2017.06.25 Sunday

これも映画なんだー『地球タクシー』から『人生タクシー』へー

 思えばタクシーとは不思議な空間です。客からすると逃げようもない密室空間ですが、地方の町で話好きの運転手さんのタクシーに乗りあわせたりすると、ほっとします。

 『地球タクシー』「〇〇を走る」というテレビドキュメンタリー(NHKBS1で不定期放送中)を見たことがありますか。これまで世界の11都市分が放送されましたが、けっこう楽しいですし、どこかしみじみとしてしまいます。

 テレビマンユニオンのディレクターとカメラマンが通訳の方といっしよに、交渉してOKとなったタクシーに乗り込み、街を走りながら、タクシーの運転手さんの言葉や表情とともに、車窓からの風景を映像化するというものです。一都市あたり数台のタクシーが取材されていますが、タクシーの内と外に小型カメラを固定して撮影しているようです(撮影は遠隔操作されているのでしょう)。

 NHKの番宣では、「世界のある街を訪れ、タクシーを乗り継ぎ、ドライバーとの一期一会の出会いを通じて、ひとつの街を見つめていく、新感覚の紀行・情報番組。」「タクシードライバーほど、その街を知るものはいない……。(中略)実際に街を走っているかのような映像、何気ない会話から新たな街の姿を知る。」などと表現されています。

 

 本稿の後半部では直近に再放送された「シンガポールを走る」を少しだけ紹介してみることにします。

 これまで放送された11都市のなかで私が訪れたのは4つの街、台北、リスボン、上海そしてプラハです。特にリスボンとプラハは自分たちの足で歩いたこともあって(といってもトラムとケーブルカーが中心でしたが)記憶の中の街の風景との再会になつかしさを強く覚えました。でも同時にまた何も見ていなかった、感じていなかったことを思い知ることにもなりました。

 そんなの当たり前のことだといえばそのとおりです。たとえその街に住む人と母語で話ができたとしても、少しの発見はあったにせよ大きな違いはないでしょう。私たち一人ひとりが経験しうること、そして想像力の及ぶ範囲も限られていることに謙虚でなければならないと思います。それは日本で足を運んだ町であっても、ましてや自分の住んでいる町ですら「街の姿を知る」ことは容易ではありません。

 

 『地球タクシー』では、タクシーという窓を通して、「街の素顔に出会う」「街に生きる人々の素顔に出会う」ことが試みられているのです。

 繰り返しますが、このドキュメンタリーの主役は撮影されているという非日常において現われるタクシードライバーの表情と言葉であり、それとシンクロするように映像化された車窓からの街の風景、街ゆく人びとをとらえた街の表情なのです。

  『地球タクシー』「シンガポールを走る」のトップ [2017.6.21再放送分の映像を撮影]

  同上 テレビクルーが乗車したタクシーの一台

 

 同じタクシーを舞台とした『人生タクシー』(ジャファル・パナヒ監督/2015年/イラン)という映画を先月元町映画館で観ることができました。

 タクシーが舞台といっても、ジャファル・パナヒ(1960-)監督本人がタクシーの運転手となって、テヘランの街を走りつつ、タクシーの中で繰り広げられる人生模様を、ダッシュボードに据えたカメラ(『地球タクシー』のカメラよりもっと性能はよくないものです)で撮影されたものです。このドキュメンタリーなのかフィクションなのかよく分からないような映画は、ユーモアにくるまれたようなリアルさで観る者に迫ってきますし、ドライバーであるパナヒ監督の穏やかな笑顔になんだか元気づけられた映画でした。

 オフィシャルサイトから、タクシー内に出現する人生模様たる挿話を引用しておきましょう。

 「 死刑制度について議論する路上強盗と女性教師、一儲けを企む海賊版レ

  ンタルビデオ業者、交通事故に遭った夫と泣き叫ぶ妻、映画の題材に悩む

  監督志望の大学生、金魚鉢を手に急ぐ二人の老婆、国内で上映可能な映画

  を撮影する小学生の姪、強盗に襲われた裕福な幼なじみ、政府から停職処

  分を受けた弁護士など、個性豊かな乗客達が繰り広げる悲喜こもごもの

  人生」

 そして「知られざるイラン社会の核心が見えてくる」と続いていますが、私はそう感じたかと問われたらそんなところまで分かったとはいえませんと答えます。何より人生模様そのものが味合い深いというか、それぞれの登場人物とその出来事に対し、遠く離れた日本において感情を共有していることへの喜びが先行しました。 

 

 『人生タクシー』を観ると前記の『地球タクシー』のことがまず連想されましたし、パナヒ監督の師匠であるアッバス・キアロスタミ監督(1940-2016)の作品がよみがえってきました。キアロスタミ監督の『そして人生は続く』(1992年)『オリーブの林をぬけて』(1994年)で感じたフィクションとドキュメンタリーの境界線にあるような奇妙な味合いが共通していますし、映画手法上も影響が大きいのかなと思いました。

 『地球タクシー』と違うのは、主役は運転手ではなく乗客だということです。外国から来たテレビクルーが街を知るためにタクシーに乗ってドライバーに語ってもらうというのが『地球タクシー』ですが、『人生タクシー』の方は監督自身であるタクシードライバーが乗客たちの悲喜こもごもを、そして大都会テヘランという街の表情を、直接・間接に関わりつつ撮影されています。キアロスタミが農村部を描いたのに対し、パナヒは大都市テヘランを対象としています。

 いわば『人生タクシー』は『地球タクシー』の外部者という視線とは逆のテヘランの街をよく知る内部者の視線で作られた映画です。それをさらに複雑なものにしているのはパナヒ監督が内部者ではあるけれど外部者でもあるというポジションに置かれていることです。

 

 こんな映画もあるんだよなあと、キアロスタミ経験を経た私としては別に疑問を持つことなく観ましたと報告できます。

 でもキアロスタミ監督よりパナヒ監督はもっと厳しい立場にあることを知ることになりました。2009年のイラン大統領選で改革派を支持したことから、パナヒ監督は2回逮捕され、2010年の最終判決では、映画製作・脚本執筆・海外渡航・インタビューを20年間禁じられ、違反すれば、6年間の懲役が科される可能性があるという状態におかれています。

 したがって、それ以降のパナヒ監督の3作品(『これは映画ではない』『閉ざされたカーテン』そして『人生タクシー』)は許可なく製作され、海外へ持ち出された作品ということになります(パナヒの全作品のうちイラン国内で上映できるのはカンヌでカメラ・ドールを受賞した『白い風船』の一作品だけとのこと)。

 そんな内部者ではあるが外部者という立場におかれたパナヒの映画にプロの役者が出演していたら、ほかの映画に出られなくなるので参加できないのだそうです。だから『人生タクシー』は監督本人のほか親類・知人だけで撮影されたのです。今回の映画はそんな制約の中で通常の製作方法ではない方法、タクシーの空間だけで車載カメラによって撮影されたのです。まさに「これは映画ではない」などと困難な状況を逆手にとって、限られた中で作られた「これも映画なのだ」という作品です。

 

 この『人生タクシー』はベルリン映画祭で金熊賞という最高賞を得ましたが、渡航禁止の監督はベルリンへ行けるわけはありません(代わりに映画に登場した監督の小学生の姪が出かけました)。審査委員長のダーレン・アロノフスキー監督は「この作品は映画へのラブレターだ」と絶賛したそうです。

 オフィシャル・サイトには、次のようなパナヒ監督の言葉が載っています。

 「私は映画作家だ。

  映画を作る以外の事は何もできない。

  映画こそが私の表現であり、人生の意味だ。

  何故なら最悪の窮地に追いやられる時、

  私は内なる自己へと沈潜し、そのプライベートな空間で、

  創作する事の必然性はほとんど衝動的にまで高められるからだーー

  あらゆる制約を物ともせず。

  芸術としての映画は私は第一の任務だ。

  だから私はどんな状況でも映画を作り続け、そうする事で敬意を表明し、

  生きている実感を得るのだ。」

 まさにパナヒ監督は「これも映画なんだ」「これは私の映画だ」と言いたいです。

 

 先のパナヒ監督の言葉を読むと、「人生の意味」を取り上げられた映画作家の緊迫感と覚悟が伝わってきますが、『人生タクシー』はスパイスを効かせているものの、生な形で社会批判を表に出すこともなく、タクシーに乗り合わせた人びとへの視線も冷めたものではなくあたたかいものです。手あかのついた人間愛という言葉を使いたくなるような市井で生きる人びとへのある種の人間賛歌というべきものであり、映画製作を禁止された監督の「映画へのラブレター」として観ることのできる気持ちのよい作品でした。

 観終わってから20日ほどたちますが、今、私はこの映画をドキュメンタリーの手法を使ったフィクションとして理解したいと思っています。

 

 このような手法と内容により日本の映画作家がトライすることはやはり難しいことでしょうか。

 制約がないからかえって難しいというより、息苦しく内向化する社会をかかえている我が国において、価値のあるトライになるはずだと思います。

  『人生タクシー』のチラシ(表) ドライバー姿はパナヒ監督

  同上チラシ(裏)

  チラシ(裏)の部分を拡大 

  カメラを向けているのは「国内で上映可能な映画を撮影する監督の小学生の姪」

 

 それにしてもタクシーという空間は何かドラマが生まれやすい場なのでしょうか。タクシードライバーと乗客が近い距離で顔を直接合わせることのなく(バックミラーを通じてチラリと合わせるのですが)閉鎖している空間で移動することは、時として、お互いに素に近い顔や言葉が出現したりすることがあるということなのでしょう。

 先週(6/21)に再放送された『地球タクシー』「シンガポールを走る」の中で印象的なところを簡単に紹介しておきます。

 

 シンガポールには出かけたことがありませんが、マレーシアの都市と同じく多民族という歴史をもっています。番組でも華人、マレー系、インド人が主な構成員となっており、一つの通りに仏教、イスラム教、ヒンズー教の寺院が建ち並んでいる映像をまず見せていました。

 6台のタクシーが登場しますが、ここでは3台のタクシードライバーを取りあげます。

 

 最初は中国系のヘンリー・リンさん、58歳です。中国語の歌謡曲をかけ、自分でもいい声で歌うようなドライバーです。4人の子供が成人し、もうこの年だし、楽しまなくっちぁと語り、今のシンガポールの目玉施設であるマリーナ・ベイ・サンズにもこの前に泊まったよと話します。

 車窓から撮影された夜の街にたくさんの人が歩く空中回廊の下で、コンクリートを前にしてイスラムの祈り(サラート(礼拝))を一人であげている男の姿が印象的でした。

  シンガポールの民族構成の画面 

  [6/21『地球タクシー』「シンガホールを走る」再放送の画面を撮影、以下同じ]

  タクシードライバーのヘンリー・リンさん

  マリーナ・ベイ・サンズ

  空中回廊の下、右下でサラート(礼拝)中の男

 

 二人目はエヌ・ジー・マイケルさん、51歳でマレー系です。マイケル・ジャクソンではないよとの受けないジョークを連発し、まだ数少ない電気自動車のタクシーに乗っていることを誇りにしています。

 マイケルさんは港湾部へタクシーを走らせ、コンテナの位置を集中させるための港湾設備の移転工事の現場を見せます。シンガホールでは、港湾をはじめ、研究、金融などの都市機能を分散して特定の地域に集中させる再整備がすすめられていること、それは効率を優先した再開発であることについて語ります。

 そして自動車の自動運転化によってタクシーの仕事ができなくなるのはまだまだ先のことだからと、自分はロボットを信用していない、人間を信用している、事故の時に人間なら対応できるけど、ロボットなら無理だろうと熱弁をふるうのです。

  タクシードライバーのエヌ・ジー・マイケルさん

  熱弁をふるうマイケルさん

 

 最後の三人目はモハメッド・サフリ・アーマドさん、58歳でインドネシア系です。母からもらったベビーネームである「アウィさん」と呼んでほしいと言います。日曜日のシンガポール、ジャランジャラン(「歩き回る」の意)の日ということでいつもと違う空気のシンガホールの街を走ります。

 家事労働者として出稼ぎにきているフィリピンの女性たちが街頭にたくさん集まって食事を広げ談笑する映像が流れます。シンガポールの5世帯に1世帯(推定)が家事労働者を雇用しているとの説明が入ります。アウィさんは自分の奥さんもタクシーの乗客として知り合った人で、インドネシアから出稼ぎに来ていたのだと語ります。

 マレーシアの国境のある場所へタクシーを走らせ、今は自動車で橋を通行できるが昔は歩いてわたるしかなかった、大変だったと説明します。そして、今は兄弟みたいなものさ、国境ができても僕らは昔と変わらない、ただ政府が分かれただけだよと語ります。

  タクシードライバーのモハメッド・サフリ・アーマドさん(アウィさん)

  日曜日の街頭に集まったフィリピン人の家事労働者たち

  映像はシンガポール側からマレーシア側を撮影したもの

 

 「シンガポールを走る」は、街の風景は発展とともにすっかり変わってしまったけれど(アウィさんは「変化は受け入れなければならない、人生はそういうものでしょ」と答えています)、不思議とおおらかなものが流れていたというナレーションで締めくくられています。

 思ってみれば、52年前に独立したシンガポールは小さな島であり、都市国家、海洋国家であることがかつてのヴェネツィアと似ています。もとより時代も位置も違いますが、金融というような不可視なものが中核となった人工的空間国家、その時代の先端を集中的に表現している経営体として共通したものを感じてしまいます。

 

 ともあれ、『地球タクシー』と『人生タクシー』は同じ土俵ではありませんが、「タクシー」という移動空間を介した映像作品として、不思議な縁を感じたのも事実なのです。

 

 

2017.06.19 Monday

「テオ」な人ー「生きている時代と向き合う」ということー

 すっかり忘れてしまっていたことにたじろぐ、そんなことが続きます。なにをいまさらなのですが、まだ認めたくないという意識があるのでしょうか。

 講演の最後に「年をとる それはおのが青春を/歳月のなかで組織することだ」と、エリュアールの詩の一節を引用されたのです。70歳半ばになった島田さんは、人生の経験を積み重ねるなかで、このような言葉に強く反応されているのかな、フムフムと聞いていました。当然のことながら島田さんの今日の話とシンクロしているなあ、こんなに短い言葉で人生の本質のようなものを表現できるとは、と驚いたのです。

 実のところ、この初めて聞いたと思ったエリュアールの一節を、当ブログ(「『歳月』の「歳月」ー茨木のり子の詩ー」2015.12.18)においても引用していたのです。この言葉自体を忘れていたし、それを自分の文章に引用していたことも忘れていた、つまり二重に、すっかり忘れていたというわけです。 

 

 梅雨入りがウソのようにカラリと晴れあがった土曜日(6/10)、甲南大学の教室で、昨年の9月に続いて、島田誠さん(ギャラリー島田代表)による「生きる実感の共有」と題した講演会が開かれました。前回の講演で語り残したところにこそ大切なことがあったとの気持ちを抱いた島田さんが、同じ場で再び話をされたというわけです。

 前回の講演を聞いてインスパイアーされた私は、当ブログで「ある回想ー「託されてことを生きて」ということー」(2016.10.11)として、ある距離をもって眺めてきた者からの一つの応答ともいうべき文章を綴ることになりました。それは、島田さんの仕事、活動、そして生き方の核となっているものが、ある種の現代性や普遍性を有しており、現代を生きる私たちにとって一つの道標(モデル)たりうると理解しているからです。

 今回の講演に接し、その感を深くした私は、島田さんの伝えておきたかったことを、あくまで私の理解というバイアスを通してということになりますが、続報させていただきたいと思います。いささか肩に力が入っていた前編とちがって、シンプルにリポートすることを心がけたいと願っています。

 

 前回の講演会にはギャラリー島田のメールマガジンで知ったことから参加させてもらったのですが、主催は「NPO法人想像文化研究組織」という団体です。私は島田さんの講演にしか参加していませんが、幅広い取り組みをされているようです。

 いろんな機会に話をされている島田さんご本人にとっても、現時点における小括を言葉にするような機会となったことでしょうし、私のような者にとってはそれを聞く機会をいただいたりということで、主催された団体に感謝しています。

  想像文化研究組織の「ご案内」文書の裏面に掲載されている団体の活動趣旨

 

 前回の講演では、その仕事と生き方を少し長いスパンからみて、全体として「私は託されたことを生きてきた、そして、今も生きているし、生きていく」との言葉に凝縮されるとしたうえで、同時に「託していく」ことに手応えをもっているという現在地が語られたものと理解しています。

 今回は、現在地に立ち、現代という時代と向き合うとの視点から現代アートと関わり、「画商」として、一人の人間として、その生き方の根っ子にあるもの、島田さんが使う「人生の通奏低音」を、少しマニュフェストのような言葉として抽出されたのだとの感想をもちました。

 それでは、そんな島田さんの話のポイントと理解した内容をメモしておくことにします。

 ㊟今回の講演レジュメからの引用は「その男 榎忠」のように表記しています。

 

◈現代アートのいのちー尊敬するモデルとしての「榎忠」ー

 今回の講演で、島田さんは現代のアートについて核としているもの、いわば自分の関わるべき、関わりたいアートとは何かということを、現代美術家である「その男 榎忠」を尊敬するモデルとしつつ、率直に提示されました。

 現代に存在している者として、その生きる時代とどう向き合い、そのことが自分の表現、創造とどう関わっているのかという問題意識というか、そんな自覚をもった作家とその作品こそが、「画商」としての自分、もとより一人の現代を生きる者としても、全身で関わるべきものなのだということです。そうでない作家と作品には関わるつもりはないという宣言でもあります。

 

 「榎忠」は、その鉄を使った作品で知られていますが、私も鉄のもつ鋭利で重量感のある作品に魅かれてきました。小さな作品ですが、ギャラリー島田のエントランスにおかれた鉄作品が錆を帯びているさまは、たまにギャラリーに足を踏みいれる前にあいさつを交わす大好きな彫刻、というより私にとっての「鉄地蔵」さんなのです。

 島田さんは、神戸長田の鉄工所で定年まで旋盤を回し続けた榎さんのことを、生きる時代と向き合い格闘し「現代という時代と向き合う」作品を「誰よりも早く明確に巨大なスケールで」創作し続けてきた芸術家として紹介されました。榎さんの「Antiestablishment/No Profit/No Museum/No Galley」という言葉と姿勢に共感しつつ、そのことは「現代アーティストとしてさらに大切なことを教えている」のだとされたのです。

 そして、そんな「No Galley」の榎さんですから、これまで島田さんの「ギャラリー」での展示要請を拒み続けてこられたようですが、来年の夏にはギャラリー全部を使って1ヵ月間のロング展示を行なうことになったと、島田さんはうれしそうに話されました。

 

 主催者は、今期は3回シリーズで「現代アートと<いのち>」をテーマとして「アートやことばが表現するいのちを輝きを堪能したい」と意図を説明されています。島田さんは「現代アートのいのち」、核となるものを、「榎忠」の作品と生き方に見出したことをまず提示されたのです。

  兵庫県立美術館で開催された「榎忠展」チラシ [ネット印刷したものを撮影]

  同上チラシの一部 

 

◈「画商」の心構えー<人生の通奏低音>ー

 現代の芸術、美術に対する島田さんの基本姿勢からして、ギャラリー島田における展覧会、個展は「現代に存在していることと、自己の表現との向い合いかた」を問うような場でありたいということになります。それは総じて「無名、難解、反俗」的なものとなり、同時代に存在している者同士が「生きていることの実感を共有」することにも繋がっていきます。

 島田さんはそんな「作家の背骨、創作に向かう姿勢」を作家に問い、軽々に使える言葉ではありませんが、共感しあうことのできる作家、「生きていることの実感を共有」できる作家とは、とことん付き合っていくことになります。石井一男さんに代表される画家たちは、島田さんという伴走者を得て、デビューし、問われ問い返しつつ、「作家の居場所」と「作品の居場所」を見出していったのでしょう。

 

 作家に問うということは、自分にも問うことになります。今回も「ホワイボン Why Born」(蝙蝠日記2015.8「ホワイボン」)のことが取り上げられましたが、それは「何で生まれてきたか」と作家に存在証明を問う言葉なのです。もとよりそんなことを問われる前に、自らに問うて美術活動に携わっている作家たちしか、島田さんと出会うことはないだろうということはできますが、島田さんはそこにギャラリスト、「画商」、その前に人間としての自分をおいた、自分の全身をさらした、ということになります。

 そんな島田さんの話を聞いていると、言うはやすく行うは難し、切れば血が出るような仕事ではありますまいか、と深く感じ入ったところです。重くて辛くて大変そうだという想像が先立ってしまいますが、それだけ喜びも深いということになるのでしょうか。

 

 画家ヴィンセントと画商テオ、この稀有なゴッホ兄弟のことについて、ずっと以前に島田さんの講演を神戸市立博物館で聞いたことを記憶しています。島田さんは「ファン・ゴッホ書簡集」を読み解いて話をされましたが、今回のレジュメにも、ヴィンセントがテオに充てて書いたのに投函されることのなかった最後の手紙の一節が引用されました。

 その一節を島田さんは「私の人生の通奏低音と化してしまった」と表現されています(蝙蝠日記2008.5「「居場所」ということ」)。「画商」ではなく「人生」なのです。その蝙蝠日記には「ギャラリー島田が真剣に生きる作家の、(略)「心や精神のすみか」としての「居場所」と思っていただければうれしい。その作家が生きていくための糧を得る「居住地」は別にあってもいいのです」とあります。

 「 死んだ芸術家の絵を扱う画商と生存中の芸術家を扱う画商とのあいだに

  なぜこんな理不尽な違いがあるのか。だが、ともかく、ぼくの絵、そのた

  めにぼくは自分の生命を危険にさらし、理性まで半ば壊れてしまった。

  −−それでもいいーーだが、きみはぼくが知るかぎり、そんじょそこらの

  画商とは違う。いまでもきみは自分の信念を曲げず、人間性を失わずに生

  きていけるとぼくは思う。だが、きみは何を望んでいるのか?」

               (「蝙蝠日記」の方からの再引用です)

 今回のレジュメにはこの手紙の引用の後に次の言葉が記されていました。「きみはどうしようというのか 今を生きるということは その答えを生きる/テオが刻印されてしまった」というのです。現代を生きる、生身の個性的な相貌をもつ美術家たちが、「きみ」である島田さんへ、絞り出すような苦悩や静かな叫びのような信号を送っているという構図になるのでしょうか。

 もとより同じではありませんし、抽象化されたものではありますが、「刻印されたテオ」が、今を生きる「生存中」の画家と画商の抜き差しならぬ関係が、島田さんの「人生の通奏低音と化してしまった」ということなのでしょう。

 島田さんはそのたたずまいにおいて「テオ」な人である志をもち続けてきた方、そう呼ぶことのできる方なんだと、私は考えたのです。

 

◈生きる姿勢ー「異議申し立て」ー

 講演の締めくくりとして、これまでの仕事、人生において、島田さんの生き方の核、基本姿勢となっているものを言葉としてまとめられました。美術、芸術、文化、そして社会との長い関わりあいのなかで、ご本人が自分の立ち姿だと自覚された、つまり発見された言葉なのだと理解しています。

 

 まず「何よりも自由であること」「はじまりはいつもひとり やるときはいつも一緒」ということです。直近の蝙蝠日記2017.5「はじまりはいつもひとり」においても、過去において「いつも孤独なリーダーだった」のはどうしてかと「訝っている」としつつ、でも「はじまりはひとり やるときはみんな一緒」なんだと思い至り、「私はどうもどこかに属したり、そこで役を果たしたりするには向いていないようです」と書かれています。

 そのためには、「何よりも自由であること」が大前提なんだということなのでしょう。これまでの経験から「持続することでしか見えてこないことがある」とし、そのような意味から一過性になりやすい「EVENT」は好きではなく、「PROJECT」としてこつこつと進めていくことで見えてくるものが重要なんだ、継続することの大切さを言葉にされたと理解しました。

 蝙蝠日記においても、「それぞれについて担い手を変えながら、数年、数十年と、なにかを変えるためにこつこつと歩んで来ました。立ち止まり、振り返ればいささかの感慨が湧いてきますが、まだ途上かもしれません」と結ばれています。

 

 もうひとつのキーワードとして「異議申し立て」についても言及されました。もとより「自由であること」、「ひとりであること」を択ぶことは「異議申し立て」にまっすぐに繋がることになります。逆の関係もまた真ですが、2002年の神戸市長選時における多田智満子さんの態度、言葉にふれつつ(蝙蝠日記2016.11「瞑想の時 妄想の時 迷走の時)、「孤立をおそれない しかし孤立ではない」「恐れられても 恐れることはない」という言葉を、島田さんは話されたのです。

 何より持続することを大切にする島田さんは、「自浄作用の働かない組織は絶対的に腐敗する」とし、「組織の縦構造 (上:権力)に対しフラット(水平:平等)であること 」を重視していると強調されました。

 10年前の蝙蝠日記(2007.12「汝、健やかな時も病める時も」)に、この「異議申し立て」の性格を、「制御できない本能」として記されていますが、「本能」は本能にとどまることなく、何よりも繰りかえし現場で鍛えられ、「ある一つの批判精神」まで高められたものと理解しています。

 加藤周一さんへの傾倒ないし尊敬は、島田さんが加藤さんの「批評精神」のなかに自身の性向と通ずるものを嗅ぎとられたからにほかならないと、私は思っています。

 

◈愚かしい問い?ー「決定的な経験」ー

 普段はこのような場で発言することのない私ですが、主催者から指名があって質問をさせてもらいました。事前にどなたからも質問が出ないような場合はいたしますと、主催者の方へ申し上げていたからです。

 二つの質問、加藤周一さんの思い出と絡めての「現在の希望をもつことが困難な時代における希望とは」ということとともに、島田さんの生き方や仕事にとって「最も決定的な経験だと思われていること、一つに絞るとすればそれは何か」というものです。ここでは後者についてだけふれることにします。

 

 最近、当ブログで3回にわたり堀田善衞さんの<上海経験>を書き継ぎましたが、その最後に堀田善衞の文学と人生にとって<上海経験>がもたらしたものが「決定的なものだった」ということを再確認し、次の三行を記して文章を終えました(2017.5.30「『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(3・完)ー」)。

 「 あなたの人生を決定的にしたと思う経験を教えてくださいという質問を

  させていただいたとしたら、どうお答えになりますか、ちょっとこわいけ

  れど聞いてみたい気がします。」

 そんなブログに書いたばかりのことをなぞったような質問を、愚かしいことと思いつつ、島田さんにもぶつけたのです。

 

 島田さんは、少し考えてから、「やはり」と1989年の夏の脳脊髄の手術からの生還、それが「生き方、考え方が変わったというか、漠然としていたことに焦点が当たりました」(再掲:蝙蝠日記2016.11「瞑想の時 妄想の時 迷走の時」)という趣旨のことを答えられたのです。

 「生命の危機」をはらんだ手術が成功して「生命の継続」を得た時、それまでの経験がゆるぎない覚悟に裏打ちされた言葉として覚醒され、仕事そして生き方の姿勢が定まった、腹がすわったということなのでしょう。この1989年の経験が、これまでの仕事、今の仕事、これを支える生き方を、「私の生あるかぎりなすべきこと」を、決定的なものにしたということです。

 そして、1989年の覚醒を経た20年目の朝の覚醒について、島田さんが記した文章を引用しておきます(蝙蝠日記2009.10「20年目に見えた道」)。

 「 だれにでも光の道はまっすぐこちらへ向かうのだが、私には特別な啓示

  を秘めているように思えた。20年前に(㊟1989年の手術後)見えた道は天に向

  かって育ってゆく一本の樹を感じ、それは様々な枝に分かれ、その枝を払

  うように生きてきた。今、残された年月を数えるようになり、大きなもの

  に抱かれるように枝葉は消え、幹が、天に向かってまっすぐ伸びていくの

  を受容する気配をありありと感じた。」

 

 今回の講演においても、島田さんは「託されたことを生きて」きて、70台半ばとなって、先行きのことを思われるのでしょうか、不安や焦燥感で悶々とすることも多いと、率直に話されていました。島田さんがコミットされた美術家との関りはデビューから、死ぬまで、没後でさえ、作品の「居場所」を探そうとされるわけですから、どうしようもなくエンドレスになります。

 そのことを大変なことだなあと思うしかない私としては重い沈黙にとらわれるしかありません。あえて言うとしたら、でもやむにやまれぬことでしょうからやれるところまでやっていただくしかありませんねなどと、少し祈る気持ちがなきにしもではありますが、そんないい加減なことを申し上げるしかないわけです。

 無責任ついでにつけ加えるとしたら、ガウディはワンアンドオンリーであっても、サンラダファミリアの建設はずうっと続いてきたのです。一朝一夕にいかないことは広く託していくことで、精神を継ぐ「新しい人」が登場するであろうと思っていただいてよくありませんかと申し上げてみたいのです。

 

◈おわりに

 島田さんが長く書き続けてこられた蝙蝠日記の助けを借りつつ、シンプルにリポートしようと書き始めましたが、いつもの性癖でこんなことになってしまいました。

 誰しも島田さんの生き方を真似することなどできはしませんが、多くの方が大切にしたい生きる姿勢のある形(モデル)がそこに存在しているのではないかと、私は考えています。この文章に記した島田さんの言葉と共振され、何かしら「大切にしたいこと」を感じてくださる方がいたとしたら、これにすぐることはありません。

 ちゃんと聞き取り理解できていないところも多くて、あまり忠実なリポートにならなかったことを、島田さんにもお詫びしたいと思います。

 

 今回の講演の最後に、島田さんの口から出た「年をとる それは青春を/歳月のなかで組織することだ」は、茨木のり子さんが一番好きな詩句とされていましたし(『思索の淵にて 詩と哲学のデュオ』茨木のり子・長谷川宏/2006.4刊/近代出版「はじめに」)、大岡信さんも『折々のうた』で「ここに含まれる生への洞察に敬意を表して」、自身の未完の訳だけれどあえて引用すると書かれているそうです。

 すっかり忘れていた私としては、まあそういうことだろうというイメージはあっても、こういうことだと私の言葉で説明することはむつかしいなあと感じています。それぞれの人生によって、感受するイメージは違うのでしょうし、それはそれでいいのではないでしょうか。

 島田さんはどうでしょうか。年齢を重ねられた島田さんが自分の来し方と現在地という風景のなかでこの詩句へ到達した、今回の講演を通じて語ろうとされたことにこの詩句がまっすぐ繋がっていたと、私は理解しておきたいと思います。

 それは、さらに続いていく、つまり「歳月のなかで組織する」という営為が続いていく、「テオ」な人である志を持続していく、という宣言でもあると受けとめることにいたしましょう。

 

【追記】

 島田さんが関わってこられた「ロバート・フランク写真展」が、今年9月(9.2-22)にデザイン・クリエイティブセンター神戸で開催される話もありました。

 著名な写真家であるロバート・フランクと、ドイツの出版人であるシュタイデルが企画し、世界50カ所を巡回中の展覧会ですが、日本では2ヵ所、昨年の東京展に次ぐものだそうです。そして2ヵ所目の神戸で終わりです。なにしろ面白いのは、写真を新聞用のロール紙に印刷して展示すること、そして展覧会の終了とともに廃棄するという手法だというところです。

 開催までには大変なことが多くありそうですが、実現に至るとは島田さんおそるべしです。

  ロバート・フランク「ニューヨークシティ」1948年 

  「写真展ーNEW YORK・ニューヨーク」(1985年/東京都庭園美術館)カタログから撮影 

2017.06.09 Friday

緑のなかへー山崎町の「花菖蒲園」休園中ー

 「いろいろと事情があって、今、休園中です」と、年嵩の男性の声がしました。「え、やっていないということですか」と問うと、「残念なんですが、そうなんです」とのことです。山崎(宍粟市山崎町)へ向かう途中、歩いていくとなると大変よという家人の声に押されて「播州花菖蒲園」へ電話をしてみたのですが、いかにも「残念」そうな声がかえってきました。

 山崎で家人が所用をすましている2時間余の間に、農協の直売所からも近そうだったので、季節のことだし「花菖蒲園」をのぞいてみるつもりだったのです。帰ってから検索すると、神戸新聞の今年1月31日付記事で「経営難で休園」と報じられていました。原因はやはり集客数の減少(ピークの1/4)ですが、市長としては「再開を目指して努力したい」とありました。

 休園中にもかかわらず電話が通じたのは、こんな問い合わせが多くあるからなのか、それとも手入れを続けているボランティアのような方がいるからなのか、ともかくこんな現実です。

 入梅し、季節はハナショウブからアジサイへと変わっていきます。

  播磨町野添北公園内の「ハナショウブ」 [2017.5.26撮影]

  同上のアジサイ  

 

 ということで、2時間余、山崎の町を、まあ旧市街の範囲ですが、行きあたりばったり歩くことになりました。

 この町を歩くのは3、4回目ということで、いつもの古本屋「さつき書房」と喫茶店「オーシャン」での滞在が含まれていますので、歩数にしてせいぜい1万歩ぐらいにすぎません(山崎町のことは当ブログ「ギャラリー島田に向かって」2015.12.13の最後のところに「須飼さんの絵と山崎のまち」としてふれたことがあります)。

 山崎に来たらとりあえずということで最上山公園へ、頂上のかつて黒田勘兵衛が居城にした篠ノ丸城跡までは足がもちそうにないから、公園の一部であるもみじ山(100mぐらい)に上ってみることにしました。一昨年12月の紅葉時期とちがって、もみじの林はとても緑が新鮮かつ濃厚です。歩いていると緑のなかへ入っていく気分になってきました。ほんの10分も上ると、もみじ山の頂上です。

 山崎の町をみわたしましたが、ちょっと物足りない気分で、上ってきたのと反対の東側の道をすすむと、展望台の案内看板が出ています。すぐ近くらしいのでもう少し上ってみることにしました。わりとすぐにこんなものががあったんだというコンクリート製の展望台が見えてきます。そばには「史跡尼ヶ端(鼻)」という小さな石柱が建てられています。天文年間に篠ノ丸城を落城させた出雲の尼子氏が、山の出っ張りのようなこの場所に砦(物見台の機能)を築いていたとの説明書きもありました。

 もみじ山の頂上より高いところにある展望台からの眺めはああパノラマだというだけで自己満足させてくれたようです。もちろん私一人だけしかいません。展望台と反対方向の千畳敷へと歩をすすめていく長い杖状の棒を手にした老人が見えました。

 静かです。昔々、小学生の頃に、『緑の魔境』(1954年/イタリア)というアマゾンのジャングルをドキュメントした映画を観た記憶が、ふうっと立ち上がってきました。濃厚な緑の極致というようなアマゾンとはかけ離れているのですが、どうしたことなのでしょう。

  最上山公園のもみじ山(宍粟市山崎町) [2017.6.3撮影、以下同じ]

  最上山公園の展望台施設

  最上山公園の展望台からのパノラマ

 

 この静かな山崎の町にも日常の営みがあることはまちがいありません。農協の直売所にはあんなに自動車が集まり、多くの人びとが買い物をしているのですから、時間が止まっているわけではないのです。

 でもふらふらと町なかを歩いていると疑ってみたくなりました。土曜日、そして時間帯ということもあったのか、自動車は走っていても、歩いている人に出会うことはほとんどありません。

 最上山公園の東側、埴尾神社近くの児童公園にも子どもたちが遊んでいる姿はもとより、ベンチに腰かけている人もいません。元メインストリートであり元のというべきか商店街でも歩いている人と出会うことはありませんでした。人の消えてしまった町へ、ふと迷いこんだような変な気持ちでした。

 古本屋「さつき書房」と喫茶店「オーシャン」は営業中です。ご同輩の「オーシャン」の主人とは20分ぐらい世間話をしました。何か変わったことはとの問いに、人口は減少していくのに大規模マーケットが進出してきて、そんな競争もあり苦戦中のスーパーの撤退がささやかれているとの話もありました。昨年から変化したこととして、川柳の集まりを始められたということです。毎日新聞の「近藤流健康川柳」や「仲畑流万能川柳」は時々読みますよとの私の話に、高齢の方が多いので病気や病院のことを詠んだ作品ばかりでちょっと困っていますと苦笑されていました。さもありなん。喫茶店の階段を降りようとすると、ちょうどご高齢の男性が手すりをもって上がってきました。

 農協の直売所で家人と合流し、近隣で産した山椒の実などを買って帰途につきました。

  埴尾神社近くの児童公園(宍粟市山崎町) [2017.6.3撮影、以下同じ]

  旧メインストリート(宍粟市山崎町)

  最上山公園の展望台からの緑の谷(宍粟市山崎町)

 

 シーラカンスやカブトガニ、そしてメタセコイアなど、「生きている化石」と呼ばれています。私たちにとって日常に見かけているイチョウもその一つです。「生きた化石」との表現に私は馴染んできたように思うのですが、その言い方はよくないと書かれた文章(冨田幸光「恐竜の絶滅は哺乳類に影響したかー古生物学vs分子系統学」『図書』2017.6月号)を読んでいてなるほどとなりました。

 つまり「地質時代に繁栄した祖先型に形態的によく似た生物で、現在も生存しているもの」が「生きている化石」であり、現在進行形で今まさに生きている「化石」なのだから、「生きた化石」といい方では、現在形か過去形かよくわからないので、よくないという訳です。

 イチョウは、「生きている化石」なのです。

  イチョウの木(神戸市中央区) [2017.6.4撮影]

 

 大学へ向かうバスの車中で、途切れることなくひとりごとをつぶやく私より少しだけ年嵩の男性に出会いました。ささやくような声なので内容はわかりません。私を含めて誰も知らんふりです。ああ大変だ、どんな事情なのかなという反応とともに、最近では他人ごとではないなとの反応も加わりました。

 私にも歩いていてふいに声を出したりということが稀にあったりして、寝言のようなものなのでしょうか。覚醒とそうでない状態の区分がだんだんと不分明になってくるのでしょうか。迷惑にならない程度なら、仕方がないなという感想なのではありますが。

 それにしても「生きた化石」と「生きている化石」という言い方のニュアンスは面白いですね。まあせめて「生きた化石」ではなくて、今を生きる「生きている化石」でいたいものです。

 

2017.06.01 Thursday

「上海」から「タオルミーナ」へ

 「上海」と「タオルミーナ」は何の脈絡もありません。

 「上海」は自家中毒をおこして難渋していた堀田善衞の<上海経験>にかかるブログをとりあえずアップしてほっと一息ついたところだということです。一方の「タオルミーナ」は先日G7のサミットが開催された地であり、昨年の私たちの旅行先でもあったというにすぎません。

 あえて申し上げるならば、国際政治、国際関係という視点からは共通する部分がなくもないということになるでしょうか。堀田さんが滞在した頃の混沌とした「上海」ではホッブスのいう<自然状態>がむき出しになっていましたが、それから70年をへた世界、タオルミーナ・G7においても、いわばむき出しの<自然状態>を体現しているかのような人物が最強国のリーダーであるという様相を白日の下にさらしました。

 いささか強引にすぎるにせよ、「上海」から「タオルミーナ」へと因果はめぐっています。

 

 さて、「上海」の方ですが、前号では容量の関係で、リンクを貼ることができませんでしたので、目次を掲載させていただきます。

◎2017.3.7

『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(1)ー

    ◈『方丈記私記』ー時をもどすー

    ◈上海への出発

    ◈上海で迎えた敗戦(その1)

◎2017.4.18

『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(2)ー

    ◈上海で迎えた敗戦(その2)

    ◈敗戦後の上海ー帰国までー

◎2017.5.30

『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(3・完)ー

    ◈再び上海へー1957年秋ー

    ◈中国および中国人への視線

    ◈おわりにかえてー上海経験がもたらしたものー

【参考】

◎2017.2.24

準備体操としての「私の上海体験」

 いつもの言い訳ですが、堀田善衞が書いた<上海経験>は、私には内容が豊かすぎて、文章に力がありすぎて、要約不能状態になってしまったということです。それにしても、オールドタイマーの私からすると、やはり作家らしい作家だったのだという感慨をもちました。

 現在も堀田さんのような力をもった作家が活躍しているのだろうと想像しますが、今の私にはそのような出会いはもはや難しくなったと思うしかなさそうです。

 

 さて、「タオルミーナ」の方ですが、G7を内容面からフォローする気力を失っています。ここでは、昨年4月に訪れた街の記憶という脳天気な視点から、どちらでもよい情報だけを少しメモしておくことにします。

 G7がタオルミーナで開催されると知ったときから、あんな狭いタオルミーナの町でサミットが開催できるのだろうかと訝しく感じていましたが、ともかくも無事に終わったことはよかったなあと今は思っています。人口1万人ほど、イオニア海からせり上がった山の中腹に細長いテラス状の市街がへばりついています。旧市街、城壁内への出入り口がウンベルト通りの両端にあって、その間が約800mという小さくて狭い町なのです。

 そもそもシチリア島のタオルミーナがサミットの会場に選ばれたのは、高失業率と経済停滞に苦しむシチリアの景気浮揚とともに、シチリアがアフリカからヨーロッパをめざす難民の受け入れ拠点であることが決め手となったといわれています。

 昨年の旅でお世話になった日本人女性Hさん(城壁外のアパートで暮らす住民)のサイト『Sicilia Club』に「シチリア便り」という巻頭コラムがありますが、そこから得た情報を使って、数点コメントしてみます。

 

 週に1回更新の「シチリア便り」で強調されていたのは、当たり前のことですが、警備の仰々しさであり、会議に先立つ5月22日からは住民でパスをもっている者以外はシャットアウトという厳戒態勢を敷いたということです。したがって、観光客は22日からG7の終わる27日まで町、城壁内へ入ること、あのウンベルト通りを歩くことができなかったということでした。27日の午後6時頃には全首脳が旅立ち、翌28日からは、いつものとおり大勢の観光客で小さな街は溢れたとあります。

 警備にあたった警察官と陸軍兵士は約7000人で、停電に備えて町の各所に大型コンテナサイズの発電機が設置されていて目立っていたとあります。 

  タオルミーナの地図 ピンクのマーカー部分がウンベルト通り約800m

  ウンベルト通り(シーズンオフで人通りは少なめです) [2016.4.7午後撮影]

 

 会議自体は5月26日、27日ですが、会議の場所の具体名は報道されていませんでした。「シチリア便り」によると、会議は「サン・ドメニコ・パレス・ホテル」だったそうです。私たちが宿泊したホテルから歩いて10分ぐらい、高級との情報はありましたが、修道院を改装したものでいわゆる大ホテルではありません。ニュースの映像で会議の部屋が窮屈なのはわかりましたが、取りまく関係者のことも考え合わせますとよくできたなと思います。

 昨年の朝の散歩のときに、サン・ドメニコ・パレス・ホテル出入り口の外から撮影した写真を掲載しておきます。

  サン・ドメニコ・パレス・ホテル  [2016.4.7朝撮影]

 

 5月26日、G7の開会にあたりギリシァ劇場で集合記念撮影が行われました。「シチリア便り」によりますと、そのとき「気候変動問題でトランプ大統領と他の首脳たちの対立を暗示するかのような、この時期にしては珍しい暗雲がエトナ山をすっぽり覆っていた」とあります。

 シチリア島の古代円形劇場としてはシラクーサに次ぐ規模のギリシァ劇場には、例年、夏の数多くの公演のために仮設の舞台が設けられますが、そのステージを記念撮影用に飾り付けたということなのでしょうか。それにしても、政治ショーとしてのG7が、民主政治の発祥とされるギリシァから来島した人たちによって2千3百年ほど前に建設された劇場の舞台上の記念撮影から始まるというのは、面白いといえば面白いことです。

 昨年4月5日から8日にかけてタオルミーナに3泊したときも、晴れてはいてもエトナ山はガス状のもので霞んでいてなかなかクリアな状態とはいかずに、くっきりと山頂、山容が姿をあらわしたのは出発の8日朝の2時間ぐらいのことでした。サミットに参加された人びとは、このギリシァ劇場が背後にあるエトナ山とイオニア海と一体となって一つの劇場として成立しているという事実をわかっていただけたでしょうか。劇場に立った人々が、エトナ山とイオニア海の眺望を、警備にあたった人たちを含め、心からああ美しいと見ていただくことは無理なことだといわざるをえませんね。   

  5月27日毎日新聞夕刊の写真記事を撮影したもの

  タオルミーナのギリシァ劇場(真ん中遠くにエトナ山) [2016.4.6午前撮影]

  同上、円形劇場の最上段から撮影

 

 当ブログでタオルミーナのことを書いたとき(「台地(テラス)と断崖・タオルミーナーシチリア・ナポリ紀行(4)ー」2016.11.26)、「いつどこにいてもイオニア海とエトナ山に見守られていたという印象が強く残っています」と、私は強調しています。つまり、町のどこにいてもイオニア海やエトナ山がぱっと視界に現れるのです。

 タオルミーナの眼下にある海岸のジャルディーニ・ナクソスの近くにシチリア最古のギリシァ植民都市がありましたが、シラクーサによって滅ぼされ、その生き残りの人びとが近くの防御に適した山の中腹に築いた町がタオルミーナだと伝えられています。そう思いますと、G7の警備にも適した場所ということになりますが、もちろん今は空を飛ぶ物体もあって、そんな簡単なことはないのでしょう。

 先のブログにも書きましたが、古代ギリシァの円形劇場を訪れた辻邦生さんは、古代のギリシァ人が野外の劇場で「人間のドラマを壮大な自然のなかに編み込んで演じる」という「古代人の限りない全一感」に着目します。つまり当時は人間と自然の合一感のもとにあったものが、今や「ぼくたちはあまりにこの人間と自然の合一感を喪ってしまった」とし、「ぼくらが喪ったものが何だったか、痛切に納得できる」と記しています。

 「シチリア便り」にあった「気候変動問題」、直接にはパリ協定へのアメリカの姿勢に、私は辻さんのことばを重ねています。

  くっきりと全容をあらわしたエトナ山 [2016.4.8朝撮影]

  タオルミーナの町からイオニア海の海岸線を撮影(真下にタオルミーナ駅) [2016.4.7撮影]

 

 

 

 

 

 

 

2017.05.30 Tuesday

『上海日記』から『上海日記』へー「堀田善衞の上海」ノート(3・完)ー

 今回は最終回として、1年9ヵ月に及ぶ滞在から1946年末に帰国し、11年近くのときを隔て1957年11月に上海を再訪した堀田善衞のことをノートすることにします。

 本稿はこの再訪が契機となって1959年に初版された『上海にて』が中心となります。ここまでのノートにおいて同じ事象について『上海日記』『めぐりあいし人びと』と比較しつつ『上海にて』も多く参照・引用してきましたが、今号では1957年再訪時の堀田さんの心象風景を核に書いてみることにします。

 

 この本の冒頭「はじめに」において、「1年9ヵ月ほどの上海での生活は、私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった」とし、「運命」「宿命」ということばは嫌いだが、「運命ということばを与えていいと思うように」なったと、40歳の堀田さんは心中を吐露しています。

 そして「この小著は、私のこれまでに書いた、まとまりのないもののなかでも、もっともまとまりのないものである」とします。そして「その理由をめぐって、これからも考えて行かなければならない」、これからも上海、ひいては中国のことは終わらないテーマなのだと書いています。

 堀田善衞にとって上海経験は人間としても作家としても、まことに「重い内在的な問題」であったと申し上げることができるでしょう。

 

  1946年6月29日の日記に堀田が描いた上海の位置(塗りつぶしているところ)

  上方の太平洋から揚子江、黄浦江を上って来た場合、少し奥の方に「上海といふ怪物のやうな町」

 

◈再び上海へー1957年秋ー

 1957年11月の上海再訪は、当時のアジア作家会議との関係もあったようで1955年のインドに続き、他の作家たち(中野重治、井上靖、本多秋五など)との中国旅行(中国からの招待による)へ出かけたとき、その旅程に組み込まれていたものです。

 上海へ向かう列車の中、中野重治から「上海へ汽車が近づくというと、堀田君の青春の磁石が、チカチカチカチカと、鳴り出すだろう」といわれた堀田さんは、主として国民党宣伝部時代の友人たちに会うことは恐らく不可能だろうということを想い、次第に憂鬱になってきたとし、次のとおり記しています。

 「 かつて弱年の私に消すことの出来ぬ深い印象を刻印し、経験という

  ことばはこういうことを指していうのか、といった強烈なものを与えた

  この都市を再び訪れて、おれはどうすればいいのかーー。」

 上海での堀田さんは、公式行事のある「第一日目を除いては、ほとんど計画されていた見学には参加しないで、ひとりで町の三輪車を拾い、電車、無軌道電車に乗り、あるいは徒歩で、勝手知ったる町々を歩き」まわりました。それでも(?)、こう感じたのだと、次の言葉にしています。

 「 本当に、私はどうしようもなかった。上海に前後10日ほどいて、正直に

  いって私は途方に暮れていた、といっていいと思う。阿呆みたいに、毎日

  写真ばかりとって歩いた。」

 

 今回の再訪で堀田さんに喜びを与えたのはどんなことだったのでしょうか。

 むかしの友人、知人たちの住所も今の仕事もわからなかったのですが、堀田さんは「それでも二人の旧知」に出会ったのです。一人は「日本人の画家である阿部」さんと、もう一人はまったく偶然に向こうから見つけ出してくれた病院の看護婦さんです。現在は上海の博物館に仕事をもつ阿部さんのことは、事情あって日本を離れた人だから、ここでは書かないことにしたいと堀田さんは断っています。

 もう一人の看護婦さんの方はその顔を完全に忘れていましたが、1945年の夏、堀田さんが住んでいた愚園路の近くの病院に入院していた女(前回登場したNのことです)をしげしげ見舞いに出かけていたときの看護婦さんです。本人の旧居アパートからその病院の方へ立ち寄り「なつかしい気持ちで眺めていた」ときに、病院の玄関から飛び出して堀田さんの方へ突進してきた「白衣の女」がその人です。その姿で堀田さんは思い出したのです。 

 「 よくも覚えていてくれたものだった。私はこの邂逅を心に深く喜んでい

  る。写真をとることを忘れてしまったのは遺憾至極であるが、この邂逅の

  後にはじめて、私はいくらか余裕のある気持で上海を見ることが出来るよ

  うになった。」

 ちょうどその看護婦さんが病院の窓から外へ視線を向けたという偶然が、そして、彼女が堀田さんの顔、姿を記憶していたことが、二人を引き合わせることになりました。

 堀田さんは少しであっても「人間と人間の往き来、つきあい、内部と内部のふれあい」が欠けている場合は、一つの都会といえども、「要するに一つの対象に止まり、つまりはモノにすぎない」とし、次のようにも書いています。

 「 もしこの邂逅がなかったならば、私はこんなふうな順序も段取りもない

  ような回想を主にしたようなものは書かれなかったであろう。もっときち

  んとした客観的な報告を書いたかもしれない。」

 かつて必ずしも良好な関係とはいえなかった二人でしたが、10年以上の時空をこえて、彼女は「実に一瀉千里、立板に水で」喋り、10分くらいは一人で喋りぬくと、「いまの上海はどう思う」と尋ねてきました。堀田さんはその問いに答えた上で(その答えは書かれていませんが、後で引用する<街の印象>のようなものだったでしょう)、同じ質問を彼女に返したのです。その返答が、堀田さんに強い印象を残しました。

 「 彼女はまずことばではなくて、身をかがめて両の掌を地面にくっつけ、

  ついで地面をもち上げるようにして、簡単に、「人民起来了!」と

  言った。私はなるほどと思った。」

 その夜に公式の宴会に出席しなければならなかった堀田さんは、共通の知人の消息をたずねあい、「よろしく伝えておいてくれ」と言うことしかできなかった心残りを記しています。

 

 こうした「町歩き」によって10年以上前の滞在において「思い出」となった場所を、堀田さんはたずねて回りました。「思い出というものは、まったく奇怪なものだ」という堀田さんは、それぞれの場所の記憶から次々と湧き出てきた出来事を回想し、考察し、文章としているところが、『上海にて』の幹の部分となっています。

 「 中国を旅行してあるいたそのあいだ、実にしばしば、ひょい、ひょい

  と、まったく過去の影像がむっくりと浮かび上がって来ることに、私はし

  ばしば苦しめられた。」

 たとえば私が学生時代の京都や新婚時代の垂水をうろうろ歩くというような<センチメンタルジャーニー>というのでは、堀田さんの場合はないのです。通常のごとく、いわば場所が何かの記憶、そして「思い出」を呼びさましてくるのではなく、どうしようもなく「忘れられないこと」がむっくりと頭をもたげてくるという風なのです。

 この場所と一体となった「思い出」はこのノートにも登場していました。宿舎となった錦江飯店から、その建物が敗戦前は長江デルタ一帯を睥睨していた日本の十三軍司令部であり、憲兵隊に次いで第二に怖ろしいところだったこと、復旦大学の地図の確認から、1946年晩夏以降に出かけた大学生の集会でつるし上げられていたこと、そして漢奸の死刑執行のこと、重慶の収容所から移送されてきた日本人の捕虜たちのこと等々です。

 『上海にて』の一章「町歩き」のなかで、堀田さんの旧居と病院などから、さらに武田泰淳の旧居、「1946年の夏頃から暮までほとんど毎日通っていた」旧放送局の建物、旧仏租界の石上玄一郎がつれて行ってくれたマニラバー(子供服屋にかわっていた)、そしてむかし通ったことのある白系ロシア人の経営する喫茶店までたどり着きました。堀田さんは「まずいコーヒーをのみうまいロシア菓子をかじながら」、たしかに途方に暮れたように次の文章を残しています。

 「 私は自分を、まるでむかしの犯罪のあとを何年かあいだをおいて見に来

  た犯人であるか、と思いなしてみようかと、とも思ったが、それもふさわ

  しいものではなかった。

   恐らくそれは、中野重治の言うように、青春、というものなのであろ

  う。」

 堀田さんは恥じ入るように<青春>という言葉を使っています。なんと痛切な<青春>だったことでしょう。

 

 若き堀田さんが身をおいた混沌とした坩堝のような巨大都市上海、それは日本の支配の前にイギリス、フランス、アメリカの植民地主義が大きな爪痕を残していましたが、1957年の道路の名称から過去の名称を回想しています。

 堀田さんは、上海滞在時には道路の名称を「少なくとも三通り」は知っていました。その例として、旧仏租界の大通り(1957年は<准海路>という名称)をあげています。

 .▲凜Д縫紂Ε鼻Ε献腑奪侫襦甓眸路→中山路→C羸杵→そ擲は

 アカシアの並木のある通りだそうですが、,和莪貅‖臉鏤のフランスの将軍、ジョッフル元帥の名をとってつけたものです。霞飛路は上海語でヤーフィロと発音しました。△脇本軍が租界を接収し、南京の汪精衛政権に返還(?)されたとき、孫文の号「中山」をつけ、は1945年、日本軍が降伏し、重慶の蒋介石に再返還(?)されたとき、蒋介石の号「中正」がつけられたのです。

 さらに1949年5月に上海が解放されたとき、個人名を道路につけることが一切廃止され、地名の一つをとって、「准海路」と名づけられました。堀田さんはこう書いています。

 「 これがたった一つの通りの名の変遷であり、歴史でもあった。そのこと

  を私は知っていた。旧共同租界や旧仏租界にあって、それぞれの租界当局

  が命名した外人名や外国地名のついていた道路は、汪精衛政権の命名にな

  るものと、蒋介石政権の命名になるものと、人民政権になったものとの、

  四つの歴史をもっていた。そういうことのくさぐさを、その通りへ行って

  みると、われながら異様な明瞭さで私は覚えていた。」

 こんなことまでどうして「異様な明瞭さ」で覚えているのか、40歳近くになった堀田さんは、「思い出というものは、まったく奇怪なものだ」、若いころの上海がどうしようもなく内在化していることを、改めて思い知ったということなのでしょうか。中野重治さんの言う「青春の磁石」の、とりわけ堀田さんにとって青春の地であった<上海経験>がもたらした「青春の磁石」の磁場はそれだけ強靭なものだったと理解しておきたいと思います。

 

 上海という街の印象について、堀田さんはその変貌を「ガラーンとしとるな」という言葉を繰り返し使って書きつけています。

 上海の人口は1957年現在で720余万と、1946年末の450万くらいから世界第三の都市へと急膨張しているのにもかかわらず、そして南京路などの盛り場を歩くには人とぶつからぬようにするために気をつかわなければならないほどにもかかわらず、そんな印象がぬぐえないというのです。

 「 町筋を歩いていて、私は、なんだか、ガラーンとしとるな、という風に

  思うのである。ガラーン、がわるければ、キレイサッパリ、といってもい

  い。そして矢鱈無性に、洗いざらしてサッパリした子供ばかりが眼につく

  のである。」

 そして都市の魅力についても言葉にしています。

 「 (前略)なんだかばかに風通しのいい、機能的な町になってしまったな、

  という風に思う。手短にいうとすれば、いわば都会のもつ魅力、それは

  これこれしかじかの魅力と個条書きにすることなど出来ないし、もしそう

  してみれば、それは魅力ということばでいうことが出来なくなるというよ

  うな、いわば都市のもつ空気、鼻をきかせてみてはじめてわかって来るー

  というような要素、そういうものがキレイサッパリなくなっている、と感

  じられるのである。」

 かつて「万事混沌」が「上海が上海である」所以であったとすれば、1957年の上海はまさに「上海は上海でなくなっている」とも、堀田さんは思ったのです。要するに、堀田さんが若いころから親近したボオドレエルの詩編が表現しえた都市の魅力は、今の上海からは失われている、一掃されていると感じたということです。そんな1957年の上海に、植民地風の建築物が残っている風景を次のように描写します。

 「 極めて質素な中国が、ガワだけ西欧植民地主義がおったてた植民地風

  な、威張りちらしてそっくりかえった大建築物群のなかへおさまった、そ

  の一種異様な不調和感、私たちの方から見ての違和感のようなものが、私

  にそういう風に思わせたものであったろう。私はむかしのサッスーン・ハ

  ウス、いまの和平賓館にも入ってみたが、豪華なシャンデリアの下を、詰

  襟の中山服や菜ッ葉服を着た何かの機関の幹部たちが往来している光景

  は、たちまちかつての、馬斯南路の中共公館から出て来た綿入れ服の延安

  から来ていた人の姿を思い出させた。」

 こんなちぐはぐさ加減も「それが中国へ帰った、復帰した」ことが表現されているのであり、逆にいえば、「中国の農村が上海に侵入して来た」ということなのだと、堀田さんは理解し、今の上海から「都市の魅力」について自分の感じたことを少し反省するように独白しています。

  上海が中国に帰り、世界のならずもの¨冒険家的楽園¨が人民の所有にな

  り、中国が中国をもつにいたった変革開放を眼にして、そこで私が途方

  暮たとあれば、問題はそういう私自身にあるわけである。」

 堀田さんは懐旧の情をもらしながらも、以上のような1957年の上海の印象を書きつけたわけですが、残念ながら、この私によるノートは表層、断片にすぎないのではないかという自責が残ります。私には堀田さんの都市論、上海論をどこまで理解できたのか、自信がないのです。

 もとより堀田さんの視線は、内在化していた1945、46年の上海経験に引きずられていたという言い方もできますし、1957年にはその印象の落差に「奇妙に困惑すると」、ちょっと公式的な視線によって調整しているということもできるでしょう。

 所詮、叶わぬ願望ですが、亡くなられた1998年頃の上海を歩かれたとすれば、どんな印象を抱いたことだろうか、書いたことだろうかと思ってみたりもしました。

 

 ともあれ、かつての上海経験がすっかり更新されたというわけではありませんが、ここでは再訪によって堀田さんが言葉にした心象のほんの一部だけをノートしたことになります。

 「 上海の十日間は、強烈な経験であった。かつてそこに住んでいただけ

  に、またかつてルンペンのように無鉄砲にあちらこちらとふらつき歩くの

  が好きだったおかげで、大ていのところは見知っていたために、何を見て

  も、以前の有様がそれにかさなって来るのである。しかし、だからと

  いってそれは私の観察の正確さを保証するものとはなりえない。それはそ

  れだけのことである。」

 そして、上海から次の重慶へと出発するころには、堀田さんの追憶の眼に次のようなことが浮かび上がってきたのです。

 「 上海の町々は、むかしと比べたならば、まことに清潔に、きれいになっ 

  た。けれども、町筋を歩けば歩くほど、私は暗い重い思いがおいかぶさっ

  て来るように思ったが、次第に、しかしそれらの物思いは沈んで行って、

  重慶へと立つ頃には、¨歴史だ、歴史だ¨と積極的に、思うようになってい

  た。かつての¨敵¨と¨味方¨と¨漢奸¨の、この三者の流した血が沈んで

  行って、その上に更に、解放のために流されなかった血が加わり、歴史と

  いう、どろどろのアスファルトか、溶岩流のようにもどす黒い、すさまじ

  いものが眼に見えて来るようになった。

   地図を見ていると、ときどきは黄海、東シナ海、中日双方からどす黒い

  ものが流れ出して来るような気がすることがある。」

 

◈中国および中国人への視線

 「日本と中国との、歴史的な、また未来における、そのかかわりあい方というものは、単に国際問題などというよそよそしい、外在的なものではなくて、それは国内問題、というより、われわれ一人の、内心の、内在的な問題である」と、さらに言えば「われわれの文化自体の歴史、いやむかしむかしからの歴史そのものとさえあるであろう」と考えていると、堀田さんは明言しています。

 ふむ、どういうことなのかと、問題が大きすぎて私は戸惑うしかないのですが、ここでは、その部分をノートしようとしています。前項以上に私の理解が及ばない、及んでいないところだとお断りしなければなりませんが、それは、何より私の中国観が、現下の国際問題という表象に振り回され、焦点を結んでいないからにほかなりません。

 でも、堀田さんの日本と中国、中国と日本という問題系に対する視線は、60年をへた今日、予言に満ちたものであり、これは大切なことだなという実感もありますので、あまりバイアスをいれずにノートを試みます。

 

 前記の「内在的な問題というもの」について、堀田さんは「結局のところ、もっとも攻撃的な性格をもっているものである」とし、次のことを「一つの危機の予感」として、国交回復(1972年の日中共同声明の調印)の15年前の1957年秋の旅からすぐという時点で予言しています。

 「 今日の両国の関係の仕方は、遠からぬ将来において、今日ではちょっと

  想像出来ないようなかたちをもたらすのではないか。国交恢復は決定的に

  重大である。(中略)しかし、国交が恢復されればすべてよろしというよう

  なことがあるわけもなく、私が予感するものは、むしろ国交恢復以後につ

  いて、である。恢復以後の両国の反応の仕方、あるいは爾後の反動につい

  て、である。」

 両国の基本的な差異は、体制の違いだけでなくて、「双方の内心の構造の違いから来るものは、もっとも本質的で、直接折渉のはじまったときのことを、私たちは今日から既に予想し、見詰めていなければならないであろう」とし、堀田さんは次の予感を繰り返しています。

 「 国交恢復も容易なことでないであろう。そうして、国交恢復以後も容易

  なことではないであろう。」

 21世紀の現在、私は、私たちといってもいいでしょうか、もろもろの日中関係の現実を前にして、堀田さんの「一つの危機の予感」に、おそろしいほどの予言性を見い出すことになります。

 

 きっと途中で混乱のうちに沈没してしまいそうですが、ここでは日本と中国という「双方の内心の構造の違い」とはどのようなことかについて接近することだけを目標としましょう。

 手持ちの『上海にて』は初版から10年後の1969年11月に刊行されたものです。その本の末尾には大江健三郎(長い間、彼の作品を読んでいないなと思い至りますが)が「ー1969年秋」と明記された「中国を経験する」というタイトルの文章を寄せています。

 大江さんはこの本で堀田善衞が「中国と日本とはちがうのだと、中国人と日本人とは、まことに眼もくらむほどの深淵をへだてているところの、およそ異なったふたつの民族なのだといいつづけている」ところに強く喚起されたと書いています。恥ずかしげもなく書かしてもらえば、その部分が、私も堀田さんが『上海にて』で展開したさまざまな考察の通奏低音であり、かつ到達した最も重い認識なのだと読みました。

 大江さんらしい言い方で『上海にて』における堀田さんを表現しています。

 「 まことに繰りかえし著者は本書において、野に叫ぶ人のようにも、中国

  および中国人と、日本および日本人との違いということを主張してやまな

  い。それは悲痛な響きをそなえた声で、また畏怖の感情のあらわな声で、

  そして、呆然とした若さと素直さの矛盾せず共存している笑いのまじって

  いるような声でもまたおこなわれる。」

 続けて、もう少し具体におよぶように、次のとおり展開しています。

 「 怒りと憎悪のこもった声においてであることもあるが、その声はおも

  に、大東亜共栄圏というような構想のうちにアジアの人々を多くまきこん

  で、いったん敗戦の時には、それらの人々にたいして頬かぶりをしてしま

  うところの、天皇制国家たる日本および日本人にむけられるのである。」

 大江さんは、1969年の時点において、「これはいまなお、一切解決のついていない課題」なんだと、それが「本書においていっそう重い主題とみなしている自分を見出す」と書いています。

 

 大江さんの引用とも一部は重複しますが、以下で、私なりに当該問題の根幹にかかわる文章を引用してみることにします。

 「暴動と流行歌」という章では、「七面倒な議論などよりも、ときとしてズバリと人心の動きを言いあてることがある」として<流行歌>というものを重視する作家たる堀田さんが、中国(「漁光曲」)と日本(「リンゴの唄」)の流行歌を素材に、彼我の差異を説明した上、次の短く強い言葉を記します。

 「 同文同種などという虚妄のスローガンに迷わされてはならない。中国

  は外国なのであり、中国人民は、外国人なのだ。」

 

 「忘れることと忘れられないこと」という章には、前出した宿舎の<錦江飯店>に日本軍の司令部がおかれていたという事実を、通訳兼案内人の若い人にそっと訊ねると「さあ、むかしのことは知りませんね」とあっさりといったこと(あとで事実知らなかったことが判明)をきっかけに、それこそ考察を展開しているところがあります。「この、実感として私たちにもジーンとつたわって来る中国側の物足りなさ、心虚しさ、そういう点に、侵略戦争を経た後の、日本と中国の心と心の関係のうちの、もっとも微妙で、もっとも解決困難な問題がある筈である。そこに全問題があるとさえ言ってもいい」と考える堀田さんですが、「歴史というものの、また人間の行為というものの不可逆性の怖ろしさを、とりかえしのつかなさが、そこにむき出しになっているのだ」というのです。

 「 誰も忘れることなど出来ない。出来る筈がないのだ。」

と、堀田さんは断じ、続いて、長い文章によってその核心を表現しています。

 「 中国の人民政府は、政策として、忘れよう、といい、人々は忘れること

  を学ぼう、という。道徳教育を高唱する日本の政府はどういうつもりなの

  だかさっぱりわからないけれども、しかし、私は忘れない。こういう血の

  にじんだ痛切な微妙さというもの、お互いに忘れることが出来るものなら

  忘れたいけれども、それがどうしてもお互いに出来ぬというもの、亀井勝

  一郎流に言えば、¨時間は慈悲を生じさせる¨それはそうでもあろう、時の

  流れは自然に解決をするかもしれない、がしかし、その核心だけはいつま

  でも血にぬれて残るという、そういうもの、これが異民族間交渉から生じ

  るドラマの本質であり、従ってそれはまたそれぞれの国、民族の文化の核

  心に結節して行き、お互いの認識を叩き上げて行くようなものであると思

  われた。」

 21世紀の今の私においても、もはや無関係であり、既に終わってしまった、解決したことだと言い切れない以上、それはそうであろうけれども、それではどうしたらいいのでしょうかという切実ともいえる問いが生じます。堀田さんはこんなことも書いています。

 「 (前略)日本人、中国人おのおのの、非常に多くの人間が、それぞれに簡

  単にひっくるめてしまうことの出来ない、手間も手数もかかる、厄介とい

  えば厄介、貴重といえば貴重な重荷をになっているということを意味する

  であろうと思う。それをほんとうに、心から、重いなあ、と思うことが出

  来る人が、この重荷に始末をつけることがもし可能だとして、おのおのそ

  のほんの一端をでもうけもつ責任がある。」

 またしても、頭をふりながら、それはそうでしょうがと小声で言いたくなる体たらくなのですが。 

 

 最後にしたいと思いますが、「惨勝とはなにか」という章があります。

 「惨敗」の一対になるのが「惨勝」ですが、堀田さんはこんな言葉が中国にあることを1946年まで知らなかったといいます。前後18年にわたる戦争から(1927年の国民革命干渉のための山東出兵から、太平洋戦争の終結まで)、「やっとどうにか免れ出て、これを勝利とした人々が、眼を瞠って戦後の現実を直視しなければならなくなったときの、深い感慨」が、この「惨勝」にはこもっていました。

 いち早く「終戦」と規定して、国民のうける心理的衝撃を緩和しようと企図した日本の支配層の才能にもなるほど、と堀田さんは思わせられましたが、当時、上海にいて「戦後のただならぬ現実を、いち早く「惨勝」としてうけとった中国の人たちの現実認識に深く打たれた」とし、堀田さんは次のようにも記しています。

 「 惨勝ということばは、これらの戦後現実の正確な認識を、一言でもって

  あらわしているように思う。惨敗を「終戦」といいつくろい、占領軍を

  「進駐軍」といって、ことばの上で、あるいは定義の上で、きびしい現実

  をやりすごす、肩すかしをくわせて行く認識とは、どこかちがうように思

  う。それはごまかしであって認識ではない。」

 そして、堀田さんは、「解放と中華人民共和国の成立の、一つの出発点がこの惨勝という認識から出発している」とし、「がしかし、それは要するに、中間的な出発点ーということばは妙な具合だがーにすぎない」と、この章を締めくくっています。

 

 この項を私は私の言葉で締めくくることは困難ですが、少なくとも60年前の堀田さんが繰り返し表現しようとした日本および日本人と中国および中国人との違いを、60年後の私は全否定することはできません。

 いくら姿かたちが似ているからといって、地理的に近いからといって、その違いをないものとすることはできない、そしてその違いの認識が日中問題の出発点であるということは理解できたかなと思います。日本も変化していますし、中国も変化していますし、21世紀の現実というものの表層は大きく変動していますが、それでも、その「内心の構造の違い」から出発しなければならないのだという認識は、当然といえば当然のことなのでしょう。

 繰り返しの部分がありますが、「忘れることと忘れられないこと」の最後の方におかれた堀田さんの言葉を、今の日本における私たちへの問題の提起として引用しておくことにいたしましょう。

 「 お互いに、忘れることが出来るものならば、それを学ぶことが出来るも

  のならば、学びたいものだ。私とて、いやなことは口にしたくない、書き

  たくもない。むしろほんとうは、深く黙り込んでいたいのだ。しかしま

  た、それを忘れぬという、その辛さが、日本と中国とのまじわりの根本な

  のだ。われわれの握手の、掌と掌のあいだには血が滲んでいる。」

 

◈おわりにかえてー上海経験がもたらしたものー

 1945年3月24日から1946年12月28日までの1年9ヵ月の上海滞在を<上海経験>と呼ぶなら、その<上海経験>は堀田善衞に何をもたらしたのかとの問いに答えようとすることで、このノートを締めくくることにします。

 ご自身が「私の、特に戦後の生き方そのものに決定的なものをもたらしてしまった」と、戦後14年目に刊行された『上海にて』の冒頭で書いているわけです。でも「生き方そのもの」とは何かと問われたら、それは広い意味の堀田の文学活動そのものということになるのでしょう。もちろんNとの結婚(1952年のこと、前夫人との離婚成立の直後)も含まれてのことになります。

 

 前回、この1年9ヵ月の間に、敗戦前の国際文化振興会という「日本の対中国宣撫工作」から、敗戦後、中国国民政府の中央宣伝部の徴用に応じて「対日工作」の従事へと大転換したことを書きましたが、このことを「身分の転換」として、その経験が堀田善衞の国家、組織、個人の関係についての認識を変化させ、堀田の文学に反映していると主張する論文にネット検索で出会いました。

 筆者は氏名の名の方の漢字が探せないのですが、曾〇(ZENG Rong)という中国の方のようで、『阪大比較文学』2013年3月号に掲載された「堀田善衞と「上海体験」ー「身分転換」でめざめた日中関係への思考」というものです。

 この曾さんは、戦中戦後の混乱期に上海において日本と中国の政府機関の仕事を経験することによって、堀田善衞は「国家、政府などに対する失望と不信」をもち、「国家、組織といった枠から抜き出て、一個の人間として物事を考えようという認識」を形成することができたとします。

 そのことによって、政治やイデオロギーから離脱して「国家や政治についての省察」を深める条件を確保でき、「日本と中国両側の「機械」的外交」を批判して「日中関係を人間の「心」の問題」と考える認識を提示することができたというわけです。そして、その認識が堀田の戦後文学に投影され、すなわち「国際政治或いは戦争の中に、国家や政党などのメカニズムに軋轢される人間を表現」することを可能にしたのであり、だからこそ「堀田にとっては「上海経験」が人生の転換点であり、文学の転換点であった」と主張しています。

 『上海日記』の初読と『上海にて』の再読にもとづき当ノートを書いてきた私としては、堀田の精神的な苦悶や破綻も含む振幅の大きさからすると、あまりにきれいな図式化といった風も感じなくはないわけです。しかし、<上海経験>の大きさ、重さ、痛切さが、青年堀田を、あまり使いたくない言葉ですが、戦後文学の担い手へ成長させたという点は全く同感するところです。

 

 曾さんが引用している堀田さんの文章を2個所だけ再引用しておくことにします。

 一つは『上海日記』の1946年7月14日からで、国民党の政府への失望と中国の現状への絶望が反映しています。

 「 今日民光㊟から出る際に、ふと、「国家なんてものに如何なるものをも

  要求出来ない」といふことを考へた。これは中宣の無能さにつくづく呆

  てゐる今日この頃のことであるから、その辺から来たことだろうとは思

  が、矢張りこれは本当のことだ。もう僕は如何なる「公式機関」なるも

  をも信じまい。個人以外のものは信じまい。己れ一個の仕事を己一個が

  しとげることのほかには、他に何かを強制し、何かを要求したりするこ

  はしないことにしなければならぬ。」

      ㊟「民光」は映画館でヒッチコック「逃走迷路」等を観たとあります。

 もう一つは、ほぼ同時期ということになりますが、1946年6月に上海で発行の『改造日報』に掲載された「反省と絶望」からの引用で、日中問題への視点でもあり、堀田さんの政治論、文学論と理解することできます。

 「 外交官も軍人も、中日問題を己れ一個の人生運命の問題として厳粛に考

  え詰めて苦しみ抜くこともなく、常に機械的な「解決」ばかりをはかろう

  としたのではなかったろうか。捉へ難きこの現世に於て、老子風に云へば

  所謂「解決」がもたらすものは常に決して解決ではなく、解決された諸問

  題よりもっと大きな未解決な問題が「解決」される毎にむしろ増えていく

  のである。中日両国の「心と心」の問題はここ何十年間一度も解決されな

  かったと極限することも許されるであろう。ましてや武力解決などは何物

  でもない。「国際問題の解決」と人性の問題は、林悟堂氏も『啼笑皆非』

  に於て強調している如く、今世紀最大の問題である。」

 

 このあたりで3回にわたったノートを閉じることにします。

 今回のノートによって、堀田善衞にとって<上海経験>がもたらしたものは「決定的なものだった」ということを、私なりに追体験できたように感じています。堀田さんの<上海経験>は26歳から28歳にかけての1年9ヵ月だったからこそ、つまりは作家堀田善衞の<青春>と呼んで差し支えないものとして唯一無二であったのでしょう。それは戦中戦後の混乱期にあった上海へ懊悩しながらも全身でダイブしたと感じられるような堀田さんの姿勢がもたらしたと考えています。

 あなたの人生を決定的にしたと思う経験を教えてくださいという質問をさせていただいとしたら、どうお答えになりますか、ちょっとこわいけれど聞いてみたい気がします。

                      【完】

2017.05.21 Sunday

麦秋の季節に

 黄金色に色づく麦畑に出会いました。

 おそろしく長い期間、一度も目にしたことがなかったと思います。というのは自宅の周辺で二毛作としての麦が栽培されてなくなったのは1960年前後のことであり、60年ぐらい前の麦畑の淡い記憶しか残っていません。私の前から麦畑が消えてしまって、数十年が経っていることになります。

 この間、うどんやパンそしてビールをはじめ、麦には大変にお世話になってきたことはいうまでもありませんが、農家から消えていった牛と同じ頃のことだったのでしょうか。

 今回の出会いは、もとより偶然のことです。当ブログでもよく取りあげている県立農業高校近くの寺田池の北側へ歩行を延ばしたときに(「ぐるり寺田池を歩くと」2016.1.14)、ああ麦なんだ、麦畑なんだということになったのです。それまでもその辺りを歩いていて見ていたはずなのに、黄金色に熟して初めて気づきました。

 麦畑は加古川市に隣接する稲美町にあります。稲美町のHPによれば、この地の麦の種類は六条大麦であり、町内の醸造会社が麦焼酎の原料として活用しているとあります。麦茶などにも使われているのかもしれません。

 一地区だけでの栽培のようですので、一面の麦畑といっても限られていますが、それでも収穫間近で密集した麦畑がその弾力の感じられるぐらいまでぐっと盛りあがっているさまには強いインパクトがあります。うまく表現できませんが、見慣れてしまったと思っている収穫期の稲田を想像すると、麦は麦であり、はっきりとした違いを感じました。

 私にとっては死語となっていた<麦秋の季節>が復活したのです。

  六条大麦の麦畑(稲美町向山地区) 建物は兵庫大学(加古川市内) [2017.5.16撮影以下同じ]

  六条大麦の麦畑

  六条大麦の穂先

 

 こんな浦島太郎的な出会いがあったからというわけではありませんが、テレビで『麦秋』(小津安二郎監督/1951年)を観ました。NHKBSプレミアムで4月20日に放送されたデジタルリマスター版を録画していたものです。

 この映画で<麦秋の風景>は最後の最後、ラストシーンに映し出されます。鎌倉で暮らす七人家族が娘の結婚を機に別れていく、鎌倉から故郷の奈良(大和)へ移り住んだ老いた父と母が静かに語り合うシーンの後に、耳成山麓の収穫期を迎えた麦畑の映像がエンディングの音楽とともに流れます。そのシーンに麦畑の中をすすむ嫁入りの一行の映像が数秒挟まれ、この映画の中心テーマである娘の結婚が暗示されて終わります。

 モノクロの映像ですが、黄金色が感じられるほど麦畑は光を放っており、婚期を逃しつつあった娘の結婚と収穫期である<麦秋の季節>が呼応しあっています。戦後すぐの時期にふさわしくつつましやかでどこか深い諦念も感じさせる「ハッピーエンド」が余韻となって残る作品でした。

  『麦秋』の冒頭タイトル 小津安二郎監督作品/1951年 同年のキネマ旬報第1位

  ラストシーンである奈良耳成山麓の<麦秋の風景>

 

 この映画は映画館で観たかどうかは覚えていませんが、少なくともテレビでは複数回観ています。

 今回の印象は、思わず<笑ってしまう>場面が多かったなあ、そしてやはり老人である父母の存在を意識したなあということです。

 小津安二郎(1903-63)監督の映画のリズム、テンポは制作された時代の背景ということだけでなく、いつも独特のものが感じられますが、一定のリズム、テンポが少しだけ破調したときユーモアが顔を出すということなのでしょうか。何が可笑しいのかと言われそうなシーンでも、ユーモアの表出があって映画のアクセントとなっています。テレビ画面を観ながら一人で笑っている姿はちょっと心配されるような姿かもしれません。

 北鎌倉の家には主人公である28歳の娘と父母、そしてこの家の中核である長男一家(長男、その妻、その子2人)の合わせて7人家族が住んでいるという設定です。戦争が終わってから数年という頃、娘の縁談をめぐる話といえばそうなのですが、先の戦争で二男を亡くしている(死亡通知など来ていないが)、その二男の不在を意識させるように作られています。最後には別の縁談話もあったけれど、その二男と同級生であった近所に住む子持ちの男性(医師であり東京から秋田へ赴任する直前というタイミング)との結婚を、娘自身が決意するというのが中心軸です。そしてこの機に父母は故郷である奈良へ戻ることとし、北鎌倉には長男一家4人が残り、7人家族は「離れ離れ」になっていくのです。

 こんなストーリーが先のユーモアの転調も挟みながら展開されるのですが、今回、私が父母に感情移入して観ているのかなと感じたのは、単純に、自分の年齢によるものだったにちがいありません。

 

 こうした三世代大家族と周囲の人びとのアンサンブルがすばらしい映画ですが、それにしても原節子(1920-2015)の輝かしさは圧倒的です。原節子が「紀子」という役名で登場する三部作、1949年の『晩春』、この1951年の『麦秋』、そして1953年の『東京物語』は、数多い戦前の小津映画をほとんどみていない私にとっては小津映画を象徴する作品となっています。

 

 今回、情報を確認して驚いたのは、小津映画=原節子と思い込んでいましたが、原節子が小津映画に初めて出演したのは1949年の『晩春』であり、計6本の映画に出ただけにすぎないということです。小津映画はすごい、好きだといっても、私が観ているのは戦後に作られた数本にすぎないのです。

 小津安二郎がちょうど60歳の誕生日に亡くなった1963年に、原節子はスクリーンから消えて戻ることはありませんでした。

 『麦秋』は『晩春』と『東京物語』の高い評価の陰に隠れがちなところがありますが、今回の再見によって全く遜色のない、アンサンブルという点はより優れた作品だと確信しました。

 ㊟『東京物語』は2012年の英国映画協会が発表した「映画監督が選ぶベスト映画」で1位となり

  ました。

 

 松竹の後輩(1958年入社)である山田太一(1934-)は、木下恵介監督の助監督時代、小津安二郎を尊敬しつつ、自分を含めて「多くの後輩たちは、どうして潤沢な予算をかけて同じような話ばかり作るんだろうと訝しがった」「完成したスタイルの繰り返しには若い時分は不満がありましたね」と、思い出を語っています(「小津の入り口。」/『ブルータス』2013年12月1日号)。

 「説明ゼリフを排したシナリオ」をベースとする小津という映画作家を、ヘミングウェイの「説明を嫌い、簡潔に短いセンテンスを連ねていく文体」を駆使した完成度の高い短編群に「ちょっと似ている気がして」と、山田さんは言い、自ら身をおいたテレビドラマの世界の経験も踏まえ、小津安二郎と小津映画を次のように評しています。

 「 現に今、テレビで小津映画を観ると、そんなに違和感なく観られる。風

  俗に流れず、家族という人間の生活の基本形を描いてきたから普遍性があ

  る。小津さんは時代が変わってゆく中でも自分のスタイルを守り、ジタバ

  タされなかった。それはやっぱり見事だったなと思いますね。」

  紀子が結婚を承諾するシーン

  北鎌倉の7人家族で記念写真をとるシーン 

  家族の解体を暗示する北鎌倉の家の内部シーン

 

 最後に「説明ゼリフを排したシナリオ」という小津映画の特質と『麦秋』という映画の肝が分かる部分のシナリオ2箇所を再録しておきます。ネットにはシナリオを採録されているブログ?があって、それから切り取ったものですので、私自身では未確認だということをお断りしておきます。

 共同脚本として小津とともにクレジットされる野田高梧は『麦秋』のことを「東京物語は誰にでも書けるが、これはちょっと書けないと思う」と自賛していたと言われています。

 

 一つは紀子=原節子が兄の同級生である謙吉の母たみ=杉村春子からの息子の「お嫁さんになっていただけたら」との問いかけに答えるシーンです。映像なしに伝わらないところもありますが、こんなシナリオです。

 たみ「あんたのような方に謙吉のお嫁さんになっていただけたらどんなに

    いいだろうなんて、そんなことを思ったりしてね」

 紀子「そう」

 たみ「ごめんなさい。これは私がお腹の中だけで思っていた夢みたいな話。

    怒っちゃだめよ」

 紀子「ほんと 小母さん」

 たみ「なにが?」

 紀子「本当にそう思っていらした 私のこと」

 たみ「ごめんなさい。だから怒らないでと言ったのよ」

 紀子「ねぇ小母さん。私みたいな売れ残りでいい」

 たみ「へぇ?」

 紀子「私でよかったら……」

 たみ「ほんと」

 紀子「ほんとね」

 たみ「ええ」

 この後、たみは「ほんとよほんとにするわよ」「まあ!嬉しい」「まあ!よかった。よかった。ありがとう。ありがとう」と、紀子の両手をつかんで頭を深々と下げ、泣き出すという喜びの表現が続きます。

 杉村春子の絶妙さ加減が特筆されるべきですが、シナリオ上は説明も何もないのです。

 

 もう一つは、ラストに近いシーン、故郷である奈良に戻り、父(周吉)と母(志げ)が、麦畑の中の道を花嫁が歩いていくシーンを見ながら、語り合うところです。

 志げ「紀子 どうしてるでしょう」

 周吉「うーん。皆離れ離れになっちゃったけれど。

    しかし、まあ私たちはいい方だよ」

 志げ「ええ。色んなことがあって。長い間」

 周吉「うーん。欲をいりゃ限がないが」

 志げ「ええ。でも本当に幸せでしたわ」

 周吉「うーん」

 周吉と志げは静かにお茶を飲み、溜息をつきながら外を見ているという映像が続きます。まあ観る者からすると、二人とも自らの心の波立ちを抑えこんでいるように聞こえる会話なのです。戦争で亡くした二男を意識していたのかもしれませんが、でもこれが『麦秋』という映画の「ハッピーエンド」なのです。

 「まあ私たちはいい方だよ」「でも本当に幸せでしたわ」はなかなか重い問いを観る者にも投げかけているように、私には感じられました。それは従前に観たときはそうでしょうねという軽い感じだったと思うのですが、今回はこんな言葉を自分の中にもあると意識してしまうことを通じての重たい感じ、人生の終末が浮かんでくる感じが、余韻として残りました。

 ともあれ、私の映画おじさんである双葉十三郎さんは(『日本映画 ぼくの300本』H16年6月刊/文春新書)、『麦秋』についての短評を「やっぱり名人芸だなァ」というフレーズで締めくくりっています。

 <麦秋の季節>、風景が無くなると言葉が失われます。そう今は、<麦秋の季節>です。

 

【追記】

 今週、マンチェスター・バイ・ザ・シー』(ケネス・ロナーガン監督/2016年/アメリカ)という新しい映画をシネ・リーブルで観ました。

 「でも本当に幸せでした」という言葉を根底から拒まれる惨劇というしかない事件を経験し、その傷を背負って生きる男の映画です。私のよく使う「脳天気」と対極にある暗く重いマサチューセッツの空の下で生きていくとはなどと思うと、たまりません。それでもどこかで何かを肯定することを求めるのが人間ではないかとのメッセージを、最後に仄めかしているようでもありました。

 将来の「でも本当に幸せでした」を拒絶する苛烈な経験の可能性は私にも誰にもひらかれているのであり、こんな言葉を今持っているのだとしたら、それは幸運というものの仕業ではないかと身につまされることになります。

 『麦秋』も真実ですし、この『マンチェスター・バイ・ザ・シー』もまた真実なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.05.13 Saturday

40thー天野忠さんにも助けてもらいー

 いずれも年月を重ねた光景として引かれあっているように見えました。

 5月晴れの午後、最近、ホームになっている大中遺跡公園と加古川海洋文化センターをぐるっと回ってサイクリングをしてきました。その際に撮影した二枚の写真を並べると、思いがけず隣り合わせにあるような不思議な感覚にとらわれたのです。

 青空のもと新緑で盛りあがるクスノキの大樹、そして港内の水面上に浮かぶ古くなった化学プラントです。自然物と人工物の典型として対極にあるものだけれど、歳月を重ねてきたものだけが出すことのできる味のある風貌のようなものが、私には共通して感じられたのです。

  新緑のクスノキの大樹(大中遺跡公園)  [2017.5.8撮影、次も同じ]

  古い化学プラント(旧加古川別府港/加古川海洋文化センターから撮影) 

 

 先日は二人とも生きていれば毎年やってくる結婚記念日だったのですが、今年は40回目であることに気づきました。もとより特別なことは何もしませんし、何もありませんが、40年という物理的時間にたじろぐ思いがしました。といっても、40年の歳月を言葉にしたらどうなりますかと問うていただけたとしても、今はあっという間だったと感じますし、捉えどころのないものですねと申しあげるほかありません。

 こんなときは呆れてしまうとか、訳わからんしと笑ってしまうとか、どうもそんなことしかできません。

 私のイメージとしては、とにかくトボトボにせよまあまあ歩いてきたのかなというものでしかありません。それが遠くまで歩いてきたということでもなく、ともかくも不可逆の歳月を歩いてきたけれど今どこにいるのかよくわからないというのが実感なのです。どうも私の場合「歩く」という行為は「生きる」ことに重なっているようです。これを<40th>の感慨と呼べるのなら、そんな感慨しか出てまいりませんと答えることになりそうです。

 

 先日の当ブログ(「雲を探してみてもー新緑とこいのぼりー」2017.4.25)で最後に掲載した写真の夫婦や今回アップしたリスボンの街角で出会った焼き栗売りの夫婦、こんな先輩夫婦の映像、肖像に反応する私がいます。が、もとより現実の私たちではありませんし、そんな二人になれそうにもありません。二組の夫婦から、私は距離間の妙というか、距離の美学というべきものを楽しんだりもします。

 願わくば、「歳月を重ねてきたものだけが出すことのできる味のある風貌のようなもの」が私たちからも滲むようになれたらなあと念じています。

  家人の足と靴(プラハの空港)  [2013(H25).7.16撮影、次も同じ]

  旅の終わりに膝痛のもとでの長い歩行に堪えたことに感謝の思いで撮影しました

  私の方の足と靴(プラハの空港)

  街角の焼き栗売りの夫婦(リスボンのリベルターデ大通り)  [2013(H25).12.28撮影]

 

 いつもの手立てになってしまいますが、私から見える、私たちの現在地というものを、天野忠さんの詩にも助けてもらって探ってみたいと思います。

 まず、72歳のときの『私有地』という詩集から、<四十年>という言葉が使われている「時間」という詩で、うむと申し上げるしかなさそうです。

 

    時間

 

  私のとなりに寝ている人は

  四十年前から

  ずうっと毎晩

  私のとなりに寝ている。

 

  夏は軽い夏蒲団で

  冬は厚い冬布団で

  ずうっと毎晩

  私のとなりに寝ている。

 

  あれが四十年というものか……

 

  風呂敷のようなものが

  うっすら

  口をあけている。

 

 「うっすら口をあけている風呂敷のようなもの」とは固有名詞をもたない言葉以前のミステリーなのであり、それがこんな詩の言葉になっています。<四十年>という時間をこんなふうに表現できますか。ちょっと<四十年>がこわくなってきました。

 次に同じく天野さんが60歳のときに刊行した『昨日の眺め』から、「しずかな夫婦」という詩です。私にとっては天野さんの詩と出会った頃から、30年近くも前から好きな作品でした。結婚して三十年、子供たちがいなくなり、二人になって、三十年の来し方を串刺しにしたような作品です。

 こうありたいと思ったから好きだったのか、今となってはよくわからないのですが、そんなものかもしれぬと思って読んだのはまちがいないでしょう。

 少し長くなりますが、引用しておきましょう。

 

    しずかな夫婦

 

  結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。

  とくにしずかな夫婦が好きだった。

  結婚をひとまたぎして直ぐ

  しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。

  おせっかいで心のあたたかな人がいて

  私に結婚しろといった。

  キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて

  ある日突然やってきた。

  昼めし代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き

  昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。

  下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し

  お見合だ お見合だ とはやして逃げた。

  それから遠い電車道まで

  初めての娘と私は ふわふわと歩いた。

  −ニシンそばでもたべませんか と私は云った。

  −ニシンはきらいです と娘は答えた。

  そして私たちは結婚した。

  おお そしていちばん感動したのは

  いつもあの暗い部屋に私が帰ってくるころ

  ポッと電灯の点いていることだったー

  戦争がはじまっていた。

  祇園まつりの囃子がかすかに流れてくる晩

  子供が生まれた。

  次の子供がよたれを垂らしながらはい出したころ

  徴用にとられた。便所で泣いた。

  子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。

  ひもじさで口喧嘩も出来ず

  女房はいびきをたててねた。

  戦争は終った。

  転々と職業をかえた。

  ひもじさはつづいた。貯金はつかい果した。

  いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。

  貧乏と病気は律儀な奴で

  年中私たちにへばりついてきた。

  にもかかわらず

  貧乏と病気が仲良く手助けして

  私たちをにぎやかな相性でない夫婦にした。

  子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)

  思い思いに デモクラチックに

  遠くへ行ってしまった

  どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって

  夫婦はやっともとの二人になった。

  三十年夢見たしずかな夫婦ができ上がった。

  −久しぶりに街へ出て と私は云った。

   ニシンソバでも喰ってこようか。

  −ニシンは嫌いです。と

  私の古い女房は答えた。

 

 結婚から<三十年>、天野さん夫婦が歩いてきた道を、六十歳近くの天野さんが一気に書ききった詩です。そして天野さんが歩いた先にあった夫婦の風景はこのようなものでもあったのでしょう。私の、私たちの現在地にも通じるものがあります。

 最後に詩集『私有地』の「私有地」の後半部分を引用します。近未来としておそろしいほど胸に迫ります。

 

    私有地

 

   ( 略 )

  

  いろいろなむかしが

  私のうしろにねている。

  あたたかい灰のようで

  みんなおだやかなものだ。

  

  むかしという言葉は

  柔和だねえ

  そして軽い……

 

  いま私は七十歳、はだかで

  天井を見上げている

  自分の死んだ顔を思っている。

 

  地面と水平にねている

  地面と変わらぬ色をしている

  むかしという表情にぴったりで

 

  しずかに蠅もとんでいて……。

 

 「私有地」とは何だか思弁的な言葉です。現在地とは閉鎖的ではないけれど、「私有地」にほかなりません。

 「いろいろなむかしが/私のうしろにねている。/あたたかい灰のようで/みんなおだやかなものだ。」とは、70歳になった天野さんがそのおだやかならぬ人生から、その核心においたのが「おだやか」「柔和」という視線であったのでしょう。そして「むかしという言葉は/柔和だねえ/そして軽い……」、過ぎ去った時間は重いというより軽いと、今の私にも感じられます。

 しかし、天野さんの視線はその人生において下の写真でこちらを睨みつけているダルマの視線だったにちがいないと思ったりもします。何ごともじっと見つめ射貫いてしまう視線をもつ、そんな言葉をもつ人でありながら、天野さんが到達した境地「むかしという言葉は/柔和だねえ/そして軽い……」はそうしたドラマを経てきたものであることを、私は忘れないようにしたいと思っています。

  唐津焼のダルマの置物(中里太郎右衛門陶房/11代が制作) [2010(H22).10.9佐賀県唐津市で撮影]

 

 

2017.05.06 Saturday

<フェイク・ニュース>と<ポスト・トゥルース>の世界ー民主主義社会のインフラとはー

 週に一回だけ朝早くの電車に乗ります。眠りのなかにいる乗客以外は、スマホの画面を眺めている人がほとんどです。がさごそと新聞を読んでいる人は探さないと見つかりません。もちろんスマホの画面で新聞記事と同じニュースを読んでいる人もいることでしょうが、数年というレベルで車内風景が一変したように感じます。

 大学の教室内においても、新聞を取り出して読んでいる学生を見たことはありませんし、三十代後半になった私の娘も息子も新聞を定期購読していないとのことです。彼や彼女たちに入ってくるニュースなどの外部情報(仕事に関係するコアな情報を別にして)は、限られた部分を除き、すべてインターネットを介しているといって過言ではありません。同時に、そうした情報を入手する機器は、パソコンからスマホやタブレットへと変化しているようです。

 今、こうした身辺にある現実との関係を無視して、今回のテーマ、「<フェイク・ニュース>と<ポスト・トゥルース>が跳梁する世界とその行方」は想定することも考えることもできません。

 

 新聞やテレビは表現、言論の自由に裏付けられた言論空間を形成するという「民主主義のインフラ」としての機能が求められてきましたし、今も求められています。が、インターネットを通じたフェイク・ニュースを抑止する仕組みができれば、新聞やテレビを中核とする民主主義のインフラとしての言論空間が取り戻せるかといえば、そうとはいえないと考えています。

 インターネットを介する情報空間を含めて、これからのあるべき言論空間を構想していかなければならないのではないか、つまりマスメディアとそうでないメディアを対立させることだけではどうしようもない世界が到来していると申し上げたいのです。

 いつものとおり限られた関連情報から導かれたきれいごとすぎる意見だということになりそうですが、発信者であるメディア、ニュース情報等の受け手でありそれを拡散する主体であるユーザー、これを媒介する広告を含めたネット企業という三者が、いっしょになってネットの自由な言論空間を創っていくという方向性が何より大切なんだという意見に私も同意します。

 繰り返しますが、現在の言論空間において、マスメディアも無謬ではありえないのであって、信頼されうるマスメディアたりうるためには、もはや超然とした立場からものが言える状況ではないことを前提とした積極的な対応が避けられないということなのです。

 

 トランプ大統領の就任以降に、ネット上に掲載された<フェイク・ニュース>に関連するテレビ番組の要約記事(NHKBS1「朝一番 世界をつかむ」2017.1.30「゛フェイク・ニュース゛の脅威」/NHK総合「クローズアップ現代」2017.2.6、2.7、4.26の3回分)や関連の記事(バスフィード・ジャパン「信頼失う新聞・テレビは滅ぶのか 池上彰さんが「楽観できない」と語る理由」2017.4.15)に接することができました。こうした記事は、当ブログを取り上げてきた「トランプ大統領当選の背景」となっている世界に私の関心が持続していたから飛び込んできたものであり、その直接の引き金となったのは定期購読している毎日新聞の下記の二つの記事です。

 ◦2017.1.25/森健「〔トランプ大統領誕生〕ネットのうそ、メディアの役割」

 ◦2017.2.15/国谷裕子氏へのインタビュー「事実と向き合う報道を」 

 以上の記事は、SNSのことをよく知らないし、使ってもいない私には手に負えない部分も多くありますが、本稿では、フェイク・ニュースの現状、背景、社会への影響、対応の方向などにつき、一定の整理を試みておくことを目標とします。

 

◈フェイク・ニュースの現場ー三つのリポートからー

 最初に、フェイク・ニュースに関する三つのリポートから紹介することにします。

.▲瓮螢ABCのリポートから

 フェイク・ニュースの典型例として、゛ローマ法王トランプ氏を支持 世界に衝撃゛の映像が登場します。こんなフェイクニュースを流すサイトが増えたのは米大統領選の2016年からで、トランプ氏による高頻度のツイッターでの発言が人々のSNSの利用頻度を高めたことが背景にあると指摘されています。

 こうしたフェイクニュースサイトの温床を、アメリカのネットメディアであるバズフィードが突きとめたというところから、リポートは始まります。「100以上のサイトが、マケドニアの小さな街で作られていた」、つまり旧ユーゴスラヴィアのマケドニア、それもベレスという人口45千人の不況にあえぐ小都市だというのです。

 バズフィードの編集者はマケドニアのフェイクニュースサイトの製作者を取材し、彼らから次のような発言を引き出しています。「僕の記事にはアクセスが750万回もあったよ」「トランプについて書くと、アクセスは伸びたんだ」「アメリカ人が私のサイトの記事を見た時に、広告のバナーをクリックしてくれば、お金が入ってくるんだ」「ここ3ヵ月、フェイクニュースを作っただけで、両親が一生かけて稼ぐ金額がもうかったんだ」などです。

 取材の結果、「多くの製作者は政治に無関心で、サイトの広告からの収入だけが目当て」なのだと、フェイクニュースの動機を結論づけています。もちろんマケドニアのサイトの場合ということになりますが。

 

 この編集者は米国大統領選の最終盤には「フェイクニュースの上位20位の記事と、大手メディアの上位20位の記事とを比べると、フェイクニュースの記事の方が、フェイスブックでは話題となっていました」と報告します。そしてアメリカでは成人の62%がSNSでニュースを読んでいて、中でもフェイスブックの利用率は飛びぬけていることが背景にあるといいます。したがって、「フェイスブックが、偽情報拡散の土台になって」いるとともに、オンライン広告の巨人であるグーグルも「フェイクニュースでもうけている」とし、そのような仕組み(「グーグル7割、サイト発信者3割」など)になっているようだと指摘しています。

 このリポートでは、フェイクニュースの発信源は政治意図をもったサイトだけでないことをここで確認しておくことにしましょう。そしてフェイクニュースが拡散する背景(発信者と拡散する人は別人なのですから)については、後で整理することにします。 

  フェイクニュースの事例(「ローマ法王 トランプ氏を支持」)

    2017.1.30/NHKBS!「朝一番 世界をつかむ」より

  フェイスブックでは「フェイクニュース」の方が「大手メディア」より話題 同上より

 

▲疋ぅ弔涼亙紙記者からのSOSから

 ドイツの地方紙であるルールニュースの記者が、今年1月に゛事実がウソに塗り替えられてしまう゛とツイッターでSOSを発したところから、リポートは始まります。

 この記者は昨年の大みそかに広場へ年越しを祝いに集まる人々を取材し、インターネットに年越しの記事と動画を掲載しました(集まった人々の中には中東などからの移民もいて楽しむ姿が写っていました。また別の場所では工事中の教会のネットに花火の火がついたことからぼや騒ぎも生じていました。でもこのぼやは10分ほどで消えたとのことです)。

 しかし、数時間後、想像もしなかった事態が、すなわちオーストリアのニュースサイトに自らの記事と異なる形で引用されていて、「シリア人が「アッラーは偉大なり」と叫び、教会に火がつく、この2つの無関係な事柄を組み合わせ、彼らが放火したかのように描かれていた」というのです。

 この記事は、2日後、ブライバート(現米大統領上級顧問のスティーブ・バノンが元経営責任者)という移民やイスラム教徒に排他的とされるサイト(ロンドン支局)に「1000人の暴徒が警察を襲撃、ドイツ最古の教会に放火」というタイトルで転載され、上記の2つのサイトの記事はいずれも万単位で世界中に拡散しました。

 そして、このフェイクニュースを信じた人たちから、ルールニュースのサイトへ1000通を超える非難のメッセージが届くという事態となったというのが経緯です。

 

 元の記事を掲載した記者は社内で協議して詳細な反論記事を掲載しましたが、この記事に対する書き込みやシェアは国内を中心に、わずか500件余りであり、世界に拡散された誤情報を打ち消すことができませんでした。

 同記者が「自分の目で見て取材をしたのは私です。フェイクニュースは移民への怒りをあおり、拡散しました。事実はどこかへ行ってしまいました」と語るインタービューが画面に登場しています。このようにフェイクがファクトを駆逐してしまう現実があるということです。

  左が元の記事、右が「フェイクニュース」 2017.4.26/NHK「クローズアップ現代」より

 

J大統領選にかかるNHKのリポートから

 NHK「クローズアップ現代」のフェイク・ニュース第3弾(2017.4.26)は同月23日のフラン大統領選挙を核にヨーロッパの社会がフェイクニュースにどう立ち向かおうとしているのかがテーマです。が、ここでは30以上のメディアで結成されたクロスチェックというプロジェクトによって、フェイクと認定された記事の発信元サイトを6年前から運営する男性へ取材した結果を中心に少しだけ紹介しておくことにします。

 

 フェイクニュースと認定された記事は「パリ市が移民のためだけに公共住宅をつくろうとしている」というものです。事実と異なりますが、この記事を書いた男性は社会を不安定にしている移民への優遇措置を批判するために書いたのだと主張します。

 ジャーナリストではない「私は記事の中に、私の意見と考えを入れて主張します」という男性に対し、鎌倉アナは「正しい情報で判断するという民主主義の土台を、壊してしまうおそれはないんですか」と問います。男性は、既存のメディアが人々が直面する現実を伝えていないのだから、「今のフランスには偏った情報しかありません。さまざまな角度からの情報を提供することが大事だと思います」と答えます。

 マケドニアのサイトと違い、明確な政治的意図をもってフェイクニュースを流すサイトの責任者の発言として興味深いものです。

 

 一方、フェイクニュース(実際にロシアで起きた<病院内で男性が看護婦に暴力をふるう>映像を「これがフランスの姿だ」と説明してフェイスブックに投稿、1500万回以上も再生された)を拡散した人へのインタビューです。

 マルセイユの男性医師で動画にショックを受けてリツイートしたそうですが、フェイクだったと聞かされても、「でもフランスの病院でもこういうことはあるよ。今フランスでは、ある宗教の信者による暴力が大きな問題となっているんだ。フランス国民の彼らに対する目は年々厳しくなっているよ」と反論したとのことです。

 発信された情報を拡散する人は、事実かどうかということより、情報に同意したり共感したりすることを優先している事例として、それは<ポスト・トゥルース>にも直接つながりますが、ここでは受けとめておくことにしましょう。

  仏大統領選中の「フェイクニュース」 2017.4.26/NHK「クローズアップ現代」より

 

◈フェイク・ニュースの背景ーインターネット、SNSという情報空間ー

 従前は新聞やテレビで情報を入手していましたが、今や情報空間がどんどん変化していて、若い世代はほとんどがスマホに拠っているようにみえます。入手先はフェイスブックのようなSNSで得ることが増えています。

 これを前提としつつ、こうしたネットの情報空間の特質を先述の記事から抽出してみることにします。

 

 まずネットの情報空間にはとてつもない拡散力が一体化されており、情報の流通経路が根本的に変化したということです。すなわち、ネットで情報、フェイクニュースか否かに関わらず、これを受けた善意のユーザーが、受け手が、他の人に再拡散する、シェアすること、つまり当該情報が不特定多数に拡散していくことは、従来の情報空間と全く別次元の状況のものとなっています。

 ツイッターで流れてきた情報をリツイートすることについての調査では、リツイートする6割の受け手が中身を見ないで見出しを見ただけでリツイートしているという結果が出ています。信ぴょう性の怪しげな情報は、過去であれば限られた友人・知人にとどまるものですが、ネットの情報空間では情報の信頼性と関係なく自分の手を離れて拡散してしまうことが多いということです。

 

 また、ネットの情報空間は、従前の新聞やテレビが担っていた情報のゲートキーパーの機能を無効化するのであり、情報の受け手は発信者と情報のパッケージで判断することができなくなります。

 発信者と拡散する部分が分離されているところにソーシャルメディアの特徴がありますから、「誰が書いたのかということと切り離されて、情報だけが1人歩きして拡散されていく」ことになってしまいます。

 

 次に拡散させてしまう理由がもうひとつ、インターネット上では利用者というものが、偏った情報に囲まれやすいという問題があります。「フィルターバブル」と呼ばれているようですが、事実や真実が見えなくなってしまって、後先なく拡散させてしまうということです。

 これは、インターネットには、「アルゴリズム」というプログラミングがあるようで、自分が「いいね」をしたり、見ているものばかりが表示される、かつそれに「いいね」がつく、シェアされてくるという仕組みです。

 名前をあげると誰もが知っている気になる、あの池上彰さんは、この状態を「結局、検索しても、自分の見たいものだけを調べていく、見たいものだけを見る、信じたいものだけを信じるというふうに、ある種のたこつぼ状況にみんな陥っているんじゃないか」と懸念を表明しています。

 

 もともとはSNSを通じてさまざまな立場の知人と情報をやり取りをしていた人がわずらわしくなり、多様な情報が入らないようSNSの設定を変更した事例では、同じ考えの人からの情報にばかり触れていると、フェイク・ニュースが紛れ込んでも疑いを持たなくなるとの指摘がありました。

 ネット、SNSの情報空間には、猛烈な質量の情報があるわけで、普通はバランスよく情報を得て適切にコントロールする余裕や能力が不足している以上、「多くの人が真実が何かというよりも、自分が信じたい情報を信じるようになって」いるという現実があるというわけです。

 

 さらには、前述のマケドニアのフェイクニュースサイトがそうなのですが、ビジネスになってしまうという実態も重要な背景だといえます。

 情報を発信するに際し、事前に簡単な広告アカウントを貼り付けておくと、自動的に内容にマッチした広告が掲載される仕組みとなっています。その広告にユーザーがクリックすると、サイト開設者へクリック数に応じて一定の金員が還元されるというシステムです。「ウソでもいいからクリックしたくなる話」を作れば、大きな利益を出せる仕組みを作ってしまったことになります。

 

 以上、よく分かっていないこともあって、ネット、SNSの情報空間の特質であろうという点を羅列したにとどまりますが、こうした特質が「フェイクニュースの脅威」というものを招く背景にあることは確かであると受けとめています。

 もとより、背景として、政治的な要因や社会経済的な要因についてもあげるべきかと思いますが、それは次の「社会的影響」のところで整理を試みることにします。

 

◈フェイク・ニュースの社会的影響ー「ポスト・トゥルース」の政治ー

 日本の今年の漢字とか、流行語大賞とかと似たものでしょうか、昨年2016年の言葉として、オーストラリアのマッコーリー辞典が「フェイク・ニュース」を、英国のオックスフォード辞典が「ポスト・トゥルース」を、それぞれ選んだそうです。

 「フェイク・ニュース」の定義は「政治目的や、ウェブサイトへのアクセスを増やすために、サイトから配信される偽情報やデマ。ソーシャルメディアによって拡散される間違った情報」とされています。

 一方、「ポスト・トゥルース」の定義は「世論の形成において、客観的な事実よりも、感情や個人的信条へのアピールが影響力を持つ状況」とか、下線の部分が「『感情や個人的な信念』が優先され『事実』が二の次になる状況」と翻訳されているものもあります。

 英国のEU離脱をめぐる国民投票やトランプ氏が当選した米国大統領選などで「ウソ」が政治を動かしたと指摘される中で、こうした状況を「ポスト・トゥルース・ポリティックス」、<真実後の政治>とか<脱真実の政治>という言葉で表現されているのです。

 

 こうした「フェイク・ニュース」と「ポスト・トゥルース」」は、いわば表裏一体の関係にあり、ネット、SNSの情報空間が急激に拡大し、前者が社会的なモンスター、脅威となることによって、後者が加速化する、より顕在化するという関係にあるのだと考えます。

 政治家が事実に基づかない発言をすることは今に始まったことではありません。では、どうして昨年急に「ポスト・トゥルースの政治」がクローズアップされたのかについて、名古屋大学の日比准教授は次のように解説しています。

 「 ポスト・トゥルースを作っている要素の一つがインターネット、特に

  ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)です。技術の発達で多く

  の人が手軽にニュースを手に入れることができるようになりました。その

  半面、情報が正確なのか、信頼できるのかを確かめずに拡散され、結果と

  して不正確な情報が独り歩きしてしまう状況が生まれてしまいました。」

 日比准教授は「ローマ法王がトランプ氏支持を表明」とか「クリントン陣営の不正投票の証拠が見つかる」というようなフェイクニュースの世界中への拡散に注目しています。

 「 多くの人が、自分が正しいと信じる内容については、事実かどうかに関

  係なく、それをシェア、リツイートという形で拡散していくという構造が

  ポスト・トゥルースを後押ししています。」

 そう「フェイクニュース」は「ポスト・トゥルース」を後押ししているという表現は分かりやすいですね。

 

 先に紹介したNHK「クローズアップ現代」の中で、取材にあたったアメリカ総局の記者が「ひと言で言いますと、フェイクニュースによって、社会の分断がより深まっていると感じます」と発言しており、それはそれで説得的ではありますが、同時に、逆に、フェイクニュースはネット、SNSの情報空間の特質との関連だけでなく、受け手である人びとの構成する社会の分断というか、亀裂というか、そのようなものが基盤として関係している、容易に生じさせていると申し上げることができます。

 つまりフェイクニュースが分断を深めるのと同時に、逆に、社会の分断状況、いわゆる格差の拡大によって自分は政治の恩恵や参画から切り離されていると不満を感じている人びとがフェイクニュースを信じる受け手となっているということなのです。

 前記の「J大統領選にかかるNHKのリポートから」では、アメリカのラストベルト(当ブログ「トランプを支持してしまう現代アメリカとはー『ルポ トランプ王国』ー」)と同じように、フランスにもルペン候補の支持が多かった北東部にはいろんな形の不満が渦巻いていたと、調査にあたった政治学の北海道大学の遠藤乾教授が報告していました。下記の地図における黒い部分は、炭鉱が閉まったり、製鉄工場の火が消えたりして失業率が高どまっている地域であり、「移民ばっかり優遇して自分たちのことはあんまり気にしてくれない」「主要メディアは自分たちのことはあんまり気にしてくれない」と、そういう不満を抱えていた人が多く、遠藤教授はフェイクニュースとの関係を次のようにコメントしています。

 「 そういう「不満」というのに、ちょうどフェイクニュースが突き刺

  さっていく、そういう余地が生まれるということなんだろうと思ってい

  ます。」

 こうした社会経済の構造がなくならないかぎり、マグマというかフェイクニュースの火種はなくならないということのようです。そして、以前ならどこかに後ろめたさを伴っていたであろう「ポスト・トゥルース」の政治が大手をふって表玄関から登場してくる時代が到来したということになります。

  仏大統領選第1回投票で「最も支持を集めた候補者」の地域別状況

    2017.4.26/NHK「クローズアップ現代」より

 

 いずれにしても、事実と真実に基づいた議論、正確な情報に基づく議論が成り立つことが民主主義の基本だとしたら、そうではない状況、「フェイクニュース」と「ポスト・トゥルース」の政治が活躍できてしまう(跳梁する)世界が顕在化してきたと受けとめるべきです。

 かくして「民主主義」社会の基盤がむしばまれていくという危機の時代に、私たちは立ち会っているのだと申せましょう。

 

◈フェイク・ニュースへの立ち向かい方

 ここでは、以上の議論も踏まえ、どのように「フェイク・ニュース」へ立ち向かうのかについて整理してみることとします。 

 登場するアクターは、サイトの開設者である発信者、それを受信する受け手かつ拡散する人、フェイスブックやグーグルなどプラットホームと呼ばれる情報発信をお手伝いするネット企業、オンライン広告のアドネットワークといわれる広告業者、そして言論空間の担い手である大手メディアやネットメディアを含めたジャーナリズムというところになるのでしょう。

 

 具体例からみておきましょう。

 前述したとおりNHK「クローズアップ現代」のフェイク・ニュース第3弾(2017.4.26)はヨーロッパの社会におけるフェイクニュースへの立ち向かい方にもわりと詳しくふれています。

 一つは、大統領選挙を前に、フランスにおいて新聞社や通信社、テレビ局など30以上のメディアで「クロスチェック」というプロジェクトを結成して、活動を始めていることが報告されています。フェイクニュースの可能性がある記事についてネット利用者からの報告をもとに、記者が共同で事実確認を行い、検証結果をサイトで公表しているとのことです。

 このクロスチェックが4月23日の第1回投票までにフェイクだと確認した情報は50件、真偽が定かでないものはさらに多くあったとされています。

 こうしたいわゆるジャーナリズムによる検証が、フェイクニュース対策の基本となるものです。でも時間も費用もかかるので、もぐらたたきに陥るという可能性が指摘されてもいます。

 

 もう一つは、法規制であり、ドイツでは4月5日、差別感情をあおるようなヘイトスピーチやフェイクニュースを取り締まる法案を閣議決定したとのことです。つまり街中と同じで、SNSでも「人びとを扇動する違法な発言は許されない」との趣旨です。フェイスブックやツイッターなどの企業側に責任を負わせており、利用者からの通報を受け、明らかに違法な内容は24時間以内に削除することなどが義務づけられているという内容だそうです。

 予測されるとおり国民の間で賛否が分かれていると報ぜられていました。本稿で取り上げたドイツの地方紙であるルールニュースの記者は被害者を守るためには、企業だけでなく、発信している個人も処罰の対象にすべきとのより厳しい意見です。

 ドイツのフェイスブックでは、NPOと協力して記事のチェックを始めていますが、「企業側は疑わしいものをすべて削除することになりかねません」と、ネット上での自由な議論が妨げられることを危惧していると説明していました。法規制によりネット企業側が委縮する、自粛することで、結果として、言論の自由の妨げになるというわけです。

 

 バズフィードジャパンの古田編集長との対話において、池上彰さんは「結局、ジャーナリズムの自浄作用しかない」と強く訴えています。

 日本においても、昨年IT大手DeNAが運営する10のメディアが不正確なコンテンツや著作権侵害を指摘され休止に追い込まれたことを契機として、インターネットメディアの協議会を作ろうとする動きがあるとのことですが、前記のフランスやアメリカの動きを踏まえて次のとおり発言しています。

 「 表現の自由、言論の自由がありますから、公的な機関ではなく、自主的

  な機関がやるしかない。一社だけじゃ無理。嘘ニュースは10分でつくれる

  けれど、その検証には時間がかかる。」

 「 新聞社がお金を出し合ってファクトチェック機関をつくり、良貨で悪貨

  を駆逐できないか。そういうことを地道にやっていくしかないと思うんで

  すね。」

 私としては、こうした検証機関が機能する状況を成り立たせることが、フェイクニュースへの立ち向かい方の出発点だと理解することができました。

 

 もとより、そのためには、フェイスブックやグーグルなどのプラットホーム企業が、一定の責任をもった主体としてこれに連携することが不可欠です。このあたりも従来のジャーナリズムとは無関係だからという姿勢には、法規制を前にしたドイツのフェイスブック社もその一つですが、だいぶ変化がみられるといわれています。

 

 フェイク・ニュースの発信者がマケドニアのフェイク・ニュースサイトのように政治的意図をもたずビジネス、金もうけだけを目的としているなら、広告の部分で規制することが直接の処方箋となります。つまり「悪質なアカウント、情報をゆがめて発信していることが明らかなアカウントには広告の配信を停止する」などの対応が求められるということになります。

 もちろん政治的意図をもってフェイク・ニュースを発信しているサイトには効果が薄いわけですが、間接的な効果を想定すれば、有効な方法だと評価するとができるでしょう。

 

 そのほか、メディアリテラシーの強化ということが指摘されています。学校教育の現場では悩ましいことも多いのではないかと想定されますが、これも社会教育を含め、地道に繰り返してやっていくことが大切なのでしょう。

 その際、SNSの特質といわれる「異なる考えを排除しつつ、自分と似た考えや志向性をより強めるのが一般的だ」という傾向を十分意識したリテラシー教育が必要不可欠になります。

 

 以上、この項も、フェイク・ニュースへの立ち向かい方の現状や課題を列記しただけのことになりましたが、法規制はひとまず横におくとして、これらはいずれも不可欠な対処方策であると理解できました。

 だがしかし、これらの対応で「フェイク・ニュース」の改善につながったとしても、これで完璧などとはもうとういえず、「ポスト・トゥルース」の政治が霧消することは期待できますまい。

 でも、まずは立ち向かうことが出発点になると希望したいと思います。

 

◈まとめにかえてー私の現実からー

 せっかく週に2回は大学に出かけて聴講しているのですから、今回のテーマについて学生の方とコミュニケーションをとって、本稿で報告できるのが一番有意味とは思いますが、私にはできそうにありません。

 ここでは、私自身のことで、すなわちネットの情報空間を前提として当ブログ『思泳雑記』を開設していること、今一つは新聞を読んでいるのは『毎日新聞』1紙だということ、これに伴う現実や問題のことを書かせていただくことにします。

 

 一昨年の11月から当ブログを開設しているのですが、私は不特定多数の受け手を想定せず、友人・知人あての手紙として書いているという趣旨は何度も繰り返してきました。今のところ、友人・知人以外にも少しは読まれたのではないかという記事が2つあります。

 一つは2015.12.18「『歳月』の『歳月』ー茨木のり子の詩ー」です。理由は検索リストの上位に掲載されたことではないかと想像しています。タイトルに<茨木のり子>という詩人名と詩集の<『歳月』>という書名が両方入っていたから、検索リストの上位に入りやすかったのではないかと思っています。

 もう一つは2016.9.2「忘れてはならないことー東京農業大学満州報国農場ー」です。これはアップしてすぐに「はてなブックマーク」に転載してくれた方がいたようなのです。私は「はてなブックマーク」のことは今も知らないままですが、いつもより数倍のアクセスがありました。

 内容もあるかもしれませんが、タイトルに固有名詞というか具体的な名詞が入っていたことが関係していそうです。私の場合は拡散とは程遠いですが、ネット空間における「見出し」のウェイトの大きさを感じた事例です。

 また、ネット記事はきっちりと訂正記事を出さないまま更新で済ませるという問題の指摘がありますが、私も同じことをしてしまっています。アップしてからも、校正したり、不明確な文意の部分の明確化とか、そんなことをしていますので、訂正をお知らせするのではなく、更新で済ましてしまいます。

 さらに私の書く記事の場合は意見までいかないことばかりですが、ブログを書いていると、幅広く読んでからという気持ちはあっても、まず書くことを優先する傾向があります。事実にこだわりはあっても、ネット情報を確かめることができないままで使っていることもあります。書きながら考えていくといえる側面もありますが、特に暖簾に腕押しというか批判のみえないところで書いていると、どうしても「たこつぼ」にはまりやすいと自戒することがよくあります。

 「フェイクニュース」と直接関連するわけではありませんが、ネットの情報空間における匿名性を含めた特質から、私は自由である、関係ないなどと考えていないということです。 

 

 もう一つは手にとって読んでいる新聞が「毎日新聞」1紙だけだ(ナナメ読みがほとんどですし、読まないですます記事だらけですが)ということです。

 池上彰さんと佐藤優さんは報道の現在の課題はファクト(事実)のチェックにとどまらず、大手メディア、例えば新聞ごとの報道スタンスの差異が広がっているなど、新聞=客観報道の前提が崩れていることがあると指摘しています。池上さんは、こんな状況のもとでは、いろんな新聞があっても悪いことではないものの、1紙だけ読んでいると、「結果的に、その考え方にどんどん進んでしまう」ということになり、次のような現実になっていると警告します。

 「 昔は、いろんな新聞がいろんな主張をすることは良いと思っていたけれ

  ど、結果的に世論が分断され、中身のある議論を交わすことが難しく

  なった。悲しい現実があります。」

 マスメディアに求められているのはファクトに基づいたうえでのフォーラム機能だとする池上さんは、「分断された人々に対話をもたらし、社会課題の解決方法を共に考える」のがメディア、報道機関の役割だと主張しています。政治や行政を国民の立場から監視すること、それが足りないからこそ既存メディアが信頼を得られていないのだというわけです。

 そのとおりでしょうが、私には能力も根気もないようです。毎日新聞には特定のテーマに関する自紙の社説や論調を他の新聞のそれとともに紹介する紙面があって、貴重だと思いますが、所詮は散発にとどまります。せいぜいネットのニュースサイトから、他の新聞等の記事を読んで補強することぐらいしかできていません。それも私の思う方向の記事しか選択しないという傾向は確かにあります。

 意識の高い若い人たちは、同じテーマについての各新聞の記事を比較して読むような方もいるのでしょうが、実際はなかなか難しいのが実態ではないでしょうか。

 私も池上さんが指摘する問題から逃れられていないということなのです。

 

 ここまで「フェイク・ニュース」を中心に整理してきたつもりですが、ネット、SNSの情報空間を前提とすると、民主主義のインフラとしてふさわしい言論空間が機能することはなかなか容易でないことがよく分かります。

 既存のメディアを含めたジャーナリズムが、前述のフランスの「クロスチェック」のような団体を立ち上げてファクトチェックを核として検証を開始することが、当面の課題ではないでしょうか。情けないことに、大手新聞社をはじめとする関係企業とジャーナリストの幅広い連携が我が国で可能なのかが不安視されるところではありますが。

 大手メディアは、加害者でもあるという危機感をもって、同時に意見の相違を前提として、ネットの情報空間においても「ファクトに基づいたフォーラム機能」を共同で作りだしていくことが重要なことだと考えます。このようなサイトは、たとえば前記の検証機関という第三者の団体が運営するということも可能ではないでしょうか。

 

 最後に、それこそ毎日新聞の時論フォーラムを担当している水野和夫法政大教授は、トランプ氏勝利の要因として、生産性格差で到底正当化できないような格差拡大を放置してきたエスタブリッシュメントの怠惰とともに、中央公論2月号に掲載の美学者である佐々木健一さんの文章を引用しつつ、次のように書いていることに注意を喚起しておきたいと考えます。

 「 佐々木健一によれば、怒れる芸術家が怒る対象がなくなってアバン

  ギャルド(前衛)が終わり、「怒りの実験場」の場が消えたとき、「怒りは

  直接現実のなかに入り込んでくる」。「それが、トランプ大統領の誕生の

  意味である」という。そして、「トランプ大統領は、近代にまつわるパン

  ドラの箱を開けた」のである。近代の理念である「平等とは何か」、「自

  由とは何か」が、今後問われることになる。」

 私も切実にそう思っています。怒りの最たるものが、パンドラの箱を開けた先にあるものは、20世紀の総力戦としての「戦争」ではなくとも、やはり別の形の「戦争」という惨劇なのでしょう。それを準備しているのが、席巻する「ポスト・トゥルース」の政治にほかなりません。

 今問われていることは、「戦争」をパンドラの箱に入れなおし、ふたをすることであり、人類への最後の宿題かもしれませんが、その方向から全てのテーマにおいて「答え」を導くことです。

 『絶望の虚妄なるは希望のそれにひとし』(魯迅「野草」)。私には祈ることしかできません。

 

 

 

2017.04.25 Tuesday

雲を探してみてもー新緑とこいのぼりー

 雲を探してもどこにもありません。混じり気のない四月の空です。そんなどこまでも青い空の日曜日でした。

 阪急六甲で一時下車し、八幡神社の脇をぬけようとしたときクスノキの新緑が青空をバックにかがやいていました。桜の季節は終わり新緑の季節がとって代わっています。ああ何という50日だったことか。ナダシンの赤飯を手にして、六珈でコーヒーにしました。

 

 それからいつもの阪神香櫨園ではなく阪急夙川で降りて、夙川沿いに香櫨園浜へむかって南下しました。JR線の南の国道二号線に架かる夙川橋上からは名残りの桜ともえはじめた新緑がちょうど同居しているさまが見えています。

 阪急夙川南から臨港線の浜夙川橋までの2匱紊箸い夙川の川沿いに、川をまたいで何ヵ所も「こいのぼり」が泳いでいます。こどもの日(端午の節句)にちなんだ地元住民によるこいのぼりの飾り付けは1995年から毎年続けられているのだそうです。1995年1月の阪神・淡路大震災で被害にあった香櫨園小学校へ通う児童らを慰めようと、静岡県のボランティア団体からこいのぼり約500旈(りゅう)が贈られたことを契機に始められました。

 たしかに色がすっかり落ちてしまったようなものもありますが、吹き渡る浜風にこいのぼりが青空のもとではためくさまは、何もかもがのびやかになる空気につつまれていました。

 

 こんな染み一つないような青空にも無数に出会っているにちがいありませんが、私と家人が共有しているのはイタリアの空です。はじめての海外旅行へ出かけた時にイタリアの空の青さに空がちがうよねと日本との差異を感じたのです。湿潤な日本の空と違って湿気の少ない気候の特徴なのでしょうが、すがすがしく気持ちいいとも、バカバカしいほどの脳天気とも思ったものです。

 ちょうどそんなイタリアの空の色を思い起こさせる、雲を探しても見つけることのできない日曜日の青空でした。

 

 かくして老いてゆくものか、いかんともなし難い現実を見て見ぬふりもしながら日々を送っていたように思います。得体のしれない近未来から離れ、今晩は何を食べようかなどとくだらないことだけ話していた毎日でもありました。

  新緑のクスノキ(阪神六甲駅南の八幡神社) [2017(H29).4.23撮影、以下同じ]

  散り残った桜ともえはじめた新緑(夙川橋から北のJR線にむけ撮影)

  夙川沿いのこいのぼり(浜夙川橋付近)

  同上/浜風にはためくこいのぼり

  ローマ・ナボーナ広場(「雲一つなし」の青空) [2015(H27).5.12撮影]

 

 「このへんはハワイみたいと言われているようです。ぐるっと歩いてみますか」と、若いPTから促されました。家人は膝手術のあと、この夙川河口にある病院に転院してリハビリを続けてきましたが、明日の退院を控え、今回がこの病院での最後のリハビリだというわけです。

 午後4時すぎというのにたじろぐほどの陽ざしの強さです。当初の予定よりも1週間延長してリハビリを続けてもらったためか、家人の歩行は杖をつきながらではありますが、わりとスムーズに足を運ぶことができています。

 夙川の河口付近、香櫨園浜には、日曜日を楽しむ人たちがあつまってきて思い思いに遊んでいます。河口の南には海が広がっているはずでしたが、左手に西宮浜、右手に芦屋浜という埋立地が前方をふさいでいて、まるで湾のようになっています。

 

 翌日に家人が退院してきたあとでネット情報でみたのですが、このあたりの香櫨園浜一帯は、阪神電車により、1907(M40)年に<香櫨園浜海水浴場>として開発され、戦前・戦後を通じて大いににぎわっていたそうです。美しい白砂清松の海岸として有名でした。今は遠い高度経済成長期の海水汚染によって、1965(S40)年海水浴場は58年の歴史に幕を閉じたとあります。

 今の香櫨園浜にも往年の名残りの松の群落がありますが、目立っているのは河口の西側海岸線に立ち並ぶ大きな棕櫚(シュロ)の木です。椰子でもフェニックスでもありません。最近植えたばかりの棕櫚の木もあって、棕櫚を核とする海岸線の復活を期しているようです。斬新なデザインの高層集合住宅とともにヨットハーバーもある対岸の芦屋浜は、今やヨット、カヌーなどマリンスポーツのメッカとなっています。この日曜日にもレースがあって若い歓声が海岸を歩く私たちにも聞こえてきました。ハワイみたいというのは、こんな香櫨園浜一帯の開放的な雰囲気のことをさして呼ばれているのでしょうか。

 

 百年以上の歴史のある病院(村上春樹の『ノルウェイの森』に登場する病院のモデルとなったといわれています)の名を引き継いだ新しい病院は昨年オープンしたばかりです。小児科もありますが、リハビリが中核のようで若いPTやOTたちが引っ張っています。リハビリといっても家人のような整形外科系は少なく、脳血管系疾患による機能障害をもつ高齢者への対応が多いようです。

 明るい病院施設と職員たち、そして食堂でいっしょに食事していた皆さんによって、家人は気分の重くなりがちな病院暮らしを新たな日常としておくることができたみたいです。

  夙川河口付近で遊ぶ子どもたち(対岸は西宮浜の埋立地) [2017(H29).4.23撮影、以下同じ]

  香櫨園浜で遊ぶ子どもたち

 

  対岸の芦屋浜で行われていたヨットレース(手前は香櫨園浜の棕櫚)

 

 今回の香櫨園浜通いでカメラを携帯していた日は、主に夙川の川沿いの桜にむけてシャッターを押していました。いつもの通りあまり意思もなく偶然に撮ったもののなかで、心に残った2枚だけアップさせてもらいます。

 一枚は、今回の写真と同じ日に夙川の右岸を南下していて撮影したものです。新緑の下で読書する女性です。近くにチューハイを飲みながら読書する男性もいて二人を同時に撮れたらと思ったのですが、やはり女性の方にしました。こんないい時間の流れる環境で暮らせるとは羨ましいことです。

 私にとって「ON READING」の情景はアンドレ・ケルテスと甲斐扶佐義の写真集を思い浮かばせることになります。なぜか甲斐の方(甲斐扶佐義『ON READING』1997年7月刊/光村推古書院)が手元に見つかりませんので、ケルテスの方(アンドレ・ケルテス『ON READING  読む時間』2013年11月刊/創元社)だけ表紙の写真をアップしています。

 この写真集の巻頭に谷川俊太郎さんの「読むこと」と題した詩が掲載されていて、ちょっとぴったりだと思いましたので、当ブログでの引用回数が最多であろう谷川さんの詩を一部抜粋することにします。

    読むこと

 

 黒い文字たちが白い紙の上に整列しています

 静かです

 音はしません

 あなたの目は文字に沿って動いていきます

 あなたの指が紙をめくります

 そよ風があなたの頬を撫でています

 でもあなたはそれに気づきません

 あなたは本を読んでいます

 椅子の上のあなたのお尻がかすかに汗ばんでいます

 

   【中略】

 

 しばらく目を木々の緑に遊ばせて

 あなたはふたたび次のページへと旅立ちます

  夙川沿いのベンチで読書する女性(阪神香櫨園駅南の夙川右岸) [2017.4.23撮影]

  アンドレ・ケルテス写真集の表紙

  上記の写真集の中の一枚 「京都、日本、1968年」とあります

 

 もう一枚は、桜の散り始めていた4月14日の正午すぎ、夙川沿いを通りすがりに撮影したものです。

 歩きながらシャッターを押したのですが、こんな写真となっていました。私には老夫婦の夫の姿勢が笠智衆さんのように思えたものですから、失礼をかえりみずシャッターを押し、ちょっと躊躇しましたがこうしてまたアップさせていただくことにしました。

 軽く前傾しつつ直立している姿にお二人の歩みを感じたのかもしれません。

 記念撮影する二人(阪神香櫨園駅南の夙川左岸)  [2017.4.14撮影]  

 

 50日はそれなりの期間であったのか、家人は積もったほこりや汚れを掃除しています。そんなにきれい好きだったのかなあといぶかしく感じながら、こうしてブログを書いています。

 私にはやはり非日常だったのかもと思いつつ、こうして戻ってきた日常に感謝するほかないようです。

 

 

 

 

2017.04.18 Tuesday

『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(2)ー

◈上海で迎えた敗戦(その2)

 堀田善衞は8月11日に日本の敗戦の報を聞き、「まず何をなそうとしたのでしょうか」から再開することにします(「『上海日記』から『上海にて』ー「堀田善衞の上海」ノート(1)ー」)

 上海で敗戦を迎え、街頭の人、路上の人になるとともに、まず「中国文化人二告グルノ書」というパンフレットをつくる計画を立てたのです。『上海日記』の<8月13日>分には「事務所に帰って、「告中国文化人書」を計画する」とあり、執筆予定者として武田泰淳や内山完造など10名以上の名前が列記されています。

 『めぐりあいし人びと』には8月11日の朝にノート(1)にも掲載したような多くのビラが貼りだされていたとあり、それに続けて堀田さんは「私は、中国の人たちに対して詫びるとともに、どうしてかかる事態と相なったかを説明しなければならないと、「告中国文化人書」、つまり、「中国文化人に告げる書」というパンフレットをつくろうと思い立ち、早速その日から動き始めました」とあります。

 「その日」とは8月11日のことになりますが、『上海にて』では「8月12日に、私は一つの計画をたて」とあります。ともかく、敗戦を知ってすぐに計画の実行に取りかかったと推測できます。このパンフレットを「百万部くらいも刷って」、軍の飛行機が自由に動かせる間に「出来れば全中国に散布したいと思っていた」とのちに書いています(「個人的な記憶二つ」1954年4月『現代中国文学全集』第五巻・月報)。

 

 まずこの計画を実行に移すための活動なり交渉のことです。

 活動・交渉の内容と相手方とは、資金(軍と日本の銀行)、紙(軍)、執筆者と執筆と翻訳(中国語への翻訳は上海在住の日本人である室伏クララ(室伏高信の娘))、印刷(元アメリカ系の印刷所)、配布(軍航空隊の飛行機の使用)であり、わりとスムーズにほぼ実行できる状態にまで進捗していたようです。「日頃はすべてにおいてのろくさいくせに、敏速果敢に交渉を開始」し、「不穏の気の充満しはじめた上海の町の端から端をボロ自転車」でかけまわり、それらの交渉はすべてうまく行った」と『上海にて』にはあります。

 だがしかしなのですが、その前に動機のことにふれておきましょう。 

 

 このパンフレットを計画した動機というか真意は、繰り返しの部分がありますが、どのようなものであったのでしょうか。

 敗戦の翌年1946年6月に上海で創刊された『改造評論』へ堀田さんは「反省と希望」という文章を寄せています。その最後に「どうしても云いたいことが一つある」とし、「それは漢奸、殊に文化漢奸と呼ばれている人々に対して、肺腑より済まなかったと詫びを申し上げたいということである」と書いています。こうした「侵略者たる日本側に協力した文学者たちの運命に思い」をはせたことが直接の引き金となって、「広く中国の文化人(この言葉は、日本に於けるそれよりも、もっと広い、漠然とした意味を中国ではもっていた)に対して、一言、云いたかった」ために「告中国文化人書」の作成という行動に出たのです。

 続けて次のように書いています。

 「 何もあの戦争を正当化しようというのでもない。日本がかかる運命に

  陥ったことについて、正確なことを何か一言、あの瞬間に於て云いた

  かったのだ。」

   (「個人的な記憶二つ」1954年4月『現代中国文学全集』第五巻・月報)。

 

 また堀田さんは『上海にて』において、ほぼ同じ文言も使い動機を説明するとともに、「限りなく愛国心にかられて」動いたのだと、次のように記しています。

 「 私は、それをなんのてらいもなしに言い得るのだが、(そしてそれはおそ

  らく一生にいっぺんというものかもしれぬ)限りなく愛国心にかられて動い

  た。私は「中国人二告グルノ書」というパンフレットをつくるつもりで

  あった。当時上海にいた[執筆依頼者の氏名列記・略]などの人々に、これ

  を最後に、あるいはこれを最初に、という気持ちのところ、また日本がか

  くの如き運命に陥ったということについての、弁解とか、戦争の正当化と

  か、通り一遍の詫び言などというのではなくて、正確な一言、を書いてほ

  しいと依頼し[以下略]」

  

 こうして「交渉はすべてうまく行った」と、順調に運んでいたと思われた計画は、最後の最後で頓挫することになります。

 あとでもう一度登場しますが、8月16日に印刷工組合の中に<抗日派と親日派の争い>が激化した印刷所(ミリントン(レミントン))で印刷を拒否され、他の印刷所にもあたってみましたが、印刷工組合から通報されており「事情」は同じでした。

 ミリントンの印刷工の親玉、といっても32、33歳の青年です。その拒否の理由を自分は親日派ではないがこの印刷をすることによって親日派が困ると思う、「先生の話はわかるが、戦後になってからも日本人と仕事をしたとあっては、後方からかえって来る主人(国民党のことか)によくは思われないだろうから」となかば懇願され、事情のわかる「私が、なるほど、と納得」したとあります。

 そして、「僕はあきらめた……」のであり、計画は実現できずに終わったのです。

 

 この「僕はあきらめた」に続いて、「少しも後悔していない」と、堀田さんは1954年の「個人的な記憶二つ」で書いています。

 「 原稿を書いてくれた人たちには、あやまった。しかし、僕は僕の情熱に

  かられた行為を少しも後悔などしなかった。あんなにも、全身でもって日

  本という、自分もその一として含む存在を愛した経験は、それ以前にも、

  以後今日にいたるまで、僕には、ない。」

 中国語の翻訳を担当してくれた室伏クララから「あなたが御自身に絶望なさることはないでしょう」と、次のように「深い認識」のある言葉をかけられたと、堀田さんは書いています。

 「 おしまいに「あなたの尊敬しておいでの魯迅先生は『野草』に、『絶望

  の虚妄なるは希望のそれにひとし』といっているじゃありませんか」

  と。」

 

 かくして「告中国文化人書」は実現できずに幻に終わったのですが、「一生にいっぺん」と書くぐらいの堀田さんとしては忘れることのない記憶となったのは想像に難くありません。それも青春の記憶と書くと軽く聞こえてしまいそうですが、作家堀田善衞の原点でありかつ出発点として理解すべきものです。

 すでに集まり中国語に翻訳して逐次印刷所に回していた数々の原稿はどのような内容だったのか、今は知るすべがないようです。堀田さんの原稿はミリントン印刷所のごみ箱に捨てたと記しています。前記の1946年6月『改造評論』創刊号に掲載の「反省と希望」が内容的には堀田さんの元原稿に近いところがありそうですが、これはまた後でふれることにします。

 

 堀田さんが「告中国文化人書」の作成をミリントン(中央)印刷所であきらめたのが8月16日ですが、その前日である8月15日には同じ印刷所で「玉音放送」を聞いています。

 『上海日記』には8月13日から10月13日まで記述がありません。2ヵ月ぶりに再開した10月13日分の冒頭に「何か書く気にならなかった。結局事が多過ぎ、また面倒くさかったのだ」と堀田さんは記しています。そして10月28日付で8月13日夕方以降のことが記憶をたどりながら書かれており、「終戦勅語」のことはミリントン(中央)印刷所で工場長との打合せの最中に「君が代」がなり出したのだと次のように書き残しています。

 「 事務所のラジオのある部屋(宿直室)へゆくと、姿勢を正して坐っている

  人、頭をたれて腰かけてゐる人など三四人の人がゐて、ラジオは荘重に

  語を告げてゐた。これが陛下御自らの御放送であるとはその時私は知らな

  かった。雑音が多くてよく分からない。ただ一句「臣子衷情朕コレヲ知

  ル」と仰せられたのだけはよくわかった。涙が出た。

   紙の打合せをすまし、外へ出ると、八月の上海の陽は強烈にギラギラ光

  り、ゆきかふ中国人の顔をどういふ工合に見てよいものか分からない気持

  ちに悩んだ。」

 

 『上海日記』の記述はこれだけですが、一方の『上海にて』では堀田さんはちょうど目の前にあった「告中国文化人書」と関連づけるように聞いていたと書いています。

 つまり「日本側に協力してくれた中国人諸氏の運命を胸に痛いものが刺さり込んできた」気持ちで気づかっていた堀田さんは「私などが気にしてどうなるものではない」とわかっていても、そんな問題意識をもって聞いていたのだというのです。つまり「私は、天皇が、いったいアジアの全領域における日本への協力者の運命についてなにを言うか、なんと挨拶をするか」と、「私はひたすらそればかりを注意して聞いていた」とあります。

 その結果について、次のように記しています。

 「 しかし、あのとき天皇はなんと挨拶をしたか。負けたとも降伏したとも

  言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺

  憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌味な二重否定、それっきりで

  あった。

   その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛いい、

  というだけのことである。その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の

  軀にこたえた。

   放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前

  の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、

  怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。」

 堀田さんは日本人の代表である天皇の挨拶がこれでは「協力してくれた中国人その他の諸国の人々に対して」「相対することさえ出来やしないではないか」と思ったのだというのです。

 『上海日記』の「涙が出た」に対し、それから10年以上を経た『上海にて』では「怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた」と表現されています。この違いをどう理解すればよいのかという問題はありますが、この間に放送では「雑音が多くてよく分からな」かった玉音放送の内容を、堀田さんが後で確認したという行為があったにちがいありません。

 敗戦直後の上海において「告中国文化人書」の作成に「たいへんな情熱に身をやい」て奔走していた堀田さんの記憶はそうであったというしかないのでしょう。

 

 『上海日記』の10月28日付で書かれた8月15日の記述の最後に次のような状況を記しています。

 「 八月十六日以後の日本人の活動は物凄かった。軍のトラックは何千台

  あったものか知らぬがそれで以て什器、弾薬、食料、被服などを運びに運

  んだのだ。民間の物資は、軍のものにまじって一度に吐き出され、物価は

  一時グッと下がってしまった。」

 そして、最後の一行で「告中国文化人書」について次のように簡単にふれています。

 「 「告中国文化人書」は太平及びミリントンの操業中止でやめねばならな

  くなった。」

 なお、『上海日記』の解題で紅野謙介さんは「いつ誰に踏み込まれて押収されるか分からない状況下で日記に事実をそのまま書くかどうか」とも注意喚起しています。 

  

 繰り返しになりますが、日本の敗戦によって上海が騒擾状態に入ったとき、堀田善衞は何よりも雑踏の人、路上の人でした。

 「 私は殺されてもよいつもりで各所のデモンストレーションを見にゆき、

  群衆の中に自ら好んでまきこまれた。中国人諸氏の怒りと歓喜とを自らの

  身体を以て経験したいと思ったのである。何百何千の書物を読むよりもた

  しかな中国を知る機会がついに訪れたことを其時私は感得した。」

 この敗戦のあと、翌年1946(S21)年末に帰国するまでの1年4月余を上海にとどまった堀田さんは混乱する大都市にあっていかに身を処したのでしょうか。

 

◈敗戦後の上海ー帰国までー

 敗戦後、上海は日本人の巨大な捕虜収容所になりました。国民党軍によって上海の虹口地区(下の地図では右上のところ)に「上海在住者だけでなく、南京、また華南の各地にいた日本人が多く」強制的に集められたのです。

 

 このことと関連して、堀田さんは再開した10月13日付の日記に「終戦大詔→中山氏帰滬→愚園路から新上海→新上海→祥徳路」とあって、上海市内を移動した(させられた)こととあわせて、少々心の破たんというべきデスペレートでニヒルな心境というか、やけっぱちな心情というべきものを、次のように生々しい言葉で綴っています。

 「 もう少々僕は、すべてがいやになるという例の精神気候が来てゐるの

  で、大して何をする気にもならない。下らないことしかしたくない。何か

  よいことをするつもりはなくなってゐる。何かもっとも下劣なことがした

  いやふに思ふ。」

 「 現在僕が、生きるためにねがふことは、自分の殻を破ることだ。自分を

  破りたい。無方針、でたらめ、むちゃくちゃをやりたい。そのほかには大

  して僕の心をおどらせるものがない。」

 そして、「ぼくが漠然と上海に残留したいと思ふのは、そのせゐだ」と、すぐの引き揚げでなく、上海に残りたいという意思があったようです。27歳の青年と考えればよく分かるともいえますが。

 

 どうして堀田善衞は敗戦後引き揚げ船に乗らずに、上海に残留しようとしたのでしょうか。あるいはどのような経緯があって敗戦後の1年4月余を上海でおくることになったのでしょうか。

 もともとヨーロッパを行きたいとの思いもあったことなどいろんな要素があるものと考えられますが、この日記を読む限り、日本に残してきた妻と子どものいた堀田さんは上海で前段の「中山氏帰滬」の中山氏夫人Nと恋愛関係になっていたことも大きかったのではないかと想像します。先ほどの「残留したい」という文に続いて、引き揚げ後の自分の姿について次のように見通しています。

 「 内地へ帰ってやることは、まあ分からぬ乍らも大体見通しはつくのであ

  る。そして一旦破れかかった自分を弥縫し、何とか取りつくろってゆくこ

  とはいやなのだ。それに、自分には早くも家庭と呼ばれるやうなものがあ

  る。父母を思へば肉親の情に堪へぬものがあるが、自分を破りたい気持ち

  はそれと同じくらゐに強いのだ。」 

 この10月段階においては、翌月には徴用に自ら応ずることとなる「中国側の機関」へ入って働いてみようかということについても、「思へば民主主義の宣伝屋などにはどうしてもなれないのである」と、まだ書いていました。

 

 上海残留について、70歳を超えた自伝的回想録である『めぐりあいし人びと』では、N夫人との恋愛問題(52年1月に前夫人との離婚届けを提出し、同年6月にNと結婚)にはふれないで、次のようにさらっと回想しています。

 「 まわりでは日本への引き揚げが始まっていたが、私自身はヨーロッパへ

  渡るつもりで上海に来たのですから、そのまま日本に帰るつもりはな

  かった。ただ、そのころにはヨーロッパへ行きたいという気持ちよりも、

  この中国という国の歴史と行く末に興味を抱き始めていたわけです。」

  【再掲】『上海日記』所収の「一九四五年頃の上海地図」

 

 この1945年8月の敗戦以降の混乱と騒擾状態にある国際都市上海において、支配者から被支配者へと転換した在留日本人(「数万人」と記載されています)の立場は全体としても個々人としても複雑な葛藤を抱えていたにちがいありません。青年堀田善衞もその一人として、大きな感情の振幅を経験しながらも自らの進むべき道を模索していたのでしょう。

 1945年11月になると、『上海日記』にはいささか消極的な姿勢ではありますが、次の一歩を決心する内容が書かれることになります。

 そのころ中国国民党政府は在留日本人のなかから人材を徴用して対日文化工作を展開しようとしていましたが、11月12日の日記には「上海日僑管理処」の「文化事業関係者座談会」に出席したことが記され、その翌々日14日には次のことが書かれています。

 「 だんだんいろんな人が帰るのであろうが、ぼくはあまり帰りたくない。

  出来うれば、若し中国文化服務社なるものが相当有力確実なものとすれ

  ば、その中の日本連絡員くらゐにはなってよいとさえ考え、希望を出し

  た。」

 12月13日には「「中央宣伝部対日文化工作委員会」で出す日文雑誌「新生」に原稿を書き、ついでに編輯を手伝ふことになった」と記されています。『めぐりあいし人びと』には「そうこうしているうちに、国民党が上海に対日宣伝部の事務所を開いたということを聞いて、私は自ら進んで徴用に応じ、中国国民党中央宣伝部対日委員会というところに入りました」とあります。

 事務所は「巨大な捕虜収所であった虹口(ホンキュウ)」の旧日本人街の真ん中にありました。堀田さんは、国際文化振興会という「日本の(対中国)宣撫工作から一転して、中国国民政府の中央宣伝部の対日工作委員会の徴用」を受けることになったわけです。その委員会で堀田さんは数万人の在留日本人を相手に次のことに従事したと、紅野謙介さんの解題はまとめています。

 「 雑誌の編集のほか、国民党機関紙「中央日報」の論説や英字紙の記事を

  日本語に翻訳したり、引揚船に関する情報を伝えたり、上海中央広播電台

  (ラジオ局)で日本人向け放送のアナウンサー代理までつとめるにい

  たった。」

 

 このようなことに堀田さんは従事しつつ、「中国国内はすでに内戦の様相を呈しており、国民党の人たちも前途危ういということがわかっていて、日本の財産の接収に奔走していましたからね。これでは政治も何もあったものじゃないと思いました」というただ中に在ったのです。国民党に雇用された「日僑」とはいえ、監視の対象でした。戦時中と同じような地下工作が続けられていたのであり、「上海には警察機関が五つぐらいあった」と堀田さんが語る危険な状況でした。『めぐりあいし人びと』では次のように回想されています。

  当時の上海には、警察機関として、普通の警察、それから憲兵、憲兵と

  は別に軍の特務機関、そして載笠(タイリュウ)という蒋介石の腹心が率い

  ていた特務機関などがありましたが、なかでも、この戴笠の特務機関は

  もっとも恐るべき存在でした。正式には調査統計局というんですが、調査

  統計とは名ばかりで、実際には秘密警察で、暗殺、テロをこととして

  いた。接収財産のトラブルなどで、この特務機関に秘密裡に処刑された日

  本の実業家は、十人は下らなったのではないでしょうか。」

 

 このように堀田さんは上海にとどまり身を処していましたが、Nとの恋愛問題だけでなく、精神の振幅の大きい日々をおくっています。それは紅野さんが解題に「国民政府の日本人からの略奪と横流し。疑心暗鬼と相互不信のなかで、堀田は中国への関心と嫌悪のアンビヴァレントな感情に揺れ動いている」と書くとおりであろうと思います。

 続けて紅野さんは「その振幅のなかで堀田の中国への認識、国家や政治についての省察はより深められていったと言えるだろう」と記しています。

 

 10年以上を経て上海を再訪して書いた『上海にて』から、堀田さんがこの時期に体験し特記しておきたいと考えたであろうことを少しノートしておくことにします。

 街頭の人、路上の人である堀田さんはどのようなことに出会ったのでしょうか。

 当時しばしば公開で行われることがあった漢奸の死刑執行を見ることになったのです。偶然にその場に居合わせたこともあったようですが、幻の「告中国文化人書」に奔走した強い思いもあってその場から動かなかったと、次のとおり書いています。

 「 また私には、日本の政治、戦争に協力した中国人の死を、日本人のう

  ち、誰かひとりでも見てこれを、(中略)とにかくそれを見た人がひとり

  でもいた方がいいだろう、と思い、嘔きたくなるのを我慢し大量の汗を

  流して、群衆のたちこめる濛々たる埃のなかに立っていたので

  あった。」

 あっけなく銃殺され、「棺に収容され、トラックはそれを積み去った」のですが、堀田さんはその場を一歩離れるとおそってきた想念について書き残しています。

 「 私には到底担い切れないほどの重い、しかも無数の想念が襲いかかって

  来、その想念の数々のもう一つ奥に、死者と同じほど冷く暗い、不動な、

  深淵と言いたくなるような場所があることにも気付かされた。漢奸の名に

  おいて、中国では、戦中戦後、恐らく千を越える人が処刑された。」

 

 『上海にて』と『めぐりあいし人びと』には、対日工作委員会として関わった二つの体験を印象的に取り上げています。ひとつは上海の各大学を巡回して、日本の憲法草案について講演させられたことです。もうひとつは重慶にいた日本人捕虜を引き受け、日本に戻す手伝いをしたことです。

 1946年の晩夏から秋にかけて、堀田さんはときどき大学生の集まりに引き出されました。戦争によって奥地へ移り、やっと奥地から上海に戻ってきたり、あるいは軍隊から逃亡して来た「中国のことばでいえば、乞食同然な風態と化した「流亡学生」や「流亡教授」たち」が雑然と集合した場が大学でした。

 その底深い凄味のある学生らの前に引き出された当時28歳の堀田さんはいっぺんに怖気づいてしまったと、次のように書いています。

 「 会場である教室には、反対飢餓、反対内戦、反対迫害、反屠殺、要活

  命、要生存、要読書、為死者報仇、為生者謀活命、争取最基本的読者権和

  生存権、などという、当方の顔色もなくなるような、いっぺんに寒くなる

  ようなポスターが横ざまにべたべたとはってあった。そういうなかで壇に

  立ち、ぎょろりとした百ほどの眼で見詰められたとき、私はほんとうにど

  うしようかと思った。」

 警察による弾圧のおそれもある緊張状態のなかで、堀田さんは憲法草案だけでなく、ポッダム宣言、民主化などのことを、送られてくる日本の新聞などからの材料として話したとのことです。

 「 はなしがおわると、一人の学生が、まったく私に噛みつくような工合に

  質問した。「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしよう

  と思っているのか?」(中略)黄色い歯をむき出して、ほんとうに噛みつき

  切りつけんばかりの憎悪があらわれていた。(中略)たとえ噛みつくようで

  あっても、そういう無理難題を出して私を苛めてやろうという下心は、

  まったくないということを、私はわからされていた。質問自体、天皇制を

  どう思うか、などということではなくて、より積極的に「どうしようと

  思っているか」というのである。」

 堀田さんはほとほと困ったとし、『めぐりあいし人びと』では次のように回想しています。

 「 あのときの教授にしても学生にしても、全土を歩いて、中国という国の

  全体を認識することができたのは、大きな経験になったことでしょう。そ

  の流浪教授、流浪学生たちが、その後の中国再建の中核になったと思いま

  す。」

 

 もう一方の日本人捕虜のことです。国民党政府により重慶で捕虜になっていた人たちで80人ぐらいいたとのことですが、堀田さんは「その捕虜の人たちを日本へ帰すのには、ずいぶんと苦労をしました」と回想しています。

 夜中に「軍法会議だ」と叫び出す人もいたり、心の平衡を失った人もいるような大変な集団であったとのことです。それはもとより「「生きて虜囚の辱めを受けず」という、戦陣訓を徹底的に叩き込まれた日本の軍人にとって、捕虜であるということはたいへんな恥」だということのようです。堀田さんは、まだ敗戦業務をやっていた日本の軍司令部と交渉して、新しい身分を保証することに成功するのです。

 「 あらたに軍籍をつくってくれと頼んだんです。そこでできたのが、慶部

  隊という仮の部隊名で、彼らはその部隊員としての身分で、捕虜としてで

  はなく、普通の軍人として日本に戻ったわけです。」

 堀田さんは、やくざもいるような人たちの関係の中で学び、たくましさが身についていったように想像します。 

 

 さて、上海での1年9月に及ぶ滞在をへて、ようやく堀田善衞は1946年12月28日に引揚船に乗船します。佐世保港に入港し、検疫を終えて日本に上陸したのは翌1947年1月4日のことでした。

 この帰国は、内戦状態が深まるなかで国民党の中央宣伝部は「部内の利権争いが激化し、部内全員がピストルを所持するというきわめて危険な状態になって」おり、「危険だから明日すぐ帰れ」と言われて急遽手続きをしたものだと、堀田さんは述懐しています。

 

 『上海日記』において、堀田さんはさまざまなことに葛藤し、懊悩していますが、何よりNとの関係が中核をなしていることも書き添えておく必要があろうと思います。互いに既婚者であるという事情も加わっていることでしょう。

 4月17日付の日記には、Tは三月十七日に、Iは三月三十一日に、Nは四月十六日に、夫々皆帰ってしまった」と書いています。NはNであり、Tは武田泰淳のことです。4月30日付の日記で次のように書いています。

 「 昨夜、Tへの手紙の中で、Nのことについて簡単に、これで終焉した、少

  なくとも僕は終焉の決心でゐる、と書いた。」

 でもというべきか、それからもNと出会いやその後のことについて、綿々と綴られています。8月26日分には、次の文章があります。

 「 恐らく僕は子供と妻とのことをしきりに思ひつつ、君のことを切なく

  思ってゐるといふのが正直なところだ。かう正直に云っても君はべつに顔

  をしかめたりはしないだろう。

   Nよ、Nよ、せめてぼくが生きて帰るまででも平和に暮らしてゐてくれ

  よ。ぼくは心配でならない。」

 「 ぼくのねがひ、不可能なねがひ、

  「Nよ、ぼくら一生互いに思ひ合はう、そして一生、ときどき接吻し合は

  う。それから死なないようにしよう。REIKOよ、REIKOよ」」

 『上海日記』を読んでしまった今となっては、堀田さんの上海在留を、Nとの恋愛を抜きに語ることは、私には難しいように思ってゐます。まさに中国のことが一生の課題となったように、もう一つの一生がここにあったということになります。

 

 ノート(2)を閉じるにあたって、街頭の人、路上の人であった堀田さんが強調していることを一点だけ付け加えておきます。

 危険に満ちた敗戦後の上海において、日本人が中国人から直接の報復的な暴力を受けたことは知る限りでなかったということです。『めぐりあいし人びと』では次のように回想されています。

 「 上海にいた日本人ー日僑と呼ばれていましたが、その日僑で掻っ払いや

  泥棒にやられた人はいましたけれども、報復的な乱暴をされた人は私の知

  る限りでは、いませんでした。それで私は武田君に、゛どうしてこうわれ

  われは居心地がいいのだろう゛といいましたら、武田君は゛(日本人は)ど

  うせまた来るだろうから゛と中国の人びとは思ってゐるんだよ、と答えま

  した。そこでも私は中国の歴史の深さとその歴史からくる見通しにおどろ

  きました。」

                             【続く】

 

[追記]

 今回のノート(2)では、敗戦から帰国までの堀田善衞の1年4月余からトピックをまとめました。

 次回は、最終回として、1957年に上海を再訪した堀田善衞が何を感じ何を思い何を考えたのかについて書くことにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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