2017.10.20 Friday

雲の名前ー『関口良雄さんを憶う』ー

 先ほどまで小雨が残っていた秋の夕暮れの空に、名前のわからない雲の形をみつけました。

 最近でこそ空を見上げたりしますが、これまで意識的に雲を眺めたということがほとんどありません。空にある雲というだけでその名前を呼ぶことができないのです。見ないから知らないのか、知らないから見ないのか、よくわかりませんが、雲の名前も知らないままで、こんな年齢になってしまいました。

 PC検索すると、雲には10種類あって、それぞれ聞いたことのある俗称が付いていることが写真入りで説明されています。私が実際の雲の形と雲の名前・俗称が一致しているといえるのは、積乱雲、いわゆる入道雲・雷雲の一種類しかなさそうです。すじ雲、いわし雲、ひつじ雲など呼称は聞いたことがあっても、あの雲は〇〇〇雲だと確信をもって呼べそうにもありません。

 「あれは〇〇〇雲っていうんだ」と孫に説明することもできない、まことに役に立たないおじいちゃんです。言葉は知っていても具体物の像と一致しないことが大変多いのです(逆もまたしかりです)。私の場合は特に植物、動物がそうです。そんな暮らしをしてきたと申しあげるほかありません。

 それにしても、宇宙とか、細胞とか、普通の視力では見えないものを名づけた言葉がどんどん増えてきて、自分の目で見えるものを名づける言葉が失われつつあるというが現代の世界なのかもしれません。たんに自分のことを棚にあげているだけのようですが、そこに現代を生きる人間の空虚感や、さらにいえば今の世界の困難さの一つの要因があるのではないかと感じたりします。

 今更ではありますが、せっかくこんな時間がもてたのですから、せいぜい空を、雲をポカンと見上げ、その不思議を感じてみることにしたいと思います。

 

 あざやかな赤色のヒガンバナが咲き、そして枯れ、10月半ば、喜瀬川沿いに群生するコスモスが、黄色というよりオレンジ色に近い花弁を全開していました。大中遺跡公園内のケヤキやイチョウの葉も少し色づいてきています。

 コスモスはラテン語で秩序を完結した世界体系としての宇宙のことだそうで、反対語はカオスです。まさに混沌を絵に描いたような世界情勢にあって、この国では高笑いの聞こえてくるような予定調和の選挙が行われています。とにもかくにも選挙です。前回2014年12月の衆議院議員選挙の小選挙区では、自民党の得票率48.1%に対し、議席率は75.6%です。報道によると、再びこの現象が生じる可能性は大です。そして選挙後の何食わぬ顔のリセット。

 棄権は危険で現状を肯定、固定するだけです。空しさが消えるわけではありませんが、たとえ次善の策であっても投票だけは行うことにいたしましょう。

  雨上がりの夕暮れの空にこんな雲が出ていました[10月14日]

  道端のヒガンバナです[10月7日]

  喜瀬川沿いのキバナコスモスです[10月14日]

  常緑樹に囲まれてケヤキが色づきはじめています[10月14日]

 

 先日、関口良雄さん(1918-77)の『昔日の客』を読んでなんだか懐かしくうれしい気持ちになって、登場する作家たちのことや復刊の経緯などを紹介させてもらいました(「それとこれとは別のことですがー関口良雄『昔日の客』ー」)。

 昭和52年8月の関口さんの死、翌53年10月には『昔日の客』の刊行、そして翌11月には私家版として追悼文集『関口良雄さんを憶う』がまとめられました。同じ夏葉社から復刊された同書も神戸元町の古本屋「1003」で手にいれましたので、今回は前回分に追加する形で紹介させていただくことにいたしましょう。

 

 この追悼文集には26名の方が関口さんを偲んで文章を寄せています(前ブログで登場した野呂邦暢さんも「花のある古本屋」を寄稿しています)。タイトルの「関口良雄さんを憶う」にふさわしい文章からは自ずと関口さんの個性が現れてきますが、二つのことが際立ってくるようでした。

 一つは話し好きで電話魔で筆まめだったことです。多くの方が関口さんから送られてきた手紙やハガキのことにふれています。そこにはよく俳句が書いてあったみたいで、そんな思い出を記している寄稿者が半数ほどもいます。

 もう一つは歌い踊る人でもあったということです。断酒の前後も変わらず、気分がのると歌の出る人で時には止まらなくなったり(自己流の短歌の朗詠もしていたとのとこと)、踊りだしたら本人が「ああ、どうしても止まらなかった」という風なところがあった人だったようです。

 昔はこんな人もいたよなあともいえますが、時に度を越したりもできる人、常識的な枠組みからはみ出すことのできる人であった関口さんを、それは詩心から離れなかった関口さんの本領の発揮、愛情の発露として、多くの人たちが驚きとともにそんな関口さんを愛し関口さんに惚れたのだと感じました。

 

 関口さん(俳号銀杏子)の俳句のことについて、師匠であった加藤楸邨さん(1905-1993)が「二つの心のこりー関口銀杏子君と私ー」を寄せています。

 なぜ作風の違う自分の選を受けようとしたのか、それがながく継続したのはなぜだったかを、関口さんが生きていたら知りたかったというのです。加藤さんは関口さんが「風狂一途といってよいユニークな作風」で洒脱とか風流と評したくなるのに対し、そんな境地から「いささか縁の遠い、ぎこちないぐらいに野暮ったいゆき方」の自分と対称的だったのにということのようなのです。

 加藤さんはそんな異質に近いもの同志が俳句を続けた場合、「在来の自分のものとも選者の世界ともちがった、どちらをも内に融かしこんだやうな新しい作風が徐々に、あるいは突如としてあらわれてくることを」たびたび経験しているから、そのことを関口さんにも予感していたのにと記しています。「この目で確かめるところまで君の方が生きてゐてくれなかった」、そんな心のこりがあると関口さんの早すぎた死を悼んでいます。

 もう一つは、関口さんは加藤さんの全ての句集を筆で書いて和とぢの冊子にしつつあったそうで、「全部出来たら、箱に何か書いて下さい」と言っていたのに、未完に終わってしまったという心のこりです。「銀杏子といふ一人の人間の念々とからみあった自分の句を見るはずだった」「そこで何かを知ることができた」と思うのだがと、関口さんの死を惜しんでいます。

 どうして筆書きなのかといぶかる加藤さんに、関口さんは「念を入れて味はひたいので」と羞かむように言ったのだそうです。そのうち加藤さんは筆書きの句が活字で読んだ場合とかなりかわった感触でひびいてくる、「私が詠んだときにあったはずの体臭のやうなものをとり戻している」と感じるようになってきていたのにと悔やんでいます。 

 

 関口さんの俳句を、この文集に寄せられた追悼文の中から順不同で選んで紹介しておきます。

 「山眠る山の子に絵本送らねば」「囀りやごろりと海が横になる

 「春の夜の鼠のしっぽ見えかくれ」「下曽我の小さな駅に銀杏散る

 「枯れ枯れてすすきの人となりにけり

 大病、手術の句のことを記している方も多いのです。

 「採血や都わすれにはげまされ」「眠る間も花咲きをるよ雲間草

 一方、加藤楸邨さんはウィキペディアで代表作を読んでいただくとして、小沢信男さんが『俳句世がたり』(2016年12月刊/岩波新書)で引用されている二句を再引用します。

 「梅雨さむし鬼の焦げたる鬼瓦」「夕映えて紫陽花かげの子の臍よ

  『関口良雄さんを憶う』尾崎一雄、山高登編(復刻版平成23年2月刊/夏葉社) 

  同上 目次

 

 もう一つだけ追悼文集から紹介しておきたいのです。『昔日の客』で「可愛い愛読者」として描かれた木村百合子さんの「俺の写真箱」です。

 「可愛い愛読者」には「百合子さんが初めて尾崎さんの本を探して私の店に来たのは18、19歳の頃だった」とあります。「明るい娘でよくしゃべり、面白い事を言っては私達夫婦を笑わせ、我が家の息子・娘達ともたちまち仲良しになった」というのです。尾崎さんとは「尾崎一雄さん」のことで、関口さんが一番面白かった小説はと聞くと、ためらうことなく「『懶い春』です」と言われた時には「思わずうなったほどだ」と書いています。

 百合子さんの「俺の写真箱」には「とにかく気難しい偏屈な人だと噂に聞いていた」関口さんとの初めての出会いが次のように書かれています。

 「 この人が私の好きな尾崎一雄先生の文学書目を造った人かという思いで

  顔をまじまじと見た。しかし予想はみごとに外れ、やさしく穏やかな話し

  ぶりに引き込まれ、その日私はお昼と夕飯をご馳走になり、奥さんの入れ

  てくれるお茶と大好物の和菓子を前に閉店時間の夜八時まで、なんと十時

  間も初対面の関口さんと話し続けたのであった。」

 初めて顔を出した古本屋さんでこんなことになるとは、いくら関口さんの敬愛する尾崎一雄の愛読者だからといってもちょっと想像しにくいですね。関口さん、関口さんご夫婦もすごいですが、百合子さんも百合子さんです。「関口さんへ遊びに行ったら寝る時間にならないと家へ帰らないという生活を五年した」後、百合子さんが結婚して博多へ行くまで、こんな交流、交際が続くのです(それからも手紙のやりとりとして続きます)。

 

 二つのエッセーのハイライトは、百合子さんが「文学少女のいやらしさもなく、カラッとした性格」だからと、関口さんが小田原市下曽我の尾崎一雄宅へ連れていったところです。関口さんは尾崎さん宅に滞在した3時間の間、百合子さんが「固くなってか、一言もしゃべらなかった」とあります。そして、尾崎夫妻が坂の途中まで送ってくれた時、「先生、握手さして下さい」と言って握手を求めました。「孫娘ほどの百合子さんとの固い握手は、はたから見ていてもなんともほほえましい風景だった」と関口さんは記しています。

 百合子さんの「俺の写真箱」では、尾崎先生を訪問してその帰りに、もう一人の同行者(編集者?)が「君のように何の取柄もない人は若さが勝負だから早くお嫁に行く方がいい」と言ったことへの関口さんの反応が書かれています。

 「 すると関口さんは、何の取柄もないなんて言い過ぎじゃないか、と酔っ

  ていたせいか強い口調でいった。私は関口さんの思いやりに感謝しながら

  も、口では東京まで間があるから眠った方がいい、少し酔ったのでは?と

  関口さんを酔っぱらいに仕立ててその場をつくろったりした。それからし

  ばらくして関口さんは本当にお酒を断った。」

 そして、続けてこうあります。

 「 同じ頃、私は縁があって結婚した。都合で三分と決められたテーブルス

  ピーチの時間を気にしながら、三十分祝辞を述べてくれた関口さんの一語

  一句を聞いていた私は涙がにじんで仕方なかった。」 

 関口さんと百合子さんの関係も「縁があって」出会うべき人と人が出会った関係と申しあげるしかありませんね。

 

 こんな深い交流をもった二人のエピソードをこうして伝えることができるのは、なんといっても二人が書き残してくれたからです。そして復刊できたからでもあります。

 前ブログで野呂邦暢さんのことに焦点をあてたエッセー「昔日の客」のエピソードについて、岡崎武志さんが「私はこの挿話一つを抱きしめたくなる」と書いていることを紹介しました。今回は私自身が「この挿話一つを抱きしめたくなる」という気持ちにさせられたのです。

 

 古本屋「山王書房」に足を運ぶ自分を想像してみることにしましょう。店主の関口良雄さんと会話するようなことも少しはあったかもしれません。でもこの追悼文集に寄稿している人たちのような関係が生じたとは、残念ながらあまり思い浮かんでこないのです。

 関口さんから「この作家が好きなんですか」と問われ、「ええ」と答える私とか、私から「いい本が多いですね」と言い、関口さんが「だんだん雑本ばかりになってね」と答えたりする姿ぐらいしか想像が及びません。それより時にみせる関口さんの潔癖さと癇性の強さにびっくりして店から遠ざかったりしているかもしれないと想ったりもします。

 関口さんの生年月は大正7(1918)年2月ですが、偶然にも、私の父も同年1月生まれです。まったくの同時代を呼吸していたのかと思うと、おかしくなります。私の父は関口さんが亡くなってから14年ほど長く生きたことになりますが、その人生を少しは見直してみる時かもしれません。

 この追悼文集にも関口さんの子息である関口直人さんは「父の思い出」という文章を寄せています。こんな味わい深い「父の思い出」を書けそうにない私ではありますが、そろそろ書いておかないと間に合わなくなりそうです。

 

 今回紹介した加藤楸邨さんは戦後を代表する俳人の一人として「人生探究派」と呼ばれました。関口さんが敬愛した尾崎一雄、上林暁、木山捷平の文学もまた、ある種の人生の探究であったといえるでしょう。

 『昔日の客』『関口良雄さんを憶う』を読んで、関口良雄さんは、そんな山脈に連なる、楽しみながら人生を探究した人として記憶することになりそうです。

 

 さて、一昨日(10/18)、何ものかに急かされるように神戸から京都へ足をのばし、大文字山に登ってきました。山を下りて、銀閣寺道からほど近い「古書善行堂」をのぞきました。この古本屋さんは前出の岡崎武志さんの友人である山本善行さんが主人です。前ブログで紹介したとおり、夏葉社の島田潤一郎さんに『昔日の客』をいい本、読むべき本として奨めた方です。つまり復刻のきっかけをつくった当人なのです。

 久しぶりに本の棚を楽しみ読んでみたいものが多くて困りましたが、ぐっと絞って4冊だけにしました。いい音でジャズの流れる店内で、山本さんとちょっと立ち話することができました。古本屋ですが、夏葉社とか応援したい出版社の本は新刊であってもおかせてもらっているとのことです。『昔日の客』を読みましたよというと、「いい本でしょ」という笑顔から本好きの少年の面影があらわれていました。

 最後に『昔日の客』のことも語っている山本善行さんへのインタービュー記事を貼付して終えることにします。

 ㊟インタビュー

  「第20回京都編・古書善行堂山本善行さんに聞きました

 

 

 

 

 

2017.10.13 Friday

「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank:Books and Films,1947-2017 in Kobeー(2-)

(2-)からの続き〛

🔹 New York to Nova Scotia[2005/1986] ㊟[シュタイデル社刊行年/当初刊行年]

 大西洋岸に面しアメリカに接するカナダのノバスコシア州、1970年にその寒村であるマブーに居を構えたことはフランクにとって大きな転機であり、シェルターであったように感じます。ニューヨークとの行き来はフランクにとって創作のエネルギーになったにちがいありません。回顧展が開かれた1986年に出版されていた本を再刊したものです。

 写真は30点だけでそれ以外に1954年のグッゲンハイム財団への提案書など多くの文書が収録されています。ウォーカー・エバンスの助言をえたといわれる提案書のなかで、フランクは「帰化したひとりのアメリカ人が見つけたアメリカ合衆国で誕生し各地へ広がりつつある文明についての観察であり、その記録です」と書いています。

 

🔹 Come Again[2006/1991] ㊟[シュタイデル社刊行年/撮影年]

 1991年にレバノン内戦(1975-90)で壊滅したベイルートの下町の撮影を依頼されたフランクは、その仕事以外に自ら意志でポラロイドを使って撮影しました。それをコラージュした写真群をシュタイデル社が本にしました。

 破壊された町の風景は壊滅的な破壊という戦火のあとそのものであり、第二次世界大戦の集中的な空襲の跡を思い起こさせます。レバノンに引き続くアフガニスタン、イラク、パレスチナ、シリアへの想像力を要請しています。

 

🔹 Seven Stories[2009/  ー ]

 フランクは1972年からポラロイド写真を撮りはじめますが、この写真集はカラーのポラロイド写真を7点ずつ連続させて編集したものだそうです。フランクの人生において親しい(親しかった)、人物そして戸口、部屋、静物、日用品、食べ物が並べられています。

 <組写真>の右下の2枚が<1枚の写真>です。2枚のポラロイド写真ですが、左は室内にカフカの写真がおかれています。右のフランクの写真は「Poto by Ayumi 2009」と後ほど登場する日本人女性が撮影したものであり、この写真集のデザインとしてフランクとシュタイデルに加え、Ayumiこと「A-CHAN」がクレジットされています。

 この三人は翌年の2010年から現在進行形のヴィジュアル・ダイアリーにおいてデザイン(企画・編集も)として連記されており、それを準備した写真集だということができるでしょう。

 

🔹 Pangnirtung[2011/1992] ㊟[シュタイデル社刊行年/撮影年]

 1992年、親友に誘われて北極圏のバングナータングを訪れ、5日間滞在を記録した写真集です。展覧会の解説文には人間不在でバングナータングを描き出していることを「感傷的にはならず、誠実さをとどめた」写真であると記されていました。『Valencia 1952』のところでメモした「写真撮影に対する姿勢」の反映なのでしょう。

 

◉第三部:時の流れの前に立ってー二人の伴走者とともにー

 2010年以降に刊行された第三部の写真集は全部で7冊、<目に見える日記(ヴィジュアル・ダイアリー)>と名付けられています。2013年の『Household Inventory Record』はもとはレディメードの写真集だったようで、それ以外の6冊は一つのボックスに入ることを意図された「美しい小型のペーパーバック」となっています。

 今回の展覧会でみていても、それぞれの画然とした区別が私にはつかないのです。70年代、写真に戻ってきたフランクは映画の制作で得た日記のような手法を用いています。手元に残された古い写真と最近撮りながら未公開の写真を組み合わせることによって、自分や親しい者の人生、フランクの世界、宇宙を再構成、再編集する方法です。

 今回の展覧会のカタログ「ロバート・フランク特別号」にジョン・ファレルという方がヴィジュアル・ダイアリーに関する論文を寄せています。いずれの本にも共通して登場する被写体やシンボルとして「戸口や窓枠、空、海岸線」を挙げています。何度も繰り返されることによる視覚的な連続性が、「それぞれの本を別々にも、また全体でより大きく広がりのあるひとつの作品としても見られるように結びつけている」と指摘しています。

 そうした写真集から立ち上がってくるのは、やはり時の流れ、経過へのフランクの私的かつ詩的なアプローチです。フランクは時の流れに身をまかせることをよしとせず、少々大げさではありますが、その前に立って、「生きていることのありよう」を再構成、再編集しようとする写真家の魂、芸術家の魂なのだと、私は思っています。

 

 この7冊はいずれもシュタイデル社の初刊本であり、繰り返しますが、デザインは全て「ロバート・フランク、A-CHAN、ゲルハルト・シュタイデル」とクレジットされ、その共同作業で成立しています。伴走者というべき二人との信頼関係が、ヴィジュアル・ダイアリーというフランクのレイターワークを可能にしているのです。

 ここでは、A-CHANことヤマザキあゆみという写真家についてフランクとの関係を中心にメモしておきます。1978年生まれ、茨城の取手育ちのA-CHANは2006年に渡米し、翌2007年にアポなしで83歳のフランクをそのスタジオに訪ね、そこから親交を結び、アシスタントとして10年がたちます。弟子や長年のアシスタントをのぞまなかったフランクにとって稀有なことです。彼女自身もシュタイデル社から3冊の写真集を出版しています。

 以下は今年のインタビュー記事からです。フランクがニューヨークにいるときには2日に一度はスタジオを通い、掃除を含め片付けものをし、お昼にサンドイッチを食べてお茶にして、今日と明日から何ができると話すとあります。現在は、撮りっぱなしのコンタクトシートから「いいな」と思うものをプリントする作業をしているとのことです。新たな宝の発掘なのです。

 A-CHANは「もう高齢なので「毎年、最後かもしれない」という思いがあって10年続いたのかな。そうじゃなかったらここまで出来なかったかもしれませんね」と述懐します。フランクはなかなか気難しくセンシティブな人ですが、「人としての魅力がすごくあるので。ユーモアがあって、沢山笑うんですよ」とも、フランクの人となりを語ってもいます。

 いずれにしても、ヴィジュアル・ダイアリーの写真のプリント、企画・編集、デザインを担う彼女の存在なくしては、第三部は生まれなかったといえます。フランクのアーカイブスという記憶の源泉を更新、拡張しつつ、高齢のフランクが写真に向かう刺激を与える存在となっています。

 

🔹 Household Inventory Record[2013/ ー  ]

 展覧会ではヴィジュアル・ダイアリーの1冊目2010年刊の『Tal Uf Tal Ab』より前に展示されていました。レディメイド写真集としてはもっと前の制作だったということかもしれません。組写真の右側は妻ジューン・リーフの加齢による顔貌の変化であり、1枚の写真は2010年よりだいぶ以前のフランク夫妻の姿です。これも時の流れということにつながります。

 

🔹 Tal Uf Tal Ab[2010/  ー  ]

 ヴィジュアル・ダイアリーの伴走者である二人、組写真の右下に片膝を立て座っているのがA-CHANです。1枚の写真はゲルハルト・シュタイデルです。

 シュタイデル社から写真集を出す写真家はドイツのゲッティンゲンに出かけてシュタイデルキャンプといわれる宿泊施設に泊まって本作りのために共同作業をします。でも高齢かつ特別のロバート・フランクにはゲルハルト・シュタイデルがニューヨークを訪れて三人で本作りをするとのことです。

 

🔹 You Would[2012/  ー ]

 組写真の上段には、アレン・ギンズバーグら旧友たちが登場し、1枚の写真は美術家である妻ジューン・リーフの近影なのでしょう、フランクとの二人の関係も謎めいています。美術家のジューンはノバスコシアの小屋でも一日中仕事ができるけれど、自分は写真だからニューヨークも必要だと語っています。 

 展覧会の解説文では、新旧の作品が入念に編集されており「過去の経験がフランクの現在を強固なものにし、彼の人生は本作りによって記録されるだけでなく、形づくられていることが示唆されている」とあります。本作りによって<フランクの人生が形づくられている>とはヴィジュアル・ダイアリーの制作が現在のフランクの人生そのものだということになります。

 

🔹 Park/Sleep[2013/  ー ]

 組写真の上段、二個のドーナツの並ぶ写真を左右に2枚並べたのは抽象版画のようです。まったく同じなのかと、じっと見入ってしまいました。人物にかぎらず、日用品や外国みやげで買った人形もよく登場しますが、フランクにとって、自分であった過去と自分である現在をつなぐものかもしれません。

 

🔹 Partida[2014/  ー ]

 1枚の写真はよく登場しているA-CHANの肖像です。フランクとの信頼関係が現れています。

 組写真の方では輝く青空と白い雲の写真が3枚並べられています。微妙に雲は動いているようです。このことをジョン・ファレルは「「ヴィジュアル・ダイアリー」で繰り返される、時の流れという概念を強調する」と解しています。下段左は「自由の女神像」なのでしょうか。20世紀初頭、ヨーロッパからの移民は自由の女神像の近くにあるマンハッタン沖のエリス島に集められ、審査を受けていました。フランクの頃はどうだったのでしょう。

 

🔹 Was haben wir gesehen/What we have seen[2016/ ー ]

 組写真の下段の右は息子パブロの肖像です。フランクは手書きで「PABLO」と記しています。その左は1枚の写真でもある白髪ではないフランクとアレン・ギンズバーグの姿です。この2枚の写真が並べられている意図、意味は何かあるのでしょうか。

 ドキュメンタリー映画の巨匠であるジョナス・メカスはフランクの映画処女作にしてビートニクの象徴的作品である1959年『Pull My Daisy』に寄せた文章で、「これほど純粋かつ無邪気で、面白みと真実があり、簡潔に日常をとらえた映画は他にない」と激賞しています。映画から60年近くが経過し、ヴィジュアル・ダイアリーも「簡潔な日常」の描写という点で共通しており、そこに過去を関与させることによって、時の流れが意識されることになります。

 

🔹 Leon of Juda[2017/  ー ]

 ヴィジュアル・ダイアリーの最新刊です。組写真の上段の右、「LEON OF JUDA」と印字されたライオンの写真を写したものです。サバンナの草原に孤立したたずむ「裏切者のライオン」なのでしょうか。

 1枚の写真は、ノバスコシアのマブーの古い家です。大西洋に面しています。1970年からこの小屋はニューヨークとは別の拠点となっています。そのもつ意味は後でふれることにしますが、ニューヨークでの暮らしとのバランサーであり、フランクの芸術活動に不可欠な土地となっています。

 

おわりにー写真家とは何者かー

 写真ばかりが多くなりましたが、今回の展覧会で展示された全23冊の写真集を駆け足で紹介しました。ロバート・フランクという写真家と彼の写真について何か書いて終えたいと思います。

 前記したようにフランクは『ライフ』の「ピクチャー・ストーリー」のことを「はじまりと終わりのある、あのいまいましいストーリーってやつ」と徹底的に嫌っていました。そんなフランクからすれば、終わりに「まとめたい」という私のたくらみなど笑い飛ばしたことでしょう。

 

 それにしても、そんな予定調和の説明を嫌うフランクが、70年代以降、神話化された過去の作品を否定するような新たな写真技法を自らの方法として血肉化したのはどうしてか。あんなにも嫌っていたはずの言葉の手書き書き込みなどを駆使したことをどう理解したらいいのか。コラージュした写真と言葉の不協和音とか、視覚を撹乱するような暴力的な表現とか、そんなことさえ感じてしまうのです。

 本稿の導入部でフランクの写真の「スタイルは変化したものの基盤は変わりがないのではないか」という飯沢さんの考え方を紹介しました。その主張の正当性を否定できる何かが私にあるわけではありませんが、腑に落ちきらないような変な感じがなお残ります。

 

 飯沢さんは、写真の歴史という視点から、20世紀の写真は独自の表現メディアとして自立するために「言葉による゙説明゙や゙解釈゙」から距離をおいて「いかにその純粋性を保っていくか」が大命題であったとします。そして『The Americans』までのフランクは「その命題を極限まで追い求め、最終的な回答を出そう」とした一人だったというのです。その通りでしょう。

 でも70年代以降、それに逆行したようにみえるのはどうしてなのか。そのことを、飯沢さんはフランクのコラージュ作品に刻みこまれた「言葉の群れ」がはたして「゙説明゙や゙解釈゙」なのか、そうではないのではないかと、娘のアンドレアの事故死を前にした写真群を前に、次のように提起するのです。

 「 これらはほとんど叫び、うめき声、呪いや祝福の文句に近いものであ

      る。゙解釈゙ではなく、ぶつぶつとつぶやく自問自答の声である。」

 そしてフランクの写真の言葉について、アレン・ギンズバーグの「短く寂しい、誠実に感傷に満ちた詩ー文字・合図・標語」を引用し、こう結論しています。

 「 アレン・ギンズバーグの言葉ほど、彼の写真からあふれ、ほとばしり

  出る゙声゙の正体を的確に見抜いたものはほかにない。」

 ゙言葉゙というより゙声゙なんだというのはうなづけるところです。

 

 本稿に飯沢さん以外でもう一人登場してもらったジョン・ファレルは、飯沢さんが前提とするフランクの写真にみられる70年代以降のスタイルの変化について、その背景を次のように論じています。

 「 フランクの70年代以降の美学を生み出したのは、ブリーカー・ストリー

  ト(㊟ニューヨークのスタジオ兼住居の所在地)からノバスコシア州の田舎へと居場所

  が大きく変わったこと、さらには私生活でいくつもの悲劇に見舞われたこ

  とだろう。」

 特に息子パブロとの関係がこじれ、ぎくしゃくしていた頃の映画や写真から、次のことも記しています。

 「 この頃、フランクが映画と写真の制作に用いた日記のような手法は、そ

  の後の作品にもはっきり見て取れる。」

 その手法が、さまざまなバリエーションも広げつつ、本稿で区分した第二部から第三部へと続いていくわけです。そしてある種の危機的な状況にあって、身辺だけでなく神話化された自分に対しても、フランクば声゙を発せざるをえなかったということに注目したいと思います。

 

 繰り返します。以上の意見も踏まえれば、写真のスタイルは変化したけれど写真家フランクの基盤は変わっていないという飯沢さんの主張につながってくることになります。その基盤とは「彼が求めているのは彼自身が経験した(経験しつつある)生の総体を、肉声のなまなましさを保ち続けながら組織していく方法論」だということです。その基盤の連続性について少しは理解できそうな気になってきました。

 ここで何かを加えるとすれば、時代の状況、フランクが深く交流したビートニクの人たちを生み出した時代の背景、例えばビートニクの詩人たちはオーラル、口誦を重視していましたし、一方で美術においてもポロックなどの抽象表現主義の新しい潮流が出現していました。フランクはこうした鋭敏に時代と反応する人びとから、とりわけ映画の制作を通じて感得できたことを、写真という分野における新たな表現方法(思えば編集も含めると写真ほどフレキシビリティがあるものはない)として、70年代のフランク自身の生の危機的状況において反映させることができた人ではないかと申しあげたいのです。

 

 未解決のままで終わりましょう。

 こうしたスタイルの変化に私がこだわるのは、率直に書くと、第一部の写真はやはり素晴らしいと感じる一方で、第二部と第三部の写真自体を第一部と同じような視点から素晴らしいと感じることができないからです。第一部は無条件、第二部と第三部は条件付きということになります。

 もとよりフランクの伝記的な事実、生涯の軌跡を知識として得たり、ここで紹介したような文章を読んだりしますと、第二部と第三部の写真をなるほどそうかと感じることはできます。写真家ロバート・フランクを知ろうとしたとき、第二部と第三部を捨象してしまうことは勿体ないことなのですから。

 いずれにしても、これが私の感想ですから、私の限界だと申しあげておくことにいたしましょう。

  『The Americans』からです 確かに無条件です

 

 最後に、飯沢さんの「写真家とは何者か」についてふれておきます。

 『フォトグラファーズ』の巻頭におかれた「ロバート・フランク 写真家であるためにー序文にかえてー」は、そんな基本的な問いかけからはじめます。飯沢さんは、曖昧で不確かなものと断ったうえで写真家に「写真によって「生かされる」者」という定義を仮に与えておくことにしようというのです。この定義を次のように説明します。

 「 写真という行為をぎりぎりまで突きつめて考えていくと、写真を撮影す

  る行為、あるいはその結果として生み出されてくる写真そのものが、撮影

  者その人の生と分かちがたく結びついている状況を見ないわけにはいかな

  くなる。写真を撮影することで彼らは生き続けるための力を手に入れ、逆

  に彼らの生にまとわりついた感情やエネルギーの束が投げ入れられること

  で、写真はそれを見る者を刺し貫くような輝きを帯びる。そのような相互

  作用を、自らの生の過程でいやおうなしに体現している者こそ、写真家の

  名にふさわしいのではないか。」

 長い引用になりました。本稿を書いてきた今、これはロバート・フランクそのもののことを書いていると申しあげるしかありませんね。

 飯沢さんは、写真家を「写真によって「生かされる」者」と定義するにあたり、フランクが「その典型、というより最も突出した存在」であり、「写真家という存在の原型(プロトタイプ)というべき姿」が見えてくると考え、40名に及ぶ写真家を論じた本の巻頭においたのです。

 

 ロバート・フランクという写真家に関する映画をみると、90歳をこえた今も、その変わらないことにびっくりします。「くしゃくしゃの帽子に、色あせたネルシャツ」の恰好、それは移民や労働者のファッションです。辛辣な物言いのあと、A-CHANのいうチャーミングな笑顔があらわれます。

 飯沢さんの定義どおりの写真家として継続することは神話化されているからこそ想像外の困難がともないますが、ロバート・フランクは「写真によって「生かされる」者」であり続けた写真家なのだということがわかります。

 そこに「第一部」と「第二部・第三部」の一見した違い、落差を乗りこえる核になる真実があるような気持ちがしてきました。

 

 今回の展覧会において、ロバート・フランクという私にとって未知な写真家に出会え、フランクの写真と人生について、そして写真家と写真なるものについても、考える機会をいただきました。開催に尽力された方々に感謝したいと思っています。

                   【終:(1)  (2-)  (2-)】

2017.10.13 Friday

「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank:Books and Films,1947-2017 in Kobeー(2-)

 ちょっとというか、だいぶ後悔しています。前回のブログ(2017.9.11(1))で、これは展覧会の外形的な案内報告だけれど、次回はロバート・フランクの写真と映画の内容を書いてみることにしますと書いてしまったことをです。

 あれから「ロバート・フランク:ブックス アンド フィルムズ,1947-2017;神戸」にはもう2回足を運びました。映画の方は早々にあきらめることとし、写真、写真集の展示だけにしぼりました。写真集ごとに新聞用紙に印刷され、おおむね4枚の垂れ幕となって展示されているロバート・フランクの写真の森をウロウロと行ったり来たりしました。そして、そんななかから、私が波動のようなものを感じた写真を手持ちのカメラで写したのです。原則は写真集ごとに<数枚の写真から構成された垂れ幕1本>と最も印象が強かった<写真1枚>を決めるという作業をやってみました。

 展覧会が終了してから2週間がたち、私の撮影したロバート・フランクの写真の「写真」を整理していて、私は改めて批評する言葉を持ち合わせていないことを確認したと申しあげるしかありません。今回のブログで行うのはこんな写真が展示されていたというレポートにとどまることをお断りしておきます。

 

 今回展示されていた写真集は全部で23冊で、もちろん全てシュタイデル社から新刊なり再刊されたものばかりです。それぞれの写真集の写真の一部が選定・構成され、垂れ幕として印刷されたというわけです。

 この23冊を三部に分けて紹介することにします。写真集はおおむね当初発表された順番で展示されていましたが、その順番にとらわれずに区分しました。特に根拠があるわけでなく、私の印象によるものにすぎません。

 第一部はフランクがスイスからアメリカへ旅立った1947年以降、1940、50年代に撮影された写真から構成された写真集8冊(うち4冊は2003年以降に初めて写真集として新刊されたもの)です。私のような年齢の者にとって、写真家の写真らしい写真ということになります。

 第二部はフランクが写真から映画の制作へと足場を移行させた1960年前後から、写真を再開した1970年代以降を包含した長期間にわたる写真集8冊です。ポラロイドカメラの使用、複数イメージの組み合わせ、画面上への文字の書きこみなど、ミックスド・メディアの作品が多い特徴があります。

 第三部は2010年以降ヴィジュアル・ダイアリー(目で見る日記)として現在進行中の一連の写真集7冊(1冊は元私家版)で、シュタイデルの同時的な伴走によって生み出されたものです。第二部から続く方法ではありますが、多分に時の流れを意識した古い写真と最近の私的な写真を組み合わせたものです。

 1924年生まれのロバート・フランクからしますと、第一部は20、30代で旅から旅へと移動していた時期に撮影した写真から編集した「初期」、そして第二部は「記憶の再構成」を繰り返した壮年から老年へのいささか長い「中期」であり、第三部は80歳をこえた写真家の現在進行形の心象風景をシンプルに編集した「晩期」とくくることができます。

 こんな区分など必要ないかもしれませんが、私が撮った「写真」を数多くアップする整理上の観点だとご理解いただきたいと思います。

 

 今回のブログを書こうとして、カタログ「ロバート・フランク特別号」をはじめ、ざっと読んでみましたが、圧倒的に説得的だったのは写真評論家である飯沢耕太郎さんの「ロバート・フランク 写真家であるためにー序文にかえてー」という文章です。今から20年以上前の『フォトグラファーズ』(1996年4月刊/作品社)の巻頭におかれたこの評論は、刊行直前の1995〜96年にかけて書かれたのでしょうから、フランクの長い写真家人生においてまだまだ道半ばの時点だったといえます。

 飯沢さんは、「初期」から「中期」へスタイルは変化したものの基盤そのものには変わりがないのではないだろうかと、次のように主張しています。

 「 『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』(㊟1952年手製本)の時代で

      も、現在(㊟90年代中葉)でも、彼が写真に求めているのは彼自身の経験し

  た(経験しつつある)生の総体を、肉声のなまなましさを保ち続けながら組

  織していくための方法論なのである。その意味では、彼の写真は常にプラ

  イヴェートな¨日記¨の1ページを引きちぎって、提示したものにほかなら

  ない。」

 つまり写真家とはその写真と生との強力な結びつきを自らの作品を通して示し続ける存在だとすれば、ロバート・フランクは「その典型、というよりも最も突出した存在」なのだといいたいようなのです。

 いつものことで恐縮ですが、飯沢さんのこの鋭利な批評に依拠しつつ、今回の報告をはじめることにします。

  手書きされた「展覧会名の表示」です

  写真集ごとにおおむね4枚の垂れ幕で展示されています

 

◉第一部:旅から旅へーストーリー嫌いー

 思えば、いわゆる写真展という場で写真をみることは限られていますし、まして大きな会場で数多く展示された写真をみたことは指を折って数えられるぐらいしかありません(当ブログ「再見・写真と出会う(1)ー植田正治ー」)。

 私は写真をみることを絵画や彫刻よりも好みますが、ほとんどは写真集や雑誌でみているわけです。その意味では今回の展覧会は稀有のことでした。でも写真集を単位とした今回の展示方法は写真集の写真から選び編集されたスタイルであり、写真展と写真集の中間的な鑑賞体験だったといえるのでしょう。

 

 1924年にスイス・チューリッヒで生まれたロバート・フランクは、「実践的な写真技術」の習得をへて、「スイスはあまりにも閉鎖的で、わたしには小さすぎた」と1947年にニューヨークへ渡りました。有力誌『ハーパーズ・バザー』に職を得ましたが、翌年すぐに辞し、職業写真家としてのコースから外れたのです。そして、この第一部で紹介する写真の撮影先への旅から旅の「ほとんど何かに取り憑かれたとしか思えない移動の連続」でした。

 飯沢さんは「この移動の時期に、彼の写真家としての基本的な眼差しが決定された」と記しています。

 

 フランクは50年代アメリカを象徴する『ライフ』の「文章と組写真を巧みに構成した¨ピクチャー・スートーリー¨」を、「はじまりとおわりのある、あのいまいましいストーリーってやつ」を徹底して嫌っていたそうです。つまり言葉によって補強ないし裏付けられた「写真」のありように不信をもっていたということです。写真そのものに帰れということでしょうか。

 そのアンチ・テーゼとしてフランクが確立した独特の叙述の形式が「写真の内容よりも、写真家とイメージを直接結び付ける」方法だったと飯沢さんは指摘し、次のように表現しています。

 「 個々のイメージがばらばらに投げ出された断片として孤立していなが

  ら、「目に見えない」より大きな感情によって緩やかに包含され、波のう

  ねりのように見る者を前に運んでいく叙述のスタイルだったのである。」

 キャプションなし、言葉なしで、見る者に「より大きな感情」のうねりを感得させる、ロバート・フランクの写真語法の到達点です。でもこれで終わらないのがフランクであり、第二部で大きな変化をみせます。 

 

🔹『Portfolio:40Fotos 1941/46』[2009|1941-46] ㊟[シュタイデル社刊行年|撮影年]

 スイスで自作したポートフォリオで、これを持ってアメリカに渡ったフランクは写真家である自己の証明として用いた(『ハーパーズ・マガジン』でもこれを見せて職を得た)とされています。

 当たり前ですが、スイスらしい山と空の写真が多いのです。1枚の写真は、がけ地を下っていく二人の動きとがけ下の動かない家並みの対比が、フランクの感情の起伏と被写体への愛情があっていいですね。

 

🔹『PERU』[2008|1948]

 ペルーからニューヨークに戻り、手製で2巻本を作成したのだそうです。

 フランクの写真からは文明批評、批判的な眼差しではないものを感じます。故国スイスへの思いがあるのか、スイスよりさらに高地の山岳で暮らす人びととその営みがごくストレートに撮影されています。

 組写真はヨーロッパの芸術写真の趣のある緊張をはらんだ美しさが印象的です。1枚の写真は事前の断りなしに素早く人物を撮影していたといわれるフランクらしく子どもの眼差しとうずくまる母親?、ペルーの山地の強い日差しもあってか、モノクロ写真の黒と白が強調されています。

 次の写真集ではブラックとホワイトがテーマとなって続いていきます。

 

🔹Black White and Things』[2009|1948-52]

 これも1952年にそれまで撮影した写真から選んで「黒」「白」「ものごと」の三章立てで手製本を3冊だけ作り、手元に1冊おき、あとは母親とニューヨーク近代美術館のエドワード・スタイケンへ贈ったとあります。

 今回展示された上の組写真は、写真集をみていないのではっきりしませんが、左側が「白」、右側が「黒」を組み合わせたのかなと思いますがいかがでしょうか。左の下の連作は映画を感じさせるパリで、右の最上段「荒野を踏み固めた道」はペルーで、それぞれ撮影されたものです。

 1枚の写真からは振り向いた厳しい眼差しが、次の『The Americans』への準備を感じさせます。

 

🔹The Americans』[2008決定版|1955-57]

 この写真集はフランクの最高傑作といわれ、同時代と若い世代の写真家に与えた衝撃の大きさは繰り返し論じられているそうです。

 グッゲンハイム奨学金を得て1955年から57年初頭にかけて全米を中古のフォードで走破し撮影したのがこの写真群です。50年代中葉のアメリカという当時の先端を象徴する世界を、冷静にひやりとした刃をあてて写真にしているように感じます。物質文明を謳歌するアメリカはそこになく、ここに登場しているのは意外にも無表情なアメリカ人、どこか空虚で愁いを含んでいる人びとなのです。1枚の写真は何を語っているのでしょうか。

 私は移民であるフランクの視線、批評性を強く意識しました。この文明批評的な見方に対し、飯沢さんは「透明な記録者の視線ではなく、あくまでプライベートな¨旅¨の報告として編みあげられている」と注記しています。

 

🔹『London/Wales』[2007|1951-53]

 この写真集以降の4冊は、撮影当時は手製本にしろ何にせよ写真集とはならずに、2000年代になってから出版されたものです。

 豊かな金融街のロンドンと貧しい炭鉱街のウェールズが対比的に構成された写真集だそうですが、ここではウェールズだけのアップとなりました。石炭で黒んずんだ顔をした炭鉱夫からは、ある種の誇りが感じられるのです。その後の廃坑が続き石炭産業が壊滅していった変化の予兆を、我が国の炭鉱に関する写真、例えば土門拳の『筑豊のこどもたち』を、私は思い起こして立ちつくしました。

 

🔹Paris』[2008|1951]

 パリという都市の劇場性を強く感じる写真群です。パリを遊歩する人びとは舞台に登場するようにカメラに写っているようにさえ見えます。アジェを引用しているらしいのですが、私のフェイバリットな写真家であるロベルト・ドアノーやアンドレ・ケルテスのパリのイメージにも重なるところがあります。

 それにしても、1枚の写真のチューリップはドラマを予感させるではありませんか。この写真から、巧者のシナリオライターなら、簡単にドラマを作りあげてしまいそうです。

 

🔹『Valencia 1952』[2012|1952]

 1952年、長い内戦をへたフランコ時代のスペインのバレンシア、決して豊かといえない漁村の日常が軽佻浮薄からはるか遠く離れた形でそこに在ると感じさせてくれます。日常の賛歌というのではなく、そこには喜怒哀楽をこえた生きる意味さえありそうです。今回、私が最も強く波動を感じた写真群でした。

 展覧会の解説文には「威厳が貧困を凌駕している。それは、その後のフランクの写真撮影に対する姿勢を変えることになった」とあります。うむ、そうかもしれません。

 

🔹In America』[2014|1950代]

 フランクが1950年代のアメリカを撮影した写真群はお膝元のアメリカではほとんど知られていないのだそうです。スタンフォード大学に収蔵された50年代アメリカの写真を集大成することが意図されています。『The Americans』の写真22点に、新たに100点以上の写真が組みこまれています。もとより重なるイメージも多いのですが、今回の展示からは、トランプ大統領のもとでアメリカの亀裂が露呈していることが私にも届いているからかもしれませんが、黒人という問題がより提起されていると感じます。

 フランクは少なくとも自覚的に「スイスは小さすぎた」とアメリカへ渡ってきた移民であるのに対し、アフリカ系アメリカ人のルーツはそうではないわけです。1枚の写真からはその差別の根深さをやはり意識してしまうのです。

 

◉第二部:垂直の旅へー映画制作をへてー

 私が便宜上区分した第二部の写真をみる人はふつうなら第一部の写真との違いに驚きと戸惑いを感じることになります。私もその一人なのですが、写真家ロバート・フランクという同一人物がなした仕事として理解したいというのが基本姿勢です。この長い「中期」を一言で括るのは困難です。

 50年代アメリカ社会の見事な断面図というべき『The Americans』のあと、写真家のフランクは写真から離れ映画の制作に専心し、60年代は写真、写真集という観点からはほぼ空白の時期でした。写真に戻ってくるのは70年代に入ってからのことです。10年以上の空白のあと再び現れたフランクの写真は50年代の到達点をまるで否定ないし解体する方向で変貌していたわけです。

 飯沢さんがフランクの映画への傾斜について「プライヴェート・ムービーのほうに、個人的な感情を投影できる可能性を求めていた」と書いています。第二部以降のフランクの写真語法は映画製作で獲得した方法を写真へ投影させたという一面があります(70年代以降も映画の制作は続けています)。つまり第一部で引用した(フランクが写真に求めていたのは)「生の総体を肉声のなまなましさを保ち続けながら組織していくための方法論」という地点に収斂していくのではないかと考えます。

 

 フランクの伝記的な事柄ですが、「個人的な感情を投影」する方法論と関連するのでふれておきます。

 家族との関係です。1950年メアリーと結婚、二人の子供が生まれますが、69年にメアリーと離婚、70年に美術作家ジューン・リーフとカナダのノバスコシアに家を購入し、ニューヨークと行き来する生活をはじめています。その矢先、74年、娘アンドレアが飛行機事故のために死亡。享年21歳。4歳年上の息子パブロは精神を病み、94年に死亡(自殺とされる)。享年43歳。

 50年代から60年代にかけて、フランクと同世代であるアレン・ギンズバーグなどビート・ジェネレーションを代表する人たちと交流、友情。『The Americans』の序文はジャック・ケラアックです。アウトサイダーの姿勢を崩さないフランクにとっては映画の内容にも制作にも強く反映しています。もとよりその後の写真にも。そして多くの友人の死。

 今もフランクとリーフのNYとノバスコシアを往還する生活は続いています。

 

 フランクの写真へのカンバックは、日本の出版社からの写真集の制作依頼がきっかけとなったそうです。1972年に刊行の『The Lines of My Hand』で、そこでフランクは過去にさかのぼって「記憶」をたどり直しています。飯沢さんは「失われかけた生の記憶を求めて時間を逆行する垂直の旅のイメージの集積」だと表現しています。これに対し、第一部の写真は「現在進行形で空間を横滑りに移動する旅の記録」だと対比させています。

 70年代以降のフランクは過去と現在の写真をコラージュや言葉の上書きなどのテクニックを駆使して組み合わせることによって、生の総体を再構成、再編集する方法、「個人的な感情を投影する方法論」を獲得したのだということができます。時間と空間の広がりによって、第一部の写真は新たな輝きを帯びるとともに、自分の身辺に起きた数々の悲劇に対しても、主観だけに堕することのないある種の客観性をもち得たのです。いわば生の再構成という作業が写真家であるフランクに生きる力、生きる意味を与えています。

 この方法は、つまりフランクの生の総体を「編集」する作業は、第三部である現在進行中のヴィジュアル・ダイアリーまで、より自由度を高める方向で続いています。 

 

🔹『Zero Mostel reads a book』[2008|1963]㊟[シュタイデル社刊行年|当初刊行年]

 映画を2本撮ったあと、1963年にニューヨークタイムズ紙からの依頼で制作した写真集です。有名な喜劇俳優のゼロ・モステルが本をいろんな形と感情で読んでいる姿を演じ、これを撮影した作品です。モステルの演技力を全開させた、なんだか映画のスチール写真的なイメージです。

 展覧会の解説によると、アメリカの書店へ顧客のプレゼント用に献呈されたもののようです。読書百態とでもいうのでしょうか、アイディアではありますが。

 

🔹『Me and My Brother』[2007|ー]

 1968年制作の映画『Me and My Brother』のDVDとともにスチール写真と台詞が収録されています。この映画はフランクの制作した最初の長編映画だそうです(85分)。タイトルの<私の兄弟>というのがビートニクといわれた人たちでしょうから、その共感の根っ子は、時代の先端を表現する反骨的な芸術家気質ということなのでしょうか。フランク自身は自分のことをマージナルな人間、道の端を歩く人間として表現しているのですが。

 1枚の写真はビートニクを代表する詩人アレン・ギンズバーグです。

 

🔹『The Lines of My Hand』[2008|1972]㊟[シュタイデル社刊行年|当初刊行年]

 展覧会の解説文によれば、この写真集は『The Americans』に次いで、フランクの「最も重要な本であり、時に告白を交えた自伝的な本作りの手法を確立した出版物」だと評価・説明しています。

 タイトル「私の掌の筋」とは手相を見るときの判断の材料となる人生の軌跡のことであり、過去の記憶をたどり直すことに通じているのです。過去から現在に至る写真を時系列に並べつつ、フォト・コラージュなど中期以降のフランクが多用する方式も含まれています。フランク自身は私は私だと確実に否定することでしょうが、写真家ロバート・フランクの再出発の原点となった写真集だといえましょう。

 表紙の絵は一緒に暮らし始めたジューン・リーフの手になるものです。そして1枚の写真は50年代に撮影された二人の子供の小さいころの写真です。

 写真集に掲載された「生きているだけで、素晴らしいじゃないか」とのフランクの言葉が解説文の冒頭に記されていました。

 

🔹『Storylines』[2004|ー]

 2004年のロンドンでの展覧会のカタログです。この写真集から、デザインとして「ゲルハルト・シュナイデル」の名前が登場しています。フランクとの最初の出会いはいつ頃だったのか、2004年以前ということになりそうです。

 ポラロイド・カメラを1972年に使いはじめたとされていますが、1枚の写真は12枚のポラロイド写真に言葉を手書きで書き込み組写真としています。HOSPITALとありますが、誰の入院姿なのかわかりません。

 

【追記】

 続き(第二部の残る4冊と第三部)は次のブログ(2-)で書くこととし、今回の展覧会、ロバート・フランクの写真、写真集を締めくくることにします。

 

 

 

 

 

 

 

2017.10.06 Friday

それとこれとは別のことですがー関口良雄『昔日の客』ー

 雨のあと北からの風とともに、確かに秋がやってきました。心地よくひんやりとした空気、すっかり忘れていたものに再会している気分です。

 めったにないこんな季節は気持ちがよいはずなのに、どんよりとしたかたまりが晴れ晴れとした気分を許してくれません。自分一人の心身の不如意がどうこうというより、最近の外部状況を受けとめきれていないというべきなのです。こんなことでは政治的シニシズム(冷笑主義)が広がりデモクラシーが成り立つはずもないと評論家のようなことを書くより前に、新聞やテレビから遠ざかろうとしたりしていて、自分がそうなっているのです。 

 2013年の特定秘密保護法の成立、2014年7月の集団自衛権の行使を容認した閣議決定、2015年9月の安全保障法制の成立、そして今年の森友・加計疑惑、その仕上げとしての憲法53条に基づく臨時国会の開会要求を3か月も放置したうえでの冒頭解散です。かくも憲法を踏みつけた政権担当者は政治的シニシズムが広がることをねらっているのでしょう。このことは当ブログで「立憲主義」というどこか座りの悪い言葉との出会いを記した昨年の記事(「逆風の中の《立憲主義》(1)(2))とつながっています。

 ともあれ、この胸苦しくなる作業は別稿で行うことにしましょう。それとこれとは別のことじゃないのとの声が聞こえますが、本稿では同じ出会いでも一味ちがう一冊の本について書くことにします。

  落葉を控えて少し葉が色づきはじめた木です(神戸大学構内)

 

 その本との出会いは、親しかった旧知の人に再会できたような、小さいけれど確かな記憶の光をもたらしてくれました。

 気にはなっていたけれど、あえて読むまでもないかなと思っていたのです。でも、たまたまこの本を復刊した一人出版社である夏葉社の島田潤一郎さんへのインタビュー記事を読んで、やはり手に入れておこうと思いました。関口良雄の『昔日の客』(2010年10月刊/夏葉社)という本です。

 以前は棚にあった「 口笛文庫」の主人にたずねたところ、その一冊は売れたけれど、最近、もう一冊入荷していたはずだというのです。そして、うずたかく積まれた未整理の本の中から「ありました」と探しだしてくれました。

 端正な造本の本の帯には、シンプルに「名著復刊、古本と文学を愛するすべての人へ」とあります。「古本」は相変わらずだとしても、今は「文学」を愛するとはいえない暮らしぶりの私には面映い気持ちもありましたが、「じゃーありがとう」と手にしました。

 

 この小さな本を枕頭におき数日かけて少しずつ読みました。

 こんな文章を読んだのは久しぶりだなあ、なつかしい人びと(作家たち)に出会うことができたなあと、曇天気分の日々にあって、心のなかにあたたかいものが湧きだしてくるのが感じられたのです。エッセーというより随筆といった方がふさわしい骨格をたたえた本です。

 

 関口良雄さん(1918(T7)-1977(S52))は、昭和28年に東京の大森に古書店『山王書房』を開店し、無名・有名を問わず多くの顧客から愛された方のようです。還暦を前に随筆集を思い立ち準備がすすんでいましたが、完成をまたず昭和52年8月に結腸癌(当時のことですから本人には病名は知らされませんでした)で亡くなりました。享年59歳。入院中の日記には「自分の本ができるなんて本当に夢のようだ。涙が出るほどうれしい」と記されていたそうです。

 大森の山王・馬込あたりは大正末から昭和初期を中心とした時期には多くの文士や芸術家が住み、「馬込文士村」と呼ばれていたりもしました。そんな名残りのある土地で古書店を営んだ関口さんはその人柄もあって多数の作家、学者等との交流があった人でした。

 そんな一人である版画家の山高登という方は関口さんが亡くなった翌年、昭和53年に三茶書房から刊行された『昔日の客』の口絵として一千枚もの自作版画を刷ったとあります。手元の復刊本の方には、機械印刷ということになりますが、同じ口絵とともに裏表紙にも山高さんの版画が使われています。

 

 俳人でもあった関口(俳号は銀杏子)さんは昭和45年に本人を含む五人句集『群島』を刊行しています。本人以外には、前出の山高のぼるさん、そして尾崎一雄(1899-1983)、上林暁(1902-1980)、木山捷平(1904-1968)の三人です。元の『昔日の客』の翌月に刊行された追悼文集『関口良雄さんを憶う』(私家版)の編集人は、尾崎一雄と山高登です。

 関口さんは古書店開店から10年ほどして昭和38年に『上林暁文学書目』、翌39年に『尾崎一雄文学書目』を続いて自費出版しています。二人の文学への傾倒の深さがわかりますし、その1年後にはこの「文学書目」を作成するもととなった二人の100冊近い美本を「日本近代文学館」へ寄贈しています(関口さんは文学館への道を「私の背中におんぶされ、私の両手に手を引かれるように運ばれた本達よ」と記しています)。

 『昔日の客』には、子息である関口直人さん(音楽プロデューサー)が当初刊行時の「あとがき」と、その32年後の「復刊に際して」という文章を寄せています。後者のなかに、直人さんが中学生の頃、父である良雄さんがお客さんに夢中になって次のようなことを話していたと書き留めています。

 「 古本屋というのは、確かに古本という物の売買を生業しているんです

  が、私は常々こう思っているんです。古本屋という職業は、一冊の本に込

  められた作家、詩人の魂を扱う仕事なんだって。ですから私が敬愛する作

  家の本達は、たとえ何年も売れなかろうが、棚にいつまでも置いておきた

  いと思うんですよ。」

 かくして、関口さんが敬愛する作家たちにとって、山王書房そして関口良雄の存在はかけがえのないものだったにちがいありません。

 

 私がこの本を読んで「なつかしい人びとに出会えた」と書いたのは、尾崎一雄上林暁木山捷平の三人のことです。『昔日の客』には、尾崎、上林、木山三人のうち木山捷平のことは直接登場していませんが、尾崎一雄と上林暁は多回数描かれています。私はこの三人を、「昔々」からわりと読んできていることもあって、「なつかしい」と思ったのです。最近、古本屋ライターと呼ばれる人たちが称揚する後押しもあってか、上林と木山の一部の本は復刊されていますし、古本の価格も急上昇しているようで、私の手が出ないという事態にもなっています。

 文学史的な言い方だと、私小説の代表的作家と評されている三人です。心境小説などと呼ばれたりもしています。

 そんな三人を「昔々から」読んできたのはどうしてか、学生の頃という半世紀近くも前のことですから、ちゃんとした説明ができるはずもありません。当時は第一次戦後派と呼ばれる一群の作家たちをわからないなりに懸命に読んでいて、その多くは先の戦争や革命運動や思想弾圧が何らかの形で関係していたわけです。こうした大状況における人間を描写した小説にノックアウトされつつも、一方でどこか感情移入できないものがあったのでしょう。そして社会性の強い大上段の文学と並行して読んでいたのが、戦前に作家活動を開始して戦後も書き続けている、いわゆる私小説作家の作品でした。

 彼らの小説に、きっと普通ではないのでしょうが、普通の生活のありよう、夫婦や家族のありよう、さらにいえば人生の重さや輝きのようなものを、未知の世界をのぞきこむように若い私は生々しく感じていたのだと思っています。さらにいえば、そこには市井の人にとっての真実(それは私、自分にとっても)があるのかもしれぬと感じていたのでしょう。波乱万丈より何も起きない暮らしの方が現実的だと思ったりもして、どこかに「静かな生活」はないものかと探していたように記憶しています。

 

 『昔日の客』の表題作「昔日の客」に当事者として登場する野呂邦暢(1937(S12)-1980(S55))は、先の三人とはちょっとニュアンスがちがい、私にとって同時代の敬愛する作家の一人でしたし、今もそうです。次は「昔日の客」のエピソードを書いておくことにしましょう。

  『昔日の客』関口良雄著 2010年10月第一刷刊/夏葉社 私のは2014年5月第7刷分

  同上裏表紙 山高登の版画は「山王書房」と店主関口さんを描いたものです

  同上の目次です 顧客との交流、自分の人生、家族との関係のことなど

 

 では、表題作「昔日の客」のことです。全文を読んでいただかないとこの味わいはわからないのですが、という言い訳からはじめます。

 長崎諫早育ちの野呂邦暢さんが若いころ、高校を卒業した年の秋から翌年の春にかけて、上京してガソリンスタンドなどで働いていました。そのとき、山王書房に毎日顔を出していて、文庫本を値切ったりして、たまには関口さんから叱られたりもしていました。そして半年ほどして家の事情で郷里に帰ることになったとき、筑摩書房刊の『ブールデル彫刻写真集』が欲しくて、田舎へ帰るのだと告げると、関口さんは黙って自分の餞別だといって、値札の15百円から5百円を引いてくれたのだそうです。

 そして、十数年を経て、36歳の野呂さんが「草のつるぎ」で昭和49(1974)年上期の芥川賞の受賞が決まったさいに本人から電話があって、関口さん当人は「少しも記憶にない」過去の話をいろいろと聞かされたと書いています。翌月の授賞式には野呂さんから誘われた関口さんも出席したそうで、その2、3日後、野呂さん夫妻は山王書房の前に立っていました。ちょうど娘の嫁入り道具を運び出していたときで、野呂さんは「手伝いましょうと言うと、素早く上衣を脱ぎ、次々と荷物を運んで下さった」とあって、最後の文章となります。

 引用しておきましょう。

 「 なんのもてなしも出来なかったけれど、野呂さんはそれからそれへと話

  が続いた。

   野呂さんの奥さんは、美しい静かな人だった。私達の話のやりとりを終

  始にこやかに聞いていられた。

   話の途中で野呂さんは、何かお土産をと思ったけれど、僕は小説家に

  なったから、僕の小説を先ず関口さんに贈りたいと言って、作品集「海辺

  の広い庭」を下さった。

   その本の見返しには、達筆な墨書きで次のように書いてあった。

 

    「昔日の客より感謝をもって」 野呂邦暢           」

 

 以下は、蛇足ながらということになります。

 私の手持ちの野呂邦暢の本には、山王書房のことを書いた二篇のエッセーがあります。「S書房主人」は「先だって私はS書房を訪ねた」とあり、もう一つの「山王書房店主」は元の『昔日の客』が刊行された後で関口さんを偲んで書かれたものです。関口さんへ『海辺の広い庭』を「昔日の客より感謝をもって」と墨書して謹呈したことなど何も書かれていません。関口さんのことを「癇癪持ちのように見える主人」とか「見るからに頑固そうな主人」と描いているところが微笑をさそいます。

 詮方なきことですが、時系列に整理しておきます。

  ◦昭49(1974)年1月:野呂邦暢「草のつるぎ」で芥川賞受賞

  ◦ 同     2月:野呂夫妻が山王書房を訪ねる

  ◦昭51(1976)年5月:野呂「S書房主人」<西日本新聞>掲載

  ◦ 同     6月:関口「昔日の客」<銅羅>掲載

  ◦昭52(1977)年8月:関口良雄、自宅で死去

  ◦昭53(1978)年10月:関口良雄著『昔日の客』三茶書房より刊行

  ◦昭54(1979)年5月:野呂「山王書房店主」<週刊読書人>掲載

 このエピソードを『夕暮れの緑の光 野呂邦暢随筆選』(2010年5月刊/みすず書房)の解説で、岡崎武志さんは「私はこの挿話一つを抱きしめたくなる」と記しています。

 

 野呂邦暢さんのことは山王書房に「日に一度はのぞくのがきまりだった」頃の年譜を引用するだけにとどめておきましょう。誰でもそういうときがありますが、野呂さんのこの1年は彼の文学にとって重い意味をもっていたのではないかと、私は考えているのです。

 年譜は『野呂邦暢作品集』(1995年5月刊/文藝春秋)からの引用です。

 「昭和31年(1956)                     19歳

    3月、京都大学文学部受験、失敗。長崎県立諫早高等学校卒業。3ヵ月

   間、京都で浪人生活。映画、読書、名曲喫茶通いに明け暮れた。父の事

   業失敗、入院に伴い、大学受験を断念、帰郷。

    不況下の時代に職を得られず、秋、上京。大森の友人宅に下宿しなが

   ら、ガソリン・スタンド店員、喫茶店ボーイ、ラーメン店出前持ち、雑

   誌セールスマンなど、多くの職業に就く。」

 そして、翌昭和32年春に帰郷し、6月に自衛隊へと入隊します。

  『夕暮れの緑の光 野呂邦暢随筆選』岡崎武志編 2010年5月刊/みすず書房

  『野呂邦暢作品集』 1995年5月刊/文藝春秋

 

 『昔日の客』が復刊される経緯について、夏葉社の島田潤一郎さんヘのインタビュー「本屋さんと私」から簡単にメモしておくことにしましょう。

 一人出版社である夏葉社は2009年9月創業で、1冊目はマラマッドの短編集『レンブラントの帽子』で2010年5月に刊行しています。その5ヵ月後の2010年10月に2冊目として世に送り出したのが、『昔日の客』でした。

 

 何せ一人ですから、島田さんは1冊目の『レンブラントの帽子』をもって、置いてくれそうな本屋さんへ直接出かけてセールスをしていました(今もそうです)。そのとき、2冊目のことは何も頭になかったと語っています。

 ある方(詩人の金子彰子さんとあります)から行っておいた方がいいとアドバイスされた京都の古書店『善行堂』にも足を運びました。店主である山本善行さん(古本ライターとしても著名)から歓待され、「『昔日の客』を手に入れて読んだ方がいいよ」と言われたのです。

 これがきっかけで古書店を探し回ったが見つからず(発行部数が少なく、とても高値であった)、手に入れるのを諦め、国会図書館で読むことにしました。島田さんは読んで本当に感動したようで、この本を復刊したいと思いました。すぐ翌日から動き出し、著者の関口良雄の息子である直人さん(音楽プロデューサーだから連絡先がオープンだったという幸運もあって)へ手紙を書いたのです。

 関口直人さんは前出の「復刊に際して」で次のように記しています。

 「 6月のある日、一通の手紙が届きました。丁寧な言葉で、是非復刊させ

  てほしいという熱い想いが書かれていたのです。驚きと嬉しさで母と私は

  暫し、言葉を失いました。

   程なく父の書斎で、夏葉社の島田潤一郎さんとお会いしました。「昔日

  の客」が出版された当時まだ二歳だった島田さんは、父が山王書房を

  スタートさせたのと同じ三十半ばにして夏葉社をたった一人で立ち上げた

  のです。母と私は、彼のひたむきな想いに直ぐ応えることにしました。」

 島田さんは「この本も、出会ったときから「心中してもいい」と思える本だったので、本の素晴らしさが伝わって、とても嬉しく思っています」と、先のインタビューで語っています。

 

 こんな不思議な、幸運な出会いが重なって、復刊された『昔日の客』が私の手元に届けられたということになります。

 夏葉社の創業に至るもろもろのこと、夏葉社の理念やちょっと感動的な社名の由来のことなど興味深い話がありますが、ここでは割愛させていただき、前記の3回にわたるインタビューに委ねることにします。

 

  『レンブラントの帽子』バーナード・マラマッド 2010年5月刊/夏葉社

 

 かくして『昔日の客』との出会いは、昔日の記憶にふんわりとした光があたったような気にさせてくれました。これまでに足を運んできた京都と神戸の古本屋のこと、特に店主との交流があるわけではないけれど、これも人生の一日であったということです。尾崎一雄、上林暁、木山捷平そして野呂邦暢という作家たち、少々遅いかもしれないけれど、また手にとって読んでみようかと思わせてもらいました。

 夏葉社の最初の一冊、マラマッド『レンブラントの帽子』の本の帯には、少々大げさですが「心にしみわたる短編」とあります。秋はそんな本と出会いたくなる季節です。

 

 大学構内の馬場の脇に「徐行運転(が驚きます)」という立て看板があることを昨年ブログ(「馬も驚きますーパナマ文書の行方ー」)で報告したことがあります。先日、秋の陽ざしをあびている馬を横目でのぞいていて、今は「馬もあきれています」という状況というべきかと自嘲しました。

 約2ヵ月前に、いわゆる「森友・加計・日報問題」の三点セットが「ウソであることが明白なのに、不法でないがゆえに逃げ切るゲーム」で終わらせないようにすることの重要性を、当ブログ(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」)で書きました。今回の解散はさすがにこれ以上ウソを吐き続けることは政権の存亡に関わるとの判断からなりふり構わぬことになったのでしょう。

 直近のブログ(「東プロシアとカントをめぐってー池内紀の本からー(2・完)」)のとおりカントの永遠平和のための第一確定条項は「どの国の市民的な体制も、共和的であること」でしたが、わが国も、トランプ大統領のアメリカも、北朝鮮も、ロシアも、中国も、共和制の前提である「国民が統治する」原則からより一層「国民を統治する」方向の強化へと転倒しているようです。「行政」と「立法」の分離という原則についても、前者が後者を飲み込もうとしていたり、一体化していたりという実情でもあります。カントよ、出でよという心境です。

 いずれにしても、私のとらわれがちな政治的シニシズム(冷笑主義)は政治的実権者を利することは明らかであり、国民主権の敵であることを自覚しておきたいとは思いますが。

  秋の陽ざしをあびている馬です (神戸大学構内)

  心なしか市内の展望も透明感があります (神戸大学構内)

2017.09.30 Saturday

東プロシアとカントをめぐってー池内紀の本からー(2・完)

 「 戦争とは、法に基づいて判決を下すことのできる裁判所のない自然状態

  において採用される悲しむべき緊急手段であり、暴力によって自分の権利

  を主張しようとするものである。《中略》

   しかし国家の間には、懲罰戦争というものは考えられない。国家間では

  支配者と非支配者という上下の関係がないからである。そこから次のよう

  に結論できる。絶滅戦争では、双方が完全に根絶され、それとともにすべ

  ての法も滅びるから、永遠平和はただ人類の巨大な墓場でだけ実現するこ

  とになるだろう。だから、絶滅戦争は絶対に許してはならないし、絶滅戦

  争にいたるような手段の利用も絶対に許してはならない。」

 長い引用から始めることになりました。これはカントが18世紀末に書いた『永遠平和のために』の一節です。国家間の「戦争」の足音が近くに聞こえてくるような現在、『永遠平和のために』の言葉はアクチュアリティーをもって迫ってきます。今回、改めて、この小冊子を読んでみて「理想主義の絵空事」と根本的に違う地平に立った「平和論」であると確信しました。

 私は当ブログで平和や平穏への願望、希望を『永遠平和のために』にも言及しつつ繰り返し書いてきました(「新年の挨拶」「『思泳雑記』の一年」など)。しかし、このことは、私の現実への視線が欠如した祈りのような言葉もあいまって、『永遠平和のために』を哲学者カントの「道徳的な理想論」にすぎないとの誤解を招きやすい書き方、扱い方であったと反省しているのです。

 

 この引用には池内紀さんの訳ではなく、池内訳のほぼ1年前に刊行された中山元という方の訳(光文社古典新訳文庫/2006年9月刊)を用いています。それは、池内さん翻訳の方は、本論の基底となっている補説や付録の部分(合わせると全体の6割ほどの分量である)が抄訳となっており、全体を理解するためには、やはり全訳である中山訳の方がよいというのが理由の一つです。もう一つの理由は、NHK「100分で名著」の講師である萱野稔人津田塾大学教授のテキストが私の理解の欠落しているところに届いたところも多く、そこでも中山訳が用いられていたからでもあります。 

  『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』中山元・訳 2006年9月刊/光文社古典新訳文庫

 

 次項では、一番近い過去である20世紀という時代を理解するためにも、池内さんの『消えた国 追われた人々ー東プロシアの旅』から、東プロシアの存亡の歴史、というより池内さんが全身で拾い上げた「正史からこぼれ落ちた忘れてはならない歴史のようなもの」をたどっておくことにしましょう。

 

🔹消えゆく東プロシアー20世紀の激動の中でー

 「初まりをたどっていくと七百年の歴史をもつ」東プロシアは、第二次世界大戦によって消え失せました。現在の地図では「北部ポーランドと隣り合ってロシアの飛び地カリーニングラード州があり、その北がリトアニア」ということになります。東プロシアは「これら三つのどれにも、範囲をちがえてかさなって」いた地域、国、州だったのです。

 池内さんは、この「奇妙な国」の終焉を、次のように表現しています。

 「 その国は一夜にして消え失せた。地図から消され、法律からはじき出さ

  れ、行政の関知しないところとなった。詩人ボブロフスキーの言った「不

  幸と罪」のせいかもしれない。国王は忘れられ、臣民は忘れられ、存在し

  たことも忘れられた。存在そのものが、いたってあやふやだったので、忘

  れるのにも、さして手がかからなかった。」

  現在の地図に「東プロシア」の位置と当時と現在の都市名が表記されています

 

 ドイツ帝国の東端に位置した東プロシアは、史上初めての世界規模の総力戦であった第一次世界大戦の終結とともに、ベルサイユ条約により、ドイツ本土と切り離され、再び飛び地となりました。同時に、北の一部(メーメル地区)はリトアニアに、そして東プロシアの西、ケーニヒスベルクと同じハンザ都市であるダンツィヒは「自由都市」となったのです。

 ロシア革命(ソヴィエト連邦)、ドイツ革命(ワイマール共和国)、オーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴う民族自決による諸国家の誕生など、ヨーロッパの地図は大きく変化したのです。こうした中、東プロシアはワイマール共和国下で「プロイセン自由州」となりました。

 池内さんは「第一次世界大戦後に帰属問題が起きた」ときにも、「人々は投票でもって解決した」と書いています。つまり、「どの地方でも、リトアニアでもロシアでもポーランドでもなく、90%に達する多数決で「東プロシア」を選択した」のだと記しています。

 

 前述のとおりダンツィヒ(現グダニスク)は「自由都市」となりましたが、これはあきらかに「苦肉の策」でした。ドイツ領から切り離してポートランド領に含めると、「当時30万を数えたドイツ人の行き場が」なくなることから、強引に「自由都市」にしたというわけです。

 この結果、国境は次のようになったと、池内さんは記します。

 「 1920年、なんともへんてこな国境ができた。海沿いを西から東へ順にい

  くと、ドイツ・ポーランド・自由都市[㊟ダンツィヒのこと]・ポーランド・ドイ

  ツ[㊟東プロシアのこと]・リトアニア。しかも住人の賛否を問うことなく、一方

  的に新しい国境が引かれた。」 

  第一次世界大戦前の地図と近いものです ドイツ帝国の東の端が東プロシアです

  第一次と第二次の世界大戦によるドイツ領の変遷の過程です

 

 1939年9月1日未明、ダンツィヒ郊外のポーランド軍基地へドイツ戦艦から砲弾が発射され、そのことがナチス・ドイツによるポーランド侵攻の始まりであり、第二次世界大戦の発火点となりました。

 池内さんは旧ダンツィヒ港に近い小さいホテルで3泊します。宿の老女主人から「沖にはたしかに戦艦が停泊していたが、それはポーランド軍を威圧するためであって市民の大半はヒトラーの強硬策をいつものジェスチャーだ」と思っていて、ご本人も「戦争になるなんて夢にも思っていなかった」との言葉を聞き出しています。

 少し先走りますが、第二次大戦末期の空爆によって「市中の95%が破壊された」のだけれども、ダンツィヒは大半がみごとに復元されています。池内さんはケーニヒスベルク(現カリーニングラード)との比較が頭にあるのでしょうが、「旧ダンツィヒ、現グダニスクは美しい町である」と書いています。

 

 ナチス・ドイツは東プロシアのほぼ中心部にあるラステンブルグに対ソ連の東部戦線作戦本部として「狼の巣」をつくりました。もちろんカモフラージュずくめで巨大なコンクリートの塊のような「総統大本営」が建設されたのです。ヒトラーが「狼の巣」に滞在したのは5年間で計850日、最初の滞在は対ソ連開戦の2日後の1941年6月24日、最後の訪問はすでにソ連軍の大攻勢に敗退を重ねていた1944年11月20日との記録があるのだそうです。

 1945年1月、ドイツ軍は作戦本部「狼の巣」を爆破して撤退しましたが、その残された現場に立った池内さんは次の感想を記しています。

 「 なんとも奇妙な眺めだった。うっそうとした森のあちこちに採石場のよ

  うなものがちらばっている。戦後、ポーランド政府は大本営跡を整地はし

  たがコンクリートは撤去せず、爆破されたままの状態で保存し、記念公園

  とした。ヤンさん[地方史家で案内者]にいわせると「人間の愚かさを後世に伝

  えるための記念」である。」

 

 カントの町、ケーニヒスベルクのことです。第二次大戦末期、この町をめぐってソ連軍とドイツ軍の激しい攻防戦がありましたが、1945年4月9日、ドイツ軍は降伏文書に署名しました。ヒトラーは猛り立ちましたが、ヒトラー自身が自殺したのはそれから3週間後のことでした。

 これに先立つ1944年8月2日、英米軍の飛行機が大編隊を組んで襲来、旧市街の98%が炎上し、「7百年の歴史をもつ「バルト海の真珠」が一夜にして瓦礫の山となった」のです。

 戦後、ソ連領となったケーニヒスベルクはカリーニングラード(周辺地域を含めてカリーニングラード州、現在ロシアの飛び地)と改称されました。「計画経済」を標榜するソ連当局は「復元」を原則としたポーランドや西ドイツの戦後の復興に比べ、「すべてを更地にして、新しい町並みをつくる」という「まるきり逆の政策」をとりました。カリーニングラードも例外ではなく、旧市街の矩形の通りを消滅させ、斜めの通りに変えてしまったのです。

 カリーニングラードを訪れた池内さんは、哀惜と悲憤の感情を押し殺すように、次の感想を記すことしかできません。

 「 味けない「古都」歩きである。通りがいやに埃っぽいのは街路樹に乏し

  く、排気ガスが立ちこめているせいらしい。道路の両側に、衝立状にコン

  クリートの建物がつづいていて、見通しがきかない。ただ前へ前へすすむ

  しかない。」

  第二次大戦後のドイツ領の分割状況です ポーランドの国境が東西250勸榮阿靴討い泙

 

 ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月、ポツダムで第二次世界大戦の戦後処理をめぐって会談が行われました。ドイツについて、東プロシアのケーニヒスベルクとその近郊地域はソ連邦に、それ以外はポーランドに帰属させるとともに、オーデル・ナイセ川より東のドイツ領はソ連・ポーランドの管理下に置かれることになりました。このことによって、東プロシアはポーランドとソ連邦に分割され、東プロシアという名称が意味した存在(領域)がなくなり、その700年の歴史は幕を閉じたのです。

 このとき、同時に東プロシアだけでなく、旧ドイツ領に住んでいるドイツ系住民をドイツ本国に移住させることも決定されたのです。すなわち第二次大戦の終了とともに、それぞれの地からドイツ人はいっせいに追い出されることになりました。

 「 その数は、シレジア一帯から320万、ズデーテン地方から290万、北西

  ポーランド一円から300万、東プロシアから200万、その他を合わせ、約

  1千2百万人と推定されている。土地、建物、財産すべてを残して出て

  いった、出ていかなくてはならなかった。」

 まさに大規模な避難民、「難民」と呼ばれる人々が生まれたのです。

 

 同じ1945年の1月半ば、ソ連軍の大攻勢のはじまりとともに、東プロシアのドイツ系住民はパニック状態となり、「当然のことながら陸路よりも海路から脱出」しようとしました。海軍基地のあるビラウが脱出口となり、漁船や貨物船までもが動員され、ビラウ港から30万にのぼる人々が脱出したのです。

 1945年1月30日早朝にビラウを出港したオンボロ蒸気船は昼ちかくにダンツィヒ湾にたどり着きます。避難民移送に投入されたナチス・ドイツの豪華客船グストロフ号へなんとか乗り移ったのですが、出港からすぐにソ連軍潜水艦の魚雷をくらい、バルト海で沈没しました。《東プロシア》の冒頭「グストロフ号出港す」で池内さんは次のように記しています。

 「 死者(推定)9千余名。有名なタイタニック号沈没の死者は、たしか2千に

  たりなかった。グストロフ号が「史上最大の海難事故」にあたるが、海の

  事故となると、きまってタイタニックであって、グストロフは出てこな

  い。戦後、ナチスの罪業が糾弾されるなかで、バルト海の海難事故は政治

  的に封印されたからだ。」

 「戦後ドイツのタブー」の一つでした。この1945年1月30日は、ヒトラーが権力を掌握した1933年1月30日から、ちょうど12年目にあたりました。

 

 池内紀さんの2000年代の三度にわたる東プロシアへの旅は、16のエッセーからなる《東プロシア》一冊に結実しています。本稿でチョイスできたのはそのほんの一部であり、かつ表層的なレベルであることをお断りしておきます。

 池内さんは、現在のドイツと東プロシアをはじめとする旧ドイツ東部領土との関係について、今のドイツの経済力は旧東欧圏の国々の発展と切り離せないとしつつ、「力ずくで東部領から追い出されてきた人々の流れは、いまや産業とコマーシャリズムの太い物流となって逆に流れている」という感想を記しています。

 

 20世紀の戦争は二度の世界大戦だけではありませんが、やはりこれが代表しています。世界大戦は兵器の大型・強力化もあって、非戦闘員を含め、まさに総力戦という新たな状況を生み出し、その悲惨さにおいて多くの人々を震撼とさせました。戦争が終わって時日を経ない時期には「戦争を繰り返してはならない」との気運がベースとなって、国際連合をはじめとするさまざまな取り組みが展開されたと申しあげてよいのでしょう。

 20世紀と同様、啓蒙の時代と呼ばれた18世紀は戦争の絶えることのなかった激動の時代でもありました。こんな世界の現実を前にして、ケーニヒスベルクを毎日散歩する人、カントは、どうすれば戦争のない世界を構想できるかという課題に挑み、1795年、71歳のときに書いたのが『永遠平和のために』であったのです。

 冒頭で引用した「絶滅戦争」が今や時代の地平となってしまった現代、20世紀における国際連盟、国際連合の成立は、さまざまな実効性の欠如や限界が指摘されるところですが、その理念の策定においてもカントの『永遠平和のために』の考え方が大いに参考にされたといわれています。

 

 生涯にわたり一度も東プロシアを出たことのないカントは、東プロシアの消滅をどう受けとめたことでしょう。単に領土のことではなく、そこに住んでいる人々が、東プロシアの場合はドイツ人が着の身着のままで出ていき、ポーランド人やロシア人(彼らも移動したのです)が多数になっていったのですから、その意味で不可逆的な解体であったといえます。

 旧東欧圏には「12百万人をこえるドイツ「難民」が生まれた」のです。このことも意識しつつ、次項では東プロシアの地でカントという哲学者が鋭く深い洞察のもとに書いた『永遠平和のために』の基底にあるものを考えてみることにしましょう。

 

🔹カントのアクチュアリティー『永遠平和のために』の基底にあるものー

 NHKEテレ「100分de名著」で『永遠平和のために』の解説を担当した萱野稔人津田塾大学教授は「カントにとって大事なのは「なぜ戦争は起こるか」ではなく、「どうすれば戦争が起きなくなるか」」であり、この問いの転換こそが読み解く際の重要な鍵だと強調しています。

 

 まず、時代の背景です。

 18世紀のヨーロッパは、戦争に明け暮れたといっていい時代であり、その特徴は「国家」が前面に出てきたことや二国間ではなく他国間(国際)の戦争であったことだとされています。領土拡大や勢力拡張を「国家利益」とし、国家間で合従連衡が繰り返されました。と同時に、アメリカの独立やフランス革命に代表されるとおり、「ヨーロッパが近代社会の幕開けを迎え、民主主義国家の原型がつくられた時代」でした。

 この本が書かれた直接の契機は、1795年4月にフランスとプロイセンの間で交わされた「バーゼル平和条約」だそうで、単なる停戦条約のような、形だけの平和条約だとの強い不信を、カントは抱いていたのです。東プロシアのケーニヒスベルクは辺境の地といえども交易都市としてヨーロッパ中の情報を時差なしに得ることのできた国際都市であり、カントはこうして激動する時代の諸相をじっとみつめていたのです。

  NHKテキスト『100分de名著 永遠平和のために』の冒頭見開き(時代背景の一部)

 

 続いて、内容の構成です。

 本書は当時の平和条約(和平条約)と同じ形式をとって論述されているそうです。ですから、第一章は「国家間における永遠の平和をもとらすための六項目の予備条項」であり、第二章は「国家間における永遠平和のための確定条項」という二つの章に付録がついています。付録ではありますが、「カントの展開した平和論の哲学的基盤ーカント哲学の核心というべきもの」だと萱野さんは説明しています。

 「条項」という表現は平和条約の形式だからであり、「条件」のような意味です。「予備条項」は6項目、「確定条項」は3項目に追加条項として2項目が付加されています。

 本書は、項目だけ流し読みしただけでは誤解を招きやすく、やはり本文を読んでおく必要があります。そうしないと、カントは「道徳的な平和説法」をしただけだとのイメージが膨らんでしまうことになります。カントは「人びとが道徳的になれば戦争はなくなる」という単純な話をしているわけではないということを(萱野さんは「王政を廃止し、国民主権の国家をつくることこそが人類を永遠平和に導く」とカントは考えていたとします)、とりあえずここでは強調しておくことしましょう。

  NHKテキスト「100分de名著」 『永遠平和のために』の目次<その>

 NHKテキスト「100分de名著」 『永遠平和のために』の目次<その>

 

 次は、本書の基底にあるカントの人間観のことです。

 萱野さんはカントが現実主義者であったことを、その悲観的な人間観に現れているといいます。「人間はもともと道徳を備えているとも、道徳的に完成できるとも言っていません。「人間は邪悪な存在である」というのが、カントのそもそもの出発点です」というのです。そしてその証左として本書から二つの文章を引用しています。

 「 国債の発行によって戦争の遂行が容易となる場合には、権力者が戦争を

  好む傾向とあいまって(これは人間に生まれつきそなわっている特性のよう

  に思える)、永遠平和の実現のための大きな障害となるのである。」

 「 戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない。戦争はあたかも

  人間の本性に接ぎ木されたかのようである。」

 この戦争すること自体が人間の本性であるという人間観は、本書の第二章の冒頭、次の文章としてカントの平和論の出発点となっています。

 「 ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態ではない。自然状態

  とはむしろ戦争状態である。つねに敵対行為が発生しているわけではない

  としても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。」 

 決して上記の論述を否定するわけではありません。しかし、私自身は「邪悪」という言葉が全否定的な表現として使用されることが多いということを踏まえると、カントの人間観は「人間とは邪悪な存在」だという言い方には、同意しがたいのです。

 第二章の第一追加条項である「永遠平和の保証について」は後述もしますが、その中で人間は利己心をもって利己的にふるまう存在であっても「結局自然は人間を国家樹立に向かわせる」と、自然の「意志」や「摂理」という言葉を使って、カントは説明しています。自己中心的な存在とか、欲望をコントロールできない存在とか、そんな言い方もできるでしょう。

 私としては、「人間とは邪悪な存在である」というより「人間とは利己的な存在である」という<傾向>を示す言い方が、カントの人間観としてふさわしいと申しあげたいのです。

 

 本書の結論にも関わり、先走ることになりますが、萱野さんの解説をそのまま引用してみましょう。「⇒」は私が加えました。

 「 まず、もともとの自然状態では、すべての人間は利己的にふるまいま

  す。⇒やがて、そのままだと人びとは他者と衝突して自分の権利や利益が

  侵害されるので、なんらかの法・ルールをつくってそれを他者に守らせた

  いと考え始めます。⇒このときは、各自、自分だけはそのルールに縛られ

  たくないと心の中では思っていますが、最終的にはそのルールに自分も含

  めて全員がしたがっていきます。なぜならじつはそれが、自分にとってい

  ちばんの得になるからです。⇒要するに、自分の利益を最大化しようとす

  れば、人びとは法で支配された国家を形成する方向に向かうことになるの

  です。これが自然の意図にほかなりません。」

 社会契約論の基礎のような論法となりますが、萱野さんの説明の仕方はクリアです。私も、カントは上記のような論理で個々の人間が社会を、そして国家を形成する過程を説明していると読みました。

 

 第二章の永遠平和のための確定条項は3項目ですが、国家法国際法世界市民法という公法の三つの構成に対応しています。

 最初に国家法に対応する第一確定条項は「どの国の市民的な体制も、共和的なものであること」であり、永遠平和を実現するためには、国家体制が共和制であることが必要だとします(これがカントのアクチュアリティーの源泉です)。

 カントにとって、国家法とは、自然状態にある群衆を国民として形成するための社会契約を締結する行為といえます。そしてカントの国家論は国家の成立のための構成的な原理を重視するものであり、主権者はその構成的な原理に基づいて国民にある、すなわち国民が主権をもつ国民国家の体制に該当します。したがって、カントのいう「共和制」とは「現代の用語でいえば代議制の民主主義」「現代の民主主義体制」と異なるものではないと読むことができます。

 その共和的な体制を構成する条件として、次の三つをあげています。

 「 第一は、各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られるこ

  と、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属す

  るという原則が守られること、第三は、社会のすべての成員が国家の市民

  として、平等であるという法則が守られることである。この共和的な体制

  こそが、原初の契約の理念から生まれたものであり、民族のすべての正当

  な立法の基礎となるものである。」

 萱野さんは「人びとが自ら定めた法にのみ平等にしたがう共和的体制こそ社会契約の理念から直接生まれてくるものであり、それこそが立法の正当な基礎となる、ということです」と解説します。

 

 どうして「共和的な体制」が永遠平和を実現するために適しているのでしょうか。

 まず、共和制の場合は「戦争するかどうか」について、国民の同意が必須となりますが、戦争を始めた場合に国民自身に影響のあることを踏まえて決断することとなり、戦争という「<ばくち>を始めることに慎重になる」ということが考えられます。  

 加えて、統治の形式として、カントが強調しているのは、行政権(統治権)と立法権が分離されていることです。萱野さんは、第二次大戦時、日本の国家総動員体制やドイツの全権委任法を、立法と行政が一体化してしまった事例として取り上げ、戦争を防ぐためにその分離が必要であると力説しています。まさに共和体制ではなく専制体制へ変質してしまったのです。

 

 次の国際法に対応する第二確定条項は「国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと」であり、平和を実現させるために国家間の関係はいかにあるべきかが論じられています。

 カントは、人間が国家において市民的な体制を構築したと同じような体制を構築することを他の民族に要求することができるとします。そして、その上で、この体制は「国際的な連合であるべきであり、国際的に統一された国際的な国家であってはならない」と釘を刺しています。

 

 カントの提唱した「国際的な連合」について、カントは「平和連盟」と呼んで、次のように記しています。

 「 この平和連盟は和平条約とは異なるものである。和平条約は一つの戦争

  を終結させようとするだけだが、平和連盟はすべての戦争を永遠に終わら

  せようとするのである。この平和連盟は、国家権力のような権力を獲得し

  ようとするものではなく、ある国家と、その国家と連盟下そのほかの国家

  の自由を維持し、保証することを目指すものである。しかも連盟に加わる

  国家は、そのための公法に服し、その強制をうける必要はない。それが自

  然状態における人間とは異なるところである。」

 では、これに対し、カントはなぜ「国際的な国家(世界国家、世界共和国)」を「永遠平和を約束するものではない」として否定するのでしょうか。世界国家を維持していくためには、政府は独立を許すわけにはいかず、強権によって内戦を抑圧するしかなくなるとし、カントは積極的な理念である世界国家より、消極的な理念である国際的な連合を支持するのです。

 次のような言い方もしています。

 「 国際法の理念は、たがいに独立した国家が隣接しあいながらも分離して

  いることを前提とする。しかしこの状態はすでに戦争状態である(諸国家

  が連合のもとで統一されていて、敵対行為を予防しないかぎり)。しかし理

  性の理念によれば、ある一つの強大国があって、他の諸国を圧倒し、世界

  王国のもとに統合してしまうよりも、この戦争状態のほうが望ましいので

  ある。というのは、統治の範囲が広がりすぎると、法はその威力を失って

  しまうものであり、魂のない専制政治が生まれ、この専制は善の芽をつみ

  とるだけでなく、結局は無政府状態に陥るからだ。」 

 萱野さんは『闘うための哲学書』(2014年10月刊/講談社現代新書)のなかでも、世界国家は悪しき理想主義だと強く批判し、理想主義は目的がすばらしければ手段は何でも許されるという決定的な瑕疵をもっており(特に政治においては決定的)、その強制力や暴力性、善意によって隠された抑圧性に気づかないところが問題だというわけです。 

 

 最後の世界市民法対応する第三確定条項は「世界市民法は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと」であり、世界市民法の見地から、永遠平和のための補足的な説明をしています。

  ㊟世界市民法:カントによると「相互に現実的な関係にはいりうる地上の一切の諸民族が、

    たとえいまだ友好的ではないとしても、平和的に交際する共同関係を締結する理念」を

    法的に定めるもの

 この歓待の権利について、カントは「この条項は博愛を語るものではなく、法・権利を語るものである」「ただ外国から訪れた人が要求できるのは、客人の権利ではない」と注意深く留保をおきつつ、これは滞在権ではなく、平和的に訪問する権利として、次のように定義しています。

 「 外国から訪れた人が要求できるのは、訪問の権利であり、すべての人が

  地表を共同で所有するという権利に基づいて、たがいに友好的な関係を構

  築するために認められるべき権利である。この地球という球体の表面で

  は、人間は無限に散らばって広がることができないために、共存するしか

  ないのであり、ほんらいいかなる人も、地球のある場所に居住する権利を

  ほかの人より多く認められることはないはずなのである。」 

 萱野さんによると、カントが問題視していたのは「当時のヨーロッパの植民地支配」であり、そんな「ヨーロッパ諸国の暴挙をやめさせるべき」と考えていたからだといいます。デリダに『歓待の権利について』という本があるようですが、この中でデリダは『永遠平和のために』の「歓待の権利」から移民擁護論を展開したそうですが、萱野さんはカントは「無条件で移民を受け入れよ」と述べているわけではなく、デリダとその追従者たちは誤読していると指摘しています。

 

 以上が三つの確定条項について私の考えるポイント(萱野さんにおんぶしていますが)です。

 理解不十分のままではありますが、もう少し補足しておきましょう。 

 先に引用した萱野さんの文章と重なりますが、第二章の第一追加条項永遠平和の保証について」の冒頭部分は次のとおりです。

 「 永遠平和を保証するのは、偉大な芸術家である自然、すなわち<諸物を

  巧みに創造する自然>である。自然の機械的な流れからは、人間の意志に

  反してでも人間の不和を通じて融和を作りだそうとする自然の目的が

  はっきりと示されるのである。」

 こんなカントの考え方について、萱野さんは「[利己的な]人間がどんなふうにふるまったとしても、あえて道徳的な人間になろうとしなくても、結局は自然は人間を国家を樹立させる方向に向かわせる」とし、「むしろ人間が利己的にふるまうことによって、それは実現される」と表現しています。カントは「道徳的に善き人間ではない人も、善き市民であることを強いられる」と、それを「自然の意志」「自然の摂理」として理解していたのです。

 それは国家と国家の間においても「商業の精神」として「また自然は、たがいの利己心を通じて、諸民族を結合させている」のであり、「諸国は道徳性という動機によらずとも、この力によって高貴な平和を促進せざるをえなくなるのである」と、カントは述べています。

 

 このようにカントはなぜ「永遠平和は人間や国家の利己的なふるまいによって実現されると考えたのか」、利己的、自己中心的である人間や国家は欲望にしたがって行動しておればいいとカントは言っているのか、そうではないと、萱野さんは次のように説明しています。

 「 永遠平和という理念を実現するためには、もともと人間に備わった自然

  の傾向を知り、それをうまく利用するための社会の仕組みや制度を考えて

  いくことが必要である。そうカントは主張しているのです。カントがいわ

  ゆる道徳主義者のイメージとは異なる考えをもっていたのが、ここからも

  わかるでしょう。」

 そして第一追加条項の最後に、カントは次のような言葉を残しています。

 「 自然はこのような方法で人間にそなわる自然の傾向を利用しながら、永

  遠平和を保証しているのである。もちろんこの保証は、永遠平和の将来を

  理論的に予言できるほどに十分なものではないが、実践的な観点からは十

  分なものであり、たんなる夢想にすぎないものではない。この目的に

  向かって努力することが、われわれの義務となっているのである。」

 

 さて、最後にカント「平和論の哲学的基盤ーカント哲学の核心」と萱野さんがいう付録です。二つの部分から構成され、「一 永遠平和の観点からみた道徳と政治の不一致について」「 公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の一致について」がそのタイトルです。

 カントは付録で政治と道徳の関係を論じているわけですが、「道徳と政治が一致すべきなのは「公法の状態」を実現するため」です。すなわち「実用性や利益のために法の原則をねじ曲げてはならない」のにもかかわらず、支配する権力、つまり政府によって「法の原則がねじ曲げられてしまう」という現実に対し、カントは強く警告を発しているのです。

 「道徳とは、無条件にしたがうべき命令を示した諸法則の総体であり、すでにそれだけで客観的な意味における実践であり、人間はこれらの諸法則にしたがって行動すべきなのである」と書くカントの真意について、萱野さんは次のとおりコメントします。

 「 道徳はこうした「無条件にしたがうべき」だと人びとに迫ってくる力を

  もっています。それを法の領域にまでもちこんでくれるからこそ、カント

  は道徳と政治は一致すべきだと考えたのです。道徳と政治が一致すること

  で、法もまた「無条件にしたがうべきもの」として尊重されるように

  なっていくのではないかーこのようにカントは考えたんですね。」

 カントの念頭にあるのは「「自分だけはいい」ということは道徳では許されない」ということであり、「誰であれ特別扱いされない」という公平性の原理にまっすぐにつながっています。こんな形式的な力を道徳がもっているからこそ、カントは道徳の役割に期待するのですし、萱野さんの表現では「その力を法に与え、公平性が支配する状態を少しでも広げていくことが、カントにとっての永遠平和のプログラムだった」としています。

 

 ではカントの人間観だという「人間は邪悪な本性をもっている」のに、なぜ法を廃棄しないのでしょうか。それは、「法に、自らの権利を正当化してくる力が備わっている」からとカントは考えたのだと、萱野さんはいいます。

 そして、カントの道徳哲学や平和論の根底にあるのは、人間愛ではなく、むしろ形式愛、道徳や法のもつ形式への愛だったとし、次のカントの文章を引用しています。

 「 人間愛と人間の法にたいする尊敬は、どちらも義務として求められるも

  のである。しかし人間愛は条件つきの義務にすぎないが、法にたいする尊

  敬は無条件的な義務であり、端的に命令する義務である。法にたいする尊

  敬の義務を決して踏みにじらないことを心から確信している人だけが、人

  間愛の営みにおいて慈善の甘美な感情に身をゆだねることが許されるので

  ある。」

 カントの哲学は「人間の本質を邪悪なものととらえ、形式のもつ力によってしか平和は訪れない」とするもので、「もしかしたら非人間的で冷徹なものに映るかもしれません」と萱野さんは書いています。21世紀の混沌たる現実を生きる者として、そこにアクチュアリティーを見いだしているのでしょう。

 私は諸手をあげて萱野さんの意見に賛同しているとはいえませんが、その導きによってカント平和論の基底にあるものを本文に基づいて確認する機会を得たことに感謝したいと思います。そして、現在の世界や我が国の現実というものを頭に描きつつ、カント平和論と照応したときの合致点と相違点から、慄然としつつも、今の平和を阻む大きな力の存在を自分なりに理解していかなければならないと、改めて考えています。

 

🔹おわりに

 掲載容量のリミットがきてしまいました。中途半端なものになりましたが、一応、本稿を終えることとします。

 池内紀さんが翻訳されていなければ、カントを読むことはなかったのですから、これも不思議なご縁と申しあげるほかありません。

2017.09.20 Wednesday

ジャズを聴きはじめた頃にー四枚のレコードー

 初めてジャズのLPレコードを買ったのはいつの頃だったのでしょう。絶対ということでもありませんが、1974(S49)年の春であったと思っています。

 元の4畳半の下宿から、同じ大家さんの少し離れた8畳間へ移転して、春から新生活がはじまりました。新生活とは大げさですが、前年の3月から約1年間、実質的に大学を休学していたものですから、私にとっては新生活のようなものだったのでしょう。といっても、5年前に大学へ入学した時の新生活とは違って、内定していた就職を断り療養していた後ですから、自分への歯がゆさもあり、両親に対する申し訳なさも手伝って、ちょっと鬱とした新生活のはじまりでした。

 今の私のありようはこんな長い親がかりの学生時代(予備校もありましたし)をおくったことと無関係ではありえないのでしょう。大切なことに出会うのが万事にスローモーな私は、ジャズという音楽に出会ったのも、オイルショックでトイレットペーパーが店頭からなくなったと大騒ぎしていた昭和49年の療養期間、特に7ヵ月の入院生活で消灯時間をすぎてもイヤホーンでラジオを聴いていた頃でした。本とか文学という洗礼は大学入学直後から浴びましたが、ジャズだけではなく音楽という何だか「すばらしいものがある」と本当に知ったのはこの期間だったのです(なんと遅いことでしょう)。

 何か救いのようなもの(といえば格好のつけすぎで逃げ場所のようなものであったか)をどこか欲していたのでしょうか。

 

 こんな再びの新生活のはじまりに、廉価なものではありましたが、レコードの聴ける再生装置を買ってもらって新しい下宿に持ち込んだのでした。ですから、初めてのLPレコードはほぼ同時に買ったにちがいないということなのです。最初に手に入れたレコードは『ザ・トリオ/ハンプトン・ホーズVOL.1』です(1974年制作の印字があります)。このレコードからジャズが聴こえた時の緊張と喜びを、それだけは不思議と覚えています。

 ハンプトン・ホーズ(1928-1977)は陸軍のGIとして1953年から2年ほど滞日していて日本の本格的なジャズ・ブームに刺激を与えたピアニストですが、このアルバムは帰米直後の1955年6月に吹き込んだもので「CONTENPORARY JAZZ 1500 SERES」の1枚です。きっとNHK-FMで放送されていた「ジャズ・フラッシュ」という番組で熱心に紹介されていて、それを病院のベッドで聴いていたためなのでしょう。

 

 今回、ジャズを聴きはじめた頃によく聞いていた四枚のレコード(ジャズ入門者用という紹介でもあったのか、ホーズのは名盤ですが、それ以外の三枚は超名盤です)を、おそろしく久しぶりにターンテーブルにのせました。よく回していたせいかいずれのレコード盤にもレコード針による傷がありました。

 最近の私ならちょっとリズミックすぎて敬遠しそうですのに、ハンプトン・ホーズが弾く楽曲に共通する躍動感は、ある種の感傷もあってか、何だかいい気分にさせてくれました。

  『ザ・トリオ/ハンプトン・ホーズVOL.1』[コンテンポラリー/1974]

 

 そんな70年代のNHK-FM「ジャズ・フラッシュ」の内容はあまり覚えていないのですが、週替わりのパーソナリティのなかで特に児山紀芳さん(1936-)という方が好きになりました。80歳をこえた今も同じNHK-FMで「ジャズ・トゥナイト」という番組でDJとしてジャズの伝道師を続けておられるとは驚きです(ネットで調べてみて知ったのです)。児山さんは「スイングジャーナル」の編集長を通算17年にわたってつとめた方で、私のよく聴いていた頃は編集長時代の30台後半から40台前半でした。その温かく親しみやすい語り口、何よりもご本人が聴いてよかったと評価したレコードだけをピックアップし、その本質、美点を私たちリスナーにも届けたいという熱い姿勢がこちらに伝わってくるところがよかったのだと思っています。

 スイングジャーナルの編集長を退いて、1980年代にはアメリカのレコード会社のマスター・テープ保管庫に通い、埋もれた名演奏の発掘に情熱を傾け、「コンプリート・クリフォード・ブラウン・オン・エマーシー」(1990)などを世に出しました。こんな児山さんは世界のジャズ関係者から「BOXマン」(未発表音源を探し出しCDのBOXを作ってしまう達人とでもいうことなのでしょうか)の愛称で尊敬されているそうです。

 

 未発表音源を発掘する以前の放送でも、児山さんはクリフォード・ブラウン(1930-56)への傾倒を懇切にリスナーに語っていたということなのか、一枚目のハンプトン・ホーズに続いて手に入れたレコードのうちに、同じ1955年録音の『スタディ・イン・ブラウン/クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ・クインテット』があります。それ以降、愛称ブラウニーのレコードを中古レコード屋さんで何枚も入手しましたが、ほんどレコードを聴かなくなってからも『クリフォード・ブラウン・ウイズ・ストリングス』と『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』の2枚はごくたまにターンテーブルにのることがあります。

 今回、62年前に録音された『スタディ・イン・ブラウン』を久しぶりに聞いてみて、トランペットの演奏技術で天才だったといわれるブラウニーのトランペットが発する輝かしいばかりの音色と、どこか暖かみのあるというか、人間味のある音楽に揺さぶられました。クリフォード・ブラウンがすごいというのは、楽器の巧さだけで発揮できるサウンドではないところです。それがジャズなんだと申し上げたいのです。

 そして誰からも好かれたというブラウニーは翌1956年6月、ピアノのリッチー・パウエルとともにその妻の運転する車に同乗して次の演奏地へ向かう途中、視界のよくなかった夜に交通事故死(3人とも)してしまいました。

 

 本稿を書くきっかけとなったのは、当ブログを読んでくださっている方にはまたいつものことかになりますが、『図書』9月号の後藤雅洋さん(1947-)の「ジャズ100年」(本当は「ジャズ・レコード100年」が正しいのだそうです)を読んだからなのです。東京四谷でジャズ喫茶「いーぐる」を大学2年の時に開業してから50周年ということで、「いーぐる」は、そして後藤さんは、「ジャズ・レコードの歴史の半分に関わって来た」ことになります。

 この「ジャズ100年」で後藤さんは今のジャズ・シーンの現況とともに、「いまだに「敷居が高い」と思われている「ジャズ」の魅力」についてわかりやすい紹介を試みています。後藤さんが「ジャズ」のことをあまり興味のない人にもその魅力を伝えようとしたエッセーに、私はなるほどと、これまで言葉にできなかったことを教えてもらえたように思い、感謝したくなりました。

 まず後藤さんは、「敷居が高い」のには理由があって、それは「聴き方に誤解」があるからというところから始めます。「私たちは音楽を「メロディ」で把握しようとする傾向」が強いようだとし(確かにそうですよね)、「そうした時「でたらめのように聴こえる」ジャズのアドリブが理解の妨げ」になっているというのです。音楽の三要素と教えられたメロディ、リズム、ハーモニーは、音楽として「一緒くた」になって聴こえてきますが、「私たちのメロディを優先的に認知する傾向」が「ジャズの敷居」の一つなのだというわけです。

 ではどうすればいいか、リズムやハーモニーに着目して聴くこともいいのですが、後藤さんは「ジャズではむしろ学校で習う「音楽の三要素」からもれる要素」が重要だとし、それは「音色」と「ニュアンス」だと指摘するのです。そして、次のような例えで説明を加えています。

 「 例えてみれば、話の内容が譜面に書けるメロディだとしたら、リズムは

  まさに会話のリズムで、「音色」は「声質」にあたり、「ニュアンス」は

  「口調」あるいは「語り口」でしょうか。そうなのです、ジャズは「話の

  内容」より「声質」や「語り口」を味わう音楽なのです。」

 この説明は私にはビーンと響きましたが、後藤さんは「同じ噺を「何度聞いても飽きない」のが、落語の凄い」ところでジャズも全く同じなんだとさらに念押ししています。ジャズは「演奏のやりようによって面白くも、またありきたりのものにもなる」のだから、「ジャズの聴き方」は次のように試してみたらと続けます。

 「 要するにミュージシャンそれぞれの個性に注目するような聴き方をする

  ということですね。そしてその個性の指標として、楽器の音色やフレーズ

  (節回し)の微妙な表情に注意を払ってみるのです。つまり「視点」を転換

  してみるのですね。たったこれだけのことですが、同じ演奏でも聴こえ方

  がまったく違ってくるはずです。ぜひお試しあれ。」

 最近は毎日落語を流しながら寝ている私にとっては、ジャズと落語の本質に共通するところがあるとの説明を大変説得的なものと受けとめました。

 以上のような説明は従来もなされていたとは思いますが、でも今回の後藤さんのエッセーの趣旨はわかりやすいと思いませんか。クリフォード・ブラウンのレコードで感じた「輝かしいばかりの音色」や「人間味のあるサウンド」というのも、後藤さんの「ジャズは「話の内容」より「声質」や「語り口」を味わう音楽」なんだという説明に通じているようです。

 もとよりジャズにもいろいろあるのでしょうが、その本質や魅力はそのあたりにあって、つまり音楽の三要素にとどまらず、「音色」や「フレーズ(節回し)」という個性の表出に重心をおいた音楽としてとらえる、そんな聴き方がふさわしいということを、後藤さんの言葉から、これまでの私の実感に照らして確認できたように思っています。

  『スタディ・イン・ブラウン/クリフォード・ブラウン&マックス・ローチクインテット』

                              [エマーシー/1974]

 

 何だか音楽をよく聴いているように書いてしまっていますが、そうではありません。当ブログで「音楽」というカテゴリーを設けつつも、これまで書いてきたのは、いかに音楽を聴く時間が減ってきているのか、現に少ないのかを前提に、それでもこんな音楽に出会えましたという報告でした(「「音楽」があるということ」「すぐそばにーキース・ジャレットの音楽ー」など)。

 もとより音楽が嫌いになったというわけではありませんが、音楽に接する時間が減少したというはっきりとした事実は否定できません。音楽に接する時間の長短は問題の本質ではないでしょうし、今はもっと興味のあることができているということにすぎないでしょう、と言われれば「そうですね」と申し上げていいのかしれません。毎日が日曜日だとなんだかカントの日課ではありませんが、やることが決まってきてしまうということかもしれません。でもカントではない私はちょっとさびしいと感じてもいるのだと思います。

 大きな要因はやはりテレビの存在にちがいありません。ジャズをはじめ音楽に出会った頃は、テレビとは無縁の生活だったのです。今の自由に録画したテレビ番組をみる時間には(大切なものに出会うことも多いのですが)、テレビ以外のことに使うしかなかったのです。

 もう一つの要因はこのブログの影響も大きいかもしれません。誰に期待されているわけでも、強制されているわけでも、全くないのですが、今は実生活上でわりとウェイトが大きくなってきました。自分のためにやっているわけで、制約といっても自分の能力という制約だけですから、自分でコントロールしてやっていくしかありません。自分の能力以上のものを求めるのは愚かしいとわかっていても時にはトライしようとするところに問題があるのですが。

 今回のブログは後藤さんのエッセーをきっかけに、四枚のレコードを聴き直すことができたわけで、こんなやり方も音楽に接する上手な機会づくりだということにしておきましょう。

 

 三枚目のレコードは、あまりにも有名な傑作『ワルツ・フォー・デビー/ビル・エヴァンス・トリオ』です。

 この1961年録音のライブ・アルバムは、聴いた人、そして語った人、さらに書いた人、いずれも無数と申し上げてよいのであって、私が何を書こうが屋上屋なのです。このアルバムの冒頭曲である「マイ・フーリッシュ・ハート」はジャズという音楽を聴いて、今までで一番全身をわしづかみされた経験をもったというか、とにかく最も心を動かされた演奏であったという記憶があります。まさに私事ですが、少しだけ遅れて手にした本レコードを、四枚の中に入れたのはそんな理由です。

 1961年6月25日日曜日、ニューヨークのヴィレッジ・バンガードでのライブ演奏が、本アルバムともう一枚(『サンディ・アット・ザ・ビレッジ・ヴァンガード』)の二枚のLPレコードとなり、今も「永遠の名盤」として不動です。現在のピアノ・トリオにおけるインター・プレイの規範であり模範となったのがこのビル・エヴァンス(1929-80)のトリオだったのですが、天才ベーシストのスコット・ラファロ(193-61)はこのライブの10日後の7月6日に自動車事故で亡くなってしまいます。この2枚は突然の悲劇によって追悼盤として世に出たものでした。

 

 直近のブログで写真家ロバート・フランクが優れた「編集者」でもあるとして、その「編集力」にこだわった関係で、もう一つ付け加えておきたいのです。どうでもいいことかもしれませんが、お許しください。

 元のライブのコンプリート盤(CD3枚)は当日の演奏を時系列に並べたものですが、当日は実に午後と夜の計5セット、全22曲を演奏しました。複数回演奏した曲もありますので、ネットの曲数としては13曲です。二枚のアルバムにそれぞれ6曲ずつ収められていますから、1曲を除く12曲がアルバム化されています。例えば『ワルツ・フォー・デビー』の方は先述の1曲目「マイ・フーリッシュ・ハート」がSET1の4曲目、次2曲目の「ワルツ・フォー・デビー」が最終のSET5の3曲目でtake2が採られるなど、まさに編集という行為の存在を伝えたかったのです。

 この編集作業、つまりどの曲をどの演奏を選択し、どう並べるということがベストなのかという作業によって、LPレコードは成立しているのです。CDになって長時間の収録が可能になって、もちろん演奏の自由度が高まるなどのプラスもありますが、冗漫になっている面があると思っています。

 ロバート・フランクの写真集『アメリカンズ』は2万7千枚のネガの中から83枚を選択し、並べたというのですから、同列に論じられませんが、当然、音楽の分野においても、特にレコードやCD制作においては「編集力」が不可欠な要素だと申しあげていいのでしょう。

  『ワルツ・フォー・デビー/ビル・エヴァンス・トリオ』[リバーサイド/1975]

 

 ああ「また冗漫になってしまう」とがっくりします。先ほどCDはLPレコードに比べ「冗漫」になりやすいと書きました。当ブログを書いている私もそのことをいつも意識していますが、結局、毎回、全く意識していないような文章を綴ってしまいます。

 「すっきりとして余韻がある」ことを望んでいたとしても、気づいたことを選択しないで何でも書いてしまうということなのか、それこそ根本的に「編集力」が欠落しているのでしょう。

 

 四枚目は一枚目の次に手にしたと信じている『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』です。1957年1月の録音ですが、東海岸で活躍するマイルス・デイヴィス五重奏団が西海岸地方へ巡演した機会をとらえ、そのピアノ、ベース、ドラムスの「ザ・リズム・セクション」と呼ばれたビッグな3人と、西海岸でめざましく活躍していたアルトサックスのアート・ペッパーが1回(1日)限りの邂逅(ミーツ)で制作されたレコードです。

 アート・ペッパー(1925-82)は麻薬中毒、薬物中毒で何回も音楽活動の中断を余儀なくされました。同じウェストコーストのトランぺッターであるチェット・ベーカー(1929-88)とよく似ています。先述の後藤雅洋さんの表現では刑務所やリハビリテーション施設への入所を繰り返す「ペッパーの活動歴は当然彼の「出所期間」に限られ、一直線ではなくいわば「点線的」に記録されている」ことになるというわけです。その「重要な「点」のひとつが1956年出所後の数年」で、「ペッパーといえば「56年物か57年物が豊作」がファンの常識でも」あると記しています。

 今回、このレコードから流れ出る音楽は、意外と軽く輝かしくて明快な「音色」と「フレーズ」から、あふれるばかり情感が立ち上がってきて、低音から高音へ移行していくタイミングではいっしょに舞い上がっていくような感覚にとらわれました。後藤さんにかぎらず、日本人のペッパー好みは「哀調を帯びた感情表現」にある、本場アメリカで軽視されがちな「翳り・陰影感」のある繊細な感情表現にあるとの説明がよくなされています。私の感じた「あふれる情感」は「意外と軽く輝かしくて明快な」の奥に、「哀調」のようなものが秘められていること(別のレコード、例えば『モダン・アート』などはもっと直截に現れています)から生じてくるのかもしれません。

 ビル・エヴァンスの「マイ・フーリッシュ・ハート」は、「あふれる情感」という点では同じかもしれませんが、私を取りまく空気を森閑とさせる強い力によってずっと地中に引きこまれるような、正反対の心の中へ降りていく感覚がありますが、二人の音楽にどのような違いがあるのでしょう。

 

 70年代に音楽活動へ復帰したアート・ペッパーには、児山紀芳さんとのエピソードがあります。児山さんは1971年に薬物中毒者のためのリハビリ施設であるシナノン収容者に入所中であったアート・ペッパーをわざわざ訪ねるのです。日本のファンの思いを伝えたことでしょう。その1年後にアート・ペッパーは音楽シーンへと復活します。そして楽曲「MANBO KOYAMA」を作曲し、児山さんに捧げています。

 そんな劇的な復帰を果たすペッパーの評価は50年代ペッパーを支持する「前期派」と復帰後のペッパーを擁護する「後期派」に二分されたと、後藤さんは回顧しています。後藤さんは所詮「仲間内の「楽しいジャズ談義」の域を超えるものではない」としつつ、音楽的には50年代ペッパーの方によりシンパシーを感じるが、復帰後の「八方破れ的ともいえるアグレッシヴで」ハードな「後期ペッパーもわかる立場」だと告白しています。50年代のペッパーの名演は内面の葛藤を抑制していたからの「深い表現」だったのに対し、復帰後のペッパーは「むしろ「内面の葛藤」自体を曝け出した「はらわたの音楽」ともいえる」と、後藤さんは表現しています。

 私は復帰後のペッパーのレコード・CDも聴いていますが、50年代ペッパーとはやっぱり少し違うかなあという地点でとどまったままで、それ以上の感想は持ち得ていませんでした。ペッパーと二重写しになるチェット・ベイカーのことは当ブログ「ブルーなCHETー映画『BORN TO BE BLUE』ー」で、次のようにふれたりしています。

 「 今回、一番驚いたことは、前期というか、1950、60年代こそチェット

  だと思っていたふしがあるのですが、60年代後半から70年代前半の中断

  を挟み、後期である70、80年代のチェットの音楽はすごいぞと感じられ

  たことでした。そんなにたくさん聴いているわけでもないのに恥ずかしい

  のですが、元々からあったチェットの音楽の志向がいよいよすごみを

  もって顕在化しているのです。」

 何もわかってはいないのですが、「すごみ」という言葉のもつ破天荒さは、長いとはいえない人生を燃焼させるような後期の二人のジャズに共通しているのかもしれません。

 

 相当長期の中断期間を挟んで(中断といってもペッパーが訪れてきた児山さんにブルースの演奏を聴かせたように入所中であっても音楽から遮断されていたわけではありません)、ペッパーとベイカー二人の前期と後期の印象が、そして評価が分かれているということを綴っていると、ロバート・フランクの写真のことを意識してしまいます。

 会期末の迫っている「ロバート・フランク展・神戸」(最終日が1日延長して9月23日)ですが、この展覧会から得た印象を核としてロバート・フランクの写真作品を紹介してみたいと思っているからなのでしょう。1940年後半から50年代にかけての写真と、映画を中心とした時期を挟んで、それ以降の写真を、どう理解すればいいのでしょう。できれば、そんなことも踏まえて、書くことができればと思っています。

 基本は同一人物という共通基盤があっての差異であり、編集力はもとより批評力などとは縁遠い私としては、どちらかといえば、差異を受けとめつつ、一人のアーティストの本質を見出したいと願ってはいるのですが。

  『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』[コンテンポラリー/1974]

 

 40年余の時を経て、ジャズを聴きはじめた頃に、強い印象を残した四枚のレコードを聴き直すことができました。どうして五枚でなかったのか、よくわかりません。ブログをはじめた際にも「再聴」という形で音楽に再会したいと思いつつも、数珠つなぎで目の前に現れる新たなテーマに翻弄されていましたが、今回はこんな形でジャズと出会った頃に戻ることができました。

 それにしても、1974年春、あの下宿の2階にいた青年たちは、今はどうしていることか。さしもの長かった夏も、確実に季節は移っていきます。

 

 

 

2017.09.11 Monday

「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank:Books and Films,1947-2017 in Kobeー(1)

 先週(8日)、今月2日に開幕した「ロバート・フランク:ブックス アンド フィルムズ,1947-2017 神戸」[公式サイト]へ出かけてきました。

 こんなすばらしい展覧会ができるんだ、自分が関わったわけでもないのに、心の応援団としてはなんだかうれしくなりました。まだ足を運ばれていない方には(会期は9月22日まで、入場は無料、会場は神戸税関前のデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)です)、ぜひご覧いただけたらと思い、簡単に報告させていただくことにしました。

 今回は(1)として取り急ぎ展示を中心に外形的なことにとどめ、いわば展覧会場の案内的な内容を予定しています。ロバート・フランクの写真や映画そのもののことは、もう一度、展覧会にも出かけてみたうえで、何か言葉にできるのであれば、会期終了後ということになるでしょうが、(2)として書いてみることにします。

 

 この展覧会のことは当ブログ(「テオな人ー「生きている時代と向き合う」ということー」)の最後のところでもふれたりしましたが、最初から関わってきた島田誠さんは「待ちに待った」展覧会が開催したこと、その展示を「内覧会で初めて観て最初の想定に倍する充実ぶりに深い感慨を抱きました」と、その喜びを記しておられます[ギャラリー島田メールマガジン2017.9.3]。

 今年の初め頃だったでしょうか、島田さんからこの展覧会の神戸開催にトライしているとの話を伺い、「そんなことができればいいですね」と申し上げたときにはまだ半信半疑でした。それから8か月ぐらいの現在、このプロジェクトの仕掛人であるゲルハルト・シュタイデルから「今まで見た中で一番いい」(会場とか展示構成がということでしょうか)と言われたそうで、まことに驚天動地というほかありません。

 

 今回のプロジェクトの仕掛人と書いたゲルハルト・シュタイデル(1950-)は「世界一美しい本を作る男」として知られる出版人です(シュタイデル社という出版社はドイツのゲッティンゲンが本拠です)。そんなシュタイデルさんは、ストリート・フォトグラファーの創始者として現代写真に最も大きな影響を与えてきた写真家であるロバート・フランク(1924-)と、近年、共同作業によって彼の写真集(旧・新作)を次々と出版してきたようです。

 今回の展覧会は、そんな二人が、オリジナルプリントの美術市場における高騰によって写真展の開催が困難になっている現状を憂い、新聞用紙に写真作品を印刷して展示、終了後は完全に廃棄するスタイルで、世界50カ所で開催するというプロジェクトを企画したものです。日本では、昨年の東京藝術大学美術館に続く2回目の開催で、これで日本での開催分は終了ということです。

 展覧会のカタログに替わる新聞紙の「ロバート・フランク特別号」に寄せたシュタイデルの文章によると、世界中の若い観客に届けたいというのが「ロバート・フランクの明確な望み」であったそうです。この南ドイツ新聞で使われている新聞用紙の残りに写真を印刷して展示するアイディアをシュタイデルから聞いたロバート・フランクは「安くて早くて汚い。そうこなくっちゃ!」と言ったとあります。展覧会が終わって完全に廃棄する(1回ごとになのです)条件を知り、ようやく開催に同意したフランクは「腐った美術市場には何もくれてやらないぞ!」と<怒り声でうなった>と記されています。

 50ヵ所の開催地では、会場としては営利目的のギャラリーは除外され、それぞれの会場の主催者がふさわしいと思うような方法で、シュタイデル社のインクジェットプリンターで新聞用紙に印刷された写真が展示されるというわけです(ということは、世界50ヵ所を巡回する展覧会というより、同じコンセプトで1回限りの展示を世界50カ所で開催するというのが正確なのでしょう)。

 この高額取引されるプリント作品のアンチテーゼともいえる展覧会の企画は、写真集を作るという二人の共同作業(包括的な「編集作業」ともいえます)の積み重ねがあって初めて実現できたプロジェクトであることに注意しておきたいと思います。

 

 さて、やっと旧生糸検査所であるKIITOの会場に入りました。

 私の印象は、最初から最後まで「シンプル」とよい意味での「カジュアル」に貫かれた展示だなあということです。長さ3m以上ある細長い白い新聞紙(私たちの思い浮かべる新聞紙ではなく、南ドイツ新聞でも日曜版などの特別な記事用に使われる少し厚めの白い新聞紙です)の下の方に複数の写真を印刷された垂れ幕が天井から吊り下げられてずらりと並んでいます。

 1階の大空間は中央の天窓を挟んで北側と南側に細長い長方形が二列できます。北側のより長い空間には、ロバート・フランクが1947年にスイスからアメリカへ渡る前から50年代に至る頃の写真から構成されており、写真集ごとにおおよそ撮影年次の順に連続して展示されています。写真集のキャプション入りの垂れ幕は写真の印刷されたと同じ長さでカーキ色の紙に印刷されて、写真集ごとの区切りとなっています。

 北側に比べると少しだけ短い南側の長方形空間には、北側と同じように、高齢になったロバート・フランクの近作というべき写真集にかかる写真の展示と、ロバート・フランクが写真から映画へと制作の軸を移行させて撮影した短編作品を連続して放映するビデオコーナー、そしてその奥には長編作品を放映する仕切られた空間(座ることができます)があります。

 北側と南側に挟まれた中央空間には、今回展示されている写真集がワイヤーに吊るされており、観客は自由に写真集を手にとってみることができます。

 昨年の東京藝術大学美術館では、会場の関係もあって、床から立てたメタル・フレームに写真の印刷された新聞用紙をカットして貼り付けた展示もあったとネットで見ました。ここ神戸では、体育館のようなKIITOという会場の広さもあったのでしょうか、元々の発想であったと思われる天井から吊るすという方法で、整然と垂れ幕を並べる展示となっています。

 いろんな工夫も楽しいのでしょうが、これがシュタイデルさんが意図したシンプルな展示であろうと感じました。だから「今まで見た中で一番いい」というシュタイデルさんの評価につながっているのでしょう。

 説明が上手く書けないです。とにかく、これは百聞は一見に如かずです。

  会場の入り口にあたるところです 

  入場料が無料なので受付といっても簡単なものです(ここで荷物を預ってくれます)

  北側の展示空間を西から東へ撮影しました 

  大きな体育館のような天井から紙製の垂れ幕が吊り下げられ並んでいます(カーキ色は写真集の説明)

  北側の展示空間から中央と南側の展示空間を撮影しました

  北側の展示空間を南西の角から撮影しました

  中央部の写真集がワイヤーで吊るされた空間と南側の展示空間の一部を撮影しました

  奥には南側の展示空間の短編ビデオコーナーと長編放映スペースが見えます

  中央部の写真集の吊るされたところを撮影しました

 

 展示の方法についてももう少し書いてみます。

 北側の展示の最初と最後のところにシュタイデルさんが同じ新聞用紙に書いたと思われる手書きのロバート・フランクの言葉とその日本語訳(これもシュタイデルさんでしょうか)が掲げられています。オフ・ビート感覚とでもいうのでしょうか、ちょっとラフで緩い感じがこの展覧会にふさわしいのだと思います。本稿の長たらしい表題「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」はこの手書きのロバート・フランクの言葉の一節をそのまま拝借しています。

 順番に見ていく場合は、まず写真集ごとに説明文が英語と日本語で印刷されたカーキ色の垂れ幕があります。その次にその写真集の写真(もちろん一部です)が何枚かの新聞用紙に印刷された垂れ幕によって表示し、それらが終わると、次の写真集になるという並べ方、展示となっています。動線は左から右へ、右から左へと連続して見れるように何列も続いています。写真集ごとにどの写真をチョイスするのか、それらをどう並べるのか、最も難しいところかもしれませんが、二人で写真集を作ってきた蓄積があってのことなのでしょう。

 一枚一枚の写真は大きなものではありませんが、いい感じの印刷、新聞の写真というよりは、写真集の写真の方に近い印象です。一枚の垂れ幕に複数の写真が印刷されると、新たな言葉が生まれる感じがしてくるから不思議です。

 

 やっと展覧会の名称が「Books and Films」となっている理由がわかった気持ちになりました。つまりBooksとは写真集のことですし、Filmsとは長編と短編の映画のことです。今回、私はBooksの方はなんとか見た気になりましたが、Filmsの方はノータッチに近い状態でした。

 展覧会場を回っていて、私はシュタイデルがロバート・フランクと関わって作ってきた写真集や映画作品(これもシュタイデル社からDVD化されたものがテキストと合わせて出版されているようです)のエッセンスを、多くの方に見てもらおうと企画されたものではないかと思い始めました。出版人であるゲルハルト・シュタイデルにとっては、このような展覧会を出版しているような感じ、それぞれの会場のごとに毎回一冊の本を出版しているように思っているのかもしれないと考えたのです。

 

 これはこれでいいのかなと思ったりもしますが、観客数のことです。

 平日の昼間だからということでしょうか、「若い人にもっと見てほしい」というのがロバート・フランクの望みだそうですが、やはり私のような中高年者が目立っていますし、会場が広いこともあって観客の数が多いようには見えません。関西圏域でのPRなど、いろいろと努力されているのでしょうが、そのあたりがもっと必要だと思ったりもしました。

  北側の展示空間の冒頭脇におかれたロバート・フランクの言葉です

  左側に写真集の説明、その右側に新聞用紙に印刷された当該写真集の写真が印刷されています

  上記はロバート・フランクが1948年に訪れたペルーを撮影した『ペルー』(2008年)です

  写真の垂れ幕1枚を正面から撮影しました(『黒、白ともの』(1952年)より)

  これは少女?の視線が印象的な『バレンシア』という写真集の一枚です

  北側の展示空間の最後におかれた手書きされたロバート・フランクの言葉です

 

 もし足を運んでいただけた場合、もう一つ楽しんでいただきたいのは、旧生糸検査所の歴史的建築物としての迫力と立派さのことです。

 という私もこれまで何度か寄せてもらっているのですが、ただ中の展示やイベントだけであまり外を見ていなかったのです。今回、当ブログでバルセロナのモデルニスモ建築とプラハのキュビズム建築のことを続けて書いたせいなのか、建物の外部にも目がいきました。旧生糸検査所は、旧神戸市立生糸検査所(1927(S2)年竣工)と、増築部分の旧国立神戸生糸検査所(1932(S7)年竣工)からなりますが、広い街路に面しているのは旧神戸市立の方です。

 ゴシック調と書かれていますが、中央玄関の両端で4層を貫いてさらに上方に伸びる八角形断面の柱とし、神戸税関の対面に立つその姿は一見に値します。ともかくも、クリエイティブ・デザインセンター神戸として活用されていることを喜びたいと思っています。

  旧神戸市立生糸検査所のファサード前景です 中央の八角形の柱が目立ちます

  正面玄関の部分です なかなかの迫力です

 

 以上が今回の展覧会についての外形的な紹介ということになります。

 小中学生のコンクールでたくさんの作品を展示する場合、上下に作品をつないで縦に並べる方法がありますが、そんな手作り感、カジュアル感もある展覧会でした。いずれにしても、取扱いの厄介な写真という展示方法の高い壁に大きな風穴をあけることのできる展覧会であったことはまちがいありません。

 

 今回の展示で各写真集の説明文などを読んだり、特別号のシュタイデルの文章を読んでいると、次のことに気づきました。ロバート・フランクは「いかなるコメントも説明文も不要」というスタンスのようですが、だからこそというべきか、写真集の編集作業において、無数の写真の中から写真をチョイスしてどう構成して並べるか、これを大切にしているとのことです。最も有名な写真集『アメリカンズ』について、シュタイデルは「フランクは何度も何度も、何か月もかけて自分の写真群を構成し直し、まとめて整理した」、だから叙事詩になったのだと書いています。私はロバート・フランクが写真家であるということは優れた編集者でもあると申し上げたいのです。

 その意味では、ロバート・フランクとゲルハルト・シュタイデルという二人の傑出した編集者の魂がスパークして成立したのが今回の展覧会なのだということもできると、私は確信しています。

2017.09.07 Thursday

二本の映画の接するところー『パターソン』と『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』ー

 最近は「うそ」という言葉に敏感になっているようです。

 NHKEテレの「旅のイタリア語」という番組には「野村雅夫のCinebar」というコーナーがあります。そこで取り上げた映画(今回は『カーネーションの卵』シルヴァーノ・アゴスティ監督/1991年)から<名台詞>として一つだけ紹介するのですが、その中に「うそ」という言葉がありました。こんな台詞です。

 「     僕は幼いころ 大人をこんなふうに見ていた

  日々の暮らしのなかで うそに誠実であることを強いられている人々 」

 この映画はアゴスティ監督の自伝的映画だそうで、第二次世界大戦から長い時を経て、息子を連れて北リタリアの故郷を訪れた主人公が、ちょうど大戦中(ムッソリーニのイタリア)であった少年時代の記憶をたどるストーリーです。戦後すぐに主人公の父親は戦時中にファシストのイベントへ参加した時に撮影した家族の写っている写真を暖炉の火で燃やす場面があります。そんな自分の写っている写真が炎となっていくのを、姉とともに少年であった主人公がじっと見つめています。劇的な体制転換に直面した父親は、戦時中の記憶を消したがっているように写真をすべて焼き尽くしました。

 そんなシーンの後に、今の主人公が回想するナレーションが流れますが、その際の「名台詞」ということになります。 

 「日々の暮らし」を成り立たせていくためには、「本当」のことを「本当」といえず、「うそ」をつくしかなかった戦時中のファシズム下の社会を、大人になった主人公が、「うそに誠実であることを強いられている」大人たちの社会として、悲哀をこめて批判した言葉なのでしょう。

 それは、もとより戦争の本質、いわば銃後の本質でもあります。

 

 先月の初め、現下の政治状況を当ブログで「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」としてスケッチし、平気で「うそ」をつく政治の構造的な問題に接近しようと試みました。この映画で描かれた「うそ」をつく戦時下の社会と、状況には大きな差異があるわけで、同一レベルで論じられないところはありますが、強権というか強大な力で同調を強いられる集団、社会という観点からは共通した部分を感じます。つまり強権の下におかれた霞が関という利益共同体に生息する人々(直接には問題の当事者)が「本当」のことより「真顔で「ウソ」をつく」方を<強いられてしまう>という構図は、どこか共通したところがあるといわざるをえません。

 「うそに誠実であることを強いられた人々」とは、本来ポジティブな「誠実」がネガティブに反転しているのであり、なかなか喚起的で意味深長なる表現だなあと感じたのです。

  NHKEテレ「旅のイタリア語」2017.9.5再放送分の映像を撮影したものです

 

 直近にみた二本の映画について感想をメモしておこうと思います。

 映画がまとっている衣は、まったく肌触りの違うものだという印象があります。でも不思議なことに、その外形を超えて映画の根っこに「詩」「詩を書く人」「詩人」というところで接しているのです。

 神戸では、シネリーブルで上映中ですので、まずオフィシャルサイトを貼り付けておきます。

  🔶『パターソン』 

           ジム・ジャームッシュ監督・脚本/2016年

  🔶『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』 

           テレンス・デイヴィス監督・脚本/2016年

 後者は当ブログ(「台風のあとにー『図書』2017年8月号ー」)のなかで、神戸で上映されたらみてみたいと書いていた作品です。

 

 二本とも私にとってよい映画でした。特に『パターソン』は、今年映画館でみた20本余の映画の中で最も好きな映画だなあと思っています。

 まず『パターソン』の方ですが、これは現代の話、ニュージャージー州のパターソンという町で、バスの運転手をして、詩を書いているパターソンという名の若い男性とその妻ローラの(夫は内省的、妻は外交的と相補関係)、ある一週間をスケッチした映画です。その肌触りはシンプルで穏やか、オフ・ビートで緩い感じ、「絶妙なユーモアと飄々とした語り口」で切り取られた日常、日常のなかに発見される詩と喜び、その繰り返しのなかに浮かびあがってくる「自分らしい生き方」という問いというところでしょうか。

 ジャームッシュ(1953-)監督の映画はこれまで4本ほどみており、2005年の『ブロークン・フラワーズ』から10年以上の間隔があって今回の『パターソン』でした。この映画をみていると、ジャームッシュはジャームッシュですが、ジャームッシュなりのよき熟成が感じられたのです。

 

 ジャームッシュはこの映画を「ダークでやたらとドラマチックな映画、あるいはアクション志向の作品に対する一種の解毒剤となることを意図している」とし、「ディテールやバリエーション、日々のやりとりに内在する詩を賛美」する主人公たちの人生における7日間を追うだけの映画なのだと公式サイトに記しています。

 主人公パターソンは20世紀アメリカを代表する詩人であるウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パターソン』という詩集を愛読している設定なのですが、ジャームッシュ監督は別のところでウィリアムズの詩から感じ取ったことと映画の関係について次のように語っています。

 「 ¨身の回りにある物事や日常におけるディテールから出発し、それらに

  美しさと奥深さを見つけること。詩はそこから生まれる¨。僕はあまり分

  析的に仕事をしない方だけど、いくつかの詩のフォームから影響を受けた

  のは確かだね。いわば詩のフォームをした映画と言えるかな。映画の

  フォームをした詩ではなくて。」

 主人公パターソンは日常会話のなかでさりげなく詩を語りますが、その味わい深さが「詩のフォームをした映画」のゆえんであり、この映画を「豊かな緩さ」に変貌させ、すばらしいものにしたのです。その詩はジャームッシュ監督が好きなロン・バジェットという詩人の旧作と新作が使われています(すばらしいと言いながらその詩をまったく記憶できていないことは情けないし、さみしいかぎりです)。

 

 二人で映画に出かけて帰ってくると、パターソンはソファに置き忘れた詩のノートを毎夜散歩に連れていく愛犬が粉々に噛みちぎってしまったことに気づきます。

 翌日(日曜日でしょうか)、滝の前のベンチに腰かけ、途方にくれています。そこに永瀬正敏演じる日本の詩人がやってきて、二人で腰かけてぼそぼそと会話し、パターソンへ何も書かれていない白いノートをプレゼントします。そして、映画はパターソンの詩のある日常が続いていくだろうと思わせて、エンドとなります。

 パターソンは自分のことを詩人とは思っていないのでしょうか。詩を書くバスの運転手なのか、バスの運転手をしている詩人なのか、まあそんなことはどうでもいいことですね。大切なことはそんなことではないでしょと、この映画はそんな気分にさせてくれます。

  チラシの表面です このポーズから各7日がはじまります

  チラシの裏面です 

  モノクロですが、主人公パターソン(アダム・ドライバー)と日本からきた詩人

  (永瀬正敏)が会話するシーンです

 

 もう一方の『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』もよい映画であり、緊張感のある映像と会話、偉大な詩人を敬愛をこめて描いた重厚で立派な作品です。

 エミリ・ディキンスン(1830-1886)のことを「偉大な詩人」と書きましたが、生前は全くの無名、10篇の詩を発表しただけで亡くなり、妹が整理ダンスから1800近くの詩稿を発見したことから、今日の評価につながっています。

 そんな「家族以外に交流がほとんどなかった」といわれる詩人の生涯を描く伝記映画なんだと思ったのですが、映画ですから、そう単純なわけではありません。字幕監修を担当した武田雅子さんによれば、テレンス・デイヴィス(1942-)監督はディキンスン像を明確にするために、取捨選択を含めた脚色も行い、「ひたすら詩作の内面を描こうとした、つまり真の「詩人」である意味を追求した」のであり、「詩作に、その内面に大胆に切り込むという試み」をしているとし、そして内面を描くために詩のテーマとしても「生と死に集約させ」たのだと解しています。

 デイヴィス監督は「ディキンスンは死後に評価されましたが、それは不当です。彼女は真に偉大な芸術家であり、永遠に賞讃されるべき人です」と、映画制作の動機を語っています。

 

 映画をみていて驚くことは、19世紀中葉(南北戦争のあった時代)におけるニューイングランドの精神風土の厳しさです。信仰、教会との関係、家族との関係、男女関係、何より女性であること、そのただ中に生きる詩人の魂、魂の自由のためには何も恐れないディキンスンは孤立し、自室にこもって詩を書きます。八木忠栄さんは、彼女の根底には「当時の社会通念に対する明晰で勁い姿勢が貫かれていた」とし、「神への信仰に強制されない詩の自由。理解されにくい、詩人本来のあり方だ」とします。「潔癖で孤高な詩人の精神をもった生き方を堅持する」ディキンスンはますます辛辣になり、「痛々しい」までの言葉を吐き、「周囲の人々を傷つけ、自らも傷つく」のです。

 映画ではそんなディキンスンを敬愛を込めてではありますが、室内でのランプの明かり、現在からするとあまりにも薄暗い明かりのなかで、激しいけいれんを伴うブライト病を発病する姿を含め、呵責のないドラマが展開されます。いい加減に暮らす私のような映画をみる者は極度の緊張と苦行のような時間に息苦しくなりますが、それでもディキンスンという詩人は「誰もが本当は求めているはずの魂の自由を勝ち取った人なのだ」という光が感じられるのです。

 これまでに作品をみたことのなかったデイヴィス監督ですが、これは瞠目すべき映画であり、武田さんが記すように「監督のメッセージは、地味で静かではあるが、強烈で激しいもので、まさに¨a quiet passion¨であったのだから」、まことにそのとおりだと思います。

 

 チラシの表面には、¨アメリカ文学史上の奇跡¨と讃えられるディキンスンが発表することを断念して書き続けた詩の一節「これは世界にあてた私の手紙です/私に一度も手紙をくれたことのない世界へのー」とあります。この詩を字幕監修の武田雅子さんがチラシと少し違う言葉も使って新たに訳出していますので、最後に掲げておきましょう。

 「 これは世の中に宛てた私の手紙です

   世間から私に便りはなかったけれどー

   やさしい威厳をこめて

   自然が語った 素朴な知らせです

 

   自然の便りは

   私が見ることのできない手に 委ねられます

   親切な皆さん 自然のために

   私をやさしくご判断下さい          」

  チラシの表面です

  チラシの裏面です

  ディキンスン家で牧師を囲んで跪くシーンです 詩人だけが跪いていません

 

【追補】

 本稿では二本の映画のことを書こうとすると「詩」を媒介としてその「接する」ところが見えてくるのではないかと期待していましたが、どうもうまくいかなかったようです。でも、今改めて二本の映画の映像を思い返してみますと、パターソンもエミリ・デッキンスンもほんとに小さな机でノートやら紙片に「詩」を書いている姿が立ち現れてきました。その二人の「詩」の生まれる場と時間こそが、二本の映画の「接する」ところにちがいないと気づいたのです。(9/8)

2017.09.05 Tuesday

ここにしか存在しないとはープラハのキュビズム建築ー

 9月が始まりました。待っていたように風と空気が変わりました。

 「キュビズム建築」と呼ばれる建築様式があります。耳慣れないのは当たり前で、チェコ(旧チェコスロヴァキア)にしか存在しませんし、第一次世界大戦の前後の短期間で突然消え去ったのです。

 先日のブログでバルセロナのモデルニスモ建築のことを取り上げた際に(「バルセロナで美の喜びと出会うーモンタネールのモデルニスモ建築ー」)、チェコのプラハで出会ったキュビズム建築のことも残しておこうと思い立ちました。

 バルセロナ行の前年、2013(H25)年7月に中欧3都市観光ツアーに参加し、最後のプラハで3泊延長できたことから、こちらの方も偶然が重なって、キュビズム建築の実物に接することができました。その偶然の一つは旅行の数ヵ月前に、一冊の本(『チェコのキュビズム建築とデザイン1911-1925』(2009年3月刊/INAX出版))を手にしたということで、事前にプラハには「キュビズム建築」なるものが存在していることを知っていたのです。

 といっても、意識的にキュビズム建築を探訪して回ったわけではなく、プラハの町を歩いたりトラムに乗ったりしていて、本の図像で見ていたイメージに遭遇できたというのが本当のところです。

 

 プラハの街並みは美しく、中世から現代まで多様な建築様式を体現した建物が残っている、現役で使われていることから、建築博覧都市と呼ばれたりします。そんなプラハの町に溶け込んでいるようでいて不思議なアクセントとなっているキュビズム建築のことを紹介します。

  プラハ中心部を走るトラムです 何回もお世話になりました

   [以下の写真は全て2013年7月11〜15日プラハ滞在中に撮影したものです]

 

🔸美しい街並みに不思議なアクセントーキュビズム建築とはー

 プラハ城からカレル橋、そして国立美術館でのミンシャの「スラブ叙事詩」鑑賞を終え、お昼をだいぶ過ぎたころ、旧市街をツアー一行のみなさんと歩いていると、目の前にブラック・マドンナ(黒い聖母の家)がありました。予期していなかった唐突な出会いでした。早朝の散歩時にはちょっと探してもわからなかったのですが、こんな近くにあったのです。

 その時は近づくこともできずに、また後で来ようとなったのですが、遠目からは「キュビズム建築」の表象を何も感じることもなく、ちょっと外壁の色が変わっているけれど、どこがキュビズムなの、不思議なアクセントといえばいえるけれど、すっかり旧市街の街並みにとけ込んでいるなあというのが感想といえば感想でした。

  ブラック・マドンナです [2013.7.12撮影]

 

 ここで、「キュビズム建築」なるものの概略を記しておきましょう。

 チェコ・キュビズムとは、ピカソやブラックが主導したキュビズムに触発されて(1911年にピカソとブラックがチェコの画家たちに招かれ、プラハで展覧会を開いたとのこと)、1910年代にプラハで起こった絵画、彫刻、工芸、家具と幅広い芸術運動で、中心となったのは建築の分野でした。パリのキュビズムとほぼ同時進行だったことは驚きです。

 多くの識者は前期と後期に区分できるとしており、前期とは第一次世界大戦前の1911-14年の「結晶形や鋭角的な幾何学系で、多角柱形、多角錐形のモチーフ」を多用したキュビズム建築であり、後期とはチェコスロヴァキア共和国建国後の1918-25年の「明るい彩色の施された民族的モチーフである円柱や円弧」を多用したロンド・キュビズム建築です。なお、この後期のロンド・キュビズム建築様式は、キュビズムと区別してアール・デコだとの説もあるとのことです。

 前記の本(以下《キュビズム建築》と表記)に寄稿している藤森照信さんによれば、建築デザインの幾何学化といっても、水平と垂直の線と面ではなく、斜線と斜面を好んだところにチェコのキュビズムの特徴を見ています。

 キュビズム建築とされている個々の建築物は後ほど紹介しますが、斜線・斜面・結晶体という特徴が表れた柱と外壁の写真を掲げておきます。

  ブラック・マドンナの柱の上部で、斜線と斜面を多用する建築デザインです

  教職員住宅の外壁、窓の下の建築デザインがキュビズム建築の特徴です

 

 キュビズム建築を代表する建築家は、モデルニスモ建築の三銃士(ガウディ、モンタネール、カダファル)という呼び方にも似て、パヴェル・ヤナーク(1882-1956)、ヨゼフ・ゴチャール(1880-1945)、ヨゼフ・ホホル(1880-1956)の3人です。全くの同世代であり、ウィーンのオットー・ヴァーグナー(1841-1918)や、そのもとに学んだプラハのヤン・コチェラ(1871-1923)の影響下にあった(先行する彼らもかつては「前衛的な建築家」でした)、いずれも当時30歳そこそこの若手建築家でした。

 当ブログで取りあげたことのある現在の原爆ドームの建物(建設当初は「広島県物産展示館」1915年竣工)を設計したヤン・レツェル(1880-1925)もヤン・コチェラに学んだ建築家でした(「日曜日のキャンパス、百年前のこと」)。

 ヨーロッパ全域で20世紀初頭には近代建築の合理主義や物質主義に反発して建築の芸術性を強調する運動がみられましたが、そのチェコ版だったということができるでしょうか。3人のうちヤナークは理論家であり、1911年「多角柱と角錐体」という論文で、「自然界の現象には、すべて目に見えない力が働いている。その力でつくられた最も美しい形が結晶体で、これこそ建築の精神性を表現するのにふさわしい形態だ」と書き、これが今日ではキュビズム建築宣言と呼ばれているようです。ヤナークらは物質を斜めにカットしたりして、結晶体や角錐体に形を変えることで、物質に精神と活気を吹き込むべきだと考え、そうすることによってピカソが絵画で達成したのと同じ成果が建築という分野でも得られると信じていたと、《キュビズム建築》に寄せた一文でロスチラフ・シュヴァーハという方は記しています。

 こうした若手建築家が活躍できた背景には、第一次大戦直前のチェコが「ヨーロッパ有数の工業地帯となっていて、還流する資金でプラハ中心部の区画整備が進み、市街が拡張を続けていた」ことがあったとのことです。

 

 ここで藤森照信さんの文章に依拠して、20世紀のデザイン運動全体の中で位置づけてみましょう。

 ヨーロッパ全域で花開いたアール・ヌーヴォーの一つであるウィーン・セセッションが、それは1900年代、世界の20世紀新建築運動の先頭を切っていましたが、プラハに移植されて根付き、「1910年代に入ってキュビズムが芽を吹いた」という流れなのです。

 チェコ以外では、ドイツやオランダでは表現派、ロッテルダムではデ・スティルが生まれ、「ドイツとオランダがアール・ヌーヴォー以後をリード」し、「ドイツの表現派はバウハウスへと脱皮」しました。藤森さんは「バウハウスのホワイト・キューブのデザインこそが、アール・ヌーヴォーに始まった20世紀デザイン運動のひとまずの到達点」であり、この30年間が20世紀建築の成立過程だとします。この道のりは「植物的デザインから幾何学的デザインへ」といえるが、建築デザインにおける幾何学化を最初に実現したのがチェコ・キュビズムであり、チェコ独特の成果だというわけです。

 ホワイト・キューブにつながる幾何学化は水平と垂直の線と面によったのに対し、チェコ・キュビズムは「幾何学化が斜線・斜面に特化していた」点に特異なところ、特徴点があると注目しています。

 興味深いことに、藤森さんはチェコ・キュビズムの成り立ちを研究したといえないので答えることができないがと断ったうえで、「チェコ特産のボヘミアグラスのカットと何か関係はないだろうか」と書いています。

 

 前置きが長くなっていますが、なぜ「キュビズム建築」が短命であったのか(他の国のアール・ヌーヴォー以降の建築デザイン運動と同じことだといえばいえそうですが)、それは特にチェコにおいては、第一次世界大戦とチェコスロヴァキアの独立との関係とともに、建築技術という面から説明されています。

 前者について、シュヴァーハさんはキュビズム建築を先導した建築家たちがチェコスロヴァキアの独立との関係でもっと「国民性」を表現すべきだという方向に、いわば舵を転換したことであり、後者は藤森さんが指摘するとおり「鉄やコンクリートといった20世紀建築を代表する技術、材料」を使いこなす段階ではなかったことで継続性を持ちえなかったというのです。

 つまりキュビズムのフォサードは鉄筋コンクリートではなく「厚く積んだ赤煉瓦を斜めに削り、モルタルを塗って仕上げ」られていたのです(作業的には大変難しく、手間とコストのかかる仕事でした)。

 

 こんな情報の切り貼りのような言葉を並べていると、いつものことだと思いつつも、ちょっと情けなくなります。「キュビズム建築」を自分なりに受けとめることができていないのです。

 写真家である田中長徳さんは1975年のプラハ訪問を契機にアパートを借りて時々滞在するという生活を続けてきた方です。そんな田中さんは、1989年のビロード革命を「維新」と呼んでいますが、維新前にキュビズム建築に恋して「なかば本当にそこに棲もうとまで考えた」と書いています(田中長徳著『屋根裏プラハ』(2012年1月刊/新潮社)の「キュビズム建築に棲みたかった」/この本を旅の後で読みましたが、旅の前に読んでおきたかった)。

 巨大なものより小品を好み、泰西名画や歴史画よりキュビズム絵画を好む性癖だという田中さんは(私も同じ性癖です)、プラハとキュビズム建築の関係について、次のとおり記しています。

 「 プラハは、そこにキュビズム建築があるからキュビズム的なのではな

  い。もともとのプラハの存在がキュビズム的だから、そこから浸出した液

  体は正しい結晶体を作るのである。その水晶がキュビズム建築だ。」

 そして、建築博物館とされるプラハの重量級の建築物の中で、キュビズム建築に惹かれるのはその「軽さ」だといいたいようなのです。

 「 キュビズム建築ってやつは、プラハの数ある諸建築様式の中で、一番軽

  そうである。ルネサンスもゴシックもバロックも表現派もユーゲントシュ

  ティール(アール・ヌーボー)も安定と重量と装飾がもっぱらのテーマなの

  に、キュビズムにはそれがない。」

 

 以下、私が見たキュビズム建築をレポートしてみることにします。「私が見た」というより「目の前に出現したキュビズム建築といわれている建築物を見た」というが正しい表現でしょうか。ガイド本に縛られている私の限界です。

 書く前にどうなんだになりそうですが、有体に申しあげて、プラハのキュビズム建築の表象は、バルセロナのモデルニスモ建築のように強力な磁力と直接的な美の力を放射するものではないということです。それは幾何学化というか、結晶体を代表とする抽象形態を建築物に付与することによって、ヤナークのいう「物質に精神と活気を吹きこむ」様式だと、私は理解しようと思います。

 ピカソやブラックのキュビスムの提唱がそうであったように、キュビズム建築とは20世紀建築が条件づけられる合理主義や物質主義に反発しながらも、現代とまっすぐにつながる幾何学的デザインの先鞭をつけた建築様式であった(その意味では普遍性をもつ)、大変に重要な建築のこころみであったと申し上げてよいのでしょう。

 

🔸建築博覧都市に溶け込んだようでいてーブラック・マドンナ(黒い聖母の家)ー

 ブラック・マドンナは、ヨゼフ・ゴチャールの設計(1911-12年)で、バロックの建物の跡に、5階建ての百貨店として建設されました。「黒い聖母」とは元の建物にあったもので、新たな建物に引き継がれ、2階の角におかれています。現在は、3階から上が「キュビズム美術館」であり、2階は竣工時にカフェとしてオープン、その後長期間閉店していましたが、2005年に当時の姿に復元されて再オープンしています。

 カフェには二度ほど入店しましたが、今から思うと愚かしいことに、キュビズム美術館に入館しないままだったのです。よく理由は覚えていないのですが、わざわざ入らなくとも、カフェの内部デザインだけでこれがキュビズム建築なんだと満足していたからだといえそうです。

  ブラック・マドンナの2階角におかれた黄色いローブをまとった「黒い聖母像」です

 

◎その外観ーこれって何色ー

 ブラック・マドンナは旧市街の石畳みの路に挟まれた地先に位置しています。昔の百貨店といいながら、大きい建物ではありません。三方から見ることができますが、ちょうど真ん中が少し前へ突き出たような五角形になっています。敷地に合わせてということかもしれませんが、やはりたんなる四角形ではない五角形はキュビズムの斜線、斜面から来ているものでしょう。

 ぐっと近づくと、前掲の写真に見てとれるように、中央部の二本の太柱にはっきりとしたキュビズム建築の特徴、斜線・斜面・結晶体が表れていますし、中央ドアの装飾も菱形の連続パターンです。「KUBISTA」というショップのショーウインドーも六角形や五角形を使用しており、その内部も結晶パターンでデザインされた背景に、これがキュビズムだよなあと思わせるコーヒーカップや水差しが展示されていました。

 キュビズムとの関係は分かりませんが、前記のとおり外壁の色が私の記憶するかぎりのプラハの建築物で見かけなかったものなのです。茶色系、赤色をまぜこんだ濃茶色、そんな色ですが、なぜこの色であったのかについてふれた文章を知らないのです。上部の色は赤色が少し強く、ダークブラウンのツートンカラーということもできます。

 この小さい建物がランドマークになっているとすれば、この外観の色がプラハの灰白色の街並みにとけ込みつつ不思議なアクセントになっているからだと感じたのです。まあ建設されて百年以上経過しているのですから、街並みにとけ込んでいるのは当たり前といえば当たり前のことなのですが。

 

 自称「へそ曲がり」の田中長徳さんはブラック・マドンナの「軽さ」を次のように表現しています。

 「 それはありあわせの靴の空箱とトマトのボール箱とを数個積み重ね、こ

  れを適当に接着して、造りが悪いのでその角がねじれて勝手放題に箱の稜

  線を各方向に伸ばしているような、半時間のやっつけ仕事で未完成の印象

  を残した「ボール紙製の建築モデル」なのである。今にも動き出すか、そ

  のまま空飛ぶ家になりそうな気配がそこにある。」

 こんな表現を読むと、うむ、そうなんだろうかと思いつつも、たしかにキュビズム建築は他の建物の重厚感から解放されているようにも思えてきました。

  浅い五角形の形をしたブラック・マドンナです

  1階正面の柱です

  1階のショーウインドーに六角形や五角形が使われています

  ショップの全景です

  ショーウインドーに展示された商品と背景がキュビズム様式を象徴しています

 

◎グランド・カフェ・オリエントー何から何までー

 ブラック・マドンナの2階はカフェになっており、ホテルへ帰る途中に二度ほど立ち寄りました。外観とちがい、このカフェにある家具や食器、照明器具そして内装に至る何から何までキュビズムの意匠を帯びています。ゴチャールがデザインしたという壁に打ち付けられたギザギザの金属ハンガーにもキュビズムの記号が感じられてます。

 7月のプラハは午後8時を過ぎても大変に明るく、花の飾られたベランダでお茶にしました。コーヒーカップはもちろんですが、ベランダの鉄柵の形もちょっと普通ではなく、クの字形に作られており、これはキュビズムの垂直・水平よりも斜線を重視したスタイルなのでしょう。

 藤森さんは、外観でもカフェでもなく、階段室が一番よかったと評しています。そんなに広くない空間ですが、階段室の流麗といってよい白く塗られた鉄細工はベランダの鉄柵のクの字形と共通したデザインのようで、運動のある軽やかな空間を演出していました。

 田中さんのいう1945〜89年の赤いプラハで長く閉鎖されていたブラック・マドンナは「維新」後に今のような姿に復元されました。赤いプラハ時代に「最初の無垢の出会い」を持ち得た田中さんは、現在のブラック・マドンナを訪れるツーリストたちのことを「かわいそうに」と言いたいようなのです。

もとより「キュビズム建築」というガイドブック信号を埋めこまれたツーリストばかりではないのですが。

  グランド・カフェ・オリエントの内部空間です シャンデリアが目を引きます

  テーブルやイスは20世紀初頭のデザインですがキュビズムはそんなに感じられません

  壁に取り付けられた金属ハンガーで、これぞのキュビズムの意匠というべきです

  カップのデザインはよくありそうですが、これもキュビズムの反映なのでしょう

  ベランダの鉄柵も、クの字になっています

  ピントが甘いですが、藤森さんが一番よかったとする階段室です

 

🔸川沿いをトラムに乗ってーコヴァジョヴィチ邸ほかー

 午前中から歩き疲れた午後、足膝も痛いし乗れるところまで乗ってみようと、ヴルタヴァ川右岸をトラムで南下していたとき、《キュビズム建築》で見た覚えのある建物(「ラシーン川岸通りの三世帯住宅」)が現れわれました。急いで次の駅で逆方向へ乗り換えて一つ目の駅で下りると、幸運にも真っ白い外壁の印象的な「コヴァジョヴィチ邸」が広い前庭の向こうに端正な姿を見せていたのです。

 体表的建築家の一人であるヨゼフ・ホホルの設計(1912-13年)です。このヴィシェフラト地区は20世紀初頭に大規模開発されたところで、ホホル設計のキュビズム建築が3〜4棟集まっていますが、トラムから「三世帯住宅」を写真撮影しましたが、外観だけにしろ、ちゃんと見たのは「コヴァジョヴィチ邸」の一棟です。施主は建設会社のオーナーであるベジドフ・コヴァジョヴィチで、才能ある若手建築家を支援したパトロンでもありました。プラハ中心街から南へ3キロの地区にキュビズム建築が集中しているのは、「開発に携わった建設業者の物心両面にわたるサポート」があったからだといわれています。

  ヴルタヴァ川の右岸を南下するトラムで、ヴィシェフラト地区だと思います

 

 外周にしろもっと動いて写真を撮影しなかったことを、今頃後悔しています。私たち以外に観光客はいなかったのに正面近辺から撮影しただけで、お上りさん観光客は「これなのか」と満足してしまったみたいです。

 白い美しいお邸だというのが最初の印象です。情報がなければそれで終わりですが、どこがキュビズム建築なのかと最高4倍ズームのカメラを使って探してみると、あるあるなのです。純粋に斜線・斜面・結晶体から構成されたというべきフォサードは「伝統的な装飾を排し、窓ごとに壁面を分割して斜めの面で立体感」が強調されています。「簡潔にしてかつダイナミック。陰影に富む壁面が建物に力強い躍動感を与えている」との説明にその通りと声を掛けたくなります。

 門扉の間から撮影していた私が、手元を見ると、門扉の鉄格子や外周の塀柱にも疑いようもないキュビズムの立体がありました。それに広い前庭と建物の位置関係は敷地の形状のせいかシンメトリーではなく、それに前庭はブラック・マドンナの建物の形状のように五角形なのです。これは偶然ではなく、意識的であったにちがいありません。

 

 この建物を見たチェコの国民的作家カレル・チャペックは「雄大かつ簡素」と1914年に評しているそうです。そして、田中長徳さんの方はといえば、ブルタヴァ川沿いの「一番立派な邸宅風のなのはその「キュビズム度」があまり高くないので好きではない」と、キュビズム建築の好みを「やっつけ仕事で作ったボール紙の建築モデル」とする田中さんらしい悪態をついています。

  コヴァジョヴィチ邸の表側からの全景です 建物と前庭はシンメトリーではありません

  建物の上部をズームしています 斜線・斜面・結晶体のフォサードです

  上をさらにズームしています 最上部にも五角形があります

  正面の門扉です ブラック・マドンナのクの字形が登場しています

 これぞキュビズムの純粋系と呼びたい形状の塀柱です

 トラムから撮影したホホルが最初に設計した「ラシーンの三世帯住宅」の部分です

 

🔸こんなところにもーユングマン広場の街灯ー

 あ、こんなところにもあったのか、と近づきぐるりと回ってみました。ヴァーツラフ広場から少し奥まった場所にあるユングマン広場に、その小さな街灯はひっそりとたたずんでいました。

 あの3人ではないエミリ・クラーリーチェクの設計(1912-13年)です。平面デザインでもありそうなのものを立体化したという感じ、キュビズム絵画のキュビズム建築化を典型しているようでした。近づくと結晶体は明らかですが、外側の部分に水平の溝が施されており、いい感じです。灯のともっている街灯を見てみたかったというのが正直なところです。

  行き止まり感のあるユングマン広場にキュビズムの街灯はあります

  ズームすると、キュビズム感がいよいよはっきりします

 

🔸違和感もなくー教職員住宅ー

 早朝の散歩のさいに、旧市街のユダヤ地区の近くにその集合住宅はありました。ブラック・マドンナを街並みにとけ込んでいると繰り返し表現しましたが、この教職員住宅は違和感など何も感じられません。百年前なら、どう見えたのか分かりませんが、経年変化を受けた今も居住者がいるであろう建物は老朽化を浮かび上がらせながらも、しっかりとそこにありました。

 オタカル・ノボォトニーの設計(1919-21年)で、第一次世界大戦後、チェコスロヴァキアの独立後に竣工したものです。赤く塗られた窓枠も目立ちますが、窓の上下をサンドイッチしている「傾斜したフォサード」はシンプルだけに明確です。その傾斜面に四角錐を貼り付けた意匠がパターンとして並んでいます。よく見えていなかったのですが、屋根の方も幾何学パターンのようでした。

 これがなかったら、つまりのっぺりとした建物を想像しますと、やっぱりあった方が面白い、住む人にとってちょっと心豊かな日々が過ごせるかなという結論になりそうです。決して特異なデザインとはいえないけれど、キュビズムを採用した必然性を感じます。

 この教職員住宅のキュビズム意匠は、これを満載するブラック・マドンナやコヴァシェヴィチ邸とちがって、元の鉄筋コンクリートの構造体の上に付加されたデザインというべきであり、シンプルなだけにキュビズムの意味がより明解になったように思ったのです。

  教職員住宅のほぼ全景です 何の違和感もありません

  横から見ると、三角錐の出っ張り、そのキュビズム度はより明確になります

  建設当時はわかりませんが、現在は1階が店舗として利用されています

 

🔸これってキュビズム建築?ーアドリア宮ー

 この建物は私の方から見たというより、建物の方から飛び込んできました。新市街の中心に建つ宮殿、この威圧感、ど迫力、重量感はどうでしょう。キュビズム建築の後期と分類されることのあるロンド・キュビズムの代表的な建築物です。施主はイタリアの保険会社ですが、宮殿のような威容から、「アドリア宮」と呼ばれています。

 キュビズム建築を理論家として先導したパヴェル・ヤナークの設計(1922-25年)です。ヤナークは第一次世界大戦後、「建築は社会的要請に応えるべき」だとして、民族的なモチーフを用いたロンド・キュビズムを展開していったのです。私の感覚では、藤森照信さんが「ロンド(円弧)とキュビズムは矛盾して」おり、「これはキュビズムでなく、キュビズムに続くアール・デコという説もある」と書いているとおり、キュビズム建築とは思えないのです。

 田中長徳さんのいう「軽さ」を感じさせるキュビズム建築と対照的に、アドリア宮は威圧感、重量感が前面に出ていますし、キュビズム建築としては規格外の規模であることもキュビズム建築と思えない理由です。キュビズム建築の代表的な建築家が、キュビズム建築を離れて、その技術を利用しつつ新たに設計した建築物とみるべきなのでしょう、と私は思うのですが。

 

 コヴァジョヴィチ邸のヨゼフ・ホホルは、ヤナークとゴチャールのロンド・キュビズムへの転換に同調せず、彩色豊かなフォサードを「インディアンの酋長の顔のようだ」と揶揄したといわれており、第一次大戦後も戦前のキュビズム建築を貫いたのだそうです。

  こちらは側面の方ですが、アドリア宮の円弧と円筒を強調したデザインです

  もう少しズームしたアドリア宮、チェコの民族カラーだという赤と白の対比が華やかです

 

🔸おわりに

 プラハのこと、プラハの建築のこと、結局はプラハの魅力のことを文章にしたかったのでしょう。

 ただ1回の5泊だけのプラハで、プラハを語ることは、美しい町でしたよ、という以上に言葉にできないように思ったのです(田中さんのいう維新後に煤で汚れたプラハの町全体の建物が洗われたことも美しさに寄与していると言われます)。そんなこともあって、この地にしか存在しなかった「キュビズム建築」なるものを切り口に、プラハでの出会いの記憶を、SDカードに残された映像を頼りにたどってみることにしました。

 

 維新前に「最初の無垢の出会い」を持ちえた田中長徳さんが、前記の「もともとのプラハの存在そのものがひどくキュビズム的だから」としている文章がとても気になります。そうであるからこそ「キュビズム建築」が短期間にせよ成立した、存在しえたのだということでしょうが、その理由は田中さんの文章を読んでもよく分かりませんでした。

 一千年の古都、その歴史を形にした建造物が立ち並んでいるプラハ、建造物とは立体であり、立体を立体として何通りもの方法でフォサードの装飾を含めデザインしてきた、そうした建築様式がプラハには実物として存在しています。そんなプラハであるからこそ、加えて、1910年頃、ちょうど発展期にあったプラハであったことからこそ、先端的な芸術運動であるキュビズムを、平面だけでなく、建築という立体で表現するこころみが成り立ったのであろうと、私は想像しておきたいと思います。長く戦災に出会うことのなかったプラハの街で、ちょうどカフカは書いてもいたのです。

 田中さんは、維新後に観光スポット化したキュビズム建築に裏切られたような気持ちがして、「キュビズム建築に棲みたかった」の最後を「キュビズム建築だって?あれは二十世紀の初頭に流れ去った一瞬の流行り物であったな」と結んでいます。

 でもしかしといいたいのですが、「キュビズム建築」は20世紀建築を機能性や合理性を踏まえたうえで、幾何学的なデザインによっていかに無機質でないものにするのかというこころみであったのであり、現在ただ今の21世紀建築にも貫通している課題でもあると考えています。

 

 それにしてもバルセロナのモデルニスモ建築(影響した期間もその浸透度もキュビズム建築とは違いますが)、そしてプラハのキュビズム建築、私が心惹かれる建築がいずれも20世紀初頭というのが興味深いですね。ちょうど百年前頃のことですが、大きな都市の観光スポットとしてまとまりのある形で存在しているからというだけのことでしょうか。私には百年後の現在の建築物をそんな目で見ることができているとはとても思えないのです。というより、私には無理ですと白旗を上げてしまいます。

 結局、現代にも通じる、人間の生活と暮らしという実感のある空間における「美」、それもある時間の経過を通り抜けて定着してきた「美」への傾斜、愛着ということに尽きるのだと思います。

 

 7月のプラハは昼間が長く、5回の早朝散歩はいつも以上に長かったように記憶しています。それまでのデジカメをちょっとましなものに変えたこともありますが、写真として残したい建物や風景が多くあったからでもあります。でも夜を歩いたという記憶がありません。車の入ってこない旧市街の路地を夜9時を過ぎて歩くこともありましたが、まだまだ明るかったからです。

 夜のプラハを歩いてみたかったと思わせる文章に出会いました。デザイナーである皆川明さんです(『プラハアート案内』2006年3月刊/エスクァイア マガジン ジャパン)。

 「 プラハの街の美しさに、実際の生活を見ることは難しくなってきた。観

  光のためにあるショップやホテル、レストランが街の全体を占めてきてい

  るからだ。それでも建築物そのものに目をやれば、中世からの変わらない

  表情を見つけることができる。/現実の社会における制約が、理想の社会

  や本質的な生命の営みへの欲求をかり立てているようなことがあるのかも

  しれない。/プラハの夜、街を出歩くと無駄な灯りも音もない静かな、包

  み込まれるような空気がある。この安心した空気はチェコ人が望み、勝ち

  得てきたものなのだろうと思った。静けさの、何もないような時間に向

  かって、気持ちは高鳴り想像力が膨らんでいく。人がものを生み出す時は

  こんな夜が必要だ。深呼吸した。」

 ふたたびプラハに行くことはもはやないと思っていますが、ちょっと違う視点からプラハのことをまた書いてみたい気持ちになりました。

 

 

 

 

2017.08.30 Wednesday

東プロシアとカントをめぐってー池内紀の本からー(1)

 「ポーランドで故里の町に行きあった」と、池内紀さんは<城のある町にて>の冒頭を書き出しています。故里の町とは兵庫県姫路市であり、世界遺産である姫路城、一名白鷺城があるのに対し、ポーランドとはマーリエンブルクでその城は現在「ポーランドきっての名城」として知られています。池内さんは古城を中心に広がるマーリエンブルクの町を歩いていて、故里の町と「思いもかけず異国でバッタリ出くあした」というのです。

 なお、ブログで取りあげることと無関係ではありますが、池内さんは、私と同じ播州人ということになります。

 

 ではどうして池内さんがマーリエンブルクの町を歩いていたのか。

 ギュンター・グラスの新しい小説やカントの『永遠平和のために』の翻訳を依頼された池内さんは、よりよい翻訳をめざし、グラスの生地であるダンティヒ(現グダニスク)やカントが終生離れることのなかったケーニヒスベルク(現カリーニングラード)を訪ねることにします。マーリエンブルクを含め、いずれもドイツの東プロシア(wiki「東プロイセン」と表記)という今は地図のどこにもない「国」の町であったことに知り、三度にわたり旅をして、「東プロシア」をめぐる「未知の歴史に目をひらかれ」ていったのです。

 翻訳のための旅をこえる旅となっていったといえるのでしょう。

 

 こうして2002年か3年の最初の旅から、グラスとカントの池内訳の出版を間に挟み、約10年を経て、立て続けに二冊の本が世に出たのです。東プロシアをテーマとする『消えた国 追われた人々ー東プロシアの旅』(2013年5月刊/みすず書房)[以下《東プロシア》と簡略表記]と、カントの評伝というべき『カント先生の散歩』(2013年6月刊/潮出版社)[以下《カント》と簡略表記]です。

 本稿では、私がまったく無知であった、前者により東プロシアの歴史を、後者によりカントの人生を、そのエッセンスだけの記述を試みるとともに、カントの『永遠平和のために』(2007年11月刊/集英社)の基底にあるものについても考えてみることにします。

 

 当ブログで取り上げる前提となる私の関心の在りかは次のようなことです。

 池内さんは《東プロシア》のあとがきに、私たちの国民性として「多民族・多言語の国や土地は想像が難しい」のであり、「自称「単一民族」国家こそ、地球上の例外であって、それを最良と考えるほうが異常なのだ」と記しており、そんな国民性を免れていない私の問題意識とも合致しています。「私はおぼつかない東プロシアという消えた「国」のなかに、すこぶる現代的な「国の選別」のヒナ型をみた」とし、「第二次世界大戦末期に、力ずくで捨てさせられたとき、12百万人をこえる「ドイツ難民」が生まれた。それははからずも、いち早く21世紀を先取りしていた」、と池内さんはいわば<東プロシアの歴史>の現代性についても注意を喚起していることがあります。

 また、先日の当ブログ(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」)において、中島義道さんがウソをつくという人間の根源的なありようをカントの哲学と関連づけて論じていることを紹介しましたが、敬して遠ざけるカント哲学ということは変わらないにせよ、カントその人や『永遠平和のために』の根源にあるものへ関心をもつようになっていたということもあります。

 

 いつものとおり、ノートしただけということになってしまうのでしょうが、ともかく始めてみることにします。

  現在の地図です 「東プロシア」は赤く塗られたロシアの飛び地と、その西側のポーランド

  と北側のリトアニアの一部で構成されていました<カリーニングラード=ケーニヒスベルク>

  東プロシアは統一されたドイツ帝国の東端に位置していました 

 

🔸かつて東プロシアありきードイツ人の東方植民ー

 「プロシア」「プロイセン」はドイツ統一の中心となった「国」としてなじみがありますが、「東プロシア」のことは聞いたことがありませんでした。

 東プロシアはバルト海の南岸に面するヴァイクセル川(現ヴィスク川)とメーメル川(現ネマン川)に挟まれた地域ということになります。その始まりは中世の十字軍までさかのぼらなくてはならないのです。

 かつて十字軍であったドイツ騎士団は十字軍の終わった後もパレスティナに残って強い団結を誇っていましたが、13世紀はじめ、ハンガリー王に国境警備を乞われて聖地を離れました。そして1226年、異教徒に手を焼くポーランド大公の求めに応じて北ポーランドへと北上してきて、大公の思惑(傭兵としての機能か?)に反し、その地域を征服し、砦を築き(その代表的なものが冒頭のマーリエンブルク城)、自分たちの町をつくり、教皇の名のもとに統治したのが東プロシアの建国(ドイツ騎士団国)ということになります。

 モンゴルのポーランド侵攻とポーランドの内戦がいわゆる「東方植民」をより進める要因となりました。都市化促進策のためにドイツ人商人とともに、ユダヤ人も一緒に招聘されたといわれています。

 

 その後も、東プロシアはプロイセン公国とかプロイセン王国として呼称を変えながらも継続し、1871年に誕生の統一ドイツ帝国においても東プロイセン州として帝国の東端を担っていました。第二次大戦によって地図から東プロイセンが消えるまで約700年以上の歴史を刻んだということになります。

 東プロシアの経済的な基盤としては、首都ケーニヒスベルクを筆頭に、ハンザ同盟に象徴される北海、バルト海を中心に形成された広大な交易のネットワークの主要な担い手となっていたことが特筆されます。

 

 このようにドイツ騎士団の進出から始まる東プロシアは、その後のドイツ(当時「ドイツ」が存在したわけではありません)の東方植民によって成立したといえますが、当然のことながら、多民族・多言語の「国」でした。

 池内さんによると、東プロシアはほぼ四つの地方、メーメル(現リトアニア)、サム(現ロシア)、エルム(現ポーランド)そしてマズーリ(現ポーランド)から成り立っていたとのことです。地方によって人口構成が違いますが、「東プロシア」消滅直前の総人口では、ドイツ人約2百万、ポーランド人約150万、ロシア人、リトアニア人が50万から30万、海添いの潟に点在する村にはカシューブ人が多かったとされています。

 都市部には支配層として行政や司法を握るドイツ人が多く、ロシア人が多数であったサム地方に位置した首都ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)においても、1936年の記録によると、やはりドイツ人が78%と圧倒的に多数を占め、総人口は38万人でした。かつてケーニヒスベルクはハンザ同盟の商都として栄え、リューベック「ハンザ都市の女王」、ベルゲン「北海の華」とともに、「バルト海の真珠」とうたわれたのです。

 カントはこの「バルト海の真珠」であるケーニヒスベルクの町を毎日散歩していたのです。

 

 池内さんは「東プロシアはまことに奇妙な国であれ、たしかに地上に存在した」とし、「たしかにへんな国だった」と表現しています。「町ごとに人種がちがっていた」し、「風習も、好みも、食事もちがっていた」のです。でも20世紀中葉まで700年以上続いたのは、こういうことだったと、次のとおり記しています。

 「 ゆるやかに住みわけをして、それぞれの風習や伝統に従って暮らしてき

  た。問題が起これば、それぞれが自治権を行使して解決した。どの町にも

  少数者がいて、その多くがユダヤ人だった。」

 

 こうして「異なる民族、異なる人種が複雑に共存しながら、東プロシアは民族紛争を起こさなかった」とされていますが、池内さんはその要因を次のとおり記述しています。

 「 言語や伝統や生活習慣がちがっているにもかかわらず、ゆるやかな「民

  族共同体」といったものが実現していた。それを支えたのはいろいろ

  あっただろうが、とりわけ宗教の力が大きかった。中世から近世にかけ

  て、どの地方もおおむね聖職者が行政官を兼ねていた。さらに司法も兼務

  していた。」

 その典型例として、カトリックの司祭にして東プロシアの行政マンでもあったニコライ・コペルニクス(1473-1543)をあげています。広く世間を見ていた彼が「コペルニクス的転回」と呼ばれる新しい宇宙像を世に出したのは「ようやく死の年」になってからのことであり、池内さんは「なんともあざやかな身の処し方ではあるまいか」と書いています。

  プロシアの支配領域の拡張の歴史で現ポーランドやチェコへの東方植民が基盤となっています

  ドイツ帝国の東端が「東プロシア」ということになります

  『消えた国 追われた人々ー東プロシアの旅』池内紀著 2013年5月刊/みすず書房

  上記の『消えた国 追われた人々』の掲載の地図をコピーしました

 

🔸散歩する人ーケーニヒスベルクのカントー

 イマニュエル・カント(1724-1804)は、団塊世代の者にとって、というより私にとって、その中味は無知なままであるものの、やはり哲学者の代表格なのです。哲学者カントが生まれてくる素地はどのようなことであったのか、そんな視点から、ここでは紹介しておきたいのです。

 近代の胎動、鼓動がはっきりと聞こえていた時代性、東プロシア、なかんづくケーニヒスベルクというヨーロッパ全域に開かれた国際都市であり、すぐれた大学が存在していたという地域性(「文化的基盤」といってもよい)、そしてこれらが育んだカントの人間性という三つの視点からみることにします。

 

 カントは、東プロシアの首都ケーニヒスベルクで馬の鞍を作る職人の子として生まれ、この町で育ち、学び、のちに教え、著作を発表し、老い、そして亡くなりました。生涯にわたりケーニヒスベルクからはめったに出ることはなく、東プロシアからは一歩も外に出たことのなかった人です。

 したがって、その地域性から確認してみましょう。いわばバルト海沿いの辺境の町であるケーニヒスベルクはドイツ騎士団の砦から出発し、冬も凍結しない「潟」に面する良港をもち、14世紀にはハンザ同盟に加わり、大いに商都として栄え、プレーゲル川の豊かな水を利用した町づくりが進められました。遠隔の地にあって、「中央の権力闘争の被害」を免れたことも大きかったようで、「歴史と規模、また富の蓄積」において、プロシアの新興都市であるベルリンを大きく凌駕し、「はるかに優雅な都市」であったようです。

 16世紀半ばの創立のケーニヒスベルク大学は北ヨーロッパにあって「もっとも由緒ある大学」であり、これに比べるとベルリン大学は新参者であって、「プロシアの学生にとってケーニヒスベルクは、常に眩しい存在」であったとされています。

 池内さんの記述からすると、一言でいうと、ケーニヒスベルクは、豊かで美しいハンザ都市だったのです。この交易都市としてヨーロッパ各地の情報が時差なしに入ってくるケーニヒスベルク、そんな国際都市という土壌のただ中で、カントは呼吸し、その哲学が生み出されたわけです。

 18世紀という啓蒙の世紀、フランス革命に代表される激動の世紀という時代性とともに、加えて、そこに地域性という「素地」をみることは大切な視点だと思っています。遠隔の地にあって、時代と土地のど真ん中でというより、直接の経験とは少し距離をおいて、より深く公平に観察できる、考察できる環境でもあったといえるのかもしれません。

 池内さんは、カントの好条件として「理想的な街に生まれ、またとない国に住んでいる。どうしてこの町を出たり、わざわざ外へ行く必要があるだろうか?」と書いています。

 

 カントの人となりについての共通するイメージとはどのようなものでしょうか。とにかく大哲学者でありかつ「歩く時計」のように毎日の生活をおくったと伝えられていることから、「謹厳実直を絵に描いたようなカタブツ」とか「大学人におなじみの退屈な朴念仁」といった強張ったようなイメージなんだといえます。

 こんなカントのイメージを、池内さんは《カント》でちゃぶ台をひっくり返すように反転させます。

 前者「謹厳実直」について「実際は軽口と冗談が大好きで、よく笑う人だった」と、笑いころげてカツラを落っことしそうになり、あわてて手をそえた姿を描いた風刺画のことを紹介しています。そして小柄で痩せ型ながらも、赤と白の色が好きでおしゃれな人であったようです。

 後者の「朴念仁」について、池内さんは《カント》の冒頭で次のように否定し、結論風の書き方ですがカントの「人間的魅力」を強調しています。

 「 とんでもない。これほど好奇心また想像力に富んだ人も珍しい。しかも

  想像したところをまざまざ語ることができた。批判の鋭さ、時代を見る目

  のたしかさ、人間的魅力ーほんのちょっぴり散歩につき合うだけで、その

  人の身におびていたゆたかさがわかるというものだ。ついでながら言いそ

  えておくと、時間を超えた世界で自在に遊ぶには、毎日を時計の針の正確

  さで過ごすのが一番である。」

 たいていの教授たちが齢とともに気むずかしくなり、人間ぎらいの変わり者になっていったのに対し、「カント先生は友人たちの人気者」で「午後や夜の談話に欠かせない人」であった、つまり社交的で機智に富む会話を楽しむ人であった、と池内さんはその人となりを記しています。

  《カント》p7の図像です 壮年の頃のカントです

 

 「カントは俗にいう「遅咲き」の人」でした。

 カントが母校ケーニヒスベルク大学哲学部教授になったのは、大学卒業から23年後、1770年(46歳)のことでした。大学の教授が終身制であることなどさまざまな要因が重なったようですが、この間、家庭教師、私講師、図書館司書などで糊口をしのいでいたのだそうです。

 三十台にはたくさんの論文を書いてそれなりに有名になっていましたが、主著である『純粋理性批判』を上梓したのは、教授になって10年を経た1781年(57歳)のことであり、その後88年(64歳)に『実践理性批判』、90年(66歳)に『判断力批判』を世に問いました。いわゆる「三大批判書」は50台後半から10年の間に発表されたことになりますが、このことは平均寿命がごく短かった当時のことを考えあわせると、「おそろしく年をとって花開いたタイプ」だったと、池内さんは書いています。

 

 その原動力について、前記した時代性と地域性という「素地」のほか、池内さんはいろいろ指摘していますが、二つのことだけをメモしておきます。

 カントの一日、24時間のことです。朝4時45分に起床し、何も食べず、お茶を飲み、パイプをふかし、講義の準備をします。朝7時から講義です(当時は自宅で講義をしていました)。週のおおかたは10時までに講義が終了し、執筆にかかります。12時45分に執筆を中止して着替えをして、客人たちとともに昼食を摂ります。客人が帰り、4時、ステッキと帽子をとって散歩に出かけます。帰宅して、簡単な夕食のあと、新聞を読み、好きな旅行記を読み、ぴったり10時に床につきました。こんなカントの一日のことを、日曜日とか友人との関係とか別のスケジュールはあっても基底は同じであり、池内さんは次のように表現しています。

 「 教会の鐘は15分ごとに時を告げたが、カントの一日は、24時間が無時間

  にひとしいような1日だった。そんな永遠の一日から純粋理性の標本のよ

  うなカント哲学が誕生した。」

 

 もう一つは友人との関係です。池内さんは、ディアレクティークの名手であるカントの著作は孤独な思考の産物ではなく、「何より友人グリーンとの活発な議論や対話のなかから生まれた」と強調しています。

 ジョゼフ・グリーンはイギリスの商人であり、若いころにケーニヒスベルクにやってきて商社を興して成功した一人で、カントがグリーンを知ったのは40歳ごろでやがて生涯の知己をむすんだのです。グリーンは商人仲間から「変わり者」の陰口をたたかれていた人であり、カント以上に「時計の人」とも言われたようです。

 二人は対話相手としてまたとない存在になりました。同じくひとり者のカントはグリーン家を「もっとも足しげく訪れる客」となったのです。夕食をともにする日を除き、夕方7時に終了というのはまさに「時計」どおりだったようです。カントは他の楽しみごとをぴたりとやめて、グリーン家訪問がすべてを代理するまでになりました。それほどグリーンとの対話が重要だったといえます。このイギリス商人からの口づたえで刻々と変化する現実世界を知らされ、最新情報を得ていたのです。

 池内さんは多少の誇張はあっても、ほぼ事実にちがいないと、欠かせない話し相手としてのグリーンとの交友と『純粋理性批判』の関係について次のように記しています。

 「 哲学好きで博識のイギリス商人は、カントとの知的会話をほとんど唯一

  の生きがいにしていた。カントが友人に語ったところによると、『純粋理

  性批判』には、先だってグリーンに披露し、そのとらわれのない目と立場

  で批判を受けなかったものは一行もしるしていないという。」

 そして、友人グリーンの死による影響を次のようにも書いています。

 「 対話の精神がはたらいているかぎり、どれほど学問化されても読みづら

  いということはない。カントの三大批判書のあいだには、友人グリーンの

  死(1786年)がはさまっている。対話の相手を失って、カントの思考は影響

  を受けないではいなかった。ためしに三つを読みくらべると、書き手がす

  べもなく硬直化していったあとがうかがえるのではあるまいか。」

 

 1786年(62歳)冬学期にはケーニヒスベルク大学の総長に選ばれ、1787年(63歳)に哲学書にしてはめずらしく『純粋理性批判』第二版が刊行され、「たえてない売れゆき」だったそうです。カントの哲学はひそかなブームとなっていました。フランス革命の勃発の直前という時代状況の最中でした。

 カントは「アテイスト(無神論者)」とみなされていて、街の人にカトリック要理について問われたとき、「いたずらっぽく相手を見返し」、次のような対応をしたのだとあります。

 「 ほほえみを浮かべながらまず指で頭を指し、つぎに手に胸をそえて

  言ったそうだ。「ここではわかりますが、こちらではわかりません」」

 そして、最後まで周囲をはらはらさせたようなフランス革命の支持者であったカントは、簡素な仕事場に一つだけ飾りがあって、それはルソーの肖像であり、仕事机の上にかけてありました。

 

 以上のほかにも《カント》には興味深いエピソードが満載ですが、これぐらいにしておきましょう。池内さんらしく人間カントを生き生きと魅力的に描写することによって、固着してしまったサイボーグのようなカントのイメージを揺さぶり引っ剥がそうとしています。

 当たり前ですが、カント哲学は18世紀の東プロシア、ケーニヒスベルクの存在と無関係ではありえない、大切な「素地」であったにちがいないことを、確認することができました。

 散歩を欠かさなかったカントにも、老いが忍び寄ってきます。

  『カント先生の散歩』池内紀著 2016年7月刊/潮文庫

  なお単行本は《東プロシア》刊行の翌月である2013年6月に潮出版社から刊行されています

  カントの散歩していたころのケーニヒスブルクの町の概略図です

  「中の島」のようになっているところが町の中心でした

 

🔸老いる哲学者ーカントの晩年ー

 「カントの老い」について、池内さん本人が《カント》のあとがきで「読み返して気づいた」が「老後(の部分)が全体の三分の一を占めている」と書いています。わが国ではきちんと紹介されてこなかった「人間理性の極北のような人が、どのように老いを迎え、どう対処したか」を一つのテーマにしようと、池内さんは考えたのだと思います。そんなカントの老いの兆候からその死に至るまでの池内さんの文章というか筆さばきについて、私はいささか「解剖的」でなんだか「執拗」で「呵責」がないなあという印象を持ちました。

 それは見たくもあり見たくもなしというような老いの実相を、見てしまったなあという私の感覚から来ているともいえるのでしょう。

 

 カントの晩年について多くの記録が残っていたからなのか、はたまた1940年生まれの池内さんご本人の「老い」への関心がそうさせたのかわかりませんが、私も無関心でありえなくなっていますので、ここでメモしておくことにいたしましょう。

 「老いの始まり」1791年(67歳)前後、「老いの深まり」1797年(73歳)前後、「死を待つ」1801年(77歳)前後と、池内さんは三つの章(60台後半、70台前半、70台後半)に分けて1804年2月(79歳)の死に至るカントの肖像を描写しています。

 

 カントは1789年(65歳)の夏学期、授業のコマ数を週14時間から9時間へと元の三分の二に減らしました。そして、元へ戻ることはありませんでした(現在からするとそれにしてもすごいコマ数です)。カントの形而上学はケーニヒスベルク大学でピカ一の人気講座でしたが、1790年(66歳)の冬学期は受講者40名でかつての半分以下になっていたとあります。池内さんは、「学生がもっとも敏感に老カントの衰えに気づいていたのかもしれない」と書いています。

 1791年(67歳)、当代きっての哲学者カントに3日連続して出会ったというイギリス商人が手紙で「楽しい、明るい老人で、最良のコンパニオンであり、フランス語でbon vivant(ボン・ヴィアン)はこういう人をいうのでしょう」と印象を伝えています。一方で、同時期にラディカルな論客として売り出し中の哲学者フィヒテ(1762-1814)は、「(カント)の教壇は著書のような効用を持たない」と、次のとおりカントの老いをめぐる兆候を厳しく報告しています。

 「 あの偉大な精神を宿すには、肉体が疲れすぎています。カントはすでに

  ヨボヨボで、あきらかに記憶力の衰退が始まっているのです。」

 見る人が違うと見え方も違うということなのでしょうか、交互にいい時と悪い時が訪れるのであろうカントを見るタイミングの問題なのでしょうか、いずれにしても、どちらも正しいのだと思います。

 その4年後、『永遠平和のために』が刊行された1795年4月の日付のある手紙で、カントの講義を週2回受けている学生が次のとおり書き送っているとのことです。

 「 講義は通常の話し方で、ひとことでいうと「迫力」がない。「老いた小

  さな、背中の曲がった人を想像してください。黄色いボタンのついた茶色

  の上着で、頭に古ぼけたカツラがのっています」」

 「高名であれ、すでに老境に入り、以前の魅力と鋭さを失った老人の姿がそれとなく浮かんでくる」と池内さんはため息をつくように記しています。

 

 この「老いの始まり」の章を結ぶにあたり、池内さんは、カントは頭でわかっていても「老いをまじめにとっていなかった」と、次のようにこの時期のカントを括っています。

 「 カントは自分の講義が難解と思わず、大あくびを誘うほど退屈とも考え

  なかった。フィヒテの指摘した記憶力の減退に、カント自身は気づいてい

  なかったふしがある。遠からず訪れるはずの死が十数年も先のことで、そ

  の先触れ役の老いが、恐るべき威力を発揮することは少しも考えていな

  かった。」     

 あのカントにも、老いの兆候が訪れていたのですが、本人は気づいていなかったというのは、私はもとより、多くの方も同意されるでしょう。あのカントでもと、急にカントが近くなったりします。

 頭でわかってはいても(病の進行など)、それを直視できずにふわふわとした光を探して泳ぎだしたりする心を抱えている私としては、ウンウンとうなづくしかありません。

  《カント》p127の図像です 

  当時よくあった楕円形のミニアチュール(細密肖像画)であり、現代の写真にひとしく

  「多少の美化はまじえても正確に写し取った」そうです

 

 『永遠平和のために』出版の翌年、1796年(72歳)冬学期から1797年(73歳)冬学期にかけての三期の講義要録には「高齢並びに体調不良のため講義なし」「高齢と衰弱のため講義なし」「高齢と病のため講義なし」とあります。「体調不良」→「衰弱」→「病」と理由が変化しています。

 でもしかしというべきか「さしあたり日常は変わらなかった。講義がなくなったぶん、これまで以上に規則立っていた」、生活の時間割は一貫して続けられていたと池内さんは記しています。

 1797年(73歳)の夏にケーニヒスベルクに滞在した解剖学者で外科医としても知られていたフリードリヒ・メッケルがカントを表敬訪問した際の印象を次のとおり「途中経過」と「結論」に分けて報告しています。

 「 「優雅な談話者カント先生」に、一見のところ老いは少しも認められな

  い。言葉遊びや軽口が大好きで、よく笑うし、斜めにかしいだカツラを、

  給仕役の召使が通りすがりにのせ直したりする。「哲学的話題にはほとん

  ど入らなかった」」

 「 精神力は大幅に低下しており、この哲学者が今後、新しく独自の哲学的

  議論を発表する可能性はきわめて乏しい。」

 「途中経過」と「結論」がつながっていないようですが、メッケルはカントの「同じセリフが何回も出て」きて、それが「批判というより、くり言」であるところに精神力の低下とともにあらわれる兆候をみてとったのだとあります。

 大学の評議員をしていましたが、ずっと欠席しており、1798年(74歳)になるとポスト返上の意見も出されたようですが、「カント教授は以後も三年間、評議員でありつづけた」とのことです。

 

 カントの『オプス・ポストムム(遺作)』という言い方があるそうです。晩年、1796年(72歳)以降にこれまでの「全教説のかなめ石」となる仕事だと、カントが哲学仲間への手紙でと語っているものですが、膨大な草稿は残されたものの(無数の「断片」の束)、ついに自分ではまとめきれなかったのです。

 この頃のカントは自覚的に人生の終わりへ向かう「旅支度」を始めていたふしがあるのですが、その意味ではかなわなかった旅となりました。そんな心身の衰えがめだち始めたカントについて、伝記作者のカント像は次のようなものでした。

 「 カント自身、食べられる、歩ける、不眠に悩まされないの三項を健康

  の定義にしていたが、いずれも最小の単位に陥っていた。食事は昼食の

  一度きり、最短コースの散歩、四時間の睡眠が終わると、二度と訪れて

  くれない眠り。」

 哲学者カント、生活者カント、その「老いの深まり」に悩まされながら、何を思っていたのでしょうか。池内さんは「老いの衰えとつばぜり合いをするように執筆に励んでも、それはとめどないくり返しに陥っていくしかない」と記しています。

 

 いよいよ「死を待つ」です。

 1801年(77歳)、カントは遺言書を作成します。年若い友人であるヴァシアンスキーにすべての財産の管理をゆだねるという内容でした。ヴァシアンスキーは晩年のカントの面倒をみた人で、多くの観察を書きとめていることから、カントの晩年の姿はわりと細部までわかっているのだそうです。いわば介護記録のようなものかもしれません。そのヴァシアンスキーは「偉大な頭脳が、いまやいっさいの思考から見捨てられた」と書きとめています。

 カントは今でいう老人性認知症が進行していたといわれています。そんなカントが記憶に見放される寸前にとったという方法、それは「どうか私を子供と思ってください」といつも手元にメモ用紙を用意していたのです。「人と会うと、名前と用件を書いてもらい、一人になると、じっとメモを見つめていた」と書かれていますが、やがてそれもできなくなる、人の識別がつかなくなっていったとのことです。

 池内さんはカントの取った方法を「痛ましい」としつつ、次のようにカントの晩年を書いています。

 「 老衰が始まっていた。誰にも老いとともに生じることだが、ただカント

  の場合、身心のうちの「心」の変調が先にきた。身体を置いてけぼりにし

  て精神が混迷をみせ始めた。あれほどの思考力を誇った人が、しだいに思

  考から見放されていく。もしカント晩年の悲劇というなら、身心のアンバ

  ランスから生じた皮肉な現象をいうのだろう。」

 

 そして、やがて「身」の方にも及んできます。もともとの痩身がみるからに筋ばってきて、歩行が困難になり、「カントの一生につねにつきそってきた散歩もとだえがち」になりました。死の前年、1803年(79歳)、庭に出るのが唯一の外出となり、それも召使に「赤子のように抱き上げ」られてのことでした。

 1803年10月、カントは意識を失って倒れ、「理性の大半が失われ」、12月には自分の名前が書けなくなりました。翌1804年1月、食事がとれなくなり、同年2月11日、最後の言葉「エス・イスト・グート」を、ヴァシアンスキーが書きとめています。

 その意味である「いいだろう」「よきかな」をみずからの仕事に満足を述べたという風に解釈されているそうですが、池内さんはヴァシアンスキーがワインと水をまぜた飲み物を口に運んでいたときに発せられた言葉であり、「あきらかに「もう十分」「もういい」であったに違いないとしています。そして「拡大して意味解きをするとすれば」、「誰よりも当のカントが待ち望んいる死の到来をうながした」のではないかと、池内さんはそう思ったのです。

 翌12日のお昼前、カントは亡くなりました。

 「 いかなる苦しみもなく、まるで機械の停止に似て、すべて動きがなくな

  り、「メカニズムがハタと止まり、つづいて深い静寂」。いかにも身近で

  見つづけてきた人の、もっとも正確で哀惜をこめた死の報告というもので

  ある。」

 

 カントの老いについて「執拗」と思えるほど書き込んだ池内さんは、単行本と文庫版の「あとがき」で、彼自身の人生観、死生観に通じる本音に近いであろう独白と、それを確認させてくれたカントへの感謝の思いを綴っています。

 単行本の方は、前記した「私を子供と思ってください」というカントの痛ましい対処方法に続けて、「そんな「子供」にも、老いはなお容赦なく襲いかかった」とし、次の感慨を記します。

 「 大きな運命と、そのなかで見出した小さな自由ーー人間のドラマをせん

  じつめると、そのようなことになると、つねづね私は思っている。カント

  の生きた時代には、ほとんどすべての人に一日の日課が整然と定まってお

  り、曜日によって食卓の品目から卵の数まで決まっていた。「小さな

  自由」がどれほど貴重であって、そのなかで辺境の一哲学者がどのように

  生き、いかなる業績を後世にのこしたか。まがりなりにもそのことだけ

  は、十分に書き上げたと考えている。」

 そして、文庫版では池内さんのテリトリー外といえる『永遠平和のために』の翻訳を通して(この小冊子の翻訳に悪戦苦闘し、足かけ3年を要したとのこと)、未知の人であったカントに出会うことになったことについて、次のように書いています。

 「 思いがけない理由からにせよ、カント先生にめぐりあえてとてもよかっ

  たと考えている。ほんとうの賢者とは、このような人を言うのだろう。老

  いてから、沁みるような孤独のなかで、自分の思考力、また記憶力が

  細っていくのを、正確に計っていたふしがある。カント先生の頭脳にして

  も、老いの衰えは、どうしようもないのだった。」

 

 カント=「思考」する身心、つまり思考と一体であったカントから「思考」が離れていくことは、カントがカントでなくなるということになります。老いの経過の中で、そのことはどれだけの戦慄をカントに直面させたことでしょう。「私を子供と思ってください」のエピソードはたまらないですね。

 カントのような人にもこんな老いがあったことを、どう感じるかは、私たちの一人一人に委ねられるものです。池内さんは、「冷徹な筆致」といえる文章で、晩年のカントを描写し、池内さん本人に、そして私たちに、私に提起しているといえるのでしょう。

 人間のドラマはせんじつめると「大きな運命と、そのなかに見出した小さな自由」ということになると書いたカント先生ならぬ池内先生、その人間のドラマをのぞいてみたくなります。

                        【続く】

 

 ㊟次号では東プロシアが消滅していく20世紀の激動と『永遠平和のために』の

  根っ子にあるものを書いて完結させたいと思っています。

 

 

 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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