一軒家だということです。急な坂の多い六甲では、このあたりの坂は序二段というところで大したことはないと思っていたのですが、写真をみると、違いました。幻惑する傾斜に水平を見失うような不思議な感覚があります。

 この坂道性というものを端的に示すのが、店舗の前に並べられた100円均一本や雑誌を中心とする平台です()。坂の傾斜に逆らわずに台をおくと、こんなに傾斜がついてしまうのです。背後のガラス越しに見える店内の棚の水平と比べると、さらに、その傾斜が際立っています。

 右側、すなわち南側の入り口()には白い文字でガラスに『古本とジャズ 口笛文庫』とあります。私は「口笛文庫」と呼んでいますが、こちらの方が正式名称になるのでしょうか。「古本とジャズ」はかつて私のフェイバリットだった植草甚一の本のタイトルに由来するのだそうです。

 この文庫の場所の坂道性は、店内に波及しているので補足しておきます。この建物はもともと二世帯が入居していた民家で、2005年のオープンに際しては、右側の半分を借りて始めたそうで、数年して左側も借りることができて改装し、現在のように建物の一階部分全体に店舗を広げることができたのです。もちろん店内の床面が傾斜しているわけではないのですよ。真ん中に階段2段が設けられ、床面が上下に分かれています(便宜上、本稿では,亮命拭右側の下段を<1F>、左側の上段を<2F>と呼ぶことにします)。

   惴笛文庫』の全景 [八幡本通の反対側から撮影]

  ◆惴笛文庫』前の平台の傾斜

  F口の『古本とジャズ 口笛文庫』の白文字

 古書店の店内の雰囲気を伝えたいのですが、私にとっては、やはり本のおかれた状況であろうと考え、<1F>に<2F>に分けて、その映像から感じていただければと思っています。

 で、最初に口笛文庫を訪れたのは、いつ頃でどんな経緯があったのでしょうか。確かなことは分からないというのが結論ですが、推測しておきましょう。それまで六甲という土地は、六甲山上に行くための経由地でしかなかったのですが、2000年代の半ばにJR六甲道駅からすぐ北の『宇仁菅書店』(これも古書店)の存在を知って時々通うようになりました。2009年3月末が最初の退職でしたが、その前後でしょうか、近くに<ジャズ>を冠したユニークな古本屋がある情報を得て、初めて坂を少し北上して「口笛文庫」へ足を伸ばしたのではないかと思っています。そのとき、店舗は既に現在のフルバージョンに改装済みではなかったと記憶しています。

 そして、前者の高踏というか、フォーマルな雰囲気に比し(決して悪い意味で使っていません)、口笛文庫のもっと幅広く柔軟でカジュアルな感覚は、私が古書店に求めるものに近いように思ったことでしょう。端的に申し上げれば、私が購入したいような本や雑誌が多くあったということになります。ですから、以来10年超か10年前後のお付き合いということになります。2015年4月からは、六甲の大学の聴講生になったこともあって、それこそ山の校舎から下りてきたその足で覗けるようにもなったのです。

 店主が急に亡くなられ、宇仁菅書店が閉店したのは、2012年3月のことでした。今にして思えば、宇仁菅書店の店主は(店内にはいつもバッハの鍵盤音楽が流れていました)、かつての古書店のあるじとして、ある種の理想を身にまとった方であったのでしょう。

 

 寄り道してしまいましたが、店内の様子を紹介します。先にリンクした『口笛文庫』のホームページの「当店について」には、本の書名の分かるほど接写したいい写真がアップされていますので、ここでは、もう少し広い範囲をカバーする写真を組み合わせて雰囲気を感じてもらいましょう。

 まず<1F>の方です。

 入り口の引き戸を開けて店内に入って前を向くと()、右手前の平台に児童書と絵本、右側の棚にもそういうものに加え、料理本や手芸本、美術等の展覧会の本などがあります。このあたりには、子供たちやお母さん方がよく来店して、写真の小さな椅子に座って本を読んでいたりします。私はここをスルーして真っすぐに奥の棚に向かいます。

 奥の右側は音楽が中心で本だけでなくCDの棚()もあります。ここのジャズ本にはお世話になりました。イ亮命臣罎CDで手元にあるのは、上から3段目右端のマイルス・デイヴィス『死刑台のエレベーター』だけです。同名の映画のための音楽を映写をみながら即興で吹き込んだというマイルスは、ジャケットのジャンヌ・モローと束の間の恋におちたといわれています。

 左側は、映画、芸能であり、その横、L字形の短辺には建築関係の本が並んでいて、私は毎回のように覗いてしまいます。ここで吉田五十八や吉村順三たちに出会いました。

 

 この穴倉を出て右手に回ると()、哲学、思想、政治、経済、現代史の本がずらっとおかれています。奥には、新書系がぎっしりと詰まっています。ここは素通りできずに、ざっと眺めるのが恒例ですが、せっかく購入しても、さらっと読めないような本が多いところです。私にとっては、鶴見俊輔や加藤周一らを中心に、たとえすぐに読めなくても、購入しておこうよと主張している棚ということになります。

 そして、Δ涼譴鮑犬愨元から積み上げられた本の隙間を回りこむと、<1F>の中央に平台があって()、古本らしい古本というか、戦前、さらには明治、大正の本や雑誌や図版など(外国語の本もあったかな)が平積みされています。十分にお年寄りの私ですが、ここはスルーして手前の棚に注目します。植草甚一、小林信彦など晶文社系の作家の本が多くあり(最近はもっと幅広い)、80年代のサブカルをリードした本が多く集められています。

 このあたりで安西水丸の関係本を手に入れたことを当ブログにも書いています(2018.1.11「線にはすごく感情が表れてー安西水丸のイラストレーションー」)。この記事には、安西本を購入したとき、店主から「〇〇さんは安西水丸さんに似ておられるとずっと思っていました」と言われて動揺したことを記しています。

  <1F>入口からの正面

  <1F>CD棚の一部

  <1F>い虜玄

  <1F>中央の平台など

 以上が<1F>ですが、<2F>へ上がる2段だけの階段の左手前の棚は、現代の日本文学、今今の小説群が並べられ、階段脇には()、売れ筋とでもいうのでしょうか、こんなディスプレーもされています。

 <2F>を足場として、できるだけ<1F>全体を撮影しようとしたつもりですが、一部しか写っていません()。それにしても、これは何でしょう。書名の見えない本、それも時間をまとった本の塊りというしかない代物というべきでしょう。でも、本好きにとっては、曲芸的なバランスというより、不思議な均整をたたえた情景とでも表現したくなるのです。

 いつも書いているとおり、病膏肓に入る、バカは死ななきゃというのは、こんな感覚なのでしょう。

  <1F>から<2F>への階段脇

  <2F>から<1F>の全景?

 次に<2F>です。

 二つの階段を上がって、左手はL字形の文庫本コーナーが充実しています()。短辺である左手奥には岩波文庫がそろい、そしてその上段には、たまに手に入れたりする小型の詩集が並べられています。長辺側の右手には各種文庫、特にこれだけ講談社文芸文庫が揃っている古書店はめずらしいですし、私のような者にとっては岩波現代文庫が数多いのもありがたいことです。写真には入っていないのですが、最下段には、雑誌『芸術新潮』『太陽』があって、何点か、私たちの海外旅行の参考書になりました。

 時計回りに半身を動かし、右奥を眺めると()、手前の平台には外国文学の単行本が積まれています。当ブログによく登場する須賀敦子、池内紀や池澤夏樹の翻訳書も多く、もう20年以上前なら、チャレンジしてみたいと思いながら眺めたりします。そして、その脇には、洋書も多数おかれています。この写真には写っていませんが、<1F>側には、まだ価格のついていない未整理本が、うず高く積まれていたりします。

 右奥手前には歴史、考古学、民俗学の棚ですが、どうしてか、あまり見ていないのです。さらに奥の横長棚は、広く芸術本全般、稀覯本もあるのかな、で埋め尽くされていて壮観です。このうち一番右端の棚は上から下まで写真集や写真の本が並んでいて、私にとっては大切なコーナーでした。もっと以前に「口笛文庫」と出会っていたら、もっと多数買っていたかもしれませんが、退職後のお付き合いということで、とりわけ年金生活者になってからは実際に購入した写真本は限られているのでしょう。「でした」と書きましたが、やはり今も大切なコーナーであることに変わりはありません。

 

 続いて、文庫本コーナーに続く、左手の奥のコーナーです()。手前には、戦前、戦後すぐの小型本が並べられていて、このような本を探している方にとってはきっとワンダフルでしょうが、私はスルーしてさらに奥のコーナーでいつも立ち止まります。後でもう一度ふれることにして、このコーナーを右に折れて、くるっと右手(<1F>の方)を向いたら、低めの書棚があって(には裏側しか写っていません)、最近の私にとって、一番親しみを感じている店内スポットです。

 ここに並べられる本のセレクト方針について店主に訊いたわけではありませんが、なんというか、日本文学系の作家名からセレクトされているようなのです。先に登場した池内紀をはじめ、上林暁、杉本秀太郎、野呂邦暢、足立巻一、杉山平一、吉田健一そして、阿部昭等々と幅広いのですが、共通しているは、いまだにファンがいて評価を得ている本だということです。今や50代になっていますが、かつての若手、堀江敏幸の本もこの棚から購入しました。いわゆる文章家と呼ばれる書き手ということでしょうか。大阪の出版社である編集工房ノアの本も多く集まっています。

 ここも後で再登場してもらうことにします。

  <2F>左手の文庫本コーナー

  <2F>右手奥

  <2F>左手奥

 <2F>の左手奥のコーナーに戻ります()。

 写真右側の棚は(一部は左側にも侵食していますが)もいわば本の本とでもいうべき本や雑誌が集められています。自分だけの本づくりや出版に関する本、装丁、ブックデザインの本、ユニークな出版社からの発信本、本屋さんの紹介や経営についての本、古本屋、古書店についての多岐にわたる本など、書評本も加わり、本への愛にあふれた一角になっています。左側には単行本の詩集が集められており、谷川俊太郎の本も並んでいます。この一角は「口笛文庫」の心臓、店主の初心が表現されている棚かもしれないと想像しています。

 ランダムに3冊ピックアップして立てかけてみました()。真ん中はタイトルすら知らなかった『愛書家鑑』、左右はよく読んだことのある二人の本、左側は辻まこと画・文『すぎゆくアダモ』(1976年創文社刊です)、右側は当ブログでおなじみの天野忠詩集『うぐいすの練習』(没後の1995年に編集工房ノアから刊行されました)です。前2冊は函入り本で、今はこんな造本はもはや、ほぼ壊滅状態になっています。

  <2F>左手奥のコーナー

  <2F>のコーナーからピックアップ

 このホットコーナーのすぐそば、先ほど近頃では最も親しみを感じているとした棚に戻りました()。誰かが阿部昭の『子供の秘密』(1976年福武書店刊です)を抜き出しています。若い方で阿部昭の本を探していたりもするんですと、店主から話を聞かせてもらったりしながら、店主が撮影してくれたものです。だから、この手は私の手ということになります。

  <2F>阿部昭『子供の秘密』を抜き出す手

 こんな店内ですが、最後は店主の居場所です。<1F>から<2F>へ上がり、右手奥に本に囲まれたスペースに()、店主は座っています。天井からランプが下がっているところです。本との押し合いへし合いでだんだんと居場所が狭くなっているようでもあります。レジがあるのですが、作業スペースにもなっていて、時に顔が見えにくくなっていたりします。

 この古書店を、28歳で開店したという店主は、それから15年、40歳をこえたことになりますが、変わらぬ青年の面差しが残る顔で座っています。難しい顔をしているわけではありません。

  <2F>店主の居場所

 以上、ごく私的なものになってしまいましたが、古本屋さん『口笛文庫』の店内を探訪してみました。そのたたずまいを味わっていただけたでしょうか。こうして書いていると、私のふれたことのない本の山や棚がたくさんあることに、いつもみていると思っていた本の記憶のあいまいなことに、気づくことになりました。

 ですから、誤りを含み、いい加減なことを書き散らしていそうで、ちょっと怖くなりますが、お許しをいただきましょう。

 

 店主は、学生時代からサラリーマンだけにはならないでおこうと思っていたようです。音楽関係の仕事をへて、準備期間をへて、2005年1月にこの古書店をひらいた方です。あたりはとても柔らかですが、やはり芯の強い方なのでしょう。そして、『花森書林』の店主と同様、親からの継承ではなく、自分で立ち上げて育ててきた店主であることに、サラリーマンであった私は少なからぬ敬意をいだいています(もとより継承を貶めるつもりはありませんが)。そんな自主自立の気配は、言葉の端々から漏れ出てくるようです。

 そんな店主のお人柄もあって、それに六甲という土地柄もあって、『口笛文庫』は地域の古本屋さんとして立派に根付いています。近辺から買い取った大量の本が入ってきて、外部の古本市等イベントへの参加が重なると、店内の本の混雑度が高くなり、やっとなんとか整理できたと思ったら、すぐにまた造山活動が始まったりが繰りかえされています。まあ入超ということなのでしょう。今回のコロナ禍でも、この機会に整理したという方々から申し出があり、買い取った本も多くあったと聞きました。

 加えて、六甲と違ってターミナル駅の人並みに接する『三宮駅前古書店』という新店舗にも活動範囲を拡げていることで、失礼ながら、学ばれることもあるのかなと想像しています。

 

 当ブログでは、2015年、16年の二度、トアロードのBALの6Fスペースで開催された「冬の古本市」を「挑戦的なイベント」として紹介しました(2015.12.14「「よくやったね」冬の古本市へ」//2016.12.18「今年も口笛文庫とトンカ書店の『冬の古本市』」)。BALの6Fが常設店舗に代わったことから、開催できなくなり心配していましたが、前記のとおり、神戸市立まちづくり会館内に常設の『神戸元町みなと古書店』の共同運営が開始されるなど、新たな動きが出てきたことを、オールド古本ファンとして喜びたいし、歓迎したいと思っています。

 そして、『花森書林』の開店に際しての記事(再掲:2019.2.10「「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー」)において、過去10年余で古書店に足を運んだ回数は『口笛文庫』と『トンカ書店』(現『花森書林』)が両巨頭であり、お世話になった両店の店主をちょっと応援したいという気持ちをもっていると書きました。何も実質はありませんが、精神的にはその気持ちに変わりはありません。

 青年老いやすくではありますが、できる範囲で、もう一つの時間の流れる空間として、古書店が在り続けることを、心より期待し、願っています。

 

 最後にもう一度『口笛文庫』の全景(縦長分)を載せておきます。坂の途中にあるというロケーションの面白さ、見事さ。そして、真ん中に立つ一本の樹木は、古書店を支えていくことでしょう。

  穎珊辰虜笋療喘罎法惴笛文庫』の全景

 

2020.06.02 Tuesday

忘れやすいことを忘れないためにはー『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』を読むー(1)

 あれ「満洲」なんだ、これまで「満州」と表記していたのにと気づいたのはほんの30分前のことです(5/30)。戦後、当用漢字に「洲」がなかったため、「州」に書き換えることになったということですが、漢字表記では「満洲」が正式だそうです。

 今回、ブログで取り上げようとしているのは、足達太郎、小塩海平、藤原辰史の三人を共著者とする『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』(2019年4月刊/岩波書店)[以下「《本書》と表記」]です。ここでは「満洲」と表記されています。でも、3年前、2016年に同じ岩波書店のPR誌『図書』で、その一人である小塩海平が執筆した3回の連載「農学と戦争ー東京農業大学満州報国農場」では「満州」が使われていました。

 いつものとおり書き始めることができなくて、うーんと手をこまねいている期間が長ったのです。そんなぐずぐずしているのなら、もっと幅広く勉強すればいいのに、めざす山を見上げると気力が萎えてしまいそうでした。理由にならないのですが、ようやく「満州」ではなく「満洲」だと気づいたとき、これも毎度のことながら、レベルの低いままでも山裾をめざしてともかく書いてみようかと思いきることにしました。

 

 当ブログでは、『図書』連載文書を「忘れてはならないことー東京農業大学満州報国農場ー」(2016.9.2)[以下「《前ブログ》」と表記]のタイトルで紹介しました。それから4年弱、当ブログの記事としては多くの方にアクセスしてもらいましたが、だからこそ、その記述が東京農大の「報国農場」をめぐる経緯に限定されたものであったことが気になっていました。つまりもう少し幅広く歴史的視点というか、この「報国農場」が生み出された戦前の国家、社会の背景や展開、そして戦後につながる問題などにももっと目配りというか、補助線が必要だと思っていました。

 こうした不足感を意識していたとき、昨年、『図書』の執筆者小塩海平が共著者の一人となって《本書》が刊行されたことを知り、しばらくしてめずらしく新刊本で購入しました。さらに数か月積読してから一読し、私のいう「目配り」したいところにもある程度は射程の届いている力のこもった本だと思い、《前ブログ》を補足する記事を書こうとしたのですが、首をひねっているうちに、今になってしまいました。

 

 ここで、《本書》のテーマを確認しておくことにしますが、その前に3人の共著者とその関係を付言します。

 足達太郎と小塩海平は、共に現職の東京農業大学国際食料情報学部国際農業開発学科教授で、足達は応用昆虫学、小塩は植物生理学がそれぞれ専門です。そして、当ブログに最近頻出してもらっている藤原辰史は、京都大学人文科学研究所准教授で農業史が専門です。足達と小塩の所属する学科の一年生の農業実習でひらかれる夜のゼミに講師として藤原を招いたことで知り合い、「すっかり仲良くなってしまい」、「同志として歩みを続けてきた」とあります(当ブログ2020.4.17「同じ時間を生きている人たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(1)」)。

 そもそもの発端は、小塩が同窓会報に掲載するインタビュー記事の担当者となり、大戦末期の東京農大「満洲報国農場」からの生還者に初めて接した2002年ということになります。以来10数年、《本書》はこの問題の掘り起こしに取り組んできた小塩と同僚である足達の二人がいわばその中間報告として専門外の仕事に挑んだものであり、それに際して仲間であり専門家ともいえる藤原を、いわば助っ人として引っ張りこんだという格好でしょうか。

 《本書》の目的を提示する「序」及びある農学者の戦前と戦後を検証する「第三章」を藤原が、小塩が『図書』に連載した「東京農大満州報国農場」の経緯をさらに広くかつ深める「第一章」を足達が、農学と東京農大の歩みの関係を剔抉しようとする「第二章」及び満洲報国農場の戦後処理などを批判的に検討する「第四章」を小塩が、それぞれ担当しています。

 

 「序」で、《本書》の問題の所在について、「報国農場」は「満洲移民」と呼ばれる一連の動きの一部をなすもので、戦前の農業史の一部を構成するとし、「満洲報国農場の歴史を通じて、農学者がどのように満洲移民に関わり、どのようにその悲劇の原因となったのかを問う」ものだと、藤原は説明しています。この戦前の時代は、いわば「農民たちの貧窮状況に心を痛め、自身の学説によってそれを救えると信じた農学者たちがメディアを賑わし、天下国家を論じ、未来を語るだけでなく、世の中を動かした」というべきだとしています。だから「食と農に関心の高まるいまの時代の住人にとって」、遠い過去ではなく、「むしろ近しい過去」と言えるだろうと問題を提起しています。

 そして、東京農大「報国農場」の生還者の一人である村尾孝さんの俳句を紹介したうえで、《本書》のテーマを再確認しています。

 「 以上のような鮮烈な体験の数々を、16、7歳の少年に体験させた、この

  満洲国とは一体何だったのか。これら八句(㊟村尾さんの俳句)をもたらした

  満洲国の為政者と、それを支えた学問の責任は、今まで本当にきちんと問

  われてきただろうか。私たちも学問に携わる一人の人間として顧みるべ

  き、本書のテーマは、繰り返すが、これにほかならない。」

 ここでは、農学という学問に携わる自分たちにとっても現実のテーマであるという視点(過去の経験を検証することによって現在を照射する自己批判的な視点ともいえます)が強く意識されていることに注目しておきたいと思います。そして、本稿のタイトルとしたフレーズを含め、「学問」という営みについて、次の厳しい言葉を与えています。

 「 学問は、忘れてはならないことを忘れるための道具ではない。あるい

  は、忘れてはならないことを無視するための言い訳でもない。忘れ易いこ

  とを忘れないための営みである

   忘れやすいものは何であるか、見落とし易いものはものは何であるか、

  農学が戦争責任のみならず、戦後の説明責任さえ放棄した事実は、やはり

  重い。

 

 本稿で私が書こうとしているは、前記の問題の所在に即したエスキス(素描)ということになります。でも東京農大「報国農場」の具体的なことは新たな知見は別としても基本は《前ブログ》に委ねることとし、その背景事情の方に焦点を当てることにより、《前ブログ》で報告した内容に補助線を入れ、もう少し全体像に近づくための試みだということになります。

  足達太郎、小塩海平、藤原辰史著『農学と戦争 知られざる満洲報国農場』

                  2019年4月刊/岩波書店

 

◈満蒙開拓移民から「満洲報国農場」への道、そして戦後

                 ー「食糧戦争」と総力戦体制ー

 「満洲報国農場」とは、1932年の「満洲国」建国宣言を一つの起点として本格化した満洲農業移民事業、満洲開拓移民政策の延長線上に生じた、行き着いた先にあった、これも一つの国策でした。本項では、満州開拓移民(満洲だけでなく内蒙古を含め「満蒙開拓移民」「満蒙開拓団」とも呼ばれています)の全体的な背景や経緯を確認することで、報国農場との関連性も明らかにしてみたいと思っています。

 満蒙開拓移民事業が、全面戦争へと突入・遂行していく政治・経済体制の推移とどのように関連して進められたのか、その現実はどのようなものであったか、その中で「報国農場」はどう位置づけられるのか、というような問題意識をもって考えてみたいと思います。

 なお、《本書》はこうした歴史的な背景を前提として記述されているわけで(つまり断片的な記述で必ずしもまとまっていません)、ここに記述することは、ネットを中心に接することのできた情報によって私が理解できた範囲を加味しての整理ということになります(だから限界があります)。

 

◉「満洲報国農場」の<悲劇>

 その前に、前項で「満洲報国農場」の<悲劇>と藤原が記している内容を、《前ブログ》とも重なりますが、確認しておきます。

 満洲に東京農大が設置者となった「湖北報国農場」は、1944年に開設されています。戦局の厳しさが明らかになっていた1945年にも、現国際農業開発学科の前身である1938年設立の農業拓殖科の一年生全員が、拓殖訓練実習のために「湖北報国農場」へ派遣されますが、次のとおり多くの犠牲者が出ることになったことを指しています。

 「 満洲に渡航した一年生87名のうち、ソ連軍の侵攻とその後の混乱のなか

  で、じつに53名が死亡または行方不明となった。このほかに、実習の運営

  にかかわった上級生3名と教職員2名が犠牲となった。実習参加学生の死亡

  率は61%となる。」

  東京農大報国農場の月別死亡者数 《本書》54ページ

 こうした悲劇は70以上あった各地の「満洲報国農場」でも生じていたのであり、たとえば、「愛知県海南村報国農場」では、総計91名中57名が犠牲になったとあり(愛知県立農業大学校「農大だより」平成27年8月号)、次のとおり記述されています。

 「 昭和20年8月9日のソ連軍参戦により、報国農場は放棄せざるを得ず、帰

  国するまでの一年間、飢え、冬期の極寒、不衛生な環境、不安と絶望の

  中、まだ年若い隊員達は文字どおり異国を放浪し、次々と病魔に倒れてゆ

  きました。」

 このように逃避行を強いられたのは「報国農場」の少年少女ぱかりではなく、満洲各地の農業移民である日本人たちの多くが、先に逃げた関東軍のあとを苦しみながら逃げていたのです。

 後でも登場しますが、満蒙開拓移民の総数は、青少年義勇軍を含めると32万人といわれたり、27万人とあったりしてはっきりしないところがありますが、その前後であることははっきりとしています。ウィキの「満蒙開拓団」によると、1945年8月のソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、直前7月の「根こそぎ動員」者4万7千人を除くと実数は22万3千人、その大半が老人、女性、子供であったとあります。「男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい」、「その過程で約8万人が死亡した」と(この外「残留孤児、残留婦人」も多く残されました)、『二十世紀満洲歴史辞典』に依拠して書かれています。そして、その死亡原因を、次のとおり記述しています。

 「 主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を

  強制的に取り上げられ生活の基盤を失っていた地元民からの襲撃、前途を

  悲観しての集団自決などの理由である。」

 繰りかえすことになりますが、こうした状況を経験して生還したすでに高齢の元東京農大生に出会い、それまで無知であった小塩海平が話を聞いて心を動かされたところから、《本書》は始まったということになります。

 

◉「満蒙開拓移民」の推進の背景事情

 では、元に戻りましょう。

 今回、目にすることのできた資料のなかで、満洲への農業移民について全体的に把握するために最も参考になったのは、井出恵太郎という方の「満州農業移民事業の展開」2001.1とタイトルされた論文です(なお井出氏のプロフィールは不明)。

 満洲農業移民事業の成立を二つの要因から説明しています。一つは1932年の満洲国の建国(傀儡国家と呼ばれています)により、満洲の支配および対ソ防衛のために人材が必要となり、実質支配者の関東軍はその人材を特に農業移民(屯田兵移民)に求めたということです。もう一つは、1927年の金融恐慌に続く、1929年の世界恐慌の影響が及んだ昭和恐慌によって農村が最も深刻な打撃を受け、農村恐慌が発生し、過剰人口問題が浮き彫りになったということです。この二つの要因が満蒙開拓移民事業に結合していくことになりました。言い方をかえれば、「満洲国の治安維持と国内の農村窮乏対策」という二つの流れから、満洲農業移民が求められていったといえます。

 《本書》でもふれられていますが、農本主義者である加藤完治を中心とするグループはかねてより「日本農村問題の解決の唯一の道は、満蒙の無限の沃野に進出することである」と主張してきており、こうした満蒙植民論者の運動と関東軍の意向が重なり合ったところに満洲農業移民事業の展開が図られたということができます。つまり、井出論文でいうところの「送出国(㊟日本)の供給要因と受け入れ国(満洲国)の需要要因」が一致したことが移民事業の発足につながったというわけです。

 もう一つのターニングポイントとしてよく指摘されていることは、1936年の二・二六事件によって政治の主導権が軍部に移ったこと、特に多額の資金を投じる満洲移民事業に批判的であった高橋是清蔵相が同事件で暗殺されたことです(担当の拓務省内には満洲移民不可能論があった)。これが転換点となって移民事業が本格化することになりました。同年8月に、広田弘毅内閣は「二十ヵ年百万戸送出計画」を策定したのです。

 前記の加藤完治グループのブレーンの一人であった農学者の橋本伝左衛門は、《本書》の第三章で藤原がテーマとした京都大学教授(農業経済)ですが、高橋是清の暗殺に関して「満洲移民事業には高橋さんは大なる障壁」であったけれど、「それで後は移民事業に対する障害がなくなってスラスラ進んできたのである」と、1938年発表の「満洲農業移民の沿革」のなかで述べているのだそうです。

 以上の小括として、《本書》の「序」から、農村恐慌について当時の新聞記事を紹介したあとに続く、次の藤原の文章を引用しておきます。

 「 つまり、満洲国とは、こんな記事が書かれるほど追い詰められた日本農

  業の矛盾の吐き出し口であった。日本から100万戸の農家を送り出し、ま

  ず日本国内の農家の経営面積を広げて生活を安定させ、人口密度の少ない

  満洲国に日本人の人口を増やし、ソ連との国境を防衛するという壮大な実

  験が実行されたのである。こうした一連の動きを満洲移民と呼ぶ。」

 そして、こうして「満蒙開拓移民」が展開されていくという戦前の農業史の一部を「報国農場」が構成していると位置づけています。

 

◉「満蒙開拓移民」の事業展開

 満蒙開拓移民の事業展開について、多くの論者は、試験移民期(1932-36年)、本格移民期(1937-41年)、移民事業崩壊期(1942-45年)の三期に区分しています。

【試験移民期(1932-36年)】

 試験移民期、1932年10月に「試験移民」が開始されます。この時点において、農業移民の主軸は「特別農業移民(屯田兵制移民)」とされており、満州における反満抗日闘争の激化が背景にあったとのことです。

 試験移民期において移民の数は多いとはいえないのが現実であって、5年間の移民数総計は15千人で、ブラジル移民が1933年単年で24千人であったことに比べると、明らかに少ないものでした。しかしながら、それまで東日本の数県の在郷軍人とされていた応募資格が、1934年には全国の一般成人に拡大され、その後の本格展開を準備した時期であったといえます。

【本格移民期(1937-41年)】

 続く本格移民期において、前記の1936年8月の広田内閣の「送出計画」、そして1938年からは「分村移民計画」に基づく移民が開始されました。この分村移民計画は、それまでの海外植民政策から農村経済更生対策の一環と位置づけるものであって、「それまで移民事業に無関心であった農林省のバックアップを取り付け、政府の政策の中心となった」と、井出は評しています。このことは「満洲報国農場」との関連において注意しておく必要があります。 

 つまり、国家総動員の一環として、「各県・各郡・各市町村単位における移民の具体的な動員数および動員方法を具体化・明確化」することができるようになったということです。かくして、移民事業は本格化し、5年間に計43千戸、165千人と試験移民期に比べて大きく増加しました。ここで注意すべきは、1934年にブラジルで新規移民数が大きく制限される動きがあったことであり、このことが満洲移民の増加をプッシュした大きな要因となったようです。

 もちろん、増加した移民数ですが、計画に不足していたという現実もありました。見切り発車的移民により、基準の規模(200、300戸)を大きく下回る「虫食い団」と呼ばれる小規模団が発生していました。それは、日中戦争の拡大に伴って、労働力が戦地や基幹産業に動員されるようになったという背景がありました。こうした事態に対応するために、1938年より、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が開始されることになったのです。16〜19歳の青年を多数満洲に送出し、大量移民国策の遂行を確実容易にするためと目的が定められたとあります。移民事業のテコ入れなのでしょう。

 こうして戦時体制の一環に、つまり総力戦体制の一環に、ますます組み込まれていったということができます。

  満洲移民の実行計画と実績 井出論文より

  満洲開拓移民の年次別入植人員 井出論文より

【移民事業崩壊期(1942-45年)】

 そして、太平洋戦争へ突入して長期戦の様相が予想された時期、移民事業崩壊期は、「移民の応募者が激減し、戦況の悪化に伴って」文言のとおり崩壊していった時期です。

 もちろん国策ですから、旗を降ろすわけにはいきません。移民団の規模を縮小したり、前記の満蒙開拓青少年義勇軍を「義勇隊開拓団」として再編し送出するようになりました。移民事業を国民精神総動員運動の一環と位置づけ、農村だけでなく、企業整理や疎開などで離職したものを移民として送る方策を取り入れる一方、満洲国側では、入植地区を国防上特に重要な地点、特にソ連国境地帯に重点をおくことや、義勇隊開拓団は国防第一線地帯に入植するなどの措置をとったとのことです。

 しかし、1944年になると、国内の労働力枯渇問題はますます深刻化し、満洲移民送出が困難になりました。こうして戦況の悪化に伴う航路の安全性という問題も加わり、政府は満洲移民大量送出計画を断念せざるを得なくなった、そして、崩壊へと向かっていったことになります。

 《本書》の第一章で、満蒙開拓移民事業の変質の過程について、足達は次のとおり記述しています。

 「 満洲への移住政策は、もともと農村の貧困対策としてはじまったものだ

  った。満洲にいけば自分の土地がもて、たべる心配はなくなると宣伝され

  た。しかし、戦況の悪化にともなって、いつしかアメリカ・イギリス・中

  国などとの総力戦体制をささえるための戦略へと変質していった。そんな

  なかで移住先としてとくに重要視されたのが満洲北部(北満)だった。その

  理由は、北満には未墾地が多かったこと、そしてきたるべき対ソ連戦への

  そなえとすることだった。」

  一般開拓団と義勇軍開拓数の入植者数推移 井出論文より

 少し先走りますが、こうした移民事業崩壊期に計画されて実施に移され、《本書》のいうところの<悲劇>を招くことになったのが、いわば「食糧戦争」の遂行を担う農林省がリードした「農業増産報国推進隊」の一部を構成したといえる「満洲報国農場」であったのです。

 《本書》においては、この時期のことを「太平洋戦争が進むにつれて農家戸数が激減するとともに、農村の壮年や青少年が次々と軍需産業に転移し、農村は老人と婦人と子供を残すのみというような状態であった」と表現しています。こうしたなかで国内外の食糧増産ために「年端もいかない少年たちが食糧増産隊として動員され」ました。そして、太平洋戦争の末期に満洲に各県が設けた「報国農場」にはこのような兵役年齢に達していない食糧増産隊の少年、少女たちが多く送られたのです。

 

◉「満洲報国農場」の系譜など

 以上が私の理解した「満洲報国農場」を含む「満蒙開拓移民」の歴史的な背景事情と展開ということになります。ここでは政策(?)としての「満洲報国農場」に関して、『図書』連載では記述されていなかった内容、つまり《前ブログ》ではふれていなかった知見を、《本書》から紹介することで補足しておきます。

 《本書》には、北満に設置された74に及ぶ「満洲報国農場」の数少ない情報(多くが敗戦時に焼却されました)を整理した労作「補章 満洲報国農場とは何だったのかー限られた資料から空白をたどる」が、小塩の手でまとめられていることを特記しておきす。後述との関係で、多数の報国農場のうち、設置主体が東京農大という大学であったケースは唯一であったことを記憶しておきましょう。

 そして、小塩は、「第四章 「食糧戦争」の虚像と実像ー満洲報国農場の系譜と戦後処理」を担当していますが、その記述から「満洲報国農場」の系譜をたどっておくことにします。

 小塩は「報国農場」問題に取り組んでいたとき、「農業報国連盟」という組織の存在意義がよく分からなかったと書いています。つまり、東京農大を除く、他の「満洲報国農場」の経営主体が「農業報国連盟」(「農業報国会」と改称)の関係が多くあったのでこうした疑問をもったけれど、調べると「農業報国連盟は農林省の外郭団体」で経費は全額国庫補助で農林官僚が兼務する組織であり、各府県にも支部をおき、「地方での事業が中央の思うがままに統率的・効果的に行われた」ということが分かったとします。いわゆる「食糧戦争」を遂行していくために、石黒忠篤農林大臣が主導して、1940年に「農業増産報国推進隊」、1941年に「同嚮導隊」、1943年には「食糧増産隊(少年農兵隊)」などが全国規模で創設されましたが、農業報国連盟とは「食糧戦争」を遂行するための参謀本部であり、増産隊などが実働部隊であったといえると、小塩は整理しています。

 そして、訓練組織として、中央訓練が行われた内原(茨城県)の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所や、地方訓練が行われた各府県の修練農場がフル稼働していたとします。本来、これらの施設は満洲への農業移民を推進するためのものであったが、以下の事態に対応するために登場したのが「満洲報国農場」であると、次の文章を続けています。

 「 やがて行き詰まりが生じ、そこに登場したのが満洲報国農場という国策

  であった。満洲報国農場の場長には修練農場長が横滑りしたケースが多

  く、幹部クラスには、農業増産報国推進隊や同嚮導隊の訓練を受けた者が

  充当され、隊員には食糧増産隊の子供たちが多数派遣されたのである。」

 このことは、前記した《本書》の補章でも確かめることができます。

 

 先述の農業増産報国推進隊嚮導隊は、いわば遊撃隊として、全国各地に出動して、「開墾・水田造成・排水路の堀削改修」など多岐にわたる移動作業を行っていました。1942年の「満洲報国農場」として最初の「東寧報国農場」は、この嚮導隊の外地班が派遣されたものだったということです。

 それ以前の1939年から文部省、拓務省そして農林省の三省が共管する満洲建設奉仕隊が開始されていましたが、文部省と拓務省が先行し、農林省が後塵を拝していたのだそうですが、「やがて満洲報国農場が他の勤労奉仕隊を席巻するようになった」のです。

 当時の農林省の担当者の証言から小塩は次のことを読み取っています。

 「 農林省が他省を出し抜くような形で報国農場を成功させたという満足感

  がうかがわれる。極言すれば、満洲報国農場隊は、農林省幹部の意地と思

  いつきによって生み出された制度であるといってもよいだろう。そしてこ

  のような先走りが、大きな悲劇を招来することになったわけである。終戦

  の年、拓務省と文部省が他の満洲勤労奉仕隊の派遣を見送っていたことを

  考えると、農林省の責任は大きいといわざるを得ないであろう。」

 

 また、小塩は、第二章で、戦後東京農大にも深く関わる杉野忠夫という農学者(後述することになります)が、報国農場の発案者であったという事実を知ったことを明らかにしています。杉野は、先に登場した橋本伝左衛門の弟子として京都大学で助教授を務めていたものの、1932年にこれを辞して移民事業の実践に取り組み、1940年から満洲開拓局の参与という役職を担った方ですが、彼の遺稿集に次のことが記されていたのです。再引用します。

 「 昭和15年、満洲国に招かれて開拓政策の企画推進にあたったとき、さっ

  そく、国有未墾地の入植開拓を実現するために、進言したのが報国農場の

  構想であり、各府県に一農場ずつ将来の入植拠点として所管させるほか

  に、各種団体にも分担してもらうことにし、当時、東京農大の拓殖科の特

  別講義に出講していた関係で、東京農大にもその一つを分譲することを満

  洲国側にいて企画したのは私だった。」

 企画段階では「将来の入植拠点」というような位置づけもあったということになりますが、戦争という現実はそれを許しませんでした。少なくとも開拓政策、満蒙開拓移民政策と「報国農場」は深くつながっていたことがよく分かる記述だといえます。

 

 以上が、満蒙開拓移民事業の一部としての「満洲報国農場」ということになります。この項の冒頭で「満洲開拓移民政策の延長線上に生じた、行き着いた先にあった」と評していますが、そのとおりではないでしょうか。

 満洲農業移民の成立は前述のとおり「満洲国の治安維持(支配および対ソ防衛)と国内の農村窮乏対策」という二つの流れが合致して成立したものですが、戦争の長期化と戦局の悪化にともない、重心が前者に傾斜していき、これも前記した「総力戦体制を支えるための戦略へと変質」していったのです。つまり戦争の行方が怪しくなってきた段階になって、通常の移民政策や青少年義勇軍が手詰まりとなり、そんな中で無理やりにひねり出されたのが、国策としての「満洲報国農場」であったのだということができます。

 なお、井出論文には、最後のところで、満洲農業移民について、「「移民」というよりも「植民」であった」と評しています。私も、そのような性格のものではなかったかと思います。

 もとより「報国農場」は開拓や食糧確保という目的は同じであっても、居住する前提の移民ではなく、「4月から収穫まで働き、来年の準備のために一部を冬越し人員を残して帰っていく」というものでした。それでも、以上の系譜を踏まえ、報国農場は満蒙開拓移民事業と一体のものとして、その歴史の一部を構成するものとして、私は理解したいと考えています。

 

 前編の最後に、《本書》の記述から、満洲報国農場について、年度ごとの規模をメモしておくことにします。

   年度   報国農場数   派遣隊員数 (男/女) 

   1942             5                    1029

          1943           18                    2237

          1944           50                    6146 (4536/1610)

          1945           70近く     4591 (2649/1942)               

 1945年8月9日にソ連が侵攻してきたとき、1945年に派遣されていた多人数の少年、少女たちが、ソ連との国境近くの報国農場にいて、突然のことになすすべもなく、冬に向かう流浪の逃避行を強いられ、収容所を転々とするなかで、<悲劇>と直面することになったのです。

 

  満洲報国農場の所在地地図 《本書》より <オレンジ>東京農大湖北報国農場

          <ブルー>東寧報国農場 <イエロー>愛知県海南村報国農場

  同上の所在省別報国農場一覧 《本書》より

 後編では、以上の満蒙開拓移民事業と報国農場との関係も視野に入れつつ、次の課題について、とりわけ農学という問題にもポイントをおいて、《本書》を中心に報告するつもりにしています。

  ◈東京農業大学の系譜と「湖北報国農場」の消去

              ー国策と「農本主義」の結びつきー

  ◈先達としての農学者たちの戦前と戦後

              ー「農本主義」の来し方と行方ー   

 

 こうして作業していると、タイトル「忘れやすいことを忘れないためには」ということに戻ります。今、私のしていることは、後段の「忘れないためには」にまで到達するものではありません。もともと私が無知であった前段の「忘れやすいこと」を確かめる作業であり、つまりふんわりとしか見えていなかったことを少しは見えるようにしたいと思っているだけであるし、それが限界であることにも気づくことになります。今更のようではありますが。

                     【続く:(1)/(2・完)へ】

 

2020.03.17 Tuesday

「しずかな夫婦」の成就とはー編集工房ノア『海鳴り』32号ー

 「気をつけてね」「気をつけましょうね」という、家人への声かけが最近ちょっと真に迫ってきたように感じます。それは家人から私へも同じことです。お互いの外出時や、家人に駅まで車に乗せてもらって別れるときに、必ずと言っていいほど声をかけ合っています。

 これは、どうも二人の老いの深まりとともに、そうなっているみたいです。通常の合言葉というより、すぐそばにつまずいたり、転んだりなどの危険があると思い、その回避を確認しあっている状況なのでしょう。そうなったときのお互いの大変さを、自分の勝手な都合で思っているからでもあります。

 といいながら、新型コロナウイルス感染症の関係で、二人とも外出が激減しています。一斉の休止、自粛の動きが感染拡大の抑制にどれほど寄与しているのか、県内の高齢者施設でクラスター感染が広がるなど、なかなか測ることができませんが、休校中の小中学校で登校日があったりして、次のステージに向けてそれぞれが手探りを始めているのかもしれません。

 

 出版社のPR誌という域を超えて重みのある編集工房ノア『海鳴り』32号(2020年4月1日発行)が届きました。同出版社の創業は1975年で、同じ年に『海鳴り』も創刊されていますから、悠揚迫らぬペースではありますが、近年は年刊的ペースで途絶えることなく刊行されています。

 今号もまた、なんというか、密度の高い読みでのある作品が並んでいます。巻頭の杉山平一の詩「うしろ髪」から、荒井とみよの「多田先生の本棚」、中尾務の「おせわになりました」、山田稔の「ヌーボーの会のこと」、そして最後は社主である涸沢純平の「しずかな夫婦」です。回顧癖・好きを自任する山田稔さんだけでなく、その仕方はさまざまだとしても押しなべて回顧、回想、いわば思い出話の類の文章が続き、その中に批評性が潜んでいます。

 本稿では、天野忠夫人である秀子さんが昨年末に亡くなられたという機会に、天野忠と編集工房ノアとの関係から、詩集『夫婦の肖像』の成り立ち、天野忠と秀子夫人という二人の関係などを回想した涸沢の「しずかな夫婦」を起点として、いっしょにその輪に加わってみることにします。

 編集工房ノアは、天野忠の本を、生前に12冊、没後の2冊を加えて計14冊刊行しています。創業から4年目の1979年に発行した一冊目の詩集『讃め歌抄』を皮切りに(天野69歳、涸沢32歳でした)、次々と出版し、1993年に亡くなるまでの14年間に12冊に達したというわけです。涸沢夫妻だけで営む小出版社にとって、2000年の創業25周年記念会での鶴見俊輔さんの挨拶に「天野忠の本を13冊(㊟没後の詩集『うぐいすの練習』が加わって)出すことによって出版社としての目鼻立ちを持った」とあったとおりなのでしょう。その後の2006年『天野忠 随筆選』を加えると、エッセイ集が6冊と詩集が8冊であり、今回のエッセーで涸沢は「天野忠の本は、編集工房ノアにとって、顔となっている」と記しています。

 なお、当ブログでは、天野忠が中心的に登場する記事を、これまで二編アップしています。

 ◈2017.5.13「40thー天野忠さんにも助けてもらいー

 ◈2017.11.19「出版には勇気が

        ー涸沢純平『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記』ー

  『海鳴り』32号の表紙 2020年4月1日発行/編集工房ノア

 今回の涸沢の文章には、天野忠夫人である秀子さんの享年が100歳だったとあります。天野忠(1909-1993)が84歳で亡くなった年から26年の歳月を一人暮らしされていたそうですから、兵庫県淡路島出身の秀子夫人は夫より10歳年下だったことになります。

 では、どのような方であったのか。編集者である涸沢は、天野さんの近所に住む山田稔(1930-)とともに、京都下鴨北園町93番地の天野忠宅にしばしば顔を出して、天野忠から話をよく聞いていた間柄なのです。でも「すべてがきよめられていた」住まいを作っている奥さんのことを「天野さんがどこから連れてきたのだろうと思われるぐらい、奥ゆかしい」と思っていたくらいで、実はあまりよく知らないままだったことを告白しています。でも、二人でこうではないかと話し合っていたと、次の文章を続けています。

 「 山田稔さんと、すべて奥さんの方が上ではないか、と話し合ったことが

  ある。上というのはおかしいが、すべてを心得ていて、天野さんの詩もわ

  かっているのではないか、場合によっては詩や文章も(かくしているだけ

  で)書けるのではないか、といったことを……。

   実際に山田さんは、そのようなことを聞き、「わたしら、相手にされま

  せんでした。年も離れていましたし」と言われたことを、どこかに書かれ

  ているはずである。」

 

 その山田稔は、自著である『天野さんの傘』(2015年7月刊/編集工房ノア)の表題作「天野さんの傘」(2013-15年頃に書かれたとある)で、秀子夫人についてふれています。山田は天野忠の亡くなったときの香典返しの傘を<天野さんの傘>として愛用していたが、他の方、例えば涸沢への香典返しは傘ではなかったと知ったことから、滑稽な思いちがいではなかったかと、自信がぐらつきはじめます。ついには子息に確認してもらおうとし、子息の妻と秀子夫人が相談して香典返しの品を決めた、傘もその一つであったことを知って、そこから妄想のような思いを巡らすという短編小説の味わいをもつエッセーです。

 そして、この傘はやはり「私への天野さんの贈物なのだ」と信じることにし、最終行は「その傘が年ごとに、月ごとに重みをましてくる」で閉じられています。「自信がぐらつきはじめた」という文章の直前に、秀子夫人について次のとおり表現されていて、うんそうなのかと思ったのです。

 「 涸沢さんの話では、天野さんの奥さんなら相手によって香典返しの品を

  変えることも、考えられぬことではないと言う。

   私は天野夫人の顔を思い浮かべた。痩せた、もの静かな方である。私は

  個人的に親しくはないが、そんな奇抜なことを思いつきそうには見えな

  い。いや、永年あのイケズな詩人と暮らしているうちに鍛えられたのか。

  「死んだ妻はよく眠ったものだ」とか、「五年前に妻は亡くなった」など

  と詩のなかで再三<殺され>ながら、しぶとく今日まで生きてきた方であ

  る。一筋縄ではいかないのかもしれない。」

  山田稔『天野さんの傘』 2015年7月刊/編集工房ノア

 こうした天野忠宅での会話がきっかけとなって生まれたのが、詩集『夫婦の肖像』(1983年9月刊/編集工房ノア)であったと、涸沢は書いています。

 谷川俊太郎選の『祝婚歌』と題するアンソロジー詩集が売れているという話になって、涸沢が天野に「天野さんの、『夫婦の肖像』はどうですか」と勢い込んで提案したのだそうです。そのとき涸沢は「しずかな夫婦」という詩を思い浮かべていたとし、その天野にしては長い詩を、部分的に引用しながら、天野夫妻の肖像、秀子夫人像に軽く焦点を結ぼうとしています(この「しずかな夫婦」の表題をもつ詩は前記の「40thー天野忠にも助けられてー」に全行通しで引用しています)。

 そして、「こういう言い方をしては、天野さんにしかられると思うが、天野さんは片時も奥さんを離さないところがあった」としており、天野79歳のときの大津市民病院での1年に及んだ入院生活に際しても、秀子夫人が片時も離れることなく付き添われたことが記されています。

 この詩と同名である今回の涸沢のエッセー「しずかな夫婦」は、昨年12月29日に秀子夫人の葬儀が鞍馬口の天寧寺で親族のみで行われたとし、次の文章で結ばれています。

 「 「忠室秀和大姉」が戒名。

   「しずかな夫婦」のすべてが折り込まれている。

   私は天野さんの墓にお参りして、

  「中陰が過ぎれば、行かれますよ。もうしばらくお待ちください」

   と報告した。」

 

 涸沢が天野の既刊詩集11冊から選んだ詩をベースにして天野が自選した35編を収録した詩集『夫婦の肖像』は、どういうわけか、私の手元にもあります。天野が還暦になったころの詩であり天野夫妻の歩みの詰まっているみたいな「しずかな夫婦」が最も好きなのですが、<五十歳の夫婦らしく>とある「橋の上で待つ」とか、さらに前の「夜のパン」とかも、落とせない詩です。

 ここでは、<三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。>との詩行をもつ「しずかな夫婦」よりもっと老人となった頃の作品、「二人」と「つもり」を引用しておくことにします。

      二人

  

  小さな借家の

  小さな庭に

  欲張って植えた

  木や草花がいっぱい。

  十本ばかりの竹藪もある。

  夏が来ると

  蚊がきつい。

 

  −−わたしばっかり刺されて

  痒い痒いと

  ばあさんがぼやく。

  しわしわの腕をこすりながら

  ーーわたしの血の方が若いから……

 

  針金のような脛を

  じいさんも

  ニョキッと突き出して見せる。

  −−オレもここを喰われた

 

  物好きな蚊

  ジロリと

  ばあさんは

  横眼で見る。

そして

     つもり

 

  ある夜更け

  じいさんとばあさん二人きりの家に

  ひょっこり息子が様子を見に来た。

  ばあさんはまだ起きていて

  台所の調理用の酒の残りを振る舞った。

  −−ところで と陽気な顔になって

  息子は云った。

  −−ところで ここの夫婦は

    どっちが先に死ぬつもり……

 

  じいさんは次の間に寝ていて

  暗闇の中で眼を開けた。

  ………

  −−おじいちゃんが先き

    ちょっと後から私のつもり……

 

  白い方が多くなった頭をふりながら

  次の朝早く息子は帰った。

  急がしい仕事がたくさん待っているので。

  じいさんは遅い朝めしをたべた。

  おいしそうにお茶漬けを二杯たべた。

 以上の二編は、1983年刊行の詩集『古い動物』に初出しています。いつ書かれたものかわかりませんが、発行年からすると、天野忠が70歳を越えた頃の作品だということになります。

 これも「夫婦の肖像」ということになりますが、これは<三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。>という「しずかな夫婦」なのかという問いを立てなくなりました。もとより現実と虚構を往還する天野の詩法からすると、実像と思い込んでしまうことは正しくありませんが、無関係ではないだろうと思っています。

 

 この詩集『夫婦の肖像』には、富士正晴(1913-1987)が「この詩集の落ち着いた楽しさ」と題するすごいというしかない跋文を寄せています。最終行に「塚原卜伝みたいなこの詩人」と評していますが、涸沢は富士正晴もまた塚原卜伝であり、「二人の塚原卜伝の立ち合いとも思える」と、今回のエッセーで記しています。

 涸沢の引用と重複することをお許しいただいて、ここでも写しておきたい誘惑にかられます。「皮肉と自嘲と平然たるその姿をひるがえして」完結させるその詩は、「冴えかえったエスプリ」といったものと同時に、「微塵もゆらがぬ賢者のおもむき」があり、しかも「老いのユーモアと、いたずらの精神による寛容なサービス」も忘れていないと表現しています。

 だから、「多くの詩に夫婦共演のおもむきが」あって、これを「読む老男、老女のこころをなごませ」、「老人であることの滑稽さと同時に安定した気分を抱かせる」のにちがいないとします。「そのような滋味」を、この詩集は「各所にしたたらせている」と評しています。そのうえで、最後のところで「塚原卜伝」を登場させて、次の締めくくりの文章をおいています。

 「 まことにそ知らぬ顔付でそれをやっていて、別にこれは変ったことでは

  なく、世間普通の夫婦の老いるさまで、努力がいるわけでもなく、大した

  ことではありまへんといっているみたいだ。羨むにも及ばぬであろう。い

  や、なべぶた仕合の塚原卜伝みたいなこの詩人の落ち着きようは羨むに足

  るであろう。やはり。」

 ここでは、天野忠という「塚原卜伝」には、共演する秀子夫人がいつもそばにいたのだということだけを記しておきましょう。

  天野忠詩集『夫婦の肖像』 1983年9月刊/編集工房ノア

 涸沢は、天野忠との14年間の付き合いのなかで、天野夫妻を「しずかな夫婦」と思っていたのかどうか分かりませんが、「しずかな夫婦」の成就とはという問いを立てつつ、最終コーナーといたしましょう。

 この「成就」という言葉は、茨木のり子の「急がなくては」という詩の一行「それがわたくしたちの成就です」から引いています。なお、この短い詩は、当ブログでも引用しています(2019.6.7「いつの間にか6月がー茨木のり子『歳月』ー」の最後のところ)。

 

 山田稔選という『天野 忠随筆選』(2006年10月刊/編集工房ノア)にも登場してもらいます。

 選者である山田は「選者のことば」で、天野忠が詩とエッセイを書くときの違いを訊ねられて「詩は全力疾走、エッセイはジョギング」と答えたことを紹介しています。そして、この本の帯文にも使われている「この「何でもないこと」にひそむ人生の滋味を、平明な言葉で表現し、読む者に感銘を与える、それこそが文の芸、随筆のこつ、何でもないようで、じつは難しいのである」と、天野のエッセイの本質を評しています。

 この山田の考え方は、山田稔の「文の芸」そのものでもありますが、それはさておき、山田が天野の「寸感」と題された興味深い文章を続けて引用していますので、再引用させてもらいます。

 「 詩の中に、何でもなさ、を取り扱うことは大変むつかしい。何故なら、

  何でもなさは、人の関心を呼ばないし、人を「オヤ」と思わせないし、

  従ってホンにすれば誰も読まないからである。上下左右、勿体ない空白の

  中にほんの少しの活字を埋め込む作業の中に勿体より重たい「何でもな

  さ」を沈めることは大変むつかしいことである。しかし世間には、(詩を読

  むという特殊な人の中にさえ)このことは阿呆らしい作業であると思われ

  る。その通りであり、その通りではない。ごく僅かの、天の邪鬼的な存在

  があって、その何でもなさを嗜好する向きもあるのである。その何でもな

  さを、まるで己れの生活という家の大黒柱のようにさえ思い込んで、丁寧

  大事にしている人も居ることは居るのである。」

 山田は、この文章の「詩」を「文」または「散文」と置き換えれば、天野の随筆を考えるうえでなにがしかの参考になるかもしれないと続けています。

 このように思うと、天野忠の詩が1980年代以降、高く評価され、詩としては広く受け容れられたのは、それだけ「天の邪鬼」がいたということでしょうか。私もまたその一人だといってもいいのかもしれません。

 

 さて、寄り道ばかりの本稿を閉じる方向に歩みましょう。

 ここで申し上げておきたかったのは、「しずかな夫婦」という夫婦関係は多義的ではあるけれど、そして、人生の段階においてレベルはいろいろだけれど、結局、夫婦関係が解体するまで未完成であり続けるものだということです。もとより、異論、反論はたやすいものでしょうが、そのようなものだと思っていた方が健全ではないかと言いたくなるのです。

 そして、永遠に未完成である「しずかな夫婦」が片一方の死によって解体されたことで初めて「完成」するものだというより、茨木さんの用いる「成就」という言葉がふさわしいのではなかろうかと感じています。つまりいつまでも「完成」などといえないけれど、そのとき「しずかな夫婦」が「成就」したといえるのではなかろうかと思ったりしています。

 涸沢がエッセー「しずかな夫婦」で回想的に書こうとされたことと関係のないことに言及したことになりそうですが、天野忠の詩と文、そこから立ち上がる夫婦の肖像、「しずかな夫婦」のありようの滋味と滑稽と安定を通して、決まった理想の形などないけれど、私、私たちは励ましをもらうことができると記しておきたかったのです。

 これは私の実感だとおことわりすべきかもしれませんが、つまるところ、「しずかな夫婦」といっても未完成のままで、片一方の死による解体によって、さらにいえば残されたもう片方の死によって、はじめて「成就」するのであろうということです。

 

 前記の『天野忠随筆選』の一遍である「昨日の眺め」から、次の文章を引用して終えることにします。

 「 ばあさんが外出するとき必ず私が「気ィつけてな」と声をかけるのと一

  緒であろうか。ばあさんに外で怪我でもされたらお手上げである。お体裁

  ではなく本心から私はそう言う。 

   Be careful !

    きんさんぎんさんの百年を思えば、まだまだ私達夫婦は未熟であろう。

  先日見たテレビの画面で、きんさんぎんさんがぽつんと呟いている。

   −−うれしいような

     かなしいようなーー

   百年間を生き抜いてきても、つまるところはそんなところかと感じさせ

  られる。「わかるような、わからんような」気もする。」

  山田稔選『天野忠随筆選』 2006年10月刊/編集工房ノア

【付録】

 久しぶりに寒かった昨日、喜瀬川沿いで撮影した白い花(モクレンの系統でしょう)の写真をアップしておきます。

  ハクモクレン?の花満開(播磨町喜瀬川沿い) [2020.3.16撮影] 

 

 

2020.02.29 Saturday

ルツェルナ宮殿のパサージュー『力なき者たちの力』の助走としてー

 この小さい本をどう紹介したらいいのだろうと迷っている間に、2週間ほどが過ぎてしまいました。ヴァ―ツラフ・ハヴェルの『力なき者たちの力』(阿部賢一訳/2019年8月刊/人文書院)です。

 昨年のうちにめずらしく新刊で購入していたのですが、パラパラとページをめくると簡単な理解を拒むような悩ましい文章が続き、机の脇に積んでいました。今月、同書を翻訳した阿部賢一さんが講師となってNHK・Eテレの「100分で名著」でとりあげられると知って読みました。もちろん4回にわたるテレビもみました。そして、この小冊子が、時間においても空間においても、長く広い射程をもった論考であり、したがって現代の日本を、世界を、何より私たち一人ひとりを鋭くうつものだと理解できましたが、そうだからこそなかなか書き出すことができません。

 1978年に地下出版された同書が、42年後の今の日本を含め世界中で同時進行している事態をおそろしい深度で解読しているようにさえ感じるところを、どう言葉にすればいいのか、もう少し考えてみることにしたいのです。

  ヴァ―ツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 [2020.2.3「100分で名著」で撮影]

 余禄もありました。阿部さんが同書への解説に寄せた一文が私のたった1回のプラハ観光体験を呼び起こしてくれたのです。とりあえず本稿ではそのことをメモしておくことにします。

 加えて、テレビつながりでもあるのですが、後押ししてくれた別の事情がありました。当ブログを読んでくださる方は多くないなかで、今月、最多のアクセス数を記録したのが、「ここにしか存在しないとはープラハのキュビズム建築ー」という記事でした。それは今月20日にNHK総合で放送された『世界は欲しいモノにあふれている』「チェコ&ドイツ 中欧!幻のアンティークを探す旅」でキュビズムデザインの家具や建築が紹介されたことに関係しているものと推測できました。こうして連続してチェコ、プラハに再会できたような気持ちになったのです。

 前記の阿部さんの一文とは、本書の著者であるヴァ―ツラフ・ハヴェル(1936-2011)の同姓同名の祖父(1861-1921)が、「プラハの中心部にあるヴァ―ツラフ広場の中腹に、ルツェルナ宮殿」という「プラハを代表する複合施設」を建設したという内容です。祖父ハヴェルは、貧しい環境の出自であったものの、その勤勉な性格により、プラハを代表する名家となる財産を一代で築いたと説明されていました。 

 これを読んで、私はああやっぱりあれだと驚いたのです。私自身、ふとした偶然から、私の旅の本で紹介されていなかったルツェルナ宮殿のパサージュに入り込んで、すっかり魅了されたという経験があったからです。 

 ですから、このルツェルナ宮殿のパサージュを、2013年7月に撮影した写真で紹介させてもらいたいのですが、その前に、次稿以降に向け、助走にならない助走をしておくことにします。

 

 「100分で名著」の第1回(2月3日放送)は「『嘘の生』からなる全体主義」とのタイトルでした。

 番組の最後の方で、番組MCの伊集院光さんから、東京オリンピックについて次のような趣旨の言葉がとび出して、「勇気ある発言」と話題になりました。

 「 俺ね、これ言うの、勇気がいるんだけどさ。/東京オリンピックって本当

  にいるのかなって、まだ「いだてん」見終わっても思ってるんだよね。/い

  や、今更言ってもって、ちょっと思うわけ。止まんないしっていう。」

 そして、伊集院さんは、「今日、勇気いるねえ、何か。テレビに出るにあたって」とくり返しつつ、「でも、そういうことを突きつけてくる本なんだっていうのは、ちょっと分かってきましたかね」と語っていました。

 

 この本とは、もちろん『力なき者たちの力』のことです。伊集院発言の背景や真意は、同書をきちんと説明しないと分かりませんが、次稿以降に委ねることにして、ここでは、NHKのサイトにある「プロデューサーAのおもわく」からの引用でふわっと感じていただけるにとどめましょう。ハヴェルの言う「ポスト全体主義」を、プロデューサーAは、次のとおり読み解いています。

 「 ハヴェルによれば、全体主義は、消費社会の価値観と緊密に結びつく形

  で「ポスト全体主義」という新たな段階を迎えたといいます。強圧的な独

  裁ではなく、「精神的・倫理的な高潔さと引き換えに、物質的な安定を犠

  牲にしたくない」という人々の欲望につけこむ形で、高度な監視システム

  と個人の生を複雑に縛るルールをいきわたらせる社会体制、そこでは、市

  民たちは、相互監視と忖度によって互いに従順となるように手を差し延べ

  あっています。」

 そして、現代の世界とのつながりについて、次の文章を記しています。

 「 (講師である)阿部賢一さんは、現代こそ『力なき者たちの力』を読み直

  す意味があるといいます。豊かな消費社会を享受しながらも、IT技術によ

  る高度な情報統制や、個人生活の監視が巧みに強化されつつある現代社会

  は、たやすく「ポスト全体主義」体制に取りこまれていく可能性があると

  いいます。番組では、この著作を現代の視点から読み解くことで、世界を

  席巻しつつある高度な管理社会・監視社会や強権的な政治手法とどう向き

  合ったらよいかを学ぶとともに、全体主義に巻き込まれないためには何が

  必要かという普遍的な問題を考えていきます。」

 こうしてハヴェルが「ポスト全体主義体制」と呼ぶ権力社会のもとで、かつてのチェコスロヴァキア市民が、今を生きる私たちが、「体制から要求されていることを盲目的に行ってしまうこと」を、ハヴェルは「オートマティズム」自発的な動きだと表現しています。これは人々の暮らしと体制側が求めることの亀裂を隠してくれるのであって、それがタイトルの「嘘の生」なのだというのです。このことは生の本質、いわば「真実の生」との間に亀裂を生じさせずにはおれないわけです。

 番組では、こうしたシステムを、今の私たちに響きやすい「忖度する」「空気を読む」あるいは「同調圧力」という聞きなれた言葉を使って、阿部さんは説明していました。「みんなやっているから」という理由で、人々は流れに従うようになる、こうして日常の風景が作られていく、「ゲーム」を受け入れるようになるというわけです。だから、「本当のことがあった」としても、それは言えなくなってしまういう状況が連鎖していくことになります。

 これでは不十分、粗雑と申し上げるしかありませんが、こうした前提があって、とび出したのが、前記の伊集院さんの発言だったのです。このオリンピック発言の前段では、「自主規制」的な雰囲気のなかで、テレビバラエティで政治的な発言をしてはいけないとかが醸成されていることについても、伊集院さんは指摘していました。

 そして、阿部さんは、次のような発言で第1回を締めくくっていました。

 「 同調圧力って見えないじゃないですか。だからそういうのをみんなが

  やってしまうのは、非常におそろしいことで、それがもうどんどん嘘の上

  塗りになっていくというところですよね。良心の気付きはどこかにあるは

  ずなんですよね。少なくとも異論を、違う意見を聞ける場あるいは発言で

  きる場があるかないかが大事だと思います。」

  100分で名著「『力なき者たちの力』第1回 嘘の生』からなる全体主義」[2020.2.3放送]

  上記の番組内でオリンピック発言する伊集院光

 もう少しだけ助走を続けます。

 2月24日放送の第4回は「言葉の力」でした。戯曲家だったハヴェルは、1978年の『力なき者たちの力』から10年余、1989年のビロード革命の立役者の一人となりました。そして、チェコスロヴァキアの大統領となり、スロヴァキアの分離独立後のチェコにおいても大統領に2期10年選ばれました。

 阿部さんは、政治家ハヴェルについて批判があることにもふれつつ、「彼が大統領になって初めてしたことは嘘をつかなかった」ことだと、1989年12月29日に大統領に就任し、翌1990年1月1日の国民に向けたあいさつの冒頭を紹介していました。

 「 親愛なる市民の皆様。

   みなさんは四十年というもの、この日に私の前任者の口からいろいろ

  違った形で同じことをきかされてきました。いかにわが国が発展している

  か、われわれが何百万トンの鋼鉄を増産したか、われわれがいかに幸福で

  あり、いかに自分の政府を信じ、どのような素晴らしい前途がわれわれの

  前に拓けているかをきかされてきました。

   みなさんが私にこの職務につくように提案されたのは、私もまた嘘をつ

  くようにというためではないと信じます。

   わが国土は繁栄していません。」

 政治家が嘘をつかないことは、おそらくとても難しいことだと、阿部さんは言及しつつ、ハヴェルが「言葉が奇蹟となりうるような力をもたらす一方、偽りともなるという二面性を有している」ことを強調していると注意を喚起します。彼の警句「言葉とは神秘的な、多義性をもつ、両面的価値のある、いつわり多き現象である」を紹介しています。 

 そして、現実の世界、「ポスト全体主義体制」「新しい形の全体主義体制」において、言葉が「嘘にまみれたもの」になっていることを、私たちに想起させていきます。「嘘の中で生きる羽目」になる現実を、とりわけ権力の現実を、同書から部分的に切り出して引用することの危険性を承知しつつも、引用しておきます。

 「 権力はみずからの嘘に囚われており、そのため、すべてを偽造しなけれ

  ばならない。過去を偽造する。現在を偽造し、未来を偽造する。統計資料

  を偽造する。全能の力などないと偽り、何でもできる警察組織などないと

  偽る。人権を尊重していると偽る。誰も迫害していないと偽る。何も恐れ

  ていないと偽る。何も偽っていないと偽る。」(同書20p)

 番組の終わりに、伊集院さんは、講師である阿部さんの「自分の文脈に置き換えてみたらどうなのかということを考えてみる」ことの大切さというラストメッセージに応えるように、『力なき者たちの力』を通じた自らの感想を次のとおり語っています。

 「 この4回の放送で、僕が一番引っ掛かってもやもやしたところは、空気

  を読むのはいいことなの、悪いことなのってところは、ずっと考えていた

  んですね。でも4夜やって、僕の行き着いた答えは、空気を読むなら、そ

  のつどそのつど自動的にじゃなくて徹底的に読もうと、その辺りはずっと

  考えてるかもしれないです。//ちょっと立ち止まって、自分の文脈に引き

  付けて考えてみると、自分の違う「生」の在り方というのが見えてくるか

  もしないかなと思っています。」

  100分で名著「『力なき者たちの力』第4回言葉の力」 [2020.2.20放送]

  講師である阿部賢一東京大准教授

 前記の『力なき者たちの力』からの引用文が、私たちの目の前にある現実と深く切り結んでいることを、私は痛いほど感じています。いわずがもがなといわれれば、そうなのですが、この数年に現政権で起きてきた「嘘」の連鎖という事実を思い返していただきたいのです。

 内田樹さんは、彼一流のレトリックを用いて、いくら「嘘」を指摘されても「自分の知性が健全に機能していないことを「切り札」にしている人間を「理詰め」で落とすことはできない」という「愚者の戦略」が、つまり「論理的に思考できないふり、日本語がわからないふり」をしてみせることが「これまでのところ成功している」と評しています。そして、次の言葉を投げています(『内田達樹の研究室』「桜を見る会再論」)。

 「 この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人

  間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないか

  ら、生き方として「損だ」と思う人が出て来るだろう。

   いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」

  になっているかもしれない。」

 いささか皮肉がきついようですが、ハヴェルの言葉の二面性の一極を、つまり「偽り」の言葉の饗宴を、私たちは毎日見せつけられています。そして、嫌気がさして、無関心をよそおう人たちが、私だけでなく、いることでしょう。こんな政権が、新型肺炎への対応をリードすることに心底冷え冷えとした恐怖を感じています。

 自らを省みて「力なき者たちの祈り」へと傾きがちな私ですが、もうちょっと『力なき者たちの力』を読み解くチャレンジを続けてみて、文章化できることを念じています。

 

 さて、やっとプラハのヴァ―ツラフ広場に戻ってきました。

 プラハには、ブダペスト、ウィーンに続き、チェスキークルムロフを経由してツアー5日目の夕刻に入りました。マサリク駅近くのホテルに2泊してから、ツアー一行と別れ、プラハ3日目の午前中にヴァ―ツラフ広場に面した国立博物館近くのホテルに移動し3泊しました。すなわち2013年7月に、関西の空気との違いに驚きつつ冷涼な夏のプラハで5泊できたのです。7月のプラハは日照時間が長く、夜は9時でもまだ薄明るく、朝は5時台から歩きまわることができました。

  早朝のヴァ―ツラフ広場 [2013.7.14撮影]

 ルツェルナ宮殿パサージュに足を踏み入れたのは偶然のことでした。当時のSDカードから足取りを確かめてみました。プラハ4日目の朝早く、いつものように一人でヴァ―ツラフ広場のホテルを出て、ヴォルタヴァ川沿いのダンシングビルまで行き、マサリク河岸に沿って北上し、ツアーで渡ったカレル橋を往復してから、旧市街広場を通り抜け、微妙な曲線をもつ狭い路地を歩いていくと、急に視界が広がりました。ヴァ―ツラフ広場の北端です。

 これで確実にホテルに戻れると安心したのでしょう。ぶらぶらしながらホテルに向かっていたら、トラムのターミナル近くに、いかにもアール・ヌーボー風の庇屋根をもつ入り口が開いていて、のぞくと照明された通路があるので入ってみたというのが、ルツェルナ宮殿のパサージュだったというわけです。

 そのときは、ルツェルナ宮殿のパサージュであると知りませんでしたし、手持ちのガイドブックにも載っていなくて、帰るまで具体の名称は分からないままだったと記憶しています。パサージュには、両側に店舗が並んでいますが、まだ開いているところはありません。観光客らしき人はいなくて、後でふり返ると通り抜けのために使っていたであろう少数のプラハ市民(近道でもあるのか)とすれ違っただけでした。

 そして、ドーム型のガラス天井の下に、こりゃなんだというべき逆さの馬に跨った騎士像が吊るされた不思議な空間に出たのです。階段があってその上に「KINO LUCERNA」と表示されていて、近くに映画館らしき入り口がありました。この空間と通路にびっくりしましたし、すっかり魅了されもしました。

 意匠デザインというのでしょうか、それは鈍く光る金属とガラスを多用した素材感、黄色味の強い球形や半球型の照明、格子縞の床をもつ通路、本屋のカラフルでスタイリッシュなショーウインドー、なんという優雅な空間なんだと、プラハの底力にすっかりうれしくなったことを覚えています。

 帰ってすぐに作成した旅の写真帳には、「これはすごい凝りよう」という文言が記されていました。

  ルツェルナ宮殿のパサージュへと誘ったアール・ヌーボー風の庇屋根[2013.7.14撮影]

  ルツェルナ宮殿のパサージュ内部

  同上の本屋のショーウインドー

  同上

  パサージュを通り抜けて出てきたところ

 短期の観光旅行では、ガイドブックに載っている施設を点で結ぶように歩くことになります。だから、こんな偶然の出会いは格別です。ホテルに戻り、勢い込んで、家人にこの奇妙で優雅なパサージュのことを話したのでしょう。

 SDカードを見直すと、その4日目はホテルに戻り朝食のあと、トラムに乗る前に二人で確かめに行き、戻ってきて夕食前に不思議空間の階上にあるカフェに立ち寄っています。帰る前日の5日目にも、そのカフェに立ち寄り、パサージュ内のショップで前年に生まれた初めての孫に何かを買ったり、おみやげのチョコレートを買ったりもしました。飛行機に乗らなければならない6日目にも、早朝街歩きの最後にパサージュを通り抜けてホテルに戻ったようで、私自身は6回ほどルツェルナ宮殿のパサージュに足を運んだことになります。

 前述したように、この複合文化施設を中核とするルツェルナ宮殿は、ヴァ―ツラフ・ハヴェルの祖父が中心となって1907年から建設をスタートし、1921年に完成したものだそうです。このヴァ―ツラフ広場の一角は、東京でいえば、銀座の和光にも相当する街の中心地といえます(「トラムに乗ってー旅の写真からー」)。そんな場所に日本の大正期に建設されたビルが現役で活躍中で、どっこい生きているところが建築博覧都市プラハたる由縁なのでしょう。

 あの彫刻は1965年生まれの彫刻家ダヴィッド・チェルニーの「逆さのヴァ―ツラフ像」というらしく、最初に展示を予定していた中央郵便局で断られ、今はこの空間に置かれた、吊るされた、いわくつきの彫刻作品なのだそうです。今から思うと、ヴァ―ツラフ広場の南端から広場を睥睨する「聖ヴァ―ツラフ像」のパロディだったのかもしれません。そんな現代彫刻ともつゆ知らずにルツェルナ宮殿の建設時に最初からここに吊るしてあったように思っていたのですから、我ながらと申し上げるしかありません。かくもプラハはふところが深いといえるでしょう。

 昼間に訪ねると、有名な観光スポット(日本のガイドブックの遅さよ)となっているのか、たくさんの観光客が見上げるような姿勢で上方へレンズを向けて写真を撮っていました。

  パサージュ内 ダヴィッド・チェルニー「逆さのヴァ―ツラフ像」

  多くの観光客が撮影していた

  プラハで最古の映画館「KINO LUCERNA」のサイン

  祖父ヴァ―ツラフ・ハヴェル像

 上記の写真にある階段を、正面に鎮座する祖父ヴァーツラフ・ハヴェル像(その時は全く知りませんでした)を目にしつつ上り、左へさらに上ると「カフェ ルツェルナ」です。ここには前記したとおり二度ばかり訪ねたのですが、どうしてかピンボケ写真ばかりなのです。コーヒーを飲んだのでしょうが、味云々の記憶は残っていません。

 パサージュ同様、まあ趣のある古きよき雰囲気というところでした。

  「カフェ ルツェルナ」の内部

  「カフェ ルツェルナ」のメニュー表紙

 「ルツェルナ宮殿」とくり返していますが、建物の全容がわかっているわけではありません。ルツェルナ宮殿のパサージュだという写真は残っていても、ビルディングの全体を撮影したものはなさそうで、これが一部なのかなという写真が残っているだけです。下記の写真を拡大してもらうと、右下辺りに「LUCERNA」という文字が写っていてそう思っているだけなのです。

 来週から京都国立近代博物館で始まる予定だった展覧会に「チェコ・デザイン 100年の旅」(3/6-5/10)があります(2/29-3/16 臨時休館中)。キュビズムは1910年代のパリ発祥の絵画がメインの運動でしたが、チェコはそれをデザインの分野に広げ、家具などの生活用品から建築に至るまで独自の展開をみせたところなのです。そして、だから「キュビズム建築」と呼ばれる建築様式は、チェコでしか具体化しませんでした。

 このキュビズム建築とちょうど時期の重なるルツェルナ宮殿とその内部デザインがどのような様式に分類されるのかわかりませんし、明確な記述に出会っていませんが、いわゆるアール・ヌーボー、キュビズム、アール・デコの影響が混在しているのでしょう。丁寧に作りこまれた空間は、やはりチェコデザインの集積、美の集積として、その場に身をおいた私をワクワクさせてくれたのです。

 冬の長く厳しいプラハですから、こんなパサージュ、迷路的アーケード街がつくられたのは自然な成り行きだったかもしれませんし、パリの模倣といった面があったのかもしれません。20世紀初頭のプラハが都市の臍として、新市街に文化施設と商業施設の集まる拠点を、いわば文化運動の拠点を意識的にこのような形で建設したものと理解したいと思っています。

 相変わらずの偏ったレトロ趣味といわれればそのとおりなのですが、歴史的な眼をもたない私のような者に、強い印象と関心を残してくれたことに、感謝しています。

  ルツェルナ宮殿の一部と思われる外観

  どこかデザインがキュビズム的

  パサージュ内の子供用品の店 金属の使い方に特徴

 1989年11月から12月にかけて、いわゆるビロード革命と呼ばれた時期に、この長さ750m、幅60mのヴァ―ツラフ広場には、百万人もの市民がつめかけたとあります。

 それから30年、世界は、そして人間はどう動いてきたのか、どう動いているのか、この押し寄せるシステムを前に私たち一人一人はどう「真実の生」に向き合おうとするのかについて、『力なき者たちの力』の<言葉の力>を借りて、力なき者の一人として考えてみたいと思っています。

  帰途につく早朝のヴァ―ツラフ広場 [2013.7.16撮影]

  「聖ヴァ―ツラフ像」からヴァ―ツラフ広場をのぞんだところ [2013.7.15撮影]

 以上のことを書いてきて、この1989年は、今更のように分岐点であったと再確認しています。『力なき者たちの力』という名著の予言性に驚いたのですが、追記として、まさしく同じ1989年に発表された井上陽水の「最後のニュース」の言葉に注目して、ひとまず本稿を閉じることにします。

 「最後のニュース」は1989年10月に放送が開始された報道番組『筑紫哲也 NEWS23』のエンディンクテーマ曲として井上陽水が作詞作曲しました。2012年のユーチューブとリンクを貼っておきますが、併せて歌詞も引用しますので、その予言性(特に2番と3番)を味わってみていただければと思います。

         最後のニュース

 

 闇に沈む月の裏の顔をあばき

 青い砂や石をどこへ運び去ったの

 忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れ

 みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

 

 飛行船が赤く空に燃え上がって

 のどかだった空はあれが最後だったの

 地球上に人があふれだして

 海の先の先へこぼれ落ちてしまうの

 

 今 あなたにGood-Night

 ただ あなたにG00d-Bye

 

 暑い国の象や広い海の鯨

 滅びゆくかどうか誰が調べるの

 原子力と水と石油達の為に

 私達は何をしてあげられるの

 

 薬漬けにされて治るあてをなくし

 痩せた体合わせどんな恋をしているの

 地球上のサンソ、チッソ、フロンガスは

 森の花の園にどんな風を送ってるの

 

 今 あなたにGood-Night

 ただ あなたにGood-Bye

 

 機関銃の弾を体中に巻いて

 ケモノ達の中で誰に手紙を書いているの

 眠りかけた男達の夢の外で

 目覚めかけた女達は何を夢見るの

 

 親の愛を知らぬ子供達の歌を

 声のしない歌を誰が聞いてくれるの

 世界中の国の人と愛と金が

 入り乱れていつか混ざりあえるの

 

 今 あなたにGood-Night

 ただ あなたにGood-Bye

 

2020.01.28 Tuesday

「遠回りが意外と大事」ー佐伯泰英『惜櫟荘の四季』ー

 最近は例年のことになっているのでしょうか。まだ1月だというのに、大中遺跡公園の梅の花が咲き始めてから10日くらいになります。ウメの咲く時期を、新明解は「早春に」、ウィキペディアは「2月から4月にかけて」とあります。九州の太宰府天満宮の梅まつりは1月下旬から始まるそうですが、関西では北野天満宮をはじめ「1月から」と表記された梅まつりは見つかりません。

 ウォーキングされているご同輩の皆様が、真冬に咲き出した梅の花をスマホで撮影している姿が目立ちます。私たちは21世紀になってからのそら恐ろしい気候変動を実感しているはずですが、エネルギー多消費のエアコンはその実感から棘を抜き糊塗してしまっています。恥じなければなりません。

  大中遺跡公園の梅林 [2020.1.25撮影]

  梅の花(大中遺跡公園) [同上]

 

 こんなに四季の怪しくなった昨今ですが、岩波現代文庫から『惜檪荘だより』(以下《だより》と略)に続く第二弾として佐伯泰英さんの『惜檪荘の四季』が昨年末に刊行されました。当ブログでは昨年3月18日付で「「文庫が建て、文庫が守った」ー佐伯泰英『惜檪荘だより』ー」をアップしていますが、その続編となる今回の『惜檪荘の四季』(以下《四季》と略)についても紹介してみることにします。

 熱海の崖地に吉田五十八の設計で岩波書店の創業者である岩波茂雄の別邸として1941年に建てられたのが、「惜檪荘(せきれきそう)」です。それから60数年を経て、この近代数寄屋の名建築とされる岩波別邸を手放すことになったと近隣住民たちに連絡があったとき、崖地の隣接地に2003年から仕事場をもっていた佐伯泰英はすぐに行動に移し、2008年に全部を譲り受けました。そして、完全修復を決意し、修復のための設計図の作成から始め、修復工事に着手し、2011年6月に完成に至ったのです。こんな諸々のエピソードを書きとめたのが前著である《だより》です。

 

 両書とも岩波の月刊PR誌『図書』に足かけ9年余にわたり連載されたエッセーが単行本として「岩波現代文庫」に収められたものです。前著の《だより》の方が、2010年5月号から2年間にわたって毎月連載されたされたものであるのに対し、続編である《四季》の方は、3ヵ月に1回のペースで2012年10月号から2019年7月号までの28回分がまとめられています。ですから、連載の期間としては、続編の方がずっと長期だったことになります。

 また内容においても、前著が、同時進行する惜檪荘の修復保存工事がメインとなっていたのに対し(もちろん他のテーマも散見されますが)、本書は、どちらかといえば惜檪荘関係は後景に回り、過去に関りをもった人や仕事のこと、国内外への旅のこと、あるいは今の作家活動と文庫本の行方ことなど多岐にわたっています。前著《だより》には名建築の完全修復の記録という緊張度の高さが強く感じられましたが、本書《四季》は自在に身辺と人生を回想する趣きのエッセーらしいエッセーということになるでしょうか。

 だから、というのはおかしいですが、私の紹介も、佐伯さんの言葉に反応した部分を、つまり自分の興味を引いたところをつまみ食い、拾い読みするように書かせていただくことにします。

 

 ちょっとタイトルを説明しておきます。

 前稿の「文庫が建て、文庫が守った」は前著《だより》の帯文からのものです。修復工事の落成式での佐伯泰英の「惜檪荘は岩波文庫で建てられ、70年後、書き下ろし文庫で守られた建物でございます」との挨拶から採られたもののようです。「文庫書き下ろし時代小説」というスタイルで「180余冊の文庫と4千万部」(2012年時点で)という夢のような数字を得た佐伯泰英本の印税が「惜檪荘の買い取りと修復工事」の原資となったことを表現するものでした。

 一方、今回の「遠回りが意外と大事」は、本書《四季》の最終回の最後のところで、佐伯泰英が月並みだがとことわりつつ、ただ今の実感として、「人生って不思議」に続いて記している言葉です。ノンフィクション、冒険小説、ミステリー作家と初版止まりの売れない作家で転々としてきて(その前には実写制作の撮影や写真家として活動していた)、出版不況を迎える中で、57歳の佐伯が時代小説の「文庫書き下ろし」という新出版形態にたどり着き、作家として生かされることになったという人生の経路を集約した感慨だといえます。

  佐伯泰英『惜檪荘の四季』 2019.11.15刊/岩波現代文庫

 

🔹その後の惜檪荘

 本書《四季》には、前著《だより》に比べて少ないとはいえ、2011年6月に修復が完成した惜檪荘のその後のことが書かれています(なお惜檪荘が建築される経緯や、惜檪荘番人と自称する佐伯泰英の完全修復保存工事については、当ブログの前稿をお読みいただければと思います)。

 その後の惜檪荘は、前稿の最後のところで引用した2018年4月23日付の日本経済新聞に寄稿した佐伯泰英の一文「数寄屋建築の名手吉田五十八が建てた小家は、あっぱれと叫びたくなるほど金食い虫だ」が本当にそのとおりなのだなと納得させられたのです。修復工事が完成した後も、2012年からの二期工事(二段に分かれた崖地である惜檪荘の敷地の連絡を改良するための石段等の工事)、2015年の大量発生した土手の地蜂であるシロスジハナバチへの諸対策、同年から翌年にかけてのリシン掻き落としの外壁工事、2016年の玄関前庭の作庭工事、そして3年がかりで2017年に完成した新伊豆119号泉の替掘工事(老朽化した旧12号泉の5m西に新源泉を掘り替えるという大工事)と続きます。

 そして、これからも続いていくことでしょう。

 

 「五十八めぐり」とタイトルされた項で、2015年に佐伯は吉田五十八の手がけた建物を、近くの御殿場にある東山旧岸邸をはじめ、20数年ぶりに京都へ足をのばして見学に出かけています。その中に京都「岡崎つる家」があって、大女将などと「吉田五十八の建物を維持していく苦労」を語り合い、「やっぱり」と共感するところが大きかったと述べています。

 岡崎つる家は、大阪の実業家の別邸をもとに吉田五十八が大改装を担当した世界中から賓客が訪れるような料亭です。五十八、70歳円熟期の設計で「建築家人生の集大成といっていい建物だ」とし、佐伯は建坪30坪の惜檪荘との異同について次のとおり印象を書きとめています。

 「 大壁、違い棚、床の間の造りに五十八の雰囲気を見たが、惜檪荘とは比

  較にならないほどの圧倒的なスケールで迫ってくる。一番の見物は二階の

  月の間に迫り出してくる舞台機構だ。」

 こんな吉田五十八の近代数寄屋建築を「保存していく大変さは持ち主ではないと分からない」と、佐伯は次のように説明を加えています。

 「 建物は人が住んでなんぼ、使ってこそ味が出る。だが、使えば傷む。吉

  田数寄屋の特徴は、複雑な普請をそうは見せないシンプルさにある。ゆえ

  に維持保存、手を入れるタイミングが難しい。

   どの時点でどう手を入れるか見極めるのは「主」しか出来ない。未だ番

  人の身分から抜けない私などその域に達しないが、岡崎つる家を大切に守

  り続ける出崎家の苦労は察することができる。」

 こうして吉田数寄屋を守り続けることの大変さについて共感した佐伯は、「五十八めぐり」を次の文で結んでいます。

 「 誤解を恐れずに言うならば、五十八が残した遺産の継続は持ち主が身銭

  を切って保持していくしかないかと思う。繊細な木造建築はそうやって守

  られるのだろう。」

 繊細な木造建築を守ろうとすれば、所有者である「主」が身銭を切って守っていくしかないと、確かに誤解を招きそうな書き方をしています。

 本当に佐伯はこう本気で考えているのか、そうであろうというべきでしょう。<繊細な木造の建物>を維持保存していくためには、このくらいの強い思い入れをもった「主」のような人、それは一人ではないのでしょうが、そんな人間がいなければなかなか十二分な対応ができないのだと言いたいのでしょう。もとよりそれが可能となる財力を含めての話しですが、佐伯はそれだけではないのだと考えていると、私はそう理解しておきたいと思っています。

 

 佐伯泰英、1942年生まれで、現在77歳。前記の日経新聞では「金食い虫の建物をどう後世に伝えていくか、惜檪荘番人に残された課題である」と述べていますが、その後、その方法は決まったのでしょうか、本書《四季》には、このことを決めたというような文章はありません。

 前著《だより》のあとがきに記された「差し当たって私が存命している間は惜檪荘を利用しつつ守っていくしかないかと思っている」という状況が続いているのではないかと想像しています。

 

🔹海外への旅と公正遺言証書

 時代小説の「文庫書き下ろし」を「月刊佐伯」と異名をとるほどのハイペースで作品を発表してきた佐伯ですが、職人作家と自ら言うその日々は正月も盆もなく休みなしに書き続けることから成り立ちます(吉永みち子とのインタビュー(2012.12)記事には「朝4時から机に向かって午前中いっぱい書く」とあります)。

 それでも惜檪荘の修復工事が一段落してからは、遅い夏休みを11月にとって、海外への旅に出かけています。本書《四季》には、2012年インド、2014年スリランカ、2015年テロ直後のパリ、2017年ベトナム、そして2017年の南イタリア、それぞれの旅が書きとめられています。

 佐伯の筆力のせいもあって、また私たち夫婦も同時期に海外への旅を楽しんでいたこともあって、余計に興味深く読めたのです。

 

 佐伯の旅は、ほぼ1年にわたって書き続けることのできた日々へ感謝し、一区切りを付けて、次の1年へと歩み出すためのインターバルなのでしょう。

 どうもいわゆる名所旧跡寺社仏閣を訪ねる観光はあまりお好みではないらしく、「私どもは由緒ある場所にはなるべく足を向けない」とします。「ただ目的地もなく歩く。疲れたら第六感で決めたカフェに入り、地元ビールかカフェを頼み、ドッグ・ウォッチングをなす」と書いています。また別の個所では「私流の旅は、市場・雑踏・路地巡り、朝日に落日見物」なんだとも記しています。

 

 ここでは、本書で最後に記載された南イタリアへの旅についてふれてみることにします。イタリアにこれまで10回は訪れているという佐伯ですが、南イタリアは初めてで、彼にしては長旅をしています。宿泊した地名では、ナポリ、そして船でシチリア島にわたり、パレルモ、シラクーサ、カターニアとめぐり、パレルモからシラクーサへの自動車移動の途中にはアグリジェント、エンナにも立ち寄っています。

 佐伯父娘の旅日記エッセーを私が楽しめたのは、ちょうど前年の2016年に、今からふり返ると、私たちにとって最後の海外旅行となっていますが、似たような経路でそれも同じような日数の旅をしていたことも関係しています。私たちの方は、まずパレルモに入り、シラクーサ、タオルミーナ、そして空路でナポリへと周遊しました。その旅行記のようなものは、当ブログで『歩く喜び、目の愉しみーシチリア・ナポリ紀行ー』という恰好をつけたタイトルで6回にわたり長々しく記録しています((1)(2)(3)(4)(5)(6))。

 ナポリで佐伯父娘が出かけたレストランが、私たちも出かけたところであったことなど、いろんな重なりがあって面白かったのですが、ここでは、シチリアの臍と呼ばれるエンナのことにふれておくことにします。私たちもパレルモからシラクーサに自動車で移動する途中に、ほんの1時間くらいですが、同じエンナに立ち寄りました(前記の(3)に記載)。

 エンナはシチリア島のど真ん中、標高1千m近くに位置する天空の街です。これだけ高いところに3万の住民が暮らしています。丘の上の街が多いイタリアですが、一番高くにある県都であり、シラクーサにも匹敵する歴史をもつギリシア植民都市であったのだそうです。

 

 パレルモからシラクーサまで佐伯父娘を乗せた運転手のジョルジョは、シチリア島の島民の8割近くは海辺に住んでいるが「シチリア人の魂は山にある」と語ります。「車はどんどん山深く高く登っていく。人影があっても年寄りばかりだ」、そしてエンナの「人っ子ひとりいない」ロンバルディア城前で車は止まりました。冷たい雨が降り続くなか、娘に登頂拒否を拒絶された佐伯は、熱海の崖地で鍛えた足で登った城のピサの塔から見た景色を次のとおり表現しています。

 「 ジャジャジャーン!

   と合いの手を入れたくなるほどピサの塔の上からのシチリアの山また山

  の眺望は素晴らしかった。冷たい雨が止み、緑の谷間から靄が立ち上がっ

  てシチリアの山と谷が眺められた。

   靄の切れ間から覗く緑の山並みと谷と集落には豊穣と貧困、絶望と希望

  とが共存しているように見える。それほど魅惑的な景色だった。」

 佐伯は「そうか、この土地からドン・コルレオーネたちマフィアは危険を冒し、チャンスを求めて新大陸アメリカに渡ったのか」と感慨を覚え、「シチリア人の魂は山にあり」を「然りと思った」と述べているのです。

 そして、シラクーサまで、シチリアの山道を全行程4百劼傍擇崋動車移動により、「尻が痛くなるほどの距離だった」と感想を書きつけています。

 私たちといえば、シラクーサに着いたときの尻の痛さは同じでしたが、残念ながら、立ち寄ったエンナで、ロンバルディア城のことを知らずに街の中心地で降ろしてもらいました。そして、辺りを少しだけうろうろとし、エンナの向こう側にある丘の上の街カラシベッタ(海抜500m弱)を眺め、どうしてこんな高い山の上に街ができたのか、つくることができたのか、ただ不思議に思っていただけのことでした。

 何より本書《四季》の口絵写真に掲載された、エンナの下界に広がる靄の存在が、佐伯の「シチリア人の魂は山にあり」然りとの印象にインパクトを与えたのではないかと思うのですが、私たちのエンナは晴れていて靄は望むべくもありませんでした。

 それでも、争いを止めない人間界が原因となったのでしょうが、こんな山の上に街をつくり上げた人間の底力のようなものを感じることができました。

 

 三回にわたった南イタリア旅行記の最後のところで、今のシチリアは長閑な観光の島というだけでなく、リビアやチュニジアなどからの難民問題を抱えているが、「そんな現実の一面を直視することなく私たちの旅は終わった」と、佐伯は結んでいます。

 このようなことは、私たちの旅行記でも何回か登場していますが、難民の問題はもとより、高い失業率により就業できない若者が多いことなど、社会問題という現実は、普通の旅行者にはなかなか見えてこないことを痛いほど感じたものです。

 そうは言われるけれど、海外の場合だけのことではなく、国内にいても同じく見えていないのではないのではありませんかと問われたら、私はそうですねと申し上げるしかなさそうです。

  シチリア島のエンナ  [『惜檪荘の四季』所収の写真]

  エンナの路地からカラシベッタの街を臨む [2016.4.3撮影]

  エンナからのカラシベッタ眺望  [同上]  

 一家三人(佐伯、妻、娘)で旅に出る場合は、それぞれ公正遺言証書を作成するのが習わしとなったとあります。それは「偏に「惜檪荘」入手以来の習わし」であり、佐伯は次のとおり理由を説明しています。

 「 三人同時に死亡の場合、「惜檪荘」が人手に渡る、それも分割されるな

  らば売却処分に付されるであろうし、それはすなわち「惜檪荘」が消滅す

  ることを意味する。私が熱海の旧岩波別荘を入手したのは後世に残したい

  と思ったからだ。完全修復後もメンテナンスに気を遣ってきたのはそのた

  めだ。それゆえかような手間をかける遺言を毎度書き改める習慣ができ

  た。」

 私には公正遺言証書の内容を想像する能力がありませんが、「惜檪荘」を後世に残す方途が記されているのでしょうか。

 やはり三人が死亡した場合まで想定して、「惜檪荘」を後世に残そうとしている、そして、普通なら佐伯夫妻が亡くなられた後は、娘さんがその重い課題を背負われることになりそうです。

 

 旅の項の最後に追記します。

 「毎朝、私は惜檪荘大松の樹幹ごしに相模灘に昇る日の出を拝みつつ、時代小説を書いてきた」佐伯は、いささか傲慢とことわりながら「日の出は見飽きた」とし、インドの落日を見物したいと、次の言葉を書きとめています。

 「 七十を越えて、力強い日の出より、水平線に没して燃え尽きる煌めきが

  見たくなった。」

 日の出も落日も意識的に見ることの少ない私ですが、佐伯の心の傾きに深く同感しました。

 

🔹「文庫の時代は終わった」のかー二人の無名者の死ー

 最後から2番目の項のタイトルは「文庫の時代は終わったのか」ですが、こうした出版事情に絡めて、私の印象に強く残った、佐伯の追悼する二人の無名者の死についてメモしておくことにします。

 

 本書《四季》を読んでいると、何事もタイミングだなと思ってしまいます。

 佐伯が惜檪荘と関わるようになったタイミングのことです。1999年から時代小説の文庫書き下ろしという新たな出版形態で増刷、重版を重ねることができるようになった佐伯泰英ですが、劇的にブレークしたのは、シリーズ『居眠り磐音江戸双紙』がNHKの時代劇ドラマとして放映が開始された2006年の翌年2007年のことのようです。年間6百万部近くの売上を記録したちょうどその最中に、惜檪荘の譲渡話が舞い込んだというわけです。

 佐伯は、このようなタイミングでなければ、「惜檪荘を購入するなど、さらには全面改修するなど夢想もできなかったろう」とふり返っています。

 なんというタイミングであったことでしょう。剛直な佐伯であっても、文庫書き下ろしがブレークしたタイミンクであったからこそ、惜檪荘を後世に残す決断を下すことができたといえます。

 

 一人目の死は、この『居眠り』シリーズの生みの親の一人である編集者のK=梶原直樹氏のことです(Kというイニシャルで書いていますが、最後に氏名を明記しています)。佐伯がフリーの編集者には向かないと忠告したが、Kは決心を変えずある出版社を退社します。そして、時代小説に転じたばかりの佐伯の小説を出せる「新しい出版社を見つけてよ」に呼応し、KはF社を見つけてきます。そして、新宿西口の喫茶店で、Kと、F社(=双葉社)のY(=米田光良氏)と、売れない物書きである佐伯の三人が集まり、『居眠り』は文庫書き下ろしで出版されることになったのです。

 それからも2、3ヵ月に一度、同じ喫茶店で新作原稿の受け渡しを繰り返していたが、「不意にKと連絡がつかなくなった」のです。大分のただ一人の家族である母と音信不通状態だったらしくて、佐伯は連絡を付けますが、「そのとき」は意外に早くやってきます。Kの夭折の顛末を、佐伯は次のとおり記しています。

 「 母親を含めて家族親類の三人が上京してきて終末医療のマンションで三

  日ほどいっしょに過ごしたのち、Kは身罷った。弔いはYの出版社と私と娘

  らわずか数人が参列して落合の葬儀場で行った。私たちは『居眠り』の完

  結を見ることなく夭折したKの骨壺がタクシーのトランクルームに無造作

  に載せられ、故郷に帰るのを遣る瀬無い気持ちで見送った。」

 本書《四季》でKの死を悼んで書くことは、佐伯が自らの作家人生、というより人生をふり返ったとき、いかに『居眠り』シリーズのもつ意味が大きく重かったのか、そのことを如実に示しているともいえます。

 Kは、佐伯にとって同志であったのでしょう。

 

 ここで、佐伯流の小説作法について、佐伯の言葉に耳を傾けておきます。

 まず時代小説の書下ろし文庫について、活字本の売れない時代にあってリスクを減らし「シリーズ化でなんとか固定読者を捉えておく」ための手法であったと、次のように述べています。

 「 私がなんとか小説家生命を保つことができた時代小説の文庫書き下ろし

  シリーズも、固定読者をつなぎとめるため出版社も作者もなりふり構わな

  い最後の手立てであったと思う。」

 とはいえ、シリーズの長期化を可能にする条件は、「一定の読者を飽きさせずに確保すること」だと、佐伯は強調しています。そのためには、佐伯の時代小説は、「時代設定をはっきりさせ、史実に残る人物と虚構の人物が絡み合う」ところに特徴があって、その結果、「登場人物が物語の進行とともに歳を重ねていく」こととなり、読者は「登場人物の成長をわが子かわが孫のように慈しんで読んで下さる」とします。そして、「殺伐とした描写や表現を避けたことも読者をつなぎとめた要因かもしれない」とし、それは一家三代に回し読みができる物語となるからだというのです。

 このような基本作法を前提とすると、「一方で登場人物がいささか定型化して、深い人物造形に欠けがちであることも否めない」と、佐伯自ら述べつつ、自らの時代小説観というか、人間観を次のとおり説明しています。

 「 現実世界を見渡したとき、余りにも不条理で悲惨な事件が多発してい

  る。現代小説ならばこの社会現象を直視し、人間を凝視せざるを得ないだ

  ろう。現実と虚構ともに悲惨では、思考の逃げ場所がなく鬱々とする。私

  は敢えて人間の性善説に立った勧善懲悪をよしとして、切なくとも逃げ場

  のない読み物は書くまいと覚悟を決めた。」

 この覚悟が、職人作家を自称する佐伯泰英の小説の根幹にあるのでしょう。

 

 こんな佐伯の時代小説だからこそ親しんでもらったのであろう、もう一人の方の死にふれておきます。「イリノイからの手紙」の項で語られる小田つやかさんという愛読者のことです。人間の死に有名、無名はないものの、これも無名の方です。

 小田つやかさんは、シカゴで剣術を楽しむ日系一世の女性、佐伯より10歳ほど年長の方で、佐伯の小説の愛読者にしてペンフレンドでした。愛読者への手紙は簡単な礼状にとどめてきた佐伯ですが、『居眠り磐音江戸双紙』を刊行する出版社気付けで送られてきたつやかさんの長文の手紙に、しかも「古風な言いまわしで、水茎の跡も美しい和語」に、佐伯の心は動いたようです。そして、佐伯から日本の出版事情や近況などを返信するようになり、めずらしくペンフレンドになったのです。

 アメリカ生まれの日系人たちの大半は「日本語は片言が喋れても読み書きはほとんどできない」のですが、そんな仲間にとって「日本語の小説を読みこなすつやかは格別な存在」であり、つやかさんは佐伯の小説や手紙の内容を英語に訳して仲間たちに教えていたのです。

 ある時期から、彼女は自分の半生を書き送ってくるようになっていました。そんな交友が十数年にわたり続いてきましたが、2015年の暮れにクリスマスカードが届きませんでした。そして、翌2016年の暮れに、友人のスーから英文のクリスマスカードが届き、つやかさんの死の知らせが記されていました。

 その年末から年始にかけて、佐伯は「つやかの手紙を拾い読みしてきた」とし、次の言葉で彼女の死を悼んでいます。

 「 つやかやスーが過ごした60余年のアメリカ中部での暮らしや交情を想像

  するとき、重く深い感動に襲われる。」

 そして、佐伯がこの原稿を書いている十数日後には、アメリカに「トランプ政権」が誕生するとし、「よくも悪くもパクス・アメリカーナが終わったことだけは確かだろう」と、次の願いを書きとめています。

 「 つやかやスーの先祖の日系人たちが命を懸けて購ってきた地位と暮らし

  が再び悪夢のもとへ帰ることだけは避けてほしい。つやかの手紙を読み返

  しながら憂鬱にもそんなことを考えている。」

 そして、2020年はまた大統領選挙の年がめぐってきます。

 

 「文庫の時代は終わったのか」の項の最後のところに戻ります。

 当ブログでも取り上げたことがあるとおり(「感受性をひらくことー映画に感謝をー」)、出版業界は構造的不況のもとにあります。2018年の書籍と雑誌を合わせた推定販売実績は、ピークの1996年に比べて半減しています。書籍はおおむね3分の2に対し、雑誌はおおむね3分1と、雑誌の激減が際立っています。そして、1タイトル当たりの販売冊数は、過去40年間で3分の1から4分の1へと減少しているのです(つまり多くの種類の本が出版されても、1種類当たりの売上冊数が激減している状況です)。

 そして、「文庫」という括りでも、2006年から2018年の売上実績は4割減という状況なのです(2019.9.24「ガベージニュース」)。

 こうして活字出版業界が冬の時代を迎えている中で、佐伯は「文庫書き下ろしも2007年あたりを頂点に陰りをみせはじめた」とし、「文庫書き下ろしは一時奮闘したといえるが、その奮闘も遠い昔に終わった」と括っています。そして、次のような疑問符のついた文章を綴っています。

 「 本稿のタイトルに「文庫の時代は終わったのか」とつけたが、正確に記

  すならば、「文庫書き下ろしの時代は終わったのか」と書くべきであろ

  う。意図したわけではないが、一時の文庫書き下ろしブーム(があったと仮

  定して)がかつての文庫のイメージを傷つけ、文庫ブランドを曖昧にしたこ

  とは確かだろう。ゆえに文庫書き下ろしの終焉は文庫全体の終わりとも重

  なっているように考えるのは私だけか。」

 佐伯は、文庫書き下ろしがかつての文庫のイメージを壊したのではないかと、ある種の後ろめたさを抱いているのでしょうか。最後の一行が当たっているのか、私には評価できません。ただ、佐伯のいうとおり文庫ブランドが曖昧になったことも確かでしょうが、一方で文庫という形式が消えていく運命のようには思っていないこと、これもまた確かです。  

 それはさておき、累計数千万部といわれる佐伯泰英は、次の文章で「文庫の時代は終わったのか」を締めくくっています。

 「 よくもまあ、綱渡りのような生き方をしてきたものだ。文庫書き下ろし

  という出版形態が私の作家生命を生き永らえさせてくれた。

   「文庫の時代は終わった」

  と私は思う。それでも作者は書き、編集者は編集する。それが仕事だ。」

 これは、ある種、作家佐伯泰英の自負であり、決意表明なのでしょう。

 

🔹おわりに

 それこそ拾い読みするようにメモしてきました。

 顔写真をじっとみていたら、佐伯泰英と岩波茂雄が似ているように思えてきて、クスッとなりました。建てた人と守った人は、どこか似てくるのでしょうか。ゴツゴツとした風貌、剛直と剛毅な精神の在り様、そんな人は繊細な美意識の持ち主であることにおいても共通しています。

 岩波書店は、前記のインタビューで佐伯が吉永みち子に語るとおり「全く縁がない世界」でしたが、惜檪荘という景観を含めた「建物に呼び込まれたような気がする」と述べています。吉永はそんな佐伯という人物と惜檪荘や彼の小説との関係について次の文章を書きとめていて、私も同感します。

 「 生じた縁を楽しみながら、真一文字に成り行きに突っ込んでいく。出会

  いに殉じるような潔さが、期せずして出版の常識を破ったり、大ベストセ

  ラー作品を生み出す源になっているのかもしれない……そんな気もし

  た。」 

 

 最後に、本稿のタイトルに使わせてもらった「遠回りが意外と大事」にもどります。

 佐伯は、自分の小説のルーツに次のことを見ています。

 「 学生時代、古い映画や外国映画を見まくったことが、ただ今の小説作法

  の基になっているのは確かだ。若い時代、がむしゃらに思ったことをやる

  のも悪くない。古希を過ぎて、そのことが「かたち」になることもあると

  知らされた。」

 そして、ネット情報社会との関係について、次のように理解しようとしています。

 「 ネット情報社会では、私が「惜檪荘だより」を連載していた時代より、

  何倍ものスピードで新たな情報や技術が次々に発信される。私は十年以上

  も前にネット社会の進化から取り残された。だが、それはそれでよい、と

  思っている。私は刻々進化するデジタル社会からの落ちこぼれであること

  を恐れない。「遠回り」の末に辿りつく世界もあると思うからだ。」

 「遠回りが意外と大事」との信条のもと、相変わらず剛直で意気軒高な佐伯泰英がここにいます。

 

 前著《だより》と本書《四季》の二冊を味わうことで、惜檪荘のような建物を後世へ残していくことの大変さにふれるとともに、私にとって未知な作家である佐伯泰英という人物の精神に少し近づき共感を覚えることができました。

 惜檪荘は、佐伯泰英によって守られると同時に、佐伯泰英に新たな道標を与えています。

  惜檪荘と佐伯泰英(2018年大晦日) [『惜檪荘の四季』所収の写真]

プロフィール
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70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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