2020.10.29 Thursday

変化から見えてくるものー「国勢調査」と「日本学術会議問題」ー

 自治会の役員をしていることもあって、今回、初めて国勢調査員を担当しました。このたった一度の経験でえた感想を、そのまま一般化できるとはもちろん考えていませんが、少しメモしておくことにします。

 NHKWEBにアップされた9月30日付の記事はそのタイトルが「国勢調査が「存亡の危機」に!?」とありましたが、私も同じような言葉が浮かびました。5年に一度の国勢調査は全数調査を前提とする基幹調査なのだという条件からすると、その前提が揺らいでいるのではないかということです。

 

◈調査方法の曲がり角に立ち会ってー国勢調査員の経験からー

 8月末に近隣の国勢調査員を集めた場で、市の担当者から、どのように国勢調査を進めていくのかという手順の説明がありました。そのとき、私は、これでは、回答をされないままの世帯が多く出てしまうのではないかと思ったのです。そんな問題意識から、市の担当者に確認しても、市の方針を基本にやっていただければそれでいいという反応でした。

 今から思えば、現実を知らないというか、身のほど知らずの大げさの奴だったかもしれないと苦笑して振りかえることもできますが、9月上旬から10月中旬にかけての調査期間中、ずっとモヤモヤしたまま、どう対応しようかと、どうしようもないことに悩んでいた気がします。

 私が懸念したのは、コロナ感染防止という観点から、事前に予定されていた手順に比べ、さらに調査方法が簡略なものになっていたことです。まず、最初の調査資料一式の配付(9/14-9/20)については、インターホン越しの簡単な説明と郵便受けへの投函を基本に、不在の場合の再訪問は1回にとどめ、それでも不在の場合はポスティングすることになっていたことです。そして、回答の方法は、インターネットによる回答(配付時〜10/7)と調査票に記入のうえで郵送(投函は10/1〜10/7)のいずれかの方法によることを原則とし、調査員が回収する方法は例外的な位置づけになっていました。さらに、調査期間が10月7日で終了した時点において、国センターのデータベースで調査員ごとに担当世帯の回答の提出状況が集約されて市から報告されますので、各調査員はそれぞれ回答未提出の世帯を確認して、この世帯へ回答を督促することになりますが、この方法も、「提出のお願い」などの文書とともに調査票を入れた封筒をポスティングすることが基本になっていたことです。

 以上の原則的な調査の手順は、調査員の負担が軽減されるものでもあり歓迎すべきところですが、大層な私は、このやり方ではダメであろうと想像し、自分なりの工夫をしてできるだけ回答していただきやすいようにしようと思ったのです。自分で作成した文書を、調査資料一式を配付する前に、ポスティングして注意を喚起するとか、また10月1日には、これも自分で作成した「忘れていませんか」という文書をポスティングして速やかな回答を促したりしてみました。そして、10月15日頃に市を通じて報告のあった回答が未提出の世帯への督促についても、できるだけ訪問して直接、回答を依頼する機会を得るよう努めました。

 こうして大原則を崩してしまわない範囲で、自分なりのプラスアルファをやってみましたが、市からの報告で、私の担当する100世帯弱のうち回答の出ていない世帯が一定数生じていました。結局、最終督促以降、回答未提出世帯が回答したのかどうかは、私たち調査員にはわかりませんが、最初の調査資料一式を配付した際に、直接対面してお願いした世帯の中にも、ある程度予想されたこととはいえ、未回答の世帯があったことに、<ああ>となったのです。

 ここで申し上げておきたかったのは、私がこんなにがんばったなどということでは毛頭なく、同時に私がこんなにバカでしたというのでもなく、今回のアプローチでは、国勢調査に回答しない、できない世帯が相当数生じる社会的な現実があるということです。それは、コロナ問題をふまえた調査の手順の簡略化に起因しているだけでなく、住環境はもとより、国民の意識や、ひいては地域社会の変貌などの社会構造の変化という問題があるのではないかというように感じたのです。

 

 国勢調査を担当する総務省は、回収率が低い(10月6日時点で53.1%)ということで、回答期限を10月20日まで延長する方針を発表しましたが、現場としては、この方針変更を反映させた対応はとることができなかったとみるべきでしょう。回収率、とくに未回収率と呼ばれる数値の中味を確認しておきます。

 総務省HPにアップされた「令和2年国勢調査」にかかるパワーポイント資料には、下記のとおり「平成27年国勢調査 調査票回収状況」が含まれています。その説明の前に私の全く知らなかった基礎知識の確認から入ると、国勢調査は、いわゆる対面式という、つまり調査員が担当世帯に直接説明し、一定期間後に、世帯が記入した調査票を受け取る(回収する)方法でずっとやってきました。そのことが難しくなる状況の変化に、前々回の2010年からは郵送での回答が全面的に取り入れられ、前回の2015年からはインターネットによる回答も本格的に導入されたのだそうです(独立世帯をもってから何回も回答してきていますが、あきれるほど何も記憶していません)。総務省によると、1990年までの回収率は「ほぼ100%」、95年に初めて未回収が「0.5%」が発生し、その後、未回収率が一気に増加する傾向にあるという状況です。

 さて、その未回収率、回答のなかった世帯の割合とは、何を指しているかということです。下記の図表によると、左下に「国勢調査の聞き取り率(%)の推移」とありますが、その率のことを、「未回収率」(=未回答率)と呼んでいるのです。その右に、「聞き取り」とは「不在等の理由で調査票を回収できなかった世帯を対象に、国勢調査令に基づき、調査員が「氏名」、「男女の別」及び「世帯員の数」を近隣の者等から聞き取って調査を実施」とありますが(調査項目の一部のみ)、端的にいうと、これが「調査票を回収できなかった世帯」のことであり、未回収率とは、それが調査対象全世帯に占める割合のことです。

 「聞き取り率の推移」として表示されているとおり、未回収率は、2000年「1.7%」、2005年「4.4%」、2010年「8.8%」、2015年「13.1%」と急激に増加しています。前記のNHKの記事では、「急増する「回答拒否」」と表現されています。総務省は、右下の「⇓」で「新型コロナウイルス感染防止のためにも、調査員回収(前回29.0%)をできるだけ皆無に近くなるように努力」(聞き取りの「13.1%」以外の「15.9%」は調査員が調査票を回収した割合です)としていますが、実際に、現在、問題視されているのは、今回2020年の国勢調査で、どのぐらい未回収率が上昇するのかということなのです。

 平成27年国勢調査 調査回収状況 「令和2年国勢調査(令和2年8月/総務省統計局国勢統計課)」から

 そんな中、下記の写真は、総務省の記者発表資料(10月21日付)で、延長した回答期限の10月20日現在の「インターネット及び郵送回答の状況」が公表されています。前回の回答状況に比べると、同じ10月20日時点において、合計で70.7%から81.3%へと回答率が高くなっています。このことで、回収率が高くなった、未回収率が低くなりそうだと予測することはミスリードです。

 なぜなら、調査員が直接回収した調査票、その回答割合が含まれていないからであり、前記したとおり今回は調査員の直接回収は例外扱いであり、これがぐっと減少することが予測されるからです。したがって、前回も今回も、市町村は10月20日以降に調査員から直接回収した調査票を受け取り、それが最終の回収結果に反映されることになりますが、今回は前回より少なくなるのが確実な情勢なのです。そして、その程度により、最終的な未回収率(聞き取り調査の割合)は決まってくるという関係にあります。

 総務省はまちがった発表をしているわけではありませんが、それにしてもミスリードを誘いやすい報道資料といえます。

  令和2年国勢調査 調査終了のお知らせ 総務省報道資料(令和2年10月21日)

 国勢調査は、大正9年(1920年)に第1回目が行われてから、ちょうど100年、今回で21回目となります。いわばエポックメイキングな年ですが、その調査の方法は大きな曲がり角にあるようです。

 社会の現実というものに疎い私は、今回、少し現実の一端を経験しましたが、具体のことは守秘義務もあって書くことができません。変化というものを一般化すれば、高齢者の一人・二人暮らし、女性の就労、単身者、夜勤の方などの増加、空き家の増加、アパート・ハイツには氏名(姓)の表示がないこと、仕事などの関係で複数の居住地をもつ方(住基登録との関係)の存在、居留守の常態化、さらに調査時点である10月1日には、職場の移動も多く、引っ越しを伴うケースなどが、未回答の要因として関連してくるようです。

 もちろん、私もその一人なのですが、調査対象区域は地元ということであっても、日ごろからお付き合いのほとんどなくなっているという現実(顔見知りでさえありません)、つまり地域コミュニティの希薄化ということも影響しているのでしょう。

 当然、外国人の方、さまざまな障害をもたれた方などのケースも多くあり、その調査方法も示されているところですが、そういう状況に直面したとき、私は適切に対応できたかどうか、自信がありません。ありがたいことに今回そうしたケースに、私は直面しなかっただけのことです。

 よくいわれるとおり、オートロックマンションの増加、プライバシー意識の高まり(このことも実感しました)なども、回答未提出世帯が増加する要因と指摘されています。前回2015年の未回収率13.1%は、全国の数値ですが、東京都は実に30.7%に上ったとあります。10世帯のうち3世帯は回答していないことになります。

 一方で、もう一つ感じたことは、やはりマンション問題が大きな要因かもしれませんが、調査対象世帯の把握もれという問題です。私の住む兵庫県においても、地元神戸新聞が「配布漏れ相次ぐ」という記事を報じていましたが、「単純な配布ミスに加え、調査員が住居と認識しなかったケースなどが考えられる」とあります。調査対象世帯の把握漏れが多い場合には、未回収率そのものも信憑性のうすい数値にならざるをえないのです。これでは、調査すべき世帯に調査の手が届かないわけです。調査員が、不在や空き室など居住の有無を容易に確かめることができない状況では、回答の前提となる調査対象世帯も明確にならないといえそうです。

 さらに、未回収の世帯について、自治体、市町村が保有する情報と突き合わせたりして調査の精度を高めるのでしょうが、住民登録をしていない世帯など、どこまで確認できるのか、ハードルが高いと想像しています。

 

 以上、いろいろ書いてきたことを社会構造の変化として、的確に記述することが、私にはできません。構造の変化とまで言えなくとも、社会的な意識、雰囲気の変化として、私たちは十分に感じていることではあります(といいながら、年齢と同じように、なかなか変化の実態は捉え難いものです)。そのことが、国勢調査の回答状況に何がしか反映していることは間違いのないところでしょう。

 そろそろまとめておきましょう。前記のNHKの記事には、日本の統計の歴史を研究している東京外大の佐藤正弘教授のコメントが掲載されています。

 まず、住民票などの多くの情報を行政が把握しているなかで、どうして国勢調査が必要かという記者の質問に対し、佐藤教授は八王子市が前回の国勢調査で把握した市内人口が578千人だったのに対し、直近の住民票に基づく人口は563千人で、15千人の差が生じていることを指摘します。ですから、「正確な居住実態の把握」のためには、日本に住むすべての人を対象とした「全数調査」を行うしかないのが現状だと説明しています。これが「全数調査の有意性」だというわけです。

 しかしながら、前記したように、対面式という調査方法の限界は明らかですし、それに替わるインターネット回答や郵送回答にも対面式に取って替わるだけのポテンシャルが想定できないとすれば、つまり、その証左として未回収率がさらに増加する傾向にあるとすれば、「国勢調査そのものの意義を問われる事態になりかねない」というわけです。

 佐藤教授は、「日本の国勢調査は、現在のまま続けることは現実的ではなく、早晩、抜本的な見直しを迫られる時が来る」と予測しています。そして、次のような見通しを述べています。

 「 ヨーロッパを中心に、プライバシー意識の高まりなどを受けて、「全数

  調査」自体を取りやめる国が増えている。行政が持つさまざまな情報を連

  結させることで統計を作成する「レジスター方式」と呼ばれる調査に移行

  している。」

 「 日本でも遠からず、法改正などをした上で、たとえば、マイナンバーを

  利用した「レジスター」ベースの調査になり、調査自体は人々の目には見

  えないところに移動していくと思っている。」

 ただし、この「レジスター方式」には、前記した「全数調査の有意性」を補うことにはならないと、記者は指摘しています。

 そして、佐藤教授の、市民による国勢調査データの活用に関する次の言葉を引用し、記事は締めくくられています。

 「 国勢調査は、究極のビッグデータであり、市民が自分たちが必要なこと

  を知るためのデータとして使われるべきだが、海外に比べて、日本はその

  方向性があまりにも弱いと思う。いまは、多くの人が「データを取られる

  だけで、自分に返ってくるものがない」という意識になっているが、「自

  分たちも利用して何かが出来る」という認識が広がれば、調査に協力しよ

  うという人も増えるのではないか。」

 

 佐藤教授の最後の発言が実現できるような政府であり社会であることを期待したいところだ、と今は申し上げておくしかありません。

 国勢調査の未回収率という問題は、これまでにもあった問題、全数調査の限界というものを顕在化させたといえるのでしょう。全数調査による人口といっても、程度の問題はありますが、完璧主義者からすると、まあ「だいたい」という実態であったのだということがわかりました。もちろん「だいたい」だから「日本の人口」とはいえないのだと主張しているわけではありません。そうした前提のうえですが、未回収率が増加する傾向によって、統計の信頼性に直結する「だいたい」というレベルがひどく揺さぶられているというのが現状だと、私は理解しました。

 足元の見えないまま、いたずらに年齢を重ねたという思いにとらわれることの多い昨今ですが、知らぬ間に社会を構成する人間のありようが変化しているのではないか、そして、50年という単位ではそれはそれで当たり前のことではないか、それが見えていないままであっただけのことではないかと、そんなことに気づかされて恥ずかしい気持ちになりました。そして、こうして5年近くブログを書いている当人としては、その変化を吟味して理解し、評価しておかなければならないという課題を突きつけられた感じがしています。

 いずれにせよ、変化を見通す眼力をもたないといけないなどと自覚することができたことが、なんだか負け惜しみのようですが、国勢調査員を経験させてもらった効用というものではなかったかと思っています。

 

◈<蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜>ー日本学術会議任命拒否問題ー

 標題は、戦前の新聞人である桐生悠々(1873-1941)の辞世の句です。反権力・反軍的な言論を展開し、信濃毎日新聞の主筆であった1933年の「関東防空大演習を嗤う」という社説が、陸軍の怒りを買い、退社を余儀なくされた言論人です。その後も亡くなるまで単独で言論活動を続けた人です。

 今回の日本学術会議の会員候補6名を、首相が任命拒否した問題は、「学問の自由」にとどまらず、思想・信条の自由、言論・表現の自由などにも影響の及ぶ深刻な事態として、私は受けとめています。ですから、どんなに力なき者であっても、<蟋蟀の鳴き続けたり嵐の夜>の精神を共有しなければならないと思っているのです。

 

 この問題については、それこそ多くの言説が私たちの眼や耳に入ってきますし(今更ながらデマの横行に驚きます)、今日(10月28日)以降の国会の質疑においても、何がしかのことが明るみに出てくることでしょう。ですから、本稿では、今回の任命除外6人中の一人、加藤陽子東大教授の発言を紹介するにとどめたいと思っています。

 その前に、「もの言う意思が萎縮」とタイトルされた記事を(『毎日新聞』10月27日付)、日本学術会議政治学委員長である苅部直氏へのインタービューでまとめた鈴木英生記者が、記事の最後に「聞いて一言」として書いた文章を引用しておきます。

 「 日本学術会議の問題は、研究を禁止されたわけではない。なにが学問の

  自由の侵害か、首をひねる人もいるだろう。戦前のようなハードな弾圧で

  はないが、おそらく権力者も意図せずに拡大適用や結果としての萎縮効果

  を実現させかねないのが、この問題の怖さだ。

 「意図」のないところに「意図せずに」はありません。「意図」をしていて、その「意図」をはるかに超えて効果が発揮されてしまう、そのような社会的現実を、ここ数年、私たちは目の当たりにしてきたことを忘れないようにいたしましょう。この前政権の成功体験を、すなわち、たとえ説明できなくても、強弁を通すことを、現政権は継承しており、これを引き返すことは自己否定になることを知っています。

  『朝日新聞』2020年10月27日付の記事から

 日本学術会議が新会員を選考し首相に推薦する流れ 『毎日新聞』2020年10月16日付記事から

 日本学術会議の会員選考方法の変遷 『毎日新聞』2020年10月7日付記事から

 では、加藤陽子さんに戻します。私の手元には、二つの短い文章があります。一つは、「加藤陽子の近代史の扉」という『毎日新聞』毎月連載の、10月17日付「「人文・社会」統制へ触手[学術会議「6人除外」]」とタイトルされた記事です。もう一つは、10月23日の日本外国特派員協会で任命拒否の会員候補者6人による記者会見(実際には登場した方はリモートを含め4人)が行われましたが、そこに加藤陽子さんが寄せた「所感」です。

 いずれの文章においても、今回の任命拒否(加藤は「除外」を使っています)の背景には、拒否された6人全員が学術会議第1部(人文・社会科学)の会員候補だったことに留意すると、今年の夏に25年ぶりに科学技術基本法(旧法)を抜本改正した「科学技術・イノベーション基本法」(来年4月施行)が成立し、この新法によって「旧法が科学技術振興の対象から外していた人文・社会科学を対象に含めた」ことがあるのではないかと述べているのです。

 歴史家の仕事は「作者」の問いの発掘にあるとしたうえで、歴史家たる加藤は、当事者という点はご留意いただきたいとしつつ、今回の問題の「「作者」たる首相官邸の側の思考の跡をたどってみたい」とし、その結果、「人文・社会科学の領域が、新たに科学技術政策の対象に入ったことを受けて、政府側が改めてこの領域の人選に強い関心を抱く動機づけを得たことが事の核心にある」というわけです。

 つまり、この新法は「解決すべき課題を国家が新たに設定し、走り始めたこと」を意味しており、元々の「自然科学に加えて、人文・社会科学も「資金を得る引き換えに政府の政策的な介入」を受ける事態が生まれる」と、加藤は注意を喚起しているのです。

  科学技術基本法等の一部を改正する法律の概要(部分) 

           科学技術・学術審議会(令和2年7月2日)参考資料から

 では、こうした科学技術・イノベーション法によって新たに人文・社会科学が科学技術振興の対象になったことと、今回の任命拒否という事態が、どうして結びつくのかについて、加藤は、毎日新聞の記事よりも、「所感」ではもっとストレートに表現しています。次のとおりです。

 「 日本の現在の状況は、科学力の低下、データ囲い込み競争の激化、気候

  変動を受け「人文・社会科学の知も融合した総合知」を掲げざるを得ない

  緊急事態にあり、ならば、その領域の学術会議会員に対して、政府側の意

  向に従順でない人々をあらかじめ切っておく事態が進行したと思う。」

 つまり、「新法の背景には、国民の知力と国家の政治力を結集すべきだとの危機感がある」のであり、結集に掉さす人文・社会科学部門の目障りな学者を除外しておこうしたということなのでしょう。

 

 続いて、加藤は、「科学技術」という日本語が、「意外にも新しい言葉であり、1940年8月の総力戦のために科学技術を総動員した際に用いられ始めた言葉だった」ことを指摘し、次のように締めくくっています。「所感」とも同趣旨ですが、最後の一行が胸に迫る毎日新聞の記事の方を引用します。

 「 このたび国は、科学技術政策を刷新したが、最も大切なのは、基礎研究

  の一層の推進であり、学問の自律的成長以外にない。国民からの負託のな

  い官僚による統制と支配は、国民の幸福を増進しない。2度目の敗戦はご

  免こうむる。

 「所感」の方では、最後の一行で「私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている」と記しています。

 そして、「2度目の戦争はご免こうむる」を読んで、加藤陽子の名著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(平成28年7月刊/新潮文庫)を多くの方が想起されたのではないでしょうか。

 こうした加藤の言説が、今回の背景の全てとは私は考えていませんが、その一つとして、正鵠を得たものであり、かつあまり論じられていない現状でもあることから、紹介させてもらいました。

 

 前記した加藤の「学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている」という言説を、つまり「学問の自由」の重要性を、私は素直にそう理解していますが、学術研究を関わったことのない私ですから、本当にそう言えるのかとの問いもありうるのかもしれません。少し別角度になりますが、内田樹さんの「日本学術会議問題について」(「内田樹の研究室」)により、少し補足を試みておきます。

 内田は、「菅政権が最優先する政治課題は「統治コストの最小化」です」と規定したうえで、「統治コストと国力はゼロサムの関係」にあると指摘し、新政権は「積極的に日本を「元気のない国」にする道を選びました」(㊟国力が低下する)とします。つまり、「政界にも、官界にも、メディアにも、学界にも、どこにも権力に逆らうものがいない社会」を作ろうとしたのであり、その一環である「日本学術会議への攻撃は「国力の向上」よりも政権の安定を優先する」という判断が導いた結論」であったと見立てています。

 こうした社会は、「元気のない国」というべきだと、次のとおり描いてみせます。

 「 市民全員が権利意識を持たず、政治参加もしない「イエスマン」ばかり

  の国では、統治コストがゼロに近づく。為政者にとってはたいへん統治し

  易いわけですが、その代償として、社会が停滞し、イノベーションも起こ

  らず、文化的生産力も学術的発信力も衰える。

 

 そして、メディアも市民も「日本学術会議のことなんか象牙の塔の問題だ」と対岸の火事視しているが、いまの学者たちの抵抗は「日本社会が「イエスマン以外には居場所がない」ものになってゆく流れに対するぎりぎりの防衛線」であり、これを座視していれば、「おべんちゃら社会」になり果て、次の状況を覚悟しておかなければならないと警告しています。

 「 学者がエビデンスや論理を軽んじて、ときの政権におもねるような研究

  結果を出し始めたら、もう日本の学術は終わりです。それは単に象牙の塔

  の威信が失われるというだけでなく、日本発のあらゆる情報に対する国際

  的な信頼性が損なわれるということです。」

 内田は、「政界」、「官界」、「メディア」におけるイエスマンづくりのために人事、資金、規制などを動員した前政権の中心の担い手であった現総理が、その成功体験を「学界」にも敷衍しようとしていると見ているのでしょう。その結果、「萎縮した社会において「文化的生産力も学術的発信力も」衰える」と強調しているのです。

 結局、加藤の最後の一行「私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている」と同じことを、内田は彼らしい視角から主張しているといえます。

 

 最後に、もう一点だけ追加しておきます。政府は、今回の任命拒否の根拠規定として、憲法第15条第1項「公務員を選定し、罷免することは、国民固有の権利である」との公務員の選定・罷免権を持ち出しています。これを起点に憲法第65条と72条を絡めて「推薦の通りに任命しなければならないわけではない」と答弁しているのです。下図のとおり、「国民主権の原理からすれば、首相が任命について国民、国会に責任を負う」というのです。

 この憲法、法令の解釈については、多くの憲法学者が批判しており、早稲田大学の長谷部恭男教授は、15条1項を「一般的、抽象的な理念を言葉にしている」として、実質的な権利を定めていないと指摘したうえで、「どう考えても憲法論としては乱暴な理論。丁寧な説明とは到底言い難い」と発言したと報ぜられています。法律のことに無知な元地方公務員である私でも、その奇天烈さ加減、アクロバチックな転倒ぶりに怒りと寂しさを覚えます。前政権で見てきたことが繰りかえされています。

 同じ法理でたとえば国立大学の学長なども無制限に政府の裁量で任命を拒否できることになります。このような詭弁を許してはならないでしょう。

  憲法の規定を巡る政府の主張 『東京新聞』web/2020年10月7日付記事から

 今回の任命拒否の背景には、2016年の立憲主義を蹂躙する安保法制に対する憲法学者にとどまらない人文・社会学者たちの批判、2017年に日本学術会議が出した軍事研究に対する声明などが、背景にあることは明らかでしょう。そして、その延長線上に、加藤陽子さんの指摘する問題があるのでしょう。

 そして、いま、政府自民党の動きに呼応するように、多くのメディア(メディアのイエスマンづくりは成功しています)が日本学術会議のあり方の問題点などを報道し、論点のすり替えに狂奔している姿を、私たちは見せられています。この問題の本質を見失わないようにしたいものです。

 

 いささか品性がよくないですが、思わず哄笑してしまった、そしてぞっとした上野千鶴子さんのツイッターの投稿を紹介します。憲法学者、水島朝穂さんの<直言>から『イエスマンの科学者ばかりを集めた日本学術会議から「学術」をとってしまったら、日本会議になってしまう』、そして、友人が送ってくれたという『このままだと、「学縮会議」になる』というものです。

 

2020.10.18 Sunday

こんなに縁遠く生きてきたけれどー映画『男と女 』53年の魔力ー

 70歳という坂をこえると、50年前、半世紀前という記憶が当たり前のことになってきます。たとえば、1970年の大阪万国博という歴史的事象に自分はどう関わったかと記憶をたどると、自分ことだけでなく(私は会場へ足を運ばなかったのですが)、自分の近くにいた人々や場所やモノたちもいっしょに、よみがえってきます。

 昨年の高校3年生時のクラス会でも同じことですが(2019.11.12「くるりと周回してー『思泳雑記』ー」)、かといって、50年、半世紀という時間が実感できているのかと自問すると、はなはだ怪しいといわなければなりません。1枚の白い紙きれがあるとして、よみがえった記憶は昨日のことのようにその紙の真ん中あたりに見えたりもしますが、それ以外は白紙のまま硬く沈黙したままです。そして、「50年」という言葉を意識することで、時の経過という物理的時間を否定できずに、50年も経ったのかと、いささか呆然となります。

 教育的効果か何かわからないけれど、「50年」=相当に長期間という物差しのようなものをもっていて(人生の時間との関係もあるのでしょう)、それが作用しているだけのように思います。本当のところ、「実感」というあまり合理性の乏しい感覚からすると、「50年」というものを「30年」や「20年」と比較して長短を区分できる何かがあるわけではないようです。

 「50年」という時間の経過を、どちらかといえば、近しい他者の姿かたちや言葉に発見して、その反射として、我が身の変化(老い)を意識しているのが、今の、それこそ実感ということになるでしょうか。では、50年、半世紀以上も前の記憶で繰り返し登場してくる記憶とはどのようなものか、その強さの根っ子には何があるのか、今の自分に問うてみたら、どのように答えることができるでしょう。

 

◈記憶の映像と映像の記憶ー二本の『男と女』の半世紀ー
 前段の意味不明な文章を書こうとしたのは、先日、神戸湊川のパルシネマで、邦題で書くと、『男と女』(以下《男と女》と表記)と『男と女 人生最良の日々』(以下《最良の日々》と表記)の二本立てをみることができたからです。

 前者は1966年、後者は2019年に制作されているのです。53年後の《最良の日々》は、《男と女》と同じ、監督のクロード・ルルーシュ、音楽のフランシス・レイはもとより、主演のアヌーク・エーメ(アンヌ役)とジャン=ルイ・トランティニャン(ジャン=ルイ役)、そして、前者でそれぞれの幼い娘と息子であった二人も同じ役柄(二人とも俳優になっているのです)を演じています。

 53年という時を隔てた映画を同じスタッフと俳優で撮影するという企てが成り立つとはなんてすごいことでしょう。《最良の日々》のジャン=ルイは今は施設に入り徐々に過去の記憶を失い始めている状態だけれど、長年探し求めてきたアンヌの記憶は残っているという設定でした。こんな父の姿を心配した息子が、アンヌの居場所を突きとめ、父に会ってほしいと頼むところから、物語が始まるというか、再び始まる映画なのです。

 二つの映画を続けてみて、前段のような文章を書きました。それにしても、私の記憶には、こんな物語とシンクロするようなものは何もなく、ああ、こんなに縁遠く生きてきてしまったものだという感慨がまず胸を突きました。

 映画館の私の周囲には、私以上に年を重ねた方々も多く見受けられましたが、気のせいか、あちらこちらで深いため息がもれていたように感じたりもしたのです。

 

 次々に映画館が廃業していた1966年、田舎の高校生で映画と関係なく生きていた私は、今回、初めて《男と女》をみることになりました。この映画の記憶は、映画そのものというより、「♪ ダバ ダバ ダバ ダバ ♪」というスキャットを今も口ずさめるフランシス・レイの音楽の方でした。当時、それだけこの映画は話題となり、憧れもあって大人気を博していたということなのでしょう。

 《男と女》、そして《最良の日々》と二本続けてみたということを抜きに印象を語ることは難しいのですが、《男と女》は古びることなく、というよりみずみずしいといいたくなる映画でした。ジャン=ルイがレーシングドライバーでル・マンとかモンテカルロラリーの場面も多く、疾走感のある映像と、ブルターニュのドーヴィルという美しい町と、妻と夫を亡くした者同士のひそやかな大人の恋愛と、そんなスタイリッシュでおしゃれな映画でした。53年の前にみていたらどんな感想をもったことやら、と思うと、思わず笑いだしたくなりました(ドギマギして話の筋などわからなかったでしょう)。

 ネットで探すと、プロモーション・フイルム出身の映画監督の先駆けとしてクロード・ルルーシュを紹介している記事がありました。《男と女》は「人類にとっての不変のテーマ「スピード、音楽、そして恋」についての見事なプロモーション・フィルムとなっている」とし、そこにこの映画の「永遠の輝き」の理由を発見していて、なるほどと得心できました。

 

 双葉十三郎さんの助けを借りましょう(双葉十三郎『外国映画 ぼくのベストテン50年』(2007年3月刊/近代映画社))。これも、やはり50年です。

 双葉は、この《男と女》を、1966年ベストテンの第10位としています。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した作品を第10位としていて、辛口といえますが、そのコメントは「恋愛映画にはいろいろなかたちの秀作があるが、ぼくはこのクロード・ルルーシュ監督作品が大好きである」と、こんな誉め言葉なのです。ちなみにこの年のベストテンには、フランス映画が《男と女》以外にも3本(第2位にアニエス・ヴェルダ『幸福』、第4位にルイ・マル『ビバ!マリア』、第5位にルネ・クレマン『パリは燃えているか』という、今やレジェンド級の名画)もランクインしています(なお、第1位は1941年制作のオースン・ウェルズ監督の『市民ケーン』というリバイバル上映作品です)。

 あとに続く双葉の短文には、この映画の骨格(あらすじ)がよく表現されており、私の無駄が多くなりそうな紹介に替えて、引用することにします。

 「 夫の危険な仕事に対する不安がこうじた妻が自殺してしまったカー・レ

  ーサー(ジャン・ルイ・トランティニャン)と、スタントマンの夫が死んで

  しまった妻(アヌーク・エーメ)が同じ学校(㊟ドーヴィルの寄宿舎付き)

  子供を通じて親しくなるが、それぞれ妻と夫への思い出を断ち切れない、

  という心情がしみじみと伝わってくる。」

  映画『男と女』のチラシ表 クロード・ルルーシュ監督/1966年/仏

  同上のチラシ裏

 短い休憩を挟んで続いてみた《最良の日々》の方は、前記したジャン=ルイの息子の願いを受け入れ、アンヌが彼の入所している施設を訪ねるところから、50年の時を隔てて物語が再開されます。でも、美しい庭におかれたイスに腰をかけて、ジャン=ルイとアンヌは会話を交わしますが、ジャン=ルイはアンヌ本人だと気づかないのです。ア「こんにちわ」/ジ「俺たちは知り合い?」/ア「どんな夢を見る」/ジ「美しい女性たち」「特にあなたと似ている女性」「ステキなしぐさだ」(㊟アンヌの髪をかきあげる動作)、予告編にはこんな映画冒頭の会話が登場します。こうしてジャン=ルイから深く愛されていたことをアンヌは自覚し、ジャン=ルイの運転する車に乗り、二人で記憶の地であるドーヴィルへ旅して、思い出のホテル、駅、海岸をめぐります。そしてこの《最良の日々》には《男と女》の美しい映像が度々挿入され、老いの深まりのさなかで男と女は新しい愛の物語を紡いでいくというような映画でしたとでも紹介すればいいのでしょうか。

 この挟み込まれる50年前の映像は、ちょうどジャン=ルイとアンヌの50年前の記憶としてよみがえった映像という関係になります。つまり映画の映像の断片は二人の記憶と重なっています、というよりそのものなのです。「映像の記憶」と「記憶の映像」とは、《男の女》《最良の日々》の関係であり、それはジャン=ルイとアンヌの関係でもあります。

  映画『男と女 人生最良の日々』のチラシ表 クロード・ルルーシュ監督/2019年/仏

  同上のチラシ裏

 ルルーシュ監督は、インタビューで《男と女》の50周年記念パーティーで、ジャン=ルイとアヌーク・エーメが話しているのを見て、「このふたりを映画のなかで再会させたらどうだろう」と思ったところから、企画が出発したと説明しています。そして、監督81歳、ジャン=ルイ88歳、アヌーク86歳のときに、この映画は撮影されました。

 ですから、撮影で大切にしたのは、二人の高齢を慮って「素早く撮影を進めること、そして俳優たちの自然な瞬間を捉える」ことであったとしており、ルルーシュ監督は「わずか10日間でふたりの最後の力を撮影したのです」と語っています。撮影2日目、二人が再会するシーンを撮影することになって、当日の朝にメイク中の二人に台詞のメモを渡し、それから、しばらくしてセットに入った二人に、リハーサルをしないままで、脚本の台詞を小声で伝え、彼らはその通り動き、自然な瞬間をカメラが捉えたとあります。こうして「19分間、カメラを回し続けた」のだそうです。

 「その夜、自宅に帰り、突然泣きそうになった。いままでのキャリアのなかで、最も美しいシーンを撮影したと実感したからだ」と、ルルーシュ監督は思いを吐露しています。

  《男と女》ドーヴィルの寄宿舎学校からの帰途にジャン=ルイの車にアンヌが同乗するシーン

  《最良の日々》映画冒頭でジャン=ルイとアンヌが再会するシーン

  《男と女》ホテルのエレベーター内でジャン=ルイとアンヌが別れを意識するシーン

  《最良の日々》ドーヴィルの海岸でのジャン=ルイとアンヌ(「すてきなしぐさ」)のシーン

 タイトルの「人生最良の日々」は、ヴィクトル・ユーゴーの言葉である「最良の日々はこの先の人生に訪れる」(ウィキの邦訳では「人生最良の日々とは、まだ生きていない日々だ」)から引用したものだそうです。ルルーシュ監督は、現在は過去より強いということを伝えたかったからだと述べています。

 このことは、どうもルルーシュ監督の人生観そのもののようで、次の興味深い言葉をインタビューに残しています。

 「 私は子供の頃、映画館に行くお金がなく、非常口から入って、終わり近

  くになるとこっそり出ていたので、自分の見た映画の冒頭とラストは知り

  ません。自分で空想しなければならなかったのです。人生はまさにそう

  いったものではないでしょうか。我々はどこから来て、どこへ行くのか知

  りません。ですから、私の映画の中にメッセージはありません。現在を愛

  することが私の映画にもあります。」

 続けて、フランス流のエスプリというものか、80歳の映画制作の極意というか、自然体の哲学を語っています。

 「 自分に制限をかけることはしませんし、最初の脚本にもこだわりませ

  ん。自分のやりたいことだけやっています。80歳になって、物事は予定通

  りに進まないということを理解したのです。我々がわずかに知っているの

  は幸福の始まりと、厄介ごとの始まりだけです。」

 こんな発言は、ある境地に到達できた稀有な人間の言葉だと申し上げておくしかないでしょう。とても到達することはできないだろうけれど、ちょっと刺激を受ける言葉ではあります。

 

 いずれにしても、《男と女》の53年後に《最良の日々》が、同じ監督・キャスト・スタッフのもとで、それぞれフランス映画らしい「素敵さ」を放射する映画として制作されたことは、映画史上に残る奇跡であろうと、私は確信しています。

 

◈寄る辺なき男の魂の彷徨ー『凱里ブルース』ー

 映画館でもらったPRチラシには、今年1月に大阪でみた『パラサイト 半地下の家族』の監督であるポン・ジュノ、アカデミー賞外国語映画賞を獲得した映画監督の「ビー・ガンはこの先20年間の映画界を牽引する監督のひとりである」との発言が載っていました。

 ビー・ガンとは、1989年生まれの映画監督、2015年に若干26歳で撮ったデビュー作が、今回、元町映画館でみた『凱里ブルース』です。ビー・ガンは中国の南西部に位置する少数民族も多く住む貴州省凱里の出身で、ビー・ガンもミャオ族の出自をもつ方のようです。貴州省は、四川省や雲南省と隣接していますが、凱里はもとより、私は聞いたことのなかった地名です(といってもウィキによると、人口は貴州省34,7460百万人[2010年]、凱里市45万人[2003年])。

 いわば中国の辺境?で育った青年が、映画オタクになって、こんなユニークというか、故郷の凱里でロケして破天荒な映画を創造し、これが中国の外に進出して、外国の人から高く評価されて、そして日本にもやってきたのです。

 デビュー作の本作は、わずか35万円の予算で撮影をスタート、その後1600万円を借金してやっと完成にこぎつけたと言われています(その後実績のあるプロデューサーの参画を得てサウンド面を完璧なものに仕上げたのだそうです)。そして、本作はロカルノ映画祭で新進監督賞並びに特別賞に輝きました。シンデレラストーリーだともいえます。

  貴州省の中国全土のなかでの位置(ウィキより)

  凱里市の貴州省のなかでの位置(ウィキより)

 この映画を紹介することは難しいですね。前半は、時間軸を意識的に攪乱させたような、つまり過去と現実が判別できないようなシーンが説明なしに執拗に繰り返されます。これはどういうことと映画に身をゆだねていると、主人公らしい一人の中年男が、バイクにまたがり、何かを探して旅に出ます。これはロードムービーそのもののシチュエーションです。

 映画の後半になると、その男(裏社会のトラブルで9年の刑期を終えて凱里の山村で老女医と診療所をやっていて、その刑期の間に妻は亡くなり、かわいがっていた甥はどこかへ出されてしまっている)は、そんな妻や甥、老女医のかつての恋人など「愛した人の幻影を追って」いることが、少しずつ点と点がつながるようになってきて、謎が解けてきたぞと思わせてくれます。でも、そんな謎解きサスペンスでは終わりません。

 行き着いたダンマイという架空の街で展開される出来事は、まるで白昼夢のようで、愛した人の過去と現在の境目がわからない、つまり幻影のようでもあり、現実のようでもあり、という不思議な世界に宙づりにされたまま、映画はプツリとエンドしてしまいます。

 この映画の男の旅は二重の意味でロードムービーである、つまり生身の男の、と同時に男の魂の、彷徨であるということができます。これはロードムービーの定跡でもありますが、その語り口が独特なのであり、その中年男、チェン(ビー・ガンの実の叔父であるチェン・ヨンソンが演じています)のみた幻影のような世界のなかに、チェンの声で語られる詩も重なって(魂の声なのでしょうか)、私たち観客もいつの間にか映画のなかへ投げ込まれてしまうのです。

  映画『凱里ブルース』のチラシ表 ビー・ガン監督/2015年/中国

  同上のチラシ裏

  『凱里ブルース』の中国でのチラシ

 どうも紹介になっていないようです。映画の後半、前記のダンマイという架空の街でのシーンは、40分に及ぶノーカット(ワンカット)で撮影されています。このことが話題となっており、私も事前に情報を得ていました。3回撮影し、最初のテイクが採られたとありますが、映画を見終わった現在、若きビー・ガンの面目躍如といいますか、謎解きとともに観客にカタルシスを与える躍動感に満ちていたという感想を、私はもっています。

 主人公の移動の後を、カメラは追走したり、歩調を合わせてついていったりし、時に、カメラは撮影の対象人物から離れ、わき道に入り、近回りしてから、再び主人公にフォーカスを戻したりというシーンもあって、笑わせてくれたり、驚かせてくれたりして、楽しませてもらいました。

  男はまだ見ぬ村へバイクを走らせます

  凱里へ出ることになっているダンマイの女ヤンヤン

 この『凱里ブルース』もまた、《最良の日々》と同様に、同様は言い過ぎかもしれないけれど、「記憶」のなかにある「愛した人々の幻影を追って」、「記憶」の向こうにある現実を探しもとめようとする魂の彷徨であるということもできるのではないでしょうか。「記憶」の映像として存在する過去と、現在の現実とを、切実に結びつけようと希求する魂の彷徨とでも表現しておくことにしましょう。

 いずれにしても、エンド直後はポカンとなったけれど、今になると、ああ若いビー・ガンだからこその初長編映画のもつ溌溂さというべきものだった、そして、そんな溌溂さに振り回されて楽しむことができた、と思っています。《男と女》のルルーシュ監督もまだ20代で(長編映画は5本目でそれまでは興行的に失敗続きで背水の陣であったと本人は語っています)、やはり、この「溌溂さ」という言葉を共有しているのだと強く感じています。

 この映画1本でどうこうではありませんが、日本も十分に広いけれど、広大で多民族の中国の今を、大都市ではない地域の現実を、少しうかがえたような気持ちになりました。

 

 本稿では、最近、神戸で見ることのできた映画を紹介しました。

 最後に、『図書』10月号の巻頭に寄せた宇野重規さんの「福島の哲学者とオルテガ」というタイトルのエッセーにふれておきます。

 宇野重規東大教授は、今次の日本学術会議の新会員として任命除外された候補者6人のうちの一人です。私がわかったように語ることは恥ずかしいことですが、まさに正統派の政治学者としてその著書にシンパシーを覚え、信頼の気持ちを深くもっている学者の一人です。

 この巻頭エッセーは、任命問題が生ずるずっと以前に書かれたものでしょう。福島の哲学者とは、2018年に亡くなった佐々木孝さんのことで、スペイン思想・文化の専門家として東京で教鞭をとったあと、故郷である原町(現・南相馬市)に戻り、妻の介護をしながら思索と研究の日々をおくられた方です。2011年3月、福島原発事故に遭遇した佐々木は、その体験からさらに思索を重ね、宇野の言葉によると「佐々木の目に、事故の原因究明はもとより、そこに至った日本の近代を徹底的に問い直すことなく、目をそらす日本の現状は嘆かわしいものであった」のです。

 そんな佐々木が死の直前にまで推敲していたのが、スペインのオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』の翻訳であり、本年4月に、岩波文庫として刊行されました。この文庫版に、宇野教授は「解説 新鮮な自己批判の書」を寄稿しており、この巻頭エッセーとなったのでしょう。

 宇野教授は、佐々木の遺した新訳から浮かび上がってくるオルテガの思想が、従来からの「貴族主義的な大衆批判者という通俗的なイメージとは大きく異なる」と受けとめ、「新鮮な自己批判の書」として岩波文庫版へ解説を寄せているのです。これに続く締めくくりの文章を引用しておくことにします。

 「 彼のいう大衆とは、文明の便益を享受しながら、その文明を可能にした

  ものについて問わない人々であった。それはまさに現代人の自画像であ

  る。佐々木の思索を引き継いでいく必要を感じる。」 

 これでは、言葉足らずなのはわかっていますが、宇野の解説は読んだけれど、本文を読んでいない者として、これぐらいにとどめたいのです。

 ここで申し上げておきたいのは、佐々木孝と宇野重規の理解するオルテガの「大衆」とは、21世紀を生きる我々自身のことではないかということです。ですから、大衆の一人として、「思考停止にならないこと」「自己批判を怠らないこと」、このことがなければ、大衆社会は民主主義を形骸化する方向で作用するのではないか、これこそが、今の日本が、今の世界が、直面している事態であると、私は考えています。

 

2020.10.12 Monday

「生者は果たして死者のために祈り得るか」ー原民喜『夏の花』のことー

 中秋の名月でした。旧暦の8月15日にあたるという10月1日、日没直後のまだ少し明るみの残る東の空には、黄色くて大きな十五夜の月が顔を出していました。手持ちのカメラで撮影してみましたが、その大きさと色の感じが出ません。もう15分ほど歩いてから、同じ方角をみると、闇が深くなり、月は小さくなってしまったようで、色味だけがデジカメに写っていました。

 長谷川櫂さんの『日本人の暦』(2010年12月刊/筑摩書房)で「月見」を覗くと、長谷川自身の句に目がとまりました([ ]内は季語)。

 []   空よりも大きな月の上りけり

 [十六夜] 名月に一夜遅れてけふの月

 前句は、低空の月は大きく見えるという眼の錯覚、月の錯覚と呼ばれるものらしいですが、私にもやはり大きく見えました。後句は、今年は、中秋の名月の翌日10月2日、十六夜が満月だったそうです。

 芋名月ともいうらしく、これはこの日が里芋の収穫祭だったからだそうです(そういえば芋煮の夕食でした)。こんな長谷川の句も出ていました。

 [衣被]  衣被李白を憶ふ杜甫の詩(うた)  

  中秋の名月(日没直後)   [2020.10.1撮影、次も同じ]

  同 上(前記から15分後) 

 本稿では、原民喜(1905-51)の「夏の花」のことにふれたいと思います。

 正直に告白すれば、原民喜が執筆してから75年をへて、初めて「夏の花」を読みました。被爆した広島をテーマとする文学として、これまで多くの方が論じてきていて、そのことは繰り返し読んできたにもかかわらず、本体である「夏の花」という短い小説(これは小説なのでしょうか)を読むことをためらったままで放置してきたといえます。機会がなかっただけなのか、まあ怖がりですから、読んで受ける衝撃を怖れたのでしょうか。

 今回、その気になったのは、1970年に初版された晶文社版の『夏の花』(実際に手にしたのは1981年の10刷版です)のたたずまいに、偶然にも古本屋の棚で対面したからです。今はほとんどみられない函入り本で、その函を覆う絵に心が動いたのです。これは出会いというものであり、読んでみよというサインでもあろうと思ったのです。

 かくして、「夏の花」が「壊滅の序曲」と「廃墟から」に挟まれた三篇からなる『夏の花』を読むことになりました。私の予想とはちがっていました。このうち「夏の花」は、作者の感情、心象をほとんど押し出してこない文体で終始しているという点で、とても静かさをたたえていました。つまり起伏のある強い感情の表出が極力排されており、作者の目と耳でとらえた事実であろう映像の説明文と言いたくなる文章で、全てではないにせよ(この破調にも真実があります)、叙述されています。

 この30頁たらずの小説は、まぎれもなく読む私を強く牽引する力をもっている作品だと感じたのですが、初めて読んだときの「静かさ」という印象との関係を、どう理解すればいいのか、さらには「夏の花」が被爆した広島を描いた文学として高く評価されてきたことと、私の読後感との関係を探ってみたいと考えました。そして、「夏の花」を書いた、書かざるをえなかった原民喜という人物にも興味がわいたのです。このような作品を書いた原がどうして数年を経ずして自死するに至ったのかについても、一つの解釈でもいいので知りたくなりました。

 このために、晶文社版の解説を担当した竹西寛子と、2年前に岩波新書から『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(2018年7月刊)を上梓した梯久美子に、仲介をお願いすることにしたのです。というより、いつものことになりますが、二人の視点を頼りにして、納得できる言葉を探すことにしました。

  原民喜『夏の花』函の表 1970年7月刊(1980年10刷版)/晶文社

  原民喜『夏の花』函の裏

 上記は、晶文社版『夏の花』の函の表と裏です。この絵が誰の手になるものか、いつ頃に描かれたものなのか、この本の記述をはじめ、ネットで調べても手がかりはありませんでした。黒い背景に黄色い花と緑の茎が荒いタッチで描かれ、黄色い絵具を吹きこぼした跡のような点々が光っている、不思議な絵だといえばそうなのです。

 でも、「夏の花」を読めば、冒頭に書かれた、原が前年9月に亡くした妻の墓を訪れたときに持参した「黄色い小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった」という名称を知らない花なのであろうと推察できます。それは1945年8月6日に先だつ8月4日の朝のことでした。 

 

◈渡辺一夫との接点ー「狂気について」ー

 当時(1949年)、『三田文学』の編集を担当していた原民喜は、前年の9月号に寄稿してもらった「狂気について」が、それを標題とする「今度一冊の書物となり読み返すことができたのは嬉しいことだった」と、自身の「「狂気について」など」をタイトルとする短いエッセー(『三田文学』1949年9月号)に記しています。

 この原の小エッセーには、原の多くの作品が青空文庫に揃えられていることから、同文庫の助けを借りて、「夏の花」の理解を助けるために、少し幅広く原の文章を探しているときに出会ったものです。

 

 原は、寄稿者の名前を記していませんが、内容から、最近、当ブログでも紹介した渡辺一夫(1901-75)であることがすぐに分かりました。

 戦後の東西対立の先鋭化・深刻化(翌々年には朝鮮戦争が勃発しました)という時代状況のなかで、渡辺一夫は、前々ブログ(2020.9.19「今、「寛容」ということー渡辺一夫の言葉からー」)で直接取り上げた「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」と同じ1948年に、「狂気について」というエッセーを書いています。そして、ウィキによれば、翌1949年にこれらのエッセーを所収した『狂気についてなど』とのタイトルの単行本が、新樹社という出版社から刊行されています。

 渡辺は、前者の「人間が機械に……」で、人間は自分の作ったものの機械(制度や思想をはじめ)になりやすいという事実に立って、「割り切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解決を求め続ける」ことが大切だ、それがヒューマニズムであると主張していました。一方、その少し前に書かれたと思われる後者の「狂気について」においても、「人間は狂気に陥りやすいものだ(人間はとかく「天使になろうとして豚になる」存在だ)という人間性の認知」、この自覚を持たない、あるいは忘れている人間の精神状態が「狂気」というべきだと、同じヒューマニズムの視点から、「狂気」と「機械」を置きかえたような構造の文章で論じています。

 ですから、ヒューマニズムというものの心核には、原も引用する、次の自覚があるはずだと述べています。

 「 「狂気」なしでは偉大な事業はなしとげられない、と申す人々も居られ

  ます。私はそうは思いません。「狂気」によってなされた事業は、必ず荒

  廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、「狂気」によって捕えやすい

  人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地

  道になされるものです。」

 そして、渡辺は「平和は苦しく戦乱は楽であることを心得て、苦しい平和を選ぶべきでしょう」とし、「冷静と反省」が行動の準則とならなければならないと主張しています。

 

 この渡辺の言葉について、原は「僕は自分のうちに存在する狂気に気づき、それをどう扱うべきか常に悩んでいるものだが」としつつ、「しっくりと僕の頭脳に沁みてくる」と反応しています。

 そして、「昨日まで戦争という「狂気」の壁に」取りまかれていたが、また新しい戦争という危機がやってこないと断言できるだろうかとし、「こんな「狂気」を僕たちは僕たちの意欲によって避けることは出来ないだろうか」と、原は自問し、「戦争と暴力の否定が現代ぐらゐ真剣に考えられねばならぬ時期はないだろう」としています。

 最後に、原は、渡辺の主張に対し、ペシミスチックになりがちな自分を励ますような文章を残しています。

 「 これらの言葉は、一切が無であろうかと時に目まいがするほど絶望しが

  ちな僕たちに、静かに一つの方向を教へてくれるやうだ。」

 

 「戦争」は「狂気」の産物だとするなら、「原子爆弾」は「狂気」の行き着いた先の凶器というべきでしょう。

 ここで強調しておくべきは、広島の街を8月6日、7日そして8日とさまよい歩き、自分が「狂気」に陥りがちであることを自覚する作家の目と耳に焼き付いた被爆の諸相の映像と言葉の集積というものが、「夏の花」の前提にあったということです。まさに窮地に立った原民喜ですが、疑いようもなく、そんな作家としての目と耳は、働いていました。それは「狂気」のなせるわざではなく、「正気」というほかありますまい、と申しあげたいのです。

 

 そして、こんな苛烈な経験(被爆だけではありません)を経てきた原民喜が、それでもなお、渡辺一夫の言葉に肯定的な態度で接していることに、私はある種の感動を覚えるのです。

 先走りますが、1951年3月の原民喜の自死について、大江健三郎は、新潮文庫版『夏の花・心願の国』の解説で、次のように書いています。

 「 原民喜は狂気しそうになりながら、その勢いを押し戻し、絶望しそうに

  なりながら、なおその勢いを乗り超えつづける人間であったのである。そ

  のように人間的な闘いをよく闘ったうえで、なおかつ自殺しなければなら

  なかったこのような死者は、むしろわれわれを、狂気と絶望に対して闘う

  べく、全身をあげて励ますところの自殺者である。」

 つまり、原民喜という作家は、狂気と絶望に引き込まれそうになりながらも、戦争と原爆という「狂気」の産物を、自分自身の問題として、人類全体の問題としてとらえ、それを乗り越える人間精神につき、「渡辺一夫の言葉」のなかに「一つの方向」を模索しようとしていたといえるのではないかと、私は受けとめたいと考えました。

 この項では、原民喜は、「狂気」と「絶望」に対し、人間的な闘いをつづける人間であったことを確認しておくことにいたしましょう。

 

◈「被爆した広島が言わせる言葉」とはー竹西寛子の視点ー

 1945年8月6日、爆心地から2.5劼亮宅で被爆した、当時16歳であった竹西寛子(1929-)は、25年後の1970年刊の晶文社版『夏の花』に「広島が言わせる言葉」というタイトルの解説を寄せています。さらに35年後の原民喜生誕100周年祭(2005年11月/広島)では、「『夏の花』の喚起」と題する記念講演を行っています。以下では、《解説》《講演》と表記して区別します。

 本項では、竹西の視点に依拠しつつ『夏の花』を考えてみたいのです。

 

 その前に、『夏の花』の外形的な情報を共有しておきます。

 この単行本には、「夏の花」三部作といわれる、三つの短篇「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」がこの順番で並べられています。原民喜は、1944年9月に大きな存在であった妻を亡くし、住んでいた千葉から、翌45年1月に家業(陸海軍・官公庁用達の縫製業)を手伝うということで広島に帰ります。

 「壊滅の序曲」には、帰郷以降のことが、最終行の「原子爆弾がこの街を訪れるまでには、まだ四十時間あまりあった」という時点まで描かれています。そして「夏の花」は、冒頭の妻と父母の墓参という8月4日のシーンのあと、8月6日の「原子爆弾に襲われた」ところから、被災から逃げようとして街をさまよい、6日夜を川の土手の窪地で越し、7日になって施療所にもなっていた東照宮の石壁の脇で24時間を過ごし、翌8日は長兄の用意した馬車に次兄家族たちと6人で乗って、避難先の八幡村にたどり着いたのは「日もどっぷり暮れた頃」だとあります。ですから、実質は3日間のことです。三つ目の「廃墟から」には、避難先の八幡村に着いて以降の厳しく辛い日々のこと(最後のエピソードには「あの当時から数へてもう4ヵ月も経ってゐる今日」とあります)が描かれています。

 ですから、「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」は、被爆前、被爆とその直後、疎開後という時制的な順に並んでいることになります。

 このことをあえて書いたのは、発表された順でいくと、いずれも『三田文学』に掲載されていますが、「夏の花」は47年6月号、「廃墟から」は47年11月号、そして「壊滅の序曲」は49年1月号と、「夏の花」が最初に発表されていて、これが書かれた順番でもあるからです。

 

 さらに、「夏の花」が発表されるまでの経過も知っておいていただいた方がよいでしょう。

 「夏の花」の元になった原稿は、八幡村の疎開先での食糧不足からくる飢えと被爆の影響による体調不良のなかで、年内、45年11月頃までには書き上げられていました。そのときの題名は「原子爆弾」でした。ですから、「最初の原爆小説と言っても過言ではない」との見解もあります。

 この原稿は、12月中ごろには亡き妻の弟である佐々木基一(1913-93)に送られ、『近代文学』の同人たちに鮮烈な印象を与え、同誌での発表が検討されたのだそうです。しかしながら、『近代文学』はプレスコードと呼ばれた占領政策の事前検閲を受けなければならなくなり、内閲に出したところ、全体として検閲にとおりがたいことが判明して宙に浮くことになりました。それから1年以上も経て、それもタイトルを「原子爆弾」から「夏の花」へと改題し、文章中の3ヵ所を一部削除したうえで(削除部分は1953年の『原民喜作品集』で復元)、事前検閲の対象ではない『三田文学』47年6月号に掲載されたという経緯がありました。

 

 《解説》の冒頭で、竹西は「被爆した広島を言う言葉」と「被爆した広島が言わせる言葉」があると、直観によるがとことわりつつ、区別があると提起します。そして、前者の「広島を言う言葉」には寛容になり得ない、狭量になる自分というものを自覚します。それは、被爆者の自己愛とか、郷土への愛着かもしれないが、「広島が言わせる言葉」が存在することを感じ、経験させられたことがあるからではないかと、この竹西の思いは被爆後25年の間に「強まることはあっても弱まることのなかった私の事実である」というのです。

 この「広島が言わせた言葉の原典としての重み」をもつものが、竹西にとっては、「原民喜の『夏の花』」だと確認しています。

 では「夏の花」を繰りかえして読むのはどうしてなのか、「夏の花」のどこが特別なのかについて、竹西の言葉を拾って引用すると、次のとおりです。

 「 うろたえぬ目、とまどわぬ耳。悲惨を、残酷をあらわし訴えようとした

  人々からとかくみすごされやすかった広島、締め出されやすかった広島が

  そこにあり、私はその配合に緊張し、また温まる。」

 「 言葉の刺激や喚起力の持続性、限定されているようでじつは無限定とさ

  えいえる言葉の、享受の自由の有難さをいまさらのように思う。」

 「 『夏の花』を読めば、こざかしく意味づけられていない広島と必ず会え

  るからである。[㊟以下には『夏の花』に書かれた内容の一端がわかる文章が続きますの

             で、少し長いですが引用します]

  夏の光があり、茶碗を抱えてお湯を呑んでいる黒焦の大頭があり、河岸に

  懸っている梯子に手をかけてまま硬直している死骸があり、地に伏して水

  を求める声があり、その中に玉葱が漂い、喇叭が鳴り、瀕死の人たちのあ

  らわな生きる闘争があるからである。」

 だから、原民喜の「夏の花」は、「広島が言わせた言葉の原典」だと、竹西は次のとおり定位しています。

 「 原民喜は、貴重な資質と意志とによって、意味づけのない広島を遺し得

  た稀有の人である。眩しく恐ろしい人類の行方についてのあらゆる討議の

  前に、一度は見ておかなければならぬもの、一度は聞いておかなければな

  らぬものがここにある。」

 

 この《解説》から35年を経た《講演》において、竹西は、自身が書く苦しさとわずかな喜びを知ったために見えてきたのが、「広島が言わせる言葉」というキーワードであったのであり、それから35年後の理解の深まりを次のとおり語っています。

 「 「広島」を言いたい気持ちは今も、私の中にたくさんあります。でも、

  「広島」という事実、「被爆の広島」という事実に反応する自分をまず言

  うよりも、反応を促した事実を見つめることの大切さを、原さんは教えて

  くれました。言葉で「広島を言う言葉」「広島が言わせる言葉」というの

  はまだ易しい。その違いをどういうふうに実感するか、それは全身的な経

  験になると思います。」

 「 原さんは作品そのもので、気ままに「広島」を言うことをたしなめてい

  る。そう思います。悔しさを言いたい、腹立たしさ、嘆かわしさを訴えた

  い。しかし、なぜそうなったか、悔しさを引き起こす原因を、事実をもっ

  と見極めなければ、その悔しさも腹立たしさも本当に言えることはないだ

  ろう。事実によって引き起こされた人間の内部の変化を性急に訴えるより

  も、変化を促した事実に注目する意識、忍耐、集中力を、原さんは、あの

  作品で示されたと、私は受け止めています。」

 続けて、この「あくまで事実を見通していく力を失ってはならない」ということは、「文学の根本」だと、竹西は原から教わったように思うと発言しています。

 

 《解説》の最後のところで、竹西は、鎮魂という行為について、元は「素直にいとしむ習慣」に生きていたが、今はかなり違って、「所詮死を経験できない生者」の「自分自身の魂鎮め」と思うようになったとし、次の文章を続けています。

 「 生者は果たして死者のために祈り得るか。『夏の花』は、作品全体で

  この疑問符を支えているように思う。この疑問符は、原民喜にとって、

  この時初めてのものではなかったけれど、己惚れや傲りへの警戒は、

  『夏の花』に一貫する叙事的文体にも充分読みとることができる。」

 だから、「言えるものなら、私もまた声をあげて、あの過ちはもう二度と繰り返さぬと言いたい。安らかに眠られよ、とも。だがそう言えない」のは、「人間と言わず、わが身が、わが心がはかり難いからである。頼みがたいからである」と、竹西は述べています。

 そして、「広島を言う言葉」と「広島が言わせる言葉」の区分から始まった《解説》を、次のように締めくくっています。

 「 被爆した広島を言う言葉は、さまざまな目的をもって、今後いっそうせ

  わしく賑やかに交換されるであろう。そして、広島を言う言葉が、時にど

  んな勢いを得ようとも、『夏の花』はそのようなことに関係なく、少しも

  色褪せずに在り続けるであろう。なぜなら、『夏の花』は、広島が言わせ

  た言葉で成り立ち、意味づけられていない広島を遺し、そのことによって

  まさに存在の表現に与り得ていると思うからである。」

 

 引用ばかりになりましたが、私は、この竹西寛子さんのなした一連の論考の説得力に圧倒されました。何に圧倒されたのか、簡潔に記しておきます。

 一つは、竹西のいう「叙事的文体」は、言葉は違えど、同じ印象をもったのですが、その背後にある、その基底にある、原民喜という作家の目と耳のありよう、精神のありようというものを、「広島が言わせる言葉」として「夏の花」を象徴させているところです。「事実を見つめること」が文学の根本であるという竹西の文学観の根っ子には、原の「夏の花」があるということになります。

 もう一つは、そんな原の精神のありようは、前項で記した「「狂気」と「絶望」に対し、人間的な闘いをつづける人間であった」という見方と通じています。それはまた、「狂気」や「機械」に陥りがちであるのが人間であることを「人一倍自覚した人間的な人間」というものの大切さとも直につながっているといえます。そして、竹西自身の「あの過ちは二度と繰り返さぬと言いたいけれど、言えない」という心のあり方にも、つまり竹西の「人間観」があらわれていて、原の精神のありようと共通の基盤を感じました。

 竹西寛子にとって、その文学観と人間観の形成において、原民喜の「夏の花」は、その作家の目と耳のありよう、精神のありようというものは、道標であり、導きの手でもあったのだと、私は思っています。

 

◈「被爆メモ」の存在と『夏の花』ー梯久美子の視点ー

 いつものとおり、たらたらと書いていると、掲載字数の制限が気になり出しました。できるだけコンパクトにします。

 梯久美子の『原民喜 死と愛と孤独の肖像』は、原民喜を幼いころから死にいたるまでを丁寧にたどりながら、「夏の花」はもちろんのこと、その自死への歩みを伴走しています。副題である「死と愛と孤独の肖像」とは、原が死の2年前のエッセーで「私の自我(ママ)像に題する言葉は、/死と愛と孤独/恐らくこの三つの言葉になるだろう」と書いているところから、採られています。

  梯久美子『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 2018年7月版/岩波新書

 本項では、「夏の花」に関連したことに絞ることにします。

 「夏の花」は被爆直後の3日間が描かれていますが、原は雑嚢の中に入れておいた手帳に、7日の東照宮の境内で「原爆の落とされた瞬間のことから」書き起こされ、8日にたどり着いた八幡村で続きを書き継ぎ、全部で12ページ、2600文字を超える文章が残されました。この手帳のメモ、被爆メモが「夏の花」のもとになっているのです。梯は、「夏の花」を読んでみると、このメモの文章も、「単なるメモにとどまらない完成度をもっていることに驚かされる」と評価し、「心身とも極限状況にあって、限られたスペースにぎりぎりの簡潔さで事実を記そうとしたとき、原の内在する文章のリズムが、骨格のようにあらわれてきたのだろう」と述べています

 一つの事例でメモと本文を比較してみます。前年の妻の死で自分の臨終をも同時に見届けたようなものと思ったと書いた原民喜が、原子爆弾のことを、「夏の花」を書きのこす決意をする大変に重要な場面です。手帳メモには、次のとおり記されています。

 「 我ハ奇蹟的ニ無傷

   ナリシモ、コハ今後生キノビテ

   コノ有様ヲツタヘヨト天ノ命

   ナランカ。サハレ、仕事ハ多カルベシ。   」

 これに対応する「夏の花」の本文は次のとおりです。

 「 長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだった。

  さばさばした気持ちで、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。か

  ねて、二つに一つは助からないかもしれないと思ってゐたのだが、今、ふ

  と己れが生きてゐることと、その意味が、はっと私を弾いた。

   このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。 」

 この引用に続いて、梯は、次の文章で、「原爆投下後の地獄のような広島で隣人となった死者たちが、原を生きさせることになった」と説明しています。

 「 長いあいだ原は厄災の予感に怯えてきた。それが現実になったとき、ま

  ず生きのびられまいと思っていた自分が、なぜか無傷で生きのびた。幼い

  頃から怖れ、怯え、忌避していた現実世界、それが崩壊したとき、生きる

  意味が、まさに天から降ってきたのだ。」

 言葉が足りませんが、梯の本を最初から読んできた者には説得的なのです。

 

 また梯は、もともと原は心象風景のみを書きつづけてきた作家であったが、この原子爆弾という事態に遭遇して「目と耳でとらえた事象の記録に徹する文体」(竹西のいう「叙事的文体」と同趣旨でしょう)を選んだとし、原自身の変化を強調しています。ですから、「全体を通して、比喩的表現はほとんど見られない」としたうえで、その延長線上というべきか、メモにはない内容が二ヵ所だけ付け加えられていると指摘します。その一つは、8日の馬車から見えた街の姿を、カナまじりの詩で表現しているところです。前記の比喩表現と同様に、未曽有の光景をどう伝えるかを考えた末だろうがとし、原は「この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応しいやうだ」に続けて、次の詩を本文に挿入しています。

 「 ギラギラノ破片ヤ

   灰白色ノ燃エガラガ

   ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ

   アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム

   スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ

   パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ

   テンプクシタ電車ノワキノ

   馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ

   ブスブストケムル電線ノニホヒ            」

 

 以上のように、『夏の花』は原の代表作であるが、原のどの作品とも異質であると指摘されてきたことを、梯は紹介しつつ、『夏の花』が広く読まれるきっかけとなった原の死から3年後の1954年の角川文庫版の解説で、近親者である佐々木基一の「巨大な死の積み重なりを前にして、それまでは死者の目で外界を眺めるのをつねとしてゐた作者が逆に生に甦ったという逆説にも由因する現象であろう」との文章を引用しています。この佐々木の説を「死から生へ、内から外へという原の内面の劇的な変化によって表現も変化したという捉え方」だと肯定しつつ、梯は、もう一つ見逃してならないのは「原の作家としての冷静な目と方法意識」だと強調しています。前記の被爆メモをあの文体で書いたのは「作家としての文学的直観に基いた主体的な選択」ではなかったかとし、梯は、この本を書く過程で蓄積した原の肖像から、次の文章で原の本質をとらえています。

 「 生来の繊細さと、それまでの言語生活で培った表現者としての理性、そ

  して死と死者に対する謙虚さが、大げさなこと、曖昧なこと、主情的なこ

  とを拒否した。メモに如実にあらわれている一貫したその姿勢の上に「夏

  の花」は書かれたのだ。」

 こうした梯の見方、批評は、竹西のほぼ隣に立っているように、私は理解しました。

 梯は多くの方への取材を通じて、数多くの新たな発見をして、この評伝にも書かれているように思いますが、最後の原の自死へと急ぎましょう。

 

 

◈「死によって生きていた作家」ー周到に準備された自殺ー

 原民喜は、1951年3月13日に東京、中央線の西荻窪と吉祥寺の間で鉄道自殺を遂げました。44年9月の妻の死、それから1年足らずで45年8月の広島での被爆に遭った原にとって、その死は周到に準備されたものでした。近くの下宿には、遺書が17通もあって、そのうち妻の弟である佐々木基一あての遺書には次の文章が記されていました。

 「 ながい間、いろいろと親切にして頂いたことを嬉しく思います。僕はい

  ま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死別れてから後の僕の

  作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします。」

 遺書とともに残されていて、原の死後に発表された「心願の国」や「永遠のみどり」には、その遺書というべきフレーズも何回も登場しています。

 

 梯久美子は、三浦しをんとの「悲しみの詩人、原民喜を語る」という刊行記念トークイベントのなかで、本書は原民喜の「夏の花」にとどまらず多くの作品を読む契機にしてもらうことを目的とするなかで、彼の自死をどう書くかについて、「若い人たちに自殺を肯定すると受け止められるのではないか」と悩んだと発言しています。でも、「自死のことを避けてはいけないんじゃないか」と思って、「あえて序章にもってきた」と続けています。

 これに応えるように、三浦は、今の若い方たちが原の自殺を知っても「彼の遺した作品や言葉を読めば、それに引きずられることはないんじゃないか」と発言しています。

 埴谷雄高が弔辞のなかで言葉にした「あなたは死によって生きていた作家でした」に触発されるように、梯は、「死への想念にとらわれた幼・少年期があり、妻の愛情に包まれて暮らした青年期があり、孤独の中で書き続けた晩年の日々があった」とする原民喜を描くにあたって、原の評伝を彼の死から始めた意味を次のとおり記しています。

 「 原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そ

  うした考えに至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには

  持って生まれた敏感すぎる魂、幼い頃の家族の死、厄災の予感におののい

  た若い日々、そして妻との出会いと死別が深くかかわっている。

   死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮

  かび上がることがある。原は確かにそんな人のひとりであった。この伝記

  を彼の死から始めるのはそのためである。

 

 このように原民喜のことを考えた梯は、おそろしく原の作品を読み込み関係の方々への取材を重ねた結果であろう本書で、原の自死を表現しようとし、言葉を尽くしています。そんな中から、三つの文章だけを引用しておきます。

 「 最大の理解者である庇護者でもあった妻を戦時中に喪い、その後広島で

  被爆した原にとって、戦後の東京生活は、孤独と貧しさとのたたかいだっ

  た。その中で執筆し、ついに力尽きたのだった。」

 「 終戦直後、「夏の花」を書き、(妻である)貞恵の死の前後を書き、彼女

  に捧げる詩の数々を書いた原は、書くべきものを書くという意欲に燃えて

  いた。住まいを転々とする落ち着かない暮らしの中で、衰えた身体な鞭

  打って書き続けたのである。だがその後、心身に刻まれて消えることのな

  い惨禍の記憶と向き合う中で、死者たちのいる方へと魂は引き寄せられて

  いった。」

 「 原は自死したが、書くべきものを書き終えるまで、苦しさに耐えて生き

  続けた。繰り返しよみがえる惨禍の記憶に打ちのめされそうになりながら

  も、虚無と絶望にあらがって、のちの世を生きる人々に希望を託そうとし

  た。その果ての死であった。」

 本書を通じて、梯は、原の生涯について事実を積み重ねる中で、原の自死について安易な結論を示すことを避けながらも、ある種の必然のようにその死を受け止めようとしているように、私には読めました。

 

 そして、この三つ目の引用文に続けて、梯は、本書の最後に、遺稿である「死について」から長い文章を引用していますが、その一部を再引用しておきましょう。

 「 それから「死」もまた陰惨きわまりない地獄絵としてではなく、できれ

  ば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れて盲ひてし

  まうのではなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節

  を生き抜いてきた若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとっ

  ては大きな慰籍である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いて行くか

  わからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築

  いてゆくより外はないのであろう。」

 梯がこの文章を引用しているのは、原の自死を自殺という面だけでとらえられるのを避けるためでもあり、原が死の直前にこのような心境にあったことを読者に届けたかったということでしょう。本稿の最初の方で引用した大江健三郎の「全身をあげて励ますところの自殺者」との言葉にまっすぐにつながるものでもありましょう。

 私は書ききれなかった思いを残しつつ、竹西寛子の1970年『夏の花』解説文から、次の文章を引用しておきたいと思います。

 「 このやさしい詩人は、決して妻の死を、広島の死を描こうとはしなかっ

  た。妻の死の、広島の死の、さらに奥深くにある何かを怖れ、愛し、それ

  ゆえに祈り、だから意味づけることをしなかったし、事実できなかったの

  だと思う。そのような広島を遺し、被爆後6年目の早春に、原民喜は自ら

  死を選んだ。」

 

 本稿を書こうとしたときに分かっていたことだけれど、私には、原民喜の自死についてつくづく思考の射程が届かないことを思い知りました。

 前記のトークイベントで、梯久美子は「私は彼がどうしてそういう死に方をしたのか理解することが私にとって必要だったんですね」としつつ、思いを吐露するように次のとおり発言しています。

 「 はっきりと一言で言えるような結論は出ませんが、原民喜は絶望して死

  んだ感じでもないんですね。

 

◈おわりに

 中途半端感は否めませんが、このあたりにしておきます。

 今、私は、本稿を書こうとして原民喜の「夏の花」にとどまらず10篇ほどの作品(青空文庫のおかげで)を読めたことをよかったと思っています。

 

 原民喜の死の直後に『群像』1951年5月号に掲載された「心願の国」のなかで、寒い夜に喫茶店に入り「僕がこの世からゐなくなっても、僕のような気質の青年がやはり、こんな風にこんな時刻に、ぼんやりと、この世の片隅に坐つてゐることだろう」に続いて、「僕」が店を出て歩いていると、「向うから跛の青年がとぼとぼ歩いてくる」というシーンがあります。そして「(しっかりやってください)すれちがひざま僕は心のなかで相手にむかつて呼びかけてゐる」という地の文に続いて、次のパスカルの言葉が引用されています。

 「 我々の心を痛め、我々の喉を締めつける一切の悲惨を見せつけられてゐ

  るにもかかわらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできな

  い本能を持つてゐる。(パスカル)

 

2020.09.26 Saturday

「軽くてもおもい詩」をもとめてー『八木幹夫詩集(現代詩文庫)』を読むー

 詩にふさわしい読み方というものがあるなら、私は詩の読み方が分かっていません。では、小説など他ジャンルの本はどうなのと問われると黙ってしまうしかないのですが、そう思っています。当ブログで詩によくふれてもいますが、私はいい詩だ、好きな詩だとただ紹介しているだけのような気がしています。そして、引用する詩は、私自身より、年長の詩人によるもので、同世代と呼べる詩人の作品ではありません。

 ところが、今回、ひょんなことなら、同世代と呼ばせていただいてよい詩人の現代詩文庫(思潮社)を一冊読む機会がありました。というのは、当ブログに記事(2020.7.13「10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー」)をアップした関係で、著者である八木幹夫さんから連絡をいただき、おまけに2005年に刊行された現代詩文庫『八木幹夫詩集』を大変に厚かましくも「恵存」していただいてしまったのです。 

 この1947年1月生まれの、ほぼ同世代の詩人である八木幹夫の詩の束を、ときに共感し、ときに身につまされ、ときに頭をふりふり、ときに記憶の壺をたたかれ、ときにおどろきながら、楽しく読ませていただたのです。ここで世代論を展開しようというわけではありませんが、私は高度成長期以降に生じた<自然>や<地域>、そして<暮らしぶり>の大変貌という時代背景というものを無視して読むことができませんでした。それは八木の経験の根っ子にあるものであり、私の経験ともどこかしら近いところがあるのでしょう。 

 本稿では、いつものように他者の言葉に依存しながらになってしまいそうですが、「読書感想文」を残しておきたいと思っています。

 

 思潮社の現代詩文庫は、1968年に創刊され、半世紀を経た現在、300冊前後が刊行されています(著名な詩人の場合は「続」「続続」「続続続」として複数冊ラインアップされています)。私の本棚にも20数冊並んでいますが、ほとんどが20歳以上年長の詩人たち(いわゆる戦後派詩人)のものです。

 この『八木幹夫詩集』(2005年1月刊/思潮社(現代詩文庫))は、176冊目ということになります。1983年から2002年までに上梓された全7冊の詩集から選ばれた詩に加え、八木の詩論・エッセーが5本、そして他者による八木の作品論・詩人論が4本付されたという構成となっています。

 ですから、この現代詩文庫に掲載された八木幹夫の詩は、詩集発表時の年齢でいけば、1983年の36歳から、2002年の55歳までのほぼ20年間をカバーしていることになります。以来、現在の73歳までに発表された詩やエッセーも数多くあるようですが(詩集3冊、歌集1冊)、当然のことながら、今回読ませてもらった対象外となっています。ですから、私の読んだ八木の詩は中年・壮年期に書かれた作品だということになります。

  『八木幹夫詩集』 2005年1月刊/現代詩文庫176/思潮社

 八木の詩から受ける総体的な印象というものは、第五詩集『野菜畑のソクラテス』(1995年刊/ふらんす堂)を論じた鼎談(現代詩文庫に「頭の洗濯、心の掃除」として所収)での井上ひさしの発言の延長線にあるようだと、私は読み終えてそんな気持ちになりました。

 井上は、次のとおり文学者や詩人の役割を説明し、『野菜畑のソクラテス』はそんな可能性を感じさせる詩集だと発言しています。

 「 文学者や詩人の役割というのは、恋をしたり、けんかをしたりする庶民

  の話し言葉を、書き言葉に練り直して永久にとどめるということでしょ

  う。そうやって口語を練り上げ、鍛え上げた時、一国の最もいい文学言語

  が誕生する。」

 口語は日常生活と密接不可分といえますが、井上は、この詩集が「我々の営む日常生活」という経験が根っ子にあって、「読者に、日常を発見させる、つまりなんでもない日常を宝石に変えてしまう」ところがすばらしいと激賞しているのです。

 こんな言葉だけで、八木の詩業を総括することは短絡的でしょうが、「日常」の営み、ということは<人生の一日>への思いや感慨を、時間や場所を自在に往還しつつ、「批評」とは思えない言葉とシチュエーションで照射される八木の詩行のもつ<批評性><哲学性>という特質が、私にとっては何よりも印象的であったと、ひとまず記すことから感想文を始めることにします。

 

◈ゲンダイシへの懐疑と、「八木幹夫の詩」をもとめる旅へ

 いわゆる「現代詩」という言葉が含意するものとはなんでしょう。足場を外されてしまったような世界(「身体」とか「日常」が不在の世界ともいえます)を、委曲を尽くし洗練された言葉で表現されたものというイメージが、私にはあります。そして、どうかすると、私のような感度の低い読み手を拒むような高い壁を意識したりもしてきました。それが冒頭の「詩の読み方が分かっていない」にもつながっているようなのです。

 また前記の鼎談において、井上ひさしは、言語表現の最先端を切り開いていくという詩のすばらしさを認めつつ、それが「日常とは関係ない言葉、関係のない次元で行われていることが多いという印象」があって、私たちは詩を、現代詩を敬遠しがちになるのではないかと語っています。だから、つい「それがどうした」と言いたくなるとも発言しています。

 そのような難解という袋小路に入っていく「現代詩」の洗礼をうけるなかで、若くして詩(短歌も含めた短詩型文学全般)に目覚めた八木幹夫は、反発しつつ懐疑しつつも、自らの詩を求めて苦闘してきたにちがいありません。

 

 八木が、若い頃から敬愛してきた<西脇順三郎>をタイトルに入れた「百年後ー西脇順三郎氏に」という詩に(第六詩集『めにはさやかに』(1998年刊/書肆山田)に所収)、「ゲンダイシ」をめぐって、次の一節があります。

 「                   詩を書いていますか

            ゲンダイシはどんなふうになりましたか

   (そりゃあもうたいへんなもんです 実験ばやりで試験管の

    中からあぶくのように詩が湧き出しています)

                   それはよかった よかった

   (それでいいんですか)

                                        それでいい それでいいんですよ

   (そうかなあ そういうわけにもいかないんですけどね)    」

 八木は、この詩を、生前に一度もあったことのない西脇と会話する形で書きすすめていますが、「実験ばやりで試験管の中からあぶくのように」湧き出てくる「ゲンダイシ」に強い異和感をもっていたことがわかります。温和で度量の大きそうに見える八木幹夫ですが、「そうかなあ、そういうわけにもいかないんですけどね」とつぶやきながら、詩を実作してきたのではないかと、私は憶測しています。

 

 後ほど、本質において変わらないにせよ、八木の詩がどのように変化してきたのかについて考えたいと思っていますが、多くの識者が称揚する第五詩集『野菜畑のソクラテス』は八木の詩の一つの到達点であり、ある意味で「ゲンダイシ」への回答ではなかったかと受けとめています。

 この現代詩文庫の裏面に、清岡卓行が短く鋭い文章を寄せていて、現代詩の全体状況とそれへの反発のありかを、明晰な言葉で俯瞰したうえで、八木の『野菜畑のソクラテス』を批評しています。

 その前半部を引用してみます。

 「 第二次大戦後活発に甦った現代詩の多くは、やがて状況の変化のなか

  で、現実から少しずつ観念的、政治的、演技的、あるいは美学的に浮き上

  がった。この傾向への底深い反発の中心となったのは、庶民の日常性への

  愛着であろう。」

 この現代詩をめぐるパーステクティブに続き、八木の『野菜畑のソクラテス』について、次のとおり言及しています。

 「 そして、この長くつづく新しい傾向のあるときの緩みに、さらなる新し

  い覚醒の衝撃を与えたものの一つが、八木幹夫の『野菜畑のソクラテス』

  であった。庶民の生活をそれよりもいわば遥かに低姿勢の野菜畑の生態な

  どに重ね、写実と諧謔を交錯させたりして、笑いをともなう高い批評や、

  美をともなう深い瞑想などをもたらしたのである。」

 ですから、清岡は、「八木幹夫はこの詩集によって、現代詩における一つの貴重な位置に立った」と結語しています。

 この清岡の文章は、ホントにそうですねとうなずくしかない的確なものと読みました。清岡の「現実から少しずつ……浮き上がった」という時期、その潮流が主流となった時期とは、八木の20代、30代は重なっているのではないか、そして、それはまた、八木が中学校教師となり、結婚して子供が生まれ自分の家庭をもち社会人として歩んできた時期とオーバーラップしていたのではないかと想像しています。

 少し先走り過ぎましたが、こうした20数年の成熟期間を誠実に生きて、清岡のいう「この長くつづく傾向のあるときの緩み」に出現したのが八木の『野菜畑のソクラテス』であったということになるのでしょうか。そして、多くの識者も、「ゲンダイシ」のもつ弱点というものを突破することのできたモデルとして、なるほどと膝を打ったというわけでしょう。

  

 八木の大学時代の恩師?であろう新倉俊一が、やはり現代詩文庫に「六十年代末の移動祝祭日」というタイトルの短い文章を寄稿しています。学生時代の八木について、以下の記憶を書きとめています。

 「 (前略)八木君は、当時の詩誌を賑わしていた流行の詩風などにはさっぱ

  り見向きもしなかった。その態度は今も変わらない。やがて卒業の時期が

  来て、みなそれぞれの道へ別れていった。八木君も同じセミナーにいたや

  さしい女性を生涯の伴侶として旅立っていった。」

 八木は、流行の詩風に「さっぱり見向きもしなかった」ということなのでしょうか。近くにいた新倉先生ですから、そういうことなのでしょうが、私は、表層ではそうであっても、内面では大きな葛藤や不安と対峙していたのではないかと思っているのです。当時の主潮流が、自分の資質に合わないと思いつつも、これからどのような詩を書いていくのか、書いていけるか、怖れがなかったとはいえないだろうと想像しています。

 とりわけ、八木の詩論・エッセーのトップにおかれた「愛の歌を唄い続けた男、下村康臣」(2003年発表)を読むと、学生時代に出会った同窓の下村は詩を志す仲間であり、友人であったことがわかります。こんな表現が軽々しくてどうしようもないことは、30余年後の下村の死に際して八木がとった行動(手紙を含め)から、容易に想像できます。

 この現代詩文庫の解説(「「私」を覗くとき」)を担当した井坂洋子は、八木と下村の関係について、「推測にすぎないのだけれど」としつつ、次のとおり表現しています。

 「 タイプの異なる詩人下村康臣との濃いつきあいが、八木幹夫という詩人

  を根底から変えることはなかったと思うが、詩や思想の方向を固める鏡像

  となってくれたのではないか。」

 詩の志向において近くにいた下村ですが、八木は、強力な磁場をもつ下村を畏怖すべき友人であり鏡として、自らの歩む道を探しもとめていたのではないか、そして「八木幹夫の詩」をもとめる旅に出発したのではないかと、私にはそう思えてならないのです。

 

 次項では、濃密な幼年、少年、青年時代をへた八木が、今、私たちの思う「八木幹夫の詩」に到達する道程というものを考えてみることにします。

 

◈「軽くてもおもい詩」へ向かって

 結論より、どうでもいいことから、話を始める悪い癖が、私にはあります。

 この現代詩文庫は、前記のとおり全7冊の詩集から詩を集約したものですが、<全篇>を収録できた詩集が二冊あって、第三詩集の『身体詩抄』(1991年刊)と、前項でふれた第五詩集の『野菜畑のソクラテス』(1995年刊)です。この間に第四詩集『秋の雨の日の一方的な会話』(1992年刊)がありますから、立て続けに三冊が上梓されており、各詩篇の書かれた時期は前後しているものもあるかもしれません。

 前者の『身体詩抄』は全21篇、同文庫にして10頁、後者の『野菜畑のソクラテス』は全28篇、23頁です。ひらかなだけのタイトル「め」「け」「かげ」から「はら」「かわ」「からだ」までが並ぶ前者は、前二冊の詩集『さがみがわ』(1983年刊)、『少年時代の耳』(1988年刊)と比べ、一見して、一篇あたりの行数も、一行あたりの字数も、少なくなっています。そして、言葉自体も、相対的に平明なものとなっています。意識して書かれたのは明らかです。

 この『身体詩抄』と、「だいこん」「かぼちゃ」「きゅうり」から「法蓮草」「土」「ポイズンベリー」までのタイトルが並ぶ後者の『野菜畑のソクラテス』は、行数も字数も少し多くなり、かつ詩によってばらつきがあります。語調という点においても、前者の統一性に対し、後者にはバリエーションの多彩さがみられます。

 ここで、申し上げておきたかったのは、この両詩集が題材の統一という制約のもとで、意識して書かれたものであるという点では同じことですが、後者にはよくいえば自在さという特徴が感じられるということです。詩を知らないものが書くことではありませんが、『身体詩抄』でグリップした技法のうえで、もっと自由に鮮やかに踊ってみせた、その間には何か飛躍とか跳躍というものがあったにちがいないと、私は強く感じさせられました。

 『秋の雨の日の一方な会話』のタイトルと同名の詩には、次の三行が唐突におかれています。

 「 ぼくはこのごろ

   ぼくのことを語り出そうという

   勇気を少し持てるようになった   」

 このことは、同詩集の後半で「父」のクロニクルというべき複数の詩篇に結実しているように思いますし、続く『野菜畑のソクラテス』ではさらに自在に展開されており、ある達成というか、「八木幹夫の詩」というものが一つのスタイルを成したといえるのではないでしょうか。

 

 もっと突っこんで論じるべきところでしょうが、この現代詩文庫に「詩という恩寵ー八木幹夫詩集によせて」というタイトルで文章を寄せた小沢信男(1927-)におまかせしたいのです。というのは、これほど説得的な八木幹夫論をとても書けそうにないからです。

 前記の当ブログ(「10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー」)で、小沢による八木幹夫のポルトレについても簡単にふれており、重なるところもありますが、やはり紹介しておきたいのです。

 小沢信男は、1980年代の半ば過ぎでしょうか、辻征夫の要請をうけ、詩人たちの集まりである「余白句会」の宗匠となった方です。その句会の世話人になったのが詩人たちのなかで「一、二の年若」である、でも「一見むしろ年長の貫禄」のあった八木幹夫でした。ですから、句会の宗匠と世話人としても、この時点で出会いから10数年のお付き合いがあったことになります。

 

 小沢は、まず、刊行当時において、八木の全詩業を集約したものである現代詩文庫を読んで、こんな感想を述べています。

 「 初期の二、三冊は出会い以前の作品だけれど、それらもふくめて、一冊

  ごとになにかの扉が、ぐいぐいと目の前にひらけてゆく。そんなふうな快

  感がある。作者のこの足どりを、そのつど目撃してきたのだなぁ、という

  おどろきと、よろこびを、あらためて思いました。」

 私の「飛躍」「跳躍」という受けとめも、この小沢の記す印象に近いものかもしれません。

 そして、「過不足が人を詩人にする」という持論を提起したうえで、「円満具足、小市民の鑑のごとき八木家」であり「円満具足の詩人が八木幹夫」だと形容しつつ、でも「過剰なものがある。ハートが温かすぎる。思いが溢れる。たぶん当人が当惑するほどに」としています。ところが、八木の散文にはわりと正直にそれが現れているが、詩はそうではないと、『身体詩抄』を例に、次のとおり批評しています。 

 「 ところが、その詩をみよ。詩は溢れていない。いや、溢れるものをもの

  の見事に取りおさえている。数行ないし数十行に。たとえば<身体詩抄>

  の各篇の、いきいきと簡潔に完結していることよ。」

 そして、第三詩集以降の各詩集に対し、短いコメントを付していきます。

 印象に残る箇所を紹介すると、第四詩集『秋の雨の日の一方的な会話』のところでは、「八木幹夫の堅実な家庭は、そのまま詩の実験場にほかならないことを。この詩人は、円満具足というスリリングな綱渡りを歩んでいるのではないか」と、「ふいに気がつく」と述べています。

 続く『野菜畑のソクラテス』では、「制限によってこそのびのびとあふれるコツを、自家薬籠中のものとした」とし、「<身体詩抄>の、その「からだ」の扉を開けて、詩人は広野に出たのですね」と、感慨を吐露しています。

 第六詩集『めにはさやかに』(1998年刊)から第七詩集『夏空、そこへ着くまで』(2002年刊)について、「人生五十年。詩が、もうとっくに幸福に完結する青春の詩ではいられない。猥雑な散文的世界を生き抜く日々の堆積があって、そうして現れた<夏空、そこへ着くまで>」だと読んでいます。

 

 最後に、まとめの文章、八木幹夫に限らないのかもしれませんが、次の文章で締めくくっています。

 「 詩を、何十年も書きつづけるということは、辺境へ鍬を打ちこんでゆく

  ことなのだな。青年が、中年へ、壮年へ、そして老年へ、ひたむきにすす

  んでゆくよりない。そのとき詩という表現がもつ制約が、ゆたかな奥行き

  へと転じてゆく。詩の恩寵。

   五歳まで立って歩むことのできなかった八木幹夫に、恩寵がくだって五

  十余年。依ってくだんのごとし。」

 この八木幹夫の足どりを、「余白句会」をいっしょに歩んできたということもあってか、現役最長老の物書きといわれる小沢信男は、八木幹夫の詩の「よき成熟」を、よろこび、そして「ひたむきにすすんでゆくよりない」と励ましています。

 

 八木の詩には、故郷であり、現在も暮らす相模原の風土、父と母の生まれ育った津久井の自然のこと、川のこと、釣りのこと、野菜・果物、魚、虫、鳥、そして家庭のこと、家人や娘、友人、父、母、兄、叔母・従兄弟などの親戚の人びと(生者とはかぎらず死者もいます)、「八木幹夫」の過去と現在において関わり、経験としてきた人・モノ・風景が登場します。

 他者の言葉や詩句や俳句も詩の起点として登場したりもします。たとえば、「我は是れ何者ぞと頭頂より/尻まで探りたれども/探られぬところ 我なり」(一休宗純の言葉)や、「愛されず冬の駱駝を見て帰る」(清水哲男句集『匙洗う人』より)なども注入りで使われています。

 こうした「日常」という経験のベースへ、あるシチュエーションを用意し、そこへ一人の詩人が独自の視線を向けることから、詩が生まれています。

 そのためには、軽口やだじゃれも厭うことなく使って、いわば「詩」だという構えや緊張が少し弛緩した間隙に、核心へと批評の矢を放っているという感じがします。でも、その批評は全否定とか拒絶ではなく、大人としての余裕というか、複眼的、重層的な批評性というのが、「八木幹夫の詩」であり、その人そのものなのだと、私は感じています。

 前記した井坂洋子は、八木の題材との関係について、次の文章で八木の精神のありようを表現しています。

 「 本人を支えるのは本人ひとりではないと、頭ばかりでなく、心で知るこ

  の詩人の詩は、死者を含め、同時にたくさんの人たちが同一地平にいて、

  その織物を、自分のことばで乱暴に裁きたくないという配慮が見える。家

  族や友人、ヨっちゃん、きよこさんなどに対する視線はいたわりに満ちて

  優しい。そして勿論のこと、人ばかりでなく、畑の種をほじくる鳥やミミ

  ズ一匹にも同胞への視線がゆき届いている。」

 

 では、小沢信男の「ひたむきにすすんでゆくよりない」と思い定めた八木幹夫は、<詩の方向>をどこにもとめようとしたのでしょうか、どこに定めようとしたのでしょうか。このような問いがありうるとすれば、「軽くてもおもい詩」ではないだろうかと、私は考えています。

 もとより、現代詩文庫に掲載された20年間にわたるであろう八木の詩を読んで感じたことでもありますが、直接には、姓も生まれ育った土地も同じくする「八木重吉」の生家などを巡った際の八木幹夫の発言から来ています(「山羊散歩 その二/相模原・津久井/八木重吉の産土」(文・構成 中村剛彦)『ミッドナイトプレス・ウェブ』No.5/2013年5月)。

 この山羊散歩では、八木幹夫が、八木重吉(1898-1927)の生家や墓、詩碑をめぐり、彼の魂の足跡を辿っていて、それがレポートされているのです。このなかで、この29歳で亡くなっている八木重吉の詩が60歳を過ぎた八木の心を鷲掴みするのはどうしてかが語られています。

 八木幹夫は、次のように重吉の詩の牽引力というか魅力のありかを語っています。

 「 重吉さんの詩は、先にも述べたように極めて平易に書かれていて、また

  経験を基礎に書かれているけれども、決して人生訓の詩ではないってこと

  ですね。普通の人生の時間軸を超えたものがあるんです。

    《中略》

   重吉さんの詩は、事物とのコレスポンダンス(照応)によって生まれる。

  事物と主体が交感してもはや、主語、述語、といった文法が消えてしまっ

  ているのです。

    《中略》

   重吉さん自身のなかに自然が広がっているんです。そして永遠の時間を

  生きている。そういうところに私たちは引きつけられるんです。このよう

  な詩人はめったにいませんね。」

 そして、平明な表現で奥行き深く、難解なんです」と、締めくくりの発言をしています。

 そうだ、八木幹夫が詩というものの理想形としているのはこういうことではないか、と私は思いました。「平明な表現で奥行き深く、難解」から出てきたのが、「軽くてもおもい」という言葉でした。この「軽くて」と「おもい」に挟まれた「も」は必要かどうか、いささか悩みましたが、残しました。

 こんな短絡的な見取り図は、笑止千万というべきですが、『身体詩抄』から『野菜畑のソクラテス』へと至る試行によって、もともと祖型としてあった「軽くてもおもい詩」が「八木幹夫の詩」の方向として現れてきたのではないのかと、私は理解しておきたいと思っています。

  「山羊散歩」トップページ  2013年5月/『ミッドナイトプレス』No.5

 

◈好きな詩を引用しておきたくて

 以上、読書感想文的な感想を並べてみましたが、詮方のないこと、詩の分かる方が書いたらいいことだ、なんだか恥ずかしくなりました。ここでは、八木幹夫の詩のなかで好きな詩だ、「軽くてもおもい詩」だと感じた詩を、ちょっと短めの詩に限定して、以下の四篇を引用してみることします。

 まずは、第三詩集『身体詩抄』より「ほね」という詩です。

 

      ほね

 

  こじんまりした

  演奏会にでかけていった

  悲しいことが

  あったばかりなので

  きれいな

  音に

  会いたかった

 

  人の良さそうな

  その太ったフルーティストは

  コーヒーブレイクで

  こんなふうにいった

 

  フルートという楽器の原型は 骨ではないか

  という説があるのですよ 骨の髄を食べてい

  る時 ふと 音がする おどろいて  息を 吹

  き込む 済んだ魂の声が 太古の闇にひびく

 

  帰り道

  灰になってしまった

  きみを

  しきりに

  おもった

 最近、手で漢字を書かない私は、本筋から外れて、あれ、「太古」か、「大古」じゃなかったのかと思ったりしてしまいました。小沢のいう八木の過剰な心というか、優しさを感じます。

 

 次は第五詩集『野菜畑のソクラテス』より、「葱」という詩です。

 

     葱

 

  葱はもう永いこと

  脇役を演じて久しい

  

  朝の納豆

  夜の湯豆腐

  蕎麦の薬味

  焼き鳥の肉と肉のあいだ

 

  葱一本で独立すべきときが来ているんだ

  

  ねえ そうだろう

 

  ねぎらいの言葉もきかず

  葱はだまって

  まっすぐに背筋をのばしたままだ

  (土の奥深く白く長い根を隠して)

 清岡のいう「笑いのともなう高い批評」の感じられる一篇です。

 こんな比喩をすると笑われるでしょうか。この詩集を読んでいると、伊藤若冲の「果蔬涅槃図」が浮かんできました。この涅槃図には、どんな野菜や果物が描かれているのかなと調べてみました。88種類もあって、そのうち野菜等の栽培品目は50種類だそうですが、「葱」や「牛蒡」などは描かれていないのです。仏事には「匂いの強い大蒜や韮、などの五辛」が避けられたからではないかと指摘されているとのことです。

 実際に、八木は野菜づくりをされてきたようで、その経験がないと、この野菜涅槃図のような詩集はできなかったことでしょう。

  伊藤若冲「果蔬涅槃図」 水墨画

 続いては、第六詩集『めにはさやかに』から、「野の花」という詩です。

 

    野の花

 

  限りなく猿にちかく

  限りなく人にちかい

  百数十万年前の

  猿人の化石が発見された

  分析してみると

  その人骨もしくは猿骨の周辺には

  さまざまな花粉があったという

  とすれば

  死んだ仲間に向かって

  かれらは

  花を

  手向けたのだ

 

  限りなく人にちかく

  限りなく猿にちかい

  涙を

  ときに

  わたしも流す

 こんな考古学的な発見から想像を飛ばしています。「限りなく人にちかく/限りなく猿にちかい/涙を」、どのような「涙」なのでしょう。再度、清岡の言葉を使わせてもらうと、つい「深い瞑想」へと誘われていきます。

 

 最後は第七詩集『夏空、そこへ着くまで』より、同じタイトルの「白い家」という詩の二つ目、「1999年冬から春へ」という年次が記されています。この長い詩の冒頭の部分です。

 

     白い家

      −一九九九年冬から春へ

 

  夢を持て

  と他人にいおうとする瞬間

  夢を持つのは簡単だが

  夢を砕かれるのはもつと簡単だと

  どこかで気付いている

  十四歳の少年や少女にむかって

  夢について楽観的にはいえない

  その目 その唇 その脚 その腰 その胸

  その肉体全体で

  彼らは夢を実現している

  かつて

  わたしがもっとも手を焼いた

  性の

  はちきれんばかりの若さ

 

  夢を持て

  とは

  わたしにむかっていう言葉だ

        《以下、略》

 八木は、相模原の公立中学校で英語教師を36年間、勤めました。この経験は、ほとんど詩に書いていないとされていますが、このことが感じられる一篇です。八木のことですから、「14歳の少年や少女たち」にも深くコミットされてきたに違いありません。

 最近、『はちどり』という映画をみたのですが、私などからは霧散してしまった記憶の世界をひりひりする映像で描いた作品でした(今年、見た本数が少ない中ですが、ベストワンです)。韓国では「中2病」という言葉があるらしく、まさに微妙な時期ということです。

 そんな中学二年生を「その肉体全体で/彼らは夢を実現している」と、八木は受けとめたのでしょう。

   

  映画『はちどり』チラシ表 キム・ボラ監督/2019年韓国

  中学2年生の主人公ウニ(パク・ジフ)

 

◈おわりにかえて

 かくして、八木幹夫さんという同世代の詩人の作品をある程度まとまった形で読むことができました。私だけではなかなか踏み出せないままだったかもしれません。

 前項で引用した短い詩でも感じていただけるように、平明な言葉が使われていますが、わかりやすいかと問われたらいかがでしょうか、やはり「軽くてもおもい詩」だと、私は読みました。

 八木の詩を、「余白句会」との関係、中でも辻征夫の詩との関係、何よりも、前記した同世代に共通する高度成長によって生じた<自然>や<地域>や<暮らしぶり>の大変貌という時代背景から考えてみること、こうしたやるべきことをやれないままですが、ひとまず区切りをつけることにいたしましょう。

 これから当ブログでも、詩を引用するときに、同世代の詩人である八木幹夫の作品を引用できるようになったことを、八木さんに感謝したいと思います。

 現在も「ひたむき」に詩を書きつづけている詩人八木幹夫に、小沢信男のいう「詩の恩寵」というものを感じています。

 

2020.09.19 Saturday

今、「寛容」ということー渡辺一夫の言葉からー

 うれしいニュース記事を読みました。現在、高校3年生の梅田明日佳さんが小学3年生から続けてきた10年間の「自学ノート」が単行本として出版されたのです(『毎日新聞』夕刊/2020.9.7「新聞は自学の窓」)。書名は『ぼくの『自学ノート』』(2020年7月刊/小学館)といいます。

 私が喜ばしいと言いたくなるのは、NHKドキュメンタリーとして全国放送された「ボクの自学ノート〜7年間の小さな大冒険」(2019年11月放送)をみて、当ブログで取り上げたことがあるからです(2019.12.15「「自学ノート」に励まされてーNHKスペシャル『ボクの自学ノートに〜7年間の小さな大冒険』ー」)。これ以外に何の関係もないのですから、ちょっと大げさなのですが、「明日佳さん、よかったね」そして明日佳さんのお母さんに「おめでとうございます」と申しあげたい気分なのです。

 ブログのタイトルに「励まされて」と入れたのは、ドキュメンタリーを見ていて、このブログはある意味で私にとっての「自学ノート」ではないかとの思いをもったからでもあります。

 

◈発熱してPCR検査を受けると想像するとー小国綾子の記事からー

 急に発熱して、新型コロナウイルスの感染が疑われ、PCR検査を受けるようなことになったらと仮定して、私なら、どんな反応をすることなるかを想像してみようと思います。

 まずは不安になります。そして感染することになった場面を探そうとするでしょうか。つまり犯人探しのようなことをしそうです。と同時に、感染していたら、誰かを感染させたりしていないか怖くなります。家人以外の濃厚接触者があっただろうかと指折りします。現実にはほとんどありませんが、自治会活動の関係などで限られた方と接することもあります。

 だんだんと不安が大きくなり、濃厚接触者が親しい人の場合は、「ごめん、PCR検査を受けることになったけれど、貴方は大丈夫か」と電話しそうです。でも、「親しい人」とはいえない濃厚接触者には、電話することはしないでしょう。というか、できなくて、検査結果を待とうとします。

 では、検査結果が陽性だったら、という仮定はさておき(ちょっと想像が届きません)、陰性だったとしたら、電話をかけた親しい人には報告し、電話しなかった人にはそのままということになるのかなと思っています。

 

 以上のような仮定が現実のものとなった経緯を、毎日新聞の小国綾子記者が「あした元気になあれ」というコラムに書いています(『毎日新聞』9月8日夕刊「コロナ疑惑に学んだこと」)。

 小国は、新型コロナウイルスの「感染者たたき」について、取材相手と話し込んだ翌日に、発熱して医療機関を受診してPCR検査を受けることになりました。そしてこの取材相手に「謝るべき話じゃないと頭で分かってるけど。でも、感染していたら本当にごめんなさい!」とメールしたとあります。

 この過程で、PCR検査の前日、3年の付き合いになるデイケアの女性スタッフから、「結果がどうあれ、そんなのどうでもいい!また一緒に過ごせるのをお待ちしています。」とのメールが入り、「胸を突かれ」、<コロナには誰もが感染しうる。病気や障害は謝るものではない>という信念をもって、「心の病を持つ人びとの居場所で働いている彼女らしい一言だった」と、小国は記しています。

 そして、この言葉の存在もあって「検査結果を待つ数日間、私の心はもう穏やかだった」とし、「検査は陰性だった」ことを小国は報告しています。

 今の社会では、「コロナ感染が「加害・被害」の文脈で語られ、感染者が加害者のようにバッシングされる」という現実があること(すべてではありませんが)を指摘したうえで、小国は記事を次のとおり結んでいます。

 「 「病気より世間が怖い」「職場の感染第1号になりたくないと多くの

  人々が口にせずにいられない社会は、誰にとっても生きづらい。「陽性で

  もいい。早く元気になって」と受け入れ合える社会でありたい。」

 

 小国の記事はよく分かりますし、そのとおりだと思っていますが、私だけでなく他者に対し「結果はどうあれ、そんなのどうでもいい!」という言葉を吐ける人はなかなかいないであろうということも否定できません。ここではむしろ、小国も書くとおり、こうした状況下では、私たちはふつう『ごめん』、『迷惑かけてごめんなさい』という感覚をもっていて、共有しているという厄介さを指摘しておきたいのです。

 このことが、バッシングの土壌としてはたらいている、巻き込まれやすいものとしている、ですから、私たちの誰もがまた、バッシングする立場に立ってしまう、言いすぎであればバッシングを許容する立場に身を置いてしまう可能性をもっていると、私は考えています。

 

◈極端な現象が象徴するものー中村文則の視点からー

 前項の小国の記事にある「感染者が加害者のようにバッシングされる」というような現実を、社会の病理として言葉にしようとした記事を読みました。<鈴木美穂>という書名入り、「作家・中村文則さんと考える」と付された記事です(『毎日新聞』夕刊8月26日付「「帰省警察」に「クラスターフェス」極端すぎませんか?」)。

 今次のコロナ禍において、「自粛警察」「マスク警察」「帰省警察」などの言葉で表現される<個人攻撃社会>というべき現象が生じていることを、どう理解すればいいのかを考えようとしています(一方の、同じく極端な現象である「クラスターフェス」「クラスターデモ」も論じていますが、本稿ではふれないでおきます)。

 

 作家の中村文則は、従前から「日本を覆う不吉な空気」というものを強く意識しており、それがコロナによってさらに「悪化のスピードを加速」させ、「ずっと進んでいた差別の感情」は増大し、「人々は互いに攻撃し合う」ようになっている、と診ているのです。今の感染者バッシングなども「そうしたギスギスした社会を象徴している」というわけです。

 だから、中村は、感染が判明した著名人が謝罪する風潮をよくないと断じています。つまり、「コロナウイルスに感染⇒感染した人が謝罪⇒感染が悪いという印象の植え付け⇒感染者への差別や攻撃を助長⇒人々は怖くて自分の症状を隠して、余計に感染が広がってしまう」、こうした連鎖のサークルが「悪循環の極み」だというのです。

 こうした「悪い方向へ行く社会」を、中村は心理学用語である「公正世界仮説」という概念を用いて説明できるとします。「公正世界仮説」とは「この世界は公正で安全であると思いたい心理」のことで、これが「行き過ぎる」と次のようになると指摘しています。

 「 何か被害が起きた時、それが社会構造や政策のせいだと不安になるの

  で、被害を受けた人に『あなたに落ち度があったのでは?』と思うように

  なる。つまり被害者批判に結びつく。新型コロナは誰もがかかり得る病だ

  とわかっているのに、感情的に感染者側に落ち度があったと思うことで安

  心し、かかった人を攻撃するようになる。」

 いずれにしても、前記した私たちの『ごめん』『迷惑かけてごめんなさい』という感覚自体が悪いわけではありませんが、こうした<行き過ぎた>「公正世界仮説」と結びついたりすると、被害者である感染者という個人を攻撃するという倒錯的な行動に転嫁しやすいという現実を直視しておく必要がありそうです。 

 こうした見方をしている中村は、コロナ終息後の社会を「悲観材料しかない」とみています。長期間にわたり中産階級を分解させ、格差を拡大してきた今の日本社会において、つまり格差社会においては長引くコロナを何とか耐えることは厳しいのではないかというのです。「ますます景気は落ち込み、社会はよどんでいく。差別や格差もこれまで以上に広がり、この『個人攻撃社会』は加速するでしょう」と予見しています。

 以上、中村は、長期的な社会構造の変化が根っ子にあって、いわゆる「分断と格差社会」という「ギスギスした社会」という基底があって、そんな社会が今次のコロナ禍によって覆われたとき、顕在化したのが感染者が加害者のようにバッシングされる<個人攻撃社会>であり、こうした社会的雰囲気の中で「自粛警察」「マイク警察」「帰省警察」なども登場したのだと考えていると、私は理解しました。今風の言葉で表現すると、もともとストレスフルな社会に、コロナというストレスが覆いかぶさったことで、さらに強くなったストレスをスルーないし反転させる反応として<個人攻撃社会>がいよいよ顕在化したということになるでしょうか。 

 現時点において、幸いにも、私の小さな狭い世界でこの<個人攻撃社会>を具体的に経験したり、見聞したりしたとはいえないのですが、中村の「公正世界仮説」に基づく診断を否定することはできません。とりわけ、「格差社会においては長引くコロナを何とか耐えることは難しいのではないか」ということは、私も強く意識していることです。そして、いつものように脳天気な立場かつ安全地帯からの発言という誹りを受けつつですが、深く憂慮しています。

 

 ちょっと補助線を引いてみましょう。

 この「公正世界仮説」は、当ブログでも紹介した「正常性バイアス」という言葉とも親近するニュアンスを感じています(2020.5.26「「解除」という空気感のなかで」)。永田和宏は、この「正常性バイアス」とは、「自分だけは大丈夫だろうと、根拠なく思う性癖である」あるいは「これしきのことで騒ぐなんてみっともないと高をくくる傾向と言ってもよい」とし、「誰もが多かれ少なかれ持っている」ものだと説明します。 

 「コロナには誰もが感染しうる」ことをわかっているのにも関わらず、どうして<行き過ぎた>というべき「公正世界仮説」や「正常性バイヤス」が具現化、顕在化してしまうのか、それは、広い視点、視野をもたせることのできない「分断と格差社会」にあって、いわば「自分だけ」を特別扱いしてしまう心性において共通しているのではないかと、私は理解したいと思っています。

 前者は被害者批判、被害を受けた人を攻撃することに結びつきますし、後者は自分だけは大丈夫と思い込むことにつながっていきます。

 いわば「公正世界」ではない現実の中で「公正世界」をどう求めていくのかという方向に思いや考えが向かうことなく、自分の中に閉じこもる、それはまたその場その時だけの自分を守ることでもあるのですが、こうした社会、世界の反映ではないかと思っています。

 

 もう一つの切り口として、「過激化する正義」という視点があります。

 毎日新聞の大治朋子記者の新著『歪んだ正義』(2020年月刊/毎日新聞社)について、本人へのインタビュー記事からのつまみ食いです(2020.8.24「毎日新聞・大治朋子専門記者に聞く」)。大治は、長く中東の紛争地での宗教対立の取材を続けてきた方であり、この本では、なぜ人は過激な正義にとりつかれ、暴走するのかというテーマが論じられているのだそうです。

 このインタビューのなかに「コロナ禍の自粛警察は「正義の鎧」」という項で、正義の過激化という視点から、「自粛警察」現象をとらえて、語っています。まさに中東の過激化プロセスの方は断片になり、失礼千万ですが、大治は、中東の過激化のプロセスの核を、「人間を突き動かすのは「ストーリー」」であり、「本人はこれでいける」と「大きな悪と戦う正義の聖戦士」というストーリーをつくり、その主人公になろうとする」と言葉にしています。

 そんな大治からみて、「自粛警察」は、次のような現象としてとらえています。大治の発言の全文です。

 「 見せかけのストレス対処法で、最もやっかいなのは正義の顔をした攻撃

  です。正しいことをいっているので周りは批判しにくいですし、本人は周

  りを叱りつけているので、ある意味で周囲からの意見が入りにくい「正義

  の鎧」を着ています。それは人を斬ると同時に、自分を孤立させるもので

  もあります。

   「自粛警察」は自分の正義、絶対的に正しい自分やそのグループと、絶

  対的に間違っている人たちとを、社会を二分して見下して攻撃していくシ

  ステムです。東北大学の大渕憲一名誉教授も、「攻撃しても周りの理解を

  得られるだろうと考え、今のような非常時においては、普通ならやり過ぎ

  と思われることも、歯止めが効かなくなる」と指摘しています。」

 「自粛警察」もまた、「大きな悪と戦う正義の聖戦士」というストーリーを自作し、行動に移しているのでしょうか。

 このことはまた、当ブログでも言及した藤原辰史さんの発言、つまり今の自粛警察が「ナチス時代の私服の民間監視員による相互監視、さらに進めば地域の住民同士による監視や、自分の頭のなかでの自主監視までエスカレートしていった様相」とどこか似ているように感じるという発言にも通じるものがあります(2020.8.23「ピュシスとロゴスの間に生きるという人間という存在にー漫画版『風の谷のナウシカ』を起点とする『コロナ新時代への提言2』をみてー(2・完)」)。

 

 以上のような病理現象の生じる社会の現実を、私たちはどのように直視し、どのような態度で生きるか、それが問われているのでしょう。

 本項の「中村正則と考える」という記事は、最後のところで、次のような安倍政権のコロナ対策への厳しい国民の評価にふれつつ、次の展望を示してもいます。

 「 一連のひどいコロナ対策は個々の命や財産に直結するため、さすがに無

  関心でいられなくなった。この政治への関心の高まりを一過性にとどめな

  いことが大切です。政治の荒廃は社会の荒廃につながる。政治を変えなけ

  れば社会は変わらない。そのことにさらに多くの人が気づくことになれ

  ば、日本の未来はいい方向へ変わっていくと思います。」

 この中村正則の発言として書かれた文章は、正論なのでしょう。でもこの文章を引用しながら、いささか絶望を感じるのは私だけではないでしょう。この記事が毎日新聞の夕刊に掲載されたその日(8月28日)に退陣表明した7年8ヵ月に及ぶ安倍内閣の支持率は反転して上昇し、この安倍内閣を全面的に継承する菅内閣が誕生します。今、多くのメディアは、批判的言辞を抑制し、政治的現実に対し、「視線誘導」の波動を、国民へ同調ないし増幅を求めて降り注いでいます。そして、私たち国民は、<行き過ぎた>「公正世界仮説」のように、ものの見事に「視線誘導」をされている状況なのです。

 絶望することは思うつぼなのでしょう。だから、簡単に絶望などしてはならないのです。政治批判を個人攻撃へと転嫁して済ませてしまう社会と世界という現実を直視することを止めてはなりません。それこそ、前記の『新コロナ時代への提言2』で藤原辰史が最後に発した発言、私たちに一番伝えたいメッセージとしての言葉、「思考停止してはいけない」「思考停止を絶対にしてはいけない」を、自分自身に向けて書きつけておくことにします。

 

 こうした生きづらいギスギスした社会的雰囲気のなかで、「不寛容な時代」という言葉が口をついて出てきます。

 次項では、戦中から戦後直後の時代状況のなかで、「寛容」と「不寛容」という問題を言葉にした渡辺一夫のエッセーについて紹介することにします。

 

◈「人間が機械になる」ということー渡辺一夫のエッセーを読み直してー

 おことわりから始めます。渡辺一夫のエッセーは、書かれてから70年前後の時を経ているものの、現代の人間の、日本の、世界の問題とアクチュアルに通底していることを確信しています。ですが、本稿では、さわりの紹介にとどまるという弁明をしておきたいのです。

 コロナが問題となる以前に、口笛文庫の棚に、なつかしい渡辺一夫という名前を発見して、小冊子の文庫であるトーマス・マン/渡辺一夫『五つの証言』(2017年8月刊/中公文庫)を手に入れていました。やっと先月から読み始めたのですが、ここで論じるほどの読み方はできていない状況なのです。ですから、渡辺の翻訳したトーマス・マンの「五つの証言」(ナチス時代の1930年代に書かれた)の方はあきらめ、本稿に直接関係する渡辺のエッセーからの引用により、次に向けて私自身への問題提起を整理しておくだけになります。

 

 渡辺一夫(1901-75)は学生時代に森有正(1911-76)とともに切実に読んでいた記憶があります。大江健三郎が師として敬愛していて、彼の文章を通じてのことだったか、その点ははっきりしませんが、渡辺の時代と社会と人間を問うた文章から(本丸であるらしいラブレーなどの翻訳書には近づけなかった)、何がしかの影響を受けたことは間違いなさそうです。

 ある方がブログで引用されていた、東大教授としてフランス文学を講じたというだけにとどまらない、渡辺一夫についての適確な紹介文(スーパーニッポニカ)の一部を、再引用しておきます。

 「 ラブレーやエラスムスの翻訳、研究、およびルネサンス・ユマニスム研

  究に画期的業績をあげる一方、太平洋戦争の前後を通じてユマニスムの根

  源に分け入ることによって得られた学識と透徹した批評眼をもって日本社

  会のゆがみを批判した。とくに寛容と平和と絶えざる自己検討の必要を説

  き、狂乱の時代に節操を堅持した知識人として若い世代に深い感銘を与え

  た。」

 

 ここで取り上げるのは、文庫の後半部に「寛容について」として掲載された四つの文章のうちの二つの短いエッセーです。

 ◉「人間は機械になることは避けられないものであろうか?」(1948年)

 ◉「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」(1951年)

 このようなタイトルはちょっとめずらしいもので、二つのエッセーとも「問い」=テーマが直截な疑問形でタイトルとして付けられています。

 前者は極東軍事裁判(東京裁判)の最中かつ米ソ対立の顕在化してきた時期、後者は前年に朝鮮戦争の勃発した翌年という時期、こうした時代状況のもとで書かれたものです。

 私の問題意識は、70年の時を経て、現在も同じ問いの前に立たされていると実感している者として、この問いにどう答えるのか、どう答えうるのかというところにあります。それを渡辺の文章から、探ってみようというわけです。

 渡辺の同時代と比べ、科学技術は、特に生命科学や、コンピーターサイエンスそしてAI(人工知能)という情報科学分野で特記すべき進展をみたのですが、典型的には時と場所を選ばずスマホに見入っている人びとの姿に「人間と機械の関係」における逆さまの関係を、私は感じています。一方、本稿で書いてきたとおり、直接の大規模な戦争という形ではないけれど、ますます「不寛容」が大手をふってのし歩いているような世界の、そして日本の現実とともに、「寛容」という存在の希薄化を、私は感じているのです。 

 こうした実感と渡辺の文章を十分にクロスさせる能力も余裕もありませんが、ともかくも私に残すべき問いを探しておきたいと思っています。

  トーマス・マン/渡辺一夫『五つの証言』 2017年8月刊/中公文庫

  同上の後半部「寛容について」の目次

 まず、前者の「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」の方です。ここで引用する渡辺の思想(人間観、世界観というべきか)というものがあって、後者の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という問いが生じるという関係にあります。

 渡辺は、人間は自分の作ったものの機械になりやすい(「制度」や「思想」も含めて)という現実を受けとめたうえで、それを必然のものとしてしまうことはできない、それに抗するのが研究してきた近代の精神を体現する自分の責任なのだと考えているといえます。

 

 この近代、つまりルネサンスに始まった近代において、「我々の思考行動の主題に「人間」を置いて」くれたことを体現するのは、ユマニスム=ヒューマニズムの精神だとし、次のとおり定義しています。

 「 ヒューマニズムとは、人間の機械化から人間を擁護する人間の思想であ

  る。割り切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って、懸命にその解

  決を求め続ける精神である。」

 とりわけ後段の「割り切れない始末に困る人間性の認知を不断に持って」というのは、「寛容」という他者への態度と直結しているのではないでしょうか。このヒューマニズムの精神を喪失することは制度や思想の機械になることである」と、渡辺は断じています。

 そして、戦後の時代を生きる渡辺には、近代の延長線上にある20世紀において、「人間の微弱が事毎に暴露されるにつれ、人間は苦しまぎれに」、棄て去った神やイデオロギーの機械になろうとする傾向が顕著であり、この傾向は「機械文明による人間性の忘却によって」拍車がかけられつつあるとみています。現代とは、次のようなものかもしれないというのです。

 「 正に近代は、終末の時期に突進していると申せるのかもしれず、「モデ

  ルニスム」の洗礼を受けて、全く「新しい人間」になった人類は、もはや

  己が機械になったことなど考える必要もなく、生れ且つ死に、人生の幸福

  はそこにあるということかもしれない。」

 これが人間解放の結末であり、歴史的必然であるとすれば、自分の主張は「甘い甘い反動的言辞」ともなるだろうと断ったうえで、新しい「ルネサンスの到来の前の苛酷な「中世」とおそらく新しいルネサンスの誕生の犠牲となる巨大な破壊とを呪詛する」のだというのです(なんだか漫画版『風の谷のナウシカ』の世界のようです)。

 そして、次のとおり「歴史的必然」論を否定しています。

 「 このような歴史的必然というものは、非人間的であり、人間を愛し人間

  のためにある一切の思想体系とは矛盾すべきものであるからであり、この

  愚劣な矛盾を避け得るものは、各々の人間であって、この矛盾の中に滑り

  こむのは、機械になった各々の人間に外ならないと思うからである。」

 次は、キリスト教のヒューマナイゼーションに関連した文章なのですが、各々の人間、渡辺自身に向けた励ましというべき責任論でもあります。

 「 自らの作ったものの機械となり奴隷となりやすい人間の弱小さに対する

  反省を、自らも行い他人に教え、ルネサンス期以来の人間の獲得したもの

  に対する責任を闡明する役を買わねばならない。」

 こうした姿勢こそ、渡辺一夫の自分を取りまく「不寛容」な世界への態度であったのでしょう。

 

 このエッセーの最後のところで、T先生の「日本人は皆本質的にニヒリストだよ」という言葉を起点に、次の印象深い文章が刻まれています。

 「 −−宿命とは、我々の意欲するものである。また、更にしばしば、我々

  が意欲し足りないものでもある。

   このロマン・ロランの言葉が正しく理解されない限り、すべてが自業自

  得でけりがつくかもしれないと思う。」

 そして、「私は、この日本的ニヒリズムの機械になるのもいけないと、自分に言いきかせるのである」と、「第二次大戦中、私は恥ずべき消極的傍観者だった」と書く渡辺は、こうしてエッセーを閉じています。

 この?マークの付いたタイトルの「回答」はと探すと、渡辺は明確に答えていないというべきですが、全体として避けられないことだけれど、私は避けるための懸命な努力をすると答えているのではないかと思っています。

 

 さて、もう一つの「寛容は自らを守るために不寛容に対し不寛容になるべきか」という短いエッセーの方です。こちらのタイトルの問いには、「人間が機械になることは避けられないものであろうか」と違い、明確な「回答」を次のとおり記しています。

 「 僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対し

  て不寛容たるべきでない、と。」

 この回答をサンドイッチするように、寛容が不寛容に対して不寛容にならざるを得ないことがあるという事実を指摘したうえで、しかし、だからといって、是認肯定することはできないという立場を、繰りかえし表明しているのです。少し長くなりますが、渡辺の人間観も現れているので、引用しておくことにします。まず、先の「回答」の前には、次の文章がおかれています。

 「 割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる

  寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬようなことがあ

  るであろう。

   しかし、 [㊟筆者が一行に入れました]

  このような場合は、実に情けない悲しい結末であって、これを原則として

  是認肯定する気持ちは僕にはないのである。そのうえ、不寛容に報いるに

  不寛容を以てした結果、双方の人間が逆上し、狂乱して、避けられたかも

  しれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、(以下略)」

 先の「回答」のあと、次の文章が続きます。

 「 悲しい呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になっ

  た例が幾多もあることを、また今後もあるであろうことをも、覚悟はして

  いる。

   しかし、 [㊟上に同じ]

  それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪われた

  人間的事実の発生を阻止するように全力を尽くさねばならないし、こうし

  た事実を論理的にでも否定する人々の数を、一人でも増加せしめねばなら

  ぬと思う心には変わりがない。」

 カール・ホバーの「寛容のパラドックス」、すなわち「無制限の寛容は確実に寛容の消失に導く」、「不寛容を寛容すれば、不寛容が蔓延することを防ぐことはできないし、反対に不寛容を寛容しないと、自らが不寛容であることになってしまう」という非対称な構図を、渡辺がどう意識していたどうかわかりません。でも、少なくとも、このパラドックスを理解しつつ、渡辺は、以上のように明確な態度を示しているのです。

 

 では、どうしてこの結論に至るのかについて、渡辺は、人類の歴史から説き起こしています。個人間の争闘が法の名によって解決されるようになっていることや、嘘をついたり(今やトランプが登場する世界ですが)、殺人をしたりしてはいけないという契約は、「いつの間にか、我々のものになって」いたりすることからすれば(渡辺は彼らしく「人間は進歩するかどうかは、難しい問題であろうが」と書いたりしていますが)、寛容が不寛容に対して不寛容になってならぬという原則も、新しい契約として獲得されなければならないと、渡辺はいいます。不寛容の横行が残るとしても、その方向にすすんでいけるとすればと、次の展望を示しています。

 「 右のような契約が[㊟直前の「新しい契約」のことです]、ほんとうに人間の倫理

  として、しっかりと守られていくに従い、不寛容も必ず薄れていくもので

  あり、全く跡を断つことは、これまた人間的事実として、ないとしても、

  その力は著しく衰えるだろうと僕は思っている。恰も嘘言や殺人が、現在

  においては、日蔭者になっているのと同じように。」

 さらに同じ暴力を用いるとしても、寛容と不寛容の違いについて、次のとおり記しています。

 「 寛容と不寛容とが相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最

  低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから

  終りまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。」

 続けて、次の認識を示しています。

 「 今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、た

  だ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不寛容に対する時、

  常に無力であり、敗れ去るものであるが、それは恰もジャングルのなかで

  人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。」

 ここでは、寛容の武器を「説得と自己反省」としていることに注目しておきましょう。特に「自己反省」ということを、渡辺が明記した趣旨に想像を働かせることが大切です。

 

 ここから渡辺は、今は寛容を説くキリスト教の歴史というものがローマ時代から、中世・ルネサンス時代には決して寛容なものではなかったことを、多くの人名をあげながら説明します。その内容は省略しますが、その検討から「寛容は寛容によってのみ護られるべきであり、決して不寛容によって護らるべきでないという気持ちを強められる」としたうえで、「ただ一つ心配なことは」として、不寛容の方が寛容よりも「はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多い」ということであるとも書いています。続けて、それは「あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように」と、戦争と平和との関係と比喩させています。

 そして、最後のところで、以下の文章を、前エッセーの人間と機械の関係を想起させる「歴史の教訓」として綴り、エッセーを閉じています。

 「 歴史の教訓は数々あろうが、我々人間が常に危険な獣であるが故に、そ

  れを反省し、我々の作ったものの奴隷や機械にならぬよう務めることによ

  り、甫めて、人間の進展も幸福も、より少ない犠牲によって勝ち取られる

  だろうとということも考えられてよい筈である。歴史は繰返す、と言われ

  る。だからこそ、我々は用心せねばならないのである。しかし、歴史は繰

  返すと称して、聖バルトロメオの犠牲を何度も出すべきだと言う人がある

  ならば、またそういう人々の数が多いのであるならば、僕は何も言いたく

  ない。しかし、そんな筈はなかろう。そんな愚劣なことはある筈はなかろ

  う。また、そうであってはならないのである。」

 ここには、渡辺の「不寛容」という「人間的事実」に対する強い怒りとともに、祈りといってもいい感情が表出しています。

 このエッセーには追記があり、(1970)年とある(附記2)には、当時の学生運動が背景にあったのか、「自己批判」について、次の文章を残しています。

 「 「自己批判」を自らせぬ人は「寛容」になり切れないし、「寛容」のな

  んたるかを知らぬ人は「自己批判」を他人に強要する。「自己批判」と

  は、自分でするものであり、他人から強制されるものでもないし、強制す

  るものでもない。」

 ここでは、「寛容の武器」としての「自己反省」を結び付けて理解しておきたいと思っています。

  [左] 渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 1964年8月刊/白水社

  [中] 渡辺一夫『人間と機械など』 1968年3月刊/講談社(思想との対話12)

  [右] 渡辺一夫『寛容について』  1972年1月刊/筑摩叢書

 本来は、ここで前記した小国綾子の、中村文則の、コロナ禍における「生きづらいギスギスした社会的現実」の諸相と、渡辺の「寛容」論を切り結びたいところですが、宿題とさせてもらいます。

 「寛容のパラドックス」という問題は、<デモクラシー><言論の自由><表現の自由><ヘイトスピーチ><SNS><移民・難民問題><テロリズム>、さらにコロナ禍の<監視社会>など、まさに現代の諸課題の前にも立ちはだかっているということができます。

 ここで、申し上げておきたいのは、今こそ「寛容」であることの意味を問い直すことが大切ではないかということです。そして、「寛容」へと向かう姿勢であり、態度というものは、前記した「自己反省」が伴走して初めて成り立つものであろうと思っています。

 それは、「思考停止してはならない」というメッセージと直につながっていると、私は考えています。

 

◈おわりにかえてー9月、喜瀬川にも小さなドラマがー

 それにしても、渡辺一夫の言葉、思想が、今の私にも何がしか残っている、染みついていることを感じて、驚きました。私は書いたことがありませんが、昔の日記を読み返して「こんなこと書いている」と思ったりすることと似ているかもしれません。

 前記した渡辺の「割り切れない始末に困る人間性」という人間観は、直近のブログのタイトルに用いた「ピュシスとロゴスの間に生きる人間」という人間観とも、今の私には何がしかのつながりのようなものが感じられるのです。

 秋雨前線の南下により、窓からは涼しい風が入ってきています。

 

 今次のコロナ禍によって変化したことに、これまでの一人サイクリング、ウォーキングだけでなく、スポーツクラブに通わなくなった家人と二人で歩く時間をもつようになったことがあります。天候やいずれかに用事のある日(これも少なくなりました)を除いて、ほぼ毎日、夕刻に二人で数千歩を歩いています。

 夏以降は日陰を探しながらということで、明姫幹線から喜瀬川の堤防道路を河口にある阿閇(あえ)漁港まで南下し(2.5劼らいか)、折り返して山電播磨町駅の地下通路を通り抜けて戻ってくるのが定番コースとなりました(所要時間70分くらい)。さすがに猛暑から脱したと感じられた日(9/12)に、カメラを持参して歩いたときの写真をアップさせてもらいます。

 とにかく喜瀬川をのぞきこむように歩いています。川の水位は海の干満によって河口から1勸幣紊両緡まで影響を受けますし(月齢はもとより1日という単位でも)、雨が降ったりすると川の様相、容貌はがらりと変化します。潮の満ちるときは、川は逆流しているようです。こうした変化は、川に生きる鳥や魚の活動にも影響を与えています。この夏の間中、私たちはそんな微細な変化を探しながら、歩いていたという実感があります。

 こんなことを書きながらですが、相変わらず鳥や魚の名前を知ろうとしないまま、今日はあそこにいるいない、見える見えない、飛んだ跳んだと言い合ったりしているだけのことなのです。

 

 鳥は、数種類が喜瀬川の住人です。名前のわからないまま、一番大きな鳥は喜瀬川の王様とか女王様とか呼んでいて、そのじっと川面を凝視するような姿が印象的です。それでいて、ついぞ川に首を突っ込んでいる光景はみたことがありません。もう少し小ぶりで真っ白な鳥も定番で、こちらはさかんに水面に嘴を立てていますが、私たちが声をあげたりすると、すぐに反応して飛び立ち、橋の下を低空航行します。

 いずれもサギ科の鳥だと思いますが、この二大定番以外にも、カモ科なのか、足を掻いて驚くほど速く泳ぐ鳥や、鵜なのでしょうか、水中に長時間もぐることのできる真っ黒な鳥もいます。

  喜瀬川の王様・女王様と呼ぶ鳥 [2020.9.12 喜瀬川河口付近で撮影、以下同じ]

  白いサギのような鳥

  カモのような鳥(泳ぐと速いです)

 魚は何種類いるのかよく分かりません。雨や潮の干満によって、水面の透明度が変化して、よく見える日もあれば、なかなか見えにくい日もあります。定番の大型魚は、海水の混じった汽水ということなのでしょうか、そのあたりには数種類いるように見えますが、海の魚として分類されるものかもしれません。圧倒的に多いのはライトグレーのボラ?的な魚です。その動きの変化がもたらす波紋によって、その存在がわかります。

 もちろん、大型魚だけでなく、魚体の感じられないほど小さい魚が凝集した形を維持しつつ、移動している様をよく見かけますし、もう少し大きな魚体が角度によって銀色に光る小魚もいるようです。

 でも、ハイライトは、水面からジャンプした魚に出会うことです。水の音でジャンプが感じられることはよくありますが、その方向を見てもすでに魚体は水に下りたあとが多いのです。ですから、この目で見ることができるのはごく限られています。

 次の写真の2枚目は、魚がジャンプしたタイミングでシャッターを押して撮影できたものです。その魚が三段跳びのように跳ねたからで、ポップ、ステップで気づいてそのあたりにカメラを向けたら、最後のジャンプに間に合ったというわけです。白く写っていますが、腹部だからでしょうか、ホントはこんなに真っ白い魚体を見たことはありません。でも、まあ、確かに跳んでいたのです。

  はっきり見えませんが、ボラ的な魚の群れ(最も多くみられる魚です)

  体長の何倍もの距離をジャンプする魚(後ろの円形の波紋部から跳びました)

 河口の阿閇(あえ)漁港に着きました。漁港は港の中の港で、その外は、さらに南の人工島に囲まれた東播磨港です。いつも定点観測のように港内の水面をしばし眺めることにしています。先ほどの魚のジャンプする姿や、めずらしいエイにもであったりもします。

 9月に入り日没が早くなっているものの、まだ午後6時前、太陽は雲に隠れていて、その雲間からの光が昭和40年代に海岸を埋め立てて建設された製鋼所へと注がれています。

 その場でもう30分ほど我慢していたら、もっとすばらしい夕景に出会えたでしょうが、引き返すのに30分以上要するものですから、暗くなってしまう前にと、私たちはすぐに踵を返しました。

  播磨町の阿閇漁港(漁船とプレジャーボートが係留)

  神戸製鋼所の高炉へ9月の夕陽が降り注ぐ

  同上を阿閇漁港の岸壁に降りて撮影しました

 

2020.09.07 Monday

猛暑の9月にー久保田万太郎の俳句とバリ島の記憶などー

 昨日(9/4)、3ヵ月ぶりの大学病院でした。前回の直後のブログで、大学病院と道一つを隔てた南側、港翔楠中学校の窓には「神戸大学病院の皆様/神戸を救う皆様の力に感謝!/コロナに負けずにがんばりましょう!」のメッセージが貼り出されていることを報告しましたが(2020.6.10「六甲の坂の途中にー「口笛文庫」のたたずまいー」の冒頭)、今もそのままです。3ヵ月前とのちがいは、前回は窓が開けられ、文字が半分しか読めなかったものが、今回は猛暑の中の授業でクーラーが稼働中のためか、メッセージ全文が確認できたところです。

 コロナ禍で病院の受診者が減少し、病院経営を圧迫しているという話をよく聞きますが、少なくとも私の受診する泌尿器科の待合はいつもと変わらぬ混み具合です。病棟と検査棟をつなぐ通路の壁には、バリ島で撮影された写真が展示されていました(普段から市民ギャラリー的に利用)。「大野亜紀子」と署名があり、10年前にバリを旅していて、一人のフランス人から写真の撮り方を教えられ、彼のように撮れるようになりたいと思ってから10年を経て、「思い入れの深いこの場所の写真を遂に展示できることになったことに感謝です」とありました。そして、大野さんは、今回の展示はバリの中でも自分が愛して止まない「ウブド」と「ギリ島」という2ヵ所の写真を集めたのだそうです。

 こうして展示されていた写真をぼんやりと眺めていたら、この病院で手術する一年前の2011年10月に、私も「ウブド」に数日滞在したことがよみがえってきました。ですから、本稿の後半では、ウブドで撮った写真を手元に残ったSDカードからチョイスして掲載させてもらおうと思っています。ちょうど9年前ということですっかり忘れていたのですが、こんなきっかけであの「ウブド」を追体験することになりました。

 

 検査数値はまずまず横ばい、さらに経過観察が続く、というありがたいけれど、どこか宙ぶらりんにされたような気持ちも抱えながら、この日も、神戸の街を1万歩超えで歩きました。まぎれもない熱帯のバリ島ウブドも、こんなに呆れた「猛暑」ではなかったぞと独り言ちながら、ただ生きてあることだけを確かめるように歩いていると、日陰を探して歩行していたはずなのに、だんだん夢遊病者になっていくような感覚がしてきました。

 あ、これって熱中症というもののそばにいるのかなと思い、デパートへ飛び込みました。

 以下には、大野さんの展示写真を撮った写真を、「まだ抜け出せていない」というウブドについての彼女の文章とともにアップしています。

  大野亜紀子のウブド写真  [2020.9.4/神大病院で撮影、以下同じ]

  上の写真に添えられた大野さんの「UBUD」についての文章

  大野さんのウブドの写真

  大野さんのウブドの写真

 

◈思わず笑ってしまうおかしな話ー林家木久扇の言葉ー

 「笑点」を思い浮かべる方もおられることでしょうが、82歳の林家木久扇さんを取材した記事を読みました(2020.9.1「コロナの時代 穏やかに過ごすには」/『毎日新聞』夕刊)。

 高座生活60周年の節目に記念公演を全国32カ所で行う予定がコロナ禍で全てダメになってとてもがっかりしたけれど、木久扇さんはすぐに「パッと切り替えた」と語っています。それは、「東京大空襲(1945年3月)を生き延びた人間」なんで、「生きているだけで得だと心底思っているから、難儀なことが迫ってきても、あまり驚かない」からだと答えています。

 

 今、木久扇さんが通う寄席の楽屋には、「お客さんをあまり笑わせないでください」という張り紙がしてあるということです。他にも「拍手をもらわないでください」と書いてあるものもあります。えっ、ウソでしょといいたくなる張り紙は、落語協会が飛沫感染を防止するために呼びかけている注意だそうで、ホントの話なのです。

 こんなブラックユーモアの世界に、木久扇さんは興味津々で、「コロナ禍で今みんな、ひたむきに一生懸命に生きようとしている」の中で、張り紙のような「おかしなことがいっぱい起きている」から、「ネタ拾いで忙しい毎日」をおくっているのだそうです。

 そして、最近、「転ばなくてもコロナとはこれいかに。感染してないのに新幹線と言うがごとし」という「とんち問答」で客を笑わせているとあります。

 

 この「何でもおもしろがって」という副タイトルが付けられた「宇田川恵」の署名入り記事は、次の文章で締めくくられています。

 「 病も老いもコロナ禍に遭遇した不運も、向き合い方次第で豊かさに変わ

  るかもしれない。」

 

◈「けはいの文学」を読んでー久保田万太郎の俳句ー

 江戸の雰囲気の残る落語の世界に身をおく木久扇さんに続いて、生粋の江戸っ子として「伝統的な江戸言葉」を駆使した(特に小説や劇作)という久保田万太郎(1889-1963)の俳句のことにふれてみようと思います。

 全く門外漢である私が<万太郎の俳句>を取り上げようとしたのは、月刊『図書』の今月号で、「俳人」とキャプションされた恩田侑布子という方の「けはいの文学ー久保田万太郎の俳句」という文章を読んで感じ入ったからです。「感じ入った」というのはいささか大げさになりますが、それほど見事な批評的紹介文だと感じたということです。

 最近、コロナ問題にとらわれていろんな資料なども手さぐりで読んだりしていて、どこか心のささくれのようなものを自覚することがあります。そんな私を、万太郎の俳句が別の世界に連れていってくれたという強い印象が残りました。けれども、最後のところで、今を生きる恩田の批評性が爆発しているとみることもできます。

 

 恩田は、万太郎の俳句を5つの小見出しのもとで、それぞれに自分の惹かれてきた俳句を計13句、それぞれを作句したときの万太郎の年齢を付して紹介しています。それは、万太郎俳句の代表作としてネットで読むことができる句群とほとんど重なっていませんでした。

 ここでは、まず、その小見出しごとに恩田の一文を添えて俳句だけを列記しておくことにします。恩田の言葉の切れ端だけで味わうことは難しいかもしれませんが、そうさせてもらいます。

◉絖(ぬめ)のひかり

 「万太郎はひかりのうつろいをとらえる天性の詩人でした。//季物そのもの

  ではなく、うつろうあたりのけはいを絖のように掬いとっています。」

   鶯に人は落ちめが大事かな        56歳

 

   ふりしきる雨はかなむや櫻餅       33~37歳  

 

   新涼の身にそふ灯影ありにけり      36歳

 

◉短歌的叙情の止揚

 「万太郎の俳句の水脈にはこの短歌的叙情がひそんでいます。//短歌の叙情

  を俳句の冷静さで止揚したしないがあればこそ、王朝由来の叙情を俳句と

  いう定型に注ぎこめたのです。」

   しらぎくの夕影ふくみそめしかな     40歳

   

   双六の賽に雪の気かよいけり       38~45歳

 

   夏じほの音たかく訃のいたりけり     59歳

      ㊟「六世尾上菊五郎の訃、到る」との前書付き

 

◉稚気のままに

 「おとなの俳句の名匠が子ども心を失わなかったのもおもしろいことで

  す。//子どもらしい匂いやかな稚気を持ち続けることもまた、非凡な才

  能でしょう。」

   さびしさは木をつむあそびつもる雪    36歳

 

   時計屋の時計春の夜どれがほんと     48~52歳

 

◉彽佪趣味への反発

 「万太郎は、漱石の「彽佪趣味」や、「ホトトギス」の虚子の「客観写生・

  花鳥諷詠」に反発を感じていました。//彽佪趣味にアンチ近代を装う倒錯

  した近代の知性を見、そこにエリート臭をかぎあてても何もふしぎではな

  かったのです。」

   人情のほろびしおでん煮えにけり     56歳

 

   ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪  62歳

 

◉かげを慕いて

 「万太郎は恋句の名手でもあります。//おぼろに美を感じる感性はモンスー

  ン域のもの。日本の風土を象徴するしめやかな恋です。」

   さる方にさる人すめるおぼろかな     46歳

 

   わが胸にすむ人ひとり冬の海       56歳

 

   たよるとはたよらるるとは芒かな     67歳

 

 恩田は、最後にもう一つ小見出し「文学の沃土から」をおいて、万太郎俳句を総括するとともに、現代とクロスさせようとしています。

 万太郎俳句の源を、恩田は次のように評しています。

 「 万太郎の俳句は絖のふうあいの奥に厳しい文学精神が息づいていまし

  た。彽佪趣味や花鳥諷詠という、禅味俳句の石を終生抱こうとはしません

  でした。//万太郎は俳句という桶から俳句を汲んだのではありません。文

  学の大いなる泉から俳句を汲んだのです。」

 「俳句という桶から俳句を汲んだのでは」ないという恩田の言葉は、とても説得的に、私のように俳句に縁遠い者にも鋭く響きました。それこそ全く知らない恩田の俳句にも通じるものなのかもしれません。

 

 そして、コロナ禍のもとで生きる私たちに向け、「万太郎の俳句は日本語の洗練の極み」と結論づけつつ、次のメッセージを送っています。

 「 近代の個人主義とは根を違える万太郎の俳句は、分断と格差社会の現代

  に新たなひかりを放ちましょう。なぜならそれは最も親密で馴染みふかい

  在所を奪われた人間の望郷の歌であり、感情と古典にしっとりと根ざした

  ものだからです。」

 最後の一文で、恩田は、冒頭においた<鶯に人は落ちめが大事かな>を念頭に、こんな問いを万太郎に発しています。

 「 かれははたして<鶯には落ちめが大事かな>と、つぶやくことをゆる

  してくれるでしょうか。」

 

 この一文をどう解釈することが正当なのか私には分かりません。

 冒頭の句<鶯に人は落ちめが大事かな>を、恩田は「おもしろいと思いながらもいま一つわからなかった」けれど、「足もとからみずからの来し方を低くつぶやいている」万太郎に思い至ったそうです。「文学では早くから檜舞台に立ったものの、家庭生活は不幸だった」万太郎が、「老いの坂を迎えて、落魄の日々をなつかしみ、あわれみ、いたわ」っている姿に、恩田は「鶯の声のあかるみにこころのうるおいが溶けこんでい」ると受けとめているようです。

 ですから、今の心のささくれやすくなる状況のもとにあって、こんな句をつぶやいて、そこに「こころのうるおい」を失くすことなくやっていこうよというメッセージを込めようということかもしれませんね。

 恩田の真意を汲みとれたわけではありませんが、私としては、「本当に大切なものは何か」という問いの前に立たされた人間の集団である<国>というものを思い浮かべました。さらに言えば、成長信仰の囚人である現代の日本社会へのアンチテーゼ、たとえばポストコロナで少し紹介した広井良典の「成熟社会」論的な社会のありよう(「分散型システム」への転換もその一つ)へのメッセージを感じたりもしました(2020.7.3手がかりはどこにーコロナ後の社会のありようをめぐってー」)。

 つまり、それは恩田のいう「分断と格差の現代」へ放つ「新たなひかり」の基軸のようなものを、私はこんなことにも感じているということにほかならないのでしょう。

 さらに最近のブログと絡めていえば、福岡伸一のいう「ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、ピュシスの逆襲を受けた」という事態を前にした私たちのあるべき態度に通じるものであり、恩田は万太郎の「人は落ちめが大事」から「国は落ちめが大事」へと想像を飛ばしたと理解することもできそうです。

 

◈こんなに暑くなかったーバリ島ウブドの残照ー

 バリ島のウブドへ旅したのは、9年前、2011年10月初めのことでした。どうしてバリ島のウブドだったのか、よく覚えていません。

 当ブログでもふれたとおり、海外旅行など想定したことのなかった私たちが、退職後のインターバル期間に(2009年5月)、イタリア旅行したことにより、海外旅行のバリアがなくなり、というより、すっかり「はまってしまった」のです(2017.1.12「曇りのち晴れ・ナポリ(その2)ーシチリア・ナポリ紀行(6・完)ー」の最後のところ)。その後の第二の勤務先は休暇取得の制約は少なかったのですが、それでも長期の休暇ははばかられて、短期で行けるアジア各地への旅行を続けていたのです。今から振りかえると、ベトナムのハノイを皮切りに、台湾の台北、香港、マレーシアのペナン島と続き、その最後の場所がインドネシアのバリ島のウブドだったということになります。

 今の年金生活からすると、あきれた所業というほかありませんが、ありがたいことでしたというのが、いつわりのない感想です。

 

 ウブドは、赤道直下にあるバリ島の内陸部にある「バリ芸能・芸術の中心地」です。そんな言葉に魅かれもしつつ、ホテルの改装記念という理由で3泊も4泊も同額という格安滞在旅行を選択したということを思い出しました。ですから、それまでの3泊ではなく、4泊6日の旅でした。

 何をしていたのか、SDカードを開いてみると、ウブドのホテルへ着いた日の翌日の午前中に、パッケージされた近隣の観光地めぐりに参加した後は、自分たちのペースで動いています。目立つのは、ホテルの無料アクティビティであるライス・バディ・トレッキングと北部へのサイクリングツアー、それに白サギの終結地であるプトゥル村ツアーというものにも参加しています。いずれも参加者は私たちだけでした(ホテルの宿泊客たちはどうしていたのか)。夜には三夜続けて、自分たちでチケットを買ってバリダンスの鑑賞に出かけています。私たちにしては忙しそうですが、それ以外は、広大なホテルの敷地内や、ホテルの車で送迎してくれるウブドの街中をぶらぶらとしていたということになります。

 病院の廊下で出会った大野亜紀子さんの「ウブドには人を虜にして離さない魔力がある」という言葉を私は使うことができませんが、本稿では、テーマごとに、簡単なコメント付きで、写真をアップし。記憶の更新や復活を試みることにします。

 

◉熱帯林とライスフィールド

 ウブドの記憶は、何よりも風土環境です。もちろん自然環境もありますが、巨大な火山からの水を利用して広がる水田の美しさです(東京都の2.5倍ほどの面積のバリ島には、3142mのアグン山や2276mのバトゥカウ山などの高山もそびえています)。ライステラスと呼ばれる棚田へは行けなかったのですが、トレッキングやサイクリングでも見事な水田景観に出会うことができました。年に4回、米を収穫できるということだったと思いますが、地域によって収穫時期がばらばらで、刈り取ったばかりの水田も見られました。

 熱帯林の方は、巨大な樹木で構成されるものは見ていませんが、六甲山とは全く植生の違うヤシなどの熱帯林に守られるように水田が広がっている様子に驚きました。ホテルの敷地の片側もそうなのですが、ウブドは渓谷が多く、その斜面には、濃い緑の熱帯林が広がっていました。

 遠くの山影はバトゥカウ山<10.9> [以下はすべて2011.10.6~9にウブドで撮影したもの]

  これぞライスフィールド<10/9サイクリング>

  熱帯林に囲まれた谷筋のライスフィールド<10/9>

  トレッキング中の尾根道から見た熱帯林<10/7>

  ホテルから見えた熱帯林<10/9>

 

◉水田と水路

 乾季だったせいもあって、そんなに湿度が高くなく、朝夕は涼しく感じたくらいです。例えば、今の関西地方の猛暑より、ずっと過ごしやすい気候であったと記憶しています。

 農民が水田で作業するのは、朝夕に限られているようでした。直射日光の強い真昼に農作業する姿を見たことはありません。水田には、ニワトリやアヒルが放し飼いされていました。

 何より水田の耕作と景観を支えているのは、豊富な水であり、その水の流れる水路です。水田の脇をあふれんばかりに水の流れる光景は、たとえば日本の私の住む地域とは違います。水路にはコンクリートがあまり使われていないようです。そして、バリ・ヒンドゥー教と呼ばれる信仰の篤いバリ島には、街路もそうなのですが、水田脇の畦にも稲の神に捧げる祠があったり、お供えがおかれていたりします。

 街中でも見かけますが、農村部では女性が頭に物を乗せて運ぶ姿によく出会いました。何よりせかせか歩きする人を見たことがなかったなあと思います。

  朝早くホテル近くの水田とニワトリ<10/6>

  トレッキング中に見た豊かな水の流れる水路<10/7>

  神への捧げものなのか?<10/7>

  あぜ道にも花の供え物が<10/7>

  こういう姿をよく見かけました<10/7>

  朝9時頃だったでしょうか<10/7>

 

◉ウブドの街路

 ウブドの街中は、道幅の狭い街路をクルマもバイクも走っていますが、それでもゆったり、のんびりという印象が残っています。朝夕は地元の方も活動していますが、昼間に歩いているのはほぼ外国人観光客です。市場の中に入ったらまた印象が違っていたかもしれませんが、まさに表層をふらふら歩いていたという記憶だけなのです。

 サッカー場の前の小学校では、制服をきちんと着た子どもたちが遊んでいましたし、店の前の街路には、水田のあぜ道に供えられる小さな花の供物がおかれていました。カフェと呼びたいオープンテラスには、店員さんは別にして、外国人観光客、それも白人系の方しか見かけることがありませんでした。近いからでしょうか、どうもオーストラリアの方が多いと聞きました。地元の人といえば、タクシーの客待ちで談笑する男たちの印象が強いのです。そして、夕刻になると、バイクが増え始め、街路に沿った数知れぬ食堂が準備をととのえて、客を待ちます。

 脇道に入ると、いい感じの小路も多くあります。少なくとも私たちの歩いたときは、観光客とすれ違うことはなく、ガムランが聞こえてくることもなく、ごく静かなものでした。何より、これが南国というのでしょうか、存在感のある赤い花が咲いている小路というのが、私の記憶として残っています。

 ウブドの街といっても、市街地はごく限られており、ほんの一歩出ると、田園風景が連続して広がっているのです。

  トレッキングから街中に戻ってきた頃の市場前?<10/7>

  サッカー場の前にある小学校の校庭をのぞくと<10/8>

  モンキー・フォレスト通りの店舗前(供え物を道端に)<10/8>

  私たちも二度訪ねた昼下がりのカフェ「ノマド」<10/9> 

  夕刻のデウ・シタ通り<10/7>

  昼下がりの小路<10/8>

  小路で出会った赤い花<10/8>

 

◉ウブドの彫像

 石の彫像が多い、不勉強でどうしようもありませんが、バリ・ヒンドゥーと関係のある神々の姿なのでしょうか、そんな印象が残っています。

 ウブドの代表的な美術館であるプリ・ルキサン美術館とネカ美術館に足を運んだ写真がありましたが、展示された作品をほとんど撮影していないのです。撮影禁止ではなかったと思いますが、残っていないのです。残っているのは、美術館の中庭で出会った石の彫像を撮った写真なのです。ヒンドゥーなのか土着なのかわかりませんが、石を彫って神にささげるという行為がごく身近にあったことがわかります。衣服を着た姿の彫像も多く、人びとと宗教の距離感が近いということなのでしょうか。

 一番上の写真は、11世紀頃に作られた寺院遺跡であるゴア・ガジャ(洞窟寺院として有名)で撮ったもので、大きな岩の一部に彫られた跡の残る彫像です。これで完成なのか、途中なのか、わかりませんが、緑のコケを身にまとっています。

 一番下は、写真中、唯一の木彫で、プリ・ルキサン美術館内で撮影したものです。古いものではなさそうですが、母子像でしょうか。ちょっとしたユーモアが感じられていい作品です。

  大きな岩に彫られた小さな彫像(ゴア・ガジャの敷地内)<10/6>

  ハスの咲く池の中の彫像(プリ・ルキサン美術館)<10/7>

  笑っているみたいな石の彫像(ネカ美術館の入り口)<10/9>

  門扉の前にも二体の彫像が<10/9>

  珍しい木彫作品(プリ・ルキサン美術館)<10/7> 

 

◉ウブドの伝統舞踊

 ウブドの旅のハイライトは、バリ舞踊でした。旅の行き先をウブドに決めたとき、ホテルが郊外で、街中には自分の足で歩いていけないことがわかりました。普段の旅なら、街中にあるホテルに泊まり、夕刻にはぶらぶらと歩いて飲食の場所を探すのが通例なのです。それができないので、夜はバリダンスの公演に行くことに決めたのです(その前後に街中で食事する)。

 事前に結構勉強したのですが、全くといっていいほど、覚えていません。夜になってホテルに到着する出発日を除き、残る3日間連続して出かけました。手元に残っていたパンフレットによると、1日目はパンチャ・アルタ、2日目はティルタ・サリ、3日目はタマン・カジャ、という3つのグループの公演でした。前2グループは、通常のというべきでしょうか、青銅器打楽器をオーケストラと称されるガムランの調べとともに、数演目のダンスが繰り広げられるものです。3日目は、ケチャで、100人以上の男性によるコーラス「チャ」が打楽器の替わりとなって、ラーマヤナ物語が演じられるものでした。

 さて、感想といっても、ここで言葉にできる自信がありません。同じ観光客相手といっても、イタリアでの観光客相手の演奏会とはちょっと違っていた、強いインパクトをもって迫ってくるものを感じたということはできそうです。やはり圧倒されてある種の興奮状態に高められてゆくパワーを感じていた、その意味で楽しむことができたといえます。

 下記には、3つの公演から2枚ずつ写真をアップしています。一番下の写真は、ケチャの公演が終わったあと、<サンシャン・ジャラン>というトランス・ダンスを馬の人形を持って火の輪の中で演じた踊り手が、トランス状態から醒めたのでしょうか、多くの客が席を離れた後、放心している様子を撮ったものです。

  レゴン・クラトン(パンチャ・アルタ舞踊団)<10/6>

    ガムランの演奏(パンチャ・アルタ舞踊団)<10/6>

  女装の男性によるクビャール・トロンポン(ティルタ・サリ舞踊団)<10/7>

    バロンダンス(ティルタ・サリ舞踊団)<10/7>

  ケチャによるラーマヤナ物語(タマン・カジャ舞踊団)<10/8>

  サンシャン・ジャランを踊った後の放心状態(タマン・カジャ舞踊団)<10/8>

 

◉ホテルのこと

 ホテルは、ウブドの街中からすると、北東の郊外に所在していました。東側は谷になっていて、部屋からは熱帯林の斜面が見えました。毎朝、霧というのか、靄っていましたが、陽が上ると消えてしまいます。

 ホテルの記憶は、木久扇さんのところに登場した「ブラック・ユーモア」ということになります。夜に到着した日は、ホテル内のオープンエアのレストランで夕食をいただくことのできるパッケージとなっていました。私たちは、朝5時起きのフライトで疲れたけれど、割りと涼しいねと言いながら、食事していたのですが、最後にちょっとした事件があったのです。

 「HAPPY HONEY MOON」と記されたケーキが登場したのです。それこそ、えっ、ウソでしょとなって、私たちはそうではない、何かの間違いではないか、他の客と取り違えているのではないか、と説明したつもりです。「旅行社からの連絡が「ハネムーナー」でした」と答えているようでしたが、らちがあきません。結局、仕方ないかとなって、おなか一杯だったのに、少し口に運んだことを覚えています。

 私たちにも、ウソのようなホントの話があったということで、ウブドの旅を終えることとします。

  朝靄にかすむホテル東側斜面の熱帯林<10/8>

  滞在中、私以外に泳いでいる人を見なかったホテルのプール<10/9>  

  「ウソでしょ」のハネムーン・ケーキ<10/5>

 

 以上、バリ島ウブドの写真ばかりが多くなってしまったことになりますが、ここで閉じることにします。それにしても、コロナ禍は、バリ島への観光客を激減させているでしょうし、その影響の深刻さは想像がつかないほどです。こうして訪れたことのあるアジア各地、特に観光依存度の高いペナン島も心配です。香港は別の意味でもさらに深刻な情勢が続いています。

 そう思うと、能天気なブログになってしまいました。

 

 この間、安倍首相の退陣表明もありましたが、新型コロナウイルスの新規感染者数の減少傾向もあって、「異常」の「日常」化がいよいよ進行している気がしています。オオカミ少年化といってもいいのかもしれません。あまり驚かなくなりました。そうでなければやっておれないよということもありますが、これでいいのでしょうか。異常な「日常」はやはり「異常」なのであり、「異常」であることを忘れてしまうことはあってならないと考えています。

 そして、万太郎の俳句「鶯に人は落ちめが大事かな」を大切にしたいと思っています。

 

2020.08.30 Sunday

ちょっといい話に再会してーキャロル・スローンのジャズ・ボーカルー

 前稿の最後に「息切れしてしまいました」と書いたとおりです。本稿では、キャロル・スローンの音楽(ジャズ・ボーカル)について、特になんだかいい話だなあと感じたエピソードを紹介してみようと思っています。

 

 といいながらも、『風の谷のナウシカ』のラストをまだ少し引きずってもいます。もとより息切れは本当ですが、容量オーバーもあって、最後の部分「【追録】なぜナウシカは「約束の神殿」を破壊したのか」は「◉ナウシカは汚濁を排除した世界(庭)を去ることを決意した//◉墓所の主の言葉にナウシカは「否」を答えた」までで終わってしまい、予定していた残りを掲載できなかったのです。その部分「◉ついにナウシカはオーマの光で「人間の卵」破壊した」と「◉最後にナウシカは「生きねば……」という言葉を発した」を、下記に貼り付けさせてもらいました。

 

 赤坂憲雄著『ナウシカ考』の書評で、福岡伸一は、赤坂の結論を「ナウシカの物語は、黙示録ではなく、黙示録のプログラムを最終的に拒絶する反ー黙示録」なのだと受けとめ、そう書いています(福岡伸一「宮崎駿の苦悩や逡巡、透徹を追体験 名作を深く精緻に読み抜く論考」)。

 既に引用紹介しましたが、赤坂自身は川上弘美との対談の最後に、考察をさらに続けていくと発言しています。その発言を再録させてください。

 「 漫画版では、黙示録的な善悪の戦いが決着したわけではありませんね。

  とりあえず、旧人類のプログラミングした未来へのシナリオを破壊しまし

  たが、それをはたして全否定できるのか、ナウシカの選択は正しいのか。

  漫画版は我々に、改めて問いの立て直しを求めています。それをさらに考

  えていきたいとと思います。」

 赤坂は、漫画版の投げかけた謎である「黙示録的な善悪の戦いが決着したわけではない」という立場を表明し、ナウシカの選択が正しいのかそうでないのか、その判断をなお留保していると読むことができます。

 

 福岡が「大きな謎」とした結末について、ネット上で署名・無署名に関係なく、多くの論考が展開されていて、その深度に感心しました。正直なところ、私にはついていけないと情けなくもありました。

 その中で「杉本穂高」の署名入りの記事は、赤坂の『ナウシカ考』とスーザン・ネイピア著『ミヤザキワールド 宮崎駿の光と闇』の二冊を踏まえて手堅く考察していますので、参考のためにアップしておきます(「『風の谷のナウシカ』に表れる宮崎駿の矛盾とは? 『ミヤザキワールド』と『ナウシカ考』、2冊の書籍から考察」)。

 漫画版の結末について、赤坂の「人間の決定的勝利の挫折がむき出しになったものだ」という見方に対し、ネイピアが「過去への罪悪感と未来(少なくとも西洋的なテクノロジーがもたらす未来)への絶望感」と赤坂とは違う言葉で挫折を表現し、ナウシカ物語は「キリスト教的なものと東アジア的なものが対立し、最終的には東アジア的なアニミズムが勝利する物語」であると評していると紹介しています。

 そのうえで、次のとおり自身の見方を提示しています。

 「 漫画版『風の谷のナウシカ』とは西洋への憧れを抱いた宮崎氏が、失望

  や絶望を経て東アジア的アニミズムの思想への転換が如実にあらわれた作

  品であると言える。作中の言葉を借りれば、宮崎氏の思想が「破壊と慈悲

  の混沌」のように入り混じった作品なのではないだろうか。」

 このことはまた、立花隆が、ジブリの鈴木敏夫との対談で指摘する「この世界は簡単には善悪の図式ではまったく割り切れない構造をしている」「清いものと汚いものが混在しているのが、我々の世界である」、この二つのメッセージが『風の谷のナウシカ』7巻から強く発信されていて、その後の宮崎作品にも基調として反映されていると語っていることに通じているといえます。

 

 もう一つだけ、無署名の記事ですが(「漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて」)、ナウシカは葛藤(矛盾を受け入れないといけないとしつつ、墓所の主という矛盾は否定しなければいけない)を受け入れて生きていく生き方を選択した、つまりロゴスの力を象徴する「墓所の主」を批判し、もっと原初的な生命を尊重して生きていくことを決断したと理解する論考があります(福岡の理解に近似しているのでしょう)。

 ニーチェのニヒリズム「自分の生きる価値が何ものかによって与えられることを否定して、生きることそのものを肯定していく生き方」に依拠して、ナウシカは前者の生きることに絶望するような「受動的ニヒリズム」に悩まされていたが、後者の生きることそのものを肯定するような「能動的ニヒリズム」に、最後は墓所の主と対峙するに至って目覚めたのだという見立てなのです。

 このパースペクティブは混濁する私にとって大変に魅力的なものです。漫画版の最後のコマにある「生きねば/……/……」(下記参照)は、「破壊と慈悲の混沌」であるナウシカが葛藤を抱えたままで選択した「生きること」への心の声であったのではないかと、私はひとまず思うことでナウシカから離れることにします。 

 

 以下が、前稿(2020.8.23「ピュシスとロゴスの間で生きる人間という存在にー漫画版「風の谷のナウシカ」を起点とする『コロナ新時代の提言2』をみてー(2・完)」)の最後に続いて掲載できなかった部分です。

 

◉ついにナウシカはオーマの光で「人間の卵」を破壊した

 墓所が破壊され断末魔の状態で、ナウシカとトルキアのヴ王がそれぞれ自問するようにつぶやきます。

  [p211] ナウ「……泣いているのです//卵が死ぬと……」

       ヴ王「たまご…⁉/清浄な世界にもどった時の人間の卵か?」

       ナウ「自分の罪深さにおののきます//私達のように凶暴ではなく

                おだやかでかしこい人間となるはずの卵です」

       ヴ王「そんなものは人間とはいえん……⁉」

  [p212] ヴ王「気に入ったぞ/お前は破壊と慈悲の混沌だ」

  [p212/再掲]  墓所の断末魔

 

◉最後にナウシカは「生きねば……」という言葉を発した

 墓所が破壊されたあと、ヴ王も亡くなり、ナウシカはその娘クシャナと言葉を交わし、出発を呼びかけます。

  [p223] クシャ「それはわたしとあなただけの秘密です//

           生きましょう/すべてをこの星にたくして/共に……」

  [p223]  ナウ「ハイ//さあみんな出発しましょう/どんなに苦しくとも」 

          誰の言葉でもなく(ナウシカなのでしょうが) 

                    「生きねば/……/……」

  [p223/最終のコマ全体]   左下に「おわり /1994.1.28」とあります。

     「クシャナは生涯代王にとどまり、決して王位につかなかった」

 

◈キャロル・スローンのこと知っていますかー心やすらぐ音楽とはー

 キャロル・スローンは1937年生まれのジャズの歌い手であり、今も現役最年長歌手として活躍中だそうです。

 この方のことをブログで書いておこうと思ったのは、今年の夏、その魅力を再発見したからです。というのは、半年前から故障して動かなくなっていたCDプレーヤー一体型のアンプの同型機種を、先月にネットオークションで格安に手に入れることができました。これと並行して、家のあちこちに散在していたCDを一つのラックに集約を図ったのですが、その過程でキャロル・スローンのCDを手に取ることができて長いこと聞いていないことに気づいたのです。

 それから1ヵ月、一番よく聞いていたのが(ただ耳元を流れていたということなのですが)、キャロル・スローンのボーカルなのです。後ほどジャズ歌手の世代論もしたいのですが、1960年代以降に登場した歌い手では、オランダのアン・バートン(1933-89)の次に愛聴していたのが、キャロル・スローンでした。しばらくぶりで聞いて、心地のいい歌に再会できた気分になったのです。

 CDといっても手持ちのたった3枚をとっかえひっかえしていただけことですが、手持ちのLPが6枚あって、そのライナー・ノーツを読んだりもしていて、ちょっといい話に再会できたことも後押ししてくれました。ネットでも登場したりしていることだし、今更ではないかと思いましたが、そんな話に反応したりする私の気分にも関係していますし、軽い気持ちで紹介するのもいいかなという気持ちになったのです。

 

 そんないい話の前に、事前知識として、キャロル・スローンは、1962年に24歳のとき2枚のLPを大手CBSソニーから出してメジャーデビューしますが、その後、14年近くもレコーディングの機会に恵まれず、やっと75年に自費出版の形でLP『SUBWAY TOKENS(サブウェイ・トークンズ)』を出すという長い不遇の時代があった人です。

 そして、ちょっといい話にも関係しますが、日本の熱心なファンたちのプッシュもあって、1977年40歳のときに初来日してから、82年、83年、84年と連続して来日しています。そのときのコンサートとレコーディングが大きな評判を呼んで、そのことがアメリカへ飛び火し、やっとアメリカでも再認識、再評価されて「押しも押されもしない存在」になっていったという珍しい経歴をもつジャズ歌手がキャロル・スローンなのです。

 私がLPとCdを入手してよく聞いていたのは、2000年代の10年余りの期間なのでしょう。だから、同時代に聞いていたのではなくて、キャロルが知る人ぞ知るシンガーと評価されてからのことです。当時の慰めだった寺島靖国などのジャズ本からキャロル・スローンを称揚する情報を導き手として、中古レコード屋さんで探して求めたのでしょう。そうして知ったジャズ歌手は数多かったのですが、その中で、60、70年代に登場した数少ない歌い手が、アン・バートンであり、キャロル・スローンでした。そして、その少し低目の温かいシャウトしない歌声に魅せられたのだと思っています。

 

 当ブログの「音楽」というカテゴリーの記事は11本しかありません。ジャズ歌手はジューン・クリスティ(1925-90)だけです(2016.1.31「再聴・歌と出会う(1)ージューン・クリスティー」)。その記事には、ジャズは学生のころからの大切な音楽だったけれど、ジャズ・ボーカルはずっと後になって聴き始めたということを書いています。そして、その理由めいたことを、「年を重ねて、仕事関係の書類や資料を読むことが毎日の中心となってしまっていた頃」に「50年代に活躍した多くの歌手のスタンダードがささくれ立った心にやすらぎを与えてくれると発見したところから始まっているように思う」と記しているのです。その系譜につながるけれど、もっとコンテンポラリーな感覚をもっていたのが、キャロル・スローンであり、アン・バートンです。

 仕事から離れて久しくなり、いよいよ音楽が遠のいていくように感じている現在からすると、ちょっと気恥しいことを書いているなと思ったりしますが、その時点の記憶を言葉にすると、そういうことだったのでしょう。ともあれ、下記には手持ちのキャロル・スローン名義のCDとLPの画像を並べています。録音時でいえば、1961年から1986年の25年間にわたり、24歳から49歳までのキャロル・スローンだということになります。

  『Out of the blue(アウト・オブ・ブルー)』 1961年録音/62年CBSソニー

  『As Time Goes By(時の過ぎゆくまま)』 1982年4月東京録音

  『バット・ノット・フォー・ミー』 1986年10月ニューヨーク録音

[左上] 『ソフィスケイティッド・レディ』   1977年11月東京録音

[右上] 『キャロル・シングス』      1978年11月ニューヨーク録音

[左下] 『キャロル・スローン・ライヴ ウィズ・ジョー・ピューマ』 1983年アメリカ録音

[右下] 『ア・ナイト・オブ・バラッド』  1984年5月18日東京録音

 ・LPはこの4枚の外、上記『アウト・オブ・ブルー』と下記『サブウェイ・トークン』が手持ち

 

◉ちょっといい話

 ちょっといい話は二つあります。前記の『サブウェイ・トークンズ』(自費出版らしい素っ気ないアルバム・ジャケットですが)というLPのライナーノーツに色川武大と大滝譲司が寄稿していますが、それぞれから一つずつということになります。

   『SUBWAY TOKENS(サブウェイ・トークンズ)』 1975年アメリカ録音

 それで、色川武大(阿佐田哲也)(1929-89)のこと、ご記憶にあるでしょうか。本名と( )内の筆名を使い分けていた作家で、亡くなる直前の『狂人日記』を私は同時代に読んだ記憶があります。何より自伝的小説『麻雀放浪記』で人気を博しました。

 このライナー・ノーツは、「現役のジャズヴォーカルの世界で、好きな歌手を一人だけあげよ、といわれたら私はすぐに、キャロル・スローン、と答えるだろう」との一文から始まっています。

 1977年10月、キャロル・スローンがニューヨーク・ジャズカルテットのシンガー(メインではない)として初来日したとき、アメリカでの過小評価に「怒りに近いものを感じていた」色川は、友人でジャズ狂の大滝譲司と組んで、滞日中の10月16日に「彼女をひと晩招いて、キャロルを聴く小パーティ」を「ごくプライベートに知友を」呼んでひらいたのだそうです。

 「当夜、キャロルのできはすばらしく、というより乗りに乗って、3時間近く、打ち合わせなしに歌いまくってくれた」のです。そして、私たちが差し出すギャラを、「今夜はとても嬉しいからいいよ」と、「どうしても受けとらなかった」とあります。次は「自分で堂々とギャラを受け取れる歌手になっているからね」と言ったのだそうです。

 このパーティに参加した和田誠(1936-2019)は、キャロルの二枚のLPを抱えてきていて、「それを見たキャロルが、あっと声を出すほど嬉しい表情をしたことを覚えている」と、色川は記しています。

 それからのキャロル・スローンは、色川がこのライナー・ノーツを書いた初来日から5年後の1982年にはアメリカでも押しも押されもしない存在になっていたのです。色川は「私もなんだか他人事でなく嬉しい」と、素直に喜びを表現しています。

 

 このライナー・ノーツに、色川が寄せたキャロル・スローンのジャズヴォーカルについての評言を、私には表現できそうもないので引用しておきます。

 「 彼女の唄の大きな特長は、音程のよさ、そして音のひとつひとつを選定

  してくる感覚の鋭さであろう。こんなにソフィステケイテドな歌手を私は

  知らない。彼女は実にユニークで、大胆に原曲を唄い変えるけれども、聴

  くと、あ、この曲に一番ふさわしい衣装を着せているな、と思う。同時に

  テクだけでない、暖かい唄心がみなぎっているのである。」

 そのとおりなのでしょうが、私は「暖かい唄心」に傾斜して、その美質を意識しています。そこは「ひんやりとした唄心」と感じたりもするアン・バートンとの特質の差異を感じているのです。

 

 付録として、和田誠の描いた阿佐田哲也の似顔絵をアップしておきます。昨年亡くなった名イラストレーターの和田には、映画の名せりふを集めた『お楽しみはこれからだ』シリーズでも楽しまさせてもらいましたが、1984年に阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を初めて監督として映画化しています。

  和田誠描画「阿佐田哲也氏」 『和田誠肖像画集 PEOPLE2』(1977年初版)所収

 

◉ちょっといい話

 もう一つは、大滝譲司のライナー・ノーツの方にあるいい話で、『サブウェイ・トークンズ』に収録の二曲がオスカー・ピーターソンに捧げられていますが、そのわけのことです。

 60年代の初め頃、キャロル・スローンがまだ20代前半であった頃ということになりますが、オスカーのトリオがニューヨークのヴィレッジヴァンガードに出演していたとき、ちょうどその向かい側のクラブでキャロルは歌っていました。ある夜、オスカーはその店へやってきて、キャロルに美しいバラード『マイ・シップ』をリスエストしたのだそうです。キャロルは大張り切りで、「メロディーを大フェイクして」唄いました。「終わってオスカーを見ると、まるで無表情」、それからも毎晩やってきて、同じ『マイ・シップ』をリスエストしますが、キャロルの歌唱に相変わらず無表情を崩すことがなかったそうです。キャロルは「私の歌が楽しそうではない彼を見て私は当惑の度が増すばかり」でした。

 ある夜、とうとうキャロルは、この歌に飽き、「もう歌に色づけして尾ひれをつけたりせず、ただ単純にあっさりと」歌いました。するとオスカーは「満面に笑みを浮かべ、暖かい拍手をくれた」のです。 

 このことを、キャロル・スローンは、次のとおり述懐し、このアルバムの曲を捧げたわけを語っています。

 「 後になって私は彼が何を言おうとしていたのかがわかりました。歌手は

  カッコよく歌おうと、すぐ歌をくずし、曲げて歌うが、もっと自分を押さ

  えなければいけない。『マイ・シップ』『カッテイジ・フォー・セール』

  『アイ・ディドント・ノウ・アバウト・ユウ』のようなすばらしい曲を誰

  がメロディーを変えて聴きたいと思うでしょうか。こういう曲は、書かれ

  たそのままで完璧なのです。私は教わったことがキチンと私自身のことに

  なっていることを望み、この曲をオスカーに捧げます。」

 大滝は「日本人のジャズ歌手と称している面々に、耳をかっぽじいて聞いてもらいたい言葉だ」と続けていますが、今はどうなのでしょう。

  『シェークスピア・フェスティバルのオスカー・ピーターソン』 1956年録音

   真ん中がピアノを弾くオスカーピーターソン

 前記の色川のキャロル・スローンのヴォーカルについての評言にもあったとおり、キャロルのフェイクとかスキャットとか、それはそれで楽しくて素晴らしいのですが、私は、単純にあっさりと歌われた唄に「暖かい唄心」が最も感じられて心地いいのです。使い古された比喩で言うと、足し算の洋食と引き算の和食というか、あまり崩さないストレートな歌唱に日本人の嗜好があらわれているのかもしれません。

 文化論に及びそうですが、やめておきましょう。

 

 以上、えっ、どこがいい話なのと言われそうです。ある人にとって「ちょっといい話」は他者にとってどうでもいい話なのです。たとえば家人にとってもそうでしょう。私にとっては、音楽に関係する少しほっこりするようなエピソードなんですと申し上げるしかありません。

 

◉仕方がないことだけれどー50年代と60年代の落差ー

 ジャズ、とりわけジャズ・ヴォーカルの世界は、アメリカの音楽市場では、50年代に最高潮の隆盛期を経て、60年代には急に反転転落し、一気に縮小しました。メインストリームから滑り落ちたジャズ・ヴォーカルは、キャロル・スローンの事例にもあるように、いわゆるレコード会社からアルバムがぱったりと出ないという状況に陥ったのはまちがいなさそうです。

 上記の写真にある1984年に日本で録音された『ア・ナイト・オブ・バラッド』のライナーノーツで、大滝譲司は、音楽市場がロックに占領されてしまったからだとし、キャロル・スローンをはじめ「1960年以降に絶頂期を迎えたジャズ歌手及びジャズ系歌手は不幸だった」と、無念の気持ちを言葉にしています。レコード・ビジネスは、ロックが商売になるとすれば、「音楽の質やすぐれた歌手などより利益に目を向け」たのだというのです。そんな60年代のジャズ・ヴォーカル受難の時代を、次のとおり表現しています。

 「 60年代以前にすでに一家を成していたグレート・ソング・スタイリスト

  たちは、それでもまだ輝かしき時代に築いた名声で活動のチャンスがあっ

  たが、¨若手たち¨にはまさに悪夢と苦難の時代だった。キャロル・スロー

  ンはその代表格といえる。」

 されど、「そんな中でキャロルは自分を見失うことなく自分の道を歩いてきた」と、大滝はキャロル・スローンを称えているのです。

 

 音楽ビジネスというものの影響は、確かに大きなものだったといえます。日本でも同じ傾向であったといえますが、その規模、山の高さが違いますし、アメリカのスタンダードに相当する歌謡曲の全盛期でマイナーであったジャズは影響を受けつつも、マイナーとしてのしぶとさが日本のジャズファンにはあったということができます。そんな目利きのファンたちは、キャロル・スローンを見落としたりしなかったということが、私の心に灯った前記の「ちょっといい話」なのです。

 でも、日本でのキャロル発見が具体化したのは、どん底だった60年代ではなく、やはり持ち直しの兆しのみえた70年代、それも後半であったことを忘れてはなりますまい。そして、外野のそのまた外野の私は、それから30年近くも遅れてキャロル・スローンに出会ったことになります。

 さて、半世紀を経たネット時代の現在、音楽ビジネスの変貌も著しいと想像しますが、どうなのでしょう。旧態依然の私などとはちがって、どんなふうに音楽に、音楽ソースに接することが多くなっているのでしょうか(新譜のレコード・CDショップは成り立たない状況のようです)。現実を知る努力もしようとしないままで、私はすぐに仕方がないことだけれどになってしまいますが、かつてのキャロル・スローンのような才能ある若手の育っていける環境がいよいよ厳しくなっていそうで、そのことを何よりおそれます。

 それにしても、音楽の世界の様変わりは、それはコマーシャルの世界にとどまらないようにみえますが、やはり社会と世界の様変わりと直接関係していると、感じざるをえませんね。

 

 最後に、キャロル・スローンの歌唱を三曲、いずれも音質に問題がありますが、ユーチューブを貼り付けておくことにします。

 一曲目は、1961年録音の前記『アウト・オブ・ブルー』から「The More I See You(ザ・モア・アイ・シー・ユー)」です。24歳のキャロル・スローンは、若い時からキャロル・スローン以外の何者でもなかったというしかありません。

 二曲目は、1982年録音の『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』からタイトル曲の「As Time Goes By(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)」です。この曲を録音した日の1982年8月29日のその夜に、キャロルはイングリッド・バークマンの死を聞いたとあります。最後の語り「Louis,I think this is the the beginning of a beautiful friendship(ルイ、これは美しい友情の始まりだ)」は映画『カサブランカ』からの名セリフです。

 三曲目は、さらに年輪を重ねたキャロル・スローンのライブ映像で、オスカー・ピーターソンがリクエストしていた「My Ship(マイ・シップ)」です。「Never Never Land」に続いて後半にこの曲が登場しますが、オスカーの教えを忘れていないストレートアヘッドな名唄と申せましょう。歌い終えたキャロルの笑顔が物語っています。

 

 ◈「The More I See You(ザ・モア・アイ・シー・ユー)」

           (作詞:マック・ゴードン/作曲:ハリー・ウォーレン)

 

 ◈「As Time Goes By(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)」

           (作詞・作曲:ハーマン・ハプフェルド)

 

 ◈「My Ship(マイ・シップ)」

           (作詞:アイラ・ガーシュイン/作曲:クルト・ワイル)

 

 当ブログと直接関係しませんが、手近に「As Time Goes By」があったものですから

 

 

 

2020.08.23 Sunday

ピュシスとロゴスの間で生きる人間という存在にー漫画版「風の谷のナウシカ」を起点とする『コロナ新時代への提言2』をみてー(2・完)

 もう一度、漫画版『風の谷のナウシカ 7』(1995年1月初版発行/徳間書店アニメージュ・コミックス・ワイド版)を読み直しました。謎だらけであった前回より視界が開けたと書きたいところですが、相変わらず心もたないのです。でも、このナウシカの物語を起点とする『コロナ新時代への提言2』(以下《提言2》と表記)での福岡伸一の発言は、当たり前ですが、福岡によるひとつの見方(福岡のナウシカ論)を反映したものであることを確認できたと感じています。

 後半にあたる本稿では、ひき続き《提言2》での発言を紹介するとともに、その発言の根っ子にあるものを補足する観点から、漫画版の画像と言葉についても追補的なかたちで紹介してみたいと思っています。

  宮崎駿『風の谷のナウシカ』第7巻表紙

 前稿((1))において、ピュシス(自然)とロゴス(言葉・論理)の相克関係にある人間にとって「理想的に語られることの多い「共生」といっても矛盾だらけのものだ」という福岡伸一の言葉を紹介しました。

 そんな福岡の「ウイルスと人間は共に進化し合う関係」との見方を導入として、人類と感染症との関係について「共生」が求められているとする山本太郎長崎大学熱帯医学研究所教授の考え方を、先行する当ブログ(2020.7.23「ディスタンスというものー映画『コロンバス』に寄せてー」)で紹介しました。その際、山本は「共生といっても、もちろん完全な共生ではなく、私たちにとって「心地よいとはいえない妥協の産物としての共生かもしれない」」としていることも付記していました。

 ここでは、その後、山本の『感染症と文明ー共生への道』(2011年6月刊/岩波新書)を斜め読みしましたので、山本が必要だとする「共生」の背景をもう少し補足しておくことします。

 山本は、感染症と人類の関係について「適応の限界」、「過ぎた適応の副作用」という視点を強調します。このようなことは社会文化的適用にもみられるとし、「狩猟がうまく行きすぎると生態系のバランスは崩れる」「牧畜がうまく行きすぎでも牧草地は荒廃する」を例にあげつつ、「病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた「適応」といえなくはないだろうか」と、次のとおり問題を提起しています。

 「 感染症の根絶は、過去に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化す

  る。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性

  がある。」

 そして、ミシシッピー川や黄河の洪水対策としての堤防の嵩上げをどこまでも続けることができないのと同様に、「感染症のない社会をつくろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるかもしれない」と、山本は説明しています。だから「大惨事を保全しないためには、「共生」の考え方が必要になる」とし、次のような結論を述べています。

 「 重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して「心

  地よいとはいえない」妥協の産物で、どんな適応も完全に最終的なもので

  ありえないということを理解することだろう。心地よい適応は、次の悲

  の始まりに過ぎないのだからる」

 以上から、「21世紀には、「共生」に基づく医学や感染症学の構築が求められている」が、そのためのコスト、「共生のコスト」を必要とすると、山本は注意を喚起します。喩えると「ミシシッピ川における堤防建設以前の例年程度の洪水」といったものかもしれないが、現代の医学は、致死性を有する感染症を見過ごすことはできず、もてる手段を用いて対処しようとすることになります。この「共生」と「適応」の方向が相反するという問題について、山本は、「こうした問題に対処するための処方箋を、今の私はもっていない」としたうえで、次の結語で、この新書を締めくくっています。

 「 どちらか一方が正解だとは思えない。適応に完全なものがないように、

  共生もおそらくは「心地よいとはいえない」妥協の産物として、模索され

  なくてはならないものかもしれない。そして、それは、21世紀を生きる私

  たちにとっての大きな挑戦ともなるのである。」

 このような山本の「共生」の捉え方は、《提言2》における福岡の「共生」「共存」についての発言と近しい関係にあると思いませんか。私は、そう考えています。

 

 あえて、一言付け加えると、山本の「共生」と「適応」の関係性は、福岡のピュシスとロゴスの関係性に似ているともいえそうです。山本の「適応」はロゴスの力に負うところが大きいですし、「共生」の方はピュシス、生命といってもいいのでしょうが、その本質から離れていないというイメージなのです。

 

◈『コロナ新時代への提言2』が提起したこと

           −福岡伸一の発言を中心として−(2-2)

 前稿では、福岡の「コロナ問題が問いかけるもの」「ピュシスとロゴスというキーワード、その間にある存在としての人間」、そして伊藤亜紗の「「利他性」の本質」、さらに福岡の「ウイルスの営みの利他性」と、こんな小見出しを付して、二人の発言を紹介しました。

 ここでは、もう一人の提言者である歴史学者・藤原辰史の発言から紹介を始めます。なお、ここでの藤原の発言は、本年4月にアップした当ブログ(「同じ時間を生きている私たち、そして人類ー藤原辰史「パンデミックを生きる指針」などを通して拾遺できた言葉からー(1)(2・完)」)と深く関係していることは申し上げるまでもありません。

 

◉歴史から今のコロナ問題が見えてくるー藤原辰史の発言 

 歴史という視点から、藤原辰史は、スペイン風邪をはじめ感染症との関係で私たち人間の犯してしまいがちな失敗の背景や原因を探っていきます。そして、現下のコロナ問題から見えてくる私たちの「危うさ」を確認し、私たちにとって今、心に刻んでおかなければならないことを指摘しているのです。

 「パンデミックを生きる指針」という広く反響を得た文章の冒頭「人間は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭のぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。私もまた、その傾向を持つ人間のひとりである」というナレーションを受けるように、藤原は、現在のさまざまな経済危機と感染するリスクというなかで国民が不安にかられているような時期には、私たちはとても分かりやすく単純なメッセージを求めてしまうものだといいます。

 例えば、1914年に始まった第一次大戦の終結時期をその年のクリスマス前にはと公式に発言したり(実際は1918年にやっと終結しました)、アジア太平洋戦争時のわが国でも実際は敗退していたのに「転進」という言葉で発表したりするなど、過去の歴史は、非常時において為政者や権力者の発するあいまいな言葉に人々がふとすがってしまいがちであることを教えているというのです。だから、コロナ禍の現在においても、そんなわかりやすくうっとりにするような言葉に警戒を続けていかなければならないのだと警鐘を鳴らします。

 後ほどナチ時代のことに言及するからでしょうか、《提言2》には唐突に「人種主義」という言葉が登場します。人種主義にはいつも甘いメッセージが組み込まれていて、つまり設定として「あなたは正しいのだ」ということが前提になっています。このことが大変に危険なのは、正しいあなたというものを点検する自分が消えてしまうことだといいます。本来は自分たちの頭で考え、これは敗退なんだ、撤退なんだということで、次の新しい方策を考えていかなければならないのだけれど、構造の回転のなかに巻き込まれてしまうというのです。やはり自分の頭で、それを点検し続けなければならないことを教えてくれたのが、今回の新型コロナウイルスなのだと、藤原は発言しています。

  番組内の藤原辰史  峭渋い硫鹽召亡き込まれてしまう/それを点検し続けなければならない」

 もう一つ、コロナ下での問題を、まるで戦争のように勝ち負けの判断をするようになっていないだろうかと、安倍総理、トランプ大統領の映像を背景に、そんな問いを投げかけ、歴史をふりかえると戦争が私たちの間に排除を生んできたと説いています。

 つまり勝ち負けという大きな目標は強い力を発揮し、勝つためならいろんな犠牲を払ったりすることが日常的なことだという状態になります。太平洋戦争時には、勝ちというものに対し、少しでも足を引っ張るような人たちを「非国民」と呼んで決めつけ排除したりしました。今、たとえば魔女狩りのように、感染地域や医療従事者に向かって攻撃的な言葉を集中して投げつけたりすることが起きています。いわゆる自粛警察というもので思い浮かぶのは、ナチ時代の私服の民間監視員による相互監視であり、さらに進めば地域の住民同士による監視や、自分の頭のなかでの自主監視までエスカレートしていった様相と、どこか似ているように感じると、その「危うさ」を指摘しています。

 

 さらに、藤原は、封鎖の2カ月間にわたり毎日の状況を日記を綴って公開を続けた中国の武漢在住の作家である方方の言葉「(文明国家であるあるかどうかの)基準はただ一つしかない/それは弱者に接する態度である」に心打たれたとし、藤原は今のコロナ禍の問題と絡めて語ります。

 パンデミックがどこにしわ寄せがいくのかについて、方方が先の言葉で明らかにしてくれたし、今回、私たちが今日までどこに目をつぶってきたのか、食肉工場での感染拡大やごみ処理問題を例に挙げながら、藤原は私たちが何に支えられているのか、その現実が見えてきたというのです。

 そして、藤原は、コロナ禍で厳しい状況(生きることが苦しくなったり、生活することが困難になったり)に陥った人たちが、そのとき、それでも何とか生きていけそうだと思える社会こそが、文明国家であるはずなのに、いつの間にか物質に囲まれていることが文明国家の基準だと思うようになってしまったといいます。今や、私たちの生活というものが、本当の意味で深いところから問い直されているのではないかと問題提起しているのです。

  番組内に登場した中国の作家である方方の写真 

  「(文明国家であるとかどうかの)基準は/ただ一つしかない/それは弱者に接する態度である」

  番組内の藤原辰史◆

  「文明国家の基準/生きていけそうと思えることか/モノに囲まれていることか」

 前記の方方の武漢日記の日本版は、『武漢日記 封鎖下60日の魂の記録』のタイトルで、来月9月9日に河出書房新社から刊行されるとのことです。中国でははじめはネット上で公開されていましたが、政府当局の検閲によって削除されたり、ネットユーザーによる集中攻撃を受けたりするなか、アカウントを変えたりしながら、不当な攻撃に反発するように日記は続けられたのだそうです。当然のことながらという言葉を使ってしまいますが、中国においては、単行本としての刊行の目処は立っていません。

 なお、前記の「文明国家の基準」についての文章は、2月24日の日記に登場したそうですが、藤原の「パンデミックを生きる指針」からフルバージョンを再引用しておきます。

 「 一つの国が文明国家であるかどうかの基準は、高層ビルが多いとか、ク

  ルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学

  技術が発達しているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントがで

  きるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界を豪遊し、世界中のも

  のを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ

  一つしかない。それは弱者に接する態度である。」

 

 続いて、藤原は、福岡の問いにも答えるような形で、「共生」や「潔癖主義」というある意味で美しい言葉にひそむ闇というものを、ナチ時代の歴史から解剖していきます。

 

◉潔癖主義の闇を乗り越えるためにはー藤原辰史の発言◆

 前稿の最後のところ、「ウイルスの「利他性」」についての福岡の発言に続いて、《提言2》は漫画版『風の谷のナウシカ』の図像を用いつつ(下記はその一部)、「人類と腐海の「共生」は可能なのだろうか」という問いに続いて、「「共生」という美しい言葉で人びとを導き世界を変えた政党、それがナチスだ」というナレーションが流れます。

  番組内の映像  ナウシカは腐海の秘密にふれます

          「きっと腐海そのものがこの世界を浄化するために生まれたのよ」

  番組内の映像  ナウシカは自分も含めた現人類の秘密にも気づきます

          「私たちが汚れそのものだとしたら……」

 藤原は、ナチ時代の1933年には動物保護法、35年には植物保護法が成立し、これを農学者のトップとして先導したのがコンラート・マイヤーだと切り出します。マイヤーの、ナチ政権のめざす農業の理念とは自然との「共生」を重視した減農薬、有機肥料のサスティナブルな方向性のもので、今の私たちの考え方とも近いものであったと、藤原は説明します。

 でも、その農業には動植物との共生は含まれていたけれど、他民族との共生は含まれていなかった、つまり自然との共生をめざす農業であったが、マイヤーの頭の中には、アーリア人以外の人間とは共存できないという人種主義がふつうに共存していたのだと指摘します。こうしてユダヤ人などが虐殺されますが、それがガス殺、つまり消毒に用いる薬品によってガス殺していたわけで、ある何かを象徴しているようだと、藤原は述べています。

 

 この負の歴史が伝えるものは、潔癖主義の恐ろしさだとし、藤原はブロイエルという研究者がナチスのことを「清潔の帝国」と呼び、清潔志向に取りつかれた政治集団だと評したことを紹介します。

 このように無駄とか、邪魔などを一斉に消したくなるということは、20世紀に起こっていたことだとし、人間の人間に対する潔癖なクレンジング、また人間の人間以外の生物に対する潔癖なクレンジングは、両方がリンクして進められてきたのだと、藤原は補足します。

 そして、こうして潔癖主義にみんなが走ってしまう、潔癖主義は、いつも感染しやすいものであり、感染というなかで自分の行動の幅がだんだんと狭まっていくと、藤原は発言し、潔癖主義というものの危険性を指摘しています。

  番組内の藤原辰史 「潔癖主義は感染する」

 続いて「潔癖主義は止められるだろうか」というナレーションを受け、私個人の考えと断ったうえで、福岡は、行きすぎた消毒文化というものはかえって生きている「生命体」としての私たち、ピュシスとしての生命にとって害作用を及ぼすと考えていると語ります。

 そして、もともと私たちは不潔な生物であり、さまざまなものを受け取り、出したりしているのだが、ある種の潔癖主義が暴走しないようにするためにはどうすればいいのでしょうかと、画面ごしに、福岡は藤原に問います。

 

 この福岡の問いに対し、藤原は、現代の農業テクノロジーの問題から語り出します。純粋なモノ、清潔なモノを志向する風潮は農業にも及んであり、培養肉というような屠殺というステップを外してキレイな肉を提供するテクノロジーが展開されはじめており、食べ物や農業もキレイなモノとして私たちが消費するという志向の高まりを指摘します。

 だがしかしと、福岡の人間観に賛意を表しつつ、藤原は、そもそも人間は穢れと清潔を両方持つ存在であり、食べ物に象徴されるように、口から摂取しお尻から出す、口は上水道につながり、お尻は下水道とつながっており、いわば上水と下水の間(はざま)にあるのが人間の定義だと説明します。そして、現在のキレイすぎる人間観を見直していくことが、今回のコロナ問題で私たちが見つけていかなければならない人間観だというのです。

 ですから、人間と人間にしても、人間と自然にしても、そんな簡単に共生できるものではないという地点に立つことが、この悪循環から逃れるポイントだと思いますと、藤原は福岡の問いに答えています。

 

 ここで付言しておくと、前段の「悪循環」とは、上水と下水の間にある、清潔さと穢れを併せ持つ人間存在の現実から乖離して、そのような人間が歯止めなく清潔を、潔癖に求めていくことにより生じてくる状態のことを指していると、私は理解しています。

  番組内の藤原辰史ぁ 崗綽紊伐漆紊隆(はざま)にあるのが人間」

 さて、ここからが《提言2》のハイライトというべき部分になります。

 番組冒頭で、福岡は、コロナ禍の現在、読み直したい本として漫画版『風の谷のナウシカ』をあげ、このナウシカ物語の最大の謎である「ナウシカはなぜ《約束の神殿》を破壊したのか」という問いに答えようとすることで、人類の文明の行く末をとらえ直したいとしていたところです。

 なお、《約束の神殿》とは、前稿においても記載したとおり、宮崎駿自身が《予定調和のユートピア》、福岡が《人類再生のために密かに準備されていた約束の場所》、赤坂が《旧人類のプロミングした未来のシナリオ》と、それぞれ表現しているところです。

 以下では、番組のために漫画版の映像化された図像を前段と後段に分けて掲載し、それぞれのナレーションを紹介したうえで、藤原の最後の発言、そして福岡の総括的な発言を紹介します。

 

 まず、藤原の最後の発言前に5枚の図像を並べ、ナレーションで補足します。前記の《約束の神殿》は漫画版で「墓所」と呼ばれていますが、その前にナウシカがたどり着いた「庭」(この場所も《約束の神殿》の一部だと私は理解しようと思います)の場面ということになります。

 (図)で、ナウシカは相棒である小動物テトを埋葬しています。そこに庭の主が登場して導かれます。そこは理想郷のような場所で((図)、(図))、穢れの一切ない世界でした。でも、ふとナウシカはテトの死を忘れかけている自分におそれおののくのです(図)。この庭は、ナウシカを墓所へ行かせないように足止めするためのワナでした。そこは、死の悲しみや不安すら排除された、穢れのない世界であり、ナウシカは違和感を覚えました。

 (図)で、ナウシカの声、ナレーションの島本須美の声で、図像のセリフ「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては、何も見えないのではないかと……」が流れます。そして、ナレーションで、ナウシカは汚濁を排除した世界では、人は生きられないとさとる、というところで、藤原の発言へ移行します。

 なお、ナウシカはこの庭の主に別れを告げ、墓所へと出発します。 

 番組内の映像[図] ナウシカが死んだテトを埋葬します

  番組内の映像[図] その庭には滅びたはずの木や草がありました

  番組内の映像[図] ナウシカは「安らかな世界」を感じます

  番組内の映像[図]  ナウシカはテトの死を忘れていたことにおののきます

  番組内の映像[図]  ナウシカは庭の主に問います

       「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないかと……」

 藤原は、少なくとも、上記の一連の映像を見て、発言しています。漫画版ナウシカの7巻を読んだのかどうかはわかりませんが、彼なら目を通しているようにも思います。

 これって(上記の映像のこと)今の私たちそのもの、私たち自身、むしろ、決定的に、穢された世界を生きていかざるをえないのであり、どのように折り合りながら、ノイズと共に生き続けていくのかということを考えさせられたと、藤原は反応します。ナウシカのいう、完璧なキレイすぎる生態・調和の世界を私たちが夢見てしまう、このことはものすごくディストピアだと私は思うと続けています。

 そして、自分の違和感に正直になることは(ナウシカのように)、これからの社会を考えていこうとするとき、他者との関係で、葛藤やすれ違いも生じることだろうけれども、そんな対立を対立としてしっかりと受けとめ、そこからヒントを得て、新しい社会においてこんなこともありうるかなというところを見つけていくということではないかとします。 

 最後に、テレビの前の私たちに一番伝えたいというメッセージということでしょうか(ディレクターに促されたのかもしれませんが)、ポツリと、でも確信をもって、藤原は、「思考停止してはいけない」ということ、「思考停止を絶対にしてはいけない」と発言しています。

  番組内の藤原辰史ァ  峪弭幼篁澆靴討呂い韻覆ぁ

 以上、藤原の発言は、パンデミックを生きる私たちに過去の歴史から学ぶべきことを伝えようとしたということになります。それは私たちのパンデミック下における現状のありよう、例えば権威者の言葉に踊らされがちで、相互監視的に排除に同調してしまったり、極端な潔癖主義に一斉に走りそうになってしまう、またそれでいて一番しわ寄せがいく弱者の現実を見ようとはしていない、そんな私たちが忘れてはならないことを、私たちに問うているといえます。そして、こうした現状に抗するためには、自分の頭で点検し続けること、また思考停止しないことというように、私たちがコミットする主体であり続けることを求めていると、私は感じました。

 最後の清潔と穢れの人間観、清浄と汚濁の世界観というべき部分は、《提言2》という番組全体が福岡の考え方を中心軸に、起点と終点、言い換えると、問いと答えという関係として構成されている以上、藤原の発言がわかりにくくなったという感は否めません。でも、それこそ思考停止を拒む藤原の発言は、福岡の発言を補強的に支え、共振する関係にあるといえます。

 

◉ピュシスとロゴスの間にある人間が覚えておかなければならないこと

                        ー福岡伸一の発言ぁ

 最後に《提言2》を締めくくる福岡の総括的な発言は、下記の漫画版からの映像のあと、3分を超えて続きます。

 冒頭で提示した「大きな謎」について、福岡は正面から答えようとしています。もちろん、ある種のカタルシスはありますが、注意しなければならないのは、絶対視してはいけないということです。最後に、福岡は私たちへさらなる問いを投げかけたのだと理解しておいた方がいいのかもしれません。

 

 この漫画版からの映像は、次の言葉とともに流れます。

 (図)でナウシカの向かった墓所が示され、ナレーションは「ナウシカは墓所にたどり着く。そこはかつての人類が汚濁をなくそうと超高度な文明を残した場所。不老不死すら可能とする文明。」

 そして、「ナウシカは墓所の主に問う」というナレーションに続いて、映像のナウシカのセリフがナウシカの声で流れます。ここでも書いておきましょう。「生きることは変わることだ/王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう/腐海も共に生きるだろう……」(図)。「だがお前は変われない/組みこまれた予定があるだけだ/死を否定しているから……」(図)

 墓所の主の声「お前は危険な闇だ/生命は光だ!!」。これに対し、ナウシカ「ちがう/いのちは闇の中のまたたく光だ!!」(図)。

 ナレーションで「そして、ナウシカは墓所を破壊」(図)。

 続けて、「ナウシカの決断をどう捉えるべきなのか。/コロナ新時代を我々はどう生きるべきなのか」と、問いを投げかけます。

  番組内の映像[図] シュアの地にある巨大な墓所

  番組内の映像[図] ナウシカは墓所の主と対峙します 本文参照

  番組内の映像[図] 本文参照

  番組内の映像[図] 本文参照

  番組内の映像[図] 墓所は破壊されます

 この問いに、福岡伸一は、次のように答えます。ここでは、福岡の発言をできるだけ忠実に再現しておくことにします。

 「 私は、「パワーを求めないことが真のパワーだ」ということを、ナウシ

  カが発見したんじゃないかと思いました。

   パワーとは権力や武力のことですが、人間の文明というのは、人間が言

  葉、論理、あるいはある種の虚構をロゴスによって発見したことによって

  発展してきました。ですから、ロゴスの本質は、論理だし、効率性、生産

  性、そしてアルゴリズムによって達成する最適解ですよね、これは、まさ

  に我々、今の社会がAIを使って求めようとしている方向です。そして、こ

  のことが行き着く先は、完全に制御された我々の暮らし、究極のロゴスの

  神殿なわけです。それは、ピュシスとしての我々の生命の在り方を完全

  損なってしまうものでもあるわけです。

   ですから、計画された社会、制御された経済、あるいは完全にコントロ

  ールなものとして成り立っている文明というものを、ナウシカは、本来の

  ピュシスの在り方とは違うということで、これはもう一度やり直すべきで

  はないということで、(墓所を)破壊したと、私は思います。」 

 以上は、前者の「ナウシカの決断をどう捉えるべきなのか」に対する福岡の回答ということになります。

  番組内の福岡伸一ぁ 屮淵Ε轡は本来のピュシスではないと破壊したのではないか」

 「 人間は愚かですから、やはり同じ過ちを繰り返してきましたし、これか

  らも繰り返すと思います。やっぱり歴史から学んだ教訓というものが活か

  されるとすれば、それはですね、ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、

  ピュシスの逆襲を受けたようなことが、過去に何度もあり、そのことをや

  はり思い出して、ロゴス的に行きすぎた制圧のやり方は破綻してピュシス

  があぶり出されてくることを覚えておかなくてはならないことにつながっ

  てくると思います。」

 これが、後者の「コロナ新時代を我々はどう生きるべきなのか」についての福岡の発言ということになります。

  番組内の福岡伸一ァ 屮蹈乾硬に行き過ぎた制圧はピュシスがあぶり出されてくる」

 そして、この最後の福岡の発言とともに《提言2》はエンドとなります。

 エンディングの映像は、漫画版の図像が使われており、ナウシカの声でセリフ私達の生命は風や音のようなもの……/生まれ ひびきあい//消えていく」(図)が静かに語られ、フェイドアウトします。

  番組内の映像  本文参照

 

 お付き合い下さった皆様は、この《提言2》の最後におかれた福岡の総括的発言をどのように読まれましたか。漫画版ナウシカを、特に最終7巻を読まれていない場合は、本稿でも前提となる説明を省いてきたこともあって、「これって何」ということになったかもしれません。この7巻を二回読んだつもりの私ですが、適切な短文で補足して理解を助けることができないのです。

 私自身は、前者の発言を、それこそ逆説的ではありますが、ロゴス、論理上、説得的なものと受けとめました、一方、後者の発言については不充足感というか、最後にもう一度福岡に謎かけされたような思いも残りました。

 

 この福岡の発言、ナウシカの物語への福岡の読みの根底にあるのは、現代の文明への批判です。とりわけ、「アルゴリズムによって達成する最適解」に象徴される「今の社会がAIを使って求めようとする方向」に対する深い懐疑があります。ロゴス一辺倒で走ることを止めない現代文明の行く末へのおそれのようにも感じます。

 そして、福岡の懐疑の根っ子には、番組冒頭の問いである「生命とは何か」「自然とはいったい何か」に対する福岡の到達点というべき、生命観、自然観があり、人間の生命もまた自然の一部を構成する存在であること、つまり人間とはピュシスとロゴスの間で生きる存在、なんとか折り合いながら生きる存在であるという人間観があるといえます。

 ナウシカの世界は、最終戦争から1000年後の世界であり、いわば現代文明の行き着く先ともいうべき、高度に文明化した社会が破壊された後の世界なのです。破滅の危機に立った高度な文明は、人類を含むすべての生命(生物)を遺伝子操作して変えることによって、いつの日か腐海が浄化した後に人類が再生するための核(人間の卵)を墓所として残したというのが物語の構造です。そこには前記のナレーションにある「かつての人類が汚濁をなくそうと超高度な文明を残した場所。不老不死すら可能とする文明」を再生するブログラムが集約された場所でした。

 この「高度に文明化された世界」とは、福岡にとって、繰りかえしますが、現代の人間文明がロゴスの力で向かっていった先にありうる世界であったのです。福岡が懐疑する文明が行き着いた先の世界が、崩壊の危機に直面し、後代に残した、福岡の言葉を使えば《人類再生のために密かに準備されていた約束の場所》すなわち「究極のロゴスの神殿」なのです。

 そして、そのとき再生されるべき人間のビジョンに、ナウシカは、生命のある人間を発見できずに生命を喪失した人間のようなものをみたのだといえます。ですから、この墓所の謎に直面したナウシカは、福岡の言葉でいえば「本来のピュシスの在り方と違うということで」、墓所のブログラムによる再生を否定し(「もう一度やり直すべきではない」)、墓所を破壊したと、福岡は解釈した、読み解いた、言葉が軽いのであれば、自らの生命観、自然観、人間観と深く共鳴するものとして、「ナウシカの決断」を受けとめたということができます。

 これは前者への福岡の回答ですが、それはまた、ぐるっと一回りして、冒頭の「生命とは何か」「自然とは何か」という地点に戻ってくるということもできます。

 

 いたずらに言葉を重ねてしまいました。

 後者、すなわち「コロナ新時代を我々はどう生きるべきか」についての福岡の発言は、不充足感があると書きましたが、それは「ロゴス的に走りすぎたことが破綻して、ピュシスの逆襲を受けたようなことが、過去に何度もあり」という具体事例について、確信がもてないからです。

 例えば、藤原の発言にあったナチスによるユダヤ人等の虐殺とか、人間の諸活動を起因とする地球温暖化のとどまることを知らない進行だとか、人間のコントロールできない原子力利用の結果としての福島原発の事故とか、いろいろと想定できますし、カタカナ表記のヒロシマ、ナガサキもそうかもしれませんが、どうなのでしょうか。番組全体からすると、理解できるはずだということになりますが、具体の事例に言及しなかったことは(福岡は言及したが、番組の構成上、カットされたということかもしれません)、少し不親切ではなかったかと、私は思いました。

 そしてまた、では私たちはどう生きるべきかについて、福岡は十分な言葉を与えることのないままで締めくくったのではないかという不充足感もありました。でも、これはむしろ、福岡が、《提言2》が、現下のパンデミック(コロナ新時代)を生きる我々に対し、ロゴスの力によって成り立っている現代の文明の行く末について、本当にこれでいいのでしょうかと謎かけ、というか問題提起したのだと考えることもできます。

 私はそう受けとめることにしたいと思います。

 

 もう一つだけ、言葉遊びになるかもしれませんが、付記しておきます。

 「〇〇すぎた(過ぎた)」という言葉が、福岡と藤原の発言に頻発しています。それだけでなく本稿の最初に記した山本太郎長崎大教授も「共生」との関係で「適応」に関して使っています。

 福岡の最後の発言には「ロゴス的に走りすぎた」「ロゴス的に行きすぎた制圧」、そして藤原への質問にも「行きすぎた消毒文化」と表現されていました。藤原には「完璧なキレイすぎる生態・調和の世界」「現在のキレイすぎる人間観」もありました。山本には「過ぎた適応」として「うまく行きすぎた」が使われています。

 ここで申し上げておきたいのは、この「〇〇すぎた(過ぎた)」は、あるべき加減を超えたとか、極端とかということになりますが、それは「共生」「共存」という状態にとって最大の難関になるということです。藤原の「潔癖主義の闇という問題」(「潔癖すぎる」などといいますが)、福岡の「ピュシスとしての生命という問題」において、また山本の「感染症との共生という問題」において、「〇〇すぎる」状態はその実現を阻む方向性だということです。

 福岡が述べているとおり共生は矛盾だらけの困難なものですが、当ブログでも引用した山本の「私たちヒトは、微生物との複雑な混合物以外のなにものでもないのかもしれない。そうした「私」が、同じような複雑なマクロ(自然)の生態系に守られて生きている(生かされている)。それが、人の存在なのであろう」という地点に立つことが、「〇〇すぎた」ことに陥らないようにするキーではないか、そして心地よいとはいえない妥協の産物である「共生」への道ではないかと、私は考えています。

 人間は人間だけの世界で生きることができないのですから(地球上に人間だけの世界は想定できない)、完璧に消毒されたキレイな世界で生命は生命たりえないと、私も思っています。

 

◈あわりにならないけれど

 すいません。息切れしてしまいました。漫画版のナウシカを補足的に紹介するなかで、《提言2》の発言を、もっと掘り下げようと思ったのですが、やはり私には無理でした。

 いずれにしても、福岡伸一の問いのおかげで、漫画版『風の谷のナウシカ』の世界に初めて少しふれることができたことを感謝しています。

 

【追録】なぜナウシカは「約束の神殿」を破壊したのか

            ー『風の谷のナウシカ』7巻から少し補足してー

 前記のように、説明抜きですが、ナウシカの7巻から気になった画像を拾遺し、《提言2》で使われた映像の前後に並べています。なお、7巻の掲載ページ数を付記しています。

ナウシカは汚濁を排除した世界(庭)を去ることを決意した

  [p130/再掲] そして「永い間、疑問でした」と庭の主に問います。

  [p132/再掲] ナウシカは自分の生命観を言葉にします。

         このページが《提言2》のエンディングで使われたものです。  

     [p132] 生態系も生命も作り変えられた事実に戦慄します。

     [p133] ナウシカは真実を確かめようと墓所へ行こうとします。

      「この庭は墓所の貯蔵庫です……/中心ではありません」

     [p172] ナウシカは墓所への途中、自分の生命観を再確認し、「ちがう」と叫びます。

 

墓所の主の言葉にナウシカは「否」と答えた

      [p195] ナウシカは、墓所の主と対峙します。

      墓所の主は、今は永い浄化の時で、やがて再生の時が来ると語ります。 

     [p196] 墓所の主は「世界の再建に力を貸してくれ」とナウシカに呼びかけます。

     [p196] 墓所の主の呼びかけに、ナウシカは「否!!」と拒絶します。

     [p198] ナウシカは「あくまであざむくのか」と迫ります。

      「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ

       /生命は生命の力で生きている」

      [p198/再掲] 《提言2》にも登場する図像が2枚続きます。

     [p198/再掲] ナウシカは墓所の主に真実を語れと迫ります。

     [p199] 墓所の主は「旧世界の墓標であり、同時に新しい世界への希望だ」と説きます。

     [p200] ナウシカは、墓所を作った人達が「清浄と汚濁こそ生命だということに」を

      なぜ気づかなかったのだろうと自問します。

    [p201] 墓所の主は「娘よ、お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるにまかせるというか?」

      とナウシカに迫ります。

     [p201/再掲] 「人類はわたしなしでは滅びる」「それは虚無だ」と言う墓所の主に対し、

         ナウシカは「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」と返します。

      [p202] ナウシカは「すべては闇から生まれ闇に帰る」「お前達も

       闇に帰るがよい!!」と言い放ちます。

                  【終:(1)へ/(2・完)】

 

2020.08.12 Wednesday

ピュシスとロゴスの間で生きる人間という存在にー漫画版「風の谷のナウシカ」を起点とする『コロナ新時代への提言2』をみてー(1)

 アツいアツいと詮方もないことを口に出して、さらに暑さがつのってしまう今日この頃です。<立秋>というほど季節外れの、実感のないことばはないと文句を言ってみてもはじまりません。

 濃い緑ばかりが目立つ大中遺跡公園で、ただひとつサルスベリの花が差し色となっています。そして、県立考古博物館南の狐狸ヶ池には、ふつうのスイレンのそばにもっと大きな円形の葉が浮かんでいます。

  サルスベリの花(大中遺跡公園内) [2020.7.29撮影、次も同じ]

  スイレンのそばに浮かんだ大きな円の緑葉(播磨町狐狸ヶ池) 

◈「見えない政治」という現実を前にー赤坂憲雄の手紙ー

 最初から、ちょっと重苦しくなりそうなことを紹介します。

 月刊PR誌『図書』で連載中の赤坂憲雄と藤原辰史の往復書簡が、8月号で13回目を迎えました。もとより公表を前提とした文章なのですが、親しみをもつ同士の手紙というだけで、その時一番心に引っかかっていることが心の高ぶりとともに素直に吐露されていて、興味深く読んでいます。

 前月7月号は、赤坂から藤原への手紙で、「見えない政治に抗うために」というタイトルでした。民俗学の赤坂は(といってもその枠にとどまらないが)、東北をフィールドとし、2011年の東日本大震災、福島原発事故の後、とりわけ福島に関わってきた方です。そして、コロナという災禍のなかで「見えない棄民政策が推し進められている」ことに、福島をめぐる一連の政治のありようと重ね合わせ、「この国の政治の基準線」になっていやしないのかと、「珍しく怒りに震えています」と書いています。

 赤坂は、震災後の福島の収められ方、つまり「難民から棄民へと、見えない政治のテーマはじつに巧妙に深められ浸透していった」という経験から、「見えない政治」を次のとおり定義的に表現しています。

 「 弱き者たちを棄てる、いたずらに時間をかけて疲弊させ曖昧にする、分

  断と対立を網の目のように張り巡らす、データを改竄し隠蔽する、被害を

  最小化し、被害者を不可視化する、そして、ついにだれ一人として責任だ

  けは取らない……。」

 この「見えない政治」は、水俣で時間をかけて作られたもので、「水俣から福島へ、そしてコロナ禍にあえぐ日本へ」と、まちがいなく繋がっているとし、赤坂は「なんと洗練されたマツリゴトの作法、いや手練手管であることか」と怒っているのです。

 この赤坂に応答した8月号の藤原の手紙には、次の一節があります。

 「 いつの時代も、「なかったことにする」権力は、「まあまあそこまでア

  ツくならなくても」という超越者のポーズを持ち出し、「抗い」を「暴

  動」に、「抵抗者」を「暴徒」に塗り替え、それを鎮圧していきます。カ

  ロリン・エムケが『憎しみに抗って』で述べているように、差別は、差別

  する側が毎日「憎しみ」を保つエネルギーを持ち得ないので構造化されて

  ゆく。」

 

 こうした赤坂、そして藤原の厳しい見方を、私は否定することはできないのです。社会の一員として私自身も共犯関係にあると自覚せざるを得ないのです。だから、ここでメモしておくことにしました。

 さらに、コロナは始まったばかりであり、「巧妙に身をひそめながら、あらたな意匠をまとった優生思想が顕われる気配にも、注意を怠るわけにはいきません」とも、赤坂は指摘しています。このような時期にもかかわらず、国会が閉じられたままで、最高責任者の顔が見えない状況は、いうまでもなく、「いたずらに時間をかけて疲弊させ曖昧にする」作法の一つなのです。

 では、こんな「社会的に強い上層の人々を露わに守ろうとする場面に次から次へと出喰わす」、こんな臆面もない政治の現実を前に、どうすればいいのか。赤坂は「あらたな抵抗の作法を、多様なかたちで組織してゆくしかありません」、「それぞれのフィールドからの思索だけが、将来に繋がってゆく糧になる」とし、次の予感を書きつけています。

 「 いずれ、東北というフィールドから、コロナ以後の社会に向けて動きだ

  すとき、じかに地域が世界へ繋がってゆくための知の作法や生き方を創ら

  ねばならない、それは可能だ、そんな予感だけはすでに、そこにありま

  す。」

 そんな予感などもてない私はどうすればいいのか。「見えない政治」に慣れて麻痺してしまわないこと、共犯関係にあることの自覚を忘れないこと、そして思考停止にならないように努めることしか残されていないようです。

 

◈『風の谷のナウシカ』を起点としてー『コロナ新時代への提言2』ー 

 本稿では、NHKBS1で8月1日に放送された『コロナ新時代への提言2』(8月13日再放送)(以下《提言2》と表記)を取り上げます。

 生物学者・福岡伸一、歴史学者・藤原辰史、そして美学者・伊藤亜紗という3人の識者が発言し、問題を提起しています。これを論じたいと思ったのは、当ブログでコロナに言及したさいに、ウイルスの本質、人間とウイルスの関係についてのコメントをごく簡単に紹介していましたが、福岡伸一は、この番組でその基底にあった生命観、自然観、それはとりもなおさず人間観、文明観でもあるところの考え方(思想というべきでしょうか)を吐露しており、その発言に大きな刺激をうけたからです。そして、どこまで理解できているのか心もたないけれど、私の共振のありかというものを探ってみたいからでもあります。

 福岡伸一に言及した当ブログは、以下のとおり。

  ◦2020.4.30「単純な生活ということ

            ーウイルスから行動変容とヴェネツィアなどー

  ◦2020.7.3「手がかりはどこに

                ーコロナ後の社会のありようをめぐってー 

  『コロナ新時代への提言2』の冒頭 2020.8.1放送/NHKBS1

 本論に入る前に言及しておきたいのは、この番組が宮崎駿監督による漫画版『風の谷のナウシカ』を起点とすることで成り立っているという点です。NHKの番組紹介をコンパクトにして要約すると以下のとおりです。

 「 『風の谷のナウシカ』のマスク姿の人々や猛毒をまきちらす腐海の描写

  は、コロナ危機に直面する現在の人類と符合する。3人の識者が、壮大な

  漫画版『ナウシカ』で描かれた数々の謎をひもときながら、コロナ後の世

  界や人間の行方について語る。文明化と自然との関係、潔癖主義や共生の

  もたらした悲劇、そして、負の歴史を繰りかえさないために人類が取るべ

  き選択とは?」

 このブログを読んでいただいている方は、映画『風の谷のナウシカ』を映画館でみていなくともテレビでみたことがあるのではないでしょうか。私もその一人で、スケールの大きいアニメーションが登場したなあと思いはしましたが、それ以上ではありませんでしたし、漫画版の存在も知りませんでした。

 漫画版は1982年2月から『アニメージュ』で連載が開始され、1年が経過したところで映画化のために一時中断し(映画版は1984年制作)、その後再開されて断続的に書き継がれ、1994年3月号で完結したものだそうです。今はこの足かけ10年に及ぶ漫画版は、全7巻にまとめられて出版されています。つまり、映画版はごく初期までの漫画版(全7巻でいうと1、2巻まで)がベースとなっており(そして、一種のハッピーエンドで終わります)、漫画版の方はそうではなくそこからまたナウシカが長い過酷な旅に出て予想もされない結末を迎えるのです。ウィキによると、宮崎駿は次のように述懐しているとのことです。

 「 作品の出発点になっている自分の考えを、自分で検証することになっ

  て、後半はこれはダメだという所に何度も突き当たらざるを得ないことの

  連続だったという。予定調和なユートピアを否定することになり、ぐちゃ

  ぐちゃになってしまったとも語る。体力的にも能力的に時間的にも限界

  で、何の喜びもないまま終わって、完結していない作品だと説明してい

  る。」

 この「予定調和なユートピアを否定する」ことは、この番組のカギともなっていますので、ご留意をお願いします。

  宮崎駿『風の谷のナウシカ』第2巻表紙

 このように宮崎本人は否定的な自己評価をしていますが、世評はとても高いもので、今も論じられています。前出の赤坂憲雄は昨年『ナウシカ考』(2019年11月刊/岩波書店)を上梓しています(私は読んでいません)。岩波の紹介には「多くの人に愛読されてきたこのマンガを、20余年の考察のもと、一篇の思想の書として徹底的に読み解く」とあります。

 川上弘美との対談で(「漫画版『風の谷のナウシカ』を赤坂憲雄、川上弘美が考察する」)、赤坂は、「84年に公開された映画では「エコロジーの戦士」と語られたナウシカですが、宮崎さんは漫画版で、そうしたナウシカ像をどんどん壊して、疾走していきます」と語っています。そして、「火の7日間戦争」(最終戦争)から1000年後のナウシカの世界は、高度に文明化した社会が破壊された世界で生態系そのものが変えられており、こんな「すべてが変えられている」ところからしか、出発できないという問いが突きつきられているとし、前記の「予定調和なユートピアを否定する」とも関係する、次のような発言をしています。

 「 漫画版では、黙示録的な善悪の戦いが決着したわけではありませんね。

  とりあえず、旧人類のプログラミングした未来へのシナリオを破壊しまし

  たが、それをはたして全否定できるのか。ナウシカの選択は正しいのか。

  漫画版は我々に、改めて問いの立て直しを求めています。それをさらに考

  えていきたいと思います。」

 

 私自身は漫画版の存在すら知らなかったわけですが、今回、娘のおいていった全7巻を手に取ることができました。そして、第1、2、3巻と、先の「予定調和なユートピアを否定する」最終第7巻を読みました(だから第4、5巻は目を通していません)。

 ファンタジーへの想像力の欠ける私には、宮崎自身の「ぐちゃぐちゃになってしまった」という表現がぴったりで謎ばかりが残ったというのが偽りのない感想であり、いい加減なままなのですが、本論へ入っていくことにします。

 

◈『コロナ新時代への提言2』が提起したこと

           ー福岡伸一の発言を中心としてー(2-1)

 それでは、福岡伸一が中心になりますが、3人の言葉をできるだけ拾いながら、この《提言2》が提起していることを言語化してみたいと思います。

 といいながらですが、テレビでの発言を正確にメモする能力がほぼありませんので、繰り返し確かめることにしますが、不完全、不十分であることをお断りしておきます。

 なお、同番組のナレーションは、36年前の映画版「風の谷のナウシカ」でナウシカの声役で出演した島本須美が担当しています(なんと声が若い)。 

 

◉コロナ問題が問いかけるものー福岡伸一の発言 

 福岡伸一の問いかけから、番組は始まります。

 冒頭、福岡は、現下のコロナ問題が我々に問いかけたのは、「生命とは何か」「自然とはいったい何か」であるとしたうえで、「共生」というものは理想的なものとして語られることが多いけれど、矛盾だらけのものだ(その意味はだんだんと明確になっていくはずですが)と指摘します。

 続けて、3月からロックダウンで閉じ込められ、そのまま滞在しているニューヨークで、2020年7月9日という日付の付されたビデオ映像に登場した福岡は、コロナ問題の現在、読み直してみたい本として宮崎駿監督の漫画版『風の谷のナウシカ』をあげます。

 そして、前項で言及した映画版と漫画版の違いにふれたうえで、漫画版の最後のところ(第7巻)、ナウシカは失われたはずの墓所(赤坂の『ナウシカ考』を書評した福岡は「人類再生のために密かに準備されていた約束の場所」と表現しています)を発見したにもかかわず、その約束の神殿を破壊して去ってしまうことは大きな謎として読む人の心に深く突きささると語ります。

 この『風の谷のナウシカ』の最後の部分、前記川上対談での赤坂の言葉では「旧人類のプログラミングした未来へのシナリオを破壊した」というナウシカの物語の大きな謎の部分から、福岡は、コロナ禍が人類の文明を揺るがせている現在にあって、私たち人間、人類の文明の行く末というものをとらえ直すことにしたいと、まず基本の方向を提起しているのです。

  番組内の福岡伸一  崋然とは何か」「生命とは何か」

 誤解をおそれずに補助線を引いておくことにします。

 ナウシカが破壊したもの、繰り返すことになりますが、宮崎自身の「予定調和なユートピア」、赤坂の「旧人類のプログラミングした未来へのシナリオ」、福岡の「人類再生のために密かに準備されていた約束の場所」とは何か、現代もそうであるように「人間が科学・技術を手段として行き着いた先にある人類文明の究極の世界」というイメージであると、私は言葉にしておきたいと思います。

 では、この「人類文明の究極の世界」というものが、現下のコロナ問題における「生命とは何か」「自然とは何か」という問いとどのように関係するのかが、次項で明らかになっていきます。

 

◉ピュシス(自然)とロゴス(言葉)というキーワード、

          その間にある存在としての人間ー福岡伸一の発言◆

 ナウシカの物語の大きな謎を読み解くキーワードとして、福岡は、ピュシス(自然)とロゴス(言葉)、ピュシス対ロゴスだと強調しています。「対」だということに注意しておきましょう。そして、これが私たちの文明社会のなかの人間、人類をとらえ直すうえで重要な言葉であるといいます。

 では、ピュシス対ロゴスとはどういうことなのか。福岡は以下のとおり説明しています。

 私たち人間の生命もまた他の生物と同様にありのままの自然(ピュシス)として存在しており、一回かぎりで本来はアンコントローラーなもの、制御不能なものだとします。しかし、同時にまた、人間は生物のなかで唯一、その一歩外へ踏み出した存在であり、つまり遺伝子の掟(「産めよ増やせよ」)から自由になれた存在でもあって、そのことによって一人一人の生命が基本的人権の基礎になるとの考え方に到達したのだと説きます。どうして、このことが人間だけに可能となったのか、それはロゴス(言葉、論理)というものを人間が持ったからであり、その結果として、今のような文明社会を築くことができたのだと説きます。

 しかし、ナウシカは、行きすぎた文明(ロゴスによって行き着いた先の文明社会)を破壊しました。生命とは何か、自然とは何かが問われているコロナ問題の現在、福岡は、われわれのロゴスのあり方が岐路に立たされているという実感をいだいているのです。

 つまりロゴスを持った人間は、制度、社会、文明を築き、さまざまな問題をかかえながらも発展してきたといえますが、福岡は、人間とは完全にロゴス化された社会で生きることもできないし、完全にピュシスの波にもまれて生きることもできない存在であると考えているのです。ですから、人間という存在は、ピュシスとロゴスの間で、つまり両者の間でうまく生きていくしかないのであり、これが本当の意味で自然や環境との共存ということだといいます。

  番組内の福岡伸一◆ 屮團絅轡垢肇蹈乾垢隆屬農犬る人間」

 くどいですが、私の理解をメモします。

 前記の書評の冒頭で、福岡は赤坂の論考を「人類史における、ロゴス(論理)とピュシス(自然)の相克を考え抜いているようだ」と評しており、福岡自身が人類のありようをロゴス対ピュシスという関係において理解していることが示されています。人間、人類はピュシスとロゴスの間で生きる、うまく生きるしかない存在であり(相克の関係にあるピュシスとロゴスの間で折り合いながら生存していくというイメージでしょう)、ここにコロナ問題を考えるカギがあるというわけです。

 この人間・人類観が、理想的に語られることの多い「共生」といっても矛盾だらけのものだという福岡の発言になったのであり、前段の「本当の意味で自然や環境の共存ということだ」になったわけです。ウイルスとの「共生」「共存」といってもきれいごとですまないのは、ロゴス対ピュシスという相克のなかでしか、人間は生きることができないからだと、福岡は強調していると理解しておきましょう。

 

 繰り返しの冗漫を承知で書くとすれば、現下のコロナ問題はロゴスとピュシスの相克を顕在化させているのではないかという問いを、ロゴスの力で築いてきた文明社会に生きる人間、人類に、とりもなおさず我々に投げかけているのではないか、このように福岡は考えていると、私は理解しています。

 そして、あえて少し結論を先取りすれば、福岡は、行き過ぎたロゴス(全能として)がピュシスとしての生命でもある人間を損なうおそれがあるのではないかとし、コロナ問題、人間とウイルスの関係をロゴスの力で全てを解決することなどできないと考えているのです。

 なお、前項でナウシカが破壊した世界を私の言葉で「人間が科学・技術を手段として行き着いた先にある究極の世界」としましたが、この「科学・技術を手段として」を「ロゴスの力によって」と置き換えることで、福岡の問題意識はよりクリアになるといえます。

 

◉「利他性」の本質ー伊藤亜紗の発言ー

 コロナ問題で浮かび上がる排除、差別というものをやめ、共生の道を歩むことができるかという問いに対し、伊藤亜紗は、「利他性」の重要性を指摘しつつも、一見いい感じの行動だけれどそれほど利他的になっていないというところからこの問題を考えることがヒントになるとします。

 吃音をもつ伊藤は、発語しようとする際、身体がコントロールのきかないピュシスであることを思い知る、つまりピュシスとロゴスのぶつかり合い、たたかいのようなものをいつも実地に感じていると語ります。そして、ナウシカは聞き上手で、周囲の人間が嫌がる王蟲も排除することなく「この子」と語りかけ、みんなで生きようとする人であり、勝手に想像したり、思い込みで一方的に判断しない存在として、排除なき共生を体現しているとします。

 伊藤は、前段のそれほど利他的になっていない事例として、全盲になってから10年くらいの女性から聞いた話を紹介しています。その女性は、伊藤に、毎日がはとバスツアーに乗っている感じだと普段の生活を表現し、自分で時間がかかっても周りを直接感覚したいし、認識したいけれど、介助者のよかれと思う言葉や行為(もちろんありがたいことでもあるが)によって自分の自由な感覚が窮屈になってしまうことも多いと話したのだそうです。これは障害者という役割を演じさせられるということであり、困っているときに助けるという「利他」が、むしろ本人のためになっていないのであり、「利他」の本質というものは、むしろ待つことや自分の中にスペースをつくること、相手をコントロールしないことにあるのではないかと、伊藤は強調します。

  番組内の伊藤亜紗  岼豸いい感じの行動 利他的ではない?」

 そして、ボードに「足し算の時間/引き算の時間」と書き、今の私たちは「引き算の時間」、つまり決まった予定の時間から逆算してせわしく暮らしているのではないかと問いを発します。ロゴスによって人間が引き算の時間を生きるようになった、これは産業革命後に均一の時間(例えば、時間給⇒置きかえ可能な人間としての画一化)として現れたのだと説明し、いわば文明の<進歩>によって一般化した引き算の時間から、はみ出した存在として「障害者という概念」が登場したのだと鋭く指摘しています。

 だから、人間も自然であり、身体の多様性というものを踏まえることで、世界の別の顔がみえてくるのではないかと語っています。

  番組内の伊藤亜紗◆ 崑し算の時間 引き算の時間」

 この伊藤の発言を受けて、福岡は、現在のステイホーム、三密の回避という直接の身体性への制約とはロゴスでピュシスが制限されることであり、生命にとって危険なことだと考えるがどうかと、伊藤に問います。

 この間、学生たちは、リモートの映像で互いの顔がよく見えているにもかかわらず、とにかく「さみしい」という反応をしてくると、伊藤は紹介し、「触覚」というものの変化が大きいのではないか、「触れる」という自分を相手に預けるという行為がないことが影響しているからではないかとします。そのうえで、たとえリモートで言葉だけのコミュニケーションという制約があっても、言葉にも相手に触る(さわる)、相手に触れる(ふれる)ということはあるはずで、そのためには一方向に押しつけたりしない、一緒につくっていく態度というものが大事なポイントになるのではないかと発言しています。

 

◉ウイルスの営みの利他性ー福岡伸一の発言ー

 福岡伸一のウイルス論のさわりは、前記のとおり当ブログでもふれてきましたが、《提言2》のなかでも、伊藤の利他性にかかる発言を受けるような形で、「人もウイルスもありのままの多様な自然、ピュシスとして見つめたとき、新しい世界が見えてくる」というナレーションに続き、福岡は発言しています。これも繰り返しになりますが、メモしておきます。

 ウイルスの利他性には二つあると、福岡は説明しています。一つは宿主の遺伝子情報を水平に広げる働きで、ふつうの生命は親から子、子から孫へと垂直にしか情報は伝達しないけれど、ウイルスは種Aから種Bへ宿主を乗り換えるとき、遺伝子もちぎれてAからBに引き渡すことにより、情報を水平に広げているとします。二つは宿主の免疫システムに何らかの刺激を与えて調整する働きで、例えば腸内細菌でも小腸や大腸で宿主の栄養をかすめとるだけでなく宿主の免疫を調整しているというのです

 このようにウイルスの営みこそが利他的だという福岡は、本来、ウイルスは我々の生命の一部であり、友だちでもあり、無数に存在しているが、このうちごく一部のウイルスが宿主を発熱させたり免疫を揺るがして病気を出現させたりしているとします。現在の新型コロナウイルスは、これもロゴスによってたまたま発見されたりしているわけで、これからも新しいウイルスに人類はどんどん出会っていくことになるといいます。

 だから、特定のウイルスを征圧したり、撲滅したり、打ち勝つことはできないし、そういったことを求めるべきではないと説きます。しかも、アルゴリズムや、データサイエンスや、そうしたロゴスの力によって完全に征圧することは不可能であると私は思いますと発言して、このパートを締めくくります。

  番組内の福岡伸一 「ロゴスの力でウイルスを完全に征圧することは不可能」

 このような福岡のウイルスについての見方、考え方というものを、他の生物学者、ウイルス学者たちがどう評価しているのかについて、私は無知なのです。でも、この考え方というものが、前記した福岡のピュシスとロゴスの相克を基底とした人間観、生命観、文明観と呼応しあっていることは、直感的に理解することができます。

 つまり人間という存在がロゴスだけで存在できるのではなく、ありのままの自然、ピュシスでもあるのだから、ロゴスの力だけでコロナウイルス問題を完全に解決しよう、支配しようとするなら、それは人間の生命に反することになるのだと、福岡は言いたいのでしょう。

 

 以上を前半として、後半の次稿では、藤原辰史の歴史社会に関わる発言を紹介するとともに、第7巻をもう一度読んで、前記のナウシカの否定した世界を掘り下げ、福岡の総括的な発言を考えてみることにしたいと思っています。

                        【続く:(1)/(2・完)へ】

【お願い】後半である次稿(2・完)と併せて読んでいただくとありがたいです。

 

 

2020.07.27 Monday

元町の路地にー再開した「花森書林」の店内を撮影してー

 今年の梅雨はまだ終わらないようです。早く明けてほしい気もしますが、数日して太陽ギラギラで猛暑がやってきたら、マスクを付けた屋外での作業など暑くてたまりませんなどと書いていそうです。

 前ブログ(2020.7.21「ディスタンスというものー映画『コロンバス』に寄せてー」)で紹介した映画をみた土曜日(7/18)の午後に、再開した古書店「花森書林」を訪ね、店主に頼んで店内を撮影させてもらいました。

 コロナ禍で、花森書林は4月13日に臨時休業し、80日の休業期間をへて7月2日に店を再開しました。先月に店主から再開準備に日にちをかけるつもりと聞いていたとおり、再開後、最初に訪ねたとき(7/4)、店内の様子にはだいぶ変化がみられたのです。ですから、今回、撮影した写真を使って、花森書林の店内を、「口笛文庫」に続いて(2020.6.10「六甲の坂の途中にー「口笛文庫」のたたずまいー」)、紹介できたらということになりました。

 パンデミックの始まった2020年という特別な年に、神戸元町3丁目の路地にある「花森書林」の店内の様子をスケッチしてみるというのも何かのご縁でしょう。所詮は、私の記憶のためのノートということであり、不十分なものになりますが、私といっしよにのぞいてみていただければと願っています。

 

 さて、花森書林の店内の様子をメモしようとして最初に気づいたのは、よく足を運んでいるといっても、実際は限られた部分の棚しかみていなかったなあということであり、だから、レイアウトや棚の本の並べ方が変化したといっても、従前の店内の本棚について記憶がマダラでしかないという事実でした。

 今回、改めて眺めてみたら、こんな本もそしてこんなに雑貨もおいているのかという新たな発見もありましたので、できれば気になった書名や著者名を書き添えてみたいと思っています。また、営業時間帯で、店主の話を十分に聞けたわけではありませんが、再開準備で店主のめざした方向性を少しは想像することもできましたので、そのあたりのこともメモしておくことにします。

 なお、花森書林は、昨年2月にそれまでのトンカ書店から場所を移転し店名も変更して開店したのですが、その際の店主の思い、こころざしは当ブログで紹介させてもらっていますので(2019.2.10「「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー」)、併せて読んでいただければと思います。

 

 では、元町3丁目、JR線の南側、「洋食ゲンジ」の角を南へ下ってすぐのところに「花森書林」はあります。全面ガラス入り口()には、手指消毒液とともに、従前からの「古本・雑貨」のプレートが立てられています。奥行きの深い店内です。もう少し近づくと()、「ほんのみせ はなもり」の下に「マスク着用中」が貼ってありました。

 さあ、中へ入りましょう。

   峅嵜構駑咫廚料慣福[2020.7.18撮影、以下同じ]

  右側のドア上部

 店内に足を踏み入れ2mくらいのところから全体を撮影しました()。大きくは左壁部中央部奥壁部、そして右壁部の4つのパートに分かれています。

 なんといっても、今回のレイアウト変更で目立つのは、中央部です。入り口からまっすぐの導線が確保されていますし、あとで見ていただくとおり、中央部の奥の方に文庫や新書等の棚が左右の壁部と平行して細長い直方体でつくられていたのが、今回、3つの部分に区分したうえで、それぞれが斜めに並べ替えられていたことです。従前に比べ新たな通路が確保されています。

 ちょっと大げさですが、これはコペルニクス的な発想の転回ではないかと私は感じました。

  E稿發料慣(左から、左壁部・中央部・奥壁部・右壁部)

◉中央部の前方

 ですから、中央部から見ていくことにします。

 中央部の手前は絵本や児童書のアイランドです()。絵本箱の下側にも()児童図書がぎっしり並んでいて、今江祥智の小説『優しさごっこ』『ぼんぼん』や、雑誌『しぜん』も揃っています。

  ぅウンターから撮影した中央部の前方

  ッ羆部の前方の下部 

◉中央部の後方

 中央部の後方、今回のレイアウト変更の目玉部分です。

 前記したとおり、文庫と新書を中心とした長い両面本棚が直線的におかれていたのを3つのパートに切り分け、左右の壁に対し、それぞれ斜め方向に3列並べてあります。従前は客同士が逆方向にスムーズにすれ違うことが困難な通路でしたが、足元が整理され、滞ることなく、動くことのできるレイアウトになりました。

 左壁部の方から撮影した写真()には2列しか写っていませんが、3列あります。入り口側の第1列の前面は、CDとDVDの棚でチャーリー・パーカーの顔写真を見ました。その他の5面の棚はいずれも文庫と新書が〇〇文庫、△△新書など種類別にまとめられ並んでいます(はちくま文庫など)。

 私は視力の関係で文庫本を遠慮するようになってから久しくなりましたが、このレイアウト変更でそれぞれに通路が、空間が確保され、本好きな人には見やすく探しやすくなりました。そして、一番奥から、入り口までの導線もはっきり見通すことができます()。

 新型コロナウイルスの感染防止ということもありますが、本棚の見やすさという点においても、店主の意図は成功しているものと感じました。

  左壁部から撮影した中央部の後方

  中央部の後方の棚

  ┗壁部から撮影した中央部の後方

◉入り口すぐの左壁部

 入り口のところにもどり、入ってすぐ左の棚には()、インディペンデント系の出版社の新本が並んでいます。海文堂ギャラリー時代からお馴染みの武内ヒロクニの『しあわせ食堂』、惜しまれつつ閉店した海文堂ことが書かれた『海の本屋のはなし』(苦楽堂)、そして、安田謙一『神戸、書いてどうなるのか』(ぴあ)などが並んでいます。下の方には個人誌やコミュニティペーパーもおかれています。

 そして、そのそばに、絵本の回転棚が並んで立っています。

  入り口左壁部の新刊本等棚

◉左壁部の前方

 続いて、その左壁部は、児童書と雑貨の本棚が連続して4本並んでいます。

 2つの目の棚()には、下部を除き「雑貨」が並んでいます。これまでもおかれていたのですが、今回の模様替えで、専用棚を設けてスペースが大きくなりました。店主に面白いものは問うと返ってきたのは、毛糸編みのねずみとエスキモーの人形でした()。閉店した近くのフレンチビストロ「猫熊矢」のエスカルゴ掴みも、お客様であった縁でおかれていました。

 このパートの一番右の棚にも()、上段にはカップなどの雑貨類がおかれていて、こうしてみると、表の看板のとおり「古本」だけでなく、「雑貨」の方も一定の主張をしています。

 本の方は児童関係図書が小説、絵本、図鑑等々、ずらりと棚をつくっていて壮観です。『宝島』『ガリヴァ―旅行記』『ピノッキオの冒険』『ハイジ』などの王道本とともに、山中恒、中川李枝子、そして庄野英二『星の牧場』という作家名、書名もありました。

 それにしても、私は孫の関係で必要なときしかのぞかないのですが、前記の中央部のアイランドと合わせて、「児童書」で括ることができるのか、その質量ともなかなかな充実ぶりです。

  左壁部の前方の雑貨中心棚

  エスキモー人形と毛糸編みのねずみ

  左壁部の前方の奥側の棚

◉左壁部の後方(凹部)

 少し奥へ進むと、左壁部には凹んだスペースがあります。

 ここの壁は()、展覧会等の展示スペースにも利用されているところですが、雑誌類、写真集、絵画・デザイン関係書などが集中しておかれています。手前の小型アイランドにも外国本も含め大型本がぎっしりと詰まっています。私は写真集・写真関係書を中心に毎回のぞいていますが、「口笛文庫」と同様、自宅の飽和状態と年齢を考慮してできるだけ写真集を買わないようにしていることもあって、実際、手に入れることは稀になっています。星野道夫、本橋誠一、橋口譲二などの写真集に魅かれます。足元の方には、ダイアン・アーバス写真集があって()、表紙の双子の女の子からにらみ返されました。

 棚の上は雑誌類とムック本で、特別な何かとは店主に尋ねると、その脇にまとめられた『暮らしの手帖』とか新旧の『ポパイ』()が揃っている棚を指してくれました。『ポパイ』の背表紙には、「シティボーイのABC´13」「シティボーイABC´14」とか、そんな言葉が複数回登場しています。今やシティボーイは死語になったのでしょうか。

 そして、左の側面、ドアの上には、創刊号だという『Lマガジン』が展示されています()。京阪神の街とエンタメ情報を掲載されたこの雑誌の創刊は1977年で、休刊が2009年だそうです(私の20代後半から60歳を迎える年までとなります、ああ)。この雑誌に掲載の地図を中心に、私は街歩きによく利用していました。創刊号の表紙の女性は、一見ソフィア・ローレンかと思ったりしましたが、じっと見るとそうではないようです。

 なお、壁にかけられたTシャツは、「70」のロゴ入りでペンギンブックス70周年を記念したものだそうです。

  左壁部の後方ほぼ全景

  ダイアン・アーバスの写真集

  雑誌『ポパイ』

  亜Lマガジン』の創刊号(1977年4月号)

◉奥壁部

 奥壁部といっても、壁との間にはカーテンで仕切られた空間があって、その前に右壁部へくっつくように2本の本棚が並んでいます()。

 左側が日本文学系の単行本、右側が海外文学系の単行本が中心です。忘れてはならないのは床の敷板に直接おかれた本もあることです。日本文学系では、新旧が混在していますが、井伏鱒二、福永武彦、安倍公房たちも、それぞれ複数の本が並んでいます。新しいところだと(といっても二人とも故人ですが)、久世光彦『飲食男女』や橋本治『ぬえの名前』というような面白いタイトル本が目立っています。

 海外文学系も同じことで、チャールズ・ブコウフスキーの『町でいちばんの美女』やポール・オースターなどのアメリカ文学から、ロジェ・グルニエ、山田稔訳の『別離のとき』、カズオ・イシグロ『日の名残り』まで、渋い品揃えとなっています。いつもこの棚に来ると、小説をほとんど読まなくなってしまったなあという思いがよぎります。

 二つの本棚の最上段には、神戸に関係する本が並んでいて、『むかしの神戸』から、中村よう『肴のある旅』、『ワンダフルコウベ』まであります。

  臼壁部の全景

  憶壁部の海外文学系棚の部分

◉右壁部の後方

 奥壁部の本棚を右へと回り込むと、バラエティに富む7本の本棚が連続して入り口に向かって並んでいます。まず、このうち入り口からは右壁部の後方、奥壁部から数えると、最初の3本の棚()を紹介しましょう。

 写真の左端が広い意味で哲学・思想関係本が集まっています。多いところでは、レヴィ・ストロース、ウンベルト・エーコ、チョムスキー、日本では鷲田清一、中井久夫、そして大森正蔵『流れとよどみ』もあります。私自身が読もうとして手に入れても読まないままになっている本が散見できます。

 その右隣りは映画と落語が中心の棚となっています。この棚の映画と落語関係本の充実ぶりは特筆すべきで、双葉十三郎『映画の学校』『ウディ・アレン自伝』とか、古今亭志ん生、三木助、米朝、談志関係本から、若くして一世を風靡した山本益博の『笑いのアンコール』の書名も見えます。足元を見れば、池内紀『きょうもまた好奇心散歩』というタイトル本もありました。

 そのまた右隣りの本棚()も実に個性的です。高野文子『ドミトリーともきんす』の隣にあがた森魚詩集『アガタ・モリオ1972-1989』、その下に近藤ようこ『猫の草子』があって、下の方にはマジックの本まで並んでいます。

 書名や著者名は、撮影した写真をズームして確認しているのですが、まあ何も見ていなかった、見えていなかった、ウムゥとあきれてしまいます。

  咳κ鰭瑤慮緤の奥から2本の棚

  官κ鰭瑤慮緤の奥から3本目の棚

◉右壁部の真ん中

 そのまた右隣りに、右壁部7本の真ん中、4本目の棚があります([21])。漫画と漫画関係本が中心で、ふだん私はスルーしますが、今回撮影してみて、好きな人には垂涎の棚であることがわかります。下の方には雑貨もあります。

 手塚治虫をはじめ、白土三平、つげ義春、水木しげるなどのビッグネームも並んでいます。石子順の評論もあります。私が見ているテレビ番組の原作『孤独のグルメ』もありました。

  [21]右壁部の真ん中の棚

◉右壁部の前方

 前記の順で行くと、全7本中の残る3本([22])、右壁部の前方ということになります。このコーナーは、店主の自己評価と違うのかもしれませんが、花森書林の特質のあらわれた、真骨頂というべき棚のように感じています。どのような分類が適切なのでしょうか、広く生活文化系の本とでもいうのでしょうか。

 著者が女性である本が、もちろん男性の著者も多いのですが、相対的に多いコーナーなのです。ここで性別を持ちだすのはよくないかもしれませんが、女性の店主であることの特性が発揮されているということができます。

 一番左の棚は、3本のなかでも一般書が多く、澤地久枝、富岡多恵子、大橋歩、森まゆみなどの本が幅広く集められていて、下の方には、茨木のり子を描いた後藤正治『清冽』もあります。直接棚とは関係なさそうですが、最上段には『宮武外骨 此中にあり』が鎮座しています。先のブログ(2020.7.13「10年目の贈りものー八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』を起点にー」)で取り上げた小冊子もこの棚で出会いました。

 真ん中の棚は、民俗学の関係本も多そうで、『鎌倉江の島七福神』という美装本が横置きされていたりしますが、広く女性の暮らしに関わるもの、インテリア、ファッション、旅、趣味関係の単行本と雑誌が中心となっています。

 その右側、入り口に一番近い棚は([23])、広く食物、食事、料理の本が中心です。ちょっと異質な塩野七生のコレクションも並んでいますが、食にかかる硬派の書き手である平松洋子の著作物が目立っています。全体としては辰巳芳子をはじめとする実践的な料理関係の本が大半で、レシピなどのムック本も大変よく揃っています。

    [22]右壁部の前方のほぼ全景

    [23]右壁部の前方の入り口カウンターから2本の棚

◉入り口すぐの右壁部

 そして最後のパートです。この細長手の長方形である店内の紹介は、まず中央部から始まり、いったん入り口付近に戻って、左壁部から奥壁部、そして右壁部をぐるっと周回してきました。再び入り口まで来ると、右壁部に、店主の居場所、カウンターがあります([24])。

 ここは、PCがおかれていて諸作業を行う場所であるとともに、レジとなっています。何より、たくさんのお客様との挨拶や接客の場でもあります。今は「仕切り設置」として透明シートがかけられていますが、それでも店主の明るく元気な声が響いてきます。店主のフレンドリーな性格もあってか、これまでの積み重ねというか、とにかく馴染みの客、声をかけ合う関係の人たちの多いのが、この店の大切な特徴でもあり資産でもあります。なお、店主の弟さんも、曜日が限られますが、店を手伝っています。

 ふだんは見ることのないカウンターの後ろの棚を写真のズームで見ていたら、めずらしい物・本が並んでいて驚きました。その中に近所の喫茶店と関係があるのかどうかわかりませんが、「ポエム」のネーム入りコーヒーカップ・ソーサーを発見してうれしくなりました。

    [24]入り口すぐの右壁部のカウンター

 

 以上が、古本屋「花森書林」の店内の様子です。その魅力を伝えておきたいと思い立ったのはよかったのですが、写真を見て思いついたことを並べただけの内容になりました。こんなことで遊んでしまったという反省もあります。

 でも、元町に行かれるような機会があれば、一度立ち寄ってみられたらいかがでしょうか。本にとってよい居場所であることは、本好きの方にとっても楽しい居場所になることに通じています。

 店主のモットーは、花森書林が「お客様の気軽にお立ち寄りいただける場所」であることなのですから。

 

 私が前のトンカ書店を初めて訪ねたのは、六甲の「口笛文庫」に初めて行った頃か、もう少しあとのことでしょうから、やはり10年ぐらいのお付き合いになるのでしょうか。店主とは本のことはもちろんのこと、海外旅行などの私的なことも話したりもする間柄となりました。この間、店主は二人のお子さんの出産もあり、前に入居していたビルのメンテナンス問題もあって、いつも大変だなと遠くからみてきました。

 今の場所に移転して、ほんとによかったなあと思っています。前の穴倉的な感じも嫌いではないのですが、やはり場所の力と全面ガラス張りの開放性が貢献しているのか([25])、明るく健康的というところが何よりです。その移転のとき、心機一転という言葉で心境を語っていましたが、今回の休業を経た営業再開もまた、そんな意欲の感じられる準備内容になった、つまり本にとっても客にとってもよりよい居場所になったと、私は感じています。これからの花森書林にとって、なかなか大変だったけれど、逆にとてもよい機会となったといえそうです。

 くりかえすことになりますが、花森書店が本と雑貨のよい居場所であり、かつお客様のよい居場所であり続けることを願うばかりです。

 

 昨年「70歳問題」などと当ブログで書いたりしていましたが、時は止まってくれなくて、昨日、誕生日ということで、71歳になりました。何と表現していいものか、あきれてただ乾杯するだけです。

 ですから、花森書林の店主、そして口笛文庫の店主には、もうしばらく通えると思うのでよろしくとお願いしておくしかありません。

  [25]カウンターあたりから撮影した入り口付近

 

プロフィール
profilephoto
70代前半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
最新の記事
                         
カテゴリー
カレンダー
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< October 2020 >>
                                      
月別更新一覧
            
コメント
                                      
リンク
                        
サイト内検索
Others
            
Mobile
qrcode
            
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM