2018.02.18 Sunday

ふと寒さの緩んだ日にーサティの音楽ー

 長く続いた寒い日々のあと、ふと寒さの緩んだ日。

 いつもの服装で歩くと、すぐに体温が上昇してきて、毛糸の帽子、マフラーそして手袋を次々と外しました。そうか久しぶりに風もなく10℃を超えるという天気予報を実感したのです。

 大中遺跡公園では、ケヤキはきっぱりと葉を落としたままですが、梅はといえば、つぼみがふくらみ、ちょっとあわてんぼうが花弁をひらいています。あと二週間くらいでしょうか。春を待つ気持ちがあるわけではありませんが、こうして季節は動いています。

 

 当ブログで紹介することもあった「近藤流健康川柳の集い」(「ここにも「おかしみ」の世界が」)が今年もひらかれました(「毎日新聞」2018.2.11朝刊)。司会者の水野アナは「ケヤキの描かれた金色のドレス」で登場したとあり、それはラジオ番組に寄せられた一句「ケヤキ言う裸一貫やり直し」にちなんだということです。

 同アナは「17文字の向こうに人生が見える」として朗読を披露、そのなかでがんで闘病中の男性の句と入院中の病院で川柳の輪が広がっていることを紹介しました。その75歳の男性は「いやな人きっと誰かの好きな人」という句が好きで看護師さんに話したところ、それがきっかけで病院で川柳を楽しむ患者や看護師のつながりができたそうです。そして「病に加え、過去にまだ30代だった息子を亡くした悲しみ」を抱えた彼が今の心境を詠んだ「両の手にかかえきれない夢がある」の一句で、コーナーが締めくくられたとあります。

 2017年の年間大賞等を受賞した四句を書き写しておきます。それにしても、この世界はなんと心のつぶやきに満ちていることかと思わざるを得ません。「そうだ、そうだ」とすぐに共感できたりする川柳ばかりではありませんが、「なるほどそうかもしれない」と自分の心を広げてくれる力をもっています。

 結局のところ、<心のつぶやき>という点では私のブログも同じといえば同じことで、17文字で書くことができないだけなのかもしれません。

 

  年齢を十ほど捨てて街に出る

 

  でもうれし世辞の一声「変わらんな」

 

  不機嫌な夫は他人より他人

 

  お父さん喋らんといてややこしい

  ケヤキの裸木(大中遺跡公園) [2018.2.14撮影]

  梅のつぼみ(同上) [同上]

 

🔸しばらくすると聞きたくなってーサティのピアノ曲ー

 エリック・サティ(1866-1925)の音楽は、しばらくするとまた聞きたくなります。

 サティのピアノ作品はたくさんありますが、私にとってサティの音楽とは、代表作といわれる「ジムノペティ(第1~3番)」と「グノシェンヌ(第1~6番)」の二曲に尽きるといってもいいくらいなのです。再生装置への登板回数はグレン・グールドが弾くバッハ「ゴールドベルク変奏曲」に匹敵します。バッハの方がグレン・グールドというピアニストに固執しているのに対し、サティの方はピアニストによって選んでいないようです。

 「ようです」などと他人事みたいですが、最近、サティを弾くミシェル・ルグラン(1932-)の中古CDを手に入れ、ほかにどんなピアニストのCDがあったかなと探すと、下記の写真にある6枚でした。いずれのCDにも「ジムノペティ」と「グノシェンヌ」が入っています。不思議なことに、ルグラン盤には「グノシェンヌ」が入っていませんが、それはルグランの考えがあってのことでしょう。

 このルグラン盤とほぼ同時に、『エリック・サティ』(アンヌ・レエ/2004年6月刊/白水Uブックス)という本にも出会って、ちょっとしためぐり合わせを感じてしまったのです。そんなことで、今回はサティの音楽のことをメモしておくことにしました。

 

 サティの音楽が極東の島国で人気を博したのは1980年前後のことだったそうです。現代音楽の世界ではもっと以前から異端にして前衛である「知られざる好奇心をそそる存在」として知られた存在だったのですが、広く知られることになったのはその頃のことでした。テレビや映画の劇中音楽、CMでもよく使われてきましたし、それから40年近くたった現在もそうです。病院などの公共空間でも流れているとのことです。

 そんなことで私の耳にも届いたらしく、いままでに聞いたことはないようなピアノ曲だと「ジムノペディ」に魅かれたにちがいありません。ある種の思い込みも加わっていそうですが、『日曜美術館』にも頻出していて、一息入れて場面を転換するつなぎの際に、あるいはサティと同じフランスの画家たちを紹介する際によく挿入されていて、「これはなんなんだ」となったんだと記憶してしまっています。

 こんなことで、サティのCDがあったらついつい手を出してきたのでしょう。今回のルグラン盤を含めて7枚のうち最も古い録音は高橋悠治盤の1976年で、70年代はこれを含めて2枚、80年代が4枚(87年が1枚、88年が3枚)、最も新しいのが1993年のルグランということになります。80年代後半になにかブームのようなことが起こったのかもしれません。私が購入したのは、CDの制作年からすると、2000年前後が多かったのでしょう。

 一昨年の2016年はサティ生誕150年ということもあって、コンサートをはじめCDも続々と発売されたそうで、「サティ人気は幅広い年齢層の音楽ファンにすっかり定着したと見ていいだろう」と報じられたことを、ネットで知りました。もとより私の目や耳にはまったく入ってくることなく、いつの間にか通り過ぎていたのですが。

 

 さて、私にとって、サティの「ジムノペディ」と「グノシェンヌ」の魅力とはなんでしょう。

 音の数が少なく、音と音の間に不思議な間(ま)があって、複雑な和音もなく、ゆったりとした旋律が、ピアノの音が粒だって聞こえます。奇妙な脱力感と集中力を誘う力もあって、耳をすますとなつかしく蠱惑的でシンプルな美しさが際立つ旋律がくっきりと聞こえてきます。静寂という言葉を使いたくなると同時に、甘美、官能的といってもいいのです。どこか東方の響きというか、西洋からみた東方というエキゾチズムが感じられます。

 サティの音楽は聞こうとしていないと、いつの間にか短い曲が終わってしまっているという感じで、波立つ心を鎮めてくれる作用もあって、邪魔しない「ながら音楽」としても超一級です。

 こんなサティの二曲は、クラシック畑のピアニストが弾いていても、カテゴリーなど超越した音楽だとのイメージをずっと抱いてきました。クラシック音楽からイメージしてしまう肩ひじ張った大仰さから離脱した音楽、つまり鎧や兜を外した音楽として受容してきました。いわゆる環境音楽的な見方(実際にそんな使われ方もしていますし)もできるでしょうが、比較するもののない音楽というのが、私の印象の根底にあります。

 

 サティは在学していたパリ音楽院を1886年に退学し、シャンソン酒場であるカフェ・コンセールの「雇われピアニスト」で糧をえつつ、1888年に「ジムノペティ」を、1889~91年には「グノシェンヌ」を作曲しています。ですから20歳前半の作品だということになります。この二曲以外にも生涯にわたり作曲活動を続けていますし、三十代のころには世間の注目をあびたりもしていますが、総じて異端にして前衛という立ち位置を崩さないままで(本人の意思かどうかは別として)、変わり者であり続けました。手持ちのCDでも二曲以外にも多くのピアノ曲が演奏されていますが、私には、とどのつまりが「ジムノペティ」と「グノシェンヌ」ということになってしまいます。

 今回入手した『エリック・サティ』で、アンヌ・レエは、この二曲のことを「郷愁にみちたメロディ、低音の和声の虜になっているそのメロディに、第二、第三のメロディが加わる。時が流れる、純粋な持続ー『ジムノペティ』、『グノシェンヌ』だ」と表現しています。こうした初期のピアノ作品に、アンヌ・レエは「酒飲みで、冗談好きで、いたずらっぽい近眼の目つきをしたサティ」というあの親しみ深いサティとは対照的に「陰鬱で、繊細で、世紀末的なのである」との形容を与えています。

 そして、別のところでアンヌ・レエは「『ジムノペディ』の若々しいメロディスト」「『グノシェンヌ』の内気な夢想家」」とも述べており、この表現が、私には一番ぴったりときました。

 

 こんな私のような初期作品に執着する嗜好について、アンヌ・レエは「人が好きになると、その欠点まで愛おしくなるものだ。サティの音楽の愛好者が、最も不器用で、ナイーブで、真実味のある初期の作品をとりわけ愛するのもそのためである」とします。いやいやと反論したくはありますが、そうなんでしょうねと説得されてしまいます。

 この文章に続けて「彼以前には、こんなふうに作曲した者はなかったし、彼以降にもこんなふうに作曲する者はないにちがいない」としたアンヌ・レエは、サティの初期作品が「ヴァーグナーの死の三年後、フォーレやフランク、ダンディやサン=サーンスが、かずかずの交響曲や協奏曲や交響詩を生み出していた時代」に作曲されたものなのだと指摘しています。

 そんな19世紀末のフランスで名もなき若者が作曲した「最も不器用で、ナイーブで、真実味のある作品」が21世紀初頭の現在において数多くの賛美者を途切れさせないのはどうしてなのでしょう。そこに謎めいた<サティの音楽>の本質、真髄が、それは<音楽の><現代の>という言葉をあてることもできそうですが、あるにちがいありません。

 ここで手持ちCDにもある高橋兄妹のユーチューブを貼り付けておきます。高橋アキの方は手持ちCDと同じ音源からのもので、高橋悠治の方は2017年に新たに録音したCDのPR動画であり、曲の頭だけを並べたものですが、いい音なので聞いてみてください。

 

 ◎高橋アキ「ジムノペディ第一番ほか」

 

 ◎高橋悠治「エリック・サティ 新・ピアノ作品集」

 

 本稿では、斜め読みしただけのアンヌ・レエをはじめネット情報からサティの音楽や生涯を、たとえばドビュッシー、コクトー、ピカソとの関係をからめつつ、長々と語ることはやめておきましょう。

 とりわけアンヌ・レエは、日本でいうとちょうど明治と大正時代を生きたフランス人であるサティの人生と音楽を、同胞らしいドキッとする辛辣な言葉を用いつつ、「社会的な単独者」であり「音楽的にも単独者の作品」として描いていますが、ここでは、限られた引用にとどめることにします。

 まず、アカデミックな教育を超えたサティの音楽の単独性について、「サティの音楽は、音楽史上類縁をもたない。だからこそ、すぐにそれとわかるのだ」とし、次のように書いています。

 「 裸で歩く音楽、「それに合わせて人が歩く音楽」、通りすぎる音楽、

  そのシルエットがかすかに何かを思わせる音楽。サティの作品には年

  がなく、どんな作曲家のどんな作品にも論理的に結びつくということが

  ない。一度は忘れられ、いまや再発見されたが、ことによると、また忘

  れ去られるかもしれない。だが、ナイーブさが若さの代わりになるとす

  れば、たったいま生まれたばかりのような顔をして、サティの作品はま

  た甦るだろう。それはまさに単独者の作品なのである。」

 この音楽上の単独性について、アンヌ・レエは楽理的な側面をさまざまな箇所で展開していますが、私にはちんぷんかんぷんです。とにかく「調性の放棄」とか「和声進行の伝統の無視」とか「拍子記号や小節線などの廃止」とか、サティは「従来の音楽のルールをことごとく破壊し、因習にとらわれない自由な作曲態度」の人であったということなのでしょう。

 

 かといっても、この社会的、音楽的な単独者は、生きる時代から逃れることはできないわけです。アンヌ・レエは時代の流行と無関心ではいられなかったサティの音楽的なバックグラウンドの遍歴を次のようにまとめています。

 「 「薔薇十字会」の芸術がパリ中の人気をさらった当時は、ジョゼファ

  ン・ぺラダンの傍らで「中世風(ゴシック)」だったし、ドビュッシーより

  早くから反ヴァーグナー派であり、ピカソ以前に反印象主義者であった

  し、ストラヴィンスキーに先立って新古典主義者だった。「飼い馴らされ

  たキュビズム」の時代にはコクトーと行動を共にし、最後にはピカビア

  流れを汲む衝撃のダダイストだったのである。」

 こんなサティの音楽の時代性、現代性について、アンヌ・レエは次のように総括しています。

 「 好かれているか拒否されているかによって、魅力的にもなれば嫌味たら

  しくもなる。サティは一筋縄ではいかない人物だった。とはいえ、彼の作

  品はひとつの時代の証言であることに変わりがなく、しかもその時代たる

  や、ロマンティスムから現代への結節点にあたる、非常に興味深い、波乱

  に富んだ時代だったのである。」

 19世紀末から20世紀初頭にかけての時代を生きたサティは、パリがパリであった時代、「現代への結節点」にあたる時代にあって、音楽を創造した人でもあるということです。繰りかえしますが、19世紀末の時代、現在からすると「現代」が顔を覗かせていた時代にあって、その先端に位置していたパリという都市文化の混沌が、「サティの音楽」を生み出したという側面を忘れてはならないのでしょう。

  ミシェル・ルグラン(P) 1993年録音 

 このルグランのCDのライナーノーツに、サティへの深い傾倒で知られるピアニストの島田瑠里が文章を寄せています。このCDで、ルグランは「ジムノペディ」の第1~3番を3つに分けて、各々1つおきに配列し、別の曲を挟むという構成をしています。つまり全6曲で一括りの塊として演奏しているのではないかと島田はみているのです。

 このルグランの試みを、「応々にして芸術家はその最初の作品において生涯のモチーフを直感する」という島田は「ルグランにとってサティの「ジムノペディ」が生涯のライトモチーフであることをこの編成によって示そうとしたのだろう」と推測しています。「ジムノペティ」はサティの音楽の起点であり、極点でもあるということなのでしょう。

 

 このライナーノーツのなかで、島田自身のサティへの特別な感情の根っ子には、「全体を支配する反ワグネリアン的感情が私にとってサティと通底していた」ことがあるとも告白しています。つまりサティの根っ子にある音楽の志向と、島田は自らの志向との一致を見出していたことになります。

 私には「反ワグネリアン」なるもののことをぼんやりとしかわからないのだけれど、またいささか距離のある類推かもしれないけれど、たとえば写真家にたとえると、土門拳よりも木村伊兵衛の方にずっと親近してきたこととも通じているみたいです。これまでの私自身の音楽への傾向からすれば、とりわけクラシックというカテゴリーでの好き嫌いからしますと、こんな反ワグネリアン的感情に寄り添ってきたのかもしれないと思ったのです。

  左:高橋悠治(p)1976年録音 / 右:高橋アキ(p)1979-88年録音

  左:フィリップ・アントルモン(p)1979年録音 / 右:ローランド・ペンティネン(p)1988年録音

  左:アンヌ・ケフェレック(p)1988年録音 / 右:島田瑠里(p)1987年録音

 これら6枚のCDのうち、一番最初に入手したのが高橋アキのベスト盤であり、一番よく聞いてきたのもこの1枚です。まったく無知なままで手にしたローランド・ペンティネンのCDは彼が25歳の録音ですが、その若々しく鮮烈な演奏に驚いたものです。たとえば、「ジムノペディ第1番」で比べると、ぺンティネンの演奏時間3分10秒に対し、最も長いルグランは4分00秒です。どちらがいい悪いではありませんが、歴然とした違いは私の耳でも聞くことができます。

 🔸別の事例として、グレン・グールドによる「ゴールドベルク変奏曲」の「1 Aria」

  は1955年録音の1分53秒に対し、1981年録音盤は3分5秒なのです。

 

 高橋兄妹の言葉を引いて、サティの音楽へのメモを終えることにいたしましょう。

 兄である高橋悠治(1938-)は、昨年の再録音盤をリリースするにあたって、次のような文章を記しているそうです。

 「 こんど誘われて1枚にまとめた再録音では、貧しいものの音楽、小さな

  もののつつましさ、ひそやかさ、その息づかいや、鍵盤に触れるその時に

  生まれる発見から次の一歩が決まるような、どことなく危うい曲り道を辿

  る、音から次の音へのためらいがちな足どりの、未完の作曲家サティにふ

  さわしい進行中の記録にとどめておきたい気があった。」

 年齢を重ねて、「あらためて試してみよう」という高橋の言葉はやはり味わい深いものですし、これを実現させてしまう「サティの音楽」の力を再確認した感じがします。

 

 妹である高橋アキ(1944-)は、音楽評論家で亡夫の秋山邦晴(1929-96)とともに、我が国への「サティの音楽」の紹介を牽引してきたピアニストです。

 そんな彼女が先のアンヌ・レエの本に『サティ連続演奏会覚え書』という文章を寄せています。このなかで、秋山と二人が中核となって企画した1975年から足かけ3年におよぶ、渋谷の小劇場ジァンジァンでの「異端の作曲家エリック・サティ連続演奏会」のことにふれています。この演奏会は12回続いたそうですが、とくに840回繰り返す『ヴェクサシオン』の演奏をオールナイトで、40名(その中には作曲家である柴田南雄、武満徹、黛敏郎、坂本龍一などもいました)が演奏に参加して、約13時間かかって840回を弾き終えたという「何とも楽しい思い出」についても書いています。

 その文章の最後に、本稿の表題「しばらくすると聞きたくなって」の元になった、といっても私の長いサティ経験からの本音とも重なりますが、ジョン・ケージのエピソードを交えつつ、サティの音楽の本質を綴っています。

 「 秋山は96年に亡くなってしまったしまったけれど、私はいまでも変わら

  ずサティを弾きつづけている。一時のブームは去っても、あるときジョン

  ・ケージがあの素敵な笑顔で私に語ったように「サティの音楽は聴き飽き

  たと思ってもまたしばらくすると聴きたくなるものだ。私にとってサティ

  は<きのこ>のようなもの。たくさん食べても、しばらくするとまた食べ

  たくなるものだから」。すでに蒔かれたエリック・サティという<きの

  こ>の胞子は、すでに空気中にたくさん舞っていて、またどこかに菌糸を

  ひろげては、時代を超えてひょっこり顔を出しつづけることだろう。」

 この文章から10余年をへた現在も、そのオフィシャル・サイトをみると、高橋アキはサティを弾きつづけています。

 

 こうしてサティの音楽に思いをめぐらしますと、サティという人間が孤島で生まれ育ち暮らしていたとしたら、同じ音楽を創造することはないということです。結局、パリという都市の文化的な坩堝のなかで、サティの個性が、反アカデミズムを自覚したサティが、時代の風をうけて、分身たる音楽を創造していたという当たり前の事実に突きあたります。

 サティがサティであることの力の源泉はどこにあるのでしょうか。アンヌ・レエのいう「最も不器用で、ナイーブで、真実味のある作品」にこそ、サティの音楽の本質があって、だからこそ、私を含め多くの人びとが、「しばらく離れていてもまた聞きたくなる」ことを繰りかえしているのです。

 こんな事実には、どうも音楽だけにとどまらず、詩の、芸術の、ものごとの本質というべきこととの関係がありそうに感じられます。

 ともあれ私に音楽の部屋があると仮定しますと、サティの「ジムノペディ」「グノシェンヌ」はなじみの客、常連客ということになります。サティはべったりと座り込んで長居する客ではありませんが、ちょっと放っておけない客としてこれからも付き合っていきたいと思っています。

 

2018.02.09 Friday

ことのほか寒い冬ですがーカモのスピンに驚いてー

 ことのほか寒さの厳しい日々が続いています。

 正午過ぎに30分ほど自転車に乗っていると、手袋をしていても手の感覚がなくなるほどの冷たさです。2月に入ってどんどんと陽ざしが強くなってきているのにどうしたことでしょう。ここ3日ほどは風がわりと強いことも体感温度に影響しているのにちがいありません。

 当ブログ(「海を見にいくー旅の写真<海>編ー」)で紹介したことのある加古川市海洋文化センターへ冬の海をさがしに出かけました。センター地先の南に広がる海は、この真昼の高い太陽に照らされ、キラキラと光っています。東播磨港の港湾内ですのに、風のせいか波が立っています。南西の風によって、工場から出た白い煙は陸地の方へ流れていました。かといって、こんなに陽ざしがふりそそいでいるためか、冬の海という言葉からイメージする<荒ぶる>を感じることはありません。ただシャッターを押す指先がすっかり強張っていて、ちょっと困りました。

 こんな寒さのなかですが、数人の釣り人が糸を垂れています。今はフグが釣れていると聞きました。 

 

 今年は、冬日という最低気温がマイナスであった日数が平成になってから一番多いのだそうです。ことのほか寒いなあと思っていましたが、やはり寒い冬だということでまちがいなさそうです。

 今年は平成30年、30回目の冬なのですから、若い人なら経験したことのない冬をすごしていることになります。といっても、昭和はもっと寒かったという統計記録がありますが、私など、その頃の皮膚感覚をすっかり失っているのですから、どうしようもありません。

  東播磨港内の冬の海(加古川市海洋文化センター地先より) [2018.2.7撮影]

  対岸の工場から白い煙が流されて [同上]

 

 本稿では、最近の『図書』から2つの文章を紹介することにします。

 ひとつは地球科学を専門とする巽好幸神戸大教授の「変動帯に暮らす覚悟」です(『図書』2018年2月号)。これは地震と火山が集中する「変動帯」である日本列島で暮らすことの覚悟を、特に歴史時代に日本人が遭遇したことがない試練の一つ「巨大カルデラ噴火」について、現代の科学的知見から問い直すものです。

 この超巨大噴火は「史上最大級の富士山宝永噴火の数百倍ものエネルギーを一気に放出」するもので、「有史以前には何度も起き」ており、「将来必ず日本列島を襲うことになる」ものだというのです。「地質記録がよく揃っている過去12万年間だけでも10回のカルデラ噴火が起きている」のだそうです。

 ですから1万年に1回程度、この頻度を確率に直すと、今後100年間に約1%になりますね。私など心配してもどうしようもないと思ってしまうのですが、1995年の阪神・淡路大震災や2016年の熊本地震の<前日>における地震発生確率とほぼ同程度であると、巽さんは指摘します。

 この噴火は想像を絶する被害をもたらすとして、「わたしは預言者でも終末論者でもない」と断りながら、次の惨烈な結果を描写しています。

 「 日本列島に七座ある巨大カルデラ火山のうち、最悪の事態を想定して九

  州中部で噴火が起きたとすると、高温の火砕流が1〜2時間で、700万人の

  暮らす地域を埋め尽くす。また、数十キロの高さまで噴き上げた噴煙は偏

  西風に乗って広範囲に降灰をもたらす。1日後には関西で50センチ、続い

  て首都圏で20センチ、東北でも10センチ以上の火山灰が降り積もる。現

  在のライフラインは降灰にはひどく脆弱で、この降灰で北海道と沖縄を除

  く地域で完全麻痺に陥る。」

 これは変動帯日本列島で当たり前に起きることを、科学的に述べているだけだとし、今や、こんな未曾有の大試練の前兆を捕らえるべく、巨大カルデラ火山の地下に潜む膨大なマグマの息遣いを可視化するための挑戦が始まっていることも記しています。

 

 そのうえで、巽さんは「危険値」という数字を持ち出して、低頻度であるが故に、「巨大カルデラ噴火」は災害として認識されたことすらないという事実に対し、異議を申し立てています。

 この「危険値」とは災害や事故の想定死亡者数に年間発生確率を乗じたもので、平均的に年間でどれくらいの犠牲者が出るかを表わしています。たとえば台風・豪雨は年間100人、交通事故は年間4000人ぐらいですが、この巨大カルデラ噴火の危険値は「交通事故とほぼ同程度」となるのです。

 にもかかわらず、短期的な危険に対する対策は講じられていても、「無常観にどっぷり浸かった日本人には、長期的な視点で変動帯の試練と対峙することができない」のだとし、変動帯ゆえの「軟水」とか「温泉」という恩恵にもふれつつ、次のとおり「新しい災害観」の模索を訴えています。

 「 さまざまな恩恵はちゃっかりと享受しておきながら、試練は御免蒙るで

  はあまりにも虫がよすぎる。感謝とともに変動帯で暮らす覚悟をもつべき

  であろう。そして、かつてこの列島に暮らした人たちのように(㊟縄文時代の

   遺跡からは津波の跡が発見されていない→当時は高台で暮していたという意)、荒ぶる自

  との共生を規矩とした新たな災害観を模索することが必要ではないだろ

  か。」

 

 この「巨大カルデラ噴火」と直接関連しているのが、四国電力伊方原発3号機の運転差し止め仮処分申請において、昨年12月13日に広島高裁が四電に下した運転差し止めを命じる決定の件です。

 その差し止めの理由は、「阿蘇山の火砕流が敷地に達する可能性が十分小さいとはいえない。(原発の)立地としては不適」であり、伊方原発がその火砕流に巻き込まれて事故を起こせば「住民の生命・身体への具体的危険がある」という内容だということです。これは「柳田邦男の深呼吸」(毎日新聞2017.12.23付「[超巨大災害と原発]「想定外」の思想から転換を」)などに拠っています。

 柳田によると、この判断の根拠になったのが、阿蘇山の過去最大といわれる9万年前の噴火であり、伊方原発は阿蘇山から130キロ厠イ譴唇銘屬砲△辰董△修9万年前の火砕流が佐多岬半島まで達していたかどうかまだ十分に解析されていないにもかかわらず、広島高裁は差し止めの判断を下したのが画期的なのだとして、次のとおり書いています。

 「 既成の法制度や社会通念にとらわれずに、住民の生命・財産を守ること

  を大前提にして、たとえ発生確率が小さくても、結果が重大な場合には万

  全の対策を取るべきだという、防災思想の住民中心への180度転換を示し

  た点だ。」

 この決定についてはさまざまな論評があるところであり、柳田の評価がどこまで的を得ているのかよくわかりませんが、先に紹介した巽の文章中の「新たな災害観の模索」と通じるところがあるでしょう。まあ1万年に1回という発生確率の「巨大カルデラ噴火」を決定判断の理由の一つとしている点では、やはり注目すべき考え方といえます。

 柳田は、この決定の6日後に、政府の地震調査委員会が千島海溝沿いでの巨大地震の発生確率を公表したこともとらえ、従来からの防災対策の貧困を指摘しつつ、次の文章で締めくくっています。

 「 そして、今、伊方原発の稼働停止を命じた広島高裁決定や、南海トラフ

  と千島海溝の超巨大地震発生予測の堂々の公表という新しい状況や、近未

  来の災害発生のリスクを総攬するなら、この国の防災対策と原発の安全対

  策は、思想的にも、現実の施策においても、安易に確率論に逃げ込まない

  大きな転換を迫られていると言わなければならない。」

 

 この広島高裁の決定は原子力規制委員会が策定した安全性審査の内規である「火山ガイド」にしたがって下されたものですが、一方で巨大火山噴火について「発生頻度が著しく小さくしかも破局的被害をもたらす噴火によって生じるリスクは無視し得るものとして容認するというのが我が国の社会通念ではないかとの疑いがないでなく」とも述べているそうです。

 たしかにこの社会通念のようなものに私もどっぷりと浸かっていると感じています。なかなか難しいことでしょうが、「荒ぶる自然との共生を規矩とした新たな災害観を模索することが必要」ではないかとする巽教授の言葉に耳を傾けてみるべきときを迎えているのだと思います。

 科学的知見からはそのとおり判断すべきだとしても、自然と人間、つまり地球と人間の歴史的時間があまりにもかけ離れており、たとえば1万年に1回などということが人間的な尺度でなかなかクロスさせることができないという事実は重くのしかかります。いずれにしても、「変動帯に暮らす覚悟」に立脚した災害文化とはどのようなもので、どのようにすれば可能なのか、たしかに変動帯日本に住む者にあたえられた大きな宿題だと申せましょう。

 

 もう一つは、芸術認知科学という聞きなれない学問領域を専門としている斎藤亜矢京都造形芸術大准教授の「自然の美、人工の美」(『図書』2018年1月号)という文章です。認知心理学者であるエドガー・ルビンから採ったのであろう<ルビンのツボ>という題で連載されているもので、その7回目分ということになります。

 この文章では、アフリカの民族アートに接したことをきっかけとした問い、すなわち「自然を美しいと感じるのはなぜか。自然の美に感動することと、人工の美、つまりアートに感動することは違うだろうか」について、斎藤は言葉をあたえようとしています。

 アフリカの民族アートに圧倒され、「なぜだかわからないまま、たしかに自然の美しさや大きさを感じたし、生と死ということが迫ってきた」ように感じた斎藤は、自然とアートの関係について、次の言葉を導いています。

 「 アートは、あらかじめある美を追求するものではなく、自然のなかの

  「なにか」、人の心に響く「なにか」を切り出してくるものではないか。

  だから実際に自然を見る行為以上の強烈さをもたらすことがあるのではな

  いかと考えるようになった。」

 そんな事例の一つとして、抽象絵画の先駆者であったパウル・クレーの講義録から、次のことを引き出しています。

 「 つまり、とにかく自然から直接学び、作品に反映させる経験を積むこ

  と。自然をとことん観察することで、その「世界観」を身につけることが

  できる。「世界観」が身につくと、「抽象的な表現も自在にできるように

  なる。それは、自然をよく見ずに頭で考えた図式的な表現よりも、ずっと

  新しい、ほんものの創造的な表現になり得るのだ。」

 そして、抽象は英語でアブストラクト、つまり抽出のことであり、まさに「自然からエッセンスを抽出するのが、抽象表現」であり、それこそが「芸術の本質」であることを示しているといいます。芸術は自然の模倣であると古典的芸術論でされてきましたが、「むしろ自然からの抽出というべきものかもしれない」というのです。

 こうして、斎藤は自然とアートを密接不可分な関係にある、人の心に響くアートが自然のなかの「なにか」を切り出したものであるとの確信を得ているのです。

 

 アートの本質に抽出される自然の美しさとは何か、斎藤はこれを言葉で表現するのは難しく、結局、筆舌に尽くしがたい、絵にも描けないとなってしまうとし、「わたしたちにとって美しい自然とは、とにかく大きくて、言葉や絵では表現しきれないもの」ということらしいと指摘しています。そして、実体験から考えると、自然の美しさとは「自分のちっぽけさを感じることと隣り合わせ」なのだと思い至ります。たとえば、「ふとした瞬間に見上げる夜空」、自分のちっぽけさを思う瞬間でもあります。斎藤は「むしろちっぽけであることが、なんだかうれしくて、心底ほっとするような、幸福な非力感だ」と表現しています。

 そう考えてくると、人間の本質には周囲の環境から得た情報を処理し、伝達することがありますが、自然の美しさとは次のようにそれを拒むような性質のものではないかというのです。

 「 ラベルづけできないもの、情報化できないもの、つまり自分の既成概念

  をはるかに超えたものに、わたしたちは感服し、自然の美しさを感じるの

  だろう。」

 したがって、本来線引きできないはずの自然と人工を対比的に感じてしまうのは、「ほんとうの美しい自然」が「人知を超えたものという感覚があるからかもしれない」と述べています。

 さらに写真家の畠山直哉が語っている「自然とは、人間の原理を超えて現象しているものだ」との言葉に反応し、斎藤は自然とアートの関係にとどまらず、自然と芸術と「かみさま」の起源にまで遡りつつ、次の言葉で文章を締めくくっています。

 「 自然の美しさを感じること、自然を畏れること、芸術を生み、芸術に感

  動すること、そしてもしかしたら、かみさまを感じること、その起源はと

  ても近いところにあるように思う。」

 以上のとおり、斎藤は最初の問いに対し、「自然の美しさ」を人知を超えたものとしてとらえ、「自然の美と、人工の美であるアートに感動する」こととの切り離せない関係、つまりアートは自然の模倣というより自然からの抽出であるという点を強調しているように読みました。私の理解の不十分さを意識していますが、最後の「……その起源はとても近いところにある」という結語には強い説得力を感じたのです。

 まあ一人の書き手が誕生したといえるのかもしれません。

 

 こうして二つの文章を紹介してみますと、斎藤の「自然の美」と「人工の美」の関係は、巽教授のいう「自然」と「人間」の歴史的時間の関係と、どこか近しいものと感じたりもします。「人間」とは比べようもないほどの大きさと長い時間を内包している「自然」、人間は自然の一部でありつつ、かつ別の世界を作ってしまった存在であるということです。つまり全体と部分、部分は全体に含まれもするが、区別され、別の独立した存在ともなりうるとの関係でもあります。

 毎月の『図書』にはわからないなりに何がしかの刺激をもらえる文章があって、私にはありがたいことです。

 

 さて、寺田池(「ぐるり寺田池を歩くと」)では今まで気がつかなかった現象に出会いました。

 たくさんのカモが、まるで中心に向かうように外側から時計回りにぐるぐると回りながら泳いでいるのです。上から水面を見ていると、円の形ができたようになっていて、しばらくすると円の形が崩れたりするのですが、再びぐるぐると数十羽がスパイラルしながら円弧を描くようにひとかたまりになっていきます。これが繰りかえされます。こうしたちょうどフィギュアスケートのスピンと似たような運動が、少なくとも私の歩いていた30分ほどは続いていました。

 もう少し覗くと、水面下の餌を食べる仕草もしていましたから、これに関係する行動かもしれません。鳥というか、こんなカモの行動はよく見られるものにちがいありませんが、私は初めてのことであり、ちょっと驚いたのです。

 この現象はきっと「命名」されていると思うのですが、調べることができませんでした。

  カモの時計回りに円弧を描く行動(寺田池) [2018.2.7撮影]

2018.02.05 Monday

「そんなものなんだ」と思考停止する前にー世界を見つめる視点ー

 「そんなものなんだ」とつぶやいていることがよくあります。

 この言葉を使うとき、どのようなことを含意させているでしょうか。「まあだいだいこんな程度のことか」というように、理解の程度をあらわしていることが多いのでしょう。それは次へ進むための中間まとめということもありますが、これで仕方がないかという、どこか限界設定に通じていることもあります。ある状況をこれ以上はわかりはしないし、ガタガタしてもどうしようもないというある種の諦めや慰めにも通じています。

 このように「そんなものなんだ」とつぶやいてしまう私の内なる心は、何よりも本人の無知無能(自分の心身だけでなく他者との関係も含めて)への自覚が根っ子にありますが、世界やわが国社会の現状と将来への大きな不安に抵抗できない、できそうにもない自分というものがあるからでもあります。さらには最近とみに強まってきた人間というものの不完全性への深まる確信のようなもの(人間の歴史への視線ともいえますが)とも関連しているのでしょう。

 本稿では、次というか将来を探すことを目標に、いつものとおり表層的ではあるけれど、「今の世界を見つめる視点」を、他者の言葉に依拠しつつ整理しておくことにします。所詮、他者の言葉を借りて利口ぶっているだけになるかもしれませんが、ここに書くことは、私も私なりにそうであろうと同感していることなんだと、ご理解いただきたいのです。

 

🔹映画『希望のかなた』のビターな希望

 『希望のかなた』というシリア難民を描いた映画をみました[元町映画館で2月23日まで上映予定]。フィンランドのアキ・カウリスマキ監督の最新作です。『ルアーブルの靴みがき』に続く難民3部作の第2弾といわれています。

 カウリスマキ監督の映画とは、決して豊かとはいえない暮らしの無表情な登場人物たちに起きるドラマがとぼけた味の乾いたユーモアと奇妙に心に残る哀切感で、唯一無二のカウリスマキ・ワールドとして高い評価を得てきました。今作もその特質に変わりはありませんが、テーマがテーマだけにいつもより緊迫感とともにストレートなメッセージ性が感じられました。

 貨物船に隠れてフィンランドへたどりついたシリア難民であるカリード(大家族で生き残っているのは妹だけ)は、当局の官僚的な対応とネオ・ナチの暴力というシビアな現実に直面しつつ、それでも市井の人びとの無償の優しさと善意に助けられます(オフビートなエピソードが連続します)。そしてついに妹を呼び寄せることができたのに、身を寄せるレストランの店主が用意したねぐらへ戻ってきたカリードはネオ・ナチに襲われ腹部を刺されてしまいます。翌朝、腹部の傷を隠したまま約束していた妹と出会い元気づけて警察へと送り出したあと、腹部の痛みにたえながら身を横たえるカリードに、犬がくんくんと近づき、彼がふうっと微笑むシーンでエンディングとなります。

 

 カリード役のシェルワン・ハジは2010年に現在ほど情勢の悪化していなかったシリアからフィンランドに渡ってきた移民です。ハジへのインタビューから、ハジが二つの重いプレッシャー、すなわち役者としてフィンランドのブランドといえるカウリスマキ映画の主役を演じることと、難民として日常的に苦しんでいる人たちの重圧を背負わなければならないことがあったけれど、ハジは自分の義務でもあると思いその2つの苦しみを合わせて役作りをしたと語っています。

 興味深いことは、ハジ自身は移民、一方の役の青年は生き抜くためにすべてを残したまま国を脱出してきた難民であり、そこには大きな落差があるが、「今回の映画を体験したことによって、自分の中でオルタナティブな経験を持つことができ、そのギャップを埋めることができた」、つまり難民と同じような視点を持つことができるようになったと答えています。

 難民仲間のイラク人からカリードへ、難民がこの地に溶け込むためのアドバイスとして「楽しそうに笑いながら、決して笑いすぎないこと」と教えられるシーンが強く印象に残りました。

 

 カリードの微笑むラストシーンに続く、この映画のなかの未来はどうなっていくのかと問われたハジは、それはカウリスマキ監督に電話をしたほうがいいかなと笑いを誘いつつ、次のように答えています。

 「 カリードの生きる世界は、最後のシーンで終わると思っていません。こ

  の映画は社会への提案だと思います。この世界をより良く生きる場所にす

  るために、僕たちに出来ることが何かあるのではないか。お互いを刺し殺

  しあうのではなく、もっと違うことが出来るように、アキはいつも、シン

  プルに生きる普通の人を描いています。悲惨な状況で悲しみや絶望に打ち

  ひしがれている人たちを描く時でさえも、アキは彼らに¨人間性¨という

  ものを無くさせず、持たせ続け、彼らに変化をもたらそうとしているので

  す。」

 英題は「The Other Side of Hope」だそうで、希望などないことが暗示されていると書いているブログもあります。そうなのかもしれぬと思いつつ、でも、ハジが語っているとおり、ラストシーンの先に、遠くてもきっと希望はある、ビターでないような希望などない、そのためには人間性に裏打ちされた変化が必要であり、それが希望なんだというのが、カウリスマキ監督のメッセージではないかと、今はそう思っています。

  『希望のかなた』アキ・カウリスマキ監督/2017年 チラシ[表]

  同上 チラシ[裏]

 

🔹「他者嫌い」のナショナリズムと「引き下げデモクラシー」

 二人の文章から、「世界を見つめる視点」を考えてみることにします。

 いずれも毎日新聞に掲載されたもので、遠藤乾北海道大学教授の1月23日付「月刊 時論フォーラム/[ネオ・ナショナリズム]グローバル化、格差が相関」と中島岳志東工大教授の1月29日付「そこが聞きたい/暗殺から70年 ガンジーに学ぶ」です。

 

 遠藤は、現代は「ネオ・ナショナリズムの時代」であり、その特徴は「他者嫌い」であるとするフランスの国際政治学者であるB・バディの主張に、新旧のナショナリズムがそれほど明確に二分できるかは別だが、近年の動向をある程度言い当てていると賛同を示しています。

 かつてのナショナリズムは支配権力や帝国に対する自律や解放の物語を紡いでいた面があったが、ネオ・ナショナリズムは「怖れと嫌悪による」もので「本質的に否定形を取り、誰かをディスることで」成り立つというのです。申し上げるまでもなく「ディスる」の語源とは「ディスリスペクト(disrespect)」です。

 たとえば、「他者嫌い」の他者とは、フランスの場合であれば、「(ムスリム)移民、欧州連合(EU)、あるいは隠微な形でドイツが標的」、日本の場合は「右からは中国や韓国、左からは米国といった国(の人びと)」だとしています。そして、他者とされた存在との協調を図る(おおむねエリート)勢力も「また他者化され、嘲笑や侮蔑の対象」となると説明しています。

 

 では、なぜ「他者嫌い」のナショナリズムが勢いを増しているのかについてです。

 遠藤は近代人に特有の情動として「自らの存在に対する深い不安」、いわば神なき時代の人間の不安がベースにあって(これは今に始まったことではないが)、近年のグローバル化の進展が「さらに拍車をかけ、生の意味を揺さぶる」ことになるからだと指摘しています。つまり自分は誰なのか、何なのか、それを確認しにくいという現代の世界がその背景にあるからだというのです。

 そんなとき、生の意味を投射する先として、「自国(ネーション)ほどお手軽なものはない」とします。つまり「生の意味」を感じることのできない現実が多くの人びとをナショナリズムへと向かわせているという分析なのです。ただし、生の意味の確認は「いつどこでも一様であるわけではなく」、英国のEU離脱を決めた国民投票結果にみられるとおり「経済格差とかなりの確度で関連して」いるとも注書きを入れています。

 

 こうした遠藤の論旨に対応していますが、中島はその文章のテーマであるガンジーの哲学から遠く離れ、イスラム教徒との対立を内在する現代のヒンズー・ナショナリズムが跳梁するというような状況を「苦悩のグローバリズム」と呼びつつ分析しています。

 「インドだけでなく世界的に家族や地域、共同体の関係性が希薄になり、自己を位置づけてくれる存在、自己を承認してくれる存在が失われている」と指摘したうえで、中島はこうした流動化した社会では「自己を定義付け、承認してくれるナショナリズムのようなものが蔓延しやすい」と説明します。

 中島はヒンズー・ナショナリズムだけでなく、「移民排斥を訴える排外主義の拡大、トランプ米大統領の誕生」なども根っ子は同じだとします。ポーランド出身の社会学者であるジグムント・バウマンは先行きの不透明な社会において期待と失望の間を揺れ動く状況を「社会のカーニバル化」と呼んだそうですが、今の世界は「お祭りのように熱狂しやすい社会」であり、「熱狂した人々がナショナリズムを通してつながる現象」が起きているのではないかと説明しているのです。

 

 ここで中島の「ナショナリズム」についての見取り図も紹介しておきます。

 ナショナリズムは「国民の平等」や「国民主権」を求める中で西洋で生まれたもので、「平等性という概念と密接に結びつく考え方」という良い面もあるが、現在の格差が広がったような社会では、既得権益を批判するいわゆる「ポピュリズム(大衆迎合)政治家」と手を組みやすいのだというわけです。

 したがって、ナショナリズムは悪い面でみると、丸山真男が言う「引き下げデモクラシー(民主主義)」(他人を引きずり下ろすことで満足を得る民主主義)として機能してしまうというのです。現在の欧州では「ナショナリズムの悪い面がポピュリズムと結びつき、移民排斥の主張や強い民族主義が表れている」とみているのです。

 

 遠藤と中島は「ナショナリズム」への距離感に微妙な差異があるものの(「良い面」と「悪い面」を区分しているところは同じ)、おおむね「世界を見つめる視点」において共通していると、ご理解いただけたのではないかと思います。

 遠藤の「生の意味」を投射する先としての「ナショナリズム」に対応するのが、中島の場合は「ナショナリズム」が代替してくれる「自己の承認」ということになります。これは主語と述語を反対にしただけで同じことを言い回しをかえて述べているだけだといえます。くりかえしますが、「生の意味」や「自己の承認」が喪失とまでいかなくともさまざまな面で中間的な関係性が弱体化した現代の世界にあって、その接点や回復を「ナショナリズム」に求める動きが強くなっているというのが二人の「世界を見つめる視点」だということができます。

 

 そこで、ではどうすればいいのか、こうした時代への対処についてふれているところも紹介しておきましょう。

 遠藤は、俎上にあげた日本を、今や経済格差、所得格差が拡大し、社会階層が分断されつつあって「ネオ・ナショナリズムが静かに広がっている可能性がある」との現状認識に立ちます。すなわちかつて総中流をうたった日本で、「中間層は落ちぶれた旧中間層と、正規雇用された新中間層に分かれ、その上に富裕層がいる構図に変化しつつ」あるというのです。もともと中間層は貧者や富者と異なり、「寛容や友情といった美徳を発揮し、知恵や能力を磨くのに最適なポジションにあるように映っていた」のであり、このような性質を持った「中間層が希薄になり分断されれば」、「粗野な情動、例えば排外的ナショナリズムに直結する可能性が高い」と、遠藤は説明しています。

 グローバル化を反転させることは容易ではないけれど、こうした時代にあっても、「中間層を増やし、生の困難を減じ、他者への憎悪に転化するのを防ぐよう努めるのは大切なことである」と強調しています。「今後も選択肢は必ず残っているはずだ」と結んでいます。

 私としては、現在の政策を、とりわけ税制度や社会保障制度を中心に、こうした観点から再構築する余地は十分にあるのに、その姿勢が失われているのが現状なのだ、それこそ「そんなもんなんだ」で思考停止しているのが今の日本の姿なのでしょう。

 

 一方、中島は「ガンジーに学ぶ」というテーマであるからでしょうが、「引き下げデモクラシー」によって弱者に対するバッシングなどナショナリズムとポピュリズムの結びつきがみられる現状にあっては「ガンジーが実践したように、宗教が民主主義の中で果たせる役割を問い直す必要がある」と強調しています。ガンジーの実践とは異なる他者との共通性を認めるという寛容さ、「宗派を乗り越えて普遍性を認めた」ところに、中島さんはガンジー哲学の本領を見るからです。

 特定の宗教が政治に入り込めば政治は寛容性を喪失するし、危険だとし、そうではなくて「人々を結びつけて社会の土台を形成し、政治課題を話し合う「共同体としての宗教」が必要とされているのではないでしょうか」と結んでいます。

 私は中島の思想の根幹にありそうな「共同体としての宗教」の意味が十分に理解できないものの、ガンジーの哲学にある宗教的な寛容性ということが、今の世界によって最も切実に求められている課題であることはその通りだと考えています。

 

 ここで二人の「世界を見つめる視点」として紹介した内容について、キーワードによる整理を試みておくことにします。

          【遠藤】               【中島】

[現代世界]・「他者嫌い」のナショナリズム  ・ナショナリズムとポピュリズムの結合 

       =ネオ・ナショナリズムの時代   =苦悩のグローバリズム

[背  景]・「生の意味」の確認の困難さ   ・「自己の承認」存在の喪失

       →ナショナリズムへの投射     →ナショナリズムによる承認

               ・グローバル化による格差の拡大  ・引き下げデモクラシー

       →中間層の希薄化と分断化     ⇔社会のカーニバル化

[現  象]・「ディスる」対象への粗野な情動 ・宗教的な不寛容⇔強い民族主義

      ・協調姿勢勢力への嘲笑と侮蔑    ・移民排斥⇔弱者へのバッシング

[対  応]・中間層の厚みの回復を図る方策   ・宗教の役割の問い直し(寛容性の回復)

      ・生の困難を減じる方策の拡充    →社会の土台「共同体としての宗教」 

 

 以上の遠藤と中島の「世界を見つめる視点」は、昨年の大晦日にアップしたブログ(「年の瀬に思うことーカズオ・イシグロから「港の人」へー」)で論じたカズオ・イシグロや小熊英二の言葉と通底していることはいうまでもありません。

 たとえば、カズオ・イシグロは現代が分断の時代だとし、「部族間の憎しみがますます大きくなり、共同体が分裂して集団が敵対する時代を生きている」としています。このことよりもっと危険なのは、ポピュリズムが向かう先に「社会的マイノリティへの責任転嫁」という現象があると強調しています。

 一方の小熊も、昨年12月の論壇時評(「朝日新聞」)で、日本の社会に瀰漫する苛立ちや恐れから発現する弱者への攻撃、「弱者利権」批判の顕在化について言及しています。そして、このような「少数派への不寛容」は日本だけではなく、中国にも広がっており、無力感を抱く人に不寛容が蔓延しているとしています。

 さらに1月の論壇時評で、小熊は、福祉に対する意識調査では少し前までは「高福祉高負担」の支持者が多数派であったが、直近では多数派でなくなっている(「比較的所得の高い人」が支持者という構図)という現状をとらえ、つまり相対的に貧しい人が福祉の充実を支持していない状況を特記すべきと指摘します。

 それは、OECD諸国の中で最も累進度が低い状況もあって「もともと日本の福祉は貧しい人の支持を得ていなかった」のです。そのうえ「社会全体が余裕を失うなかで、ますます福祉への支持が失われ、格差が拡大している」のだと括り、そして、小熊は現行制度にみられる各種の歪みを正していくことの重要性を主張しています。

 そして、小熊は私が本稿のタイトルに使った「そんなものなんだ」を含む雨宮処凛の感慨(09年の「年越し派遣村」への支持から12年の生活保護叩きを経て今に至る10年ほどの世相)を引用しています。

 「 多くの人がこの国の「格差と貧困」に麻痺し、諦め、「そんなものなん

  だ」と受け入れていく過程そのものに思えた。」

 

 こうした雨宮の感慨からは、冒頭に記した「そんなものなんだ」が諦めを受け入れていく過程で使われたりもしているのがわかります。

 当たり前のことですが、「世界を見つめる視点」を再確認することは現代の世界と日本をより理解するためです。本稿の「世界を見つめる視点」は現状把握のための、いわば命名行為のような出発点にすぎませんが、本来は、近い将来、遠い未来の世界に対する希望と責任につながるものでなければならないはずです、どんなに希望から遠くあるとしても。

 

🔹価値の分断化と希望のありか

 ちょっと視点を変えてみましょう。

 新年企画というのでしょうか、朝日新聞のオピニオン面に各界で活躍する「若手」がより若い人たちへ「希望」について語る「希望はどこに」という4回シリーズ(1月1日、5〜7日)があったそうです。

 このうち私は2回分を後から読んだだけですが、「希望学」にも関わってきた宇野重規東大教授は「わたしの紙面批評」(2018.1.20)で、ありがちな企画と思えたが、記事から現代日本社会の閉塞感をいかに打ち破るかについて、考えさせられる言葉が多くあったと感想を述べています。

 

 ここでは、平成生まれの直木賞作家である朝井リョウの記事だけを紹介してみます。

 かつて大学生のとき「チア男子!!」の執筆中に出会い、友人となった男性との最近の会話を小説仕立てで書いています。彼は当時男子だけのチアリーディングチームのキャプテンであり、今回、元号が変わることに希望を感じている人として登場しています。

 その友人に希望を感じているわけを尋ねると、うーんと悩みながら「自分たちももっと、嫌だと思ったことを嫌だと言っていいんじゃないかって」とやっと口を開いたとあります。

 社会人になって、男子のチアをしていたと話した場合には、「女がやるものだろ?」「ミニスカはいて踊っていたのか」などの言葉が飛んできたけれど、これまでは「笑ったり過剰におどけたりしてその場をやり過ごしてきた」と語ります。先輩のやり始めた男子チアの大会を手伝うようになって、「そうやって言葉を受け流すことに強く抵抗を感じるようになった」というのです。

 ですから、最初の言葉を発することになったのです。「俺が嫌だと思った言葉を受け流すってことは、次の世代にその嫌な言葉が流れ着くってことなのかなって。(中略)なのに、変なこと言われても一緒に笑っている自分がいて……」と告白します。そして、「新しい方法で元号が変わるってなったとき、自分ももっと、自分なりのやり方で、嫌だと思うことにNOを突き付けていいのかもって思ったんだよね」と語ります。

 これに対し、朝井は自分が変化の前に強張り「キャッチーな肩書に一秒でもしがみつこうとしていた」と反省し、次のように文章を結んでいます。

 「 どんなときも、大会運営の苦労をどこか嬉しそうに語る彼のように、こ

  の世界で起きている変化を自分のもとに手繰り寄せ、自らの頭で思考し、

  今後も次々と立ちはだかるであろう山の乗り越え方を模索していきたい。

  その試みの連なりを、私は、希望と呼びたい。」

 

 宇野は「紙面批評」の最後に朝井の記事を大切な指摘をしているとし、次のように書いています。

 「 あらゆる社会の変化は、すべてを「世間の常識だから」と諦める呪いか

  らの解放の号砲である。自分が嫌だと思うことをのみ込んで、次の世代に

  先送りするのはやめよう。性や世代など、多様な人々が共に生きる社会の

  モデルを模索することが「希望」だという朝井さんの言葉こそ、あるいは

  朝日新聞のメッセージかもしれないと思った。」

 

 こんな<希望のありか>は、前記の『希望のかなた』のビターな希望とか、「世界を見つめる視点」で「そんなものなんだ」を乗り越える希望とかに比べると、ずいぶん穏やかで緩やかなもののように感じます。でも、今日の日本において、「世間の常識だからと諦める呪い」からの解放は、大きな<不安のありか>に対峙していくために大変重要かつ困難な出発点であり、すべてに通じていることなんだと、私は理解しました。

 

🔹「時代に抗する力」と鶴見俊輔

 本稿に登場した中島岳志は、『昭和を語るー鶴見俊輔座談ー 』(2015年6月刊/晶文社)の<解説>を担当しています。

 この「鶴見俊輔の岩床」と題する解説で、中島は左翼知識人・進歩的文化人というレッテルによる通俗的な「鶴見俊輔」理解を、「表層的な右派/左派の壁を越え、人間の本源的な行動原理に迫る」アクチュアルな思想家として再定義を試みています。そして、解説の最後に、「鶴見の精神の継承こそが、時代に抗する力」だと主張し、中島自身も解説を踏み外すように「私も鶴見から渡されたバトンを握りしめ、現代を走りたいと思う」と結んでいます。

 

 ここでは、中島が引用する、1978-79年に鶴見が粕谷一希との間で交わした論争?だけにしぼって紹介することにします。

 粕谷は、「鶴見が「市民の論理」に依拠しつつ、「国家の論理を否定」している」とし、「鶴見の立場は「無国籍市民」の礼賛であり、国民国家そのものの解体を目指している」と批判したのです。これ関わる部分として、中島は粕谷の文章から次のとおり引用しています。

 「 鶴見さんは日本の保守派が、政府と国家を同一視しがちなことに危惧を

  もたれていますが、保守派は日本の進歩派が、政府や体制を否定すること

  で、トータルな国家否定にいたることを危惧しているのです。」

 これに対し、鶴見は次のとおり答えたと、中島は引用しています。

 「 民族の自己同一性をうしなわずに、敗戦と敗戦後の状況をどのように生

  きるか、という問題が、日本の戦後思想の重大な問題となってきました。

  この場合、日本民族の自己同一性が、そのまま、日本国家の自己同一性で

  はないということ(両者は関連はありますが)、それをつよく主張したいの

  です。さらに、日本民族の自己同一性は、そのまま現政府の自己同一性で

  はないということもはっきりとおぼえておきたいことです。その区別の中

  に、日本国家批判、日本政府批判の根拠があります。」

 中島によれば、鶴見は保守思想の重要性を繰り返し言及していますが、日本では正当な保守思想が育たず、「その成立の社会的基礎そのものが薄い」のであり、「どうしても日本の保守は「そのまま現政府への無条件の追随になっていく」」というのです。このことに関し、先の鶴見の文章から、中島は次の部分を引用しています。

 「 私は、保守主義者を重んじたいと思います(その心がけどおりに私が行動

  しているかどうかはわかりませんが)。その保守主義が、みずからのうちに

  うたがいをもっていることを、つよく希望したいのです。保守主義が、み

  ずからの現在の思想にたいしてうたがいをもち、そのうたがいが自分のう

  しろだてとなっている国家に及ぶような保守的懐疑主義としての機能を何

  らかの仕方で保つことを希望します。(中略)

   戦争中から戦後をとおって今にいたるまで、私が、こだわっているの

  は、保守主義がそのまま国家批判の権利の放棄につらなるありかたで

  す。」

 中島のいう「岩床」とは、ここで鶴見の用いる「民族の自己同一性」と「国家の自己同一性」を峻別できる思想の基盤というべきものなのかもしれません。これに関連し、中島はもっと平易な言葉を用いて、鶴見にとって「大切なものは「態度」であり「人柄」である。表層的な思想やイデオロギーを超えた「生き方」にこそ価値はあり、その認識にこそ日本の伝統はある」と読み取り、それが鶴見の「岩床」なのだといいたいようなのです。

 

 中島は結びの直前で、次のように綴っています。

 「 彼(鶴見)の左派的なスタンスの背景には、正当な保守思想に対する憧憬

  と敬意が存在した。保守の人間観を信頼し、庶民の英知を平和思想に発展

  させる道を「革新」という枠組みの中で模索した。」

 「 鶴見の問いは、現在でも有効である。いやむしろ、今の保守のインフレ

  状態が続く現在だからこそ、重要なメッセージとして輝いている。」

 だからこそ、中島は「鶴見の精神の継承こそが、時代に抗する力」となると主張し、鶴見の再評価につながることを願って、解説を締めくくっています。

 

 私としては、少しは読んできた鶴見俊輔のことも、ましてや中島岳志のことも、無知というしかないのですが、中島の読み方は刺激的ではありました。でも肝心の「岩床」のことが十分に理解できたとはいえません。どうも先に紹介した中島の「共同体としての宗教」にも通じる伝統の核にある「知恵」のようなもの、庶民の伝統が継承してきた「村の思想」ということらしいのです。「そんな土着の思想と平和主義を一体化させ、日本という国民国家の「岩床」を確立しなければならない」との鶴見の思想を、中島は受けとめたことだけ記しておきます。

 鶴見俊輔を今こそ読み返したい、新たに読みたいと私に思わせてくれた中島に感謝したいと思っています。またまた「そんなものなんだ」とつぶやくことになりそうですが、「諦める呪い」にとどまらせてはくれないでしょう。

 

🔹おわりにー思考停止の前にー

 「そんなものなんだ」というつぶやきへの懐疑から、大げさで気恥ずかしい「世界を見つめる視点」を再構成してみようとしました。まさに表層的、皮相的というしかなく、現代の世界と日本について他者の言葉を用いて命名を試みるとば口に立ったというだけにすぎません。

 でも、この命名行為は「そんなものなんだ」と諦める呪いではなく、そして思考停止してしまうのではなく、諸々の出発点でありたいと考えています。というか、書いていてそう思ったのです。

 

 それにしても、こんな一言で括りたくない「グローバル化」、中島の「苦悩のグローバリズム」の現代の世界は、いろんなフェーズが地続きでつながっています。いわばプレートの相互貫入が地殻を動かし地震の震源となるように、目の届かくないところで、未来への動きが生じているのでしょう。

 軽々しく世界という言葉を使ってきましたが、それは私であり、あなたであり、彼・彼女でもあります。<大きな不安>は世界にも、私にも、あなたにも、彼・彼女にもあります。ビターではない希望などない、つまり痛みを伴わない希望はないのでしょう。

 前記したこの世界の変化を前に、そんな立ちはだかるであろう山の乗り越え方を模索していきたいという朝井リョウの言葉は、私にも示唆を与えてくれました。時代に抗する思想、思想という言葉が大げさであるとしたら、時代に抗する力は、私、あなた、彼・彼女の日常からしか生まれてきません。

 少なくとも、これからもつぶやくであろう「そんなものなんだ」によって思考停止することなく、次への起点となるようにつぶやきたいものだと、つぶやいています。

 

 

 

 

 

2018.01.27 Saturday

静かに想いと共に立っている人間像ー舟越桂の彫刻からー

 昼前に池のそばを通ると、薄いけれど氷が水面すべてをおおっていました。最近、こんな全面に氷が張っている池をみたことがありません。朝早くの時間にはあったとしても、太陽の光がそそぐもうすぐ正午というころになって、こんな状態は久しく記憶にありません。

 冬らしい冬、記録的な寒波の到来です。仕事で通勤しているころは池の堤防道路を利用していなかったから見ていないだけかもしれませんが、これはきわめてめずらしい現象です。

 昭和40年代の宅地開発で池は狭くなり、今は住宅に囲まれています。そのもっと前、神社にとなり合わせた広い池だったころ、つまり私の10歳前後のころ、日のあたりにくい部分にぶあつい氷が張ることがあって、子供たちはその氷に乗って、時々ビリッと亀裂が入ったりしても遊んでいました。

 いずれにしても、この数日は冷たさが身に沁みる日が続いています。街中の商店で、こんなに暖房が効きにくいのははじめてだと驚く店主に何人も出会ったぐらいですから、この冷蔵庫の中にいるみたいな低温状態はやはり稀なことなのです。さいわいこの地には雪が降り積もっていないのですから、閉じこもらず外へ出ることにいたしましょう。

  近くの池にできた一面の氷 [2018.1.25/11時30分頃に撮影]

 

 久しぶりに舟越桂の彫刻の前に立つことができました。

 先日、大阪へ出かけたとき、「唐代胡人俑」の展覧会が開催されている中之島の東洋陶磁美術館にも立ち寄りましたが、国立国際美術館との連携企画「いまを表現する人間像」が同時開催されていました。10体だけですが、国立国際美術館の所蔵する現代彫刻が市立の東洋陶磁美術館へ運びこまれ、そのなかの一つとして舟越さんの彫刻が展示されていたのです。

 今回、「唐代胡人俑」にも圧倒されましたし、舟越さん以外のマリノ・マリーニらの出品作品にも魅かれるものがありましたが、ここでは舟越桂にしぼって書いてみることにします。

  舟越桂「銀の扉に触れる」 1990/92.5×59.7×29.3/楠、彩色、大理石

  同上

  同上

 まず、先に写真を並べてみました。舟越桂(1951-)が1990年に制作した「銀の扉に触れる」という作品です。舟越さんの他作品と同様に、クスノキに彩色した木彫ということになります。眼は大理石です。

 写真からという制約はありますが、全体としていかが感じられますか。たとえば、どのような人物なのでしょうか。顔や身体の特徴はいかがでしょうか。この人物の視線はどこに向かっていますか。そしてどのような感情があらわれているように思いますか。口を開くと何を語りそうですか。舟越さんはどんな意図で作ったのでしょうか。そして好きですか、嫌いですか。

 と、まあ、何か言葉を探そうとして、あなたに、そして自分にも問うてみたのです。

 

 久しぶりで舟越さんの彫刻に対面したときは、ホホウ、なるほどなるほど、なんてことしか言葉になっていなかったかもしれません。直前にみた「唐代胡人俑」の身体の動きをともなう生き生きとした表情との落差にちょっと身構えてしまったというべきでしょう。

 過去もそうであったように、その半身像はその前で私の足を止めさせ、しばし沈黙の時間をもたらしました。わーすごいとか、こりゃ美しいとか、いゃーすごいエネルギーを放射してくるとか、そんなことではないのです。どちらかといえば、彫刻のまわりにシーンと静かな空間ができているだけです。それでも、謎めいた違和感にとらわれて気になってしかたがないのです。そして、先ほどのどうしてという問い、それは彫刻との対話と呼べるものかもしれませんが、そんな時間に引っぱりこまれるのです。

 そんな問いに対し、私の通り一遍の印象や思いつきを逐一記すことなどやめておきましょう。先日の古本市で入手できた舟越さんの『個人はみな絶滅危惧種という存在』(2011年9月30日刊/集英社)から、この本に転載された「彫刻家・舟越桂の創作メモ」をベースに、その<謎めいた違和感>との関係を、対話しながら探ってみることします。

  「銀の扉に触れる」左はデッサン 『森へ行く日 舟越桂作品集』1992年2月刊/求龍堂より

 

 まず、どうして頭像でも全身像でもなく、半身像(胸像)なのかという問いから入ります。

 これは舟越さんが自分の作品に何を求めているのかにも関わってくる問いなのです。舟越さんは、半身像(胸像)に比し、頭像の場合は「その人(モデル)の内面のようなものが、多く強調」されるし、自分の出したい「「そこにいる」という感じは出ない」というのです。一方、全身像の場合は「今のところのぼくにとっていろいろと要素が多すぎて多くをしゃべり過ぎる」ように思えるし、「人類の代表がひとりで立っているというような要素が多く入ってくる」から、今は作れないと語っています。

 その前提にある創作の方向性について、初めから胸像をねらっていたわけではなく、トライしてみてフィットしたのだと、舟越さんは次のとおり書いています。

 「 人間がそこに居る。

   私のそばに居るというような実感をもてるものを作りたい。

   見つめながら対話ができるようなものを作りたい。

   そばにいるような感じになるためにはどうしてもある程度リアルさが必

  要だった。

   だけと表面のリアルさを追求するつもりはなかったし、これからもない

  と思う。

   最初にああいう切り方の胸像にした時はほとんど意識していなかった。

   ただどうしても頭部と体のバランスをああいう形で作ってみたかった。

   何かができそうに思った。後であのバランスには何かあると思った。

   あのバランスになった時に初めて感じられる存在感があると思った。」

                              [p115]

  舟越桂『彫刻家・舟越桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種という存在』2011年9月刊/集英社

 

 次に、舟越さんの彫刻は、どうしてあんな表情と眼差しをしているのかという問いです。

 ほぼ人物像ばかりですが(最近は「スフィンクス」がテーマになったりもしていますが)、無表情とまではいかなくとも、感情があらわに顔面に出ていなくて、どちらかといえばあいまいな表情をうかべ、視線の方向は近くより遠くをみつめているようなものがほとんだと感じています。前出の創作メモにある「私のそばに居るというような実感をもてるもの」とか「見つめながら対話ができるようなもの」を作りたいという舟越さんの彫刻は、ぎらぎらとした個性とか外向的な感性や行動性というより、ある種の象徴的で普遍的な人間としての「たちすくんでいるそれぞれの人の姿」を体現した存在感を示しています。

 人間の生きていくシーンを「気をつけながらそぎ落している行く」と、「木の幹のように残る」のは「シーンを呑み込んだまま黙って立ちすくんでいるそれぞれの人の姿」なのだと、舟越さんは説明しています。 

 このあたりのことを、舟越さんの創作メモには次のような言葉が記録されていました。

 「 人間の存在がいる。

   部分だけでなく存在そのものを感じられる形にしたい。そうするとなぜ

      か黙って立っている形にしか見えなかった。

   動きの記憶や変化の兆しを内に持ちながら、静かに想いと共に立ってい

  る人間。

   そんな事々を目に見える形にしたいと思う。」[p119]

 また別のメモには、こんな言葉もあって、やはり「目の人」なんだと思うしかありません。

 「 あるいは私は人間がどんなものなのかなどという事は

   全くわかっていないのかもしれなくて

   そしてそれなのに人間について私に語りかけてくる顔に時々出会う。

   その顔を作ることで人間がどんなものかを知りたがっているのかもしれ

  ない。

   「人間について考えているのですか?その代表として私はここに来まし

  た」と語りかけてくるような人を時々見かける。

   「私をテキストに人間を考えてください」」[p111]

 

 結局、舟越さんは、自分の感じている「人間の姿を代表し、象徴」する人物像、人間像を制作したいと考えており、そんな人物の視線とも関連づけて次のように書いています。

 「 遠い目の人がいる。

   自分の中を見つめているような遠い目をした人がときどきいる。

   もっとも遠いものは自分なのかもしれない。

   世界を知ることとは、自分自身を知ることという一節を思い出す。

   彫刻的なおもしろさをもった顔だというだけでは、私は動き出せない。

   私が感じている人間の姿を代表し、象徴してくれるような個人に出会っ

  た時、私はその人の像を作ってみたいと思う。」[p52]

 「遠い目」について、こんな別のメモがあります。

 「 限りなく遠くを見つめる視線が、内に向かう視線と似ている事。

   それは最も遠くにあり、わかりにくいものとして自分がある事。」[p48]

 

 私は、舟越さんの彫刻が彼の考える人間を代表し、象徴する顔や姿であるという考え方は理解できるとしても、具体の像にただちに共鳴してそうなんだと思ったりすることはありません。「謎めいた違和感」というべきか、具象性と象徴性の境界のようなところで、それこそ立ちすくんでいるとみえる人間像に、毎回もどかしさや噛みきれなさを感じることになります。

 でもしかし、そこに立ちどまってしばらくすると、聖人ではないが喜怒哀楽をすべて呑みこんだような人物を前にして、これが私たちと時代を共有する現代の人間像なのであろう、すべてではないがそうなのだろう、という少し距離をおいた共感を否定できなくなるのが、舟越さんの彫刻でした。彫刻の前での沈黙の時間は、あやうい境界に身をおき立ちすくんでいる人物像から、哀しみといつくしみとでも呼びたいような感情を、とらえがたい違和感とともに私の心に刻みつけてきます。

 この間、「謎めいた違和感」は消えてしまうわけではありませんが、日常的でありながら日常を越えた人物に出会ってしまったという、ちょっと他者に語りえない体験に心が動かされるのを実感できるのです。

 

 繰りかえすことになりますが、舟越さんはあるインタビュー(『アトリエ』1989年6月号)で次のように応えていたとあります。

 「 人間の何か一つの情景だけを描いてしまうと、人間の全体像は逃れて

  しまう。静かにあるほうが、泣くことも笑うことも、すべてを言えるよ

  うな気がする。」

  舟越桂の創作メモである紙片の写真 『個人はみな絶滅危惧種という存在』より

 

 舟越桂の彫刻を知ったのは、あるいは目にすることができたのは、いつ頃のことであったか、残念ながら、はっきりしません。けれど、わりと早い時点で、テレビ番組や雑誌から、父である舟越安武の彫刻への関心と相まって知ることになったのではないでしょうか。

 私にとって、一人の画家や彫刻家の作品を目の前にすることのできた回数において、舟越桂は最も多い部類になります。もちろん海文堂ギャラリーやギャラリー島田で定期的に出会うことのできる作家を除くと一番多いのかもしれません。手持ちの本で最も早く出版されたのは1992年の『森へ行く日』ですから、少なくともそれより前から何がしかの関心を寄せていたのでしょう。1990年代の東京銀座の西村画廊には舟越さんの彫刻がいつも展示されていて、東京出張で時間のあるときはよく立ち寄っていた記憶があります。

 大規模な展覧会へ出かけたのは最近のことです。2010年の金沢21世紀美術館での『Alternative Humanities 新たなる精神のかたち ヤン・ファーブル×舟越桂』、そして2015年の兵庫県立美術館での『舟越桂 私の中のスフィンクス』展へ足を運んでいます。

 

 どうしてなのでしょう。抽象彫刻に傾きがちな傾向にあって、具象というべき舟越桂の作品から「今まで見たこともない」という別格の輝きを感じていたからなのだということができるでしょう。私のことですから、何かを読んでそう思ったのかもしれませんが、写実性があることによって、近づきやすいがそれをはね返そうとする強い力に「謎めいた違和感」を覚えつつ、その作品の放つ不思議な印象の魅力に捕らわれたとでも、今は書いておきましょう。

 彫刻作品として、より本質的であることによって、より現代的でありうるという、いわば反語的な結合の現場に立ち会ったということができます。このことを「独創的」と呼ぶのでしょうか。

  『森へ行く日 舟越桂作品集』1992年2月刊/求龍堂 [表紙]

  『ヤン・ファーブル×舟越桂 Alternative Humanities』2010年5月刊/淡交社 

 

 ではどうして木彫であるのか、木彫であることは舟越さんの創作にどのような影響を与えているのかという問いです。

 この問いは、前出の『森へ行く日』に寄稿した酒井忠康さんが、舟越さんの彫刻の展開を論じた箇所で「人間像のイメージに重層した記憶=時間を加味した」とし、その背景を次のように書いていたからです。

 「 これはおそらく、木彫という技法のもつ制約と結びついて養われたもの

  にちがいない。人間感情の塊りが、木との対話(もっと正確にいえば、木

  のもつ素性)を通じて浄化されるところがあるからだ。」

 木彫であることと舟越彫刻の魅力との結びつきに言及しているのです。

 

 金沢21世紀美術館の展覧会カタログのなかに、「舟越桂へのインタビュー」があります。一貫して木彫、それもクスノキを彫ることを、舟越さんは「自分にとって周波数が合う行為」だと力説しています。

 クスノキとの出会いは、大学院生のときに函館のトラピスト修道院からマリア様の制作を依頼されたのが最初だったといいます。他の素材、たとえば<粘土>は「包丁のように一度に切り取ることが」でき、「考えが鈍い、遅いという人間には、速すぎてうまく行為を利用できない」ところがあります。一方、<石>の場合は、「木よりももっと時間がかか」り、「僕は飽きてしま」い、「今度は耐えることが必要になって」くるので自分には不向きだというわけです。

 クスノキ、木彫である意味をこう語っています。

 「 木は一定の時間がかかる。その一定の時間が僕にはちょうどいいので

  す。行為に必要な時間といえるのかもしれません。ゆるやかな時間、

  ゆったりとした時間のなかで作品を築くことができるのです。(中略)木彫

  が必要とする時間の長さ、あるいは短さがちょうどいいのです。」

 このことを問うた同美術館の村田大輔さんは、「日本で古くから仏像に用いられてきたクスノキからかたちが生み出され」ていることを指摘し、次のようにコメントしています。

 「 舟越は30年以上にもわたりクスノキという素材にこだわるなかで、制

  作過程における自らの身体とクスノキがもつ固有の物質感とのつながりに

  重きを置いてきた。こうして生み出される舟越の作品には、自己と自らを

  取り巻く世界との融合という日本固有の自然観・宗教観が存在する。」

 さらに村田さんはカトリック家庭に生まれ育ち、「自作について「祈り」や「希望」という言葉を用いる舟越の表現は、キリスト教的な要素が強く」、聖人像を多く手がけた父の影響も感じられると、双方からのつながり、多様な宗教観と世界観の共存を説明しています。

 

 舟越さんは「目の人」であり、クスノキをたえず彫る「手の人」であります。そこから芸術への言葉が生まれてきます。『個人はみな絶滅危惧種という存在』からのメモです。

 「 手で考えるという事はありえない。

   だから言い換える必要がある。

   手を動かしながら考えることと、

   何もしないで考えることとの間には

   何か違いがあるように思える。」[p105]

 「 芸術は作られるのではなく生まれるのだろう。

   私たちのやれることなどそう大きなわけがない。」[p103]

 「 芸術というマグマがあり、噴火口を大小いろいろ持っている。

   それぞれから噴き出るのは、マグマそのもののエネルギー、力なのだ。

   作家は、噴火口であり、口をまっすぐに柔らかくしておく。

   マグマは地球の一部である。」[p103] 

 「芸術は作られるのではなく生まれる」と舟越さんは捉え、そのために「手を動かしながら考える」ことを続けているのです。

 

 この『個人はみな絶滅危惧種という存在』という本の冒頭におかれた<90.1.12>という日付のあるメモは、次のとおりです。

 「 日本のアーティストは「……どうあるべき」で動きすぎないか。

   西洋のアーティストは「……どうしたい」で動いているのか。」[p12]

 目と手を動かしながら考えてきた彫刻家である舟越桂の日本の美術界への批判と受けとめていいのでしょうか。西洋との比較において、より明確になる傾向について言葉にしたものでしょうか。ここでは一方的に「西洋に比べて日本は」的な自己批判を行っていないように思うのですが、いかがでしょうか。

 丸山真男の「「である」ことと「する」こと」(『日本の思想』岩波新書)という有名な論文を想起してしまいます。近代から現代へという人間の歴史において、「である」価値から「する」価値へ比重が移行していく必然性があるが、そうしたなかで価値の倒錯が顕在化していると、丸山は批判します。つまり、「前者の否定しがたい意味をもつ部面に後者がまん延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っている」という価値の倒錯を指摘しているのです。これはわが国の政治社会の現状(昭和30年代初頭)への批評ですから、「アーティスト」とは別の話ということになりますが、私は無関係ではないと思っています。

 この論文から30年以上を経た時点の舟越の創作メモは、日本の「どうあるべき」を批判し、片や「どうしたい」を支持していると理解するより、自分を含めた日本のアーティストを自己批判したうえで、価値の倒錯に陥らないよう、その違いをいわば自己確認しているものだと理解したいと考えています。このことは、前記した村田さんが指摘している舟越桂の彫刻における日本と西洋の共存、「多様な宗教観と世界観の共存」とつながるものといえます。

 このように考えてみると、たしかに舟越さんは「どうあるべき」と「どうしたい」の狭間に苦悩しながら、自らの彫刻を築いてきたように感じられるのです。

 

 さて、そろそろ最後のコーナーにきたようです。

 先ほどインタビューで、舟越さんはノヴァリースの『青い花』の挿話を紹介します。スフィンクスから「この世界を知るとはなんぞや」と謎をかけられた主人公の少女は、即座に「自分自身を知ること」と答えます。このことに舟越さんははっととし、「とても重要な何かについて書かれている」と感じたのです。これに続けてこう語っています。

 「 自分自身をよく知ることが、この世界を知ることまでひろがるというこ

  とは、一人の人物の肖像をつくることにとどまらないと思えたのです。

  人の人物の肖像をつくることが、人間全体をつくることにひろがるのであ

  れば、素晴らしいと、その場面はとても大切なキーワードになりまし

  た。」

 このインタビューは2010年3月ですが、新しい地平というか「スフィンクス」シリーズから再び「普通の人」を制作したりと、舟越さんの言葉では「自分のやれる範囲、自分のもっている野原の柵がひろがってきたと感じています」と、自在な境地を語っています。

 この発言を受けとめるように、村田さんは次のコメントを寄せています。

 「 舟越はインタビューのなかで「自分自身を知ることが世界を知る」とい

  うノヴァリースの言葉に言及する。制作行為のなかで自己と向き合い、自

  己を見つめ、他者と世界のつながることによって生み出される舟越の人間

  像は、人がこの世界とどのように関わり、生きるかという普遍的な人間の

  存在性についての物語を織り成している。」

 私は2000年代以降の舟越さんの仕事を十分に追いきれなくて、こんないささか難しい表現にとまどいますが、私の実感ともかけ離れているものではないように感じています。

 私としては舟越さんがクスノキから彫り出していく「動きの記憶や変化の兆しを内に持ちながら、静かに想いと共に立っている人間」の像を、私たちと生きる時代を共有する人間像として、みつめ続けていきたいと願っています。

 

【追補】

 参考のため、現在、東洋陶磁美術館で開催中(3月25日(日)まで)の「唐代胡人俑」展と「いまを表現する人間像」展のチラシ写真を貼りつけておきます。

  「唐代胡人俑」展チラシ[オモテ]

  同上[ウラ]

  「いまを表現する人間像」の出展作品一覧 

 

 

2018.01.20 Saturday

雨のメモリアルデーにー元号の変わり目を前にしてー

 今年の震災メモリアルデーは、早春にふるような季節外れの雨の一日でした。23回目となりますが、雪が舞ったり氷雨がふったりすることはあっても、こんなしっかりとした雨ははじめてのことでした。

 近頃よく、過ぎてしまった物理的な時間の長さを意識したとき、途方にくれるような気持ちになることがあります。そんな感覚を当ブログ(「歩く、掘り起す、鎮魂するー小沢信男『東京骨灰紀行』ー(2・完)」の冒頭)でも書いています。この23年は生きていて身辺にも世界にもいろいろとあったことを否定できないのに、一方で、あっという間のことであったと感じてしまう、そんな矛盾のようなものを抱えているということです。

 

 阪神・淡路大震災を直接経験し、とりわけ近親者や友人に犠牲になった方のいる人たちは、そうではない私たちとちがっていることでしょう。震災の風化といわれますが、そのような人たちは風化と呼ばれる忘却を拒む「何か」、「記憶に新たである」核となる体験をもっています。そんな体験に遭遇したことから、震災以降の「生きてきた証」として犠牲者に語りうる何か(生き方とでも呼ぶのでしょうか)を持たざるをえなくなった方々も多いのかもしれません。

 時の経過は、私を含めたそうではない人びととの「記憶」を否応もなく減衰させていきます。「震災の風化」という言葉自体がそんな人間の現実を反映しているものだということができます。だからこそメモリアルデーには追悼式をはじめさまざまなイベントが、風化に抗する「記憶を新たにする」装置として各地で行われているのでしょう。

 一昨年の当ブログ(「21年目の<記憶>ーメモリアルウォーク2016ー」)に「都合よく忘却の海にフラフラと漂っているように自覚せざるを得ないのは情けないです」と書いた地点から、私自身は一歩も踏みだせていないと申しあげるしかありません。

 

 現在、神戸大学附属図書館(社会科学系図書館)では震災に関する展示が開催されています。いつも聴講している六甲台第2キャンパスより一段高い、かつての神戸商業大学の学舎群を引き継ぐ六甲台第1キャンパスへはじめて足を運びました。テーマは「阪神・淡路大震災と地域の復興ー23年目の神戸と、地域・コミュニティの課題ー」といささか長いものです(2月1日まで開催)。展示は3部構成、といっても全体にコンパクトなもので、学生さんも協力して作成したであろう手作り感がありました。

 特に「第1部 阪神・淡路大震災を見つめるー大木本美通氏追悼」という写真中心の展示パネルに目が引かれました。放送カメラマンであった大木本さんは、下の写真の内容からもお分かりいただけるように、震災直後から仕事のかたわら被災地の人と街の姿を撮影し続けた方のようです。現在、そうして撮影された2万点をこえる記録写真が神戸大学附属図書館震災文庫の貴重なコレクションとして公開されています(「震災記録写真(大木本美通撮影)」)。

 その大木本さんが昨年7月に亡くなられたとのことで、今回の追悼の展示となったものです。

 

 展示されている写真は、自分の目はもちろん、新聞・テレビからの映像によって、どこか既視感のあるものですが、私自身の「記憶を新たにする」ための素材にしたいと思って、展示の写真の断片だけでもアップしておくことにします。

 「1995年1月17日朝、出勤中の足どり」という1枚のパネルが展示されています。まさに震災当日の朝、妙法寺の自宅から、朝日放送神戸支局のある三ノ宮まで歩いていく途中、大木本さんがそのとき手持ちの24枚撮りフィルムに撮影した写真が配置されたパネルです。「約12~13辧2時間を越えた」とある出勤でしたが、フィルムは途中の「大開町」で尽きたとあります。

 大木本さんのフィルムには、地震発生から1〜3時間の街の諸相、家屋・ビルの倒壊、火事による炎と煙、下に地下鉄の走る幹線道路の陥没、そして街をいく人びとなどが残されました。とてつもない災害だと思ってはおられたでしょうが、被害の実情などは知る由もなかったタイミングで撮影されたのです。

 私は地下鉄の動きはじめた3日目(板宿まで開通)にやっと出勤することができましたが、地震発生当日の朝のことはぼうぜんとテレビ画面をみていて記憶された映像しか知りません(あとで写真を見てということはあったにちがいありませんが)。その3日目、1月19日の朝、私は地下鉄の板宿駅で降車し、職場へと歩きましたが、今ある記憶はくすぶり立ち昇る煙とその匂い、西代の蓮池小学校に避難されている人びとが水を求めて並んでいる姿、そんなものだけのような気がします。今、ここで起こっていることなのに、仮想空間を歩いている感覚であり、いつものように街や人びとの顔を正視できていなかった後めたさが残っています。

  展示パネル「1995年1月17日朝、出勤途中の足どり」

  同上パネル部分

  同上パネル部分 まだフィルムで撮影していた時代でした

 

 大木本さんは震災以降も撮影を続けてこられたこともあって、震災直後の写真と、20年後の2014年に同一場所で撮影された写真が並置されたパネルもありました。下にアップしているのはそのうち3ヵ所だけです。 

 最初の元町通、元町商店街は、まず須磨駅まで再開したJR本線が1月30日になって神戸駅まで延長され、私の通勤経路になりました。もともとアーケード商店街には自動車が走っておらず、雨を避けることができ、というぶらぶら歩きの通りでしたが、4丁目より以西は人通りが激減し、ちょっとものさびしさがあってあまり近寄っていなかったことを覚えています。ところが、震災後には一気に人通りが増えました。元町、三宮方面へ向かうサラリーマンもスーツにネクタイ姿ではなく、写真にあるリック姿で通勤していました。この写真からはその雰囲気が伝わってきます。

 次の阪神電車新在家駅付近、こんなになっていたのかと今回の写真を見て驚きました。高架橋の落下など報道から知ってはいましたが、改めて確認できました。最近、大学の聴講のあとで行ったりする蕎麦屋さんが阪神の高架下にあります(「六甲でランチをー今年は「冬の古本市」には行けないけれどー」)。JR六甲道駅の南一帯は倒壊と火事で今は新しい街区となっていますが、大きな被害を受けたところだったのです。

 一番の下の東灘区の森南地区。ビルの階上から俯瞰した写真です。私は震災直後から応援職員として避難所パトロールに月数回従事していました(数か月ほど続きました)。私の持ち場が長田区と東灘区だったものですから、東灘区の南側の被害は少し実感していたのです。真夏が近づいたテント生活は暑熱で脱水を起こしそうになると、また仮設住宅の抽選がテント村のコミュニティーを破壊すると、厳しく問い詰められたりしていました。

 前記の2年前のブログに書いたとおり、当時の「ほとんど無力であることへの焦燥感とか、当事者能力がない者が関わっていくことへのもやもやとした罪悪感という感情の塊」と、私の震災への記憶は切り離すことができないみたいです。 

  元町通商店街 上は1995.6.14、右下は2014.11.20撮影

  阪神新在家駅東側 上は1995.3.5、右下は2014.9.30撮影

  東灘区森南1丁目  上は1995.4.28、右下は2014.10.30撮影

 

 展示は第2部が「災害と復興、23年ー阪神・淡路大震災と震災文庫」、第3部が「地域の復興とコミュニティ」ですが、その内容は割愛します。震災の記録の継承という意味では県の「人と防災未来センター」の役割が大きいのかなと思ってきましたが、神戸大学においても附属図書館に「震災文庫」(デジタルアーカイブ)を設けて、大木本さんの写真をはじめ、震災関連の文書を幅広く保管されていることを確認できました。その中心を担っているのが、文学部の歴史学の先生方だと知って、その講義を聴講したことがあるという関係だけの私ですのにちょっとうれしい気持ちになりました。

 

 今回、はじめて第1キャンパスに足を踏み入れたのは、本稿で紹介した震災の展示を見るためですが、何より驚いたのは、戦前に建設された学舎群の美しさでした。山の中腹と呼びたいぐらいのこんな場所にどうして大学の学舎を作ることなったのかその経緯を知りませんが、初めから今のような台地だったわけもなく、相当の造成も行って整備されたのでしょう。わが国としては特異なロケーションの大学キャンパスであり、国立大学の学舎としては明度というか白さを強く感じる外壁は六甲台から眼下に広がる海の青色とよく調和しているように感じました。一見の価値ありです。

 県内初の高等教育機関であった神戸高商は1929(昭4)年に神戸商業大学となり、現在の六甲台への移転は1935(昭10)年に完了しました。戦後は神戸大学として統合され、現在は経済学部、経営学部、法学部がこのキャンパスにあります。六甲台本館は他の学舎に先立ち1932(昭7)年に竣工しており、先ほど白さが際立つと印象を書いた外壁は「淡黄色のスクラッチ・タイル張り」と表示されています。設計者の名前は明示されず文部省営繕課の設計施工だそうで、他の建物も同様の外壁をもち、キャンパスとしての統合性、一体性もなかなかのものではなかろうかと感じました。戦後に建てられた施設もありそうですが、この近代建築群に溶け込んでいます。こんな陸の孤島というべき地形ですから、六甲地区の他のキャンパスも同様ですが、六甲台第1キャンパスを拡張することなど困難で、こうしてぽっかりと残ったということができるのかもしれません。

 建設当時は「白亜の殿堂」と称賛されたようですが、戦時中は空襲目標となりやすいとの批判を受け、黒いアスファルトを外壁に塗りたくっていたとのことです。だからでもないでしょうが、美しいキャンパス、学舎群として今もこうして存在しています(修復も加えられてきました)。

  六甲台本館(旧神戸商業大学本館) 1937(商昭7)年竣工 実際はもっと白い印象です

  六甲台第1キャンパス内 

  神戸大学附属図書館(社会科学系図書館)のメインカウンター 大壁画は中山正實「青春」

  六甲台第1キャンパスから海側への眺望 残念ながらかすんでいました

 

 大震災で犠牲となった神戸大学の学生は44人とされています。多くが木質系の学生アパートの倒壊による圧死であったとのことです。

 NHKTVの<関西熱視線>で「¨私の震災¨を遺(のこ)すー阪神・淡路大震災23年ー」というタイトルの30分番組が放送されました。前記の震災資料の収集を事業の柱の一つとしている「人と防災未来センター」へ、最近、多くの資料提供の申し出がありますが、そんな数例を取り上げて紹介しています。その背景には、高齢化し、いわば人生の終わりを意識した被災者や震災遺族が「¨私の震災¨」を遺そうと、紙、写真、映像・写真、そして「モノ」を、震災資料としてセンターで保管してもらおうと申し出るケースが多くなっているという事情があります。

 その一例、神戸大学法学部大学院で政治学を専攻していたKさんが震災で亡くなりますが、その母親は、このワープロを使って『THE 17TH』という個人誌を発行し、同じ境遇にある親たちへ送り続けてこられたのだそうです。そして難病をわずらい、我が子Kさんの「ワープロ」を震災資料としてセンターへ預けることにしたのです。

 このほかにも、火災で溶けた硬貨のかたまり(目の前で火にはばまれて伯母が亡くなるのを助けられなかった男性がかつて提供したままであった「硬貨のかたまり」に対面します)とか、まちづくりの資料(消防署員の男性が水が出ない中で救えなかったという自責のおもいをその後のまちづくりに注ぎ込んだときの一次資料)とかのケースが登場していました。番組としては、震災犠牲者とその遺族が「生きた証し」として残しておきたいと資料提供を申し出る心の動きを、「遺す」という言葉を使って、伝えようとしていました。

 23年という時間は、残酷といえば残酷です。でも、こうして震災資料が保管されるということは、ひとつの救いであり心鎮めかもしれないと思っています。

 

 さて、来年、元号が変わります。2019年5月1日です。

 直近の記事(「どうして映画をみるのだろうー伊丹万作の言葉ー」)に保坂正康さんの「昭和史のかたち」から伊丹万作の言葉を引用し、紹介させてもらいました。その1ヵ月前の同コラム(「[天皇の代替わり]元号が刻む句読点とキーワード」/『毎日新聞』2017(平29)年12月9日朝刊)で、保坂さんは「平成という時代」のキーワードとして、「災害」をあてていますので、簡単に紹介しておきます。

 もちろん保坂さんは、元号が変わるということで「平成という時代はどういう時代だったか」という議論が起こるであろうが、「軽々に論じられるべき」ではなく、「より近代日本の歴史を踏まえながら多角的に論じられるべき」とします。こんな断りを入れうえで「試み」として書いているのです。昭和という時代を「‥傾(神格化した天皇と人間天皇)/∪鐐(軍事主導と非軍事主導の体制)/9駝(臣民から市民への変化)」と、三つのキーワードで語ったうえで、「平成という時代」もまた三つのキーワードで語ることができると考えてみたらどうかと、次のように列記しています。

 「 ‥傾(昭和の清算としての追悼・慰霊、そして象徴天皇制の確立)

   ∪治(55年体制の崩壊と小選挙区制による新たな議会政治)

   災害(虚無感など災害史観の克服と人災事故へのあいまいな

      取り組み)                      

 ここでは、保坂さんが平成という時代を画するキーワードとして「災害」をあげていることに注目しておきましょう。そこには、高度成長をとげ戦前と画する社会へと変貌したと信じこんでいた時期に発生した平成7年(1995)の阪神・淡路大震災と平成23年(2011)の東日本大震災・福島原発事故という巨大災害のことがあったにちがいありません。()書きの「虚無感など災害史観の克服と人災事故へのあいまいな取り組み」とはどのような意味なのでしょう。

 このことを保坂さんは説明していませんが、元号が変わることで句読点を打つことが必要になるとして、次のことが教訓だとしています。

 「 平成のキーワードの中では国民(市民)の姿が希薄である。受け身になり

  すぎていて、政治状況や災害史観を克服するより積極的な発言姿勢をもた

  なければというのが教訓のように思う。」

 少なくとも保坂さんは「政治状況や災害史観」を克服できていない課題として意識しており、国民・市民により積極的な関与を期待している、求めているということができるのでしょう。そして、前ブログで引用した伊丹万作の「「だまされていた」といって平気でいられる国民」という言葉と無関係とはいえないのだと、自らをかえりみてそう考えています。

 

 私自身は本稿で何を言いたかったのか混乱しているなと自覚しています。

 阪神・淡路大震災は私にとって「生きる証し」にはなってきませんでしたと告白したいだけなのか、そんなどこか後めたさをともなう矛盾した気持ちを書いておきたかっただけのことではないか、と思ってみたりもします。まあ、それもそうですが、それよりも、問題関心の大切な起点として、今の私からも失われていないのだなあ、それだけ大きな出来事として私のなかにも痕をのこしているし、刻まれていることを確認した「雨のメモリアルデー」前後の数日であったと申しあげることができます。だからこそ、こんな記事を書いていると考えた方がいいのだと思うことにします。

 元号の変わり目を前にして、生きているかぎりという注釈が要りますが、人為的災害としての戦争を含めた「災害」への問題関心を持続し、次のステージへの道筋を自分なりに模索していきたいと念じています。 

2018.01.14 Sunday

どうして映画をみるのだろうー伊丹万作の言葉ー

 先週10日には「2017年キネマ旬報ベストテン」が発表されました。第91回目だそうで(アカデミー賞より一回多い歴史があるとのことです)、第1回は1924年です。戦時中ということもあって、1943-45年の3年が中断しています。

 驚いたのは、日本映画と外国映画の第1位をみていたことです。過去のキネ旬ベストテンををふりかえっても、片方だけのことはけっこうありましたが、両方ともはなかったと思います(何年後かにみることはあったとしても)。

 2017年の第1位には、日本映画は『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』(石井裕也監督)、外国映画は『わたしはダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)がそれぞれ選定されています。

 このほか、私がみた外国映画でランクインしているのは、当ブログでも紹介した『パターソン』(ジム・ジャームッシュ監督)が第2位(「二本の映画の接するところー『パターソン』と『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』ー」)、第3位の『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(ケネス・ローガン監督)、第10位の『ラ・ラ・ランド』(デミヤン・チャゼル監督)の3本です。

 私は、毎年、このベストテンをどんな映画がランクインしているのだろうと確かめています。そして、わりといつも、なるほどそうかというより、えーホントにそうかになることが多いものですから、今回のように第1位を2本ともみていたのにはびっくりしたというわけです。

 ランクイン=いい映画とはいえないことはもちろん、第1位=名作などと短絡すべきものではないと、私は考えています(過去のベストテンからもそう思います)。ですから、今回のことは喜びでも自慢でもなんでもありませんが、映画評論家や映画記者たちがそんな評価したのかという気持ちはあります。

 

 昨年は映画館で29本の映画をみています。最近はずっと年に30本以上みていましたので、昨年30本を下回ったのは体調のことや神戸へ出る機会の減少やらも影響してのことでしょう。読んだ本の書名を記録することはないのに、退職してからですが、なぜか映画だけは手帳にタイトルだけを書きとめているので、本数がわかるのです。

 このように月に2、3本ぐらいしかみていないのですから、私のベストテンというものもないわけですし(キネ旬ベストテンには読者投票によるものもあって2月に発表されます)、映画誌のベストテンを云々できる蓄積も何もありません。特に日本映画の方はそうなのです。

 2017年にみた日本映画は「最高密度の青色」の1本だけです。ちなみに2016年は『海よりもまだ深く』(是枝裕和監督)、『クワイ河に虹をかけた男』(清田康弘監督)そして『この世界の片隅に』(片岡須直監督)(「新年の挨拶 2017」)の3本です。まあ、外国映画に偏重しているのです。

 気になる映画があったら、チラシやネット情報でどう伝えられているのか、自分の好みに合うのかをたしかめ、タイミングさえあえば映画館へ足を運ぶことになります。私のようなフリーな人間でも、タイミングが難しく、だから昨年も見逃したと思っている映画もたくさんあるのが実情なのです。

 

 昨年6月4日にみたと手帳に記している『映画 夜空はいつでも最高密度の青空だ』は、こりゃいい映画だな、これ圧倒的かもしれないと、即座に家人と言い合った記憶があります。

 これはブログにも書きとめておこうとチラシやネット情報をクリアファイルにまとめていましたが、書けないまま部屋を片付けたときに捨ててしまいました。この映画の主人公である慎二と美香のゆれ動く心身が、二人の生きづらさとともに、東京の新宿と渋谷という喧騒の街にひそむ浄化されたる魂を感じさせ、何もかも忘れてしまう最近の私ですが、今も記憶にとどまっています。わざわざ映画のタイトルに「映画」を付しているのは、石井裕也監督が最果タヒの同名の詩集をシナリオ化したことに示すためでもあるのでしょう。

 一方、『わたしはダニエル・ブレイク』の方は7月にパル・シネマでみています。同シネマは館主が近作からいい作品をチョイスして2本立てで上映している、私のような者にとっては貴重でありがたい映画館です。だから、見逃していたこの映画をみることができました。

 この作品は80歳をこえたケン・ローチ監督が引退を撤回して撮った映画で、カンヌでパルムドールをえています。その受賞スピーチでローチは「映画にはたくさんの伝統がある。その一つは、強大な権力を持ったものに立ち向かう人々に代わって声をあげることだ。そしてこれこそが、私の映画で守り続けたいものだ」と語ったとあります。

 

 2018年、昨日は映画館をハシゴしました。今年初めての映画です。

 元町映画館で『きっと、いい日が待っている』(イェスパ・W・ネルスン監督/2016年/デンマーク)、そしてシネ・リーブル神戸で『否定と肯定』(ミック・ジャクソン監督/2016年/英国・米国)です。いずれも実際に起こったことに基づいているとクレジットされており、ヘヴィではありますが、だからこそなのでしょうか、なかなか記憶に残るであろう映画でした。ホロコースト否定論者による名誉棄損裁判をテーマとする後者は、今の世界、トランプとトランプ的なものが跳梁する現代とシンクロせざるをえない1本です。

 🔹『きっと、いい日が待っている』  元町映画館:終映日は1月26日

 🔹『否定と肯定』          シネ・リーブル神戸:終映日は未定

 

 この機会に、どうして映画をみるのだろう、という問いにもならない自問に応えてみておくことにします。

 人間がクリエートしたものを鑑賞することの喜びと言ってしまえば、そのとおりです。人間の体験や感情をそれぞれの物語に定着させた映画をみることで、それを共有することの喜びであったり、辛さであったり、なにがしかの共感をもったりすることができます。既知のものであれ、未知のものであれ、人間の現実の奥行や広がりに、時には過去から未来まで幅広い時間領域に、フィルムという壁はあっても、直に接近することのできる体験だともいえます。

 私の場合は、現実に生きていることの体験に限界があることを実感していることから、映画の体験は大変に貴重なものになっていると思っています。つまり、自分の生きている「現実」の質量には限りがあることから、いわば代替の体験としての映画で補填しているというか、体験できないような体験の代償措置になっているのかなと理解しています。

 もちろん若い頃から映画はみていたのですが、年齢を重ね、自分の世界は狭く閉じられている、文字による言葉、本を読むことで得るものの壁を強く意識したとき、映画は従前よりずっと大切なものになった、比重が大きくなったといえます。量的なことばかりでなく、質的にも世界の広がりを知るための、感じとるための手段ともなっています。

 ふだん見るべきものから視線をそらして見ていない、見えていないことがよくあります。そんな私にとって、暗闇のなかで視線をくぎ付けされる映画の体験は新たな発見の宝庫なのだと感じているのです。この場合、視覚が中心ではありますが、言葉を含め、諸感覚を総合した体験だという点で、本を読むことよりも、映画をみることは受動的になりやすいというマイナス面はあるものの、実体験に近いのではないでしょうか。

 もとより映画は娯楽という側面があって私もそうした享受をしていますが、どちらかといえば、学んでいる、といえそうです。こう書けば、いやらしいでしょうか、こうして長く生きてきても何も知らないなあと感じている者としては映画が表現している人間の生きる現実や感情から多くの大きなギフトをもらっていると感謝しているのです。

 具体的には、子供たちが家から出てゆき、夫婦50割、シニア料金でみることができるようになったこと、また数少ない家人との共同の体験でもあること(一人でもみますが)、さらにくりかえしになりますが、本を読む速度が遅くなり量もこなせなくなってきたことの代替として必要になったことなどということになります。なんだか、身もふたもないことになりそうになってきましたが。

 

 映画つながりということで、伊丹十三監督の父、同じ映画の監督であった伊丹万作(1900-46)の言葉を紹介しておきます。この伊丹の言葉は、保坂正康さんが「[年賀状文化]友人の人生と伊丹万作の言葉」とタイトルされたエッセー(『毎日新聞』「保坂正康の昭和史のかたち」2018年1月13日(土))で引用していたものです。

 保坂さんは70代後半になって事前投函が面倒となり、1月1日に着いた順から返信の意味で年賀状を書くことにしているといいます。むしろ3日か4日以降に届く年賀状の方に、友人たちの人生が垣間見えるような本音が宿っていることに気づいたとしています。保坂さんはこれを称して年賀状文化と呼んでいるのです。

 そんな年賀状の一通には、伊丹万作が亡くなる年の46年8月、『映画春秋』創刊号に寄稿した「戦争責任者の問題」の一節だけが、年賀のあいさつ代わりに引用されていたとして、保坂さんはその伊丹の文章を引用しています。賀状の差出人の引用、そして保坂さんの再引用、さらに再々引用となりますが、私も心がさわぎましたので書いておきます。

 「 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃え

  てだまされていたという。(略)だますものだけでは戦争は起こらない。

  (略)だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中

  にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど判断力を失い、思

  考力を失い、信念を失い、(略)自己の一切をゆだねるようになってしまっ

  ていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の正体

  なのである。」

 このあと、保坂さんは次のように続けています。

 「 伊丹万作はこう指摘したあとに、「だまされていた」といって平気でい

  られる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろうーー結論づけ

  ている。こういうメッセージが今もっとも重いし、時代を突いている。」

 この保坂さんの「「だまされていた」といって平気でいられる国民なら」に続く伊丹の文章をもう少し詳しく引用しておきましょう。

 「 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も

  何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだま

  され始めているにちがいないのである。

   一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力が

  なければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追及もむろん

  重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体が

  だまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自

  分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めるこ

  とである。」

 伊丹さんの「現在の日本」は1946年のことですが、保坂さんの言うように2018年の「今の日本」を突いているように感じるのは、私一人ではないでしょう。

 今年最初のブログ(「新年の挨拶 2018」)でアーサー・ビナードが高畑勲さんにインタビューしたなかから、高畑さんの「多くの国民が流されて、積極的に戦争する側に立ったのです。のっていったんです」という見方を紹介しました。こうした「流されて、のっていった」国民の裏返しが、戦後の「だまされていた」といって平気でいられる国民なのです。

 私を含め戦争を知らない国民が大多数になった現在、結核で9年にわたり療養していた伊丹万作が自分もたまたま戦争に加担しなかっただけでそんな国民の一人であったと自己批判しつつ1946年に発した言葉を、私たち国民はかみしめることはできるのか、憂慮の底なし沼はますます深くなっているとしか今は書くことができません。 

2018.01.11 Thursday

線にはすごく感情が表れてー安西水丸のイラストレーションー

 年賀状のなかに、そうだそうだとうなづく言葉を発見することがあります。

 たとえば、本人と世間のギャップというのか、本人は自分のことを「中途半端な年寄り」だと思っているのに対し、世間は「十分年寄り」だとみていそうだという趣旨の文が対比的に並べてあったのです。その方は私と同い年、70歳が近づいても、仕事から離れても、ホントの年寄りにもなりきれていないしなあとの心境なのでしょうが、反面、もはや世間からすると十分に年寄りという括りの中なんだろうな、あーあという感覚を書かれたのであろうと想像しています。

 年寄りにホントもウソもあるものかですが、私自身もそう感じているからなのでしょう、そうだそうだと、楽しく読みました。

 

 今回は昨年からの宿題として越年した「安西水丸」について書いてみることにします。

 「水丸」という印象的な名前といっしょに、単行本や雑誌の表紙絵や挿絵など、そのイラストレーションで長い間楽しませてもらってきました。もしも知らないよという方でもその絵を見たらああ見たことあるなあとなるでしょう。この「へたうまイラストレーター」の代表格としてメディアに扱われていた安西さんのイラストレーションを、私自身もはじめはどこがいいのかなあと感じたりしていたのですが、だんだんとその不思議な味わいが好きになってきていたのです。

 そんな矢先というか、安西水丸さんは2014(H26)年3月に鎌倉のアトリエで倒れ急逝してしまいました。

 特別に愛されていたイラストレーター(書き手、作家でもありました)でしたから、安西さんを追悼した本が次々と出版されました。偶然にも古本屋でそのうちの二冊(下記の写真)を入手し、ああこんな人だったのか、だからこんな絵を描いたのかなどと、言葉にできなかったところが少しはっきりしてきたようでもあったのです。

 こうした安西さん自身と彼に関わった人たちの言葉は、絵を描かない、絵を描けない私を含めた誰にとっても、大切なことが詰まっていそうに感じました。ですから、ここで「安西水丸」のことをスケッチしておこうという気持ちになったというわけです。

 

 もう一つ馬鹿げた理由もあります。

 その二冊のうちの一冊『Coyote』「安西水丸 おもしろ美術一年生」は昨年11月頃に「口笛文庫」で手に入れました。その際、口笛文庫主人は安西の本が「最近めったに(古本として)入手できない」「(たとえ入手できても)すぐに出てしまう」とともに、「〇〇さんは安西水丸さんに似ておられるとずっと思っていました」などと思ってもみないことを言うのです。

 〇〇さんとは私のことですから、「えー、ホント」と言っただけで、どこが似てるのなどと訊くこともしませんでしたが、びっくりしたとしかいいようがありません。そんなこともあって、ついつい他人事とは思えず、安西水丸のイラストレーションの秘密を探ってみたくなったというわけです。

  KAWADE夢ムック『文藝別冊 安西水丸』 2014年9月刊/河出書房新社 

  『Coyote No.58 Spring 2016』2016年3月刊/スイッチ・パブリッシング

 

🔸自分の感情を大切にして絵にすることーベン・シャーンー

 安西水丸(1942-2014)の生の姿や声に、私は一度だけ接したことがあります。2012(H24)年5月3日、岡山県立美術館の一室でした。同美術館では「ベン・シャーン クロスメディア・アーティストー写真、絵画、グラフィック・アートー」と銘うった展覧会が開かれており、同日に安西さんの「ベン・シャーンをマネしていた頃」というタイトルの講演会が行われたのです。

 青春18きっぷを使って、私たち二人はほんとに久しぶりに岡山へ出かけました。ゴールデンウィーク中で人出が多いかと思っていましたが、案外街中はがらんとしていました。講演会といっても、教室のような部屋に50人ぐらいの参加者がいただけです。

 今からふりかえると安西さんが急逝するほぼ2年前のことだったのです。水丸さん(村上春樹をマネするわけではないけれど、こう呼ばせていただくことにします)はもとよりネクタイなどしないよくなじんだ風合いの服装で手ぶらのまま部屋に入ってきて、もちろんパワーポイントなどは使わないで、わりと低い声であまり抑揚をつけず、つまり力説など大げさな身振りもなく、さらっと話していた印象が残っています。そして、「これぐらいでいいかな」と独り言のようにつぶやいて、「じゃーそれでは」と唐突に終わったのではないかと思います。

 

 そんな水丸さんがベン・シャーン(1898-1969)のこと、自分との関係など、どんな内容を語ったのか、情けないことにあまり記憶がありません。きっとベン・シャーンをいつ頃好きになったのか、どこに魅力があるのかという話もあったに違いありませんが、私の記憶はニューヨークのことをなつかしそうに話していた水丸さんの姿にとどまっています。

 水丸さんは大学を出て4年間勤めた電通を退社し、ニューヨークでの2年間(1969-70)をデザイン会社に勤めながら暮らしています。当時のニューヨークとベン・シャーンの絵・イラストレーションが、水丸さんのなかでは切っても切り離せない関係としてとらえられていたのでしょう。そして、ニューヨーク時代は水丸さんにとって先行きの見えない厳しい時期でもありましたが、修業の地であり青春の地でもあったということになります。

 

 同展カタログには水丸さんへのインタビューが載っています。学生時代に名画全集の一巻として「ベン・シャーン」と出会い、惹きこまれたとあります。どうしたらギザギザの線が出せるか「ものすごく研究し」あらゆる技法を試したとのことです。

 「 それまで自分で見ていた「絵」というものと違うんじゃないか、という

  感じがしたんです。もちろん、造形的な面もきちんと考えていますが、そ

  れよりも、彼自身の感情が強く出ている。そこに感銘を受けました。」

 水丸さんは「自分の気持ちをぐっと絵にしている」ところ、つまり感情が出ているから画面に情感が存在するところがベン・シャーンの魅力だと考えているのです。ベン・シャーンのニューヨークを描いた絵の魅力を語り、ニューヨークの街がベン・シャーンを育んだとも述べています。

 水丸さんが好きな外国のアーティストとしてベン・シャーン以外にあげているのは、アンリ・マチス、ディック・ブルーナそしてアメリカのフォークアートだそうですが、後でふれることにします。

 

 そこで、「線」なのです。

 水丸さんの線は彼のイラストレーションの生命線です。線の感じがいつもと違うと水丸さんが感じるのは、毎日描いていると自然に上手になって、それに慣れてすっと描いてしまうようなときのようです。そういうときは、自分の絵を見直したり、他の方の絵を見たりして、戻るべき線を探して「自分のリズムをあらためてつかむということでしょうね」と語っています。そして、「線には、すごく感情が出るんです」という言葉を残しています。

 その前提として、彼にとって「上手な絵」は「いい絵」とは違うのだと強調しています。そこに次項でふれる水丸さんの美術論の核があるのであり、ベン・シャーンの後期の作品について次のような厳しい評価を述べてもいます。

 「 (前略)いい味わいの絵を作り出すのだが、描いているうちにどんどん巧

  みになってしまうことが多い。一番いい状態を保つことは、これがなかな

  かむずかしい。あの人はあの頃、あんなにいい絵を描いていたのにとおも

  うことがしばしばある。ベン・シャーンに対しても、国吉康雄に対して

  も、ぼくは同じことを感じている。」

  「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」展のチラシ

  『ベン・シャーン クロスメディア・アーティストー写真、絵画、グラフィックアートー』カタログ

               2012年1月刊/美術出版社

 

🔸自分にしか描けない絵を描くー「一見、のほほん」ということー

 前項で、水丸さんが絵で大切なのは、「描く人の感情、気持ちが表れている」ことであり、技術ではないだろうと語っていることを強調しました。「自分の気持ちを絵に表す」といっても、私にはわかるような気もするけれど、きちんととらえがたいところがあるのです。

 もう少し別の言葉を探してみることにしましょう。

 

 河出ムック版(以下<ムック>)で、水丸さんの塾で学んでいたイラストレーター二人が「教え子からみた安西水丸」とのタイトルで対談しています。

 山崎杉夫さんは水丸さんの指導方向をテクニックとしてうまく描けたかどうかというよりも「本当にその人にしか描けないものを描いたかどうか」だったと発言しています。そのために画風がどうこうというよりも「〇〇らしい絵なのかどうか」「それが一定の品があるのかどうか」という物差しでみられていたというのです。水丸さんは「絵はいくらでも練習できるけれども、画品(絵のもっている品)は生まれもってのものだから、直せないんだ」と、彼らに話していたそうです。

 これと関連しますが、もう一方の信濃八太郎さんは、だんだん知識なり技術なりがついてくると厳しくなってきて、「いいものを忘れていっている」「捨てちゃっている」といわれるようになったと述懐しています。水丸さんから「絵なんてみんな小さい頃からお絵かきしているんだから誰でも描けるけれど、本来持っていた良さをいかに残していくかを意識しないといけない」と言われたことが強烈に残っていると語っているのです。

 信濃さんは水丸さんがものすごい技術のある方だったけれども、最終的に残ったものは子どものときに描いていたのと同じ絵(線)だったと本人から聞いたのだと語っています。したがって、水丸さんの指導とは「その感じを、それぞれの人間に合った形で伝えることだった」のではないかとふりかえっています。

 かくして絵は上手い下手ではなく、「自分の気持ちを表すこと、自分のイメージを表すこと」なんだというのが、水丸さんの絵の、美術の哲学であったというわけです。

 

 当然、この哲学は初めから形としてあったわけではなく、小さい頃から絵ばかり描いていた少年が長じて、イラストレーションが日常のいたるところに顔を出しているという時代背景のもと、長い修練を経てたどりついた、ひとつの極北なのです。

 次項でも登場する先輩かつ僚友である和田誠さんは、双方がお互いのファンだと公言していますが、水丸さんのイラストレーションを次のように評しています。

 「 (前略)いいものはいい、面白いものは面白い、美しいものは美しい。水

  丸さんの絵は、どれにも該当するんです。

   そして彼の絵はのほほんとしている。一見、手を抜いているように見え

  る。この「一見」というところがミソなんです。実は手を抜いているどこ

  ろか周到に計算された「のほほん」であって、彼の作るものはふんわり

  と、あるいはじわっと、人の心に入ってきます。その上忘れられない何か

  を植えつける、油断ならない。真似しようとしても真似できるものではあ

  りません。」

 

 この文章を引用しているのは「Coyote」版(以下<コヨ>)ですが、<ムック>が水丸さんの亡くなった半年後に刊行され、追悼の色合いが濃いものであるのに対し、こちらは2年後に出版されたもので、「安西水丸 おもしろ美術一年生」という特集を組み、図版も美しく、大変に凝ったものです。これは先駆的雑誌『スイッチ』を立ち上げた発行人・編集長である新井敏記さんの面目躍如たる編集(とにかく構成の発想がすぐれています)によるもので、無署名の文章も彼の綴った(手を入れた)ものが多いのではないかと想像しています。

 前記したとおり水丸さんはベン・シャーン以外にアンリ・マチス、ディック・ブルーナ、アメリカのフォークアートを好んでいました。この特集では、マチスの作品や言葉から水丸さんが「努力の跡が作品に出ることを嫌い、作品には軽やかさが大事だと教えられた」とあります。ブルーナのところでは、水丸さんの「ブルーナの絵は、なんとなく気持ちが迷った時に見ると、すっともとの自分にもどれる不思議な力を持っている」、そしてアメリカのフォークアートでは、これも水丸さんの「ぼくに忘れていたものを蘇らせてくれた。イノセントな感性が最も大切であることを教えてくれた」、それぞれ引用されています。

 当たり前のことかもしれませんが、いずれも私たちが水丸さんのイラストレーションから受ける印象に直結しているから面白いですね。

 一番最後におかれたエピローグ「安西水丸さんへ 珈琲の時間」には「text by Coyote」とありますが、これは新井さんのことでしょう。そのラストの文章です。

 「 安西水丸さんの焙煎は深煎りだった。ゆっくりとネルで淹れる珈琲は苦

  みの中に甘さをどう引き立たせるか、とても難しい。それは一本のまっす

  ぐな線をからす口で引く時のように心を映すもの。ペン先からするすると

  こぼれるもの、それは安西水丸さんの透明で柔らかな心だ。」

  巻頭の見開き頁「一本の線」 [<コヨ>、以下同じ]

  特集のトップ見開きページ「特集 安西水丸 おもしろ美術一年生」

  見開き頁「すべては線から始まる」

 

🔸憧れの人であった和田誠ー「似ているようで似ていない」ということー

 水丸さんの特質というものをより明確するために、前出の和田誠(1936-)さんに本格的に登場してもらいます。

 水丸さんより6歳年上の和田さんですが、フリーのイラストレーターになったのは、水丸さんの1981年に対し、1968年のことであり、10年以上先立って活躍していました。1970年代から和田さんの肖像画集である『People』とか、スターや監督のイラストレーションとともに映画の名セリフを集めた『お楽しみはこれからだ』シリーズなど、私自身も楽しんできた、今風に言えば、イラストレーターのレジェンドです。 

 

 水丸さんと和田さんは2001年から二人展を続け、水丸さんの2014年の急逝時も近々二人展が開かれることになっていたそうです。そんな二人展の書籍版が共著として三冊刊行されていますが、そのうち二冊が古本屋さんのおかげで私の手元にあります。2003年刊の『青豆とうふ』(以下<青豆>)と2005年刊の『 テーブルの上の犬や猫』(以下<ON>)です。

 前出の和田さんによる水丸さん評は<青豆>の「まえがき」からの引用です。その「あとがき」では逆に水丸さんが和田さんを学生の頃から「憧れの人」であり続けている人であり、若者たちからどんなイラストレーションがいいと考えているのかと質問されたら、次のように答えると書いています。

 「 ぼくは和田誠のイラストレーションが好きです。絵は少しも奇をてらっ

  ておらず、都会的な線と研ぎすまされた色彩は的確に目的をとらえてお

  り、誰からも愛され、しかも古くならず、常に第一線で仕事をしてい

  る。」

 この和田さんの「都会的な線研ぎすまされた色彩」「誰からも愛され、しかも古くならず」は、水丸さんにも的中しているのであり、二人はやはり似ている、少なくともベースメントは近いところにあるということになるかもしれませんね。

 

 二人とも稀代のイラストレーターであり、しかも練達の文章家でもあるところもまた共通しています。和田さんは自分も文章を書くことは好きだが創作は苦手なのに比べ、水丸さんはエッセーはもちろん小説も書き、「彼の短篇のようなエロティックな作品を書くことはできません」とつぶやいています。

 二人は村上春樹が最もよくいっしょに仕事をしてきたイラストレーターです(村上さんは<青豆>というタイトルの名づけ親でもあります)。二人の根っ子にある共通点と表層での違いについて、村上さんは大変説得的な文章を書いています(『雑文集』「同じ空気を吸っているんだな、ということ」)ので紹介します。当たり前のことですが、私が村上さんのような言葉をもっていないのはいうまでもなく、なるほどそうだそうだとうなづいて降参するしかありません。

 「 まずだいいちにお二人とも、画風がいかにも都会的というか、細部の始

  末がいちいち洗練されている。文章にたとえれば、文体がしっかりしてい

  て、それでいて押しつけがましいところがない。洒脱でありながら、乱れ

  るところがない。」

 このように文体にたとえて土台の共通点を明示したうえで、「二人の文体のメンタリティーは似かよっているところがあり、またがらりと違うところがある」と、「個人的な印象だが」とことわりつつ、次のように続けます。

 「 和田さんのそれは端正で知的であくまで趣味がよく、水丸さんにはもの

  ごとをちょっと草書的に崩したみずみずしさと、おかしみがある。たとえ

  ば、鉛筆で円をひとつ紙にくるりと描いても、水丸さんの書く円と、和田

  さんの描く円とでは微妙に(しかし決定的に)違ってくるはずだし……」

 この文章に続けて、村上さんは「僕にはその違いをたぶんすぐに見分けることができると思う」と書いています。それは「二人の描く絵にはそれぞれに、見違えようのないはっきりとした独自のシグネチャーが入っている」からなんだというのです。

 「微妙だが決定的に違う」というのが重要なのでしょう。そこに「個性」という言葉では軽い感じがしますが、それぞれの「本質」が表れる、あるいは「自分にしか描けないもの」を描くことができるということなのだと理解しました。

  安西水丸、和田誠『青豆とうふ』 2003年9月刊/講談社 

  安西水丸、和田誠『テーブルの上の犬や猫』 2005年7月刊/文藝春秋

 

 <ON>には一枚の紙の左と右に共通のテーマでそれぞれが描いた見開きの絵が28点掲載されています。まず先手の方が左側に描いて、後手の方が右側に描くことになります。<コヨ>のなかで、和田さんは「後から描く方は失敗できない」とし、「だから後から描く時は息をとめてるの。最後は酸欠状態になってしまう。雲をつかむような状態、でもその状態がとっても面白いんです」と語っています。

 下記にはそのうちの三枚をアップしてみました。薄くサインが入っていますので、どちらかどちらか分かってしまいますが、「似ているようで似ていない」と思われますか。

 「独自のシグネチャー」をどこに見出しますか。普段から二人の絵を見てきているから、なんとなく分かりますが、そうでないとなかなか分かりにくいかもしれませんね。他の絵もありますが、私の場合、確信をもつことができたのは、やはり「線」でした。輪郭線というのか「線」がはっきりと見えているのは水丸さんで、そうでないのは和田さんです。意識的にフェイクする技術は二人ともありますが、ここでは二人がそれぞれの文体で、つまり「自分にしか描けない絵」を描いたのでしょう。

 

 いわば同業のビッグな二人の関係というと、とかく難しいものと思いますが、ホントにこの二人は気持ちのいい関係ですね。

 和田さんは急逝した水丸さんのことを「僕にとって水丸さんはいつも笑って」いて、「やはり相棒なんです」といい、次のように続けています。

 「 互いに自己主張を避けて、作家性を持つことが大事だと思っていました

  ね。いつでも自分にしか描けない絵を描くことを心がけていたように思い

  ます。そういう心がけのように自然に自分から発するものが紙の上に定着

  されるのかもしれません。それほど重たいものではない。そんなに難しい

  ことでもない。むしろその人のイメージが軽やかに出ていくように、わく

  わくすることが何よりも大切だと思います。」

 すごいですね。ここには、達人の域に達した二人のイラストレーターが絵を描くときに大切にしようとしていたポイント、方向性が抽象的だけれど明解な言葉として定着しています。

 安西水丸と和田誠のイラストレーションが「似ているようで似ていない」、くっきりとした「個性」「作家性」の在り処を間然するところなく表現した言葉なんだと感じました。 

  「童話人形」左:水丸、右:和田  [<ON>、以下同じ]

  「果物」左:和田、右:水丸

  「スノードーム」左:水丸、右:和田

 

🔸「部外者」である孤独と哀しみー千倉の海の風景からー

 水丸さんの絵の特質というか、水丸さんの本質のあるものを補足的に考えておくことにします。

 それこそ、水丸さんの絵には「都会的」「洗練」をベースに「ちょっと草書的に崩したみずみずしさ」「おかしみ」があるとの村上さんの見方は的確としかいいようがありません。あえて加えるとしたら、「ペーソス」「哀しみ」でしょうか。「悲しみ」ではなく、「哀しみ」です。笑顔のことが多かったという大人の水丸さんの奥底にある、一人でじっと静かに凝視している少年という「哀しみ」です。

 たとえば、<コヨ>の表紙絵、あの少年の背中からは「哀しみ」がにじんでいるようではありませんか。「線にはすごく<哀しみ>の感情が表れて」いるように感じられたりしませんか。そういわれたらそうかもの世界なんでしょうが、私にはそう感じられてならないのです。

 

 こんな風に感じるのは、私が水丸さんの急逝から半年後に出された<ムック>で、途方に暮れた友人知己による追悼の文章を読んだからかもしれません。

 水丸さんはニューヨークの2年間を終えて1971年に帰国し、すぐに平凡社に入社してフリーになるまでの10年間を過ごします。そこで編集者として在籍していた同い年の嵐山光三郎と知り合い、彼からの誘いで「ガロ」にマンガを描くようになりました。そんな盟友である嵐山さんは「青の時代」という文章を寄せており、そこで水丸さんの風景へのかかわりかたを論じています。水丸さんは昭和17年7月に東京赤坂で生まれました。両親は建築設計事務所を開いていた父と千葉房総出の母であり、7人兄弟の末っ子でした。1945年にぜんそくのため母の郷里である南房総の千倉に移住しましたが、すぐに父を結核で亡くしています。水丸さんは中学卒業まで千倉でとどまっています。

 嵐山さんは「水丸の風景へのかかわりかたは、父を失った少年がもつ、したたかな意志だ」「風景というやつは、孤独な少年にとって、残酷強暴でありながら心あたたかく大きい父のようなものなのだ」といいます。そして、「言葉をもたない孤独、いいようのない淋しさというものは、無言の風景とのじりじりとした対決でしか表現できない」のであって、水丸さんの場合、それが千倉の風景、千倉の海の風景だったのだといいたいようなのです。

 川本三郎さんは「千倉の海から東京へ」において、千倉での「子供時代の随所に死があり、別れがある」といいます。水丸さんの原型ともいわれているマンガ『青の時代』(1980年6月刊/青林社)のなかの「裏庭」を例にあげ、姉が千倉から東京へ戻ることになり、弟が駅に姉を見送る、そんな別れの場面を、水丸さんの原風景だと考えているようです。川本さんは「水丸さんの心のなかにはいつも別れがあった」と、エッセーを結んでいます。

 下は「裏庭」の1頁であり、弟である水丸さんらしき少年の目に涙があります。

  『青の時代』「裏庭」のなかの1頁

 巻頭におかれた平松洋子さんの「「哀しい幸福」という概念」も嵐山さんや川本さんと同じような視点から水丸さんの像を描こうとしています。それは「東京からやってきた部外者」である千倉の土地で、ある意味で特権的な客観性をもって「少年は自分自身を護るかのようにじいっと視線」を千倉の海へ、千倉の暮らしへ注いでいたのではなかろうかと強調しています。上のマンガのなかの少年の「異様なほどまんまるに見開いた」目は、類まれな用心深い観察眼となって、少年の水丸さん、そして後年の水丸さんを支えていくことになります。平松さんは水丸さんの表現の源流には「生きてゆくために千倉で味わわざるを得なかった疎外感、独りで培った観察眼にやっぱり辿り着く」と記しています。

 少年期の千倉、青春期のマンハッタンを「部外者」であることを強いた「ふたつの未知な土地」とし、水丸さんの「哀しい幸福」をこう表現しています。

 「 ふたつの未知の土地は、哀しみを癒しながら、同時に哀しみを哀しみの

  まま温存し、精神を護る繭となった。その繭の優しさによってこそ、安西

  水丸の幸福感は育まれたのである。(中略)つねに純粋無垢でありたいと

  願ったひとの「哀しい幸福」の原点を指し示している。」

 「純粋無垢でありたい」ということは、先に述べたディック・ブルーナやアメリカのフォークアートへの水丸さんの傾倒に通じています。

 水丸さんの「のほほん」とした「おかしみ」の背後にはいつも「哀しみ」が貼りついています。だからこそ水丸さんの絵は多くの人から愛された、そしてこれからも愛されていくにちがいありません。

 

🔸おわりにー「ひとつの恋」の頃ー

 安西水丸さんのイラストレーションの秘密のようなものが分かったらいいなあと願ったのです。<ムック><コヨ>を中心に、水丸さんや水丸さん以外の方の文章のなかで、あっそうかもしれない、きっとそうなんだろうと反応できたところをまとめてみようとしたのですが、ただ引用しただけのことになってしまいました。

 でも、私自身にとっては、安西水丸さんとは何者かという問いの一歩にはなりましたし、何を大切にして描かれた絵が私たちの共感を得るのかについてもヒントをもらえたように感じています。

 

 <コヨ>には、「もっと知りたい!水丸さんの教え」という見開きのページがあります。「おもしろ美術一年生」という特集ですから、迷ったときに「灯台のように心の支えにしたい水丸さんの教え」を箇条書きで示そうという趣向でしょう。30項目もありますし、これまでの紹介とも重複する部分もありますが、10項目をセレクトしておくことにします。

 ◦楽しさを伝えるのがイラストレーション

 ◦イラストレーションを知るには書店に行くべし

 ◦普通が魅力的

 ◦達者は危険

 ◦簡単な絵ほど難しい 

 ◦慣れてきたら別のペンに変える

 ◦オリジナリティはにじみ出るもの

 ◦頭で考えたことより、やってみて楽しいことがあなたに合っている

 ◦自己主張しすぎない。

   かっこいいやつは、静かにしていても周りに水玉模様が見える

 ◦完成度よりも、あなたにしか描けないものを描いたかが大切

 

 最後に<ムック>の水丸さん本人のエッセー「ひとつの恋」と<コヨ>の川崎ますみさんの「灯台」という絵を紹介しておきます。

 とても短いエッセー「ひとつの恋」は『週刊朝日』2012年3月30日号に掲載されています。ちょうど急逝の2年前になりますが、半世紀以上も前の1961年の出来事が書かれています。美術大学への入学とともに、夜はデザイン専門学校にも通うこととなり、そこである女性と知り合います。その女性Kは本が好きで「ぼくに」いろんな本のことを教えてくれ、ある日、全5巻の『チボー家の人々』を読んでみてとわたされました。だが、「ぼくは」すぐに挫折し、数ヶ月してから読み終わったと返却しました。そしてKから感想を訊かれ、「ぼくは」困ってしまいます。そのあとの全文は次のとおりです。

 「 ついにおそろしいことがやってきた。

   「ちゃんと読んでいないんでしょう」

   青くなった。これもひとつの恋であろう。

   再び借りることになり、苦しみながら読破した。

  実に辛い本であった。

   Kは今、「岸田ますみ」といい、画家になっている。僕の妻である。」 

 下の絵「灯台」は、その妻である「岸田ますみ」さんが描かれました。これは千倉の海なのでしょうか。後姿の水丸さんの背中は何を語っているでしょうか。

  「灯台」絵 岸田ますみ [<コヨ>]

 

 

 

 

2018.01.03 Wednesday

新年の挨拶 2018

 明けましておめでとうこざいます。

 

 「戦後のない国」に自分が育ったことを初めて気づいたと、アーサー・ビナードは言います。日本にやってきて、「戦後〇〇年」という表現をよく目にして、アメリカには日本語の「戦後」に相当するpostwarがあるけれど、同じ意味として伝わらないことを知ったというわけです。

 つまりアメリカでは首をかしげながら「その『戦後』って、いつの戦争のあと?」となります。たしかに第二次世界大戦はワールドワイドですが、1950年からの朝鮮戦争、1964年から本格化したベトナム戦争と続くからです。だから、1967年に産声をあげたビナードさんは、日本では「戦後二十二年生まれ」、アメリカでは「戦中生まれ」となることに、日本語の「戦後」に遭遇して意識するようになったとのことです。

 このように「少し距離をとれた」ことから、「戦後」という日本語に定着している、その「戦争」とはいったいなんなのかという疑問を抱えることができたと、ビナードさんは語っています。

 

 そんな「戦争」を生きた人びとから聞き取った「体験」「経験」をまとめた一冊が『知らなかった、ぼくらの戦争』(2017年4月刊/小学館)です。「戦後七十年」の2015年4月から1年間、文化放送で『探しています』のタイトルで放送された番組において47人の戦争体験者の方々へインタビューし、その中から23人の証言がこの聞き書きの本になりました。

 ビナードさんは「この本には、ぼくが「戦後七十年」をきっかけに与えられた数々の発見が満載されている」と書いていますが、私も知っていたようで知らなかったこと、眼をそらしていて知らなかったことなど、いろんな「目から鱗」の連続の前に立たされることになりました。

 

 アーサー・ビナードさんはアメリカのミシガン州に生まれ、大学生で英文学の卒論準備をしている頃に日本語の漢字に「強いウイルスが体内に入り込んだような衝撃」を受け、「戦後四十五年」の1990年に来日し、日本語を自分のものとし、日本語で書いた詩やエッセーで数々の文学賞を受けてきました。日本人の連れ合いを見つけ、滞日27年。日本で生まれ育っていない人で日本語で文学を綴ってきた稀有な一人です。

 この本から彼個人のことで知ったのは、12歳のときに自分も乗るはずだった飛行機に「いくつもの偶然が重なって」父だけが搭乗し、その飛行機が事故を起こし父を亡くしていることです。高校生のころから詩を書きだしていたビナードさんは、「後ろめたさ」にずっととらわれており、父が死んだときのことを表現しようとしても作品にならなかったと書いています。そして、来日し日本語でも書きはじめ「少し距離をとれる」ようになって、初めて父の死を客観視できたと記しています。

 

 いつものようにこの本の内容を紹介することはしないでおきますが、名前を知る方も多いであろう二人の戦争体験からの断片のようなものだけをメモしておきます。

 1939年生まれの『あしたのジョー』のちばてつやさんです。父の仕事の関係で1941年に満州の奉天(現瀋陽)へ渡り、敗戦のあと、幾度かの修羅場をくぐって引き揚げてきた体験を話しています。そんな家族で行き暮れていたとき、偶然にも印刷工場で父の同僚であった徐集川(じょしゅうせん)さんにかくまわってもらって救われたというちばさんの体験を聞いたビナードさんは問いかけます。「『あしたのジョー』のジョーのそのものの源って、ひょっとして徐さんのジョだったりしますか?」。

 ちばさんは絶句し、そんなこと気がつかなかった、「そうか……そうかもしれないです」と、他の漫画でも「城太郎」を主人公にしており「確かに、無意識のうちに「ジョー」という名前ばかりで描いていますね」という事実につきあたります。そして「それほどわたしは徐さんに恩を感じているんですね」とつぶやきます。

 「今でも世界中で、同じことが繰り返し起こっていますよね。テレビの画面に映る難民たちの姿が、まさに七十年前に引き揚げてきた私たち自身の姿なのです」と、ちばさんは語っています。

 

 次は、1935年生まれの『火垂るの墓』『おもいでぼろぼろ』の監督である高畑勲さんです。岡山で大空襲を体験した高畑さんは、戦争の時代はすべてが成り行きに従って流されている、「多くの国民が流されて、積極的に戦争に賛成する側に立ったのです。のっていったんです」とみています。

 テレビドラマなどではそんな大多数の一人を主人公に、つまり「戦争にのっかっていっている主人公」という例はほとんどなく、「不本意ながら戦争に突入してしまった」という風に「半分反対だった」といったりする主人公が多いのだといいます。それは戦後にがらりと変わったことをまともに説明できないからだと指摘しています。

 そして、甚大な被害を受けたという体験は多く語られるが、加害の体験は語られることが少ないのであって、被害体験だけでは「反戦」にならないと思うといい、『火垂るの墓』の高畑さん自身は「反戦映画」といえるものを撮ったことがないと語っています。それはそもそも「平和とは何か」が難しすぎるから、「反戦映画」を作るだけの能力が自分にはないというのです。

 

 この本の「戦後づくりー後書きにかえて」において、ビナードさんはアメリカの詩人のエドナ・セントビンセント・ミレーが1940年になした「平和」の定義から、こう書きます。

 「 「平和とは、どこかで進行している戦争を知らずにいられる、つかの間

  の優雅な無知だ」−ミレーは1950年にこの世を去ってしまったが、もし彼

  女が日本の「戦後」に触れていたなら、定義の時間軸をもっと長くして

  「かの間」をやめて、ただ「優雅な無知」と表現したのかもしれな

  い。」

 そして、こう続けます。

 「 いや、単なる「優雅な無知」だったら、七十年はつづかないだろう。

   たとえ人口的に「優雅な無知」ですごしている者は多くても、中にはあ

  の戦争を背負って後始末しながら日々、「平和」を生み出している人がい

  る。その営みがあって「戦後」という日本語は、現在も意味をなしている

  のじゃないか。」

 先人たちの戦争体験に「耳をすまし、歴史の中へ分け入ってみたら」、一人残らず、「「戦争体験」の枠に収まらず、みんなそれぞれの「戦後づくり」の知恵を教えてくれた」のだとし、「「戦後づくり」以外に、たぶん生き延びる道はないと思う」と、結んでいます。

 

 昨年末のブログ(「年の瀬におもうことーカズオ・イシグロから「港の人」へー」)で登場してもらったカズオ・イシグロさんは5歳のときに英国へ渡っていますので、ビナードさんと同じにはできませんが、日本で生まれ渡航先の言語である英語で文学を書いてきた作家だということになります。

 そんなイシグロさんはノーベル賞の記念晩さん会で、「のーべるしょう」とへいわ」という日本語をもちいてスピーチしました(「毎日新聞」2017.12.11)。5歳のとき、長崎の家で母から「「のーべるしょう」は「へいわ」を促進するためにあるのよ」と聞いた記憶を語ったのです。

 原爆投下から14年しかたっていない長崎であり、母の声に特別な感情がこもっていて、「年端のいかない私でも、平和とは何か大切なものであること、それがなければ恐ろしいものがこの世界を襲うかもしれないことを分かっていました」と述べています。

 

 小市民として「優雅な無知」を決めこんで「平和」を享受してきた<私>ということは、こんなブログを書きはじめてから、自覚してきたことです。

 「優雅な無知」にしろ「平和」がつづいた基底には、戦争を経験した多くの人びとの「後ろめたさ」を含んだ反省があったにちがいありません。そんな人びとの退場が日本の現状に反映されていることは申すまでもありませんし、今の私たちに「平和であることのかけがえのなさ」への想像力の欠落をまねいているといえます。だからこそ「戦後七十年」というけじめをつけたがる風潮に抗して、ビナードさんは戦争体験者の声に耳をすまして聞きとろうとしたのでしょう。

 今や「優雅な無知」のままで「平和」をたもつことはできないという現実にも、私だけでなく、多くの日本人がつきあたっています。そんな中では、ものものしいプロパガンダから、ますます「少し距離をとれる」ことができなくなりつつあります。パワーポリティックス的な理解を超えることは可能なのでしょうか。それを超えて、イシグロさんの「平和がなければ恐ろしいものが世界を襲うかもしれない」と感じた記憶から出発することが可能であるためにはどうすればいいのでしょうか。

 高畑さんのいうように「平和とは何か」は難しすぎますが、私としては、「事実」とか「真実」とか、現下の問題につながっている、自分の知らなかった時代のこと、自分の生きてきた時代のことを、少しでも理解を深めていきたいとは願っています。たしかに「事実」「真実」といってもとても難しい時代環境ではありますが、そうであるからこそこだわっていきたいと思っています(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」)。

 いつものように身の程知らずではありますが、そうありたいと願っています。

 

 初詣されている人びとの祈りや感謝の言葉の中味はわかりませんが、きっと家族の健康とか幸せ、友人知己の無事息災などでありましょう。それはずたずたに引き裂かれよごされた「平和」という言葉、日本の「戦後」というものとまっすぐに結ばれていることは申しあげるまでもありません。

 そんなことを正月の空に向かいかみしめています。

 

 本年もよろしくお願いします。

  正月の空に凧が舞う [1月2日撮影、次も同じ]

  正月の夕景(喜瀬川の橋上から)

 

 

 

2017.12.31 Sunday

年の瀬におもうことーカズオ・イシグロから「港の人」へー

 押し迫りました。

 子供たち家族が泊まるための準備はなんとか整いましたが、そのかわり私の部屋が物置き状態になってしまいました。部屋の片づけや掃除を新年に後まわしする口実にいたしましょう。

 

 こんな年の瀬に、大学のハンドボールクラブの同窓会的な集まりが大阪でありました。すっかり忘れていたと思っていたことが具体的な形となってあらわれてきました。記憶のキャッチボールというか、同じ時に同じ場所を共有していた人たちと話していると、記憶が膨らんでくるのを実感しました。

 私は2回生になったばかり、雨にたたられた4月の合宿(岡山)を終えて退部したのです。どうして退部したのかは運動能力がなかったからだと今は理解していますが、その時は別にしたいことがあるからなどと思いこんでいたのでしょう。合宿所での打ち上げのあと、実家へ戻るために真っ暗な道を駅へ向かっていくとき、友人Nがいっしょに歩いていて止めないように言ってくれた情景をまざまざと思い出したのです。

 こんなこともあったのでしょうか。こうしてブログを書いていると記憶のいい加減さを思い知ることが多くあります。自分にセンチメンタルといいたくなる傾きがあることを否定しませんが、今となっては甘美な「記憶」としてとどめておくことにします。

  大阪中之島図書館のフォサードです やはりカッコいいですね

 

 「ハルキ棚一夜明ければカズオ棚」(『朝日新聞』12月28日朝刊「平成落首考 2017年後半」より)。

 ノーベル賞の授賞式を前にカズオ・イシグロへNHKが単独インタビューした番組が放映されました(12月16日NHKBS1「カズオ・イシグロが語る世界」として放映、その英語・日本語訳全文<NHK NEWS WEB>掲載)。

 インタビューは多岐にわたっており、彼の小説のテーマである記憶と忘却の問題、特に第二次世界大戦の記憶への向き合い方という「微妙な問題」にもふれていますが、ここではほんの一部、世界の現状へのイシグロさんの視線とその見方に限定してみてみることにします。

 

 イシグロさんは、現在の世界は「非常に張り詰めた」とか「差し迫った」状況にあると表現します。晩さん会の記念スピーチでは「私たちは今日、部族間の憎しみがますます大きくなり、共同体が分裂して集団が敵対する時代を生きている」とし、分断の時代にあるとみているのです。

 インタビューで表面上の国際化の進展とは真逆の現象が地域レベル、国家レベルで生じていることについて問われ、イシグロさんはある程度はグローバリゼーションとその速度への反応、すなわち「反動」であり、「ポピュリズムという言葉がおおむねあてはまる」とします。

 そのうえで、「実にたくさんの人々の気持ちをなおざりにしてきたということを見事に表した現象だ」と私は思っていると述べています。そんなグローバリゼーションから自分たちは取り残されていると考える人はたくさんいるのであり、ですから、こんな状態はお決まりの政治家から見殺しされているせいだという主流の政治的既成勢力に属しない政治家の影響を受けやすくなっているのではないかと説明しています。

 ここまではポピュリズムの背景説明として典型的な見方ですが、注目すべきは「それより危険なのは」と強調しているところです。つまり「有権者をコントロールし、政治的支援を取りつける」ために、「外部の人間が特定のグループの人々に責任を転嫁する」こと、「社会におけるマイノリティ、あるいは社会に入ろうとしている人々を、責任転嫁するグループとして選ぶことだ」というのです。

 このことによって、ますます社会の分断がすすむことになります。このやり方は1930年代にファシスト党が用いたテクニックで大変注意しなければならないのだと強い懸念を表明しています。

 

 こうした世界の現状において文学の果たす役割についてイシグロさんは強い使命感のようなものを口にしています。イシグロさんにとって「文学の本質とは、人間の感情であり、願わくば私たちが作り出した障壁や壁を超えて、人間の感情を分かち合う」ことだと考えています。

 したがって狭義の文学だけでなく映画、漫画、テレビ、演劇など多様な芸術形式は「この世界で生きていく中で感じる私たちの気持ちを、交換する手段」として、「私たちが自分たち自身を見つめ、自分たちを観察することに役立ち、障壁を超えて人々を理解することを助ける」ことになるのだというのです。だから「文学は人間の活動にとって非常に重要な部分」だというわけです。

 ノーベルがダイナマイトを発見し、ひどい破壊のためにもすばらしい進歩のためにも使うことができるが、どう使えばいいかという問いに直面し、そこからノーベル賞が誕生したのです。つまり「知識を進化させ、科学的発見などをする」ことは重要であるが、それだけでなく「私たちがそれらの発見をどう利用するかを決めなければならない」という重要な側面をあわせ持っています。そのためには、「感情や人間の体験に関して、異なる文化や人種間に一定の理解があって初めてできる」と考え、イシグロさんは今の世界の危機的な状況において果たすべき文学の重要性を、これに携わる者の責任とともに訴えているのです。

 

 なお、最初の落首に関連した補足をさせていただくと、村上春樹は英国で出版されたカズオ・イシグロの研究書に序文を寄せています。「カズオ・イシグロのような同時代作家を持つこと」と題する文章では、カズオ・イシグロの文学を「たとえば一人の画家が、礼拝堂の広大な天井や壁に一面の絵画を描き上げるよう」なもので、そんな巨大な絵画の中の一部「何年かに一度、我々に完成された部分を公開する」と、比喩を用いて評しています。一人の小説読者としても、一人の小説家としても、カズオ・イシグロの存在は喜びであり、励ましでもあると賞揚しています(村上春樹『雑文集』2011年1月刊/新潮社)。

 

 さて、元に戻ります。カズオ・イシグロは社会の分断から発生し、社会の分断をすすめる「ポピュリズム」という現象について、西欧世界によく見られるが、「興味深いことに日本や、それから東アジアにおいてはあまり見られません」と発言しています。

 それが事実であれば、ありがたいことなのですが、発言の形とは違っていても、類似したような現象がみられるのではないかと私は考えています。イシグロさんがより危険なことと強調する「社会のマイノリティへの責任転嫁」という現象と、通底するところがあると感じた文章についてふれておきます。

 小熊英二による論壇時評「弱者への攻撃 なぜ苛立つのか」です(『朝日新聞』2017年12月21日)。この時評は、「みんな何に苛立っているのだろう。何をそんなに恐れているのだろう」からはじまります。そして、「無力感と苛立ちを他者にぶつけても何も生まれない。逆にそれを制御する力を自覚することは、誰にとっても生きやすい社会を築く第一歩となる。新年は、そうした努力の始まりにしていきたい」で結ばれています。

 

 今回の時評では、木村忠正の「『ネット世論』で保守に叩かれる理由」(中央公論2018年1月号)に依拠して問題提起しています。木村さんによれば、今のネット投稿の「主旋律」は「弱者利権」批判だとします。この「弱者」とは「生活保護」「沖縄」「LGBT」「障害者」「ベビーカー」などが含まれ、投稿者はこれらの弱者が「立場の弱さを利用して権利を主張」しているとみなしており、「在日特権」という言葉はそんな認識を象徴するものだというわけです。

 ネット上の韓国・中国への侮蔑も「弱者利権」批判の延長だというのです。木村さんは「歴史修正主義やナショナリズムの問題というよりも、慰安婦問題、戦争責任、戦後補償、植民地支配について、韓中にいくら謝罪しても結局問題を蒸し返されるという意識が根底には強く横たわっている」と分析されているそうです。

 このような「弱者に対する強い苛立ち」を示す投稿者たちを、木村さんは「『マジョリティ』として満たされない人々」と形容しています。彼らは「弱者」や「少数派」より、自分たちこそ優遇されるべきだという認識に立ち、「その人なりの公正さ」を主張しているのだというわけです。

 

 小熊さんは、他の論文などから、「少数派への不寛容」が日本だけでなく、ドイツの移民・難民排斥とか中国の中産層による反体制派蔑視にも現象として共通しているところがあると指摘します。

 そして、中国をリポートしたジェームズ・パーマーを引用しつつ、「つまり、現状を変えられない自分の無力を直視するよりも、今の秩序を公正なものとして受け入れ、秩序に抗議する側を非難するのだ」と述べています。国や地域それぞれで事情は違うものの、「急激に変動する現状に苛立ちながら、それを制御できない無力感を抱く人に、不寛容が蔓延する状況は共通する」と結論づけています。

 最後に小熊さんは、過激なネット投稿は目立ちはするが、実は極端な人々の所業だというのが実態であり、訴訟を含め、拡大を止める余地はあるとしています。そして前記した結びの言葉、「それを制御する力を自覚することは、誰にとっても生きやすい社会を築く第一歩となる」につなげているのです。

 

 以上、小熊さんの時評は、イシグロさんの世界の現状への見方とやはり共通していますし、「弱者利権」批判などはイシグロさんの指摘する「社会的マイノリティへの責任転嫁」という現象の素地をなすものだいうことができます。こうした人々を核とする社会的な広がりを、ある種の自覚的な政治勢力はすでに利用しているのではないか、それが現実の姿なのかもしれません。

 私自身はこんな社会的雰囲気が漂流から奔流のようになっていくことをおそれています。各種世論調査において明らかなとおり、他の世代に比べ10代、20代の若者の方がより多く「自民」に投票する行動にもその一端があらわれています。今はこの問題にふれないでおきましょう。もとより単純に理解できるような問題ではありませんが、「青春=反権力」という状況は幻想になったという事実だけをかみしめておきます。

 いうまでもなく「無力感」は私自身も強く抱いています。それは「苛立ち」にもつながりますが、年齢的な「諦念」のようなものとしてあらわれてくるともいえます。でもしかし、それはそうだがあんまりよくないことだなあという気持ちをもっているから、こうして書いてもいるのでしょう。

 年の瀬にあって、「明日に架ける橋」はどこにあるのか、そんな心で暮らしていくこと、それが私の私自身への希望です。

 

 さて、今年新刊で購入した数少ない本の一冊、北村太郎の『港の人』(2017年9月刊/港の人)から、ずしっと重い衝撃を受けました。生身の人間から発せられた言葉が私の生身に入ってきて、そこで小さな爆発を起こしたという感じがします。

 北村太郎さん(1922-92)は、私がだいぶ前から書こうとしていて書くことのできていない詩人です(「思泳雑記の二年、そして三年目へ」)。『港の人』の底本は北村さんが亡くなる4年前の1988年10月に刊行されており、今回は同じ「港の人」という名をもつ出版社から未収録の詩3篇を加え、30年をへて再び出版されたのです。

 北村太郎『港の人』 2017年9月刊/港の人 表紙の装画は岡鹿之助の「古港」1928年です

 

 北村太郎さんのことはまだまだ書けないなあと思っていますが、新年の目標のひとつとしておくことにします。今は「港の人」という33篇の詩のかたまりの中から、終わりの方におかれた「31」一篇を引用させてください。長いですが私が「年の瀬におもうこと」にもっとも近そうなのでお許し願います。

 

   港の人 31

 

  手帳に書いた予定の日が

  かならず来る

  世の中に

  これくらい恐ろしいことはない

 

  それにしても

  ずいぶん手帳がたまった

  書かれているのは

  愚行と感傷の涎

 

  去年の一冊をぱらぱらめくる

  生活費の計算や

  なぜかわからないが

  華氏を摂氏に換算する公式など

 

  数字もいくらか記してあるが

  ひどい手だ ほかに

  曲線や六面体らしい図もあるが

  まったく意味不明

  

  手帳を閉じて

  四月なのに

  まだすこし寒い夜の台所へ……

  予定日

 

  すべて来たり去り

  いつか予定に絶対はいらない日が

  くるんですか、と

  ひとりごとをいいながら

 

  包丁をとる

  こころが休まる

  でも、それまでには

  いろいろと予定があって

 

  やはり厄介な日々はつづく

  手帳の白いページが

  こわい思いに

  つぎつぎとめくられていくだろう

 

  窓のそとは闇

  そこからこっちを向いて

  ゆっくり頷いている

  カニの甲羅のような顔

 

 1988年、北村太郎66歳のときに発表された詩、宙づりにされた生のただ中で書かれたものです。

 

 今年、いつものことでもありますが、私にとっては無知のままで書くという難行として印象深く記憶している「ロバート・フランク展」に関するブログを、島田誠さんがメール・マガジンで紹介いただいたので、貼り付けさせていただきます。

  🔸ギャラリー島田&アートサポートセンター神戸メールマガジン

               −1391号 2017年12月28日

 

 それでは昨年の暮れのブログ(「「多少のご縁」もあって」)と同じあいさつでしめくくることにします。

 ごくごくお気軽に「よいお年を」を口にすることが公私ともはばかられるような切実さがなきにしもあらずではありますが、だからこその「よいお年を」のあいさつを皆さまへおくります。

2017.12.26 Tuesday

預けたままだった版画のことー「ギャラリー歩歩琳堂」ー

 「こんなにいい作品だったのですね」と、間の抜けたびっくり声を出してしまいました。ギャラリー歩歩琳堂の大橋信雄さんに向かってです。

 先月、同ギャラリーに預けたままになっていた版画の5枚セットを十数年ぶりに見せてもらったとき、大橋さんへ発した第一声です。勿体をつけるようですが、いかなる作品かはあとで紹介させていただくことにします。

 

 ギャラリー歩歩琳堂は、大橋さんが海文堂ギャラリーから独立してはじめたアートスペースです。もうすでに20年近くになりますが、このたび、大橋さんは一つの区切りをつける、ギャラリー歩歩琳堂を閉じる決心されたのです。そんなこんなで、失礼なことに購入したままで忘れかけていた版画とも再会の機会ができたというわけです。

 大橋さんのことは、当ブログでも一度だけ海文堂ギャラリーで過す時間について「島田さんはもとより、後でギャラリーで仕事をされた大橋さんの解説が付いてというのは、まさにプレミアム付きの時間であった」(「ギャラリー島田に向かって」)として登場いただいています。つまり私にとって「海文堂ギャラリーはかけがえのない美術の館そのもの、学びの場としての美術の学校であった」のですから、大橋さんは島田誠さんとともに私の美術の先生であったということになります。

 

 大橋さんは私より十数歳年下で絵の実作者でもある、わりと構えることなく話すことのできる存在だったのだと思います。よく二人でやっていたのは、全部の展示作品を観たうえで、「一番好きな作品」とか「一番いい作品」について同時に言い合う、答え合わせゲームのみたいなことです。もちろん別々の作品になることもありますが、不思議と一致することがよくあったように記憶しています。大橋さんの評価と一致したときは、顔を見合わせ破顔していました。

 こんなことに付き合ってもらって、私は遊ばせていただいたのだ、楽しませていただいたのだと、今は感謝の念とともに思い出します。

 

 元町駅の近く、一丁目の少々古いビルの3階にあるギャラリー歩歩琳堂には数多くはないにしろ足を運んできました。片づけても片づけても作品が蓄積してきて収拾不能の一歩手前の感のある室内となっていきましたが、それはそれで自分の部屋のようで楽しいのです。隠れた宝探しというわけです。

 ざっと展示された作品を見終えると、まあまあと椅子をすすめられ、お茶が供されてます。一人のこともありますが、その時々の展覧会の出品作家や美術家の方々、そして少々風変りなお客様たちと、大橋さんの作業台でもあるテーブルを囲んで歓談することもよくありました。展示を見てあまり好きになれないような出品作家と同席することになったとき、どう話していいのか困ったことも、今はよき思い出となりました。

 大橋さんは自ら評価する画家たちと深い交流をもっていました。年配の作家から信頼され、私がえーと思うようなことまで誠実に関わってこられたという印象が強く残っています。また実作者としての感覚を共有できることからか、また、その人柄のゆえに、たくさんの若い美術家が発表の場をもとめて集まってきたのでしょう。このギャラリーから出発し海外でも高く評価されるようになった若い作家たちから兄事されていた(今もingです)ことは特筆されるべきことです。 

 私のような者にとって敷居の低さが魅力のギャラリーだったのに、最近足が遠のいていたことを悔やむ気持ちもあります。でも今はギャラリー歩歩琳堂が存在し、海文堂ギャラリーとギャラリー島田とともに、先のブログの言葉を使えば「人生のスパイスをいただくことになった」という感謝の思いなのです。

 

 90年代初頭のバブル崩壊のあといよいよ厳しくなるギャラリーの経営環境のもとではじめられたのであり、しばらくしての2008年のリーマンショックによって追い打ちをかけられる状況でもありました。そんななかで、大橋さんは市場とか同業者からこんな作品を安価に入手できたといっては、私にいろんな作品を紹介してくれました。子供たちが独立し、二人暮らしになった私は、大橋さんの「これいいですよね」に反応し、少しではありましたが、購入した作品もあります。

 基本は版画ばかりで、油絵の方は私にとって観るだけのものであり、手を出せないもの、出してはいけないものだったのです。でも、私にとってすばらしい作品で、かつ失礼なぐらいに低い価格だったときに、神戸、兵庫の画家である貝原六一(1924-2004)、中西勝(1924-2015)、西村功(1923-2013)の油絵を手に入れることができました。ギャラリー歩歩琳堂での出会いがなければ、自宅の壁に私にとってビッグな三人の絵が並ぶことはなかったでしょう。

 私たち二人が亡くなったらこの絵はどうなることかが頭の端をよぎったりもします。が、なるようにしかならないでしょうと思うしかありません。私にとっては洞穴のようなギャラリー歩歩琳堂から発見された宝物なのです。

 

 さてさて、十数年間ギャラリーに保管されていたという版画のことです。

 大沢昌助(1903-1997)という洋画家の作品です。もともとは私のよく読んでいた作家である阿部昭(1934-89)の本の装幀者として大沢昌助の名前がクレジットされていました。装幀のための抽象画だったのですが、そのときからこれいいなあ、好きだなあと思っていました。

 1990年代になってからでしょうか、海文堂ギャラリーで魅せられた版画の作家名が大沢昌助だったのです。そんなことがあって、この大沢昌助は阿部昭さんの本の装幀者である大沢昌助と同一人物だとわかったのです。

  左『単純な生活』1982年8月刊/講談社 右『緑の年の日記』1984年5月刊/福武書店

  特に左の方は下の版画に近いものを感じます

 こんな私にしてはめずらしく偏愛志向もあって、大橋さんにも好きな大沢昌助さんの作品はありませんかとたずねたりしていたものですから、1989年制作の5枚セットのシルクスクリーンを手に入れた大橋さんから話があったのだと思います。そのときの印象がどうであったか記憶していませんが、もちろんこれもいいですなあとなって、破格値だったこともあって購入したのに決まっています。

 このシートを買った2001年から大橋さんに預けっぱなしになってしまったのは、これを額装してもらっても飾る壁面もないし、当面はギャラリーで一時保管しておいてもらうことにしたのが、なんだかんだとそのままになっていたということなのでしょう。

 そして、十数年たって古びたシートカバーから取り出された5枚の版画をみて、冒頭の「こんなにいい作品だったのですね」という言葉が飛び出したのです。もとより飾るあてなどないけれど、こんなにすてきな版画を埋もれさせてしまうのはよくないし、最後にもなりそうだし、今回はよーしと額装してもらうことにしました。

 こうして額装されてきた作品を床において上から撮影した写真が以下のものです。 

  シートカバーの中に入っていました 1989年制作で「1990」に世に出たのでしょうか

  「島」 上のタイトルに照応する版画がどれだかはっきりしませんが、画面からの想像です

  「並立」  

  「まわる」

  「ゆれる線」

  「みどりのたたずまい」

 こんな写真をみて、好きか嫌いか、いいか悪いか、そんな評価はできないでしょうが、まあ雰囲気を感じていただければいいかなとアップしてみました。

 八十代半ばをすぎた大沢昌助さんが、余計なものを取り除いて、みずみずしい心で色と形を創造したものと申しあげるしかありません。「みどりのたたずまい」など、色をブルーに変えると、マチスのようでもありますが、やはり色の微妙な濃淡など、日本画のようでもあります(垂らしこみ技法みたいなのです)。ここには自分の心に正直に抽象画を描いてきた画家の一つの到達点があります。

 最近ブログに書いた言葉と通底しているとの感覚を強くもちました。そのブログ(「出版には勇気がー涸沢純平『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記ー」)で紹介した、遅れ詩人である清水正一さんの通夜での子息の挨拶「家族思いの清潔な一生であった」という《清潔》という言葉に通じるものを意識したのです。なんだか変てこな表現ですが、私には、この版画から《清潔》という言葉が、大沢昌助の人となりと重ねあわせ、浮き出てきたように感じられたということです。

 

 今回のブログはギャラリー歩歩琳堂と大橋信雄さんに感謝しておこう、そして私の思い出として残しておこうと思って書いているのですが、なんだか私の<鑑識眼>みたいなものを自慢しているような感じがしてきました。ごめんなさい。

 私は当ブログに<アート>というカテゴリーを設け、美術について書いたりしているにもかかわらず、音楽とともに美術が好きだなどと語るのはずっと気恥ずかしいことと思ってきました。それは聴いたり観たりという、いわば鑑賞しかできないという受け身だからでしたし、ましてや最近では鑑賞という時間も風前の灯という状況にあるからなのです。

 今までもこれからもそんな<鑑識眼>など私は持ち合わせているわけではありません。いいものはいい、本物は本物だ、評価できる眼も大切なことだけれど、どうでもいいように思うようになりました。音楽や美術を言葉にできないことを恥ずかしくは思いますが、音楽や美術が発信している何かを受けとめ、なにがしかの喜びとすることができれば、それはそれでいいのだと今は感じているのです。

 人間の生きることの原型とか本質には、<美>への共鳴というものがあるにちがいありません。老いることが人間の生きることの原型へ回帰していくことだという面があるとすれば、私のような年代の者にとって<美>(それはいろんなジャンルに広がる<芸術>ということもできます)はいよいよ大切なものになっていくのだと、確信をもつようになってきました。

 

 大橋さんは、お聞きすると、これからもいろいろとやりたいことがいっぱいあるそうです。少し時間の余裕もできるでしょうから、第二、第三の人生を十分に生きていかれることを願い祈るのみです。

 それにしても、こうして書いていると、島田誠さんにしろ、大橋信雄さんにしろ、たまたま海文堂で出会ったことによって、こちらの思いこみにせよ、自分の人生にささやかでも大切な豊かさを与えていただけたのだなあと、改めて感じています。 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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