2018.06.19 Tuesday

カエルのうたがひびきー前稿『万引き家族』に補足してー

 真夜中、田植えの終わった水田から、カエルのうたがひびいてきます。この地域でもずいぶんと水田が減ってしまい、田植えは季節の大行事といえなくなりました。「ケケケケ」「ゲゲゲゲ」「ケロケロ」「ゲロゲロ」、昔の人はよく耳をすませていたのですね。いずれにも聞こえます。

 直近の当ブログ(「ひんやりとした一日ー『万引き家族』のことー」)を書いている途中で、理由がわからないまま、入力が不能になってしまい、尻切れで終わらせることになりました。今回も同じ現象が起きてしまうかもしれませんが、書き残したと思っていることを、補足的にメモさせていただくことにします。

 

【[補]朝鮮戦争から米朝首脳会談まで】

 前稿で保坂正康さんのコラムを紹介しました。1953年に休戦したままの朝鮮戦争が、それから65年目の今次の米朝首脳会談によって、終戦という段階を迎えたといえるのではないかという内容でした。

 この朝鮮戦争が東西冷戦の代理戦争であったという説明に改めて出会うと、「東西冷戦」というキーワードが、第二次世界大戦後の世界を強く規定してきたことを感じずにはおれませんね。その後のソ連の解体などによって世界が融和と平和に向かうのではないかという希望はすぐに打ち砕かれ、今や新たな分断と対立の時代にあるといわざるをえない状況に、私たちは深い失望とともに直面しています。こうした戦後世界にあって、日米関係、「対米従属」の持続的状況は、東西冷戦の一方の旗頭であり、その後も続くアメリカの世界戦略抜きで理解することなどできませんが、このことはまた別稿で取りあげてみたいと思っています。

 それにしても、戦後すぐに生まれたいわゆる団塊の世代が今や70歳前後の年齢に達しており、既に「人生の短さ」を思い知ったという地点にいるわけです。と書きつつ、当事者の一人である私は、ほぼ人生とオーバーラップする戦後70年余が「遠い過去」のように思えたりするのですから、多くの若い人びとにとっては「いつの話のことか」ということになってしまいます。「維新150年」の折り返し地点に第二次世界大戦中の時期が位置するといわれても、私の時間軸にはうまく定位することができません。

 いずれにしても、「歴史」と向き合うことは難しいことです。さすがに年を重ねたせいか、今を生きるとき、はなから歴史を無視することなどできないことはよくわかってきました。ボタンをプチッと押してリセットしてしまうわけにはいきません。もとより自分の都合だけで「歴史」をつくってしまう怖さを自覚しつつ、少なくとも「歴史」の前では謙虚でなくてはならないと意識していたいものです。

 

【[補]『万引き家族』-見えないものの可視化】

 前稿で、是枝監督が制作の意図について「社会からこぼれ落ちた『見えない人たち』をきちんとした可視化しようとした」と語っているインタビューを引用しました。同監督の作品はドキュメンタリー映画みたいだ(もともとテレビでドキュメンタリーの制作者でした)とよく評されますが、フィクションにする理由を、当たり前のことでしょうが、次のとおり説明しています。

 「 ドキュメンタリーだと家の中にカメラを入れられないからです。『誰も

  知らない』を撮った時にも思いましたが、ドキュメンタリーは倫理観から

  いって、子どもたちの生活を事後に外から撮るしかないじゃないですか。

  あのアパートの子どもの暮らしにカメラを入れるのはフィクションでしか

  できないから、そういう寄り添い方をしてみたいと思って作りました。今

  回もそういうことです。」

 前記の「見えないものを可視化する」というのは、カンヌの授賞式で審査委員長のケイト・ブランシェットから、今回の出品作には「¨Invisible People(インビジブル・ピープル=見えない人々)¨に光をあてる作品が多かった、映画の役割とはそういうものではないか」というニュアンスの発言があって、これに共感した是枝監督が使った言葉なのだそうです。

 この映画の音楽を担当した細野晴臣との対談においても、映画だけでなく写真にも同じ役割があるとしつつ、次のように語っています。

 「 今回の『万引き家族』もそうだけれど、ただの犯罪者としてニュース

  だったらすぐに忘れ去られしまう人たちの存在をちょっとだけ立ち上げて

  可視化するという……それがきっと映画を作るってことなんだろうなって

  思ったんですよね。[中略]

   そこに見えないものを見ていく。あるいは見た気になっている人に、実

  は何も見ていなかったっていうことを気づかせる。自分自身もケイト・ブ

  ランシェットの言葉を聞いて、映画を作るっていうことはそういうことな

  んだなっていうことを再認識しました。」

 この是枝監督の発言に対し、細野晴臣は「見えないものを見せてくれる」というのは映像や写真の一番いいところだと同意しつつ、音楽にも話を広げています。

 「 音楽っていうのは、もともとそういう見えないようなものの一つなんで

  すよ。僕にとってはね。記憶の中に眠っている何かを引っ張り出していく

  ような作業なんですよ。」

 なんだかよくわかるような気にさせてくれる言葉ではありませんか。 

 

【[補]『万引き家族』-ケイト・ブランシェットが語ったこと】

 是枝監督は、カンヌの授賞式後の公式ディナーの席で(㊟安藤サクラは既に帰国していて不在でした)、ケイト・ブランシェットは安藤サクラの<泣く>芝居を、「熱く熱く語っていました」と振り返っています。女優であるケイトだからこそ、という面もありそうですが、「彼女のお芝居、特に泣くシーンの芝居がとにかくすごくて、もし今回の審査員の私たちがこれから撮る映画の中で、あの泣き方をしたら、安藤サクラの真似をしたと思ってください」と語ったのだそうです。

 この場面だけでなく、前稿では書けなかったのですが、下の写真のシーン、幼い凜を抱きしめるときも同じように<泣く>お芝居をしているのです。是枝監督が単純な聖母子像を撮ろうとしているのではないことはいうまでもないのですが、このシーンの安藤サクラの信代は「なんだろうね」とは言わないまま、抱きしめた両手から愛情がほとばしることをコントロールできなくなって、涙が出てきて何度も手のひらでぬぐうのです。

 この前段があって、最後のシーン、つまり凜たちと引き裂かれて警察の取り調べる受ける場面の涙と、しぼりだすようにつぶやく「なんだろうね」は活きてくる、さらに心を動かすものになったのだと、今書きながら、私はとても納得できたような気持ちになりました。

 

【[補]「共同体」としての映画祭】

 是枝監督は、連載中の「空の虫かご◆(『考える人』2016年冬号 ㊟『海街ダイアリー』を撮影した直後)に、「旅と祭りとタキシード」と題する一文を寄せています。祭りという共同体の象徴と、映画を祀るお祭りともいえる映画祭(特にカンヌ映画祭)をだぶらせつつ、映画祭で何回も参加して次第に気づいてきたことを素直な言葉にしています。

 もともと共同体意識など必要ないと思って生きてきた是枝監督ですが、最近少し考えが変わったというのです。歳をとって保守的になったということかもしれないがと断りつつ、「例えば」と次の文章をおいています。

 「 地域共同体も企業共同体も崩壊し、家族の共同体も核化が進んで、人々

  がこの社会に個としてバラバラに散らばった時に、その不安に耐えられず

  に一番わかりやすい共同体である国家に=ナショナリズムに回収されてし

  まっている状況というのが今の日本なのかなと気付いた時、それに抗うに

  は、人がいくつもの小さな共同体に所属していることが大切なのかも知れ

  ないと思うようになったのです。」

 このことを受けて、是枝監督は、自分にとって映画祭が「小さな共同体」の一つなんだというのです。

 「 自分も何かの一部である、それはもちろん同調圧力の強い、同質性を重

  んじる閉鎖的な集団ではなく、いつでも離脱可能な、多様性を重視した他

  者との出会いとしての共同体。それが僕にとっては映画祭であり、映画で

  した。」

 このようにいわば映画の国の住人として参加する映画祭、特にカンヌ映画祭に行くと演出が見事で、是枝監督は、「もしいるのだとすれば「映画の神様」に恥ずかしくないものを作らなければーーという畏怖の念に襲われる」とし、だから祭りの一部であることの恥ずかしさに多少耐えられるのだと記しています。  

 そして、映画祭という神聖な空間で次のことを自覚することができたと続けています。

 「 自分も映画という百年ちょっとの歴史を持つ共同体の一部であるという

  意識。大河の一滴であるという自覚は決して不快なものでも自己卑下でも

  なく、むしろ「解放」に近かったわけです。華やかな場所に自己アピール

  をしに行くわけでなく、むしろ、何かを怖れるためにその神聖な空間に身

  を置く、そんな場所と時間を持つと人は謙虚に、倫理的になるのだと気付

  きました。」

 このことは、これまでの是枝作品、とりわけ「社会からこぼれ落ちた『見えない人たち』をきちんと可視化する」という姿勢に反映されているというべきでしょう。

 

 この『万引き家族』を見る前に、竹中大工道具館にも立ち寄りました。2014年に新神戸駅近くに移転した同館は、濃い緑のなかに、地上1階地下2階の和で意匠された、「シンプルでミニマム」「環境と調和したつつましさ」という言葉を使いたくなるような姿で建っていました。

 ちょうど特集として、藤井厚二の木造モダニズム建築「聴竹居」に関する資料が展示されていて(7月16日(月・祝)まで)、京都府大山崎に現存する本物(「聴竹居」HP)を見たいと思わせてくれました。

 大工道具館そのものも見どころの多い建築ですが、ひとつだけ写真で紹介させてもらいます。地上と地下1階をつなぐ階段室で、吹き抜けを挟んで離れた場所からは梯子段が空中に架けられたようにも見え、のびやかな美を感じさせてくれました。

  竹中大工道具館 特集展示「聴竹居」のリーフレット(表) [2018.6.12撮影]

  吹き抜けの手前から階段室を撮影しました

  地下1階から階段を撮影しました

 

 異例なことになりましたが、一応、前稿の補足というか、注釈をすることができました。

 映画館の入場観客数は長く横ばいが続いています。余計なお世話ですが、ちょっと勿体ないような気がします。今回取りあげた『万引き家族』にかぎらず、映画の歩みは続いていきます。

 

2018.06.17 Sunday

ひんやりとした一日ー『万引き家族』のことー

 一昨日は(6月15日)、ひんやりとした一日でした。夕刻には、乾いて冷たい北からの風が強く吹きました。梅雨入り直前から半袖、半ズボンのウォーキング・スタイルにきり変わっていたのに、いささか不似合いな空気感でした。

 

 こうして何も考えないで歩いているうちに、「米朝首脳会談」なるものも終わっていました。この会談の評価は、トップ同士が直接対話したという事実を重いものとしつつも、今後の具体化に向けた課題の大きさとその困難さについて言及するものがほとんどであったと思います。

 昨朝の新聞でも(『毎日新聞』6月16日)、毎月連載中の「保坂正康の昭和史のかたち」が、[米朝首脳会談の核心]と題して取りあげていました。保坂さんは、朝鮮戦争になんらかの形でピリオドを打つかどうかが歴史的会談のゆえんではないかと注視してきたけれど、共同声明にはそれはなかったのであり、「惜しまれる」と書いています。すなわち一部で予想されていた「平和協定移行への署名」まで結果的に至らなかったにせよ、「平和協定は北朝鮮の非核化、米国による体制保証の前提でもあり、この方向が確認されたこと自体、朝鮮戦争は休戦段階から終戦の段階に入り、いわば両国間の戦争状態は終わったとの言い方もできるだろう」と、保坂さんはみているようです。そして、このコラムのタイトルを「朝鮮戦争、休戦から終戦の段階に」としており、これが保坂さんにとって[米朝首脳会談の核心]だというわけです。

 朝鮮戦争は、1950年6月から「東西冷戦の代理戦争の形で武力衝突」がはじまり、3年余も戦闘が続いて、53年7月に休戦協定が締結されたのです。それから65年をへて、初めて、今回の会談が行われたのですから、まさに「画期的」であったのだと、第二次大戦後の歴史に長くコミットしてきた保坂さんとしては感慨をもって受けとめたのでしょう。

 

 さて、米朝首脳会談が行われた日に(6月12日)、『万引き家族』(是枝裕和監督/2018年)という映画をみました。前週の土曜日から公開されたところで、平日にもかかわらず、満席状態でした。60代後半の私たち二人よりもっと年上の、それも女性客の姿が目立ちました。もちろんカンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞したという情報の洪水が、私も含め、この動員を招くことになったといえます。

 それはさておき、『万引き家族』はどうでしたか、と問われたなら、いかなる感想になるのでしょう。単純に答えにくいですね、この映画は単一の結論へと導くことを拒む映画であり、ストンと腑に落ちることはなく宙ぶらりんにされて、なんだかふむーーと複雑に絡んだ印象に戸惑うような気持ちになりました、それでもいい映画でしたよ、見ていただいて時間の損にはなりませんよ、まあこんな感想を書いておくことにします。

 おことわりしますが、この映画を否定的に見たというわけではありません。もとより見たいものを見たという感じではありませんが、見ておくべきものを見たという感覚なのでしょうか。血のつながらない5人に幼い女の子が6人目として加わった一つの屋根の下での生活を、そんな疑似家族というべき日常が親密な雰囲気を醸しだす前半から、後半はあるきっかけでそれが一気に壊れていく、崩れてゆく有様が描かれています。明と暗、善と悪、真と偽など、いわば価値軸の両極に揺さぶりをかけることによって、見る人の心を、宙ぶらりんの気分へと連れていくのです。

 

 補足的に二つのことをメモしておくことにします。

 一つは是枝監督へのインタビュー記事(『西日本新聞』2018年6月8日)からです。是枝監督は、これまで「社会に対するメッセージを伝えるために映画を撮ったことはない。どんなメッセージかは受け取る側が決めること」と何度も発言してきていますが、でも「思い」はあるはず、「今作も、一つの家族を通じて社会のひずみをあぶり出したのではないか」と、記者は質問したのだそうです。これに対する是枝監督の発言を引用します。

 「 家族を通して社会を見ようとした、ってのは違う。社会からこぼれ落ち

  た『見えない人たち』をきちんと可視化しようとした。」

 「 (前略)家族はこうあるべきとか、やっぱり母親がいいとか、いつの時代

  なんだと思うけど、そんな告発のために映画は作らない。(万引き家族は)

  確かにひどいやつらかもしれない。でもみんな今、その先を考えなくなっ

  てきている。僕がやるのは、あの家族をきちんと描くこと。じゃないと社

  会は見えてこないから。」

 このインタービューの最後に、記者の感想である「彼らは社会から断罪され、一家は散り散りになっていく。見る人の心が締め付けられる」という質問に対し、是枝監督は次のように語ったとあります。

 「 でもね、単純に共感できるようには作っていないつもりなんですよ。

  だって、彼らを引き裂いているのは私たち(社会)なんだもん。意地悪で

  しょ。へそ曲がりなんですよ、僕は。

 見る人それぞれではありますが、これが映画を見終わってどこか割り切れない気持ちというか、なんだか混乱させられた気持ちになる根っ子にあるものかもしれません。是枝監督が自覚的にそのように映画を作っているとすれば、社会の一員である観客として宙ぶらりんにされた感覚は当たり前で、そこに美談や悲劇に回収されない是枝映画の凄みがあるのだというべきでしょう。

 

 もう一つは、カンヌ映画祭で審査委員長をつとめたケイト・ブランシェットが、ラスト近くの警察での取り調べシーンで<泣く>安藤サクラの演技を絶賛していたと、是枝監督が報告していることです。

 演出方法ですが、取り調べシーンに限っては安藤や尋問する側の池脇千鶴へ事前に脚本を渡さず、問題のシーンは、尋問する側の池脇にはホワイトボードに書いた台詞を見せるが、尋問を受ける安藤には何も見せないという条件下で撮影したとのことです。

 ではどんなシーンかです。警察の取調室、池脇千鶴演ずる刑事が、対面する安藤サクラを取り調べています。安藤が子供を産めなかったことを「羨ましかった。産めなくて」などと意地悪な質問を浴びさせたあげく、それで血のつながらない2人の「子供たちになんて呼ばれていましたか」と、とどめをさすのです。疑似家族で母親の役割を担ってきた安藤は、絶句してしまい、ついに抑えていた涙がこぼれてきて、それを手のひらで何度もぬぐいつつ、「なんだろうね」少し間があって「なんだろうね」と声をしぼりだす、そんなシーンなのです。

 この映画を最初から見てきた者にとっては、安藤といっしょになって、家族とは、正義とは、この社会の現実とは、「なんだろうね」と言いたくなる強度が備わったシーンとして立っていました。

 この安藤の演技について、是枝監督は、別のインタビューで次のようなことを語ったとあります。

 「 普通、女優であれば、大粒の涙を見せようといったわかりやすいお芝居

  になるんですが、あんな泣き方をする女優を僕は初めて見ました。身も蓋

  もないよね(苦笑)。」

 「 あのシーンでの安藤さんがすごいのは、そこで¨安藤サクラ¨に戻るわけ

  ではなく、ちゃんと信代として座っていて、信代として泣いているところ

  です。決して素ではないことが見ていてわかり、僕は鳥肌が立ちました」

 ㊟すいません。尻切れですが、PCの不調なのか、これで終わります。

2018.06.09 Saturday

梅雨の晴れ間に

 梅雨入りしました。つかのまの晴れ間だった一昨日(6月7日)、友人と二人で、「再度山荘」という場所へランチに出かけました。標高470mという再度山ですが、山荘は市街地から山の方へ10数分くらい上っていったくらいのところに位置しています。住所表示は「中央区神戸港地方(じかた)」といい、再度川に沿ってなお民家が点在しており、それが稲荷茶屋で途切れて、さらにまだ少し上にあるのが「再度山荘」です。

 私たちは、諏訪山公園の西角を左折し、<大師道>と呼ばれる舗装道を、山手女子高校の脇を通り、道なりに上っていったのですが、元町駅から山荘まで40分くらいの小ハイキングでした。途中、昆虫網をもった方をはじめ、単独で歩く何人かのご同輩らしき男性にも出会いました。早朝登山のメッカになっているのか、道沿いに「早朝は大きな声を出さないでください」という趣旨のプレートが掲示されていました。

 それにしても、いささか古びた山荘のテラス席は最高のロケーションでした。前日の雨を取りこんだ木々が強い日差しでブワァと膨らんだような<緑の谷>の向こう側に再度山の山頂があって、手前にはアジサイの花が咲いていました。ふだん昼は飲まないのに、ビールを飲んで、緑にくるまれて座っていると、ふうっと酔いがきて、陶然たる午後のひとときでした。

 平日の真っ昼間、最近慣れてきて後ろめたさもだんだん薄れてきたせいでもあるのか、ありがたいことに、年金生活者の特権を満喫しました。

  再度山荘のテラス席からの眺め [2018.6.7撮影、次も同じ]

  再度山荘近くのクスノキの大木

 

 一番好きな季節はと問われたら、ためらうことなく「梅雨」と答えると、ドナルド・キーンさんは書いています(『図書』2018年6月号)。キーンさんは、日本の雨の風景は格別で、傘を手に近所の寺の境内を歩くのは「なんとも言えず気持ち良い」とし、「紫陽花が咲いていれば文句はない」というのです。そして50年ほど前の軽井沢の山荘で『徒然草』を翻訳していた頃の記憶をたどりながら、「雨は、ある種の集中力と持続力を与えてくれる不思議な魔力を持っているようだ」としています。

 そうか「梅雨の季節が一番好き」と語れる人もいるのかと、私は意表をつかれた思いがしました。多くの方もそうだと思いこんでいるのですが、私は梅雨が一番好きな季節などと感じたことは一度もありません。キーンさんのようにある断面をとらえたらそうなのでしょうし、他にもそう思う人がいることを拒むことなどできませんが、ちょっと理解が届いていかないのです。

 

 一日だけで梅雨空にもどった昨日(6月8日)の3時過ぎ、日課のフラフラ歩きに出かけました。真夏とちがって、軽い服装だと、大汗までいかないで歩き回ることができます。やはりアジサイが、公園だけでなく、民家の小さな庭からも乗りだして咲いているのが目立っています。キーンさんの説に驚いた私ですのに、私の「アジサイ」もキーンさんの「紫陽花」に通じているようです。やはり梅雨空のもとに咲く「アジサイ」はこの季節を代表しています。

 最近、ネットの天気予報で簡単に見ることのできる「雨雲の動き」を愛用しています。ご案内のとおり、1時間ごとに合わせて6時間分の時間降水量が<青>のグラデーションで表示される「雨雲の動き」の予想を見ることができます。外を歩き回る関係で、雨が降るか、降らないかを事前に見て判断するのですが、経験上、この予測の精度は大変に高いものです。

 という口の先からということになりますが、昨日は土砂降り、ずぶ濡れでの帰宅となりました。「雨雲の動き」からは6時になったら強い降りになりそうだったので、いつもより早く家を出ることにしたのです。でも、アジサイなどを撮っていたせいで遅くなったからなのか、公園においた自転車で帰ろうとした5時半頃、急に強く降り出しました。

 「雨雲の動き」の信用に関わりますので付け加えておきますと、これは予想が外れたというより、今回は見て判断した私の甘さということになるのでしょう。いずれにしても、ある特定の地域における現時点から1〜3時間程度の範囲での、雨が降るか降らないか、その雨が弱いか強いかというレベルの予測としては、大変有用なツールだと、私は信頼しています。

  アジサイの花(野添であい公園)  [2018.6.8撮影]

  アジサイにもいろいろとあります(野添であい公園)

 

 野添北公園で5月から咲いていた「ハナショウブ」がピークを少しこえたようです。植物の区別のつかない私は、アヤメやカキツバタと、ハナショウブとの違いがわかりません。今回ネットで調べてみて、はじめてやっぱり違うようだと思った程度のことです。

 三つともアヤメ科アヤメ属に属しています。違いを見つけるメルクマールは、私が読んだネット記事によれば、花弁の元のところの模様の違いでわかるとされています。正しいかどうかもわかりませんが、ハナショウブ⇒黄色の目型模様、アヤメ⇒網目模様、カキツバタ⇒白の目型模様だそうです(『菖蒲(あやめ)・菖蒲(しょうぶ)・かきつばたの違い』)。

  ハナショウブ(野添北公園) 花弁の黄色模様がメルクマール [2018.6.8撮影] 

 

 <季節>に出会ったような心持ちがしたときに、当ブログで時々引用させていただいている長谷川櫂『日本人の暦 今週の歳時記』(2010年10月刊/筑摩選書)の「梅雨入り(6月11日〜6月17日)」から、二つの季語「紫陽花(あじさい)」「杜若(かきつばた)」の掲載句を写しておきます。

 🔹紫陽花

   紫陽花に濡るる一日山の家      神蛇 広

   紫陽花の無き寺もまたよかりけり   新倉一光

   紫陽花や水のごとく咲きそろふ    長谷川櫂

 🔹杜若

   杜若われに発句の思いあり      芭蕉

   雨粒の当たりては揺れ杜若      神蛇 広

   実盛が草摺ゆかし杜若        長谷川櫂

 新倉一光の句は、結局、キーンさんの書くように梅雨の季節は「寺と紫陽花がお似合い」という紋きり型のイメージへの反抗なのでしょうか。

 

 前ブログ(「やわらかいのに立っているー大竹昭子『須賀敦子の旅路』ー(1)(2・完)」)からの続きのようになりますが、大竹昭子さんは、横浜の書店の情報誌に(2014年9月)、須賀敦子さんの思い出を寄せています。そこでは、2018年刊の『須賀敦子の旅路』を準備するかのように、須賀さんの文学の遅かった旅立ちが「死が身近な年齢になったときに、自分の先に生きた人々のことを、人間たちの物語として語ろうとした」ものであったと述懐しています。

 このなかで、大竹さんは、最初に出会ったころ(1992年)、須賀さんから年齢を訊かれて若いわねえと言われ、もう40歳をこえているのに変なことを言うなあと思っていたが、今は須賀さんの気持ちがよくわかると、次の文章を記しています。

 「 けれども当時の須賀さんの年齢を超えたいま(㊟2014年当時、大竹は

  64歳)、のお気持ちがよくわかります。与えられた時間に限りがあるこ

  と、できと思っていたことがもうできないかもしれないということを、

  ひしひし感じずにはおれません。」

 こうした感覚は、大竹より1歳年上の私も共有していますし、多くのご同輩もそうなのでしょう。今年4月の初めのブログ(「ちょっとおかしいですかー2年という月日にー」)で、サラリーマン仕事から退いて2年が経過した現在の心境のようなものを書こうと試みました。いつも以上に生硬になってしまい、ちゃんと書けなかった思いが残っていますが、「<この先はまた>は想像しにくい」とか「もう一度はないなあ」などと、取り返しがつかない不可逆的な年齢に位置していることを強く意識するようになったと伝えたかったのです。

 大竹、須賀という二人と関係づけるのは笑止ではありますが、決定的に違うのは、二人のような具体のミッションなど私にはないという点です。じたばたしても仕方がないというか、この今ある命を大切にしてちゃんと生きたいとか、そんなごく抽象的かつ願望的な表現しかできそうにありません。前記のブログでも大竹さんが須賀さんの「インチキ」という言葉から教えられたとしている文章を紹介しましたが、私もその定義ができそうにもなく、きれいごとに終わりそうであるとはいえ、「インチキな生き方」だけはしないようにしたいと心に刻んでおきたいと思っています。

 

 断片的にせよ、現在の社会や世界のことを言葉にしようとすると、私たちのような高齢世代に続くこれからの人々の困難さに身じろぎを覚え、デスペレートな気分になる自分がいます。公共空間というべきところで、「ウソ」の上塗りで塗り固められた政治権力が居座り続ける現状は、まさに「インチキ」と申し上げるしかないでしょう。

 茨木のり子さんの「六月」という詩を引用して、本稿を閉じることにします。この詩には「インチキ」の反対語としての「美しい」が定義されていると感じますし、本当に大切なことがそこにあります。

 

     六 月

 

 どこかに美しい村はないか

 一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒

 鍬を立てかけ 籠を置き

 男も女も大きなジョッキをかたむける

 

 どこかに美しい街はないか

 食べられる実をつけた街路樹が

 どこまでも続き すみれいろした夕暮は

 若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

 

 どこかに美しい人と人との力はないか

 同じ時代をともに生きる

 したしさとおかしさとそうして怒りが

 鋭い力となって たちあらわれる

           『見えない配達夫』(昭33)所収

  大中遺跡の最寄り駅であるJR土山駅の<勾玉型>の歩車分離柱 [2018.6.8撮影]

 

2018.06.05 Tuesday

やわらかいのに立っているー大竹昭子『須賀敦子の旅路』ー(2・完)

 本稿の(1)の最後のところで、須賀敦子の「<あるべき理想>を手離すことなく、自分の生きる姿勢を貫こうとしたこと」が、結局、「長い道のりのはてに」、彼女の文学を導いたのであるし、同時にそれまで「書けなかったんですもの」になった理由でもあると、私は理解したいと書きました。

 今回、「長い道のり」のもうひとつの理由として「文体」を取り上げたいと、『須賀敦子ふたたび』に掲載されている湯川豊×松家仁之の対談「須賀敦子のミッション 文学・言葉・宗教」を再読し、ああぁ、と妙に納得したのです。「共同体と宗教」のところでコルシア書店やエマウス運動への須賀のコミットにもふれつつ、それに続けて松家は「須賀さんは、人としてはもちろん、書き手としてもミッションの人だったと思うんですよ」と語っているのです。そうか、「生きる姿勢」でも間違いではないけれど、なるほど「ミッション」という言葉がもっとふさわしいのかもしれないと感じたということです。

 大竹が当時の須賀にふたりの「私」をみていたと書きましたが、須賀にとって、社会指向と文学指向のいずれも、替えることのできない「ミッション」というべきものであったかもしれないという思いが深まりました。私たちは作家として登場した須賀敦子を、須賀敦子の作品からイメージしていますが、このように理解すると、二つの「ミッション」のぶつかり合いというではなく、二つの<ミッション>から逃げることなく生きた、ひとりの須賀敦子という人間、そしてその人生がみえてくるような気持ちがしたのです。

 そのことが、須賀敦子の文章、須賀敦子の文学に、大竹が強調している作品に染み渡っている「須賀敦子の生命の滴」の源泉となっており、多くの読者に深いところで励ましと希望を灯してくれる力になっているのでしょう。

 

🔹探照灯としてのナタリア・ギンズブルグー「骨のある女の文体」をもとめてー

 大竹昭子は、須賀敦子の文章について、1992年の「ロングインタビュー」で次のように括っています。

 「 センテンスは長くても、区切られた短い一節それぞれに真実味と完結性

  があり、線路のポイントのように句読点で方向がスイッチされ、知らない

  間にあらたな場所、人、時間へといざなさわれていく。

   そのことを考えていて、語りということが浮かんだ。(中略)

   須賀敦子の文章はその中にあって、書き手の肉声を感じさせる、語り

  近い印象がある。読む人を酔わせ感覚を開かせる理由は、ひとつにそこに

  あるのではないか。声を上げて読んだとき、それは一層、実感されるよう

  に思われる。」[449-450p]

 この文章の前に、大竹は須賀の文章の特徴を自分に確認するかのように列記しています。つまり、「ひとつのセンテンスが長い」、「長いセンテンスがたくさんの句読点で区切られている」、「文章のつなぎ目がわからない。知らない間に人物や情景や時間が入れかわっている」、そして「漢字が少なく、ひらがなが多用されている」、「同じ言葉に漢字とひらがな両用されていたり、いろんな漢字が当てはめられていたりする」と一つ一つ並べたうえで、前記のようにまとめているのです。須賀敦子の文章に親しんだ方なら、ウンウンとうなづかれていることでしょう。

 「文体」ということはわかるようでわからないのですが、こんな須賀の文章の特徴を総体として指しているものだと、とりあえず理解しておくことにいたしましょう。

 

 では、大竹は、須賀が作家として書く前の長い期間が「文体が浮上してくるのを待つ時間だった」としていましたが、これはどのようなことでしょう。

 もとより須賀は十二分な文章を書ける人であったはずですが、私たちの目の前にある作品を書く文体を自覚的に手にするにあたり、ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』の翻訳が一つの転回点となったことは、大竹だけではなく、先に登場した松家と湯川の対談においても中心的なテーマとなっています。機が熟していたともいえますが、それだけではなさそうです。

 ギンズブルグの『ある家族の会話』が単行本になったのは、1985年のことですが、話はずっと前から始まっています。イタリア在住中、夫ペッピーノ(だから少なくとも彼の亡くなる1967年より以前のことです)が同書をコルシア書店から持ち帰り、「これはきみの本だって思った」と手渡され、須賀がしがみつくように読んだことが書き残されています。以来、須賀にとって、何回も読む愛読書となっていたのだそうです。

 それから10年以上の歳月があって、いよいよ1979年に翻訳に取りかかります(イタリアでの須賀は逆に日本の小説をイタリア語に翻訳していました)。今回は、オリベッティ社の広報誌「SPAZIO」で1970年の創刊から編集を担当していた須賀と同世代の鈴木敏恵が、産婆役として登場します。すでにむずかしい通訳や翻訳は須賀にお願いしてというルートができつつありましたが、鈴木はこの優れた人を雑用的な仕事に駆り出していけないと焦っていたのだそうです。ちょうどそんなとき、オリベッティ社から依頼のあった『ある家族の会話』(オリベッティ社の2代目社長であるアドリアーノ・オリベッティも登場人物の一人です)の翻訳を須賀に相談すると、愛読書であることがわかり、「編集者と書き手の思惑がこれ以上ないくらいに理想的に合致」したのです。

 こうして翻訳開始から6年、都合9回の連載をへて単行本となったのが、1985年12月のことでした。

 

 大竹の『ローマ』編には「ギンズブルグの家」という一篇があって、須賀が何回も訪れたギンズブルグのかつて住んでいた家(パンテオンから近い大きなアパートメント)に、大竹は足を運んでいます。このなかで『ある家族の会話』を翻訳する過程で、須賀は「創作という広大な海に飛び込むステッピングボードに立ったのだ」とし、次の須賀の文章を引用しています。

 「「好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてか

  ら、それに守られるようにして自分の文体を練りあげる。いまこう書いて

  みると、ずいぶん月並みで、あたりまえのことのようなのに、そのときの

  私にとってはこのうえない発見だった。」」[321-322p]

 何を発見したのか。「こういうものなら自分も書けそうだという希望が、そのとき灯った」ということであり、「書きたい気持ちにさせる小説」、それがナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』の力でした。大竹は、この翻訳がなければ、「書くことのためらいはもっと長くつづいたのかもしれない」が、「ギンズブルグの文体が溜まっていたものに水路を切る役目を果たした」とみているのです。

 

 このように自分の導師とも呼べるナタリアと13歳の年の差がある須賀が、いつもなら年の差など気にしないで付き合う人なのに、「ギンズブルグの前に出たときだけは生徒のように恐縮していたかもしれない」と想像し、大竹は頬をゆるませながら、ギンズブルグのアパートメントの広い大理石の階段を降りていったと、この章は締めくくられています。

 ある面で19歳の年の差のある須賀と大竹には似たような関係があったのかもしれない、と思ったりもします。普段はもっと親しい関係であったといえるでしょうが、「書くこと」「創作すること」については、須賀敦子は大竹昭子の導師と呼べる存在であった、というより年を重ねて須賀の亡くなった年齢に近づいた大竹は、本書をまとめることを通じて、ひしひしとそのことを再確認したのではないかと想像しています。

  ナタリア・ギンズブルグのアパートメントの階段ほか [『ローマ』編の98-99pを撮影]

 さて、前記した湯川×松家対談から、もう少し具体的に須賀作品への『ある家族の会話』の影響を語っているところをみておきましょう。

 この小説の翻訳が、これに続く創作、特に最初の2作品『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』にとって「何にも勝るトレーニングになった」と、湯川はみています。すなわち、このギンズブルグの「家族の話し言葉」を非常に見事に「書き言葉に移しかえている」小説を翻訳することにより、須賀は「<話し言葉>をどう<書き言葉>に結びつけるかということを、本当に真剣に考え、本当にギンズブルグに学んで、はたと膝を打ったんじゃないか」と断定的に述べつつ、続けて、次のことを語っています。

 「 プルーストというのは話し言葉をそのまま書き言葉にしたとは言えない

  けれども、エッセイの方法を小説に入れ込んだ人でしょう。(中略)エッセ

  イ的な手法を20世紀の小説に取り入れた。須賀敦子さんはその逆をやっ

  たのではないかと思うんです。小説の中にエッセイを取り込む人と、

  エッセイの中に小説を取り込む人。」

 このように「エッセイの中に小説を取り入れた」作家としての須賀敦子を提示しつつ、最後に湯川は次の再整理を行っています。

 「 20世紀の文学というのは、大きな流れでいうと、文学の中に話し言葉を

  入れてきた文学なんですよね。そういう意味で須賀さんは話し言葉をどう

  使うかを、自分が背負った文章の伝統の中で考えていったというほうが、

  そういう強調の仕方のほうがいいように思います。」

 この湯川の意見に同意しつつも、松家は普段から須賀のなかに魅力的な話し言葉が息づいていたことを強調し、それが「須賀さんのなかにある女性性と分かちがたく結ばれている。それは文学の根源にある「語り」にもつながる」のだと論じています。

 

 こう紹介してくると、本項の冒頭に引用した、大竹が須賀の文章の特質と指摘していた「語り」ということに突きあたります。単純化しすぎということになりますが、須賀は『ある家族の会話』から、遠くから近くから聞こえてくる最も切実な声を、文章という書き言葉のなかで「語り」として響かせる方法を学んだといえるのかもしれません。それが須賀が求めた「人間たちの物語」に対応できる文体だったのでしょう。たしかに大竹は次のようにも書いていました。

 「 『ある家族の会話』を翻訳しながら、須賀自身がこの言葉をなぞり、小

  説ぶらないエッセイのスタイルのなかに、登場人物を虚構化する文体を

  探ったのである。」[322p]

  須賀敦子訳『ある家族の会話』 1997年10月刊/白水Uブックス

 本書のために書き下ろした「東京」の「文体との出会い」において、大竹はやはり『ある家族の会話』の文体のことをさらに変奏させ、この小説がようやく須賀が動きだすダイナモになったのだと論じています。

 須賀は大竹のロングインタビューの1992年に、「ナタリア・ギンズブルグの作品をめぐって」と題する論文を発表し、『ある家族の会話』におけるギンズブルグの文体の特徴を、次のような文章で書いているのだそうです。

 「 自伝/回想記のように見えるが、作意が家族という素材やプロットに加え

  られているのではなく、「文体そのものに中に仕掛けられている」こと。

  「自己の心理描写にかまけて『自分についての物語』にしないために、独

  特の文体構成」を編み出していること。家族用の言葉は直接話法でそのま

  ま書き、回想の部分は叙情に陥らないようにできるだけ省略しているこ

  と。」[396-397p]

 このとき『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』をちょうど書き終えていたころで、須賀が自分の作品について語っているようにも読むことができます。大竹は、須賀がギンズブルグから学んだこと、とりわけ素材と文体の関係について、次のように描いています。

 「 「特定の目標のために創作する」という過ちを犯すことなく、人間たち

  の物語を書くことはどうしたら可能なのか、ギンズブルグの文章を読み、

  翻訳しながら、文体を分析していく須賀の姿が目に浮かぶ。書きたいこと

  があっても、どのように描くかで足踏みしていたのが、素材よりも文体の

  問題だと気がついたことにより、読み方が変わり、前進の手がかりをつか

  んだのだった。」[398p]

 本当のところ、素材と文体の関係のことはよくわかりません。というより、文体という言葉を意識したこともありませんが、須賀のように、書きたい素材があって書ける文体を見い出して書くというコースの一方、書くための文体をえて書ける素材が浮上してきて書くというコースもありそうに思うのですが、いかがでしょう。その関係はもっと複雑なものであるのが実態ではないかと想像しているのですが。

 

 さらに、須賀のギンズブルグへの共感について、大竹は、両者が政治性を前面に出さずに、「理論やイデオロギーではなくそこに蠢く人間たちに目を凝らそうとした」ところ、さらには「女性作家の仕事を距離をおいて眺めながら、自らの書き方を模索した」ところにも見い出しています。

 ギンズブルグも須賀も、女性作家には「過去を感傷的に振り返るタイプの自叙伝に逃げ込む」傾向があることを自戒する気持ちが強く、それを克服しようとつとめた人でした。

 大竹のロングインタビューで、須賀は次のように語っていました。

 「「男性の方法にたよらず、かといって性だけで勝負したり、お話上手にな

  るのではなく、女のままでいて、ちゃんと築けるものがあるんではないか

  しら。それは女性なりの骨をもつこと、いい換えてみれば文体でしょう

  ね。そういうふうに一人ひとりが、骨のある女の文体を作っていかなくて

  はならないと思う。それは決して自然にころがっているものではないか

  ら、意識的に作らなければならないのね。」」[471p]

 長い引用になりましたが、これが須賀のいう文体なのでしょう。「骨のある女の文体」と表現していることは何かしら響くものがあります。本稿の表題の「やわらかいのに立っている」より、それこそ骨のある言い回しではありますが、やはり呼応しあっています。

 自分の作品に踏みだすために「文体」を自覚するにあたり、それをギンズブルグという先達から学んだという敬愛の念を、須賀は強くもちつづけたのだと思います。

  ギンズブルグのアパートメント近くにあるローマの路地 [2015.5.13撮影]

 『ある家族の会話』の「訳者あとがき」、1985年に書かれたと思われますが、そこに須賀は次の文章を残しています。

 「 話しことばで書くことが、女流作家ナタリア・ギンズブルグにとってす

  ばらしい道具だったということを、そして、それが「男のように書く」と

  いうストイックな修行の積み重ねをとおして、はじめて文学と呼ばれるに

  ふさわしい文体ないし作品を生んだということについて、私は考えをめぐ

  らしながら、『ある家族の会話』の訳にとりかかった。」

 すでに翻訳は終えているのに「訳にとりかかった」という文章は変のようですが、この『ある家族の会話』を『ミラノ 霧の風景』に置き換えたなら、なるほどとなります。ちょうど『ミラノ』のもととなった「別の目のイタリア」の連載が、1985年11月から「SPAZIO」で開始されたところでした。このあとがきを引用したあとに、大竹は「この文章には作家・須賀敦子が離陸する気配が濃厚に出てはいないだろうか」と記しています。

 編集者である鈴木敏恵は、『ある家族の会話』の翻訳が終盤を迎えたころ、須賀に「つぎの仕事」として翻訳ではなく「自分の文章を書いてほしい」ともちかけたようで、大竹は鈴木が「その時期が来ていることを、痛いほど感じていた」のだと記しています。

 

 どうも堂々めぐりになってしまっているようですが、最後に白水Uブックス版『ミラノ 霧の風景』に寄せた大庭みな子の「解説」から(2001年10月とありますから、大竹のイタリアへの旅と同時期です)、前記した須賀の「女性性」と「語り」に関連して論じていますのでふれておくことにします。

 須賀敦子は同書で1991年の女流文学賞をえていますが、大庭は選考委員の一人として、須賀の作品に出会っています。須賀さんの文章、文体について、抽象的な部分の切り取りになりますが、次のように書いています。

 「 須賀さんの文章の下には幾条にも幾重にも、その裏、その向こう側にい

  るもう一人、何人かの人の言葉が重なってうずくまり、そして動いてい

  る。その面白さが、須賀さんの文章の面白さなのだ。(中略)

   須賀さんによって綴られた文章には幾つもの眼が幾層にも重なり合って

  いくつもの焦点が結ばれている。この面白さが須賀さんの文体になってい

  る。」

 「幾条」「幾重」「幾層」、なるほどです。このことを、大庭は「古来女性は語り伝えられてきた話を次の世代に伝える才能に恵まれている」から説き起こし、須賀の文章もまたそのすぐれた達成なのだというのです。「古いよい物語」とはそんなものであり、そのような労をとるのは女性が大方なのだ、それは批評的にものごとを見る男性より、生活の感性で受けとめるのは女性の方で、「須賀さんは大昔から女性の繰り返したおしゃべりをおだやかに、ふたたび繰り返しているように思える」と書いています。前後しますが、須賀さんの文章の源泉(基底にあるもの)について、次のように評しています。

 「 ミラノにしてもナポリにしても、トリエステにしてもそれらの町は、彼

  女の夫や、夫の親族、友人、自分の友人たちによって語り伝えられた、温

  かな語感と吐く息が感じられるものである。つまり、あらゆる風景の中に

  行き来する人々の影は生きている人々から伝わってくるものなのだ。何人

  かの人々が須賀さん以前にそれらを見て呟いている。それを須賀さんが口

  移しに、呟き直しているのだ。だからそれらの風景は生きて動いているの

  だろう。それは確かにそのように実在し、動いている。」

 この大庭みな子という作家のことばは、時空をこえた真実を語っているようで鋭くこわいくらいです。このことは、大竹や湯川×松家が須賀の作品と文章、文体について書いたり発言したりしている内容にも通じていることはおわかりいただけるでしょう。繰りかえすことになりますが、松家の「須賀さんのなかにある女性性と分かちがたく結ばれている。それは文学の根源にある「語り」にもつながるのだ」という発言は、大庭の論とほぼ同根に立っているといえます。

 

 かくして須賀敦子は、作家として自分の作品を書くことになったのですし、そのためには二つのミッションから逃げることなく、懸命に生きて、霧で行く先も見えづらいなかで、自覚的に「骨のある女の文体」を作っていくことも必要であったということになります。

  須賀敦子コレクション『ミラノ 霧の風景』 2001年11月刊/白水Uブックス

 

🔹こんなエピソードもー「宮里小書店便りvol.67」ー

 閑話休題、というか、ここで「宮里小書店便りvol.67」のことを紹介しておくことにします。

 「『須賀敦子の旅路』」と題するエッセーなのですが、私はネットで読んでしみじみと感動したのです。リンクを貼って読んでみてくださいでいいのですが、どうしてかリンクを貼ることができなくなってしまったので、ちょっと書いておきたいのです。

 

 那覇の栄町市場にある「宮里小書店」は、店長の娘である宮里綾羽さんが平成26年から副店長をつとめていて、彼女がメールマガジンに書いたものです(2018.3.24)。

 最初に常連客となったのは、金城さんという年輩の女性で、はじめて出会った日に本を選んでといわれ、須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』を勧めたのです。金城さんは同じ年だという須賀の本を大変に喜んで、小書店にある須賀の本をすべて読んだというのです。

 だから、今年の3月に大竹昭子の『須賀敦子の旅路』が入荷すると、一番に金城さんに知らせました。

 現在89歳になった金城さんは、病院以外の外出ができなくなり、小書店を訪れることもなくなっていましたが、昨日(2018年3月23日)、タクシーでやってきて、降りることができないから、宮里さんがタクシーまで『須賀敦子の旅路』を届けました。

 これに続く最後の文章です。

 「 数時間後、彼女から電話が来た。

  「この本を読み始めて、とても懐かしい気持ちになっている。あなたとお

  しゃべりしたいなー。来週は、小書店まで行ってみるよ。勇気が出たか

  ら。」」

 

 以上はエッセーの最初と最後の部分ですが、その間に、三つの話が挟まれています。

 一つは、戦争末期、県立第一高等女学校の1年生だった金城さんは北部へ疎開し、ひめゆり部隊には参加しませんでしたが、多くの同級生や先生を失っています。そして須賀さんが「ひめゆり部隊は同世代だといっていた」という松山巖の文章を紹介し、「金城さんが須賀敦子を読むとき、途中で学ぶことを諦めざるを得なかった少女が、再び学ぶ歓びに触れているように」、宮里さんは思えるのだと記しています。

 もう一つは、宮里さんも届くとすぐに大竹の本をかじりつくように読んで、須賀が孤高だけれど柔らかな女性だと錯覚していたことに気づき、本当は次のようなことだったと感じました。

 「 書くに至るまでの彼女の人生に起こった幸福と不幸、信仰への問い、何

  より彼女の持つ文学への情熱は、穏やかなさざ波なんかではなく、荒々し

  い嵐のようなものだったことに驚いた。」

 そして、最後の一つは、亡くなる1か月ほど前に、須賀から、大竹へ「目が覚めたときに、自分はまだ何もはじめちゃいない、これからなんだ、と思った。「目が覚めたときにそう思えたことがすごくうれしくて、あなたに伝えたかったの」」という電話がかかってきました、そんな須賀に勇気づけられると感じた宮里さんは、次のように思ったのです。

 「 いや、孤独と対峙する姿だ。

   誰もが持つ孤独。人は孤独を紛らわす。ときには、孤独などないように

  振る舞う。

   でも、須賀敦子は向き合っていた。孤独に揺さぶられながらも、切実に

  向き合い続けたその姿に勇気づけられるのだ。」

 

 このように紹介すると、宮里さんの文章の味わいが伝わらないのですが、私は、ご高齢の金城さんが、大竹の本で読んで「懐かしい気持ち」になって、「勇気が出たから」、小書店へ行って宮里さんとおしゃべりしたいというところに、そんな二人の関係のありようも含め、心が動きました。

 それが、大竹が本書をとおして言いたいこと、伝えたいこと、再登場ですが「吟味された言葉の端々からしたたり落ちる生命の滴こそが、須賀敦子の文学の尊さ」であり、これがさまざまな厳しい状況のもとにある読者にも「励ましと希望を灯してくれる力」なんだと、再確認できたように思えたのです。

 

 前記した大竹が須賀からの電話をうけたあとに続く文章を引用しておきます。宮里さんも大竹のこの文章を読んで、つまり須賀が「自分を直視し、自問自答する意欲をもちつづける」という姿勢から、「命を燃やして」、須賀が「孤独と対峙する姿」が見えたのだと思っています。

 「 目が覚めたときにそう思えたことの歓びを伝えたかった、というところ

  がとても須賀らしく、私は感動した。決して病状を楽観視しているわけで

  はなかった。どんな状況にあれ、いまある自分を直視し、自問自答しよう

  とする意欲をもちつづけること。それが須賀にとって命を燃やす火なの

  だった。

   電話をおいたあと、私は自分の中に気力が湧いてくるのを感じ、切ろう

  としていたパソコンのスイッチをそのままにして原稿を書きつづけた。須

  賀の文章は端正で美しいが、それだけでない。こうありたいと願う精神の

  気高さと、それをエネルギーに変える力があり、やわらかな文章の奥から

  強靭な生命力が湧きあがってくるのだった。」[433p]

 このように、大竹もまた、最後まで「命を燃やす」須賀から、大きな励ましをもらっていました。

  パンテオンの堂内 『ローマ』編の表紙扉を撮影

 

🔹おわりにー25年目の「人生を深く感じる力」ー

 2000年から2001年にかけてのイタリア三連作では、大竹⇒私、須賀⇒「私」と表記され、「私」に成り代わって、私が「私」の足跡を歩き直して文章化する方法が採られていて、読んでいても思わず私と「私」を取り違えたりしました。それ以降、大竹昭子は、須賀について書いたり語ったりすることを控えていたのだそうです。

 自身のブログ「カタリココ」(2018.3.27付)では、今回、本書のために加筆やら「東京」を書き下ろしていますが、この作業を通じて、大竹は書くことの醍醐味を味わえたと書いています。そして、控えていたけれど、やはり、この20年近くのあいだに「静かに溜まっていったもの」があったようで、「自分ではとりたてて意識していなくても、心のなかで須賀さんと問答を繰り返し、考えがあたたまっていったのでしょう」と、大竹は記しています。

 須賀の20年と同じように、大竹の20年も「その時期が来ている」というために必要な時間であったといえるでしょう。須賀の亡くなった年齢に近づいた大竹は、満を持して、敬愛する先達である須賀敦子の人生と作品に改めて向き合い、「須賀さん、こうだったのですか」などと対話しながら、須賀の旅路を、そして自分の須賀への旅路を、完結させたように読むことができました。

 したがって、第2のロングインタビューともいえますが、二人の作家による対談として読むこともできます。本書で大竹が彫刻を制作するように刻んだ須賀敦子の魅力的な全体像は、読者をふたたび須賀作品に向かわせますし、新たな読者を誘うことにもなるでしょう。

 

 前稿にも書いたとおり、今から25年前の1993年4月、当ブログの前身である『思泳通信』No.2に、まだ40代の前半だった私は、「人生を深く感じる力」と題して須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』と『コルシア書店の仲間たち』を読んだ感想を書いています。

 やっぱり、ちっとも変わらない私がいると、思わず赤面してしまいます。須賀敦子の本を、「人生を深く感じとろうとする方向に導く本」「人生を深く感じる力を与えてくれる本」として読んだと綴っているのです。

 大竹昭子による本書を読んだ今となっても、この感想に変化があるわけではありませんが、大竹のおかげで、以前より須賀敦子の声のようなものがもっと聞こえてくるようになったという感覚があります。それを確かめるのは、須賀の作品を読み直すしかないでしょう。

  よく須賀が眺めたという夜のレデントーレ教会 『ヴェネツィア』編136-7pを撮影

  ザッテレの河岸からのレデントーレ教会 [2015.5.18早朝に撮影] 

                         【終:(1)、(2・完)】

2018.05.31 Thursday

やわらかいのに立っているー大竹昭子『須賀敦子の旅路』ー(1)

 「やわらかいのに立っている」とは、須賀敦子(1929-98)の文章にはじめて接したときの感動を言葉にした大竹昭子(1950-)の表現です。「豆腐のようにやわらかなものが、絶妙なバランスで立つとき、驚きがうまれる」のだと、大竹は20数年をへた「いまになって気づく」と書いています。

 

 須賀敦子が没して20年という節目の今年、そんな大竹昭子著『須賀敦子の旅路』(2018年3月刊/文春文庫)というちょっと厚めの文庫本が刊行されました。「ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京」という長い副題のとおり、大竹がイタリアでの須賀の足跡を写真と文章でたどった既刊の3冊(『須賀敦子のミラノ』『須賀敦子のヴェネツィア』『須賀敦子のローマ』)を「評伝としても読めるように加筆改稿」したものをベースに、イタリア生活を引き払って帰国してから『ミラノ 霧の風景』刊行までの20年間に焦点をあてた書下ろしの「東京」、そして二人の出会いのきっかけとなったロングインタビュー「ことばへの旅」が加えられています。

 書かれた時期でいうと、<ロングインタビュー>の1992年、<イタリア3都市>の2000-1年、そして<書下ろし「東京」>の2018年と、その間、足かけ30年近い時が刻まれています。この本は大竹昭子からみた「須賀敦子の人生とその作品をめぐる旅路」の集大成であり、須賀の亡くなった年齢に近づいた大竹自身の「表現者であることの旅路」を象徴する一冊ともなっています。

 大竹は、同書の「はじめに」のなかで、この本のねらいを、「東京」を書き下ろして一冊にまとめようとした意図を、次のとおり記しています。

 「 若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどう

  してか。そのあいだにどのような時間が過ぎ、それは作品にどのように投

  影されたのか。そんな問いを、須賀の晩年にちかづいた自分自身の人生を

  重ね合わせつつ、想像したのだった。」

 須賀敦子の作家としての活動期間は短く、自分の作品が初めて本となった61歳以降亡くなるまでの数年間にすぎません。だが、生前の5冊にとどまらず、死後すぐに、未刊行原稿をまとめた著作が次々と出版され、続いて河出書房新社から全集も出されましたし、今もなお、新たに発見された書簡や詩などの本が上梓されつづけています。さらに、本書をはじめ須賀を論じる評論・エッセーも後を絶たないという、その活動期間からすれば稀有な状況なのです。こうした須賀敦子という作家をめぐる現象は、何よりも、それを読もうとする読者がたしかに存在しているからに外なりません。

  『須賀敦子の旅路』大竹昭子著 2018年3月刊/文春文庫

 当ブログには、これまでにも、須賀敦子が、その書かれた言葉が、ブログのタイトルの背景写真であるローマの「パンテオン」の話をはじめ、イタリアへの旅の記録など、何回も登場しています。それだけ須賀敦子の文章は、私に影響力をもっていることになります。

 この『思泳雑記』の前身といえるワープロ打ちの『思泳通信』第2号では、「人生を深く感じる力」というタイトルで、最初の2冊である<『ミラノ 霧の風景』(1990年12月刊/白水社)/『コルシア書店の仲間たち』(1992年4月刊/文藝春秋)>のことを紹介しています。このコピー印刷の通信には1993年4月刊とありますから、大竹のロングインタビューから1年後、もはや四半世紀前のことになります。

 かくして、古くからの須賀文学の一ファンとしては、大竹昭子が「書くこと、表現することを、長い道のりのはてについに実行した」須賀敦子の<創作の秘密>をいつくしむように紡いだ本作を、私が大変興味深く読んだことはいうまでもありません。この本は、最も敬愛する先達であろう須賀敦子の人と文学に全身で迫ろうとした大竹昭子の作品、まぎれもなく文学と呼ぶしかない作品として、私は読んだということです。

 本稿では、直近に書かれた「東京」を中心に、須賀敦子が作家として立つまでの長い20年間の必然性のようなものとともに、須賀敦子を論じる大竹昭子の姿勢と言葉の魅力についても書いておきたいと考えています。

 

🔹「須賀敦子の旅路」との往還ー20年という時を隔ててー

 大竹昭子が本書『須賀敦子の旅路』を上梓するに至った経緯、これもまた「旅路」だということができますが、この項では、そのあたりことにスポットをあてることにします。

 

 1992年4月27日、大竹昭子は、須賀敦子にとって2冊目の『コルシア書店の仲間たち』刊行の直前に、勤務先の上智大学市谷キャンパスを訪ね、初めて出会っています(本当は前年末に出版関係の集まりで遭遇したそうで2回目ということになりますが)。今はなき『LITERARY Switch』(スイッチ・コーポレーション)へ掲載するインタビュー記事のためでした。

 その「ロングインタビュー」で、大竹は須賀の第一印象を次のとおり記しています。

 「 さわやかで闊達な感じの女性が、やはり日本の大学とどこかちがう印象

  の部屋に佇んでいた。年長の女性にむかって娘さんという形容をするのは

  おかしいが、そう言いたくなるような快活な雰囲気があった。窓の鉢植え

  からは、細身のサボテンが競い合うように何本も上に伸びていた。」

         [441p/『須賀敦子の旅路』の頁数を表記しています。以下同じ]

 最初の著作『ミラノ 霧の風景』から大竹が想像した須賀敦子は、多くの読者もそうであったように「人と交わるよりも独りを好む物静かな人物」であり、文章の「静謐さ」をそのまま体現したイメージでした。双子とまちがえられるほどそっくりだった須賀の妹から『ミラノ』を読んで「もっとはしゃいで饒舌なのに、こんなに静かなあなたは知らない」と言われたエピソードにも示されているとおり、日常と文章の印象、さらにいえば作品と作家の実像にはギャップがあったとのことです。

 大竹は、そのギャップにひかれ、その謎を大切に抱えこんで、須賀の没後20年を契機に、「須賀敦子を読み直す」ことで、さらに、その謎の深層へ自分なりに接近しようとしたのです。つまり、須賀より19歳年下の大竹は、最初に須賀の作品から「書くこと、表現すること」への共感をえていたのですが、大竹自身も作家としての「旅路」を刻んだ20数年をへて、須賀の没した年齢に近づいた「私自身のつたない人生と重ねあわせながら」、改めて読み直したということになります。

 「 生身の須賀敦子と、作品に表出する「須賀敦子」のあいだに深い川があ

  るとすれば、その川にどのように橋が架けられたのか知りたいと思った。

  人が創作にむかう秘密がそこに隠されているように感じたのである。」

                                [379p]

 

 こうした仕事ではめずらしいことに、インタビューは一回で終わらず、翌月の、5月8日、5月22日とつづいて会いにいったとあります。そしてそれだけで終わりませんでした。最初は編集者もまじえながら、「そのうちふたりで会って食事したり、散歩したり、家に呼んだり呼ばれたりするということが増えていった」のです。

 そんなウマの合った二人ですが、60代になっていた須賀は40代前半だった大竹に、やはり自分と同質のもの、書こうとする人、それも社会性と批評性をもった女性として文章で表現しようとする人の存在をみていたのでしょう(もとより須賀は大竹にかぎらず、年齢のちがいを飛び越えて付き合うことのできる人だったそうです)。

 1998年に須賀が亡くなり、もちろん編集者の勧めもあったのでしょうが、大竹は、2000年から2001年にかけて、イタリアで須賀敦子が足跡を残した土地、ミラノ、ヴェネツィアそしてローマへ旅をすることになります。ロングインタビューなど生前の須賀の言葉や残された作品の文章と突き合わせるように歩き、須賀と関係のあった人たちにインタビューし、写真を撮影し(大竹は写真家でもあります)、濾過されて残った言葉を紡ぐことで、前掲したとおり三冊の本を立て続けにまとめたのです。あきれるばかりのエネルギー、あるいは強い思い入れを感じずにおれませんが、三冊目のローマ編のあとがき、2001年10月と記された「旅の終わりにーあとがきにかえて」で、大竹は次のような偉大な先達の須賀への距離観(後述することになりますが、いわば須賀がナタリア・ギンズブルグ(1916-91)に感じていたような)を感じさせる文章を書いています。

 「 ミラノ編からこのローマ編まで三冊の本を書いているあいだ、ずっと、

  時間がないの、と言っていた須賀さんの視線を意識しつづけていた。書く

  ことへの情熱をあれほど強く持って生きた作家に、ちゃんとむきあえてい

  るのか、それだけの緊張感をもって生きているのか、書いているのか、そ

  う自分に問いかけずにいられなかった。」

 さらに続けてこう記しています。

 「 ミラノの取材に赴いたのは2000年の秋で、三冊目の執筆が終わったのは

  翌年のおなじ季節。この1年間、極度の集中を求められ、肉体的にも精神

  的にもかなりハードな時間を過ごした。だが、そうした時間の密度に

  よってしか、須賀さんの作品に対応できる術が自分にはないように感じて

  いたのも事実である。」

 この大竹の連作である三冊は、須賀敦子の作品が「自分の先に生きた人々のことを、人間たちの物語として綴る」ことだというのなら、自分の先を生きた「須賀敦子」という人間のイタリアでの物語を綴ったものであり、回想というより須賀敦子への追悼文というべきものにほかなりません。

 そして、今回の『須賀敦子の旅路』の「はじめに」において、大竹は三冊の頃のことを次のように述懐しています。

 「 その旅をする直前の気持ちを正直に述べるならば、青ざめるほどの恐怖

  に襲われていた。須賀の足跡をたどり、インタビューをして歩くことによ

  り、事実を虚構化することの大切さを主張した作家の事実の部分に触れ、

  暴いてしまうことが怖かったのである。ところが、実際に旅がはじまる

  と、作品の背景が明らかになり、納得することが多くあり、抑制された文

  章の奥にあるものに近づいていける深い歓びに充たされたのだった。」

                                                                                                                  [18p]

 このように大竹は生前親しく接していた「須賀敦子」の足跡が刻まれた土地に全身をかけた挑んだような旅を経験したことにより(それは歩く人でもあった須賀敦子に、同じく歩く人である大竹昭子がオーバーラップしていくようでもあります)、大竹自身、新たに「須賀敦子の人と作品」が立ち上がってくるのを感じたにちがいありません。 

  『須賀敦子のミラノ』『須賀敦子のヴェネツィア』『須賀敦子のローマ

   2001年4月刊    2001年9月刊       2002年2月刊 /いずれも河出書房新社

 

 そんな旅から20年近くをへた2018年、大竹はまだ須賀と直接接していなかった期間である東京での20年を、持ちつづけてきた「謎」、いわば人と作品のギャップとの関係から、どう捉えるべきかという問いにふたたび挑んだというわけです。須賀がイタリアを引き払って帰国した1971年夏から最初の本『ミラノ 霧の風景』刊行の1990年末までの20年、まだ作家と呼ばれることがなかった東京での20年というそれなりに長い期間を、大竹は往還してみようとしたのです。

 新たに書き下ろされた「東京」は「空白の20年」「文体との出会い」「創作への道」そして「内なる¨鬼¨」の4篇で構成されています。もちろん先行するロングインタビューとイタリア三連作の文章が起点となっていたり、重複ないし交錯している部分も多くあります。大竹は、この東京での須賀の20年と往還することによって、それ以前の時期を含め、「須賀敦子その人」の長い旅路が多面的でありながらも一本の道程として「須賀敦子の文学」につながっているという確信の地平に到達したのであろうと、私は受けとめています。

 その内容の詳細は後述に回すこととし、ここでは、大竹が「東京」の締めくくりにおいた次の文章を引用しておきます。

 「 東京篇の執筆のために帰国後の20年をつぶさにたどり、そのころを知る

  人々に話を聞きながら、一言では言い尽くせないほど多様な顔を須賀が

  持っており、そのすべての顔を誠実に生きながら時間をかけて抽出したエ

  キスが、作品に染み渡っているのを感じた。吟味された言葉の端々からし

  たたり落ちる生命の滴こそが、須賀敦子の文学の尊さであるのを改めて

  思ったのである。」                    [434p]

 大竹は、須賀の東京での20年を埋めることによって、「須賀敦子の人と作品」への自身の長い旅路にも一区切りをつけ、本書を『須賀敦子の旅路』と躊躇することなく名付けたのであろうと、私は想像しています。繰りかえすことになりますが、それはある意味で大竹の「須賀敦子への旅」のひとつの完結であり、これからの大竹の仕事の出発点ともなっていくものでありましょう。

 

🔹「だって書けなかったんですもの」ー長い道のりのはてにー

 この項では「若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどうしてか」という問いに、須賀本人が大竹へ発した言葉からみてみることにします。

 イタリアでのことを書いた最初の著作『ミラノ 霧の風景』が登場したとき、私だけでなく多くの人がイタリア生活の長かった著者が帰国してすぐに書いたものと誤解しましたが、実際には帰国してから20年近く期間が空いています。

 

 須賀敦子全集の年譜を作成した松山巖は、『須賀敦子ふたたび』というムック本(2014年8月刊/河出書房新社)で、須賀の人生を通観して見えてきたものを次のとおり語っています。

 「 だいだい10年ごとに人生で大きな変化があるんです。生まれてから10歳

  はともかく、10歳からヨーロッパで第二次大戦がはじまり、日本も参戦し

  た戦時中から戦後の20歳になるくらいまで、自分の途を見つけようとした

  時代、それから20代から30代は、フランスに行って、最後にはイタリアに

  行く。30代になるとイタリアにいる時代。イタリアから日本に帰って何を

  やろうかと、ペッピーノと結婚したものの彼が亡くなる。この時代が一番

  大変だと思うんだけど、40代はエマウス運動に関わって東京でも一人で始

  めて、ようやく大学に教職を見つける時代。50代になってウンガレッティ

  の博士論文を書いて大学教授となって、イタリア文学学会で認められるよ

  うになって、翻訳家としても名が出てくるようになった時代ですよね。そ

  して60代になってやっと作家として華ひらいた。だから年譜をまとめてい

  くうちに10年くらいずつ変化がある人だとわかってきたわけです。」

  『須賀敦子ふたたび』文藝別冊 2014年8月刊/河出書房新社

 

 須賀の「たぐいまれな文章力と、豊かな人生経験」からすると、どうして「もっと早く書かれなかったのか」と不可解な気持ちを抱いていた大竹は、ロングインタビューで、目の前の還暦を過ぎてようやく作家と呼ばれるようになった須賀敦子にむかってそのことを問うと、「でも、書けなかったんですもの」との言葉が返ってきました。

 その須賀の言葉を、大竹は次のとおり書きとめています。

 「「『ミラノ』が出たとき、ある編集者が飛んできて、そう言われたの。ど

  こかをほっつき歩いていて、いまごろ帰ってきて、と。でも、書けな

  かったんですもの。」」 [462p]

 これに続けて、大竹は須賀の「自分にとって文学とはなにかということをずっと考えてきたし、文学として読まれる価値がなければ、書く意味がないと思っていた」という言葉を紹介し、そのためには「文体が非常に大切になると思っていた」という須賀の強い信念のようなものを引き出しています。これを受けて、大竹は「書かれなかった期間は、文体が浮上してくるのを待つ時間だったのだ」と記しています。

 文体を語る知識能力が私にはないのですが、このことは次項に委ねるとして、ここでは、「でも、書けなかったですもの」の背景にあったものを考えてみることにします。

 

 1971年夏、42歳のとき、須賀は13年間いたイタリアから日本に戻ります。居場所のない日本で、須賀は稼ぐ仕事と稼ぎと関係のない仕事に打ち込みます。

 稼ぐ方は、NHK国際局や慶応大学国際センターに籍をおいて語学力をいかして掛け持ちで仕事をこなしました。一方、稼がない仕事とは、フランスで始まったカトリック団体の慈善活動のエマウスの家でした。当時、日本では神戸に拠点があったものの、東京にはなく、ようやく東京の練馬の元修道院だった建物に「エマウスの家」がオープンすることとなり、須賀はその責任者として、稼ぐ仕事をしながら週に4日ほど「寝泊まりし、若いボランティアをひっぱっていく」仕事(廃品回収作業やキャンプの引率)に没頭したのです。

 このエマウスの活動に従事したのは、40代前半の3年間くらいのことでしたが、戦争を体験した須賀の社会意識や宗教との関係、つまり真摯に生きる姿勢、求道者的な生き方への強い姿勢を示しているといえるでしょう。

 このエマウスのことについて、先の『須賀敦子ふたたび』のなかでイタリア文学者である和田忠彦は、須賀にとってもう一つのコルシア書店であった、「結局コルシア書店が果たせなかったことの夢の延長としてのエマウス」だったにちがいないと書いています。イタリア時代の核であり、そこで夫であるペッピーノとともに仕事をしたサン・カルロ教会の脇のコルシア書店へ、はじめは須賀が自分の意思で近づいて行ったのと、同じ志をもって、須賀はエマウスの活動に参加したといえます。

 このように40代前半の須賀は、まだイタリア文学者でもなんでもなかったのです。そして、上智大学に講師の職をえて次第に研究、教師、翻訳という文学の仕事の方へ傾いていくのであり、やっと52歳になって博士号を取得しようと決心しています。大竹は、エマウスの責任者を退いた46歳から、作家になるまでの年月は「イタリアで蓄えた力がアカデミックな領域で評価され」(日本のイタリア文学者としては想定外のコースから出現した人でした)、「日本で生きていく地歩が固まった期間」といえるだろうと書いています。

  「コルシア書店前、1960年代」 『ミラノ』篇10-11p

  「1961年、コルシア書店でペッピーノと」 『須賀敦子の旅路』から

 

 こうした時期のことを、須賀は大竹に彼女らしい言葉で語ってもいます。

 強い社会意識、文学至上主義への強い抵抗感、「文学だけではなく行動することによって、人間の生きる道をさぐろうという姿勢」が、須賀の根底にはあります。一方で、コルシア書店やエマウスから結局は離れてしまう、自分の根っ子にある文学への強い指向も同時に自覚する人でもありました。

 

 ロングインタビューにも登場しますが、ここではイタリア三連作の『ローマ』編の最後の「ノマッドのように」でみておきましょう。大竹が最初は不可解に思ったという書くのが遅くなった理由を、須賀は次のように語ったと記しています。

 「「文学だけとかひとつのことにかまけているのは恥だという気持があっ

  た。ちゃんとしていなければならないと。形のないものになっていけない

  という思いもあった。それじゃ形のないものってなにかというと、よくわ

  からないけれど、たとえば中原中也になりたかったけど、なれなかった。

  あんなボヘミアン的な生き方はできなかった。」」[354p]

 この言葉を聞いて、大竹は「安易に文学に接近してはならないという強固なストイシズム」を、「文学を絶対視することの危険性に気づいている人の態度」を、須賀のなかに感じたとしています。そして、次のような須賀像を、イタリアの旅を終えた大竹は提示しているのです。

 「 現実を遠ざけて文学に逃げ込んでしまう危機感を抱いていた。自己を磨

  き、高め、少しでもいまより物の見える人になりたいという願いが生き方

  の根幹をなしていたのであり、その意味で真の求道者だったと言えよ

  う。」[355p] 

 

 一方、というより「ボヘミアン的な生き方はできなかった」という発言に続けて、次のとおり須賀は語ったのだそうです。

 「「でも結局は身を引いてしまうんです。コルシア書店だってもっとかかわ

  れたと思うけれど、最終的に逃げてしまう。そして文学に帰ってきたと

  き、いつも、ああよかった、と思うの。自分は文学しかないというのは分

  かっていたのに、それから逃げていた。逃避ですよね。共同体とか、社会

  活動とか、ほかのことをやってもだめなのに、長いことそれを分かろうと

  しなかったの。」」[385p]

 大竹は、生身の須賀と作品の須賀のように、ふたりの「私」が拮抗しあっていたのだろうと理解しようとしています。

 「 当時の須賀のなかには少なくともふたりの「私」が拮抗しあっていたの

  だろう。ひとりは好奇心旺盛で、活発で、よくしゃべる。おてんばで、気

  性の激しい行動の人。もうひとりは読書がめっぽう好きで、本をとおして

  学ぼうとする、自分を高めてくれるものを本の世界に求める思索の人。そ

  のふたりを合体させるのが文学だとわかっていたものの、それを一致させ

  る方法が見つからず、行動することに「逃げる」ような状態がつづいたの

  だった。」[385p]

 

 ヴェネツィア在住の中山エツ子という方は(大竹の旅もコーディネートしました)、須賀全集の月報で須賀に親しかったイタリア在住の方々へのインタビューを担当したのだそうです。その仕事を通してみえてきた須賀の像について問われ、「まさに今を生きる思想家、活動家だったのだ」という印象を強くもった、そして「優しい言葉で美しい文章を書かれていますが、芯にあるものがとても太いというか、ものすごい硬派の人だった」と感じたというのです。

 このような激しいものを秘めているからこそ、須賀はいわば思想・行動がバックボーンにあって揺るぎない形で溶けこんだ文学を求めたのでしょうし、それが須賀の「人間の物語」としての文学たりえるものになることの高い壁に、須賀自身は対峙していたのではないかと、それが文体というものではなかったかと、私は想像しています。

 優れた作家には共通することなのでしょうが、並大抵ではない自己批評能力の高さ、作品に求める基準の高さ(めざす高みにむかって徹底して努力する人でした)は、やはり安易な書き方を自分に許しはしなかったのでしょう。

 

 本項では、須賀敦子が作家と呼ばれるようになるまでの高い壁となったであろう要因を考えてみようとしました。でも高い壁こそが須賀敦子の文学をつくったともいえるのでしょう。

 とにかくイタリアでは日本語を読んだり書いたりはあったとしても話すことのない生活であり、そこから日本に帰ると、40歳を過ぎた女性として自分の生活を立ててゆくことが求められたのです。そんな状況のなかで、須賀は、<あるべき理想>を手離すことなく、自分の生き方、生きる姿勢を貫こうとしたのであり、それがすべてに優先するものでした。

 東京での20年は、そんな須賀が、年齢を重ねながら、少しずつ自由を獲得していった過程であったとみることもできるでしょう。その過程は必要だったか、今となれば、必要だった、必然だったというしかないでしょう。

 「東京」の最後のところで、大竹は、次のようなことを書いています。

 「 須賀はよくインチキという言葉を使った。インチキな文章、インチキな

  人間、インチキな生き方……「この年齢になるとインチキを書くと自分に

  バレる」とか、「ちゃんと生きていないと文章がだめになるとか」などと

  言ってハッとさせた。私が須賀から教えられたことはいろいろあるが、

  もっとも大切なことは、書くことにおいても生きることにおいてもインチ

  キをしないということだ。天国で彼女の目が光っていると思うと、私は姿

  勢を正さずにはいられないのである。」[433p]

 この「インチキ」をおそれ嫌う須賀敦子の生きる姿勢こそ、長い道のりのはてに、結局、彼女の文学を導いたのだし、それまで「でも、書けなかったんですもの」になった理由でもあると、私は理解したいと考えています。

                         【続く:(2・完)へ】

2018.05.18 Friday

すっかり忘れていてー『築地市場 魚河岸の誇りと涙〜最後の春〜』ー

 すっかり忘れていました、と申し上げるしかありません。その時々の話題というマスコミが集中的に流す情報を消費して、あるいは消費させられて日々をおくっているだけのことだなあ、と改めて感じたのです。

 表層の社会動向には敏感なマスコミが、内容や事実よりも話題性に傾斜するSNS的な感覚に、そんな坩堝にずぶずぶと入り込んで、長い呼吸ができなくなってしまっているということもできそうだと思ったのです。

 こんな他人事ではなく、己のことじゃないのか、自分の記憶する姿勢の問題であり、さらには最近おそろしくなるまで進行してきた記憶力の減退という問題ではないかという内なる声も聞こえるのですが。

 

 すっかり忘れていたのは、築地市場の豊洲移転問題です。

 それを思い出したのは、今月8日にNHKBSプレミアムで放送された『築地市場 魚河岸の誇りと涙〜最後の春〜』をみたからです。忘れていたのをマスコミのせいにしていて、マスコミのTVドキュメンタリーで思い出したのですから、お話になりません。

  番組タイトル「築地市場 魚河岸の誇りと涙〜最後の春〜」 [画面を撮影しました、以下同じ]

 ちょっと思い出しておきましょう。

 ちょうど2年前の2016年5月に築地市場の移転先である豊洲市場が完成し、同年11月10日には完全移転・開業が予定されていました。

 だが、同年7月31日の都知事選挙で小池新知事の誕生、そして1ヵ月後、8月31日には同知事が豊洲市場への土壌汚染への不安と安全確認を理由に移転の延期を宣言しました。まさに時の話題となったのです。

 その後、遠くからどちらかといえば市場関係者の困惑ぶりに思いを寄せつつ傍観していましたが、年が明けた2017年2月に当ブログで築地市場をテーマに、続けて2本の記事を書きました。本橋成一『魚河岸 ひとの町』(1988年1月刊/晶文社)の入手をきっかけとした過去の記憶のなかの築地市場を、そしてその直後に放送された今回の前編にあたる『築地市場 魚河岸の誇りと涙』のことを、それぞれ取り上げたのです。

 🔹2017.2.2「築地の魚河岸ー昭和の終わり「小説・TV・写真集」ー

 🔹2017.2.5「図ったようにー『築地市場 魚河岸の誇りと涙』の放送ー

  「2016年8月31日 築地市場の移転延期」

 このように自分のブログで取り上げたにもかかわらず、その後の「モリカケ問題」などの時々の話題に足をとらわれてしまい、私にとっての「時の話題」から抜け落ちてしまっていました。

 そんな個人の事情は別にして、その後の事実関係を確認しておきます。

 2017年3月19日に都の専門家会議が豊洲市場について科学的、法的に安全であるとの評価を出しました。その後、知事は方針を示さないまま、都議会議員選挙がぎりぎりに迫った同年6月20日になって、豊洲移転・築地再開発という方針が出されたのです。

 7月2日を投票日とする都議会議員選挙では、小池都知事を支持する都民ファーストの会が大勝し、9月5日の臨時都議会で豊洲移転の経費・築地再開発の調査費にかかる予算が可決されました。市場関係者との協議をへて、12月20日には翌2018年10月11日の豊洲市場への移転・開業と築地市場の解体が決まりました。

 すぐに豊洲市場の追加対策工事に着手する一方、あと半年を切った移転・開業日に向けた準備が進められているというのが現況です。

 移転・開業の時期という点からみたならば、2016年11月から2018年10月へと約2年間「遅れた」ことになります。そして、1923年の関東大震災により日本橋の魚河岸が全滅したことを受け、同年築地に臨時の市場が開設され、その後1935年に現在地で「東京市中央卸売市場」として本格開業してから、83年ぶりの移転です。

  「2018年10月11日 豊洲市場への移転」

 今回放送の<最後の春>は、前編と同じく、築地市場内の「魚河岸水神社」の視点から、いよいよ豊洲移転が10月に迫った2018年春の魚河岸が描かれています(竹中直人がナレーションを担当)。いわば後編、第2弾というわけですが、直前の移転延期で混乱する激動の日々を取材していた前編に比べ、いろんな思いは残しつつも決まったからにはやるしかないという、市場関係者のみなさんの悲喜交々を飲み込んだような突き抜けた感じの表情が印象的な番組となっていました。

 築地市場は10月6日まで開場しており、豊洲市場の開業が10月11日ですから、さまざまな移転準備はもっと前からできたとしても、築地で使っていて豊洲でも使うものについては、いわばコアな部分は、具体の引っ越し作業をたった4日間という短期間で完了させなくてはならないのです。

 そして、築地の前身である日本橋の頃から400年もの間、魚河岸の心のよりどころとして親しまれてきた「水神さん」も豊洲市場へと、市場本体とともに引っ越しすることになります。

  「魚河岸水神社」

 番組のなかでも登場していましたが、市場の中心である仲卸業者は、昭和の終わり頃に1000以上だった業者数が半減しており、豊洲市場への移転という引き金もあって、この2年間でも約70業者が廃業したそうです。

 そんな仲卸業者の一人が番組のなかで、次の言葉をかみしめるように語っていて印象に残りました。

 「 どんなとこへ行ったって、河岸の人たちは「俺たちじゃなければいい魚

  が入らないんだ」「俺たちにまかせろ」という気持ちがある限り、絶対に

  魚河岸は不滅だよ。そう思うね。またそう思いたいよね。」

 それがこのドキュメンタリーのタイトル「魚河岸の誇りと涙〜最後の春〜」ということなのでしょう。

  「仲卸業者の言葉」

 昨日も豊洲市場で物流のルートを確認するための「習熟訓練」が行われたと報ぜられています。これまで築地市場では平場で水平移動だけだったものが、4階建ての豊洲市場では垂直移動が加わり、大変なことも多いようです。また、輸送トラックの大型化やウイング型の普及に対し、豊洲市場の対応力が十分ではないのではないかとの問題なども指摘されているようです。

 これからも微調整が重ねられていくにちがいありません。

 

 加えて、構造的な問題についての指摘もあります(「築地市場、約100年前もあった移転騒動の深層」2017.2.4/東洋経済オンライン)。

 前ブログでも報告したとおり、築地市場での水産物の取扱量は、ピーク時の約80万トン(1989年といういわゆるバブルの末期)から約38万トンへ半分以下に落ち込んでいるのです。その背景には、国内の魚介消費量が減っていることと、卸売市場を通さない取引(市場外取引の増加)が増えてきていることがあるとされています。

 このような課題を抱えながら、築地市場から豊洲市場への移転は進められ、「最後の春」をこえて後戻りはできないでしょう。

 少なくとも関心を持続し、当面の状況はフォローしていくつもりです。

 

 さて、今回の移転問題の、まあ騒動と呼びたくなる一連の状況について、昨年2月時点においては、半可通の者として判断を留保していました。それから1年以上が経過し、豊洲移転がタイムテーブルに乗った現在においても、すっかり忘れていたからでもありますが、明確に是非を断じることができません。

 小池都知事の政治パフォーマンス、人気取り政策に利用されただけという意見もあるのでしょうが、反対にきっちりとした安全対策のためにはやはり必要であったとの意見もあるでしょう。

 また、昨年の衆議院議員選挙をめぐる「希望の党」問題で信頼と求心力を失った小池都知事ですから(ある種のポピュリズム政治家としての体質を露呈しました)、より厳しい評価を下したくなるのが人情ではありますが、この問題は何代かの知事をまたがる経緯があるわけであり、政策評価という視点から善悪、白黒をはっきりさせることは難しいように感じています。

 

 いずれにしても、今回のドキュメンタリーをみて感じたことは、築地市場というトポスは「魚」を媒介とする強大な「モノとモノとの交換が行われる場」として特別といっていい文化を築いてきたわけで、豊洲市場がそのような場になっていくためのエネルギーもまた、とてつもないものが必要なのであろうということです。

 築地市場は網野善彦のいう「無縁」の場として、周辺の街区とともに「築地のまち」を構成してきたということができるなら、豊洲市場はいわゆるひらがな表記の「まち」を形成することはなかなか困難だとみるべきでしょう。私の想像つかないような新しいスタイルが出てくるのかもしれませんが。

 いろんな問題はあったとしても、首都圏には豊洲市場を成り立たせる経済的エネルギーというか、ポテンシャルがまだ残っている、遠く関西の西の方からはそんな風にみえています。

 ㊟今回紹介した『築地市場 魚河岸の誇りと涙〜最後の春〜』は明日(5月19日)

  午後10時30分からNHKBSプレミアムで再放送されます。 

2018.05.09 Wednesday

バランスを取ろうとする力ー梨木香歩の『君たちはどう生きるか』への視線ー

 連休の最中、明石魚住の住吉神社での能楽会へ出かけました。大学の同級生が「仕舞」に出演するということで、声をかけてもらったのです。全員で11名の同級生(倉敷在の方以外は大阪・兵庫在住者)が集まりました。

 私は初めてだったのですが、数年前から、何かの機会にこうした集まりをもってきたとのことです。私だけが毛色がちがってしまいましたが、みなさんは技術職として過ごしてきた方ばかりです。まだまだ現役の方もいますが、少し時間に余裕もできたからなのでしょう。

 一部の方とは年賀状は続いていても、実際に顔を合わせるのは、大学卒業後初めてという方もいました。講義へまともに出席せず、理解もできず、学友との交遊も希薄であった私は、同級生の顔もすっかり忘れているものと思っていました。でも不思議ですね。じわじわと面影があらわれてきて、こんな雰囲気をもった方だったよなあと、少し記憶がよみがえってきました。

 住吉神社は、魚住の浜からなだらかに上る地形をいかして、鳥居を浜近くにおいて、そこから山門、楼門、能舞台そして拝殿、本殿と一直線に配置されています。能舞台は江戸初期に建立され、能もずっと続いてきましたが、昭和13年に途切れ、昭和49年に復活し、以来毎年続けられてきたとあります。

 能楽会は緊張の面差しをたたえた友人の舞台以外は少ししか見ていないのですが、午後4時過頃まで続くとありました。午後には魚の棚で懇親会もありましたが、あっという間だった、まだ何も話していないような気持ちでした。いつかまたの機会に参加する目標ができたということにいたしましょう。

  住吉神社(明石市魚住町)の能舞台での「第43回能楽会」から [2018.5.1撮影]

 

  同上の住吉神社の山門から、鳥居と瀬戸内海をのぞむ

  同神社の御神木である「祓除(はらい)の藤」

 

 『図書』5月号には、80年も前に刊行された『君たちはどう生きるか』が21世紀を迎えた今にあってもベストセラーになっていることをどう捉えるのかについて、梨木香歩さんが寄稿しています。

 先日、私も『君たちはどう生きるか』(以下「『君たち』」)のことを、「もはや一過性のブームを超えた社会現象」だとして、その背景を探ってみようとしました。でも腰砕けというか、中途半端に終わっていました。梨木さんのエッセーにはなるほどと思うところがありましたので、紹介させていただくことにしました。

 🔹「コぺル君と呼ばれたのはー『君たちはどう生きるか』をめぐってー

                      [(1)(2-)(2-)]

 

 前記のブログ(2-)の「漠然とした不安の時代にー社会現象となった背景への視線ー」という項で、識者は『君たち』の大ヒットを、80年という時を隔てた社会背景、時代状況の近似性、類似性が主たる理由とみていることを紹介し、私も「漠然たる不安」の影の色濃くなった時代状況のなかで『君たち』が求められるのは自然のことだと思うと書きました。

 そして、でもそれは一面でしかないとことわっていますが、自分の能力の欠如を理由に、その部分についてはさらなる言語化ができないままで、長々としたブログを終えていたのです。

 

 梨木さんの論旨を紹介しましょう。

 梨木さんも、80年前の刊行時の世相が、現代の日本がおかれている状況とよく似ているという理由を否定はしていませんが、そんな時代背景をもった小説なら他にもあるとこたわったうえで、話を展開させています。

 まず「大まかにいって二つ。一つは客観視と、それに伴う主体性の「揺らぎのなさ」にまつわること」だと提示します。「客観視」とはコぺル君のあだ名の由来である「自分をも含めた世界を客観視してみる」ことの重要さですし、それに伴う「主体性の「揺らぎのなさ」」とは、叔父さんが話し言葉とノートでコベル君の主体性に語りかけて成長を後押しするところにそれをを見い出し、梨木さんは併せて強調しているのです。前者はまだしも、後者の部分については、私は十分に言語化ができていませんでした。

 

 こうした二つの提示のもとで、梨木さんはさらに突っ込んで「流行」の正体に迫ろうとしています。

 一つは現在の「インスタ映え」に代表される世相を、「人目を引くことに価値を置き、他者に評価してもらって初めて安心する」という「極めて主体性の希薄な日常」だとみているのです。このことは、「自分をジャッジする視座を外界に置かず、自分の内界に軸足を持」とうとして苦闘するコペル君に比べると、「背筋が凍るほどの空虚さ」だとし、『君たち』の「流行」の根っ子を次のように表現しています。

 「 評価する主体をこちら側に取り戻したいという無意識の欲求が、広くこ

  の流行の底にあるのではないか

   吉野源三郎のヒューマニズムは、止むに止まれぬものとして、自身の内

  側を貫いて出てくるものである。そこに他者の視線は関係ない。」

 

 加えて、梨木さんは「流行」の根っ子にあるものを、もう一つ指摘しています。共有する世相への不安とは別のところで、次のように刊行当時の状況が影響しているのではないかと述べています。

 「 当時の社会がまだ保持していた、父性、母性の濃密さ、ーーこの作品に

  滲む、「子どもたちを守りたい」という「育む力」の強さにもまた、密か

  に圧倒されているのではないだろうか

   (中略)コペル君の「立派な人間」になろうとする努力や、子どもや若い

  ひとに積極的に温かい視線を送り、関心を持ち続け、手を差し伸べる大人

  たちに対する、ノスタルジーを超えた潜在的な「慕わしさ」も、この「流

  行」の背後にはあるような気がしてはならない。」

 

 以上のとおり、梨木さんは『君たち』の「流行」の背景、背後にあるものを考えたうえで、改めて今の世相と<私たちの無意識の欲求>というべきものを次のとおり書いています。

 「 強すぎる政府、多数を占める組織の決定したことに対する無力感が日本

  全土を覆っているように思っていた。加えてインターネット等に囲まれて

  成長する情操への不安。

   だが今の世の中があまり極端に走るとき、必ずそのバランスを取ろうと

  する力も生まれてくる。

   そのようして、吉野源三郎のヒューマニズム、人間中心主義を私たちが

  必要としている。それゆえの、これは「流行」なのだと思いたい。」

 

 このような梨木さんの分析というか、見方について、どのように感じられるでしょうか。

 私も、「「主体性」の揺らぎのなさ」が、今の社会において不足していたり、欠けていることを多くの人が<無意識>や<密かに>に感じていて、現下の極端というべき時代状況に対し、バランスをとる力がはたらいたのだという見方に、大きな異論はないのですが、「それゆえの、これは「流行」だと思いたい」の「思いたい」に引っかかりをもっています。

 異論というのではなく、「思いたい」というのはそうでない可能性が含まれており、いわば願望の裏返しという面が否定できないということです。

 私も前記のブログで、次のとおり記しました。

 「 (前略)漠然とした不安の時代、息苦しさのただよっている社会、そんな

  中で「人生いかに生きるべきか」という問いへの心棒をもとめようとする

  多くの人びとの「心の奥底」のありようが、『君たち』の社会現象化とし

  てたちあらわれてきたのではないかと、私は信じたいのです。」

 私が「信じたい」と書いたのは、とてつもなくハードルは高いことを意識しつつも、「そう思いたい」という願望の裏返しという面があるのです。

 

 梨木さんも私も、つまり今の世相や時代を同じように捉えている二人が、「思いたい」「信じたい」という願望を表明したというだけのことかもしれません。極端な世相や時代に反応してバランスをとる力を『君たち』だけに期待しても、それは過度の期待というものでしょう。

 では、『君たち』とともに、何が「バランスをとろうとする力」として大きな力を発揮するのか、それが何であるかが、私たちに問われているのです。

 

 以上が、簡単ですが、本題で、以下は付録になります。

 イタリアで、漫画家をはじめマルチに活躍するヤマザキマリさんが、アリタリア航空の機内誌『PASSIONE』に「ーPalermo パレルモー激動の時を経て熟したシチリアの魂」と題するエッセーを寄せています。

 お気に入りに登録しているヤマザキさんのブログで、私は読みましたが、2年ほど前に私たちで訪れたパレルモを追体験しているようで、うれしくなったのです。ヤマザキさんのブログを読んでいただければと思いますが、大きくは二つのことが特筆されています。

 一つは、フィレンツェへ留学中の若き彼女が初めにパレルモを訪れた一番の理由とは、その地に見たい絵であるアントネッロ・ダ・メッシーナの『受胎告知のマリア』があったからだということです。そして、そのマリアの静かな微笑みにパレルモの街の真髄を垣間見たとしています。

 もう一つは、表題のとおり、シチリア島最大の都市パレルモに、フリードリッヒ2世の精神をはじめとして「激動を時を経て異文化とともに成熟してきた街」をみていることです。最後にこう書いています。

 「 自分がパレルモを人物として描くとしたら、それはきっと皺だらけの、

  静かで思慮深い様子の、だけど窪んだ眼光に力の籠った老人の姿として現

  されるだろう。世界がいくら広しといえども、この街くらい歴史と経験が

  紡いだ質感のある織物を格好良く纏った場所は、ほかに思い浮かばな

  い。」

 繰りかえすことになりますが、いわばパレルモという都市に、イタリアの他の都市にはない成熟度の高さをみて力説しています。そんな成熟度のゆえに「喜び、苦しみ、悲しみ、そういった情動を表に出さない寡黙さと静謐」を体現したようなダ・メッシーナのマリア像は、パレルモを象形しているものとして、ヤマザキさんには深く印象が刻まれているのです。

 

 私のブログの表題は、敬愛する巖谷國士さんのフレーズを借用したものです。シチリアを「縦横に入りみだれた枝と幹の数々が、一種のカオスを呈するにいたったというような、そんな巨大な熱帯植物」に譬えて、「多種文化の混淆そのものをみずからの文化としてきた」のがシチリアだということなのです。この多種文化の混淆を、私が一番感じた都市がパレルモでしたので、そんな表題を付けたのです。

 🔹「大樹のようなカオス・パレルモーシチリア・ナポリ紀行ー

                           [(その1)(その2)]

 (その2)の「<アントネッロ>という名をもつ二人ーシチリア州立美術館などー」という項で、アントネッロ・ダ・メッシーナの『受胎告知のマリア』を取り上げ、「しびれました」という普段は使わない言葉で表現しています。事前に知っていたからということもあったのでしょうが、この小さな絵に圧倒的な何かを感じたのは事実でしょう。『受胎告知のマリア』と名付けられていないならば、<受胎告知>がテーマだとは、私にはわからなかったちがいないと告知しています。ヤマザキさんのようにパレルモの歴史文化との関連づけた観方はできていませんが、こう感想を記しています。

 「 世俗的だが同時にまた、近寄ることのできない厳粛さというのか崇高さ

  というものも全身から放たれているように感じられます。それより私に

  とっては恋すべき愛すべき絵だと思ったのです。」

  アントネッロ・ダ・メッシーナ『受胎告知のマリア』1476-77?

                 シチリア州立美術館  [2016.4.1撮影]

  シチリア州立美術館の中庭

 一方、「大樹のようなカオス」に象徴される混沌と多様性の都市であるパレルモについて、反語的だがとして、「カオスのような大樹も一本の木である」ということも十分に成り立つのではないかと書いています。

 これは思いつきの類ではありましたが、シチリアとりわけパレルモは、「ちょうど混沌と多様性を体内化した一本の大樹」であると言い方もできるということです。バラバラのパッチワークのままではなく、長い歴史の過程で大樹のなかに混沌と多様性が溶け込んでいって内部化している、ヤマザキさんの言葉を借りれば、熟成というか、成熟化としていると、私は申し上げたかったのだと、改めて気づきました。

 そんなパレルモの「カオスの表徴」として、つまり「成熟化の表徴」として、私は5点を列記しています。一つの目は、市街地にいろんな由来をもつ街区が混在していること、二つ目は民族的な多様性に長い歴史が反映していること、三つ目は建造物や内部装飾に文化的な混淆が溶けこんでいること、四つ目は、無秩序な生命力の発現を想起させる異質な植生が見られることです。5つ目はその時の思いつきですが、狭い道路で展開される渋滞や混雑がまるで祝祭化しているように感じられることをあげています。

 そして、このように混沌や多様性を一本の大樹として受けとめることのできる「巨大な根」の存在とはという問いを、自らに投げかけてもいました。

 ヤマザキさんのエッセーは、あらゆる文化の坩堝だったパレルモが育んだフリードリッヒ2世というスケールの大きい地球人による治世、そこでは現代の人間ができないでいる「異文化を排除せず、異宗教も排除せず、多様な世界観を積極的に受け入れていた人間力」の存在にも及んでいて、それも大きな根のひとつだと感じさせてくれました。

  左:マルトラーナ教会、右:サン・カタルド教会(イスラーム由来の赤い三つの丸屋根)

  パレルモのへそであるクアットロ・カンティとビットリオ・エマヌエーレ大通り

  海沿いのフォロ・イタリアで遭遇した名を知らない樹木

 

2018.05.04 Friday

日常で見逃されている美の贈り物ー再び写真家ソール・ライターに出会うー

 もう一度、ソール・ライターに会いたいと、連休中の伊丹市立美術館へ出かけました。ちょうど今、ニューヨークが生んだ伝説 写真家ソール・ライター展(Saul Leiter A Retrospective)」(2018.4.7-5.20)が開かれているのです。

 すでに亡くなっているソール・ライター(1923-2013)に会いたいというのは、この日は映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』の特別上映会が美術館内である予定だったからです。2年前にみてソール・ライターのたたずまいと言葉に感銘を覚えたものですから、展示された写真を初めて見ると同時に、映画でご本人にも再会しようと思ったのです(当ブログ2016.5.29「急がない人生ー写真家ソール・ライターー」)。

 ですが、見事に思惑が外れました。当日は10時より1階チケット受付にて映画の整理券を配布するということで、約2時間弱をかけて10時前には美術館に着いたのですが、すでに長蛇の列ができていました。チケットを入手して、整理券の列に加わったのですが、あと10数人のところで整理券(といっても全部で100枚弱)は無くなり、「すいません」と言われてしまいました。

 えーどうして、となりましたが、仕方がありません。連休中ということもあったでしょうが、晩年まで無名だったソール・ライターの写真展へ、こんなに多くの人が集まる人気ぶりにちょっと驚きました。私自身、ソール・ライターのことは映画でしか知らないのに、ちょっと秘密にしておきたかった大切な写真家が急に表舞台へ引きずり出され有名になって遠くにいってしまうような感覚にとらわれたのですから、我ながら始末におえません。

  地上階のガラス越しに見下ろすと地階でも「鯉のぼり」の影も泳いでいます 

                      [伊丹市立美術館/2018.4.29撮影]

  美術館の地階から地上階を見上げると「鯉のぼり」が泳ぎます 

  地階には風をうけた「鯉のぼり」の影が泳いでいます

 

 負け惜しみのようですが、映画をみることができなかったため、かえってゆっくり展覧会をみることができました。絵画を含め、全200点余りの作品が展示され、そのほとんどが1950年代のもので、5つのパートに区分されていました。やはりというか、事前の刷りこみ効果なのか、「カラー」というパートのカラー写真の作品群がなんといっても新鮮で精彩をはなっていました。

 こうした形の写真展覧会において、カラーの写真が展示されていたのはメイプルソープ以外には記憶にありませんし、手元にある写真集においても、ファッション写真や現代の写真家のもの以外はなさそうです。今回の写真展のチラシは4種類ありましたが、いずれもカラー写真ですから、ソール・ライターはカラー写真によって再発見された写真家だったのでしょう。

 1950年代のライターはカラー写真をリバーサルフィルム(ポジフィルム)で撮影していました。やっとプリントに着手したのは、30年以上を経た1993、4年に助成金を受けてのことだったようです。撮影当時、カラー写真は耐久性に弱く変退色しやすいということで、ファッション写真のようにすぐに雑誌へ掲載するような場合を除き、プロの写真家は圧倒的にモノクロ写真で作品を制作していました。会場の説明文には、リバーサルフィルムが高価なため、期限切れぎりぎりのものを安価に購入して使っていたとのことで、かえってライターのカラー写真の「色」になったのではないかとありました。

 少なくともソール・ライターは1957年以降、雑誌(ハーパーズマガジン)と契約してファッション写真を撮影していたのですから、プロの写真家というべきなのですが、彼は本質的にプロの写真家たろうとしていなかったということができます。

  写真展の4種類のチラシ(表) [使用写真:上左「天蓋」1958/上右「足跡」1950頃]

                [下左「赤信号」1952/下右「ソームズとの散歩」1958]

  上左のチラシ(表)

  チラシ(裏)

 カラー写真の作品群はいわば絵画なのです。とにかくカッコよくて渋くて美しいのです。今から60年前後も前に、ニューヨークのイーストヴィレッジという街でのいとなみを、そっと静かに愛情をもってのぞきこむように、ライターが撮影したカラー写真はかぎりないなつかしさに満ちた「色」のある情景として、目の前にありました。

 元々、ユダヤ教の高名なラビを父にもつライターは、自分もそうなるべく長く教育されていましたが、父の否定に抗しつつ、そこから抜け出し、画家を志望してニューヨークへ出てきた人でした。彼にとっては、絵画と写真がとても接近ないしオーバーラップしていたのでしょう。「写真で絵を描いていた」との評言は的をえたものです。

 モノクロとカラー写真に関するライターの二つの言葉を、展覧会のカタログとして制作された『ソール・ライターのすべて』(2017年5月刊/青幻舎)の中から引用してみます。

 「 私は色が好きだった。たとえ多くの写真家が軽んじたり、表面的だと

  思ったとしても。」(176p:㊟『ソール・ライターのすべて』の頁数)

 「 誰もがモノクロ(写真)のみが重要であると信じていたことが不思議でた

  まらない。

   まったく馬鹿げている。美術の歴史は色彩の歴史だ。

   洞窟の壁画にさえ色彩が施されているというのに……。  」(180p)

 ライターご本人に「美術の歴史は色彩の歴史」といわれてしまうと、そうですねえとなってしまいます。モノクロに比べて耐久性や表面性という問題があったとしても、彼は自分が「美しい」と思う写真を撮りたかったにちがいないでしょう。今回の写真展で「ストリート」のパートは同じ時期のモノクロ写真ですが、カラー写真とほぼ同じテーマ、方法で撮影されていますが、カラー写真の方に魅力を感じました。それは彼のテーマというか撮影したい情景、すなわち「ただそこにある情景に美を発見して写真として定着させる」ためには、カラー写真の方がより適合していたからではないかと想像しています。

 

 さきほど「写真で絵を描いていた」との評言を紹介しましたが、これはネット検索でヒットした「写真家ソール・ライターに学ぶ、写真を生きる方法」(ブログ『写真のネタ帳』[仮に「Aさん」とします])の言葉をそのまま使っています。この文章は、今回の写真展からえた私の印象をかみ砕いて説明してくれているような気がして、多くのことを学びました。元のブログを読んでいただく方がいいのですが、ここでは、これに依拠しつつ、ソール・ライターのカラー写真の特徴を整理しておきましょう。

 ソール・ライターの写真の特徴として、Aさんは「人物」が「何」がという「対象をどう捉えるか」という撮り方ではなく、「画面全体をひとつかみにして撮っている」とします。50年代のビッグネーム写真家であるウィリアム・クラインやロバート・フランクのように「訴えかける写真」ではなく、それ自体が目的、つまり「詩」なのだというのです。ですから、ライターの写真では、「人物」といった対象を捉えているのではなく、「全体」を捉えている、つまり被写体としての「人物」は正面ではなく、横や後ろを向いていたり、遠景だったり、ガラス越しや反射していたりしていて、このことをAさんは「なんとなく写っている」「そこはかとなく写っている」と表現しています。「人の背中は正面より多くのものを私に語ってくれる(92p)」との言葉を残したライターの写真はそんな「人物」をいわば点景として取り込んで「全体」が構図されており、撮る対象がはっきりしない「あいまい」な感じが特徴だというのです。

 この特質はモノクロよりカラーの方がより際立っていますが、そんな「あいまい」ではっきりしない写真が「色」という活力を得てバランスを得ている、モノクロでは弱かった表現が「カラー」によって力を得て「美」にまで高められているというわけです。

 後ほど別に紹介しますが、こんなソール・ライター写真の「あいまい」「包括的」「詩的」なところは、どちらかといえば日本的感性だと、日本人的な美意識に親和するものだとし、Aさんはライターの写真に「精神性を帯びた写真」との言葉を添わせようとしています。

 

 こうしたライター写真の特徴を、Aさんは技術的な要素からも捉えようしています。短くいえば「「遠く」から「狭く」撮る」という方法なのだと説明します。画面全体を包括的に把握するためには、「視点を引いて、画面全体を把握する」ことが必要となります。つまり「遠く」からですが、画面(画角)を広くすると映り込む要素が増えるので、これを避けるために視線は「狭く」するのです。だからスナップ撮影の「寄るべし」というテーゼをライターは排しており、気にとめていません。

 具体的には、望遠レンズを縦位置で多用することで、視覚的な奥行きの「深さ」が、そのまま写真の「深み」につながる、「縦に奥行きがある写真」にしているわけです。この縦位置の採用は「視界を狭める効果」があって、つまりライターの「隙間からのぞいている感」が増長されているのです。

 こうした技術的要素によっても、ライターの「包括的」で「あいまい」な性格を特徴とする写真には集中力が与えられ、私たち見る者は引き込まれることになります。

 

 さらにAさんは、縦位置の多用がライターの写真の祈りや瞑想に通じていることなど卓見を説かれています。ここでは詳しく立ち入らないこととし、「世界の片隅にある真実を、狭隘から望遠レンズでチョンと撮る」のが彼なのだというのであり、「ただ美しく在れ。/それが人生の真実だ。その生き様、言葉、写真。彼がその全てを通して伝えているのは、そんなメッセージではないでしょうか」と、Aさんは写真家、芸術家であるライターという人物像を描いていることを書き残しておきたいと思います。

 

 こんなライターのカラー写真というものは、「訴えかける」目的はなくとも、「そこにただ在る美の情景」という真実を写真として結実させることによって、反転して「訴えかけてくる」何かを感じさせるという関係にあるのかもしれません。今回、家人や私が強く反応した写真からは、構成する要素を絞り込んだ絵画のように「狭隘の美学」というべきライター写真の核心にあるものが感じられるのです。

 ソール・ライターは、<自らの美に忠実であり続けるために>プロの写真家という意識を捨てることができた人であり、写真家である前に「美」の守護聖人というべき芸術家であったと理解すべきなのでしょう。

 もとよりその意味は多義的なものでしょうが、ソール・ライターは「肝心なのは、何かを手に入れるかじゃなくて、何かを捨てることだ(56p)」との言葉も残しています。

  「バス」1954年 [カタログ『ソール・ライターのすべて』から撮影したものです]

  「赤信号」1952年 [同上] 

   ㊟上は家人、下は私の一押しですが、ライターの「赤」が共通しています。

 

 先にふれた本写真展のカタログでもある『ソール・ライターのすべて』は、展覧会の図録にとどまらないいわば出来のよい本です。帯には「刊行半年で8刷・累計約3万部!!欧米からも「美しい本」と評価されています」とあります。色にこだわる「青幻舎」という出版社といい編集者に恵まれたということなのでしょう。

 テキストとして、本展のキュレーターであるポリーヌ・ヴェルマールと、アメリカ文学者である柴田元幸が、いずれもソール・ライターへの愛情に満ちた論考を寄せています。ソール・ライターの写真をより深く理解するために、この二人の論旨にもふれておくことにします。

  『ソール・ライターのすべて』 2017年5月刊/青幻舎

 ヴェルマールの「ニューヨークのナビ派」と題する文章では、彼女がソール・ライターの作品に日本との親和性を感じてきたことについて、さまざまな角度からアプローチをしていますが、その冒頭部分を引用します。

 「 雪の街角、傘をさす女性など、ソール・ライターの写真には、浮世絵の

  信じがたい遠近法や斬新な構図、日本画を思い起こさせる四季の表現、掛

  け軸のような垂直の空間構成が垣間見られる。これらの写真、なかでもカ

  ラーの作品には「もののあわれ」といえる美が込められている。この幻想

  的かつ抒情的な特質は、無常ではかない美しさに対する鋭い観察眼による

  ところが大きい。」

 このことを、ソール・ライターのアトリエの壁や蔵書、その美術嗜好・読書傾向から、ライターの様式を「印象派と後期印象派と日本美術への敬愛に由来している」とし、「日常的に日本美術を愛好し語ることを好んだ」ことを繰りかえし説いています。

 いわば「ジャポニズム」という潮流との関連、ライターが特に敬愛したボナールはヴェイヤールとともに「ナビ派」(ナビとはヘブライ語で「預言者」の意)というグループに属しており、ボナールのあだ名は「ル・ナビ・トレ・ジャポナール(極めて日本風なナビ派)」であったと指摘しています。

 つまりはボナールなどの「ナビ派」と北斎、光悦、宗達、光琳などに囲まれた自宅・アトリエ空間が、ライターにとって居心地のいい空間であり、その空間から少し外へ歩み出たイースト・ヴィレッジという空間でしか撮影しなかったライターは、当然のことのように自分の信じる「美」に通ずる「美」をもとめることになったのでしょう。

 

 こうした日本的なるものとの親和性を強調したヴェルマールは、最も偉大と評される写真家であるアンリ・カルティエ・ブレッソン、特に初期ブレッソンとの親和性も指摘しています。二人は知己を得ることはありませんでしたが、鈴木大拙を通じた禅的なるもの、そしてボナールと浮世絵への敬愛を共有しており、「二人の写真家は、非常に現代的な人間であったが、19世紀の芸術家の知性と奥深さと慣習にとらわれない生き方」を有していたとしています。

 ブレッソンへの畏敬の念が強すぎて近づけなかったライターは、ニューヨークで撮影するブレッソンをこっそりと撮影した写真(下記)を残しています。

 

 私は、ライター写真に日本の美術や美意識との親和性を強調するヴェルマールの論考を、正当に批評する能力をもちませんが、日本での展覧会に寄せた文章ということもあるのか、いささか一面的に強調しすぎているのではないかと感じています。ヴェルマールによる彼の日本美術や文化への傾倒は本当のことでしょう。それがライターの写真群と、どのように関連づけて捉えることができるかについては、軽々に断言してしまうことに躊躇があります(日本の美術や美意識に私自身が無知に近くてかつ日本人であることが影響しているのかもしれませんが)。

 ヴェルマールは、「ニューヨークのナビ派」であるソール・ライターの人物像と芸術家像を、次の文章で結んでいます。

 「 自分自身、さらには自分の芸術にさえ、なんの重みもおかず、この世に

  存在する以外、人生においていかなる定義された目的や意図ももたず、常

  にうつろいゆく美に対しては敏感な意識をもつ。説くのではなく、ただ見

  つめるのである。」

 <ソール・ライターの写真>は「説くのではなく、ただ見つめるのである」という言葉は、私の印象とも重なるものであり、写真展でいっしょに見ていた多くの方々の印象でもあったように、根拠もなく私は信じています。

  「ソール・ライター撮影によるアンリ・カルティエ・ブレッソン」1959年

 もう一つの柴田元幸の「うしろからあなたの左耳をくすぐる写真」と題する文章では、ライターの写真を、本領であるアメリカ文学、そして1950年代を代表する写真家であるロバート・フランクと比較させながら、その本質を浮かび上がらせていて説得的な論考となっています。

 最初のところで、ライターが60年以上も生活して写真の舞台でもあったイースト・ヴィレッジには、1950年代の新しい潮流を代表するアレン・ギンズバーグやアンディ・ウォルホールも住んでいましたが、柴田さんはソール・ライターの写真にほとんど影響を与えていないことが興味深いと、次のように述べています。長いですが、結論といってもよいところなので、引用しておきます。

 「 ソール・ライターで興味深いのは、こうした時代の変化をまるごと生き

  抜き、近隣に住んでいた芸術家たちともそれなりの交流があったにもかか

  わらず、それが彼の写真にほとんど影響を与えていないように思えること

  である。21世紀に入ってから街を撮った写真を見ても、もちろん写ってい

  るファッションは変わっているが、撮り方自体には変化が見られない。街

  角の細部に目を向けながらも決してローカルカラーにとどまらない奥行

  き、人種・性差・階級といった括りに囚われない自由な被写体の選び方、

  中心を思いきりずらした大胆な構図、鏡像やガラス越しの像の多様、それ

  らすべてに通底しているユーモアーーライターの写真をほかの誰の写真と

  も違ったものにしている特徴は、1950年代から少しも変わっていない。

  しかも、それでいて時代遅れという印象はまったくない。保守でも、前衛

  でもない、「ライター流」と言うしかない姿勢が一貫しているのであ

  る。」

 この文章には柴田さんのいう「ライター流」、その具体的な特徴が的確に捉えられています。

 

 柴田さんはアメリカ詩とつなげて考えてみたいとして、ライターの写真と題材的にも時代的にも近い詩として、フランク・オハラ(1926-66)やチャールズ・レズニコフ(1894-1976)をあげています。よりレズニコフの詩の特徴、つまりその「シンプルな言葉遣い、都市に向ける静かな目、背後に愛情が感じられるからかいのトーン、淡いユーモア」は「言葉遣いはともかく、ほかはいずれもライターの写真にも等しく当てはまる要素である」としています。

 そして、19世紀にさかのぼり、アメリカ最大の詩人と称されるエミリ・デッキンスン(1830-86)とウォルト・ホイットマン(1819-92)を引っぱり出し、その対照性を指摘します。すなわち前者が「人生においても詩作においても自己消去的」であったのに対し、後者は「「私」の問題がそのまま「アメリカ」の問題に直結する」という自己拡張的な詩であったとしています。もちろんライターはディキンスンと大いに通じるものがあるというのです。「自己消去的」であるのはライターの芸術家としての姿勢そのものですし、そういえば、ディキンスンは生前は全く認められなかった詩人であったところも、晩年に高い評価を得たライターに通じるところがあります。

 

 さらに、柴田さんは、このような19世紀の偉大な二人の詩人の対照性が、本丸というべきか、1950年代に重要な仕事をなしたソール・ライター(1923-2013)とロバート・フランク(1924-)の対照性と「似ているように思える」と話を展開させています(本当に同時代の二人だったのです)。

 つまりスイス移民であったロバート・フランクにとっては写真集『アメリカ人』(1958)を作ることがアメリカ人になるための通過儀礼ではなかったのかというのです。フランクにおいても、ホイットマンと同様、「私」の問題は「アメリカ」の問題に直結しているというわけです。

 一方のソール・ライターはこれまで述べてきたように、「近所を歩きながら撮ったものがほとんどであり」、フランクのように『アメリカ人』を作ることなど想像外のことであり、「私」の問題は「アメリカ」の問題ではありませんでした(ライターは世界情勢に強い関心をもっていたが、その写真、芸術においてはヴェルマールの「政治とは無縁の純粋な観察者」でした)。

 留意しておくべきことは、柴田さんが、ディキンスンとホイットマン、ライターとフランクの優劣どうこうというものではなく、両方がいることで「アメリカ詩が豊かになった」し、「アメリカの写真が豊かなものになった」のだと結論づけていることです。そして柴田さんは、21世紀に入ってからライターの写真が「喜ばしくも発見されたということに尽きる」と書いています。

 

 最後のところで、前記の映画の字幕翻訳を担当した柴田さんは、晩年においてもライターが長年の苦労で身につけた「叡智」を「全面的に謳い上げず、自分で自分を疑う姿勢を捨てていない」状態を持続できたことにふれています。そこにソール・ライターのソール・ライターである本質を、柴田さんはみているようで、次の文章で締めくくっています。

 「 (前略)健全な懐疑が、ライターの写真からも見てとれるとテジュ・コー

  ルは述べている。ソール・ライターの写真は、被写体を肯定も否定もせ

  ず、その都度斬新な枠組みを用意して静かに差し出してくる。映画の中で

  の本人の言を借りるなら、あたかも「うしろから忍び寄って、左耳をくす

  ぐる」かのように。ライターの写真を見れば、それこそがこの上なく美し

  く、楽しく世界を祝福する方法であることは明らかだろう。」

  「無題」1952年

  「シャツ」1948年

 本稿は、ソール・ライターの写真展から得た私の印象を、識者たちの言葉で確かめただけのことになってしまいました。

 昨年、当ブログで一番時間をかけてレポートした「ロバート・フランク写真展」から得た印象、そして言葉と比較してみたい誘惑にかられますが、柴田さんの「二人の対照性」をはじめ、これまでのライター写真の特徴にかかる記述で十分でしょう。

 ㊟「「僕の写真は自分の忘れたくないものを写したものだろう」

                               ーRobert Frank:Books and Films,in Kobe ー

                                              [(1)(2-)(2-)]

 

 前記の『ソール・ライターのすべて』に掲載されているライター自身の残した言葉から、私なりのまとめをしておきます。

 撮影場所について私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ(35p)」としたうえで、ライターは「重要なのは、どこで見たかとかということでなく、どのように見たかということだ(90p)」と語っています。したがって、ヴェルマールの「説くのではなく、ただ見つめるのである」との評言のとおり「私はかまえることなく世界を見つめただけだ(134p)」と語りつつも、視線のありよう、つまり「見つめ方」「世界の見方」にこだわっています。そのうえで、ライターは「世の中すべて写真に適さぬものはない。すべては写真だ(54p)」との境地にいたったと理解したいと思います。

 そして、ライターの世界観というべきですが、「写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ(96p)」と、通例の<決定的瞬間>などという写真観に違和感を表明しています。写真家のあるべき姿?を「写真を見る人への写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時々提示することだ(105p)」と語っているとおり、まさにライターの写真は「日常で見逃されている美」を私たちへと差し出してくれているのです。

 このように私には世界が見えたのだ、出会ったのだ、そしてそれは美しいというのが、ライターの写真、とりわけカラー写真ではなかったかと、私は考えています。

 

 最後になりますが、今回の展示作品は1950年代の写真がほとんどでした。ライターは1981年に商業写真のスタジオを閉鎖してからも、その後30年間、それまでと同じように、近所を歩いて撮影していたのです。だから、やはり、どんなに残酷なことであっても、最後の30年の写真を同時に展示すべきではなかったのかと、ないものねだりをしたくなります。昨年のロバート・フランク展はまさにそのようなものでしたから、フランクの持続と変化の相貌をみてとることができたのです。

 柴田さんの言うとおりなら、変わらないライターにも出会いたかった、晩年の写真作品にも出会いたかったと、切に思っています。

  「ニューヨーク、東57丁目で撮影するソール・ライター」マーギット・アープ/2010年

2018.04.28 Saturday

「公の文書」は《幻想》ではすまないのです

 ああきれい、ああ美しい、と独り言を口にしています。この季節のことを、こんな素直な言葉であらわすことなど、この年齢になるまで知らなかったなあと思いつつ歩いています。

 新緑の季節、この色を表現する言葉はきっと沢山あるにちがいないでしょうが、私はもっていません。この透明感に限りなく近づくことのできる言葉とはなんでしょう。沸き立つような薄緑の葉が薫風にかすかな音を立てているさまを楽しんでいます。

 バスをおりると、六甲台にある大学のキャンパスは新緑をたたえた樹木がむかえてくれます。樹木の種別などよくわからないままですが、いちばん葉の緑色が薄く感じられ光にゆれているケヤキが好きです。落葉樹が4月になって新緑をだきかかえて立つ姿はなんだかめでたいような心持ちがします。2日続いた雨の翌朝だからか、馬場では、馬術部員に世話されている馬が4頭、新緑の日差しの中で気持ちよさそうにしていました。

 吉野弘さんの「或る位置」という詩を、部分で失礼なのですが、引用しておきます。「(梢では風と光と遊ぶ賑やかな葉のきらめき)」に、この新緑を仮託したくなったからです。

 「   《 前 略 》

   その樹に私は尋ねる。

   偶然が決めた君の位置を

   君はどのように受け入れたか?

   

   樹から答は返ってこない。

   過ぎだ歳月を

   すべて樹形で語り

   来歴の総量だけで立ち

   それ以外を語らない樹。

 

   (剛直で気むずかしい幹、しかし梢では

    風と光と遊ぶ賑やかな葉のきらめき)

      《以下、略》           」

    吉野弘『詩集 陽を浴びて』(1983年7月刊/花神社)より

  新緑の樹木(くすのきでしょうか?神戸大六甲台キャンパス) [2018.4.26撮影]

  うす緑の葉と樹幹

  4頭の馬がせいぞろい(神戸大学の馬場)

  けやき(大中遺跡公園/大きくないけれど私にとってのザ・けやき)  [2018.4.27撮影]

 こんなに臆面もなく「美しい」と感じる日々ですが、前稿の続きを書くことにしました。いわゆる三点セット問題の背景には<政官関係のゆがみ>とともに<ずさんな公文書管理>が共通していますので、公文書の改ざん、公文書管理問題についてもふれておくことにします。

 前ブログ(「「ウソ」の上塗り、なお「真実」は遠く」)で、辛抱して読んでみてくださいとリンクを貼った保坂正康さんの『昭和史のかたち』「[公文書管理問題]東条軍閥内閣と同様の構図」(『毎日新聞』2018.4.21朝刊)が「有料記事」扱いだということで、即全文を読んでいただくことができませんでした。ですから、本稿で紹介させていただくことにしたいのです。

 

 その前に、「公文書」をめぐる新聞記事の論説から、少し気になった論点を確認してみたうえで、保坂さんの文章を紹介し、考えてみたいのです。

 まず、「公文書」というものの基本のところです。

 2011年4月に施行された公文書管理法の第1条(目的)において、「国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である」《公文書等》は「健全な民主主義を支える国民共有の知的資源」と位置づけられています。そして、公文書の適正な管理等を図ることにより、「行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすること」を目的とすると規定されています。

 つまり行政施策、政策の決定過程につき、現在と将来の国民に対して説明責任を果たすために、「国民の知的資源」である公文書を適正に管理することが必要不可欠という考え方です。

 なお、同条中には、「国民主権の理念にのっとり」同法の規定が定められているという大前提も明記されています。

 

 こうした大前提で「公文書」のあり方が定められているにもかかわらず、今、あんなもってのほかの事態(「財務省が公文書を改ざんし、防衛省は日報を何度も隠し、厚生労働省はほぼ黒塗りの文書を出す」)を招いています。

 このことは「公文書は国民のもの、知的財産である」という考え方がいかに根付いていないことを露呈していますし、役所、行政機関は公文書を「自分だけの文書」として扱い続けているということもできます。

 2011年から3年間、国の情報公開・個人情報保護審査会の常勤委員を務めたという弁護士の森田明さんは、その間の各省庁の姿勢から、次のようなことを実感したと報告しています(『朝日新聞』2018.4.20朝刊「(耕論)「公の文書」は幻想か」)。

 「 「公文書は自分たちのものだから、外部にどこまで見せるかは自分たち

  が決める」というのが、情報公開に対する霞が関の本音だと思います。」

 だから、公開対象を勝手に狭めることはもとより、公文書の管理もずさんで、「根強い隠蔽体質」が続いているというわけです。こうした基本的な体質があって生じる方向性として、森田さんは次のことを懸念し、対策の必要性を説いています。

 「 私がいま一番懸念しているのは、各省庁が多くの公文書を、公開や保存

  の対象となる「行政文書」の区分から常に外そうとしていることです。」

 「官僚が仕事でつくった文書はほぼすべてが行政文書であると考えるべき」であるにもかかわらず、「情報は自分たちのもの」という感覚から抜けきれていないことから、不都合な文書は公開しないようにする性癖が染みついているというわけです。

 そしてイラク派遣の日報が当初、「行政文書」ではなく、「個人資料」とされたように、「個人資料」という区分の抜け穴が残っており、これを一刻も早くふさぐべきだと警鐘を鳴らしています。

 

 国民の知的財産である公文書に対して、こんないい加減な管理(改ざんまで手を染めてしまう)となっており、そしてまたこうした状況に対する国民の意識も低いという現実の前に私たちは立たされています。

 ここで長年地方公務員であった私の感覚、実感を告白しておかなければ、不公平になるように思います。

 私自身も自分が関わった文書を「国民、県民、市民の知的財産」として意識することは、正直なところあまりありませんでした。とりわけ実際に仕事をしている際にはやはり「自分たちのための文書」だという意識が先にきます。仕事をするために必要な文書を作成しているという意識ということができます。

 そんな公務員でも、外部からの文書の公開請求があって、いざ文書を公開するというシチュエーションになってはじめて、根幹にある「公の文書」の考え方を自覚したというのが本当のところです。

 そしてまた、ああでもないこうでもないと検討した途中経過のメモなどは、前記の森田弁護士の書くとおり「官僚が仕事でつくった文書はほぼすべてが行政文書であると考えるべき」であるにもかかわらず、こんな検討過程の文書は「公文書」という概念の外にあるもの、私的メモと見做したいという気持ちをもっていました。こうした境目の難しさを感じたのも事実なのです。

 言い訳を書いておくとしたら、もちろん、次に私の仕事を引き継ぐ方、そして組織全体に、私の考え方がわかるようにわりと詳しい文書をつくって共有したり引き継いでいくということはよくやっていたということができます。

 いずれにせよ、こんな「公の文書」についての意識の低い私のことを、それもだいぶ以前のことを一般化することはできませんが、株式会社等のことも想像していただければわかってもらえるように、「組織」というものの抱える限界(病弊ということもできます)は官民という区分を越えて地続きなのだと、今の私は理解しています。もとより、それではいけないことを、後悔の念も感じつつ、今になって、オールド元公務員は改めて学んでいるということです。

 「公の文書」は幻想なのかという問いは、私に対しても向けられています。

 

 話がそれてしまいましたが、保坂正康さんの『昭和史のかたち』4月分の紹介へと移ります。「[公文書管理問題]東条軍閥内閣と同様の構図」といういささかショッキングな標題です。

 保坂さんは、現下の三点セット問題の原因を、次の主要な3点が重なり合って生じていると提示します。

 「(1)現内閣の強圧政治と世論誘導策

  (2)官僚機構の腐敗と道徳的退廃

  (3)行政文書管理のずさんさと歴史的無責任   」

 もちろん単純な比較はできないし、時代背景も異なるのだが、現在と似たような状況は過去にもあって、最もわかりやすいのは「太平洋戦争の末期と終戦時の国家体制の崩壊」に際して、この3点が表出していたことだとします。とくに顕著なのは、「太平洋戦争の3分の2の期間を担った東条英機内閣」であったというのです。

 そして「この内閣の独裁政治と自らの延命しか考えていない首相により国民はおびえ、沈黙し、そして面従腹背を生活上の知恵」としたが、今の中央官庁の官僚だけを例をとると、同様の構図ではないかと次のとおり記しています。

 「 官僚が身を守るためにうそをつき、責任は下僚押しつける。そのために

  自殺者まで出ている。何より歴然たる事実を真正面から否定する高級官僚

  の心中には私益しかないとはいえ、相当の恐怖心があるということだろ

  う。その恐怖心は報道の中からも十分にくみとれるのだが、私は彼らのお

  びえの深さを知り、がくぜんとする。」

 こういう光景に直面していると、保坂さんは「東条内閣と同様の時代が来ている」ということが脳裏に浮かんだのです。

 行政機構において行政文書の管理は重要な責務であり、これを放棄するのは「当事者たちが単に責任逃れしただけでなく、歴史的犯罪を犯している」ことなのだと注意を喚起します。その例として、太平洋戦争の終結時に、「高級官僚、軍官僚は、あの戦争に関する書類をすべて焼却する」ように命じたことを取り上げ、これは「戦争責任の追及を妨害しようとの意思であった」と指摘しています。このため、戦争指導者を裁く東京裁判では記録文書がないことから、「被告側が自らの潔白を証明したくとも証拠となる公式記録を焼却していてうまくいかない」など、喜劇ともいうべき光景が演じられたことにふれ、そこに「日本の官僚機構の慣例」をみているのです。

 そして、手厳しい言葉で、現下の構図が東条軍閥内閣と同様だと繰りかえし断言しているのです。

 「 現代日本では主権者(国民)に示した文書記録を平気で手直ししたり、虚

  偽の説明をしたりする。そして責任は、官僚機構の末端に押しつけていく

  との構図を繰り返している。

   私は、前述の3条件が重なり合って描き出されている日本の現在が、

  「2度目の歴史だ」と断言してはばからないのである。」

 

 以上が本稿で紹介しておきたかった保坂さんの論説ですが、別稿(『朝日新聞』2018.4.25朝刊「(耕論)歴史奪う、公文書改ざん」)においても、戦争の終結直後に日本各地で起きた「公文書を大量に焼却する事件」に言及しています。かくして「公文書が焼かれた国には、歴史の空白が生まれ」た結果、「戦争の政策がいつどう決定され、どう進められたのか」について国民が知ろうとしても「手がかりとなる記録」がないのだと書いています。

 だから、あの戦争を知るために、保坂さんは80年代に米国の国立公文書館に行って、調査したのです。こうした事態を、次のとおり指摘しています。

 「 私たちは確かに、為政者に政治を任せます。ただ、歴史を確定させる権

  限までは渡していないはずです。戦前も今も日本の為政者に欠けているの

  は歴史への責任意識、歴史への良心だと私は思います。」

 一方、同じ(耕論)で歴史学者の磯田道史さんは、江戸から明治までの日本は記録大国であったとしたうえで、その国がいま「「改ざんする」「うそを書く」「残さない」という公文書3悪で歴史に残る問題」を起こしているとの表現で批判しています。「政治家と公務員は暴れ馬」であって、「乗る国民がそれを操縦するための手綱が公文書」であるのだから、今回の公文書改ざんは、「国が主権者たる国民から歴史を奪う悪質な行為」と断じています。

 

 この(耕論)には、保坂さんと磯田さんの2人のほかに、作家の星野智幸さんが寄稿しています。作家らしい比喩を用いながら、言葉を扱う者として、「公文書の改ざん」がもたらす事態に強い危機感を表明しています。

 星野さんはまず「公文書改ざんは国家が言論を独占する行為だと、危惧します」から、この短文をはじめています。

 そして、言葉は、憲法や法律などの「公の言葉」と、私的な内面を表す「個人の言葉」に分類できるとして、公文書改ざんとは「公の言葉」が官僚個人の意思で決まったことになり、「個人の言葉」が公に奪われかねない事態に陥るということになると指摘しています。

 つまり公文書改ざんが日常的な世の中では、「個人の言葉」が恣意的な「公の言葉」に置きかえられてしまうのであり、「公の言葉」に沿わない個人は抑圧され、それを目にした人々は公の意図に合わせようとし始めるというわけです。「個人の言葉」が消滅してしまいます。

 まさに今次の政権中枢と高級官僚の関係、高級官僚と下僚との関係を見事に想起してしまいます。

 そしてトランプ大統領の登場した世界を次のように描きます。

 「 公の言葉による歴史のねじ曲げは、SNS時代のいま、急速に広がって

  います。トランプ政権のやり方は、事実かどうかより、「恣意的な内容

  を大多数に信じさせる」ことで既成事実化してしまうことです。唯一対

  抗できるのは公文書とメディアですが、公文書がねじ曲げられればメ

  ディアも太刀打ちできません。」

 こうして「警察や軍という物理的な暴力」とともに、「言葉」という2本柱を公が独占したら、「完全な独裁国家が誕生」することになると、警告を発しているのです。

 星野さんは戦前の日本でも国民が黙る時代がたかだか5年や10年できたように、「強権化が進む潮流に乗れば、日本もあっという間に時代が逆戻りする可能性がある」というのです。

 こうした流れを止めるために、星野さんは次のことが重要だと考えています。

 「 流れを止めるには、まずは人々が言葉の書き換えや改ざんに関心を持ち

  続けることです。そして自らが二極化のどちらかに陥らないことも大事で

  す。今は「善」と「悪」が二極化し、「悪」なら全部悪いとなってしま

  う。でも実際は官僚の中にも、改ざんや隠蔽をやめようと闘っている人が

  います。こうした人たちを排除せずに力に変え、議論していくことが大事

  です。」

 

 では、どうすればいいのか。

 所詮「公の文書」など幻想にすぎないのだとうそぶいていてすむ話ではありません。世界基準という言葉は好きではありませんが、まともな「公文書」文化を、創造、定着させていく方向の動きが喫緊の課題ということになります。

 一言でいえば、意識改革と制度改正整備の組み合せによって、国民の支持を受けつつ、そのための人員と予算を投じることが必須ということになります。今回、私の読んだ新聞記事にも、第三者機関の設置など具体策についての提言が幅広く出されていますが、本稿ではそこまで立ち入ることはしないでおきます。

 今回の一連の問題を、公文書管理問題に矮小化させようという動きが目立ってくるでしょうが、問題の本質から目をそらしてはなりません。ジャーナリストの布施祐仁さんが書いているとおり(『町日新聞』朝刊2018.4.13「論点 ずさんな公文書管理」)、情報公開制度だけの問題ではなく、現政権の「ファクト(事実)を軽視した結論ありきの政治」が主たる原因なのです。現政権のもとめる「結論」に沿うように、つまり同調圧力を受け続けることにより、「事実」をゆがめてしまう、それと整合するように答弁してしまう、答弁に反しないように公文書まで書き換えてしまう、そして政権は官僚に、高級官僚は下僚に責任を転嫁する、そこに今次の問題の本質なり構図があるというべきです。

 だから、まずやるべきことは何か、やらなければならないことは何か、それは明白です。現政権が今次の問題への対応策を取ることはできませんし、本末転倒もはなはだしいということになりましょう。

 

 新緑の美しさを語りながら、現政権の暴走がもたらした現実を2回にわたり言葉にせずにはおれませんでした。吉野さんの詩の表現、「剛直で気むずかしい幹」と「梢では風と光と遊ぶ賑やかな葉のきらめき」、そこに世界のメタファーを感じますが、こんな世界の樹幹自体に異変が起こっているのではないかというおそれからもはや自由ではありません。

2018.04.21 Saturday

「ウソ」の上塗り、なお「真実」は遠く

 「ウソであることが明白なのに、不法でないゆえに逃げ切るゲーム」、つまり「事実の解明がなければ「ウソの世界が正当性」を帯びてしまうという現実」世界に、首をかしげながらも昨年来付き合ってきました。

 昨年8月5日付当ブログ(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」)において、カントを基底においた中島義道の哲学的論評に依拠しつつ、<おわりに>のなかで次のことを強調しました。

 「 今回の現政権の「国会でのウソ答弁」は他人を騙すのみならず、自分を

  騙す、「国家のためという善意に基づいている」との構造をもっており、

  カントはこんなウソを「善意のウソ」と呼び、ウソの中でも最も悪質なウ

  ソだとみなしていると指摘していました。

   ここから具体の方法論が出てくるわけではありませんが、今回の三点

  セット(㊟森友・加計・日報問題のこと)が「ウソであることは明白なの

  に、不法でないがゆえに逃げ切るゲーム」で終わらないようにすることが

  何よりも重要だと意識することができました。すぐに内閣支持率が回復す

  るような状況であってはならないのです。」

 昨年の夏、このように考えていたのですが、事態は正反対の方向へ動きました。つまり懸念、心配していたことが、現実のものとなりました。昨年の通常国会終了後、政権・与党は臨時国会の開催要求を一切拒否したまま、秋には解散総選挙が行われ、そして与党の大勝という結果になったのです。

 そして、何事もなかったかのように、私たちの無関心をあざ笑うかのように「逃げ切るゲーム」を見せつけられました。

 

 でも、新たな「事実」によって三点セットはゲームオーバー状態から水面へと浮上してきました。

 今年の3月から、事実の解明を拒む政府以外から、主に報道を通して「事実」が次々と明るみに出てきたのです。そのことによって、私を含め多くの国民が昨年の国会答弁を「明白なウソ答弁」と受けとめたことの真実性が、次々と明らかになってきました。これに対し、政府は、というより政権中枢は、なお、この「事実」を歪めたり、すり替えつつ、「責任の所在」をずらすことに狂奔し、いまだ責任をとろうとしていないというのが現状です。

 上記の引用文に「「国会のウソ答弁」は他人を騙すのみならず、自分を騙す、「国家のためという善意に基づいている」との構造をもっており」とありますが、政権中枢は、もはや「自分を騙す」ことも放棄して、さらに「恥も外聞もなく」権力の延命しか考えられない状況にあるとみるべきでしょう。

 小泉元首相が4月19日付『週刊朝日』で「……嘘の上塗りをするからおかしくなる。……なのに、バレている嘘をぬけぬけと今も言っているなぁとあきれているだんよ、国民は」と語っているそうです(2018.4.19「AERAdot.から)。「事実から遠く離れて」迷走する政治の向かう先は、これはおそろしい事態だといわなければなりません。

 私も含め「あきれている国民」がどう意思を表現するのかが問われることにもなるでしょう。

 こんな「真顔で「ウソ」をつく政治」「権力の私物化」を目のあたりにしながら、一方で、今年の春から、「道徳の教科化」がはじまっています。ブラックユーモアの世界だと笑ってすましてしまうことはできますまい。

 

 これ以上書くと心が寒々としそうになりますが、なるほどと思ったことを少しだけ追加させていただくことにします。

 長谷部恭男・早大教授と杉田敦・法大教授の対談(『朝日新聞』「<考論>森友・加計、「うみ」なぜ生じた」2018.4.16)からです。

 一つは政権を擁護する人たちから「有罪を立証する責任は疑いをかけている側にある、確たる証拠がなければ「無罪推定」との声がある」ことについて、いわば上記の「「ウソの世界が正当性」を帯びてしまう」マジックに対し、長谷部教授の「政治責任は無罪推定ではない。刑事裁判ではないのだから当たり前」という発言を受け、杉田教授は次のように述べています。

 「 不適切な暗黙の権力行使があったという「合理的な疑い」が固まれば、

  確たる証拠がなくとも政治責任は成立する。この認識を広く共有していか

  ないと、不適切な暗黙の権力行使は是正できません。」

 「バレている嘘をぬけぬけと今も言っている」ことができているのは、政権中枢が今になっても「信なくば立たず」などと中枢神経をなくしたように発言できる「超能力」者だからでもありますが、政権擁護派の識者からの「無罪推定」論に反応してしまう、やさしい国民であることにも一因があります。「政治責任は無罪推定ではない」ことを忘れないでおきましょう。

 もう一つ、「政権擁護派の、いつまでモリカケをやっているのか、国会にはもっと重要な政策や法案の審議が期待されている」との指摘について、一理あるとする長谷部教授はそのためにも「早く政権を交代させ、正常な国政を回復」させることだと断じています。そして今回の「公文書の改竄」に遭遇した官僚組織が詳細な公文書を残さなくなり、「情報公開システムが整備されるほど透明性が失われ、ブラックボックス化していく」というジレンマへの対策を問うた杉田教授に対し、長谷部教授はそれも「政権を交代させることだ」と、次のように発言しています。

 「 (政権の交代は)政権と行政組織の思考様式が一体化することを防ぐ効果

  の方が大きい。内閣人事局自体が悪いと思いませんが、人事で威圧するこ

  とをいとわない政権であれば行政組織の同調志向が強まるのは当たり前で

  す。それで「うみ」がたまった時は政権を変える。それしかありませ

  ん。」

 

 さて、前記のブログにおいて、我が国の三点セット問題に象徴される政治は「ポスト・トゥルース」の政治なのかという問いかけに直面していたとし、「私は「現下の政治状況」を、「事実が二の次になる状況」がベースとなった虚構性という点において「ポスト・トゥルース」の政治の一つの象徴と考えている」と評価していました。

 それから8ヵ月余、今の事態にあって、その評価を変える必要を感じていません。いやむしろ、「事実」が明らかになるなかでも「ウソにウソを重ねつつ」、平然と政権に居座っていることのできる現在の政治状況こそ(そんな意味でもトランプ大統領の「友だち」です)、それこそ「ポスト・トゥルース」の政治というべきだと考えています。その定義「客観的な事実よりも、感情や個人的信条へのアピールが影響力を持つ状況」というべき世界の政治情勢が、悪貨は良貨を駆逐するというべきか、確実に日本にも反射していることも疑いのないところです。

 アメリカ、ロシア、中国など大国で発生している政治状況、「トゥルース」をめぐるごくごく危ういの政治構造の変化は、日本にも伝染している、こんな胸苦しい思いにとらわれます。今は単純化の誹りを免れませんが、私としてはグローバル化というなかで分断化の広がる国民諸階層を強権的に統合させるための政治権力のあり方というか、そのような問題意識を強くもっています。

 いずれにしても昨年8月の前記ブログ「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」という表題が、そのまま現在の政治状況を表しているという事態は<大きな危機>と申し上げるしかないわけです。さまざまな努力によって「事実」は近づいていますが、なお「真実」は遠く、臆面もなく「ウソの国会答弁」が繰りかえされる状況は続いています。

 

 私のいささか感情的な文章に付き合わされるのが嫌になられた方にも、<大きな危機>の実相を明示した二つの記事を読んでいただきたいのです。

 一つは現下の「公文書管理問題」を戦時軍閥内閣と同様ではないかと捉え、保坂正康が日本の現在を「2度目の歴史だ」と断言してはばからないと書いている文章です。

 もう一つは2002年に来日して今に至るル・モンド紙の東京特派員が現在の日本を「みんなが¨民主主義のお芝居¨を演じているだけなのではないか?」と、「民主主義の深刻な病」そのものだと論じた文章です。

 いずれも重い石を呑んだような気持ちになりますが、辛抱して読んでみてください。

 

 🔹「[公文書管理問題]東条軍閥内閣と同様の構図

        『毎日新聞』2018.4.21朝刊「保坂正康の昭和史のかたち」

   ㊟ネットは「有料記事」で全文を読んでいただけないのが残念ですし、申し訳ありません。

 

 🔹「外国人特派員が森友「公文書改ざん」に見た日本の深刻な病

                    『週刊プレNEWS』2018.4.5/フィリップ・メスメール

 

 以上が本稿の本題です。こうした現況の基底にある「フェイク・ニュース」の問題にもふれておくことにします。

 当ブログにおいても、英国のEU離脱をめぐる国民投票やトランプ氏が当選した米国大統領選挙などで「ウソ」が政治を動かしたと指摘されるなかで、昨年の5月6日付で「<フェイク・ニュース>と<ポスト・トゥルース>の世界ー民主主義社会のインフラとはー」を報告しました。もとより、我が国の三点セットを中心とする政治状況も意識してのことでした。

 ブログの最後のところで、民主主義のインフラとしてふさわしい言論空間が機能するためには、ネット、SNSの情報空間を想定すると容易ではないとしたうえで、テレビや新聞などからえた断片的な知識に基づき、次のようなまとめを不安気に記していました。

 「 既存のメディアを含めたジャーナリズムが、フランスの「クロスチェッ

  ク」のような団体を立ち上げてファクトチェックを核として検証を開始す

  ることが、当面の課題ではないでしょうか。情けないことに、大手新聞社

  をはじめとする関係企業とジャーナリストの幅広い連携が我が国で可能な

  のかが不安視されるところではありますが。

   大手のメディアは、加害者でもあるという危機感をもって、同時に意見

  の相違を前提として、ネットの情報空間においても「ファクトに基づいた

  フォーラム機能」を共同で作り出しているいくことが重要なことだと考え

  ます。(以下略)」 

 それこそ検証不足ですが、ネット上で調べてみるかぎりでは、この不安もまた的中しています。

 わが国でも研究者やジャーナリストを中核とする「ファクトチェック・イニシアティブ」という任意団体が昨年の6月に設立され、本年1月にNPO法人化しています。ちょうど今日(4.21)と明日(4.22)に、大阪と東京で「設立記念セミナー」が<「ポスト真実」時代のファクトチェック実践を考える」>と題して開催されるとのことです。これからの活動に期待し、その動きをフォローしていくつもりです。

 こうした動きはありますが、「不安が的中」というのは、前記の「大手新聞社をはじめとする関係企業とジャーナリストの幅広い連携」が、今のところは見えてこないということです。

 

 このFIJという団体にも関与している方のようですが、昨年10月10日付でバズフィード・ジャパンの編集長である古田大輔の「真偽が危ういフェイクニュース時代の総選挙 日本でもファクトチェックが始まった」という記事を一部紹介しておきます。

 古田さんの問題意識は、フェイクニュースは「我々の情報の生態系全体を蝕んで」おり、「取材の人員や予算が限られている新興メディアだけでは検証する力が足りない」にもかかわらず、日本の大手メディアは取り組みがまだまだ遅れているということです。たとえば、NPO「ファーストドラフトニュース」というフェイクニュース対策に取り組んでいる団体は世界中のメディアやテクノロジー企業、研究機関などとパートナー関係を結んでいるのだそうです。同団体がアメリカに所在するということもありますが、他国とちがい、日本では前記のEIJだけでマスメディアは名前はないということです。

 このような古田さんの問題意識を、私もきっとそうなのであろうと推測しつつ共有しています。

 

 古田さんの用いた「我々の情報の生態系全体」ですが、それは前記の「ファーストドラフトニュース」の戦略リサーチディレクターであるクレア・ウォードル氏の記事「フェイクニュースは複雑だ」にあったとのことです。「(フェイクニュースは)たんなるニュースだけの話ではない、情報の生態系全体に関わる問題だ」から採られています。

 この記事で紹介されている7分類を元に、古田さんは6つに分類を試みています。長いですが、基本知識としてメモしてみます。

 「⒈誤情報:取り上げられた事実や事象に誤りのある情報

  ⒉偽情報:取り上げられた事実や事象がそもそも存在しない情報

  ⒊不正確な情報:取り上げられた事実や事象に誤りがあるとまでは言えな

   いが、正確でない情報

  ⒋ミスリーディングな情報:取り上げられた事実や事象に誤りがあるとま

   では言えないが、見出しや表現の仕方で誤解を生じさせかねない情報

  ⒌根拠のない情報:取り上げられた事実や事象に誤りがあるとは言えない

   が、それが事実であると証明する根拠がない情報

  ⒍風刺や冗談:取り上げられた事実や事象がそもそも存在しないか、大幅

   に脚色されているが、風刺や冗談であり、人を騙す意図のない情報 」

 こうした6つの情報はメディアがニュースとして発信するものだけでなく、個人のブログやツイートが元になるものもあって、「情報の生態系全体に関わる問題」と言われる所以だと、古田さんは説明しています。⒍の「風刺や冗談」は、意図はなくても、本物のニュースと信じ込んで拡散する人によって、結果としてフェイクニュースと同等の効果をもつ場合があるというのです。

 一方、トランプ大統領のように、自分に不都合なニュースに「フェイクニュース」とレッテルを貼る風潮があるとしています。

 私のようなささやかなブログでも上記の定義から除外されるわけではありません。

 いずれにしても、「フェイクニュース」は「情報の生態系全体に関わる問題」であることを意識しつつ付き合っていく必要があることを確認しておきましょう。

 

 最後に付録を付けさせてください。

 古本屋さんで『珈琲のことば』という2016年刊の新しい本に出会いました。副題が「木版画で味わう90人の名言」とあるとおり、箕輪邦雄さんという方が、コーヒーにまつわる文章や詩を、10年がかりで木版画として彫りこみ、一冊の本にまとめられたものです。巻末には「珈琲とカフェ文化の歴史」という年表が附されています。

  箕輪邦雄『珈琲のことば 木版画で味わう90人の名言』 2016年3月刊/平凡社

  表紙の木版はボブ・ディランの「Blowin´ in the wind」(1962年)

 この年表には、「1640 オランダの貿易商がヨーロッパに初めて珈琲を輸入する」とあって、その次に「1640頃 オランダ人が長崎出島に設立されたオランダ商館で初めて一部の日本人にコーヒーを供する」とあります。ほぼ時差がないということでしょうか。この年表も引きながら、片岡義男さんは「歴史上、初めてコーヒーを飲んだ日本人はいったいどこの誰か」という小説仕立ての文章を書いていて目を引きました。

 90人の短い詩文で味わい深く感じたものを2つ掲示してみました。「イギリス清教徒」と「清水哲男」です。前者は「なるほど」と感嘆しましたし、後者は「自分のことだ」と思ったからです。

  「偉大なる覚醒者コーヒー」より匿名詩(1674年)

  「『日本の名随筆 別巻3 珈琲』あとがき」

 ひつこいですが、もう2つ。藤浦洸の「一杯のコーヒーから」と黒田三郎の「微風のなかで」という詩です。前者は最高のコーヒー賛歌ですし、後者は深煎りコーヒーという感じです。

  「一杯のコーヒーから」(1939年)

  詩集『渇いた心』より「微風のなかで」

 わからないままなのは、ボブ・ディランの「Blowin´ in the wind/風に吹かれて」と「One More Cup of Coffee」が採られたうえで、前者が表紙にもなっているのです。他のすべての方の「ことば」には「コーヒー」「珈琲」「Coffee」という語彙が必ず入っているようですが、入っていないのは「風に吹かれて」だけなのです。どうしてそんな「風に吹かれて」が木版で刷られ、表紙にもなっているのか、箕輪さんがたんに好きなんだ、詩の雰囲気がコーヒーを連想させるんだなどと思ってはみても、正解はそれこそ「風に吹かれて」います。

 謎は謎のままでということにいたしましょう。 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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