2017.12.10 Sunday

冬の訪れはー孫文の「大アジア主義」をめぐってー

 最近の冷え込みもあって、名実ともに冬が訪れました。

 直近のブログ(「晩秋のあじわい」)でも書かせてもらったように、11月下旬が晩秋である私にとって、12月になれば冬が来たということになります。こんな暦の上の思いこみとともに、近年は「ルミナリエ」が冬の訪れの記号となっています。

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の同じ年の12月というまだまだ暗い神戸の街で、ルミナリエは鎮魂と復興ということではじまり、さまざまな課題に直面しながらも、今年で23回目の開催となります。こうして20年以上も続いてきたことで、12月の到来と神戸の街にルミナリエの灯がともることが一体化し、ルミナリエ=冬の訪れが私に住みついたようです。

 といっても、私がルミナリエへ足の運んだことはごく限られています。そんな私でも、寒風のなかで、多くの家族連れがルミナリエの会場へと歩いている姿に、そしてガレリアへ入っていく前に長蛇の列が続く光景に、冬の訪れを感じてきたことになります。

 神戸が仕事の場でなくなった今、私の<冬の訪れは>どう変わっていくのでしょう。

  12月の装い(夙川堤防公園)

 

 そんな神戸での話です。百年近くも前の1924(大13)年11月28日、当時の神戸高女(現在は兵庫県庁となっています)において、孫文(1866-1925)は「大亜細亜問題」と題して講演しています。実に3000人もの聴衆が詰めかけたとあります。この講演から4ヵ月にも満たない翌年(1925)の3月に孫文は癌のために北京で亡くなっています。孫文が講演という形で話したのはこれが最後でしたから、文字通り「遺言の講演」となりました。

 いつものことではありますが、いつも以上に無知なテーマを書こうとしたのは、この「大アジア主義」講演に関するO教授の講義を聴講したからです。

 講義の趣旨をどこまで理解できているのかはなはだ心もたないのです。O教授は、1897(明39)年のロンドンでの孫文と南方熊楠(1867-1941)の交流関係を導入としつつ、11年ほど前に書かれたという論文にもとづき話をすすめられました。そして結局のところ二人の「アジア主義」には行き違いがあったのではないか、「このすれ違いの中には、20世紀から現代にいたる「アジア主義」の困難さが凝縮されている」との結論を導いておられたように理解しました。

 「行き違い」「すれ違い」の中身に入る前に、孫文の講演のアウトラインから紹介しておくことにします。

 

 イージーですが、県立舞子公園内の移情閣(孫文記念館)で作成された<講演要旨>を引用しておくことにします。「民国日報」1924年12月8日の記事から作成されたもののようです。

 「 アジアは、文化発祥の地である。ギリシャ、ローマの文化も元々はアジ

  アから伝えられたものです。ここ数百年、ヨーロッパの圧迫により衰退の

  極にあったアジアにも、30年ほど前から復興の機運が芽生えてきた。日本

  が不平等条約撤廃に成功し、日露戦争に勝利するなどしてアジアの諸民族

  の独立運動を鼓舞してきたからである。

   ヨーロッパの文化は武力による覇道だが、東洋の文化は仁義道徳に基づ

  く王道である。ヨーロッパの文化は学ばなければならないが、それは他民

  族を抑圧するためではなく、自衛のためである。東の日本と西のトルコ

  は、ヨーロッパの武力を学んで強力となった。

   大アジア主義の課題とは、アジアの諸民族が団結してとのようにしたら

  強大な欧州諸民族の圧迫に抵抗できるかということである。ロシアのよう

  に西方にも王道を主張する民族が現れている。

   大アジア主義は、王道を基礎とし、世界諸民族の平等な関係をうちたて

  ることをめざす。

   日本民族は、覇道の文化を習得しかつ王道の文化の本質を備えている。

   では、世界の文化の前途に対して西方覇道の鷹犬(手先)となるか、それ

  とも東方王道の干城(守り手)となるのか、日本国民は慎重に考え、選択し

  ていただきたい。

 自分の勉強もあって書き写しましたが、読んで何を思われたでしょうか。私はサラッと読むと、フムフムそうかそうかなのですが、ちょっと誰かに説明してよと言われても、自信をもって話すことができそうにありません。

 こんなにズバリと、ヨーロッパの文化が覇道で、東洋の文化が王道であるなどと言えるのかな、大きな地域を文化でくくり、もともと中国儒家の政治思想である王道と覇道を結びつけるのはいささか強引すぎませんか。そして、ソヴィエトであった当時の「ロシアが王道を主張する民族」と言えるのか、「日本は王道の本質を備えている」とはどういうことなのかなどなど、わけがわからなくなって、すぐに思考が停止してしまいます。

 でもしかしと言いますか、今読んでも、赤字の「では以下」部分は強く胸に迫ってくるものがあることを、私は否定することができません。現在の日本が問われていると感じられるからなのでしょう。孫文からの日本人への遺言なんだ、そんなふうに思われませんか。

 なお、私は神戸大学附属図書館でデータを作成した当時の「大阪毎日新聞」記事分も読みましたが、「民国日報」記事分にある上記の赤字の部分がないのです。実際は孫文はこの文言を講演では話さなかったということのようです。だから、「民国日報」分は、元の原稿にあった赤字部分を加えたのか、それとも後で書き加えられたのか、いずれかであろうと言われています。

 

 続く準備体操として、「大アジア主義」のことをおさらいします。

 日本大百科全書(ニッポニカ)の冒頭部分は次のとおりです。

 「 アジア諸民族の連帯・団結によって、西洋列強のアジア侵略に対抗し、

  新しいアジアを築こうという思想と運動。アジア主義、汎(はん)アジア主

  義とほぼ同義に用いられ、‘本の大アジア主義の系譜、孫文の大亜

  州主義、ネルーの第三勢力論の三類型がある。」

 橋爪大三郎が中島岳志『アジア主義ーその先の近代へ』(2014年7月刊/潮出版社)を書評したなかで(『毎日新聞』2014.12.28付)、日本のアジア主義をこう書いています。

 「 アジア主義は、西洋列強の横暴に抗して、日本を先頭に中国やインドな

  どアジアの連帯を唱える主張。植民地化に反対する各国ナショナリズムを

  起点としつつも、その制約を越える国際主義の運動だ。民衆運動と手を結

  ぶリベラルな面と、日本帝国主義の先兵となる右翼的な面とをあわせ持

  つ。その射程は政治・軍事・経済から、文化・思想運動まで及ぶ。」

 たしかに「アジア主義」はその本質に二面性をもっています。そして歴史的には、日本の「大アジア主義」の大勢が、ジャポニカに記されているように「政府・軍部の大陸侵略策を正当化するイデオロギー」となっていったということができます。

 これに対し、孫文は先の講演で強調しているとおり「西洋の覇道主義に対して東洋文化は仁義道徳に基づく王道である」とし、「アジア諸民族はこの主義のもとに一致団結して植民地化に抵抗し独立を全うするように大亜州主義を唱えた」とあります。

 1924年という講演の当時、中国革命は混迷のなかで同年1月の第一次国共合作をへて重要な時期にさしかかっていましたが、日本からの大きな支援や協力が得難い情勢にあったのです。だから、赤字の部分「日本への遺言」みたいなメッセージへつながっていく面もあったと理解しておきたいと思っています。

 

 それでは、クリアに受けとめることができていないのですが、O教授の講義にふれてみます。

 孫文の講演の記事を読んだ南方熊楠は、支援者への手紙で「(孫文が)神戸かどこかで王道を説きし時、支那帝国の徳望が今もインド辺に仰がれておる由を演べたるが、これは小生がかつて孫に話せしことを敷衍せるにて」と書いています。つまり孫文の「大アジア主義」講演の基本モチーフが、熊楠は「小生孫氏に語りしこと」に淵源があると見ていたとのことです。

 中略しますが、O教授からは、そうではなかった、すなわち「二つの意味で大きく異なっていた」と、次のポイントの説明がありました。

 「 第一に、熊楠は、「徳望」は、真言仏教に言う「名号」にすぎないと否

  定的であるのに対して、孫文は、西洋帝国主義諸国に対抗するアジアの政

  治的・文化的・外交的資源として、「王道」を現代世界に復活させる道を

  模索していた。」

 「 第二に、「支那帝国の徳望が今もインド辺に仰がれおる」ことを明らか

  にする事例が、熊楠では日清戦争期に求められていたのであるが、孫文で

  は同じことが、中華帝国から共和国にかけての変動期からとられていたの

  である。」

 孫文はこの講演において、中国の「徳望」の事例、つまり「王道」の根拠をブータンとネパールで説明しています。特にネパールに言葉を多く割き、最も国力の弱くなっていた「我国を上国と思い、又我国を彼等の祖国である」と観ていたのであり、「民国元年までこのネパールは依然として祖国の礼を以て我国に来朝した事実があった」と語っています。いささか強引な論法ですが、この事実から、次のとおり結論づけているのです。

 「 この一ツの事実は即ち東洋の民族は、この東洋の文化、この東洋の王道

  により文化を持って居るが、欧州の覇道を中心とする文化に対しては決し

  て信頼して居らぬのである(拍手)」

 これに対し、熊楠は「インド辺の徳望」の事例として、日清戦争期のブータンをあげており、そんな「徳望」とは「名号」であって「名号とは、一国民や一種族の続くあいだ、その脳底に存する記憶にてnational reminiscencese(民衆の集合的記憶)というべきものなり」と述べています。

 O教授は、「中国文化を西欧文明とともに相対化する方法を探り当てていた」熊楠は、孫文が中国の「徳望」とした「中国帝国の伝統的文化資源を虚妄なる記号として切って捨てた」のだとします。つまり福沢諭吉的な「脱亜論」の立場から、孫文の講演を、中国と日本の一致団結、連帯を基軸とする孫文の「大アジア主義」を、冷やかなまなざしで遠望していたことになります。

 ですから、熊楠はそんな考えの持ち主ではありえないとの批判は承知しているけれど、ある意味で「行き違い」「すれ違い」は当然の結果だったのだと、O教授はみているのです。

 

 ちょっと戻って二人の交流についてふれたうえで、二人の「行き違い」「すれ違い」というものの背景や原因を確認しておきます。

 日本でいえば日清戦争が終わったあとの1897年3月に、30歳をすぎたばかりの二人は、大英博物館学芸部長ダグラスの紹介で出会い、孫文がロンドンを離れる6月までの短い期間でしたが、ほぼ毎日のように会って語り合ったとあります。「「西洋の学問」に負けない「東洋の学問」の確立をめざす」熊楠と、「西洋の文明を学んで、中国の近代化を図ろうとする孫文」には、深く共鳴しあうところがあったにちがいありません(「南方熊楠記念館」HPより)。

 その後も、1901年2月、横浜滞在中の孫文が和歌山の熊楠を訪ねています。これが最後の直接の出会いとなりましたが、それ以降も通信は続いていたそうです。

 こんな交流をもった二人でしたが、最初の出会いから30年近くが経過して、中国の変動する現代史のただ中で活動してきた政治家、革命家の孫文と、和歌山から離れずに民俗学などの学問にうちこんできた熊楠の間には、次第に大きな溝、というかズレが生じていたということができます。その間の二人の歩みというだけでなく、中国と日本のそれぞれ歩みと日中関係、国際関係の変化などが、二人のスタンスの変化に反映しているといえます。 

 と同時に、もともと各国のナショナリズムが起点にある「アジア主義」の二面性がはらんでいた限界でもあったと考えておきたいと思います。強大かつ侵略者である西欧諸国、西欧文化へ対抗するアジア諸国、東方文化という点では一致していても、中国や日本の固有性を想起すれば、アジアの普遍性、大アジア主義で包含されるなどなかなか容易ではないことは明白でしょう。

 したがって、「大アジア主義」といっても具体の行動選択において自国中心主義から離脱できないのですから、二人の「行き違い」「すれ違い」は必然のこととして起こったといえます。知の巨人熊楠であっても「アジア主義」の陥穽から逃れることはできなかった、と同時に今も中国と台湾の両国で「国父」とされる孫文もまた同じ限界を有していたということができます。

 O教授が配布されたプリントの最後の一行「このすれ違いの中には、20世紀から現代にいたる「アジア主義」の困難さが凝縮されている」は、そんな「行き違い」「すれ違い」が現代まで形を変えながら続いているのではないかというO教授の「アジア主義」への視線が表現されたものだと、私は理解しました。

 

 小田実さん(1932-2007)が毎日新聞に連載していたコラム「西雷東騒」で「孫文の「大アジア主義」の「遺言」」を発表しています。2005年6月28日付ですから、今から12年前のことです。

 このコラムでは、孫文の講演をとりあげ、最後の赤字部分を焦点をあて、「日本よ、この覇道の文化の勝利をよろこんでいいのかーその問いかけは全体にみなぎっている」とします。そして、小田さんらしいというか、メンタリティーだけは私も近いのですが、「覇道の文化の道をとらず王道の文化をとって生きる」ことを決意した戦後日本と60年をへた日本の<現在地>について警鐘を鳴らしています。

 小田さんは孫文の「遺言」と関係づけ、「その後の日本は変らず覇道の文化の道をとり、ついに自滅した」とし、戦後日本を次のとおり総括します。

 「 自滅の結果、日本人の多くが考え、決意したことは、もはや覇道の文化

  の道をとらず王道の道をとって生きることだ。その決意のあかしとして

  あったのが、あって来たのがその根本に「第九条」をもつ新しい憲法

  だった。それを王道の文化のあかしとして自分にも中国人にも他のアジア

  人にも、いや、世界全体に示して、戦後60年を私たち日本人は生きてき

  た。私はそう信じている。」

 しかし、戦後60年の<現在地>をみると「今、このあかしを変えよう」とする動きが日本の中に強く出てきているとし、次のメッセージを、小田実はそれこそ「遺言」のように書き残しています。

 「 今、このあかしを変えよう、いや、捨てようとする動きが日本のなかに

  強力に出て来ている。また、かつての覇道の文化をよしとするさまざまな

  動きも広く、また、強力に出て来ている。その動きは今、現在にかか

  わっての同種の動きにも強力につながる。覇道の文化には、ただ経済の推

  進でことをかたづけようとする文化も入っている。孫文の「大アジア主

  義」の「遺言」を日本人はもう一度あらためて考えるべきときに来て

  いる。」

 孫文講演の最後の部分を日本と日本人への「遺言」として胸に迫ってくるものを感じた私としては、この小田実さんの「もう一度あらためて考えるべきときに来ている」という「遺言」のような文章にも同質のものを意識したのです。私がぼんやり考えていたことを射抜かれた思いがしました。

 さて12年後の今はどうでしょうか。戦後70年を、戦後60年を総括する小田さんの基本スタンスで理解している人たちはぐーんと減っているようにみえます。戦争を知る世代の退場、国際環境の悪化というなかで、「仕方なし」的にズルズルと後ずさりしています。「改憲」「軍備」をめぐる動きはその象徴です。一つの事実であったことが変質していきます。

 今ここで、現在の東アジアを具体的に論じる能力の欠落に慄然としますが、かくして小田さんのメッセージがますます現実的な動きとなっている今、さらに切実なものとしてもっと勉強せよとの声を聞いたということにしておきましょう。

 

 孫文の「大アジア主義」講演から予期せぬ方向に広がりました。西洋植民地主義への対抗から生じた「アジア主義」「大アジア主義」という言葉の、感情の深部にとどくインパクトの強さは認めつつも、その本質にある限界や危うさを乗りこえることは難しいのではないか、結局、政治上のスローガンになってしまうのではないかと、私自身は勉強もせずに思ってしまいます。

 前記した中島岳志の『アジア主義ーその先の近代へ』にかかる橋爪大三郎の書評のなかで、橋爪さんは中島さんの《アジア主義の思想的可能性を追求していきたい》という前向きな意思に敬意をはらいつつ、橋爪さんはそのためには次の重い作業が必要だと激励しています。

 「 だがそれには、アジアの社会や文明の実態を、一世紀前のアジア主義者

  たちより、ひと回りもふた回りも精細に記述した上で、日本についてもそ

  の文化社会の同一性を深く掘り下げ、国際社会の人びとに容易に理解でき

  る普遍概念によって再定義する作業が必要となる。」

 この底なし沼のように感じられる作業が、日本とアジアの今を解き明かす方向へと進展していくことを期待いたしましょう。

 

 いずれにしても、神戸での講演における孫文の言葉にはさまざまな限界を感じつつも、当時の世界的現実のただ中できりもみされていた政治家・革命家が日本と日本人へおくった「惜別の辞」であり、かつ「遺言」として、やはり記憶されていいものなのだと、今は思っています。

  12月の夙川

  12月の夙川

  

 

 

  

 

 

 

 

 

  

2017.12.03 Sunday

歩く、掘り起す、鎮魂するー小沢信男『東京骨灰紀行』ー(1)

 立っていたり、歩いていたり、そんなとき、足の下に何かあると意識したりしませんか。

 ふつうはそんなことを思ったりしないでしょうし、そんなことを思っていたら何だか不安になります。でも、歴史といえば硬くなりすぎですが、足の下にはこれまで堆積されてきたものが埋まっているということもできます。そんな地中と連続する皮一枚の地上で今の私たちのささやかな生が紡がれています。

 もとより掘り起こしたり、穿ったり、そして埋めたり、積んだりの繰りかえしなのでしょう。とりわけ歴史のある大都市の場合はそうであって、よく知られているところではローマがその典型です。今ある教会などの建造物はその前の建造物を土台として建てられていて、どんどん掘っていくとローマ時代以前まで遡ることができます。そして死者たちを葬るカタコンベも有名ですね。

 そうそこには、大地にもどりきれていない、人間も動物も植物もその記憶が存在しているのです。

 

 直接の関連はありませんが、「死者の骨」に関する私事です。

 早くも10年も前になりましたが、檀家である寺の墓地を整理することがありました。今のように火葬が義務付けられる前に土葬されていた埋葬墓地と墓石の立つ境内墓地を一体的に改装し、区画整理のように一つの新しい墓地として整備することになったのです。そのためには、埋葬墓地を、関係者の立ち合いの下で掘り起こし、残っている骨を収骨する作業が必要となりました(そして新しい墓地が完成すれば墓石の下に納骨されることになります)。

 委員の一人であった私は当番の一日中立ち会うことがありました。それぞれの遺族の方に出向いていただき、各家の埋葬墓の下から人骨が掘り起こされるのを見ました(私の祖父母も土葬でした)。戦前に亡くなった人や幼くして死んだ子供の骨が出てこなかったこともありました。死者はこうして骨になると頭では理解はしましたが、私の感覚が鈍いのか、白日の下であったせいか、なんだか現実感が希薄であった記憶があります。

 

 いつものとおり長い前置きとなりましたが、今回は小沢信男の『東京骨灰紀行』(2009年9月刊/筑摩書房)を紹介します。小沢信男さんは1927年生まれ、今年で90歳、今も旺盛な創作活動を続けている現役最長老の一人と申しあげてよい作家です。

 当ブログでも小沢さんの『捨身な人』(2013年12月刊/晶文社)や『俳句世がたり』(2016年12月刊/岩波新書)を使わせてもらいましたので、ご記憶の方があるかもしれません。私は読んでいないのですが、『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(2011年4月刊/編集グループSURE)という面白いタイトルの本があります。同じく作家であり編集者でもある津野海太郎と黒川創が小沢さんからそのあゆみを聞きだす鼎談のようなのですが、多彩だけれど「お金にはあまり縁がなさそうな」活動を続けてきた小沢さんが「どうやって食べてきたのか」という疑問が解き明かされているのだそうです。

 まあおおざっぱですが、小沢信男とはこんな方です。

 

 では本題。『東京骨灰紀行』は江戸から東京へというメガポリスにあって、今はアスファルトの下に埋もれている「災禍による無辜の犠牲者などの膨大な骨と灰」に思いを馳せつつ、その供養や記念のための墓・碑・塔をめぐった紀行です。こんな現場に何回も足を運び、そこにたたずみ、人災・天災による無名で無数の死者の声を聞き取ろうというのが小沢さんのスタイルです。

 こんなフィールドをえて、小沢さんという長く東京を描いてきた文筆家の史観が縦横無尽に展開されています。今回のブログの題名にも活用させてもらっていますが、本の帯には「無数の骨灰をめぐり、忘れられた東京の記憶を掘り起こす、鎮魂行。」とあります。

 <あとがき>で、小沢さんは「東京よ、多年おせわになってきました。ゆくさきざきでそこらをみまわしては、感謝状を書き綴った、そんなこころもちです」と心境を吐露します。そして文筆暮らしのきっかけとなった学生時代の習作である『新東京感傷散歩』と題する小文から「爾来星霜57年、この250頁ほどを書き下ろして、どうにか首尾を照応しえたか。感傷から骨灰へ。これにてオシマイ。」と結んでいます。
 この本は2001(H13)年の発端から「まるまる八年かけて八章を書いた」もので、全行程を編集者にご同道いただいたとあり、「文筆の仕事は、つくづく編集者との共同制作でありますなぁ」と、感謝の言葉が綴られています。

 現時点では、小沢信男の代表作、決定版と目されています。

 

 さて、本書はもとより内容も内容ではありますが、何より小沢さんの文章が「軽重緩急自在の名調子」と呼びたくなるほど魅力的です。このことが重くなりがちな題材を扱いながら、その歯切れのよい文章の力によって、はたまた人の世の営みへの厳しくもやさしい視線によって、すっかり忘れている記憶が掘り起こされ、人とまちと自然の曼陀羅というべき諸相へと、私たちを連れて行ってくれるのです。そして、まるで陰湿なところはなく、軽佻でもないが重くもなりすぎない、だけれどもずっしりと手応えのある充実感が迫ってくる、そんな読後感が待っています。

 いつもじゃないかとの声が聞こえてきそうですが、小沢信男さんの文章に近づいていただくために、そして新たに刮目していただけるように、少し長い文章であってもできるだけ引用して本稿を進めることにします。

 まずは、小沢さんの文章のことから始めましょう。 

  小沢信男著『東京骨灰紀行』 2009年9月刊/筑摩書房

 

🔹軽重緩急自在の名調子ー小沢信男の文章ー

 小沢さんの文章を読んでいると、軽重緩急自在の名調子とでも言いたくなるような、ジャズを聴いていて自然に体が動く(スイングと呼ばれたりしますが)、あの感覚に近いものを感じます。

 1771年に小塚原仕置場で杉田玄白・前野良沢・中川淳庵が「腑分け」(解剖)に立ち会ったという段に、小沢さんはその感銘を記した玄白の文章を引用して「いま読みかえしても講談のようにめりはりがあって、みごとです」と書いています。例えば次の腑分けの翌日のことを書いた文章。

 「 その翌日、良沢が宅に集まり、前日のことを語り合ひ、先づ、かのター

  ヘル・アナトミアの書にうち向かいしに、誠に艪舵なき船の大海に乗り出

  だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居た

  るまでなり」

 こんな玄白の語り口の妙というか、そんな味というか、独特のリズムが小沢さんの文章にもあります。ときに江戸っ子のべらんめぇな口調というのか「伝法」さがのぞいたりもします。

 つまり小沢信男の文章もまた<講談>に通じるような調子があるのです。

 

 下手な私の表現より、信頼する二人に語ってもらいます。当ブログではよく登場する池内紀さんはちくま文庫の『ぼくの東京全集』の解説で、次のように評しています。

 「 (前略)八十代の後半だが、いまなおその書きものは溌溂としてエスプリ

  とユーモアに富んでいる。やんわりと毒がこもっていて、辛辣で鋭い。そ

  れでいて表現に恥じらいがあり、凛とした美意識につらぬかれている。い

  ちど知ったら小沢ファンになること、うけあいだ。」

 もう一人の中国文学の井波律子さんは、『俳句世がたり』の書評で、「洒脱にして切れ味鋭い語り口」「ずばりと歯切れよく示され」「諧謔性あふれるユーモア感覚と軽妙洒脱な語り口」などと説明しています。その根っ子には「筋金入りの否定精神」の存在をみているわけですが。

 こんな上手な表現は私にはできませんが、小沢信男の文章に対する私の印象もたしかに二人に近いものがあります。

 

 それでは、小沢さんの文章の味なり特質を知ってもらえるような文章を例示してみることにしましょう。

 例えば、南千住、元の小塚原仕置場跡に足を運び、火葬寺であった辺り、今は平凡な横丁でうろうろしつつ、次の文章を書きます。

 「 (前略)切絵図に照らせば、この横丁のつきあたりあたりが火葬寺なんだ

  が、それこそいまやゆめまぼろし、居住の皆さまになんのかかわりあら

  んや。

   だけれども、かつては100メートル四方の火葬場が、このあたりにあっ

  たこともたしかなのだ。なおも四方に目をくばれば、みよ、横丁のゆくて

  の空に一本の煙突。煙突の先から青い空へうっすら煙がたなびいている。

  なにか焼いているんだ、いまでも!

   その煙突めがけて、ブロック塀と家並の間をぬけていくと、積みあげら

  れた材木の山。上階をマンションにしたお風呂屋さんの、釜場の前でし

  た。

   むかし、火葬場、いまお風呂屋。山ほどの薪を日々に焼いて、一切衆生

  悉皆成仏、あぁ極楽ごくらくと、むかしもいまも功徳をほどこしていらっ

  しゃる。やっぱり千住は、幻のちまた!」[p67-68]

 「リズム感」とか、「ユーモア感覚」とか、「やんわりとした毒」とか、小沢さんの文章の特徴が出ていますね。こんな文章と、いわば地の文というべき文章がより合わさって、全体として見事にバランスしているのです。

 

 もうひとつ事例。江戸末期安政二年(1855年)に江戸城の本丸の御金蔵から二千両入り二箱を盗んだという空前の盗っ人(富蔵と藤十郎)がいました。そんな二人の小伝馬町牢屋敷入りからお仕置きまでを描いた、河竹黙阿弥の『四千両小判梅葉』が明治になって初演されました。明日に処刑を控えた牢屋敷の場面を紹介しつつ、こんな書き方をしています。 

 「 (前略)ところでどうやら、富蔵のお仕置は明日らしい。「御代始まって

  ねえ賊だから、お仕置に出るその時は立派に仕度をしてやろうと思ってい

  たが牢内も、世間につれて不景気に心に思うようにも行かねぇ。着附は唐

  桟、帯は博多、これで不承してくんねえ」と牢名主は用意の風呂敷包みを

  渡す。隅の隠居は紙にたたんだ数珠を贈る。富蔵は感謝して、一同に別れ

  の挨拶をすると、牢名主は「いや早く頂番にそういって、酒と肴を入れて

  くれ。芸尽しでもみんなにさせ、賑やかに別れをしよう」これよりご牢内

  は、すってん踊りににぎあうお別れパーティとなるらしい。

   まさか?いや、ほんとう!黙阿弥は体験者からしっかり取材して書い

  た。「ここは地獄の一丁目で、二丁目のねえ所だ」と富蔵が見得を切るく

  だりでは、トンテンカンと鍛冶場の槌の音を、効果音にひびかせたとい

  う。道ひとつ隣の小伝馬上町は鍛冶屋の町で、日々に槌音が聞こえてい

  た。それほどに忠実な、地獄の沙汰も金次第のリアリズムでありまし

  た。」[p47-48]

 

 ここで、小沢さんの根っ子にある「筋金入りの否定精神」という異議申し立て精神が「歯に衣きせぬ」文章となってあらわれているところも引用しておきます。ここにも小沢さんの文章の特徴が出ています。

 「恨みぞふかき東京大空襲」についてのアメリカの周到な計画性と、わが国を対比させつつ、次の「啖呵」のような文章をしたためています。

 「 ノモンハンの痛手にも懲りず軍部は驕て戦線をひろげ、いよいよ本土空

  襲への対策はバケツリレーに、火叩きに、防空頭巾に、備蓄食糧はポケ

  ットに炒り豆と烏賊の足があれば上等だった。こんないでたちで一夜に十

  万人が焼け死んだ。およそこの国に払底したもの、先見の明。ありあまる

  もの、短慮。」[p91]

 

 以上、小沢信男の文章の特質があらわれている文を引用してみました。少し極端な部分であったかもしれませんが、その畳みかけるようなリズムが、井波さんの「陰惨な暗さは見られず、むしろあっけらかんとして明るい」という全体を支えています。

 

🔹かくも人間はむざむざ大量に死んでいいものかー両国から両国へー

 『東京骨灰紀行』は八つの章からなります。最初の「ぶらり両国」から最後の「両国ご供養」まで、両国(現両国駅南側)から両国(同北側)へと東京のコアな場所(例外は多摩)をめぐる紀行の体裁をとっています。

 繰りかえしますが、本書はその帯にある「無数の骨灰をめぐり、忘れられた東京の記憶を掘り起こす、鎮魂行。」が眼目となっています。

 「忘れられた東京の記憶」とは、江戸の開闢から現代までの大規模な災禍なのですが、具体的には明暦の大火(1657)から、安政の大地震(1855)、関東大震災(1923)、東京大空襲(1945)をへて、地下鉄サリン事件(1995)が取り上げられています。その間に江戸の仕置場・処刑場や歓楽地、上野戦争、日清・日露両戦争などが挟まります。その天災・人災の実相(歴史の奥にある真実のようなもの)に、東京の地下に眠る「無数の骨灰」から迫っているのです。

 まさに「掘り起こ」しているのですが、「鎮魂行」という結語にはどこか腑に落ちないところが残っていました。最後のページを再読して、こんなところなのかなと納得できたような気がしました。両国の江戸東京博物館を「香華台」と見立てて次のように書いています。

 「 してみれば、この全体が、すなわち香華台なんだ!関東大震災の遭難者

  たちを正面に、遠くは明暦大火から、近くは東京大空襲まで、死屍累々に

  累々積みかさねてきたことへの香華台。都会という不自然な形態は、いか

  に不自然な死者たちを絶えず生じさせることか。その無量の屍たちのうえ

  にこそ、おかげさまで、多様な町暮らしの喜怒哀歓が、営々とくりひろげ

  られてこられたのだなぁ。そのこしかたを忘れはてた集団に、崩壊以外

  の、どんな未来がありえようか。」[p248]

 小沢さんの「鎮魂」とは、今を生きるものの生が、「無量の屍たち」のうえにあることを深く洞察し、その認識のもと、江戸・東京の地で「こんなにむざむざ大量に死んできた」人間へ、まさに魂を鎮めたいという祈りをこめて文章を刻むことなんだと、私は理解することになりました。

 

 それぞれの章を的確に要約できそうにありません。ここでは、各章のタイトルと取り上げられた災禍等や場所、そしてこれを象徴するような文章を一つだけ引用したうえで、簡単な補足を加えることにします。だから中途半端なことになりますが、ああそうだったのかと思っていただければありがたいのです。 

 

◍ぶらり両国

 ⋄明暦の大火(1657)/安政の大地震(1855):回向院

 「 はやい話がそれまで隅田川に橋がなかった。千住大橋以外には。川は重

  要な軍事境界線であった。そのため火勢に追われた大群衆が、焼かれたく

  なければ溺れてしまった。回向院の過去帳には二万二千人とある由だが、

  おそらくは遺族が申告した総数でしょう。身許もしれず万人塚に埋められ

  て、海へ流れさった屍もずいぶんあるはずで、やっぱり死者は十万人。

   それにしても、人間はこんなにむざむざ大量に死んでいいものか。この

  無辜の犠牲を弔う回向院を、お詣りせずにおられようか。そこで本堂めが

  けて橋を架ける。幅四間(七・三メートル)長さ九十四間(一七一メートル)

  の木橋が、大きな弧をえがいて隅田川をまたいだ。万治二年(1659)末に落

  成、大橋となづけた。西は武蔵、東は下総、二つの国境いの大川を、歩い

  て渡れるありがたさよ。そこで通称両国橋。やがて正式名称となった。」

                              [P12-13]

 明暦三年(1657)の厳冬一月十八日の昼下がりに出火し、次々と燃え広がり、江戸城が焼け落ちてしまうほどの大火でした。墨田川には千住大橋しかなかったため、火に追われた人が逃げ場を失い、多くの死者が出たという面もあり、「両国橋」が建設されました。

 「ともあれ第一期の江戸は、おかげできれいさっぱりご破算になり、第二期に向かいます」とあるとおり、「両国橋」ができたことで、墨田川東岸の開発がすすんで、「大江戸八百八町ができあが」り、「泰平の栄華が、十万の死骸を肥やしに華ひらいた」のです。

 

◍新聞旧聞日本橋

 ⋄小伝馬町牢屋敷跡江戸小伝馬町処刑場跡十思公園

 「 十思公園にたつ史蹟案内板には、牢屋敷があった二百七十年間に入牢者

  は数十万人、と大まかな数字が書いてあります。一説には常時三、四百人

  がいて、毎日数人が表門から入り、処刑と牢内変死が日々数人は裏の不浄

  門から出た。これでは収支とんとんで、生きて出てきた者はいない勘定に

  なり、ここ小伝馬町一丁目はすなわち地獄の一丁目……あぁ、語源はここ

  だったのか?

   一般庶民の入る大牢と、下級武士や僧侶らの揚り屋と、上級武士むきの

  揚り屋敷とでは、待遇は大違いだった。だが、幕末になるほどに収容限度

  をこえ、安政の大獄時には千人ものすし詰めとなって、武士も大牢に押し

  こんだ。吉田松陰をはじめ幾多の志士をここへぶちこみ始末してしまっ

  た。なおさらそれが討幕の火の手をあおって、徳川の栄華はついに十五代

  で瓦解する。」[P37]

 「五街道の起点日本橋のごく近くに」、こんな牢屋敷を置き、しかも首切り場は街道寄りに設けていました。「眼にもみよ、音にもきけ、念入りなみせしめの上に、大江戸の太平は馬乗りになっていたのでありますなぁ」と、小沢さんは書いています。

 明治初頭の東京は「天下はひっくりかえっている最中だし、新政府を誹謗する奴らをかたっぱしから捕まえなくてはなら」ず、この小伝馬町の牢では狭すぎたため、明治八年に「囚人たちは新築の市ヶ谷監獄へ」と移されました。

 

◍千住、幻のちまた

 ⋄新吉原総霊塔:浄閑寺 / ⋄彰義隊の墓:円通寺

 ⋄小塚原町仕置場跡、火葬場:浄土寺、延命寺、小塚原回向院

 「 コツ通りへでました。両側の歩道にアーケードをつらねて、なつかしい

  気配の商店街です。

   南に常磐線のガードがみえ、北は日光街道との合流点、この間約500

  メートルを、なぜコツ通りというのか。むかしここらをコツカッパラ(小

  塚原)といったから。むかしここらに処刑場があり、無数の遺骸が埋められ

  て、掘ればいくらでもコツがでるから。」  

 「 現代語に訳せば、幕府はこの原っぱに刑場をかまえ、重罪人どもの屍を

  晒して、みせしめとしている。そこで寺を建て、お地蔵を置き、無縁の怨

  霊どもを成仏させてもいる。ご政道の徳(川)と、秋霜烈日の刑罰が並びも

  つれて日夜香煙になびくさまは、ありがたやもったいなや。

   やや口調が皮肉っぽいのが、寺門静軒らしさでしょう。」[p68、69]

 江戸の出入り口である「東海道筋の鈴ヶ森」と、ここの「奥州道中筋」に、刑場という装置を備えていました。この二か所で処刑した数が「約二百二十年間に、うそかほんとか二十万人」という説もあり、毎日二、三人ずつ「首を斬ったり磔にしていた勘定」だといいます。

 仕置場は、今は常磐線や東京メトロ地下鉄日比谷線などの工事で「ふみつぶされ、掘りかえされ、蹴り散らかされて」、その跡は根こそぎなくなっています。なお、斬首というのは明治に入っても残っていましたが、明治十四年(1881)に終わり、「以後は絞首刑」となります。

 

◍つくづく築地

 ⋄地下鉄サリン事件(1995)/東京空襲(1945):聖路加国際病院

 「 聖路加国際病院本館は、すなわち不時の災害に機能できる病棟です。こ

  のように造成したのは、日野原院長のかねての反省にもとづく。東京大空

  襲のさいに数多の罹災者たちに満足な医療が施せなかった。当時三十三歳

  の当院内科医であった。(中略)多少の補足は要るかもしれない。はやい話

  が、聖路加病院も被災してしまっていたら、満足な医療もへったくれもな

  いでしょう。」

 「 昭和二十年(1945)二月、三月、四月、五月と、たびかさなった東京空襲

  に、ここら一帯は無事であった。(中略)そのさきの越前堀、八丁堀、京

  橋、銀座など、ぐるりはあらかたやられたのに、どうしてか。ここに聖路

  加病院があったからですね。」[p89]

 その証拠に、戦後すぐに占領軍に接収され、そのまま十年間はアメリカ軍の病院であったとあります。日本人の診療は「魚河岸のむかいの仮病棟」で続けられており、その分院跡が今の「国立がんセンター」となっています。

 聖路加国際病院の旧館中央にある「礼拝堂」は緊急治療所として使用できるようになっており(壁から酸素吸入装置があらわれる)、不幸にもというべきか、完成から三年後の地下鉄サリン事件の際に、劇的にその機能が発揮・証明されました。

 

◍ぼちぼち谷中

 ⋄上野戦争碑記(1868):上野公園

 「 そもそもは東叡山寛永寺。寛永二年(1625)の建立で、徳川将軍家の菩提

  寺としてたいそうな羽振りでしたが、慶応四年(1868)陰暦五月十五日の彰

  義隊合戦により、全山ほぼ焼亡した。その焼跡が、明治六年(1873)、公園

  地に指定されて、こんにちにいたるわけ。当初は東京府の所管で、明治

  二十三年(1890)より皇室御料地となり、関東大震災後の大正十三年

  (1924)に東京市へ下賜された。概算すれば、徳川二百四十年、皇室三十四

  年、東京市民の庭として前後百年。もしも歳月に目方があれば目盛はこん

  な比率になるのでした。」[p118] 

 この寛永寺内に、幕府の崩壊時に江戸で唯一の市街戦となった彰義隊合戦にかかる「上野戦争碑記」がありますが、建立は明治四十四年になってからであり、それまで許されなかったとのことです。小沢さんは、戊辰の役は「奇妙な戦争」で、ともに勤王、イデオロギーに差がなくて、「だから勝てば官軍負ければ賊よ」と書いています。

 「官軍の死骸は即日かたづけたが、彰義隊隊士の死骸は、うち棄てられたままだった」という事実を強調し、江戸を諸悪の巣窟の代名詞としたことを、「江戸」から「東京」への改名(世界の大都市ローマ・パリ・ロンドンなど、そんな例なし)と絡めつつ、異議申し立てしています。

 

⋄千人塚・東京大学医学部納骨堂/東京市養育院義葬:谷中墓地

 「 ついにしびれをきらして当局は、平成十四年(2002)に、霊園と公園の共

  存へと、方針をあらためた。

   谷中墓地は、これより変貌をはじめます。もうはじまっている。新規募

  集も再開して、以前の一基分の地所に十基もの新墓が建ちだした。墓石を

  動かし、小広場を十ヵ所ほどつくる公園化と、霊園合理化の合葬地造成の

  双方が、十年以内に完成の予定とか。大江戸のこっち、明治、大正、昭和

  の人々の眠るところへ、平成の人々の合同入居地もくわわる。どういう合

  葬のかたちになるのか。ともあれ、そういうわけで、ご当地界隈に眠る人

  口をあまさずかぞえれば、政令指定都市五十万をかるくクリアするだろ

  う。原則的には、死者たちの自治区として尊重すべきなのですねぇ。」

                              [p139]

 明治七年(1874)に、寛永寺などの墓地を統合し、公営墓地に指定されたのが「谷中墓地」です。時日をへて、東京都の都市計画で、昭和三十二年に青山と谷中の両墓地を公園化することが決定されていました。こんな背景があって、平成十四年に「しびれをきらして」という「霊園と公園の共存」へと、方針を改めたというわけです。 

 

◍たまには多摩へ

 ⋄芝生墓地/壁墓地/無縁墓/合葬墓/みたま堂:多摩霊園

 「 昭和二十九年(1954)に、多摩村が府中市に合併される。昭和三十三年に

  は小金井市が市になる。都市化がひたひたせまって、もう拡張する林野が

  ない。多摩霊園のその後の足どりに、この満杯の状況をどうきりぬける

  か、という創意工夫になってゆきます。

   昭和三十七年(1962)、東京都は人口一千万人を突破する。同年、当園で

  は正門の左側の林をきりひらいて、芝生墓地を開設した。芝生地に、規格

  サイズの墓石を、間隔を置いて背中あわせにならべていく。開設以来の大

  なり小なり垣をつくる一戸建て方式の、打破であった。敗戦後の代々木練

  兵場跡にできたアメリカ進駐軍の代々木ハイツ、広大な芝生地に簡易住宅

  が整列していた景観を、ミニサイズにしたかたち。」[p158-159]

 満杯の状況をいかに切り抜けるか、この芝生広場をはじめ、多摩霊園では次々と新機軸を打ち出し、実行してきています。平成五年(1993)に「壁墓地」竣工、同じ年には行路死亡の遺骨を慰霊する納骨堂を全面的に建てなおした「みたま堂」、それから十年目の平成十五年(2003)には「合葬式墓地」が出現しました。

 この「合葬式墓地」は従来の家単位から徹底した個人の列記という方式に変更されたのです。「しかし、夫婦、親子、兄弟にせよ、こうしてびっしりならんでしまえば、ほとほと個人の大群だなぁ」と、小沢さんは胸を打たれたと記しています。

 

◍しみじみ新宿

 ⋄子供合埋碑:玉川上水、成覚寺、太宗寺

 「 (前略)そのまたならびは、正面に「子供合埋碑」台石に「旅籠屋中」と

  ある。脇の案内板を読むと、死んだ飯盛女たちを投げ込んでいた合葬地

  に、万延元年(1860)に立てたもの。墓地のいちばん奥にあったが、昭和

  三十一年の区画整理のさいに、この墓じるしだけを表へ移した、云々とあ

  ります。

   三ノ輪の浄閑寺は吉原遊郭の投げ込み寺、ここは内藤新宿の投げ込み

  寺。してみれば、江戸四宿をはじめ名だたる岡場所ごとに、ご同類の寺々

  があったにちがいない。それにしても、無愛想な碑銘だな。「子供」とあ

  るのは、抱え主は親、年季奉公人は子、煮て食おうと焼いて食おうと親の

  勝手、死んだら合埋(ごうまい)でなにがわるいか。「旅籠屋中」が、みん

  なで投げればこわくないと、ひらきなおっているようなものです。(中略)

   天龍寺の墓がおもいうかぶ。楼主の親は祠堂金五両をつけて葵の御紋の

  寺に眠り、遊女の子のほうは、菰にくるんでここに捨てられた。これが江

  戸文化だ。いやなに、いまだって。」[p193]

 小沢さんは府立六中(現都立新宿高校)出身だそうで、この南口から甲州街道を新宿御苑の方へ向かう地域はごく親しいものでした。この内藤新宿とは「旅籠屋が五十二軒、一軒に三人の飯盛女が許されて、それが黙認の遊女たちだった」というところです。投げ込み寺の成覚寺にある「子供合埋碑」の前で、「これが江戸文化だ、いやなに、いまだって」と、小沢さんはやり場のない怒りと嘆きを発しています。

 この地域を流れる玉川上水は、承応二年(1653)に着工され、「多摩川上流の羽村から、四谷大木戸までの全長約四十三キロを開削した上水路」で、自然流水で江戸市中へ給水していました。明治三十二年(1899)に、新宿の西方に淀橋浄水場が完成し、その二年後に上水としての配水をやめたとあります。

  

◍両国ご供養

 ⋄関東大震災(1923)/東京大空襲(1945):東京都慰霊堂、記憶の場所

 「 被服廠跡は六万七〇〇〇平方メートル、横網町公園は二万平方メートル

  弱。大正十二年の惨劇の三角地の、北側三分の一ほどを公園にしたわけ

  で、ここに震災記念堂が建立されたのが昭和五年(1930)九月。神社のよう

  な仏閣のような教会のような、折衷的な建物というか、まぁ、瓦屋根のお

  寺風の講堂で、公園が境内にあたります。本堂と背中合わせに、三重の塔

  をいただく納骨堂をつくり、約五万八千体の遺骨を納めた。

   その震災記念堂が、戦後の昭和二十六年(1951)九月に、東京都慰霊堂と

  改称された。(以下略)」[p230-231]

 「 震災五万八千体、戦災十万五千体、二十二年をへだてて、おなじ東京の

  巷に散った無量の骨たちをまとめて弔うところ、すなわち東京都慰霊堂。 

   すっからかんの敗戦期ゆえ、戦災が震災に間借りするのも、このさいや

  むをえないにせよ、やはり釈然としない。天災と人災が一緒くたとはなに

  ごとぞ。というのがおおかたのご感想だったはずです。私もその一人で

  す。時至らば戦災は戦災としてだんぜん別に弔うべき、と念じながら幾星

  霜。」[p231-232]

 最後の章は、関東大震災と東京大空襲の犠牲者にまつわる掘り起しと鎮魂です。この章は、次回のブログで中心的なテーマとして取り上げることとし、これで切り上げますが、「幾星霜。」に続く文章を引用しておきましょう。

 「 そのうちに、天下の様相が変わってきましたね。進歩する人類は、いよ

  いよ剣呑になるばかりで、いまや天災といえども、地震雷台風洪水原発、

  かぎりなく人災へ近づいているのではないですか。」[p232]

 敬愛する先輩から、苦言を呈されているかのように思いますね。本書の刊行後に発生した東日本大震災の前に、「原発」が明記されていることにも注目しておきましょう。

 

 続く(2)では、最後の章「両国ご供養」ととともに、『俳句世がたり』の助けを借りて東日本大震災への小沢さんの言葉を紹介し、「歩く、掘り起こす、鎮魂する」ことの意味を少し考えてみたいと思っています。

                       【続く】 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.11.25 Saturday

晩秋のあじわい

 こんなに<晩秋>をあじわっていると感じた記憶がありません。サラリーマン時代と暮らしぶりが変わったことだけでなく、先週から急に冬が近づいたという実感があるからでしょうか。ここ数年はやっと秋が来て、やっと冬が来たという季節感が続き、晩秋を置き忘れていたせいかもしれません。

 ウォーキングしていることで、公園や川沿いの木や草花、たまには空や雲を、自分の目で見ている回数や時間がたしかに増えています。ですから、そうして蓄積された像と、今、自分の目に映じているものとの差異というか、変化が少しは感じとれるようになってきたのかなと、そんな影響も大きいかもしれないと思っています。たとえば、落ち葉と一口でいっても、木の種類によって、場所によって、落葉のはじまりのタイミングや進み具合がちがうという当たり前のことも、今年やっと自覚できるようになったのです。

 一昨日の夙川はそれはそれでよき晩秋ではありましたが、どんよりとした空にいささかのわびしさも感じました。でも、今日の寺田池は一転して、空気が冷たくすんでいて、空は青く雲は白く、その輪郭をくっきりと見せ、そして風の走る水面には渡り鳥が群れていました。射しこむ光に色と形のちがう落ち葉は天の配剤なのか見事に配置されています。こんな晩秋を美しいと呼ばずにおられようか、と思いながら歩きました。

 当ブログでも引用した、長田弘さんの「すべての、かけらの、/いっさい間然するところない/集合が、秋なのだ。一つ一つの/うつくしいかけらがつくる秋のうつくしさ。/もしも誰かに、平和とは何か訊かれたら、/秋のうつしさ、と答えたい。」(「いちばん静かな秋」部分:『奇跡ーミラクルー』2013年7月刊/みすず書房)を思い出しました(「穏やかに年をとるということ」)。

 老人性疑似感傷病と呼ぶべき症状かもしれませんが、こうして晩秋はゆっくりと冬の扉を開きます。

 

 驚いたりあきれたりのニュースがありました。レオナルド・ダ・ヴィンチ作といわれる「サルバトール・ムンディ(救世主)」が508億円で落札されたとのことです。ヤマザキマリさんは「生存中にたった20点しか油絵」を描いていないこともあっての高値だったかもしれないとしたうえで、まったく「リアリティのない価格」だと書いています。

 ヤマザキさんは「いったい何が買えるのか調べたみた」ところ、「東京スカイツリーの建設費が400億円だった」(総事業費は650億円)と指摘しています。美術館はと探してみると、正確性に疑問があり、オーダーというぐらいですが、東京六本木の「国立新美術館」が総工費350億円(2007年開館)、兵庫県立美術館が300億円(2002年開館)だったようです。これまでにも100億円以上で落札された美術品は少なくないみたいですが、なんだか馬鹿げていますね。

 このダ・ヴィンチの絵が美術館などで公開されるかどうかは分かりませんが、今すぐはなさそうです。最近高額落札の対象となった美術品はだいたいが投資目的とされているとのことです(ヤマザキさんによれば今回のダ・ヴィンチはロシアの大金持ちが落札したとの噂があるそうです)。

 なんと価値の倒錯的で転倒している世界なんだと慨嘆したいところですが、昔々から集積された富はどこへ向かったのかと思い浮かべたりすると、似たようなものだということもできます。今、私たちが世界遺産として珍重している建造物なども富の集積がもたらしたものの一部だ(例えば貿易や略奪による財宝が化けたというべきヴェネツィアやマドリードの金色の内部装飾など)ということになるのかもしれませんね。

 だから、まあ仕方ないなどとは思っているわけでは全くありません。ケッ、どうでもいいやと関心を向けないようにしたいのですが、昨年のパナマ文書、今年のパラダイス文書とも関連して、かくも富の集中が進行する構造(背景には実体経済と無関係に貨幣が瞬時に取引されコンピーター上を移動するという時代の環境があるのでしょう)について、いくら砂粒のような私たちであっても対峙していかなければならないのであろうと思っています。

 話があらぬ方向に逸れました。ここで伝えたかったのは、今回、508億円で落札されたダ・ヴィンチの絵画、つまり貨幣で購った美とは関係なく、私は今日、貨幣で購うことなく晩秋の美しさを楽しんだということです。たしかに美は貨幣で購う対象となることを否定できませんが、貨幣と関係のない美もまたたしかに存在しています。

  寺田池と晩秋の空と雲 [11月24日撮影]

  寺田池の渡り鳥 [同日に撮影]

  落ち葉の吹き寄せ(寺田池の保安林) [同日に撮影]

 

 立冬(今年は11月7日)をはるかにすぎてから、晩秋という私は何者だ、ということになりますが、私には晩秋という季節感とこの11月下旬という時期がくっついて離れないのです。子どものころにどんなふうに教えられて覚えこんだのか、はたまたどんな誤解が重なって今のように体内化してしまったのか。みなさんの季節感ではどうなのでしょうか。

 晩秋などと、自分の身近に<山川草木>が感じられるようになったと書くことは恥ずかしいのです。でも少しは自然のなかの人間という感覚を自覚するようになってきたとはいえそうです。

 

 さて、先日のブログ(「『思泳雑記』の二年、そして三年目へ」)でもふれた野矢茂樹さんの『哲学な日々ー考えさせない時代に抗して』(2015年10月刊/講談社)から、短文を二つ紹介しておきます。

 西日本新聞に「哲学者のいる風景」として70日余に50回の連載です。「肩の力を抜いて読んでいただきたい」と筆者は書いています。

 一つ目はその45回「掛け声化」です。

 最近、言葉が「掛け声化」して思考がそこで止まってしまっているのではないかと警鐘を発しています。言葉が掛け声化することで、つまり「考えを深めるために言葉が使われる場面で、考えを遮断するために言葉が使われる」ことによって、思考が停止する、成立しない状況になってしまうと、野矢さんは考えているのです。「そんな言語文化に、私たちは侵蝕されてはいないか」というのです。

 野矢さんの印象では、「一般に現代のメディアは、掛け声化してはならない場面で威勢よく掛け声を発することにやっきになっているように見える」としています。

 こうした言葉の「掛け声化」に対抗するためには、「やはり言葉しかない」のであって、「威勢のよさや口当たりのよさだけに呪縛されてしまわない、冷静で明晰な言葉を、私たちは手放してはならない」と、結ばれています。

 いつの世もそうであったといえますが、現代のメディアはもとより、インターネットやSNSという環境の変化は、一概に否定できないものの、言葉というものの氾濫を招き、対話をもたらす言葉より、呪文のような断定的な言葉へ傾斜する傾向をもたらしていると、私は感じています。リテラシーというような言葉を蹴散らす掛け声としての言葉の奔流は、否定的精神を摩滅させ、「「ほんとに?」とか「どうして?」といった問いが断ち切」られる方向へと流され、その結果、「掛け声」のような言葉に、いわば呪文のような言葉に呪縛される脆弱な社会になってしまっているといえます。

 こんなブログを書いていて言えることではありませんが、そう思っています。森友・加計問題等への国会答弁について、野矢さんの書かれた記事を紹介したことがあります(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」)。野矢さんは国会で言葉の意味をずらす技術を振り回す人たち、すなわち「言葉を大切にしない人を、私は信用する気にならない」と断じていることと通底しています。

 

 二つ目は48回の「脳神話への叛旗」です。

 「なにがなんでも脳のせいにする。そんな風潮が現代には蔓延している」が、「脳がすべてを生み出しているなどというのは、頭でっかちな幻想にすぎない」というのです。

 例えば一脚の椅子が見えるのは、「椅子から光が反射して眼球を通り、視神経を伝わり、脳で処理されるからだ」とされ、そのことからすると、「いま私に見えているこの光景の全体、聞こえてくる電車の音、コーヒーの香り、これらもまた、すべて脳が生み出したもの」だというわけです。この考え方を、野矢さんは「脳神話」と呼びたいとし、「この現代の神話に叛旗を翻したい」とします。

 椅子という意味をもつのはなぜだろうか、椅子は腰かけるものであり、椅子に腰かけるのは、「言うまでもなく、脳ではない、人である」のです。「腰かけるというこの経験こそが、椅子に椅子としての意味を与える」のだというわけです。

 ですから、知覚するものからこうした意味が失われたとしたなら、抽象画のようなたんなる光や音の戯れであり、現実の見たり聞いたりと状況が全く異なってしまいます。脳が知覚している椅子、電車、コーヒーにそれとしての意味を与えるものは、「椅子に腰かけ、電車に乗り、コーヒーを飲む、身体をもった私たちで」す。世界に意味を与えるのは脳ではなく、「身体をもった私たちがこのように生きているからこそ、そこにさまざまな意味が生まれる」ということを強調し、野矢さんは「脳神話」を「頭でっかちな幻想」だと批判しているのです。

 これは脳科学のある部分をつまみ食いする現代の哲学やメディアへの批判が背景にあるのでしょう。電脳化というバーチャルな世界ですとか、人工知能、AIという分野が次代のキーワードになりそうだという動向において、私たちが陥りがちな「脳の支配性」信仰への、これも警鐘ということになります。「機械は考えることができるのか」という哲学的な問いへの野矢さんの切り口、出発点の確認だともいえます。

 ずっと以前にある種流行した養老武司さんの「唯脳論」は人類の「都市化」の進展がもたらした状況(脳の肥大化)と説明されていたように記憶していますが、野矢さんが批判する「脳神話」にも「都市化」の行き着いた先に生じてきたものと同質の性格を、私は感じています。

 

 ちょっと訳がわからなくなったところで一つおまけ。21回「散歩の定義」から引用しておきます。

 「 歩けば散歩になるというわけではない。目的地への移動のために歩くの

  では、散歩とは言えない。「目的なしに歩くこと」と言いたくなるが、目

  的がないわけでもない。完璧に無目的だと、「徘徊」と呼ばれかねな

  い。」

 「 散歩のときには、予期せぬ偶然のものごとに気持ちを開いていなければ

  ならない。特定のことに心を奪われていてはいけない。ささやかなものご

  とに対する感受性を鋭敏にしておく。」

 だとすると、「散歩の定義」はなかなか難しいというのが結論のような文章です。

 まあ私の歩きは「散歩」ではなく、「ウォーキング」だと思い、そう書いています。そんななかに、晩秋をあじわったと錯覚したかもしれないような何かを誘う「散歩」的要素があればいいのだけれどと願っているのです。

 

 次のブログでは小沢信男の『東京骨灰紀行』のことを書くつもりですが、同じ小沢さんの『俳句だより』から、こんな時期なのかなと思われる二句をあげておきます。

 

  あちらからどっと来ました渡り鳥

       土肥あき子句集『夜のブランコ』より

 

  秋風やひたひたと来るものの影

       川崎彰彦『月並句集』より

  夙川の河口付近を歩く飼い主と三匹の犬 [11月22日撮影]

  夙川沿いのベンチで「on reading」の男性 [同日に撮影]

  夙川河口付近の渡り鳥  [同日に撮影]

 

 

2017.11.19 Sunday

出版には勇気がー涸沢純平『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記』ー

 京都へ出かけると、寺町通二条上ルの三月書房に立ち寄りたくなります。著者ごとに並べられた本棚に私の読みたくなる本があるからです。

 普通の本屋ではお目にかかれない山田稔や天野忠などの本に出会うと、そんな本の出版元は大阪の「編集工房ノア」であることが多くありました。三月書房は<古本屋>ではなく<新本屋>ですから、本代のこともあってどうしようかと足踏みしたりもします。

 今は京都へ出かける回数も減って二年近く足が遠のいていますが、京都での楽しみの一つとなっていました。

 

 さて、編集工房ノアの社主である涸沢純平さんが『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記』(2017年9月刊)(以下《遅れ時計》と表記)を自社から刊行されました。先月、大文字山へ上った後に、近くの「古書善行堂」で山本店主の「いいですよ」の声とともに購入したのです(「雲の名前ー『関口良雄さんを憶う』ー」)。それこそ関口良雄さんの『昔日の客』と通いあうものを感じながら、私にしては一気に読了することになりました。

 《遅れ時計》は副題のとおり編集工房ノアから本を出した、今は亡き詩人・作家たちとの交流を描いたエッセーが核となっています。その名前ぐらいは知っている天野忠、足立巻一、杉山平一、桑島玄二、鶴見俊輔などに加え、名前も聞いたことのない港野喜代子、黒瀬勝巳、清水正一、東秀三らが登場します。黒瀬勝巳を除くと年上の方ばかりですが、出版社を始める前は自らも書く人であった涸沢さんは敬愛できる先輩たちに全身で接していきます。見方を替えると、先輩諸氏は<文芸>を共有できる若き涸沢純平の人格に惚れて、沈むかもしれないノアの「方舟」へ乗船していくことになります。

 <あとがき>を読んで驚いたのは、この《遅れ時計》は涸沢さんが還暦のときに出版するつもりで校正刷りまで進んでいたのに出版の決心がつかず、そのまま10年ぐらいお蔵入りしていたというのです。こんないい本なのに、えっ、どうしてなのと思わざるをえません。それで、古稀ということでしょうか、「この年になり、思い切ることにしました」というのです。

 その理由らしきものを、涸沢さんは<あとがき>で「出版には勇気のいることを知りました」と、さらりと記しているのみです。

 

 編集工房ノアは、1975(昭50)年の創業ですから、今年で42年を迎えたことになりますが、創業当時から今日に至るまで奥様の小西敬子さんと二人だけでやってきた大阪の中津に所在する小出版社です。

 今回の《遅れ時計》には、2000(平12)年の創業25周年記念会のことを、その2年半後に涸沢さんが自社のPR誌「海鳴り」で報告した「文芸の方舟 新しい海」も入っています。そのなかで、記念会の最後に発起人の一人で司会役の大谷晃一さんが「足立(巻一)さんや庄野(英二)さんに、ノアをつぶしたらいかん、と言われてきたが、どうやらその心配もいらないようである」と、「明確に簡潔に」しめくくってくださったと、涸沢さんは記しています。

 それから数えても17年。良書だけれどこんな「あいそもクソもない」ような地味な本だけを出版していて、どうして経営していけるのかという疑問も生じます。結局のところ涸沢夫妻が健康を維持しつつ二人だけで手を広げすぎずに自らの美学を貫いてコツコツとやってきたということなのでしょうか。ノアをつぶしてはいかんという「文芸の方舟」に同乗する著者たちとか、少数にしろ根強い読者がいるとかということでもありますが。

 そうだとしても、昨今の出版事情からすると、よくぞ続いてこれたものだ、まことにあっぱれ、というのが常識的な反応かもしれません。

 

 三月書房のブログ「三月記(仮題)」をみると、発行日からちょうど1か月後の10月28日の日付で、《遅れ時計》は「こちらの予想を上回る売れ行きで、すでに30冊近く売れています」とあります。そして「山田稔氏の新刊ほどではありません」が、「ちかごろ文芸書で2桁売れる本はほとんどないうちの店としてはけっこうな出足です」と、三月書房さんは書いています。

 編集工房ノアの机の引き出しに校正刷の形で10年間も眠っていたものをほぼそのまま本にしたので、《遅れ時計》の中で最も新しく発表された文章は「海鳴り」2006年7月号の「松江・大島・天野さんの文机」なのです。つまり、それ以降、涸沢さんが「海鳴り」などで発表してきたものは入っておらず、10年間の空白ができたような格好となっています。

 三月書房主人はブログで「よく売れたら、ぜひとも続編を出していただけるとけっこうかと思います」と、涸沢さんへのメッセージを発信していますが、「出版には勇気がいる」のですから。期待して待つことにいたしましょう。

  『遅れ時計の詩人 編集工房ノア著者追悼記』 2017(平29)年9月刊/編集工房ノア

 

🔹父のようにー清水正一ー

 《遅れ時計》で追悼されている<多くの著者たち>から、二人だけ取りあげることにします。まず、私にとって無名であった清水正一です。

 

 編集工房ノアは、67歳となっていた清水正一の初めての詩集『清水正一詩集』を1979(昭54)年に発行しています。その少し前から、涸沢さんと清水さんのつき合いが始まり、清水さんが71歳で亡くなる1985年1月まで続いたのですから、5年間ほどのことで長い年月とはいえません。でもそのつき合いは濃密です。書名ともなっている「遅れ時計の詩人」(1986年7月)のなかで、涸沢さんは清水さんへの気持ちをこう書きます。

 「 詩人清水正一には申し訳ないけれど、清水さんを詩人というより、父の

  ように思っていた。清水さんもそのように接してくれるので、そのように

  思っていた。」

 編集者として接する清水さんは「男としては注文も多い。考えが二転三転することもあって」、涸沢さんは「気持ちを押さえることもあった」にもかかわらず、「そんな清水さん」を「なぜ父のように思ったのか、自分でもよくわからない」と書いています。

 十三の棟割り長屋の一画で(阪急十三駅の東)、話し好きの清水さんが涸沢さんを前に繰り返し語った、これまでの生きてきた道程に詩人である前に市井の人である清水さんに、漁師の父をもった涸沢さんが共鳴したからにほかならないのだと、私は推測しています。家族思いで十三公設市場にある蒲鉾屋として懸命に働きつづけてきて(筆一本で身を立てたいと思い悩んだこともあった)、書くことを後回しにせざるをえなかった目の前にいる小柄な清水さんに、涸沢さんは実作者ではなく編集者として生きようとしている自分の姿を重ね合わせていたのかもしれません。

 

 涸沢さんは、1985年の年明けに亡くなる清水さんを前年の暮れの30日に店を訪ねています。いつものように市場近くの喫茶店で話をして店へ帰る清水さんと別れるときに、突然、握手を求められたのだそうです。これまでになかったことなのに、「カラサワさん、よく来てくれて、ありがとう」と清水さんが手をさしのべたことを、不思議な気がしたと追想しています。これが清水さんとの最後になりました。

 この外にも、他人から聞いた話としてもっと前に詩集を出版するチャンスもあったけれど「娘に箪笥の一棹でも持たせてやりたい」と断念したとか、清水さんの通夜で長男が「家族思いの清潔な一生であったと思います」と淡々と挨拶されたとか、そんな印象深いエピソードが紹介されています。

 

 <遅れ時計>とは、清水宅の掛け時計のことで、大幅に、いつも3、4時間も遅れていたことから、清水さんを追悼する文章の表題に使ったのでしょう。

 日曜日に涸沢さんが清水さん宅に午後2、3時頃に出向くことも多かったようですが、清水さんの延々と続くフルコースの話とともに、ビール(清水さんはチビチビしかやらないが)、次から次へと肴が出て、ビフカツといもサラダまでの清水宅の接待のフルコースとなります。それで、ついつい時間感覚がなくなり、ついには最終電車まで長居してしまうのだそうです。

 「 この大幅遅れの時計が清水さんの詩であったのかも知れないと、今は思

  う。蒲鉾屋の時間を、詩人の時間にする時計であったのかも知れない。そ

  れと話し相手がついつい長居をする時計。」

 こんな言葉で、この父とも思った詩人を追悼している涸沢さんの文章によって、清水正一という詩人の姿が私たちの眼前に立ち現れてきます。

 なお、別の「望郷の詩人」という題の文章には、清水さんが亡くなった1985年の暮れに、涸沢さんは小六の娘を連れて、清水さんの墓参りに出かけたとあります。三重県伊賀上野出身の清水さんですが、墓は息子の仕事の関係で兵庫県播磨町の円満寺にあります。涸沢さんは生活者である清水さんなら「新しい居場所が、伊賀上野から十三からも遠く離れたことも」なにごともなく受けとめるだろうと書いています。

 

 《遅れ時計》の表紙カバーには、清水正一の「雪ガフッテイル」という自筆の詩書がデザインされています。

 ネットで検索すると、水口洋治という方が、清水正一の詩のことを「彼が蒲鉾屋であったことが彼の詩を成り立たせているとは直ちに同意しかねる」とし、ヨーロッパ文化への「深い憧れ」を反映して大変に洗練され、洒落ているのだと強調しています。

 清水さんの詩を読んでいない私ですが、このカバーの一篇の詩からも「汗水たらして働く詩人」というイメージだけで読んではならないと感じました。

 

 不思議だったのは、私にとっても<十三>と<播磨町>が縁のある土地であるということです。

 <十三>は1973(昭48)年に7ヵ月間入院していたところなのです(「ジャズを聴きはじめた頃にー四枚のレコードー」)。今は移転していますが、淀川通りに面した「十三市民病院」という、清水さんの市場や居宅のあった十三東と同じ地域内の病院でした。入院ですから、7ヵ月の間に病院外へ出たのは、退院が決まってから姉に梅田まで連れて行ってもらった1回かぎりでした。入院患者の中には、冷房がなく夏場でもフロが週に2回だからといって、見て見ぬふりの看護婦を横目に銭湯へ行く人もいましたが、頭の固い若い私はそんなこともできませんでした。

 退院後、通院もしていましたが、阪急十三駅の東口から出て商店街を通り抜けて淀川に近い病院へ直行していただけの記憶しかありません。でも約1年間の療養生活をおくったことは、その後の再発とも絡んで、私の人生と無関係ではありえないことですから、今になっても「十三」という阪急の車内アナウンスに反応してしまう私がいます。

 今となっては辛くて暗い負のイメージというより、ある種のなつかしさもさそうような病院の一室で確かに生きていた日々の記憶となっています。私の入院していた当時、清水さんは還暦を迎えた頃であり、病院近くの公設市場で蒲鉾を製造・販売し、何とか時間をやりくりして詩文を書いていたのです。

 一方、<播磨町>は当ブログによく登場する私のウォーキングコースである大中遺跡公園が所在するところです(「台風のあとにー『図書』2017年8月号ー」)。清水さんの墓のある円満寺は大中遺跡のすぐそばにあります。この円満寺は真言宗の寺ですが、開明的というか、今風とでもいうか、早くから墓地や納骨堂を開発し、檀家以外にも永代供養の門戸を開いているのです。

 ウォーキングのついでに私も清水さんの墓参りでもと思ったのですが、外から墓地を写すことにとどめました。

 

 涸沢さんは清水さんに蒲鉾屋として詩を書く者の歩みを書かれてはと勧めていたようで、最後の緊急入院のときにも原稿用紙を持ち込んでいたとあります。それは叶わなかったわけですが、涸沢さんというよき聞き手をえて、清水さんはどれだけ励まされたことでしょう。そして涸沢さんが「父以上に父と思った」という清水さんの喜びはいかばかりのものであったかと想像すると、私の心にもポッとあたたかいものが灯ったように思うのです。

  『遅れ時計の詩人』の表紙に印刷されてた清水正一の詩書

  円満寺の墓地(兵庫県播磨町)

 

🔹出版社としての目鼻立ちー天野忠ー

 もう一人は天野忠のことです。還暦をすぎた頃から声名が高まり、1993年10月に84歳で亡くなった後も忘却を拒んでさらに高まっているらしい京都の詩人です。私がその名前と詩を知ったのは、1980年代のことだったのでしょうか(「40thー天野忠さんにも助けてもらいー」)。

 

 編集工房ノアが天野忠の本を初めて出したのは、1979年5月刊の『讃め歌抄』で、ちょうど『清水正一詩集』の直近のことでした。この詩集を含め、生前に10冊、天野さんから託されていた原稿を元に死後に3冊の計13冊を刊行しています(「出版できうるすべてを出し終えて、いささかの感懐があった」とあります)。これらに加え、2006年10月には『天野忠 随筆選』をノアコレクション8として出版しています。

 前期の2000年の編集工房ノア創業25周年記念会で、鶴見俊輔さんは挨拶のなかで「天野忠の本を13冊出すことによって出版社としての目鼻立ちを持った」と語ったとあります。《遅れ時計》には天野忠さんを追悼した「装幀好きー天野忠さんの十三冊の本」と「夫婦の肖像」の2篇が収められており、それ以外の文章にもよくその名前が登場しています。涸沢さんは天野さんが亡くなって10年後に書いた前者の文章を次のとおり締めくくっています。

 「 私の出版人生で天野さんから受けたものは、あまりに大きい。後は『天

  野忠全詩集』出版が残されている。天野さんは全詩集が出版されることを

  信じている。その装幀を楽しみにしている。」

 1981年の『私有地』で読売文学賞、1986年の『続天野忠詩集』で毎日出版文化賞、1988年の随筆集『木洩れ日拾い』は「森毅氏が朝日新聞書評で「こういう本に出会えることは書評委員冥利」と絶賛し、よく売れた」とあります。

 こうした受賞は出版社としての認知度を高め、涸沢さんの編集者としての自信にもつながり、ひいては経営的にもプラスにはたらき、そうして「出版社としての目鼻立ち」を得たのではないでしょうか。

 

 涸沢さんと天野忠さんとの関りは、ノア創業4年目、一冊目の『讃め歌抄』を出版する直前から、亡くなるまでの14年間ほど続きます。天野さんは無名の小出版社だった編集工房ノアの主人である涸沢さんを信頼し、それに応えて涸沢さんも天野さんの本を次々と刊行していく、いわば著者と編集者の理想的な関係、幸福な共同作業だったといえるでしょう。

 でもしかし、最初の出会いでは、69歳の天野さんが32歳の涸沢さんへの不信をあらわにしたとあります。すなわち「天野さんは、私を見て、「こいつ大丈夫か」という表情を露骨にされた。はっきりと、顔に出した」のであり、「すでに手元に、完全に整理された原稿を用意されていたので、私を見て渡すのが不安になったのだろう」と、涸沢さんは述懐しています。この天野さんの反応に戸惑ったが、涸沢さんは「詩集の仕上がりで応えるしかない」と思い返します。こんな出会いから二人のつき合いが始まります。

 それから14年の時をへて、天野さんの通夜でいっしょになった山田稔さんと涸沢さんが帰り道の酒場で故人をしのんだ情景を山田さんが描写しています(『北園町九十三番地ー天野忠さんのこと』)。二人(もちろん涸沢さんは編集者としての打ち合わせも兼ねて)は1982年以降、年に2回ほど京都下鴨の天野宅を訪れていた間柄です。少し長いのですが、引用させてもらいます。

 「 思いが容易に言葉にならないのだった。何か言うとすれば「あーあ」と

  しか言いようがない。それは涸沢純平も同様であっただろう。

  「さびしくなるなあ」

  と私は独言のように、溜息のようにつぶやいた。

  「そうですね」

  と涸沢さんが応じた。

   それからまた私は黙り込んだまま、胸のうちで天野家でのあの情景、こ

  の情景を思い浮かべようとした。

   浮かんでくるのはいつも一つだけであった。柔和な表情で静かに語る老

  詩人と、寛いでいる私と。

  「天野さんとこ行っといてよかったなあ。楽しかったなあ」

   これも溜息のように口から洩れた。

  「そうですね。……山田さんと天野さんのお宅で過した時間は、至福の時

  でした」

   涸沢純平が静かな声で言った。」

 涸沢さん自身も<至福>という言葉を使って回想しています。

 「 山田稔さんといっしょに、しばしば天野宅を訪ね、話を聞いた。古い映

  画や小説の話。それは、不思議な至福としかいいようのない気持ちの良い

  時間だった。」

 下鴨の天野宅には、<不思議な至福>の時間と空間がたしかに存在していたのです。

 

 ここで、<天野忠の詩>を理解するために、ちょっと寄り道をしてみることにします。

 先の山田さんの「あーあ」という溜息のようなつぶやきとも通じますが、1961年(52歳)に自費で刊行された詩集『クラスト氏のいんきな唄』を改題増補した『動物園の珍しい動物』の最後におかれた詩を引用します。

      あーあ

  最後に

  あーあというて人は死ぬ

  生れたときも

  あーあというた

  いろいろなことを覚えて

  長いこと人はかけずりまわる

  それから死ぬ

  わたしも死ぬときは

  あーあというであろう

  あんまりなんにもしなかったので

  はずかしそうに

  あーあというであろう。

 なんだか禅宗の高僧や剣道の達人がつぶやくような言葉で、不思議な「軽み」があります。こんな境地へと至る天野忠の「成熟」の過程に、涸沢さんは注目します。

 最初の出会いが69歳の天野忠であった涸沢さんは、「若い頃から若年寄り」と言われていた天野さんが「若年寄りから何事もなく自然に老熟されたもの」と思っていたのだそうです。しかし、そうではなかったのだと、涸沢さんは気づくことになります。後年の詩によって老いの達人、夫婦の達人と評された天野さんにも、心身がともに病んでいるような老いのトバ口からの長く続いたトンネルがあったのだというのです。やっとのことでくぐり抜け、詩人天野忠として「成熟」「老熟」したのだと、涸沢さんはそこが見えないと天野忠の詩の世界は見えないのだと考えているようです。

 そして、そんな天野忠の転回点を、先に引用した詩集『クラスト氏のいんきな唄』に見い出しています。天野さんが詩のなかで「クラスト氏」というもうひとりの天野さんを得たことによって、すなわち「自己を客体化することで、その後の軽みを得た」という面があったのではないかと、涸沢さんは理解しているのです。 

 

 このように、いわば長い苦悩の時をへて、ある面で自覚的に獲得した、言い方を替えると余計なものが剥がれて原型が現れてきたのが、<天野忠の詩>なんだというわけです。そんな天野忠の詩の本質を突く言葉を、1983年刊の詩集『夫婦の肖像』に付された富士正晴の<あとがき>から引用しておきます。

 「 [前略]彼は老人としてわたしの前にあらわれるわけだが、彼の詩は彼本

  人よりモダンでシャレており、彼本人の立居振舞いより、もっと辛辣な

  ものを潜ませていた。さりげない詩の終りで鋭くチクリと、皮肉と自嘲と

  平然たるその姿をひるがえして、その詩を完結させる。」

 まことに鋭い批評ですが、私自身は「彼本人の立居振舞いより、もっと辛辣なものを潜ませていた」ところに重心をおいて、天野忠の詩を理解したいと考えています。

 

 中途半端に天野さんの詩を論じようとしていますので、ここで話を戻すことにしましょう。

 涸沢さんは、清水正一を父以上に父に、桑島玄二、東秀三を年の離れた兄に、足立巻一をやさしいおおきな伯父さんに、それぞれ肉親にたとえて追悼しています。天野忠については次のように表現しています。

 「 天野さんは、肉親にたとえられない偉大な詩人であった。『続天野忠詩

  集』で毎日出版文化賞を受けた式の帰りの新幹線の内で、「貧者の一灯」

  と言われ、白い封筒をさし出された。」

 涸沢さんにとって、天野さんとの交流でもてた時間を至福であったとしつつも、天野さんとは畏敬すべき詩人としてある距離感をもって接してきたことを示しているものと思います。

 先に引用したとおり、2003年の文章で涸沢さんは「後は『天野忠全詩集』の出版が残されている」と書いています。14年後の今もまだ刊行されていないようですが、もとより涸沢さんだけの都合ではありえず、複雑な問題が絡んでいるのではないかと想像しています。

 涸沢さんとしては、何としてもいう気持ちが強いのではないかと推察しますが、その実現を、《遅れ時計》の続編とともに期待いたしましょう。

 

 《遅れ時計》の最後の最後に、涸沢さんは天野さんの文机が自宅にあると告白する一文をおいています。天野忠と涸沢純平という二人の関係を昇華させたような文章です。

 「 六十二歳になって、はじめて持った二畳半の書斎。その書斎にあった天

  野さん愛用の文机、が今、わが家にある。昨秋、長男の元さんから贈られ

  た。おそれおおくて使うわけではないが、時々ながめている。天野さんの

  書斎の障子に午後の陽が当たり、小竹の笹の葉影が揺れていたのを思い浮

  かべる。

   文机に向かった天野さんの後ろ姿にすずしい風が吹いている。」 

 天野さんと涸沢さんの関係は一方通行ではなく、天野忠の仕事がこれだけまとまって読むことを可能にしたのは、伴走者である涸沢さんの存在があってこそだということを忘れてはならないと思っています。

  天野忠の本 詩集『私有地』1981刊『掌の上の灰』1982年刊『夫婦の肖像』1983年刊

                        随筆集『木洩れ日拾い』1988年刊  いずれも編集工房ノア

  山田稔の「天野忠」関係本 『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』2000年刊

               『天野さんの傘』2015年刊 いずれも編集工房ノア

 

🔹編集工房ノアという<灯台>

 編集工房ノアの社主である涸沢純平が発行者を奥様の名義に替えて自社から刊行した《遅れ時計》の内容を紹介したくして、名前が未知の<清水正一>と既知の<天野忠>のことを書いてみました。当たり前のことですが、《遅れ時計》は編集工房ノアの系譜につながなる良書です。いい本は売れないものですが、手にとっていただければ損はさせません。

 山田稔が生島遼一の人柄のあらわれとして、生島のエッセーから「いい文章とは、いわゆる名文ということではなく、平明で、むだのない、そして読者に親切なわかりやすい文章ということなのだ」を引用していますが、涸沢純平の文章もそうなんだと思いました。

 

 同書は編集工房ノアという「文芸の方舟」へ涸沢さんとともに乗船し共振した著者たちを、その交流とともにスケッチして追悼したものですが、編集工房ノアの前史であり、編集者涸沢純平の自分史でもあります。涸沢さんは、ゆりかごから墓場まで、最後のみとりまでしようとする医師のようでもあります。

 創業の1975年から四半世紀、20世紀の最後の四半世紀において関西の文芸の水源を担った詩人・作家たちをよき伴走者であった涸沢さんが記録した文集であるとの趣きが強く感じられました。

 

 先に引用した二十五周年記念会での鶴見俊輔さんの挨拶には、「目鼻立ち」だけでなく、「ノアは十九世紀を思わせる出版社で、私は、十九世紀が二十世紀、二十一世紀に劣っているとは思わない」という話もあったとのことです。

 19世紀の出版社がどういうものか分かりませんが、編集者と著者の親密で濃密な人間関係がベースにある本造りという側面が似ているとでもいうのでしょうか。記念会の「お礼の言葉」で、涸沢さんは長い挨拶をしてしまったようですが、知らないところで読者に支えられていることを言いたくて「出版社というよりは本造りの職人で、未だに流通のことはわからない、といわでもがなのことまで言った」とあります。

 私自身は決して編集工房ノアのいい読者といえませんが、勝手な妄言をいわせてもらえるなら、編集工房ノアの存在は関西の読書界を支え、刺激を与えてきた灯台であると申しあげてもまちがいありますまい。かけがえのないその土壌があってこそ、別のスタイルにせよ、新しい意欲的な編集者が登場し本造りをしようとしているように遠望しています。

 編集工房ノアの行く末、私は分かりませんし、申しあげるべきことでもありません。ただし、今や、ただ続いていくことを期待することがいいことかどうか、迷います。でも編集工房ノアという灯台がなくなった関西の文芸を想像することはむつかしいですね。

 されど、否応なく時はすすみます。たまたま《遅れ時計》を読んだ私から一つだけ申しあげるとすれば、編集工房ノアさん、涸沢さん、本当にありがとうという感謝の気持ちをお伝えしたいということです。

 

 先日まで暑い暑いと言い暮らしていましたが、なんだか突然のように冬の色も感じられる今日この頃です。今年は、黄葉も紅葉も早く、落ち葉のぶあついジュータンを踏む、不安になった足元がすべったりします。

  大中遺跡公園内の紅葉と緑葉のコラボレーション

 

 

2017.11.10 Friday

『思泳雑記』の二年、そして三年目へ

 一昨年の11月11日に当ブログ『思泳雑記』を始めてから、ちょうど二年になります。

 サラリーマン生活の終わりがはっきりしてきて、次の「終わりの始まり」のためにどうしようかと迷い、準備しました。パソコン教室に通い教えを乞いつつ、いささか強引に立ち上げました。2年後の今となれば、ブログの立ち上げ方法など、その場しのぎの藪医者のごとく早くも「藪の中」状態です。

 

 ただ今の心境を自分に問えば、このブログに救われているかなという自覚があるということです。

 基本は、<筆不精を決め込んで書かなくなった友人にあてて、手紙で挨拶を書くように綴っていけたら>とした冒頭の「『思泳雑記』をはじめます」、そして<私自身の今の暮らしにおいて『思泳雑記』は気付け薬になっていることはまちがいないようです>と記した「『思泳雑記』の一年」と、そんなに変化しているわけではありません。

 でもというか、2年後の今は、もう少し切実にブログという形で書いている行為がなかったとしたら一体どうするのだろうという問いの前に立っているような感覚があります。ブログで書いている内容は相変わらずのことなのに、今の暮らしにおいて比重が高まっているように感じたりします。

 この状況は、ついついかくありたいというドグマにとらわれやすい私にとって自戒すべき現象であり、要注意が点滅しているのでしょう。

 

 要注意といえば、昨年「自家撞着」という言葉を用いて、自分に向け、ブログの内容について点滅信号を発しています。

 とどのつまり、このブログは自分のためにはじめ、そして続けているのです。そうではありますが、読んでくださる方を放念して「文章が問わず語りのモノローグ」になってしまうことは避けたいと願っています。つまり読者の姿を見失った「自家撞着」的な文章にならないように意識しているつもりですが、前記の自覚と関連して、そうなりやすい傾向が強まっているのではないかと心配になってきました。

 昨日、野矢茂樹さんの本(『哲学な日々ー考えさせない時代に抗してー』)を読んでいると、「接続表現」の重要性が強調されています。論理的な文章を書くために、実践的なアドバイスを一つあげるとすれば、「接続助詞なども含めたさまざまな接続表現をきっちりと使いこなすことである」というわけです。野矢さんは「文と文が互いに呼応しあい、連関しあってひとつの文章全体が形作られる」であり、論理的な文章では「問いと答えの自己運動が始まる」ことになるのだから、そのためには何より「問いと答えのやりとりにおける、いわば「合いの手」」となる「接続表現」が大切だと主張しています。

 これまで「接続表現を多用する文章は美しくないとする傾向が私たちにあったように思われる」が、「美しいモノローグへの自己満足からは脱却しなければならない」のだというわけです。確かに私にも接続表現を避ける傾向がありますし、ブログという特殊性もあって、一行開けて段落を設けることで「接続表現」を代替していることも多くあります。<つまり><だから><なぜなら><ただし><例えば>そして<そして>。接続表現ひとつで文意は変わってしまいます。

 野矢さんは「しっかりと読者を見据えた、対話へと開かれた文章を書く、それが「論理的に書く」ということにほかならない」と、「論理的に書くために」という文章を結んでいます。私自身は「論理的に書く」ことだけを目指しているわけではないけれど、「対話へと開かれた文章を書く」ことは、私にとっても大きな目標です。ブログの骨格という観点からも、野矢さんの言葉を三年目に向かって心したいと思っています。

 

 当ブログでこれまでにアップした記事は計141本です。二年目だけだと63本となります。

 一年目は海外への旅の振りかえりというテーマのウェイトが大きくなりましたが、二年目はランダムなテーマになりました。もちろん何を書こうかなと迷ったりすることもあります。でも書いていたら別のテーマが浮かんできて、なんとなく芋づる式につながっていってくれるのです。

 二年目は、庄野潤三、天野忠、ジャクソン・ポロック、ティツィアーノ、それにわりと多くの映画を取り上げました。少しまとまったテーマとしては、お騒がせのトランプ大統領の当選とそれ以降の問題をやはり避けることはできませんでしたし、堀田善衛と上海のこと、池内紀とカントのこと、そしてロバート・フランクと神戸展のことなどがあります。

 こんないい加減といえばいい加減なことですが、書かずにおれないという大きなテーマをもっているわけでない私としてはこんなスタイルでぼちぼちとやっていくしかないのかもしれません。まあ老いることは停滞・衰退だけでなく一寸先は闇というか想定外のことに直面することでもあります。あまり楽しい話ではありませんが、たとえば病気が悪化して治療ということになれば、そんなことがよく登場することになるでしょう。その時は書くことができないという状態になっていたりもありだけれども。

 

 さて、三年目はどうなることでしょう。

 だいぶ以前から、机の周りには、詩人の北村太郎、作家の阿部昭と野呂邦暢、写真家のロベルト・ドアノー、ボサノバのジョアン・ジルベルト、ポルトガルのアズレージョなどの関係資料が積みあがっています。それに、民進党の代表であった前原氏の¨All for All¨の理論的後ろ盾となった井出英策慶大教授が書いた本などが出番を待っています。どうも歯が立ちそうにないとか、目の前に現れたテーマに引っ張られて、手が付けられないままになっています。 

 いずれにしてもこのタコツボからのぞくことができる範囲ということにはなりますが、自分なりに関心をもった世界のことを少し垣間見えるように努めることができたらと願っています。

 そうこう手を動かしていくうちに、前記の「『思泳雑記』の一年」に書いた<どこかで次の一歩が発見できるかもとの希みのようなものを望外とは思いつつも捨てきれていないのかもしれません>のとおり、ちょっとだけ大きめの一歩が見えてくればラッキーという気持ちで続けたいと思っています。

 

 心もとないことばかりですが、三年目に向けても、読んでくださる方の姿を見失うことなく、今の私に可能な範囲で続けていけたらと念じています。

 これからもよろしくお願いします。

2017.11.03 Friday

写真と写真集の間にーロバート・フランク『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』ー

 最近、かつて出会うこともなかった「想定外」という言葉に心がざわついたりしますが、「想定内」と「想定外」の関係や割合について何か感じられることがあるでしょうか。

 二週間続きで台風に見舞われたあと、この地にも本格的な秋がやってきました。透明な空気にやっと絶好調ですと大声を出したいところですが、想定外の身体不調が発生しました。意思と無関係に眼球が動くというめまいの症状です。ヒッチコックの映画を思い浮かべてみる余裕もありませんでした。

 想定外は予想もできなかった出来事や状況が生じることだといえますが、さまざまなシチュエーションや時間の幅で受け取り方は変化します。もちろん想定外のことだったで終わることもありますが、想定外のことばかりでは堪えようもなくて、想定外だったけれどこれも想定内といえるのかな、ちょっと致し方ないのかなと受容する過程をたどることも多いようです。

 逆に、とりとめもない一日、変哲もない一日と書くと、想定内の一日だったのですねとなります。でも、思えば、そんな一日にも想定外のことばかりが生じていて、それを想定内と受けとめていく時間の幅が短時間、あるいは同時に近いだけということかもしれません。

 天気予報の確率は高まっていると感じますが、それは楽しいことなのでしょうか。それでも想定外のことはやってきます。想定外、想定内の区分や受けとめ方は、多分に私たちのあり方そのものが、生き方といってもいいのでしょうが、影響しています。想定外ばかりでも疲れますし、想定内ばかりでもつまらなく感じます。歴史的、文化的な背景抜きで語ることはできませんが、今を生きる私たちそれぞれにとっていいバランスがありそうです。

 ことほどさように、私たちの人生も、いい加減なというか、優柔無碍な想定内と想定外のバランスのなかで泳いでいるということもできそうだと思っています。

 

 「想定外」とは関係ありませんが、こんなタイミングでロバート・フランクの写真集が出現しました。もちろん写真集から歩いてやってきたわけではありません。

 私の手元にはロバート・フランクの写真集は一冊もないものと思いこんで、9月から神戸でのフランクの展覧会をテーマに書いてきました。これで終わりにしようとフランクの資料類を片づけていると、ほんとにそばの本棚にあったのです。展覧会の前にフランクの写真集があったかなと探したとき、写真集としては薄っぺらくてわかりにくかったということなのでしょうが、「口笛文庫」で手に入れたことを完全に忘れていました。

 ヴェネツィアのときと同じく、後からということになりますが、フランク関係の締めとして、写真集『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』について、展覧会のことも絡めて紹介させていただくこととします。

 この写真集は、1952年にフランクが3冊だけ作成した手製本をベースに、1994年にワシントンDCのナショナル・ギャラリーで開かれた大回顧展にあわせて出版されたものです。2009年のシュタイデル社版より少し大きい版型(275×264)となっています。

  ロバート・フランク『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』National Gallery of Art/1994

  上記の2つの言葉は、同じ写真集の冒頭のページにおかれています

 

 写真集は(たった)34枚のプリントが三つのセクション「BLACK(黒)」「WHITE(白)」「THINGS(もの)」に分かれて配置されており、いずれもフランクがアメリカにやってきた以降、旅から旅への移動を繰り返すなかで撮影した膨大な写真群からチョイスされています。

 冒頭ページの言葉を日本語訳で書いてみます。上段の二行は1943年に刊行されたサン=テグジュペリ『星の王子様』の一節の引用です。

 「 ものごとはね、心で見なくてはよく見えない/いちばんたいせつなことは

  目に見えない。」

  [ ひとがほんとうに見ることができるのはただ心によってのみ。一番大切

   なものは目に見えない。]

 下段の方には、三つの章の性格を簡潔な言葉で表現しています。

 「 顔を曇らせた人々に黒く不吉な出来事/静かな人々に平穏な場所/そして

  人々が出くわしたもの/それが、私が写真で見せようとするものだ。」

  [ 陰気な人びとと暗い出来事/静かな人びとと穏やかな場所/人びとが出会

   うことがら/それを、わたしは写真で見せようと思う。]

 ㊟「」内は9月の展覧会の説明文、[]内は飯沢耕太郎『フォトグラファーズ』論文から、それぞ

  れ引用したもので、微妙なニュアンスの差異を感じます。  

 

 フランクがテグジュペリの言葉を引用したことを、飯沢さんは「ライフ」流のフォト・ジャーナリズムに対するフランク自身の不信のあらわれととらえたわけですが、まあ「僕の写真を見るときは、こんな心構えで見てくれたらうれしいんだけれど」というのがフランクの気持ちだったのでしょうか。きっと28歳のフランクにはこれが私の今考える写真語法だ、こう見てほしいとの切羽詰まった強い意思があったこととは思います。

 写真集の形ですが、三つの章それぞれの最初のページは、「黒」は12点、「白」は8点、「もの」は14点の写真について「タイトル/撮影場所/撮影年」が一覧できる目次のようなものがあって、それで仕切りされています。仕切りのあと、プリントが並べられており(プリントのページには目次に記された写真番号のみが掲載)、見開きの左か右のページに写真1点が基本ですが、見開きに2点の写真を対に並べているというページが4箇所あります。

 

 この写真集は、写真、写真集はかくありたいという若きフランクの初心の主張で貫かれているように感じられます。

 写真家であるフランクの編集力のことはこれまでにもふれていますが、6〜7年後の『The Americans』を予見するような、あるいはもっと直截にその力量が発揮されているようにさえ見えます。若いフランクはこれが私の見た世界ですと、この写真集を差し出しているようです。見る者に単純なストーリーや紋きりの感想を許さず、いささかの困惑を含んだ複雑な感情を喚起させずにはおかないフランクの写真集としての独特の語りが感じられるのです。

 このあたりのことを、二つの引用によって、提示しておくことにしましょう。

 まずは展覧会の会場に展覧されていたモンティ・バッカムという方の批評文、『The Americans』の中核にある「フランクの写真の数々と、生き生きと執拗なその連続性」について書いている部分は『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』にもほぼ当てはまりますのでメモしておきます。

 「 ページからページへの優雅な結びつきと対比、静寂と躍動の戯れ、映画

  的な時間の流れ、親密さと孤立の面白い組み合わせ方、啓示と暗示、明瞭

  さと曖昧さがそこにある。」

 バッカムの文章は少しむつかしい言葉使いですが、ページを繰ると「結びつきと対比」がマジックのように展開されており、それが大きな流れとなって写真集を前へ進めていくという感覚をもつということです。

 もう一つ、ネット情報(アジェ・フォト)からの「ロバート・フランクのことば・名言集」から転載しておきます。

 「 私の写真は前もって計画したり構図を決めて撮ったものではない。写真

  を見る人が共感してくれるのを期待することもない。しかし、もしも私の

  写真が見る人の心になにかイメージを残すとしたら、そのとき何かが成し

  遂げられたと私は感じるのである。」

 そのための大きな一歩として、1952年、スイスの友人デザイナーであるヴェルナー・ツリートの協力を得て手作りした『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』というたった3冊の写真集において、フランクは「人の心になにかイメージを残す」ことを念頭におきつつ、大変自覚的に編集し試作したものではないかというのが、私の感想です。 

 

 結局のところ写真集全体を前から順に見ていただくしかありませんが、ひとつの試みとして、三つのセクション別にさらにプリントをチョイスするという再編集にトライしてみたものをアップします。

 最初は「BLACK」です。冒頭の2枚はバレンシアの楽隊の「Parade」と黒服の「Procession」と黒ずんだ写真が続き、いずれも右から左へと移動する人々の姿が写しとられています。

 とにかく黒色の占める割合が大きい写真が続き、「顔を曇らせた人々に黒く不吉な出来事」「陰気な人びとと暗い出来事」に世界は閉じ込められているような感じになります。

  「Black」の12点です

  左は「6 Woman/Paris 1952」、右「7 Ticker Tape/New York 1951」

  見開きに2枚の写真が並べてあるのは「結びつきと対比」がわかりやすいのです

  「8 Boys/Valencia 1952」 裸足の少年、元のプリントもブレています

  左「11 Chauffeur/London 1951」、右「11 Funeral/Paris 1951」

  「12 Landscape/Peru 1948」 「Blackの最終ページの写真で「White」へ進んでいきます

 

 「BLACK」は写真6点で代表させましたが、最終ページのペルーの「Landscape」、ペルーの未舗装の道の先にやや斜めにのびる光の帯は、次の「WHITE」を呼び出しています。

 なお、見開きに2枚のプリントを対に掲載したページは、「BLACK」と「THINGS」にはそれぞれ2箇所ありますが、「WHITE」にはありません。それが意図したものかどうかは分かりませんが、その代わりに19の下から上へ移動する組み写真が入っているようにも感じます。

 「WHITE」の写真は確かに「BLACK」より白さを感じさせはしますが、「静かな人々に平穏な場所」「静かな人びとと穏やかな場所」という冒頭ページに掲げたフランクの説明をそのとおりだとうなづくことが私にはできませんでした。どちらかといえば「BLACK」と「WHITE」の関係は明確な対比というより、若きフランクの感性がとらえた世界として曖昧な連続の方が感じられたのです。 

  「White」の8点です 最初は「My Family」で当時の妻が息子パブロに授乳させています

  「14 Family」 13の自分の家族に続いてペルーの家族です

  「19 Couple/Paris 1949」 

  「20 Street Line/New York 1951」 「白」の最終ページの写真です

  「黒」の最終ページの「Landscape」と照応し、「Things」へ進んでいきます

 

 「WHITE」の最終ページの白い中央ラインの向こうに、「黒」と「白」の混在する「もの」、「そして人々が出くわしたもの」「人びとが出会うことがら」の「THINGS」の世界が広がっています。「THINGS」が「もの」なのか「こと」なのか、よく分かりはしませんが、いずれでもあるのでしょう。

 「BLACK」の最終ページのペルー「Landscape」と「WHITE」の最終ページのニューヨーク「Street Line」の照応関係は明らかだとしても、入れ替え可能だとも感じます。自然状態から都市化される世界が前提となっていて、ペルーそしてニューヨークの順番が決められたのかもしれません。何よりも次の章へと牽引するイメージであったのでしょう。

 「THINGS」は「Tulip」のパリではじまり、陰鬱なイメージを挟みながら、「Horse and Sun」のペルーで締めくくられます。そこには直線的には語りえない謎めいた世界の像とともに、プリントの連続はスピード感とリズムを生み出しているようでもあります。いわば「黒」と「白」の混在する世界を提示しつつ、写真集の最後はペルーのまぶしい逆光のなかの「Horse and Sun」で終わりを告げます。

  「Things」の14点です 31〜34は「Horse」が連続しています

  「22 Woman of Stone/New York 1951」 ブレは元の写真にもあります

  左「24 Men of Wood/Malaga 1952」、右「25 Men of Air/New York 1948」

  左「32 Dead Horse/Angers 1949」、右「33 Horses and Children/Paris 1952」

  「34 Horses and Sun/Peru 1948」 「Things」の最終ページでかつ写真集の最後の1枚です

 

 この薄い写真集をみて、トータルな作品であるとの印象を強く持ちました。写真集は1枚ずつの写真の集合で成り立っていますが、1枚の写真を切り離したうえで見るという行為と写真集をトータルに見るという行為は違うということです。つまり個々の写真プリントとは独立して、写真集は存在する、存在できるということです。

 当たり前のことを書いているのでしょうが、この写真集を見て、このことを強く意識することができました。私の見るような写真集は、ある写真家の代表的な写真群を再構成して編集した部厚い本であることが多いのです。すぐれた編集をへた写真集なら別かもしれませんが、多くはカタログのようなものなのです。もちろん独立した1枚の写真として見ることができるという相反するメリットはありますが。

 これに対し、『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』のような写真集は、写真家の意図のもとに個々の写真が選択され集められ並べられることによって、いわば化学反応を起こすことができます。写真集に集められた写真を切り離して別々に見たときより、個々の写真から発信される情報もパワーアップしますし、全体として一つの作品としての力、強いエネルギーを放射することになります。

 そんな写真集がすぐれた写真集だといえるのなら、『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』はまさにそうした写真集だといえます。

 

 さて、最後に9月の神戸でのロバート・フランクの展覧会との関係を少しみておくことにします。

 この展覧会は「Books&Films」とネーミングされていることからも写真集を意識したものであることがわかります。『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』の展示された写真は4本の垂れ幕に印刷されていたはずですが、私が撮った写真にはそのうち2本、あえていえばプラス半本しか残されておらず、残念ながら中途半端なものとなっています。

 前のブログとも重複しますが、アップしてみます。そこには前段でアップした写真の一部が再構成されて登場しています。

  神戸展の『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』の垂れ幕の1本

  同上の別の1本

  同上の別の半本 左下の写真はニューヨークと思いこんでいましたが、ベニスです

 

 こうして写真集を見てから、展覧会の写真を見ると、展覧会は展覧会で編集されていることがわかります。今回、写真集をその編集に沿い「BLACK」「WHITE」「THINGS」に区分して、34点の掲載プリントから15点をチョイスして並べてみました。この展覧会では、垂れ幕ごとに「黒」「白」「もの」を区分する方法は採用されずに、1本の垂れ幕には写真集で「黒」「白」「もの」に区分されていた写真が混在するように構成されているのです。

 今回の展覧会の『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』にかかるシュタイデルとフランクの編集意図が明確にわかるというわけではありませんが、他の写真集も含めて比較すると、もっと何か感じとることができるかもしれません。ともあれ垂れ幕という限られたスぺースに写真集に掲載された写真を選択して並べるという編集的作業はむつかしく考えれば考えるほどややこしくなりそうです。

 でもそこは練達の編集者でもあるシュタイデルとフランクは、それなりにスピーディーに決めたような気がします。『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』についていえば、個々の写真のインパクトもありますが、「黒」と「白」の混在によるバランスやリズムということを、前記した「結びつきと対比」を重視しているように感じます。

 

 突然のようにロバート・フランクの『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』が現れたことによって書くことになった今回のブログで強調しておきたいのは、個々の写真とは別に写真集は写真集という独立したジャンルとして存在できるのだということです。1枚の写真と真の意味での写真集の間には何か次元の違いというか、あのセンターラインのようなギザギザの線が存在しているともいえます。

 このような趣旨からすると、同時にまた、展覧会は展覧会として存在しているということです。神戸でのフランク展が素晴らしかったというのは、通常の展覧会においてもテーマ区分、見せ方、並べ方など学芸員の方が苦労されているわけですが、やはりシュタイデルとフランクという当事者が展覧会に深く関わることによってもたらされたと感じています。垂れ幕の各1本には写真集からの複数の写真が再構成されて印刷をしているわけですから、展覧会全体がオリジナルとは別の新しい写真集だということもできます。

 

 私にとって、写真集が手元にありながら見失っていたロバート・フランクの展覧会がたまたま神戸で開催されたことによって、写真のこと、写真集のこと、写真家のことを言葉にする機会がもてたことはとてもありがたいことでした。ある意味で想定外のこと、予期していなかったロバート・フランクへの私の旅をこれで終えることにします。

 

【ロバート・フランク展関係の当ブログ】

 🔹「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」

       ーRobert Frank: Books and Films,1947-2017 in Kobeー

    2017.9.11:  (1)   /  10.13:(2-)(2-)   

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.10.27 Friday

大文字山の「大」からはー「木を見て森を見ず」のことー

 選挙と台風がいっしょにやってきました。この地よりだいぶ東の神戸では強い風が吹いたらしく、翌朝はちぎれた枝や葉の散乱が目立っており、そればかりでなく根元から折れた桜の太い幹を片づける現場もよくみかけました。皆様のところは大丈夫だったでしょうか。

 

 青年と呼べた頃から40数年を経ていても、記憶の底に残っているものだなあとの感慨を覚えました。記憶といっても脳が記憶していたというだけではなくて、身体感覚の記憶というのがふさわしいのです。

 年を重ね、頭の片隅には「私」なるものの同一性への疑いがあったのですが、当たり前のこととはいえ、あの頃の私と今の私はやはり連続しているのだということを強く意識しました。

 

 先週(10/18)、京都五山の送り火で知られる大文字山に登ってきました。直近のブログ(「雲の名前ー『関口良雄さんを憶う』ー」)の最後にも書いたとおり「何ものかに急かされるように」、ただただ上って、しばし休憩して眺望を楽しみ、そしてすぐに下りてきただけのことです。起点の銀閣寺橋から出発して戻ってくるまで100分ほどのほんとにショート・トリップでした。

 身体感覚の記憶とは、もとより視覚から来るものが前提なのですが、上り下りの足裏や膝が感覚するもの、送り火の火床までの石階段からくる心拍数の急上昇、途中から急に吹きだす汗などです。過去の私の身体が感覚していた信号のようなものが記憶の底からよみがえってくることを感じました。それは今の私の身体感覚との違いが説明できないほど同一のもののように身体全体で記憶していたということになります。

 

 大文字山登山(登山と呼べるようなものでもありませんが)をしてみようとしたきっかけは二つありました。

 ひとつはNHKBSプレミアムで9月30日に放送された『京都人の密かな愉しみ Blue修業中/送る夏』のなかで、8月16日の大文字の送り火のことが取り上げられていたからです。同じ「京都人の密かな愉しみ」という題名で2年余にわたった1ndシーズンは今年5月に終わったのですが(再放送が9月にありました)、そのあとをうけた2ndシーズンの第一部として放映された2時間ドラマです(京都人からみた京都というちょっといやらしいマニアックさも逆に売りなのです)。

 この番組はドラマとドキュメンタリーを行ったりきたりするところが魅力ですが、大文字山送り火の薪の準備から点火そして燃えさかる炎の見守りに至る保存会の人びとの大変な活動がドキュメンタリーで、主人公の一人がこれに関わっている様子がドラマとして、ていねいに描かれていました。

 それで、あんなに何回も上った大文字山にもう一度はと思ったのです。この世に生をうけ、年を重ねた者はこのままだともう一度はないなあと意識することがだんだんと多くなってきます。そんな意識がわが身のまわりにある衣食住諸々について頻繁に起こってきますが、そんな一つだったのでしょう。

 ふつうはもう一度はないよなあというため息のようなものだけで終わるのですが、もう一つ背中を押したのは身体の条件ということになります。老化による衰えだけではなくて治療という名目でエンドレスに身体が拘束されるであろうという予感です。

 そんなこんなで、かつて読んでもう一度は読むことがないと思っていた本をもう一度読んでみるというようなことが、今回大文字山行として実現したことになります。

 

 夏(「もはや京都は熱帯だーおじさんたちの遠足ー」)以来の京都行について、自分のためだけの変哲もないメモになりそうですが、報告させていただくことにします。

  大文字山火床からの京都市街の眺望(緑の塊は手前が吉田山、その向こうが御所)

 

 昼に大学での聴講を終え、新快速、地下鉄、タクシーを乗り継ぎ銀閣寺橋のたもとまでたどり着きました。長雨の晴れ間がのぞいた午前中から一転して、すっかり曇っています。外国人観光客の多いことに驚きながら、銀閣寺前を左折すると、すぐに登山ルートです。自販機で水を買って、勾配のある登山道に入りました。急に空気が一変したみたいで、脇を流れる沢の水と高い木々に囲まれた空間は匂いまでもが心地よいものです。

 砂防ダムのところで小さな橋をわたると、本格的な登山道です。丸太で土留めをした階段を何回も折り返しながら上っていくことになります。<足元に注意>とあって、踏み外さないように気を付けました。前回の登山は40数年前のことだったにちがいないのですが、加齢によって足元への注意度は高くはなっていても、それでもなんか変わっていないよなあと感じていました。

 途中で、少し開けた空間に出ました。あとで調べると、法然院の裏山である善気山に向かう道と大文字山頂上への道に分かれている「千人塚」と呼ばれる場所だったようです。

 大文字山にただ速く上ることだけを課していた若いころはそんな呼称などどうでもよかったのでしょう。第二次大戦末期に高射砲を設置するために地面を掘ったら、かつて足利と三好・松永両軍が戦ったときの兵士たちのおびただしい人骨が出てきたのでそう呼ばれています。目にしみる赤い前掛けのお地蔵さまが祀られていました。

 

 大文字山ルートをさらに上がっていくと、最初の余裕はなくなり、こんな距離感だったかなあと少し辛くなってきました。明日以降への影響を心配する気持ちになってきました。下りてくる何人もの人に出会います。わりと重装備のハイキングスタイルの中高年の男女、毎日上っているかのような足取り軽い高齢者、カメラだけを下げた白人の観光客の一団、そしてかつての私のようなランニングスタイルの若者。「こんにちわ」と声をかけあいます。かつてより山中で出会う人は多くなっているようです。

 私はといえば、ゆったりとペースを維持することもできずに、相変わらずせかせかと上っていく自分にあきれていました。三つ子の魂とはよくいったものです。

  起点となる銀閣寺橋 ここから銀閣寺の方へすすんでいきます

  登山道に入ったところ 右側に沢があります

  階段状の沢となっています

  本格的な登山道です

  「千人塚」という場所にある地蔵さんです

 

 もうそろそろ火床が近いよなあと上っていくと、眼前に石段があらわれます。この石段を上り切ったら火床へ出ることは覚えていましたが、こんなに長い石段だったかとたじろいだのです。途中で腰を下ろして休憩しているご同輩と出会ったのですが、格好しいの私はちょっと心臓の速い動きを感じながら「こんにちわ」と通りすぎました。ちなみにこの石段は150段だそうで、そんなものかとなりますが、足を止めない私の息はすっかり上がってしまいました。

 頭上に架けられたリフトが石段の上を横断しており、その下に保護ゲージが設けられています。このリフトは『京都人の密かな愉しみ』でも紹介されていた送り火用の薪を山上へ上げるためものです。ネットで紹介されているところによると、1972年に作られたのだそうで、それまでは保存会のメンバーが担いで上がっていたとのことです。

 1972年、昭和47年というと、私が大学四回生で最も頻繁に大文字山へ登っていたころですが、当時出会っていたかもしれないリフト工事のことなど全く記憶がありません。見ないものは見えないということにほかならないでしょう。

  この石段を上り切ったら火床と眺望が待っています

  一番奥に写っているのがリフトと防護柵です

 

 石段を上りきると、送り火の薪を保存する倉庫があって、「大」の字の火床に出ることができます。火床は山頂の少し下側の急斜面に作られ、当然高い木はすべて伐採されていますので、一気に眺望が広がるというわけです。ここは一画目というのか「大」の字の横一文字の火床が設けられた標高であり、展望台ともなっています。

 何人かの先客がいて、写真を撮ったりしています。三つの画が交わるところの火床は「金尾」と呼ばれ特別の形と規模です。まさに「大」の字の中心に位置し、他の火床が二つや四つの細長い大谷石を並べたものであるのに比し、十本の大谷石を組み合わせた傘形となっています。そのそばには弘法大師を祀っている「大師堂」があり、「金尾」火床ととともに、ちょっとしたステージを形成しているのです。

 

 かつてはここで折り返して下りていたのですが、今回は頂上まで上がってみようかな、それでは後の影響が大きいかなと迷っていました。とりあえず「大」の字の一番上、字頭まで狭い石段を上がってみました。そこでこりゃがんばりすぎと腰を下ろすと、「金尾」のところから30mほど上がっただけなのに眺望はさらに広がっています。

 「大」の字のてっぺんでは、先客の三人が休憩中です。私より少し年輩であろう男性二人連れと、まだ20代とおぼしき青年です。男性二人連れは山科から上ってきたとのことです。今からゆっくりと下山して一杯やってから帰ります、それが楽しみと笑顔です。そのうち一人はどこかで拾った枝を杖代わりに上ってこられたようで、山頂からここまでの道のりを尋ねると、けっこう長いし、足場も悪いしということでした。銀閣寺の方へ下りていく二人を見送ったあと、埼玉から来たという青年にも聞いてみたのですが、30分ぐらいはかかるということで、山頂をめざすという先ほどの意気ごみがすっかり萎んでしまったのです。

 その青年は地下鉄の蹴上駅から南禅寺の脇を抜けてここまで上ってくるコースだったようです。銀閣寺からの上り下りという簡単コースの私とはちがって、二組ともロングトレイルです。初めてという青年に、あの緑の塊りは京都御所で、その北の方に下鴨神社、そのまた北の方が上鴨神社などと、聞かれもしないことを説明したり、もし時間があったら鴨川を自転車で走ったら気持ちいいですよと奨めたりして、おせっかいをしてしまいました。

 思い立ち大文字山に上ってきて、私なりに興奮していたのかもしれません。

  火床の一画部分にあるステージです 

  これが三つの画が交わる「大」の字の中心である「金尾」と呼ばれる火床です

  「大」の字の三画を形作る火床が急斜面の下の方へ120mにわたり伸びています

  「大」の字のてっぺん、二画の頂点(字頭)にあたる火床です

  霞んでいて見えませんが大文字山以外の五山送り火を構成する山に向けて撮ったものです

 

 五山送り火のことをメモしておきます(wikiレベルの情報です)。

 起源・歴史については公式の記録が存在しておらず、諸説があるようです。今の形でなくとも、盂蘭盆会や施餓鬼の行事(死者の霊をあの世に送り届ける)として、江戸時代前期には「山に画かれた字跡に点火する行為」があったとのことです。

 話を大文字山(如意ヶ嶽)の送り火に絞ると、今の火床に薪を組んで点火するというやり方は1969年以降のことであって、それまでは杭を立て松明を掲げるというやり方だったそうです。ちょうど大学に入って私が上りはじめたころだったということになります。

 点火の方法としては、大師堂で読経が続くなか、20時の5分前の19時55分にその灯明から採った火がそばの「金尾」の火床に移され点火されます。そして20時には残る74の火床に一斉に点火されるという手順だそうです。それから時差をもって他の山も順に点火されていくことになりますが、まちまちだった点火時間が1963年に観光業界の要請により、固定化されたとあります。2014年には51年ぶりに点火時間が5分間隔に変更されました。

 もう一つだけ、かつては送り火の当日に一般人が登ってそばで見ることも可能でしたが、今では一切の当日登山が禁止されています。

 最近のことを含め、知らないことばかりです。若いころには、なぜ、どうして、どういう意味があってとか、何も思わないで、銀閣寺の近くにあった下宿から「大」の字を眺めていました。

  光と闇です wikiを印刷し撮影したものです

 

 頂上への挑戦をあきらめ、下山することにしました。途中、伐採された切り株の多さに気づきました。松枯れだけではなく、カシノナガキクイムシという甲虫によるナラ枯れも発生していたのだそうです。森林の新陳代謝だといえばそうなのですが、かつてもそうだったのか、そのあたりの記憶は怪しげです。

 登ってくる人たちに「こんにちわ」の声をかけつつ下っていくと、「大」の字頭で出会った二人連れに追いついてしまいました。「さきほどはどうも」とあいさつすると、話をしながらゆっくりと歩く二人から「えらい速いですなあ」と言われてしまいました。平地にまで戻り、勾配のきつい山道との感覚の差異を感じつつ「古書善行堂」へと急いだのです。

 

 特別に守られてきた大文字山という環境のせいなのか、本当は視覚的には変化したところもあったはずですが(登山道をとりまく森の環境とか、京都の街の眺望とか)、40数年の期間を飛び越え、「いっしょやないの」という感覚だけが残った気がしています。繰りかえすことになりますが、視覚というより、昔に身についたことを時を経てやってみるとできてしまうというような、身体感覚、身体技法に近い同一性を感じたということです。

  伐採された木株です

  このルートマップによると、火床から山頂へは100m以上あるようです

 

 五山の送り火は、闇の中に炎が光となって浮かびあがる、いわば「光と闇のコントラスト」です。

 切っ先の鋭い卓抜なメタファーの使い手である浜矩子同志社大学教授が、選挙の前日(10月21日)の毎日新聞「危機の真相」において「衆院選の焦点 光と闇が綱引きする時」と題する文章を寄せています。「国粋国家の樹立を目指す権力亡者たちが勝利してしまえば、闇が光をのみ込んでしまう」と警告しています。光チームが勝利する勘所は「森を見て木を見ないことにある」とします。つまり「どんなに枝ぶりが良く、どんなに一見魅力的な木々が取りそろえられていても、森全体は暗黒の醜態を呈しているかもしれない」のだから、「部分に目を奪われて、全体を忘れるのはまずい」というわけです。

 そして、結果はご承知の通りとなりました。闇チームの勝ちです。

 

 浜教授は、次の聖書の一節を引用して光側を励ましています。

 「 初めに言(ことば)があった。……言は神であった。……言の内に命が

  あった。命は人間を照らす光だった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇

  は光を理解しなかった。」(「ヨハネによる福音書」新共同訳)

 この「暗闇は光を理解しなかった」の一節を、光チームは闇を闇として認識するが、「闇の方は、そもそも光を光として理解できない。そこに光があることを認知できないのである」とし、「光が見えない闇。その闇はなんと深いことだろう」、だから「闇側にとって、これほど致命的なことは」なく、「光側にとって、これほど心強いことはない」と書いています。

 このことは闇チームが勝利した選挙後においても通じることであり、「木を見て森を見ず」にならないよう「森全体」を見失うことのないことが大切だということになります。

 

 たとえば「改憲」という問題ひとつを取り上げても、まさに「木を見て森を見ず」にならないよう、しっかりと森を見ることが重要だと申しあげたいのです。

 個別の条項でそれぞれ現下の国際・国家・社会の情勢との整合という観点から追加・改正が必要不可避との論説が登場することになるでしょうが、何よりも大切なことは現憲法が持っている価値を肯定的にとらえているのかどうかという森全体をしっかりと見ることです。どれだけもっともらしいことを並べたてて論じても、現憲法の価値を否定する立場からの改憲提案には、その森の闇(浜教授の言葉では「暗黒の醜態」)を見つめ続けなければなりません。

 現憲法の価値とは、基本的人権の尊重や国民主権、平和主義などであり、「改憲」提案の個々の木を構成する全体、すなわち森が現憲法の基本的な価値をどう評価しているのかを抜きに、個別の議論はありえないということです。

 

 それこそ、あまり森を見ずの大文字山登山でしたが、優柔不断の日常が常態化している私が実行できたことに、本人も少し驚いています。

2017.10.20 Friday

雲の名前ー『関口良雄さんを憶う』ー

 先ほどまで小雨が残っていた秋の夕暮れの空に、名前のわからない雲の形をみつけました。

 最近でこそ空を見上げたりしますが、これまで意識的に雲を眺めたということがほとんどありません。空にある雲というだけでその名前を呼ぶことができないのです。見ないから知らないのか、知らないから見ないのか、よくわかりませんが、雲の名前も知らないままで、こんな年齢になってしまいました。

 PC検索すると、雲には10種類あって、それぞれ聞いたことのある俗称が付いていることが写真入りで説明されています。私が実際の雲の形と雲の名前・俗称が一致しているといえるのは、積乱雲、いわゆる入道雲・雷雲の一種類しかなさそうです。すじ雲、いわし雲、ひつじ雲など呼称は聞いたことがあっても、あの雲は〇〇〇雲だと確信をもって呼べそうにもありません。

 「あれは〇〇〇雲っていうんだ」と孫に説明することもできない、まことに役に立たないおじいちゃんです。言葉は知っていても具体物の像と一致しないことが大変多いのです(逆もまたしかりです)。私の場合は特に植物、動物がそうです。そんな暮らしをしてきたと申しあげるほかありません。

 それにしても、宇宙とか、細胞とか、普通の視力では見えないものを名づけた言葉がどんどん増えてきて、自分の目で見えるものを名づける言葉が失われつつあるというが現代の世界なのかもしれません。たんに自分のことを棚にあげているだけのようですが、そこに現代を生きる人間の空虚感や、さらにいえば今の世界の困難さの一つの要因があるのではないかと感じたりします。

 今更ではありますが、せっかくこんな時間がもてたのですから、せいぜい空を、雲をポカンと見上げ、その不思議を感じてみることにしたいと思います。

 

 あざやかな赤色のヒガンバナが咲き、そして枯れ、10月半ば、喜瀬川沿いに群生するコスモスが、黄色というよりオレンジ色に近い花弁を全開していました。大中遺跡公園内のケヤキやイチョウの葉も少し色づいてきています。

 コスモスはラテン語で秩序を完結した世界体系としての宇宙のことだそうで、反対語はカオスです。まさに混沌を絵に描いたような世界情勢にあって、この国では高笑いの聞こえてくるような予定調和の選挙が行われています。とにもかくにも選挙です。前回2014年12月の衆議院議員選挙の小選挙区では、自民党の得票率48.1%に対し、議席率は75.6%です。報道によると、再びこの現象が生じる可能性は大です。そして選挙後の何食わぬ顔のリセット。

 棄権は危険で現状を肯定、固定するだけです。空しさが消えるわけではありませんが、たとえ次善の策であっても投票だけは行うことにいたしましょう。

  雨上がりの夕暮れの空にこんな雲が出ていました[10月14日]

  道端のヒガンバナです[10月7日]

  喜瀬川沿いのキバナコスモスです[10月14日]

  常緑樹に囲まれてケヤキが色づきはじめています[10月14日]

 

 先日、関口良雄さん(1918-77)の『昔日の客』を読んでなんだか懐かしくうれしい気持ちになって、登場する作家たちのことや復刊の経緯などを紹介させてもらいました(「それとこれとは別のことですがー関口良雄『昔日の客』ー」)。

 昭和52年8月の関口さんの死、翌53年10月には『昔日の客』の刊行、そして翌11月には私家版として追悼文集『関口良雄さんを憶う』がまとめられました。同じ夏葉社から復刊された同書も神戸元町の古本屋「1003」で手にいれましたので、今回は前回分に追加する形で紹介させていただくことにいたしましょう。

 

 この追悼文集には26名の方が関口さんを偲んで文章を寄せています(前ブログで登場した野呂邦暢さんも「花のある古本屋」を寄稿しています)。タイトルの「関口良雄さんを憶う」にふさわしい文章からは自ずと関口さんの個性が現れてきますが、二つのことが際立ってくるようでした。

 一つは話し好きで電話魔で筆まめだったことです。多くの方が関口さんから送られてきた手紙やハガキのことにふれています。そこにはよく俳句が書いてあったみたいで、そんな思い出を記している寄稿者が半数ほどもいます。

 もう一つは歌い踊る人でもあったということです。断酒の前後も変わらず、気分がのると歌の出る人で時には止まらなくなったり(自己流の短歌の朗詠もしていたとのとこと)、踊りだしたら本人が「ああ、どうしても止まらなかった」という風なところがあった人だったようです。

 昔はこんな人もいたよなあともいえますが、時に度を越したりもできる人、常識的な枠組みからはみ出すことのできる人であった関口さんを、それは詩心から離れなかった関口さんの本領の発揮、愛情の発露として、多くの人たちが驚きとともにそんな関口さんを愛し関口さんに惚れたのだと感じました。

 

 関口さん(俳号銀杏子)の俳句のことについて、師匠であった加藤楸邨さん(1905-1993)が「二つの心のこりー関口銀杏子君と私ー」を寄せています。

 なぜ作風の違う自分の選を受けようとしたのか、それがながく継続したのはなぜだったかを、関口さんが生きていたら知りたかったというのです。加藤さんは関口さんが「風狂一途といってよいユニークな作風」で洒脱とか風流と評したくなるのに対し、そんな境地から「いささか縁の遠い、ぎこちないぐらいに野暮ったいゆき方」の自分と対称的だったのにということのようなのです。

 加藤さんはそんな異質に近いもの同志が俳句を続けた場合、「在来の自分のものとも選者の世界ともちがった、どちらをも内に融かしこんだやうな新しい作風が徐々に、あるいは突如としてあらわれてくることを」たびたび経験しているから、そのことを関口さんにも予感していたのにと記しています。「この目で確かめるところまで君の方が生きてゐてくれなかった」、そんな心のこりがあると関口さんの早すぎた死を悼んでいます。

 もう一つは、関口さんは加藤さんの全ての句集を筆で書いて和とぢの冊子にしつつあったそうで、「全部出来たら、箱に何か書いて下さい」と言っていたのに、未完に終わってしまったという心のこりです。「銀杏子といふ一人の人間の念々とからみあった自分の句を見るはずだった」「そこで何かを知ることができた」と思うのだがと、関口さんの死を惜しんでいます。

 どうして筆書きなのかといぶかる加藤さんに、関口さんは「念を入れて味はひたいので」と羞かむように言ったのだそうです。そのうち加藤さんは筆書きの句が活字で読んだ場合とかなりかわった感触でひびいてくる、「私が詠んだときにあったはずの体臭のやうなものをとり戻している」と感じるようになってきていたのにと悔やんでいます。 

 

 関口さんの俳句を、この文集に寄せられた追悼文の中から順不同で選んで紹介しておきます。

 「山眠る山の子に絵本送らねば」「囀りやごろりと海が横になる

 「春の夜の鼠のしっぽ見えかくれ」「下曽我の小さな駅に銀杏散る

 「枯れ枯れてすすきの人となりにけり

 大病、手術の句のことを記している方も多いのです。

 「採血や都わすれにはげまされ」「眠る間も花咲きをるよ雲間草

 一方、加藤楸邨さんはウィキペディアで代表作を読んでいただくとして、小沢信男さんが『俳句世がたり』(2016年12月刊/岩波新書)で引用されている二句を再引用します。

 「梅雨さむし鬼の焦げたる鬼瓦」「夕映えて紫陽花かげの子の臍よ

  『関口良雄さんを憶う』尾崎一雄、山高登編(復刻版平成23年2月刊/夏葉社) 

  同上 目次

 

 もう一つだけ追悼文集から紹介しておきたいのです。『昔日の客』で「可愛い愛読者」として描かれた木村百合子さんの「俺の写真箱」です。

 「可愛い愛読者」には「百合子さんが初めて尾崎さんの本を探して私の店に来たのは18、19歳の頃だった」とあります。「明るい娘でよくしゃべり、面白い事を言っては私達夫婦を笑わせ、我が家の息子・娘達ともたちまち仲良しになった」というのです。尾崎さんとは「尾崎一雄さん」のことで、関口さんが一番面白かった小説はと聞くと、ためらうことなく「『懶い春』です」と言われた時には「思わずうなったほどだ」と書いています。

 百合子さんの「俺の写真箱」には「とにかく気難しい偏屈な人だと噂に聞いていた」関口さんとの初めての出会いが次のように書かれています。

 「 この人が私の好きな尾崎一雄先生の文学書目を造った人かという思いで

  顔をまじまじと見た。しかし予想はみごとに外れ、やさしく穏やかな話し

  ぶりに引き込まれ、その日私はお昼と夕飯をご馳走になり、奥さんの入れ

  てくれるお茶と大好物の和菓子を前に閉店時間の夜八時まで、なんと十時

  間も初対面の関口さんと話し続けたのであった。」

 初めて顔を出した古本屋さんでこんなことになるとは、いくら関口さんの敬愛する尾崎一雄の愛読者だからといってもちょっと想像しにくいですね。関口さん、関口さんご夫婦もすごいですが、百合子さんも百合子さんです。「関口さんへ遊びに行ったら寝る時間にならないと家へ帰らないという生活を五年した」後、百合子さんが結婚して博多へ行くまで、こんな交流、交際が続くのです(それからも手紙のやりとりとして続きます)。

 

 二つのエッセーのハイライトは、百合子さんが「文学少女のいやらしさもなく、カラッとした性格」だからと、関口さんが小田原市下曽我の尾崎一雄宅へ連れていったところです。関口さんは尾崎さん宅に滞在した3時間の間、百合子さんが「固くなってか、一言もしゃべらなかった」とあります。そして、尾崎夫妻が坂の途中まで送ってくれた時、「先生、握手さして下さい」と言って握手を求めました。「孫娘ほどの百合子さんとの固い握手は、はたから見ていてもなんともほほえましい風景だった」と関口さんは記しています。

 百合子さんの「俺の写真箱」では、尾崎先生を訪問してその帰りに、もう一人の同行者(編集者?)が「君のように何の取柄もない人は若さが勝負だから早くお嫁に行く方がいい」と言ったことへの関口さんの反応が書かれています。

 「 すると関口さんは、何の取柄もないなんて言い過ぎじゃないか、と酔っ

  ていたせいか強い口調でいった。私は関口さんの思いやりに感謝しながら

  も、口では東京まで間があるから眠った方がいい、少し酔ったのでは?と

  関口さんを酔っぱらいに仕立ててその場をつくろったりした。それからし

  ばらくして関口さんは本当にお酒を断った。」

 そして、続けてこうあります。

 「 同じ頃、私は縁があって結婚した。都合で三分と決められたテーブルス

  ピーチの時間を気にしながら、三十分祝辞を述べてくれた関口さんの一語

  一句を聞いていた私は涙がにじんで仕方なかった。」 

 関口さんと百合子さんの関係も「縁があって」出会うべき人と人が出会った関係と申しあげるしかありませんね。

 

 こんな深い交流をもった二人のエピソードをこうして伝えることができるのは、なんといっても二人が書き残してくれたからです。そして復刊できたからでもあります。

 前ブログで野呂邦暢さんのことに焦点をあてたエッセー「昔日の客」のエピソードについて、岡崎武志さんが「私はこの挿話一つを抱きしめたくなる」と書いていることを紹介しました。今回は私自身が「この挿話一つを抱きしめたくなる」という気持ちにさせられたのです。

 

 古本屋「山王書房」に足を運ぶ自分を想像してみることにしましょう。店主の関口良雄さんと会話するようなことも少しはあったかもしれません。でもこの追悼文集に寄稿している人たちのような関係が生じたとは、残念ながらあまり思い浮かんでこないのです。

 関口さんから「この作家が好きなんですか」と問われ、「ええ」と答える私とか、私から「いい本が多いですね」と言い、関口さんが「だんだん雑本ばかりになってね」と答えたりする姿ぐらいしか想像が及びません。それより時にみせる関口さんの潔癖さと癇性の強さにびっくりして店から遠ざかったりしているかもしれないと想ったりもします。

 関口さんの生年月は大正7(1918)年2月ですが、偶然にも、私の父も同年1月生まれです。まったくの同時代を呼吸していたのかと思うと、おかしくなります。私の父は関口さんが亡くなってから14年ほど長く生きたことになりますが、その人生を少しは見直してみる時かもしれません。

 この追悼文集にも関口さんの子息である関口直人さんは「父の思い出」という文章を寄せています。こんな味わい深い「父の思い出」を書けそうにない私ではありますが、そろそろ書いておかないと間に合わなくなりそうです。

 

 今回紹介した加藤楸邨さんは戦後を代表する俳人の一人として「人生探究派」と呼ばれました。関口さんが敬愛した尾崎一雄、上林暁、木山捷平の文学もまた、ある種の人生の探究であったといえるでしょう。

 『昔日の客』『関口良雄さんを憶う』を読んで、関口良雄さんは、そんな山脈に連なる、楽しみながら人生を探究した人として記憶することになりそうです。

 

 さて、一昨日(10/18)、何ものかに急かされるように神戸から京都へ足をのばし、大文字山に登ってきました。山を下りて、銀閣寺道からほど近い「古書善行堂」をのぞきました。この古本屋さんは前出の岡崎武志さんの友人である山本善行さんが主人です。前ブログで紹介したとおり、夏葉社の島田潤一郎さんに『昔日の客』をいい本、読むべき本として奨めた方です。つまり復刻のきっかけをつくった当人なのです。

 久しぶりに本の棚を楽しみ読んでみたいものが多くて困りましたが、ぐっと絞って4冊だけにしました。いい音でジャズの流れる店内で、山本さんとちょっと立ち話することができました。古本屋ですが、夏葉社とか応援したい出版社の本は新刊であってもおかせてもらっているとのことです。『昔日の客』を読みましたよというと、「いい本でしょ」という笑顔から本好きの少年の面影があらわれていました。

 最後に『昔日の客』のことも語っている山本善行さんへのインタービュー記事を貼付して終えることにします。

 ㊟インタビュー

  「第20回京都編・古書善行堂山本善行さんに聞きました

 

 

 

 

 

2017.10.13 Friday

「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank:Books and Films,1947-2017 in Kobeー(2-)

(2-)からの続き〛

🔹 New York to Nova Scotia[2005/1986] ㊟[シュタイデル社刊行年/当初刊行年]

 大西洋岸に面しアメリカに接するカナダのノバスコシア州、1970年にその寒村であるマブーに居を構えたことはフランクにとって大きな転機であり、シェルターであったように感じます。ニューヨークとの行き来はフランクにとって創作のエネルギーになったにちがいありません。回顧展が開かれた1986年に出版されていた本を再刊したものです。

 写真は30点だけでそれ以外に1954年のグッゲンハイム財団への提案書など多くの文書が収録されています。ウォーカー・エバンスの助言をえたといわれる提案書のなかで、フランクは「帰化したひとりのアメリカ人が見つけたアメリカ合衆国で誕生し各地へ広がりつつある文明についての観察であり、その記録です」と書いています。あくまで提案書の中のことではありますが。

 

🔹 Come Again[2006/1991] ㊟[シュタイデル社刊行年/撮影年]

 1991年にレバノン内戦(1975-90)で壊滅したベイルートの下町の撮影を依頼されたフランクは、その仕事以外に自ら意志でポラロイドを使って撮影しました。それをコラージュした写真群をシュタイデル社が本にしました。

 破壊された町の風景は壊滅的な破壊という戦火のあとそのものであり、第二次世界大戦の集中的な空襲の跡を思い起こさせます。レバノンに引き続くアフガニスタン、イラク、パレスチナ、シリアへの想像力を要請しています。

 

🔹 Seven Stories[2009/  ー ]

 フランクは1972年からポラロイド写真を撮りはじめますが、この写真集はカラーのポラロイド写真を7点ずつ連続させて編集したものだそうです。フランクの人生において親しい(親しかった)、人物そして戸口、部屋、静物、日用品、食べ物が並べられています。

 組写真の右下の2枚が1枚の写真です。この2枚のポラロイド写真の左の方は室内にカフカの写真がおかれた室内を撮ったものです。右のフランクの写真は「Poto by Ayumi 2009」と後ほど登場する日本人女性が撮影したものであり、この写真集のデザインとしてフランクとシュタイデルに加え、Ayumiこと「A-CHAN」がクレジットされています。

 この三人は翌年の2010年から現在進行形のヴィジュアル・ダイアリーにおいてデザイン(企画・編集も)として連記されており、それを準備した写真集だということができるでしょう。

 

🔹 Pangnirtung[2011/1992] ㊟[シュタイデル社刊行年/撮影年]

 1992年、親友に誘われて北極圏のバングナータングを訪れ、5日間滞在を記録した写真集です。展覧会の解説文には人間不在でバングナータングを描き出していることを「感傷的にはならず、誠実さをとどめた」写真であると記されていました。『Valencia 1952』のところでメモした「写真撮影に対する姿勢」の反映なのでしょう。

 

◉第三部:時の流れの前に立ってー二人の伴走者とともにー

 2010年以降に刊行された第三部の写真集は全部で7冊、<目に見える日記(ヴィジュアル・ダイアリー)>と名付けられています。2013年の『Household Inventory Record』はもとはレディメードの写真集だったようで、それ以外の6冊は一つのボックスに入ることを意図された「美しい小型のペーパーバック」となっています。

 今回の展覧会でみていても、それぞれの画然とした区別が私にはつかないのです。70年代、写真に戻ってきたフランクは映画の制作で得た日記のような手法を用いています。手元に残された古い写真と最近撮りながら未公開である写真を組み合わせることによって、自分や親しい者の人生、フランクの世界、宇宙を再構成、再編集する方法です。

 今回の展覧会のカタログ「ロバート・フランク特別号」にジョン・ファレルという方がヴィジュアル・ダイアリーに関する論文を寄せています。いずれの本にも共通して登場する被写体やシンボルとして「戸口や窓枠、空、海岸線」を挙げています。何度も繰り返されることによる視覚的な連続性が、「それぞれの本を別々にも、また全体でより大きく広がりのあるひとつの作品としても見られるように結びつけている」と指摘しています。

 そうした写真集から立ち上がってくるのは、やはり時の流れ、経過へのフランクの私的かつ詩的なアプローチです。フランクは時の流れに身をまかせることをよしとせず、少々大げさではありますが、その前に立って、「生きていることのありよう」を再構成、再編集しようとする写真家の魂、芸術家の魂なのだと、私は思っています。

 

 この7冊はいずれもシュタイデル社の初刊本であり、繰り返しますが、デザインは全て「ロバート・フランク、A-CHAN、ゲルハルト・シュタイデル」とクレジットされ、その共同作業で成立しています。伴走者というべき二人との信頼関係が、ヴィジュアル・ダイアリーというフランクのレイターワークを可能にしているのです。

 ここでは、A-CHANことヤマザキあゆみという写真家についてフランクとの関係を中心にメモしておきます。1978年生まれ、茨城の取手育ちのA-CHANは2006年に渡米し、翌2007年にアポなしで83歳のフランクをそのスタジオに訪ね、そこから親交を結び、アシスタントとして10年がたちます。弟子や長期のアシスタントをのぞまなかったフランクにとって稀有なことです。なお彼女自身もシュタイデル社から3冊の写真集を出版しています。

 以下は今年のインタビュー記事からです。フランクがニューヨークにいるときには2日に一度はスタジオを通い、掃除を含め片付けものをし、お昼にサンドイッチを食べてお茶にして、今日と明日から何ができると話すとあります。現在は、撮りっぱなしのコンタクトシートから「いいな」と思うものをプリントする作業をしているとのことです。新たな宝の発掘なのです。

 A-CHANは「もう高齢なので「毎年、最後かもしれない」という思いがあって10年続いたのかな。そうじゃなかったらここまで出来なかったかもしれませんね」と述懐しています。フランクはなかなか気難しくセンシティブな人ですが、「人としての魅力がすごくあるので。ユーモアがあって、沢山笑うんですよ」とも、フランクの人となりを語ってもいます。

 いずれにしても、フランクのそばでヴィジュアル・ダイアリーの写真のプリント、企画・編集、デザインを担う彼女の存在なくしては、第三部は生まれなかったといえます。フランクのアーカイブスという記憶の源泉を更新、拡張しつつ、高齢のフランクが写真に向かう刺激を与える存在となっています。

 

🔹 Household Inventory Record[2013/ ー  ]

 展覧会ではヴィジュアル・ダイアリーの1冊目2010年刊の『Tal Uf Tal Ab』より前に展示されていました。レディメイド写真集としてはもっと前の制作だったということかもしれません。組写真の右側は妻ジューン・リーフの加齢による顔貌の変化であり、1枚の写真は2010年よりだいぶ以前のフランク夫妻の姿です。これも時の流れということにつながります。

 

🔹 Tal Uf Tal Ab[2010/  ー  ]

 ヴィジュアル・ダイアリーの伴走者である二人、組写真の右下に片膝を立て座っているのがA-CHANです。1枚の写真はゲルハルト・シュタイデルです。

 シュタイデル社から写真集を出す写真家はドイツのゲッティンゲンに出かけてシュタイデルキャンプといわれる宿泊施設に泊まって本作りのために共同作業をします。でも高齢かつ特別のロバート・フランクにはゲルハルト・シュタイデルがニューヨークを訪れて三人で本作りをするとのことです。

 

🔹 You Would[2012/  ー ]

 組写真の上段には、アレン・ギンズバーグら旧友たちが登場し、1枚の写真は美術家である妻ジューン・リーフの近影なのでしょう、フランクとの二人の関係も謎めいています。美術家のジューンはノバスコシアの小屋でも一日中仕事ができるけれど、自分は写真だからニューヨークも必要だと語っています。 

 展覧会の解説文では、新旧の作品が入念に編集されており「過去の経験がフランクの現在を強固なものにし、彼の人生は本作りによって記録されるだけでなく、形づくられていることが示唆されている」とあります。本作りによって<フランクの人生が形づくられている>とはヴィジュアル・ダイアリーの制作が現在のフランクの人生そのものだということになります。

 

🔹 Park/Sleep[2013/  ー ]

 組写真の上段、二個のドーナツの並ぶ写真を左右に2枚並べたのは抽象版画のようです。まったく同じなのかと、じっと見入ってしまいました。人物にかぎらず、日用品や外国みやげで買った人形もよく登場しますが、フランクにとって、自分であった過去と自分である現在をつなぐものかもしれません。

 

🔹 Partida[2014/  ー ]

 1枚の写真はよく登場しているA-CHANの肖像です。フランクとの信頼関係が現れています。

 組写真の方では輝く青空と白い雲の写真が3枚並べられています。微妙に雲は動いているようです。このことをジョン・ファレルは「「ヴィジュアル・ダイアリー」で繰り返される、時の流れという概念を強調する」と解しています。下段左は「自由の女神像」なのでしょうか。20世紀初頭、ヨーロッパからの移民は自由の女神像の近くにあるマンハッタン沖のエリス島に集められ、審査を受けていました。フランクの頃はどうだったのでしょう。

 

🔹 Was haben wir gesehen/What we have seen[2016/ ー ]

 組写真の下段の右は息子パブロの肖像です。フランクは手書きで「PABLO」と記しています。その左は1枚の写真でもある白髪ではないフランクとアレン・ギンズバーグの姿です。この2枚の写真が並べられている意図、意味は何かあるのでしょうか。

 ドキュメンタリー映画の巨匠であるジョナス・メカスはフランクの映画処女作にしてビートニクの象徴的作品である1959年『Pull My Daisy』に寄せた文章で、「これほど純粋かつ無邪気で、面白みと真実があり、簡潔に日常をとらえた映画は他にない」と激賞しています。映画から60年近くが経過し、ヴィジュアル・ダイアリーも「簡潔な日常」の描写という点で共通しており、そこに過去を関与させることによって、時の流れが意識されることになります。

 

🔹 Leon of Juda[2017/  ー ]

 ヴィジュアル・ダイアリーの最新刊です。組写真の上段の右、「LEON OF JUDA」と印字されたライオンの写真を写したものです。サバンナの草原に孤立したたずむ「裏切者のライオン」なのでしょうか。

 1枚の写真は、ノバスコシアのマブーの古い家です。大西洋に面しています。1970年からこの小屋はニューヨークとは別の拠点となっています。そのもつ意味は後でふれることにしますが、ニューヨークでの暮らしとのバランサーであり、フランクの芸術活動に不可欠な土地となっています。

 

おわりにー写真家とは何者かー

 図像ばかりが多くなりましたが、今回の展覧会で展示された全23冊の写真集を駆け足で紹介しました。ロバート・フランクという写真家と彼の写真について何か書いて終えたいと思います。

 前記したようにフランクは『ライフ』の「ピクチャー・ストーリー」のことを「はじまりと終わりのある、あのいまいましいストーリーってやつ」と徹底的に嫌っていました。そんなフランクからすれば、終わりに「まとめたい」という私のたくらみなど笑い飛ばしたことでしょう。

 

 それにしても、そんな予定調和の説明を嫌うフランクが、70年代以降、神話化された過去の作品を否定するような新たな写真技法を自らの方法として血肉化したのはどうしてか。あんなにも嫌っていたはずの言葉の手書き書き込みなどを駆使したことをどう理解したらいいのか。コラージュした写真と言葉の不協和音とか、視覚を撹乱するような暴力的な表現とか、そんなことさえ感じてしまうのです。

 本稿の導入部でフランクの写真の「スタイルは変化したものの基盤は変わりがないのではないか」という飯沢さんの考え方を紹介しました。その主張の正当性を否定できる何かが私にあるわけではありませんが、腑に落ちきらないような噛みきれない思いがなお残ります。

 

 飯沢さんは、写真の歴史という視点から、20世紀の写真は独自の表現メディアとして自立するために「言葉による゙説明゙や゙解釈゙」から距離をおいて「いかにその純粋性を保っていくか」が大命題であったとします。そして『The Americans』までのフランクは「その命題を極限まで追い求め、最終的な回答を出そう」とした一人だったというのです。その通りでしょう。

 でも70年代以降、それに逆行したようにみえるのはどうしてなのか。そのことを、飯沢さんはフランクのコラージュ作品に刻みこまれた「言葉の群れ」がはたして「゙説明゙や゙解釈゙」なのか、そうではないのではないかと、1974年に娘のアンドレアの事故死に直面したフランクの写真群を前に、次のように提起するのです。

 「 これらはほとんど叫び、うめき声、呪いや祝福の文句に近いものであ

      る。゙解釈゙ではなく、ぶつぶつとつぶやく自問自答の声である。」

 そしてフランクの写真の言葉について、アレン・ギンズバーグの「短く寂しい、誠実に感傷に満ちた詩ー文字・合図・標語」を引用し、飯沢さんはこう結論しています。

 「 アレン・ギンズバーグの言葉ほど、彼の写真からあふれ、ほとばしり

  出る゙声゙の正体を的確に見抜いたものはほかにない。」

 フランクの写真に記されているのが、゙言葉゙というより゙声゙なんだというのはうなづけるところです。

 

 本稿に飯沢さん以外でもう一人登場してもらったジョン・ファレルは、飯沢さんが前提とするフランクの写真にみられる70年代以降のスタイルの変化について、その背景を次のように論じています。

 「 フランクの70年代以降の美学を生み出したのは、ブリーカー・ストリー

  ト(㊟ニューヨークのスタジオ兼住居の所在地)からノバスコシア州の田舎へと居場所

  が大きく変わったこと、さらには私生活でいくつもの悲劇に見舞われたこ

  とだろう。」

 特に息子パブロとの関係がこじれ、ぎくしゃくしていた頃の映画や写真から、次のことも記しています。

 「 この頃、フランクが映画と写真の制作に用いた日記のような手法は、そ

  の後の作品にもはっきり見て取れる。」

 その手法が、さまざまなバリエーションも広げつつ、本稿で区分した第二部から第三部へと続いていくわけです。そしてある種の危機的な状況にあって、身辺だけでなく神話化された自分に対しても、フランクば声゙を発せざるをえなかったということに注目したいと思います。

 

 繰り返します。以上の意見も踏まえれば、写真のスタイルは変化したけれど写真家フランクの基盤は変わっていないという飯沢さんの主張につながってくることになります。その基盤とは「彼が求めているのは彼自身が経験した(経験しつつある)生の総体を、肉声のなまなましさを保ち続けながら組織していく方法論」だということです。表象の明らかな不連続性という現象面に対し、その基盤の連続性について少しは理解できそうな気持ちになってきました。

 ここで何かを加えるとすれば、時代の状況、フランクが深く交流したビートニクの人たちを生み出した時代の背景、例えばビートニクの詩人たちはオーラル、口誦を重視していましたし、一方で美術においてもポロックなどの抽象表現主義の新しい潮流が出現していました。フランクはこうした鋭敏に時代と反応する人びとから、とりわけ映画の制作を通じて感得できたことを、写真という分野における新たな表現方法(思えば編集も含めると写真ほどフレキシビリティがあるものはない)として、70年代のフランク自身の生の危機的状況において反映させることができた人ではないかと申しあげたいのです。

 そこにこそ、繰り返しますが「生の総体を、肉声のなまなましさを保ち続けながら組織していく方法論」としての連続性というフランクの変わらない姿勢のもとで、個々の写真の不連続性となって立ち現れてきたということができそうです。

 

 未解決のままで終わりましょう。

 こうしたスタイルの変化に私がこだわるのは、率直に書くと、第一部の写真はやはり素晴らしいと感じる一方で、第二部と第三部の写真自体を第一部と同じような視点から素晴らしいと感じることができないからです。私にとって第一部は無条件、第二部と第三部は条件付きということになります。

 もとよりフランクの伝記的な事実、生涯の軌跡を知識として得たり、ここで紹介したような文章を読んだりしますと、第二部と第三部の写真をなるほどそうかと感じることはできます。ともあれ写真家ロバート・フランクを知ろうとしたとき、第二部と第三部を捨象してしまうことは勿体ないことですし、第二部と第三部から第一部を見ることも大切なことだといえます。

 いずれにしても、これがロバート・フランクの写真総体への私の感想ですから、それはまた写真を見る人としての私の限界だと申しあげておくことにいたしましょう。

  『The Americans』からです 確かに無条件です

 

 最後に、飯沢さんの「写真家とは何者か」についてふれておきます。

 『フォトグラファーズ』の巻頭におかれた「ロバート・フランク 写真家であるためにー序文にかえてー」は、そんな基本的な問いかけからはじまります。飯沢さんは、曖昧で不確かなものと断ったうえで写真家に「写真によって「生かされる」者」という定義を仮に与えておくことにしようというのです。この定義を次のように説明します。

 「 写真という行為をぎりぎりまで突きつめて考えていくと、写真を撮影す

  る行為、あるいはその結果として生み出されてくる写真そのものが、撮影

  者その人の生と分かちがたく結びついている状況を見ないわけにはいかな

  くなる。写真を撮影することで彼らは生き続けるための力を手に入れ、逆

  に彼らの生にまとわりついた感情やエネルギーの束が投げ入れられること

  で、写真はそれを見る者を刺し貫くような輝きを帯びる。そのような相互

  作用を、自らの生の過程でいやおうなしに体現している者こそ、写真家の

  名にふさわしいのではないか。」

 長い引用になりました。本稿を書いてきた今、これはロバート・フランクそのもののことを書いていると申しあげるしかありませんね。

 飯沢さんは、写真家を「写真によって「生かされる」者」と定義するにあたり、フランクが「その典型、というより最も突出した存在」であり、「写真家という存在の原型(プロトタイプ)というべき姿」が見えてくると考え、40名に及ぶ写真家を論じた本の巻頭においたのです。

 

 ロバート・フランクという写真家に関する映画をみると、90歳をこえた今も、その変わらないことにびっくりします。「くしゃくしゃの帽子に、色あせたネルシャツ」の恰好、それは移民や労働者のファッションです。辛辣な物言いのあと、A-CHANのいうチャーミングな笑顔があらわれます。

 飯沢さんの定義どおりの写真家として継続することは神話化されているからこそ想像外の困難がともないますが、ロバート・フランクは「写真によって「生かされる」者」であり続けた写真家なのだということがわかります。

 そこに「第一部」と「第二部・第三部」の一見した違い、落差を乗りこえる核になる真実があるような気持ちがしてきました。

 

 今回の展覧会において、ロバート・フランクという私にとって未知な写真家に出会え、フランクの写真と人生について、そして写真家と写真なるものについても、考える機会をいただきました。開催に尽力された方々に感謝したいと思っています。

                   【終:(1)  (2-)  (2-)】

2017.10.13 Friday

「僕の写真は自分が忘れたくないものを写したものだろう」ーRobert Frank:Books and Films,1947-2017 in Kobeー(2-)

 ちょっとというか、だいぶ後悔しています。前回のブログ(2017.9.11(1))で、これは展覧会の外形的な案内報告だけれど、次回はロバート・フランクの写真と映画の内容を書いてみることにしますと書いてしまったことをです。

 あれから「ロバート・フランク:ブックス アンド フィルムズ,1947-2017;神戸」にはもう2回足を運びました。映画の方は早々にあきらめることとし、写真、写真集の展示だけにしぼりました。写真集ごとに新聞用紙に印刷され、おおむね4枚の垂れ幕となって展示されているロバート・フランクの写真の森をウロウロと行ったり来たりしました。そして、そんななかから、私が波動のようなものを感じた写真を手持ちのカメラで写したのです。原則は写真集ごとに<数枚の写真から構成された垂れ幕1本>と最も印象が強かった<写真1枚>を決めるという作業をやってみました。

 展覧会が終了してから2週間がたち、私の撮影したロバート・フランクの写真の「写真」を整理していて、私は改めて批評する言葉を持ち合わせていないことを確認したと申しあげるしかありません。今回のブログで行うのはこんな写真が展示されていたというレポートにとどまることをお断りしておきます。

 

 今回展示されていた写真集は全部で23冊で、もちろん全てシュタイデル社から新刊なり再刊されたものばかりです。それぞれの写真集の写真の一部が選定・構成され、垂れ幕として印刷されたというわけです。

 この23冊を三部に分けて紹介することにします。写真集はおおむね当初発表された順番で展示されていましたが、その順番にとらわれずに区分しました。特に根拠があるわけでなく、私の印象によるものにすぎません。

 第一部はフランクがスイスからアメリカへ旅立った1947年以降、1940、50年代に撮影された写真から構成された写真集8冊(うち4冊は2003年以降に初めて写真集として新刊されたもの)です。私のような年齢の者にとって、写真家の写真らしい写真ということになります。

 第二部はフランクが写真から映画の制作へと足場を移行させた1960年前後から、写真を再開した1970年代以降を包含した長期間にわたる写真集8冊です。ポラロイドカメラの使用、複数イメージの組み合わせ、画面上への文字の書きこみなど、ミックスド・メディアの作品が多い特徴があります。

 第三部は2010年以降ヴィジュアル・ダイアリー(目で見る日記)として現在進行中の一連の写真集7冊(1冊は元私家版)で、シュタイデルの同時的な伴走によって生み出されたものです。第二部から続く方法ではありますが、多分に時の流れを意識した古い写真と最近の私的な写真を組み合わせたものです。

 1924年生まれのロバート・フランクからしますと、第一部は20、30代で旅から旅へと移動していた時期に撮影した写真から編集した「初期」、そして第二部は「記憶の再構成」を繰り返した壮年から老年へのいささか長い「中期」であり、第三部は80歳をこえた写真家の現在進行形の心象風景をシンプルに編集した「晩期」とくくることができます。

 こんな区分など必要ないかもしれませんが、私が撮った「写真」を数多くアップする整理上の観点だとご理解いただきたいと思います。

 

 今回のブログを書こうとして、カタログ「ロバート・フランク特別号」をはじめ、ざっと読んでみましたが、圧倒的に説得的だったのは写真評論家である飯沢耕太郎さんの「ロバート・フランク 写真家であるためにー序文にかえてー」という文章です。今から20年以上前の『フォトグラファーズ』(1996年4月刊/作品社)の巻頭におかれたこの評論は、刊行直前の1995〜96年にかけて書かれたのでしょうから、フランクの長い写真家人生においてまだまだ道半ばの時点だったといえます。

 飯沢さんは、「初期」から「中期」へスタイルは変化したものの基盤そのものには変わりがないのではないだろうかと、次のように主張しています。

 「 『ブラック・ホワイト・アンド・シングス』(㊟1952年手製本)の時代で

      も、現在(㊟90年代中葉)でも、彼が写真に求めているのは彼自身の経験し

  た(経験しつつある)生の総体を、肉声のなまなましさを保ち続けながら組

  織していくための方法論なのである。その意味では、彼の写真は常にプラ

  イヴェートな¨日記¨の1ページを引きちぎって、提示したものにほかなら

  ない。」

 つまり写真家とはその写真と生との強力な結びつきを自らの作品を通して示し続ける存在だとすれば、ロバート・フランクは「その典型、というよりも最も突出した存在」なのだといいたいようなのです。

 いつものことで恐縮ですが、飯沢さんのこの鋭利な批評に依拠しつつ、今回の報告をはじめることにします。

  手書きされた「展覧会名の表示」です

  写真集ごとにおおむね4枚の垂れ幕で展示されています

 

◉第一部:旅から旅へーストーリー嫌いー

 思えば、いわゆる写真展という場で写真をみることは限られていますし、まして大きな会場で数多く展示された写真をみたことは指を折って数えられるぐらいしかありません(当ブログ「再見・写真と出会う(1)ー植田正治ー」)。

 私は写真をみることを絵画や彫刻よりも好みますが、ほとんどは写真集や雑誌でみているわけです。その意味では今回の展覧会は稀有のことでした。でも写真集を単位とした今回の展示方法は写真集の写真から選び編集されたスタイルであり、写真展と写真集の中間的な鑑賞体験だったといえるのでしょう。

 

 1924年にスイス・チューリッヒで生まれたロバート・フランクは、「実践的な写真技術」の習得をへて、「スイスはあまりにも閉鎖的で、わたしには小さすぎた」と1947年にニューヨークへ渡りました。有力誌『ハーパーズ・バザー』に職を得ましたが、翌年すぐに辞し、職業写真家としてのコースから外れたのです。そして、この第一部で紹介する写真の撮影先への旅から旅の「ほとんど何かに取り憑かれたとしか思えない移動の連続」でした。

 飯沢さんは「この移動の時期に、彼の写真家としての基本的な眼差しが決定された」と記しています。

 

 フランクは50年代アメリカを象徴する『ライフ』の「文章と組写真を巧みに構成した¨ピクチャー・スートーリー¨」を、「はじまりとおわりのある、あのいまいましいストーリーってやつ」を徹底して嫌っていたそうです。つまり言葉によって補強ないし裏付けられた「写真」のありように不信をもっていたということです。写真そのものに帰れということでしょうか。

 そのアンチ・テーゼとしてフランクが確立した独特の叙述の形式が「写真の内容よりも、写真家とイメージを直接結び付ける」方法だったと飯沢さんは指摘し、次のように表現しています。

 「 個々のイメージがばらばらに投げ出された断片として孤立していなが

  ら、「目に見えない」より大きな感情によって緩やかに包含され、波のう

  ねりのように見る者を前に運んでいく叙述のスタイルだったのである。」

 キャプションなし、言葉なしで、見る者に「より大きな感情」のうねりを感得させる、ロバート・フランクの写真語法の到達点です。でもこれで終わらないのがフランクであり、第二部で大きな変化をみせます。 

 

🔹『Portfolio:40Fotos 1941/46』[2009|1941-46] ㊟[シュタイデル社刊行年|撮影年]

 スイスで自作したポートフォリオであり、これを持ってアメリカに渡ったフランクは写真家である自己の証明として用いた(『ハーパーズ・マガジン』でもこれを見せて職を得た)とされています。

 当たり前ですが、スイスらしい山と空の写真が多いのです。<1枚の写真>は、がけ地を下っていく二人の動きとがけ下の動かない家並みの対比が、フランクの感情の起伏と被写体への愛情があっていいですね。

 

🔹『PERU』[2008|1948]

 ペルーからニューヨークに戻り、手製で2巻本を作成したのだそうです。

 フランクの写真からは文明批評、批判的な眼差しではないものを感じます。故国スイスへの思いがあるのか、スイスよりさらに高地の山岳で暮らす人びととその営みがごくストレートに撮影されています。

 <組写真>はヨーロッパの芸術写真の趣のある緊張をはらんだ美しさが印象的です。<1枚の写真>(以下<>は省略)は事前の断りなしに素早く人物を撮影していたといわれるフランクらしく子どもの眼差しとうずくまる母親?、ペルーの山地の強い日差しもあってか、モノクロ写真の黒と白が強調されています。

 次の写真集ではブラックとホワイトがテーマとなって続いていきます。

 

🔹Black White and Things』[2009|1948-52]

 これも1952年にそれまで撮影した写真から選んで「黒」「白」「ものごと」の三章立てで手製本を3冊だけ作り、手元に1冊おき、あとは母親とニューヨーク近代美術館のエドワード・スタイケンへ贈ったとあります。

 今回展示された上の組写真は、写真集をみていないのではっきりしませんが、左側が「白」、右側が「黒」を組み合わせたのかなと思いますがいかがでしょうか。左の下の連作は映画を感じさせるパリで、右の最上段「荒野を踏み固めた道」はペルーで、それぞれ撮影されたものです。

 1枚の写真からは振り向いた厳しい眼差しが、次の『The Americans』への準備を感じさせます。

 

🔹The Americans』[2008決定版|1955-57]

 この写真集はフランクの最高傑作といわれ、同時代と若い世代の写真家に与えた衝撃の大きさは繰り返し論じられているそうです。

 グッゲンハイム奨学金を得て1955年から57年初頭にかけて全米を中古のフォードで走破し撮影したのがこの写真群です。50年代中葉のアメリカという当時の先端を象徴する世界を、冷静にひやりとした刃をあてて写真にしているように感じます。物質文明を謳歌するアメリカはそこになく、ここに登場しているのは意外にも表情に乏しいアメリカ人、どこか空虚で愁いを飲みこんだような人びとなのです。1枚の写真は何を語っているのでしょうか。

 私は移民であるフランクの視線、批評性を強く意識しました。この文明批評的な見方だけでなく、飯沢さんは「透明な記録者の視線ではなく、あくまでプライベートな¨旅¨の報告として編みあげられている」と注記しています。

 

🔹『London/Wales』[2007|1951-53]

 この写真集以降の4冊は、撮影当時は手製本にしろ何にせよ写真集とはならずに、2000年代になってから出版されたものです。

 豊かな金融街のロンドンと貧しい炭鉱街のウェールズが対比的に構成された写真集だそうですが、ここではウェールズだけのアップとなりました。石炭で黒んずんだ顔をした炭鉱夫からは、ある種の誇りが感じられるのです。その後は廃坑が続き石炭産業が壊滅していった来るべき変化の予兆を、我が国の炭鉱に関する写真、例えば土門拳の『筑豊のこどもたち』を、私は思い起こして立ちつくしました。

 

🔹Paris』[2008|1951]

 パリという都市の劇場性を強く感じる写真群です。パリを遊歩する人びとは舞台に登場するようにカメラに写っているようにさえ見えます。アジェを引用しているらしいのですが、私のフェイバリットな写真家であるロベルト・ドアノーやアンドレ・ケルテスのパリのイメージにも重なるところがあります。

 それにしても、1枚の写真のチューリップはドラマを予感させるではありませんか。この写真から、巧者のシナリオライターなら、簡単にドラマを作りあげてしまいそうです。

 

🔹『Valencia 1952』[2012|1952]

 1952年、長い内戦をへたフランコ時代のスペインのバレンシア、決して豊かといえない漁村の日常が軽佻浮薄からはるか遠く離れた形でそこに在ると感じさせてくれます。日常の賛歌というのではなく、そこには喜怒哀楽をこえた生きる意味さえありそうです。今回、私が最も強く波動を感じた写真群でした。

 展覧会の解説文には「威厳が貧困を凌駕している。それは、その後のフランクの写真撮影に対する姿勢を変えることになった」とあります。うむ、そうかもしれません。

 

🔹In America』[2014|1950代]

 フランクが1950年代のアメリカを撮影した写真群はお膝元のアメリカではほとんど知られていないのだそうです。スタンフォード大学に収蔵された50年代アメリカの写真を集大成することが意図されています。『The Americans』の写真22点に、新たに100点以上の写真が組みこまれています。もとより重なるイメージも多いのですが、今回の展示からは、トランプ大統領のもとでアメリカの亀裂が露呈していることが私にも届いているからかもしれませんが、黒人という問題がより提起されていると感じます。

 フランクは少なくとも自覚的に「スイスは小さすぎた」とアメリカへ渡ってきた移民であるのに対し、アフリカ系アメリカ人のルーツはそうではないわけです。1枚の写真からはその差別の根深さをやはり意識してしまうのです。

 

◉第二部:垂直の旅へー映画制作をへてー

 私が便宜上区分した第二部の写真をみる人はふつうなら第一部の写真との違いに驚きと戸惑いを感じることになります。私もその一人なのですが、写真家ロバート・フランクという同一人物がなした仕事として理解したいというのが基本姿勢です。この長い「中期」を一言で括るのは困難です。

 50年代アメリカ社会の見事な断面図というべき『The Americans』のあと、写真家のフランクは写真から離れ映画の制作に専心し、60年代は写真、写真集という観点からはほぼ空白の時期でした。写真に戻ってくるのは70年代に入ってからのことです。10年以上の空白のあと再び現れたフランクの写真は50年代の到達点をまるで否定ないし解体する方向で変貌していたわけです。

 飯沢さんがフランクの映画への傾斜について「プライヴェート・ムービーのほうに、個人的な感情を投影できる可能性を求めていた」と書いています。第二部以降のフランクの写真語法は映画製作で獲得した方法を写真へ投影させたという一面があります(70年代以降も映画の制作は続けています)。つまりそのことは第一部で引用した(フランクが写真に求めていたのは)「生の総体を肉声のなまなましさを保ち続けながら組織していくための方法論」という地点に収斂していくのではないかと考えます。

 

 フランクの伝記的な事柄ですが、「個人的な感情を投影」する方法論と関連するのでふれておきます。

 家族との関係です。1950年メアリーと結婚、二人の子供が生まれますが、69年にメアリーと離婚、70年に美術作家ジューン・リーフとカナダのノバスコシアに家を購入し、ニューヨークと行き来する生活をはじめています。その矢先、74年、娘アンドレアが飛行機事故のために死亡。享年21歳。4歳年上の息子パブロは精神を病み、94年に死亡(自殺とされる)。享年43歳。

 50年代から60年代にかけて、フランクと同世代であるアレン・ギンズバーグなどビート・ジェネレーションを代表する人たちと交流、友情。『The Americans』の序文はジャック・ケラアックです。アウトサイダーの姿勢を崩さないフランクにとっては映画の内容にも制作にも強く反映しています。もとよりその後の写真にも。そして多くの友人の死。

 今もフランクとリーフのNYとノバスコシアを往還する生活は続いています。

 

 フランクの写真へのカンバックは、日本の出版社からの写真集の制作依頼がきっかけとなったそうです。1972年に刊行の『The Lines of My Hand』で、そこでフランクは過去にさかのぼって「記憶」をたどり直しています。飯沢さんは「失われかけた生の記憶を求めて時間を逆行する垂直の旅のイメージの集積」だと表現しています。これに対し、本稿で分類した第一部の写真は「現在進行形で空間を横滑りに移動する旅の記録」だと対比させています。

 70年代以降のフランクは過去と現在の写真をコラージュや言葉の上書きなどのテクニックを駆使して組み合わせることによって、生の総体を再構成、再編集する方法、「個人的な感情を投影する方法論」を獲得したのだということができます。そんな時間と空間の広がりによって、第一部の写真は新たな輝きを帯びるとともに、自分の身辺に起きた数々の悲劇に対しても、主観だけに堕することのないある種の客観性をもち得たのです。いわば生の再構成という作業が写真家であるフランクに生きる力、生きる意味を与えています。

 この方法は、つまりフランクの生の総体を「編集」する作業は、第三部である現在進行中のヴィジュアル・ダイアリーまで、より自由度を高める方向で続いています。 

 

🔹『Zero Mostel reads a book』[2008|1963]㊟[シュタイデル社刊行年|当初刊行年]

 映画を2本撮ったあと、1963年にニューヨークタイムズ紙からの依頼で制作した写真集です。有名な喜劇俳優のゼロ・モステルが本をいろんな形と感情で読んでいる姿を演じ、これを撮影した作品です。モステルの演技力を全開させた、なんだか映画のスチール写真的なイメージです。

 展覧会の解説によると、アメリカの書店へ顧客のプレゼント用に献呈されたもののようです。読書百態とでもいうのでしょうか、面白いアイディアではありますが。

 

🔹『Me and My Brother』[2007|ー]

 1968年制作の映画『Me and My Brother』のDVDとともにスチール写真と台詞が収録されています。この映画はフランクの制作した最初の長編映画だそうです(85分)。タイトルの<私の兄弟>というのがビートニクといわれた人たちでしょうから、その共感の根っ子は、時代の先端を表現する反骨的な芸術家気質ということなのでしょうか。フランク自身は自分のことをマージナルな人間、道の端を歩く人間として表現したりしているのですが。

 1枚の写真はビートニクを代表する詩人アレン・ギンズバーグです。

 

🔹『The Lines of My Hand』[2008|1972]㊟[シュタイデル社刊行年|当初刊行年]

 展覧会の解説文によれば、この写真集は『The Americans』に次いで、フランクの「最も重要な本であり、時に告白を交えた自伝的な本作りの手法を確立した出版物」だと評価・説明しています。

 タイトル「私の掌の筋」とは手相を見るときの判断の材料となる人生の軌跡のことであり、過去の記憶をたどり直すことに通じているのです。過去から現在に至る写真を時系列に並べつつ、フォト・コラージュなど中期以降のフランクが多用する方式も含まれています。フランク自身は私は私だと確実に否定することでしょうが、写真家ロバート・フランクの再出発の原点となった写真集だといえましょう。

 表紙の絵は一緒に暮らし始めたジューン・リーフの手になるものです。そして1枚の写真は50年代に撮影された二人の子供の小さいころの写真です。

 写真集に掲載された「生きているだけで、素晴らしいじゃないか」とのフランクの言葉が解説文の冒頭に記されていました。

 

🔹『Storylines』[2004|ー]

 2004年のロンドンでの展覧会のカタログです。この写真集から、デザインとして「ゲルハルト・シュナイデル」の名前が登場しています。だからフランクとシュタイデルの最初の出会いはいつ頃だったのか、少なくとも2004年以前ということになりそうです。

 ポラロイド・カメラを1972年に使いはじめたとされていますが、1枚の写真は12枚のポラロイド写真に言葉を手書きで書き込み、組写真としています。HOSPITALとありますが、誰の入院姿なのかわかりません。

 

【追記】

 続き(第二部の残る4冊と第三部)は次のブログ(2-)で書くこととし、今回の展覧会、ロバート・フランクの写真、写真集を締めくくることにします。

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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