2017.04.25 Tuesday

雲を探してみてもー新緑とこいのぼりー

 雲を探してもどこにもありません。混じり気のない四月の空です。そんなどこまでも青い空の日曜日でした。

 阪急六甲で一時下車し、八幡神社の脇をぬけようとしたときクスノキの新緑が青空をバックにかがやいていました。桜の季節は終わり新緑の季節がとって代わっています。ああ何という50日だったことか。ナダシンの赤飯を手にして、六珈でコーヒーにしました。

 

 それからいつもの阪神香櫨園ではなく阪急夙川で降りて、夙川沿いに香櫨園浜へむかって南下しました。JR線の南の国道二号線に架かる夙川橋上からは名残りの桜ともえはじめた新緑がちょうど同居しているさまが見えています。

 阪急夙川南から臨港線の浜夙川橋までの2匱紊箸い夙川の川沿いに、川をまたいで何ヵ所も「こいのぼり」が泳いでいます。こどもの日(端午の節句)にちなんだ地元住民によるこいのぼりの飾り付けは1995年から毎年続けられているのだそうです。1995年1月の阪神・淡路大震災で被害にあった香櫨園小学校へ通う児童らを慰めようと、静岡県のボランティア団体からこいのぼり約500旈(りゅう)が贈られたことを契機に始められました。

 たしかに色がすっかり落ちてしまったようなものもありますが、吹き渡る浜風にこいのぼりが青空のもとではためくさまは、何もかもがのびやかになる空気につつまれていました。

 

 こんな染み一つないような青空にも無数に出会っているにちがいありませんが、私と家人が共有しているのはイタリアの空です。はじめての海外旅行へ出かけた時にイタリアの空の青さに空がちがうよねと日本との差異を感じたのです。湿潤な日本の空と違って湿気の少ない気候の特徴なのでしょうが、すがすがしく気持ちいいとも、バカバカしいほどの脳天気とも思ったものです。

 ちょうどそんなイタリアの空の色を思い起こさせる、雲を探しても見つけることのできない日曜日の青空でした。

 

 かくして老いてゆくものか、いかんともなし難い現実を見て見ぬふりもしながら日々を送っていたように思います。得体のしれない近未来から離れ、今晩は何を食べようかなどとくだらないことだけ話していた毎日でもありました。

  新緑のクスノキ(阪神六甲駅南の八幡神社) [2017(H29).4.23撮影、以下同じ]

  散り残った桜ともえはじめた新緑(夙川橋から北のJR線にむけ撮影)

  夙川沿いのこいのぼり(浜夙川橋付近)

  同上/浜風にはためくこいのぼり

  ローマ・ナボーナ広場(「雲一つなし」の青空) [2015(H27).5.12撮影]

 

 「このへんはハワイみたいと言われているようです。ぐるっと歩いてみますか」と、若いPTから促されました。家人は膝手術のあと、この夙川河口にある病院に転院してリハビリを続けてきましたが、明日の退院を控え、今回がこの病院での最後のリハビリだというわけです。

 午後4時すぎというのにたじろぐほどの陽ざしの強さです。当初の予定よりも1週間延長してリハビリを続けてもらったためか、家人の歩行は杖をつきながらではありますが、わりとスムーズに足を運ぶことができています。

 夙川の河口付近、香櫨園浜には、日曜日を楽しむ人たちがあつまってきて思い思いに遊んでいます。河口の南には海が広がっているはずでしたが、左手に西宮浜、右手に芦屋浜という埋立地が前方をふさいでいて、まるで湾のようになっています。

 

 翌日に家人が退院してきたあとでネット情報でみたのですが、このあたりの香櫨園浜一帯は、阪神電車により、1907(M40)年に<香櫨園浜海水浴場>として開発され、戦前・戦後を通じて大いににぎわっていたそうです。美しい白砂清松の海岸として有名でした。今は遠い高度経済成長期の海水汚染によって、1965(S40)年海水浴場は58年の歴史に幕を閉じたとあります。

 今の香櫨園浜にも往年の名残りの松の群落がありますが、目立っているのは河口の西側海岸線に立ち並ぶ大きな棕櫚(シュロ)の木です。椰子でもフェニックスでもありません。最近植えたばかりの棕櫚の木もあって、棕櫚を核とする海岸線の復活を期しているようです。斬新なデザインの高層集合住宅とともにヨットハーバーもある対岸の芦屋浜は、今やヨット、カヌーなどマリンスポーツのメッカとなっています。この日曜日にもレースがあって若い歓声が海岸を歩く私たちにも聞こえてきました。ハワイみたいというのは、こんな香櫨園浜一帯の開放的な雰囲気のことをさして呼ばれているのでしょうか。

 

 百年以上の歴史のある病院(村上春樹の『ノルウェイの森』に登場する病院のモデルとなったといわれています)の名を引き継いだ新しい病院は昨年オープンしたばかりです。小児科もありますが、リハビリが中核のようで若いPTやOTたちが引っ張っています。リハビリといっても家人のような整形外科系は少なく、脳血管系疾患による機能障害をもつ高齢者への対応が多いようです。

 明るい病院施設と職員たち、そして食堂でいっしょに食事していた皆さんによって、家人は気分の重くなりがちな病院暮らしを新たな日常としておくることができたみたいです。

  夙川河口付近で遊ぶ子どもたち(対岸は西宮浜の埋立地) [2017(H29).4.23撮影、以下同じ]

  香櫨園浜で遊ぶ子どもたち

 

  対岸の芦屋浜で行われていたヨットレース(手前は香櫨園浜の棕櫚)

 

 今回の香櫨園浜通いでカメラを携帯していた日は、主に夙川の川沿いの桜にむけてシャッターを押していました。いつもの通りあまり意思もなく偶然に撮ったもののなかで、心に残った2枚だけアップさせてもらいます。

 一枚は、今回の写真と同じ日に夙川の右岸を南下していて撮影したものです。新緑の下で読書する女性です。近くにチューハイを飲みながら読書する男性もいて二人を同時に撮れたらと思ったのですが、やはり女性の方にしました。こんないい時間の流れる環境で暮らせるとは羨ましいことです。

 私にとって「ON READING」の情景はアンドレ・ケルテスと甲斐扶佐義の写真集を思い浮かばせることになります。なぜか甲斐の方(甲斐扶佐義『ON READING』1997年7月刊/光村推古書院)が手元に見つかりませんので、ケルテスの方(アンドレ・ケルテス『ON READING  読む時間』2013年11月刊/創元社)だけ表紙の写真をアップしています。

 この写真集の巻頭に谷川俊太郎さんの「読むこと」と題した詩が掲載されていて、ちょっとぴったりだと思いましたので、当ブログでの引用回数が最多であろう谷川さんの詩を一部抜粋することにします。

    読むこと

 

 黒い文字たちが白い紙の上に整列しています

 静かです

 音はしません

 あなたの目は文字に沿って動いていきます

 あなたの指が紙をめくります

 そよ風があなたの頬を撫でています

 でもあなたはそれに気づきません

 あなたは本を読んでいます

 椅子の上のあなたのお尻がかすかに汗ばんでいます

 

   【中略】

 

 しばらく目を木々の緑に遊ばせて

 あなたはふたたび次のページへと旅立ちます

  夙川沿いのベンチで読書する女性(阪神香櫨園駅南の夙川右岸) [2017.4.23撮影]

  アンドレ・ケルテス写真集の表紙

  上記の写真集の中の一枚 「京都、日本、1968年」とあります

 

 もう一枚は、桜の散り始めていた4月14日の正午すぎ、夙川沿いを通りすがりに撮影したものです。

 歩きながらシャッターを押したのですが、こんな写真となっていました。私には老夫婦の夫の姿勢が笠智衆さんのように思えたものですから、失礼をかえりみずシャッターを押し、ちょっと躊躇しましたがこうしてまたアップさせていただくことにしました。

 軽く前傾しつつ直立している姿にお二人の歩みを感じたのかもしれません。

 記念撮影する二人(阪神香櫨園駅南の夙川左岸)  [2017.4.14撮影]  

 

 50日はそれなりの期間であったのか、家人は積もったほこりや汚れを掃除しています。そんなにきれい好きだったのかなあといぶかしく感じながら、こうしてブログを書いています。

 私にはやはり非日常だったのかもと思いつつ、こうして戻ってきた日常に感謝するほかないようです。

 

 

 

 

2017.04.18 Tuesday

『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(2)ー

◈上海で迎えた敗戦(その2)

 堀田善衞は8月11日に日本の敗戦の報を聞き、「まず何をなそうとしたのでしょうか」から再開することにします(「『上海日記』から『上海にて』ー「堀田善衞の上海」ノート(1)ー」)

 上海で敗戦を迎え、街頭の人、路上の人になるとともに、まず「中国文化人二告グルノ書」というパンフレットをつくる計画を立てたのです。『上海日記』の<8月13日>分には「事務所に帰って、「告中国文化人書」を計画する」とあり、執筆予定者として武田泰淳や内山完造など10名以上の名前が列記されています。

 『めぐりあいし人びと』には8月11日の朝にノート(1)にも掲載したような多くのビラが貼りだされていたとあり、それに続けて堀田さんは「私は、中国の人たちに対して詫びるとともに、どうしてかかる事態と相なったかを説明しなければならないと、「告中国文化人書」、つまり、「中国文化人に告げる書」というパンフレットをつくろうと思い立ち、早速その日から動き始めました」とあります。

 「その日」とは8月11日のことになりますが、『上海にて』では「8月12日に、私は一つの計画をたて」とあります。ともかく、敗戦を知ってすぐに計画の実行に取りかかったと推測できます。このパンフレットを「百万部くらいも刷って」、軍の飛行機が自由に動かせる間に「出来れば全中国に散布したいと思っていた」とのちに書いています(「個人的な記憶二つ」1954年4月『現代中国文学全集』第五巻・月報)。

 

 まずこの計画を実行に移すための活動なり交渉のことです。

 活動・交渉の内容と相手方とは、資金(軍と日本の銀行)、紙(軍)、執筆者と執筆と翻訳(中国語への翻訳は上海在住の日本人である室伏クララ(室伏高信の娘))、印刷(元アメリカ系の印刷所)、配布(軍航空隊の飛行機の使用)であり、わりとスムーズにほぼ実行できる状態にまで進捗していたようです。「日頃はすべてにおいてのろくさいくせに、敏速果敢に交渉を開始」し、「不穏の気の充満しはじめた上海の町の端から端をボロ自転車」でかけまわり、それらの交渉はすべてうまく行った」と『上海にて』にはあります。

 だがしかしなのですが、その前に動機のことにふれておきましょう。 

 

 このパンフレットを計画した動機というか真意は、繰り返しの部分がありますが、どのようなものであったのでしょうか。

 敗戦の翌年1946年6月に上海で創刊された『改造評論』へ堀田さんは「反省と希望」という文章を寄せています。その最後に「どうしても云いたいことが一つある」とし、「それは漢奸、殊に文化漢奸と呼ばれている人々に対して、肺腑より済まなかったと詫びを申し上げたいということである」と書いています。こうした「侵略者たる日本側に協力した文学者たちの運命に思い」をはせたことが直接の引き金となって、「広く中国の文化人(この言葉は、日本に於けるそれよりも、もっと広い、漠然とした意味を中国ではもっていた)に対して、一言、云いたかった」ために「告中国文化人書」の作成という行動に出たのです。

 続けて次のように書いています。

 「 何もあの戦争を正当化しようというのでもない。日本がかかる運命に

  陥ったことについて、正確なことを何か一言、あの瞬間に於て云いた

  かったのだ。」

   (「個人的な記憶二つ」1954年4月『現代中国文学全集』第五巻・月報)。

 

 また堀田さんは『上海にて』において、ほぼ同じ文言も使い動機を説明するとともに、「限りなく愛国心にかられて」動いたのだと、次のように記しています。

 「 私は、それをなんのてらいもなしに言い得るのだが、(そしてそれはおそ

  らく一生にいっぺんというものかもしれぬ)限りなく愛国心にかられて動い

  た。私は「中国人二告グルノ書」というパンフレットをつくるつもりで

  あった。当時上海にいた[執筆依頼者の氏名列記・略]などの人々に、これ

  を最後に、あるいはこれを最初に、という気持ちのところ、また日本がか

  くの如き運命に陥ったということについての、弁解とか、戦争の正当化と

  か、通り一遍の詫び言などというのではなくて、正確な一言、を書いてほ

  しいと依頼し[以下略]」

  

 こうして「交渉はすべてうまく行った」と、順調に運んでいたと思われた計画は、最後の最後で頓挫することになります。

 あとでもう一度登場しますが、8月16日に印刷工組合の中に<抗日派と親日派の争い>が激化した印刷所(ミリントン(レミントン))で印刷を拒否され、他の印刷所にもあたってみましたが、印刷工組合から通報されており「事情」は同じでした。

 ミリントンの印刷工の親玉、といっても32、33歳の青年です。その拒否の理由を自分は親日派ではないがこの印刷をすることによって親日派が困ると思う、「先生の話はわかるが、戦後になってからも日本人と仕事をしたとあっては、後方からかえって来る主人(国民党のことか)によくは思われないだろうから」となかば懇願され、事情のわかる「私が、なるほど、と納得」したとあります。

 そして、「僕はあきらめた……」のであり、計画は実現できずに終わったのです。

 

 この「僕はあきらめた」に続いて、「少しも後悔していない」と、堀田さんは1954年の「個人的な記憶二つ」で書いています。

 「 原稿を書いてくれた人たちには、あやまった。しかし、僕は僕の情熱に

  かられた行為を少しも後悔などしなかった。あんなにも、全身でもって日

  本という、自分もその一として含む存在を愛した経験は、それ以前にも、

  以後今日にいたるまで、僕には、ない。」

 中国語の翻訳を担当してくれた室伏クララから「あなたが御自身に絶望なさることはないでしょう」と、次のように「深い認識」のある言葉をかけられたと、堀田さんは書いています。

 「 おしまいに「あなたの尊敬しておいでの魯迅先生は『野草』に、『絶望

  の虚妄なるは希望のそれにひとし』といっているじゃありませんか」

  と。」

 

 かくして「告中国文化人書」は実現できずに幻に終わったのですが、「一生にいっぺん」と書くぐらいの堀田さんとしては忘れることのない記憶となったのは想像に難くありません。それも青春の記憶と書くと軽く聞こえてしまいそうですが、作家堀田善衞の原点でありかつ出発点として理解すべきものです。

 すでに集まり中国語に翻訳して逐次印刷所に回していた数々の原稿はどのような内容だったのか、今は知るすべがないようです。堀田さんの原稿はミリントン印刷所のごみ箱に捨てたと記しています。前記の1946年6月『改造評論』創刊号に掲載の「反省と希望」が内容的には堀田さんの元原稿に近いところがありそうですが、これはまた後でふれることにします。

 

 堀田さんが「告中国文化人書」の作成をミリントン(中央)印刷所であきらめたのが8月16日ですが、その前日である8月15日には同じ印刷所で「玉音放送」を聞いています。

 『上海日記』には8月13日から10月13日まで記述がありません。2ヵ月ぶりに再開した10月13日分の冒頭に「何か書く気にならなかった。結局事が多過ぎ、また面倒くさかったのだ」と堀田さんは記しています。そして10月28日付で8月13日夕方以降のことが記憶をたどりながら書かれており、「終戦勅語」のことはミリントン(中央)印刷所で工場長との打合せの最中に「君が代」がなり出したのだと次のように書き残しています。

 「 事務所のラジオのある部屋(宿直室)へゆくと、姿勢を正して坐っている

  人、頭をたれて腰かけてゐる人など三四人の人がゐて、ラジオは荘重に

  語を告げてゐた。これが陛下御自らの御放送であるとはその時私は知らな

  かった。雑音が多くてよく分からない。ただ一句「臣子衷情朕コレヲ知

  ル」と仰せられたのだけはよくわかった。涙が出た。

   紙の打合せをすまし、外へ出ると、八月の上海の陽は強烈にギラギラ光

  り、ゆきかふ中国人の顔をどういふ工合に見てよいものか分からない気持

  ちに悩んだ。」

 

 『上海日記』の記述はこれだけですが、一方の『上海にて』では堀田さんはちょうど目の前にあった「告中国文化人書」と関連づけるように聞いていたと書いています。

 つまり「日本側に協力してくれた中国人諸氏の運命を胸に痛いものが刺さり込んできた」気持ちで気づかっていた堀田さんは「私などが気にしてどうなるものではない」とわかっていても、そんな問題意識をもって聞いていたのだというのです。つまり「私は、天皇が、いったいアジアの全領域における日本への協力者の運命についてなにを言うか、なんと挨拶をするか」と、「私はひたすらそればかりを注意して聞いていた」とあります。

 その結果について、次のように記しています。

 「 しかし、あのとき天皇はなんと挨拶をしたか。負けたとも降伏したとも

  言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者に対して、遺

  憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌味な二重否定、それっきりで

  あった。

   その余は、おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、それが可愛いい、

  というだけのことである。その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の

  軀にこたえた。

   放送がおわると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ、お前

  の言うことはそれっきりか、それで事が済むと思っているのか、という、

  怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた。」

 堀田さんは日本人の代表である天皇の挨拶がこれでは「協力してくれた中国人その他の諸国の人々に対して」「相対することさえ出来やしないではないか」と思ったのだというのです。

 『上海日記』の「涙が出た」に対し、それから10年以上を経た『上海にて』では「怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた」と表現されています。この違いをどう理解すればよいのかという問題はありますが、この間に放送では「雑音が多くてよく分からな」かった玉音放送の内容を、堀田さんが後で確認したという行為があったにちがいありません。

 敗戦直後の上海において「告中国文化人書」の作成に「たいへんな情熱に身をやい」て奔走していた堀田さんの記憶はそうであったというしかないのでしょう。

 

 『上海日記』の10月28日付で書かれた8月15日の記述の最後に次のような状況を記しています。

 「 八月十六日以後の日本人の活動は物凄かった。軍のトラックは何千台

  あったものか知らぬがそれで以て什器、弾薬、食料、被服などを運びに運

  んだのだ。民間の物資は、軍のものにまじって一度に吐き出され、物価は

  一時グッと下がってしまった。」

 そして、最後の一行で「告中国文化人書」について次のように簡単にふれています。

 「 「告中国文化人書」は太平及びミリントンの操業中止でやめねばならな

  くなった。」

 なお、『上海日記』の解題で紅野謙介さんは「いつ誰に踏み込まれて押収されるか分からない状況下で日記に事実をそのまま書くかどうか」とも注意喚起しています。 

  

 繰り返しになりますが、日本の敗戦によって上海が騒擾状態に入ったとき、堀田善衞は何よりも雑踏の人、路上の人でした。

 「 私は殺されてもよいつもりで各所のデモンストレーションを見にゆき、

  群衆の中に自ら好んでまきこまれた。中国人諸氏の怒りと歓喜とを自らの

  身体を以て経験したいと思ったのである。何百何千の書物を読むよりもた

  しかな中国を知る機会がついに訪れたことを其時私は感得した。」

 この敗戦のあと、翌年1946(S21)年末に帰国するまでの1年4月余を上海にとどまった堀田さんは混乱する大都市にあっていかに身を処したのでしょうか。

 

◈敗戦後の上海ー帰国までー

 敗戦後、上海は日本人の巨大な捕虜収容所になりました。国民党軍によって上海の虹口地区(下の地図では右上のところ)に「上海在住者だけでなく、南京、また華南の各地にいた日本人が多く」強制的に集められたのです。

 

 このことと関連して、堀田さんは再開した10月13日付の日記に「終戦大詔→中山氏帰滬→愚園路から新上海→新上海→祥徳路」とあって、上海市内を移動した(させられた)こととあわせて、少々心の破たんというべきデスペレートでニヒルな心境というか、やけっぱちな心情というべきものを、次のように生々しい言葉で綴っています。

 「 もう少々僕は、すべてがいやになるという例の精神気候が来てゐるの

  で、大して何をする気にもならない。下らないことしかしたくない。何か

  よいことをするつもりはなくなってゐる。何かもっとも下劣なことがした

  いやふに思ふ。」

 「 現在僕が、生きるためにねがふことは、自分の殻を破ることだ。自分を

  破りたい。無方針、でたらめ、むちゃくちゃをやりたい。そのほかには大

  して僕の心をおどらせるものがない。」

 そして、「ぼくが漠然と上海に残留したいと思ふのは、そのせゐだ」と、すぐの引き揚げでなく、上海に残りたいという意思があったようです。27歳の青年と考えればよく分かるともいえますが。

 

 どうして堀田善衞は敗戦後引き揚げ船に乗らずに、上海に残留しようとしたのでしょうか。あるいはどのような経緯があって敗戦後の1年4月余を上海でおくることになったのでしょうか。

 もともとヨーロッパを行きたいとの思いもあったことなどいろんな要素があるものと考えられますが、この日記を読む限り、日本に残してきた妻と子どものいた堀田さんは上海で前段の「中山氏帰滬」の中山氏夫人Nと恋愛関係になっていたことも大きかったのではないかと想像します。先ほどの「残留したい」という文に続いて、引き揚げ後の自分の姿について次のように見通しています。

 「 内地へ帰ってやることは、まあ分からぬ乍らも大体見通しはつくのであ

  る。そして一旦破れかかった自分を弥縫し、何とか取りつくろってゆくこ

  とはいやなのだ。それに、自分には早くも家庭と呼ばれるやうなものがあ

  る。父母を思へば肉親の情に堪へぬものがあるが、自分を破りたい気持ち

  はそれと同じくらゐに強いのだ。」 

 この10月段階においては、翌月には徴用に自ら応ずることとなる「中国側の機関」へ入って働いてみようかということについても、「思へば民主主義の宣伝屋などにはどうしてもなれないのである」と、まだ書いていました。

 

 上海残留について、70歳を超えた自伝的回想録である『めぐりあいし人びと』では、N夫人との恋愛問題(52年1月に前夫人との離婚届けを提出し、同年6月にNと結婚)にはふれないで、次のようにさらっと回想しています。

 「 まわりでは日本への引き揚げが始まっていたが、私自身はヨーロッパへ

  渡るつもりで上海に来たのですから、そのまま日本に帰るつもりはな

  かった。ただ、そのころにはヨーロッパへ行きたいという気持ちよりも、

  この中国という国の歴史と行く末に興味を抱き始めていたわけです。」

  【再掲】『上海日記』所収の「一九四五年頃の上海地図」

 

 この1945年8月の敗戦以降の混乱と騒擾状態にある国際都市上海において、支配者から被支配者へと転換した在留日本人(「数万人」と記載されています)の立場は全体としても個々人としても複雑な葛藤を抱えていたにちがいありません。青年堀田善衞もその一人として、大きな感情の振幅を経験しながらも自らの進むべき道を模索していたのでしょう。

 1945年11月になると、『上海日記』にはいささか消極的な姿勢ではありますが、次の一歩を決心する内容が書かれることになります。

 そのころ中国国民党政府は在留日本人のなかから人材を徴用して対日文化工作を展開しようとしていましたが、11月12日の日記には「上海日僑管理処」の「文化事業関係者座談会」に出席したことが記され、その翌々日14日には次のことが書かれています。

 「 だんだんいろんな人が帰るのであろうが、ぼくはあまり帰りたくない。

  出来うれば、若し中国文化服務社なるものが相当有力確実なものとすれ

  ば、その中の日本連絡員くらゐにはなってよいとさえ考え、希望を出し

  た。」

 12月13日には「「中央宣伝部対日文化工作委員会」で出す日文雑誌「新生」に原稿を書き、ついでに編輯を手伝ふことになった」と記されています。『めぐりあいし人びと』には「そうこうしているうちに、国民党が上海に対日宣伝部の事務所を開いたということを聞いて、私は自ら進んで徴用に応じ、中国国民党中央宣伝部対日委員会というところに入りました」とあります。

 事務所は「巨大な捕虜収所であった虹口(ホンキュウ)」の旧日本人街の真ん中にありました。堀田さんは、国際文化振興会という「日本の(対中国)宣撫工作から一転して、中国国民政府の中央宣伝部の対日工作委員会の徴用」を受けることになったわけです。その委員会で堀田さんは数万人の在留日本人を相手に次のことに従事したと、紅野謙介さんの解題はまとめています。

 「 雑誌の編集のほか、国民党機関紙「中央日報」の論説や英字紙の記事を

  日本語に翻訳したり、引揚船に関する情報を伝えたり、上海中央広播電台

  (ラジオ局)で日本人向け放送のアナウンサー代理までつとめるにい

  たった。」

 

 このようなことに堀田さんは従事しつつ、「中国国内はすでに内戦の様相を呈しており、国民党の人たちも前途危ういということがわかっていて、日本の財産の接収に奔走していましたからね。これでは政治も何もあったものじゃないと思いました」というただ中に在ったのです。国民党に雇用された「日僑」とはいえ、監視の対象でした。戦時中と同じような地下工作が続けられていたのであり、「上海には警察機関が五つぐらいあった」と堀田さんが語る危険な状況でした。『めぐりあいし人びと』では次のように回想されています。

  当時の上海には、警察機関として、普通の警察、それから憲兵、憲兵と

  は別に軍の特務機関、そして載笠(タイリュウ)という蒋介石の腹心が率い

  ていた特務機関などがありましたが、なかでも、この戴笠の特務機関は

  もっとも恐るべき存在でした。正式には調査統計局というんですが、調査

  統計とは名ばかりで、実際には秘密警察で、暗殺、テロをこととして

  いた。接収財産のトラブルなどで、この特務機関に秘密裡に処刑された日

  本の実業家は、十人は下らなったのではないでしょうか。」

 

 このように堀田さんは上海にとどまり身を処していましたが、Nとの恋愛問題だけでなく、精神の振幅の大きい日々をおくっています。それは紅野さんが解題に「国民政府の日本人からの略奪と横流し。疑心暗鬼と相互不信のなかで、堀田は中国への関心と嫌悪のアンビヴァレントな感情に揺れ動いている」と書くとおりであろうと思います。

 続けて紅野さんは「その振幅のなかで堀田の中国への認識、国家や政治についての省察はより深められていったと言えるだろう」と記しています。

 

 10年以上を経て上海を再訪して書いた『上海にて』から、堀田さんがこの時期に体験し特記しておきたいと考えたであろうことを少しノートしておくことにします。

 街頭の人、路上の人である堀田さんはどのようなことに出会ったのでしょうか。

 当時しばしば公開で行われることがあった漢奸の死刑執行を見ることになったのです。偶然にその場に居合わせたこともあったようですが、幻の「告中国文化人書」に奔走した強い思いもあってその場から動かなかったと、次のとおり書いています。

 「 また私には、日本の政治、戦争に協力した中国人の死を、日本人のう

  ち、誰かひとりでも見てこれを、(中略)とにかくそれを見た人がひとり

  でもいた方がいいだろう、と思い、嘔きたくなるのを我慢し大量の汗を

  流して、群衆のたちこめる濛々たる埃のなかに立っていたので

  あった。」

 あっけなく銃殺され、「棺に収容され、トラックはそれを積み去った」のですが、堀田さんはその場を一歩離れるとおそってきた想念について書き残しています。

 「 私には到底担い切れないほどの重い、しかも無数の想念が襲いかかって

  来、その想念の数々のもう一つ奥に、死者と同じほど冷く暗い、不動な、

  深淵と言いたくなるような場所があることにも気付かされた。漢奸の名に

  おいて、中国では、戦中戦後、恐らく千を越える人が処刑された。」

 

 『上海にて』と『めぐりあいし人びと』には、対日工作委員会として関わった二つの体験を印象的に取り上げています。ひとつは上海の各大学を巡回して、日本の憲法草案について講演させられたことです。もうひとつは重慶にいた日本人捕虜を引き受け、日本に戻す手伝いをしたことです。

 1946年の晩夏から秋にかけて、堀田さんはときどき大学生の集まりに引き出されました。戦争によって奥地へ移り、やっと奥地から上海に戻ってきたり、あるいは軍隊から逃亡して来た「中国のことばでいえば、乞食同然な風態と化した「流亡学生」や「流亡教授」たち」が雑然と集合した場が大学でした。

 その底深い凄味のある学生らの前に引き出された当時28歳の堀田さんはいっぺんに怖気づいてしまったと、次のように書いています。

 「 会場である教室には、反対飢餓、反対内戦、反対迫害、反屠殺、要活

  命、要生存、要読書、為死者報仇、為生者謀活命、争取最基本的読者権和

  生存権、などという、当方の顔色もなくなるような、いっぺんに寒くなる

  ようなポスターが横ざまにべたべたとはってあった。そういうなかで壇に

  立ち、ぎょろりとした百ほどの眼で見詰められたとき、私はほんとうにど

  うしようかと思った。」

 警察による弾圧のおそれもある緊張状態のなかで、堀田さんは憲法草案だけでなく、ポッダム宣言、民主化などのことを、送られてくる日本の新聞などからの材料として話したとのことです。

 「 はなしがおわると、一人の学生が、まったく私に噛みつくような工合に

  質問した。「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしよう

  と思っているのか?」(中略)黄色い歯をむき出して、ほんとうに噛みつき

  切りつけんばかりの憎悪があらわれていた。(中略)たとえ噛みつくようで

  あっても、そういう無理難題を出して私を苛めてやろうという下心は、

  まったくないということを、私はわからされていた。質問自体、天皇制を

  どう思うか、などということではなくて、より積極的に「どうしようと

  思っているか」というのである。」

 堀田さんはほとほと困ったとし、『めぐりあいし人びと』では次のように回想しています。

 「 あのときの教授にしても学生にしても、全土を歩いて、中国という国の

  全体を認識することができたのは、大きな経験になったことでしょう。そ

  の流浪教授、流浪学生たちが、その後の中国再建の中核になったと思いま

  す。」

 

 もう一方の日本人捕虜のことです。国民党政府により重慶で捕虜になっていた人たちで80人ぐらいいたとのことですが、堀田さんは「その捕虜の人たちを日本へ帰すのには、ずいぶんと苦労をしました」と回想しています。

 夜中に「軍法会議だ」と叫び出す人もいたり、心の平衡を失った人もいるような大変な集団であったとのことです。それはもとより「「生きて虜囚の辱めを受けず」という、戦陣訓を徹底的に叩き込まれた日本の軍人にとって、捕虜であるということはたいへんな恥」だということのようです。堀田さんは、まだ敗戦業務をやっていた日本の軍司令部と交渉して、新しい身分を保証することに成功するのです。

 「 あらたに軍籍をつくってくれと頼んだんです。そこでできたのが、慶部

  隊という仮の部隊名で、彼らはその部隊員としての身分で、捕虜としてで

  はなく、普通の軍人として日本に戻ったわけです。」

 堀田さんは、やくざもいるような人たちの関係の中で学び、たくましさが身についていったように想像します。 

 

 さて、上海での1年9月に及ぶ滞在をへて、ようやく堀田善衞は1946年12月28日に引揚船に乗船します。佐世保港に入港し、検疫を終えて日本に上陸したのは翌1947年1月4日のことでした。

 この帰国は、内戦状態が深まるなかで国民党の中央宣伝部は「部内の利権争いが激化し、部内全員がピストルを所持するというきわめて危険な状態になって」おり、「危険だから明日すぐ帰れ」と言われて急遽手続きをしたものだと、堀田さんは述懐しています。

 

 『上海日記』において、堀田さんはさまざまなことに葛藤し、懊悩していますが、何よりNとの関係が中核をなしていることも書き添えておく必要があろうと思います。互いに既婚者であるという事情も加わっていることでしょう。

 4月17日付の日記には、Tは三月十七日に、Iは三月三十一日に、Nは四月十六日に、夫々皆帰ってしまった」と書いています。NはNであり、Tは武田泰淳のことです。4月30日付の日記で次のように書いています。

 「 昨夜、Tへの手紙の中で、Nのことについて簡単に、これで終焉した、少

  なくとも僕は終焉の決心でゐる、と書いた。」

 でもいうか、それからもNと出会いやその後のことについて、綿々と綴られています。8月26日分には、次の文章があります。

 「 恐らく僕は子供と妻とのことをしきりに思ひつつ、君のことを切なく

  思ってゐるといふのが正直なところだ。かう正直に云っても君はべつに顔

  をしかめたりはしないだろう。

   Nよ、Nよ、せめてぼくが生きて帰るまででも平和に暮らしてゐてくれ

  よ。ぼくは心配でならない。」

 「 ぼくのねがひ、不可能なねがひ、

  「Nよ、ぼくら一生互いに思ひ合はう、そして一生、ときどき接吻し合は

  う。それから死なないようにしよう。REIKOよ、REIKOよ」」

 『上海日記』を読んでしまった今となっては、堀田さんの上海在留を、Nとの恋愛を抜きに語ることは、私には難しいように思ってゐます。まさに中国のことが一生の課題となったように、もう一つの一生がここにあったということになります。

 

 ノート(2)を閉じるにあたって、街頭の人、路上の人であった堀田さんが強調していることを一点だけ付け加えておきます。

 危険に満ちた敗戦後の上海において、日本人が中国人から直接の報復的な暴力を受けたことは知る限りでなかったということです。『めぐりあいし人びと』では次のように回想されています。

 「 上海にいた日本人ー日僑と呼ばれていましたが、その日僑で掻っ払いや

  泥棒にやられた人はいましたけれども、報復的な乱暴をされた人は私の知

  る限りでは、いませんでした。それで私は武田君に、゛どうしてこうわれ

  われは居心地がいいのだろう゛といいましたら、武田君は゛(日本人は)ど

  うせまた来るだろうから゛と中国の人びとは思ってゐるんだよ、と答えま

  した。そこでも私は中国の歴史の深さとその歴史からくる見通しにおどろ

  きました。」

                             【続く】

 

[追記]

 今回のノート(2)では、敗戦から帰国までの堀田善衞の1年4月余からトピックをまとめました。

 次回は、最終回として、1957年に上海を再訪した堀田善衞が何を感じ何を思い何を考えたのかについて書くことにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.04.11 Tuesday

桜には背を向けていたいのだけれど

 ひょんなことから夙川べりの桜の道を毎日歩いています。今年は家人のリハビリ入院先が夙川の河口付近にあるからです。先週の月曜日はまだまだ満開前でしたが、その週末にはいよいよ満開となり、この週明けはちょっと満開を越した桜の下を歩いています。

 JRさくら夙川駅と阪神香櫨園駅のいずれかから降車して南下し、また帰りは北上する短いコースを急ぎ足で通り抜けるだけのことです。桜の名所なるものを敬遠してきた私としては偶然にもらったいい機会でした。JRから北の阪急夙川駅さらに苦楽園あたりはもっと遠方からの花見客が多いよと聞きましたが、私の歩くあたりは地元の方が中心のようです。

 桜イコール美しいという手垢のついたイメージはさておき、道の両側から真ん中に乗りだすような桜並木が毎日ボリュームを増してくるさまはただ歩くだけの者にとっても気分を浮き立たせてくれるものです。ぶ厚い日常の中の非日常なのでしょうか。幸いといえばおかしいのですが、週末にかけて散ってゆく桜の下も歩くことになりますから、その変化を、気分の変化を楽しむことにいたしましょう。

 

 今は二十四節気の清明にあたります。文字どおり天地の何もかも清らかで明るいころ、いよいよ春たけなわという時節なのですが、曇ったりちょっと雨がふったりと、天候不順の日が続いています。

 ブログを始めてから自分の気分、感情、感慨はもちろん外部の印象などを表現しようとするとき、短詩型である短歌、俳句そして川柳などを引用するとうまくいくというか、拙い自分の言葉より適切であり、何か発見でもできたように思えるときがあります。それだけ短詩型が門外漢の私にまで浸透しているということなのでしょう。まあ広い意味で「詩」「詩歌」というものの働きであり、私は読者ではありませんでしたが、先日亡くなられた大岡信さんの「折々のうた」が長く連載された基底にあるものなのだと思っています。

 前々回のブログ(「4月1日ー福島原発事故から6年ー」)でも本田一弘さんの短歌を引用しました。本田さんのような長く短歌に精進されてきた方だからこそでもありますが、そんな方でも大災厄に直面して新しい境地に達するということもありそうですし、またこれまで一度も詠んだこともない方が短詩型をかりて行き場のない自分を表現することもあると聞いたりします。

 

 よく使わせていただいている長谷川櫂さんの『日本人の暦 今週の歳時』(2010年12月刊/筑摩選書)から、桜に関して少し引っかかってきた短歌や俳句を引用してみます。

 超有名な短歌からです。今もなるほどという気持ちがします。桜は心をさわがせるものです。

 

 世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし 在原業平

 

 この人にもこんな俳句があるそうです。そのとおりといいたくなります。

 

 さまざまな事思い出すさくらかな  芭蕉

 

 はらはらと散る落花を詠んだ俳句です。

 

 両手あげ子は花びらを追いかける  飛岡光枝

  夙川のさくらの道[阪神香櫨園駅南] (4月4日撮影)

  夙川のさくらの道[阪神香櫨園駅南] (4月10日撮影)

  夙川の桜の下を少女が花びらを追うこともなくかけてゆきます。 (4月10日撮影)

 

 ちょっと偏りたがる悪い癖で、まあ桜には背を向けていたいなどと思ってきた私ですが、梶井基次郎(1901-32)の『桜の樹の下には』にふれずにはおれません。

 結核の転地療養のため伊豆湯ヶ島で1926(T元)年の大晦日から翌年にかけて長期逗留をしていたときの桜の季節の経験がこの作品(1928年)の基になったといわれています。この地で萩原朔太郎とも知り合っています。

 高校の教科書だったと思いますが、冒頭の一行に度胆を抜かれたものの何か噛みきれない感じが残った記憶があります。今回、青空文庫続きで「檸檬」「ある心の風景」とともに読んでみました。

 そのすごさがわかったなどと書くことはできませんが、伝記的な事実とあわせると、病状が進行していくという大きな不安の中で、死を意識した梶井の取り残された切実で孤独な視線によって「美しい桜」を解剖した作品として読むことができました。

 この作品を詩として読まれることを梶井は嫌がり小説なんだと繰り返していたとのことです。冒頭のところだけを引用しておきます。

 「 桜の樹の下には屍体が埋まっている!

   これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に

  咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられない

  ので、この二、三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。

  桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」

   ㊟青空文庫  『桜の樹の下には』

 きっとあとで登場する「何万匹とも数の知れない薄羽かげろうの屍体」が水面に浮かんでいた場面に誘われるように、梶井は「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」の一行を得て、「いまはまるで桜の樹と一つになって、どんな頭を振っても離れてゆこうとはしない」と感じたのでしょう。

 桜の樹の下に屍体が埋まっていると私が感得できるわけではありませんが、梶井が書いたことから、書いてしまったことで、私にはあまりに美しいものの背後にある冷厳な生命のサイクルも感じたりすることができます。前記の業平の短歌や芭蕉の俳句も今年の桜がこれまでの経験の総体に反響し合って生まれた詩であるという点で、必ずしも近代の梶井から遠く離れた詩というわけではないと思っているのです。

 

 少しセンチメンタルなのですが、梶井と同じ伊豆湯ヶ島の桜を同時にみたであろう萩原朔太郎の「桜」という詩です。

     桜     萩原朔太郎

 

  桜の下に人あまたつどい居ぬ

  なにをして遊ぶならむ。

  われも桜の木の下に立ちてみたれども

  わがこころはつめたくして

  花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。

  いとほしや

  いま春のまひるどき

  あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 

 でも「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という狂おしい一行の衝撃にはかないませんね。

 昨年は「残っていた桜」でしたが、桜には背を向けていたいのだけれど、今年は幸か不幸か桜を満腹することになりました。

  桜だけではないよと椿が鮮烈な赤を響かせています (夙川/4月10日撮影)

  今年撮影した中で花の「狂おしさ」を感じた1枚です (喜瀬川/4月2日撮影)

 

 

 

 

 

 

  

 

2017.04.08 Saturday

今ふたたびの『堕落論』

 「そんなん常識やないの」という趣旨の言葉を連発していたころがありました。中学高校の時にクラスメートなどに使っていたように記憶しています。

 社会の規範・道徳や世間知のことなど、私にはとっくに分かっていますよ、という信号を相手に発していたのかもしれせん。中高生が背伸びしていたのかなと書くと聞こえがいいのですが、同じ年頃の相手に対するこけおどしみたいなものであり、また自分の頭で考えることのない少年だったともいえるのでしょう。

 今から想像しますと半可通の知識を振りかざしたくてそんな言葉を使っていたように感じられ、なんだかいたたまれない記憶でもあります。

 

 こんな嫌な汗の流れる記憶を思い起こさせたのは、大学生のころに読んで以来、久しぶりに坂口安吾の『堕落論』『続堕落論』(以下併せて<堕落論>と表記)を読んだからです。そしてこの短い随筆をふたたび読む気にさせたのは、毎日新聞の「名作の現場」第25回で『堕落論』が取り上げられていたためです(2017.4.1「毎日新聞」朝刊)。

 敗戦直後の1946(S21)年4月と11月に続けて発表された当時40歳の坂口安吾の「堕落論」は爆発的な評判を呼びました。「名作の現場」の案内人である島田雅彦さんは、敗戦直後の混迷する社会状況(まさに未曾有の国土荒廃と価値観の崩壊にさらされていました)のもとで書かれた<堕落論>が、敗戦から70年が経過した現在(異論もあるでしょうが「既存の価値観がゆらぎ、生きる座標軸が見失われつつある」社会ということができるでしょう)においてもなお有効であるとの視点で読み解いています。

 このことは少し後回しにしておき、私の再読した<堕落論>を書くことから始めましょう。

 ・『堕落論』を学生時代に読んだのは學藝書林「全集・現代文学の発見・第八巻/存在の探求

    下」(1967(S42)年1月刊)の一篇としてでした。

   ・今回は電子図書館である「青空文庫」を利用させてもらいました。

             ◈『堕落論』        ◈『続堕落論』

 

 「生きよ、堕ちよ」というフレーズだけが残っていたような<堕落論>ですが、今回読んでみて安吾の熱量の高さ、その迫力は十分に伝わってきました。安吾は、戦前からの日本社会で支配的であった社会規範、道徳、常識といったものから文化諸現象に至るまで幅広くかつ鋭く批判し、というか悪態をつき、そうした旧来の前提条件を外して、人間の本性、原点に立ち、つまり裸になって現実に直面していくことが人間を救う近道になるのだとし、「生きよ、堕ちよ」と繰り返し説いています。

 「堕ちよ」「堕落」とは「古い価値観から解放される処方箋」「自力で道を切り開いていく生き方」を示す言葉として使われているように読むことができます。安吾にとって「人間の本性、実相」というものが核として存在しており、「人間は簡単に変わりはしない」という永遠の相の視点から、「生きよ、堕ちよ」を呼びかけているのです。

 一部ですが、安吾の人間観というものをまず引用してみます。その後で政治、文化、歴史への安吾の視点を引用し、対比させることにします。

 『堕落論』は冒頭で「半年のうちに世相は変わった」とし、戦争から戻って闇屋となった若者、新たな面影を胸に宿す未亡人を例に挙げたあとに、次の文がきます。

 「 人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わった

  のは世相の上皮だけのことだ。」

 終戦後、自由を許された人間から見えてくる景色はどのようなものか、でも戦争を挟んだぐらいで人間の本性は変わっていないことについての文章です。

 「 人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さ

  に気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生

  きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。政治上の改革

  は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに

  発見され確立の一歩を踏み出した人性が、今日、どれほどの変化を示して

  いるであろうか。」

 そして冒頭の主張、敗戦直後の<現在>に向かって畳みかけています。

 「 人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。義士も聖女も堕落

  する。それを防ぐことはできない、人間は生き、人間は堕ちる。そのこと

  以外の中に人間を救う便利な近道はない。」

 敗戦後の混迷する社会にあって、人間はいわば余計なベールを脱いで裸になり、真実に戻って、すなわち「堕ちて」生きよ、自力で道を切り開く生き方をせよという主張なのです。

 

 一方で、安吾は「変わらない人間の本性」に立脚し、社会のシステムにとらわれることなくまた頼ることなく、ただただ「生きよ、堕ちよ」というだけではありません。社会の規範、道徳、常識という歴史、文化のカラクリ(社会を駆動させているシステムということもできます)から、人間は完全に自由であることが難しい、それの全くない状態に堪えきれるものではないという人間観でもあるのです。それも人性というか、人間の本質の一つの表現なのだと言いたいようです。

 「 だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は

  苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、

  その故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女

  を刺殺せずにはおれず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎだ

  さずにはいられなくなるであろう。」A

 堕ちぬくことができずに、こんなカラクリをつくりあげすにおれないのも人間の本性というものだと言いたいようなのです。例えば政治の制度について、小林秀雄の政治家論を批判しつつ次の省察めいた言葉を残しています。

 「 政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合わせたものではなく、個を没入

  せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦巨大

  な独創を行っているのである。(中略)日本人は歴史の前ではただ運命に従

  順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴

  の姿に於て独創をもち、意欲をもち、やむべからざる歩調をもって大海

  波の如くに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。之も亦歴史の独創、

  又は嗅覚であったであろう。歴史は常に人間を嗅ぎだしている。」

 そして、そんな社会システムが非人間的、反人性的だといって、人間の本性から逸脱したものと否定しきれないのだ、言いかえれば、人間の本性に対する洞察の結果、「人間の弱さに対する防壁」としてそんな非人間的、反人性的な仕組みを独創するのだと、安吾は考えています。

 「 (武士道の「節婦は二夫に見えず」という)禁止自体は非人間的、反人性

  的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇

  自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察

  に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理

  や自然法則だけでは割り切れない。」

 

 以上のように、安吾はいわば直線的な主張を展開しているのではなく、結構複雑なのであり、「生きよ、堕ちよ」の限界も認めているのです。あくまで敗戦直後の混沌とした社会にあっては、人間にとってそこから完全に自由では有り得ない「強靭な制度」や「健全な道義」などのカラクリというべきものを、この敗戦という機会に、一度は脱ぎ捨てて、自分の本性を発見し、裸になって自力で道を切り開くべく出発することが必要不可欠なんだと、だからこそ「生きよ、堕ちよ」と説いたのでしょう。『堕落論』は前段Aに続いて、次のとおり締めくくられます。

 「 だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、

  自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきること

  が必要であろう。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。

  堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われなければな

  らない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」

 

 もう一つの『続堕落論』は『堕落論』と一対として読まれるべきものですが、特に「堕落」というものの本質に<孤独>という言葉を与えているところが特徴です。つまり前回にふれなかった「堕落」そのものについて考察した言葉が加えられています。

 「 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕

  落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存して

  いる。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母に

  まで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。」

 さらに善人と堕落者を対比させます。

 「 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠

  し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが

  堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。

  悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であ

  り、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。」

 そのうえで、曠野を一人で歩いて行く「孤独な堕落者」である人間の実相を次のように結んでいます。

 「 悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相

  はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救う

  きものではない。」

 こうして堕落と<孤独>を関係づけるのは実存哲学のようなものの影響があったのかもしれません。最初の随筆で大きな反響のあった「堕落」という意味を、「無頼」という言葉による短絡的な理解に警告を発し、いわばその厳しい<実相>を再定義しようと、安吾は試みたのだと思います。

 

 安吾が言いたかったことについて、いろんな解釈があるようですが、ここでは敗戦直後に古い価値観からの解放をハイパーなエネルギーをもって「生きよ、堕ちよ」と説いた安吾が『続堕落論』の締めくくりでたどり着いた地点を確認しておきます。

 「 (前略)我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、

  人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に

  堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにた

  よって落下をくいとめられずにいられなくなるであろう。そのカラクリを

  つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎

  であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめること

  が必要なだけだ。」

 

 以上が、私のアンテナが探知することのできた安吾の言葉です。

 付言すれば、<堕落論>には論理のち密さとか普遍的な哲学などを期待しても得られることはありません。<堕落論>は島田さんの言葉づかいでは「アジテーション」とありますが、自力で人生を切り開こうとする人たちの背中を押す「劇薬」なんだと思います。そのための「生きよ、堕ちよ」「堕ちよ、生きよ」なのです。

 「ニセの着物」「カラクリ」を唯一無二なものとして、身動きできなくなるような馬鹿な真似は止めよ、という安吾の悲痛な声が聞こえてきます。

 

 さて「名作の現場」で、島田雅彦さんは「安吾は戦後の混乱期を生きる人々の強さ、したたかさに注目しつつ、いかなる権威にもすがらない生き方に健全さを見た」とし、安吾の「生きよ、堕ちよ」はそう生きないと次のようになると考えていたからなのだとします。

 「 人はどん底まで落ちることで初めて、自分の「本性」を見据えることが

  できる。「武士道」や「皇国史観」といった「ニセの着物」を脱ぎきらな

  くては、日本は戦中のような欺まんにまみれた国へと逆戻りしてしま

  う。」

 島田さんは「権力の専横をけん制する市民意識を日本に根付かせる」ことが敗戦直後の安吾らが模索していたことかもしれないとします。だがそうした希望もむなしく、「敗戦から70年が経過した現在、戦中と似たような嫌な世相になってきた」とし、昨今の状況も見据え、「嫌な世相」の様相を次のように記しています。

 「 今日においても、官僚の責任転嫁と証拠の秘匿、さらには国有財産の私

  物化、公金の流用などは習慣化している。公務員とは、公を最も私物化で

  きる者のことなのである。」

 「 政治には思想も理念もなく、ただ恫喝、保身、既得権益があるのみだ。

  国家は市民の権利を制限してでも国家に奉仕させようとし、マスメディア

  も政府の広報となり下がり、個人的な感情さえも国民感情という幻想に丸

  め込む。」

 このような我が国社会の現況については、私もいちいち胸に突き刺さりますが、島田さんは「施政者」という語彙を用いて次のとおり続けています。

 「 国家を私物化した施政者が責任を放棄し、道徳的退廃を極める限り、ひ

  とりひとりがいくら理性的、道徳的であろうとしてもむなしい。だが、施

  政者と同じ穴のムジナになるのはもっとむなしい。」

 戦後の70年たった現在がこんな状況であるからこそ、島田さんは「安吾が『堕落論』を通して行ったアジテーションがなお有効である」と、苦渋をこめて書いているのです。

 私は「なお有効である」というより「今の閉塞した社会を生きる人びとにとっても不可避であり、効くものだ」と感じています。

 

 島田さんの書く「嫌な世相」は、今は森友問題として集約的に現れていますし、そして道徳の教科書問題、その道徳授業の教材として「教育勅語」を用いることを否定しない政府答弁書のことなど、びっくりするようなことが続いています。

 安吾の『続堕落論』の冒頭は、「敗戦後国民の道義退廃せりというのだが、然らば戦前の「健全」なる道義に復することが望ましきことなりや、賀すべきことなりや、私は最も然らずと思う」から始まっています。

 現在の戦前回帰というべき動きをけん引しているのは、戦争を経験していない戦後生まれの世襲政治家が核となっています。戦争を知らないからこそ、あるいは学ばないからこそ、「教育勅語」の一つをとっても転倒したことになると考えれば、不思議でもなんでもないといえるのでしょう。どうも前提に「今の国民の道義退廃せり」というしみついた思い込みがありそうですが、もとより現代風に変形したものであるにせよ、安吾の言う「戦前の「健全」なる道義に復する」ことを望む人たちです。

 戦後一度は脱ぎ捨てた「ニセの着物」「カラクリ」をまたぞろ持ち出し、また着せたいと願う人たちが権力の中枢にいるということです。

 

 はやり言葉になってしまった言葉に「忖度」があります。籠池氏の日本特派員協会での会見では、最初は「read between the lines(行間を読む)」と通訳されていましたが、途中から「英語で直接言い換える言葉はない」からと結局「sontaku(忖度)」になりました。

 現下のとおり、「忖度」を「権力者の意向を推量するといった悪い意味で使われる」機会が増大している社会は、社会を駆動する諸システムが「健全」に機能していないにもかかわらず、依存するしかない状況が露呈している、それが現在のカラクリとしての社会の限界なのでしょう。今やこの国には為政者の顔色しか伺わない政治家と官僚、そしてマスメディアの分厚い壁が立ちはだかっています。

 また同時に当ブログにおいて繰り返し取り上げたトランプ現象はアメリカだけのことではなく、日本を含めた世界的な現象として、世界中に分断の壁、破壊の壁が築かれつつあることとも連動しています。

 

 カラクリとしての社会システム、いわば擬制的な社会システムというべきものは前ブログ(「4月1日ー福島原発事故から6年ー」)で追記したこの国が「短い時間の幅でしか物事を考えられないようになっている」ことと表裏一体をなすことなのです。

 乱暴に言えば、そんなカラクリとしての社会システムに拘泥することなく、さっさと脱ぎ捨て、しんどいけれど、自分の道を切り開く人びとの、その幅は広いものだとは思いますが、そんな人びとの躍動こそが今必要なんだと、そしてそれは新しい時代への突破口となる可能性をもっているのだと思います。そのことによって、個々人も日本も「自分自身を発見し、救われなければならない」と、平凡なサラリーマン、公務員人生を歩んできた私としては切実にそう考えています。

 昔々の記憶のように自分の頭で考えることもできずに、いたずらに年を重ねてしまいました。そんな自分ができないままであったことを次代の他者に託すことはおかしいといえばおかしいのですが、そう願っています。

 

 このような時代状況であるからこそ、今ふたたび『堕落論』が読まれるべき時代なのだと申し上げたいのです。そして、今ふたたび「生きよ、堕ちよ」の精神が求められているのだと言いたいのです。

 願わくば、新世代の『堕落論』が、ふたたび文学の分野から閉塞する壁をぶち抜くように登場することを希望しています。

 

 島田雅彦さんの「名作の現場」は、安吾が『堕落論』を通して行ったアジテーションが「70年後の現在もなお有効である」に続いて、次のような文章で締めくくられています。噛みしめておきたいと思います。

 「 私たちは戦争や震災という非常事態を経験し、多少は悟った。食うに

  困ったり、親や子をなくしたり、生き延びるために非道に走ったりしなが

  らも、人を助けたりする。やるせない世の中に絶望し、堕ちるところまで

  堕ちてもなお、やけっぱちの善意を発揮したりしてしまう。だからこそ私

  たちは幾多の災厄を生き延びてこられたのだ。親を亡くした浮浪児たちの

  根城だった上野の地下道を歩きながら、そんなことを思った。」

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

  

 

2017.04.02 Sunday

4月1日ー福島原発事故から6年ー

 サラリーマンにとって4月1日は年度替わりの特別な日ですが、今年は1日、2日と連休です。

 もうそんな関係もない私ですが、手帳は年度で切り替わるものをまだ使っています。今年は桜が遅いなと思っていたら、発熱してしまいました。4年前の手術の直後は発熱しましたが、それ以外ではずいぶんと久しぶりのことです。もはや熱も出なくなったと自嘲していましたが、まだ生き物として反応しているぞと思うしかありません。

 

 行動しない人間が発言することは後ろめたさが伴うものです。若いころの言葉では「思想と実践」というものなのでしょうか。でも、今の「いやな感じ」のただよう時代にあっては、私は発言することをやめてはならないのだと思っています。もとよりこのブログを読んでくださる方を想定すれば、それはごく限られていますが、書くことが自分の中に混乱とともにある形を与えることになるという希望を失わない以上は続けたいと願っています。

 このブログは友人、知人に手紙を書くように綴っていけたらという初心で始めたことを忘れないように、後ろめたさを伴うテーマであっても書き続けていくつもりです。

 

 東日本大震災、そして特に福島第1原発事故は「後ろめたさ」が伴います。

 6年前のあの日、伊丹空港内の会社の一室で川を遡上する津波をテレビの画面で見て放心していたのだと思います。その後、起こったこと、とりわけ原子力発電所の悲惨というしかない大事故に関心を寄せ、将来に向けて原発ゼロをめざす方向は当然のことと考えていましたが(今もそうです)、その後の状況はご承知のとおりです。それなら東日本大震災に際し、きみは何を支援したのか、何を行動したのかと問われても、いや何もと答えるしかありません。

 最近の報道等によって後ろめたさを超えさせる何かが私を撃ったというべきなのでしょう。

 

 先日(3/31)のテレビ朝日のニュースステーションに倉本聰さんが出演していました。浪江町の避難指示区域の一部解除を受けたルポが放送された後、倉本さんは「好むと好まざるとにかかわらず、棄民だと思います」と発言しました。うーん、「棄民」ですか、と私は再び動揺したのです。

 最初に動揺したのは、少し前になりますが、福島県から横浜市に自主避難した子供に対する「避難者いじめ」という問題でした。「悲しくてやりきれない」、この歌は『この世界の片隅に』(「新年の挨拶 2017」)でも歌われるのですが、この言葉が「動揺」する感情そのものでした。

 

 福島第1原発事故から6年を経て、その収拾は当初に考えられた以上に困難であることが一段と明確になってきたと、柳田邦男さんが書いていますし(2017.3.25毎日新聞朝刊「被害者心情逆なで、なぜ?」)、私も報道等からそう感じています。

 柳田さんはそのポイントを4点にまとめています(さらに要約します)。

 ^砧詫憧鐺睇瑤了款が一部確認され、廃炉作業が予想以上に困難になる可

  能性が出てきた。

 ⊇染作業による膨大な汚染土の黒い袋が避難指示解除地域にも積み上げら

  れ、仮置き場への移送が大幅に遅れている。

 H鯑饂惻┐解除されても、さまざまな困難から、当面の帰還予定者は関係

  地域全体で10%に満たない。

 せ故処理費用は想定の2倍の21.5兆円に膨らむ見通しとなり、財源は一般

  の電気料金に転嫁される。

 このうちのことを、本稿ではもう少し書いてみます。

 

 国の避難指示は3区域(帰宅困難・居住制限・避難指示準備各区域 計1149K)に再編された2013年8月から、今年の3月31日と4月1日の両日の一部解除によって369K屬函¬明僂鰐3割まで縮小することになりました。が問題は、帰還・帰還予定者がこれまでの帰還者を含めても解除対象者の7.9%にとどまることです(以下を含め数値は2017.3.8毎日新聞朝刊、特集「東日本大震災大震災6年 進む避難指示解除」に依拠)。

 数値的には、帰還者数はすでに解除された5市町でも田村市の7割を除くと2割にも満たず、今春解除の4町村でも、準備宿泊者数は伸びず、5市町の帰還者数と併せて計4,139人で、解除対象者(52,370人)の7.9%だということになります。これは解除指示区域全体の人口(11市町をまたぐ約88千人)の4.7%にとどまっています。

 つまりはなかなか帰還をしたくても希望できない理由がそれぞれにあるということになります。柳田さんの文章では「人口減や高齢化、育児・教育の困難、医療過誤、経済再生の困難などから」とされていますが、その困難さは自分の身をそこにおいて想像すると、ある程度は予測されます。何もないところにまちづくりすることよりも、ずっと難しいことだといえます。

  2017.3.8毎日新聞朝刊「特集 東日本大震災6年」の<避難指示区域の変遷>

  上記の記事 図の右側<17年4月>分

  上記の記事 <避難指示区域の人口と帰還者数>  

 

 毎日新聞が夕刊で「ここで創る 3.11」という特集を5回連載しましたが、その最終回に登場した福島県の高校教師で歌人の本田一弘さんの記事から、その歌を紹介します(2017.3.15毎日新聞夕刊)。

 本田さんは福島や会津の自然、風土と人のかかわりを古語に託して歌い続けてきた方で「原発事故の経過を思う時、「賊軍」と切り捨てられた会津藩の苦難の歴史が脳裏をよぎ」ります。

  官軍に原子力発電にふるさとを追われ続けるふくしま人(ひと)は

 

  引き受くるところなく福島のつち福島を移りゆくのみ

 

  復興は進んでゐると謂ふ人のうすきくちびる見つむるわれら

 

  ふくしまのゆふべのそらがかき抱(むだ)くなかなかのこゑ死者たちのこゑ

 

 先の記事で、柳田さんは、東日本大震災から6年たった3月11日、政府主催の追悼式における安倍首相の式辞の中に「原発事故」というキーワードが登場しなかったことに強い違和感を抱いたとしています。昨年までの式辞では「原発事故のために住み慣れた土地に戻れない方々」といった表現で登場させていたのに、さらに「いよいよ深刻な問題を提起している現実」にあるのに、今年は一切触れられなかったことを批判しているのです。

 これは安倍首相個人の問題だけでなく、政権そのものの姿勢なのでしょう。東京オリンピック開催受諾演説のいわゆる「アンダーコントロール」発言と原発再稼働方針からまっすぐに予想される対応だというしかありません。

 倉本さんの「棄民」という強い言葉にはおそらくこうした批判が背景としてあるのでしょう。

 

 もとより「棄民」という言葉は、今、地元で避難者の帰還に向けて取り組んでおられる人びとに「冷水」を浴びせるものだという批判もあるでしょう。政府などからすれば事故から5年もたったし、風評被害を大きくすることになるなどと言いたいのかもしれません。

 一方、福島県からの自主避難者に対する福島県を通じた住宅の無償提供という支援策が、今年の3月末で打ち切りとなったという問題もあります。一部の受け入れ先自治体が独自の支援策を行うものの、東京都をはじめ多人数の自主避難者が居住する自治体はそうした支援は鈍いようなのです。無償提供打ち切りの対象となる自主避難者は約2万6千人で、福島の避難者全体の3分1に及ぶという話もあります。

 地元におけるさまざまな取組みも報じられているところですが、本質をずらし糊塗し、わけが分からなくなった頃合いに表層を復興させることを政策化して本質を隠してしまう、これは悲惨といわなければなりません。復興は何のために行うものなのか、改めて私たちに問われています。

 「うすきくちびる見つむるわれら」の存在を忘れないようにだけはしたいと考えています。

 

 最後に、阪神・淡路大震災はもとより、東日本大震災についても、「支援から志援へ」と活動してこられた島田誠さんの本年3月分の蝙蝠日記「6年目の3.11に」を貼り付けさせてもらいます。

 当ブログでも紹介させていただいた旧知の方ですが(「ある回想ー「託されたことを生きて」ということー」)、私と対極の行動する人である島田さんの「絶望しながらもなお「人間性回復のチャンス」と伝えよう]という現在の切実な思いを受けとめたいと思っています。

  

  ⋄蝙蝠日記 2017.3 「6年目の3.11へ」

 

【追記】

 「大きな時間幅で考えよ」と題された記事(2017.3.14毎日新聞夕刊)には、「短い時間の幅でしか物事を考えられないようになっている、この国を案じている」内山節さんが「今をうまく過ごせればいいー。そんな刹那的にシステムを維持している代表例が、原発だと指摘」していると記されています。

 私もそう思っていますし、それが原発依存からの離脱、原発ゼロがめざすべき方向だと考える基本です。内山さんの語った趣旨として「電力会社にとって原発が動いていること自体が必要なのです。稼働していないとなれば、会計上は資産となっている原発施設を減損処理しなければならず、巨額の損失を抱えてしまう。再稼働の目先の利益の方が大事だということにほかならない」とあります。

 もとより自分の胸に手をあて、この世の中への目線や、暮らし方・生き方を振り返ると、まことに恥ずかしいかぎりです。子や孫の世代の行く末のことも視野に入れること、もう少しはそんな時間の幅をもって考えることができればと念じています。

 

2017.03.30 Thursday

最終講義ーコメンスキー学校、そしてコメニウスのことー

 この3月末で、昨年の私と同じように、サラリーマン仕事に一区切りのつく友人がいます。就職をして定年退職を迎える時の感慨も確かに大きいですが、こちらの方も別の意味で重いものです。

 今、私は日々を大切にと思っているものの、過ぎ去る時間の足取りの速さにおののいたりすることもよくあります。定年とか任期とかのない、きりのみえない未知な時間を歩むのですから、不安がないと言えばうそになりますが、自分だけのことではありません。

 年を重ねると、ほぼどのような現象であっても、両義性がある、こんな言葉を使う必要もありませんが、一つの現象であってもいい面もよくない面も両方があるものだと意識することが多くなりました。それも心身の条件、とりわけ心の持ち方で感じ方も変わるという側面があります。

 ともあれ、何かが始まるには、何かを終えることも大切なのだと、私は感じていることを伝えたいと思います。

 

◆最終講義ー「コメンスキー学校の闘いー帝国が崩壊するとき」ー

 先日、「最終講義」なるものに参加しました。これまでこのような場を経験したことはありませんので、ほんとに初めての機会です。

 聴講生となっている大学の西洋史の教授が3月末で定年退職を迎えられるということで、このような場が企画されたのでしょう。当ブログで取り上げたことのある方で(「日曜日のキャンパス、百年前のこと」)、私は昨年の前期の講義を聴講しただけの関係です。その講義を締めくくるに際し、学部学生に講義するのはこれが最後だとし、あとは年度末に向けて講演の形で何回かの機会があるだけだと聞いていました。

 今回はそのラスト、「O教授退職記念・最終講義」と銘打たれた場があることを大学のHPで知ったことから、ちょっとのぞかせていただいたわけです。同じ歴史学者であるゲストスピーカー2人から「歴史領域の新たな地域連携をめざしてー地域史と世界史の往還の中でー」「諸国民社会の揺籃としての帝国」というテーマで話があったあと、O教授の講演があり、最後に3人の歴史学者による全体討論が行われるという充実したプログラムでした。

 私は所用のためO教授の講演から会場に入りましたが、今、西洋史研究室で学ぶ若者だけでなく、きっとOB、OGなのだろうという人たちも数多くお見受けしました。もちろん大学の同僚、研究者も出席されていて、なんとなく同窓会で恩師を囲んでいるという雰囲気でしょうか。

 最後には、司会のK准教授からのお礼のことば、そしてO教授のあいさつがあって、最後にO教授ご夫妻への花束贈呈が行われました。オーストリア=ハンガリー史を研究してこられたO教授は、最後のあいさつで今もその歴史研究には興味が尽きることがないこと、「教える」というつもりで教員してきたのではなく一緒に研究するという姿勢でやってきたこと、そしてこれからもできる限り研究を続けていきたいとの決意を述べられていました。花束贈呈の場面では、マイクをもたれた奥様が感極まり、O教授を「支えてこれたと思っていない」というような趣旨を述べられ、その代わり「ケンカをしてきた」と語られたのが愉快でもあり印象的でした。

 ということで、ほぼ同世代のO教授の「最終講義」に参加し、主にその人柄からくるものなのでしょうが、そこに温かさのようなものが流れていて心地よく過ごすことができました。いわゆる私たちのような普通のサラリーマンとの落差をちょっとさびしく感じたということも事実です。それは研究者としてのO教授はingだということに尽きます。O教授にとっては一区切りではありますが、まあその歩む道は断絶や急カーブすることなく未来へと連続しているということです。

 

 今回のO教授の講演は「コメンスキー学校の闘いー帝国が崩壊するとき」でした。最終講義と聞いて想像される、これまでの研究生活を振り返って総括するようなテーマではなく、まさにingとして継続してきた具体の研究テーマを取り上げられたわけで、そんなところにもO教授の姿勢が現れているのでしょう。

 ここでその内容に詳しく立ち入ることはしませんが、というより能力的にできませんが、概観をスケッチしておきましょう。

 帝政時代のオーストリアのウィーンには多くのチェコスロヴァキア系住民が働くために移住してきましたが、その子弟教育のためにコメンスキー協会が設立され、そのもとでコメンスキー・シューレという私立学校が1883年、ウィーンの周縁部である10区(チェコ系住民の居住地)に開設されました。そこではアウグスライヒ体制のもとで、母語はもちろん、これに加え、ドイツ語の授業が行われていました。ウィーンというドイツ的環境の中心で、多言語教育が行われてきたというわけです。

 そうした帝政時代、第一次世界大戦中、そして帝政の崩壊によって各地域の共和国としての独立、その後の戦間期、ナチス政権の支配、第二次世界大戦、戦後のソ連による東欧諸国の支配とその下での「プラハの春」、1989年以降の東欧共産党支配の終焉とソ連の解体という19世紀から20世紀にかけての歴史的な事件が次々と起こりました。こうした激変する国際環境のただ中にあって、ウィーンのコメンスキー学校はどのような問題に直面し、どのように対応してきたのかという問いに、多民族・多言語の特異な近代国家であるハプスブルグ帝国を象徴する一つの事象として、O教授は挑んでこられたようです。

 

 今回はその一端について話されたことになりますが、帝政時代にはオーストリアの心臓であるウィーンではドイツ語という単一言語性を守らなければならないという市当局の意向と、バイリンガルをめざすコメンスキー学校は卒業試験、卒業証明付与権等の公的権限をめぐって、対立と調整を余儀なくされたのです。なんとか公立学校の教員が関わってコメンスキー学校の生徒の卒業試験を実施するような妥協を図りつつ存続していったのことです。

 

 第一次大戦が契機となったハプスブルグ帝国の崩壊、チェコスロヴァキア共和国の成立によって、ウィーンのチェコ系住民の環境は大きく変化しました。1918年から22年までの間に10万人以上のチェコ人たちが帰国を余儀なくされましたが、残ったチェコ人はハプスブルグ帝国オーストリアの「チェコ系住民」から、オーストリア共和国の少数民族「チェコスロヴァキア人」というように立場が変わったのです。

 ウィーンには少数民族保護の国際条約に基づき新たに公立チェコ系小学校が設立されていきますが、そこではチェコ語による授業だけでドイツ語による授業は行われなかったのです。当然のこととして、父母たちはチェコ語教育とともに、生きる場はウィーンなのですからドイツ語教育も求めることになります。そこに力を貸したのが、ドイツ語教育のノウハウをもつ私立学校であるコメンスキー学校でした。

 公的権限は帝政時代から引き続いて与えられないままでしたが、1920年代には中等学校には一年更新で卒業試験を市の委託を受けて実施できるようになっていたとのことでした(まだ小学校のことははっきりしていないとのこと)。

 

 第二次世界大戦へと突っ走るナチス政権が中・東欧諸国を支配下においたことでコメンスキー学校も厳しい事態に直面し、1943年には廃校を申し出ていたという文献もありますが、何らかの形で細々とその後も生き延びていたようです。戦後、東欧諸国はソ連の影響下で共産党政権に支配されますが、それに反発した1968年の「プラハの春」とソ連の弾圧があった以降、オーストリア国内の反発もあって、コメンスキー学校は存続の危機を迎えたとのことです。

 しかし、1989年以降の東欧諸国共産党政権の瓦解に伴い、オーストリアとチェコ共和国の交流が活発化したことによって、コメンスキー学校は息を吹き返すように復活を遂げたとのことです。今や、EUの多言語教育のモデル校にもなっているようですが、とO教授が話されていました。

 

 O教授の最終講義のレジュメから最後の部分を引用しておきます。第一次世界大戦が終わり、ウィルソンとレーニンの理想に基づき、ソ連邦と中・東欧独立国家群が立ち現れましたが、1989年以降において二人が「構想した未来は時を同じくして、ともに時代の検証に耐えないことが実証されたのである」という文章の後に続く少し長いものですが、この一世紀以上に及ぶ歴史のダイナミズムが感じられる文章です。

 「 その時に当たって、私たちはもう一度1918-19年時点に戻って、この地

  域に住む人々の未来を構想すべきであろう。その時の未来は、現実から遊

  離した理想ではなく、人々の現実の生活から構想されるものでなければな

  らない。そのためには、第一次世界大戦という過酷な経験をへて、帝国の

  解体や国境の改変を受けて、人々の生活で何が変わり、何が変わらな

  かったのか、という視点からこの時代の中・東欧を捉えなおさなければな

  らない。帝政期からウィーンというドイツ的環境の中でチェコ系子弟の教

  育を実践してきたコメンスキー学校が、オーストリア共和国の少数民族と

  いう立場に置かれたときの継続性と変化はこの問題を考えるうえで恰好の

  素材を提供している。」

 

 下には、コメンスキー学校とは何の関係もありませんが、2013(H25)年7月にウィーンに2泊した際にこれがウィーンだと感じられた写真をアップさせてもらいます。

  ウィーンのリンク沿い「トラムと自転車」[2013(H25).7撮影、以下同じ]

  リンク内旧市街「シェーンラテルン小路付近」

  ウィーン「ミュージアムクォーター出入口付近」 

  片足の女性のすっくりと立った姿を記憶しています

 

◆コメニウス、そして「スラブ叙事詩」

 コメンスキー学校の「コメンスキー」はヤン・アーモス・コメンスキーという名に由来しています。すなわちラテン語の執筆活動名である「コメニウス」として知られるその人の本名なのです(「コメンスキー」は生まれた村の名前にちなんだものらしい)。

 O教授の最終講義に触発され、ウィキペディア並みの情報ではありますが、現在、東京にやってきて公開中のミンシャの「スラブ叙事詩」を絡めて少しだけ書いておきます。

 

 コメニウス(1592-1670)はチェコのモラヴィア生まれの宗教家にして教育者であり、「近代教育学の父」と称されています。モラヴィア兄弟団と呼ばれるプロテスタント一派の代表の1人でしたが、彼の生きた時代は三十年戦争とその後の宗教戦争のただ中でした。チェコのボヘミヤにおいてカトリックによるプロテスタント虐殺の現場に居合わせたコメニウスはチェコからの逃亡を余儀なくされ、終生、故郷に戻ることがかなわなかった人です。

 教育学という分野では、現代の学校教育のしくみを構想し、人類が共通した普遍の知識を共有することが世界平和にとって大切だとしたこと、ライフサイクルの全般を通しての生涯学習を体系化したことなど、こうした業績からコメニウスは「近代教育の父」と呼ばれています。教育学そのものの著作『大教授学』等に加え、その実践として世界初の子供のための絵入り子供百科事典『世界図絵』、いわば偏見のない普遍的な教養を吸収できる図鑑を作成した人としても知られています。

 ウィキペディアによると、「ボヘミアでの残虐行為を目撃し」たコメニウスは「深く悲しみ悩んだ。そして、この狂気で残虐の迷宮から抜け出せるのは、子どもに与える新しい教育だけであると考えるようになった」ことが近代学校教育の構想につながったというわけです。

 コメンスキー学校はこのようなコメニウスの名を冠するものだったのです。余計なことですが、「○○○○記念小学校」との出発点の落差にやりきれない思いがいたします。

 

 さて、現在、東京の国立新美術館で「ミンシャ展」が開催中です。アルフォンソ・ミンシャ(ムハ/1860-1939)がパリからチェコに戻り、第一次大戦前の1911年から16年間をかけて制作した「スラブ民族の歴史から主題を得た壮大な絵画の連作」である「スラブ叙事詩」が展示されているそうです(国立新美術館HP「ミンシャ展」)。

 コメンスキー学校が第一次世界大戦の勃発と総力戦の展開、そして帝政の崩壊、帝国を構成していた諸地域の独立国家の成立という激動のなかで苦闘していたのと時を同じくして、「スラブ叙事詩」は描かれていたのです。この20枚に及ぶ連作は、制作中途の1918年にチェコスロヴァキア共和国が成立したこともあって、ミンシャの意図とは違い「若い世代からは、保守的な伝統主義の産物だとのレッテルを貼られて」しまったりしました。また、第二次大戦後の共産党政権下でも不遇な運命をたどりますが、今はチェコの宝として、プラハ市立美術館に展示されています。

 

 前記のウィーンに立ち寄ったツアーのなかで、最後に訪れたプラハ観光の目玉の一つとして私は「スラブ叙事詩」に出会いました。あまりにも大作であり、歴史を知らない者として何をどう見たらいいのかわからずに、何が「すごいのか」もわからないままただ「すごいなあ」という感想だけが湧き上がってきました。パリのミンシャ作品のイメージとの落差にびっくりし、ミンシャ像の変容を迫られたように感じたことだけは覚えています。

 連作中に「民族の教師 ヤン・アモス・コメンスキー」があります。といっても私は記憶になく、写真も残ってないのですが、ミンシャは「スラブ叙事詩」の1枚としてコメニウスを民族の教師として描いているわけです。

  「原故郷のスラブ民族(部分)」スラブ叙事詩[2013(H25).7撮影、以下同じ]

  まっすぐにこちらを見つめる目は覚えています

  「東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン(部分)」スラブ叙事詩

  プラハ市民会館、1918年、この市民会館でチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言されました

  ミンシャは市民会館に天井画などを残しています

  ヴァーツラフ広場 長さ750m、横60mの細長い広場です

  1968年のプラハの春、1989年ビロード革命の舞台となりました

  「100万人の市民」が集まったといわれています

 

 今回、最終講義という形でコメンスキー学校の話を聞いていると、改めて教育の大切さに思い至ることになりました。現在の「森友学園」問題は、別の観点から教育の大切さを思い起こさせてくれるものです。

 宗教戦争という「狂気で残虐の迷宮」から抜け出すためにすべての人に教育を与えるという「学校教育」「普遍的な知識の共有化」を構想したコメニウスは、自らの名前を冠したコメンスキー学校の歴史に何を見ることになるでしょうか。そして、現在の世界を、現在の日本を見たら、何を感じ何を思うでしょうか。

 第二次世界大戦の反省から、少なくとも力の行使による紛争の解決を認めないことを前提とする国際組織である「国際連合」を、曲がりなりにも人類は作り出してきました。がしかし、もとよりこれを無効化する勢力がいつも存在していて、あるいは台頭してくる形勢を否定することはできません。今のような難民問題はヨーロッパという地域ではいつも繰り返されてきたのです。

 ニヒリズムの穴にこもりたくなります。絶対的な答えなど見えてきません。少なくとも世界中の人びとにたくさんの橋を架ける「教育」を再構築するための努力を否定してはなりません。歴史学をはじめとする人文科学はその先頭に立つべき学問領域なのだと私は確信しています。

 

 

2017.03.25 Saturday

トランプ を支持してしまう現代アメリカとはー『ルポ トランプ王国』ー

 トランプ支持者の顔というか、実像の一端にふれることができました。これまでは抽象的なレベルでトランプ支持者像を想像していましたが、今回、トランプに投票した全体の一部であるものの、コアな部分といっていい支持者たちのこれが一つの具体的な姿ではないかという実感をえたように思います。

 

 ニューヨーク駐在記者(朝日新聞)である金城隆一さんは大統領選前の約1年間をかけて14州で約150人のトランプ支持者を取材しました。その取材内容の一部は当然朝日新聞の記事としても配信されたのでしょうが、このたび単行本の形で『ルポ トランプ王国ーもう一つのアメリカを行く』(2017年2月3日刊/岩波新書)として刊行されたのです。この新書を読んで、私にはそんな実像が感じられたというわけです。

 これまでも報道されてきた一つの結論[都市部ではない地域のブルーカラーの白人中高年労働者に特にトランプ支持が根強いことなど]が裏付けられただけだということになりますが、それだけでなく金城さんを通していわば生身のトランプ支持者たちの声を聞くことができ、ライブでいっしょになって考えることができるところにこの新書の真骨頂があります。

 トランプとトランプを支持するアメリカを知りたいと考えておられる方にとっては、出色の一冊としてお薦めします。

 

 選挙の一年前、ニューヨークで取材しているかぎり、やけに人気だというトランプという変なおじさんは早晩失速するだろうとしか、金城さんには感じられませんでした。でもしかし、2015年11月にテキサス州のトランプ集会で知り合った米大手メディアのトランプ番記者から「キミはホントに何もわかっていないなあ」と言われことから、ニューヨークではわからない「もう一つのアメリカ」への取材を開始することになります。

 金城さんが取材したのは五大湖周辺の通称「ラストベルト(Rust Belt,さびついた工業地帯)」が中心です。大統領選の結果において、前回の大統領選で共和党候補(ロムニー)が負けて今回トランプが勝った州が6州ありますが、フロリダを除く5州(オハイオ、ペンシルベニア、ウィスコンシン、ミシガン、アイオワ)は全体もしくは部分がラストベルトに含まれているのです。つまり「ラストベルト」は選挙の結果を左右したことになります。

 このエリアはかつては鉄鋼業、自動車産業、そのための機械産業や石炭産業で栄え、今は衰退が著しいと伝えられる、まあ重厚長大な製造業が集積する工業地帯であったところです。このラストベルトの労働者たちは一般的に労働組合に属し、民主党を支持する傾向が強く(その地域で生まれると「民主党」が当たり前の世界だった)、民主党のカラーである「ブルー・ステーツ」と呼ばれることが多かったのです。そんなエリアで、今回、トランプはブルー・ステーツを共和党カラーの赤い色に染め上げ、当選をたぐり寄せることになりました。

 金城さんはニューヨークから比較的近いことやトランプ候補者が製造業の海外流出などを理由に自由貿易協定を強く批判していたこともあって、取材の焦点を「ラストベルト」にあてました。そんなラストベルトへ何回も足を運び、全くのアポなしを含め、取材で知り合いとなった同一人への複数回の取材等を本番選挙の直前まで続けたのです。

 このことによって同エリアの人びとが語る本当の声、本音を引き出そうとし、その結果をルポルタージュとしてまとめたのが、今回の本であり、金城さんの言い方だと「本書の特徴は、日本人の記者がトランプ支持者らと1年にわたってとことんつきあった点にある」ということになります。

 

 では、金城さんがインタビューしたのはどのような人なのか。ミニトランプのような人(これもよくわからない表現ですが、まあ侮蔑的な言動を繰り返す人というところか)ばかりなのか、そんなことはありえません。

 金城さんが取材した150人の職業等を列記すると、「トラック運転手、喫茶店員、電気技師、元製鉄所作業員、道路作業員、溶接工、食肉加工場作業員、ホテル客室清掃員、元国境警備兵、トレーラーハウス管理人、看護師、建設作業員、元家電製造ラインの従業員、郵便配達人ー」などです。そんな彼らのことを「地方で暮らす普通のアメリカ人ばかり。彼らとの会話を振り返ると、日々の暮らしのために必死で働いている人、働いてきた人が多いことに気付く」「多くが勤労者で、誠実で思いやりのある人々だった」と金城さんは述懐しています。

 少し結論に関わりますが、トランプ支持者への取材を通して、当初に予想した「貧困」というより、まだまだ豊かさを残した「ミドルクラス」が多いことに気付くとともに、総じていうと、このままでは貧困に転落しそうだという危機感を抱いていたとしています。すなわち今回の取材結果のキーワードは、今、当面する「貧困」というだけでなく「ミドルクラスからの滑落、脱落」への危機感ということになります。

 もとより個々人の事情は千差万別ですが、こうしたトランプ支持者たちが語った内容から受けとめた彼らの像を集約するように、金城さんは次のようにも記しています。

 「 まじめに働いてきたのに以前のような暮らしができない。子どもの頃に

  は家族そろって毎年旅行に出ていたのに、大人になった自分は月末にお金

  の心配ばかりで、長期休暇を楽しむこともできない。ミドルクラス(中流

  階級)から没落しそうだ。

   そんな不安や憤りは各地に広がっていた。憤りは党派性のものではな

  い。トランプ支持者には共和党員や元民主党員もいて、共通するのは「エ

  リート政治家がミドルクラスの暮らしを犠牲にした」という憤りだ。」

 そして、彼らの子供や孫たちはさらに厳しい現実に直面しそうだという不安と憤りなのです。何よりもラストベルトの数多くトランプ支持者へのインタビューを通じて、金城さんはそんな像を結び、トランプを支持する「もう一つのアメリカ」を発見していくのです。

 なお、本書では、民主党候補者として大旋風を起こしクリントンに肉迫したバーニー・サンダースについても1章を割いており、サンダースの支持者にもラストベルトのトランプ支持者と同質の不安と憤り、不満と怒りを見い出していることを付言しておきます。

 

 以下では、本書のアドバンテージというべきトランプ支持者の「生の声」(1章〜5章)を取り上げるときりのないことになりそうなので、本書を手に取っていただける方にゆだねることにしますが、導入部としてその一端を紹介するにとどめたいと思います。

 その上で、最終の第7章「アメリカン・ドリームの終焉」において、1年間にわたった取材を締めくくる金城さんなりの総括的な考察が「【A】なぜ、トランプ?」「【B】トランプ勝利が突き付けるもの」として加えられていますので、本稿ではこの章を中心に私なりに要約やコメントを試みることにします。

 この金城さんの考察はよく整理されたバランスのよいものです。したがって、「トランプを支持してしまう現代アメリカ」と、それと無関係ではありえない先進諸国、その一つでもある現代日本を考える際の見取り図になりうるものだと考えるからでもあります。

  ㊟当ブログで「トランプ現象」について書いた記事は次の2本です。

    ・2016.12.2「「トランプ」が当選した世界とある映画のこと

    ・2017.1.25「冬の歌、そして「いやな感じ」のこと 

  大統領選挙の州別結果(上は2016年分、下は2012年分)[本書]

  金城記者の取材先と地図 ヤングスタウンはァ[本書、ⅺ]

 

◈ラストベルトの象徴的な街ーヤングスタウンー

 オハイオ州のヤングスタウンはラストベルトを象徴する街だそうです。つまり繁栄と衰退との落差の大きい街、1950年代、鉄の生産量では同規模の街としては世界最大でマイホーム所有率も全米屈指であったが、現在は人口が約三分の一に減少、貧困率は全米の13.5%をはるかに上回る38%超という状況だということです。

 本書では2章「オレも、やっぱりトランプにしたよ」でヤングスタウンでの取材が報告されています。ここでは友人関係にある3人に絞って、彼らの言葉(金城さんが整理された言葉ではありますが)から拾ってみることにします。

 

 2015年の年末、冬休みを利用して、金城さんはニューヨークから700卆茲離筌鵐哀好織Ε鵑悒譽鵐織ーで7時間をかけてやってきます。取材のアポはありません。年が明けて元旦、街外れのダイナー(食堂)で食事をしていて、背後で楽しそうに会話している男性2人に頼んで仲間入りをさせてもらいました。もちろん「大統領選をどう見ているか」を聞くためです。

 退役軍人で家具職人のカート・エンスリー(53)とトレーラーハウス駐車場管理人のビクター・ヘルナンデス(49)です。

 両親がプエルトリコ移民で、民主党支持者として育ったビクターは、トランプのことを「好きになれない」とトランプに投票しないのは確かだといいつつも、1年も前にトランプ当選を予言していました。

 「 この国には不満をためこんだ人が多い。トランプにはカネがあり、普通

  の政治家と違って、特定の業界団体の献金をアテにせず、言いたいことが

  自由に言える。しかもその声がでかい。そもそも(テレビ番組に出演して

  いた)有名人だ。アメリカ人はそんな人間が好きだ。(中略)共和党予備選に

  勝つだけでなく、本当に大統領になる可能性がある。」

 これに対し、カートはビクターのトランプ否定に反論し、トランプ支持をはっきりと語ります。

 「 オレはビクターの意見に完全に反対だね。トランプを100%支持する。

  この国には企業経営者のマインドでかじ取りする指導者が必要だ。(中略)

  平気で借金を増やす大統領が続いている。それを止めないといけない。

  企業経営だって、借金ばかりじゃ倒産するだろ。彼には、企業と同じよ

  うにアメリカを経営してほしいね。」

 なお、カートとビクターの人となりに関わるエピソードとして、ダイナーで二人の話を整理してから、金城さんが冬休みで同行していた夫人の分を含め自分たちの食事代を精算しようとすると、先に出て行った彼ら二人が支払いを済ませてくれていたと記しています(取材でこうした面倒見のよい人に多く出会ったとのこと)。

 

 それから2ヵ月半後の2016年3月15日、オハイオ州では共和党予備選が行われ、州全体では現職州知事のケーシックが首位でトランプは2位だったのですが、ヤングスタウン(マホニング郡)ではトランプが圧勝していました。

 ビクターに電話をかけると、「オレ、やっぱりトランプに投票したよ」という驚くべき答えが返ってきました。たった2ヵ月の間に何があったのかと、金城さんはその理由を聞くために「ヤングスタウン」を再訪します。同じダイナーには、ビクターとカートの2人に、政治に詳しいという元保安官代理のデイビット・エイ(52)も加わっていました。ビクターはディビットの話を聞いてトランプへの評価を変えたと説明します。

 ディビットは民主党に「うんざり」した理由を次のように話します。

 「 若かった頃、民主党は勤労者を世話する政党だった。ところが10〜15年

  前ぐらいからか、民主党は勤労者から集めたカネを、本当に働けるのに働

  かない連中に配る政党に変わっていった。勘定を労働者に払わせる政党に

  なっていった。」

 では、どうしてトランプ支持になるのかという問いにデイビットは「経済的な不満・不安」と、それと関連する「フェアネス(公平さ)」を語ります。

 「 70年代以降、工場の仕事が海外へ流出し、収入が下がり、若者が街を去

  ることが当たり前になった。(中略)活気にあふれていた時代が、もう

  戻ってこないこともわかっている。だから、なんでこうなったのかという

  「不満」と、この街で生きていけるのかという「不安」が、この街には

  強い。」

 「フェアネス」に関し、「不法移民や働かない連中の生活費の勘定を払わされていること」にみんな気が付いていたが、余裕のある時代は放置していたけれど、今は放置できないところまできてしまったというのです。

 「 ところが収入が目に見えて落ち始め、もう元の暮らしには戻れないとわ

  かり始めたころ、多くのミドルクラスが「もう他人の勘定までは払えな

  い」と訴えるようになった。「もう十分だ」「フェア(公平)にやって

  くれ」との声が高まり、限界に達しようとしている時にトランプが登場し

  た。オレたちが思ってきたことを、一気に大統領選の中心テーマにしてく

  れた。それだけでもトランプに感謝している。」

 元旦にビクターが語っていた自分のカネで選挙運動しているトランプは「当選後、特定業界の言いなりになるような政治家とはわけが違う」と、デイビットも強調します。

 ビクターはディビットたちの話を聞いていてもっともだと思うようになったとし、次のように民主党支持からトランプ支持への転換(このことは「越境」と呼ばれている)を締めくくります。

 「 今でもトランプの偏見や憎悪をあおる言動は好きじゃないが、彼にはビ

  ジネスの才覚がある。1回、アウトサイダーにやらせてみるのも悪くない

  と思ったんだ。」

 

 ここにはラストベルトにおける、もとより同地域だけのことではありませんが、トランプ支持者が共有する経済・社会的な基盤への不満や不安、アメリカの政治権力者への不信(業界との癒着関係、エスタブリッシュメント批判)、ビジネスマン(企業経営者)であり政治家ではないアウトサイダーとしてのトランプへの期待等々がおおむね現れています。まあ「生の声」というには金城さんによる取捨選択がだいぶ働いているような気もしますが。

 ラストベルトでは民主党が日常風景となっていたわけですが、ある限界というか、ある臨界域を超えたことによって、トランプ支持へ一気になだれを打ったという様相を見て取ることができます。

 次項では、1年間をかけ、こうした取材を続けた金城さんによる「トランプ勝利の理由」の総括を見ておくことにしましょう。

 

◈なぜトランプは勝ったのか

 「なぜトランプは勝ったのか」という理由について、金城さんは「かつての特権的・例外的な地位から転落したアメリカ社会に鬱積する不満・不安」と「トランプ個人の資質」という2つに分類して分析を加えています。

 

 まず前者としては「ついえたアメリカン・ドリーム」「親の所得を超えられるアメリカ人は半分」「もはやミドルクラスではない」「広がる格差」との小見出しからも想定できるように、これを裏付ける統計的数字等によって、取材から得たものと突き合わせつつ、「アメリカ社会に鬱積する不満・不安」の基底を明らかにしています。

 金城さんの理解するアメリカン・ドリームは「出自がどうであれ、まじめに働いて、節約して暮らせば、親の世代より豊かな暮らしを手に入れられる。今日より明日の暮らしは良くなるという夢」ですが、ラストベルトでは死語になっていました。そこでは薬物中毒死も増えています。統計的にも、アメリカの白人中年の寿命は、他の先進国では医療の進歩もあってより長生きになっているのに対し、1999年以降短くなっているという衝撃的な数字が報告されています。

 親より裕福になる確率はどんどん低下しており、「今の30代半ばの世代」では半分程度となっています。さらに金城さんが注目しているのは、(所得)階層間の上昇、いわゆる階層間移動が南部やラストベルトで低くなっていることであり、いずれも「トランプ勝利を支えた州である」という事実です。

 前記したとおり、金城さんはラストベルトで出会った人びとから「アメリカン・ドリームは死んだ」という思い以上に、「自分はミドルクラス(中流階級)ではない」「中流から貧困層に滑り落ちそうだ」という嘆きを聞き取っていました。ミドルクラスの暮らしの象徴であった「両親を、子どもをバケーションに連れていけない」という声をよく聞いたとのことです。

 上流、中流、下流の所得世帯の「富」を比較した調査機関によると、2013年時点で、「上流世帯と中流世帯の中間値には約7倍の、上流世帯と下流世帯の中間値に至っては約70倍の差があり、いずれも連邦準備制度が統計を取り始めて以降の30年間で最大になった」、つまり格差は「拡大」を続けているというデータがあります。トランプ支持者らが「懐かしむ50年代と、60、70年代前半」は比較的格差が縮小した時代といえますが、それは例外であり「アメリカにおける富の集中は過去100年間、「U字型」に推移している」と指摘される状況にあるということになります。

 ラストベルトの取材から聞こえてきた「なぜ、自分はミドルクラスから脱落しそうになっているのか?」というアメリカの多数の人びとの疑問に、わかりやすい標的を示したのが、今回のトランプだったのではないかと、金城さんは強調しています。

 

 こうしたアメリカ社会のファンダメンタルズの変容、端的にはキーワードであるミドルクラスの不満・不安と憤り・怒り(滑落・脱落への危機感をもつ人びとを含めて幅広い)に対し、トランプは「自由貿易」と「不法移民(非合法移民、正式記録のない移民)」という2つの標的を設定したのです。

 そして、自由貿易と不法移民への批判を、「反エスタブリッシュメント(既得権者)」「反エリート」の感情に重ね合わせたところにトランプ戦略のポイントがあったと、つまり効果的であったと、金城さんはいうのです。アウトサイダーとしてのトランプは「庶民が自由貿易と不法移民の問題で苦しんでいるのにワシントンの政治家たちは傍観してきた」と、集会では憤りを煽ったというわけです。

 金城さんは、自由貿易協定(FTA)の締結国の方が締結していない国よりも貿易の伸びが大きいとか、1000万人超の不法移民も多くが所得税や社会保障税を払って就労している現実があることを指摘しています。選挙権を持たない不法移民を非難しても票が逃げることはありません。

 したがって、トランプの示した単純な解決策(「自由貿易協定からの離脱」「壁を造って不法移民の流入を防ぎ、国内にいる不法移民は強制送還」)によって、「庶民の暮らしが改善するかと言えば、多くの疑問が残る」と結論づけています。

  所得階層別の割合  [本書213]

  アメリカの富裕層の富の全体に占める割合 [本書215]

 

 後者である「トランプ個人の資質」の方ですが、金城さんは「大富豪で有名人のトランプが言ったからこそ支持された側面もある」と、まず指摘します。

 トランプの強みとは「暴言と傲慢なキャラクター」を前面に打ち出すとともに、その振る舞いも「人前では慌てない」「ステージではゆっくり歩く」など巧みだったとしています。こうした態度、振る舞いは多分に演出的であり、暴言を吐きつづけることで支持者は慣れていった、慣れてしまっていたのです。「長年のテレビ番組出演で鍛えた即興でのやりとりの能力に加え、いまさら何をいっても失言にならないという究極のリスク管理があった」というのですが、この「究極のリスク管理」という概念は注目される指摘です。

 アメリカと日本の文化的な落差もあるのか、大富豪が業界の献金なしに自己資金で選挙するから業界の言いなりにならないという論理はわかるようでわからないのですが、アメリカでは裕福であることは胸を張れることであり、ビジネスでの成功は尊敬の対象になるという社会的合意が前提としてあるからではないかと、そのことがトランプへの大きな期待の底流にあるのではないかと、金城さんは考えているようです。

 選挙戦を通じてビジネスにおける「顧客サービス」を徹底した戦略が、より多くの支持を集めることができた大きな要因であり、これを可能としたトランプの「究極のリスク管理」のもとで選挙戦を継続できたトランプの驚異の体力についても、金城さんは注目しています。

 当選後トランプを初めて取り上げた当ブログ(「「トランプ」が当選した世界とある映画のこと」)で、トランプを支持した人びとの心理あるいは現象を、社会学者である大澤真幸さんが彼の造語である<アイロニカル(皮肉的)な没入>という社会学用語で説明していることを紹介しましたが、「笑いや冗談の対象としている<大物>をいつのまにか信じ始める」という不思議な現象のことです。トランプの暴言や嘘も繰り返されることによって、次第に特別な存在として、「ああした人だから仕方がないが、彼ならやってくれる」という存在になっていったということなのでしょう。

 

 もとより得票数ではクリントンより280万票以上少なかったトランプですが、前記してきた社会的背景に個人の資質が加味された選挙戦略によって、ラストベルトを中心とする接戦州でクリントンを上回り、勝利をつかむことができたのです。

 なお、されどもとでもいうべきか、前項で紹介したヤングスタウン(オハイオ州マホニング郡)は、本選挙ではクリントンの52.5%に対し、トランプは46.8%でした。

 次項では、トランプ勝利がアメリカと世界に突き付けたものは何かについて、金城さんの総括を見ておくことにしましょう。 

 

◈トランプ勝利が突き付けるもの

 「トランプ勝利が突き付けるもの」について、現在只今、その渦中にあるわけですが、金城さんは「トランプ勝利は民主主義の失敗なのか」と「グローバル化が進む中で先進国のミドルクラスの暮らしがどうなるか」という2つの問いに分けて考察を進めています。

 

 金城さんは「民主主義は失敗したのか?この問いに答えることは難しい」との立場です。しかしながら同時に大変に憂慮すべき事態、危機的な予感を孕んでいる状況だとの認識です。

 まず有識者による2つの論考を要約し、民主主義の危機に対する警告を紹介しています。

 一つはレヴィッキー・ハーバート大教授のものであり、トランプは暴力、政敵の市民的自由、選出された政府の正当性への態度からすると、反民主主義的な政治家の誕生というべきだと診断しています。アメリカの政治システムに「暴走に一定の歯止め」をかける期待はあるものの、「いざ戦争や大規模テロなどが起きれば、権威主義的な傾向を持つ大統領がアメリカの民主主義を危機に陥れる可能性はある」との警告です。

 もう一つはラシンマン・英ケンブリッジ大教授のものであり、トランプ支持者たちはアメリカの政治制度への揺さぶりをトランプに期待し、「権威主義的な父親像を演じたトランプが「自分たちの暮らしをどん底に突き落とした数々の脅威から守ってくれると勘違いした」というのです。そして「台風が過ぎ去るのをしゃがみこんで待っている間に本当の危機が迫り、民主主義が終焉を迎える」という大変に厳しい警告です。

 

 こうした深刻な危機感を示す論考を踏まえつつ、金城さんは「敵意を動員したトランプ」「少数派の声の行方」「事実が重視されない風潮」という小見出しから想像できるように、選挙戦を通じてトランプが露呈した問題を再確認しています。

 有権者の声がルールに沿って反映したのであれば民主主義が機能した結果ともいえます。「今回の選挙では、権威主義的なトランプが、移民や難民、イスラム教徒らへの排外主義的な主張を繰り返した末に当選した」という点を忘れてはならないと、金城さんは注意を喚起しています。アメリカが大切にしてきた理念を語ろうとしないトランプがワシントンの政治家となり、権力をどう使うのか、深刻な懸念だというわけです。

 また、2012年の大統領選前にケニア生まれのオバマは大統領になる資格がないと主張する「パーサー運動」を展開したことや、選挙集会で先天性の関節拘縮症を患う記者の動作をまねたことなどの例からしても、トランプは深刻な問題を抱えた人物だと指摘しています。ライバル候補への敵意を煽るトランプの集会では支持者の間にも敵意が満ち溢れていたとし、その前提としてのアメリカ社会を次のとおり書いています。

 「 異なる人種、宗教、出身地の人々が憲法の下に集い、何とか共存してき

  たのがアメリカだ。もともと分断は深い。その断層には、常にエネルギー

  がたまっており、何らかの出来事を機に容易に憎悪、恐怖心となって噴き

  出す。」

 トランプはアメリカ社会に潜在する分断のフタを開け、つまり寝た子を起こし、それを広げたといえます。

 そして、当ブログ(「冬の歌、そして「いやな感じ」のこと」)でも紹介したとおりトランプは、平然とウソを繰り返すなど「事実へのこだわりを見せない」姿勢がはっきりしており、このような事実を軽視する風潮が「アメリカの民主主義に及ぼすダメージ」は計り知れないと警告しています。

 スマートフォンやタブレットをもつ人びとが急増する中、本人のツイッターやフェイスブックによる情報発信は「フィルターなしで有権者に瞬時に届く回路が整備」されていることになります。こうした時代だからこそ「怪物トランプ」が誕生したといえるのではないかと、金城さんは危惧しています。トランプに先導された事実認識を共有しない世界の広がりは伝染力が強く、民主主義へのダメージをさらに深めることにつながっているとの予測を否定できません。

 

 さて、トランプが支持者の期待に応えられず、支持者の不満が高まった時、最悪のシナリオは「新たな戦争ではないだろうか」「海外に仮想敵を作り出して憎悪を結集させ、「アメリカ最優先」を掲げて開戦しないだろうか」と、金城さんは懸念を表明しています。私もそう考えています。そこまでいかなくとも、「アメリカが主導してきた戦後秩序に自ら挑戦し、国際社会を混乱させることで影響力を行使しないか」心配だとしています。

 

 もう一つの問い「グローバル化が進む中で先進国のミドルクラスの暮らしがどうなるか」については、トランプの楽観的なメッセージに反して、「とても制御できないそうに見えないグローバル化」のコントロールがなかなか困難である以上、悲観的な予測が支配的だと指摘しています。

 先の<ヤングスタウン>つながりですが、2008年の大統領選で民主党候補者をクリントンと争ったオバマは北米自由貿易協定(NAFTA)について討論会で次のように発言していました。

 「 北米自由貿易協定(NAFTA)が間違いというのは、まったくその通り。ヒ

  ラリーが昨年、NAFTAは経済の成長をもたらすと発言したことを私は

  知っています」「(オハイオ州の街)ヤングスタウンを歩けば(略)、アメリ

  カの労働者に対して公平でない貿易協定のおかげで、経済的な打撃を受け

  た町を目の当たりにすることになるのです」

 「 私はNAFTA改定を試みるため、メキシコの大統領にすぐに電話を入れま

  す。(略)グローバル化がいつも固定した勝者と敗者を生むことが問題なの

  です。」

 表現の仕方は違いますがオバマではなくトランプの発言のようです。このように「グローバル化への対応は近年の大統領選の肝になっているのだ」と金城さんは指摘します。そしてというか、それにもかかわらずというか、大統領になったオバマはTPPを推進することになります。

 問題はアメリカでは民主党の路線変更によってグローバル化の犠牲になったと感じている層を代弁する有力な政党がなくなり、ラストベルトの人びとが民主党からトランプへ「越境」することになった大きな要因となりました。

 金城さんは、先進国で食べていける技能の高度化という現実(「スキルギャップ(技能の差)」)を指摘した上で、次のように断じます。

 「 「高校を卒業すればミドルクラスになれた」という時代は、もはや特定

  の時期に、特定の国に起きた奇跡だったと捉えた方が良さそうだ。「雇用

  を取り戻す」と言い切ったトランプが大統領になっても、かつてのような

  時代は戻ってこないだろう。」

 

 大統領選挙中にグローバル化の勝者と敗者を1枚の図で示したと話題になった通称「象グラフ」を紹介しています。世界各地における1988年から2008年までの実質所得の上昇率を、家計所得の低い方から並べたら、グラフは「右を向いて鼻を上げた象のような形になった」のです。

 すなわちグローバル化で所得が増えた「勝者」は、新興国の中流Aと世界の富裕層Cであり、「敗者」は先進国の中流層Bと象のしっぽにあたる貧困層であることを示しているというわけです。

 今回の米大統領選では「象グラフ」の「Bの人々の声が大きく響いた」といえますが、世界中の先進国にもBの人々がいるのであり、その不満・不安がどこに向かうのか、「異変」から目が離せないと、金城さんは書いています。

 この「象グラフ」の作成者であるミラノビッチは2016年の著書でオートメーションとグローバル化によって引き起こされる先進国のミドルクラスへの経済的な締め付けはまだ終わっていないとし、次のような悲観的な将来像を示したそうです。

 「 この締め付けは西側社会を2つのグループにさらに分断するだろう。頂

  点にいるとても成功した富裕層と、それ以外の、ロボットが代替できな

  い人間労働の分野で富裕層にサービスを提供する仕事に就く、圧倒的多数

  の人間の集まりである。」

 両グループの能力差は小さいからこそ家庭環境や運の影響がこれまで以上に大きく、ますます階層間移動は困難になっていくだろうと予測しており、金城さんは「ここまで来ると私には妥当性の判断もつかない」といささか健筆が戸惑い滞りがちになっています。

  「象グラフ」 [本書246]

 

◈ローティの予言

 なかなかミゼラブルな近未来しか浮かんでこないわけですが、ここで本書で私が最も関心を寄せた箇所を紹介します。

 それは、今は亡き哲学者のリチャード・ローティ(元スタンフォード大教授)が1999年の著書『アメリカ 未完のプロジェクト』で、トランプ当選につながる予言、警告をしていて、今回の選挙後、その一節がツイートで拡散し、注目を集めたというところです。

 少し長いですが、まずその一節なるものを本書から再引用してみます。

 「 労働組合の組合員たちと労働組合に加入していない未熟練労働者は、自

  国の政府が賃金の下落をくいとめようともせず、勤め口の海外流出をくい

  とめようともしていないことを遅かれ早かれ知るだろう。(略)ほぼ同時

  に、労働組合のメンバーと未熟練労働者は、郊外に住むホワイトカラー

  ー彼ら自身も削減されることをひどく恐れているーが、他の人々の社会保

  障手当を支給するために課税されたくないと思っていることを知るだろ

  う。

   その時点で何かが壊れるだろう。郊外に住むことのできない有権者は、

  その制度が破綻したと判断し、投票すべき有力者ー自分が選出されたら、

  独善的で狭量な官僚、狡猾な弁護士、高給取りの債券販売員、ポストモダ

  ニズムの教授などが支配することはもはやなくなると、郊外に住むことの

  できない有権者に進んで確信させようとする者ーを捜し始めるだろう。

  (略)

   起こりそうなこと、それはこの40年間に黒人アメリカ人、褐色アメリカ

  人、同性愛者が得た利益など帳消しになるだろうということである。女性

  に対する冗談めかした軽蔑の発言が再び流行するだろう。(略)教育を受け

  ていないアメリカ人が自分の取るべき態度を大学の卒業生に指図されるこ

  とに対して感じるあらゆる憤りは、はけ口を見出すことになるだろう。」

  ◆「有力者」の原文はストロングマンで、脅迫や暴力で統治する指導者というニュアンス

    がある。選挙期間中はトランプに多用されたほか、ロシアのプーチン大統領にもよく

    使われている。

 ローティは同書の中でアメリカの左派知識人が目の前の労働問題から目をそらしてきたと痛烈に批判しており、民主党についても70年代にミドルクラスの理想が行き詰まっているというのに、「労働組合から遠ざかり、富の再配分を話題にしなくなり、「中道」と呼ばれる不毛の真空地帯に移ることにより生き延びてきた」と批判しているのだそうです。

 金城さんは、その上でローティが訴えていることの肝を、次のように理解しています。

 「 ローティは仮に国家が時代遅れに見えても、依然として社会保障制度の

  運営を決めている存在だから、左派は「苦しみに耐えている現実の人々が

  住んでいる現実の国の法律を変える提案」や「市場経済の枠組みの中で一

  つ一つ改良していく仕事」に戻るべきだと、訴えている。」

 かくして20年近くも前のローティの警告は現実のものとなりましたが、その訴えの部分は時代遅れとして打ち捨てておいてよいものなのだろうか。重い問いだと考えます。

 

◈おわりに

 いつもに増して本書の内容紹介に拘泥してしまい、いたずらに長くなってしまいました。

 トランプ現象からトランプ当選、そしてトランプ政権の始動と、こんな遠くから横目で見てきた者とにとって、金城記者の取材記録と総括は、わが国にとっても対岸の火事と放擲できるものではないと強く意識させるものであったからかもしれません。私自身のためにノートしたことになってしまいました。

 

 悲観的な見通しと危機的な予感に覆われてしまいそうでたまりません。

 金城さんがインタビューした本書に登場する人びとの善悪を越えた生きる姿勢に対する敬意を抱きつつ、国家、政治という局面での破壊的な何かの予兆に胸塞がる思いがするというのが、私の正直な感想です。

 現代世界の変化に、構造的なものがあることをもっと意識してこれからのことを考える必要があります。昨年話題となったピケティが超長期の税務資料等を分析した見立てによると「資本主義では歴史的に所得分配の格差が拡大する傾向があり、それは今後も続くだろう」「ほとんどの時期で不平等は拡大しており、戦後の平等化した時期は例外だった」との結論でした。本書が描いたアメリカの戦後はピケティの見立てと重なっています。

 これが現実としたら、さて我々はどう生きていくべきなのでしょうか。国家、政治の局面では、不平等を拡大する趨勢に対し、どのような方策、政策が重要になってくるのか。グローバル化と分配の改善はトレードオフの関係でしかないのか。根幹には株式会社制度の欠陥があるのであって、それに代替する仕組みはありうるのか。多生産多消費の構造、アメリカのような暮らし方、それは日本も近いわけですが、これを変える方途はありうるのか。

 こんな歯の立たない問いが渦巻いて、ただ混乱しているだけになりそうです。その意味では、ローティの訴えに地道に戻ることが出発点ではないかと、私自身は考えています。

 

 当ブログの「ちょっとサイクリング」で少しだけ紹介した井出英策慶大教授は、ポピュリズムの兆候を前に、分断に抗する社会的利害関係の基本を「だれもが受益者になり、だれもが負担者になるなかで、あらたな利害関係、あらたな社会契約を、僕たちのなかに作り出すことだ」と主張されています。

 直近のブログ「シンプルなものをもっとシンプルに生きる」を読んで、そしてそこに貼り付けられたユー・チューブで民進党大会におけるスピーチを聴いて久方ぶりに動揺しました。党勢が凋落している民進党の「尊厳ある生活保障総合調査会」のアドバイザーをあえて引き受けたこと、学者として20年研究してきた哲学や思想を注ぎ込もうとしていること、今なすべきこととは何かなど、井出さんらしい冷静かつ熱い言葉が語られています。

 上記のブログでは財政研究者から大きく一歩踏み出し、今発言しなければならないと決心した基本姿勢を次のように表明しています。

 「 傍観者になってしまえば、この生きづらい社会を子どもたちに放り出す

  罪を犯す「歴史の加害者」となる。そういう危機感がある。だからこそ、

  大好きな研究を犠牲にしても、明らかに学者の領分を踏み越えてしまって

  も、それでも僕は発言しようと決めた。自民党の好き嫌いじゃない、国民

  のもうひとつの選択肢をつくるために頑張ろうと決めた。」 

 井出教授の「受益と負担の関係の作り直し、社会契約の作り直し」という思想は、「ミドルクラスの再創出」構想だといえますし、前記のローティの訴えとも通底しているものと私には理解できました。現在の政党の枠を超えて、新たな潮流となっていくことを願っています。

 下記に当該スピーチを貼り付けますので、お聞きいただければうれしいです。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=fE0jOpOA9IU&feature=share

 

  大統領選のCNN出口調査の結果(概要)  [本書264、265]

 

 

2017.03.15 Wednesday

近づく春に、ティツィアーノ

 近づく春をティツィアーノに感じました。先日(2月28日)、NHKEテレの「日曜美術館」で再放送の<ティツィアーノ>をぼんやりと見ていて、ティツィアーノはやっぱり春のイメージだなあと思ったのです。明日から3月というタイミングだったので、そう思っただけのことかもしれません。

 現在、東京都美術館でNHKがプロモーターとなって「ティツィアーノとヴェネツィア派展」が開催中(2017年1月21日〜4月2日)で、そんな関係もあって再放送になったというのは穿ちすぎなのでしょうか。この展覧会にはティツィアーノの作品が7点出品されているそうです。展覧会の監修者であるジョヴァンニ・C.F.ヴィッラ[ベルガモ大学教授]のメッセージには「ヴェネツィアの「彩色(コロリーレ)」とは、いわば色彩で音楽を奏でる芸術であり、色によって調和を作り出すことで」あり、ティツィアーノと黄金期のヴェネツィア派はそれを体現しているのだとありました。

 

 「日曜美術館」のテーマは「ティツィアーノ ヴェネツィア 欲望の色彩」です。ウフィツィ美術館蔵の「フローラ」を前に、司会の二人のいつもの大げさな感動表現から番組は始まりました。「欲望の色彩」とはまことにどうもという題名で、アンドロイド研究で著名な石黒大阪大教授ですとか、CGアーテイストのTELYUKAとか登場し、ティツィアーノの人物画、裸体画の深部に迫ろうという趣旨だったようです。TELYUKAはティツィアーノの「肌の質感」に注目していましたし、石黒教授は目や手など人体の「無意識に行っている微妙な動き」(アンドロイド制作において大事な要素だそうです)をティツィアーノが表現できていることに驚嘆していました。

 「欲望の色彩」はあまりにも一面というしかありませんが、ヴェネツィア・ルネサンスを代表する画家であるティツィアーノ(1488/90-1576)は、明るく豊かな色彩の輝きとヴォリュ―ムのある自由な動きの感じられる人体表現、それは華やかさ、伸びやかさ、温かさ、柔らかさという向日的な世界をみちびき、私に近づく春のイメージをもたらしたのでしょう。

 

 一昨年と昨年のイタリア旅行においても、ティツィアーノの絵画と出会っています。

 それまでもウフィツィ美術館やアカデミア美術館でも見ていたはずなのに画家名の記憶しかありません。駆け足ツアーのガイドさんはそれこそボッチチェリの「春(プリマヴェーラ)」には案内してくれましたが、「フローラ」には連れていかなかったのではないでしょうか。なにせミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ラファエロのルネサンス三天才が私たち年代の教科書であり、限られたガイド時間では優先事項だったにちがいありません。

 ここでは、私のカメラに残っていたティツィアーノの映像を、ナポリのガラスにさえぎられた写真は映像と呼べるものではありませんが、雑談風に紹介してみることにします。

 

 一昨年の旅の最終日(2015.5.21)、午前中しか動けないヴェツィアでサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂を訪ねたのは、ホテルから近くて、サン・ロッコ同信会館とセットで見学できそうだったからです。

  サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂

 

 サン・マルコ大聖堂に次いで大きいといわれる長い名前のフラーリ聖堂は、有名な芸術作品がたくさんあったことを後で知りましたが、とにかくティツィアーノ「聖母被昇天」のために会堂があるかのような内部空間でした。中央の祭壇の一番奥にこのティツィアーノの絵画があって、広い会堂内に足を踏み入れると、そこへ向かって直進していくしかないような構造になっています。

 「聖母被昇天」はティツィアーノの20代の作品で初期の代表作です。その大きさのためもありますし、この聖堂内での特別扱い感もありましたので、祭壇のうしろの窓から柔らかい光がさしこむ環境におかれた「聖母被昇天」の静かなる輝きと赤い衣の美しい色調がとても印象的でした。この絵によってティツィアーノはローマ以北でもっとも傑出した画家の一人という評価が定着し、ヴェネツィアを超えるイタリアの大人気画家となったと言われています。

 と書きつつも、聖堂を訪れた時間が早かったためか、ほぼ私たちしかいない聖堂内で大きな音を立てていた電気掃除機の記憶が何より残っていたりするのですが。

 

 フラーリ聖堂の次にサン・ロッコ同信会館にも回りましたが、ティントレットの絵画が天井、壁面を埋めつくしていました。外光が入りにくくとても暗い室内空間だったということもあったかもしれませんが、これでもかという大仰な表現に鼻白んだと告白しておきましょう。私にはティツィアーノのような描く喜びをそこに感じることができませんでした。

 当たり前のことですが、祭壇画である「聖母被昇天」は今回の展覧会には出展されていません。「日曜美術館」には「日美旅」というサイトがあって、その「第38回 ヴェネツィアへ ティツィアーノ旅」でフラーリ聖堂の「聖母被昇天」が紹介されていますので、そちらをご覧いたただければと思います。  

  ティツィアーノ「聖母被昇天」1516-17

  祭壇中央の一番奥に「聖母被昇天」はあります 祭壇前では電気掃除機をかけています

 

 昨年のナポリ(2016.4.9)では、カポディモンチ美術館で多くのティツィアーノの作品と出会いました。当ブログでも同美術館を訪ねたときのことを書いています(「曇りのち晴れ・ナポリ(その1)−シチリア・ナポリ紀行(5)」)が、途中からいわば名画の宝庫で満腹してしまい不感症になっていました。というより見疲れて集中できずにいた私でしたが、ティツィアーノは印象に残っています。偶然かもしれませんが、私が一番多くシャッターを切ったのがティツィアーノの作品でした。

 

 どういうことなのでしょう。ローマ教皇バウルス3世、こんな写真ではわかりませんが、宗教家ではなく政治家のようなただならぬ風貌の肖像画に呆れたということがあります。当時は今以上にいわゆる世俗の権力者でもあったのでしょう。この注文を受けた肖像画にみられる人間性という複雑怪奇なものの表現(ティツィアーノがそうしたかったとは限りませんが)にまあびっくりしたのです。写真のない時代に一瞥二瞥で人物の性格を把握してそれを表現できるというティツィアーノの天才性に驚嘆しました。

 それにエロス、官能性がとかく強調されるティツィアーノですが、「ある少女の肖像」にはちょっとそれとは違う美を見つけてほっと魅せられもしました。愛すべき存在をいつくしむように描くというティツィアーノの喜びが、私には伝わってきたのです。どちらかといえば「ダナエ」や「マグダラのマリア」のような絵を描いた画家としてイメージしていたティツィアーノがそれだけでない天才画家として修正のうえで再入力されたのです。

 下記の5点の映像中、「教皇バウルス3世の肖像」「ダナエ」「マグダラのマリア」の3点が海を渡り今回の展覧会に出展されています。この展示期間にティツィアーノを見たいと思ってカポディモンチ美術館に出かけた人は、私がパルジャミーノやカラヴァッジョが貸し出されていてがっくりしたように、えっこれ何よ、どこへ行ってるのになっていることでしょうね。

  ティツィアーノ「教皇バウルス3世の肖像」1543年 [カポディモンチ美術館 以下同じ]

  ティツィアーノ「パウルス3世とその孫たち」1546年頃

  ティツィアーノ「ダナエ」1544-46頃

  ティツィアーノ「ある少女の肖像」1545年頃

  ティツィアーノ「マグダラのマリア」1567年

 

 ネット情報の受け売りを付け加えておきますと、一筋縄ではいきそうにないおじいさん、教皇パウルス3世(1468-1549/教皇在任1534-1549)は、プロテスタント運動の高まりの中で対話の働きかけとか、ローマ教会の教会改革(イエズス会の承認)や公会議の召集に力を尽くした人物であったようです。

 「教皇パウルス3世の肖像」は神聖ローマ帝国のカール5世に会うためにボローニャを訪れた際に描かれたとされており、教皇はカール5世との会談に際してこの肖像画を飾っていたとも伝えられています。それ以前から、ティツィアーノはカール5世の肖像画も描いているのですが。

 もう1枚の「パウルス3世と孫たち」の方はローマで描かれたものですが、孫二人を枢機卿に任命したりの身内びいきの教皇の老いのうさん臭さが現れているみたいでもあり、ティツィアーノはこんな露骨な絵を教皇が受け取ることはないと考えたようです。それでこの絵は未完成のまま放棄されたそうで、二人の間に何があったのか、今でもはっきりしたことが分からないとのことです。

 ティツィアーノは長命であり、その後も多くの傑作を生みだしますが、友に先立たれ、「年齢とともにますます内省的で止まるところを知らない完全主義者」になったと言われています。1576年にペストで死去し、フラーリ聖堂の「聖母被昇天」のそばに埋葬されました。

 ティツィアーノを失ったヴェネツィアは1575年から1577年にかけて「恐るべきペストの流行によって荒廃してしまい、町の4分の1ないし3分の1にあたる5万人が亡くなった」という大変な災厄の時期でありました(当ブログ「水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(5)ー」)。

 

 さて、神戸の中心市街を急ぎ足で歩いて、近づく春を探そうとしました。いつものように何も見えていないのでしょうが、下記の映像が残りました。

 説明不要の映像ばかりですが、元町通のアーケードにバナーとして掲げられている海の女王「クイーン・エリザベス」が一昨日(3月13日)神戸港へ入港したと報道されていました。神戸港発着で7泊8日の旅程で鹿児島、韓国・釜山、広島、高知を巡るようです。

 元町通を歩くと、60、70歳代の白人の夫婦連れが多く、ちょっと不安そうな足取りのカップルを見かけたりもしました。「クイーン・エリザベス」のクルーズ客らしくて、健康寿命に自覚的なあるいは無意識に感じている人たちのようにお見受けしました。

 気温の上下動の大きい不順な季節ではありますが、近づく春を感じながらゆっくりと歩きたいものです。

  さんちかタウンのスプリング・ポスターです

  元町通の3代目「クイーン・エリザベス」のバナーです

  マーガレット・ハウエルのショーウインドーです

  お菓子も「櫻」色になります

2017.03.13 Monday

くもりガラスと『スモーク』と

 先日、かつて職場を同じくしていた者の集まる機会がありました。今月末で定年退職される方を囲んでの集まりです。当ブログ2017.2.24付け「準備体操としての「私の上海体験」」に書いた職場の親睦会旅行で上海へ出かけたときのメンバーとほぼ重なっています。

 その記事では親睦会の上海旅行を「2001(H13)年」としていましたが、誤りであり「2002(H14)年」のことであったとの指摘がありました。すぐにブログを訂正させてもらいました。

 

 私は「2001(H13)年」を記憶云々というまでもなく事実として確信していたのです。「記憶」というものの、つかみどころのなさ、危うさは思い知っているはずなのに、相変わらずということになります。まあ第三者である彼らに確認しておけばよかったということになりますが、それはそれでちょっと大げさになりすぎます。

 この年齢になってブログに何か書こうとすると、「記憶」が人間の生の根幹にあるということを意識します。自分のことを書くことは「記憶」と出会うことでもあります。「記憶」といっても<いい記憶>から<悪い記憶>までその性格は様々ではありますが、現在のささやかな生を成り立たせている根っ子とのつながりを意識することが多いということです。

 「記憶」を言葉にするとき一種の「物語」を作ろうとしているのかなあと思うこともあります。断片である「記憶」をつなぎあわせて、あのときとは、あのような時期とはとの問いに対し、言葉によってストーリーとまでいかなくとも、少なくとも話の脈絡を与えようとしているみたいです。それを行う主体は、現在の私ということになりますので、記憶の再構成は自己正当化を含め複雑な作用を通過せざるをえません。

 今回の旅行時期についての誤りは「記憶」というほどのものではありませんが、当該ブログで記したたわいももない上海での出来事や感想にしても、現在の私によって私の「記憶」の中から再構成されたものというほかないのです。

 

 「記憶」は私たちの生を苦しめていることもありますが、支えていることも自明だと考えています。村上春樹さんが音楽的体験を例として、それぞれの人生において個人的体験が温かい記憶となって残っており「僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている」と書いていることに同意します。続く「もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまで寒々しいものになっているはずだ」にも、おそらく誰しも自分の生を覗いてみると、そうなっているのではないでしょうか(当ブログ2017.2.28「手がかりとしてー「音楽」と「言葉」の関係ー」の末尾部分)。

 職場を同じくした者同士の記憶はもとより単純ではないはずですが、時を経て、時の魔力を透過して、こうして集まるのは少しはそうした「温かい記憶」の断片を部分的に共有していることと関係があるのかもしれません。

 

 言い方を変えれば、くもりガラスの向こうに「記憶」は点在していて、見えるようで見えないようでそんなものかもしれないと思ったりします。くもりガラスは「私」の手が届かない外側がくもっているのですから、いくら内側を拭いても拭いても、結局のところ「記憶」は簡単に見えてくるものではないということもできます。

 「記憶」とはスモーキーな世界に点在するように潜んでいて、これが見えてくるのは、これをよみがえらせるのは偶然の作用ももちろんありますが、何か不可思議な力の作用がなくてはならないように感じています。

 

 『スモーク』(ウェイン・ワン監督1995年作品/ポール・オースター脚本/1995(H7)年10月日本公開)という映画のデジタルリマスター版を元町映画館で見ました。

 この映画は阪神・淡路大震災が発生した1995(H7)年10月に日本で初公開されていて、私はあまり時日を開けることなく見ています。それこそ頼りない記憶の私が確信めいた言葉づかいができるのは、当ブログ『思泳雑記』の前身といっていいワープロ・コピー作成の『思泳通信』で「オースターのサムシング」として『スモーク』の感想を書いているからです。

 今回は最初に見たときのいい映画だったなあとの記憶があって、ちょうど新デジタル・リマスター版の放映の機会に再見したというわけです。

 1990年、ニューヨークのブルックリンが舞台、その街角でタバコ屋(葉巻屋)を営むオーギー・レンと近くに住む書けない作家のポール・ベンジャミンの奇妙な友情関係を柱とする群像劇です。すっかり細部は忘れていましたが、今回もダークでレイジーでポップでと言いたくなる、改めて「いい味」を醸し出している映画だと感じました。

 最初観たときには自分と同世代である男たちの物語であったものが22年の年月を経てその距離が変化したという面はありますが、もう一度見るかいと言われても、また見てもいいですよと即答したい映画です。

 

 1996(H8)年3月作成の『思泳通信』に掲載した「オースターのサムシング」の冒頭部分をそのまま引用しておきます。今なら書けないようなことも書いているような気もしますので。

 「 何とも表現しにくい味のある作品。<滋味>なんて言葉を使いたいが少

  し違う。この映画にはサムシングがある。それは何だろう。きっとポール

  ・オースターの脚本ではないか。彼の短編小説「オーギー・レンのクリス

  マス・ストーリー」を作家自らが脚色したとのこと。別に抽象難解な言葉

  があるわけでも、別に奇想天外な話があるわけでもない。だが、全編を流

  れる不思議さ(決して不気味ではない)の感覚、ひとつひとつはリアルだが

  どこか説明できていないような何か。やはりオースターの文体がこの映画

  の雰囲気を決めているのだ。これは現代の寓話、おとぎ話かもしれない(映

  画なんてみんなそうだ)。スモークとは文字どおり<煙り>のことのようで

  ある。オースターはこういいたいのだろうか。いつのまにか真実の近くに

  来ていることがある。しかし、真実は煙りのように不確かなたよりないも

  のだ。発見できなければ、煙りのように消えてなくなってしまう。」

 「オースターの文体」などという他人に説明できないことを書いてはいますが、当時はポール・オースターの小説を柴田元幸訳でよく読んでいたのでこんな書き方になったのではないかと思います。今はオースターをほとんど読んでいないのですが、オースターの脚本だからということもあるのか、この映画の印象に底にあるのは良質な短編小説を読んだときの味わい、肌ざわりに近いものです。

 

 ちょっと話がそれますが、映画におけるフィルム版とデジタル・リマスター版の差異は、当たり前のことですが、録音音楽の再生におけるレコードとCDの関係に近いように感じます。前者は視覚と聴覚、後者は聴覚そのものですが、その差異は両方ともどちらかといえば味覚や触覚で表現されるにふさわしいのではないでしょうか。あくまで一般論ですが、<テイスト>とか<手ざわり>によって受容する感覚の差異、強引に漢字をあてはめると、柔と硬、温と冷、鈍と鋭、緩と固、粗と滑などの違いがあるように思うのです。

 だから、『スモーク』のような味わいの映画は、ちょっと説明不足、説明抜きですが、フィルム版に適しているのでしょう。もとよりフィルムの劣化、長期保存などのことを考えれば、さらに人間の感覚に寄り添うデジタル技術の改良もありそうなので、デジタル化は致し方のないことなのでしょうが。

  パンフレットの表紙 角の店名は「Brooklin CIGAR CO.」とあります

  オーギー・レンの店の常連たちです タバコをくわえているのがオーギー・レンです

 

 いい映画はネタばれされてから見てもいい映画であることに変わりはないというのが、大層ですが、私の映画のいい、よくないのメルクマールみたいなものです。ここでは、この映画の元ネタになったポール・オースターの「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」という短編小説にだけは少しふれておくことにします。

 ニューヨーク・タイムズからクリスマス・ストーリーの執筆を依頼された私(ポール・ベンジャミン)は甘ったるい話など書けそうになく、オーギー・レンに悩みを打ち明けると、昼飯のおごりと引き換えに「最高のクリスマス・ストーリーを聞かせてやるよ」ということになります。

 その伏線として知り合って11年になるオーギー・レンの人物像がまず「天気やメッツやワシントンの政治家連中をネタに何かと気のきいたことを言う、頭の回転の速い、茶目っ気のある気のきいた男である」と提示されます。でも何年か前のある日、過去12年間以上にわたって、毎日欠かさず、朝7時に店の前のまったく同じ場所から同じアングルで一枚ずつカラー写真を撮りつづけ、すでに二千枚以上に達していることを知ります。こんな膨大な数の写真を整理した十二冊のアルバムをオーギーから言われたとおり一枚一枚ゆっくりとみていくと、「私」には「オーギーは時間を撮っているのだ」ことが分かってきました。

 そんなオーギーの話したクリスマス・ストーリー、店で万引きをした少年が逃げたさいに落とした財布、この金は入っておらず2、3枚の写真だけが入っていた財布をひょんなことからクリスマスに届けにいきます。そのアパートに着くと、少年はいなくて、そこにいた盲目のお婆さんは孫がクリスマスの日に<エセル祖母さん>を訪ねてくれたと、ドアのところでひしとオーギーを抱きしめる場面から始まります。行きがかりのように、オーギーは孫として、クリスマスの一日を彼女と付き合ったという話です。夜になって、少しのワインで眠ってしまった婆さんを残して、孫の財布をテーブルにおいて、トイレに積み上げられていたカメラの一箱を抱えてアパートを出ました。

 三か月か四か月してから、アパートを訪れてみると、もう別の人間が引っ越してきていて婆さんはそこにはいなかったのです。

 

 大要、こんなストーリーなのですが、村上春樹、柴田元幸著の『翻訳夜話』(2000(H12)年10月刊/文春新書)には、この「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」の翻訳文が大元の柴田元幸の訳に加え、村上春樹による新訳が掲載されています。二人の訳を若い翻訳者たちといっしょに、そのニュアンスの異同を考えてみようという趣向です。

 ここでは、オーギーのクリスマス・ストーリーを聞いて、「私」とオーギーが行う会話の部分を並べて引用してみることにします。『スモーク』という映画にとって意味はありませんが、ちょっと何か感じて楽しんでもらえたらということです。

 まず、柴田元幸の訳です。

 「「ということはその婆さんは、最後のクリスマスをあんたと一緒に過ごし

  たわけだ」

  「てことになるんだろうな。そんなふうに考えたことはなかったけど」

  「いいことをしたじゃないか、オーギー。あんたは婆さんに、すごくいい

  ことをしてやったんだよ」

  「俺は婆さんに嘘をついた、俺は婆さんのところにあったカメラを盗ん

  だ。そんなののどこがいいことかね」

  「婆さんに楽しい思いをさせてやったじゃないか。だいいち、カメラはも

  ともと盗品だったんだろう。向こうだって、本当の持ち主というわけじゃ

  なし」」

 一方の村上春樹の訳です。

 「「そうすると、彼女は最後のクリスマスを君と過ごしたということになる

  ね」

  「そうなるな。そんなふうに考えたことはなかったけど」

  「それは善き行ないだよ、オーギー。君は善いことをしたんだ」

  「俺はばあさんに嘘をついて、それから彼女のものを盗んだ。どうして

  それを善き行ないと呼べるんだい?」

  「彼女を幸福な気持ちにした。それにカメラはどうせ盗品だった。盗んだ

  相手は正当な所有者ではなかったということになる」」

 柴田訳の「すごくいいこと」「楽しい思い」に対し、村上訳は「善き行ない」「幸福な気持ち」です

 

 そして、そのカメラ、映画ではキャノンAE1の箱ですが、そのカメラでもって12年以上続く毎朝の写真がオーギーによって撮影されてきたという落ちになります。

 このアパートの場面は映画の最後にモノクロームで回想シーンとして流れます。そこにトム・ウェイツの「Innocent When You Dream」がかぶさってきて、うむいい映画でしたとなりました。

  オーギー・レンが盲目のおばあさんに抱きしめられたシーンです

 

 このオーギー・レンにとって大切な「記憶」というべきクリスマス・ストーリーをオーギーが話し終えたあとの小説の部分が私にとってちょっと謎がありますので、どちらかといえば受けとめやすそうな村上訳の方をまず引用してみます。

 「 僕は一呼吸置いて、彼の顔いっぱいにいたずらっぽい笑みが広がってい

  く様子を仔細に眺めていた。もちろん断言できない。(中略)そのときに

  はっと思ったのだ。これはみんな彼の作り話じゃなかったのかと。もう少

  しで僕は面と向かって尋ねてみるところだった。おいおい、まさか僕をか

  ついでいるんじゃないよねと。でも尋ねたところで、この男が真実を打ち

  明けるわけがない。

 そしてこう続けます。

 「 だいだい僕はそれまですっかり真に受けて話に聞き入っていたわけだ

  し、大事なところはそこのところなのだ。信じる相手が一人でもいるかぎ

  り、どんな話だって真実になる。」

 この三行は、柴田訳ではこうなっています。

 「 まんまと罠にはまった私が、彼の話を信じたー大切なのはそのことだけ

  だ。誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはし

  ないのだ。

 二人の訳を同じ意味と受けとめられましたか。私には結論部分、本当の話であろうが作り話であろうが信じる人間がいたら本当の話、真実の話になるという逆説は同じことだと思いました。しかし、その前段において柴田さんの訳では「まんまと罠にはまった」と断定されており、つまり作り話であったと断定しているように読めるのに対し、村上さんの訳では断定までいかずに真偽を不問に付しているように私には読めるということなのです。

 いかがでしょうか。「すっかり真に受けて話に聞き入っていた」という村上訳でもオーギーのクリスマス・ストーリーは作り話だということになるのでしょうか。今の私には分からないままで投げ出しておくことしかできません。

 すべての話が本当の話でなくてもその断片は本当の話、すなわちオーギーの「記憶」から直接形をなしたところもあったのだと、私は理解したいのです。

 

 こう書いてくると、「記憶」というものはいよいよ謎めいているようにも思えてきました。スモーキーな世界に閉じ込められていた「記憶」が何かのきっかけで私たちの前に出現してきたとして、その真実は奈辺にあるのでしょうか。先に『思泳通信』から引用した最後の部分は「真実とは煙りのように不確かでたよりないものだ。発見できなければ、煙りのように消えてなくなってしまう」と書いていますが、「記憶」の「真実」とはそのようなものだといえるのかもしれません。まあそんなところも「記憶」の「記憶」たる由縁ということになるともいえます。

 これからもくもりガラスの向こうにある「記憶」に<不可思議な力の作用>を通じて出会うことをおそれつつも期待することにいたしましょう。 

2017.03.07 Tuesday

『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノート(1)ー

 堀田善衞(1918-98)のこと、そして上海のことを書いてみることにしたのは、<古本とジャズ 口笛文庫>で『堀田善衞 上海日記 滬上天下一九四五』(紅野謙介編/2008年11月刊/集英社)を手に入れたことがきっかけです。

 この『上海日記』は堀田が亡くなって10年近く経った2007年と翌2008年に上海時代のノートが三冊新発見され、これをベースとしてすぐに出版されたものです。堀田が上海に滞在したのは、敗戦直前の1945年3月24日から翌1946年12月29日までの1年7ヵ月のことです。本の帯には「1945年上海、敗戦の混乱を克明に記す27歳の青年は何を見、何を考え、どう生きたか。「乱世」を見つめ続けた作家、堀田善衞の思索の原点。」とあります。

 

 <上海>時代がテーマとなった堀田の本には1959(S34)に初版された『上海にて』(私の手元の本は1989(H1)年6月刊/筑摩叢書です)があって、平成になってから私は読んだようなのですが、やっぱり堀田善衞だとの強い印象が残っています。今回の『上海日記』を読むと、「準備体操としての「私の上海体験」」においてもふれたとおり、そこに記されたことが10余年後の『上海にて』のテーマやプロットになっていることがよくわかります。

 でも、両書の差異や関係を中心に論じるというより、どちらかといえば、両書からトータルにあふれ出す「堀田善衞にとっての上海」につき、記憶にとどめておきたいことを中心に書いてみる、というよりノートしておくことにしたというわけです。

 なお、両書を補強する意味からも、70歳を超えた堀田さんが語りおろしたコンパクトな自伝的回想録である『めぐりあいし人びと』(1993年1月刊/集英社)の助けを借りることにします。

 

 以上の三冊の本が執筆されたのは、前記のとおり19ヵ月に及ぶ敗戦直前の1945年3月から敗戦後の1946年12月までの滞在中に書かれた『上海日記』、そしてそれから11年を経た1957年の上海再訪をきっかけに書かれた『上海にて』、さらにそれから30年以上も経た1991-92年に出版社のPR誌へ連載された『めぐりあいし人びと』、という時間関係になります。

 戦中戦後の混乱する中国上海、乱世というべき上海をそのただ中で見つめ、そして考えた堀田さんにとって、上海時代の経験は前記したとおり<思索の原点>であったと申し上げることができます。

  『堀田善衞 上海日記 滬上天下一九四五』紅野謙介編(2008年11月刊/集英社)

  『上海にて』堀田善衞著(1969年11月初版第1刷/1989年6月初版第10刷/筑摩叢書)

   ㊟元の評論集『上海にて』は1959年7月に筑摩書房より初めて刊行された。

  表紙の写真のキャプションはありませんが、堀田の在留時の上海外灘(バンド)風景でしょう

  『めぐりあいし人びと』堀田善衞著(1993年1月刊/集英社)

 

◈『方丈記私記』ー時をもどすー

 手元に『方丈記私記』(1971年7月刊/筑摩書房)があります。今は見かけることが少なくなった函入りの本で1973年3月初版第9刷とあります。それまでにも堀田善衞が書いたものは少しは読んでいましたが、堀田善衞の存在が私にとって大きな存在となったのは、この本によってであったと記憶しています。

 当ブログでも私的な体験として繰り返している学生時代の「入院体験」の時期と重なっており、その最中に読んだものと推測されます。このようなタイミングも相まって、『方丈記私記』の世界に震撼とさせられ、時代と空間を超えた世界で共振している「歴史」の相貌のようなものを意識したのではないかと想像します。

 

 『方丈記私記』の「私記」とはどのようなことでしょうか。

 堀田さんはこの本で語ろうとしているのが「私の経験なのだ」と冒頭で宣言し、だから「私記」だというのです。「私の経験」とは1945年3月の東京大空襲、この戦争が引き起こしたというべき大火災、大災厄とそのすぐ後のことであり、そのことが戦時中にあって文学へ傾斜していた青年である堀田善衞の行動や心身の反応を通して描かれています。

 こんな「私の経験」と、3月10日の大空襲を「期とし、また機ともして」読み返し心に突き刺さってきた『方丈記』、これを書いたという鴨長明なる人の姿やその大災厄、乱世の時代の相とが突き合わされ、重ね合わせられて表現されたものが『方丈記私記』なのです。

 

 堀田さんは、3月10日の大空襲から、直後といってもよい3月24日に上海へ出発します。この短い期間を、「ほとんど集中的に方丈記を読んですごし」、字数にして9千字あまりの短い『方丈記』を「ほとんど暗誦出来るほどに」読みかえし読みかえしした(それまではそんな読み方をしたことがなかった)と記しています。

 1177年、安元3年4月28日の京の大火災を25歳で経験した鴨長明が、その35年後、58歳で書き下した『方丈記』を26歳で東京の大空襲と遭遇した堀田善衞が何度も読み返した理由について、同じく50歳をこえて『方丈記私記』に向かうことになった堀田さんは次のように述懐しています。

 「 それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭遇してのわれわれ日

  本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的

  に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすためのよ

  すがになるものがある、と感じたからであった。また、現実の戦禍に

  遭ってみて、ここに、方丈記に記述されてある、大風、火災、飢え、地震

  などの災禍(?)の描写が、実に読む方としては凄然とさせられるほどの的

  確さをそなえていることに深くうたれたからでもあった。」

 そしてさらに続けてこうも書いています。

 「 この戦禍の先の方にある筈のもの、前章及び前々章にしるした新たなる

  日本についての期待の感及びそのようなものは多分ありえないのではない

  かという絶望の感、そのような、いわば政治的、社会的転変についても示

  唆してくれるようなものがあるように思ったからでもあった。政治的、社

  会的転変についての示唆とは、つまり一つの歴史感覚、歴史観ということ

  でもある。」

 

 前記したように堀田善衞の<思索の原点>が上海時代の経験にあるのだとしたら、上海へ出発する直前の東京大空襲の経験はそれと地続きの重いテーマであったといえます。「戦時中の、時局向きのことを自ら遮断した、いわば芸術至上主義青年」として鴨長明より藤原定家の方に親近する感情をいだいていた堀田さんですが、東京大空襲の経験は「一つの枠がそこで破れた」、彼を動かしたのだといえます。

 『めぐりあいし人びと』の中で、後年の『方丈記私記』(1971年)『定家名月記私抄』(1986年)などは「戦時中に背負い込んだものを戦後になって作品化」したものだとし、「ですから、戦時中に背負い込んだテーマを返すのに、ほとんど生涯を費やしたといえるんじゃないでしょうか」と回想しています。

 『方丈記私記』は『上海日記』と『上海にて』と直接つながっており、いわば上海へ出発する直前の経験をえがく地続きというべきものです。したがって、以下の今回のテーマである「堀田善衞の上海における経験」の前に紹介しておくことにしました。

  『方丈記私記』堀田善衞著(1971年7月初版第1刷/1973年3月初版第九刷/筑摩書房)

 

◈上海への出発

 1945年3月10日の大空襲から、たった2週間後の3月24日に堀田善衞が上海に出発したというのは、どういうことなのでしょうか。

 堀田さんは、『方丈記私記』において全くの偶然だったと書いています。上海に職はありそうだとわかっていても、制空、制海権の喪失で行く方途がほとんど閉ざされてしまっていた中でのことだったと記しています。

 「 実際に私が上海へ行くことになったのは、まったくの偶然によって一枚

  の飛行機切符が舞い込み、それこそまったくの偶然に、生まれてはじめて

  飛行機というものに、われと自分を疑いながら乗った、という、ただそれ

  だけのことであった。」

 海軍が徴用した朝日新聞の飛行機に朝日新聞の記者ともに、友人の父から90円の飛行機代を借りてやっと乗り込んだようです。上海への出発のタイミングは少なくとも計画的ではなく、多分に偶然のことだったと理解しておきましょう。

 

 では、元々上海へ行こうとしていたのは、どうしてなのでしょうか。

 1942年秋に大学を繰り上げ卒業後、ものを書いて暮らせるような暇なところはないかと探して、「得体の知れない」国際文化振興会に入った堀田さんは、1943年11月に召集され、富山の連隊へ入隊します。だがしかし、10日後に胸部疾患で入院し、5月に召集解除され、富山から東京へ戻りました。再び国際文化振興会に復帰しましたが、その頃上海資料室が新設されていたので、ボードリアンでもあった堀田さんは『めぐりあいし人びと』で「なんとかそこへもぐり込んで、上海経由でヨーロッパへ渡ることができるのではないか」という「呆れた希望もなくはなかった」としています。

 『上海にて』等には、亡命ユダヤ人と逆コースで上海を踏み台にしてヨーロッパへ行きたいということに加え、陸軍病院で療養中に「改造社版大魯迅全集」を読んでいたこと、また国際文化振興会での中国語講座で竹内好『魯迅』や武田泰淳『司馬遷』などを読んでヨーロッパ一辺倒だった堀田さんにも中国に対する認識が新たに培われていたことがもう一つの理由だったと記されています。

 さらに召集解除となり富山陸軍病院の門を出たときのことを、昨日のようだとして、1956年10月の『文学』に寄稿した「魯迅の墓その他」において次のように「中国へ行きたい!」と書いています。

 「 門を出て、背広服を着た自分を、僕は犯罪者のように感じた。部隊のな

  かで、病気をした僕だけが、召集解除になったのだ。犯罪者のように、あ

  るいは逃亡者のように自分を感じながら、僕は門をふりかえった。それか

  ら一目散に駆け出した。走りながら、中国へ行きたい!と思っていた。」

 そして、3月24日、空路、国際文化振興会上海資料室に赴任したのでした。

 

 もう一つ重い出来事を繰り返して書いています。

 それは、大空襲から1週間を経た3月18日に親しくしていた女性の消息をたずねて深川に歩いていき、すべて焼け野原の中に茫然と立ちすくんでいたとき、ほんの2百メートルほど先のところに小豆色のベンツの一隊が現れ、その出来事が起こりました。『めぐりあいし人びと』には次のようにあります。

 「 ベンツのなかから出てきたのは、ピカピカの長靴を履いて、軍刀をぶら

  下げている天皇裕仁でした。(中略)まわりの連中は天皇の姿を見ると一斉

  に土下座して、「陛下、われわれがいたらないせいで焼けてしまいまし

  た」と謝っている。いったい、どっちが謝るべきなのか。あのときは、日

  本および日本人に心底絶望しました。」

 この大空襲による焼け野原で遭遇した光景は『方丈記私記』の中核エピソードであり、もっともっと詳細に記述されています。この出来事によって「身体が凍るような思い」をした堀田さんは「満州事変以来の、中学生の頃からつづいている日本の戦争と、その政治の中枢というものに私がまともに、自分のこととして考えた」、「その一等最初といったものであったろう」と書いてします。

 そして、「人は、生きている間はひたすらに生きるためのものであって、死ぬために生きているのではない。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないようなふうに政治は事を運ぶのか?」とともに、一方では「天皇に生命のすべてをささげて生きる、いわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさというのも」また、堀田さんは「私自身の肉体のなかにあった」ので、この二つのものがせめぎ合っていたのだとし、次のように書いています。

 「 その頃の私の゛判断゛というものの中軸には、どちらがデカダンスで

  あって、どちらが健康な考え方というものであるか、という、そういう判

  断の仕方が巣食っていた。そうして私には、やはり前者の方が人間として

  健康な判断というものである、というふうに思われた。」

 この東京大空襲での経験によって生じた絶望をともなう感情のようなもの、一種の破れかぶれのような感情が、堀田善衞の見通しも立たない上海への出発を後押ししたのでした。

 

 堀田善衞が到着した頃の上海について、『めぐりあいし人びと』で堀田さんは次のようにスケッチ風に回想しています。

 「 当時の上海は、ものすごいインフレでしたが、物だけは豊富にあり、こ

  れは日本国内の比ではなかった。戦争末期にもかかわらず、スコッチであ

  れビールであれ、何でもあった。そんなことからも、中国という国の深

  さ、蓄積の大きさということを痛感しましたね。」

 その「ものすごいインフレ」のために国際文化振興会上海資料室で計画していた雑誌『日本文化』を出すどころではなく、したがってあまり仕事がないなか、『司馬遷』の著者である武田泰淳をはじめ上海在留の知識層の人びとの交流を重ねていました。

 そんな堀田さんは東京大空襲を経験してきた者としていろんな会社から講演会に呼ばれたようです。上海に着いてすぐに飛行場でカレーライスをご馳走になった堀田さんは「こんな贅沢をして、何だ!東京では空襲にやられて、みんな食うや食わずの死線を彷徨っているのに」と将校たちを怒鳴りつけたことが評判になって、講演を依頼されるようになったと回想しています。

 かくして「準備体操としての「私の上海体験」」の末尾で引用した混沌とした坩堝のような巨大都市、上海に飛び込んでいったのが、当時26歳の堀田善衞青年だったのです。

  『上海日記』所収の「一九四五年頃の上海地図」

 

 ここで『上海日記』のことにふれておきます。その日記の部分は新たに発見された三冊のノートに対応する3つのパート【1945.8.6-46.7.1/46.7.3-46.10.27/46.11.8-11.29】からなっています。1945(S20)年8月6日が日記の最初の日付であり、3月24日の上海到着からそれまでの分はありません(書かれていないのか発見されていないか不明)。

 堀田さんは『めぐりあいし人びと』で上海は不思議な街で、日本国内に比べると、ずいぶんと自由な雰囲気があって、情報もよく入ってきていて、ソヴィエト領事館からモスクワ放送がそのまま中継され、そのうちアメリカのヴォイス・オブ・アメリカも入ってきたようです。6月23日の沖縄戦の結果も分かっていて「こと上海に関しては、6月段階で日本の敗戦は、完全に前提となって」いる状況であったと回想しています。

 日記部分の冒頭、敗戦直前の<1945月8月6日夜>の最後の一段落を引用しておくことにします。

 「 秋人間ニ至ル、といふが、もう秋はたしかに来ている。風は涼しく、高

  い高い空にはウロコ雲があり、そのずっと下の方を夏の雲が、せわしげに

  去ってゆく。昭和20年8月である。よく今迄生きてゐたものだと思ふこと

  しきりなり。今年の秋を見うるとは、ねがってゐた[に]しても、私はあま

  り考えてゐなかったやうだ。」

 

◈上海で迎えた敗戦(その1)

 堀田善衞は、日本の敗戦をどのように知り、どのように向き合おうとしたのでしょうか。

 堀田さんが日本の降伏を知ったのは、8月11日朝のことです。電車に乗ると、知り合いの日本人記者から「何だかとうとう来たやうですね」「日本が降伏したと云ふんですよ」と聞かされたのです。電車が静安寺から南京路に近づくと、商店は全部閉店しているのに、大変な人出であり、青天白日旗(中国国民党の旗)が立ち並んでいたと、『上海日記』の<8月11日>には記されています。たくさんのビラも貼られていたようです。

 同日、親日メディアで活躍していた詩人の路易士(ろいし)という人が堀田さんが会田綱雄や武田泰淳といるところに現われた状況について、日記には次のように書いています。

 「 そして僕たちに近づくや否や、和平!和平!和平!と云って「中華日

  報」の「和平号外」なるものをポケットから持ち出して、みんなに

  配った。

  「和平です、和平です、戦争済みました」「私のところ号外一番早い」

   なみゐる日本人の僕らはみな暗い表情になった、と同時に何とも云へぬ

  苦いものがこみあげてきて来、眼のやり場に困った。武田氏は眼を大きく

  まるくして、号外を読み込んでゐた。私も読んだ。」

 実際には、8月10日夜半、日本のポツダム宣言受諾をモスクワ放送局が放送し、これを受信した上海の抗日地下組織が動き出して、前記の青天白日旗の掲揚やビラの貼りだしになったのが真相だったようです。

 

 そのあと、堀田さんは街頭に出たり、交流のあった在留日本人に出会ったりしていますが、日本系の出版社で働いていたが辞職を申し出ていた中国の人が「どうしたらよいか分らぬ、どうしたらよいが分らぬ」と何度もくりかえしたというエピソードを書いています。この真意とは次のようなことだったのだと記しています。

 「 どうしたらよいか分からないと云ふのは、こちらのひがみではなく、お

  前たち日本人はどうしたらよいか分からないだろう、と云ふことなの

  だった。」

 

 堀田さんは、<8月11日>の日記の最後に、武田泰淳と一緒に帰り、一時黙然としていた後、ぽつぽつと話したことで明らかになった「これからの僕」の姿勢(「上海への向き合い方」とでもいうべきもの)について記しています。その後の上海での滞在や作家堀田善衞の活動について、現在からふり返ってみると、おそろしく予言的な文章です。少し長いですが、引用しておきます。

 「 僕は、今日この時の中国人のうつりかわりといふものを、人の心の内面

  の問題として、単に政策的なことではなくて、何とかして政治論ではなく

  人の心にしみ入るような工合にして内地の人に知らせねばならぬ、それを

  やるのは、僕ら文学に携る仕事をする人で上海にゐるものの大切な仕事

  だ、といふことを力説した。」

 そして、今日この時に見たものということに関して、次のように締めくくっています。

 「 僕は支那について大して見識もなく先入観もなにもないから、学ぶのは

  今日この時、そして未来のために、学識よりも経験よりも何より一番大切

  なものを見得るのは今日だと、と信じたからのことだ。」

 敗戦を知った堀田善衞がとった、とろうとした態度は、「ともあれ自分で見に出掛けて行く人」であった鴨長明その人を想起させます。

 

 『上海にて』には、8月11日に見たビラが日本語訳付きで記されていますが、次のようなものでした。

   八年埋頭苦幹      八年頭を垂れ苦しみがんばった

   一旦揚眉吐気      この朝我等眉を揚げ気を吐く   

 

   慶祝抗戦勝利      抗戦の勝利を祝す

   擁護最高領袖      最高領袖(蒋介石)を擁護せよ

 

   還我河山        河や山も我等のもとにもどったぞ

   河山重光        河も山も光りをましているぞ

 

   実現全国統一      全国統一を実現し

   完成建国大業      建国の大業を完成しよう

 

   一切奸逆份子撲殺之   ありとあらゆる漢奸や反逆分子をやっつけろ

   歓迎我軍収復上海    上海を収復する我軍を歓迎する

 

   国父含笑見衆於九泉  国父(孫文)がにっこり笑って極楽から見ている

   実施憲政提高工人的地位 憲政を実施し労働者の地位を高めよう

      【以下略】

 

 堀田善衞は上海の街頭に全身をおく(「投げ出す」という表現もできそうです)とともに、まず何をなそうとしたのでしょうか。

 

 こんなふうに書いていると(いわばノートしていると)、長くなりそうなので、とりあえずここまでをノート(1)として区切りをつけることにします。

 当ブログはいわば全てが私のノートという性格だといえばそうもいえますが、今回の「堀田善衞の上海」はその傾向が強くなっています。それは堀田善衞の書いているものが私に強く響いてくるということなのでしょう。

 したがって、冗長になることをお許しいただき、サブテーマも意識しながらノート(2)を続けていくことにします。

                              【続く】

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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