2018.11.11 Sunday

記念日の強がりー『思泳雑記』の三年ー

 今日は<記念日>といっても、3年前の11月11日がブログを開始した日だというだけです。

 山田風太郎のエッセー集に『あと千回の晩御飯』がありますが、三年の間に千回を超える晩御飯を食べたことになります。ともあれ「死に体」にならないで続けられていることに、やはり「たかが三年、されど三年」という感慨がないとはいえません。

 『思雑記』は「しえいざっき」と打って変換しようとしても、「思雑記」にしかなりません。勝手な造語だから仕方ありませんが、「思泳⇒思いが泳ぐ」と「思永⇒永く思う」は似て非なるものです。でも「永」は「永の旅路」に通じているのですから、「思いを泳がせることができなくなっ」て、プツリと途切れるまで、続けることになるのでしょうか。

 

 久しぶりに出会った方から、毎日どんなことをしているのか、と問われました。現在もフルタイムで仕事をしているが、近い将来にそうでなくなる身からすると、まったく仕事と呼べるもののなくなった私が日々をどう過ごしているのか、そんなことにも興味を覚え尋ねられたのです。週に2日ぐらい聴講生として大学へ出かけたり、地域のことにも少しは関わったりしているというぐらいかなと答えましたが、それ以外の時間はどうしているのか、さも想像がつかないという口吻で、さらに訊かれたのです。

 長く外での仕事中心の生活をしてきた私も貴方の状態のときにはそう思っていたのだけれど、いざ今の状況になってみると、まだなり切れていない老夫婦としての日常が繰りかえされていくうちに、いつの間にか日々が過ぎてゆくという感じなんだという趣旨のことを話したのです。

 この発言に偽りはありませんが、そのとき私の心底にあったのは、やはりブログのことでした。昨年のこの時期に、「ブログで書いている内容は相変わらずのことなのに、今の暮らしにおいて比重が高まっているように感じたりします」と記しています。このことは、一年後の今も変わっていないのだと思っています。自分のためにはじめ、続けているブログのようなものを、面と向かって、日常の大きな部分になっていると話すのは、いささか恥ずかしく気後れしたのです。

 

 一昨年も昨年も、すなわち『思泳雑記』の一年と二年の経過時においても、書かずにおれないというテーマをもっていない私でも、試行錯誤しながらブログを続けていくと、どこかで次の一歩を発見するかもしれないという希みを捨てきれていないのだ、と自問自答しています。三年を経た現在は、身を固くして否定するようなことでもないけれど、そんな<望外の願望>のようなことは、この先起こらないであろうし、そのような<希み>など持たないでやっていこうと思っています。

 それはこの三年間のブログ経験を通じて自分のこと(能力の乏しさも老いの進行も)を知ったからだということとともに、今の状態でもいいのだと考えたからです。本年4月のブログ(「通過点を重ねるようにー津野海太郎に導かれてー」)で書かせてもらったように、人生の晩年における「学びという営み」について、改めて自覚することができたのです。この営みは、点数や成果のための「学ぶ」(私にとっては「読書」というしかないのですが)とは異なり、「喜びであり、楽しみに通じている」ものであって、このような到達点ではなく通過点としての「学び」からも「習う手応え」は得られることもあるのだと理解できました。

 そのブログでは、堀江敏幸の「到達点ではなく通過点を重ねてこの世から消えるような、そういう勉強の仕方を身に着けた方々が、たしかに存在する」という文章を引用し、私自身が同じ地平で共鳴することの愚かしさをことわりながら、最後に次の文章を綴っています。

 「 いずれにしても、「通過点」としての「学ぶ」、そして到達点でなく、

  通過点を重ねてこの世から消えるような」、そんなあり方が一つの理想で

  す。そして、堀江さんの最後の文章「たとえそれがドン・キホーテの空し

  い戦いに終わるかもしれないと、心のどこかにわかってはいても」と、私

  も思ってはいますが。」

 今の私にとって、ブログは「学ぶ」の一つの方法であり、切り離すことができないものです。これまでの「次の一歩を発見する」ような期待を抱くことはなくなったけれど、こんな「一つの理想」をもったのですから、結局、回り回って、何か<希み>のようなものをもってブログを続けるという点では同じことかもしれません。

 笑ってしまいますね。私の頭も混乱していて、こんな自分だけの記念日に強がっているだけなのかもしれませんが、三年という月日に千回を超す晩御飯をいただいた私としては、ちょっと本気なのです。

 

 ブログに慣れてくると、もっとさらりと書けるようになるかもと思っていましたが、逆でした。だんだん難渋するようなことが多くなりました。

 身の程知らずのテーマにトライし、分からないことを率直に告白しつつも、何がしか「こう理解した」と書きたいからなのでしょうか。虚栄心から自由になることはできませんが、ブログは私のノートであり、他者の評価をそんなに求めて書いているとは思っていないのですが、どうしたことでしょう。

 直近のブログに登場した庄野潤三の末弟である庄野至さんのことにふれたエッセーに出会いました。編集工房ノアの『海鳴り 30』(2018年5月発行)に青木民男という方が「庄野至さんのこと」(庄野と青木は毎日放送の上司と部下であった)という文章を寄せているのです。二人とも引退された後のことですが、そのころ文章を発表し本も上梓していた庄野は、テレビドラマの弟子であったという青木に、にこにこ顔で、突然、「君も何か書いてみては」と切り出したとあります。「とてもとても」としり込みする青木に対し、庄野は、次のように語ったとあります。

 「 いや、そんなに難しく考えんと、身近なことを、普通の言葉で書いたら

  ええんや。格好よくなんて考えたらあかんで」

 このことがきっかけとなって、青木はエッセーを発表するようになり、これをまとめた本を編集工房ノアから出すことができたのだと、庄野への感謝の言葉が綴られています。

 引用した庄野の言葉に、私は「うむぅぅ」となりました。<身近なこと>を<普通の言葉で書く>、このとき<格好よくなんて考えない>、そのとおりなのでしょう。

 これができないから、困るのです。私の場合は、文章力云々というより、<身近なこと>に気づかない、<身近なこと>に気づき言葉にできるように生きてこなかった、今もそんな暮らしをしていないということではないかと、自分自身を疑っているのです。

 これからのブログにおいて、庄野が青木にかけた言葉を大切にしなくていけないなあと思っています。でも、というか、私は私でしかないという現実からも、居直りかもしれませんが、離れることはできないのです。

 ともあれ、昨年も言葉にした「自家撞着にならないよう「対話へと開かれた文章を書く」」ということを、忘れないようにしたい、何よりも心がけたいと考えています。

 引き続き、お付き合いをいただければ、うれしい限りです。

 

 ここからは、自分のための備忘メモです。

 この一年間に本篇を含め、56篇のブログをアップしました。

 カテゴリー別でみると、「本」では、分割してアップしなければならなかったこともあって、吉野源三郎の著作『君たちはどう生きるか』と『職業としての編集者』について、結構長い時間をかけました。涸沢純平、さらに津野海太郎、小沢信男、鶴見俊輔など、自分の年齢とともに、年長の書き手の本を取り上げる傾向があるようです。

 「映画」は、2017年のベストテンをはじめ、是枝裕和監督『万引き家族』、本年みたなかでベスト1と評価したカルラ・シモン監督『悲しみに、こんにちわ』のことを書いています。今、アートヴィレッジセンターで、来来週からは元町映画館で、「ベルイマン生誕100年映画祭」が上映されるので、何本かみることができればいいのだがと思っています。

 「音楽」では、エリック・サティの音楽と吉田慶子のボサノヴァの2篇だけです。音楽から離れている今の生活があらわれています。ある日、トンカ書店に、吉田慶子のCD『コモ・ア・プランタ~このひそやかなボサノヴァ』が流れていて、ホントにうれしく思いました。店主の話によれば、「これは誰のものなの?」と、何人かの方から問われたのだそうです。

 「アート」は、安西水丸のイラストレーション、舟越桂の彫刻、そして珍しく展覧会へ足を運んだソール・ライターの写真(前年のロバート・フランクとの関係もあって)と、以前から親しんできた作品との出会いを、文章にしています。テレビで「日曜美術館」や「ぶらぶら美術館」はよく見ていますが、私のように時間はあっても、展覧会にはなかなか足を伸ばせていません。

 「旅」は、同時的に書いたのは「京都」だけで、それ以外は、過去の旅から残しておきたかった「リスボン」と「フィレンツェ」を、早くも混濁する記憶の中から拾い上げました。膨大な言説が注がれてきた「フィレンツェ」は、私にとって「ヴェネツィア」との関係で後景に退けていたきらいがありましたが、ブログに書くことで、修飾・変形を免れないにせよ、あるべきところに収まってくれたような気持ちになりました。

 「現代社会」では、遠く離れていることを許さないような現代の政治・経済・社会の現状をどう理解するべきかという問題関心から、書き継いでいます。私自身の確たる理解が欠落しがちなもとでの文章は、逡巡や停滞が繰りかえされ、いよいよ論旨不明確の読みにくいものになってしまいます。そうであっても、ささやかでも自分を鍛えておくために、続けていくつもりです。

 最後の「その他」は、まさに<その他>雑多ですが、私にも<心境>というものがあるなら、それが一番に出ている文章なのでしょう。

 昨年同時期のブログでこれから書こうとしている対象にもふれていますが、ほとんど実現できていません。たとえば、詩人北村太郎については、その詩の断片を取り上げることはありましたが、その山は高く、どう取り付けばいいのか分からないまま、本箱に積みあげられています。  

2018.10.30 Tuesday

「仕合せ」と「幸せ」の間にー『庄野潤三の本 山の上の家』ー

 初めて手にとっただけで、これは「幸せ」の本だという印象をうけました。その美しい佇まいが、帯に記された<本を読むよろこび>そのものだったからです。本をひらくと、この一冊は「仕合せ」の本でもあると確信しました。

 この本は、帯にある「作家案内」にふさわしく、2009年9月に亡くなった庄野潤三の文学を、作家の長く暮らした生田の丘陵「山の上の家」という<理想郷>から案内するものです。その「山の上の家」の現在の写真(作家の在世時のまま残されています)、庄野自身の文章、庄野の子どもたちの文章、庄野文学を愛する寄稿者による文章、そして庄野潤三全著作案内などが並びます。クレジットされる著者名のない本です。きっと夏葉社の島田潤一郎という編集者が、庄野家の人たちとの「仕合せ」という信頼関係をベースに、情熱をこめてつくった本なのであろうと想像しています。

 夏葉社のサイトには、川崎の生田にある庄野潤三の家が今年から一般開放される【年に2日=秋分の日と建国記念日】ことにあわせて、この本を「つくっています」とあります。こうして『庄野潤三の本 山の上の家』というタイトルの本は今年7月30日付で新刊されました。

 

 夏葉社は島田が2009年9月に創業した一人出版社で、ゆったりとしたペースでだが刮目すべき活動をしています。だから、普段めったに新刊を買わない私も、時々購入してしまいます(神戸元町の「1003」で手に入れました)。当ブログにおいても、同社から刊行された東京山王下の古本店主であった関口良雄の本のことを書いたときに、島田へのインタビュー記事も紹介したことがありました(「それとこれとは別のことですがー関口良雄『昔日の客』ー」「雲の名前ー『関口良雄さんを憶う』ー」)。

 島田は、上記のサイトで、2014年に同社から刊行の『親子の時間』の撰者である岡崎武志の一文を引用しつつ、次の文章でもって、今回の本を自薦しています。庄野潤三への島田の深い傾倒ぶりがあらわれています。

 「 撰者の岡崎武志さんが<陰惨なニュースを聞くたびに、私は「あーあ、

  庄野潤三を読めばいいのになあ」と思うのだった)>と書かれていますが、

  まさにそう思います。その文章の正確さ、家族に対する愛情、庄野潤三の

  ような作家は、ほかにはいません。読むと、あたたかくなる本です。

   書店にて、ぜひ。」

  『庄野潤三の本 山の上の本』2018年7月30日刊/夏葉社 表紙 

  同上書 中表紙

 島田自身は、庄野本人には出会っていないと思いますが、前記の庄野の小説撰集『親子の時間』を出版するに際して、庄野の家族と関りをもったのであろうと推測されます。そして、庄野後期の家族小説に登場する三人の子どもたち(70歳前後になった)と出会い、その方たちに庄野の小説で活躍していた彼らがそのまま年を重ねた姿を、そして父庄野への変わらぬ愛情を見い出し、驚嘆したのではないかと、ですから、前記の自薦の文章が書かれたものと私は思っているのです。

 島田にとって、庄野潤三の文学との出会いがまさに「仕合せ」ですし、庄野の家族との出会いも再びの「仕合せ」であり、庄野文学を愛する人たちとの「仕合せ」をもたらし、こうした「仕合せ」が今回の本を編集する原動力になったのだと、私は確信したのです。この本の成り立ちには、幾重もの「仕合せ」が積み重なっており、その力が「幸せ」感を放射しているのでしょう。

 臆面もないファン心理というものかもしれないけれど、この本の「幸せ」は「仕合せ」との間にあります。

 

 手元の新明解によれば、「しあわせ」は〔「為合せ」の意〕とあって、< 攣店腓察霸震燭里瓩阿蟾腓察「有難きー」◆攅(せ)】「その人にとって幸運(幸福)であることの」の意の和語的表現。「ーをつかむ」>とあります。

 「運命のめぐり合せ」には、偶然のめぐり合せとして良きものも良くないものもあるのでしょうが、良き「仕合せ」という「有難き仕合せ」は幸運というしかないものであって、「幸せ」へと通じています。

 ネットには、中島みゆきの名曲「糸」の「しあわせ」が「仕合せ」なんだと指摘し、その歌詞を<思春期の叫びのうた>として説明しようとする文章がアップされていて目を引きました。二番の歌詞は「なぜ生きてゆくのかを/迷った日の跡の ささくれ/夢追いかけ走って/ころんだ日の跡の ささくれ」「こんな糸が なんになるの/心許なくて ふるえていた風の中」「縦の糸はあなた 横の糸は私/織りなす布は いつか誰かの/傷をかばうかもしれない」ときて、最後のフレーズ「縦の糸はあなた 横の糸は私/逢うべき糸に 出逢えることを/人は仕合せと呼びます」と結ばれます。

 ともあれ、『庄野潤三の本 山の上の家』は「仕合せ」の積み重ねによって、私たちへ差し出されたプレゼントといえる本です。

  同上書に挟まれていた<庄野潤三の家>という小さい見開きのチラシ  

 出典を明らかにしないままで、直近のブログ(「久しぶりの定期券ー井伏鱒二『厄除け詩集』ー」)で、庄野文学の根底には「切なさ」を表現しようとする彼の強い意志があると、昭和24年の「わが文学の課題」を引用して書きました。実のところ、この本の「庄野潤三の随筆 五つ」のトップにおかれていて、初めて読んでなるほどと思い、使わせてもらったというのが真相です。

 同書には小説は一点だけ、単行本未収録作品である「青葉の笛」が収められています。「わが文学の課題」に先立つ昭和22年に発表されたもので、第二次世界大戦末期、海軍予備士官として「大竹潜水学校附」に配属(「同校に入った後、特殊なる勤務に服する予定である」と上官から補足説明があったようで、<人間機雷>という新式特殊兵器を意味するものであることが分かっていました)が決まったあとの心境などが描かれた中編です。<人間機雷>のことを、小説では「人間が一人しか入ることが出来ない。中へ入ると上から蓋をしてボルトで締めてしまって、もう中からは絶対に開けることが出来ない」兵器だと書かれていて、挺身斬込とか特別攻撃機とかに比べ「暗い陰影」がつきまとっていたと、庄野は書いています。

 ここでは「切なさ」が書かれた文章を部分的に引用するにとどめます。庄野とおぼしき「千野」が「大竹潜水学校附」に配属先が決まり、佐世保から離れる直前に、文学を愛する友人の海軍士官である西岡へ、長い独白のように語る場面に登場します。

 「 (前略)道を行く人がみなたまらなく懐かしいんだ。ああみんな、ああし

  て歩いている、と妙な感動をしている。そして、おれがいなくなってし

  まって後も、今、眼の前に見ているようにああして同じように歩いている

  のだろうと思うんだな。すると矢鱈に切なく感傷的になって来る。(中略)

  生きているということがどんなに美しい、尊いことに見えるかが、はっき

  り分かっんだ。(攻略)」

 「わが文学の課題」で強調していた「切なさ」の根底には、この戦争の経験があったのです。それゆえに「生きることは尊く美しい」「この生きる世界が切なくもいとおしい」という庄野の生への渇望とゆるぎない信念が、さらなる切実さをもって迫ってきました。だから、「山の上の家」は庄野にとって<理想郷>でなければならなかったというべきでしょう。

 先に島田の文章で引用していた岡崎武志は、この本にも「庄野潤三とその周辺」を寄稿しており、その最後のところで、1959年の『ガンビア滞在記』の一文を引用しつつ、次の文章によって<庄野文学の根っこ>を表現しています。

 「 「考えみると私たちはみなこの世の中に滞在しているわけである。自分

  の書くものも願わくばいつも滞在記のようなものでありたい」。みな、こ

  の世に偶然居合わせただけの存在(滞在)としたら、だからこそ、互いのつ

  かのまの関係を大切にしたい。庄野文学の根っこはそこにある。」

  同上書の奧付

 

 さて、ここからは付録です。

 先週の金曜日、病院へ行く前に、秋日和にもさそわれ、カメラをもって、小一時間、乙仲通りを歩きました。日頃から注目していた古いビルを撮影しましたので、ここではその一部を紹介させてもらいます。

 <乙仲通り>は、神戸の方ならご存知でしょうが、神戸元町の南側、北側の栄町通りと南側の海岸通りの間に挟まれた数百メートルぐらいの東西の通りです。乙仲通りという由来は、元々海運貨物取扱業者が集まっていた場所でしたが、戦時体制ということで、昭和14年に「乙種海運仲立業」(通関業務を仲立ちする事業者)としてまとめられたとのことで、以来、<乙仲さん>と呼ばれてきたそうです。

 

 のんびりとした平日に、この通りを歩くことは楽しいものです。戦争をこえてきた戦前の古いビルがまだ残っていて、今やブティックや雑貨、そしてカフェなどのショップが数多く入ったテンナトビルになったりしていますが、そのアンバランスが面白いのです。すぐ東側の旧居留地に残る立派なレトロビル(商船三井ビルや海岸ビルなど)もそれはそれで嫌いではありませんが、アマノジャクになりがちな私としては、乙仲通りのもっと小さく、あまり手が入っていないビルの雰囲気の方がもっと好きなのです。でも、そんなビルの建築年次や設計者などの情報は何もわからないままですし、今となっては記録も残っていないのかもしれません。

 これまでも、なにやかやで何度も歩いてきたのですが、最近、ちょっと人通りが少なくなったようで心配していました。でも、今回歩いた金曜日のお昼には、ちょうどの昼休みだったこともあって近所で働く人たちが事務所から出てきていたり、修学旅行らしき高校生がいっしょに歩いていたこともあって、わりとにぎわっていました。

  乙仲通りの昼 [2018.10.26撮影、以下も同日に撮影]

 

 最初に、最もインパクトのあるビルから紹介します。

 神戸で創業の化学薬品卸会社である岸本産業旧本社(現KISCO株式会社神戸支店)のビルです。西隣のビルが駐車場になってから、その別格感が増大しました。密かに<乙仲のピラミッド>と呼びたいのですが、どうでしょう。

 何より目立つのは、コンクリートなのでしょうか、細い丸太を層状に重ねたような、コーニス(蛇腹)のデザインの連続です。今回、近づいてまじまじと眺めてみて、これを建築するのは相当の手間と費用を要したはずだと確信しました。窓枠は渋い茶系のアルミフレームに入れ替えられたようで違和感はあまりありませんが、元はどんな窓枠が入れてあったのか、知りたくなりました。

 化学薬品の卸会社一社でセキュリティされており、中へ入ることはできないのが残念ですが、なんといっても、その存在感、私にとって、乙仲最大の傑作ビルです。

 元々、乙仲のモダン建築は中国人の住まいや事務所として建てられたものが多いともいわれており、このビルも中国人の商館であったという説もあるようで、そうかもしれぬというミステリアスな雰囲気をまとっています。

  KISCO株式会社のビルの全景 [乙仲通り側から撮影] 

  裏通りからの同上ビル [乙仲通りの一本北の通りから撮影]

  同上ビルのコーニス部分 左上の白い高層マンションとの対比に注目

 

 次は、その名も昭和ビル、側面の写真を掲載していませんが、間口に比べ奥行きの長い、それなりに大きな事務所用のビルです。すっきりとしていてあまり装飾的ではないなあと感じたのですが、裏へ回ると、シンプルだがデザインされた出入り口の雨除けとアーチ窓の対比に個性があって驚きました。

 元々は、こちら側、裏通りの方が入口というか、ビルの<表>だったのかもしれないと思ったりしました。

  昭和ビルの前景 [乙仲通り側から撮影]

  同上ビルの裏側の雨除けとアーチ窓  [乙仲通りの一本南の通りから撮影]

 

 続いて、「榮町ビルディング」(「栄」ではなく「榮」です)と刻印された乙仲通りのほぼ真ん中あたりのビルです。エアコンの室外機が外壁に取り付けられていたりして、ミニ香港的な風情ですが、ガラスブロックの使い方などに特徴があります。

 家人の関係から、このビルの一角で婦人服製造企業を創業した、私たちと同世代のデザイナー夫婦と知り合いになりました。どうも乙仲通りが今のような街区になる先導者、仕掛人の一翼を担った方々のようですが、最近はファッション関係の路面店がネット販売に押されて大苦戦しているとのことです。この街区には、何かを作ろう、興そうという人たちを吸引する魅力が何よりも大切なのでしょうが、部外者の私にはなかなか真相が見えてくるものではありません。

 ビルの内部は、すり減った階段と手すり、鉄製の窓枠などにビルの建設された当時の雰囲気が残されています。

  榮町ビルディングの前景  [乙仲通り側から撮影]

  同上ビルの内部の階段 [ビル内に入って撮影]

 

 続く謝ビルは、二階建てで小ぶりですが、大きなレトロビルのミニチュア版のような骨格のしっかりした風格のあるビルです。

 最近、<B.C.STUDIO>というトレーニング教室のようなものが入居しましたが、その前は長く<二葉そば>がテナントで、ビルとのアンバランス感が、こ、こ、これはなんだと楽しませてくれていました。

  謝ビルの前景 [乙仲通り側から撮影]

 

 次のビルは乙仲通りから20mほど南に、今は独立して建っていますが、名称はわかりません。

 隣接の建物が撤去され、独立しているためか、<1、2階>と<3、4階>との奇妙なアンバランスがむき出しになっています。<1、2階>部分はテナントのためか、外壁をきれいに再整備していますが、<3、4階>部分は手を入れないまま放置されており、<3、4階>部分は不用というオーナーの意志があらわれています。1階のテナントはセレクトショップというのかどうか、いかにも美意識が強調されていますが、ちょっと視線を上に向けると、その落差にいささか興ざめしてしまいます。

 でも、これも枝雀流に面白くなくても、ふふふと笑っていたらそのうち面白くなるというものかもしれません。

  上記のビル  [乙仲通りから南へ少し下った場所から撮影]

  同上ビルの1階に入居するセレクトショップ

 

 最後、これを日本語のビルと呼べるのかどうかわかりませんが、今は<SUNCHIGO>というハンバーガーショップが入っています。乙仲通りの一本北の裏通りに面していて、おしゃれな人が履いている穴あきジーンズのような風貌が面白いと思い、シャッターを押しました。

  ハンバーガーショップ「サンチャゴ」の入るビル [乙仲通りの一本北の通りで撮影]

 

 以上、<乙仲通り>の「古いビル」拾遺でした。

 この界隈では、徐々にではありますが、こうした古いビルが撤去され、駐車場になったり、下駄ばき店舗付きマンションが新築されたりして、変貌がすすんでいます。京都の街中でも同じ現象がみられますが、文化的価値と市場価値を同じ土俵で比べてしまうような、そんなまちづくりの限界を露呈しています。一見、きれいになったようでも、そのとき、街区をつつんでいた個性のある雰囲気は消えてしまいます。時の経過はいかんともしがたいのですが、この動きが行き着くところまで行ってしまうのか、リノベーションということで新たな動きが出てくるのか、どうなることでしょう。

 詮方のないことばかり書いてしまっているようです。

 それにしても神戸の乙仲通り、古くていささかくたびれたビルを、どのように使いこなして、今の街区のちょっと摩訶不思議な雰囲気が形成されてきたのでしょうか。機会があったら、そんな視点をもって、また歩いてみたいと思っています。

 

 庄野潤三の「山の上の家」という<理想郷>がこのたび公開されることになったように、<乙仲通り>が大いなる田舎という一面をもつ神戸の<かけがえのない顔>として、旧居留地とはまた違った個性を発揮してくれることを願っています。

2018.10.23 Tuesday

久しぶりの定期券ー井伏鱒二『厄除け詩集』ー

 久しぶりに定期券を使っています。この2ヵ月だけのことです。

 帰りが6時台になることもありますが、大勢の仕事帰りの人たちといっしょです。まだ5時台は高校生や女性の方が多いのですが、6時台には急に男性のスーツ姿が増えてきます。座れなくてしんどいなになったりもしますが、いや待てよ皆さん疲れているんだからと思うようにしています。

 呆然、放心した顔から疲れがにじんでいます。スマホを使っている人、ガクッと頭を垂れて眠っている人もいます。指先をせわしなく動かしスマホとにらめっこしている人たちに、私の悪癖というしかありませんが、「スマホに没頭することで、鬱と戦っている」(「静寂が叫んでいるようだーマルクス・ガブリエルの視線の先はー(1)」)と思ったりしてしまいます。

 それこそ何年も前の私も、あんな風に仕事帰りの顔をさらしていたのだろうと想像します。帰りの車中で、必死なふりで本を読んでいたのは、スマホとにらめっこと同じことだったのかもしれません。「内省したとき、自分の思考が自分自身に反発してくる」、だからスマホに没頭するんだというマルクス・ガブリエルの見立ては、あの頃の私でもあったのでしょう。

 

 今日はちょうど6年前に手術台へ上った日です。

 それから、6年という日々があって、定期券で通院しているわけです。リニアックを使った放射線治療も、手術と同じく、幅の狭い台に固定されて、その台を高くして、装置が体の周囲を回って照射することになります。痛みも何もありません。別に福島のことを想っているわけでもありません。

 全35回(日)の照射計画ですが、今日で30回、あと5回です。500佞凌紊魄んで50分ほど待合室で呼ばれるのをまつ間に、いろんな方が出入りします。入院中の部屋着の方も通院の方もいて、高校生から90歳の老人まで年齢層も幅広く、男女同数ぐらいでしょうか。何ガンかは別にして同じガン仲間なのでしょうが、自分の病状を話したりする方はいません。小さな音量のテレビ放送がながれるなか、静かにまちます。そして、冷蔵庫のような治療室で放射線を照射されて、つまりできるだけ多くのガン細胞とできるだけ少しの正常細胞のDNAを傷つけて、どうもありがとうと一声かけて帰っていきます。 

 何事も100%はありません。治療は治癒の可能性というだけで、確実に言えるものではなさそうです。当たり前のことですが、自分だけでどうしようもないこと、生きることの大きな自然、私のよく使う不思議を感じずにはおれません。この年齢になって、宗教をもたない私でも、家族のことをはじめ、祈ることしかできないと思うことが多くなっていますが、今の状況もそのようなことなのでしょう。

 この2月ほどの間、いつもの大仰になってしまう性格からか、ちょっと時間が止まっていたように感じています。でも、こうして実感としては体調に変わりがなく、苦痛もなくトライできている状況をありがたく思っています。

 それも来週で終わり、ちょっと残ってしまった定期券には手持無沙汰の日々が待っています。

 

 こんな状況だから、「厄除け」というわけではありません。

 井伏鱒二の『厄除け詩集』から、好きな二篇を引用しておきたいだけです。

 近頃は、読もうとして買っておいた本のことを、すっかり失念していて、二冊目を手にしてしまうことが多くなりました。でも、この『厄除け詩集』(1994年6月刊/講談社文芸文庫特装版)は分かっていたのに、ふつうなら買わない特装版が古本で安価だったから手をのばしたのだと思います。

 上は井伏訳の李白の「静思夜」、下は井伏作の「逸題」です。

 

     静 思 夜              李 白

 

  寐 前 看 月 光

  疑 是 地 上 霜

  挙 頭 望 山 月

  低 頭 思 故 郷

           ㊟冒頭の「寐」は、本来は<うかんむり>のない漢字です。

  ネマノウチカラフト気ガツケバ

  霜カトオモフイイ月アカリ

  ノキバノ月ヲミルニツケ

  ザイシヨノコトガ気ニカカル

 

   逸  題

 

  今宵は仲秋名月

  初恋を偲ぶ夜

  われら万障くりあわせ

  よしの屋で独り酒をのむ

 

  春さん蛸のぶつ切りをくれえ

  それも塩でくれえ

  酒はあついのがよい

  それから枝豆を一皿

 

  ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ

  われら先ず腰かけに坐りなおし

  静かに酒をつぐ

  枝豆から湯気が立つ

 

  今宵は仲秋名月

  初恋を偲ぶ夜

  われら万障くりあわせ

  よしの屋で独り酒をのむ

          (新橋よしの屋にて)

  特装版らしく、左の冊子は真ん中の函に、その函がまた右の函に入って一冊の本となります

 

 井伏鱒二に兄事した(戦後の師ともいえるのでしょうか)庄野潤三は、その文学の根底に「切なさ」を表現することをおいていたようです。今回初めて読んだのですが、昭和24年、29歳の若き庄野は、「わが文学の課題」(「夕刊新大阪」1949.7.25)と題した文章でそんなことを書いています。

 庄野は、「夏のクラクラと眼まいのするような日の中を歩くのが大好きだ」から始め、これから先幾回夏を迎えるよろこびを味わうことができるだろう、で、僕が死んでしまったあと、やはり夏がめぐって来るけれど、そのとき僕は地球上のどこにもいないと書き、次の文章を続けています。

 「 僕が夏の頂点であるこの時期を一番愛していたということは僕をよく知

  る幾人かの人が覚えていてくれるだろう。だが彼等も亦死んでしまった時

  には、もう誰も知らないだろう。それを思うと、僕は少し切なくなる。

   そして、そのような切なさを、僕は自分の文学によって表現したいと考

  える。(以下略)」

 「切なさ」といっても、このような「切なさ」です。生まれて生きて消えていくという自然を受けとめつつも、それゆえに、この生きる世界が切なくもいとおしいのだという、「切なさ」なのです。庄野はこの「切なさ」という初心を彼の文学の核に据えて終生手離すことがなかったのだなあと、思い至ります(当ブログでも「遠ざかる記憶の風景ー庄野潤三『夕べの雲』をめぐってー」としてパーソナルな記憶をからめて書きました)。

 かくして年齢を重ねた今、「祈ることしかできないと思うことが多くなった」と書きましたが、私の「祈る」が、庄野の「切なさ」にどこかで通じるものであればいいのだがと思っています。

2018.10.21 Sunday

起点となることを願ってー「平成という時代」への視線ー(1)

 突然の秋の深まりにぼうぜんとしています。残された稲の穂が刈り取られるのをまち、大中のケヤキも桜もイチョウもその葉が色づきはじめています。日没近くの陽の光が不思議なかたちの雲を照らしています。こんな明らかな変化が目の前にひろがっているのに、季節の変わり目という不連続を、ようやく、はじめて自覚できたような気持ちがしました。

 継続、連続という、いわば慣性のただ中に在る者にとって、断絶、不連続という、変化を意識することは難しいことであり、少なくともしばらく経ってからやっと気付くものだと、今更のように感じたのです。

  まだ残っていた稲の穂 [2018.10.14撮影]

  ケヤキの葉も色づき始めています  [同上/大中遺跡公園内]

  日没が近づいた西の空に [同上]

 なんだか思わせぶりなことを書いてしまいましたが、来年5月の元号の替り目を前に、平成の30年間に<言葉>を与えようとした試みに出会いましたので、紹介してみることにします。それこそ平成という時代を生きてきて、今もそのただ中で生きている者が、同時代のことを言葉にすることは至難といわなければなりませんが、有識者の言葉を引き金に、いっしょに考えてみたいと思ったのです。

 同時代を言葉にしようとするならば、あまり遠くない過去を言葉にし、それとの変化の位相を測ることが不可避ですし、近道でもあるのでしょう。

 中核的な資料は、毎日新聞が今年8月に6回連載した『平成という時代』の「 第1部 語る」という記事と、その鼎談者の一人である小熊英二が編著者である『平成史 【増補新版】』(2014年2月刊/河出書房新社)です。補足的に同じ毎日新聞の夕刊特集「この国はどこに行こうとしているのか 平成最後の夏に……」と題した記事なども使うつもりです。

 今回の記事は、当ブログのカテゴリー「現代社会」で取り上げてきたテーマとつながっています。というより、そこで残された課題と新たに生じた疑問から引き出されたテーマで、また次へとつながっていくことになるでしょう。社会構造や社会意識が変化していることは明らかであるように感じているのに、なかなか見えてこない、言葉にできない私にとって、わが国の社会や世界の現状を認識するための起点となることを願って、トライすることにします。

 

 1989年(1月)の平成の始まりは、同年(11月)の<ベルリンの壁崩壊>など冷戦の終わりとちょうど重なっています。今にして思えば、わが国の戦後を規定した最大の条件は、多くの国がそうであったように、冷戦構造の一翼に組み込まれていたことだったと評価すべきと考えますが、小熊英二は、この重なりと、その後の政治・経済の不安定化が重なっていることを、「偶然でもあり必然でもある」と発言しています。

 かといっても、冷戦構造は、わが国の昭和期・戦後におけるリスク要因でもあったわけですが、冷戦の終わりは、ある種の秩序、安定の終わりであり、さらに広く深く、現代の世界の覆う混乱、混沌を招いてきたといえるでしょう。

 ここでは、平成の30年は冷戦後の30年(1991年のソ連崩壊とするなら28年ですが)に重なっているわけですから、平成という時代を言葉にすることは、たんなる元号の区切りという問題にとどまらず、現在の日本と世界へアプローチしていくうえで、区切りとしての意味があるのだと申し上げたいのです。

 

 本題に入る前に、紹介者である私自身のことにもふれさせてください。

 平成という時代は、40歳の直前に始まり、今、70歳の一歩手前にいるという30年でした。今から思うと十分に若かったというしかありませんが、父母と同居、妻は専業主婦、二人の子どもという家族構成、私は公務員というサラリーマン生活のただ中にありました。そして約30年後の今日、父母は亡くなり、二人の子どもは独立し、私は稼ぎ仕事からリタイアし、そして同じ家で老夫婦二人が暮らしているという状況です。

 ある時代の典型的な人生、高度成長期に成立した長期の正規雇用を前提とし、夫が外で稼ぎ、妻が家庭を引き受けるというモデル的な家族環境であったといえます。もちろん周りに例外も多くあったわけですし、私自身、これでいいのかという思いもなかったわけではありませんが、まあこれしかないと思っていたのも事実です。30年後の二人の子どもは、当たり前のように共稼ぎ生活ですが、これが時代の環境、制約、そして変化というものなのでしょう。

 もう一つ、当ブログでも何度かふれていますが、平成の始まりは私自身も大きな曲がり角にあったのだと、今から振りかえってみると、そういうことになります。大学生の頃に発病した慢性病が再燃してきて、4年間で3回の入院を経験しました。当面の完治が期待できない状況にあって、仕事に向けるエネルギーの制約・限界はもとより、近未来への不安のなかにいた時期なのです。どう過ごしてきたものか、30年後の今、こうして何とか命があるわけで、そしてこうして振りかえっているわけで、ブログで私が連発する「不思議」の大本はここにあるのだろうと思っているです。

 ともあれ、平成という時代を考えることは、私にとって、大人になり切れなかった大人として生きてきた30年を言葉にすることでもあります。私自身を問い直すことでもあります。ここで記すことは、こんな私と共振する言葉を書くことでもありますが、<私>という制約から免れていないことを忘れずに、つまり独善にならないことにも注意したいと思っています。

 

🔹平成の30年を<言葉>にすると

 平成という時期を、総括する言葉からみていくことにします。

 毎日新聞の『平成という時代』の鼎談者(といっても進行を毎日新聞の小松主筆がしているのですが)は、三谷太一郎[日本近現代史](1936-)、高村薫[作家](1953-)、そして前記の小熊英二[歴史社会学](1962-)の三人です。大老、中老、初老ともいうべき世代の三人ですが、歴史家でもある三谷と小熊の二人の発言に比べ、高村の発言の異質性が目立っており(作家と学者の使う言葉の違いというだけのことかもしれませんが)、その噛み合いのうまくいかない箇所も面白く読みました。

 

 本項では、6回連載の第1回「3識者 30年を回顧」での発言を中心にみておきます。小松主筆から「平成の30年を日本の歴史にどう位置づけていくか、平成の総論」を問われた三人は、概ね、次のような発言をしています。

 敗戦直後に少年時代を過ごした三谷は、平成の始まりに重なる東西冷戦の終えんによって、日米経済関係の基調が協調から競合へと移り、アメリカンスタンダードによる市場経済の確立と経済自由化が求められたことに起点をおいています。つまり50年代末に「業界団体が群生して政界や官界と接触し始め」た「組織化の時代」を経て、その<政官業複合体>は自民党の基盤を支えてきたが、「冷戦後、それが縮小し「非組織化の時代」が始まった」と、<組織化><非組織化>に力点をおいて説明しています。

 この<非組織化>は、企業の社会的機能が著しく減少したことにも関連していて、「企業を拠点とする日本の集団主義的な傾向、かつて日本文化を特徴づけるものとして強調されたその傾向が弱体化していった」のが、平成という時代だと評価しています。そして、「集団主義というものが日本の文化的特徴と言われた時代は」、三谷の実感では過ぎ去ったように思うと、括っています。

 

 一番若い、といっても50代半ばの小熊は、三谷の非組織化発言を受けるかたちで、労組や地域社会などの空洞化によって、従前の社会基盤が崩壊していく時代として、90年代以降のわが国と世界を説明しています。その背景として、インフォメーションテクノロジー(情報技術)の発展により、顔の見える範囲で関係を作る必要がなくなった状況を、「昔のように顔の見える範囲で組織を作る必要はない時代になった」と強調しています。そして、80年代以前の経済・社会的基盤は大量生産の製造業であったが、これが90年代以降相対的に後退していったのだと指摘しています。

 平成以前と以後では、二つの基盤が変わった、一つは「交通・通信の発達に伴う経済・社会的な基盤の変化」であり、二つは「記憶の基盤の変化」だとします。後者は、日本における天皇の代替わりだけではなく、世界的にも第二次大戦の最後のリーダーたちが次々と退場し、戦争を体験していない世代へリーダー層が移行していった時期でした。日本を含め、第二次大戦直後に新しい国の体制が世界中に成立したわけですが、このことは「世代交代を経て体制の起源の記憶が薄れていけば、体制の正当性が弱まり、不安定化していく」ことを意味しています。この説明に関連して、小熊は、前出の平成の終わりと冷戦の終わりが重なり、それが政治・経済の不安定化とも重なっていることは「偶然でもあるし必然である」と発言しているということなのです。

 

 私とほぼ同世代といっていい高村は、「日本という国の共同幻想の化粧がはがされ、掛け値なしの素の姿があらわになってきた時代だった気がする」と、二人よりもっと直截かつ抽象的な言葉で「平成という時代」を表現します。バブルの崩壊時に露呈した、一流と言われてきた金融、経済の、その企業組織の<いいかげんさ>にショックを受け、その<いいかげんさ>が刷新されないまま、グローバル経済にのみ込まれた結果として、現状を説明しようとしています。そして、昭和にはなかった「餓死者が時々出る」という<貧困の風景>が平成という時代にあらわれたことにショックを受けたとしています。

 私の人生の中で一瞬の夢を見たのは共産主義の「退場」のときだけだとしつつ、高村は、今の状況が日本だけの構造的な問題によるものと思われない以上、「未来に対する絶望が絶望の上塗り状態になって」いるとします。すなわちどこに希望があるかわからない状況だとし、「日本人どうする、日本どうするんだと自問自答しなければならない本当に厳しい時代に入った」と発言して結んでいます。

 

 私の要約のまずさもあって、三人の発言は彼らの意図する<平成の総論>に足りているかといわれれば、疑問が残ります。それでも、平成という30年の風景を、戦後復興から出発して歩んできたわが国社会の連続性を踏まえつつ、その変化をもたらした核にあるものを、それぞれの言葉で発言しているといえます。三谷は国際関係の変化、小熊はそれとともに情報技術の発展だとみているのであり、このような二人の分析に対し、高村は、作家らしい直感で、高度成長期に見えていなかった<いいかげんさ>という素の姿が露出した風景にみているのだといえます。

 平成という時代について、高村のデスペレートな評価が際立っていますが、三人とも前半生で蓄積してきた、つまり各自が抱いている<平成以前の時代>なるものとの関係において、差異、落差そして変化を言葉にしようという点では共通しているといえます。いわば地域、企業等から社会的統合が失われていったのが平成という時代であり、安易に用いるべきではないのですが、三人の<平成の総論>は、現在、よく使われている「分断」という言葉を想起させずにおれないのかなと感じました。 

  毎日新聞『平成という時代』(2018年8月)の題字

  同上の鼎談者の三人

 小熊英二が編著者である『平成史 【増補新版】』は、東日本大震災後の2011年夏から、若手研究者の共同研究として1年弱をかけて議論を積みあげ、分担して書かれたとあります。そして、2014年には<経済><外国人政策>の分野を追補し、【増補新版】が出たとのことですが、<総説>と<国際環境とナショナリズム>を担当した小熊自身は、この共同研究から多くのものを得たようです。それは前記の『平成という時代』の鼎談においても、小熊は、本人の発言内容はもとより、他の二人の発言へのレスポンスにも反映しています。

 本項では<平成の総論>に呼応する箇所を手短に記しておくことにします。小熊は<序文>のなかで、「いわば日本は、冷戦安定期にもっとも栄えた国であり、冷戦後のグローバリズム化と国際秩序変化に対応できなかった国である」とし、後者の歴史が「平成史」だともいえると、総括しています。

 つまり「日本が経済成長を謳歌した時期は1955年から1991(平成3)年であり、スターリンの死と朝鮮戦争休戦を経て、冷戦体制が固定化・安定化した時期から、ソ連崩壊によって冷戦体制が終結した時期にあたる」のであり、この時期はまた「日本政治の冷戦体制である「55年体制」の時期にあたる」と補足して、前段の総括を行っているのです。

 

 この<序文>に続く、各論よりも長文の<総説>では、作家の村上龍の80年代以降「文化的に大きな変化は何も起こっていない」という一文の引用から始められており、私は虚をつかれました。これに続いて、小熊は、平成の日本社会がかつてと明らかな変化があると感じているのに、なぜ「大きな変化は何も起こっていない」ように感じられるのかと、平成という時代の<変化>について問題提起をしています。

 したがって、平成史の課題とは、「「平成」においていかなる社会変化があったのか」というだけでなく、併せて「それに見合う変化の認識がなぜ成立しなかったのか」の二つであって、「とくに社会意識が社会変化に追いついていなかった状況を描写する」ことの必要性を強調して、小熊は<総説>の記述を始めています。

 この後者の問題は、本稿全体のテーマとしてフォローするつもりですが、ここで卑近な比喩をメモしておきましょう。平成の30年は、私をまぎれもなく高齢者、老人に変化させたのですが、自分の意識はその現実に追いついていないというようなものです。そんな私だからこそ、小熊が指摘する、平成という時代は、構造的な<変化>を刻んできているのに、そこに生きる者が、いわば運動体の内部にいる者が、その<変化>を意識することはなかなか困難であるという現実をどう理解すべきかという問いをもって進めていくことにします。

  『平成史 【増補新版】』小熊英二編著 2014年2月刊/河出ブックス

  同上の帯裏[掲載分野/副題/執筆担当者] 

 

🔹<変化>のとらえ方ーポスト工業化社会の変化の実相ー

 本項では、前項の<平成の総論>の背景にある社会構造の変化の実相を、具体的な時期区分とともに、『平成史 【増補新版】』の<総説>で小熊の展開した論述に依拠して整理しておくことにします。つまり平成という時期に表面化した<変化>を、先立つ時期との比較において、もう少し可視化させておきたいのです。

 小熊は、「平成史」を工業化時代からポスト工業化時代への変化として概説しようとしています。いろいろな見解があるとことわりつつ、戦後日本を、「1955年前後」、「1973年前後」そして「1991年前後」の三つの区切りにより時期区分しており、「平成」とは第三の区切りである「1991年前後」以降の時期に相当するとしているわけです。

 長くなるので数値は省略しますが、こうした時期区分の根拠を、産業別の就業者人口、経済成長率、人口増加率などの推移に求めつつ、「経済的には高度成長への突入とバブル崩壊、政治的にみれば「55年体制」の成立と93年の細川政権成立」が区分点で、第一次オイルショックという「途中の1973年前後に小さな転換がある」と説明しています。

 戦後日本の時期区分には、小熊自身が書いているように「諸説ある」わけで、同じ『平成史 【増補新派】』で<経済>を執筆した井出英策は、政府の経済政策という観点からですが、小熊と違う時期区分を示しています。井出の「時期区分」は本稿の最後に【参考】としてメモすることにしますが、私としては、ある状況(まとまりのある<変化>が顕在化してくる)が明白になっていく前の潜伏期間や助走期間をどう扱うかという問題ではないかと思ったりもしますが、とりあえず小熊の時期区分は分かりやすさという点で説得力があると考えています。

 

 さて、この「ポスト工業化社会」という言葉がどこまで一般的かわかりませんが、20世紀に成立した「工業化社会」の諸特徴に比べ、1990年代以降に新たな変化として鮮明になってきた社会構造を総称するものとして、小熊は使っているようです。

 あくまで日本のということですが、「ポスト工業化社会」に先立つ「工業化社会」の特徴はどのようなものだったといえるでしょうか。小熊は、大工場に大量の労働者が雇用され高賃金を受け取り、大量生産された画一的な商品を市場へ供給し、それを売るために大手広告会社とマスコミが生まれ、需要を創出していき、そんな製品を労働者が購買して企業の高収益を保証するような経済循環が成立していたと指摘します。だから、誰もが高賃金の大企業をめざそうとし、女性は主婦になる以外の選択肢が限られ、子どもに高学歴を与えようとし、同じような電化製品と新車をそろえました、そんな生活を多数がめざして営んでいた結果、社会全体を語れるような「新しいトレンド」が次々とあらわれてきたのが、この社会の特徴であると描写しています。

 そして、当然、政治面では、企業や地域や労組といった巨大組織をバックにした大政党が支配していたのです。

 

 もとより上記の小熊の言葉ですべてが包摂されるというわけではありませんが(いつの時代も区切りを超えて前の要素が連続するという入れ子構造になっていますが、特徴的、支配的な傾向はどうかという視点)、これに対し、「ポスト工業化社会」はどうか、小熊はまず次のことを書いています。

 「 情報技術が進歩し、グローバル化が進む。精密な設計図をメールで送付

  できるようになると、工場が国内にある必要も、作り手が熟練工である必

  要もなくなる。熟練工を長期雇用しておく必要はなくなり、企画を立てる

  少数の中核社員のほかは、デザインなど専門業務は外注となって、現場の

  単純業務は短期雇用の非正規労働者ですむ。製造業は先進国の高賃金と組

  織労働者を敬遠して、発展途上国へ出て行く。」

 こんな変化が基軸に登場してくると、どんな変化が社会に起きてくるでしょうか。IT技術により多品種少量生産と個別配送が実現し、大きな広告の必要性が下がり、DMやHPがとって代わり、新しい業種も生まれるが、一方で「マックジョブ」と総称される低賃金不安定労働が増加します。こんな正規雇用の減少は、大企業で特徴的だった福祉の切り下げと格差の増大を生じさせ、男性の雇用と賃金の不安定化により、女性の労働力率が上昇し、離婚率も上がる、そして若年者に非正規雇用が多くなり、晩婚化と少子化が進むという風景が社会的な変化として立ちあらわれてくるというわけです。

 こうした変化にともない、労働者階級や地域共同体は実体を失い、政治面においても左派政党や保守政党も支持基盤が流動化していくと、小熊は描写しています。

 小熊らしく、次のような個性的な表現で、ポスト工業化社会の<変化>の根っこにあるものを括っています。

 「 パソコンひとつで相手を選べる時代は、多様な選択の可能性が増大する

  が、自分も選択される側になる。相手とずっとつきあう必要はなくなる

  が、ずっとつきあってくれる保証もない。そのスピード増大し、過去の

  蓄積はすぐに陳腐化する。雇用も、組織も、取引も、男女も、家族も、

  育も、地域も、政治も、国家も、この選択可能性にまきこまれ、自由と

  チャンスと格差が増大していく。」

 

 以上の「ポスト工業化社会」⇔「平成という時代」を表現した小熊の言葉は、もちろんこの何倍もの分量で説明されているのであり、私の切り刻んでしまった言葉の限界を感じずにはおれませんが、いかがでしょうか。小熊の描写はよくマスコミ等で取り上げられる言葉を上手く相互に関係づけたようないささか図式的なきらいもある内容ですが、私は、平成の社会を、その変化の実相を、このように描写することもできるかな、まあ流石になるほどという感覚をもったのです。

 こうしたことに問題関心があっても、「工業化社会」の典型例を継続して生活してきた私のような者は、「ポスト工業化社会」の特徴、社会的な<変化>を感じとりにくい体質があるのでしょう。今に先立つ30年間に感覚してきたことを思い返そうとしても、その時々に、小熊の記している変化をどこまで実感できていたか、とても実感していたとはいえません。でも、今になってやっと、やはりそうした変化が起きていたのだと振りかえっているのが、私なのだと表現することが適当なのでしょう。

 今回、読んで理解した限りでは、小熊は、情報技術の発展、IT技術の展開、そしてインターネットが汎用化した社会(ネット社会)という、いわば情報通信革命と呼ばれる変化に、「ポスト工業化社会」への変化、転換の原動力を見出しているように感じました。

 80年代以前に、つまり「工業化社会」の真ん中で、未来への想像力は「モノ」の進化に向いており、情報通信革命などに及んでいなかった、ということを小熊は指摘し、だから前出の村上龍の「大きな変化は何も起こっていない」という一文になったのだと解釈しているといえます。確かに、携帯、パソコン、スマホというものは当時支配的な「モノ」の変化というカテゴリーと認識できずに、その影響力の巨大さを想像できなかったのです。

 これらがもたらした情報通信上の変化は社会構造そのものに影響を与えた、大きな構造変化を起こしたと、今になって、私たちは理解していますが、平成の始まりの頃、ワープロに右往左往していた私は、多くの人びとと同じように、現在の事態をかけらも想像できていなかったのです。

 

 次には、『平成という時代』に戻り、その情報通信革命がもたらした時代への反映(構造変化)についての発言をみておきます。

 連載の第4回「ポスト冷戦の民主主義」、第5回「情報革命時代の言葉」が、直接関係しています(第2回は「戦争の記憶と天皇」、第3回は「歴史をめぐる摩擦」ですが、本稿ではふれないでおきます)。

 前者の「ポスト冷戦の民主主義」の方は、見出しが「ネットが外した重し」であり、いわゆるネット社会が、現代の世界と日本に及ぼしている影響のなかで、最も重要な「ポスト冷戦後のデモクラシーの特徴」が取り上げられています。この問題は、当ブログでも繰り返し論じてきたことでもあります。

 まず、三谷は、国民主権、国民が統治することの具体的な意味をどれだけ考えてきたかに疑問があり、これが「今日に至るまで日本の民主主義の最大の問題」となっていると発言します。これはこれで本質的な指摘なのですが、続く、高村は、苛立ちを隠せないように、ネット社会が、民主主義社会の安定、その重しを完全に取り払ってしまったとします。その論法は、代議制民主主義によって多様な人たちが何とか共同体を営んでいて、一応安定が保たれていたのに、情報通信革命を背景に、すべての情報が速くなり、それに合わせるように「かつては沈黙していた社会の層が不満を表に出す」、と同時に経済格差の拡大で、「かつて民主主義社会を支えていた中間層が消えていく」、その結果、「声の大きいものが勝つ」、「そういう暴力的、独裁的な手法が逆にまかり通るようになっているのが今の民主主義社会の現実だ」というものです。

 民主主義的な手続きは本来、「非常に時間や忍耐を要する」という本質をもっているが、それが情報通信革命によって無効化されているのだという趣旨と理解しました(「決められる政治」という言葉が例示されています)。

 このスタンダードだけれど、作家らしい「炭鉱のカナリア」的な発言に対し、小熊は、学者らしい視点から、高村の意見を補足、再解釈するような発言をしています。本来、民主制は小さな国でしか成立できないのに、近代ヨーロッパで大きな国においても民主主義という無理なフィクションを行わざるをえなくなって登場したのが、代議制民主主義なのだ、いわば選挙貴族政だというのです。第二次大戦後の代議制民主主儀は、「同じ戦争を戦ったという国民としての集合意識」と、「地域社会では皆、顔見知りであった」という地域のまとまりという二つの前提があって成立していたが、今や、それらがなくなったのだと念押しします。

 加えて、情報通信革命の状況下にあって、「通信機器を使えばもっと話の合う人と地球の裏側からでも話ができる」のに、「選挙区で選挙をやったり、国で議会をやったりしていることが納得されなくなるのは無理もない話だ」ということとなり、「一応委任という形で議会はやっているが、納得でき」なくてネット上で意見が噴出するのだと説明します。だから、こうした状況は、代議制民主主義をはじめ、現在の制度の機能不全のあらわれだというわけです。

 では、どうするのといいたくなりますが、新聞紙面の制約なのか、話はここでとどまっています。

 

 この第4回に続く第5回「情報革命時代の言葉」で、高村は、最近の<言葉>というものの劣化を取り上げ、ちょっと悲鳴をあげているみたいな発言をしています。高村の実感からは、現在の文学表現はレベルの低下が著しいが、これはネット社会の広がりと関係していて、日本だけでなく世界共通の問題だとします。つまり職業作家と素人の境目が消えてしまったと感じるが、これは読者にその境目が分からなくなったからだ、「いわく言い難いものを感じ取る感性が日本人に」あったが、もはや期待できないというのです。「言葉が正しく言い当てる、物事を言い当てられる時代は終わったんだ」とし、こんな世界におそれを抱きつつ、慨嘆しているのです。

 これに対し、小熊は、「嘆いていても世界から取り残されていくだけかもしれない」というところまで踏みこんで話しています。すなわち、高村の言葉の劣化論は、「かつて高度な読み方ができる読者共同体があった」(そこを市場に日本現代文学が成立していた)ところから出ており、「そういう共同体が政治や文化にとって重要だ」ということは理解できるが、もはや現在の世界は変化したのだというのです。つまり「現代は、微妙な前提を共有できる共同体の範囲を超えて、交流が進んで」おり、それは「必然的に文化のあり方を変える」のであり、その変化を嘆くだけでは「懐古趣味、貴族趣味になりかねない」と、高村になだめるように発言しています。そして「作家が数値化できないものにこだわるのは分かる」が、「共同体を超えて共有できるのは何といっても数字ですから、グローバル化すれば数値化が進むのは当然」だとも説明しています。

 それでも、高村は、数値化できない世界があって、私たちは生きてきた、「人間は複雑な言語をいっぱい作り上げ、複雑な世界を言い当てられるようにして、世界観を広げてきた」が、その<言葉>を捨てようとしている、「ビジネスの世界はそれでもいいが、芸術とか数値化できない世界とかは終わっていくんでしょうね」と、いささか絶望的な感想をもらしています。

 最後に発言をもとめられた三谷は、「ネットがこういう形で文明を変えていったのはやはり驚異ですね」と、見出しの「変えた文明の「形」」の元となった発言をしています。

 ここで展開された議論は、作家一人の暴走的な発言ではなく、現代の情報通信革命という時代において、本質的な問題を照射したといえるのではないかと思うのです。これから世界が続いていくなら母国語と共通語をどうしていくべきかなど根元的な文明のあり方の問題になってくるものと、翻訳なくして広い交流など成立しようもない私としては、そう感じているのです。

 

 ここで前半を終え、次稿、後半では、日本の「ポスト工業化社会」、すなわち平成という時代に生じた<変化>の背景にあるものを、もう少し掘り下げてみてみることにしたい、そして、その変化に意識が追いつかないのはどうしてかという課題についても考えてみたいと思っています。

 

【参考】

   平成史 【増補新版】』の<経済>における戦後日本の時期区分

 同書の各論である<経済>は、小熊と同じ慶大教授である井出英策が担当していますが、そこでは平成の「経済現象」をとらえるために、「経済政策」の変容を通じて追跡しています。

 ですから、小熊の時期区分(「1955年前後」「1973年前後」「1991年前後」という三つ区切り)と違っていて当たり前なのですが、井出の時期区分は副題に「「土建国家」型利益分配メカニズムの形成、定着、そして解体」とあるとおり、これに依拠しています。

 「形成期」に当たるのは、高度経済成長から石油危機に至る「プロト土建国家期(1960-74年)」、「定着期」に当たるのは、国が借金をしながら成長を支える「土建国家期(1975-98年)」です。そして「解体期」が、利益分配機能を不全化する「土建国家解体期(1999年-現在)」というわけです。

 注目すべきは、井出が、わが国の経済政策、これは国の財政金融政策と直接関係していますが、「土建国家」という観点から、解体へ向かう分岐点を1998年おいていることです。小熊の「1991年」という区切りは冷戦の終わりという時点であり、バブル崩壊とも時期を同じくし、ほぼ平成の始まりに重なっているということでした。これに対し、井出は、90年代、すなわち平成の時代は「土建国家のフレームワークが全面化していく時期(公共投資と減税によって再び政府債務が急増していく)」であり、1997-98(平成9-10)年前後の時期を境に「日本経済は大きな変貌を遂げていく」なかで、土建国家の解体が始まる(利益分配機能がはたらかなるなる)と説明しています。

 もとより、平成の30年という期間に区切りを入れることは、平成にも紆余曲折があってのっべら棒ではないのですから、おかしくも何でもありません。

 ですから、小熊と井出の時期区分は、どちらが適切かという問題ではなく、いずれも正しいと評価しておいていいのでしょう。井出の描く平成という時代は、バブル崩壊を受けて土建国家モデルを全面化させたが、経済構造の大変化によって、そのモデルが行き詰まりを示し、このモデルに替わるべきレジームを作り出せていない時代であると、トータルに理解しておけばいいのかなと思っています。

 井出が作成した下図では、右端の「1999〜解体期」に明記された特徴(例えば「非正規雇用と所得の減少」「非婚化・晩婚化の加速」)は、小熊が「ポスト工業化社会」で描写した<変化>の特徴と呼応していることが、ご理解いただけるものと思います。

  『平成史『増補新版』』の211p

                          【続く】

 

2018.10.08 Monday

「やってみなきゃわからない」ー築地市場の豊洲移転ー

 一昨日(10月6日)の新聞やテレビでは、築地市場で最後のセリがいつもと変わらない活気のなかで行われたことが、市場関係者の複雑な表情とともに報じられています。ご案内のとおり、築地市場の移転は2年間延期されていましたが、いよいよ11日の豊洲市場開業に向け、急ピッチで引っ越し作業が進められることになります。

 

 先日(9月23日)、NHKTVでは、「あの日 あのとき あの番組「築地市場83年 魚河岸の心意気はいま」」が放送されました。1971年放送の新日本紀行魚河岸ぐらし」と1995年放送の小さな旅魚河岸は熱気もつつむ衣がえ」という過去の番組を振りかえりながら、83年の歴史に幕を閉じようとする築地市場の核にある<伝統と心意気>を見つめておこうという趣旨のようで、築地ブランドの<目利き>という定義困難な存在にこだわった番組づくりでした。

 このようなひと昔前のアーカイブを放映した後に、今年の8月に築地魚河岸会の会長である伊藤宏之さん(2016年8月の移転延期決定時は仲卸業者の協同組合のトップでした)を取材した映像が挿入されます。ほんの3~4分間のことなのですが、伊藤さんの築地市場での動きを追うとともに、加えて豊洲市場の移転予定先の店舗でのインタビューによって、築地市場の83年の歴史と豊洲市場の近未来を浮かび上がらせようとする意図がありました。

 築地市場では、「支えあい」と呼ばれる各店舗が不足する商品を融通し合うシーンを流しつつ、商売敵といっても多数の業者が助け合うことによって、はじめて<市場>が<市場>として機能できることを伝えようとしています。江戸の頃、1日に1千両を扱うのは、歌舞伎と吉原、そして魚河岸の3カ所だけだったと教えられてきたと語る伊藤さんの口吻からは、築地市場に関わる人びとの誇りと矜持が垣間見えるようでした。

 豊洲市場では、一人だけでまだガランとした店舗スペースに立った伊藤さんは、豊洲へ移ってからのことを問われると、「やってみなけりゃわからない」、一呼吸あって「やるっきゃない、そんな気持ち」と、今の心境を語ります。そして「楽しみ半分、不安半分、みんないっしょじゃないの」と、とても80歳と思えないクリっとした目をむき、先輩から受け継いだものを大切にしながら、新しい事態(取引内容も変化するだろう)に柔軟に対応していくしかないということを強調していました。 

  「あの日  あのとき あの番組」のタイトル画面 NHK総合/9月23日放送

 昨年の2月に、当ブログで築地市場のことを取り上げたのは、もちろん前年の急な移転延期が話題となっていたことが底流にあって、本橋成一の写真集『魚河岸 ひとの町』を古書市で手に入れたことがきっかけでした。そして森田誠吾の小説『魚河岸ものがたり』と、これを原作とするTVドラマという個人的な記憶との関わりもあって、わりと詳しく書いたのです。

 なんと、その直後に、図ったように、NHKBSで『築地市場 魚河岸の誇りと涙』というドキュメンタリーが放送されて、不思議なご縁のようなものを感じたのです。それから1年余、秋に移転することもすっかり忘れていた今年の5月にまた、その続編である『築地市場 魚河岸の誇りと涙~最後の春~』が放送され、このことをブログで報告するとともに、「当面の状況はフォローしていくつもりです」と付け加えていました。

 だから、今回は、以下に続いて四度目ということになります。

 🔹2017.2.2「築地の魚河岸ー昭和の終わり「小説・TV・写真集」ー

 🔹2017.2.5「図ったようにー『築地市場 魚河岸の誇りと涙』の放送ー

 🔹2018.5.18「すっかり忘れていてー『築地市場 魚河岸の誇りと涙~最後

        の春~』ー

 今年5月の三度目のブログには、続編の<最後の春>というドキュメンタリー番組のことを、私は、前編に比べて「いろんな思いを残しつつも決まったからにはやるしかないという、市場関係者のみなさんの悲喜交々を飲み込んだような突き抜けた感じの表情」が印象的な番組となっていたと記しています。

 今回の番組も、同じ基調で、つまり「やるきゃない」を市場関係者に共通する心情として編集されていたといえるのでしょう。

  豊洲市場と築地市場の位置関係 築地から2.3卆茵ヾ直2号線は片側1車線で暫定供用予定

 ところが、というべきか、先月9月19日、仲卸業者や関連事業者及びその家族56名によって「豊洲市場移転差止訴訟(併せて仮処分申し立て)」が提起されたと報じられていて(サンディ毎日<News Navi>)、驚いたのです。

 もとより移転に反対する仲卸業者が大勢いて(移転積極派の伊藤さんがトップを退いたのは、選挙で慎重派が勝利したからでした)、どちらかといえば、消極的というか、仕方がないというのが市場関係者全体のスタンスであろうとは理解していましたが、移転間近の事ここに及んで一体どうなっているのかという驚きでした。

 まあ、事がここに及んだからこそ、見切り発車だ、切り捨てられたと思った少数派が訴訟の提起に踏み切ったということなのかもしれません。

 現時点の動きから報告しておくと、移転差止の仮処分を求めた申立ては、10月4日、東京地裁から「いずれも棄却する」という決定が出されています。これに対し、訴訟原告団は、直ちに「決定」に異議の申し立て(抗告)をしたとのことです。

 原告団の中心となっているのは、「築地女将さん会」のメンバーのようです。弁護団長は、都知事選挙にも出馬した宇都宮健児元日弁連会長です。記者会見なども「女将さん会」の代表者の方がコメントされています。

 ここで訴訟内容の詳細を書くことはできませんので、記者会見の動画と「宇都宮けんじ希望のまち東京をつくる会公式サイト」から訴訟の概要(原告側の主張の要旨)をアップしておきます。

 🔹2018.9.19「豊洲移転差し止め提訴」ユーチューブ

 

 🔹2018.9.28「築地市場の豊洲市場への移転差止訴訟と仮の差止申立ての

        概要について

 

 訴訟理由としては、大きく二つをあげています。

 一つは、豊洲市場の土壌汚染問題は解決されていなくて、小池都知事の安全宣言は全く信頼できないものだとしています。今年の地下水調査でもベンゼンやシアンの検出が報じられていましたが、これは東京都が豊洲市場への移転にあたっての「無害化3条件」に反するということが強調されているようです。

 私の知らなかった「無害化3条件」とは、‥攵躅染対策の確実な実施、東京ガス工場由来の汚染物質の完全な除去・浄化、E攵蹇地下水の汚染も環境基準以下にする、そんな条件だとされています。これが本当なら、現状が△鉢に反していることは明らかなのでしょうが、「無害化3条件」を市場関係者や都民と約束してきたと原告団は断定しているものの、きっと東京都といわゆる見解の相違があるのであろうと想像しています。

 もう一つは、多くの仲卸業者が豊洲市場の移転の中止・凍結を求めていることだとしています。その大きな論拠を、今年の3月下旬に、「築地女将さん会」が水産仲卸業者535業者にアンケート調査をした結果においています。回答は261業者(48.6%)からあって、移転計画自体を問う質問に対しては、全体の7割の業者が豊洲市場への移転の「中止か凍結」を求めているとされています。その詳細な内訳は「今からでも中止するべき」が82業者(31.4%)、「凍結して話し合うべき」が101業者(38.7%)で、計183業者(70.1%)です。

 その後の都の安全宣言などの動きによって変化もあったかもしれないし、そもそも回答しなかった半分以上の業者は「中止か凍結か」ではなかったとみるべきなど、いろんな条件を考慮しなければなりませんが、少なくとも本年の3月時点では、移転に慎重な仲卸業者が多数存在していたという事実はあるのでしょう。

 そして、豊洲市場への移転によって、仲卸業者らの人格権(個人の生命・身体・精神及び生活に関する利益の総体)が侵害される危険性が大きいとして、訴訟が提起されるに至ったとのことのようです。どうも、豊洲移転の強行によって、廃業に追い込まれるなど、営業権の侵害、補償という問題も絡んではいるのかもしれません。

 

 私には、訴訟の当否を論じることができませんが、「仕方がない」で済ますことのできなかった仲卸業者の方々が相当数いるという事実と、訴訟で知った「無害化3条件」なるものの真実とは奈辺にあるのかという疑問を、私としては記憶しておきたいと思っています。

 築地市場の移転は、本来、安心・安全と効率性を求めたものであったはずですが、なお「安心・安全」に疑問符が投げかけられるようでは、当事者としてはたまりません。

 で、原告の方々は、事業を継続される場合、豊洲への引っ越しをどうされているのでしょう。今、引っ越し作業をしている最中でしょうか。私には、行政と最終的に大勢に従わない市民との間に生じる、よくある諍い(いわば<女将>が<お上>に盾突く)の構図と見なしてしまうことは、私レベルでみてきた経緯からですが、簡単にできそうもありません。

 

 今回の提訴は、築地市場の豊洲市場への移転には、少なくとも多くの課題が残されていることを暗示しているといわなければなりません。

 東洋経済オンラインの9月30日付の記事「ようやく開場する「豊洲新市場」の3つの難題」を簡単にメモしておきます。この東洋経済記者「中村稔」という署名入り記事では、豊洲市場の抱える問題点が3点指摘されています。

 一つが「物流は本当に効率化するのか」で、場内、場外の両面から課題を指摘しています。場内は築地と違って立体構造で上下移動が加わるので、習熟訓練を繰り返してきているが、「実際にそのときになって大量の荷物を動かしてみないとわからない」という関係者の声が紹介されています。場外は、都心と臨海部を結ぶ「環状2号線」が移転延期で整備が遅れ、移転後1ヵ月以内の暫定迂回路(片側1車線)での全線開通となることから、慢性的な渋滞の発生が懸念されているそうです。

 二つが、「止まらない取扱高の減少傾向」という構造的な問題です。前のブログでも紹介しましたが、卸売市場の取扱高は長期的に大幅な減少傾向にあります。これは、そもそもの魚介類の消費量が減退傾向にある一方で、市場外流通の比重が拡大していることがその要因となっています。豊洲市場はハード面で改善されるが、それだけでは、この構造的な問題に対応できないということです。

 三つが、「築地再開発とどう両立するか」ということです。現在のところ、移転後すぐに築地市場の施設は解体され、五輪終了後の2022~23年度に再開発に着工する考えだとされています。この動きに豊洲側の千客万来施設が反発し、整備が大幅に遅れる事態となっています。本市場の移転後も、<築地場外>はその名称のまま残って営業が続く中、競合が避けられそうにないという課題です。

 

 以上のうち、二つ目の問題と関係する課題が、毎日新聞などでも指摘されています。それは、「日本の台所」と呼ばれてきた築地市場は、トップの卸売市場として価格形成機能を有してきたが、その低下が進むのではないかという問題です。

 市場外流通の比重の増加はもちろんのこと、卸売市場内においても原則だった「セリ」が縮小し、買い手と売り手が一対一で行う「相対取引」が一般化しているという現実があります。これに伴い、商品の価格は購買力のある買い手の「言い値」に左右される構造となっており、市場の本来の目的であった価格形成機能の低下が進むことが予想される状況なのだそうです。このことは、産地にとっても、死活問題で、取引の目安だった築地の相場機能が弱体化すると、大手に「買いたたかれてしまう」ことにつながるとの懸念の声が上がっているのだそうです。

 こうした事態は、築地ブランドの<目利き>という無形資産を豊洲市場でどう再構築していくかという課題にも関連するものなのでしょう。

 

 いずれにしても、以上に記したような課題も抱えながら、豊洲市場は船出することになります。

 前記した「あの日 あのとき あの番組」のゲストの荒俣宏さんは、豊洲市場について、現代の企業活動にはシークレットの部分が付きまとうけれど、ぜひ市場らしくオープンなパブリックな空間として展開されることを期待するというような趣旨の発言をしていました。それは、本来市場が開かれた空間であったし、そうあり続けるべきだという考え方に基づく発言であり、<築地>がキャパの関係で限界のあった閉鎖性を、<豊洲>ではもっとオープンにして、多くの一般人にもふれる機会をもってもらうべきだという信念から出たものであったと思っています。

 大切だけれど、なかなか難しいことといわなければなりませんが、これまでのブログでも紹介した故網野善彦さんの「市場=無縁の場」論にも通じています。「無縁」の状態になってはじめて、贈与互酬から切り離された「モノとモノとの交換がおこなわれるのではないか」、だから市場は特別な場所なのだということです。

 「市の立つ場は独特な意味をもった場なのですが、そうして開かれた市場は、日常の世界とはちがい、聖なる世界、神の世界につながる場として考えられていました」という網野さんの言葉に、もう一度立ちかえってみたくなりました。

 

 食べることは人間の基本にあることですから、築地市場の移転問題は、人間の基本にある問題を、さまざまな視点から、私たちに提起しているのではないかと推測できます。残念ながら、こんな切り貼り情報を整理するだけの私にはなかなかみえてきませんが、きっとそうであろうと思っています。

 これからも、テーマとして意識していくことにしたいと考えています。

 

2018.09.28 Friday

1993年の夏にーカルラ・シモン『悲しみに、こんにちわ』ー

 1993年の夏、スペインのカタルーニャの田舎、小高い丘の上、密集する雑木林と背の高い草にかこまれた古い石造りの家。若い叔父家族のもとへ、両親を亡くした6歳の女の子がやってきます。夏の光、セミしぐれの通奏音、鳥や動物の発する音、風が空気と木々をざわつかせ、開放された戸や窓からジャズが響き、ちょっと家から離れるだけで、背丈の低い子どもにおおいかぶさるように濃い緑がゆらめきます。そして、黄色い光がもれる夜、外へ一歩踏みだすと、底なし沼のようにどこまでも深い闇が広がっています。いつの間にか、一軒家は遠ざかり、子どもの視界は、その灯りを見失ってしまいそうです。

 このひと夏を、まったく新しい環境で、不安と孤独の目をした少女はどのように過ごしたのか、その生々しい表情を、その感情のゆらめきを、カメラはとらえて離しません。1986年、バルセロナに生まれた、若きカルラ・シモンが初めて監督した長編映画です。原題、英題ですが『SUMMER、1993』、邦題は『悲しみに、こんにちわ』(カルラ・シモン監督/2018.7日本公開/スペイン製作)といいます。

 どちらでもいいことですが、私にとって、2018年、映画館で今日までにみた映画27本中、最高の作品でした。

 

 お気づきのように、1986年生まれのカルラ・シモンは、1993年の夏は6歳、そう彼女の実話に基づくストーリーということになります。

 物語は、母親が<ある病気>で亡くなったときから始まります。大都会のバルセロナで暮らしていたフリダが、祖父母に連れられて叔父、叔母、幼いアナという三人家族のもとにやって来た「1993年の夏」が描かれています。母の死を受けとめることのできない6歳の少女がすごした<特別な夏>、あとで<成長>と呼ぶことになるであろう瞬間をとらえて、圧倒的にみずみずしい傑作というべき映画です。

 <ある病気>とは、「エイズ」のことですが、映画では最後までこの単語が伏せられたままで、映画をみる者を惑わせ、想像させることになります。少女の出血への周囲の人たちの反応や病院での検査シーンが何かをにおわせてはいますが、なぜこうした手法を採ったのか、シモン監督は子どもの視点で物語を伝えたかったからだとしています。つまりち6歳のフリダにはエイズ云々は分からなかったわけであって(実際は12歳の頃に教えられたとあります)、だから<エイズ>は出てこないままで、ストーリーは進行するのです。

 この映画を母親の死後から始めた理由を、カルラ・シモンは、インタビューで、つらかったのは6歳のときに亡くなった母親のことを覚えていなかったことだ(自分のなかに母親のイメージがない)としつつ、次のように語っています(2018.7.20/ananweb)。

 「 (前略)そこを境にフリダの新しい生活が始まっていくことを描きた

  かったからです。つまり、「喪失」という部分に重きを置くのではな

  く、「新しい生活への適応」という部分を見せたいと思いました。」 

 話が前後することになりますが、カルラ・シモンは、この映画に二つのテーマをもってのぞんだとしています。一つは「子どもが死に直面するというテーマ」です。そこで、「自分の経験のなかで実際に私がどういうふうに感じていたのか、というところを通して伝えるのが一番いいのではないか」と思ったといいます。同時に、こういうリアルな感情に加えて、二つ目は「スペインでエイズが蔓延していた当時の時代背景などもとらえたい」という気持ちもあったとしています。

  『悲しみに、こんにちは』 チラシの表面

 先に<不安と孤独の目をした少女>と表現した6歳のフリダ、新たに加わったそんな彼女に戸惑う叔父と叔母は彼らなりに懸命にこの夏をフリダと共に過ごそうと腐心しますし、幼いアナは急に傍に登場したフリダと遊ぼうとします。当たり前といえば当たり前のことでしょうが、母の病もあって周囲から甘やかされ、突然、大都会から田舎へ引っ越ししてきたフリダは、どうしていいのか、どう振る舞えばいいのか分からないのです。実子であるアナへの微妙なライバル心、周囲で善良さを発揮する大人たちへの違和感、フリダは、突然、表情をこわばらせ、必死に自分の世界を探してもがきます。

 そして、ある夜、家出の真似事をしたりもします。もとより実話に基づくといっても細部はフィクションがほとんどですが、家出からターンしてもどったときのフリダのセリフ「暗いからまた明日にする」は実際にあったことだと、シモン監督は述べています。

 こんなフリダですから、難しいのは、キャスティングであり、演出だったことでしょう。シモンによると、フリダ役には「すごくいい子にも見えるし、すごく悪い子にも見える二面性のあるまなざしの持ち主だった」ので起用したといいます。アナ役の子が伝統的な家族構成で回りから褒められたり、愛されている子どもであったのに対し、フリダ役の子どもは「家族構成が複雑で、あまり伝統的な家族ではありませんでした」と語ってもいます。

 まずは「キャストには2週間ぐらい一緒にいてもらいながら、リハーサルにたっぷり時間をかける」ようにしたそうです。そのうえで、演出は、「正確に言ってもらう必要があるセリフに関しては、私が脚本通りのセリフを何度も繰り返して、それを聞きながら覚えてもらう」ようにしたが、それ以外の場面では、即興性や自由を優先して、「できるだけ彼女たち自身の言葉で話してもらえるようにした」と説明しています。

 

 なんといっても、すばらしいのは、ラストシーンです。叔母の目の前で、アナといっしょにベッドのうえで飛び跳ねながら遊んでいたフリダが、急に泣き出します。このシーンは、一切の説明的なセリフはなく、ただ声をあげて泣き、涙を流すフリダの顔がアップされたり、引いたアングルで叔母とアナとの三人のショットを見せたり、カメラは動かないまま、このシーンは軽く1分を超えて続くのです。

 このシーンによって、フリダの涙によって、どこかもやもやとしていた観客は、この<特別な夏>にフリダが経験したことを丸ごと受けとめ、フリダの成長の瞬間に寄り添えたような気持ちになります。かくして、母の死が半透明のベールの向こうにあったフリダは母の死を受け入れられたのか、心が解放されたのか、本当のところは分からないけれど、と思いながらも、彼女の言動に胸を締めつけられていた観客の多くが、心が解き放たれる、ある種のカタルシスを感じたことでしょう、少なくとも私はその一人です。

 

 カルラ・シモンは、前記のインタビューで、フリダの涙について、次の発言をしています。

 「 あのフリダの涙には、いろいろな感情が混ざり合っていると思うんです

  けど、まずは自分の居場所を見つけて、新しい家族に愛されていることを

  感じている幸せ、でも、そのいっぽうで、今後もこの生活が続いていくん

  だろうという悲しみでもあります。つまり、両親は本当に戻ってこないん

  だということを理解した瞬間ということです。」

 このシーンをラストに決めた理由を、シモンは、母の亡くなった日に泣くことができなくて、罪悪感として心に残っていたこともあった、そして、養母から1993年の1年後か2年後かわからないが遊んでいたときに急に泣き出したことがあると教えられ、これを象徴的に描くことでフィナーレとしようとしたのだと語っています。

  『悲しみに、こんにちわ』 チラシ裏面(部分)

 この映画の二つのテーマは、すでにカルラ・シモンの短編映画として、準備されていたことも知りました。

 エイズのことは、2012年の『BORN POSITIVE』という2作目の短編映画で、エイズにかかった子どもたちをテーマとして撮っています。カルラ・シモンは幸い両親のHIVにかかっていなかったけれど、そうであったらどう感じていただろうということを映画にしているのです。

 もう一つの「子どもが死に直面する」というテーマの方は、3作目の2013年『LIPSTICK』で、ふたりの子どもがおばあちゃんの死に直面するという短編映画を撮影しているのです。シモンは「子どもたちが<死>というものをどのように捉えていくのかという視点を深めていくきっかけとなった」映画だったと語っています。

 カルラ・シモンにとっては、こうした準備を経て、自身にとって最大のテーマである「両親の死と私」に取り組み、初の長編映画として結実させたというわけです。

 

 限られたスペイン映画しかみていない私がどうこう申し上げるわけにはいきませんが、同国の映画は子どもを主人公とする伝統がありそうです。それはビクトル・エリセの呪縛かもしれません。

 カルラ・シモンは、そのエリセの1973年『ミツバチのささやき』とカルロス・サウラ監督の1978年『カラスの飼育』が「最大のインスピレーションの源」だと言明しています。後者はみていませんが、多くの観客と同様、私もエリセの『ミツバチのささやき』と『エル・スール』(1983年)につながる映画として、『悲しみに、こんにちわ』をみていたのは事実です。

 シモン監督はバルセロナで若い人たち向けの映画スクールをやっているそうですが、そこでは是枝裕和監督の作品も見せているようで、子どもたちを演出する方法についても何がしかの影響を受けているのかもしれません。

 

 この映画のPRリーフレットから、二人のコメントを紹介しておきます。

 いがらしみきお(漫画家)のコメントは、次のとおりです。

 「 (前略)シモン監督の自伝的作品であり、私の自伝でもあり、あなたの自

  伝でもあります。夏休み、田舎、おじさんとおばさん、大人だけの会話、

  ひとり遊び、いとこ、お祭り、誰にとっても身に覚えのある映画。」

 この映画をこのようにみた方もいますが、私にとっては「身に覚えのある映画」ではありませんでした。この映画に心を動かされたわけですから、こんな反応をしているわけですから、何かあるのかもしれませんが、残念ながら、私はそんな人間ではない、そんな感性を持ち合わせていない、そんな幼年時代が今の自分からは失われています。このコメントを読んで自分の現実と欠陥というものを強く意識させられたのです。

 男女という問題もありそうですが、それだけではないのでしょう。

 もう一人は、奈良美智(美術家)のコメントで、こちらは私の感じたことに近いと感じました。

 「 主人公のひと夏の始まりは、僕の心を孤独感で揺さぶるが、小さき者は

  いつの間にか成長していく。それに気付く時、彼女の生きる世界の何気な

  い美しさも見えてくるのだ。」

 この映画の強い磁力とは別に、家人は、ちょうど6、4、2歳の孫との接し方について、反省的な弁を述べていましたが、そんな見方もできるのでしょう。

 

 カルラ・シモン監督はどこへ向かうのか。これだけの処女作をつくってしまった重圧に抗しつつ、次の作品にどう向かっていくのか。少なくともビクトル・エリセのように十年に1本ではないことを期待したいと思います。

  ㊟『悲しみに、こんにちわ』は現在、シネリーヴル神戸で上映中です。

2018.09.25 Tuesday

クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(3・完)

 フィレンツェの3回目((1)(2))です。

 今回は、前半で1、2回目に未掲載の名前も知らないような街角の写真(すべてではありませんが)から<拾遺>しておくことにします。後半では池上俊一が『フィレンツェ』で主張している問題提起(とりわけ私たちの世代にはそうであった、あの「ルネサンス」の通念に対するアンチテーゼ)についてコメントすることで、全3回を締めくくる予定です。

 いずれも不要といえば不要なのですが、遊んでいるなあと笑って読んでいただければと思います。

 

 さて、その前に、ナポリに関するブログ(「曇りのち晴れ・ナポリ(その1)ーシチリア・ナポリ紀行(5)ー」)で参照させていただいた江國滋の『イタリアよいとこ 旅券は俳句』(1996年12月刊/新潮社)に再登場してもらいます。

 といっても、前回のブログで中心となったサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラとアルノ川について、1871(明治4)年に日本を発った岩倉使節団の見聞をまとめた米欧回覧実記(四)』(久米邦武編/岩波文庫)から関係分を、江國著から再引用しておくだけのことです。先入見など持ちようもなかった頃の日本人が受けとめたフィレンツェの印象として、その文体とあわせ、興味深いものだからです。

 失礼な言い方になりますが、江國さんもフィレンツェについて基本はこの二つだけを取り上げていることからしますと、<観光客>である日本人にとってやはりこの二つのランドマークが最大の見どころなのでしょう。

 

 まず、ドゥオーモとクーポラのことですが、『回覧実記』から三箇所が引用されています。最初はフィレンツェには「寺が多い」から始まり、江國は初めて出会った「淫工」という言葉に驚いています。

 「 府中ニスヘテ二百五十ヶ寺アリト云、羅馬「カドレイキ」教会ハ、多ク

  寺刹建テ、荘厳ヲ極ム、其淫工ハ驚詫スルニモ余リアリ」

 「 「サンタマリア」寺二至ル、此寺ハ一千二百年、羅馬教ノ全欧地に蔓延

  シ、民財ヲ侵漁セシ盛時二アタリ始メテ経営ヲナシ、造営ノ工ヲ用フルコ

  ト、四百年ノ星霜ヲ経テ、落成二至レリ」

 「 仰キ見レハ目ヲ暈セントス、長大ノ人モ、堂傍ニ傍フテ立ツヲミレハ、

  其微小ナル、蜩ノ老樹ヲ抱ケルカ如シ」

 江國は『回覧実記』の記述を「あながち誇張ともいえない」と記しています。そんなことを感じてしまう下記の写真も写っていました。

  早朝のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 [2012.1.6撮影]

 次に、アルノ川についてです。

 「 「アルノ」河ノ清流アリテ転回シ、府ノ中腹ヲ流レ、(略)水清ク流疾

  シ、時ニ斜湍ヲ作リテ水勢ヲトトム、瀉瀉淙淙トシテ声アリ、我行ノ宿セ

  ル「ホテル」ハ、正ニ其斜湍ノ側二アリ」

 「 此閣(ウフィツィ美術館)ノ楼上ヨリ、飛楼ヲ作リ「アルノ」河橋ノ中身

  ヲ廊道トナシ、河南ノ市街ニ接連シ、民居ノ上ニ、廊道ヲ作リテ、王宮二

  接ス」

 当時のアルノ川は、現在と同じだと思うのですが、後半のヴェッキオ橋とヴァザーリの回廊は明らかだとしても、前半の「斜湍」とは何のことでしょう。カッライア橋とアメリゴ・ベスプッチ橋の間にある<堰>のことなのでしょうか。この<堰>はアルノ川の水量や流れの速度を調節する機能をもっていそうなので、これのことかもしれません。

 だとすれば、江國が書いているとおり、使節団のホテルは百三十年を経て江國が宿泊したホテルと同じアルノ川右岸沿いの<エクセルシオール・ホテル>という可能性が高くなります。あとでこのホテルは再登場します。

  エクセルシオール・ホテル [2015.5.14撮影/オニサンティ広場]

 フィレンツェは、イタリアの諸地域が統合されて王国となった1861年から4年後の1865年に新生イタリア王国の首都(トリノから移転)となっています。このため、1865年から大規模な都市改造工事が進められ、5年後には都市景観が一変した(ドゥオーモのフォサードが完成したのもこの一環でした)、と池上は記しています。1871年にはローマへ首都が移転してしまいますが、岩倉使節団のフィレンツェ訪問は1873(明治6)年のことですから、景観が一変したフィレンツェを歩いたことになります。

 『回覧実記』では、フィレンツェという街が次の言葉で描かれています。

 「 去年ノ統計ニ、人口十六万七千〇九十三人アリ、其繁華ハ、以太利国第

  六オレトモ、都府ノ美麗ニシテ、風景ニ富メルコトハ、米蘭府ニモ超越ス

  ルヘシ」

 

🔹フィレンツェ街歩き拾遺ー犬も歩けば棒に当たりー

 しばしば書いているとおり、海外旅行ではどの街でも、早朝は一人で、それ以外は家人と二人で、とにかく歩いています。そして行き当たりばったりで、シャッターを押します。もちろんフィレンツェも例外ではありませんでした。

 ここでは、この街で偶然にすれちがったり、ぶつかったりしたフィレンツェのできれば「名もない」表象の断片を並べてみることにします。選択力に欠けるため数多くなってしまいましたが、ここから何か特別の「フィレンツェ」を、引き出せるわけではないし、引き出そうしているわけでもないことをお断りしておきます。

 

,△箸らじわりと効いてきてー中央駅ターミナルー

 最初から無名とはいえません。

 ターミナル駅は<終着駅>と呼ばれるように、どこか懐かしい響きがあります。このフィレンツェのターミナル駅は正式には「フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅」なのだそうです。その名のとおりサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の北側、ファサードと反対側にあります。

 この中央駅を使ったのは、三度目の旅行で、オルヴィエートからの到着、ルッカへの出発・帰着、そしてヴェネツィアへの出発のときです。駅前で自転車をレンタルするときにも足を運びました。こんなことで駅の外観を見てはいましたが、ふふん「えらくすっきりあっさりしているなあ」という感じでした。それが気になりだしたのが、ルッカに行くためにサンタ・マリア・ノヴェッラ広場に面したホテルから歩いて駅に向かっていたときだったと記憶しています。かなりの距離をへだてた地点から、正面の全景、横長の直方体、黄褐色の石の外壁と、小さい面積のガラス面だけから成り立っている駅舎が、朝の光にキラキラとしている姿が、旧市街の建物群に酔っていた眼にはなんだか新鮮に映ったのです。

 よく用いる言葉を使うなら、こんな変哲もない色と形をした駅舎が、どうしてか魅力のあるものに思えてきて、じわりと効いてきた感覚があったのです。

 

 あとで調べると、ムッソリーニの時代、1932年のコンペで採用されたもので、ジョヴァンニ・ミケルッチを中心とする若いトスカーナ出身の建築家グループが設計しました。フィレンツェ在住の中島浩郎・しのぶさんの『素顔のフィレンツェ案内』(2003年9月刊/白水Uブックス)によると、最初は「新聞はまちがえて梱包箱の写真を掲載したらしい。本当のモデルは中に入っているはずだ」などと揶揄されたりしたみたいです。それが今や、「偉大なフィレンツェの流れを汲む二十世紀の代表的建物」と高く評価され、ミケルッチ(1891-1990)はブルネレスキ、ミケランジェロの後継者とまで言われているらしいのです。

 こんなことを読んでしまうと正当な評価はできそうにありません。ピエトラ・フォルテという石を使ったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会と、同じ石が基調となった中央駅は、お互いの様子を伺うように対面し、教会の垂直性と対比的に、水平性が強調されていてなどと説明できそうですが、もうやめて先を急ぎましょう。

 この駅の西側には郊外と結ぶトラムが2010年に開通し、発着場となっています。このトラムは第2、第3号線が今年中に開通するという記事もあります。コムーネの単位では、現在の人口が38万人だということで、前記した岩倉使節団の頃の17万人から倍増しているわけです。世界に冠たる観光地である旧市街という交通困難区域をかかえるフィレンツェは、このトラムを21世紀のインフラとして期待しているということなのでしょう。

  フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅(中央駅) [2015.5.15撮影]

  トラム1号線の発着場(中央駅の西側) [2015.5.15撮影]

 

△泙襪妊機璽スのようにー旧市街地道路事情ー

 フィレンツェ旧市街の交通は、一言でいえば「ぐじゃぐじゃです」という表現が当たっているのです。

 駐車場なき市街地には、元々狭小な幅員の道路に、当然のように自動車と自転車とバイクが一列縦隊で駐車し、片側交通を余儀なくされ、たとえ歩道があっても人が肩を並べて歩くと、一人は車道にはみ出すような狭さなのです。そして、悪びれることなく、自動車はその横をすうっと走り抜けます。三度目に訪ねたとき、アルノ川河岸道路には新たに自転車専用道路がマーキングされたりしていましたが、これも慣れないと大変です。

 中央駅はまたバスのターミナルともなっていますが、歩く私たちの脇をすり抜けて、カッライア橋へ向かう路線バスは「まるでサーカス」のようで、これが日常のことなのです。

 でも、時間が折り重なった旧市街の路を歩くことは、私のような者にとっては、代替できるもののない楽しみです。

  フォッシ通りをアルノ川へ向かうバス [2015.5.14撮影]

  サント・スピリト地区のY字路 [2015.5.17撮影]

  夜の街路(サンティ・アポストリ通りから) [2012.1.5撮影]

 

O地を抜けてもまた路地で

 旧市街を歩いていて気になってしまうのは、「路地」と呼んだらいいのか、あの先の見えない道です。躊躇なく入っていく人は在住者なのでしょう。観光客はなかなかそうは行きません。ヴェネツィアであれば、通り抜けなくては目的地に着きませんが、フィレンツェなら迂回路もあったりするのでそこまでの必然性はありません。

 旧市街の路地というものは暗号のようなものです。わけもなく暗号を解読できるのかどうか、それが在住者と観光客を分けるメルクマールとなるのでしょう。だが、観光客にとっても、この路地を歩いて行った先に何があるのだろうというワクワク感が、街を楽しくしています。

  サンティ・アポストリ通りからの路地 [2012.1.4撮影]

  ウフィツィ美術館近くの通り抜け路地 [2012.1.4撮影]

 

な發い栃發い董赦上のフィレンツェ人ー

 フィレンツェの人とはどのような特徴があるのか、そんなことはわかりません。前ブログで「クーポラこそ最大の芸術」だとした森田義之さんに登場してもらいましたが、森田は、留学生仲間が集まると、フィレンツェ人の「冷やかさと閉鎖性」に対する不満や悪口でもちきりになるのが常だったと記憶を呼びだしています。そして、フィレンツェの長い歴史のふれつつ、こんな評言を書きとめています。

 「 フィレンツェとフィレンツェ人の性格は一筋縄では捉えきれません。

  きんでた知性、旺盛な創造的エネルギー、とぎすまされた美的感受性と

  いった正のメンタリティが、傲岸なまでの自意識、制御不能の激情といっ

  た負のメンタリティと、わかちがたくむすびつき混じりあっている。」

 それが、またフィレンツェの生みだした美術や建築の個性そのものでもある、と森田は書いていますが、本当のことでしょうか。

 いずれにしても旧市街に住む人びとは、特別な誇りをもっているのであろうと想像できます。それは歴史と伝統のただ中にいる者が、自分を、ひいては街を守る、維持していくための鎧のようなものかもしれません。

 こう思ったりしていると、どうも井上章一が指摘していた京都の市中に(洛中)住む人びとの感情に近いものではないかと比喩してみたい誘惑にかられます(当ブログ「「京都ぎらい」から離れてー「洛中的中華思想」なるものー」)。最近、外国人観光客がけた違いに増加している京都、そしてそのただ中に在住する京都人、そのメンタリティがどうなっていくのか、とても興味深いものがあります。

  朝早くカヴール通りですれちがった修道士 [2012.1.6撮影]

  日曜日のフィレンツェ市民  [2012.1.6撮影/ピッティ宮前広場]

  仕事帰りの二人 [2015.5.14撮影/コルドーニ広場]

 

ナ襪蕕靴見えるようでー窓からの居住事情ー

 二度目のフィレンツェ、宿泊したホテルの部屋、きっと5階だったのですが、約2mぐらいの距離を隔てた目の前にアパートの部屋が並んでいて、窓をあけると真ん前に赤いホウキが吊るされていました。だから驚いて写真を撮ったのです。室内より外の方が邪魔にならないということなのかなと思ったりしましたが、暮らしの道具というより、なんだがアクセサリーのように見えて仕方ありません。でも真相はわからないままです。

 ヨーロッパ都市の市街地では、石と木という素材に根本的な差異があって、建物の外壁が日本の外部との遮断を目的とする塀の機能も兼ねているということなのか、観光名所の建造物からほんの数メートルのところに、ふつうの市民が居住していて、最初は不思議に感じたりもしました。たとえば、ローマのパンテオンも同様でしたが、たとえば法隆寺、東大寺を想起すれば、その違いがより明瞭でしょう。下の写真は元教会であったマリノ・マリーニ美術館の窓から、すぐそばにアパートの窓が密集して見えていて、ここにも人びとの営みがあることが感じられるのです。

  ホテルの部屋の目の前に赤いホウキが [2012.1.7撮影/ホテル・ベルキエリの部屋から]

  マリノ・マリーニ美術館の窓からの風景 [2012.1.7撮影]

 

δ垢せ間が積もっていてードア、もう一つの街の<顔>ー

 旧市街を歩いていると、よく目につくのは、ドアです。建物の外壁は同質で連続していることが多いのですが、ドアには個性があるからです。教会の顔であるファサードと同じように、やはり<顔>ということなのでしょうか。どの街の旧市街でもそうですが、まず一戸建てのようなものはなく、集合的に居住する建物がほとんどですから、ドアは自他認識、自己確認のために大切なものといえます。現実に不便なことはあっても、古めかしい外観と、今風の内部空間の落差を、現代の居住者は楽しんでいるということかもしれません。

 一口にドアといっても、よく手入れが行き届いたものから、古いままのものまで、現実には幅があります。ドアだけに注目した写真集があるぐらいですから、そこにあらわれる個性が、住む人を、そしてその街全体の雰囲気を、表現しているともいえます。

 下の写真のうち古い方のドアのような枯れ方はさすがにめずらしいケースですが、よくみると覗き窓は最近手を入れられたもののようです。

  サント・スピリト地区のドア [2012.1.4撮影]

  サント・スピリト地区のドア◆[2012.1.4撮影]

  鉄製の馬止め(サント・スピリト地区) [2012.1.4撮影]  

 

Д侫レンツェの胃袋ー中央市場などー

 中央市場には、おみやげの調達やなにやらで、三度のフィレンツェで毎回出かけています。何より驚いたのは、2015年の三度目のとき、2階に大フードコートが整備され、すっかり様変わりしていたことです。従前から路上には観光客をターゲットとする革製品や衣類を扱う店が立ち並んでいて、これに阻まれ、中央市場の全体像を見ることは難しいのです。

 前記したように統一王国の首都になったことを契機に進められた都市改造計画の一環で、中央市場は、元々ローマ時代より市場のあった共和国広場から、サン・ロレンツォ地区の現在地に移転してきたもので、1870-74年に建設されたそうです。ジュセッペ・メンゴーニの設計したフィレンツェを代表する近代建築だと言われています。中央駅とちがって、建築としての中央市場には魅力を感じることもなかったのですが、そう言われると、赤い鉄骨とガラスをふんだんに使った建物に19世紀後半の市場建築との共通性を感じます。

 「フィレンツェの胃袋」と呼ばれているそうですが、建造物としての中央市場は、文字通り隠れた、隠された<近代建築の代表作>といえるのでしょう。

 

 その下の2枚の写真は、冬でも暗いうちから開いているフィレンツェの食らしい伝統的な店で、シニョリーア広場で朝早くからやっているランプレドットの屋台店、そしてサント・スピリト地区のこちらも朝早くから朝食客でにぎあうバールを載せてみました。

  フィレンツェ中央市場 [2015.5.17撮影]

  ランプレドットの屋台 [2012.1.4撮影/シニョリーア広場]

  早朝のバール [2012.1.7撮影/サント・スピリト地区]

 

┸卦譽妊競ぅ鵑龍Ρ蕕靴討い覲

 二度目のフィレンツェ、2012年1月5日、シエナの次に立ち寄ったピエンツァで食べた昼ご飯のイノシシの煮込み料理が重くて(ツアーの皆さんも同様の感想でした)、夕食は軽く済ませようとアルノ川の右岸道路を下流に向かって歩きました。カッライア橋からさらに進むと、オニサンティ広場があって、二つの5つ星ホテルが顔を突き合わせているのです。

 その片方のエクセルシオール・ホテルでビールとサンドウィッチでもと、思い切って1階のバーに入りました。人柄のよさそうな年配のバーテンダーが一人だけで対応していて、二人でどう話したのか忘却の彼方ですが、結局、予定プラス、ミネストローネという野菜スープをオーダーできました。これがまことに上等のコンソメスープに野菜の角切りが浮いている代物で予想以上においしくて記憶に残っています。

 あとでホテル情報を調べると、屋上にフィレンツェの全景が眺望できることで有名なラウンジがあったのに行きそびれたことになりますが、これでも私たちには十分な冒険でした。

 

 翌1月6日の夕食も、ツアーで出向いたモンテリッジョーリでの昼食がきちんとしたもので、家人の足も限界にきていた事情もあって、ホテル近くで軽く食べることにしました。ホテルからごく近くのサンタ・トリニタ広場にある前日とは打って変わって現代的なバールのとてつもなく高いガラスドアを押しました。どうも立ったままで飲んでいる人が多く、座って軽いものにしろ食べものを注文している私たちは例外のようでした。

 しばらくして、モデルさんのような格好いい男女の一団が入ってきました。その様子をチラチラ見ていると、同じ広場に面したフェラガモ本店から出てきた人たちのようでした。フェラガモの客というより働いていたりする人たちなのでしょう。パーティ前のアペリティーヴォという感じで、その華やかさに店内のボルテージは一気に上昇しました。私たちはちょっと身のおきどころのない感じがしてしまい、なんだかそそくさと店を出た記憶が残っています。

 ここでメモしておきたかったのは、そんなことではなく、歴史的建造物に入っているフェラガモ本店(博物館を併設しています)のショーウインドーなどのデザインのことです。ちょうど夜ということもあってか、これぞイタリアの現代デザインの先端にして最上質のディスプレーが光っていました。

 フィレンツェは、前記のエクセルシオールの内装・調度品のような古典デザインからこんな現代デザインまで、新旧のデザインが高いレベルで共演している街でもあります。

  エクセルシオール・ホテルの1階バー内部 [2012.1.5撮影]

  レストランバーSABELLEの高いドア [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ広場]

  フェラガモ本店の夜のショーウィンドゥ [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ広場]

 

切り取られた映像ー求められる建築ー

 建物の写った映像を、部分で切り取ってみると、その建築資材の質感とともに、抽象性を帯びてくる、いわば本質にあるものが見えてくることがあります。このためには、ズーム最大4倍の手持ちカメラでは限界があって、PCの機能を使って部分を切り取る、さらに拡大することになります。下の写真は、そのような意図で切り取った3枚になります。建築設計といっても、素材から逃れようもなく、必要な壁の厚み、重量の分散などの諸要因によって外壁のテクスチュアから窓の大きさや形まで構造的な限界が決まりますが、こんな条件の下で、美しく見える意匠デザインを洗練させていったにちがいありません。

 3枚目の写真は、無名ではなく、サン・マルコ美術館(修道院)の2階の内に面した僧房棟を、逆側の廊下の窓から撮影したものです。この小さい窓は、一部屋の僧房に一つだけ穿かれた穴のように見えます。前記の建築家中村好文が記しているとおり、間口約3m、奥行約2.5mの小部屋の僧房が40部屋以上も並んでいるのですが、部屋の内壁にはフラ・アンジェリコとその一派のフレスコ画が描かれています。修道士はその部屋で祈りと瞑想をしていたことになりますが、その窓の小さいことは、建築の法、構造的な限界からの必然ではなく、その修道生活そのものから、いわば神の法がもたらした必然でした。

  パラッツォの角 [2015.5.17撮影/場所は不明]

  小さな礼拝堂 [2015.5.15撮影/場所は不明]

  元僧房の窓(サン・マルコ美術館) [2015.5.15撮影]

 

至るところにーアノニマスなアートー

 多くの方が発語するに至るであろう「フィレンツェは都市(まち)全体が芸術だった」という辻邦生の言葉を先に紹介しました。私のSDカードにも、あっと思ってシャッターを押したであろう映像がたくさん残されています。名づけられた名前があるはずですが、私にはほぼ不知のものです。

 1枚目は、観光客向けのオペラ・コンサートに出かけたサン・モナカ教会の天井画、だいぶ剥げ落ちたフレスコ画ですし、2枚目はサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の修道院の中庭にあった大理石のレリーフです。3枚目の彫像は、どこで撮影したのかもわかりませんが、映像を見て初めて、左手で天秤をかかげた人物像であることが判明しました。最後の4枚目は、名も知らないのではなく、マリノ・マリーニの現代彫刻です。いずれも映像で初めて見たような気になって、これはいいかもと気づいたものばかりなのです。

  サン・モナカ教会の天井画 [2015.5.15撮影]

  大理石のレリーフ(サンタ・マリア・デル・カルミネ修道院内) [2012.1.4撮影]

  天秤をかかげた彫像 [2012.1.4撮影/場所は不明]

  20世紀の人物彫刻(マリノ・マリーニ美術館) [2012.1.7撮影]

 

それは突然のようにあらわれて

 前記で<抽象>という言葉を使いましたが、視線を変えると、古い街にも美に転化するような「もの」「風景」が潜んでいます。普段は全く見えてこないのに、それは突然のようにあらわれてきて、私を喜ばせてくれることがあります。たとえば、下の3枚は、そんなふうに見えたものです。

 1枚目は、圧倒的に鉄が主材であった時代、前記Δ療汗修稜六澆瓩汎瑛諭鍛冶屋仕事の精華というべき造形です。2枚目は、三度目のフィレンツェで泊まったホテルの部屋から撮影した新聞・チケット店です。真上からの視線であったから、この八角形の屋根、クーポラのドラムと同じ八角形に出会うことになりました。3枚目は、朝焼けのアルノ川とヴェッキオ橋ですが、DNAの写真のような抽象的な揺らぎが見えています。

 現実にはなかなかそうはいきませんが、人間と自然の造形は、豊かな情報に満ちています。

  鉄製の飾り柱?(ピッティ宮前広場) [2012.1.4撮影]

  八角形のスタンド [2015.5.16撮影/サンタ・マリア・ノヴェッラホテルの部屋から]

  朝焼けのアルノ川 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上から] 

 以上、フィレンツェという街への、私にとって文字どおりの<拾遺>でした。暇なことだなと、笑って読んで見てもらえたら、うれしいです。

 映像と抱き合わせになった記憶の断片を、こうしてたどりなおしてみる作業は、時間の経過が後押しする思い込み、肥大化はもとより、美化も避けることはできません。でも、それをすべて誤解、曲解だと否定してしまうことより、記憶というものの一つの形、本質でもあると思うことにいたしましょう。

 

🔹時代区分というものー「中世」とは「ルネサンス」自身の半身かー

 池上俊一の『フィレンツェ』という岩波新書をきっかけとして、私にとってのフィレンツェ像を書きとめてきました。本稿を閉じるあたり、池上による問題提起とその結果について、コメントしたいのですが、別稿に回すことにさせてもらいます。

 本稿の(1)で整理した「ルネサンスは連続か断絶かー池上俊一の問題提起ー」もふまえ、少し情報収集しただけで、池上のルネサンスへの問題提起は、従前から歴史学における基本問題となっていたことを、恥ずかしことですが、初めて知ったのです。そして、このルネサンスとはどのような時代かという問い、視線というものは、とくに「中世」と「ルネサンス」という時代の連続性・不連続性をめぐる論争として現れており、その前提である「時代区分とは何か、どのように考えるべきか」という基本的な問いにまっすぐつながっていることも理解できました。つまり私の問題意識の重心が「ルネサンス」そのものから、それを析出した「時代区分」の考え方の方に移行したのです。

 というわけで、この「時代区分とは何か」というテーマを、ルネサンスを一つの素材としながら考えてみたいと思い、別稿とすることにしました。ここでそれができればいいのですが、知識、能力の不足もそうですし、やっと手元に用意した下記の二冊を読んだうえで(きちんと読めるのか心もたない限りですが)、論じるべきであろうと考えたのです。

  ジャック・ル=ゴフ著『時代区分は本当に必要か?』 2016年8月刊/藤原書店

  澤井繁男著『ルネサンス再入門』 2017年11月刊/平凡社新書

 ここでは、その別稿のためにも、池上の問題提起の結末というものをのぞいておくことのします。

 『フィレンツェ』の「はじめに」において、池上は、私たちの世代に根強くある「中世=暗黒時代、ルネサンス=明るい近代の序曲」という既成概念を超えて、つまり「ルネサンスの革新性を持て囃す言説を多少とも相対化してみたい」という意向を表明していました。そのためにルネサンスの先鞭となったフィレンツェの歴史を「ルネサンス期を中心としつつも、古代から現代まで辿っていくつもりである」としていたのです。

 では、この狙いに対し、池上は、「あとがき」で、その結果をどのように述べているでしょうか。

 『フィレンツェ』を執筆していて、池上は「フィレンツェ史において中世とルネサンスを分けて語ることの不可能性」を「つくづく痛感した」と記しています。そして、一応、5-14世紀前半の「中世」と14世紀前半-16世紀初頭を「ルネサンス期」とし、心ならずも「中世を「否定」「克服」「転換」したところに明るいルネサンスが現出した」と叙述せざるをえないところもあったけれど、本当にそれでよいのか、と感じていたとしています。だから、「多くの場面で、私は「中世」を語っているか「ルネサンス」を語っているか、自分でもわからなくなってしまった」と、池上は告白しているのです。つまり「中世」と「ルネサンス」を判然と区分することの困難性を強調しています。

 これに続いて、上記の中世史の泰斗であるジャック・ル=ゴフの生前最後の著作である『時代区分は本当に必要か?』にふれ、池上は「私はますますルゴフ説に賛同したくなってきた」とし、「ルネサンス人が否定しようとした「中世」とは、「ルネサンス」自身の半身を指していたのだから」と書いています。その<ルゴフ説>なるものを、池上は次のとおり記述しています。

 「 ルネサンスというのは、実際は「中世」において何度も出来した古代復

  興・文化刷新の現象を指す概念と捉えるべきであり、いわゆるー14-16世

  紀のー「ルネサンス」は、いくら華やかで革新的に見えようと時代を根底

  から転換させるような出来事ではなかった。中世というのは、その内に常

  に革新の運動を秘めた時代なのであり、ただあまりに慎ましかな時代だっ

  たので、自らそのことを喧伝しなかっただけだ、と述べている。」

 池上は、先のルゴフの著書から引用することで、当初の「ルネサンスの革新性を持て囃す言説を多少とも相対化してみたい」という狙いの解答を、説明しようとしているともいえます。また、「「中世」とは「ルネサンス」の半身を指していた」というのですから、「連続性」の中に、同時に「断絶」をみているようでもあります。

 でも、失礼な言い方になりますが、池上は、本稿の私と同様、結局「感想」めいたことしか書いていないように感じています。新書版では無理というより、100対0というような問題ではないのでしょう。それほど「歴史」なるもの、「時代区分とは何か」という根元的な問いへの考察がなければ、「ルネサンスとは何か」について、簡単に結論を出せるものではないのでしょう。

  

 当たり前のように、通念、既成概念の共有を前提に書いてきましたが、もはやそんな単純な見方は、今や影を潜めているようです。だから、高校の教科書においても、「ルネサンスは近代の始まり」はかつてのことであり、「近世」という時代区分とか、出版社によっては「中世との断絶が強調されすぎてはならない」と書いている教科書もあるとのことです。

 19世紀の近代ヨーロッパが「ルネサンス」という概念(歴史学上の「時代区分」でもあります)を生み出し、これをベースとした「中世」との「断絶」論の優勢な時代を経て、20世紀の歴史学の積み重ねによって「連続」論を強調する学説が展開されたという現実はそのとおりあったわけです。現在もなお、さまざまな形で論争というか言説が展開されているそうですが、「中世」と「ルネサンス」というものを、「連続」か「断絶」かという二分法の一方で括ってしまうことは、それは「連続史観」と「断絶史観」と表現されていますが、どうもできそうにないというのが、現時点の歴史学の到達点のようなのです。

 このあたりのことは、池上の『フィレンツェ』では無理があり、ル=ゴフの『時代区分は本当に必要か?』を読んで、別稿で考えてみることにします。

 

🔹おわりに

 変わった終わり方になってしまいましたが、これでフィレンツェへの三度の旅を締めくくることにします。

 もし、幸運にも、四度目ということがあるなら、こうしたいと思うことが膨らんだ気持ちがして、それが本稿を書いた余禄なのかもしれません。

                        【終:(1)(2)

2018.09.15 Saturday

クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(2)

🔹すっかり忘れてしまいー前回から今回へー

 前回((1))から2ヵ月ぶりで「フィレンツェ」に戻ってくると、たった2ヵ月ほど前のことなのに、そのとき読んだり調べたり、そして思ったり考えたりしていた内容を、すっかり忘れてしまっていて、いささかぞっとしたような心持ちになります。ちょっとひどくなった、たんに老いの進行というだけでなく、自分の内側に発見できた言葉から離れて書こうしているからではないのかとの疑いが頭をもたげます。

 

 これまでにも海外旅行で訪ねた街のことを当ブログでメモしてきましたが、前回は最多の訪問回数(といっても3回だけ)にもかかわらずトライできていない「フィレンツェ」を取り上げました。そして、三度のフィレンツェへの旅で出会ったものを再構成してみるとともに、その前段で、『フィレンツェ』という新書で池上俊一がフィレンツェの歴史を古代から現代までたどることで見えてきた<ルネサンス>なるものへの見方についても紹介しました。

 前回のブログを書くことで発見というか、確認できたのは、私にとっての<フィレンツェ>と<ヴェネツィア>の関係です。私は<フィレンツェ>に不完全燃焼的な印象が残っていましたが、それは、どうも<ヴェネツィア>との相対的関係によるものらしいということです。つまりフィレンツェよりヴェネツィアの方の印象が強くて、濃くて、だから二つの街とも時代を超越した空間に包まれたという皮膚感覚は同じく残っているにもかかわらず、相対的にフィレンツェへの印象が軽くなっていたのです。

 でも、前回、具体にフィレンツェの街のことを書こうとしていると、そのおかげなのか、歳月というスクリーニングによる作用なのか、まざまざと眼前に浮かんでくるものがありました。それはベタの極みというべき「ドゥオーモの大ドーム、フィレンツェの代表色である赤褐色の瓦のクーポラであり、川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観」でした。そして、前回の最後のところに書いたとおり「フィレンツェという歴史が堆積した空間にただ身をおいていたことに深い喜びを感じる自分を再発見」することができたのです。

 

 今回は、そんなフィレンツェの象徴にしてランドマークというべき二つ、クーポラアルノ川のことを中心に、もう少し詳しく書いてみる、というか残されていた写真を並べて見えてくるものを言葉にしておくことにします。 

  フィレンツェ五十五宝マップ 『芸術新潮』2005年1月号より

  フィレンツェの市壁の拡大  橙:1170年代  青:284-1333年

 

🔹クーポラこそ「最大の芸術」ー「現場の人」ブルネレスキという建築家ー

 「フィレンツェ最大の芸術作品は何だろうと考えると、私はこのクーポラではないかと思います」という文章に出会いました。『芸術新潮』2005年1月号の特集で「至宝55選!フィレンツェ・ルネサンスに見惚れる」の解説を担当した森田義之(愛知県立芸術大学教授[現名誉教授])という方がそう断じています。

 フィレンツェはお宝だらけではあるが、結局はこのクーポラに尽きるのではないかというご意見なのでしょう。ある種、この虚をつかれたような意見は、イタリア美術史の研究者である森田教授が、フィレンツェの至宝というべきものをリストアップして丁寧なコメントを加えたうえで発したことです。クーポラは誰もが認知するフィレンツェのシンボルであっても独立した芸術として意識することがなかったから、「最大の芸術作品」だとする森田発言に驚いたのです。

 したがって、「至宝55選」をほとんど知らない私が軽々に同調することなど失礼千万といわざるをえませんが、そう言われればそうだよなあとその尻馬に乗りたくなったのも事実なのです。

  ドゥオーモのクーポラ [2012.1.7撮影/デパート・リナシェンテ階上カフェ]

  ドゥオーモのクーポラ◆[2015.5.15撮影]

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とクーポラ [同上]

 この巨大なクーポラは、日本語で大円蓋などと訳されていますが、石積み建築としては現在でも世界最大です。その建設の過程にこそ、興味深いエピソードが詰まっています。

 フィレンツェのドゥオーモとして、先行するビサやシエナを上回る規模をめざしたとされるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、1296年に起工され、内外情勢の変化によって繰り返し中断を余儀なくされながらも、1380年に身廊部分が完成し、1410年代には中央上部にクーポラの基部となる八角形のドラムが築かれたことによって、1418年にはドーム部分であるクーポラを残すのみとなっていました。

 さて、こうした負けてはなるものかと前例のないような大きな聖堂ができあがり、いざ肝心の屋根であるクーポラを載せようという段になってみると、はたと困ったのです。願望はあっても実現の方法がわからない、つまり工事の方法が、誰にもわからなかったのです。

 このとき登場したのが、時代を反映して彫刻家から出発し、その後ローマの古典建築から学んだといわれるブルネレスキ(1377-1445)です。ルネサンスという時期の建築家といえば必ずトップで登場する天才建築家です。1418年、大聖堂にいかに合理的な工法で丸屋根を架けるかという設計コンクール、その後の紆余曲折をへて、「誰もがほとんど不可能だと考えていた前代未聞の難工事の設計と工事の全責任を一手に引き受けて」見事にやり遂げたのです。

 その方法とは、従来のようにアーチ型の仮枠(内側に木材で仮の支えとなるものを作る)を組まないで、二重シエル方式(仮枠なしに内側と外側にレンガを直接積み上げていく方法、内側と外側の壁が互いを押し合う構造によってバランスをとるという方法)という画期的なものでした。ドームの壁用の煉瓦を特注サイズで作り、それを矢筈状に、巻貝の模様のように渦巻き状に積み上げていくことでドーム全体が構造的に一体になることによって、強度と安定を確保したのです。

 

 ついには1434年にクーポラの頂頭部が閉じられ、1436年にはローマ教皇がやってきて献堂式が行われました。でも、これで終わりではなく、クーポラ頂頭部にのせるランターンは別の建築家の設計で、ブルネレスキが亡くなる年である1446年に工事が始まり、1461年に完成したのだそうです。

 もとより聖堂建設は世紀をまたがるほどの長期間を要することはよく聞く話ではありますが、尋常ではない規模(ということは予算も莫大ということになります)であるフィレンツェのドゥオーモももちろん例外ではなかったのです。

 クーポラとランターンの工事だけでも40年、最初の1296年の着手から数えると、1436年のクーボラ完成とした場合でも足かけ140年、1461年のランターンまで完成とした場合は170年近くの大事業であったということになります(それでもファサードは未完成のままでした)。

  ドゥオーモ配置図(大聖堂の西にサン・ジョヴァンニ洗礼堂)

  クーポラの壁の傾斜度数

  クーポラの壁の内部構造

 クーポラを載せるという難工事を可能にした工法について、ネットで情報を集めて読んで、前記の文章を一応書いたのですが、私には建築学的に簡潔な説明を加える能力がありません。そこで、現代日本の建築家である中村好文さんがブルネレスキのこと、その建築のことを書いた文章(『芸術新潮』2001年8月号「フィレンツェ 中村好文流 花の都の楽しみ方」)によって、この一筋縄ではいきそうにない天才建築家のことを紹介しておくことにします。

 いろんな資料からエピソードを読みあさり、ブルネレスキという人の建築家としての力量や人間像を思い描いてきた中村好文が強調しているのは、ブルネレスキが地に足をつけた「現場の人」であったということです。つまり「いつも現場の状況をありのままに観察し、そこで起こっている問題に対して的確で具体的な対策を立てられる」という<したたかな現実家>という相貌が、建築家であるブルネレスキの根っこにあったというのです。

 たとえば、高いところで作業する職人たちが食事やトイレでいちいち下に降りていかなくていいように、上の現場近くに調理場のある食堂や売店を設けたこと、暗い現場に照明装置をつけたことも紹介しています。さらには工事のために新たに無数の道具や機械を考案したりしたようで、中村は「自分の眼と気持ちと身体を決して現場から離すことのない熟練の映画監督のような建築家像」が浮かんでくるとしています。

 

 今でもブルネレスキ生誕何年には大規模な展覧会やイベントが開かれるほどで、難事業であったクーポラ工事の立役者として「フィレンツェ市民栄誉賞」ものの建築家であり続けていると、中村は書いています。そして、鎌倉時代に東大寺の南大門を作った僧侶兼建築家である<重源>はブルネレスキに匹敵する功績があったと思うが、フィレンツェとブルネレスキの関係のようにはなっていないのはどうしてなのだろうと自問し、次のように自答します。

 「 結局は建築というものに対して一般の人の関心の度合いが高いか低い

  か、つまり建築に対する「民度」の問題だという気がします。」

 この建築に対する「民度」の問題は、やはり池上が強調していたように「コムーネ(自治都市)という文明体が最高度に発展したのが」フィレンツェであり、つまりドゥオーモは私たちみんなのものだという意識が、こんな彼我の違いとなっているのかもしれません。加えて、建造物の燃えたり壊れたりという視点からみると、木造と石造という建造物の資材の違いが、建設や耐久の期間の差異となって現れるという面が、底流で影響しているともいえるのでしょう。

 それにしても、当時のフィレンツェで生きた人びとは、クーポラだけでも20年近くかけて一段ずつ積みあがっていくのを、街中のどこからでも見ることができ、そして、日々見守り続けることができたのです。そして、なんといっても街のDNAに刷りこまれたクーポラをつくった親方がブルネレスキなのです。

 

 さて、中村は、この大ドームに「大きな花の蕾のようなクーポラのふっくらとした形と色はたとえようもなく優雅」という表現を与えています。上の写真からもわかるとおり、八角形の底部から立ち上がるクーポラは、完全な半円ではなく、少し縦長の中村のいう「花の蕾」の形状をしているのです。私などドーム=半円と思い込んでいたきらいがありますが、このクーポラを初めて近くのリナシェンテというデパートの屋上から眺めたとき、その形の魅力を初めて発見できた気持ちになりました。

 また、街の至る所に存在する宝物だらけのフィレンツェにあっても、クーポラこそ「最大の芸術」ではないかと評した森田義之は、次の言葉でクーポラを讃えています。

 「 物理的に巨大なのは当然として、そのフォルムの美しさはたとえようが

  ありません。ゴシック風にやや尖った、意志的で力強いカーヴ、ヴァーミ

  リオンの屋根面を、八本の白い大理石のリブが分割する明快なデザイン。

  パラッツォ・ヴェッキオの塔のように猛々しく威嚇するではなく、すっき

  りと優雅な姿のうちに、フィレンツェという都市の誇り、文化的・政治的

  ・経済的な自信と優位性を、高らかに主張しています。」

 奇しくも、二人とも同じ<優雅>という言葉を使っています。

 

 こんなに全体写真を撮影することが難しい建築物はないよなあと思った記憶が残っています。それはドゥオーモの縦横の巨大さに比して、周りの空間が広場と呼べないような狭さで、近くの建物と近接しているからです。今のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東には元々、別の聖堂が並んでいて、その旧聖堂を解体して、洗礼堂の東に建設したのが現在のドゥオーモなのです。建設途中でさらに計画を拡張したこともあって、とりわけ東側からクーポラを見上げてみてもあまりよく見えないぐらいなのです。

 ところが、遠くて小高いミケランジェロ広場からは当然のこととして、フィレンツェの面的に広がる旧市街の至るところから、クーポラは顔を出しています。旧市街にはクーポラより高い建物がないことも大きいのでしょう。ですから、フィレンツェという巨大な船から顔を出し、「私はここにいます」と550年以上にわたり呼びかけ続けてきたクーポラは、これぞシンボル、これぞランドマークということになります。

  グラティエ橋からみえるクーポラ [2015.5.15撮影]

  ドゥオーモのクーポラ(サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅前広場) [2015.5.15撮影]

 前記の中村好文の文章で「到着すると、とりあえず挨拶するように訪れる建物」だということを読んでいたためでしょう、2015年5月、3度目のフィレンツェで、最初にサン・マルコ美術館でフラ・アンジェリコの『受胎告知』との再会を果たしたあと、次に近くの「捨子養育院」に向いました。雨が降っていたうえに、今美術館となっている施設は工事中で休館していました。だから、正直なところ、ゆっくり楽しんだという記憶はありません。

 捨子養育院はブルネレスキの初期の作品でルネサンス建築の代表作です。前回、池上のフィレンツェの「名誉」を背景とした「いわば拡大家族に擬せられた施設」ではなかったかという解釈を紹介しましたが、本格的な子供福祉センターであったというわけです。

 

 降りやまぬ雨と無造作に駐車している車の大群(工事車両か)に邪魔されて残念でしたが、何といっても目立つのはロッジア(開放アーケード)です。中村は「建物の台座のレベルを人の背丈ぐらいまで広場より上げ、そこにこの地方で採れるピエトラ・セリーナという緑灰石の石でつくった細身のコリント式列柱をたてて」ロッジアを作ったと表現しています。そう言われてみると、アーチが繊細で美しくしかも石なのに柔らかくて、ありがちな重さというものを感じさせないのです。この捨子養育院はアンヌンツィアータ広場に面していますが、その後、二方も同じようなロッジアが作られ、三方が回廊で囲まれた空間となっています。

 捨子養育院のアーチの間には、「彩抽テラコッタすなわち艶出しエナメルで着色したテラコッタ」がはめ込まれています。中村の助けを借りると、その青色の円形陶板には「布巻きにされた捨子たちの微笑ましい姿態の数々」「お襁褓とも、腹巻きとも、帯とも、包帯ともつかない布でぐるぐる巻きにされて、ちょっと腰をよじったりして両手を広げて立って」いたりして、なんとも愛らしいとしています。

 したがって、この広場は力んでしまってどうだといわんばかりの雰囲気は皆無で、すべてがさりげなく、調和のとれたやすらぎを感じることのできる場所となっています。現場から離れることのなかったブルネレスキの極端に流れずアイディアをコントロールできる天才性の発露であり、ルネサンスと呼ばれることになった時代の到達点を体現しているともいえるのでしょう。

 

 こんな捨子養育院のことを、ルネサンスを意識する池上は、「合理的なプランで秩序だっていて、一目でわかる明澄な比例関係が何より特徴」で、「全体のコンセプトはギリシャ建築の厳密な比例関係に倣っている」と説明しています。そして、細部はフィレンツェのロマネスク(ロマネスクといってもフィレンツェのアレンジが加えられたロマネスク)、「サン・ジョヴァンニ洗礼堂やサン・ミニアート・アル・モンテ教会からの借用のようだ」とも書いています。

  捨子養育院のロッジア [2015.5.15撮影/アンヌンツィアータ広場]

  捨子養育院のメダイヨン(アンドレア・デッラ・ロッビア作) [同上]  

 ブルネレスキでもう一つだけ。サンタ・クローチェ教会に附属する「パッツィ家礼拝堂」です。晩年の作で、中村は次の文章を残しています。

 「 僕には、ブルネレスキという比例関係にこだわった建築家が晩年にたど

  り着いた建築の境地のようなものが、「ショートパンツをはいて背伸びし

  ている女性」を連想させるその外観に窺えるように思います。」

 この礼拝堂のあるサンタ・クローチェ教会へ足を運ぶことのできた2012年1月の2度目のフィレンツェも雨の日でした。このメディチ家と競い合ったというパッツィ家、その礼拝堂は教会の内部を通り抜けた修道院の中庭に面していました。ほとんど人のいない回廊から暗く沈むような礼拝堂を、へえーとただただ眺めていたことだけを覚えています。

 

 最後にブルネレスキ建築の形態上の総括。

 先にブルネレスキの捨子養育院についての池上の見方を紹介しましたが、その建築を次のとおり定義づけています。そして、それは古き「ゴシック的形態」を打破したことになるが、皮肉なことに、さらに古い「ロマネスク的形態」の復活という側面もあったのだというのです。

 「 ブルネレスキは、古典的形態たる半円アーチや古代式円柱さらには平坦

  天井を利用し、立方体・半球体・正方形と円形を巧みに組み合わせること

  で、明晰にして秩序ある空間、シンメトリーとプロポーションの極北を、

  建築のあらゆるところに実現した。」

  パッツィ家礼拝堂 [2012.1.4撮影/サンタ・クローチェ教会回廊]

 

🔹ファサードという顔の力ー外面だけではわからないけれどー

 この項では、前項の建築という文脈もあって、教会の顔というべきファサード、街の顔ともなっている教会のファサードを取りあげます。

 前項では、中村好文、森田義之そして池上俊一の文章の引用によって、自分の記憶にあるブルネレスキ建築を再構成しようとして、いつもの長広舌になってしまいました。今項は、基本、意識的に撮影したとはいえないが、それなりにストックされていた教会、聖堂のファサードの写真を掲示するにとどめておくことにします。

 

 と、書いたはなからですが、その前に、三つほど留意点を書いておくことにします。

 まずファサードが「顔」である由縁について述べてみましょう。

 私のような普通の観光客がヨーロッパの街に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが、大建造物である教会であり、それもファサードです。未知の人に初めて出会ったとき、その顔にあらわれた多くの情報から、その人の人となりを脳が読み取ろうとします。教会のファサードも同じなのです。私は自動的に、ファサードから、教会の内部を想像しますし(結局、内部に入っても違いが把握できないのですが)、ある街の重要な顔として街の全体像を描いてみようとしています。

 顔という外面だけでわかるものではないけれど、理解の一歩目は顔からという気がします。もちろん顔と全体が完全に一致することはなく、繰りかえし、その差異を確認しながら、印象や理解を修正していく、変容させていく過程をたどっているようです。

 こうした理解の過程は理想的ですが、観光客としてはそんな余裕はないのが一般的で、事前のガイドブックからえた情報と突き合わせていることも多いのです。さらに私のように事後において、街の顔というような外面から得た情報を、別の情報、たとえば雑誌の特集記事から再構成して、また旅をしたように錯覚して楽しむこともあります。

 とにかく、ファサードは化粧をしていようがすっぴんであろうが、「顔」だから、特別でかつ大切だということになります。したがって、教会のファサードの製作は、これに関わる人びとの精神を象徴するものであり、そんな「顔」の骨相には街の成り立ちと時代の諸相が反映しています。

 

 次に「様式の混在」と「地域の独自性」についてもふれておきましょう。

 教会、それも大規模な教会は、前記のドゥオーモもそうですが、長い期間にわたって建設されることが一般的です。ですから、建築の基本様式が「ロマネスクゴシックルネサンスマニエリスムバロック」と変遷すると説明されていても、同じ建造物に様式が混在していることも多いということです。もちろん壊れたり壊されたりすることも多く、そのたびに何回も改築修復が繰りかえされていることが普通なのです。

 前記したとおり池上俊一が「フィレンツェのロマネスク」と表現しているように、基本様式に地域の独自性、アレンジが付け加えられているのです。とりわけコムーネが発達し、国家的な統一の遅くなったイタリアでは、地域の独自性が強く出ているといわれています。

 したがって、「様式の混在」と「地域の独自性」からすると、教会のファサードを単純に基本様式で仕分けすることなどできないというわけです。

 

 三つ目は、フィレンツェという都市の色調のことです。

 これも森田義之に依拠していますが、イタリアでは、古い街の色調は建材である石の色が決定していることが多いのだそうです。地域ごとに採れる石が違うからで、フィレンツェでは、パラッツォ・ヴェッキオなどの壁体となっている黄褐色の「ピエトラ・フォルテ」が基調となっています。加えて建物の内部とか前記の捨子養育院のロッジアとか、明るいグレーの石「ピエトラ・セレーナ」も多く使われています。

 それになんといっても、クーポラの瓦の色、ヴァーミリオンの色こそ、フィレンツェの色として記憶に残ります。高いところに上らないと、フィレンツェの屋根屋根をおおう赤褐色は見えないのですが、クーポラだけは遠くからでも見えていて例外だというわけです。

 大理石は遠くから運んでくる貴重品であることから、外壁に用いるのは教会だけで、ドゥオーモとサン・ジョヴァンニ洗礼堂という例外を除くと、ファサード部分に限られているのだそうです。「カッラーラ産の大理石」を地にして「プラート産の大理石」や「マレンマ地方等のピンク色の大理石」で「幾何学的なパターン」を描き出していることになります。

 

 またまた長い前置きになりましたが、まずは大物、大規模な教会、ドゥオーモであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、代表的な修道会であるドミニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、そしてフランシスコ会のサンタ・クローチェ教会の三つです。

 いずれも13世紀後半から建設された教会ですが、細かな情報は省いて、ファサードについてだけ補足しておきます。製作順でいくと、サンタ・マリア・ノヴェッラはアルベルティの設計で1470年に完成(ルネサンス様式)、サンタ・クローチェは長く未完のままでニッコロ・マタスの設計で1863年に完成(ネオ・ゴシック様式)、そしてやはり途中で中断されたままであったサンタ・マリア・デル・フィオーレはエミリオ・デ・ファブリスの設計で1887年完成(ネオ・ゴシック様式)ということです。えっ、あとの二つは19世紀の完成なんだ、それまで今と同じファサードを見ていたのではないのです。それにしても、教会の躯体が完成しているに、現在のサン・ロレンツォ教会のフォサードのような荒削りのままであった(サンタ・マリア・デル・フィオーレは半分ぐらいはできていた)ことは驚きです。

 好き嫌いでいけばいかがでしょうか。極端にいえば、デザイン的には○△□の世界です。ドゥオーモのファサードは、華麗、華美、豪奢とともに、やりすぎという言葉が出てきてしまいます。宗教的な高い熱量がやはり行き過ぎを誘発してしまうのでしょうか。どれほどすごいなあと思っても、私からは<美>とはちょっと別物だと申し上げるしかありません。

 となると、やはりルネサンスらしい緊張と均衡を反映したサンタ・マリア・ノヴェッラの顔が一番美しいと感じています。これも池上のいう「シンメトリーとプロポーションの極北」というべきでしょう。

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 [2015.5.16撮影]

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂◆[同上]

  サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 [2015.5.15撮影]

  サンタ・クローチェ教会 [2012.1.4撮影]

 次は、初期のロマネスク様式の二つ。2回目のフィレンツェで宿泊したホテルの目の前にあったサンティ・アポストリ教会(「フィレンツェの古いドゥオーモ」と呼ばれることもある由緒ある教会とは知りませんでした)と、グラティエ橋上から撮影しただけのミケランジェロ広場に近いサン・ミニアート・アル・モンテ教会です。

 前者のファサードは前記の「ピエトラ・フォルテ」の石材でしょうか、後者は大理石です。前者の深く刻まれた年輪にはこれでもかの大理石のファサードを解毒するような効能を感じます。教会の内部にも入ってみましたが、頑固なまでに原型を守っている素朴な雰囲気の空間です。

 後者は玄人的なフィレンツェ好きに隠れたファンが多いそうで、池上のいうとおりいろんな後世のフィレンツェ建築に借用されているとのことですが、一見すると、そのファサードは、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会とサンタ・クローチェ教会に通じるものがあります。いわば池上のいうフィレンツェ的なロマネスクの典型的な代表モデルなのでしょう。

  サンティ・アポストリ教会 [2015.5.16撮影]

  サン・ミニアート・アル・モンテ教会 [2015.5.15撮影/グラティエ橋上]

 次は、大理石が使われていないファサードを二つ。メディチ家の菩提寺的な役割をはたしてきた教会として知られるサン・ロレンツォ教会と、アルノ川左岸のサント・スピリト教会です。いずれもブルネレスキが改築設計を手がけたといわれています。

 二つのファサードとも、いろんな事情からファサードは未完成のままになったのですが、後者のファサードは18世紀に今の形になりました。前者の方は、その後もファサードの改築プロジェクトが何度も持ち上がりましたが、現在まで実現できていないとのことです。もう一つ歯車が合わずなかなか実現できないといういわば不運の宿命なのかもしれませんが、前者の荒々しい石の素朴なたたずまい、後者のクリーム色に見える漆喰?が全面に塗られたシンプルなフォルム、いずれもすばらしいと思いませんか。私は、とてもいい顔をされたお年寄りに出会ったときのような静かな感動を覚えたのです。

  サン・ロレンツォ教会 [2015.5.17撮影]

  サント・スピリト教会 [2012.1.4撮影]

 最後は、夕食のために歩いていたときに撮影した教会を二つ。ですから内部に入ることなく外から眺めただけのサンタ・トリニタ教会オニサンティ教会です。はちみつ色というのでしょうか、そんな広場の照明のなかで、このような文化芸術都市の中心市街地の景観に溶け込んでいたように記憶しています。

 夜のために細部が分かりませんが、前者のファサードはベルナルド・ブォンタレンティの設計で16世紀の終わりころに完成(マニエリスム様式)し、後者はマッテオ・ニジェッティが手がけて1637年に完成(バロック様式)したのだそうです。昼の顔ではなく夜の顔で記憶してしまいました。

  サンタ・トリニタ教会 [2012.1.7撮影]

  オニサンティ教会 [2015.5.14撮影]

 

🔹空がひらけてーアルノ川と橋のリズミックな景観ー

 この項では、クーポラと並んで、「川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観」のことを書いておくことにします。というより、手元に残る写真から選択して掲示しておきたいのです。

 

 アルノ川は、フィレンツェの旧市街を北と南に分けるように東から西へ流れています。イタリアでは大きな川ですが、私の知っているフィレンツェの旧市街あたりでは、川幅がせいぜい100mから150mぐらいで、石造の4つの橋が架かっています(フィレンツェという自治体単位だと8つあるようです)。私の短い滞在期間ではいつも水量が豊かで日本の川のように河川敷が見えているようなことはなく、水の流れがゆったりしていて、どうかするとどちらが上流か下流か分からないほどでした。私の渡った4本の橋は、上流から、つまり東側から、グラティエ橋、有名なヴェッキオ橋サンタ・トリニタ橋、そしてカッライア橋です。前記のオニサンティ教会のところから少しに下流にアメリゴ・ヴェスプッチ橋もありますが、そこまで足を伸ばしていません。橋間の距離も近く、東端のグラティエ橋から西端のカッライア橋まで約1劼阿蕕い任靴腓Αそして、両岸とも、建物がびっしりと立ち並んで迫っています。

 こうした街の中心を流れる川は世界中にあることでしょう。でも、例えば同じイタリアでローマのテベレ川は川幅がもっと広いですし、私の訪ねることのできたプラハのヴォルタヴァ川、ブダペストのドナウ川も旧市街を貫通していますが、比較になりません。極端な例を持ちだすとすれば、川ではないですが、ヴェネツィアの大運河ぐらいの規模を想像していただくのがいいのかもしれません。

 アルノ川の北側の旧市街は川から1劼鯆兇┐同まで広がっていますが、フィレンツェの旧市街全体でも東西南北せいぜい1.5~2劼糧楼脇發房まってしまうと申し上げていいでしょう。いわばモータリゼーションの時代の市街地ではなく、徒歩で人間が移動していた時代の市街地です。そして、そんな稠密な旧市街地の真ん中に、アルノ川と橋がぽっかりと空いた空間を提供してくれているのです。

 人工物である建物群のただなかに、川の水という自然物が存在し、上流にはミケランジェロ広場の丘、下流にはピサへ向かって緑の広がりがあって、自然物でもある人間がそれを目にし、その存在を感じていることになるのです。

 

 フィレンツェでは、観光客はもとより、居住する人びと(働いている人は新市街からの方も多いでしょうが)を含め、旧市街のアルノ川の橋を使わないで、何か事を済ますことができません。結局、何回も、この空間を行ったり来たりすることになるのです。

 だから効果抜群なのです。前回、アルノ川と橋の空間は、クーポラとともに「見失った方向性をリセットするする定点」であり、困ったときなど「とにかくアルノ川まで出てしまって」位置を確認することになると書きました。つまりはフィレンツェ地図の定点として街のことをあまり知らない人びとにも安心感を与える効果です。

 もう一つは、フィレンツェというそれこそお宝だらけの街に放り込まれ「おびただしい点と線の輝きにエネルギーを使い果たし」、感情をかき乱される混乱のなかで、はっと我に返るというか、ほっと一息つけるのがアルノ川と橋の空間だということです。私自身はほとんど無知で感覚の鈍い旅行者であまり関係はありませんが、それでもボッチチェリやフラ・アンジェリコなど芸術の宝庫で何かを求めようとする人びとの熱のようなものに圧倒されてしまい、いささか辟易としてしまったあとで、アルノ川と橋の空間は心を静める効果があったと告白できるでしょう。そんな鎮静的な効果があるということです。

 こうした二つの効果をもつアルノ川と橋の空間は、フィレンツェという街に安心感と安定感を与えているといえます。それにこの空間自身がもつ美、両岸に迫る建物の連なりにアルノ川と橋がリズミックに作りだす景観自体が、もう一つのフィレンツェでもあります。

 

 前回紹介したとおり、フィレンツェには、2009年5月、2012年1月、2015年5月の3回、旅行者として訪れましたが、このアルノ川空間には、朝の散歩が可能な日は必ず、そして観光の途中、夕食の前後などにも、足を運んでいます。2回目と3回目のSDカードからチョイスして、簡単なコメントを付して掲示することにします。

 まず、2012年1月4日、2度目のフィレンツェに到着した翌日の3枚です。朝食の前にべェッキオ橋から下流側を撮影しました。二枚目は目玉であるヴァザーリの回廊を歩くツアーに参加して、出発点のウフィツィ美術館から写した橋の連なりと左岸に頭を突きだしたサン・フレディアーノ聖堂です。そして、三枚目はヴァザーリの回廊、すなわちヴェッキオ橋の階上の真ん中あたりから、同じく下流を写したものです。 

  アルノ川とサンタ・トリニタ橋 [2012.1.4撮影/べェッキオ橋上]

  アルノ川と橋の重なり [2012.1.4撮影/ウフィツ美術館]

  アルノ川と真ん中に鳥が [2012.1.4撮影/ヴァザーリの回廊の窓から]

 次に4つの橋をそれぞれ紹介します。ヴェッキオ橋の上流からのグラツィエ橋です。上のファサードで紹介したサン・ミニアート・デル・アル・モンテ教会が橋の向こうに小さく写っています。

 上流から撮ったヴェッキオ橋です。階上はヴァザーリの回廊となっています。さらに手前はボートクラブだそうです。ユニークで面白い橋に違いありませんし、橋上には真ん中あたりに開けた空間があるとはいえ、残念ながら、私には渡っていても橋という感じがしません。

 そして、サンタ・トリニタ橋カッライア橋です。似ていますし、どちらも美しいといっていいと思います。下流のバスも通っているカッライア橋あたりは川幅が少しだけ広くなっているせいか、アーチの数が違います。

  グラティエ橋と遠くの丘にアル・モンテ教会 [2015.5.15撮影/ヴェッキオ橋の上流]

  ヴェッキオ橋 [2015.5.15撮影/上記に同じ]

  サンタ・トリニタ橋 [2015.5.15撮影/ヴェッキオ橋上]

  カッライア橋 [2015.5.15撮影/サンタ・トリニタ橋上]

 続いて、一日のうちの時間帯別です。すべて2012年の1月撮影です。残念ながら、天候の関係もあって、多くの人が称賛する夕暮れの風景は撮影できていないのです。

 一枚目は、ようやく明けかかった冬の朝焼けで、サンタ・トリニタ橋上で、二人連れを意識して歩きながらシャッターを押したものです。次は冬の午後、晴れたアルノ川を、カッライア橋から上流を撮影しました。そして三、四枚目のピンボケ写真は、冬の早く訪れた夕刻と夜です。

 こうしてみると、偶然のこととはいえ、やはりアルノ川に架かった二階建てのヴェッキオ橋が、ヴェネツィアのリアルト橋のように、この景観の大きなアクセントになっていることが否定できません。

  アルノ川の朝焼けとカッライア橋 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  午後のヴェッキオ橋 [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  夕刻のヴェッキオ橋 [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  夜のヴェッキオ橋 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上]

 次に人が写っている写真です。

 2度目のフレンツェに着いた翌朝、2012年1月4日の朝早く、ヴェッキオ橋からアルノ川の上流にレンズを向けている女性です。続く写真は、アルノ川はアスレチックのための空間ともなっていますが、2015年5月15日、右岸沿いに下流へとランニングしている女性です。

 最後は、サンタ・トリニタ橋の右岸たもとに立つ彫刻の人です(街の守護神なのでしょうか?)。

  ヴェッキオ橋からの撮影する女性 [2012.1.4撮影/ヴェッキオ橋]

  アルノ川右岸を走る人 [2015.5.15撮影/サンタ・トリニタ橋近くの右岸道路]

  サンタ・トリニタ橋右岸の彫刻 [2015.5.16撮影]

 最後の1枚です。晴れた朝、今となるとフィレンツェに滞在していた最後の朝、カッライア橋上から、上流に向かってシャッターを切りました。なんて白く鏡のように水面が光っていることでしょう。

  アルノ川という空間 [2015.5.17撮影/カッライア橋上]

 ガイドブックに書かれていることですが、古代ローマの頃からあったヴェッキオ橋は、1333年の大洪水で流され、その十数年後に現在のように両側に建物が並ぶ回廊風の石橋として再建されたのです。そして、ヴァザーリの回廊は、それから2百年もあと、1565年に建設されました。大洪水はこれで終わったわけではありません。サンタ・クローチェ教会で写真入りで紹介されていたので気づいたのですが、半世紀ほど前の1966年11月4日の大洪水によって、フィレンツェは広い範囲でまさに湖と化したのです。

 以上、いずれしても、アルノ川と橋のリズミックな景観は、フィレンツェと切り離すことのできないものですから、訪れることがあったら、ぜひ足を運んでいただけたらと思っています。

 

 悪い癖ですが、あと1回だけ続けさせてください。

                      【続く:(1)/(3・完)へ】

 

2018.09.02 Sunday

8月の終わりは夏の終わり

 夏休みと関係がなくなっても、8月の終わりは夏の終わりです。

 毎年、ある特定の暦の時期になると、感情のベースの変化が感じられて少しリセットするような気持ちになります。大晦日と正月が代表選手なのですが、8月が終わろうとする頃にも感情の潮目が変わるように感じるのです。大晦日と正月は、この1年を振りかえり、これからの1年を想ってこうありたいと願う、1年を単位とする時間のとらえ方ですが、夏休みに終止符をうつ8月の終わりはちょっと違っているようなのです。

 猛暑、酷暑続きの今年など8月の終わりは夏の終わりだと口にすることがはばかられそうですが、今年もどんどんと昼の時間が短くなってくると、やはり夏の終わりころの明から暗へという感情の移り行きに気づきます。8月はお盆や原爆・戦争忌もあるからなのか、その終わりは1年という単位というより、もっと区切ることのできない時間が、心底に重い塊となって沈んでいくようなのです。

 

 でも、こうした感情の変化を意識するきっかけは、大きく変わりました。週5日働いていたころは、暦というか、もうすぐ8月31日になって9月が始まるという物理的時間の確認に依存していましたが、今は違います。自然と呼んでいいのでしょうか、光と雲と風という外部の世界との接触がきっかけとなって、夏の終わりを感じるのです。そこが従前と最も変わったところです。

 夏至から7月の終わりにかけては、午後7時をだいぶ過ぎてもまだまだ明るかったのが、8月が深まると午後7時には夜の帳がすぐそばにおりてきたように感じられます。夕景の色も、雲のかたちも、風のにおいも変わってきます。公園の木立ちの周りをよくみると、蝉の屍が累々としています。自転車で暗くなった水田の脇を通りぬけるとき、青虫がどんどん顔に当たってきます。そうしてあんなに遠くにあった夏の終わりが、疑いようもなくやってきたと確信するのです。

 それにしても、早く涼しくなることを願っているのに、だから喜んでいいことなのに、8月の終わりに、夏の終わりに、どうして重い塊を飲みこんだような気持ちがつきまとうのでしょうか。

 変っていくことは、必然のことだとよくわかっているはずなのに、夏至から冬至への期間は、昼よりも夜の方が毎日だんだんと長くなっていく世界であって、そのことを身体を含めて感受する生きものとしての人間にとって、そんな時間の変化の予感が心の奥底にある「感情」の湖に反映しているためではないのかと思ったりもしています。

 こんな人間の感情の在りかを船に喩えるなら、<重い塊>は「錘」となって、重心が上から下へ、と移行し、どんなに摩滅していようと感情の襞襞はそれをとらえているようなのです。夏の終わりは不思議な<時間という錘>のために、喫水線が沈みこむということであり、急に甲板からの景色が変わるようなものかもしれません。

 こうした感情の基底部に生じる変化は、喫水線が下がり船が深く沈みこむ作用なんだ、だからこそ深く感じとれることもあるんだと考えればいいのだ、だからどうかといえば生きていることの証しなのではないかと、年を重ねた今は、思ったりするようになってきました。

  本庄漁港の夕景(播磨町) [2018.8.27撮影]

  昆虫網をもつ少年(播磨町喜瀬川河畔)  [上と同日に撮影]

 

 上の文章で<時間という錘>という言葉を使ったのは、「歌を作っていると自分の時間に錘が付いてきたような気がすると答えていたのを読んで、なるほどうまいことを言うと感心したことがあった」という「時間という錘」というタイトルのエッセーに出会ったからです。

 これは、20歳になったばかりの娘さんがある雑誌のインタビューに答えていた発言を読んで、父親である永田和宏さん(1947-)が書いたものです。父娘の二人とも歌人ですが、<時間という錘>のことを「彼女は中学から歌を作り始めたが、歌を作っていなかったらとっくに忘れたしまっていただろう過去の時間のそれぞれに、歌が錘をつけてくれたというのである」と表現しています。

 短歌に無知な私のような者にとっても、十分に想像が届きそうな話で、同じくなるほどと感じたのです。永田さんは、次のように補足しています。

 「 短歌はその短さゆえに、事実を正確に記録するという点においては日記

  や小説には及ぶべくもないが、逆に、ある瞬間の心の動きを敏感にキャッ

  チし、短い言葉で定着するという早業においては他の文芸の追随を許さな

  い。事実の説明を犠牲にして、感情の核を抽出するのだと言うこともでき

  るだろう。」

 で、長く歌を詠んできた永田さんは、「私の時間が数千首の歌とともに残っている」ことになる、そして、そのありがたさが「このごろしみじみと感じられるようになってきた」と思っているのです。なぜなら、それぞれの時に詠んできた歌を読み返すと、作歌当時の記憶がまざまざと立ち上がり「風のにおいまでリアルに感じなおす」ことができるからだ、それが私(自分)の時間に錘を付けるということなんだと、永田さんは考えたのです。

 

 このエッセーでは、ご本人や妻である河野裕子さん(1946-2010)の歌だけでなく、選者として関わってきた投稿歌にもふれています。たとえば、忘れがたい歌として次の二首があげられていますが、「さまざまな人生に隣りあっているという気がするようになった」と、永田さんは記しています。

 「 亡き夫の財布に残る札五枚ときおり借りてまた返しておく

 

   逝きし夫のバッグの中に残りし二つ穴のテレフォンカード    」

 どういえばいいのか、なんだかしみじみとしてきますね。この具体的で平易な言葉によって、読者は、作者の悲しみを、もとより離れた位置からにせよ、共有することになります。このエッセーは次の文章で締めくくられています。

 「 それぞれの人にはそれぞれの時間が流れる。その流れた時間はその人だ

  けのものであるが、それが歌となって錘をつけられることにより、その時

  間を読者が体験することもできる。なによりその錘についた時間をもっと

  も噛みしめるのは、後年の自分自身であるにちがいない。」

  永田和宏著『もうすぐ夏至だ』 2011年4月刊/白水社

 このエッセーは永田さんの初めてのエッセー集である『もうすぐ夏至だ』(2011年4月刊/白水社)の一篇として収められています。前年に「近代以来の傑出した女流歌人」と称される河野裕子さんを喪った永田さんですが、病をえた河野さんとの日々を、そして「後の日々」を、二人の短歌をとおして語っています。そこには、著名な細胞生物学者でもある永田さんの視線もはたらいており、夏の終わりの読書にふさわしい一冊でした。

 

 先日、歌による記憶ということを大切に考える永田さんのことが、毎日放送のテレビドキュメンタリーで取り上げられました。タイトルは「記憶する歌~科学者が詠う三十一文字の世界~」(8月27日(月)1時35分~/毎日放送「ドキュメンタリー映像´18」)というものでした。

 2011年上梓の『もうすぐ夏至だ』から7年、今の永田さんが取材されています。妻を亡くした後の応答する伴侶のいない日常を「頼りない、よるべない」という永田さんの姿と心境が、科学者として、歌人としての日々の活動から立ち現れてきます。もう一つ、最近の社会、そして言葉への危機感を「社会詠」として反映させているところに焦点が当てられているのが特徴的です。

 永田さんもこう感じていたんだ、かく考えていたんだと、私は初めて知りました。

  ドキュメンタリー映像´18『記憶する歌』の冒頭タイトル

 今年の6月23日に龍谷大学で行われた講演会(「劣化することばーことばへの信頼を取りもどすために」)、そこでは4月に肺がんの手術をうけた永田さんが語っています。今の社会や政治を映すように、ことばが歪められている現状を、ことばから力が奪われる、信頼が失われ、馴らされてゆく、そしてついにことばが無化されることになるのだと、つまり「ことばが民主主義の根幹」だとしたら、現在のことばの危機は時代の危機なのだと、静かな口調で話しています。

 こんな映像の永田さんから、本人の詠んだ短歌とともに、全身で、今の時代へ問いかけた、異議を申し立てたという印象を深くもちました。

 なお、下の「不時着」とは、オスプレーの事故のことです。

   戦後七十年いまがもつとも危ふいとわたしは思うがあなたはどうか

 

   不時着と言い替へられて海さむし 言葉の危機が時代の危機だ

 

 そして、永田さん自身のことを次の歌としながらも、あきらめない、沈黙しないで発信していくと語っています。

   権力にはきつと容易く屈するだろう弱きわれゆえいま発言す

  同上のテレビ放送から永田和宏の短歌の映像

 せっかくですから、その歌の力に圧倒される永田と河野の響きあう相聞的な歌を書き写しておくことにします。

 ・出会いの頃 [は河野、は永田 以下も同じ]

   たとえば君 ガサッと落葉すくふように 私をさらつて行つてはくれぬか

 

   君に逢う以前の自分に逢いたくて 海へのバスに揺られていたり

 

 ・河野に乳がんが見つかった頃(2000年)

   何といふ顔してわれを見るものか 私はここよ吊り橋ぢやない

 

 ・河野に再発が見つかった以降(2008-2010年)

   わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ 君を思へどなぐさめがたし

 

   あなたにもわれにも時間は等分に残つてゐると疑はざりき

 

   一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ

 

   一日に何度も笑ふ 笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため

 

   歌は遺り歌に私は泣くだろう いつか来る日のいつかを怖る
 

 ・河野の死の前々日と前日(永田が書き写した)

   長生きして欲しいだれかれ数えつつ つひにはあなたひとりを数ふ

 

   手をのべてあなたとあなたに触れたきに 息が足りないこの世の息が

 

 ・河野の死からしばらくした頃

   たつたひとり君だけが抜けし秋の日の コスモスに射すこの世の光

 

 こんな短歌を読んでいると、ことばの力を感じます。ことばへの信頼を取り戻させる力のある歌ですが、社会という広がりを想定し、その怒涛のような強大な力を前にすると、「ことばが無化される」という現実に抗していくことは、大変に高い壁だといわざるをえません。

 夏の終わりは秋の始まりです。強烈な陽射しを避けるようにうなだれていた首をすこしあげて、見えるものをきちんと見たいと願っています。

 

【補足】

 ㊟前号まで続いた『私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめ

  ぐってー』が、(1)〜(6・完)と分割しなければなりませんでした。そこで自分の整

  のために、目次を表示して各号とリンクを貼っておくことにします。

 

     私たちは何を学ぶのか

      ー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー

 はじめに

 🔹『古事記』『日本書紀』の読まれ方ー戦前と戦後ー

 🔹いわゆる「津田事件」ー強いられた5年間の沈黙ー

 🔹津田論文「建国の事情と万世一系の思想」と終戦直後の諸情勢

               (その1)                                                                          以上(1)

               (その2)

 🔹編集者 吉野源三郎の憂慮と行動

  【その1】事の大要ー寄稿の依頼から『世界』掲載へー

     −                          以上(2)

     

  【その2】事の「真意」ー「皇室擁護論」だが「天皇制擁護論」でないー

  【その3】平泉訪問が明らかにしたものー「手套を投げる」ということー

                                 以上(3)

 🔹想像の域を出ないことだけれどー国民統合の「象徴」という考え方ー

 🔹「先生の独自の御解釈」への違和感ー丸山真男「超国家主義の論理と

      心理」を媒介にー

    (その1)                           以上(4) 

    (その2)                           以上(5)

    (その3)

 🔹おわりに                                                                           以上(6・完)

2018.08.28 Tuesday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー(6・完)

 前稿((5))では、津田の<万世一系>にもったであろう吉野の<違和感の内容>へ迫ろうとして、まず「先生の独自の御解釈」と吉野が評する津田の考え方のコアにあるものを、わからないなりに示すべくトライしました。

 続く、本稿では、(その3)として、<万世一系>の翌月に発表された丸山真男の「超国家主義の論理と心理」という論文を媒介させながら、さらに吉野の<違和感の内容>を考えてみるつもりです。そして、総括的なコメントを付し、この途切れ途切れにアップすることになってしまったブログを閉じることにします。

 

🔹「先生の独自の御解釈」への違和感ー丸山真男「超国家主義の論理と心理」

 を媒介にー(その3)

 何度も繰りかえすことになりますが、<万世一系>で展開された津田の「皇室愛護」論は、戦前の軍部や官僚にほしいままの行動をとることを許した制度と、「敬愛の情」や「精神的権威」を基盤とする国民の皇室観(津田のいう「天皇制の本質」)を、切り離すことによって成立しています。すなわち前者を否定し、後者を救い出すことによって、立論されているわけです。

 この津田の論理に対し、吉野は、<津田先生>のなかで、本当にそうだろうか、そして丸山真男の「超国家主義の論理と心理」が解剖した問題からすると、「両者はもっと深く内面で結びついたものであったのではないか」と、問題を提起しているのです。

 先走ることになりますが、吉野は、こうした津田の結論の前提にある「国民の皇室観」が、結局「先生の心情の中に」だけ存在したものであって、「少なくとも私にはそう思われた」と、次のような文章で、疑問を呈しています。

 「 先生が結論のように述べられた皇室愛護の言葉にあらわれた先生の心情

  こそ、むしろ先生の論文の論理に先行して、先生の問題設定を制約してい

  るのである。」

 つまり津田の<万世一系>は、「皇室愛護」という結論ありきで、それを導くために組み立てられた論文という一面があって、自由な<問題設定と考察>を阻害しているのではないかと、吉野はいいたいようでなのです。

 このことは、前稿で記したとおり<万世一系>にいささか無理のある「強引な論理展開」がみられるという私の感想に通じるものでもあります。

 

 さて、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」という論文は、私の手元に残る『増補版 現代政治の思想と行動』(1964年5月刊/未来社)[㊟元々は1957年に刊行されており、これは増補版]の冒頭の一篇として収められています。今回、半世紀を経て読み返しました(論文は1946年、70余年前のもの)。32歳になったばかりという丸山の清新さと鋭利さは十分に伝わってきますが、情けないことに私の理解度は明快に差し出せるようなレベルとはいえないようです。

 政治学の古典となった同書は、本人も述べているとおり<奇妙な本>で、各論文の「追記および補註」が付されていますので、これも参考にしつつ必要な視点のみを特記しておくことにします(当該論文について丸山自ら「どう見ても分かりのいい論文ではない」とことわったりしていますが)。

  丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』1964年5月刊/未来社 これは1972年第53刷

 この「追記および補註」には、「津田左右吉博士」が登場しています。説明がないと文脈がわからないですが、お許しをいただくと、次の文章です。

 「 ここで挙げたような天皇制的精神構造の病理が「非常時」の狂乱のもた

  らした例外現象にすぎないという見解(たとえば津田左右吉博士によって

  典型的に主張されている)に対しては、私は当時も現在も(㊟最初に刊行され

  た1957年か?)到底賛成できない。」

 この文章から理解できることを翻訳することにしましょう。

 まず丸山の「超国家主義の論理と心理」(以下⦅丸山論文⦆と表記)は、「天皇制的精神構造の病理」を扱ったものであり、戦前の一時期には「狂乱」と呼ぶべき病理状況が発現したということです。そして、このような病理とは戦争という非常時がもたらした例外的な現象であったにすぎないという見解があって、これを主張する典型的な論者が津田左右吉博士だというわけです。しかし、こうした津田をはじめとする主張については、執筆の当時も10年余を経た現在も、到底賛成することができないと、丸山は述べていることになります

 すなわち日本のファシズムと呼んでいいような時期の狂乱状況(「皇国史観」というイデオロギーが表舞台で暴走していました)を、戦時中の例外的現象として捉えてしまうことは誤りであり、もっと天皇制的精神構造に深く根差した病理現象(戦時中は突出していた時期ということができますが)として理解しなければならないと、丸山は主張しているのです(もちろん(その2)で記したとおり、津田がこの「狂乱」の時代の、特に<軍部及びそれに附随する官僚たち>の批判者であったことを忘れてはいけないのですが)。

 上に引用した文章に続いて、丸山は、津田博士に代表される主張に対するさしあたりの答えとして、「ヘーゲルの歴史哲学」から、次の文章を引用して掲げています。

 「 こうした(中世教会)の腐敗堕落は偶然的なものと呼ぶわけには行かな

  い。それは必然的なものであり、ある既存の原理の首尾一貫した発展にほ

  かならない。ひとはたんに教会におけるいろいろな乱用を云々するが、こ

  れは正しくない。こうした言い現わし方によって、あたかも、それ自体と

  しては善いものが主観的目的のために堕落しただけのことで、よき本質

  救うためにはそうした主観的歪曲だけを排除しさえすればよいかのよう

  考え方が喚び起されることになる。……(中略)けれどもある事物の濫用

  つねに個々の現象としてだけ現われるものであるのに反し、教会におい

  はあらゆる脈絡を貫通する腐敗の原理が登場したのである。」

 このヘーゲルの文章にある<中世教会>を<天皇制国家構造>とか<天皇制的精神構造>に置き換えてみると、津田と丸山の違いが浮かび上がってきます。また<腐敗>は<病理>ということになるのでしょうか。

 つまり、「天皇制的精神構造の病理」は「中世教会の腐敗」と同様、偶然的なものではなく必然的なものであり、「あらゆる脈絡を貫通する構造的な病理の原理」が存在していると、丸山は考えたのです。そしてヘーゲルの文中にある「よき本質を救うためにはそうした主観的歪曲だけを排除しさえすればよい」との部分と、たとえば津田が天皇制の本質であると考える国民の皇室観の存続を基本に、戦前の主観的歪曲に彩られた軍部や官僚のほしいままの行動をそれから切り離して排除すれば、そのことが可能であるという津田の主張はオーバーラップしているのではないかと、丸山はみていたことになります。

 すなわち、丸山は、津田のように簡単に切り離すことなどできるものではない、もっと国家の構造的問題として、精神構造の深いところで絡み合っているのではないかと考え、それを、吉野の言葉を使えば「明快に解剖」したのです。

 

 吉野が<万世一系>の原稿を1946(昭21)年2月に初めて読んだとき、もとより⦅丸山論文⦆はまだ発表されていなかったわけですが、津田論文の「皇室愛護」という結論に、こんなに簡単に切り離することができるのだろうか、「本当にそうだろうか」との疑念をもったことと、同じ基盤であったといえます。そうだからこそ、<津田先生>において、吉野自身の疑念、違和感を、当時大変に話題となった⦅丸山論文⦆を例示して託したのだと、私は考えています。

 しかし、だからといって、⦅丸山論文⦆が絶対的に正しいなどと評価しているわけではありません。吉野の<万世一系>への違和感を考えるうえで、重要な視座を提供してくれていると考えているということです。吉野が感じていた津田論文の「論理の綻び」のようなものと、丸山が言葉にした「天皇制的精神構造の病理」が呼応していたということになります。

 そんな津田の<万世一系>に対し、吉野が左右両翼からの政治的利用を避けるべく行動したのも、この違和感を感得したからでもあって、<津田先生>⦅丸山論文⦆を持ち出した直後に、次の文章を続けています。

 「 そして、私が先生の論文の発表について、その政治的反応を考えなけれ

  ばならなかったのも、その問題につながっていたのである。」

 文中の<その問題>とは、長い長い戦争で悲惨な経験をくぐってきた敗戦直後の日本が、どのような新しい体制でなければならないかという重い問いのことなのでしょう。そのようななか、天皇制をめぐる問題は大きな焦点の一つであったことはいうまでもありません。

 『君たちはどう生きるか』を1937年に書いた吉野源三郎は、戦後の日本が真に「新しい日本」にならなければならないと考えていたでしょうし、<万世一系>の主張が「ホントウに新しい日本」につながるのかという点で、「疑念」や「違和感」をもったというのが事の真相ではなかったかと、私は想像しています。

 これまで使ってきた言葉「戦前と戦後の断絶性」という観点からは、吉野は、戦後の新しい体制が戦前の旧体制(明治以後の国家体制)と明確に断絶したものであることを希求していたということができます。そして、これは現憲法の基本価値にまっすぐにつながるものであったのでしょう。

  『増補版 現代政治の思想と行動』の目次「第1部 現代日本政治の精神状況」

 さて、これで終わった方がよいかと悩みますが、やはり⦅丸山論文⦆について少し補足しておきましょう。

 先に引用した同論文の「後記および補註」で、⦅丸山論文⦆は、終戦直後に輩出した「日本の天皇制国家構造の批判」がほとんどマルクス主義の立場から経済的基盤の問題に集中して行われていたのに対し、この問題を「精神構造からのアプローチ」として分析したものだと、丸山は説明しています。だから、分かりのいい論文ではないにもかかわらず、「新鮮なものに映じ」たのであり、「自分ながら呆れるほど広い反響を呼んだ」としたうえで、次のような断りを記しています。

 「 むろんここに描かれた日本国家主義のイデオロギー構造は太平洋戦争に

  おいて極限にまで発現された形態に着目して、その諸契機を明治以後の国

  家体制のなかにできるだけ統一的に位置づけようという意図から生まれた

  一個の歴史的抽象にすぎない。」

 ここでは、論理をおって順序立てて説明する能力も不足していますし、また尻切れにもなりそうなので、断片的な紹介にとどめることになります。

 

 本にして10数ページの短い⦅丸山論文⦆ですが、最後のパラフレーズを引用します。

 「 「天壌無窮」が価値の妥当範囲の拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡

  大が中心価値の絶対性を強めていくーーこの循環過程は、日清・日露戦争

  より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって

  行った。日本帝国主義に終止符を打たれた8・15の日はまた同時に、超国

  家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる

  主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」

 まず否定から入ることになります。丸山はこの論文で天皇制国家構造において「自由な主体」が生まれ得なかった理由を、「天皇制的精神構造の病理」として分析しているのです。そして、その病理現象を引き起こした精神構造の分析は、終戦直後の人びとの心の中心に届く緊張度と衝撃度をもったから、反響を呼んだのです。

 丸山が戦後の日本に「自由な主体的意識をもった市民、国民」を期待したのは十分に理解できますが、70年余を経た現在からすれば、この問題はもっと差し迫った課題として、引き続き私たちの前にあるといえます。まあ丸山は、論文の最後に希望をこめたメッセージとして書いておきたくなったと理解しておけばいいのでしょう。

 

 で、中味です。

 ⦅丸山論文⦆は、分析の前提として、明治以降の近代化過程において、ヨーロッパ的な意味において、日本は近代国家ではなかったという主張から出発します。つまり国家主義としての近代国家は「中性国家」とも呼ばれ、「国家権力が人びとの内面的価値から独立した機構」「個人の内面に干渉しない国家(個人の内面は教会などに委ねる)」として成立してきましたが、日本はそうではなかった、「国家権力は形式的妥当性を意識するに至らなかった」というわけです。だから、日本では、国家権力が人びとの内面的価値に入り込み(その象徴として「教育勅語」のことが指摘されています)、真善美のあり方も決めてしまうことになる、このことが特異であることに、権力者も民衆も気づかない、つまり国家主義としての近代国家とはいえない状態が、明治期以降の日本であったというのです。

 したがって、「国家主義」ではなく「超国家主義」と呼ばれるべきイデオロギーは、「全体主義の流行」とともに現れたのではなく、「日本の国家構造そのものに内在していた」ということになります。丸山は、このような日本の国家構造を、次のように描いています。

 「 「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一

  化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私

  的利害が無制限に侵入する結果となるのである。

   国家主権が精神的権威と政治権力等を一元的に占有する結果は、国家活

  動はその内容的正当性の規準を自らのうちに(国体として)持っており、

  従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的規準に

  服しないということになる。」

 だから、「倫理の究極の視座が国家的なるものにある」こととなり、それは「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」こそが問題となるのです。だから近代国家の前提である法というものは「治者と被治者を共に制約すると考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルキーに於ける具体的支配の手段に」すぎないのです。たとえば支配層の日常的なモラルが「抽象的法意識」や「内面的な罪の意識」や「民衆への公僕観念」でもなく、「具体的感覚的な天皇への親近感」である結果は、次のようなことになると書いています。

 「 そこに自己の利益と天皇のそれと同一化し、自己の反対者を直ちに天皇

  に対する侵害者と看做す傾向が自から胚胎するのは当然である。」

 このようなイデオロギーが「天皇制国家構造」に存在していて、それが病理現象として最も顕在化したのがいわゆる長い戦争の時期であったと、丸山分析したのです。そして、では「超国家主義にとって権威の中心的実体であり、道徳の泉源体であるところの天皇」は、「唯一の主体的自由の所有者なのであろうか」と問い、いや、天皇もまた「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背負って」おり、「皇祖皇宗もろとも一体となって」はじめて、「内容的価値の絶対的体現と考えられる」と、丸山は自答しています。次のような難解な表現で、このことを定義しています。

 「 天皇を中心とし、それからのさまざまな距離に於て万民が翼賛するとい

  う事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実は

  これを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無

  限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているので

  ある。」

 丸山のいう「一個の歴史的抽象」ということからなのか、やはり分かりにくいですね。こうした「天皇制的精神構造」は、具体的には、「公私混同」「セクショナリズム」「無責任体制」などさまざまな特徴をもった病理現象として出現します。特に有名なのは「抑圧の移譲」という概念で、丸山は次のように説明しています。

 「 こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心の

  うちに持たずして、より上級の者(従って究極の価値に近いもの)の存在に

  よって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲によ

  る精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下

  への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが

  維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ

  最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。」

 下への責任の転嫁という無責任体系の跋扈、現在の安倍政権を思い起こさせる現象であり、さらに私たちの日常にもあるということができますが、ここではふれないでおきましょう。

 

 この⦅丸山論文⦆には、戦前の日本社会で、こうした「天皇制的精神構造の病理」に与することなく苦闘してきた丸山の観察が活きているのですが、それはとりもなおさず「コペル君のおじさん」の時代を生きてきた吉野源三郎にとっても、深いところで共鳴できるものであったにちがいありません。

 こうした丸山的な視座を元々自分のものとしていた吉野は、津田の<万世一系>を前に、いわば国民の皇室観の一面だけを本質として切り出して展開された「皇室愛護」論に違和感をもち、戦前から学者として人格的にも敬愛してきた津田のことを憂慮し、危惧を感じて行動したのだと、今は考えています。

 

🔹おわりに

 なんだか息切れしてしまったような終わり方になりました。

 当初予定したよりサブテーマが膨らんでいき、全体が見えなくなったような気持ちです。タイトルを「私たちは何を学ぶのか」とした趣旨を、情けないことにすっかり忘れてしまったぐらいです。

 私の感想のようなものを書いて、ブログを閉じることにします。

 

 吉野源三郎のことを、もっと好きになったというか、信頼できる先人として、強く意識することになったということです。もちろん『君たちはどう生きるか』の作者として、ご贔屓する気持ちが根っこにあったからかと思いますが、今回、吉野の岩波新書『職業としての編集者』、その一篇である「終戦直後の津田先生」(<津田先生>と表記してきました)に、こうして関わって、いよいよその感を深くしたということです。

 それこそ私の想像にすぎませんが、吉野は、要領がいいとか、器用だとかからほど遠い人のように思うのです。今回取り上げた吉野の「憂慮と行動」は、誠実に知と情の一致を求めようとする七転八倒型の人、そんな悩みの多い不器用な人格が現れているように感じられました。それを私は今や死語となったみたいな「ヒューマニスト」と呼びたいのです。

 1946(昭21)年3月に発表された津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』4月号)と併せて掲載の「編集者の手紙」を、今回あるサイトで読むことができましたが、その方はこの手紙を「長文の言い訳文」と表現されています。なるほどと笑ってしまいました。それでいいのかもしれませんし、20年後に書かれた<津田先生>に対してもそのような見方ができるのかもしれません。

 「言い訳」そして「弁明」「弁解」、でも私にはそうは思えないのです。だからこそ、このブログで取り上げたのです。そんな「弁明」が皆無であったと断言することはできません。でも、戦前、戦中、戦後を誠実に悩み深く生きた人、編集者であるより前によき知識人であることから逃れられなかった人。「手紙」があったから「<津田先生>」は書けたと思いますが、「弁明」をこえた時代の証言として、後進の編集者たちへの「手紙」ともなっています。

 

 「私たちは何を学ぶのか」、私が何を学んだのかは、本稿で書いたことだと申し上げるしかないわけです。

 当初の計画では、<津田先生>の「同時代把握のむずかしさ」ということを取り上げてブログを閉じようとしていました。このことは前記してしまいましたが(「編集者 吉野源三郎の憂慮と行動」の「【その3】平泉訪問が明らかにしたものー「手套を投げる」ということー」)、もう一度、吉野がつぶやくように書いている次の文章を、再度引用することにします。

 「 それにしても、現に自分が生きている同時代を正確に把握し、同時代の

  出来事の歴史的意味を過たずに知ることは、なんとむずかしいことなのだ

  ろう。」

 これは、津田左右吉博士が平泉ではなくて東京にいたら、同時代の把握がもっと違ったものになったのではないかとの思いから、吉野が書いたものです。もとよりそのことは吉野自身の自戒でもあったでしょう。

 これは、私がまさに今を生きていて実感していることです。私だけではありますまい。自分が生きている時代をつかむことの困難さは、思考停止を招きます。これに抗して生きようとすれば、何が必要なのでしょうか。

 こんなことを強く意識させてくれた一文でした。

 

 どうしようもないことに動揺したり、かないようもない希望にとらわれたり、年はとっても人は人ですね。今、どこか吉野に励まされた自分がいることだけは確かなような気持ちです。

                 【終:(1)(2)(3)(4)(5)

 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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