2019.07.16 Tuesday

人は一本の木であるべきージャコメッティとヤナイハラー

 ジャコメッティという名前は、教科書からはじまる美術教育のなかでその彫刻作品の写真とともに優れた現代作家として認知していましたし、その後もいろんなテキストによって「見えるものを見えるがままに表現するという探求」を続けた彫刻家であるとのイメージが染みついていました。でも、ジャコメッティ彫刻の現物と自覚的に出会ったのは、2010年の夏、香川県直島のベネッセハウスのエントランスホールでのことであったと記憶しています。

 もちろんジャコメッティの彫刻がそこにあることを知らなかったのですが、ホールにポツンと彫刻が1点だけ置かれていて外に何もなかったので近づいたのでしょう。台のプレートにジャコメッティという名前と作品名が記されていたのでしょうが、それを確認する前から、この鉛筆のような特徴的なフォルムはジャコメッティだろうと疑っていませんでした。先ほどネットで調べると「石碑の上のディエゴ機(1962年)というのが作品名だそうです。

 長い石碑?の上に、途中で腕の断ち切られた半身像が乗っているブロンズ彫刻は、映像で私の知っていたジャコメッティの針金のような歩く全身像的な彫刻とちがい、刀剣を逆さに突き立てたフォルムに、どうしてか何だかこれいいよなあという心の動きを感じたのです。どこがいいの、すごいのという私の中の他者の問いかけを蹴散らし、こんなに全体も一番の上の頭部もアンバランスに細長いのに、顔貌もよくわからないのに、ここには確かに人間が存在しているらしい、やはり迫力がすごいやと思ったことは覚えています。

  アルベルト・ジャコメッティ「石碑の上のディエゴ」(ベネッセハウス)[2010.6撮影]

 

 先週、神戸に出た日、ぽっかり夜まで時間が空いたので、大阪の国立国際美術館まで足を運びました。そして「コレクション特集展示 ジャコメッティと」をのぞきました。前年に同美術館が、アルベルト・ジャコメッティ(1901-61)のブロンズ彫刻「ヤナイハラ」を収蔵したことを記念しての特集展示です。普段ならできない大阪遠征をしたのは、久しぶりにジャコメッティの彫刻に出会うことができると思い立ったからです。

 コレクション特集展示に《機佞あれば《供佞發△蠅泙后今回の《機[5.24-8.4]は、彫刻「ヤナイハラ機廚2013年に収蔵の油彩画「男」を核に、同館のコレクションからジャコメッティとほぼ同時代に制作された作品群や、他の美術館から借りたジャコメッティ作品・資料を展示するものです。一方の《供[8.27-12.8]は、同じくジャコメッティの「ヤナイハラ機廖崔法廚魍砲箸靴董▲献礇灰瓮奪謄の生きた時代を超えて、「20世紀終盤から今日までの、新しい表現」を代表するような作品を同館のコレクションからチョイスして配置し、新たな光で照らしてみることが、意図されているようです。

 コレクションに加わった彫刻「ヤナイハラ機廚蓮圻機佞任垢ら《供佞發△蠅泙后L霪盡彊忘遒鬟皀妊襪箸靴織屮蹈鵐債刻は2点のみなのだそうです(何点も制作されたようですが一応の完成は2点だけ)。ですから、最初の完成作品が《機佞如◆圻供佞麓,亡粟した作品で、この2点を鋳造したブロンズ彫刻は全部で7体しかありません。そのうちの1体がこのたび収蔵された「ヤナイハラ機廚世箸いΔ海箸砲覆蠅泙后

 

 地下1階と2階にしか展示スペースのない奇妙な国立国際美術館には無料で入場できました(特集展示の方は65歳以上無料)。地下1階の展示スペースは、前半の1-3パートがジャコメッティと同時代のコレクションからの絵画と彫刻が並べられ、後半の4-6パートがジャコメッティとなります。

 私にとっては前半パートも面白く足が止まったのですが、あとでふれることとし、ここでは本丸、「ヤナイハラ機廚縫侫ーカスして紹介します。4パートには彫刻「ヤナイハラ」(1960-61)と絵画「」(1956)が並んで展示され、あとはジャコメッティが矢内原伊作をモデルとして制作する場面などを撮影した写真が何点か並んでいるだけです。5パートには、他の美術館から借りた矢内原がモデルとなったデッサンが10数枚と「裸婦立像」という小さな彫刻1点だけが展示され、6パートには、同じく書簡や手帖が整然と並んだ展示ケースに加え、1982年に東京芸術大学で行った矢内原伊作の講義《アルベルト・ジャコメッティについて》の録音、つまりヤナイハラの声が流れています。

 後から振りかえるとこんな報告になりますが、ジャコメッティの彫刻が「ヤナイハラ機廚函嵳臧慘像」の2点だけだったことは、事前の勉強の足りない私には拍子抜けでした。えっ、これだけですかと感じたということですが、今から振りかえると、かえって「ヤナイハラ機廚縫┘優襯ーを集中することになってよかったようにも思えます。

 彫刻「ヤナイハラ機廚砲弔い討了笋慮斥佞茲蝓△泙困六笋離メラに写った「ヤナイハラ機廚鯤造戮討澆泙后

  アルベルト・ジャコメッティ「ヤナイハラ機1960-61/正面 [2019.7.10撮影]

  同上 正面

  同上 左側面

  同上 正面

 白い台座のうえに、赤い壁を背景にブロンズの「ヤナイハラ」はありました。「ありました」と書いてしまいましたが、私は「在る」「存在している」という言葉が最初に浮かびました。彫刻という三次元の立体が置かれているのですから、「在る」というのは当たり前かもしれないけれど、これか、これなのかという、生々しい実在感のようなものを強く意識しました。

 同じ部屋に展示された写真の中の矢内原と似ているかと問われたら、まあそうだけれど、でも似ていないかもしれないと答えるしかないでしょう。そんな問いは、「ヤナイハラ機廚鯀阿砲垢襪函¬妓だということをすぐに感じることになります。ジャコメッティの眼差しを通したヤナイハラ、ある人間の肖像がそこにある、ある人間は確かに存在しているという感覚に至るのです。

 このとき、つまり「ヤナイハラ機廚醗貘舒譴蚤侈未靴燭箸、彫刻の大きさを何も感じていなかったと思います。がしかし、6パートから戻ってきて、もう一度をみようとしたとき、写真を撮ろうとしている鑑賞者の姿とともに目に入ってきたときに、「ヤナイハラ機廚実寸法が大きくないことに初めて気づきました。少し離れた位置から撮った下の写真はだいぶ極端に見えていますが、とにかく小さいのです。ホントに小さいのですが、目の前にすると、そんなことは感じないのです。

  「ヤナイハラ」の前で撮影する人たち

 面白い出来事がありました。上の写真に写る同年配の女性が、「ヤナイハラ機廚鯀阿法▲妊献メをいじりながら、何回か、どうしてだろうとつぶやいているのです。「どうされましたか」と、いつもはしないおせっかいをしてしまいました。シャッターを押すと、「ヤナイハラ機廚、彫刻表面の青銅色というか、黒味がかった色ではなく、内部の青銅の黄金色に写ってしまうということなのです。

 絞りや色味などを自分で調整して撮影することが好きでやっていたら、こんな色(黄金色に輝く「ヤナイハラ機)になってしまったのですと言われました。カメラ任せ、オート撮影しかできない私は、あなたの方がずっとレベル高そうですね、私はオートだけなのでと、とにかくオートに戻してみたらどうですかと勧めるしかありません。そうしてみると、私の目にみえている色に近い色に戻っていました。なんだかカメラの先輩面をしてしまったようで、私はちょっと恥ずかしくなりました。

 不思議でもなんでもないことでしょうが、彫刻の表面の色ではなく、内部の色がデジカメに鮮明に現れるところに面白さを感じたのです。私の並べた4枚の「ヤナイハラ機彈命燭凌味も背景の赤を含め、目に見えた色と少し違うのですが、そういえば、一番下の顔を拡大したものには、皮膚という表層の奥の黄金色の片りんが現れているようです。

  ジャコメッティの制作風景(「ヤナイハラ」気兇はわかりません)

  矢内原伊作とジャコメッティ(場所はわかりません)

 ジャコメッティのモデルとして最も多く登場するのは、弟のディエゴ(直島の彫刻や今回展示の油彩画「男」のモデルだと推測されています)と妻のアネットなのだそうですが、もう一人加えるとすれば、日本人の矢内原伊作(1918-89)でした。

 知り合ってモデルとなった経緯は割愛して、モデルとしてジャコメッティのアトリエで過ごした年代と日数についてだけ書いておきます。哲学専攻の矢内原は1954年から2年間の予定でパリに留学していますが、その帰国間際、知り合って1年のジャコメッティに挨拶に行ったところ(アトリエに行ったことはなかった)、ちょっと君を描こうと言われて、よい留学記念になるからと喜んでジャコメッティの前に座ります。これが1956年10月のことですが、「ちょっと」が実に72日間となってしまって、矢内原は帰国を何度も延期することになりました。

 それからも、当時、大阪大学で教えていた矢内原は、翌57年の夏休み、59年、60年、61年もジャコメッティに招かれてパリへと出かけています。ポーズを取り続けた延べ日数は230日に及んだと記録されています。

 パート4で美術館側が用意した説明プレートには、「ヤナイハラ機廚蓮▲皀妊襪鬚弔箸瓩4度目の夏となる1960年8月に「「ヤナイハラ機廚鮴犬爐海箸砲覆覿同作業が始まりました」とあります。それまではデッサンと油絵だけでしたから、初めての彫像であり、翌61年の夏に、「矢内原をモデルとした彫像が2点、完成に至」ったのです。油彩が20点以上現存するのに対し、前記したとおり、完成したブロンズ彫刻はわずか2点のみでした。粘土の塑像をブロンズにすべく型取りするのは弟のディエゴであり、ディエゴは「自らの作品に満足せず永遠に完成させようとしないジャコメッティの重要なアシスタント」であったと紹介されていました。

 

 矢内原はジャコメッティについて多くの文章を残しており(それが日本におけるジャコメッティの評価を高めた一因だといわれています)、私も本をもっていますが、今回、読み返しませんでした。それは、ちんぷんかんぷんであった苦い記憶しかないからです。その代わりというわけではありませんが、『芸術新潮』(2006年7月号)の「特集ジャコメッティ」を斜め読みしました。このことで何か理解が深まったかと問われたら、うむと沈黙するしかなさそうですが、キャッチコピー的タイトルとともに、もう少し補足しておくことにします。

 特集全体の副題は「アルプス生まれの全身芸術家」です。「アルプス生まれ」を強調していますが、私にはわかりませんでした。「全身芸術家」という表現は、本稿では論じませんが、やはり説得的でしょう。さらに4ページにわたる年譜のタイトルは「ある芸術馬鹿の一生」です。その年譜に添えられた年代ごとの小見出しを時代順に並べてみると、「寒村の芸術一家に生まれて」「イタリアで古典に開眼」「家具デザイナーもやりました」「シュルレアリスト誕生?」「母と林檎の夏」「像は縮むよ、どこまでも」「実存主義のヒーロー」「受賞と癌」「最期の旅」です。いかがでしょうか、どれか引っかかるような言葉はありましたか。自分に問うてみると、やはり「実存主義のヒーロー」などという、少々面映ゆい呼び名で記憶していたようです。

 いずれにしても「全身芸術家」と「ある芸術馬鹿の一生」は、20世紀美術のヒーローでもあった彫刻家の実像を喚起させる力をもっています。

  『芸術新潮』2006年7月号表紙 「特集 ジャコメッティ アルプス生まれの全身芸術家

  同上 特集のトップページ見開き

  同上 特集中の「ジャコメッティかく語りき」見開き

 『芸術新潮』の特集には、上の写真の3枚目「ジャコメッティかく語りき」と題する語録が見開きページとなっています。その中に、「人は一本の木であるべきなのだ。」があって、よくわからないなりにジャコメッティの彫刻の本質が現れているようだと思いました。

 さらには、「彫刻とは、手でこねるという最も原始的な芸術、ロバ引きのような最も遅れた芸術だ。」、そして「ぼくは作品のなかに人間の感情を表現することはできない。ぼくはただ頭を構築しようとしている、ただそれだけのことだ。」というジャコメッティの言葉もチョイスしておくことにします。「ぼくは外面に苦労するだけでたくさんだ。内面まで関われないよ。」という言葉を追加しておきましょう。

 

 この特集の解説者は保坂健二郎という当時30歳の若手研究者です。編集者も思い切った決断をしたことになりますが、サルトル、ジャン・ジュネそして矢内原伊作という実存主義とセットで語られてきた「ジャコメッティ像」へのアンチテーゼを多分に意識しながら、神話の解体を目論み、長期取材して言葉にしています。編集者による特集全体のコピーには、「浮かびあがってくるのは、まったくあたらしい、愛すべきジャコメッティ像」とあります。その当否の判断を、私は留保しておきます。

 そのほんの一部、「モデルとの親密な関係がアヤシイです」という項から、矢内原伊作に関係する部分をメモしてみることにします。

 ジャコメッティのように「人間という存在の「真実」を芸術において探求するためには」、他者としてのモデルが必要となり、「それも愛しき他者でなければならない」のです。なぜなら「徹底的な剥奪を許してくれると同時に、その剥奪を自分自身が痛みとして感じられるような相手でなければ、自分を含む人間の真実などわかるはずはありませんから」というのです。

 そんな「理想の他者」が矢内原伊作であり、ジャコメッティ芸術の本質を理解してもいたヤナイハラがモデルになると、ジャコメッティの探求は「答えではなく、不可能を目指すようになってしまう」と保坂さんは考えていて、次の文章を記しています。

 「 矢内原は帰国を何度も延期してまで制作につきあいますが、完成ではな

  く探求し続けることが目的である以上、それは苦しみに彩られた終わりな

  き旅となります。これをジャコメッティ研究者は「ヤナイハラ・クライシ

  ス」と呼ぶのですが、しかし端から見れば危機でも、ジャコメッティに

  とっては、理想の旅でした。」

 そして、私たちが思わずジャコメッティの作品に見入ってしまうのはなぜかとの問いに、次の文章で答えています。

 「 それが彫刻や絵画に本質的な問題を扱っているからでもない。そうでは

  なく、愛し愛されているがゆえに許される「剥奪」と「贈与」の物語が、

  そこに滲み出しているからではないでしょうか。モデルを「眼差し」、そ

  のモデルに「眼差さ」れる。そうした視線のやりとりの流れのなかで、

  ジャコメッティはまさしくその手をもって、相手の外見を剥ぎ取り、本質

  を紡ぎ出し、それを肖像(モデル)に再び送り返したのです。」

 保坂さんは、ジャコメッティの作品を見て、「芸術は愛の問題である」と考えたようです。

 面白いですね。一つの見方です。外れていないように思います。ジャコメッティにとって、「理想の旅」であったということは、「理想の他者」であった矢内原自身にとってもまた、重なる困惑もあったでしょうが、「理想の旅」であったにちがいないと、私は確信をもつことができました。

 

 前記の「答えではなく、不可能を目指すようになってしまう」と重なり合いますが、保坂さんによると、ジャコメッティのエッセーに次の文章があるとのことです。

 「 一つの彫刻は一つの物(オブジェ)ではない。それは一つの問いかけであ

  り、質問であり、答である。それは完成されることもあり得ず、完全でも

  あり得ない。そういったことは問題にすらならない。」

 なんという不可能な理想でしょう。そんな理想と付き合いつづけながら、ポーズをとってただ座っている時間に、矢内原は対話的に哲学していたといえるのではないでしょうか。ジャコメッティとの旅についてあれだけの文章を残し、それが矢内原にとっても生涯の主たる文章であったのですから、ちょっと常人では想像しようもないような特別な時間が存在していたのであろうと思いたくなります。

 

 最後に、NHK日曜美術館(1999年5月2日)で、加藤周一が、ジャコメッティについて、次のように語ったそうで、引用しておきます。

 「 ジャコメッティはドナテーロ(1386-1468)からロダン(1840-1917)を

  媒体として、それまでの20世紀を代表する彫刻家と見てよい。彫刻という

  意味にもよるけど彫刻家としては、ぼくはジャコメッティに最も感動す

  る。

   絵画のルオーのように、流行の主流派からちょっとはずれた場所で、主

  流に抗しながら自分自身の型を見いだし、それを究極まで創りだしていく

  点にジャコメッティという天才の特質がある、」

 

 さて、ジャコメッティ以外の作品についても、軽くふれておきます。

 パート1は、収蔵品のなかから、ビックネームであるセザンヌ、ピカソ、カンディンスキーなどの絵画をチョイスしており、その中にジョルジョ・モランディ「静物」(この美術館のコレクションにあったのです)もいっしょに展示されていました。モランディ、贔屓の引き倒しにすぎませんが、負けていませんでしたよ(「反復と創造ーモランディ展ー」)。

 続くパート2は、彫刻作品です。この美術館らしい荒川修作の前に、舟越保武「原の城(はらのじょう)」(1971年)、ジャコモ・マンズー「枢機卿」、佐藤忠良「帽子・立像」と、3点の人物全身像が並ぶ一角には、「ヤナイハラ機廚惶泙瓦Δ箸垢訛を止めさせるに十分なものがありました。

  右から/舟越保武「原の城」/ジャコモ・マンズー「枢機卿」/佐藤忠良「帽子・立像

 その中でも、テレビの映像だけで知っていた「原の城」には、全身に強く訴えかけてくるものを感じました。1637年から翌年にかけて起こった天草四郎を中心とするキリシタンと農民の反乱、すなわち島原の乱、天草の乱のことが題材となっています。最終的には、《原の城》に立てこもった3万7千余人といわれている人びとが全滅するという悲惨な結末を迎えるのです。

 この全身像の完成より10年前に《原の城》を訪れたとき、明るい長閑な丘の上に立った舟越は、「この異様な静寂は、天草の乱のあとの放心状態がまだ続いているためではないか」と思ったと語っているのだそうです。そして、討ち死にしたキリシタン武士の姿を「雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿」として描きたいと願い、この来訪から3年後に「かぶとをかぶった武士のやつれた首」の彫刻を2つ作ったうえで、そのまた7年後に制作されたのが、この全身像だったのです。

 このまがった背中のうえに載せられた放心したような顔、そして目に、衝撃を受けました。幻想、幻影、亡霊との境い目にあって、地霊たちの叫びを受けとめるように立っているキリシタン武士の姿には、舟越の強い異議申し立てと祈りが表現されています。

 ここにもまた、ジャコメッティ彫刻と共通する「人間という存在の「真実」を芸術において探求する」という営為が現れていると断言してもいいのだと思いました。

  舟越保武「原の城」1971年 正面 

  同上 左側面

  同上 正面

 続くパート3には、いわゆる《具体》の作家たちの、1960年前後に制作された作品が中心に展示されています。「ヤナイハラ機廚汎瓜期の制作ですが、《具体》は激しく抽象を追及していました。

 パート1-6とは別室のパート7とパート8には、1960年代から80年代にかけての日本人画家の作品が並んでいました。

 これまでに美術館でみてきた作家なのですが、私のイメージと少し落差があると感じた3人の画家のいわゆる抽象画を撮った写真を載せておくことにします。《具体》の二人、吉原治良は「赤と黒」ではなく「グレーと白」という色彩が、白髪一雄は「墨色一色」ではなく「多色」であることが、そして8パートの菅井汲は私のイメージにあったスガイの形と違う「形」であることが、私にはそれぞれ印象的だったのです。

  吉原治良「無題」1963年

  白髪一雄「天雄星 豹子頭」1959年

  菅井汲「S.14&S.15」1990年

 パート7-8をざっとみてから、別室のパート4へと引き返し、最後にもう一度「ヤナイハラ機廚北瓩蠅泙靴拭G心に見ている若い人を邪魔しないように、遠くから眺めていることにしました。

 矢内原伊作は東京育ちですが、ジャコメッティのモデルになっていた頃は関西にいたのですから、「ヤナイハラ機廚鰐瓩襪戮ところに戻ったということになるでしょう。

  「ヤナイハラ」と対面する人

 地下1階の展示室から地上階へと上がってきた私は、フロアにマリノ・マリーニを発見しました。1949年制作の「踊子」というタイトルのブロンズ彫刻です。ジャコメッティの「ヤナイハラ機廚鬚澆討た私の眼には、正反対という印象がまず飛び込んできました。大きさ、量感、マチエール、この場を支配しているのはジャコメッティのビリビリとした緊張感というより、マリーニのゆったりとしたユーモア感覚です。けれど、いずれの彫刻も、強い実在感、生命感という点では共通しているといえるのもしれません。

 当ブログでも書いてきたのですが、マリノ・マリーニ(1901-80)への思い入れは強いのです。すべては偶然のことかもしれませんが、最初に美術品なるものを手に入れたのもマリノ・マリーニの版画でしたし、フィレンツェのマリノ・マリーニ美術館には最初(2009年)と二度目(2012年)の海外旅行で2回訪れています(「クーボラの見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(1)」)。そして、マリーニは他の彫像、彫刻をみるときの私の基準点という道標になっていると思っていたのです。

 奇しくも同じ1901年に生まれたジャコメッティとマリーニという二人の彫刻家の手が作りだした彫刻は、どうしてこんなにも違うのでしょう。二人の彫刻はいずれもいいし好きだしというのは我ながらどんな了見なのでしょう。いや、違うのは個性であり、本質は同じといえるのかもしれません。いいものはいいのだと思いつつも、基準点を揺さぶられるような感覚もいだきながら、美術館を後にしました。

  マリノ・マリーニ「踊子」1949年

  マリノ・マリーニ美術館(フィレンツェ) [2012年1月撮影]

 

 5月の東京行で上野や恵比寿の美術館に出かけたこともあって、近頃ずっと遠ざかろうとしている美術館へのバリアが低くなっていたためか、こうして大阪まで行くことになりました。美術館というより、美術であれ音楽であれ映画であれ「芸術」との遭遇は、やはり私にとってビタミンのようなものです。もういいやではなく、上手くいい機会に出会えるようにしたいものです。

 とにかくこの日の大阪は迷い道でした。東西線の新福島駅から地上に出たところ、展示を見終えて美術館を出たところ、中之島のフェスティバルホールの地下に降りたところ、あわせて3回も東西南北の方向感覚を失いました。こんな迷い爺さんは「70歳問題」というものの一つなのでしょうか。

 結局のところ、美術館にも、大阪駅にも、なんとかたどり着けましたが、大阪の街に悪態をつくことはできず、こんな自分自身に呆れるほかありませんでした。

 

 

2019.07.08 Monday

「70歳問題」を忘れてー映画『マイ・ブックショップ』の味わい ー

 「元気をもらった」とか「勇気をもらった」という表現を、あなたは使うことがありますか。私はといえば、そんな言い回しを使ったという自覚はないのです。でも、ふつうは「孫と遊んで元気が出ました」ですが、「孫と遊んで元気をもらいました」というような使い方を無意識的にしてしまったりしているのかもしれません。

 こんな表現方法について、先日、「「元気」は「もらう」ものか……自ら「出す」ものでしょ」と、ちょっと突っ込みを入れておこうとした文章を読みました(『毎日新聞』2019.6.24夕刊)。かねてより注目の<藤原章生>の署名入り記事です。

 藤原記者の調査によると、「元気をもらう」と「勇気をもらう」は、いずれも1980年代に最初の使用事例がみられるとのことで、「昭和の末期、バブル経済の絶頂へと向かう時代に芽を吹いた」ようです。そして90年代半ばから使用が急増したとの統計があります。また毎日新聞の記事データベースでは、二つとも少し遅れて90年代に初出し、東日本大震災のあった2011年にピークをうち、以後、使用頻度の高い「元気をもらう」の方は年間200件台で推移しているとあります。

 こうした言い回しに引っかかりを感じる藤原記者は、なぜ広まったのかを探ろうとし、語源に詳しいノンフィクション作家の高橋秀実さんに、その背景事情を尋ねています。「元気をもらった」という表現は「タダで何かをもらった」みたいだけれど、それは「今の若者の間では、タダが基本になっている」こと、つまりネット社会で「文章も情報もタダの波に襲われて」いることと関係しているのではないかと、高橋さんは説明します。そして、「タダ」でもらうということは、ご利益を求める神社仏閣巡りにも似たところがあると感じているとして、「もらえるものはもらわないと損だ」、「あの人ももらっているから私もという集団心理が働いているんじゃないですか」と、高橋さんからこんな社会的な事情変化の反映とでもいうような見方を引き出しています。

 なるほど「身につまされる見方」であり、「「元気をもらう」は恭しく授かるというより、街頭でちょっとした試供品や菓子を「タダでもらっちゃった」というような軽さがある」と、藤原記者は感想を記し、次の文章で全体を締めくくっています。

 「 本来なら、自分の中から湧いてくるはずの元気や勇気が、外からもたら

  されると考える人々の心の奥底には、何かを待ち望んでいる「受け身の姿

  勢」があるのではないか。ある日、救世主がどこかからやってくるという

  期待。自分の力だけではどうにもならない苦境から抜け出したい、という

  心理が「もらう」の中に隠れているのではないか。そんなふうに思え

  た。」

 「元気や勇気をもらう」の表現の奥底にある「受け身の姿勢」を、藤原記者らしく鋭く指摘していますが、いささか強引な論法のようでもあります。言葉は時代の産物でもありますから、1980年以降に言葉を獲得した世代の人たちとちがって、それ以前の藤原記者、さらにそれより古い私たち世代にとっては使えない、使いにくい言い回しだというだけのことかもしれません。

 でもしかし、藤原記者よりもっと根拠薄弱な意見ということになりますが、私個人の感覚においては、今の日本社会の人間像を反映しているともいえるのではないかと思っているのです。この社会の基本的な性向は、外向き、攻撃的というより、内向き、防衛的であり、何かを切り開くという野心というより、何かが付与されることを期待する傾向にあるのが現代の心性のようだと、これまで生きてきた社会との差異において私などはふんわりと感じているということです。これは成長から成熟へというきれいごとの構造変化というより、分断社会化とネット社会における社会的同調性の同時進行という面から捉えるべきではないかと思ったりします。

 こんな私の印象は、藤原記者の「受け身の姿勢」に通じるものであり、ひいては、現在の大多数の若年層、成年層が社会形成へ主体的にコミットしていくことに全く希望をもっていないようにみえる現実(初めから諦めているような絶望感ともいえます)と符合しているともいえるでしょう。

 「元気や勇気をもらう」という言い回しにおいては、主語は「私」ではなく「元気や勇気を与える何かという主体」であり、「元気や勇気が出る」では、主語は当然「私」です。「私」「自分」という主体性の回路を省略した「もらう」という表現には、自分の頭で判断しない傾向の反射のようでもあり、藤原記者の指摘にもあるとおり、私もちょっとした違和感をもっていますし、あえていえば現代社会の病理のようなものも意識してしまうのです。

 

 G20直後の韓国向け半導体材料の輸出規制の発動には驚かされました。政府は表向きは否定していますが、最近の元徴用工問題などへの対抗措置だとみられています。

 ここでは、伊藤智永記者の「完全かつ最終的な迷い道」というコラム記事(『毎日新聞』「時の在りか」2019.6.1朝刊)を紹介しておきたいのです。エッジの効いたコラムを書く伊藤記者の文章に、私は常に理解とか同意をできるわけではありませんが、今回のコラムは、無知だったこともあって、なるほどそういうことでもあるかと感じたからです。

 当該「輸出規制の発動」の1ヵ月前に書かれた同記事には、日韓請求権協定(1965年)で「請求権問題が完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」との取り決めがされているという日本政府の立場の問題点が、交渉当事者である日本側外交官が外務省内の聞き取りで本音を語った記録(公表されている)によって浮き彫りになっているのです。

 伊藤記者は、こうした確認を交わしたのは「完全かつ最終的な解決は難しいと恐れたからに他ならない」からスタートします。そして、外務省の公開資料(市民団体の訴訟によって原則不開示だった文書が部分公開された)のうち、外務省内の聞き取りに当時の外交官たちが本音を語った記録から、引用しています。完全かつ最終的な封じ込めをめざしたわけですが、それでも「難しいという冷静な見通しを持つ若手官僚」であった小和田恒条約局法規課書記官は、その記録に次の説明を残しています。

 「 原則は全部消滅させるのであるが、その中で消滅させることがそもそも

  おかしいものがある。理論的にどこまで消滅させ、どこまで生かしたらい

  いのかという問題と、政策的にどこまで消滅させなければいけないのかと

  いう問題」(伊藤記者の引用全文)

 まさに日韓基本条約締結は、法理を超える政治決断の典型だったとし、伊藤記者は、韓国併合(1910年)を、違法・不当な植民地支配とみなす韓国と、合法・正当と譲らない日本の対立を覆い隠した「合意なき妥協」なのだから、「土台から「完全かつ最終的な解決」に程遠い」と、日韓関係問題の前提を指摘しています。

 条約締結後、「冷戦と軍事政権のお陰でボロを出さずに」きたけれど、1987年の民主化後において個人が声を上げ始めた韓国の動き(「個人が国家の殻を破って権利を主張し出す」)のなかで、2005年の韓国における日韓交渉文書の全面公開、それに対応する日本側の部分公開の経緯を説明したうえで、現状を次のとおり括っています。

 「 交渉の核心部分は「日朝国交正常化交渉への備え」を理由に非公表のま

  まである。我々は「完全かつ最終的な解決」の本当の経緯や意図を知らず

  に、韓国をなじっているわけだ。」

 以上を受けるかたちで、伊藤記者は、日米安保体制や日中関係が継ぎはぎや補強を加えながらなんとか運用している実態を例示しつつ(日韓だけは65年の条約で固定されてきた)、そんな実情をみると一方的に「韓国のワガママとは言えまい」とし、次のような見通しで、コラム全体を締めくくっています。

 「 日韓だけ半世紀前の「合意なき妥協」で乗りきれるという了見は甘えだ

  ろう。前途は暗い。

   戦後70年談話で安倍晋三首相が日本は植民地支配をしたと明言しなくて

  も、世論は評価した。土台にごまかしを残す関係は「完全かつ最終的な幻

  影」を追って迷い道をさまようしかないからだ。」  

 「土台にごまかしを残さない関係」の構築はありうるのでしょうか。複雑怪奇な国際関係においてさもわかったような意見を発言している有識者も多くあるわけで、それに喝采や同意している日本人も多くいることも事実です。このことは、日本政府が今回の対抗措置に踏み切った背景にあるのでしょう。

 このような状況にあって、日韓関係の土台にある、つまり日韓併合への認識(植民地支配か合法的な併合か)の相違を捨象して「完全かつ最終的な解決」を図ることは困難といわなければならないと、伊藤記者の投げかけた直球の意味は重いと、私は思っています。

 

 さて、あと1ヵ月で30歳を迎えようとする女性を主人公とした『29歳問題』(キーレン・パン監督)という香港映画があります。私はまだ観ていないのですが、昨年、本国で20万人以上を動員するサプライズヒットだったそうです。最近の香港情勢は、これからますます香港が香港でなくなるという圧倒的多数の市民の危機感が反映していているようで目を離すことができません。

 とすれば、今月中に70歳になる私は、いわば「70歳問題」の渦中にあるはずですが、片足を突っ込みながらも、もう片足は相変わらずのままなのです。少し気ぜわしいなどといいながらも、5月後半から、2019年のキネマ旬報ベストテンにランクインしそうな映画を立て続けにみることができました。

 まずトーマス・ステューバー監督『希望の灯り』とラース・クラウメ監督『僕たちは希望という名の列車に乗った』はドイツ映画です。前者は東西統一後の2000年代初頭の旧東ドイツのライプツィヒ郊外の巨大スーパーが、後者は1956年の東ドイツ、スターリンシュタットという地方都市のエリート高校が、それぞれ舞台となっています。つまり旧東ドイツという点で共通しています。

 いずれもいい映画と思いつつ、私は前者の方に心打たれましたが、キネマ旬報的には、後者が高く評価されそうです。

  希望の灯り』 トーマス・ステューバー監督/2018/ドイツ 

  僕たちは希望という名の列車に乗った』 ラース・クラウメ監督/2018/ドイツ

 『希望の灯り』のチラシ裏面で、松家仁之さんの「はかなく密やかに、祝福のように」というタイトルの文章に出会いました。映画を観ていない方にはどうかと思われますが、私もこんな文章を書けたらいいのにと感じた文章なので、バランスが崩れるし、長くもなるけれど全文を引用させてもらいます。

 「 主人公がクリスマス・イブを迎えるまでの、永遠につづくかとおもえる

  映画的幸福を、ことばで置き換えるのはほとんど不可能だ。主人公クリス

  ティアンの不器用な口べたが、見る者にたちまち伝染するからだ。会社の

  同僚から静かに肯定され、反語的ユーモアに満ちた挨拶や欲望の目配せま

  で受けて、ここはクリスティアンに手をさし伸べる「秘密の花園」になる

  だろうと期待がふくらむ。しかしそのあと容赦なく、主人公とともに深く

  暗い穴へと落ちてゆく展開に夢はなく、希望もなく、ことばも感情も行き

  詰まる。見る者はただ青ざめるばかりだ。日差しのない人工的な照明の

  と、倉庫に置いてけぼりされたクリスティアンのうえにはしかし、はか

  く密やかな「希望の灯」が祝福のように降りてくる。その灯が持続する

  どうかはもはや問題ではない。この瞬間がたしかにクリスティアンを包

  だという以上に、わたしたちはいったい何を求めうるのだろう。いまの

  この時代に。」

 この文章の言葉が私から出てきたわけでは決してありませんが、映画を観ている間、そして終わった後しばらく、松家さんの言葉のように本当に感じていたと思い込んでしまっています。

  希望の灯り』チラシ裏面

 続くオリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル監督『12か月の未来図』とパヴェウ・パヴリコフスキ監督『COLD WAR あの歌、2つの心』もいい映画でした。前者はフランス映画で現在のパリ郊外、移民の多い地区の教育困難中学校が、後者はポーランド映画で1949年から10数年にわたる冷戦下のポーランドとパリが、それぞれ舞台となっています。前者は学校教育という点で、後者は冷戦下という点で、『僕たちは希望という名の列車に乗った』と共通点があります。

 後者は、昨年のカンヌで是枝監督の『万引き家族』とパルムドールを争ったライバル作品だそうで、私からみても映画的というか、白黒の映像美と音楽の融合という点において圧倒的で、キネマ旬報ベストテンには必ずランクインすることになるでしょう。

 こうして「映画的」という言葉を考えもせずに使っていますが、総合芸術としての映画の強みを発揮できている、それが際立っている作品を、私は「映画的」という言葉で意味させようとしているようです。映画の映像は、演技と限りませんが、そこに登場するヒト、モノ、コトに美術や音楽、そして言葉が時間の流れに沿って融合し、物語を成立させています。短編小説のような映画だ、と思うこともよくあるわけですが、そして、そのような感想をもった映画を私は高く評価する傾向がありますが、小説は小説であり、映画は映画です。

 最近、これも「総合芸術」ではないかと意識するようになったのは、建築という分野です。構造力学をはじめとする科学という基盤のもとで、デザイン、彫刻などの広範囲の要素が総合、統合されたのが建築物であり、それがいいなあと思うとき、「映画的」ならぬ「建築的」と言いたくなるのです。多様な芸術的要素が融合する「総合芸術」という点で、映画と建築は存外と近いところに存在しているのではないかと思うのです。

 だからなのか、当ブログにおいても、映画と建築は書いておきたいテーマになっているのかもしれません。

  12か月の未来図』 オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル監督/2017/フランス

  『COLD WAR あの歌、2つの心』パヴェウ・パヴリコフスキ監督/2018/ポーランドほか

 もう一つ、最後にイザベル・コイシェ監督の『マイ・ブックショップ』です。1959年のイギリスの海辺にある田舎町が舞台です。都会からやってきた戦争で夫を亡くした女性(フローレンス)がその町の長く放置されていた「オールドハウス」を買い取り、二人の念願であった書店を、読書好きの老紳士(ブランディシュ)の協力をもらいながら開き、手伝いに雇った少女(クリスティーン)とともにその経営に奮闘します。最初は予想外ににぎわいますが、この建物を別目的に利用したい町の有力者(ガマート夫人)からさまざまに妨害工作をうけ、次第に窮地に追いやられてゆくというストーリーです。

 イザベル・コイシェ監督はスペインのバルセロナ出身で、この映画はスペインのアカデミー賞といわれるゴヤ賞で作品賞、監督賞、脚色賞に選ばれています。そんな作品なのに、ちょっと表現がおかしいけれど、今回の5本のうちでは最も地味な映画かなと思います。つまりキネマ旬報ベストテンへのランクインが最も厳しそうな作品ということです。

 もちろん「地味」を「滋味」という言葉に置き換えてもふさわしい味わい深い映画でもあります。ということもあって、これも余計なことになりますが、コイシェ監督へのインタビュー記事から少しだけ紹介しておくことにします。

  『マイ・ブックショップ』 イザベル・コイシェ監督/2017/スペインほか 

 原作があります。コイシェ監督は、10年ほど前にロンドンの古本屋でタイトルに惹かれてこの小説を買って、そのつもりはなく読んだのだそうです。読み終わったとき、コイシェ監督は「映画にしたいと心の底から思いました」と語っています。

 原作は『The Bookshop』で、イギリス人作家ペネロピ・フィッツジェラルド(1916-2000)の長編第2作(1978)でブッカー賞の最終候補作であり、同作家は翌年の『テムズ河の人々』でブッカー賞を受賞しています。コイシェ監督がこの本を手に取ったときにはすでに亡くなっていました。このペネロピ・フィッツジェラルドという作家は、初めて本を出版できたのが60代であり、この点では須賀敦子さんに似ているところがあります。

 いずれにせよ、コイシェ監督にとっては、原作との出会いから10年以上をかけ、脚本を書きついに映画化できた作品なのです。この長い時間という助走期間が、このイギリスの光というべき鈍い陰影をたたえた美しい映画をはぐくんだのかもしれません。

 イザベル・コイシェ(1962-)には、1996年の初の英語作品『あなたに言えなかったこと』をはじめ、『死ぬまでにしたい10のこと』(2003年)、『あなたになら言える秘密のこと』(2005年)など、高く評価される作品があります。タイトルの記憶はあっても、私自身は1本も観たことはありませんが、コイシェ監督はすでに名監督として評価されている方のようです。

 

 映画と原作が異なる点について、コイシェ監督は、一番大きな違いはエンディングだったかもしれないと答えています。そして、「実は原作のエンディングは、落ち込んでしまうような暗い形でした。でも私は映像作家の義務として、リアルを描写しながら、希望ある物語として描きたいと感じました」と説明しています。

 いわゆるネタばれという奴になりますが、フローレンスが店をたたんで、大きなボストンバックを抱えて小さな船に乗って町から出ていこうとしたとき、オールドハウスのあたりから白い煙が高く昇っているというのがエンディングです。映画を観ていると、それは少女クリスティーンの仕業(店内に石油ストーブを倒す)とわかりますが、今は本屋を営む大人になったクリスティーンがフローレンスとオールドハウスの本屋を回想するところで映画はラストシーンを迎えます。

 映画の進行とともに、フローレンスと書店に肩入れし、だんだんとやり切れない気持ちになっていた観客も、このエンディングに意表をつかれながらも救われたような気持になるのです。

 もう一つだけ付け加えるとすれば、映画は終始、イギリスの静かな海辺の町で、その海鳥の鳴き声が聞こえる町で、そんな半世紀以上も前の舞台のうえで、登場人物の誰もが声高に叫ぶようなことなどなく、すべてが行われるということです。そんな海からの小さな音にもすべてがかき消されてしまう世界で、イノセントで静かに闘う人であるフローレンスはまっすぐに行動し、静かに去っていくことになります。顔をあげると、オールドハウスからは白い煙が立ち昇っています。

 

 この映画には、開店と同じ1959年に出版されたナボコフの『ロリータ』を書店においていいものかどうかを、フローレンスがブランディシュに相談する大切なシーンがあります(そして、この田舎町でとてもよく売れたのです)。

 この『ロリータ』とエンディングを結びつけるように、社会学者の上野千鶴子さんは、この映画に次のコメントを寄せています。

 「 本好き、イギリス好きにはこたえられない、

   チャーミングな映画。

   知性、ウィット、皮肉、偏屈、

   狡猾、そして頑固と誠実。

   オトナの裏をかく、

   ほんものの「ロリータ」は誰?

   という謎解きも。             」  

  マイ・ブックショップ』チラシ裏面

 ここからは余分の余分。

 読書好きというコイシェ監督は、次のように語ったとインタビュー記事にあります。

 「 活字離れはおろかなことだと思います。読書によって自分の建設的な批

  評家精神を養うことができるし、世界の見方を教えてくれ、作ってくれる

  のも書物。世界で起きていることを受け入れたいのか、受け入れたくない

  のか、そういった理解を養うことができますし、時には孤独や愚かさに対

  する薬の役割も果たしてくれました。孤独でいるのは悪いことではありま

  せんし、孤独について語り合える友人と出会うこともあります。」

 そして、コイシェ監督は、Amazonなどネットサービスによる本選びよりも、書店での偶然の出会いを重視しており、次のとおり発言したとあります。

 「 私はAmazonは嫌いなんです。表示されるおススメも気にしません。一

  体私の何を知っているの?と思ってしまう。今の世の中はアルゴリズムで

  動いているのはわかっているけれど、私には関係ないです。」

 映画に引き戻すようですが、東京銀座の古いビルの小さな本屋、一週間交代で、一冊の本だけを並べて売るという「森岡書店」の森岡督行さんは、次のコメントを寄せています。

 「 仕事と人生が結びついているのは幸せだと思います。

   毎日働いているけれど、むしろそれが楽しい。

   その幸せがなくなろうとしたとき、人はどうするか。

   一つの答えが作品の最後に示されているのではないでしょうか。  」

  鈴木ビルの右端が「森岡書店」銀座1丁目 [2019.5.14撮影]

 

 先週4日告示の参議院議員選挙、重くなる足取りとともに、大雨に心配しなければならない7月がはじまっています。

 先ほどAmazonのアルゴリズムが登場しましたが、「感情に訴える言葉による印象操作」とも言いたくなる選挙戦において、マスコミには、どんなに地味であろうと、継続的なファクトチェックを貫いてもらいたいと願っています。公約、政策をわかりやすく整理して短評する以前のこととして、そうした背景にある公然たる虚偽情報に対し、イエローカードを出すことをためらわないでいただきたいのです。政党間の公平性の確保というお題目に委縮することなく、その結果をオープンにしていくことを期待します。

 とりわけ毎日の印刷物という媒体である新聞は、その提供にこそ存在意義があるはずなどと思うのです。がしかし、ファクトチェックに基づいて投票行動する有権者は限られているとみなし、自粛、委縮してしまい、自らを貶めてしまっているようでならないのです。一方、私たち有権者にとっても、この間の投票行動が政治に反映されないむなしさに、重要法案が議論を深めることなく強行採決されてしまう国会の惨状に、つい顔をそむけたくなる誘惑に負けてはならないのでしょう。

 告示翌日の毎日新聞に、内田樹さんは、「「民主制に1票」を」という一文を寄せています(『毎日新聞』2019.7.5朝刊)。

 「 ……「投票など無駄だ」との虚無的な結論に飛びつくことは、民主主義

  の衰退に手を貸すことになる。民主制は政策決定に集団の全員が責任を引

  き受ける覚悟なしには成立しない。

   「投票したい候補者がいない」との理由で棄権する人は、どういう結果

  をもたらしても「知ったことじゃない」と言い捨てる権利を手に入れる。

  そのような国民の比率がある割合を超えた時、その国の民主主義は終わ

  る。投票とは国権の最高機関の威信に対し、1票を投じることでもある。

  「民主制に1票」を。」

 私たちは、民主主義、民主制の側から問い返されています。

 

2019.06.29 Saturday

坂と丘と谷の街ー東京への小さな旅でー(2・完)

 久しぶりに仕事をしたような気持ちになりました。地域活動の関係で県や市の補助事業に応募するための作業をしていたのです。元地方公務員だからなのか、依頼があって引き受けたのですが、実際の補助申請業務を担当した経験がなかったこともあって、ごく少額の補助といえども、ずいぶんと手間暇のかかるものでした。思えば、公務員として審査する側で話を聞いたりすることはあっても、応募する側に立ったことはなく、今さらながら、補助申請する側の負担の大きさ、大変さを思い知ったのです。立場が入れ替わって、初めて分かるということの典型ですね。

 完全に仕事から離れて3年余、今の日常では忘れかけている種類の責任感のようなものを意識して作業したことが、久しぶりの仕事気分になった原因なのかなと思っています。私自身は地域のどこにどのような施設や設備があるのかというベーシックな情報さえ無知だったわけで、その意味では、居住する地域のことを知る一歩となりました。

 と、このようなわけで、一応、応募作業も一段落しましたので、10日ぶりに前稿((1))の続きに取りかかることにします。

 

🔹上野(その2)ー時を遡行するように丘のヘリを歩き//不忍池は祝祭空間ー

 3日目、夕刻には東京を離れる日、ふたたび上野公園に足を運びました。友人と東京都美術館で待ち合わせする家人についていったのです。前日は国立西洋美術館だけで終わってしまったこともありますし、私の方は恵比寿の東京都写真美術館に行くことができたらくらいしか予定がなかったこともあって、折角だから、もう一度、上野公園を歩いてみようかとなりました。

 

 この日は、月1回のシルバーディだということで、公園口から出るとすぐに、前日よりさらに人出の多いことに驚いたのです。公園の案内板前の人垣を抜け、前日の国立西洋美術館を右手に、少し奥まった東京都都美術館まではほんの短い距離でした。本日は無料でクリムト展だからなのでしょうか、結構長い行列ができています。入館1時間待ちというような声も聞こえてきます。11時に友人と待ち合わせる家人をベンチに残し、ほなごゆっくりねと、公園の奥へと歩いてみることにしました。

 地図らしい地図はもっていませんでした。こうして本稿を書こうとして地図で確認しているだけの後追いですが、東京国立博物館の手前で左折して旧東京音楽学校の奏楽堂から東京藝術大学の美術学部と音楽学部の間の公道を歩きました。緑も多く、近隣の方もゆっくり歩いていて、いい雰囲気です。

 同大学美術館の前から、家人へ上手く出会えたのかと電話したら、出会えたけれど、あまりの入館待ちなので、別のところにしようかと話していたところだというのです。じゃー東京藝術大学美術館の方は静かで大丈夫だからこちらの方へ来たらと誘いました。数年ぶりの家人と友人は、クリムト展というより「語り合う」ことが大目的です。二人がやってくるのを待ち、音楽学部の正門前で二人の記念写真を撮り終えて、ではまた後でと別れることにしました。

 

 がらりと空気が変わりました。公園の境い目などわかりませんが、大学のキャンパスの切れ目あたり、江戸、明治、大正そして昭和へとDNAが続いてきたような街並みが残っていて、タイムスリップした街角に立ったように思ったのです。

 そのなつかしい四つ角で、左折か右折か、直進かで迷いました。今から思えば、右へ行けば、行ってみたいと思っていた谷中の街中だったようですし、直進すれば、聞いたことのあるような言問通りにすぐに突きあたったはずです。でも、強い日差しのなかを長時間歩く気力もなく、午後には東京都写真美術館まで行ってみようとしていたことも思い出し、上野公園から離れていく方向ではなく、沿っていって山手線をめざすことにしようと、左折を選んだのです。

 こうして、行くあてなど何もないまま、公園のヘリにあたるような道をぶらり歩きすることにしました。

  東京都美術館(見えにくいですが入館待ちの方々が並んでいます) [2019.5.15撮影]

  東京藝術大学音楽学部正門前

  東京藝術大学キャンパスの西四つ角

 先の四つ角から歩き出し、昼食のために入った湯島のとんかつ屋まで、せいぜい歩いていた時間は1時間余りだったと思います。ですから、たったの4、5劼らいの道のりでした。歩行の途中、地下鉄千代田線の根津駅方面という案内板もありましたが、とにかく公園から離れないよう注意してずうっと下っていったら、不忍池の北東端に出ていたという按配でした。

 すぐ近くに護国院という能舞台のある寺がありますが、人っ子ひとりいません。もちろん低層マンション的なコンクリートの建物も多くあるのですが、どこかに歴史を感じさせるような古い家並に溶け込んでいました。「谷中」「根津」そして「池之端」という地名の力も大きかったのかもしれません。これはこれは漱石、鴎外の小説の世界のようだと思っていたら、「鴎外」の文字に出くわしたのです。

 

 そうです、ハイライトは、森鴎外の旧居跡に出会えたことでした。池之端4丁目の電柱の看板に「水月ホテル鴎外荘/森鴎外旧居跡」とあって、途中の交番でも確認したら、まっすぐ道なりだと教えられたのです。

 池之端3丁目の鉄筋コンクリート造のホテルに抱かれるように、つまり館内に、1886(明治19)年築の森鴎外の旧宅はありました。だから、ホテルの中へ入らないと、旧宅は見えないのです(旧宅の門が再現されていることを後から知りましたが)。しばし躊躇のうえで入館すると、着物姿の女性から「いらっしゃませ」の声が飛んできましたが、ちょっととおことわりして写真を一枚撮らせてもらいました。

 こうして後で調べると、鴎外が28歳のときに結婚して最初に住んだのが、当時「上野花園町」が地名であったこの家だということです。鴎外はここで「舞姫」をはじめ、「うたかたの記」「於母影」という初期作品を書いたのだとあります。面白いのは、ホテルは、この旧宅を活用して営業していることで、旧宅の部屋を「舞姫の間」「於母影の間」と名付け、今も宴会場、コンサート会場として使っているのだそうです。

 

 1日目に出会った高校時代の友人は、70歳という年齢に関連しての話しだったと思いますが、夏目漱石(1867-1916)が亡くなったのは49歳だったのだと強調していました。最初の小説『吾輩は猫である』が発表されたのは1905年であり、それから亡くなるまでのごく短い期間であの有名な小説群を書いたというわけです。そんな漱石の凝縮された人生を、私たちがあっと思っていたら70歳になっていたという事実と対比させようとしていたのでしょうか。

 一方、森鴎外(1862-1922)は、漱石より5歳年上で、『舞姫』の発表が1890年ということで小説という点でも先輩であり、しかも漱石より6年あとまで生きていますが、それでも1922年に60歳で亡くなっています。私たちは(他者まで巻き込むのはよくありませんが)、なんという大人になれない、成熟できない時代を生きてきたのでしょうか。

 いずれにしても、藝大から一歩踏み出したときに目の前の街並みから放射されるタイムスリップしたような感覚にとまどいながら、「上野の台地」のヘリを回り込むように、不忍池へとひたすら下っていったのです。もちろん「坂と丘と谷の街」を実感していたことは申し上げるまでもありません。

  「上野ー本物に会えるまち〜台東区〜」の地図部分 台東区役所制作

  森鴎外旧居跡近くの古い建物 今も使われていそうです

  森鴎外旧居跡ー水月ホテル鴎外荘の内部から撮影

 上野駅からこんなに近いところに不忍池が位置することを知りませんでした。歩いてきた私からすると、坂の下、丘の下に思いがけず広い水面の不忍池があったという感じです。

 池のたもとにあった案内板には、先史時代は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた入江であり、その後の海岸線の後退とともに取り残されて池になったと説明されています。不忍池は「坂と丘と谷の街」の谷筋にあたることになります。

 

 上野の台地と不忍池の間に遊歩道があって、ちょっとした広場にもなっています。池の中央には弁天島があって弁天堂があります。その向こうには高層ビルが林立していて、ちょっとアンバランスな魅力といっていい景観です。

 この遊歩道や広場には、テント張りの店がずらりと並んでいて、ちょっとしたバザールとなっていますし、弁天堂とつなぐ橋上の両側に屋台が出て、まるで縁日のお祭りへと導かれる通路であるかのようです。外国人観光客が目立っています。池と反対側の上野の丘には石の鳥居の向こうに五絛天神社がシーンとした空間をつくっていますが、この一角はまるで祝祭的な空間です。

 前稿で2日目の国立西洋美術館のあるあたりとJR上野駅正面玄関の周辺とを、いわば丘の上と下を、聖と俗として対比しましたが、この日も歩いて下ってくると、聖から俗へ移動したという印象が強く残りました。

 

 そもそも、この広い遊歩道は、1884年に競馬場をつくるために、もっと広かった池の一部を埋め立てたときに走路として整備されたものなのだそうです。1892年までの短い期間ですが、春と秋に不忍池を周回する形で競馬が行われていたとあります。森鴎外が池之端のあの旧宅を住まいとしていたときに、ちょうど競馬場として使われていたのですね(鴎外は後年の1911~15年に連載された小説『雁』で不忍池を登場させています)。

 第二次大戦中には、この1m以下の水深しかない不忍池は、食糧増産のために水田(不忍田圃)として利用されていました。その跡地を野球場にするとのプランもあったそうですが、1949年に池のまま保存することになったのです。

 もう一つ目立っていたのは、やはり蓮です。江戸からあったのは確からしく、1677年に出版された「江戸雀」という本に不忍池の蓮が読み込まれた和歌(「涼しやと池の蓮を見かへりて/誰かは跡をしのばずの池」)が載っていると説明がありました。5月中旬ではまだこれからという状態でしたが、蓮の新緑(こんな珍妙な言い方はないでしょうか)を楽しむことができました。

  不忍池の西側の遊歩道と広場

  五絛天神社の鳥居

  不忍池の弁当堂と不忍通りの向こう側に立つ高層ビル 

  不忍池の南側からの蓮池風景

  蓮の新緑?

 不忍池の西南、野外ステージまでやってくると、12時半頃になっていたでしょうか。さてどうしようかと案内サインを探すと、湯島という地名がありました。ここからは上野駅より御徒町駅の方が近いようだと推測し、春日通りを御徒町方面へ向かいつつ、何本かの南北の路地を行ったり来たりしながら、蕎麦屋でもないかと昼食場所を探しました。

 そうこうするうち、それらしいのれんが下がった店を見つけました。蕎麦屋かもと近づくと、とんかつ屋です。湯島天神下「蘭亭ぽん多」とあります(「ぽん多」という超有名店とは別店です)。前日に続く「とんかつ」にちょっと逡巡もありましたが、それより日射による疲労が背中を押しました。江戸弁の歯切れの良さと高飛車の境い目のような言葉使いの店主でしたが、とにかくランチというとんかつ定食を頼みました。

 ああ面白いと思ったのは、「当店、とんかつは低温で(百度)揚げます」、だから「少し時間がかかりますのでお急ぎの方はご予約下さい」という手書きのちらしが主人敬白・押印でぶら下がっていたことです。赤字の(百度)はそのままです。ホントに出てきたとんかつの衣は、茶色ではなくごく薄い茶色で、今までにない触感でした。肉部分もピンク色だけれど火が十分に通っていて、最近はやりの低温調理のようでした。ランチといえども、前日の倍額はするのですから、もっと期待してしまいましたが、まあ私の舌はこんなものでしょう。

 上野広小路と春日通りの交差点から、北の方には「上野のお山」の緑をのぞむことができました。上野界隈は、聖も俗も、もっとゆっくり長く歩いてみたい街でした。

  とんかつ屋「蘭亭ぽん多」ののれん

  上野広小路と春日通りの交差点 緑は上野の丘

 

🔹広尾・恵比寿ー南部坂の消失点へ//24年目の誘惑と場所をめぐる物語ー

 東京へ着いて最初に向かったのは広尾でした。

 ホテルから出たのが午後1時半頃かと思います。今回の東京行の主目的である高校時代の友人たちとの待ち合わせは、京王線府中駅の4時半で、まだ3時間あるから余裕十分と踏んだのです。

 地下鉄大江戸線の都庁前から六本木まで行き、そして日比谷線に乗り換えて広尾まで一駅だからと思っていたのです。最初から、大いなるミステークでした。ホテルの部屋から都庁前駅のホームまで10分はかかりますし、とにかく六本木駅での地下鉄の乗り換えには何回となく折れ曲がる長距離歩行と大深度の高低差移動が避けられず、これに要する時間にまいりました。ほんの30分程度であろうとの予測がはずれ、全体で50分近くかかってしまいました。

 結局、広尾から新宿に戻り、初めての京王線への乗り換え時間を加味すると、広尾での滞在は1時間もなくなってしまったのです。

  地下鉄六本木駅の構内図

 長い前置きになりました。こんな隙間のような時間を使って広尾へ寄ろうとしたのは、当ブログに書いたことがありますが(「再聴・歌と出会うージューン・クリスティー」「築地の魚河岸ー昭和の終わり「小説・TV・写真集」ー」)、1986(昭61)年10月から翌87(昭62)年3月の半年間ほど、南麻布4丁目の学校施設で研修を受けつつ敷地内の寮で暮らしたことがあるからです。33年ほど前、私は37歳でした。

 有栖川公園(正式名称は「有栖川宮記念公園」)の東、南部坂を上り切った当時の自治省の地方公務員研修機関である自治大学校の施設は、今は何の跡形もありません。平成15年に立川の方へ移転したのです。よく歩いていたところを、たとえば麻生十番へ向かう坂道を、あの頃のように歩いてみたいということもありますが、私はその不在というか、その消失を確かめておきたかったということになるでしょうか。

 まあバカバカしいといえばそのとおりですが、もう一つどうしようもないことだけれどという理由もあったといえます。兵庫県からは3人が同時期に研修に来ていたのですが、その一人であるNさんは50代で白血病のために亡くなりました。さらに寮の二人部屋で同室だった北海道のKさんも数年前に亡くなっています。詮方のないこととしかいいようがありませんが、二人の不在を、その姿と声に接していた場所で感じておこうと思ったのです。

 

 エスカレーターもエレベーターもない広尾駅を上がって、すぐに麻布台の方へ向かい、南部坂に並行して西に広がる有栖川公園へ入りました。この麻布台の傾斜をそのまま活かした公園は、私の過ごした昭和の終わり頃とあまり変わっていないようです。こんなにきつい傾斜だったっけと思いながら上っていくと、広場があって有栖川宮の騎馬像があらわれてきます。

 近隣の保育所でしょうか、多国籍の子どもたちが遊んでいます。もう少し進むと、東向きの入り口があって、道路を挟んで自治大学校があったはずですが、当然、今は影も形もありません。すると、自治大学校のあった場所はココだという自信が不安に変わっていることに気づきました。道路を渡って確かめようとしましたが、よくわかりません。どうも今はこの介護付き高齢者用マンションが建っている場所あたりであろうというくらいのことです。

 ことほど左様に、大切であっても、消えてなくなったものの記憶は実にあやふやなものです。そして、言葉を交わしていた人の記憶もやはり淡くなっていきます。私自身は自分のことを感傷的な人間だとは考えていませんが、自分にとって大切であった場所、今は消失しているが存在していた場所へのこだわりから抜けられません。だから、南部坂の頂点へと足を運んだのでしょう。結局、きれいさっぱりでいいのだと思いつつも思いきることもできないのが、私であり、もしかしたら、あなたでもあるのではないでしょうか。

 なつかしのコーヒーも飲まず、新宿へと急ぎました。日比谷線で広尾から一駅、六本木と逆方向の恵比寿まで出て、JR山手線へ乗り換えて戻ったのです。およそ30分くらいだったでしょうか。京王線府中駅4時半待ち合わせには、ギリギリで間に会うことができました。

  有栖川公園の有栖川宮騎馬像  [2019.5.13撮影]

  自治大学校跡?に建つ高齢者用マンション 南部坂を上ったたところ

 さて、戻って3日目の上野、湯島のとんかつ屋をあとにして、JR御徒町駅から山手線に乗って恵比寿駅へやってきました。動く連絡通路であるスカイウォークも使いながら、恵比寿ガーデンプレイスの一角、東京都写真美術館をめざしました。

 必ずと決めていた上野の国立西洋美術館とはちがって、この写真美術館の方は、うまくスケジュールが合えば行きたいと思っていたので、ラッキーという気持ちでした。広大だったであろうサッポロビール工場の跡地を大規模開発してできた恵比寿ガーデンプレイスは、1994年10月に開業し、その翌年の11月に東京都写真美術館がオープンしています。その頃から、出張の機会に一度は立ち寄りたいと思っていましたが、ついに実現できないままでした。阪神淡路大震災の発生した同じ1995年から、開館24年目にして初めて訪れたことになります。

 当時は(自分でカメラを手にすることはなかったが)、著名な写真家の写真、アートの境い目に位置するような写真作品を、絵画より、彫刻より、自分にとって大切で近しいものと思い、芸術表現として、絵画や彫刻に劣らず、重要なものとみるようになっていました。私のように美術館などにあまり足を運ぶことなどできない者、つまり本物に接することのできない者にとって、印刷物としての作品を見る場合は、絵画、彫刻より、写真の方が数等優れている、すなわち元々写真はプリントするものだという性格からもそうなんだと考えていて、このような考え方は、今も変わっていません。たとえば、写真展のカタログは、絵画や彫刻の展覧会の図録と比べると、本物と偽物という区分けは極端な表現だとしても、写真展の方に軍配をあげてしまうということです。

 

 エントランスからしてノックアウトされました。それは大げさですが、入館する前からカッコいいのです。エントランスの右手の独立した壁の三面に、それぞれ1点ずつ掲示された巨大写真が迎えてくれました。ロバート・キャパの「Dディ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸、1944年6月6日」、ロベール・ドアノーの「パリ市庁舎前のキス」(1950)、そして植田正治の「妻のいる風景 A」(1950)です。開館時からこういうエントランスだったのでしょうか。複合施設のビルの一部が美術館になっているマイナスを逆手にとって、通路のようなエントランスの空間を利用したアイディアです。

 特に、ドアノーと植田の作品は、私にとっても、最も心ひかれてきた作品でした。ドアノーのことを当ブログでも取り上げようとしてきてまだ実現できていないのですが、植田正治のことは、鳥取大山の麓にある彼の名前を冠した写真美術館との出会いを中心に書くことができました(「再見・写真と出会うー植田正治ー」)。ふるさと境港で生涯アマチュア写真家を貫いた植田の写真がこんな形で称揚されていて、とてもうれしくなったのです。

 思えば、「写真美術館」の魅力は、1998年7月に鳥取大山の「植田正治写真美術館」(東京都写真美術館と同じ1995年に開館)を訪れて初めて知ることになったのです。同美術館にはもう一度出かけており、大山を懐にいだいた高松伸設計の写真美術館は、私にとって大切な記憶の場所となっています。

 さすがに、ここ恵比寿は、上野の美術館のような人出とは無縁です。「写真」が付く美術館はどのように認知されているのでしょうか。

  東京都写真美術館のエントランス  [2019.5.15撮影]

  東京都写真美術館のエントランス

  エントランスの巨大写真 /田正治「妻のいる風景 A」

  エントランスの巨大写真◆.蹈戞璽襦Ε疋▲痢次屮僖蟷堋舎前のキス」

 ちょうど二つの企画展が開かれていました。ユージン・スミス、奈良原一高、内藤正敏そして山崎博という4人の写真家の収蔵作品を紹介する「場所をめぐる四つの物語」と「宮本隆司 いまだ見えざるところ」です。

 最初にみたユージン・スミスの「カントリー・ドクター」に鷲掴みされました。あとの奈良原の「軍艦島」、内藤の「出羽三山」も記念碑的な組写真ですし、宮本のポートレートも、大変に優れた作品なのにちがいないのですが、最初の一撃にやられてしまい、印象が薄まってしまっています。

 

 1948年、今から70年前のアメリカのコロラド州クレムリング、人口2000人ほどの小さな町のたった一人の医者である32歳のアーネスト・セリアーニの生活と仕事がここにあります。『ライフ』誌の依頼をうけた30歳直前のユージン・スミスは、同世代のセリアーニとすぐに意気投合し、撮影したとあります。そして、同誌に、30数枚の写真を発表したのが「カントリードクター」で、フォト・エッセーの古典的な名作として、こうして今も展覧されています。この写真は善悪の二元論を超えて存在しています。

 一言で語るとしたら、まるでカメラが存在しないように写っている写真だということです。ほとんどが大怪我や手術、臨終近くのシビアな場面ですから、カメラの存在など気にすることなどできなかったともいえますが、やはりスミスとセリアーニの深い信頼関係なくして、この写真は存在していなかったでしょう。もちろん膨大な数の写真の中から選択して残した1枚1枚であることはいうまでもありませんが、スミスはその手間暇をまったくおそれていませんし、彼のフォト・エッセーは撮影行為の前段階なくして成り立たないものだと改めて感じました。

 美術館側が「場所をめぐる四つの物語」というテーマの最初に「カントリードクター」をおいたとおり、コロラドの田舎町という土地、場所の存在なくして、このローカルを深く掘って普遍へと向かう人間の物語は生まれなかったということでしょう。そのような意味では、場所という存在の重さを意識させられたといえますし、たとえば30代の半年間過ごした広尾という場所にこだわった私の意識の底と、比べようはないのですが、場所をめぐる物語として、どこか通じるところがあるのでしょうか。

  「場所をめぐる四つの物語」チラシ表

  『ユージン・スミス写真集』の表紙 「楽園への歩み」1946年

 ひとつ気づいたことがあります。どうでもいいようで、どうでもよくないようでもあります。

 今回のチラシに使われた写真(今回の展示では最後に位置していました)のキャプションは《夜通しで手術を行った後、台所で休むセリアーニ医師、コロラド州クレムリング1948年》とあります。一方、同写真美術館で購入し、今回の東京で唯一の土産だった『ユージン・スミス写真集』(2017年11月刊/クレヴィス)では、同じ写真が《分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師》となっているのです。

 どちらかが正しいのか、あるいは両方とも正しいのか、何か経緯でもあったのか、調べようとしましたが分かりません。キャプションによって、命名によって印象が変わるという事例でしょうか。私自身はセリアーニ医師の深い疲労感と虚ろな眼差しが敗北した男に見えてきてしまい、前者だけでなく後者も正しいのではないかと推測したいのですが、いかがでしょうか。

  「カントリードクター」のチラシ写真の顔部分

  「カントリードクター」の一部

 ユージン・スミス(1918-78)といえば、私たちの世代の者にとって、1970年に水俣に住んで水俣病の患者と家族を取材した写真家として記憶されています。同じ『ライフ』誌に1972年6月「排水管からたれながされる死」を発表したとあります。このミナマタの写真群を、私はこわくて辛くて正視できなかったという情けない記憶があります。このとき結婚して同行したアイリーン・美緒子・スミスは、ユージン・スミスの写真と彼の姿勢を、前掲した写真集に寄せた文章で次のとおり書いています。

 「 彼の中にはアートとジャーナリズムが共存していた。そして一体だっ

  た。アーティストなのか、それともジャーナリストなのかという概念はな

  かった。どちらかを優先するともう一つが弱くなるということではなく、

  両方が一つとして磨かれることにより良い仕事が出来るとしばしば主張し

  ていた。」

 同じく前掲の写真集の冒頭におかれたユージン・スミスの「水俣で写真をとる理由」から、一部を引用しておきます。

 「 写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたまーほんのときたまー

  一枚の写真、あるいはひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことが

  できる。写真を見る人によるところが大きいが、ときには写真が、思考へ

  の触媒となるに充分な感情を呼び起こすことができる。」

 今回がそのような経験であったとしたら、いいのでありますが。

 

 写真美術館の1階が映画館になっているのを横目に帰途につきました。

 恵比寿駅とガーデンプレイスは平たんであるスカイウォークで結ばれており、わかりにくい状態になっていますが、スカイウォークから外を見ながら移動していると、結構、恵比寿の街は高低差のある土地であることがわかってきます。

  東京都写真美術館のエントランスホール 照明の曲線が優美です

  恵比寿ガーデンプレイスの入り口部分

 実は、このあと、東京駅に直行せずに、地下鉄日比谷線で恵比寿から一駅の広尾に、ふたたび立ち寄りました。もう一度ぐるりと歩いて、最初の日に時間のなかったコーヒーを飲んで、記憶の残像を探してみただけです。裏通りの理容店は変わりがないようでしたし、下町風の広尾商店街へ向かう交差点もかつての記憶と重なってきました。

 プレイスというより、スポットで記憶の重なる場所をもとめただけなのですが、南部坂を上った先の記憶の場所が消失したスポットは黒点のままで、周辺の記憶と重なった場所とちがい、クリアなイメージとして私のなかに戻ってくることはありませんでした。

  広尾の裏通り 理容店は33年前のままです [2019.5.15撮影]

  広尾商店街へ向かう広尾の交差点  

  「渋谷川流域の台地」 大竹昭子『日和下駄とスニーカー』p101

 この「広尾・恵比寿」の項の最後に、地下鉄で一駅というこの地域のことを、上記の「渋谷川流域の台地」として説明する大竹昭子さんの文章を紹介しておきます(『日和下駄とスニーカー』2012年7月刊/洋泉社)。

 「 恵比寿・広尾・麻布など、雑誌でよく取りあげられるファショナブルな

  エリアがあるが、よく見るとこれらは川で隔てられ二つの台地で分かれて

  いる。恵比寿から広尾で抜ける途中で渋谷川を渡るが、ここで別の台地へ

  と上がっていくのだ。恵比寿は高輪台地の西にあり白金や高輪と地つづき

  で、広尾は麻布台地の南端にあって青山・六本木・赤坂と連続してい

  る。」

 この記述に続いて、大竹は、台地のうえには宮家の屋敷が造られたことを指摘しつつ(そのひとつが有栖川宮邸で今の有栖川公園)、実際は、大邸宅は高台だけで、渋谷川の方へ下っていくと小さな家が目立ちだすとし、散歩の途中のこうした劇的な変化が東京を歩く楽しみだとしています。まさにコアな東京は「坂と丘と谷の街」だといいたいようなのです。

 この大竹の文章によって、私は、自治大学校や写真美術館の所在する場所が、渋谷川という谷筋の北側と南側の二つの台地の端にそれぞれ位置している関係を理解することができました。

 

🔹おわりにー「東京」なるものへのアンビバレンツー

 先月5月半ばの東京への小さな旅で足を運んだ街、場所のことを書いてみました。最近、旅と呼べるものから縁遠くなってしまっていたからなのか、こんな2泊3日でも、日常から離れた旅だったのだと、今は思っています。

 久しぶりという言葉がふさわしいほど、長く出会っていなかった友人たちと再会できたことが何より大切な旅であったはずですが、前々稿(「いつの間にか6月がー茨木のり子『歳月』ー」)の冒頭で記したとおり、そのことはしばらく沈殿させておくことにします。

  新宿新都心の都庁前を仕事に急ぐ人びと   [2019.5.15撮影]

  新宿新都心の新宿中央公園で太極拳でゆっくりとからだを動かす人びと

 東京、一括りにできるものではありませんが、言葉としての「東京」は、ずうっとアンビバレントな感情を誘発させる存在でした。今、年を重ね、東京という存在がどんどんと遠くに離れていくように感じていますが、今を生きる人間の一人として、東京問題は同時に日本問題でもあると理解しています。

 中央と地方、大都市圏と地方圏、発信地と受信地、集積地と資源提供地、人口集中地域と過疎的地域、これ以外にもいろんな表現ができそうです。定性的には、中心と周辺、強大と弱小、集中と分散、支配と被支配などと対比的な言い方もできます。

 こうしたいわば中心と周辺の関係を意識することにおいて、私たち地方で生活する者にとって、「東京」は相反する感情、<魅了>と<反発>を同時にかきたてる抽象的な存在でもあるということです。このことは、非東京在住者として、よくある性向、態度だと思いますが、実際のところ、東京在住者にはなかなか理解しにくい心理的倒錯でもあるでしょう。

 

 私自身の記憶をたどれば、東京を意識した最初は、新幹線の開通するもっと前に、父が何か用事で東京へ行くことになったとき、いっしょに行きたい、特急に乗りたいとだだをこねたことです。あまり子供らしくなかった私がひどく泣いて父母を困らせたという記憶があるのです。

 それから、最初の大学受験のとき、浪人生の時代、京都での大学生活の終わりに就職面接を受けたとき、いずれも東京でなければなどと思っていたわけではないのですが、結局、東京へ向かっていたという事実もあります。そして、その後は、地方公務員として働いてきた関係で、中央官庁を意識して仕事してこざるをえず、おかげでというべきか、数十回の東京出張という経験(日帰りも多かったのですが)をもちました。

 この間、本稿で書いた広尾での半年間もあったというわけです。仕事とは別に、親戚や友人の結婚式、息子一家の転勤など東京に行く機会もありました。思えば、就職してから今までという期間に、実際に足を運んだ回数は京都よりも多く、最多訪問の都市といえるのではないでしょうか。

 こうしていい悪いではなく、東京は、私を吸引した場所であり、私に憧れの思いを抱かせたところであったということができます。と同時に、そうした自分を嫌悪し、強く反発させたところでもありました。愛憎半ばするという言い方もできるでしょうか、私は東京に対し、アンビバレントな感情を持ち続けてきたし、今もそうだと申し上げてもいいのでしょう。

 

 今日のようにいろんな意味で首都圏に集中が進むとは、つまり強いものはさらに強く、弱いものはもっと弱くという一人勝ちの状態になることは、予想のレベルを超えているのではないでしょうか。もちろん私たち世代にとっては若い時から、その傾向が顕著であったわけで、中央集権と地方分権、一極集中と多極分散などというテーマが、国のかたちのあり方として議論されていました。でもどうでしょう。今や、そんなテーマは、主要な課題として認識されていないのではないでしょうか。

 目先の<効率>と<スピード>を最優先する、待つことのできない社会の帰結先が今の姿なのです。山高ければ谷深しです。強大、巨大であることは脆弱性と裏腹の関係にあります。阪神淡路大震災がそうであったように、都市直下型の大地震が大都市部で発生したらというイフを、私たちは意識したくない、さらにいえば狂騒のなかで意識することを遮断されています。

 首都圏を含め、人口減少が顕著になっていく次世代、次々世代に向けて、どのような国のかたち、社会のかたちがあるべき姿なのでしょうか。

 思わず、最後に変てこな横道にそれてしまいました。アンビバレントな反発のベクトルがそうさせたのです。笑ってお許しください。

 

 昨年、息子一家が7年の東京生活を経て神戸で暮らし始めたこともあって、東京へ行く理由がなくなってしまったように感じていたところ、こうして友人たちが誘ってくれて、東京への小さな旅が実現できたことをとてもありがたく思っています。

 でも、これでこれから東京へ行く機会はあまりないのだと意識したのですが、少しさびしいことだけれど、今の年齢と生活からして当たり前のことなのだと自分に言い聞かせました。

  1929年築の鈴木ビル(銀座一丁目) この一角に森岡書店 [2019.5.14撮影]

  額縁の「東京」ーホテルの部屋の窓から [2019.5.15撮影]

                            【終:(1)

 

 

2019.06.14 Friday

坂と丘と谷の街ー東京への小さな旅でー(1)

 今さらのようなタイトルです。東京、それも23区内が「坂と丘と谷の街」であると、これまでも読んで知っていたつもりですが、今回のたった2泊3日の小さな旅で、実感として再確認できたように思ったということです。

 前稿(「いつの間にか6月がー茨木のり子『歳月』ー」)で書いたとおり、高校・大学時代からの友人と出会うための東京であり、1日目、2日目とも夕刻から夜まで彼らと談笑していたのですから、本稿では残るほんの短い空き時間に歩いた東京の街で印象に残ったことをメモしておこうと思います。今回は、友人との関係がメインであり、特に準備をして、たとえば参考になりそうな地図をもって出かけたのではありません。だから、ほとんどは着いてから、家人と二人で、あるいは一人で、思いの向くまま移動しただけなのです。

 

 予防線を張るようですが、いつも寝るときに聞いている桂枝雀の落語に「植木屋娘」という演目があります(昭和57年10月6日「大阪サンケイホール」にて収録)。そのマクラの冒頭で枝雀師匠は、この噺を「余り面白くありません」からはじめています。続けて「仕方がないのでございます。面白いとか、おかしいというようなことは、いわゆる客観的に客体として存在するというような性質ではございません。すべて主観的な、主体的な問題でございます」、ですから、「聞き手の皆さん方のセンスによるわけでございます。面白いと思や、何だって面白い訳でございますし、面白くないと言や、何だって面白くないのでございます」と客を笑わせ、噺へと導いていきます。

 こんな長い言い訳をしたうえで、メモにとりかかることにしましょう。

 

 今回、友人たちと出会った街を除いて、今回、ちょっとだけでも足跡を残したといえる街は、「新宿」「上野」「広尾・恵比寿」の三ヵ所だけです。それぞれが一括りできないほど広うござんすなので、実際に足を運べたのは、そのまたピンポイントに限られています。

 2泊したホテルは、都庁と道を挟んだ高層ビルの一角でした。主体的に選択したというより、新幹線往復切符込みの宿泊プランが掲載されたカタログで、巻頭特集として連休明けもあって大変にお得になっていたからです。それに東京へ着いた当日に友人たちと待ち合わせする京王線府中駅との関係で行きやすく帰りやすい場所だということもありました。

 もはやなつかしい言葉となってしまった感の新宿新都心(副都心)計画は、新宿ターミナルの西側すぐのところ、旧淀橋浄水場跡地を開発するもので、1960年に都議会で議決されてスタートしました。その後、1971年の京王プラザホテルを皮切りに、1980年に竣工した今回のホテルが入居する小田急センチュリービルなど、今や200m級の超高層ビルが林立しています。その締めくくりともいえるのが東京都庁だったそうで、旧庁舎のあった丸の内から、この地に移転したのが1991年(平成3年)4月だとあります。ですから、新都庁は「バベルの塔」をもじって「バブルの塔」だと揶揄されたわけです。

 現在、こうした新宿新都心の超高層ビル群は、すでに30~50年の時を刻み、大規模なメンテナンスやリニューアルの段階になっているようで、あちらこちらで工事が行われていました。

  新宿新都心のホテルの部屋から見たわせた光景 [2019.5.15撮影]

 

🔹新宿ー巨大ターミナルの偉大なる迷路//高層副都心のエイジングとはー

 のっけからですが、新宿を乗り換えのターミナルとして利用したのは、失敗でした。お上りさん同然の70歳に近づいた二人が自由に的確に歩けるところではありません。日々利用されている方は大丈夫なのでしょうが、突然、このターミナルに放り出された利用者が、無秩序と混沌が支配する広大でかつ高低差の大きい空間を、案内サインだけを頼りに歩くのは、大変なところだし、まして心安らかに歩くなど不可能に近いというのが、私の総体的な実感です。

 お世話になった新宿ターミナルのために書いておくとすれば、タコ足配線という言葉のとおり、継ぎ足しを続けて今のターミナルが存在できているのですが、この全体を把握しコントロールしつつ工事と運行を継続させてきた組織と人間の能力に、天才と偉大を感じているということです。皮肉めいた言い方になっているかもしれませんが、そうではありません。この新宿ターミナルは、首都圏の膨張にその都度対応していた結果、いつの間にかこうした姿になっていたのであり、その現実対応力に心底驚嘆したというのが、私の偽りのない感想でした。何より、工事と運行を同時にやっていかなければならないのです。

 

 このメモを書くために検索すると、「新宿駅の乗降客数が世界一」という記事が何件もヒットします。2016年の1日乗降客数は347万人、西武新宿駅・新宿西口駅を含めると371万人とあります。途方もない数字です。ギネスには「the world`s busiest station 」と表記されているそうです。

 もとより乗降客といっても、乗り換え客のダブルカウントや、逆にJR線同士の乗り換え客が含まれないなど、一概に確定できない数字ですが、とにかく今のところ世界で最も忙しいターミナルなのでしょう。この乗降客数は横浜市の人口に匹敵すると書かれています。

 

 今回、つくづく感じたのは、この巨大ターミナルの迷路性は、面的な広がりだけでなく、高低差がさらに増強します。ホテルから新宿への移動は、地下鉄大江戸線の起終点である都庁前駅から1駅です。この大深度を走行する地下鉄駅は、地下7階に相当しているとの図があります。余裕をもって移動しているつもりでも、ウロウロ、キョロキョロという時間もあって、想定外の時間を要してしまいます。別の鉄軌道との連絡経路にあっては部分的にせよ、下りのエスカレーターが完備されておらず、自分の足膝を使わなければならないという困難もあります。瞬時の判断力と根気を失った私には辛ろうございました。

 私たちよりももっと高齢の方や、障害のある方にとっては、さらに大変な苦労なのでしょう。避けたくなるターミナルではありますが、どうしても使わなければならない方にとっては、一定の習熟が前提となるターミナルであると申し上げておかなければなりません。

 JRの5路線を含め、新宿ターミナルに乗り入れている鉄道は、12路線です。私に何かが見えたわけではありませんが、日日は大きなトラブルもなく、口を閉じた乗降客がひたすら乗り換えに急いでいる姿にただ圧倒されました。

 私たちに対処できたのは、京王線を往復1回使った以外は、とにかくJR新宿駅構内に入ってしまうこと、それから焦らず山手線か中央線を利用して行きたいところにたどり着くことでした。そして、JR線について、首都圏と関西圏との明らかな相違は、安全向上と転落防止のための「ホームドア」の整備が圧倒的に首都圏の方で進捗していることです。混雑度に差異があることも影響しているのでしょうが、JR東日本の名誉のためにメモしておきましょう。

  新宿ターミナルの現状 (新宿ターミナル協議会(東京都都市整備局)資料より)

  新宿ターミナルの現状◆(同上)

 目の前の都庁には一度だけ出張で行ったことがあります。1990年代、地下鉄都庁前ができたのは1997年(平成9年)だそうですから、それよりもっと前ということになります。新宿駅から(今から思うと地下鉄丸ノ内線新宿駅か)、ホームレスの人たちのブルーシートがえんえんと続く地下道を歩いていった記憶があります。ただ都庁舎に入り、簡単な用件を済ませただけだったのですが、エレベーターの待ち時間の長さに閉口したことを覚えています。このときの街全体の印象は、なんと人工的な高層ビル空間かということでした。

 今回、新宿新都心が私に残したのは、エイジングと、先にふれた工事中多数ということです。私にとって、エイジングとは基本的にいい意味なのですが、20数年前の記憶とオーバーラップさせてみると、この場所に街がなじんでいるなあという感覚です。それは建造物のエイジングはもとより、地下鉄だけでなく、ビル群をつなぐアクセスの整備が進んだことや、何より緑が多く大きくなったことが一番影響しているように感じました。超高層ビル群を西側でぐっと支える位置で、新宿中央公園が緑豊かに存在していることも、全体のイメージに与える影響が大きいのではないかと思いました。

  都庁への交通案内図 (東京都ホームページより)

 晴れた3日目の朝6時台に都庁と新宿中央公園をぐるりと歩いてみました。

 都庁舎は、第一庁舎、第二庁舎そして議事堂からなっています。前回の高層ビルのまがまがしさというか仰々しさを意識しなかったわけではありませんが、こちらがエイジングしたせいなのか、これはこれでなかなか立派やないかというのが、ほとんど人のいない空間に立って、都庁舎と向き合ったときの第一印象でした。

 望遠機能の弱いカメラのレンズをのぞきこんでいると、いいなあと感じたのは、ファサードだけでなく使われている「細長い格子状のパターン」です。濃淡のグレーの石を組み合わせたものですが、ちょっと茶色の汚れも浮かんできており、いいエンジングになっていました。これは、設計者の丹下健三ではなく、スタッフの一人である中村弘道という方が大阪の豪農家屋の天井から引用したといわれていますが、丹下自身はコンピーターチップのデザインだと、外向きには説明しているのだそうです。

 都庁舎の玄関レベルから一段低くなった位置に議事堂と都民広場があります。この空間はちょっと素敵といってよさそうです。私の趣味の問題かもしれません。わが国の現代彫刻家でレジェンドの作家たちの彫刻が、議事堂に向けて半円形の都民広場の凹に沿って、8作品が並んでいるのです。淀井敏夫、佐藤忠良、柳原義達、舟越保武、そして、写真を掲載した朝倉響子などです。すべての作品にカメラを向けましたが、私にとって朝倉の「Mari」というタイトルの1984年制作の作品が、35年の時を貫通して、最もカッコよく21世紀の女性を表現してくれているように思ったのです。

 まだ7時前だというのに、「とちょう保育園(Tocho Nursery School)」と小さなプレートのある施設に、職員の方でしょうか、一人の女性が入っていきました。そのすぐ横には「東京都民平和アピール」という金属板がブロンズの草模様を冠にして掲げられています。1995年3月10日の「第5回東京と平和の日記念式典」にあたり採択した長いアピール文が刻まれています。東京の大空襲、そして広島と長崎の原爆投下を指摘したうえで、「いかなる哀悼の言葉も意味を失ってしまうほど非情かつ残酷なもの、それが戦争のもたらすあらゆる惨禍であり災害であります」と続け、平和は人類共通の目標だとし、次の決意を明示しています。

 「 私たちは、軍縮と核兵器の廃絶を機会あるごとに強く訴え、戦争の惨禍

  を再び繰り返さないことを誓います。日々の生活において、平和を脅かす

  問題に、毅然として立ち向かい、忍耐づよく取り組むことに決意しま

  す。」

 そして、5点のアピール文を列記しているのですが、これは長くなるので割愛しましょう。このアピールから四半世紀、私たちは「忍耐づよく」を手離そうとしています。いかに今を生きる私たちが、平和を願いつつも、ノーマ・フィールドのいう「本気で<平和>を語ることの困難」な時代に直面しているのかということを、私は澄んだ朝の空気を吸い込みつつ、ではどうして語りうるのかと自問していました。

 こうしてエイジングを評価した都庁舎ですが、15年が経過するころから「雨漏り」「老朽化」が問われており、膨大な修繕費をかけて手を入れ続けているのが実情のようなのです。エイジングと老朽化は、表裏一体ということなのでしょうか。今回、新宿新都心の超高層ビル群で工事中のビルが多くあったことを考え合わせると、一皮むけばということでもあるのかもしれません。

 いずれにせよ、超高層ビルというものは、時間によって古びてゆくことを許さない、いわばピカピカ、キャピキャピであり続けることを本質としているということができるでしょう。この本質とは何なのか、現代というものの虚ろさと愚かさに通じているように思っています。 

  東京都庁 第一庁舎 [2019.5.15撮影]

  同上 壁面のパターンデザイン

  東京都議事堂

  朝倉響子「Mari」1984年制作 都民広場

 朝、目覚めたとき、25階だというホテルの部屋の眼下には、そんなに広いとはいえない新宿中央公園の緑と、ラジオ体操や大極拳をしていそうな豆粒大の人たちが見えました。超高層ビル群の超現実性を、新宿中央公園はどこかしらバランスをとっているかのようでした。都庁の方から公園に入っていくと、近くのホテルで泊まっていたのであろう外国人の方々が、スポーツ着で写真を撮り合いながら、ベンチに座っていたり、走ったりする姿に多く出会いました。

 ぶらぶら歩きをしていたら公園の一番奥に接するように熊野神社がありましたが、1960年に廃止された淀橋浄水場と隣り合っていたのでしょうか。ホテルに戻ろうとしていると、富士見台という看板がありました。道を挟んで目の前には、都庁の第一庁舎がそびえています。公園のなかで一番高いところだそうで、といっても「東京湾中等潮位+45米」なのです。「はるか西方に秀麗な富士を仰ぐ展望台」とありますが、樹木とビルに囲まれ、とても見えそうにありません。その富士見台のてっぺんには、「六角堂」と呼ばれる東屋があって、浄水場時代から残る唯一の建造物だそうです。

 豆粒のように見えた水の広場では、近隣の住人なのでしょうか、十数人の人たちがゆったりとした動作で太極拳を楽しんでいました。

 ホテルに戻ると、さっき富士山が見えたよと家人は喜んでいうのですが、残念ながら、すでに雲におおわれて見えなくなっていました。

  ホテルの部屋から見た眼下の水の広場(新宿中央公園)

  公園を走る人(新宿中央公園内)

  富士見台のてっぺんに立つ「六角堂」(新宿中央公園)

 ホテルの近く、建設中の新ビルに隣接した旧ビルに、朝食の店でもないかと通勤ラッシュの収まった9時台にのぞいてみましたが、ビル内のATMもコンビニも、そしてエレベーターにも長蛇の列ができていて、早々に退散することになりました。超高層ビルで働くのも大変です。

 

🔹上野(その1)ー丘の上の宝物の森へ//俗なる世界へ「ああ上野駅」ー

 2日目、3日目と2日続けて、山手線の外回りで上野へ出かけました。2日目は、事前に予定していたのですが、ル・コルビュジェ(1887-1962)の設計した国立西洋美術館です。開館60周年を記念した企画展が開催されていて「世界遺産で「ル・コルビュジェ」の原点を観る」とのコピーにひかれたのです。何より世界文化遺産の登録を称揚するテレビ番組が刷り込んでくれた、美術館の建築そのものへの興味が一番でした。

 これまでに上野というか、上野公園に足を踏み入れたのは1回だけです。33年前、1986年秋から翌年の冬までの半年間、研修のために東京で寮暮らしをしていたその年末に、家人と子供たちが上京してきたとき、パンダに会おうと上野動物園に連れて行ったのです。

 

 山手線が上野へ近づくと、日暮里駅、鶯谷駅と聞き覚えのある駅名が続きます。これらの駅ががけ地のへりの下方、つまり谷底にあって、電車がそのヘリを沿うように走っていることに気づきました。帰宅してから、大竹昭子さんの『日和下駄とスニーカー 東京今昔凸凹散歩』(2012年7月刊/洋泉社)の「ガケベリ散歩」で確認したにすぎないのですが、ガケの下にある駅だな、えらく段差の大きいところだなと思ったのです。この部分の山手線は、永井荷風が「偉大」とたたえた「上野台地」のへりを走っていたのです。

 このことは、国立西洋美術館から、いわば聖から俗へ、上野の繁華な街へ下っていったときに、上野駅でいうと公園口から不忍口に向かって降りていったときに、「上野の台地」の大きさをやっと自覚することができて、これはホントに「坂と丘と谷の街」なんだと思ったというわけです。

  ガケべリ図(上野~鶯谷~日暮里) (大竹昭子著『日和下とスニーカー』46p)

 さて、上野駅の公園口の方から出てすぐ前の道路を横断すると、目の前が東京文化会館、そのすぐ右手に国立西洋美術館がありました。2016年の世界遺産登録に際してのテレビ番組などでみていたこともあってか、美術館の前景、外観には、ああこれか、これなんだという既視感がありました。そして、昨今の美術館建築と比べると、ずいぶんと小ぶりな建物なんだと感じました。

 あとで知ったのですが、このル・コルビュジェ設計は本館で、これに隠れるように新館もあったのです。本館の開館したのが1959年のことで、20年後、ル・コルビュジェの弟子であった前川國男(1905-1986)の設計した新館が1979年にオープンして展示スペースが二倍になったとあります。さらに、18年後の1997年には、前川亡きあとの前川建築設計事務所により、企画展示室が増築されています。こうして三段階で美術館は収蔵作品の増加に対応して展示スペースの拡大など必要な面積を確保してきました。

 なお、同じ前川國男の設計による東京文化会館は、美術館本館と呼応するような形で建っていて、国立西洋美術館にかかる師匠ル・コルビュジェの元々の設計案にあったものの予算の制約などから実現できなかった劇場ホールを現実のものとしたといわれています。

 

 建築写真には青い空がほしいのですが、ポツポツと雨が降り出しました。曇り空のなかで、広い前庭におかれたロダンの「考える人」像の近くやいろんな位置から美術館にカメラを向けてみました。

 コンクリート製のピロティの上に直方体が載っている外観は、その形と色、質感からして、飾り気のないすっきりと端正な容貌です。つまりパッと見たかぎりでは、余計な贅肉感のない筋肉質の体形といえばいいのでしょうか、建築材料や建築技法上、20世紀建築の原形質のような外観なのです。それでもどこか、ことさら主張しているわけではないけれど、見方によってはさりげなく主張している建築だということができます。

 都庁舎のように石を贅沢に使ったモニュメント性の強い建築に比べたら、コンクリートに玉石を並べた外壁は、つつましく一見チープのようにも見えます。都庁舎の設計者である丹下健三は、元は前川事務所の出身ですが、この違いはなんなのでしょうか。規模、予算、何よりも時代が違うのですから、比較しようもありませんが、ル・コルビュジェの美術館からは、人間の手から離れきっていない、ベタな言い方ですが、手のぬくもりが感じられるのです。

 新宿新都心の超高層ビル群にエイジングのありかを探したりもしましたが、この美術館はエイジングを許容し、よく手入れさえすれば、本物のエイジングを楽しむことのできる建物です。そして、今この目の前にある落ち着いた相貌は、その意味を教えてくれているようです。本館は開館60周年なのですから、まさに還暦を迎えた渋いたたずまいと表現してもまちがいではないでしょう。

  国立西洋美術館の全景  [2019.5.14撮影]

  同美術館のピロティ

  同美術館の外壁パネル

 内部に入ると、1階の中心にある19世紀ホール(メインホールだが広くない)へ導かれることになります。三角形のトップライトから自然光がそそぎ、建物を支えるコンクリートの2本の柱がオブジェのようにもみえる展示スペースからスロープへと誘導され、眼下の景色を眺めながら、ゆっくりと上っていくと、2ヵ所のバルコニーが姿をあらわしてきます。この吹き抜けのホールを囲むように2階の展示室は配置されていて、3階の照明ギャラリーからも自然光が取り込まれています。

 やはりいい意味でこのコンパクトさは悪くないですね。といっても、ル・コルビュジェという名前がなくとも同様に思えるのかと問われたら、口をつぐむしかなさそうですが、この垂直移動を組み込んだ空間はリズミックでわくわくさせられますし、とてもすばらしい空間だと思いました。

 

 今回の企画展である「ル・コルビュジェ 絵画から建築へ-ピュリスムの時代」は、故郷のスイスからパリに出てきて、第一次世界大戦終結直後の1918年末、ピュリスムの運動を推進し、先端を行く芸術家たちと交流するなかで、今回展示されたような絵画も描いていたことを教えてくれました。こうした数年を経て、絵画から建築へ、本名のジャンヌレからル・コルビュジェへ、私たちの知っている20世紀建築の旗手となる建築家がさっそうと登場してきたというわけです。

 といっても、今回の展示をざっとみただけで、私にその関係が腑に落ちたということではありません。いわば後知恵になりますが、芸術運動としてのピュリスム(純粋運動)の経験なくして、企画展のコピー「見つかった。何が?ー建築が。」はありえなかったのだとし、20世紀建築を牽引した建築家ル・コルビュジェはかくして成長を遂げたのだというストーリーは大変に興味深いものでした。

 そして、美術館のパンフレットによって、こうした準備を経てル・コルビュジェが「近代建築の5つの要点(ピロティ・屋上庭園・自由な間取り・横長の窓・自由な立面)」や「無限成長美術館」などのテーゼを打ち出していったことを知りました。この「5つの要点」とは、建築材料や建築技法だけでなく、生活を豊かにする仕組みを併せて、その調和と実現を図ることを意図し、1926年以降にまとめたとあります。そして、このル・コルビュジェの建築思想が、国立西洋美術館において完全ではないにせよ実現されていることを知りましたし、周到に実現させようと、前川國男をはじめ日本の弟子たちといっしょに努力を続けたことも学ぶことができました。

 たとえば、前記した玉石が埋めこまれた外壁は、柱が荷重を支える構造のために、取り外し可能なパネルとして作られていますし、本館→新館→企画展示室という増改築も、収蔵品の増加に対応していく「無限成長美術館」の基本的な原理に基づくものだそうです。この美術館には、新館の増築によって、本館を取りこんだ美しい中庭が出現したのです。

  国立西洋美術館の19世紀ホール 奥にスロープ

  スロープから見た19世紀ホール 2つのバルコニー

  新館から見た中庭、本館 新館の緑紬タイルもいい感じです

 ここで強調しておきたいのは、国立西洋美術館の宝物は、「ル・コルビュジェの建築作品ー近代建築運動への顕著な貢献ー」と初めて7ヵ国3大陸をまたがって登録された世界文化遺産の一つである建築としてだけではなく、収蔵品そのものもそうだということです。ル・コルビュジェの企画展は早々に切りあげ、ぐっと見学者の減る常設展の方を回りました。えっえっ、なんとなんとの連続というか、西洋近現代美術のベストアルバムを聴かされたような気持ちになりました。私のような半可通の者でも名前だけはよく知っている代表的な画家の作品がこれでもかと連続して並んでいるのです。その画家の名前だけでなく、作品一つ一つもレベルが高く、こけおどしのように展示されたものではありません。さすがに東京の国立美術館だわいという嫉妬めいた言葉を吐きたくもなりました。これはまちがいもなく、「上野の森の宝物」です。

 この美術館は元々松方コレクションの入れ物だったのでしょうが、第二次世界大戦後の作家たちの、新たに購入、寄贈、寄託を受けた作品群も、文字通り圧巻でした。ピカソ、ルオー、ミロ、ポロックそしてサムフランシスときりがありません。そして、収蔵品だからこそ、わが国の美術館ではめずらしく鑑賞者のカメラで撮影することもできるのです。ここでは、ジョアン・ミロとともに、今回、初めて画家名も作品も知ることになったヴィルヘルム・ハンマースホイだけをアップさせてもらいます。

 展示室と展示室をつなぐ廊下に一つだけポツンと展示されていたハンマースホイの絵は、シーンとした空気をたたえ、静かに何かを語りかけてきます。美術好きから笑われそうですが、私にとっては発見でした。こんな画家がデンマークにいたのか、この「北欧のフェルメール」と評される画家の展覧会が来年の冬には、上野公園内の東京都美術館で開かれるとのことです。

  ジョアン・ミロ「絵画」1952年制作 [2019.5.14撮影]

  ヴィルヘルム・ハンマースホイ「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」1910年制作

  「ハマスホイとデンマーク絵画」展(2020.1.21-3.26/東京都美術館)のチラシ表

   <ハンマースホイ>と<ハマスホイ>の2種類の表記があります

 このあと、ちょっとしたドタバタ劇がありました。もちろん大したことではなく、昼食をどうしようかとなったのです。上野だから、やはりとんかつにでもしようか、33年前に子供たちと食べたのもとんかつだったしということになりました。世界遺産の美術館のピロティに腰をかけて、家人のスマホで「とんかつ 名店 上野駅」で検索したのですが、店は多くあっても起点となる駅の全体像がわからないままでは店の位置も特定できにくかったのです。食い意地のはった私たち二人は、すでに美術館を後にする前から、俗の方へ進みだしていたことになります。あとから思えば、公園口から上野駅に入って次の御徒町まで一駅だけ移動して、御徒町近辺で探す方がずっと合理的だったのですが、そこまで気が回らなかったのです。

 まあとにかく歩いて上野駅の南の方へ行ってみようとしたのです。この下り坂から「上野の台地」の高低差を体感できたのはよかったのですが、駅前を素通りして最初はアメ横の方向へ向かったり、小一時間もウロウロしてぐじゃぐじゃになったので、とにかく駅前に戻ってみることにしました。

 やっと映像で記憶のある上野駅の正面玄関口が見えてきたのです。不思議ですね。まず頭をかすめたのは、井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌があったなあということです。今は死語になっている集団祝職、その集団就職者の愛唱歌となった同歌は、1964年に、前の東京オリンピック年にリリースされています。「どこかに故郷の 香をのせて/入る列車のなつかしさ/上野は僕らの 心の故郷」などの歌詞まで浮かんだのではありませんが、この正面玄関口は、集団就職者が東北一円から上野駅に着いたときの映像とともに記憶しているのです。今は外国人観光客がスーツケースを押している姿が目立っていました。

  JR上野駅正面玄関口  [2019.5.14撮影]

  JR上野駅東側

 正面玄関口という起点がはっきりしたことによって、ようやくとんかつ屋の位置がつかめてきました。駅の東側をさらにうろついて、1時半をすぎて、やっと「みの房」という店へたどり着きました。これが有名店なのという店構えでしたし、「唄える酒処」という看板にびっくりしましたが、さすがに疲れていて躊躇なく入りました。内部は壁一面に居酒屋メニューが張り出されていましたが、それは夜用のようで、昼はとんかつメインの定食を提供しています。千円札でおつりがくる値段ですが、誠実につくられたとんかつをおいしくいただくことができたのです。

 このとき、次の3日目の昼も続けて、とんかつを食べることなろうとは知る由もありませんでした。

  とんかつを食べた「みの房」

 

 それでは、ここで区切りをつけて、後半を続編とします。次稿では、【上野】の後半部分と、3ヵ所目の【広尾・恵比寿】、そして、私にとっての「東京」なるものとはをまとめてみるつもりです。

                        【続く:(2・完)へ】

 

2019.06.07 Friday

いつの間にか6月がー茨木のり子『歳月』ー

 いつの間にか6月になっていました。自分の時間感覚と実際の暦がくいちがうのは、毎月のことなのですが、特にこの6月はそのように感じました。ああというため息にもにたつぶやきがもれたら、6月でした。

 それは完全に仕事から離れて以来、おおむね一定のリズムを刻む毎日の時間に、新たな刺激をうける要素が加わったということでしょうか。10連休など他人事ですぎたあとの5月の半ばに、たった2泊3日でしたが、東京へ出かけたことが大きかったのかなと思います。今年の正月に電話をかけてきた高校時代からの友人に、今年は70歳になるんだから、もう一人の友人といっしょに歓待するから、一度、東京へ出てこないかと誘われたからです。そして、それが実現できたというわけです。

 今後、なかなか上京する機会も少ないだろうと、ほかにも別の大学時代の友人たちとも20数年ぶりに出会ったりもして、数人のオールドフレンドととにかく元気で再会できたという深々とした喜びというか、充足感をえた小さな旅となりました。その反面、いったい自分は久しぶりに対面できた友人たちと何を話しているんだろう、こんな思いつきの浮ついた話しかできていないなあと、近い再会が期待できないのにと思ってしまうからこそ、ちょっと否定的で虚ろな気持ちにもなったのです。これが自分というものなんだと思うしかなく、そんな愚かさに、望んでいた邂逅との落差にとまどう自分がいました。

 それが老いというものに後押しされた現象なのか、語りえない何かでつながっているオールドフレンドというものなのか、よくわからないのです。

 こうした友人たちとのことはしばらく沈殿させておくこととし、3年ぶりの東京の印象、といってもピンスポット的な限られた活動範囲で短い時間から承けた印象を、私の知らなかった東京として、別稿で報告してみたいと思っています。それこそごくごく表層になりますが、いつもの写真という表象をもちいて綴っておくことにします。

 

 さて、最近の私にとって、6月という記号は、ホームグランドである大中遺跡の周辺にあるハナショウブとアジサイです。これまでにも当ブログで書いたことがありそうです。暦のスピードに反発していましたが、こんな花と出会ってしまうと、やっぱり6月なんだと受け入れるしかありません。

 昨年11月号から『図書』ではじまった連載に、辞書編集者という肩書の円満字二郎さんの「漢字の植物園in広辞苑」があって、毎回楽しませてもらっています。6月号は第8回「六月、梅雨のそぼ降る」というタイトルで、きっちりとハナショウブが「アヤメが抱える複雑な課題」、一方のアジサイは「アジサイは仙界の花」の小見出しでそれぞれ紹介されているのです。

 アヤメの漢字は「菖蒲」ですが、「ショウブ」とも読めます。「いずれがアヤメかカキツバタ」という「カキツバタ」もいます。この四種類、「アヤメ」「ハナショウブ」「カキツバタ」、そして「ショウブ」はそれぞれ別物で、前の3つはアヤメ科アヤメ属らしいですし、「ショウブ」は旧サトイモ科に属しています。これまでの連載の中で、円満字さんは繰りかえしふれていますが、「ある漢字が複数の植物を指すのは」、「その漢字が指す植物を日本人が誤解した結果、もともと中国語として表していた植物のほかに、別の植物をも指すようになった」のであり、「多くのは場合、日本人に原因がある」というのです。でも、「菖蒲」はそうではないんだ、植物漢字の中でも珍しい現象だとし、次のような説明を与えています。

 「 「菖蒲」については、事情が異なります。この漢字が中国語として表す

  のは、ショウブ。日本人はそれをきちんと理解していたのですが、古い日

  本語では、ショウブのことを「あやめ」と呼んだのです。「菖蒲」を「あ

  やめ」と読むようになったのは、この段階。後に「あやめ」がアヤメを指

  すようになった結果、「菖蒲」はアヤメをも表すようになった、というわ

  け。」

 すぐにご理解いただけましたか。私など「複雑」すぎて数回も読み直してしまいました。まあどちらでもいいやと言われればそのとおりというしかないのですが。

  ハナショウブ(播磨町野添北公園内) [2019.6.1撮影]

  同上

 一方、アジサイの方です。「あじさい」を漢字で書くと「紫陽花」となりますが、「実は日本人の一種の誤解から生まれた書き表し方」だというのです。

 もともと「紫陽花」は白楽天の造語だったのですが、平安時代中期の『和名類聚抄』という辞書では「紫陽花」にアジサイという訳をあてています。けれど、白楽天が「紫陽花」をあてた花は、今ではアジサイではなかったのだと考えられているとのことです。

 もともと「紫陽」は「この世を離れた仙界のイメージがあることば」だったそうであり、「この花について「頗る仙物に類す」」と白楽天は記していたそうで、「仙界の植物にも似たその脱俗的な雰囲気までもが託されたことばなのでしょう」と、円満字さんは解しています。その上で、『和名類聚抄』を編んだ源順が「紫陽花」をアジサイと訳したことにつき、次のとおり説明します。

 「 仙界に咲く花のイメージを身近に探したときに、雨にけぶる幻想的なア

  ジサイが立ち現れてきたのではないでしょうか。

   そう考えると、「紫陽花」をアジサイと訳したのは、誤訳ではなく名訳

  のように思われてくるのでした。」

 そうかもしれぬとは思いつつ、「雨にけぶる幻想的なアジサイ」の姿形として、私がアジサイを発見したことがあるだろうかと自問していました。

  アジサイ(播磨町野添であい公園内)  [2019.6.1撮影]

  同上

 

 久しぶりに六甲の「口笛文庫」をのぞくと、茨木のり子の『歳月』という詩集(2007年2月刊/花神社)に出会ってしまいました。これも「邂逅」というものだろうと手に入れました。

 当ブログで今年の3月に「文庫が建て、文庫が守ったー佐伯泰英『惜檪荘だより』ー」をアップしましたが、時代小説で「月刊佐伯」と呼ばれてきた佐伯泰英の『惜礫荘だより』(2012年6月刊/岩波書店)は、同じタイトルで『図書』に2年間連載中、ずっと愛読していたエッセーが単行本化されたものでした。今回買った詩集のケースはそれに似ています。ブログを始めたころに岩波文庫の『茨木のり子詩集』(谷川俊太郎選)の中で『歳月』抄に出会い、私の知らなかった茨木さんにドキッとしたことを「『歳月』の「歳月」ー茨木のり子の詩ー」のタイトルでアップしましたが、その『歳月』のフルバージョンの詩集だということになります。

 最近は、できるだけ読まない、読めないような本は買うまいとふるまっているつもりですが、この『歳月』には、変な言い方ですが、恩義というか、感謝の念をもっているからなのです。というのは、当ブログにこれまで225本の記事をアップしてきましたが、その中で最もアクセス数が多い記事らしいのです。どうしてかというと、はっきりしていて、ネットで「茨木のり子 歳月」と検索した場合、最初のページに『思泳雑記』の当該記事が登場しているからなのです。

 ですから、アクセスがあっても読んでもらっているかどうか分からないのですが、とにかく私には励ましを得ている、ありがたい本なのだということになります。

  茨木のり子『歳月』 2007年2月刊/花神社

 茨木のり子(1926-2006)は、2006年2月17日に亡くなっていますが、詩集『歳月』は、ちょう一周忌にあたる2007年2月17日に出版されています。詩集の最後に茨木の甥である宮崎治さんが「「Y」の箱」という文章を<2006年11月16日>付で寄せており、詩集出版までの経緯が綴られています。

 「Y」とは茨木の夫・三浦安信のことです。夫に先立たれた1975年以降(夫の死は茨木49歳のときでした)、茨木は「最愛の夫への思いを綴った」「40篇近い詩を書き溜めていた」が、「それらの詩は自分が生きている間は公表したくなかったようである」と、宮崎さんは記しています。このことを茨木本人とも話したことがあって、次のような反応であったと記しています。

 「 何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことが

  あるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだ

  という答えであった。」

 急逝(自宅で蜘蛛膜下出血で)から1週間後の弔問の際に、宮崎さんは、詩集出版の花神社の大久保さんから茨木が生前「挽歌の出版の意思を伝えていた」ことを知ったのだそうです。そして、6月の初旬に、宮崎さんは、書斎の書類の中から、小さく「Y」と書かれたクラフトボックスを発見します。その箱の中には、「推敲が済み、清書された」未発表の詩と、「目次のメモ」などが収められていました。 

 宮崎さんは、だいぶ悩まれたそうで、その夏をその詩を読みつつ「たくさんの伯母の友人や知人の方々とお会いしたり、縁のあった場所を旅したり」して過ごしたとあります。目次メモも二つあったり、リストアップされていない詩もあったりして、「おそらく伯母は新しい詩を書き足しては箱に入れていった」と思われると、宮崎は推理しています。

 そして、宮崎さんは、次のような形で詩集を出版することを決断します。

 推敲済みの詩はすべて収録する(39篇)こととし、「長い目次の前半部分」を<(14篇)>、その「後半部分」を<(16篇)>、「目次のメモにない」詩を<(9篇)>に分けたと、その順番成り立ちを示しています。茨木が決めずに他界してしまった詩集の表題は、「いろいろと考えた末に、最後に収録した「歳月」と名づけられた詩のタイトル」が最もふさわしいと考えたとあります。

 この茨木にとって甥である宮崎治さんの存在があっての『歳月』の出版であったのでしょう。

 この短い「あとがき」的「「Y」の箱」の最後に、次の文章が「供える」ようにおかれています。

 「 おそらくは下界の甥の心配をよそに、伯母は今頃、愛する夫との再会に

  大喜びで、いそいそと食事の支度でもしているに違いない。

   秋も深まってきた今宵など、レシピを見に戻ってくる気配すらあり

  や。」

  『歳月』表紙扉口絵写真 三浦安信・茨木のり子夫妻「1960年 自宅前で」

 前回も書きましたが、岩波文庫の『茨木のり子詩集』は谷川俊太郎が選者であり、その谷川は「初々しさ」と題した前書きで、「茨木さんの詩業は、亡くなった後に公にされた『歳月』によって成就したと私は考えています」と断じています。前回の繰りかえしになりますが、次の文章を続けています。

 「 『歳月』に収められた作には、もっと生な茨木さんが息づいています。

  天下国家に向けられていた眼が、愛する一人の男性に向けられたとき、

  <私>を含みこむことで茨木さんの<公>はより深く大きくなったと思いま

  す。」

 谷川は、『歳月』に掲載の全39篇から15篇を選んで詩集に入れています。

 今回、元の詩集全体を読む機会を得た私は、谷川が谷川の思う「生な茨木さん」という視点から、選ばれたということが理解できたように感じていますし、確かに私の反応する詩もやはり谷川選の詩と重なっています。このことは、谷川選の『歳月』によって、私が私の知らなかった茨木さんに出会い、ドキッとしたとの感想を得たことと照応しているのでしょう。

 前回は、その15篇から「その時」「なれる」そして「歳月」の3篇を引用しました。

 今回は、谷川選にもれた「最後の晩餐」と「殺し文句」そして、谷川選にもあった「急がなくては」の3篇を引用させてもらいます。

 最初の「最後の晩餐」です。

 宮崎さんの文章にあった「レシピ」(『茨木のり子の献立帖』(2017年1月刊/コロナ・ブックス)という本も出版されています)とも関わりがありそうです。

 内科医でもあった夫・三浦安信は、自分の病状をどのように茨木に話していたのでしょう。

 

     最後の晩餐

 

  明日は入院という前の夜

  あわただしく整えた献立を

  なぜいつまでも覚えているのかしら

  箸をとりながら

  「退院してこうしてまた

   いっしょにごはんを食べたいな」

  子供のような台詞にぐっときて

  泣き伏したいのをこらえ

  「そうならないで どうしますか」

  モレシャン口調で励ましながら

  まじまじと眺めた食卓

 

  昨夜の残りのけんちん汁

  鳥の唐揚げ

  ほーれん草のおひたし

 

  我が家での

  それが最後の晩餐になろうとは

  つゆしらず

  入院準備に気をとられての

  あまりにもささやかだった三月のあの日の夕食

 

 次は、「殺し文句」です。

 夫からの「賛辞」はどのようなことばだったのでしょう。そして、茨木からの「悩殺の利き台詞」とはなんだったのでしょう。

 

      殺し文句

 

  「これはたった一回しか言わないから良く聞けよ」

  ある日 突然 改まって

  大まじめであなたはわたしに

  一つの賛辞をくれた

 

  こちらは照れてへらへらし

  「そういうことは囁くものよ」とか言いながら

  実はしっかり受けとめた

  今にして思えば あの殺し文句はよく利いた

 

  無口で

  洒落たこと一つ言えなかった人だけに

  それは一層よく利いて

  今に至るまでわたしを生かしてくれている

 

  そう言えば わたしも伝えてあった

  悩殺の利き台詞 二つ三つ

  あなたにもあったでしょう

  愛されている自信と安らかさ

  

  ひとは生涯に一、二度は

  使うべきなのかもしれません

  近ければ近いほど

  心を籠めて 発止と

 

  粋でも日本語

  人を立たしめる力のある言葉を

  殺し文句だなんて

  急所刺すナイフイメージだなんて

 

 3つ目の「急がなくては」です。

 「それがわたくしたちの成就です」、このような男女、夫婦もおられるでしょうが、なかなかすごいことばです。

 

     急がなくては

 

  急がなくてはなりません

  静かに

  急がなくてはなりません

  感情を整えて

  あなたのもとへ

  急がなくてはなりません

  あなたのかたわらで眠ること

  ふたたび目覚めない眠りを眠ること

  それがわたくしたちの成就です

  辿る目的地のある ありがたさ

  ゆっくりと

  急いでいます

 

 最後の「急がなくては」にある「それがわたくしたちの成就です」は、童話屋の田中和雄さんによって『わたくしたちの成就』(2013年2月刊/童話社)という選詩集として出版されています。

 余計な感想になりますが、こうして70歳を目前にして再読してみると、ちょっと胸に詰まるようでもありますし、「生な茨木さん」は夫を失ったころ、私などと比較してとても若い、といっても50歳目前ですが、茨木さんだったのだという感慨も生じてきたのも事実です。

 

 梅雨近しの空模様になってきました。今日くらいに「梅雨入り」発表がありそうです。

 

2019.05.28 Tuesday

グラナダの出会いからー高階秀爾『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰』ー

 「「受胎告知」の絵を、目的の一つとして旅をしています」と、その方から聞いたとき、ああそんな旅もできるんだと思ったことは鮮明に覚えています。

 その方とは若い日本人女性で、パリのOECDに出向中とのことで、クリスマス休暇を利用した旅をされている途中でした。グラナダのパラドールで宿泊した翌朝、私たち二人で朝食をしていたとき、日本語が聞こえたものですからと声をかけてもらったのです。

 ひとしきり話がはずんだのですが、彼女は今よく使われる「鉄女」だそうで、パリに来てからは、休暇のたびにヨーロッパ中を、鉄道旅行をされているようでした。今回も、スペイン国内だけでなく、ドイツやスイスとかも回る予定で、その日は、私たちと同様、アルハンブラ宮殿見学を目的にちょうど同敷地内にあるパラドールに宿泊されていたのです。

 どうして「受胎告知」なのですかという問いに答えていただいたとは思うのですが、はっきりと覚えていません。いろんな旅先の街で教会や美術館を見学するとき、意識的に「受胎告知」をテーマとする絵画をみることにしておくと、その見学が興味深く楽しいものになるからというようなことではなかったでしょうか。アルハンブラ宮殿のような特別の目玉はなくても、鉄道を乗り継いでいくどんな小さな街でも、「受胎告知」なら共通するテーマになるし、だんだんと比較する面白さもわかってくるのでという話だったかと思います。

 さらに今までに出会った「受胎告知」で語りたくなる絵画はと尋ねたように思います。でも、そのとき、私が思い浮かべることができたのは、フィレンツェのサン・マルコ修道院(美術館)でみていたフラ・アンジェリコの図像だけだったこともあって、せっかくの彼女の答えは何も記憶に残っていません。

 年が明けて4月には、出向を終え、パリを離任して東京へ戻ることになるとのことでした。

 このグラナダでの出会いは2014年12月23日のことでしたから、早くも4年半前のことになります。

 

 このことが頭に残っていたからか、「受胎告知」をテーマとする新書を手にしました。高階秀爾著『《受胎告知》絵画でみるマリア信仰』(2018年11月刊/PHP新書))です。

 ちょっと美術の好きな初心者が、高名な美術評論家・美術史家である高階さんから、たくさんの図像もみせてもらいながら、2時間ぐらいの講演を聴かせてもらうという趣向の小著です。だから、《受胎告知》をテーマとする絵画をコンパクトにわかってもらうことが主眼になっていますが、さすがに年季の入ったプロフェッショナルな高階さんらしい明快でかつ本質的な内容が連発されているとの印象が残りました。

 当ブログのカテゴリーとして「アート」を設けている者として恥ずかしいのですが、キリスト教史や美術史を少し齧っている方であれば、ごく当たり前のことですら、私は何も知っていないのだと分かりました。今回やっと知ったという気になったことを、本稿ではメモしておくことにします。

  高階秀爾著『《受胎告知》絵画で見るマリア信仰』 2018年11月刊/PHP新書

  カバーの絵画は「ジェンティレスキ《受胎告知》1623年制作

  同上、カバー裏面の「目次

 本書の基本スタンスから確認しておきます。

 《受胎告知》は聖書を主題とする絵画の一例で、このような聖書に基づく絵画(彫刻を含みます)は、キリスト教の普及啓発というべき布教、いわば民衆の教化戦略の重要な手段であったというのが、本書のベースにある見方です。つまり、キリスト教は、教義を広く伝えるために聖書や聖人伝に基づく絵画や彫刻を重視しており、教義プロモーションの手段として、プロパガンダの手段として、美術が使われたというのが、基本的な視点なのです。

 そして、こうしたキリスト教の普及戦略の底流には、各時代の社会的な背景である、商業、交易の活発化と都市化の進展とともに、疫病、紛争などの災厄、これと関連しますが、宗教改革などが存在しています。だから、一口に《受胎告知》をテーマとする絵画といっても、描き方、表現様式にも、そうした時代的、社会的な状況が色濃く反映されているのだと、高階さんは、意を尽くして語っています。

 以上を踏まえながら、高階さんは、本書の副題にある「マリア信仰」という視点を重視しつつ、《受胎告知》が「もっとも多彩に花開いたのは、ゴシックの頃からルネサンスを経て、バロックに至るまでの間」、「すなわち、長い歴史においては、わずか数世紀のことにすぎない」と結論づけています。

 

 現代に生きる高階さんは、「そもそも《受胎告知》は非現実的で実際にはあり得ないストーリーであることは承知のとおり」とします。そのうえで、《受胎告知》の絵画は、「大天使ガブリエルが聖母マリアのもとを訪れて、イエス・キリストの誕生を予告する場面を描き出して」おり、「わずか数分間の出来事であっただろう」とし、そして「聖書では1ページにも満たないあっさりとした記述」であることを確認しています。

 他の《アダムの創造》《最後の晩餐》《聖母子》などともに、《受胎告知》が大きな主題となった理由として、高階さんは「深遠であると同時に、身近で親しみやすい側面も兼ね備えており」、「数多くの芸術家たちの想像力を刺激する」とともに、「その時代、その時代の民衆の心をとらえてやまなかった」からであると述べています。

 このことは「身近で親しみやすい聖母マリアの存在が大きい」のだとし、その背景に431年のエフェソス公会議で「キリストは神人両性であることと、マリアは「神の母」という聖なる存在であり、特別な人間であることが明確に結論づけられた」という歴史的事実を指摘しています。この結論は中世以降のヨーロッパ社会に強い影響を及ぼしましたが、「やはり神なので畏れ多く、ちょっと近寄りがたい」イエスよりも、「親しみやすいマリアを仲介者として、天上の神に執り成してもらうことを民衆は望んだ」とし、高階さんは「マリア信仰」の肝のようなことを次の文章としています。

 「 マリア信仰が盛んになるのはゴシック時代以降のことだが、崇敬の念を

  抱くと同時に、どんなに貧しい人間でも、どんなに卑しい人間でも、安心

  して保護と救いを依頼できる優しい存在として親近感が持たれるように

  なったからである。」

 かくして、「マリア信仰」は盛んになり、ゴシックの時期以降、「ヨーロッパの各都市でこぞって《受胎告知》が描かれるようになった」のです。

 

 それでは、時代をおって、《受胎告知》の描かれ方や表現様式の変遷を、高階さんの図像を利用しつつ、確認しておきましょう。

 まず、13~14世紀というゴシックの時代には、都市の発達にともなって大規模な教会堂が次第に増え、内部には装飾が施され、「絵画はいわば「文字を読めない人たちのための聖書」という役割を担った」です。

 この時代の背景として、1347年から51年にかけてのペストの蔓延や、1339年からの百年戦争など、疫病や紛争に伴う社会的な不安との関係を、高階さんは指摘しています。ですから、パリのノートルダム大聖堂(「わたしたちの貴婦人」の意で「聖母マリア」のことを指す)をはじめノートルダムという名称の教会の建設が相次いだのです。

 ゴシックの頃から、親近感のある存在として、マリアは「より人間的に表現されるようになり、表情も穏やかに変わっていく」のです。この時期の《受胎告知》の代表的なものとして、高階さんは、イタリアのパドヴァのスクロヴェー二礼拝堂のジオットなどともに、シモーネ・マルティーニを取り上げ、次のような表現を与えています。

 「 マリアは「神の母」を示す玉座に腰をかけていて、威厳ある存在として

  描かれているものの、その表情は、人間の娘として驚きや不安を隠そうと

  していない。つまり威厳がありながらも、人間的で親しみやすさも兼ね備

  えた人物像としてマリアは表現されている。」

  シモーネ・マルティーニ《受胎告知》部分1333年制作 /本書83p

 続く15世紀半ばのイタリアに端を発するルネサンスという時代は、フィレンツェをはじめとする都市国家で経済的に成功を収めた者が修道院や教会に積極的に寄進する一方、私邸にも宗教美術が飾られることになったのだそうです。

 高階さんは、ルネサンス美術を語るうえで見落としてはならないというのがフランドル美術だと強調しています。経済力を後ろ盾とした市民文化が発達した同地域では「油彩画」「遠近法」の技法、それを活かした「柔らかい光と豊かな色調」とともに「細やかな室内描写」「自然の風景の導入」など写実的表現や細密描写が発達したのです。そして、このフランドル美術が、イタリアのルネサンス美術に大きく影響を与え、花開かせたというわけです。

 マリア像は、「親しみやすいばかりでなく、自然な趣」で描かれるようになったとし、高階さんは、その表現方向を次のとおり括っています。

 「 人間中心主義であり、遠近法にしてもそうだが、人間の目で見てどう見

  えるのかが問われた。その結果、マリアも「神の母」というより、人間で

  あることが強く表現されるようになった。」

 こうして写実的表現が求められたとし、ボッティチェリ、ピエロ・デ・フランチェスカ、ラファイエロらとともに、レオナルド・ダ・ヴィンチの背景に風景を描いた《受胎告知》を代表的な作品として紹介しています。この《受胎告知》は「大天使ガブリエルとマリアが向かい合い、その背後に遠近法の表現による風景」が広がり、「幾何学的な構成の中に自然がきちんととらえられている」と、高階さんは記述しています。

 今はウフィツィ美術館にある20歳をすぎたばかりのダ・ヴィンチが描いたとされる《受胎告知》を10年前に初めてみたとき、私はこれがダ・ヴィンチなの、へぇーというぐらいの感想しか出てこなかったことを覚えています。

  レオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》1472年頃制作 /本書124p

 先を急ぎたいのですが、フラ・アンジェリコの《受胎告知》にも高階さんはふれています。「建物を立体的かつ写実的に描く技法」の進化事例として取り上げられているのですが、サン・マルコ修道院(美術館)の階段を上った二階の廊下の壁と、かつて僧房内であった室内にある、二点の《受胎告知》を比べています。つまり、僧房内のものは「余計な描写は徹底的な省き、現世的な喜びを排除」しており、「ひとつの修道院内で同じ主題を扱いながらも」、フラ・アンジェリコは「見る対象をはっきり区別し、意識して違う表現」を行ったのだと指摘しています。

 私にとっては、今も《受胎告知》といえば、この廊下にある作品の方のなのです。美術館といっても、修道院がそのまま使われていて、その現場の空気感(教会の内部空間とも違います)にも後押しされたというか、つまり私にとって最もふさわしい場で出会ったからではないかと思っています。

  フラ・アンジェリコ《受胎告知》上:1440年/下:1441-43年制作 /本書112p

  フラ・アンジェリコ《受胎告知》ポスター

  サン・マルコ修道院(美術館)の2階廊下《受胎告知》 /[2015.5撮影]

 ゴシック(直前のロマネスクにもふれていますが)、ルネサンスに続いて、高階さんは16世紀前半に顕著になったマニエリスムという表現様式を一つの時代として区切っています。

 1932年生まれの高階さんは、学生の頃には「大雑把に言うならば13、14世紀はゴシック、15、16世紀がルネサンスで17世紀がバロックと習った」とし、この「マニエリスム」が美術史に定着したのは、第二次世界大戦後、10年を経た後のことにすぎないと注意を喚起しています。そして、日本においても、若冲や蕭白が「奇想の系譜」として注目され始めたことと、時期、内容とも「不思議な符号」をみせていると述べています。

 ルネサンスの様式美を大胆に変化させようとする動きとして、マニエリスムの絵画の特徴を「奇怪で幻想的、エキセントリックな傾向を強調した様式であり、極端な明暗のコントラストや歪められた遠近法、強烈で大胆な色彩構成、さらには不自然な人体プロポーションなど」としています。

 

 この時代の社会的背景として外せないのは「宗教改革」のことです。プロテスタントは「偶像や聖人崇拝をいっさい否定し」、「マリア信仰さえ否定された」のです。こうしたプロテスタントの美術に対する厳しい対応は、カトリックに逆バネとして働きます。1545年に始まり、1563年に終結したトレント公会議では、カトリックは「絵画や彫刻が人々の心情に及ぼす影響を重要視し、信仰を深めることを目的に積極的に美術を活用しようという方針」を打ち出しました。つまり宗教改革に対する反撃として、宗教画を非常に大きくクローズアップしたと、高階さんは記したうえで、《受胎告知》の描き方への影響を次のとおり表現しています。

 「 ゴシック期にはマリアに親しみやすさが求められ、ルネサンス期には自

  然で日常的な表現が特徴だったが、マニエリスムの時代には幻想的で神秘

  の世界の出来事として《受胎告知》が描かれるようになった。

   (中略)マニエリスムの時代はあらためて神秘性が強調されたのであ

  る。」

 宗教改革で火がつき、各地で宗教戦争も相次ぐという不安定な社会情勢のもとで、人びとは「目を背けたくなる現実があるからこそ、幻想的な美術に惹きつけられた」のでないかというのです。

 

 この時期の代表的な画家として、ティツィアーノやヴェネローゼというヴェネツィア派の画家をあげ、これに続く系譜として、クレタ島に生まれ、ティツィアーノの工房に身をおき、スペインで活躍したエル・グレコの名を記しています。エル・グレコの《受胎告知》の1枚は、大原美術館にあります。動きの大きなポーズの作品で、設定も夜になって神秘性が強調されています。

 長く大原美術館の館長をしている高階さんは、グレコの《受胎告知》が大原美術館に所蔵されている経緯にふれています。このような他の近現代を中心とする所蔵作品と異質な作品を購入するにあたっては、死後、名声の衰えていたグレコが「20世紀を迎えてフォービズムや表現主義などの新しい芸術運動」を背景として再評価する動きのなかで、大原孫三郎と児島虎次郎の強い信頼関係があって初めて実現できたこととして、深い感慨をもって書きとめています。

 不思議なことに、小学生の頃に大原美術館でみた絵画として今も記憶しているのが、偶然にも、このグレコの《受胎告知》なのです。 

  エル・グレコ《受胎告知》1590-1603年頃制作 /本書148p

 マニエリスムに続くバロックは16世紀末頃からイタリアに現れ始め、17世紀にはヨーロッパ全土に行き渡りました。

 マニエリスムの特色をさらに強く打ち出したのが、バロックですが、その違いを明確に見出すことは難しいと高階さんは書いています。そのうえで「あえて言うなら」と、より「派手で大袈裟」であり、「ダイナミズムも明暗の差」も激しく、さらには「色づかいが華やかでより鮮烈である」としています。

 このことは《受胎告知》にも反映されると、次の特色を明記しています。

 「 大天使ガブリエルが宙に浮いているという絵画的演出は、(中略)バロッ

  クの頃には典型的な表現とすらいえるようになった。

   また、マリアが後ろを振り向いたり手を前に出したりといったダイナ

  ミックな動きの表現が顕著となった。そして表情にも、驚いた心のうちを

  強調する表現が多く見られる。

   さらにルネサンス期に始まった水平的な構図は影を潜め、バロックでは

  対角線構図や上下構図がよく用いられた。(中略)対角線をより強調した構

  図がバロックの特色である。」

 カトリック教会による大衆教化の手段としてバロックの画家たちに期待されたのは、「宗教の持つ超越性をあらためて強調」することであり、「キリスト教に権威と神秘を取り戻す」ことでした。

 

 バロックの代表的な画家として、高階さんはルーベンスやジョルダーノとともに、二人に先立ち、大きな影響を与えた創始者として、カラヴァッジオをあげています。「非常に強い明暗で、生々しい現実的なさま」を描いたカラヴァッジオは、まさに前記のバロックの特色を体現していました。

 カラヴァッジオが、いつ頃「バロック絵画の創始者」と評価されたのか知りませんが、これも第二次世界大戦以降のことではないかと思います。こうした画家に対する評価の上下動、再発見、再評価の動きなども、ただ研究の進化というだけでなく、奇想の系譜のように、時代状況の産物である側面があることも忘れてなりません。

  カラヴァッジオ《受胎告知》1608-09年制作 /本書164p

 さて、続く18世紀、ロココと呼ばれていますが、高階さんは18世紀には「《受胎告知》の隆盛期は終わりを告げ」、「19世紀に入るとますます《受胎告知》やキリスト教絵画は描かれる機会が減った」としています。どうしてそうなっていったのかという問題は、本稿では割愛し、まさに近現代と呼んでいる時代の反映とだけ記しておくことにします。

 今では《受胎告知》は美術館が守り、「多くの人たちに伝える役割」を担うようになっています。本書の最後の文章を引用しておきます。

 「 《受胎告知》は本質的にキリスト教絵画である。人々を信仰に導くた

  め、そして神の栄光を讃えるために描かれた。美術館や展覧会のために描

  かれたわけでは決してない。

   人々はジオットやダ・ヴィンチ、グレコらの絵を鑑賞したのではなく、

  深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである。」

 

 これで本書の紹介は終わりですが、一つだけ追加させてください。

 グラナダの頃に比べて、私にとって、新たな《受胎告知》が加わりました。アントネッロ・ダ・メッシーナの「受胎告知のマリア」です。告知する大天使ガブリエルが登場していなくて、マリアだけの顔と手の表情だけなので、これを高階さんの《受胎告知》としてカテゴライズされるのかどうか知りません。

 この2016年4月1日の昼下がり、パレルモのシチリア州立美術館で出会えた驚きと喜びは、今も鮮明です。この邂逅は、当ブログに2016.9.28「大樹のようなカオス・パレルモ(その2)ーシチリア・パレルモ紀行(2)ー」に書いています。観光ルートから外れた美術館の、誰もいない無防備な部屋に、二重のガラスで防備された「受胎告知のマリア」から発せられた光を忘れることができません。

  アントネッロ・ダ・メッシーナ「受胎告知のマリア」1476、77年頃?制作

                   [2016.4.1撮影/シチリア州立美術館、パレルモ]

 

 以上、グラナダの出会いから、4年余を経て、やっと「受胎告知」の絵画について学ぶ機会を得ました。それだけでなく、「受胎告知」をはじめとするキリスト教美術の存在理由、その社会的役割が、現在の写真を中心とする平面図像の存在を不可欠とする広告宣伝、さらには広く広報全般というものとも共通した部分があることを知りました。

 そこに人間の本質のようなものを見出し、現代を生きる人間と、宗教、信仰との関係など、思いは拡がりますが、安易に語ることはできません。

 帰国されたであろうあの方は、今も、鉄道に乗って旅をされているでしょうか。日本でなら、《受胎告知》に替わるような目的は何なのでしょうか。仏像なのでしょうか。元気でやっておられることを祈るほかありません。

 

 2014年12月のアルハンブラ宮殿のこと、グラナダのこと、そしてスペイン旅行のこと、もっと書いておきたい気もしますが、通り一遍の感想を超えられそうにありません。一人の観光客の撮った写真そのものですが、パラドールとアルハンブラ宮殿の映像を添付させていただくことにします。

 なお、当ブログでは、これまでにスペイン旅行に関係する記事を3点アップしていました。

 🔹2015.11.14「音楽」があるということ

 🔹2017.7.10「クチナシの香りから7月は始まりー

            『サクロモンテの丘-ロマの洞窟フラメンコ』ー

 🔹2017.8.20「バルセロナで美の喜びと出会う

                 ーモンタネールのモデルニスモ建築ー

  パラドール・デ・グラナダのエントランス  [2014.12.23撮影]、以下同じ]

  パラドール・デ・グラナダの中庭 

  アルハンブラ宮殿「アラヤネスの中庭」

  アルハンブラ宮殿「ライオンの中庭」

2019.05.21 Tuesday

あまりのタイミングにびっくりしてー森有正の「経験」と日本国憲法ー

 新緑の季節を歩くことは楽しいものです。4月中旬頃から、毎日の散歩コースでは、クスノキ、ケヤキ、モミジそしてイチョウなどの木々が透明感のある薄緑色にどんどんと変化していきます。こんな自然の変貌からめぐりくる季節を感じることは他の時期でもありますが、新緑に向かう1ヵ月くらいが、ざわざわっとどこかで何かがうごめく音が聞こえるようで一番好きなのです。

 でも同時に、足元では、雑草もどんどんと伸びはじめます。それまで枯れ色を踏みしめながら速歩していた野道を、雑草の勢いにおされてよろめき、避けながら歩いていたりもします。気温が20℃を少しオーバーしてくると、池の土手には亀が並んで甲羅干しをするようになって、ガサガサという私の足音に驚き水面に飛び込んだりするのです。亀たちの反応には速い遅いの個体差があって、いのちの個性という原点を見た気がします。

 今年もこんな季節がめぐってきました。そして、緑はとどまることなく、どんどんと濃くなっていきます。

 

 先々週、大学での聴講に向かう前に、JR六甲道駅から歩いて10分ほどの春日神社に「大クス」を訪ねました。

 上手く写真が撮れていませんが、この「神前の大クス」と呼ばれるクスノキの新緑には、推定樹齢500年のパワーも加わってか、いやーこれはと圧倒されました。こんな狭い境内に、小さな社殿のそばに、超ど級のクスノキが立っているのです。「県指定文化財」と表記されたパネルには、推定樹齢とともに、「根回りは17.4mで、樹高は18m」とあります。もともと二株あったものが癒着したものと考えられるとあり、その株それぞれが2分して、あわせて4本の太い幹となって伸びていると説明されています。

 ネット上の情報には、兵庫県下では最大のクスノキとありますが、少なくとも樹高では大中遺跡公園内のクスノキの方に軍配が上がりそうです。樹齢を重ねた大クスは、樹勢の劣化と近隣との環境の調和のためもあってか、何本もの太い幹が途中で人力で切断されて今の姿となっているのです。一方、「I am a Rock」といいたげな「根回り」の広がりは、こんなすごいものに出会ったことがないほどで、真偽のほどはわかりませんが、こちらの方が兵庫県で最大ということなのかもしれません。

 いずれにしても、そばに近づくと、巨樹の生命力を感じることができます。

 

 大学での聴講を終えた帰り道、春日神社と比べようもなく規模の大きな八幡神社の境内を通り抜けました。この参道の新緑トンネルは、この季節の醍醐味を味あわせてくれました。

  春日神社のクスノキ(右手は樹幹と根回りのみが保存されたクスノキ)

                [2019.5.10撮影/神戸市灘区神前町 以下同じ]

  樹齢500年の「神前の大クス」(一つの根元から4本の太い幹が伸びている)

  近づくと巨樹の風格ただよう大クスノキ

  「I am a Rock」と呼びたい根回り

  新緑の参道が美しい八幡神社

 

 本稿は、連休明けすぐから書きはじめたのですが、10日間ほど手を付けられないままでした。70歳になる年齢ということで高校のクラス会をやることになって、メールのやりとりが急に増えたこともありましたし、3年ぶりに2泊3日で上京したりしたことはあっても、私を落ち着かなくさせたのはどうしてでしょう。完全リタイア後にはあまりなかった状態、たわいのないことだとしても、老いの影をみている私にとっては、ちょっと心が騒がしかったということかなと思っています。

 

 5月3日の憲法記念日に、NHKBSプレミアムで『パリ五次元紀行ー森有正 遥かなノートルダム』が放送されました。「この番組は2002年に放送されたものです。/ノートルダム大聖堂の復興をお祈りします」とのテロップが流れていました。ですから、先月にノートㇽダム大聖堂の火災があったということで、17年ぶりに再放送されたのでしょう。

 ちょうど4月29日付で当ブログに「遥かにノートルダムは遠ざかりー森有正のことー」というタイトルで、「昔ばなし」というべき文章をアップした直後だったこともあって、火災という出来事からすると当たり前かもしれませんが、そのタイミングにびっくりしました。

 もう一つの驚きは、憲法に関する新聞記事とともに、内田樹さんの日本国憲法をめぐる論説(講演録)を読んでいて、ハッとしたのです。内田さんの日本国憲法についての現状認識が、森有正の「経験」という問題と、私にはオーバーラップしてきたように思えたことです。

 内田さんの言説は、現下の「改憲派が強くて、護憲派が弱いという歴史的背景」を認識するうえで、私の問題意識に言葉を与えてもらった、目を覚まさせてもらったと申し上げたいインパクトがありました。一方で、森有正が「経験」という言葉を通じて伝えようとしたのは普遍的なことだとしても、その基底には敗戦日本、戦後日本のありように対し、森自身が明治以降の近代化と同様に欠落を意識していた問題が継続しており、それはとりもなおさず憲法問題と通底するものがあったのではないかと申し上げたいのです。

 

 本稿のテーマとの関わりが微妙なのですが、少しだけテレビ番組『森有正 遥かなノートルダム』の内容にもふれておきます。

 森有正の亡くなった後、ノートルダム大聖堂へ生前の森有正を何回も運んだタクシーの運転手が狂言回し役となって、タクシーに乗ってきた少女に、「先生」と呼んでいたという森有正とノートルダム大聖堂の関係を回想して語るという体裁で、フォトエッセーのように番組は進行します。

 ここでは、二つのシーンだけを取り上げておきます。

 一つは、渡仏の1950年からノートルダム大聖堂と対峙してきたようにみえる森有正が、最晩年の1974年のエッセー「遠ざかるノートルダム」の最後のところで、「ただ出発の準備は、今度こそ終わったのである」とし、「どこへ向ってであろうか。それはもうノートルダムもない国へ、法隆寺もない国へ向かってである」と締めくくった部分と関連します。

 番組の最初のパートで、タクシー運転手がノートルダムへよく通うために乗せる森有正にむかって「先生、日本にも古い寺はあるでしょ?」と尋ね、森が「法隆寺は、なんだか心細い。木造ということもあって、ひどく脆弱で保護されて、やっとのことで残っているという感じです」と答える場面があります。「そこへいくと、シャルトルにしてもノートルダムにしても、石造だからか、嵐が来ようと何があろうと、ちゃんとしのいで厳然と立っています」という趣意の言葉を続けています。

 森の著作のなかに法隆寺をこのように評していた文章があるのか、番組のナレーションを書いた構成者が自分なりに解釈したのかわかりませんが、私と同世代の構成者が、同時期に私と同じように森有正に恋していた人で、こんなマニアックなテレビエッセーを制作したのではないかと、私は想像してしまいました。

 

 もう一つは、番組の締めくくりに近いところで、ノートルダム大聖堂を「パリで暮らす私たちの歴史だ」と語るパリ市民の映像に続いて、「先生の口から「経験」という言葉が出た」とタクシー運転手が語ります。そして、「自己の「経験」をある程度以上に深めていった場合に必ず起こってくることは、他の人間の「経験」との一致を期せずして知らされることです」とナレーションが続き、「そのとき人間の精神とか理性とか呼ばれているものが、人間の「経験」そのものの表現にほかならないことを知るであろう」と結ばれます。

 次のシーンでは、森有正が好きだったノートルダム大聖堂裏手の小さな公園で、かつて小さな苗木だった菩提樹がずいぶんと大きくなって、少女がその太い幹に手をあてています。「こういう目のたちにくい、しかし中断することのない木の成長は、自分の生活についての喜びを与えてくれます。しょせん、私共もこういう木々のように成長していかなければならないのではなかろうか」とのナレーションが入り、タクシー運転手の声で「先生はもうノートルダムと戦おうとはしていなかった」「まるでノートルダムに話しかけているかのようであった」と括られているのです。

 構成者にとって、森有正の「経験」なるものをこのように理解して表現したのだ、具体的には「木々の成長」のような状態を「経験」の深まりとの比喩において解釈していたのだと想像しておくことにします。

  番組タイトル「森有正 遥かなノートルダム」 [2019.5.3放送/NHKBSプレミアム]

  テロップ「この番組は2002年に放送したものです

                                             /ノートルダム大聖堂の復興をお祈りします」

  パリのシテ島とノートルダム大聖堂

  少女は菩提樹の幹に手をふれ(ノートルダム大聖堂裏手の小公園)

 

 さて、本題ということになります。

 どうして、内田樹さんの「日本国憲法」論を、森有正の「経験」と重ね合わせるように読んだのかということです。まず私なりの言葉を探して提示しておくとすれば、「魂が入る」という表現となります。なにか俗語的ですが、「魂を入れる」ではなく、「魂が入る」の方が適切ではないかと思っています。

 森有正の「経験」という言葉について、森のことを終生「先生」と呼んでいた辻邦生は「あることが本当に身体でわかり、そのような確乎としたものと感じられ、それが動かしがたく私たちの中に存在している」状態のことだと説明していました。また辻は、森が求めたのは「身体の中に実現された知恵のごときもの」であったとも表現していますが、私の「魂が入る」は、もう少し感覚的に理解しやすい平俗な言葉として「仏作って魂入れず」という状態ではない状態を表現するために使おうとしています。

 

 このことを念頭におきながら、内田樹さんの日本国憲法論の骨格を抽出しておきます。ちょうど1年前、2018年の5月に日仏会館で行った講演(護憲集会)のことで、「内田樹の研究室」というブログにアップされています。興味をもたれた方は、私のまずい要約より(今回の要約はほんの一部分にすぎない)、全文に目を通していただければと願っています。

  🔹2019-03-31『憲法について』/「内田樹の研究室」

 内田は「僕が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルです」からはじめています。冒頭で二つのことを提示しますが、後者は日本はアメリカの属国で国家主権をもっていない、つまり「「日本国民は今のところ完全な国家主権を持っていない」という痛ましい事実を認める」ところから始めなければならないということです。このことは重要ですが、本稿のテーマに即していうと、私の反応したのは前者です。内田は「現代日本において日本国憲法というのは「空語」である」ということであり、ですから「この空語を充たさなければいけない」というのです。そして、次の説明を加えています。

 「 日本国憲法の掲げたさまざまな理想は単なる概念です。「絵に描いた

  餅」です。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、

  生命を吹き込んでゆく、そういう働きかけをしていかなければならないと

  いうことです。

   憲法は書かれたらそれで完成するものではありません。憲法を完成させ

  るのは、国民の長期にわたる、エンドレスの努力です。そして、その努力

  が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していると呼ぶには

  ほど遠い。というのが僕の考えです。」

 では、「現代日本において憲法とは空語である」という考え方とはどういうものか、そうした状態はどうして作り出されたのか、そしてどうすればいいのかについて、内田は講演のなかで丁寧に説明しようとしていますが、それは後回しすることにしましょう。

 

 この最初の部分を読んだだけでも、私は、内田の憲法観に痛みを覚えつつうなずかざるをえず、そして内田の使っている「受肉」という言葉から、森有正の「経験」へと跳躍していました。

 それはどういうことか。辻邦生は、森有正が40歳で1年の予定で渡仏したものの、そのままヨーロッパにとどまった理由を、「<名辞、命題あるいは観念>すなわち「言葉」のみで構築した思索の建造物に、真の「経験」を与えること」であったと強調していることは、前稿でも特記したところです。真の「経験」を持たない段階で日本において構築された自分のヨーロッパ思想に関する研究を「全否定せんばかり」に怖れたところから、森のヨーロッパ滞在、その思索の展開は開始されたと、辻は解しているわけです。

 私は、森有正の「思索の建造物」と内田樹の「日本国憲法」という主語が、それぞれ森の「真の「経験」を与える」と内田の「「受肉」させ、生命を吹き込んでゆく」という術語に結ばれていますが、それぞれ相互に入れ替えることが可能なものと立ち現れたのです。そうも読めると読んだのです。もとより比較にならないものにアナロジーを発見したと思って喜んだというだけにすぎないかもしれませんが、私が森有正のことを読んだり少しは考えたりしていた残像が強く残っていたタイミングだったので、こんな跳躍を可能にしたのでしょうか。

 このアナロジーがまったくの言葉遊びと思えないのは、森有正の思索の背景に明治時期以降の近代化の過程において西欧の知識だけをただ学ぶという表面的な文化摂取の態度への、自分の学問も含め、強い問題意識があったように、森は戦後日本に対してもアクチュアルな問題意識をもっていたと考えるからです。たとえば、1974年に書かれた森のエッセー「三十年という歳月」には、次の一文があります。

 「 我が国のことを振返って考えてみると、アメリカの圧倒的影響下に成立

  した新しい憲法をもつ日本において、第一になすべきことは、戦争反対と

  民主主義の原理に立つその憲法が、西欧的傾向の上に立つことは言うまで

  もない。それは未だに十分徹底的でないかも知れないが、とにもかくに

  も、それを明確に徹底的に実践するところから始めなければならないと思

  われる。」

 この文章は、45年前の森有正が「未だに十分徹底的でない」憲法を「明確に徹底的に実践するところから始めなければならない」と認識していたことを示しています。

 

 私の「魂が入る」を使って、もう少し補足しておきましょう。

 日本国憲法というのは「空語」であるという内田樹の現状認識は、本来のあるべき姿と相違して、現実は「仏作って魂入れず」のままで、「魂が入る」という状態になっていないということを意味しています。つまり、私が「魂が入る」で表現したかったのは、森有正の「真の「経験」を与える」と内田樹の「「受肉」させ、生命を吹き込んでゆく」という、いわば木々のように目にたちにくい成長を止めない状態を理解するための言葉としてです。

 森と内田の言葉を入れ替え、たとえば「日本国憲法という空疎な概念に、われわれ日本国民が真の「経験」を与えることによって、その空語を充たしていくことができる」とでも書き換えることも可能です。

 しかしながら、前者は私には批評できないにしろ、森の最晩年に「遠ざかるノートルダム」として一定の達成をみたのに対し、後者は未だ道半ば、というより「日本国憲法」の空疎な概念を「受肉させ、生命を吹き込んでゆく」主体たるべき国民が、いわば護憲派と改憲派として分断された状態にあるということなのです。

 かくして「日本国憲法」に「魂が入る」状態は、いよいよ遠ざかりつつあるというのが、内田樹の現状認識であり、危機意識なのです。

 

 以上が、本稿で書いておきたかったことです。でも、これだけでは、ノートルダム大聖堂の火災から森有正の記憶がよみがえり、やっぱりわからないのかなと首を振りながら「経験」のことを書いてみた私が、内田樹の憲法論に連想的に反応したという事実を伝えただけのことになります。

 前記したとおり、内田の憲法論は全文を読んでいただくしかありませんが、本稿の最後に、私の理解するそのコアな部分を、内田の豊かなレトリックを捨てることになるものの、アウトラインだけでも、簡単な整理を試みておきたいのです。

 

 では、「現代日本において憲法は空語である」という考え方とどうしてそうなったのかについて、内田の論理をおってみることにします。

 内田はまず護憲派の年齢層が総じて高く、60、70歳代の人が中心で、どうしてその運動が若い人に広がらないのかと提起します。それは若い人がむしろ改憲派の言説の方にリアリティーを感じているからではないかとし、反対に1950年生まれの内田にとって、憲法は山や海のように自然物で当たり前だったとします。こんな差異が生じた原因について、内田は、戦争との距離感、世代という問題にフォーカスし、戦中派の人たちが身近にいたのか、いなかったのかという先行世代との関わりの違いなのだと説いているのです。

 内田は、自分と同世代の私たちにとって、親や教師にあたる先行世代、すなわち戦中派から、憲法を否定する言葉を聞いたことはないし、改憲論もずいぶん後年まで聞いたことがなかったという事情にふれます。そして、戦中派と呼ばれる人びとは、二つのことがらについて沈黙していたと指摘します。一つは「戦争中における彼ら自身の加害体験についての沈黙」で、もう一つは、この沈黙と対になるかたちで「憲法制定過程についての沈黙」であり、現下の憲法をめぐる改憲派を基礎づけるロジックである「押し付け憲法」に対し、特に後者の「沈黙」を強調しています。

 つまり、私たちの世代が憲法を自然物のように受け止めてきたのは、いわば先行世代の「沈黙」という作為によるものだったわけです(この戦中派の複雑な心情について、内田は「常識と抑制の産物」などの表現で責めようと思わないとしますが)。急に改憲派から「こんなもの押し付けられた憲法だ」と言われると、自然物だと思っていたものが「張りぼて」だという一面があると知って、動揺してしまうのだというのです。すなわち、平均年齢70歳前後という世代を核とする護憲派という存在は、先行する戦争のリアルを知る戦中世代の「常識と抑制の作物」だったのだから、改憲派の「激しい感情や露悪趣味」に対して弱いのだとも語っています。

 こうした戦中派の「沈黙」によって守られた私たち世代のナイーブさの弱点を、内田は、私たち世代より若い世代と対比させ、次のように断じています。

 「 そう言われて初めて、憲法を自然物のように思いなすというのは、僕た

  ちの世代的な「偏り」であって、戦中派の薫陶を受けていない世代は憲法

  を僕たちと同じようにはとらえていないのだということを初めて知ったの

  です。

   だから、護憲論が空疎になるのです。護憲論を批判するのはほんとうに

  簡単なんです。こんなものただの空語じゃないか。「絵に描いた餅」じゃ

  ないか、国民のどこに主権があるのか、「平和を愛する諸国民の公正と信

  義」なんか誰が信じているのか、国際社会が「平和を維持し、専制と隷

  従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」なんて白々し

  い嘘をよく言えるな。そう言われると、まさにその通りなんです。」

 

 このような強い言葉を用いて、護憲という立脚点の脆弱性を喚起したうえで、内田は、そもそも憲法とはどのような性格の宣言なのかに立ち戻っています。いわば逆転の発想というべき視点を持ち出すのです。

 憲法を制定するのは「歴史上ほとんどの場合、戦争や革命や反乱によって前の政治体制を覆した政治的強者」なのであり、「憲法条文上内部的に主権者として認定された主体」ではないというのです。すなわち憲法や宣言とは、「起草主体の一人だという自覚を持つような「われわれ」をこれから創り出すために発令された」ものなのです。

 ですから、「日本国憲法」は本来「この憲法を自力で書き上げられるような国民に自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題でなければならなかったはず」なのです。それができれば「空語」ではなく「実体」をもったはずなのだが、そうはならなかった、そう実践できずに「空語」のままでとどまっているというのが、現行の憲法をとりまく現状なんだと深い憂慮をともなって指摘しているのです。まさに内田の言葉である「「受肉」させ、生命を吹き込む」ことができなかったというわけです。

 前述の森有正に再登場してもらうとすれば、「明確に徹底的に実践するということを始めなければならない」が実行されてこなかったというわけです。

 護憲派が弱いのは、こういうふうに問題を立てずに、最初から「日本国民は存在する」というところから話を始めてしまったことにあるというのです。つまり、私なりの言葉にするとすれば、憲法は国民主権の出発点にすぎないのに、国民がエンドレスに完成をめざしていくべきものなのに、最初から完結物として客体的に向き合ってしまったところに大いなる誤謬があったのです。そこに固執し、憲法制定過程の事実を国民の合意にできなかったというのです。

 そして「仮にもし」と次の見方を提起してます。

 「 戦中派の人たちが憲法制定過程における日本国民の関与の薄さというこ

  とを僕たちに向かって率直に開示して、「でも、自力でこれを書けるよう

  になろう」というかたちで戦後の市民意識の成熟の課題を掲げてくれたの

  であれば、それから何十年もして改憲派に足をすくわれるようなことは起

  きなかったと思います。」

 内田が「後知恵ですけれども」と語るとおりですが、内田の言説は事の本質を鋭く照射しています。だが、残念ながらそうはならなかったのです。こうした「日本国憲法」をめぐる過程が「憲法制定過程に日本国民は関与していない、これはGHQの作文だ、これはアメリカが日本を弱体化させるため仕掛けた戦略的なトラップだ」という改憲派を基礎づけるロジックを用意したのです。改憲派の護憲派に対するアドバンテージとは、「まさにこの一点に尽きる」というわけです。

 

 以上が、「日本国憲法は空語である」と言う内田の考え方とその原因分析ということになります。

 繰りかえしますが、戦中派の二種類の沈黙、すなわち「戦争経験、とりわけ加害経験について語らなかったこと」と「日本は国家主権を失い、憲法制定の主体たり得なかったということを語らないこと」が、内田は、「戦後日本に修正することの難しい「ねじれ」を呼び込んでしまった」と主張しているのです。この沈黙について、内田は、1950年代から60年代にかけて、多くの戦中派が口にしていた言葉として、「戦争は負けたけれど、負けたせいで、こういう「良い社会」になったのだ。結果オーライじゃないか。自分たちがどれほど罪深いことをしたのか、どれほど理不尽な目に遭ったのかというようなことについては口を閉じて、黙って墓場まで持っていけばよい」と表現しています。そのことを私たち世代はうすうすというか、はっきりと感じていたのだともいえます。

 別のところで、言い方を変えて、「この戦中派の節度と、僕たち戦後世代に対する気づかいが、その後の歴史修正主義者や改憲派の登場の素地を作ってしまった」とも語っています。憲法そのものに力があったわけではないが、戦中派の人びとのリアルな生身が「憲法の堅牢性を担保」していたが、その人たちが「死んでいなくなってしまったとたんに、僕たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法は残された」というのです。ですから、戦争を知る戦中派に比べて、その下の私たちの世代には、いわば庇護されてきた分、戦争を知らない若い人たちに語るべきリアリティーがさらに弱いといわなければならないのです。

 

 では、どうすればいいのか。

 以上のロジックでいけば「戦中派の二種類の沈黙」を破っていくことが不可欠ということになりますが、内田は、特に憲法制定過程について、次のような言い方をしています。

 「 憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっ

  ても構わないと思います。でも、その憲法がどういう歴史的過程で、どう

  いう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国

  民的合意があるべきだと思うんです。その合意がなければ、憲法の個別的

  事項についての議論を始めることはできない。でも、日本人にはその合意

  はない。憲法制定の歴史的過程は集団的な黙契によって隠蔽されてい

  る。」

 護憲派こそがこの黙契を破らなければなりませんが、内田は、これまで護憲派の方がパンドラの箱を開けることを回避してきたのだと解しているのです。内田が語るとおり、この憲法制定過程(都合のいい理解に立っていますが)が改憲派の唯一のアドバンテージだとするなら、その過程の事実を明示するのと同時に、憲法なるものの性格に立ち戻って現下の脆弱性(「空語」)の確認から出発しなければなりません。そうした時間が残されているのかという事態を前に、立ちすくむ護憲派の存在を感じてしまいます。

 

 さらに、これからの護憲運動とはという問いに、次のように答えています。長くなりますが、引用します。

 「 とにかく「護憲運動の劣勢」という痛苦な現実を受け入れるところから

  始めるしかない。現実を認めるしかない。われわれの憲法は脆弱である、

  と。根本的な脆弱性を孕んでいる、と。それを認めるしかない。そして、

  その上で、どのような宣言であっても、憲法であっても、法律であって

  も、そのリアリティーは最終的に生身の人間がその実存を賭けて担保する

  以外はないのだと腹をくくる。憲法条文がどんなに整合的であっても、ど

  んなに綱領的に正しいものであっても、そのことだけで憲法というのは自

  立できません。正しいだけでは自存できない。絶えず憲法に自分の生身で

  「信用供与」をする主体の関与がなければ、死文に過ぎない。

 つまり「改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということ」は「僕たちの失敗であり」、これを認めるところから「護憲運動をはじめから作りなおさなければならない」、そして、「戦中派がしたように、今度は僕たちが憲法の「債務保証」をしなければならない」と、内田は講演を締めくくっています。

 なお、この「日本国憲法」をめぐる講演の最後に、内田自身は「なんだか護憲運動にとってあまり希望のない話になってしまってすいませんでした」と発言しています。

 

 以上、内田樹さんの講演のアウトラインを整理しておこうと試みましたが、今は整理しきれなかったもどかしさを恥ずかしく感じています。

 今も多くの人びとが、それぞれの条件下において、内田さんの言う「憲法の空語性に「受肉」させ、生命を吹き込む」活動や生活をおくっている事実はあります。そのような人たちにとっては、憲法は空語ではなく、「私たちの憲法」なのです。こうした報告を掲載した本を目にすることはありますが、いかんせん、少数派といわなければならないのも事実です。

 理想を語れるなら、森有正の「経験」という言葉に対し、辻邦生の与えた「あることが本当に身体でわかり、そのような確乎としたものと感じられ、それが動かしがたく私たちの中に存在している」状態のように、憲法がわれわれ国民のそばにあることになるということなのでしょう。それは傍観者ではなく当事者であると自覚するところから出発するほかなく、それが内田の言う「憲法に自分の生身で「信用供与」する主体」ということなのだと考えます。

 

 私自身は、「僕たちが憲法の「債務保証」をしなければならない」とする内田さんの言説を、他者へ十分に説明できると思っていませんが、憲法の「国民主権、基本的人権、平和主義」があって、ここまでなんとか生きてくることができたとは切実に考えています。そして、子や孫たちの世代を想い、当事者の一人として、これを握りしめるところから「憲法」とも向き合いたいと申し上げておくしかありません。

 

追記】

 当ブログで憲法の制定過程について論じているのは、津田左右吉と吉野源三郎のことを論じた次の記事です(本当は記事全体ですが、直接は以下のとおり)。

 🔹「私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー(4)

 

2019.05.04 Saturday

せめて「バカ」になりきらないようにー「令和」の幕開けにー

 令和の幕開けは「令和最初の○○」という飾り言葉を冠することからはじまりました。4月末日までは「平成最後の○○」との大合唱でしたから、この変わり身に驚きます。かつてない準備期間のあったメディアの声高な「さようなら平成」と「こんにちわ令和」には、ちょっと耳を塞いでおくことにしまょう。

 一つの区切り、変わり目として、「平成」をふりかえり、「令和」の課題や期待を考えてみようとすることを、私自身は否定しているのではなく、自然なことだし、トライしておくべきことだと思っています。でも、最近のブログ(「毎年のようで恥ずかしいのですがー「元号」と「時代区分」ー」)でふれたように、私もその一人である人間の性(さが)とはいえ、「狂騒」的になることが苦手なのです。そして、こわいのです。

 

 実際のところ、「平成」という30年余という時間は、こうして画面とにらめっこしている私など、するっと通り抜けていったという感覚がまず浮上します。私と家族、私と仕事、私と社会、他者との関わりのなかで、さらに私の関わりようもない世界で、いろいろとあったはずなのに、それなりに心底に刻まれていることもあるはずなのに、言葉にならずに埒もなく手元からすり抜けてしまいます。

 こうしてブログという場で、詮方もなく言葉を並べているのは、こんな茫然と突っ立っている時間に、つまりのっぺらぼうの時間に何がしかの襞を、目鼻立ちを与えようという欲求があるからなのでしょう。それは、私という人間へのまなざしであり、同時に、家族、仕事、社会、そして世界へのまなざしでもあります。そこからしか、思考がはじまらないのではないかと、私自身が感じているからでもあります。

 こうした記憶こそが、日常的連続性に依存してしまいがちな「ふつうの人間」たる私たちを立たせ、公式の見解や数値に、公認の物語に押し流されにくくする起点になると思っているのです。

 

 先にS&Gを聴き直すきっかけを与えてくれた橋本治さんのことに少しだけふれました(「音楽はオールドフレンドーサイモン&ガーファンクルー」)。今年1月末に亡くなった橋本さんがよく使った「バカ」という言葉を掘り返してみたいという記事を(2019.2.22『毎日新聞』夕刊/「作家の橋本治さんが嘆いた「バカ」の増殖」藤原章生記者)、簡単に紹介することにします。

 橋本治さんの「バカ」という言葉の定義は、次のとおりです。

 「 「バカ」とは、<自分が社会の小さなひとコマで、社会の上に乗っか

  かって生きているんだという「地動説」ではなく、自分の頭の中で社会が

  回っている「天動説」のなかで生きていて、社会と切り離された「根拠の

  ない自我」だけが勝手に膨らんでしまった人たち>のこと」

 橋本自身は「世の中は自分の外側にあって、世の中が動けば,自分も動くこともあるし、動かないこともある」というズレやギャップは当然あるものと理解して生きてきたけれど、1980年代以降は、「世の中と自分がシンクロ」していて、「世の中はそうだけど、自分は関係ないな」ではなく「自分がこうなら、世の中もそう」という人が多くなっていると観察していたらしく、「バカ」という強い言葉になったようなのです。そして、こんな橋本さんの考え方に、藤原記者は次のような説明を与えています。

 「 誰かが「日本人批判」を展開すると、「違う」とムキになって反論する

  人が時々いる。その人が批判されているわけではないのに、自分のことを

  言われたと思ってしまう。バブル以降、そんな人が増えてきている現実を

  橋本さんは「バカ」という言葉で食い止めようとしたように私には思え

  る。世の中でも国でも性別でも、自分のいる「塊」の外に君はいていいん

  だよ。塊との間にズレを感じながら、つかず離れず、斜めに構えていてい

  いんだよ、とでも言うように。」

 そして、藤原記者は、橋本さんがあえて「バカ」を使ったのはバカは恥という感覚はまだ残っていると思ってきたからだが、2015年7月のインタビューで橋本さんが「でももう、バカは恥という感覚さえも日本人から消えつつある」とこぼしていたと書いています。

 なるほどなあと、私は感じました。私のもっている現下の風潮への違和感が言葉になっていると感じたのです。もちろん私自身にある「バカ」を十分に意識しながらではありますが、皆さんはいかがでしょうか。私の耳元に、「バカでなんで悪いんや」、そんな声高で居直っている発言が今にも聞こえてきそうです。こんな橋本さんの「バカ」のことには、最後にもう一度ふれてみることにします。

 

 次に、肩の力を抜いて毎日新聞で平成3(1991)年からはじまった「仲畑流万能川柳」の「平成」を括った記事を紹介してみます(2019.4.24『毎日新聞』朝刊/「平成1000万句の喜怒哀楽」)。

 これまで投稿された句は1000万、新聞に掲載された句は10数万句に上るとあります。毎月、約1万2千枚のはがきが新聞社に届き、現在も投句数は増え続けているそうです。投句者は全国各地でグループを作って交流しており、こんな普段から励まし合う関係性のあることが活発な投句を支えていると、選者でコピーライターの仲畑貴志さんは考えています。

 仲畑さんは、五七五に思いを込める川柳を「江戸時代のツイッター」と評しているそうです。「市井のつぶやきだから素直。川柳を通してみんなが思っていることが分かる」とし、昭和とともに高度成長が終わり、バブルの崩壊、平成不況、リーマンショックに派遣切りという重たい空気のなかで「『モノ・カネ=幸せ』ではないことに人々が気付いたのが平成だった」と語っています。

 この記事に付記された「仲畑流万能川柳で振り返る平成」とのタイトルで年表的に川柳が掲載されている一覧から、少しだけチョイスしておきます。

◍元(1989)年 消費税3%に

  割り勘が一番困る消費税

◍7(1995)年 阪神淡路大震災

  議員さん被災地に来ても名刺出し

◍11(1999)年 NTTモバイルがiモードサービス開始

  筆まめと言うのでしょうかEメール

◍16(2004)年 自衛隊イラク派遣

  戦争の放棄を放棄するのかな

◍20(2008)年 リーマン・ショック

  芸人じゃないのリーマンブラザーズ

◍27(2015)年 安全保障関連法成立

  平和ボケこれって理想じゃありません?

◍31(2019)年 相次ぐ虐待事件受け児童虐待防止法改正へ

  親からも子供を守る悲しい世

◍ 同上   平成から令和へ

  ともかくも戦争なかった平成は

 

 さて、文化人類学者の今福龍太さんは、改元の機会に「歴史の総括」をしようとする動きを、そして「新しい時代がやってくる」に収斂されていく動きを、「強迫観念というべき現象」と批判しているようです(2019.4.20『朝日新聞』朝刊/「ひもとく 歴史を総括する前に」今福龍太)。

 「 改元をきっかけに一時代が終わり、新しい時代がやってくるかのよう

  に、人々は終焉と何かの始まりを語りたがっている。「歴史の総括」。

  だがこうした強迫観念というべき現象は、私たちが日々過ぎ去る時や年月

  に押し流され、自らの歴史的な位置を見失っていることと深い関係が

  ある。」

 今福さんは「歴史とはたんに直線状に流れる時間の経過ではな」く、「日常の惰性的な連続性を疑うことなく生きながら、真に歴史的な批判意識を持つことは不可能なのだ」と指摘します。そのうえで、他方「国家は「時代遅れ」や「進歩」を連呼しながら、表層の時間や暦を国民の統合と支配のために利用しつづける」と批判しているのです。

 そして、真の歴史とはという問いに応えようとしています。

 「 のっぺりとした直線状の時間をいくら切り分けても真の歴史は見えてこ

  ない。危機のなかで歴史を受けとめるとは、特定の日や出来事が「低速度

  撮影機(クイックモーションカメラ)」のように、時計の時間に逆らって過

  去と現在を啓示的に結び合わせるときの閃くような直感のことである。

    (中略)

   歴史とは、織られた布の絵柄が襞状にたくし上げられ、思いがけない柄

  と柄が接触するような、そんなかたちで過去、現在、未来を貫いているの

  だ。」

 冒頭に記した平成の30年という時間への私の初動的な印象に対し、強い言葉でノーを突き付けられた感じがします。それはそうでしょうが、そんなに「冷水」をぶちかけなくてもとぶつぶついってみたくもなります。でもしかし、私の「狂騒」的と感じる社会的な動きとも関連し、改元だからというだけで短絡的に「平成という時代」を括り、「令和の時代」へこぎ出すという物語の孕む危うさを指摘してくれている「正論」であると理解したいのです。

 それこそ耳ざわりのいいストーリーの洪水に溺れてしまわないよう戒めをもらったと考えたいと思っています。

 

 先の橋本治さんの「バカ」に戻って終えることにしましょう。

 前記の「「根拠のない自我」だけが勝手に膨らんでしまった人たち」、つまりこうした意味で「自我の肥大」傾向のある世の中、社会は、何をもたらすことになるのでしょうか。SNSなどとも絡み合いながら、人間関係の希薄化と他者の喪失、地域社会の解体、そして中心と幻想される国家への依存などの現象としてあらわれているといえますが、もとより事はこんな浅薄な言葉で表現できるものではないのでしょう。 

 私自身も自分のためにと称してブログを始めてから、架空の時空というものを意識せざるをえなくなっています。それは一種の「自我の肥大」に通じるものかもしれません。今一度、そうなりがちだという戒めをもっていたいと思っています。

 2015年7月のインタビューのときなのでしょうか、藤原記者は橋本治さんに「世の中、どうすれば良くなるのか」と問うたそうです。「会えば誰でも好きになってしまう」人だったという橋本さんの答えは次のようなものでした。

 「 (知性を重んじない)短絡した方向にやけくそになって行くか、ちょっと

  待てよって踏みこたえて、今までのことをもういっぺん考え直さなきゃっ

  て方向へ行くかですね。」

 その後の小説で、橋本さんは「近未来も世の中は今の状態がだらだら続いている感じ」を表現しているようなのですが、「ちょっと待てよって踏みこたえる」道はないのでしょうか。

 私自身は「バカ」に変わりはないとしても、せめて橋本さんの言う「バカ」になりきらないようにしたいと、この「令和」という元号のはじまりにあたり、このブログで自分に誓っておくことにします。

  雨の日の藤棚(魚住住吉神社)  [2019.5.1撮影]

  瀬戸内の海景(魚住住吉神社の境内地から) [上記と同日撮影]

【追記】 

 サイモン&ガーファンクルを当ブログで紹介したあとで、一枚のCDを手に入れました。『Live From New York City,1967』という、1967年1月22日のフィルハーモニックホールでのライブレコーディングです。ポール・サイモンのギター1本で、地元出身の二人が歌っています。こうしたフォーマットに私の思うS&G音楽の本質がありそうです。

 

  SIMON&GARFUNKEL『Live in New York City,1967

 

2019.04.29 Monday

遥かにノートルダムは遠ざかりー森有正のことー

 先々週15日の夜のパリ、ノートルダム大聖堂の火災は明け方まで続きました。これを報じるわが国のニュースは、尖塔が崩れ落ちる光景と、これを沈痛な面持ちで見上げる市民(「信者たち」との表現もありました)が讃美歌を歌うシーンを中心に報道していました。そして、ノートルダム大聖堂は、フランスの人びとにとって特別なもの、いわば「心のよりどころ」なんだとの説明を加えていました。

 フランスでは、出火から8時間を超えて続いた火災の成り行きを、多くの国民がテレビで同時に見守るという21世紀的状況があったようです(PCでは世界同時に見ることができたのでしょう)。そう思うと、私は断片的なニュース映像でしかみていないわけですが、2001年9月11日の同時多発テロでニューヨークのWTCビルが崩落していくライブ映像から、さらに2011年3月11日に東日本大震災の大津波が海から陸へと押し寄せてくるライブ映像へと、想像を飛ばしてしまいます。

 

 フランスに出かけたことのない私ですから、反応はといえば、えらいことが起きてしまったのだなという、いささか冷淡で距離感のあるものでした。今になると、フィレンツェのドゥオーモだったら、ちょっと違う反応だったのかもしれないと思ったりもします(「クーポラの見える街でー池上俊一『フィレンツェ-比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(1)(2)(3・完)」)。

 続いて意識に上ったのは、日本で「ノートルダム大聖堂」に相当する建築物といったら何だろうかという自問であり、そして「森有正」のことでした。ここでは、前者の問いはさておき、後者の「森有正」のことを、ごく主観的に書いておきたいのです。

 森有正の書く文章には、ヨーロッパ文化を象徴する記号として「ノートルダム」がよく登場していました。森は数冊の詩的かつ思想的なエッセー集を上梓していますが、1967年刊の『遥かなノートル・ダム』、そして亡くなった直後、1976年刊の『遠ざかるノートル・ダム』、このニ冊のタイトルには「ノートル・ダム」が使われています。

 本稿では、いつもは自分のために半可通な説明を試みようとしますが、そんなことはできるだけ抜きにして、「昔の恋人」だったかもしれない森有正のことに少しだけふれておきたいのです。

 

 ちょっとその前に、ノートルダム大聖堂の火災を各国のメディアはどう報じたかについての記事からピックアップしておきましょう(2019.4.16「クーリエ・アンテルナショナル(仏)」)。キーワードは「政教分離」です。日本のメディアでこのことばを使っている例を、私は知りません。

 以下、上はドイツの「南ドイツ新聞」、下はイタリアの「イル・ジョルナーレ」という、いずれも日刊紙です。

 「 ノートルダムは単にパリの中心に位置しているだけではない。この大聖

  堂はパリの心臓でもあった。フランスという国のキリスト教的なルーツ、

  この国の政教分離の歴史と黄金時代の記憶そのものだった。」

 「 ノートルダム大聖堂が火災に見舞われたが、この大聖堂は、しばらく前

  から国家から見放されて崩れつつあった。

   (中略)この大聖堂を救うためのSOSは2017年から発信されていた。(政府

  が積極的に修復工事の資金を出さなかった)フランスという政教分離が徹底

  している国で、ノートルダムは焼け崩れることになったのだ。

   そのことを国家は直視せず、修復の資金集めも民間任せにしているよう

  である。」

 注目した「政教分離」は、ヨーロッパがキリスト教の支配的な中世から、血なまぐさい宗教戦争を経て近代へと展開していくうえで原動力となり、現在の自由と平等を柱とする西欧民主主義の根底にある原則なのだと理解しておく必要があるのでしょう。だからこそ、前々稿(「毎年のようで恥ずかしいのですがー「元号」と「時代区分」ー」)の最後でふれたとおり、ポピュリズムは「政教分離」を逆手にとって、「政教分離」のレベルに差のあるイスラム系の移民とその子孫、そして難民受け入れを批判しているという図式があるのです。だから、現代のデモクラシーの立場から、「ポピュリズム」というレッテルを貼って、単純に否定してしまうことが難しいというわけです。

 政治学者カノヴァンの「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のように着いてくる」という文章を再引用しておきましょう。単純な分析は不適ですが、今回の大阪府域における政治現象は、このカノヴァンのことばを想起させずにはおれません。

 

 さて、森有正(1911-76)のことです。

 明治の政治家である森有礼の孫として、特権的で特殊な環境の下で教育を受け、長じて東大の仏文科の助教授となっていた1950年にフランスへ留学したものの、帰国せず、そのままフランスに残り、パリで教育・研究活動に従事し、日本へ戻る決心をして準備の進んでいた1976年10月に65歳でパリで急逝した方です。ですから後半生である26年間をパリで過ごしたことになります。デカルトやパスカルを専門としていたものの、どちらかといえば、一般向けに書かれたエッセーの著作によって、高名な知識人として知られた存在であったといえます。森のエッセーとは、結局、自らの人生と思索をことばで表現することで、つまり自らの「思索」と一体となった「生き方」を提示することによって、日本人、とりわけ若者にそれぞれの「生き方」を問い、揺さぶり、励ますものだったといえます。

 もちろん私は、学生時代に森のエッセーを読んでいたのです。それも力を入れて読んでいたつもりなのです。「憧れのパリ」などという感覚はありませんでしたが、東大助教授の職をなげうって、清貧のなかで、真摯に生き方を探求しつつ思索する知識人というイメージだったのだと記憶しています。森のエッセーは、ほぼ同時代の産物であり、同じ空気で呼吸しているちょっと人間離れした男の全力投球の姿を、真横から眺めるように読んでいるというライブ感がありました。もちろんそれだけではないでしょう。何より熱情のこもった、ある種デーモニッシュな文体に、どう生きたらいいのかと迷い子の若者は、この場合は私ですが、訳もわからないいまま引き込まれていました。

 

 あれから半世紀近く立った現在、かつての私の「森有正」への恋を語ろうとすれば、以上のようなことになろうかと思っています。読んでも読んでも、ああこういうことかと思っていても、森の最も力を込めて繰りかえし繰りかえし書いていた「経験」の思想は、私の頭に確かな焦点を結ぶことはなかったのです。それでも「恋の残り香」があって、森有正は私の導き手であるというイメージは残っていたようなのですが、森の急死によって、森有正への恋は唐突に終わってしまいました。同時代と苦闘しながら生きている人としての森は、もはや実在しなくなったということなのでしょう。

 というのも、私自身の外部環境が変化していました。当ブログでふれてきたとおり、1年間の治療を経て復学した学生生活で音楽や映画との関係が深まり、眉間にしわを寄せるだけが人生とはいえないのではないかと思い、2年後、1976年4月には遅くなった就職をして、全く未知の世界でどう暮らしていくかが最優先になっていました。ここで森への恋は終わっていたのでしょう。それでも1976年の秋に森の急死を知ったときに動揺したことを覚えています。直後の同年12月に刊行された前記の『遠ざかるノートル・ダム』を手に入れていますから、レクイエムとして読んだのかもしれません。

 今、出版元である筑摩書房は、森有正の紹介文のなかに「深い哲学的省察に満ちたその¨思想エッセー¨は、西洋思想を学ぶ者のみならず、自己に誠実であろうとする多くの読者に迎えられた」との文章をひそませています。ああそんな言い方もできるのか、何とも恥ずかしいといわなければなりませんが、まあ長く引きずってきた青春の終わりでした。

  LPレコード『思索の源泉としての音楽・森有正』の裏面の一部

 今回、私は森有正が亡くなった直後に刊行された『遠ざかるノートル・ダム』を前半分ほど読んだだけで書いています。その冒頭におかれ書名にもなった「遠ざかるノートル・ダム」(1974年『展望』12月号)というエッセーで、森有正はパリ滞在の25年間を、ノートル・ダムとの邂逅から、接近し、再発見があり、深まり、そして「遠ざかる」に至る四半世紀として回想しています。

 「パリへ来てから25年の間、私はいつもノートルダムのかたわらに在った」という一文からエッセーははじまります。1950年9月末、初めてパリに着いた日の「雨に烟るシテ島に立つノートル・ダムの淡くかすむ影絵のような姿」を望見し、これが「ノートル・ダムとの最初の出会いであると共に、パリとの邂逅であった」としつつ、でも「いつも同じようにというわけではなかった」と、森は続けています。

 最初の1年は「パリ生活への定着に忙殺」され、ノートル・ダムは「意識の下に睡っていた」けれど、ある初冬の夜、「私共の眼前に立ち塞がるように聳え立っていた」、そして「これほど繊細でニュアンスに富むノートル・ダムを見たことはなかった」と記しています。「この夜をもって、ノートル・ダムは私にとってエヴォカシオン[喚び起し]の一つの源泉になったのである」と、パリ留学から日本へ帰るべき1年後に、このままパリから離れないこと、すなわち森にとって大そう重い決断を下したことと絡めて記憶されているのです。このときからノートル・ダムはパリ、フランス、ヨーロッパという存在(当然「精神文化」を含んだ全体)の象徴として、森の前に在ったことになります。 

 そして10年後、森は「友人の手引きで、左岸第5区のノートル・ダムに面する小さいアパート」に転居し、「朝に夕にノートル・ダムを眺め」られる暮らしになりました。けれども「だんだん年をとり、色々責任や用事が多く」なってくると、ノートルダムの存在を意識せずに過ごすことも多くなってきます。一方、パリ滞在が長くなり、森はパリの「平凡な街角に美しさを感じ始めるように」なっていましたが、「そういう或る日、不図ノートル・ダムを見ると」、次のような感慨が生じてきたのだと書いています。

 「 それがいかに美しいものであるか、外のものと桁違いに優れたものであ

  るか、が沁々と感ぜられたのである。こうして自然、外界、天候、季節、

  またパリの町全体の小さいまた大きい美しさ、そういうものとの接触から

  ノートル・ダムが輝き出すようになって来る。(中略)こうして、ノートル

  ・ダムはパリに住む者の伴侶になって来るのである。」

 森有正は、こうしたノートル・ダムとの関係を、「融合して来る」とか「町の内側から見えて来る」と表現しています。「その美しさが本当に私共に露われるようになる」のは、「その全体をすでに含んでいる感覚が成熟を遂げなければ」ならないのであり、「今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来る」ものだというのです。それが「パリの町の内側から見えて来る」ということなのです。

 このエッセーの書かれる前年の1973年、大学都市日本館長に任ぜられた森有正は、ノートルダムの傍から、来仏した25年前と同じ建物へ移り住むことになりました。このことを、森は「偶然以上のものを感じている」とし、ノートルダムと共に在った25年間が次のことを教えてくれたとします。

 「 民衆の生活形態と造形はそこに(㊟国民として存在するという歴史的社会

  的性質を有する或る必然性)ささやかではあるが、否定出来ない美の根拠を

  構成している。外側から把握するのは仲々むつかしいが、全く不可能でも

  ない。そういうものが抗うすべもなく結晶しているノートル・ダムは、そ

  の直接的美観の下に、こういう民衆の生活の内側から、その主体面からの

  み近づき得る美をもっている。」

 だから、日本人の自分には「蝕知し難い部分が含まれる」が、「唯一、確かなことがあ」り、「それは、ノートル・ダムの傍らに在った四半世紀のパリ生活が私を決定的に内面へと向かわせたことで」あるとします。そのことはまた「ノートルダムという大造形が、その揺るがし難いその巨大な存在性によって、そのことを教えてくれたのである」と、自らの現在地、到達点を括っています。

 続けて、次の文章がおかれています。

 「 こうしてノートル・ダムは私から、あるいは私はノートル・ダムから遠

  ざかり始める。或る時、或る場所で邂逅し、接近し、抱擁し、交接を遂げ

  た男女が離れて行くように。」

 このような直截な表現によって、ノートル・ダムとの関係性がはっきりと変化したことを言葉にしています。これからはどこに住もうと「私の今後の仕事は、日本の中に決定的に定位されることになるだろう」とし、「出発の準備は、今度こそ終わったのである」と述べています。つまり、「ノートル・ダム」という存在が、エヴォカシオン[呼び起し]でなければならないという状況から、森有正自身が変貌したということです。そして、このエッセーは次の文章で締めくくられています。

 「 どこへ向ってであろうか。それはもうノートル・ダムのない国へ、法隆

  寺もない国へ向かってである。私の内面は今激しくそこへと私を促してい

  るのである。もうこれからは、パリについて直接更めて書くことはあるま

  いと思う。」

 

 以上、森有正とノートルダムの関係について、本稿では避けるつもりだった「半可通な説明」を試みてしまったようです。

 森有正の死から2ヵ月後に出版された同書には、辻邦生(1925-99)が「著者のあとがきにかえて」という文章を寄せています。二人の出会いは1957年のパリであり、森有正自身が「あなたの先生だから」と呼んでいた関係なのです。

 前記の森の締めくくりの文章を引用しつつ、辻は次のような思いを書きとめています。

 「 私は、先生が死を予感されて遺言をそこに書きとめたような気がしてく

  る。しかし先生の真意は、この「人間」という、日本でもなく、西洋でも

  ない、普遍の領域であったことは間違いない。」

 また同時期に書かれた別の文章(「ある生涯の軌跡」)で、辻は、次のような感慨を抱いたことを書き残しています。

 「 氏の葬儀も終り、幾日か信州の山にこもって氏の諸著作を読みふけって

  いるうち、私は、死の直後に受けた<突然の中断>という印象が薄れるの

  を感じた。むしろ森有正氏がパイプオルガンの演奏に没頭し、日本館館長

  の職を引きうけたとき、すでに、あるものが完成し、ただそれを、完成し

  た環のなかで深めるために、こうした具体的現実的な行動を選ばれたにち

  がいない、と思うようになった。」

 辻は、森有正の思想の中心である「経験」の内容を「感覚のかたまり」と理解していて、森自身、「この「感覚のかたまり」が感覚的事実から経験の層を経て、思想へと純化・析出される過程」を「思索と呼んでいた」のです。このように確認できたとき、森有正は実は「何ものか」にむかって進んでいるという進み方をしていたのではなく、別の方法をとっていたのではないかということに、辻は気づくことになりました。

 「 森有正はもともとどこか別の遥かな地点にむかって旅をしていたのでは

  なく、比喩的に言えば、ひたすら自分にむかって遥かな旅をしていた。そ

  れこそが真の思索であり、真の普遍性に達することであると信じていた。

  −−そのことに私は気づいたのであった。」

 最晩年の森有正の境地、すなわちその「思索」「思想」がノートル・ダムの呼び起しを必要としない地点まで到達していたのだと、「完成」ということばを用いて、辻は「遠ざかるノートル・ダム」というエッセーを媒介として説明しようとしています。

 こんな辻の見方について、とても当否、是非を云々しようもありませんが、パリで森の傍にいてその思索的営為を身近で見て感じて考えてきた辻が、先生であった森の生徒として、敬愛ということばだけで収まりきれない「森有正」という人間を追慕しているのだと、私は感じたのです。

 なお、森の最後の文章に「ノートル・ダムのない国へ、法隆寺もない国へ」とあります。ノートルダムの火災から私の意識に上ったこととして、「森有正」と、もう一つ「日本で「ノートルダム大聖堂」に相当する建築物はと」という自問がありました。森有正がどこまで考えた結論かわかりませんが、「法隆寺」ですか、皆さんはどう思われるでしょうか。

  森有正著『遠ざかるノートル・ダム』函の表面 1976年12月刊/筑摩書房

 最後に森有正が繰りかえし説いた「経験」についてもふれておくことにします。それこそ「半可通未満の説明」になりますが、ふれずに終われないと思ったのです。結局、私は森の「経験」について「理解」できた気持ちになったことはありませんでしたし、今もできていないわけですが、以上の文章を書いていて、また辻邦生の文章を読んでいて、そうしておきたいと思ったのです。

 森有正の思想の核である「経験」は、辞書にあるような定義は不可能なのでしょう。それは丸山真男が森有正のことを「自分の哲学を周辺の部分しか述べないで終わってしまった」、「だから森哲学というのは、周辺から窺う以外ないんです」と評していることとも関連しているといえます。

 森有正の文章から引用します。

 「 変化と流動とが自分の内外で激しかったこの15年の間に、僕のいろいろ

  学んだことの一つは、経験というものの重みであった。さらに立ち入って

  言うと感覚から直接生れて来る経験の、自分にとっての、置き換え難い重

  み、ということである。」

 「 経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとす

  る、というのと全くちがって、自分の中に、意識的にではなく、見える、

  あるいは見えないものを機縁として、なにかがすでに生れて来ていて、自

  分とわかちがたく成長し、意識的にはあとからそれに気がつくようなこと

  であり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験なのだ、とい

  うことの理解を含みます。」

 前者では、経験は「感覚から直接生れて来る」、後者では、「自分と分かちがたく成長し、意識的にはあとからそれに気がつくようなこと」だと、森は説明しているのです。この森有正の「経験」は、前記した「遠ざかるノートル・ダム」から部分的に引用した文章、ノートル・ダムの「美しさが本当に私共に露われるようになる」のは、「その全体をすでに含んでいる感覚が成熟を遂げなければ」ならないのであり、「今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来る」という表現に、呼応しているものだといえましょう。

 

 このことに関連して、辻邦生は、前記のとおり「「経験」の内容を「感覚」のかたまりと理解して」いると述べており、同じ「著者のあとがきにかえて」において、次のように表現しています。

 「 先生はつねに真の「経験」に達するまで、「感覚」を通して思索し生活

  することを教えた。あることが本当に身体でわかり、そのような確乎とし

  たものとして感じられ、それが動かしがたく私たちの中に存在していると

  き、それを先生は「経験」と呼ばれた。」

 次の長い文章へ続いていきます。この文中冒頭の「身体の中に実現された知恵のごときもの」という辻邦生の「経験」理解を明示したことばは、今の私にとって最も説得的な説明だと受けとめています。

 「 先生の求めたのは、こうした身体の中に実現された知恵のごときもの

  あって、単なる哲学的な知識ではなかった。西欧からただ知識だけを学ん

  でいた日本に対して、先生が根本的に抱いた疑問は、こうした表面的な文

  化摂取の態度だった。先生は日本にも真実な「経験」があり、その「身体

  的に確実に在るもの」が「日本」というものなのだ、と繰りかえして書か

  れている。そのような「経験」の層で深まってゆくことがなければ、いか

  に文化がすすみ、物質的に繁栄しても、それは人間が人間となる本来の

  「自由」を生みださない、というのが、先生の基本の考え方だった。」

 ここには、森有正が「経験」ということばに込めた内容ばかりではなく、その背景、ここでは明治の日本が開国とともに急激に近代化を図っていく過程において、西欧の文化を表面的に摂取してきたという前提が説明されています。和魂洋才ではないけれど、この問題意識が森有正にあったことはまちがいないのでしょう。最後にもう一度、ここに立ち戻ることにします。

 

 これも前記した辻邦生の文章に「森有正氏がパイプ・オルガンに没頭し」という一節がありましたが、ちょうど手元に『思索としての音楽・森有正』というタイトルで没後の翌年1977年にリリースのLPレコードが手元にあります。森のパイプオルガンの演奏やNHKテレビで森が話した内容の一部が収録されています。そのライナーノーツには森自身が文章を寄せており、「経験」について、次の一文を残していました。

 「 人間は誰しも生きることを通して、自分の中に「経験」が形成されてい

  く。今、経験ということを説明していることはできないが、それは煎じつ

  めれば、人間が過去からうけついだ歴史的なもの、それが、自己の働きと

  仕事とによって、自分自身のものとして定義されること、そういうものだ

  と思っている。」

 繰りかえすことになりますが、森は「人間が過去から受けついだ歴史的なもの」を「自己の働きと仕事」によって、「自分自身のものとして定義される」、それが「経験」なのだと述べています。

 この森有正の文章を受け、著名な音楽評論家であった吉田秀和は、「森さんはここで、人生と思索と音楽の三つは同じ根でつながっているだけでなく、結局同じ営みなのだということを示している」としつつ、森の文章に次の説明を与えています。

 「 彼は人間が過去から承けたものを自分の働きで自分のものにする仕事を

  経験と呼んだが、それは個人が他人(つまり人類)の経験を自分のものにす

  るということと同時に、自分の経験を進んで他人の前に提出するのを恐れ

  ないことでもあり、そうなければならぬと主張している」

 この森の「経験」について、吉田は「過去から承けたもの」を「他人(つまり人類)の経験」と読み替え、それを「自分のものにする」ことだと理解しています。前記の辻邦生の「身体の中に実現された知恵のごときもの」という説明と同様、森自身の説明よりも、むしろ私にはわかりやすいものとして受けとめることができました。

  森有正/話・オルガン『思索の源泉としての音楽』1977年/日本フォノグラム

 ここで、森有正の「経験」に少しでも接近するために、森の強調している「経験」と「体験」の区別、峻別について確認してみることにします。

 森の文章を引用します。

 「 経験と体験とは共に一人称の自己、すなわち「わたくし」と内面的につ

  ながっているが、「経験」では<わたくし>がその中から生まれて来るの

  に対し、「体験」はいつも私がすでに存在しているのであり、私は「体

  験」に先行し、吸収する。」

 このことに関し、辻は、言葉をかえればと、「経験」も「体験」も「それらはともにわれわれが現実に経過する行為を通してわれわれの内側に重層し、獲得されてゆくあるものなのだ」としたうえで、「しかし「体験」はわれわれが偶然的に人生のまにまに外側から与えられるもので」あるとしつつ、森有正の文章を引用しながら、次の対比を試みています。

 「 「体験」のなかでは、すべてが主観の歪みのもとに置かれている。われ

  われがそう感じ、そう味わっているのであり、それに自己満足し、容易に

  そこに安住する。

   これに対して「経験」とは、たしかに「現実そのもの」でありながら、

  同時に「自分を含めたものの本当の姿に一歩近づくということ、更に換言

  すれば、言葉の深い意味で客観的になることである」(『ひかりとノート

  ルダム』)と言える。」

 森と辻の表現からピックアップすると、「体験」は<すでに存在している私>が<主観>的に恣意的に<感じ、味わって>自足しているものであるのに対し、「経験」は内面的に<その中から<わたくし>>があらわれ<客観的>に<自分も含めた本当の姿に近づく>ものであると、対比させることができるでしょうか。わかったかと問われたら、わかったと答えにくいのですが、なんとなく感じるところがあります。

 このような森有正の「経験」の性格について、辻は、「引用は無数に続けられる」とし、次のとおり説明しています。もどかしいということなのか、少し嘆いているようでもあります。

 「 ある意味では、「経験」について言及されたものを引用するとすれば、

  結局は著作全体を引用するほかない。言葉をかえれば、氏は執拗に「経

  験」についてのみ語り、ひたすら「経験」のヴァリエーションを思考し書

  きつづけるのである。」

 これは前記の「周辺の部分しか述べないで終わってしまった」という丸山真男の森哲学評と関係しているようにも感じますが、私としては、「経験」という概念の性格そのものの問題であろうと思っています。

 

 いよいよ袋小路に迷いこんだ感覚がありますが、「最後にもう一度、立ち戻ることにしたい」としていたところに戻って、森有正の「経験」の背景にあったものを確認し、本稿を終えることにします。

 以上の「経験」とは何かという問いの総括としてふさわしいのではないかと、今回、私が感じた森自身の『木々は光を浴びて』からのいささか長い引用文から始めます。

 「 人間がつくった名前と命題に邪魔されずに、自然そのものが感覚の中に

  入って来るよろこび、いなそれは「よろこび」以前の純粋状態だ。(……)

  自分がまず在って何かを感覚するのだ、という事態から抜け出さなければ

  ならない。充実した感覚こそ、自我というものが析出されて来る根源では

  ないだろうか。(……)感覚の処女性という表現によって、私は、ものと

  の、名辞、命題あるいは観念を介さない、直接の、接触を、意味する。そ

  の接触そのものの認知を私は経験と呼ぶのである。」

 辻によれば、森有正がヨーロッパにとどまったのは、<名辞、命題あるいは観念>すなわち「「言葉」のみで構築した思索の建造物に、真の「経験」を与えること」、ただそれだったと強調します。つまり「真の「経験」を持たぬ「名辞」だけで、それだけの構築物をつくりえたという自己の能力(そしてそれは明治以後の日本の特殊な能力の質にかかわってくる)に対する、言い知れぬ嫌悪感」であったというのです。それは、森が日本で思索し研究を続けてきた「成果物」のことであり、それは「自分」そのものということもできます。この「明治以降の特殊な能力の質」とは「広義には、明治以後の「経験の定義を経ない、単なる空疎な名辞」の群」であるといえます。

 そのために森がとどまったヨーロッパでなそうとしたことについて、辻は「その一つは日本でつくりあげた「名辞」(言葉)そのものの破壊であり、もう一つは、まったく名を必要としない、「もの」との直接的な接触」であり、「この二つの側面は、一つのことの両面として、同時的に進行していく」と説明しています。ですから、こうした森有正は、辻のいう次のことに注力していくことになります。

 「 氏はパリでそうした「符牒」にすぎになくなった「言葉」に、真の人間

  の歴史的な、伝統的な「経験」をそそぎこもうとした。そしてそれはた

  だ、自分の「経験」が蓄積し、重層し、結晶して、ある疑いようのない

  「身体的に確実なもの」「あらゆる爾後の行動の制約になるもの」となる

  まで、忍苦してまつほかなかった。それは恣意的、偶然的に生れてくる

  「体験」と戦い、それを克服するものでもあった。」

 こうした苦闘を経たものが、森有正の「経験」というものであったといえるのでしょう。先に引用した「ものとの、名辞、命題あるいは観念を介さない、直接の、接触を、意味する。その接触そのものの認知を私は経験と呼ぶ」へと、導くことになりました。

 

 こうした思想的営為は、その背景からも、森有正の早すぎた晩年に「日本の精神的体質にメスを入れることに」向かわせることになります。辻邦生は、次のように表現しています。

 「 森有正氏にとって「経験」の欠如した思索の構築物は良心性の発条と

  なったが、それは同時に明治以後の日本という「名辞、命題、あるいは

  観念」のみを介した、真の「経験」の欠如した、精神風土の告発を必然

  的に含むことになる。氏の晩年の思索の方向がこのようにヨーロッパを

  学びながら、なお依然としてヨーロッパの「経験」に達し得ない日本の

  精神的体質にメスを入れることに向ったのは、一つの必然の成り行きで

  あった。」

 このことは、機会があれば別稿でいうことにしたいと思います。「半可通未満」のままで続けることはさすがにできません。

 こんなレベルではありますが、森有正の「経験」から半世紀、グローバルな世界の進行と分断、多文化の共生と摩擦などが問われる現在において、森の「経験」という基本姿勢はすでに無効となっているのではないかという問いに対し、こうした時代だからこそなおさら示唆に富んでいるかもしれないと、私は感じています。

 

 さて、ノートルダム大聖堂の火災から、「森有正」のことが意識に上り、若いころに「森有正」に恋していたことだけを主観的に書いておこうとしていたのですが、予定していなかった後半部も加えてしまいました。余計なことというしかありませんが、私のためのメモ書きという当ブログの性格だから仕方がないと居直りのようなことを申し上げ、お許しをいただくしかありません。

 若いときに恋していた「森有正」に失恋した事実に変わりはありません。もはや再燃することはないでしょう。「森有正」からの三行半というより、理解不能の巨魁に、小さな現実で生きていかなければならない私自らが身を引いた、身を守ったということなのでしょう。

 でも、今回書いていて、若い日の恋は半世紀を経ても何がしかの記憶として消えずに残っていることを知りました。そして、ちょっと恥ずかしいことではありますが、我が身のなかに確かに存在していると気づくことになりました。

 

2019.04.18 Thursday

音楽はオールドフレンドーサイモン&ガーファンクルー

 音楽がオールドフレンドになってから久しいと感じています。大そうな言い方になりますが、日常という地平から音楽が遠のいているという感覚をもっています。私にとっての日常というか、暮らしに欠かせないものを問うてみても、テレビ、本、映画、美術、歩行などと並べて、音楽をピックアップすることがためらわれてしまいます。

 このことは、当ブログを始めた頃にアップした記事(2015.11.14「「音楽」があるということ」)で告白していて、テレビのデジタル化によって録画の質・量が向上したことが、間接的に音楽との距離を遠ざけることになったのかもしれないと書いています。もちろんテレビ番組の録画や映画を通じて音楽に接することはよくありますが、私の中で、音楽との距離感は身の回りにCDやレコードを再生する装置があってもほとんど機能させていないことに直結しています。つまり、音源再生やコンサートを通じて、いわば直に音楽を経験する時間がグーンと減ってしまったのです。

 もう一つの理由として、皮肉なことに、このブログの、準備も含め、文章を綴るために必要な時間が、これも間接的に音楽の時間を埋めているのかもしれません。バックグラウンドミュージックとして音楽を流しながら作業することには、ちょっと違和感があるのです。

 

 いつものとおり長い前置きになりましたが、今回は、あのなつかしいサイモン&ガーファンクルの音楽に再会できたことを書いておこうと思います。

 それは、自発的にというより、ひょんなことがきっかけとなりました。

 

🔹ひょんなきっかけー「橋本治」という人ー

 ひょんなきっかけとは、『S&Gグレイテスト・ヒッツ+1』(1984年3月/大和書房)と題する本を「花森書林」で手に入れたことです。この小説集の著者は橋本治であり、サイモン&ガーファンクルの代表曲のタイトル、すなわち「SIDE-A」7曲、「SIDE-B」7曲、そして「AND」1曲の計15曲のタイトルが、それぞれ表題となった短編小説で構成された作品集なのです。だから、この本の目次は、サイモン&ガーファンクルのベストアルバムとしてLPレコードに集められた曲集といってもおかしくないのです。

 15編のうち9編は1978年から雑誌『野生時代』に掲載されたもので、残りは書き下ろしですが、あとがきで、橋本治は「5年前は下手だった」ので「5年経ったら書き直した」と記しています。にもかかわらずなのか、だからしてなのか、この本の表紙には「今、時代が<新しい青春小説>を生んだ。天才・ハシモトがS&Gの名アルバムにのせて贈る圧倒的傑作。」とあります。

 そんなことはわかりませんが、私はほとんど読んでいない橋本治という作家名より、本の書名に魅かれたのでしょう。とにかく、私は、この小説を読む前から、このタイトルを見ただけで、サイモン&ガーファンクル(以下では「S&G」と表記します)を聴きたくなってしまいました。

  橋本治著『S&G グレイテスト・ヒッツ+1』 1984年3月刊/大和書房

  同書の裏表紙にある目次一覧

 ここで橋本治(1948-2019)という人のことにふれておきましょう。

 というのは、現時点で、定期的に愛読するウェブ上の文書で最も好きで敬愛する津野海太郎の直近の文章(2019.4.5「往年の眼力(読書日記)」)によって、読まないままでちょっと得体のしれなかった橋本のことが少しわかったような気になったからです。

 今年の1月末に亡くなった橋本治への追悼文を読んでいて、同じ団塊世代の人たちにとって、1968年11月の東大駒場祭ポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男 東大どこへ行く」を描いた橋本治の登場がもっていた意味の大きさをあらためて知ったと、10歳ほど年上の津野は自分はショックを受けなかったとしつつ記しています。こうしてイラストレーター、コピーライターから出発した橋本は、その後作家として常識的な尺度に収まらない活動を続けてきました。

 津野は、数多い追悼文の中で、内田樹の文章だけが「世代限定でない橋本治の力」をズバリ指摘していたと評価していますので、再録させてもらいます。

 「 ……橋本さんがその全作家活動を通じて実行したのは説得でもないし、

  教化や啓蒙でもない。ひたすら説明であったと思う。(略)橋本さんの「説

  明衝動」をドライブしているのは「やさしさ」である。「どうして物を

  知っている人間は、物を知らない人間に対してやさしくないのかなァ」と

  橋本さんは書いていた。だから、橋本さんの書くものはすべて「物を知ら

  ない人間に対するやさしさ」に溢れている。その気づかいを「徳」と僕は

  呼ぶのである。(「橋本治さんは仏さまのような人でした」)」

 こうした内田の文章を受けて、津野は橋本の作家活動について「勉強衝動」と「説明衝動」の視点から論じていますが、割愛し、最後の文章だけを引用しておくことにします。

 「 「勉強」と「説明」ーーそのどちらもが学校教育によって形骸化され

  た、くすんで、うっとうしいコトバである。ところが、そのくすんで、

  うっとうしいコトバを橋本治という場におくと、意外にも、それがいきい

  きと新鮮なコトバとしてよみがえる。すたれて古びたコトバから、そこに

  本来あったはずのよろこびをあやうくすくいとる。そのような知的マジ

  シャンの名人芸がいま失われた。そういうことなのかもしれない。」

 津野と内田によると、これまで作家として論じられることの少なかった(というより難しかった)橋本治という人はこんな作家だったのであり、『S&G グレイテスト・ヒッツ+1』は、1977年の最初の小説『桃尻娘』に続くまだ初期のころに書かれたものでした。

  橋本治の「1968年11月の東大駒場祭ポスター」

 

🔹あの頃ーS&Gの記憶ー

 私的な記憶になりますが、サイモン&ガーファンクルの音楽との出会いを確認しておくことにします。

 先の橋本治の「とめてくれるなおっかさん」が話題となった1968年は、田舎の高校を卒業して東京で浪人生活をおくっていました。千葉の下総中山にあった予備校の寮から御茶ノ水の予備校に通う毎日でした。学生運動が頂点にさしかかった時期にあらわれた橋本のコピーを知っていましたが、それだけのことだったと思います。高校生の頃にビートルズをスルーしたように、橋本のコピーも「それなに」と思ってやり過ごし、大学入試がどうなるのかを気にかけていたのでしょう。

 そんな1968(昭43)年、S&Gの代表曲「サウンド・オブ・サイレンス」は映画『卒業』公開(日本では1968年6月)に連動して再発売され、オリコンチャートをかけあがり大ヒットとなりました。私といえば、カルチェラタンと呼ばれた御茶の水の学生街に流れていたのを聞いたことはあったでしょう。でも映画を観ることなど思いもよらない頃で、この時点も見事にスルーしていたのです。もとより私には感度などというものがないに等しいのだと振りかえるしかありません。

 

 S&Gの音楽をはっきりと意識したのは、映画『卒業』をみたとき、大学入学後の1969年(1970年かもしれません)のことでした。映画の全編にS&Gの楽曲が多用されており、気持ちよく美しい響きは無知な私にとって新鮮というほかなく、異次元を体験したような気分になったのです。

 特にラスト、主人公の青年ベンが結婚式の始まった教会へ駆けつけガラス戸を叩いてエレーンと叫んで花嫁といっしょに逃げるシーン。そこに流れる「サウンド・オブ・サイレンス」は映像と音楽が重なり合うように共鳴して圧倒的でした。その歌詞が映画の字幕に表示されていたのかどうかは不明ですが、今となっては、なんと難しい言葉が歌詞となってしかも詩句だけが先行することのない音楽になっていることに驚愕したのだと記憶しているのです。こんなふうに「歌詞」と単純に呼ぶことがはばかられる本格的な「詩」であっても十分に「音楽」になるのだと知ったということなのでしょう。

 事前にS&Gはポール・サイモン(1941-)とアート・ガーファンクル(1941-)という小学校からの同級生というユニットであることぐらいは知っていたでしょう。でも今のようなネット情報のない時代ですから、そしてレコードの再生装置をもっていないころでしたから、その後は、たまにラジオから流れるS&Gの音楽を、ああいいなあと聴いていただけのことだと思っています。

 

 もう一つの記憶は1973(昭48)年のことです。

 当ブログで何度もふれてしまっていますが(それだけ私の人生においてエポックなことでした)、学部卒業直前に診断された肝臓病(今の病名では「C型慢性肝炎」です)で大阪市の十三市民病院に7ヵ月間入院していたことがありました。夏の終わりのころだったでしょうか、消灯時間後にイヤホーンを通して流れてきた「明日に架ける橋」を聴いていたときに、不意に涙が流れたことが結びついて記憶しているのです。

 楽曲の演奏と同時に歌詞の意味を日本語で理解する能力は当時からありませんので、番組の中で事前に歌詞の説明があったのでしょうか。それも頭に入れながら聴いていて、自分の無力を、つまり「明日に架ける橋」になれそうもない境遇におかれていることを再確認したためであったのでしょうか。当時、私には、両親を含め他者が私の「明日に架ける橋」になろうとしていることが全くといっていいほどみえていなかったのです。

 記憶ほど危ういものはありません。後で繰りかえし反芻するなかで自分で脚色してセンチメンタルな記憶にしてしまっているのではないかと疑ってもみます。でも「涙」の背景までは確信がもてないのですが、「明日に架ける橋」を聴いていて涙が流れたことだけは、本当の出来事だったと思っています。 

 

🔹S&Gの詩と音楽

  私のS&G体験は、半世紀前後も以前ということになりますが、「研ぎ澄まされた凄み」と表現したいすばらしい音楽体験としてずっと残ってきたように思っています。二人のハーモニーはもちろんですが、どちらかといえば楽曲の作り手であるポールよりアートの透き通った天上的な高音に魅せられていたことを覚えています。

 でも同時に、病院ではジャズが自分の音楽だと思い、退院後、下宿に廉価な再生装置を備え、S&Gのレコードを買うことより先に、ジャズのレコードを探しはじめました。その後も、音楽に対する現実の嗜好は、ジャズから、日本語のフォーク、クラシックのピアノ曲、ジャズボーカルなどへと次々と広がりながら行きつ戻りつしていきました。そして、出会いから20年以上経ってから、私にとって古典であるS&Gの中古レコードを再び聴いてみようと手に入れたりするようになったのだと思います。

 今回、再生しようとレコードとCDを探しましたが、たった二組しかありませんでした。日本編集のベスト盤であるギフトパック2枚組『サイモン&ガーファンクル<青春の軌跡>』(1973年)と『ポールサイモン・ソング・ブック』(1969年/最初の英国盤は1965年)しか出てきません。確かにアート・ガーファンクル単独のレコードもあったでしょうし、1981年にS&Gが復活し、53万人もの観客が集まった『セントラル・パーク・コンサート』もよく聴いていた記憶があるのですが、途中であきらめました。

 

 今、それこそ音楽に現役感のある若い人たちにS&Gを聴いてもらったら、どんな感想が飛びだすでしょうか。えー、50年も前にこんな音楽が全米1位になったの、日本でもこんなものが流行ったのか、やっぱりずいぶんと古びた音楽じゃないか、こんな感想が返ってくるでしょうか。こんなことをおそれつつではありますが、今回、私の再聴した感想をズバリと書けば、この50年前の楽曲群は、ああなつかしいだけではなく、古びてもいないし、普遍的な力をもった詩であり音楽だと感じたと申し上げておきたいのです。私にはポピュラー音楽の歴史を俯瞰する能力はありません。けれど、S&Gの音楽は、フォークを原点とする詩を詠うというスタイルをポップ音楽へ見事に持ち込んでみせた(今の表現では「アップデートした」というのでしょうか)という点において、20世紀音楽の古典たるべきポジションにふさわしいものだと確信しました。

 結局、こんな私の感想は、今は音楽から離れた位置にいる者として、いわば音楽から見離されようとしている老人による強がりのようなものなのかもしれないと心配になったりもします。でも何か感想を書こうとしたら、自分の感じたことを書くしかありません。たとえば、日本語の音楽であれば、中島みゆきに近い部分を感じますが、彼女は、S&Gと違って、今もなおingの創造者であり表現者なのです。一方、S&Gは、間欠的に活動を繰りかえしてきましたし、ポール・サイモンの方はソロでは継続的に創造者かつ表現者であったわけですが、私の再聴できたS&Gの楽曲は、1960~70年代前半の作品に集中しているところが違っていて、比較が難しいのです。けれど、虚心にS&Gの音楽を聴いていると、やっぱりとても美しいし、かつ力強いし、音楽的な冒険もやっているようだし、その上、詩句は今もなお現代を照射しているところが感じられるのです。

 改めて、先の代表的な2曲だけでなく、「アイ・アム・ア・ロック」「スカボロー・フェア」「冬の散歩道」「ボクサー」「コンドルは飛んで行く」「キャシーの歌」等々、粒よりの楽曲群だったことがわかります。総じていえば、S&Gの音楽とは、内省的でセンシティブな若者(ポール・サイモンということになりますが、天才的個人だけでなく時代背景やNYという環境もあります)が、激動する60年代のアメリカ社会の現実に正面から対峙する中で生まれた歌であり、その意味では次代への「明日に架ける橋」たらんとしたものであったといえるのかもしれません。そして、今、読んでいても、ポールの歌詞(彼の思索と洞察の結実なのでしょう)は、60年代の問題が、50年後における現代の問題ともオーバーラップしていることを証明しています。

  『サイモンとガーファンクル<青春の軌跡>』ギフトパック/1973年/CBSソニー

  『ポール・サイモン・ソング・ブック』1965年発売分と同じ

 ここでは、もう少し、前述した代表曲「サウンド・オブ・サイレンス」にふれることにしましょう。

 「サウンド・オブ・サイレンス」は、不思議な経過をたどりました。1964年にサイモン&ガーファンクルは最初のアルバム『水曜の朝、午前3時』でデビューしますが、惨憺たる売上げに傷心し、二人は逃げるようにイギリスへの旅に出てしまいます。ポールだけがイギリスに残りライブハウスで歌っていた1965年に、アルバム収録曲だった「サウンド・オブ・サイレンス」(伴奏はポールのギターのみ)を、プロデューサーが二人に無断でアレンジを加えて(エレキギターやドラムなどによってビートを強くした)オーバーダビングし、シングル曲として発売したところ、大ヒットしたのです。そして、映画『卒業』(最後に流れるのは新バージョンだそうです)にも使われ、全世界でヒットしていくという道をたどりました。

 これら3つのバージョンは、当然、ボールとアートの二人で歌っています。今回、私の手持ちにあった『ポール・サイモン・ソング・ブック』、ポールがイギリスで録音し1965年8月に発売されたアルバムですが、この中でポールは一人で「サウンド・オブ・サイレンス」を歌唱していて、合わせると全部で4つのバージョンがあるということになります。

 

 以上は伝記的事実ですが、私が気になるのは「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞です。のちにポールはこの詩作に4ヵ月をかけたと語っています。

 この機会にギフトパック盤の日本語訳をはじめ、ネットでいろんな日本語訳に接してみましたが、なんだか腑に落ちないところが残ります。私の理解力が足りないことはもちろんでしょうが、ネット上において同趣旨のことが論じられたりもしています。題名の「the Sound of Silence」にしても、最初に日本語タイトルで候補になっていたのが「孤独の世界」だったのであり、直訳の「沈黙の音」をはじめ、「沈黙という音」や「沈黙の世界」などがネット上で挙げられています。最後の「沈黙の世界」と翻訳された方が掲示板に記しておられるとおり(2011.12.5「「沈黙の世界」~訳と解釈」)、ポール・サイモンは「現代は沈黙の支配する世界、人々が本来の言葉を発する事をしない世界なのだ、という事をこの歌で言おうとした」のだとされています。私もそのように理解したいと思っています。

 「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞は全部5連からなっています。その後半の3連、先の「沈黙の世界」と翻訳された方は、第3連で「現代社会についてのビジョンの内容」を、「誰も世界の真実に触れる歌を書こうとしない」などと提示し、これを受けた第4連では「「僕」の側からの働きかけ」として現代社会の人びとに呼びかけはするが当然のように無視され、そのうえで、第5連で「ネオンの神の支配」として、すなわち「現代の世界を支配する神、つまり、商業主義という事」を、「コミュニケーションの不在、会話の拒否、一方的な押し付け」(=「沈黙の世界」)に象徴される支配的な現実として描いていると解釈されているように理解しました。そして最後に、こんな文章をおいています。

 「 そして、この現代の全能の神も、沈黙の閉ざされた世界に対しては、

  「ささやく」ことしかできません。自らが手を貸した沈黙の世界をどう

  処置する事も出来ないわけです。「僕」の言葉が音のない雨粒となって

  落ちていったように。それは放置され、今後もガンのように増殖してい

  くのだ、という事になります。」

 この文章を書かれた方の真意をどこまで理解できているのか自信がありませんが、50年後の現在に通じる示唆が与えられているように感じています。この21世紀の情報社会において、一方的に、大きな声、大きな音はたれ流しされているが、どこに真実があるのか分からない、本当の言葉がみつからない、対話のきっかけは遮断され、分断され、無力感という沈黙の世界が支配している、こんな雑だけれど、一定の真実でもある表現を使ってみたくなりました。

 

 いささか大げさになりました。もう一つだけ付け加えておきたいのは、第3連で「誰も真実の歌を書こうとしない」などとしたうえで第4連の冒頭に「¨Fools!¨said I」という、これを否定する詩句がおかれています。S&Gの二人バージョンではハーモニーを崩さず歌っていますが、1965年の『ポール・サイモン・ソング・ブック』では、ポールが怒りを抑えきれないように「Fools!」を「馬鹿者」とでもいうように強い調子で歌っています。こちらの歌い方にポールの真意があったように感じました。

 日本語訳の記載のある「サウンド・オブ・サイレンス」と「明日に架ける橋」(いずれも訳詞は「Kei」とクレジットされています)を、ユーチューブから貼り付けておきます。

 ◎「サウンド・オブ・サイレンス 

 ◎「明日に架ける橋

 

🔹「ふつう」という問題ー橋本治の「明日に架ける橋」ー

 S&Gの音楽を再聴する機会を、ひょんなことからつくってくれた橋本治の『S&G グレイテスト・ヒッツ+1』のことにも言及しておきましょう。

 橋本の初期の短編集ということになりますが、最近、ほとんど小説を読んでいなかったせいか、はたまた、若者である「僕」「ぼく」の饒舌的なモノローグを共通項とする作品だからか、ちょっとしんどかったというのが本音です。

 

 ここでは「明日に架ける橋」をタイトルとする短編を取り上げますが、その前に「サウンド・オブ・サイレンス」にもふれておきたいのです。前述したとおり全15編はS&Gの楽曲のタイトルを作品名としているわけであり、それぞれが独立した内容になっています。ただ、「サウンド・オブ・サイレンス」と、それに続く「アイ・アム・ア・ロック」だけは、一連の作品となっているのです。

 大学生である「僕」がある朝目覚めたら「ただの岩になっていた」というようなカフカ的世界なのです。ああでもありそうだし、なさそうだし、とモノローグするだけの内容なのですが、「アイ・アム・ア・ロック」の最後に、落語でいう「下げ」が待っています。一週間ほど岩状態が続いたあとで、「なんだか腹が減ってきた」という身体感覚から、「あ、そうだ。飯を食いに行こう」になって、「岩状態」から離脱するのです。そして、最後の一行は「斯くして僕の新しい人生は始まったのである。」で終わっています。

 明らかに「アイ・アム・ア・ロック」の歌詞「僕は岩 ぼくは島なのだ」に触発された内容ですが、私にはどこが「サウンド・オブ・サイレンス」へのレスポンスなのはよくわかりません。一週間の「岩状態」は「沈黙の音」に通じているのでしょうか、これもよくわかりません。「僕の新しい人生」とは、青春からの旅立ち、大人になる意志の表明ではないかと思ったりもしました。

 

 それで、橋本治の「明日に架ける橋」です。

 1970年に発表されたS&Gの「明日に架ける橋」の歌詞は「サウンド・オブ・サイレンス」などとちがい、シンプルな詩句からなっており、「Like a bridge over troubled water/I will lay me down」が繰りかえされます。もともとゴスペルに原曲があったといわれており、今回、ネットで検索してヒットした中で、泉山真奈美という方の文章(2011年「歴史を彩った洋楽ナンバー/第12回」)から締めの部分を引いておきます。

 「 この曲のメッセージを凝縮するなら、「見返りを求めない献身的な救い

  の精神」であろう。そして1970年代当時、とりわけヴェトナム戦争以降

  の社会の不穏な空気に漠然とした不安を感じずにはいられなかった人々の

  心に、曲のメッセージは深く沁み入ったのである。あれから40年以上も月

  日が流れたけれど、大震災を経験した多くの日本人を含めて、今も世界の

  あちこちでこの曲に励まされる人々がいるはずだ。」

 さて、橋本の小説の方です。主人公は14歳、そんな「ぼく」は歩くことのできない障害をもち、一週間に1回、大学生のボランティアに付き添われて車イスで病院へリハビリに出かけています。小説は「ひとりで歩いていた」夢を見たからはじまり、病院でのリハビリ、そして帰り道に町を散歩したりします。学校へは行けず、ボランティアから教えてもらっている状態です。

 この間、「ぼく」は「自分がふつうにしていればふつうの人間になれると思っていたけれど」、「ぼくはふつうの人間になれないかもしれないなァ」、でも「やっぱりぼくは、ふつうの人間だと思うんだ。だって、ふつうの人間みたいに、……頭の中でものを考えることができるんだもの」と、《ふつう》という言葉をグルグル反芻しながら自問自答を続けていきます。そして、こう思ったりもします。

 「 ぼくは好きで、人とちがっていられるんじゃ、ないんだよ。ぼくははじ

  めからこうだったんだよ。どうしてぼくはいっしょうけいめいにがんばら

  なくっちゃいけないの?ぜったいに、ぜったいに、ほかの人はいつだって

  ずるいよ。だったなんにもしないんだもの。ほかの人はいつだってふつう

  に生きていられるんだもの。見るだけなんて、やっぱりずるいよ。ぼく

  勉強なんて、したくない!」

 このように思いながらも、最後の場面、「ぼくにはなにができるんだろう?人になにをしてあげられるんだろう?」と自問しつつ、かつて病院で同室であった少年に「ぼくは思わずにっこり笑った」ことを思い出します。でも、その少年は「チェッ、バッカらしいのォ」と反応したとあります。それでも、少年は「ぼくだって、人に笑いかけてあげることぐらいはできるんだって」という事実にぶつかります。

 「今のぼくにはなんにもできない」けれど、「希望などもたないほうがいいけれど、でも絶望だけだと、やっぱりなんにもなくなるもの」に続く、最後の文章を書き写します。

 「 雨はズーッと降っていて、おでこはだんだん冷えてくる。頬っぺたを窓

  ガラスにくっつけて、ぼくはひとりで練習するんだ。誰かがぼくの前に来

  た時、なにかをしてあげられそうな誰かが来た時、¨ウン¨と笑いかけてあ

  げれるように。

   雨は静かに流れている。ぼくはいつでも思うんだーー誰かになにかをし

  てあげたいって。」

 まずい紹介ですが、この短編は、S&Gの「明日に架ける橋」に対する橋本治らしいレスポンスであったことだけはわかっていただけたのではないでしょうか。若き橋本は、「I will lay me down」をこう解読したのです。

 「ふつう」ということにこだわらざるをえない少年が、自分のことだけでなく、他者というものを見出し、「誰かになにかをしてあげたいって」という地平へと到達していく物語だといえます。前述のとおり「明日に架ける橋」に対し、泉山さんは「見返りを求めない献身的な救いの精神」というメッセージの存在をみていますが、「希望などもたないほうがいいけれど」と自問する少年は自分のなかにもそのような可能性の萌芽を発見する成長の物語です。比べようもないことですが、学生時代の長期入院によって私の直面することになった問題とも無関係とはいえないでしょう。

 この橋本治の「明日に架ける橋」は、彼の作家的想像力の確かさを疑うことのできない作品だと思っています。

 

🔹おわりにーオールドフレンドである音楽ー

 若きポール・サイモンが作詞した「旧友(オールド・フレンド)」は、暗い色調を帯びています。年老いた仲間(友人同士)が、冬の公園のベンチ(両端)にブックエンドのように座り、オーバーコートにうずまって、夕暮れを待っているという情景が描かれます。そして、続く詩句は次のようなものです。

 「 Can you imagine us

         Years from today,

         Sharing a park bench quietly?

         How terribly strange

         To be seventy.

 

         Old friends,

         Memory brushes the same years.

         Silently sharing the same fear……

 

   君には想像できるかい

   今から何年も先に

   ぼくたちがぽつりと公園のベンチにいる姿を

   70歳になるなんて

   とても不思議だな

 

   年老いた仲間

   想い出が同じ何年間かを駆け抜ける

   静かに同じ怖れを抱きながら          」

           [前記のギフトパック盤より/ただし翻訳者名は未記載]

 この詩句からは辛そうな情景が浮かんできますし、70歳に手が届きそうな私も「とても不思議だな」とは感じています。でも、実際の私はこうした情景を現実としていないわけですが、本質においてはこのようなものかもしれないと思ってみることはできます。

 私は、ベンチの両端に「私」と「音楽」が静かに座っている姿を想像しています。オールドフレンドですから、あまり口をきくことはなくても、お互いに相手のことを気づかい思いあっている関係でありたいのです。そして、今回のように第三者から声かけがあれば、すぐにまた近づいて親しくなれる関係を続けていきたいのです。そのような意味で、橋本治は私が旧友であるS&Gの音楽と再会するのを媒介してくれたということになるのでしょう。

 それにしても、ノンジャンルといわれる時代にあって、クラシックでは古典は古典で懐メロなどといわれませんが、ポピュラーでは往々にして懐メロ扱いされます。半世紀前のS&Gの音楽は私にとっての古典というだけでよいのかもしれないけれど、ただなつかしい音楽にとどめてしまうことはもったいないような気がします。ポップ音楽は時代との密着度が高く、そのことが壁にもなっているのかもしれません。だが21世紀の初頭が過ぎ去ろうとしている現在、ジャンルをこえて20世紀の膨大な音楽群から古典の存在を明らかにしていくことも大切だと思っています。

 古いものだけを珍重するのではなく、こうした営為こそ(批評行為)が現代の文化というものの一側面でなければならないのでしょう。

 

 以上、まことに下手な比喩で恐縮ですが、私は、オールドフレンドである音楽と、つかず離れずといいますか、よき関係でありたい、そして時々はかくあらねばなどという義務的なものでなく、鶴見俊輔の「社会的な枷からの自由」を得た老人として、虚飾を排した本質を楽しめる関係であり続けたいと願っています。

 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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