2017.08.15 Tuesday

風のごとく来たりて去りぬー「会いたい・2017年夏」ー

 風のごとく来たりて去りぬ、といえば格好をつけすぎということになるでしょう。

 お盆休みに、息子家族4人がやってきて、2泊3日、あっという間に帰っていきました。何も大したこともしていないままなのですが、<おじさんたちの遠足>と並ぶ夏のメインイベントが終わってしまったようで、気の抜けたサイダーの状態です。

 

 昨日(14日)の夕方、朝方に比べて湿りっ気が出てきたものの暑さのピークを過ぎたのかなと感じさせる空気感のなかを、阿閇(あえ)漁港まで自転車を走らせました。海面のさざ波が揺らぐさまをしばらく眺めていました。大層ですが、ちょっと虚脱感をかかえた心にぴったりと寄り添ってきます。

 朝方に出て帰ってきたのか、あるいはここもお盆休みなのか、釣り船もみんな停泊中です。すると、水面から、一尾の魚がビューンと飛び上がりました。跳ね上がると書くべきなのでしょうが、50儷瓩飛び上がっているのです。喜瀬川の河口付近でもよく見かける光景ですが、魚種はわかりません。ボラであることが多いと書いてありますが、どうなのでしょう。ようしカメラで撮影してやろうと腰を下ろして待ちました。しばらくして遠くで跳ねたものですから、シャッターを押すのが遅れてしまいました。

 彼らはどう暮らしていくことだろう、そして私たちはどう老いていくことだろう、とそんな屈託のような思いを抱えていてもどうなるものではありませんね。ボラはバシャーンと跳ね上がり、馬鹿者と私の頬を叩いてくれました。

 

  阿閇漁港 [8月13日撮影]

 

 地元の総合文化センターで開催中の「ミッフィーのたのしいお花畑」というディック・ブルーナが描くお花と絵本の世界展と、同センター内に併設されたプラネタリウムへと足を運びました。

 ディック・ブルーナというグラフィック・デザイナーの絵作品は、一定の太さの線と囲まれた線の内部に平面的に塗られた一つの色(グラデーションなどない)でつくられた形を組み合わせて成り立っています。シンプル、シンプル、シンプルというべき引き算の美学の極致のようなもので、かねてから私もいいなあと思っていました。会場内の説明書きには、ブルーナが最も影響を受けた画家としてマチスの名があげられていました。なるほど、私の偏愛するマチスの「ジャズ」は親戚みたいなものです。

 上の孫は展覧会の作品にはあまり興味を示すことなく、関連イベントである「ぬりえ」と「みみmiミッフィー」で遊んでいました。

 プラネタリウムは何年ぶりのことでしょう。惑星、恒星、星座と聞いたこと、学んだことはありますが、その時点から全く知識の積み上げがありません、というより退歩ばかりということです。その後半に「ちびまる子ちゃん 星に願いを」というプラネタリウム用のアニメが放映され、孫も楽しんでくれたみたいです。

 

 午後からは神戸ポートアイランドの「神戸どうぶつ王国」にも出かけました。ポートライナー「京コンピュータ前駅」のそばです。

 動物といっても、猛獣ではなく、うさぎやカンガルーなどの危険性の少ない動物たちと飛べない鳥たちがパートに分かれて飼育されていて、すぐそばに近寄ってさわったり、「おやつ」をあげたりすることのできる、「動物園」しか知らない私たちからすればそんな新感覚の施設なのです。

 お盆の日曜日、外国からの観光客を含め、家族連れで大盛況です。いろんな動物に興味を示す孫の姿を、頭がクラクラしながら追っていました。

 

 ポートアイランドの島開きイベントとして1981(S56)年に開催された「ポートピア´81」(私は地方博の先がけといわれた博覧会のパビリオンの一つで半年間働きました)から36年です。同年に生まれた息子もそんな年齢になったということですし、当時の私の年齢を越えています。往事茫茫。

  ディック・ブルーナ展とプラネタリウム「ちびまる子ちゃん 星に願いを」のチラシ

  神戸どうぶつ王国のひつじのトレーニング  [8月13日に撮影、以下同じ]

  ポートライナーから六甲アイランドをのぞむ

 

 お盆の行事、といってもすべからく簡略ですましていますが、先ほど近くの水路に線香を備えてチンチンチンと鐘をならして、ご先祖さまを送りました。

 終戦から72年です。先ほどポートピア´81から36年と書きましたが、2017年はその博覧会がちょうど戦後72年の中間点に位置づけられるわけです。でも団塊世代の私からすると、どこかしら違和感が否めません。戦後72年の前36年ははるか前のことでとても遠くにあるように感じますが、私が成人として生きてきたはずのこの36年は同じ36年ですのにおそろしく短いのです。

 それは「自我」という存在の有無にかかわるだけのことかもしれません。ともかくポートピア´81は終戦から36年目に開催され、それからまた36年の時が刻まれたということになります。

 

 毎日新聞が「会いたい2017年夏」というシリーズを夕刊に連載しています。大阪版では、今日(15日)までのところ、司馬遼太郎、本田靖春、阿久悠、大橋巨泉の4名であり、ネットで東京版をみると大橋巨泉の前後に米原万理と山崎豊子が掲載されたようで6名ということになります。

 「ふと、この人が今いてくれたらと思うことがある。戦後72年。進路を見失いつつある2017年の夏、ゆかりの人たちを訪ねた」と、本シリーズの趣旨が記されています。今日のご時世、日本、世界について、あの人ならどう反応し、どう語るであろうというのがテーマということになります。

 ざっと読んであれと引きつけられたところを少しだけ紹介しておくことにします。

 

 朝鮮半島で生まれた本田靖春さん(1933-2004)。遺作『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社文庫)で、幼少期の本田さんが肩車してくれている朝鮮人の職人の頭頂部にペンを突き立てた記憶を、本田さんは晩年になって脳裏によみがえらせ苦しみとともに記しているのだそうです。

 「 「哀号、ペン」「哀号、ペン」と痛がる男の声で、場が静まり帰ったの

  を覚えている。職人たちは私を咎めなかった。経営者の孫だということ

  で、そうしたくてもできなかったのであろう。」

 そう記す本田さんは長じて「在日朝鮮人の差別問題を繰り返し取り上げた書き手」となったのですが、この国の差別と抑圧の構造をあぶり出すと、読者からの反応が全くなかったことについて、次のように書いているそうです。

 「 一人一人が与している差別の現実から目をそらしたいという心理が、意

  識するとしないとにかかわらず働いていたように思う。」

 「翻って現代」。ヘイトスピーチが横行する空間。ついついこんな現実から目をそらしてしまう私を撃ちます。

 

 父の仕事の関係でチェコスロバキアのプラハのインターナショナルスクールで学んだ米原万理さん(1950-2006)。そこで「政治や権力が、個人の一生を一瞬にして変えてしまう怖さ」を米原さんは肌身に刻みました。2003年に始まったイラク戦争で、ボランティアをしていた日本人3人が武装勢力を誘拐されたときに、当時の小泉首相や安倍自民党幹事長が展開した「無謀な行動」などとする「自己責任論」に対し、米原さんは「本当におかしい」と怒り、次のような発言をしていたようです。

 「 日本には判官贔屓という風土がある反面、自己主張する弱者は許せない

  のよ。税金を使って行動する人にはやさしいけれど、自腹で、自分の意思

  を持って行動する人たち、つまり弱者が自己主張し出すと憎しみ出すの

  ね。」

 まさに現在の「政府や世間が作る「空気」に逆らうことがより難しくなって」いること、「安倍一強という中でメディアも官僚も強い者に隷従していく姿」に、米原さんは怒り心頭になっていたはずだと、TBSの金平キャスターは語っているとのことです。

 

 兵庫県淡路島で生まれた阿久悠さん(1937-2007)。ご存知の映画「瀬戸内少年野球団」を記念するモニュメントが同島にありますが、出演者のブロンズ像、その脇に阿久さんの言葉が刻まれています。「<あのとき空は青かった>。敗戦の日、8月15日である」、そして次のように続いているのだそうです。

  戦争という洪水のあと

  水たまりが残った

  水たまりのぼうふらは

  泥水の息苦しさよりも

  見上げる彼方の

  青い青い空を思った

  戦争という夜のあと

  こどもの朝が訪れた

 先日のブログ(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」)において、哲学者の中島義道さんが「ウソをつく」ことの本質を「理性的であって、かつ動物である人間はウソをつくべきでないという原則を振り捨てることもできないままウソをつき続けるのです」と記述しています。そのうえで、現政権の「国会でのウソ答弁」は「国家のためという善意に基づいている」と自分も騙す構造となっており、このような「善意のウソ」をカントはウソの中でも最も悪質なウソだとみなしていると指摘しています。

 阿久さんは長く続いた日記に短歌を添えていたそうですが、こんなものが記されていたとのことです。

  しらじらと詭弁を弄す人々の 唇から奪え「秩序」と「信頼」

 

 戦後72年。終戦のときに8歳であった人がもう80歳になるということです。

 8月15日「毎日新聞」朝刊(「歴史に証言する責任」)で主筆である小松浩さんは、1941年の開戦決定には「中枢における責任体系の不在という病弊」が顕著であったこと、その病弊は「今も、日本の政治文化の奥底に潜んでいるように思えてならない」と指摘しています。現下の「森友・加計・日報」問題においても、象徴的なことは政策決定における責任体系のあいまいさであり、その不在であるということができます。今日のところは無知な私がしたり顔で書くことはやめておきましょう。

 8月15日は何よりも平和への願いを確認し、歴史的な検証を重ねつつ、平和への意思を継続更新する日といたしましょう。

2017.08.10 Thursday

台風のあとにー『図書』2017年8月号ー

 昨日(9日)、元町通のアーケードの下を西に向かって歩いていたら、サラリーマン時代の知り合いに出会いました。

 やあやあやあ(ビートルズみたい)のあと、私の方から「今は何を」という常套句を発してしまいましたが、私と同年のその方は地域活動に関する研修講座の責任者として仕事をされているとのことです。それで「○○さんは」と問われ、「全くの無職です」と答えると、「○○さんにはいろいろとされることがおありだろうから」というような趣旨の話がありました。わたしは「いやいやこうしてフラフラとしています」と事実を伝えましたが、ちょっと奇異に受けとめられたように感じたのです。えーどうしてるのかなという感じなのでしょうか。

 お互いに表層的な言葉のキャッチボールにすぎないわけですが、仕事人間的な地平というものから、私もいまだ抜け出せていないのかなと、ちょっと情けなくなりました。と同時に、その方にとっては仕事がないという状態が今はまだ想像の領域にとどまっているということができるかもしれませんね。

 

 前日に台風5号が近畿地方を通り抜け、まだ日本列島を北上中であった日(8日)の午後遅く、自転車で大中遺跡公園へ出かけました。

 陽射しを避けるように近くの喜瀬川沿いの遊歩道を歩いていたら、台風一過ではなく、余波というべきでしょうか、急に黒い雲が現れてきました。地表では、世の中ではこれだけヘンテコなことが続いているのですから、空もおかしくなるしかないのかなあと、シャッターを切りました。前日の雨のせいか喜瀬川の取水堰からは、いきよいよく水がオーバーフローしていきます。

 最近は暑さのせいで歩く時間帯が遅くなっていることもあって、遺跡公園の午後6時の閉園に間に合っていませんでしたが、この日は閉園15分前に入ることができました。ふつうはいろんな木に花が咲いているのですが、真夏の今は「サルスベリ」が咲いているだけです。まだ短い樹齢のサルスベリの木らしく、サルがすべるほどのつるっとした幹には育っていません。

 屋上に草を生やしている隣接の兵庫県立考古博物館に沿って歩いていると、二つの円筒が屋根部分を挟んで上下に並んでいる姿を、鏡餅のような面白い形として初めて発見できたように感じました。

  急に出てきた黒い雲(大中遺跡公園) [8月8日夕刻撮影、以下同じ]

  同上 

  喜瀬川の取水堰

  サルスベリの花(大中遺跡公園)

  兵庫県立考古博物館 円筒の二段重ね

 

 毎月末に郵送されてくる『図書』のことは当ブログをはじめた一昨年2015年11月に「『図書』800号」として書いたことがあります。今月2017年8月号で通算823号だそうです(臨時号もカウントされています)。

 今、真っ先に読む連載は高橋三千綱さんの「作家がガンになって試みたこと」です。この外にも今月号には気になる文章が掲載されていました。

 

 前々から連載されている若松英輔さんの「『こころ』論ー語られざる「遺言」」は今回で17回目(「記憶を生きる」)、あまり熱心な読者ではなかったのですが、最近夏目漱石を読んだ関係で覗いてみると、直近にブログで取り上げた学習院における講演録「私の個人主義」にも言及していました(「事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー」中の「<権力の濫用>と<人格>の関係とはー夏目漱石「私の個人主義」ー」)。

 この講演は『こころ』が刊行された2ヵ月後に、1914(T3)年11月に行われたものなのです。漱石はそれまで「他人本位」で悩んできたけれど、そんな鬱々とした日々であったロンドンで「自己本位」という概念に目覚めたことが、文学の、そして人生の出発点であり立脚点であったことを強調しているのです。

 若松さんは『こころ』という小説には「「私」の中には若き日の漱石がいて、その問いを引き受ける「先生」にも現在の漱石の影が色濃く残っている」と書いています。「私」は「自己本位」に目覚めた若き漱石が、「先生」は「修善寺の大患」を経て過去の自分と対峙したあとの現在の漱石が、それぞれ投影されているということになるのでしょう(「夏休みが始まるとー夏目漱石『思い出す事など』ー」)。

 『こころ』がどんな小説であったかすっかり記憶から抜け落ちていますが、もう一度読んでみたくなりました。

 

 虫の絵本を描く画家である館野鴻さんの「命は描けるか」という文章にもドキリとしました。

 これだけでは紹介になりませんが、締めくくりのところを引用しておくことにします。

 「 命は描けない。命は静止しているものではなく、状態であり、関係の中

  で、いつも運動し変化しているものであるから。姿を平面に描いてもそれ

  は命ではない。

   私にできるのは、断片を誠実に描くことくらい。その静止した断片の連

  なりが絵本であり、ページという静止と静止の狭間に、永遠に描くことの

  できない命のようなものが忍び込んでくれたらと願うのだ。」

 こんなことを意識しながら描いているのだ、なんとなくわかるなあ、と私は思ったのです。

 

 最後に、実に65回の長き(5年を超えています)にわたり連載されているのは、池澤夏樹さんの「詩のなぐさめ」です。

 今月号は「映画の中のエミリ・ディキンスン」です。現在、上映中(今のところは「岩波ホール」のみ)で、この19世紀のアメリカ女性詩人の伝記的な映画だそうです。生存中には数編の詩しか発表されなくて、死後、多くの詩篇(1700篇以上)が発見され、今や、19世紀アメリカを代表する天才詩人と評価されているのです。

 21世紀の今、日本語に翻訳されたエミリ・ディキンスンの詩篇の数篇だけを読んで、私には何の前置きなしに天才詩人と評価する能力がありません。残念なことですが、でも多くの優れた読み手が評価している事実に謙虚でなくてはならないとも、私は考えています。

 神戸で上映されることになったら、観てみたくなりました。やはりSF映画まで手が回りかねます。

 映画の予告編などを貼付しておきたいと思います。池澤さんはエミリ役のシンシア・ニクソンのディキンスンの詩を読む声と速度と抑揚を楽しんだと書いています。

  ◍『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』 (テレンス・ディヴィス監督/2016年)

  ◍「エミリー・ディキンソンの本/いやしの本棚

 

🔸ラ・ロッタ・ベーカリー(La ROTTA Bakery)のこと

 最近、よく立ち寄っているパン屋さんのことをメモしておこうと思います。

 今回ネット検索すると、きちんと店主に取材して紹介している記事がアップされていますので、詳細はそちらにおまかせするとします。

 ◍「パンとお店と¨私¨のストーリーパンポータル

 ◍「そうだよおこの関西おいしい、おやつ紀行」CREAweb

 

 若い女性店主が一人だけですべてを切り盛りするパン屋さんという話題性、それよりなにより彼女の作ったパンがおいしいぞということですぐに人気店となったようです。昨年3月の開店ですから、まだ1年と4ヵ月です。

 私が知ったのは、時々訪れるバー(八亀酒・珈琲店)で出すパンがラ・ロッタ・ベーカリーのものだったのです。加えて酒を飲まない店主が仕事帰りにコーヒーを飲みに来ていたりして顔を合わせたりすることもあったのです。

 といっても、今回のネットで見つけた記事で読ませてもらったような店を始めるまでの経緯を知っていたわけではありません。

 

 彼女のつくるパンは、どう表現したらいいのでしょうか、滋味のあるというか、奇をてらったところのない、本人がおいしいと思うパンをストレートにつくったという感じがします。何も知りもしない私が書くことではないでしょうが、ぶれることのない彼女の芯の強さがあらわれているといえますが、それでいて押しつけがましさのない、そんなパンにラ・ロッタ・ベーカリーでは出会うことができます。

 「これ、ちょっと自信作なんです」という店主の笑顔におじさんもうれしくなります。健康に気をつけてがんばってくださいと、一ファンとしては祈るしかありません。 

 昨日(9日)、店主にことわって撮影した写真を掲載しておきます。

  元町通から南へ路地を入った右側の看板のところに「ラ・ロッタ」はあります [8月9日撮影]

  「ラ・ロッタ・ベーカリー」の店内、後姿が店主です

  ラ・ロッタのパンのディスプレー、売れて少なくなっています

  昨日買った「ゴルゴンゾーラとクルミとレーズンのパン」

  「ラ・ロッタ・ベーカリー」のショップカード

2017.08.06 Sunday

SF映画という未知の世界

 SF映画という未知の世界を覗かせてもらいました。

 大学で今年4月から聴講していた「芸術学」という講義を通じてのことです。この講義ではSF映画の戦後史を通観するとともに、エポックとなった『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督/1968年)と『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ監督/1977年)を取り上げ、その詳細を論じるという内容でした。それぞれの映画を数シークエンスに分けて講義中に鑑賞したうえで、講義を担当するM教授が映像内容や撮影方法の細部に依拠しつつ広範な視点からも分析を加えた2本の映画論を語りつくそうというものです。

 M教授は、映画を観ていたにもかかわらず、いかに何も観ていなかった、見えていなかったことを学生たちにも知ってもらいたいと思ってとコメントしていました。聴講するジジイである私も日頃から思っているように、映画を観ても何も見えていないことを改めて思い知らされることになりました。

 

 過去の映画を観たうえで簡単にコメントを書くという宿題もあったので、約20年ぶりにレンタルビデオ店の会員になりました。そこで借りて観ることとしたのは、上記の2本以外に『地球の静止する日』(ロバート・ワイズ監督/1951年)、『エイリアン』(リドリー・スコット監督/1979年)、『スターマン/愛・宇宙はるかに』(ジョン・カーペンター監督/1984年)というところです。

 M教授が講義において指摘していたとおり、それぞれの映画には時代的関心事(東西冷戦、核戦争、宇宙開発、環境破壊、グローバル化、反グローバル化など)が背景として反映しています。当然のことなのでしょうが、SF映画とはまったく縁遠い私にはSF映画もそうなんだと新鮮に感じました。

 

 M教授が作成したSF映画の膨大なリストの中で、私が観ていたと確実にいえるのは『猿の惑星』(フランクリン・J・シャフナー監督/1968年)のたった1本でした。映画館で相当数の映画を観てきたと思っている私としては、今更のことになりますが、一口に映画といっても、私の観ている映画の偏りと映画世界の広さを同時に確認することができました。

 それはそれでいい経験になりました。こんなふうに映画を観ることのできる方、研究している方がいることを知って、それに接することができたのは愉快な体験だったといえるでしょう。

 こんな感想ではありますが、SF映画を選んで観ることは今後ともほとんどないのではないかと思っています。これからも私の興味、好き嫌いを優先することになるであろうから、SF映画のジャンルまでとても手が回らないということです。

 

 今回の聴講の記念として、『2001年宇宙の旅』について短い提出したレポートに少しだけ手を入れて、当ブログへ掲載することにさせてもらいます。

 この映画の映像は複雑膨大な作業を経たものであるにもかかわらず、60年代の現代アートのミニマル性と共通の地平にあることに注目しています。

 

🔸2001年をはるかにすぎて―『2001年宇宙の旅』とSF映画の可能性―

 

 半世紀前に2001年の未来世界を舞台として制作された『2001年宇宙の旅』、この映画史に残る映画を、2001年をはるかにすぎた今、初めて観ることができました。同名の小説は未読、だが当講義やネットの情報等を事前に少しは得たうえで観たことになります。

 やはりというべきか、この映画のわからなさ加減に驚き、どういうことなのかなと思いはじめることになりました。宇宙空間の浮遊感のなかに一人放りだされた感覚です。

 映像面では、宇宙船などの具体物が細部まで作りこまれ、これと特殊効果が相乗して、その純度の高さが際立っています。特に宇宙空間では、ゆっくりとしたテンポで動きつつ、全方位からの映像を提示し、リアルでありながら映像は削ぎ落され、どこか抽象的でもあります。音楽は雄弁であるのに比し、台詞が極端に少なし、説明のナレーションもありません。オデッセイといいつつ、地球への帰還は描かれることなく、意識的に欠落を内在化した映画なのです。

 何がいいたいのかという通常の映画の見方は拒絶されますが、人類という存在を超えた超越的なもの、神と呼んでもいいのでしょうが、その存在が透けてみえてきます。オープンエンドとして観客の想像力を引き出すという点で、監督が仕掛けた意図は成功しているといえるでしょう。

 全体の印象は、この映画は現代美術や現代音楽など現代芸術と地平を同じくするものではないかということです。現代美術・音楽といっても幅広いが、60年代のミニマル・アートにも通じるものであり、60年代のニューシネマにも呼応しています。それをSF映画というジャンルで実現した「現代芸術映画」「アート映画」だというのが結論です。

 

 では、「2001年」とSF映画の可能性という点では、「アート映画」という多数派足りえないカテゴリーを想定すると、展開の可能性という幅は狭いといわざるをえません。

 その後のルーカス、スピルバーグは、映像の純度、もとより特殊効果の使用方法を含め、その面のモデルを「2001年」におきつつ、ストーリー性、スペクタクル、アクション等を上乗せし、ポピュラリティを獲得しました。現下の科学技術の進展を十分に踏まえたうえで大人の鑑賞に耐えうる映像レベルを確保するという点に限れば、「2001年」はその方向を用意し、さらなる展開を可能にさせる起点となったということはできます。

 「よくわからぬ」という「2001年」の意味、映画のテーマやビジョンという面ではどうでしょう。2001年の未来世界を通り過ぎた現代世界の困難や混迷、そうした壁に直面する人びとの底知れない不安という現実に視座をおきつつ、未来世界を構想するビジョン(ディストピアに流されがちだが)をテーマとする可能性が拓かれているものと考えています。

 人間と機械(特にAI)の関係、多言語コミュニケ―ション、地球環境等々をはじめ、生命科学と倫理の相克という人間存在そのものの揺らぎにも通じる次の未来世界を、一種の哲学的な視点から描く「アート映画」は「2001年」の嫡子だということになるでしょう。

 

【付記】『2001年宇宙の旅』にかかる参考情報です。

     ◇ウィキペディア

     ◇アンサイクロペディア 

2017.08.05 Saturday

事実から遠く離れてー真顔で「ウソ」をつく政治とはー

 ああ、この人もあの人も「ウソ」をついているのだと、国会答弁を聞いていてそう思う日々が続きました。もちろん「森友問題」「加計問題」そして「自衛隊PKOの日報問題」の三点セットのことです。そこで繰り返される「虚構の劇場」というべき世界から、次第に「見えすいたウソ」で固められている世界がある種のリアルさをもって眼前してきたという実感があったのです。

 といっても、ただ今現在においても、事実と真実は点の状態のままであり、線や面として理解されていないのですし、まして一つの真実の像が結ばれているとはいえないにもかかわらず、そんな実感をわりと多くの方が共有したのです。それが内閣支持率の急落という現象となって噴出しました。現政権が演出する法的に反しないという前提の下での虚構の世界を、あまりにも拙劣な「ウソ」の世界を、これでもかと見せつけられ、これまで一定の虚構を許容してきたにもかかわらず、ついに「信頼」が決壊、すなわち臨界点を超えたのだというのが、私の感想です。

 

 この間、私は、「フェイク・ニュース」を取り上げたブログ(「<フェイク・ニュース>と<ポスト・トゥルース>の世界ー民主主義社会のインフラとはー」)とのつながりもあって、これが「ポスト・トゥルース」の政治なのかという問いかけに直面していたように感じています。「ポスト・トゥルース」の定義とは「世論の形成において、客観的な事実よりも、感情や個人的信念が優先され、事実が二の次になる状況」と翻訳されています。このポスト・トゥルースと、今回のような我が国の政治状況の関係をどう理解しておくべきかということです。

 結論を先に申し上げるならば、私は現下の政治状況を、「事実が二の次になる状況」がベースになった虚構性という点において「ポスト・トゥルース」の政治の一つの象徴と考えています。本稿では、事実から遠く離れて、真顔で「ウソ」をつく政治の現在について考えてみたいと思っています。

 政治ウオッチャーではない私としては、二つのことに留意したいと思っています。一つは今回の問題を横において、オルタナティブのない政党状況もあって、引き続き現政権を支持する国民が、またあの「ウソ」は「ホント」なんだ(というより「ウソ」かもしれないけれど、それを上回る神話[岩盤規制の打破が優先したなどというような]を支持する)と論じる人たちがたくさんいるという現実を忘れないことです。もう一つは、内閣支持率の急落という時期に便乗した、あるいは尻馬に乗ったような議論にならないことです。難しいことですが、そう思っています。

 

 演劇の世界がリアリズムを含みこんだ虚構の世界だとしたら、政治の世界は虚構を含みこんだリアリズムの世界、理想だけでは済まない現実と対峙する世界なのであろうと、いずれの世界も知らない私は想像してきました。「ウソ」のない世界の存在などとはさすがに能天気な私(「ウソ」をつくということを自分に問うても)でも思っていないのですし、また長く生きてきた者として、ロッキード事件をはじめとする政治上の諸問題にもふれてきました。

 でも、今回はさすがに度がすぎた、それをテレビというメディアは切り刻まれた、いわば編集された世界であるけれども、権力を有する者による<権力の濫用>の現場を、ちょっと生々しい実感をもって、受けとめるに至ったのだと、いずれの問題の真実をも説明しきれないにも関わらず、私も実感させられたのだと申せましょう。

 

🔸権力をもつ者の演出手法ー「柳田邦男の深呼吸」ー

 7月22日付『毎日新聞』の「柳田邦男の深呼吸」という記事で、前述の「三点セット」にかかる現政権の発言を、政権の内実と体質を集大成するように露呈したものであるとし、その特徴を以下の4点に集約しています。

  峙録文書はない」「文書は廃棄した」「記憶にない」と言って、事実を

  不透明にする。

 厳しい批判や暴露的文書に対し、攻撃的な決めつけの言葉を浴びせて「印

  象操作」する。

 H稟重な質問に対しては、事実関係についてまともに答えず、一般論を述

  べてはぐらかす。

 と稟修垢訌蠎蠅鮨由聞況發垢襪海箸納匆颪ら排除し、批判を封じようとす

  る。

 これらの特徴はいささか常識的なものといえますが、問題を整理していくうえでは有用です。

 安倍総理をはじめとする政権が当事者として批判されているわけですから、その批判が当たらないというのなら、当事者である総理や内閣の権限で事実を明らかにすることが出発点になります。でも,里箸りまったく何もしないわけですし、◆銑い里箸り事実を歪めたりすり替えようとするのですから、すべてかどうかは別にして一定にせよ批判が当たっているのではないかと推量してしまうのは、当然だと申し上げるしかありません。

 この記事の翌週7月24日、25日に開かれた閉会中審査において、安倍総理の「1月20日発言」が飛び出したのですが、これを知ったうえでなら、柳田さんは上記の特徴をどう記述されたことでしょう。

 

 分析哲学者として著名な野矢茂樹東大教授は、8月1日付『朝日新聞』に、ちょっと皮肉を効かせた「最近の政治の場面を見ていると、言葉の使い方に関して、たいへん勉強になる」から始まる文章を寄せています。

 質問に直接かつ軽々に答えず「あなたの前提が間違っている」、その質問は「印象操作だ」と切り捨てるやり方、失言した時には「怪文書」発言への批判に対し「不可解な文書」と言い換える切り抜け技法は、その場を切り抜ける技術として役立つとします。

 そして言葉の意味をずらす技術のみごとな例として、獣医学部新設が加計学園に決定するプロセスの公正さが問われているのに、新設制限こそが不公平であり、今回のことで「不公正が正された」と主張した国家戦略特区WG座長の発言をあげています。また安倍首相は「こんな人たち」発言の弁明として「選挙妨害に負けるわけにはいかない」と言ったのだとしたことについて、「こんな人たち」という言葉が、その人たちが為した「こんな行為」を意味するものへと言葉の意味をずらしたのだというのです。

 こんな技術を問題にするのは「あくまでこんなやり方に騙されない」ためであり、「言葉をねじ曲げるようなやり方を自ら振り回す」べきではなく、野矢教授は「言葉を大切にしない人を、私は信用する気にならない」と結んでいます。これは、柳田さんが現政権の特徴とした 銑い膨鳴譴垢襦峺斥佞琉嫐をずらす技法」だといえます。

 こうしたレトリックは高度な芸や作法として重用されているのでしょうが、今回はいかにも度が過ぎて、あまりにもシナリオを操作しすぎて(今回のドラマに「窮鼠、猫を噛む」の籠池泰典氏や前川喜平氏が登場したことも影響しているのでしょうが)、凡人たる私はもとより、多くの方が呆れて辟易としたというのが実情というところです。

 

 柳田さんは、「人間性」というべき問題にも踏み込んで次の厳しい文章を記しています。

 「 安倍政権下における政治家や官僚による、これまでの戦後史の中では見

  られなかったような政治倫理観の衰退と言葉(表現力)の壊れ方を見ると、

  この国の指導層の人間性が劣化しているのでは、とさえ思えてくる。」

 安倍首相の宿願だった道徳の教科化が2018年度から始まることと関連づけて、「教育の理念と世の中の現実」は、前記のとおり大きくずれていると、次のことを指摘して記事を結んでいます。

 「 はっきりしているのは、この国のあり方が権力者の傲慢さによって揺さ

  ぶられ、倫理的に転落の危機に直面しているという現実だ。この国をこれ

  からどうするのか、国民一人一人が真剣に考えることが求められてい

  る。」

 戦後史を通観して評価する能力は私にはありませんが、ここでは「政治倫理観」の衰退が「人間性」の劣化と関係づけられていることに注意しておくことにしましょう。言いかえてみると、指導層の「人間性」の劣化が今の「政治倫理観」の衰退につながっているということになるのでしょうか。

 

🔸「最も悪質なウソ」とはー中島義道「哲学塾からこんにちわ」ー 

 月刊『東洋経済』に連載の「哲学塾からこんにちわ」において、中島義道さんも今回の一連のウソ問題についてカントをベースとして切り込んでいます。カントのことを、まして中島さんのことを知らない私にはどこまで理解できているのかはなはだ心もたないかぎりなのですが、<ウソの連鎖と大合唱>の背景とか根っ子に接近する視点として分かったような気になりましたので、少しまとめておくことにします。

 

 カントの根本的な主張は、法的正しさである「適法性」と道徳的善さである「道徳性」を峻別し、「適法性は道徳性ではない」というところにあるのだそうです。

 つまり「適法性」は外形的なよさ、ネガティブに法に触れていない言動であり(「義務にかなった行為」)、一方「道徳性」はそれ以上に内面性を含み、自分が真に知っていることに反しない言動(「義務からの行為」)だというわけです。そして「適法性」「社会的正義」という名のもとに「道徳性」「道徳的善さ」を実現したように思いこむ転倒を「根本悪」と呼んで、カントは糾弾しているのだと、中島さんは書いています。

 

 この視点から、現実界で起きていることを見ると、「適法性」「社会的正義」を軸とする、というより「法律の限界」を踏まえた展開と呼ぶべきものであり、「証拠が挙がらない限り、あるいは法に基づいて有罪と証明できない限り」、「責任が問えなくなるばかりではなく、「正しい」ことになってしまう」ということになってしまいます。

 そんなことは何回も見てきたという既視感がありますが、中島さんはこのことを「自覚することが最重要問題」なのだと指摘しています。

 もとより、このことは真実を明らかにするという名目で都合の悪いものを抹殺してきた「人類の愚かな歴史」への反省が反映しているわけですが(人権をベースとした法体系)、「道徳的善さ」がベースにある「真実性の原則」というものが発揮されず、「適法性」「社会的正義」にすり替えられているというわけです。

 政治の世界に限りませんが、私たちの前で繰り広げられているのは、「真実性の原則」が貫徹する世界ではなく、「真実は「正義」「適法性」「法治国家」「基本的人権」「人間平等」という美名のもとに覆い隠されている」と、哲学者である中島さんは言いたいようなのです。

 くどいようですが、この「真実と法的正当性のギャップ(すなわち、ウソであることは明白なのに、不法でないゆえに逃げ切るゲーム)」を、とりわけ政治の世界で見せつけられてきています。そして、それは今回の一連の問題において、私たちが目の当たりにしていること、目の当たりにしようとしていることでもあります。

 

 中島さんの「ウソ」をめぐる議論の根っ子を確認しておきましょう。

 それは「ウソ」をつく存在としての人間のありようですが、次のように断じています。

 「 言葉を学んでしまったわれわれ人間は、ウソをつくべきでないと知って

  も、ウソをつくのが自然なのです。裏側から言いかえますと、ウソをつく

  ことが人間にとっていかに自然であっても、どんなときにもウソをつくべ

  きでないという「真実性の原則(道徳原則)」は立派に成り立つというこ

  と。」

 これを中島さん流に微調整したら、こうなんだと次のように記します。

 「 違法にならない限りウソをつくことがいかに自然であってもウソをつく

  べきではない、という原則は成り立つ、言いかえれば、ウソをつくべきで

  ないという原則は、違法にならない限りウソをつくことが「自然だ」とい

  うことを排除しない、と言いたい。」

 こんな誰も守ることの困難な「ウソをつかない」という原則を「後生大事に保存している」のも人間なのです。中島さんによれば、「「ウソをつくべきでない」という大原則をどうしても捨てきれず、しかも現実には刻々と原則を破っている、こうした人間の無残にも引き裂かれたあり方を描き続け」たのがカントなんだというわけです。次のようにも畳みかけています。

 「 ウソというものは理性(言葉)とともに入ってくるものですが、神をはじ

  めとして人間より高級な理性的存在者なら、ウソをつかないでしょう。

  理性的ではない動物なら、ウソをつくことすらできないでしょう。しか

  し、理性的であって、かつ動物である人間はウソをつくべきでないという

  原則を振り捨てることもできないままウソをつき続けるのです。」

 

 そして、大義名分の「理性主義」に対置するように「功利主義」「情緒主義」を持ち出し、現代日本の、というか近代市民社会の秩序の前提を次のように書いています。

 「 大部分の現代日本人は、基本的には功利主義に立ち、ときには(比較的ど

  うでもいいような場合や、逆にとくに自分の信念と直結するような場合は)

  情緒主義をとり、名目上は理性主義をとっているように思われる。そし

  て、興味深いのは、われわれは、他人の行為を判定するときにも、基本的

  にこの秩序を適用しているということです。」

 したがって、今回の問題に関しても、このことをよく知っている総理をはじめとする人たちは、「理性主義」に基づいて行為している立場で答弁しようとし、「ウソばかりの答弁」となってしまうのだというのです。つまり「それが私(われわれ)のトクになるからしました」とも「そのときの気分に誘われてしました」と語ることができなくて、「1点の私欲もなく、ひたすら国民のことを考えて行為しました」という<うそばかりの答弁>となってしまうのだと、中島さんは説明しています。

 そのうえで、今回の虚構劇場について、次の決め台詞で結論づけています。

 「 たぶん、そういう面も(少なくともわずかには)あるでしょう。しかし、

  カントは、これを「善意のウソ」と呼び、ウソのなかで最も悪質なウソと

  みなしました。なぜなら、こう語るとき、人は他人を騙すのみならず自分

  も騙し、さらに「国家のためには仕方がないという(広い意味での)善意に

  基づいている」と思っているからです。」

 

 顰蹙をかいそうですが、哲学者たる中島さんは、今回の問題とウソをつくという人間の存在の根源的なありようとの関係について、面白がっているようにも読むことができます。私としては、今回の問題のこれからの進みゆきはもちろんのこと、今後の政治の世界における「ウソ」という問題にアプローチしていく際に、基礎となる大切な視点をもらったように感じています。

 とくに近代市民社会の限界というべきもの、「社会的正義」「適法性」「法治国家」という枠組みにおいては事実の解明がなければ「ウソの世界」が正当性を帯びてしまう(中島さんの「ウソであることが明白なのに、不法でないゆえに逃げ切るゲーム」)というのが現実なんだという指摘は大切にしたいと考えています。

 したがって、こういう枠組みの限界という中で、事実の解明と真実への接近は大変に難しいということになりますが、少しでも可能性を広げるための仕組みの充実などが重要になってきます。そして、今回の一連の問題についても、「適法性」という枠組みにおいて収束してしまわないように、どう対応していくのかが問われているのだと申し上げたいのです。

 堂々めぐりの議論のようですが、「適法性」をベースにした「ウソの壁」は高いからといって、事実の解明は無理だと決めつけてしまうことはないようにしたいというのが出発点であると言いたいのです。

 

🔸<権力の濫用>と<人格>の関係とはー夏目漱石「私の個人主義」ー

 1914(T3)年11月に学習院において夏目漱石は「私の個人主義」という名高い講演を行いました。亡くなる2年前のことになります。最近読んだから取り上げたにすぎないのであり、あまり関係ないやんになりそうですが、この百年前の講演から何かしらの視点を汲みとってみることにします。

 漱石が用いる<権力>と<人格>ということばにとくに着目したいと思っています。

 

 漱石は、この講演の前半で「自己本位」の重要性を説いたうえで、後半部分を、「上流社会の子弟ばかりが集まっている」学習院の学生たちに、今後付随して回るのが<権力>であり<金力>なんだというところから始めます。そして権力には義務が、金力には責任が不可避だとし、論旨を三ヵ条の形で説いています。

 「 今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自分の個性の発展を仕遂げよ

  うと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならないという

  事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付

  随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己

  の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないと

  いう事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります。」

 言い換えると、「この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起こってくる」と強調しているのです。そして次のように続けます。

 「 もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、他(ひと)を妨

  害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれ

  ば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈する至るのです。」

 そしてこの三つのものは学習院の学生が将来において接近しやすいものだから、「貴方がたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくては不可(いけな)いだろうと思います」と語りかけます。

 そのうえで、以下のような意味において「私は個人主義だと公言して憚らない」のだというのです。

 「 私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方

  がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのでありま

  す。」

 

 以上のとおり、<権力の濫用>と<人格>との関係、<人格>を<徳義>と言い換えてもいいのですが、ここに、今回のテーマとの関連を、私は見ています。

 講演の最後の方で、漱石は自分の個人主義というものを、国家主義と調和しうるものとしているのですが、次のような言い方を江戸弁を使い語っているところにも注意しておきたいと思います。

 「 ただもう一つ御注意申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは

  個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来

  国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしませ

  ん。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであ

  ります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低

  級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から

  考えると、それが大変に高くなってくるですから考えなければなりませ

  ん。」

 続いて<徳義心の高い個人主義>の優位性を説いています。

 「 だから国家が平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く

  方が、私にはどうしても当然のように思われます。その辺は時間がないか

  ら今日はそれより以上申上げるわけに参りません。」

 これは漱石の国家主義というか軍国主義への批判であったのでしょうか、ちょっと余計だったかもしれませんが、付加しておきました。

 

 今回のテーマとの関係では、2点について確認しておくことにします。

 一つは漱石は学習院の学生たちに「人格のないものが、権力を用いようとすると、濫用に流れる」と明言しており、<人格>と<権利の濫用>の関係についてはっきりと意識していたところです。<人格>があるとはどのようなことかについて漱石は明確に言葉にしていないと思われますが、講演全体から「徳義心の高い個人主義」を基盤として有する人を<人格>のある人と考えていたということになるのでしょう。

 これは、柳田邦男さんの<人間性>と<政治倫理観の衰退>との関係と、近似することを意味しているように感じます。漱石の<人格>と柳田さんの<人間性>は響きあっています。

 

 もう一つは<国家的道徳>を<道義上の個人主義>の道徳より低位のものとみているところです。これも講演全体からすると、いわば<国家>を<個人>より優先する道徳が平常時においても隅々まで行き渡るような社会は、逆立ちした窮屈な社会であると、漱石は考えていたようです。

 来年度からの道徳の教科化がめざすところとの関係で、問われることになるでしょう。

 

 現政権の問題というだけではありませんが、今や国会議員の多くが二世議員であり三世議員だといわれています。二世、三世議員という属性と<人格><人間性>の問題が即つながるわけではありませんが、漱石の講演の対象である学習院の学生たちと同様に、<権力>に関して近い境遇であるということがいえるでしょう。

 今回の問題の背景として、漱石が懸念する<権力>に近い境遇で育った者が<義務>を深く刻むことなく、つまり<人格>の軽い者が、<権力の濫用>というべきことを為したのであろうと理解することを、完全に否定することはできないと、私のような者は考えてしまいます。

 

🔸おわりにー「法治」と「人治」などー

 いわゆる三点セット「森友・加計・日報問題」(森友・加計問題は「モリカケ」という呼び方もあって面白いが)については、その真実はまだまだ藪の中です。何もはっきりしていないという言い方がふさわしい状況にあります。

 国会での政権・政府側の「ウソ答弁」を連鎖させることになったのは、やはり点にしろ、一定の事実が明らかになってきたからにちがいありません。批判される側が事実の解明を避けようする、というより事実に蓋をしようとするのですから、いかんともし難いのです。アカウンタビリティといいながら、「言葉の意味ずらし」や「低姿勢と丁寧な言葉遣い」に懸命なだけのことですから、まことに見苦しい惨状です。

 まあ、真顔で「ウソ」をつく政権側を臆面もなく擁護する新聞社系のコメンテーターほどではありませんが、私がこんなコメントをしても仕方がないのですが。

 

 さて、本稿では三つの視点を提示しようと試みました。前2点は、今回の問題を受けた論評であり、ジャーナリズムと哲学というフィールドの違いが、その内容にもきっちりと現れていました。漱石はいわば番外ですが、現在の政治状況に通ずるものを感じたのです。

 漱石は百年前の講演において、なぜ<権力の濫用>が生じるのか、それを防ごうとすれば、<権力>をもつ側に、権力に付随している義務というものを心得ている<人格>がなくてはならないということを、学習院の学生たちに説きました。この漱石の<人格>不可欠論は、柳田さんが現指導層の<人間性の劣化>が<政治倫理面の衰退>を招いているのではないかと指摘されていることと通底しているのではないかと意識したのです。

 漱石おそるべしといえるのかもしれませんし、百年間変わっていないという言い方もできます。

 

 柳田さんが整理した現政権の発言の特徴4点のうち「 峙録文書はない」「文書は破棄した」「記憶にない」と言って、事実を不透明にする」は、今回の問題の中核にあるものです。<人格><人間性>という最も重要であるがつかみどころのないものだけに原因を求めてはならないわけで、こんなことにならないように文書管理をはじめ制度の速やかな改善が不可避だということは申し上げておきましょう。

 でも、それだけで今回のようなことが生じないようにできるのかといえば、そうではないだろうと申し上げておかなくてはなりません。

 繰り返しますが、事実の解明から遠く離れて、真顔で「ウソ」をつく政治とは、もとより現政権側の要因であるとともに、外部的な監視力の脆弱さという背景もあるにちがいありません。トランプ大統領のアメリカについて、「ポスト・トゥルース」の政治として現代世界の構造にかかわる変化をみて震撼としていましたが、わが国自体もそんな政治が跳梁跋扈する状況にあることに十分意識的でなければなりません。

 なお、トランプ大統領を選んだ国民の問題という論の立て方があるように、安倍内閣を高く支持してきた国民の問題でもあるという言い方も可能ですが、どうも問題の本質をすり替えるような論法で好きではありません。

 

 もう一つの中島さんの哲学的論評は、私の理解が心もたないからですが、まあユニークなものです。

 確かに近代市民社会においては、「道徳的善さ」がベースにある「真実性の原則」が発揮されずに「適法性」「社会的正義」にすり替えられており、したがって、「真実と正当性のギャップ(ウソであることは明白なのに、不法でないゆえに逃げ切るゲーム)」が生じるというのです。このことを自覚することが最重要問題であるとの指摘は鋭いものです。

 今回の現政権の「国会でのウソ答弁」は他人を騙すのみならず、自分を騙す、「国家のためという善意に基づいている」との構造をもっており、カントはこんなウソを「善意のウソ」と呼び、ウソの中でも最も悪質なウソだとみなしているとも指摘していました。

 ここから具体の方法論が出てくるわけではありませんが、今回の三点セットが「ウソであることは明白なのに、不法でないゆえに逃げ切るゲーム」で終わらないようにすることが何よりも重要だと意識することができました。すぐに内閣支持率が回復するような状況であってはならないのです。

 さらに、中島さんが「人間はウソをつくべきでないという原則」を保持しつつも「ウソをつき続けるのです」と人間存在の本質を描いていますが、トランプ大統領のアメリカ政治は「ウソをつき続けること」はもちろんのと、「ウソをついてはならない」という大原則を不透明化するような方向に踏み出しているのではないかという見方もできそうです。これぞ「ポスト・トゥルース」の政治ということになります。

 そうしたウソの繰り返しは確実に近代市民社会の政治原則、民主主義にボディブローの連打のように大きなダメージを与えていくことになります。

 

 最後に「法治」と「人治」ということにもふれておきます。

 昨年の安保法制もそうでしたが、現政権は「法の支配」の軽視がはっきりとうかがわれるということです。つまり、いわゆる「法治」という近代民主主義政治の根幹が、人が法律や憲法を自由に判断できる「人治」へ移行している、揺らいでいるという指摘です。

 7月31日付『毎日新聞』夕刊に掲載された「「法治」揺るがす「人治」」という記事で、内田樹さんは「人治どころか、法治国家が歴史を逆戻りしているようです。権力者に近いか遠いかの関係で資源分配や権力分配が決まってくるとしたら、それは中世の社会です」と発言しています。

 「政策決定のプロセスが明らかにされず、権力者のやりたいように物事を進める」、というように見える現政権への懸念が表明されているのです。それは「ポスト・トゥルース」の政治の一つの特徴、事実よりも感情に訴えて物事を進める政治なのだといえましょう。そのもとで「ウソをつくべきない」という大原則も揺らいでいるのだとしたら、そんなことは想像したくないのですが。

 中島さんはいわば「法治」の限界というべき側面を指摘したのですが、内田さんが心配するように「法治」からも遠く離れているのだとしたら、空恐ろしい事態だと申し上げるしかありません。 

 

2017.08.01 Tuesday

八月のプロローグに

 八月です。なにもかもが溶けだしていく世界。身も心も世界との境界があいまいになってきます。どこかにあったかもしれない芯が行方不明になり、茫然ということばがふさわしい日々です。

 そんな八月のプロローグに、今の心身状況に近しいものを感じる詩を引用することにします。よけいに重くなってしまいそうですが、北村太郎さんの最晩年の「八月の林」という詩です(『すてきな人生』1993年刊/思潮社)。

 この詩は北村さんが亡くなる2ヵ月ほど前の1992年8月14日の読売新聞夕刊に掲載されたものです。

 

     八月の林

 

  うらみごとを、いわせぬ速さで

  風は来たり、風は去り

  林は、もとままに静まって

  大いなる感情を、しっかり守っている

  下生えは、倒れ伏し

  みどり色を、みずからの乱れに逆らって

  整えなおそうとし、しかし

  ホタルブクロなどは、かしいだまま

  花を垂らして、揺れに耐えている

  あまりの暑さに、物のにおいも

  においのなかに、こもってしまい

  ヘビやチョウのたぐいが、林の

  神経のように、かろうじて

  働いているようだけれど、見えない

 

  麦藁帽子を、ひざに置き

  下の、池のほとりのベンチに坐る男を

  林ぜんたいが、気づいていて

  男はうなだれて動こうとしない

  足もとにミョウガが、踏まれてあり

  池はアオミドロの顔で、男を

  しげしげと見つめながら、泡ひとつ

  立てるでもなく、重さを保っている

  ひどい暑さが、水面を緊張させて

  虫いっぴきの飛び出しをも、けっして

  許そうとはせず、男の

  眠りを、眠りの手でゆっくりかきまわし

  ずれているひざの帽子を、落とさせない

  

  けさ、ヒグラシが鳴いていて

  夜なかの風は林の追憶を、いっそう

  ゆたかにし、いじわるにもした

  真昼、おびただしい葉は力いっぱい広がり

  真上の日輪よりつよく、影を消している

 

 北村太郎さんは真夏に発表されたこの詩を直前に書かれたのでしょうか。「あまりの暑さに」「ひどい暑さが」にまともに対峙できなくなる心身を感じています。

 

 現下の政治状況に絡めて「ウソ」の問題につい書こうとしていますが、なかなか書き出すことができません。現代社会においては平然とした「ウソ」だと実感でわかっていても、事実と真実がいかに困難なことかを身に染みて感じている日々です。

 ここでは、そのためのトレーニングの一環として、谷川俊太郎さんの「うそとほんと」(『自選 谷川俊太郎詩集』2013年刊/岩波文庫)と「嘘」(『あたしとあなた』2015年/ナナロク社)という詩二篇を引用してみることにします。

 

    うそとほんと

 

  うそはほんとによく似てる

  ほんとはうそによく似てる

  うそとほんとは

  双生児

 

  うそはほんととよくまざる

  ほんとはうそとよくまざる

  うそとほんとは

  化合物

 

  うその中にうそを探すな

  ほんとの中にうそを探せ

  ほんとの中にほんとを探すな

  うその中にほんとを探せ

 

 うむー、という感じです。

 この詩は『落首九十九』から採られています。

 

    

 

  あなたに

  嘘はついていない

  と あたしは

  嘘をついた

 

  空は青く

  地面は

  いい匂い

 

  あなたは

  目を細めて

  駆け回る

  子どもたちを

  見ている

 

  ひとりが

  転んで

  泣き出した

 

 このナナロク社の『あたしとあなた』は美しいブックデザインです。

  『あたしとあなた』2015年刊/ナナロク社 ブックデザインは名久井直子

 

 こんなのよくないなと思いつつ<世界水泳>中継をこりもせず夜中に見ていました。だからこんなに茫然としている状態が続くことになったのでしょうか。

 <世界水泳>の開かれたブダペスト、テレビ中継ではブダとペストを分けるドナウ川と両岸を俯瞰する位置から撮影した映像が流れ、なつかしく思い出しました。ちょうど4年前の2013(H25)年7月に訪れたときに撮影したブダペストの映像をアップしておくことにします。

  <世界水泳>が終わったとほっとしていたら、もうすぐまた<世界陸上>が始まるようで困ったものです。

  ブダ側からドナウ川をはさんでペスト側の国会議事堂です [2013(H25)7月撮影、以下同じ]

  ペスト側からドナウ川をはさんでブダ側の王宮です

  ナイトクルーズ船上から撮影した国会議事堂です

  同じくナイトクルーズ船上から撮影した鎖橋です

 

 

  

  

  

 

 

 

 

 

 

 

2017.07.24 Monday

夏休みが始まるとー夏目漱石『思い出す事など』ー

 いつもの中学校のグランドに沿った道を通っても、中学生の姿形も声もありません。陽ざしにたじろぐ季節には午後5時頃にやっと外へ出るのですが、昔と同じように一球ごとに声出しをする野球部もひたすらに走っている陸上競技部も全く誰もいません。いつもは音だけが聞こえる吹奏楽部の演奏も何も聞こえてきません。

 蝉の鳴き声だけがいやに耳をつきます。夏休みがやってきたのです。部活の練習がないわけではなく、もっと早い時間に終わっているのです。

 自転車から下りて、大中遺跡公園周辺や喜瀬川沿いの遊歩道を歩きますが、緑だけが圧倒して急に色彩が乏しくなってしまったように感じられます。路傍の野草に咲くしぶとい花がなくなったわけではありませんが、ぐっと少なくなっています。そうか梅雨の明けた真夏はこれだけ緑が専制的になる季節でもあったのだと知りました。

 

 自然という言葉をさも知っている者のように使うことははばかられます。でも毎日が日曜日になって変わったことといえば、ほぼ毎日外に出て歩いているせいか、草や花や木や、そして暑い寒いだけでない空気感など、その変化から小さな自然の営みが感じられることです。

 サラリーマンの生活においても、休日があったわけですし、出張とか旅行とか、いろんな機会はあったはずですが、こんなものも自然と呼べるなら、自然の細やかな変化を感知する感覚などは機能せず停止したままだったのです。アンテナのようなものがあるとして、キャッチできる範囲に壁が立ちふさがって、容量の乏しい私には、その時その時の関心事や心配事しか反応できていなかった、心に映ずることがなかったのかなと、今では思っています。

 といって、多くのご同輩のように別に庭を大事にしたり、野菜を育てたりしているわけではありません。外に出ている機会に自然の発する信号を少しは感知できているということなのでしょう。アンテナの方向がちょっとずれて、こんな自然ともいえない自然が身近な存在になったきたというのが、今、感じている大きなといってよい変化です。

 

 こうして夏休みが始まると、ホントウもウソもないのですが、すぐに誕生日がやってくるのです(2016.7.23「ホントウの誕生日」)。

  喜瀬川の堤防に咲いていた花(名称不詳) [2017.7.22撮影]

 

 さて、夏目漱石(1867-1916)、いつどの小説を読んだのかさえ覚えていないこの国民的作家が直面した早すぎた晩年の<随筆>を読んでいます。昨年が没後100年、今年が生誕150年の文豪は、古びていないし、この年齢になって『思い出す事など』を読むと、胸に迫ってくるものがありました。

 『思い出す事など』は1910(M43)年8月24日に転地療養先の修善寺で胃潰瘍によって大量吐血し、30分の人事不省状態に陥ったいわゆる「修善寺の大患」の前後のことが書かれています。驚くべきは、同年10月に小康を得て東京へ戻り再入院した病床において、この随筆はすぐに書き始められ(10月29日「朝日新聞」に初回掲載)、翌年2月20日まで連載(32回)されたものなのです。

 その同じ2月に漱石はやっとのことで退院しているのですから、自らの人生の経験、それも臨死体験というべき大きな経験を、生きた言葉として表現しておこうとする漱石の文学魂の火花を感じざるをえません(もとより朝日新聞の社員として執筆と同時に発表できる場があったこともありますが)。

 

 久しぶりに漱石を読んでみようとしたのは、古本屋「口笛文庫」で2冊の講談社学芸文庫版と立て続けに出会い、それがいずれも晩年の随筆に焦点を当てたものだったからです(繰り返すことになりますが、漱石は「修善寺の大患」から6年後の1916(T5)年に49歳で亡くなっているのですから、その早すぎた晩年とは40歳代のことでした)。

 『漱石人生論集』(講談社文芸文庫/2001年4月刊)は出久根達郎さんが「厭世家ではあるが決して人生を悲観しない漱石の生き方の真髄」を全集の中から選んで編集したものだそうですが、ちょっと活字が小さくてと、読むのを逡巡していました。ところがすぐに、もう一つの『思い出す事など 私の個人主義 硝子戸の中』(講談社文芸文庫/2016年7月刊)という没後100年を狙ったような活字の大きい文庫本を手にできたことから、これは読んでみようと思い立ったのです。

 後者は表題の3篇だけが全文で入っているのに対し、前者には後者の随筆の2篇は<抄>という形でいずれも入り、それに出久根さんの選んだ書簡などが加わっています。

 

 後者の帯には「入門者、初めの一冊 愛好家、締めの一冊」とありますが、私などはいずれにも当たらないということになります。

 その裏表紙には、「「修善寺の大患」で垣間見た¨死¨の後に綴った2随筆は小説や身辺雑記とは別種の妙味を持ち、漱石文学のひとつの極点として異彩を放ち続けている」とあります。医療等の進歩、大変化はあったとしても、人間の生死について、近代人・現代人たる漱石が率直かつ大胆に綴った文章は、今の私たち、少なくとも今の私にとって、シンパシーをもって、かつずっしりとした手応えをもって読むことができるものでした。

 

 没後100年、生誕150年という数字は、何ほどのことでもなく、小説以上に、思ったより近くにいる文豪、現代作家たる漱石を感じさせるに十分であったと申し上げておきたいと思います。

  夏目漱石『思い出す事など 私の個人主義 硝子戸の中』(講談社文芸文庫/2016年7月刊)

  夏目漱石『漱石人生論集』(講談社文芸文庫/2001年4月刊)

 

 さて、33章からなる『思い出す事など』(33章目が退院後の4月になってから付加されています)を、私はどう読んだのかについてであります。

 この随筆に書かれている漱石の死生観(人間の生きる死ぬということ)は、死というものがあれだけ近くにあっても自分自身では意識できないもので、やはり死にたくない、生きていたいと思うものであり、そして大患を経て生きていることはやはり喜ばしいし幸運だと実感しているという、ごく常識的な、別の言葉にすれば、ごくごく人間的なものだと、私は理解しました。もちろん漱石はもっと文学的に委曲を尽くして叙述していますが、根っ子はそういうことだと思います。

 この随筆には神仏、魂の不死、輪廻転生などが登場してこないからか、不思議と宗教的な匂いがしないのです。今を生きている私たち、もとより神仏に手を合わせたりするわけですが、科学的な知を手にしてしまった近現代人として、漱石は自らの病気と、それに伴う生死の経験を、心身への反映と周囲の反応、そして自分の内面の変化について書いているのです。臨死の後の入院中という世間から離れた特別な状況にあって、今回の経験を定位しておきたい、そして自分の内外面の異同を確認しようとしているのです。

 

 こうして残された漱石の随筆『思い出す事など』は、その100年以上前の作品は、私たちと同一の地平にあるのだという感覚を与えてくれるものでした。

 漱石は臨死後の自分に生じた内面の変化もすぐに変化していくものだと意識しており、回復途上の入院中にもかかわらず、実生活から切り離されている今だからこそ書けるものを書くとの気迫で取り組んだことが、読む私にも十分に伝わってきました。

 そして、「修善寺の大患」のあと、後者に採録されている「私の個人主義」、随筆「硝子戸の中」とともに、漱石は『彼岸過迄』『こころ』『道草』と立て続けに傑作を書き、6年後の2016年に『明暗』を執筆中に亡くなることになります。これらの小説に「修善寺の大患」経験がどう反映しているのかは私の手に余りますが、影響されていないはずがないことは申し上げるまでもないことです。

 

 少し印象に残っている箇所を振りかえっておくことにします。

 まず、直接の「大吐血」体験のことです。8月24日の800gの大吐血は、「診察後1時間後の暮方に、突如として起」こり、「実に30分の長い間死んでいた」のですが、漱石は「徹頭徹尾明瞭な意識を有して」いたと思っていて、後になって「余が夜明けまで生きようとは、誰も期待していなかったのだ」と聞いて初めて知ったと記しています。

 つまり意識が回復しているのに、「医師が余を昏睡の状態にあるものと思い誤って」、「子供に会わしたらどうか」と話しているのを、漱石は聞きます。「今まで落ち付いていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。また決して死ぬ必要がないほど、楽な気持ちでいたからである」と、医師たちの忌憚のない話に「しまいには多少腹が立った」と書いています。

 そして、漱石は死を自分自身では意識できないことを、幽霊にはなれないことを、次のように叙述しています。

 「 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通り経験し

  た。果して時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも

  意味しなかった。余は余の個性を失った。ただ失った事だけが明白なばか

  りである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合

  出来よう。臆病にして迷信強き余は、ただこの不思議を他人に待つばかり

  である。」(十七)

 死はスピリチュアルなものでもヒロイックなものでもないのだ、と漱石は言いたいようなのです。

 

 私たちと「科学的な知を手にした」時代を共有する漱石についてみてみることにします。

 漱石は「やっと回復しかけて、それを非常な仕合のように喜んで」おり、他人の生への希望や他人の親切への感謝を強く抱き、「此所に人間らしいあるものが潜んでいる」と信じられ、「此所に始めて生き甲斐のある」と思われるほどの「深い強い快い感じが漲っている」と強い調子で記します。

 しかしこれは「人間相互の関係」であり、宇宙、進化論、物理の原則からしたら、こんな「一喜一憂は無意味なんだ」に「気が付かずにいられない」というのです。「この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭によって生息するわれら人間の運命は」、「永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時」を「貪るに過ぎない」のだから、「果敢(はか)ないといわんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当たっているかも知れない」と書いています。

 以上を踏まえた漱石の文章を二つ引用しておきます。

 「 今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝く他人を悲しみ、友を懐

  かしみ敵を憎んで、内輪だけの活計に甘んじて得意にその日を渡る訳には

  行くまい。」

 「 人間の生死も人間を本位とするわれわれからいえば大事件に相違ない

  が、しばらく立場を易えて、自己が自然になり済ました気分で観察した

  ら、ただ至当の成行で、そこに喜び悲しむ理屈は毫も存在していないだろ

  う。」いずれも(七)

 「こう考えた時、余は甚だ心細くなった。また甚だ詰まらなくなった」漱石は、「殊更に気分を易えて」、「この間大磯で亡くなった大塚夫人(大塚楠緒子)」に「手向けの句を作った」とあります。その句は「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」です。

 

 大患を経た漱石の内面の変化についてもふれておきます。

 「単に自活自営の立場に立って見渡した世の中は悉く敵である」とする漱石は、これを「見惨と評するより評しようがない」が、「急に病気が来て」、これが覆えさせられたというのです。「血を吐いた余は土俵の上に仆れた相撲と同じ事」で、「戦わねば死ぬという意識さえ」持たず、「余はただ仰向けに寝て」「怖い世間を遠くに」見ていたが、「世の人は皆自分より親切なものだ」「住みにくいとのみ観じた世界に忽ち暖かな風が吹いた」と記しています。

 そして、漱石は次のようなことを書いているのです。

 「 四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ

  男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切を掛てくれようとは夢に

  も待設けなかった余は、病に生き還ると共に、心に生き還った。余は病に

  謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切を惜しまざる人々に

  謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの

  幸福な考えをわれに打壊す者を、永久の敵とすべく誓った。」(十九)

 漱石は、本当にこう誓ったのか、でも入院中のベッドで書いた、この文章に偽りはないのでしょう。

 

 こうした漱石の内面の変化、心境の変化は、2月に退院した後、4月になって「三十三」として付け加えられた最終章にも、みてとることができます。

 半年の入院生活で出会った人々、「余と運命の一角を同じくしながら、遂に広い世界を見る機会が来ないで亡くなった人は少なくない」、そんな人たちを思いやりつつ、漱石は次のように『思い出す事など』を結んでいます。

 「 退院後一ヵ月余の今日になって、過去を一攫にして、眼の前に並べて見

  ると、アイロニーの一語は益々鮮やかに頭の中に拈出される。そうして何

  時の間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両つのものが互いに纏

  綿して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮も、−ーあら

  ゆる尋常の景趣は悉く消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だ

  けがはっきりと残るためだろうか。」(三十三)

 この「アイロニー」とはなんでしょう。「大患」の前と後、過去と現在の変化を「アイロニー」という言葉で表そうとしたのでしょうか。

 過去の自分と対峙して(否定するだけではありませんが)、そこからの変化を意識化し、与えられた生を全うしよう、意義のある文学人生を歩んでいこうとする漱石の決意なり覚悟が示されたものと考えたいと思うのです。

 

 昨年同時期に書いた前記の「ホントウの誕生日」もそうなってしまいましたが、真夏の誕生日というと、どうしてこんなテーマへ流れていくのでしょう。

 それは、大学を卒業した年に経験した慢性病の発症と6ヵ月の入院生活が、私の人生観、そんなものがあるとして、生き方のようなものを決定的にしたのではないかと思っているからです。

 先々月末の「『上海日記』から『上海にて』へー「堀田善衞の上海」ノートー(3・完)」の最後に、「あなたの人生を決定的にしたと思う経験を教えてくださいという質問をさせていただいたとしたら……」と書きましたが、それは自分への問いでもあります。

 そして、5年前の手術時に残したメモには次のように綴っています。

 「 若き日に出会った慢性病を/何より優先して生きのびることを教えた病

  を/三十年もかかえて歩んできながら/新薬のもたらしてくれた希望の時

  間に/ただただ舞い上がり/恥じることを忘れて走ってしまったのだ/この

  十年は」

 慢性病と付き合って30年後に、「新薬のもたらしてくれた希望の時間」を得て「恥じることもなく舞い上がって」いたと、再び大きな病に直面し、ちょっと調子に乗りすぎていたかなという反省の気持ちから、こんなメモを書いたのでしょう。言い方を変えると、サラリーマンになって初めて得たそんな時間に感謝し、あまり身体への悪影響を気にすることなく仕事ができることを楽しむことのできた10年、遅れてきた10年であったのだと思います。

 今はたとえ手術後から続く検査数値の囚人であったとしても、自覚的には元気な日々をおくらせてもらっていることに感謝しつつ、暮らしていきたいと願っています。

 この「人生を決定的なものにした経験」のことは、先日の「「テオ」な人ー「生きている時代と向き合う」ということー」でも島田誠さんへの質問という形でふれましたが、別の機会に考えてみたいと思っています。

 

 トンだ最後になりましたが、私と同じように年を重ねられた方に、夏目漱石の『思い出す事など』等の随筆を味わっていただけたらなと思って、今回の文章を書いてみました(青空文庫「思い出す事など」)。

 今日(24日)は低い空が湿って重い空気をプレスしたような暑さがまとわりついて離れない一日でした。暑い夏ですが、そして現在の政治に気分のよくないことも多いのですが、できるだけ機嫌よく日々をすごしたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.07.16 Sunday

もはや京都は熱帯だーおじさんたちの遠足ー

 祇園祭の始まっている京都へ日帰り(7/8)で出かけてきました。おじさんたち8人の一行です。ムシムシする梅雨の晴れ間の京都をレンタサイクルで駆け抜けたオトナの遠足、<おじさんたちの遠足>でした。

 午後4時すぎに三条京阪近くでレンタサイクルを返したとたんに降り出した雨は、一気に土砂降りです。前日も同じような状態だったと聞きましたが、熱帯のスコール状態となったのです。雨宿りもままならないまま川端通を北上し、居酒屋へたどりついたころには全員がびしょ濡れです。

 スコールは強弱がありつつも2時間くらいは続きました。もはや京都は熱帯だ、といいたくなりましたが、宴を終えるころにはすっかり雨もあがり、私には深い余韻を残す小さな旅となりました。

 

 仕事から離れていよいよ世間の狭くなった私には昔からの友人は別にして、グループでお付き合いが続いているのは3つぐらいしかありません。退職の時に所属していた職場と退職後にお世話になった会社のそれぞれの仲間、そして今回のグループです。

 このグループは10数年前にいっしょに仕事をしていた同僚の有志ということになります。最年長である私の退職という機会に集まったりして再会し、昨年、そして今年も3月に私に次いで退職を迎えたFさんを祝うために集まりました。その場で、Fさんから京都遊びの提案があって、今回の京都遠足が実現したというわけです。

 60代後半の私から、50代前半で最若手のHさんまで16年という歳の差がありますが、50代後半、退職まであと何年という期間が脳裏にちらつく人が多いグループなのです(8名の頭文字がアルファベット順にBFGHKOSTと一文字も重ならないのはちょっと面白い)。私以外はまだ現役のサラリーマンですが、サラリーマンの終盤になったからこそこんな集まりができるようになったといえるのかもしれません。

 少し気恥しい言い方になりますが、今となれば、私にとってサラリーマン生活の白眉だったのかな(このことは私個人の思い込みだということをお断わりしておきます)と振りかえる時期(4年)でもあります。そんな私にとっては、その期間に仕事場を同じくした人たちと、つまり同じ言語と時間を共有した人たちと、淡いものにせよ、あるつながりを意識できることは大変にありがたいことだと思っています。

 

 Fさんが企画した京都遠足計画の目玉は、最後に居酒屋の名店『赤垣屋』で打ち上げることです。もとよりグループにまるで京都を知らない人はいないのですが、最近よく京都に足を運ぶというFさん以外に、学生時代を京都でおくったのは私とBさんの2人だけですので、とにかく遠足らしい、修学旅行らしいところを行先のメインとすることにしました。

 目玉である川端通二条下ルの『赤垣屋』での午後5時宴会開始に向け、梅雨の真っ最中の蒸し暑さを考慮し、三条京阪に朝10時集合、レンタサイクルで移動することにしました。南禅寺、哲学の道、法然院、そして昼食(銀閣寺道『おめん』)、京都大学時計台、『進々堂京大北門前』で休憩します。それから下鴨神社、鴨川の河川敷サイクルロードを通って、梨木神社・蘆山寺へ、時間に余裕があったら『ハイファイ・カフェ』で足休めしてから、レンタサイクルを返却し、いざ『赤垣屋』へという行程です。

 京都市内の北東部の一部をぐるりと回るコースであり、見学先の中では南禅寺と下鴨神社が定番中の定番ということになります。

 

 最後に熱帯スコールが待ち受けていたものの、見学先では雨に降られることもなく、暑さでヘトヘトになりながらもおじさんたちの遠足は無事に終えることができました。人との出会い、別れは偶然のようにも必然のようにも感じることが多いのですが、今回の遠足においてもちょっといい出会いがありました。

 この顛末を遠足メモとして、いつも以上のだらだら作文となりそうですが、一つの記念として残しておくことにします。

  遠足のために用意した自転車の行路図の部分(赤マーカー)

 

🔹三条京阪〜南禅寺

 このレンタサイクルの自転車は重いなあとちょっと心配になりながら出発です。当たり前のように先導役をつとめた私ですが、出発してすぐに南禅寺までの予定コースを外れてしまいました。仕方なく通ることになった狭い横道には50年前の記憶と同じ格子のある民家も残っています。戦争で焼けることのなかった街中に長く居住している家が多いのが京都らしい風景だと視界に入れつつ、遠回りになりましたがなんとか30分ほどで南禅寺に着くことができました。

 

 さて、元気なうちにと三門前で記念撮影してから、ご立派と評するほかない三門に上りました。早くも汗だくですが、三門上は風があって助かります。三門の上はぐるりと一周できるようになっていて、湿気をたくさん含む空気の向こうに眼下の南禅寺境内とともに、京都市街のパノラマや東山の緑を楽しむことができます。あれが平安神宮の鳥居、向こうがホテルオークラでその向こうに市役所があってというように、まずは街の方向感覚を確かめました。歌舞伎の一場面で石川五右衛門が三門の上から「絶景かな、絶景かな」と見得を切るシーンでも知られています(事実に基づくものではないのだそうです)。

 安西水丸さんが写真家の稲越功一さんと日本中の街を取材した『町の誘惑』(宝島社/1994年刊)の冒頭はやはり「京都」であり、その中で「冬の晴れた日には、ぼくは南禅寺の三門に上る」とあります。冬ではなく梅雨の7月のせいか、「絶景かな」に届かないまま下へ降りました。

 

 続いて南禅寺の施設ではないのに、南禅寺といえば登場する水路閣です。琵琶湖疎水が流れる水路閣の上面が見える場所を探すことにしました。水路閣のアーチの下を抜けて南禅院の階段を上っていくと工事中の囲いがあり、さらに進んでいくと、勢いよく流れる水路が見えてきます。水路閣自体はレンガ造の重量感のある、ローマの水道橋のミニ版みたいな感じですが、水路部分は意外と狭いものでした。疎水分線(1890年(M23)完工)と呼ばれるもののようで、この流れと別の流れが合流して哲学の道の脇を流れる疎水となります。

 埼玉の中学生10数人が観光タクシーの年配の運転手さんから何か説明を聞いています。修学旅行の中学生が観光タクシーを利用するのかと驚きでもありました。もっと近寄り私とご同輩のような運転手さんの話も聞いてみたかったけれど、中学生たちがキラキラまぶしくておじさんたちは遠慮しました。彼らにはこんなおじさんグループはどのように写っていたことでしょう。

 他人様からの説明(ガイド)を敬遠される向きもありますが、フムフムと聞いて得心してみることも、それがネクストを想像するきっかけになるとしたら、それも旅の醍醐味かなと、最近では思うようになってきました。

  南禅寺の三門 [同行のOさんが撮影したもの、以下「Oさんの撮影」と表記]

  三門の上から南禅寺の東山側の眺め  [こちらは私が撮影、以下表記せず]

  水路閣の土台橋脚部分

  水路閣上の疎水が流れている水路部分

 

🔹哲学の道〜法然院

 南禅寺から哲学の道を重い自転車で北上します。この道の脇には先述した疎水分線が流れています。学生時代、私にとってこの道は歩く道ではなく、南禅寺へとランニングする道でした。今となっても、哲学は遠くにあるであろう憧れですが、憧れは憧れのままで終わりそうです。

 こんな暑い日に歩いているのは、外国のそれも短パン・Tシャツの白人系観光客がほとんどです。日本人はもとよりアジア系の観光客もあまり見かけませんでした(午後は様相がちがうのかもしれませんが)。

 

 そうこうするうちに哲学の道を東へ折れると、すぐに法然院に到着します。大文字山の西側に連なる善気山(東山三十六峰の一つ)が境内になっています。

 Fさんがまず墓所の方へ、谷崎潤一郎(1886-1965)の墓へと案内してくれました。そんなに大きくない自然石が二つ、3ないし4mの間隔で並んでおかれています。左の石には「寂」、右の石には「空」という文字が刻まれています。

 え、どちらも谷崎の墓なのかと思っていたら、ここで出会いがありました。墓守さん(60歳前後の男性です。こう呼ぶことにします)が掃除をされていたのです。昨夕の「夕立ち」を越えたスコールで上から流れ落ちた土砂や落ち葉をちょうど片付けていたところでした。うろうろしている私たちに「ああ谷崎さんのお墓ですよ」「左が谷崎夫妻、右が松子夫人のお家(森田家ということか)の墓です。谷崎さんはなかなかややこしい方ですから」とニッコリしつつ説明が入りました。あんなにいろいろあり気でややこし気にもかかわらず(といってもイメージだけのことですが)、墓石は「寂」「空」なのです。

 「出没する猪や鹿のために山の斜面が削られ、上から流れてくる、崩れてくるものが多くて困ります」という趣旨の話もありました。気さくな方らしく、掃除がすんできれいな谷崎の墓の前で、おじさんたち8人が並んだ記念撮影のシャッターを押してくれたのです。Tさんがタバコを吸いかけていたのでここでもいいのと言ったら、ちょうどその方も一服タイムを始めていて、思わず笑ってしまいました。

 そして法然院の墓所には戦前、戦後の京大の著名な先生方のお墓などが多くあると実名をあげて教えてもらいました。私たちが歩いていくそばにある墓を「それは○○です」などと声をかけてくれるのです。

 

 ちょっと満たされた気分で法然院の大きくはない境内に向かいました。Oさんが撮影した茅葺きの山門の姿は均整のとれた美であり、誰しもが宗教性を感じるエントランスです。山門をくぐり両側にある白砂壇と呼ばれる白い盛り砂の間を通り抜けると、苔むした庭園や池が迎えてくれました。

 現住職の梶田善章さんも著名な方のようですが、私の世代の者にとって、その父にあたる橋本峰雄さん(1924-84)は西洋哲学を専攻する仏門として、またべ兵連の結成に参加した方として記憶にあります。鶴見俊輔さんによる卓抜なポルトレで橋本峰雄は「すべて橋本さん一流の韜晦の下におこなわれた」と「韜晦」を強調しています。そして「日本の仏教には、いかがわしいところがある。一宗一派の管長として、そのことに眼をつぶらず、というよりも人一倍のはじらいをもってその事実をうけとめ、日本の仏教がもっている矛盾を一身にひきうけて考えようとした、ひとりの学僧だった」と書いています(『悼詞』(編集グループSURE/2008年刊))。

 

 今、法事を終えたばかりの黒い服を着た人たちが数人ずつ何グループに分かれて本堂から出てきて、墓所の方へ向かって歩いていきます。Tさんでしたか「どこか品のいい方が多いみたいですね」とつぶやいていました。

 なにか変な言い方になりますが、境内のたたずまいも含め、この寺は今を生きているのだということを強く感じたのです。

  法然院の山門 [Oさんの撮影]

  法然院の苔むした庭

  谷崎潤一郎の墓[左側](法然院)

 

🔹京都大学〜下鴨神社

 銀閣寺観光客の定番である「おめん」で昼食とし、少し汗のひいた体を自転車に乗せ、白川通から今出川通という高校駅伝等でお馴染みのルートを西へ走らせます。

 すぐに京大の北部構内に入り、湯川秀樹の基礎物理研究所の脇を抜け、「農学部グランド」で自転車を止めました。人工芝、タータントラック、仮設的な観客席(コーチングで使うのでしょうか)と、往時ともいうべき半世紀前の土だけのグランドとの落差を改めてかみしめたのです。とにかくカラフルになったウェアを着た学生たちの姿にひどく場違いを意識しました。

 本部構内ではただ時計台の周囲をぐるりと走行してから、「進々堂京大北門店」で一休みしました。先ほどのグランドの様変わりの反対で、店内は何ひとつも変化がないように感じます。その印象は、なんといっても人間国宝になるはるか前、1931年、当時27歳の若き黒田辰秋が制作した大きな机とベンチがゆるぎのない姿でそこにあるからです。楢材に拭漆という技法ですが、メインテナンスはどうしているのでしょうか。私も座ったことのある半世紀前と比べても、寸分のちがいも見いだせないということは、これはこれで空恐ろしいことかもしれません。

 

 ようしと立ちあがり、下鴨神社へ向かいました。京阪出町柳駅の前を通り、人通りの多い河合橋は自転車を押し歩きして渡りました。そして北上すると、下鴨神社の南入り口です。昔とおなじように自転車で参道を走れるかなと思っていましたが、「そんなん何年前のことか」です。自転車は乗り入れ禁止で、神社西南脇に設けられた駐輪場へと誘導されました。

 

 最初は下鴨神社の摂社である河合神社内に復原された鴨長明の方丈庵を訪ねてみました。堀田善衞さんの『方丈記私記』(筑摩書房/1971年刊)のことが頭にあったからです。長明は下鴨神社の禰宜の子に生まれながらそうなれなかった人なのです。

 まあとにかく小さくて狭いのです。一間だけの家屋をぎゅうっと縦にも横にも縮小したような姿です(広さは一丈(約3m)四方だから「方丈」です)。ちょっとしたテントを木製にしたような様子なのです。立て看板には、この住居はくぎを使わない組立て式であり、ひんぱんに引っ越した鴨長明はその度ごとにこの住居を解体して移動先で組み立てて使っていたという趣旨の説明文がありました。まあテント替わりといえばそんなものかもしれません。

 『方丈記私記』で堀田さんは、鴨長明のことを「人の住む住居なるものにひどく関心のある男」であり、「方丈記」は住居を主題として書かれたものだと論を立てています。あの冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして……(中略)……久しくとどまりたる例なし。」に続くのは「世中にある人と栖と、またかくのごとし。」であり、人の世の無常は水でも泡でもなく「人と家、住居」に托しているのだというのです。そして、この妙な組立て方式の家を自ら設計し、「実行実践するところに長明がいる」のであり、「本質的にこの男は実践者である。理屈は、いわばあとから来る」、そんな長明を、堀田さんは「無常観の実践者、という背理がそこにある」と記しています。

 

 表参道には露店がずらっと並んでいますが、これを避け東側の「糺の森」の方からゆっくりと北上します。糺の森は西の賀茂川と東の高野川の合流地点のデルタ地帯に広がっていた原生林だということで、今は応仁の乱の大火による縮小をへて、下鴨神社の社叢林となっています。

 境内には表参道をはさんで賀茂川の支流である「瀬見の小川」と高野川の支流である「泉川」が南北に流れていますが、東側の泉川に沿って歩きました。もっと鬱蒼としているのかなと思っていましたが、そんなに暗い森ではありません。情けないことに樹種を特定できませんが、いつのころからあるのだろうという大木が散見されます。もう朽ち果てた大木が神木として祭られているものもあります。昭和になってから台風や大水害によってクスノキが植栽されることになるなど、植生も変化しているようです。特徴としては、常緑の針葉樹が少なく、落葉樹中心の明るい森だと書かれていました。

 後から知ったのですが、法然院に墓のあった谷崎潤一郎が戦後10年ほど暮らした旧宅(「潺湲亭(せんかんてい)」)、今は石村亭(せきそんてい)と呼ばれていますが、糺の森の途中で東へ折れると、すぐ近くに今もあるとのことです。石村亭は糺の森を借景としているようです。なんと贅沢なことでしょう。

 

 赤い鳥居をくぐり、楼門、中門をとおり、本殿に入りました。干支で区分された小さい社殿が6つあることを初めて知りました。暑さと疲労のせいか、だんだん思考停止状態になってきました。<うし>の社殿で二礼二拍手一礼、そんなふりをしているだけで、とても祈る気持ちになれません。

 午後という時間帯もあったのでしょうか、観光客の数は南禅寺とは比較にならないぐらいに多く感じました。旗に先導された日本人グループもありますが、どこから集まってきたのかというほどの盛況なのです。浴衣姿の若い女性も目立っていました。

 糺の森を遊覧する馬車が客を乗せてゆったりと進んでいます。発着所の表示「大人1000円、小人500円」の「1000円」の上に赤太字で「500円」が貼られていて、大人は半額になっても、小人は半額にならないみたい、ちょっと変かも、とおじさんたちは笑ったりしたのですが。

  下鴨神社 南の鳥居 [Oさんの撮影]

  糺の森を遊覧する馬車 [Oさんの撮影]

  下鴨神社(河合神社)内 復原された鴨長明の方丈庵

  下鴨神社の糺の森

 

🔹鴨川サイクルロード〜梨木神社・廬山寺〜京都市歴史資料館

 下鴨神社をあとに、Fさん推薦の梨木神社・蘆山寺へと向かいます。葵橋を渡り、賀茂大橋から鴨川の遊歩道へと下り、サイクルロードを走ります。鴨川デルタには大勢の人たちが集まっていて、水遊びを楽しんでいました。こんな川が街のど真ん中にあるのは京都の底力の源泉です。今から振りかえると、2時間ばかり後のスコールによって危険なことはなかったのかなと心配になりますが、何の報道もないので大丈夫だったのでしょう。大きな川ですので、急激な増水はある程度緩和され、退避が可能ということなのでしょうか。

 右手に京都府立医大を見つつ、荒神橋のところで地上へ上がり、ここで次の予定のあるOさんとはお別れとなりました。

 

 で、7名になった遠足グループは、河原町通を横断し、すぐ近くの寺町通沿いの梨木神社で自転車をおりました。

 境内の「染井の水」は京都三名水の一つとされています。Fさんは京都を訪れたとき、この水をペットボトルへ汲んで持ち帰り、利用するとのことです。お湯状態になったペットボトルの水を捨て、冷たい「染井の水」を入れました。ごくっと喉を通る「染井の水」は甘露でした。

 寺町通をはさんで東側の蘆山寺へ入りました。紫式部の邸宅跡としても知られているようですが、当方がめざすのは御土居の遺構です。蘆山寺公式HPには御土居のことが詳しく説明されているのに、案内の看板などは見当たりません。ではと、源氏庭などの見学案内をスルーして、その奥にある墓所へ突入し、御土居の跡はあの一段盛り上がり藪となっているところにちがいないと見定めたのですが、何の標識も見つけることができません。私はこれに違いないだろうから、まあいいかと引き返す気持ちになっていましたが、Fさんはがんばって御土居の跡らしいところを移動しながら「史蹟御土居」と表記された石柱を探しあててくれました。

 天下統一を成し遂げた秀吉が戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、防塁や堤防を兼ねて築いた土塁と堀が御土居です。南北約8.5辧東西約3.5劼僚陳垢如△修瞭眤Δ洛中、外側が洛外と呼ばれたのです。現在、御土居の跡として9箇所が指定されていますが、蘆山寺の御土居跡は東側部分で唯一の遺構だそうです。それにしても、鴨川の西側にある蘆山寺が洛中の東端なのですから、そのころの洛中は、今の感覚からすると、えらく西寄りであったということになります。

 

 へえーこんなものかと墓所を通り抜け、寺の境内の方へ戻ろうとしていたとき、観光ボランティアだという男性と鉢合わせになりました。御土居を見てきたというと、おぬしたちやるなと、御土居だけでなく、墓所には皇族の陵墓がたくさんあると、次々と天皇の名前をあげて説明してくれたのです。私はもとより、いささか疲れのにじむおじさんたちがどこまで聞き取ったのか、はなはだ心もたないのですが。

 もう一つ耳寄りな話、近くに歴史資料館があるから寄ってみたらどうかと彼が教えてくれたのです。

 

 3時を過ぎたところで予定していた『ハイファイ・カフェ』は今日は客が多くて7人の受け入れが困難な状態でした。渡りに船と寺町通の新島譲記念館の近くの京都市歴史資料館へ入館しました。めずらしく無料です。もちろん冷房が効いています。ありがたく見学したり館内のベンチで休んだりすることができました。

 ちょうど企画展「鷹山ふたたびー祇園祭鷹山復興支援展ー」が開催中でした。元々は「後祭」で「鷹山鉾」として最後尾から二番目を巡行していた大規模な曳山でしたが、1826年に激しい夕立で破損し、それ以来、200年近く休山していたのです。それが2014年の「大船鉾」の復活にも触発されて、復興に動き出し、公益財団法人を結成して、200年後の2026年までの復興・巡行参加を目指して活動中ということです。

 1時間ばかり、見学よりも休憩に力点をおいて滞在させてもらいました。蘆山寺で出会った観光ボランティアの男性は大変熱心に展示を見学して勉強していたようで、ベンチで世間話をしている私たちに声をかけることをはばかられたみたいです。私たちもきちんとお礼を言いそびれてしまい、ちょっと申し訳ない気持ちになりました。

  蘆山寺 御土居の遺構「史蹟御土居」と表記

  京都市歴史資料館で開催中の「鷹山ふたたびー祇園祭鷹山復興支援展ー」 

  

🔹『赤垣屋』で打ち上げ〜お疲れ様

 レンタサイクルを返却し、いざ打ち上げへとなったのですが、最初に書いたとおりスコールに見舞われました。びしょ濡れになりながら昔の建物を使っている『赤垣屋』へたどり着き、Fさんが予約してくれていた一番奥の座敷に案内されました(Fさん以外の6人は初めての『赤垣屋』です)。

 いささか這う這うの体のおじさんたちでしたが、心がなごむことがありました。少し年配の女性がハンドタオルを数枚もってきて使ってくださいと言ってくれたのです。店の方のようには見受けられなかったのでどんな方なのだろうと話したりしていましたが、後で従業員の人に聞いてみると、現主人の夫人であることがわかりました。普段は店に出る方ではなかったようですが、びしょ濡れになった私たちを見かねて気を遣っていただいたのでしょう。

 スコール、店の内部、座敷の様子、数々の料理、こんな興味をもっていただけそうな写真は一枚もありません。写真の助けがなければ、的確に記述する能力の欠如が顕わになり情けなくなります。下手な食レポはやめておきましょう。『赤垣屋』は京都の居酒屋の代表格としてブランド化されてしまっていますが、タオルのことを含め、されど『赤垣屋』だったとの感を深くしました。

 ㊟『赤垣屋』で食した料理や酒を写真入りでレポしたブログ「旨いもん 三昧やん

   とリンクを貼らせてもらいます。

 

 反省会、打ち上げなんでもいいのですが、宴会だけよりも、朝から遠足してきたという全身の疲れとちょっとした達成感を味わいながら、食べて飲んでいると、次第に乾きはじめた頭からつま先まで充足感でみたされ、心地よい酩酊感覚がありました。ひょんなきっかけから企画した<おじさんたちの遠足>が無事に実行できてよかったなあと、充実感とともに感謝の思いがしました。私だけの感覚ではなく、みんなの共通した感覚であったことを祈りますが。

 何の話をしていたのか、といっても、まあいつものことですが、過去のいっしょに仕事していたときのこと、今の仕事のこと、共通した知り合いの消息、時事問題など、取り立てて申し上げるようなことはありません。なんとなく気心がわかった者同士が語らうのがいいのでしょう。

 退職した者、退職が予定に入ってくる者がほとんどというグループだということは、退職後の仕事と生活のバランスに関する話題が多くなることは否めません。退職後の仕事のやりがいと自分のやりたいこととのバランス、仕事の質と報酬との関係等々、「よく生きる」ということは、それぞれの個性によって違うのですから、こうでなければならないという答えはないのです。

 サラリーマン仕事から完全に離れた私には、同じ「よく生きる」という問いに退職後すぐに意識していたこととは別の問題、心身の衰えを含めた問題が横たわっているということになります。まあ基本は、約1年前に当ブログの「「残日録」そして<残日>のこと」で書いたことにそんなに変わりはないといえば変わりがないのですが。

 

 以上、<おじさんたちの遠足>を記念して残しておこうとしたメモは、締まりのないとりとめのないものになってしまいました。こんな小さな旅でも、不思議なもので、法然院、蘆山寺、赤垣屋で出会った人たちに負っているようにも感じています。

 いずれにしても、約1週間をへた今(7/16)、明日はもう祇園祭の山鉾巡行ですが、こんな遠足メモを書きつけていると、<おじさんたちの遠足>の余韻がじわっと深まってくるように感じています。今年の夏のビッグイベントがもうすでに終わってしまったようで一抹の空虚感をかみしめているところです。

 またの機会を期待することにいたしましょう。

 

【追記】

 法然院のHPに住職である梶田真章さんの法話がアップされています。その法話3は「観光」がテーマになっています。

 「観光」とは中国の『易経』の「観国之光」(他国の文化を観察してよく知る)から広まった言葉ですが、現代では「知る」ことから「見る」ことへ、「教養」から「見物」へ、観光という言葉の担う意味が変わってきたということなのでしょうと、まず梶田さんは提示します。だから、単なる見物のために訪れていただく方にも何らかの役割を果たしていくのが現代の寺院のあり方でもあるが、梶田さん、寺を預かる住職としては何がしかの宗教性を感じていただける場でありたいと願っているとします。

 法然院について言えば、「お寺の由緒や庭園の石組みの意味を知っていただくことが大事なのではなく、この地に寺を建て、そして今日まで寺を守り育ててきた人の心と出会っていただくこと、そしてその想いの中心に常に阿弥陀佛の存在が確かにあり続けていることを実感していただくことが最も肝要なことだ」と考えている、そして「真の観光寺院でありたいと改めて願っている」と、梶田住職は結んでいます。

 法然院のたたずまいは確かに梶田住職の意図が反映されているのかなという感想をもちましたが、観光に行く私たちの側からすると、とてつもない高いハードルであることは事実なのでしょう。

 今回は京都論とはほど遠いものとなりましたが、私にとって特別な町である京都をテーマに書いたブログには一端が垣間見えるかもしれませんので、リンクを貼ることにさせていただきます。

 ◇2015.12.29、31「ちょっとそこまでー師走の京都ー(1)(2)

 ◇2016.8.19

   「『京都ぎらい』から離れてー「洛中的中華思想」なるものー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.07.10 Monday

クチナシの香りから7月は始まりー『サクロモンテの丘ーロマの洞窟フラメンコ』ー

 どこからか匂ってくる、香っていると、だいぶ前から気づいていたのに、その正体を知ったのはごく近々のことです。よく歩く喜瀬川沿いの遊歩道に咲いているクチナシの花でした。もう7月が始まっています。

 立ち止まり鼻先を近づけると、たしかに白い花は芳香を放っています。すでに茶色く枯れた花弁からは匂ってきません。感覚が鈍いうえに、せわしく歩く癖のある私は、立ち止まることもしないままでした。やっとこの白い花に香りの正体があることを知ったのです。

 

 最近では毎年出会っているはずなのに、そうかこれがクチナシの花だったんだ、やっとそういうことなのです。世代的なインプリントというべきか、まず思い浮かんだのが歌謡曲「くちなしの花」の¨くちなしの白い花 おまえのような花だった¨という歌詞でした。

 春のジンチョウゲ、秋のキンモクセイと並んで三大香木とされ、そのクチナシの花言葉は「幸せを運ぶ」「私は幸せ」「清潔」などと書かれています。なんだか「くちなしの花」の歌詞イメージとはずいぶんと違うようです。

 

 梅雨真っ最中の湿った重たい空気に包まれたクチナシの香りは、「清潔」のもつさわやかイメージというより、その厚みのある花弁の発する力強い甘さが際立ち、嗅覚をゆさぶり、どこか官能がくすぐられるようにも感じます。

  クチナシの花 [喜瀬川の遊歩道/2017.7.4に撮影、以下同じ]

  枯れて茶色になったクチナシも目立っています

  台風3号で増水した川べりから飛び立つサギ?

 

 スペインのグラナダ、そのサクロモンテ地区は、かつてフラメンコの聖地と呼ばれていたようです。この丘でフラメンコに関わって生きてきた人びとの歩んできた道とこの土地、この地域共同体の今昔の姿にフォーカスしたドキュメンタリー映画『サクロモンテの丘ーロマの洞窟フラメンコー』(チュス・グティエレス監督/2014年/スペイン)を、先日、観ることができました。

  ◇本映画は元町映画館において7月14日までの予定で上映中です。

 

 フラメンコもまた、私にとって官能をくすぐられる対象であったのだと改めて確認することになりました。

 最初にフラメンコに出会ったのはカルロス・サウラ監督の映画(『フラメンコ』(1995年)『フラメンコ、フラメンコ』(2010年))だったと思います(当ブログでは演奏が中心のフラメンコですがパコ・デ・ルシアを中心にすえた映画を紹介しました「いい音楽と出会えますー二本のドキュメンタリーー」)。フラメンコは人間の感情が歌・演奏と踊りが一体となってストレートに激しい情念、情熱となって表出する芸能、いわば総合芸術として、ふだん自分のふるまいにないような心や体の芯の部分をゆさぶられる感覚を誘発する対象だと意識してきました。

 好きな音楽から受ける情動や感動と共通するところはもちろんあるのですが、フラメンコは何より演奏と歌だけでなく、そこに踊りが加わっているところが決定的に違うのです。なぜ歌うのか、なぜ踊るのか、それは人間の根源にあるものから生じているのにちがいありません。

 

 今回のドキュメンタリー映画のフラメンコからは、カルロス・サウラのフラメンコ映画とは、だいぶ違った印象を受けました。

 サクロモンテの丘で生まれ長くフラメンコに携わってきた人たち、今や多くが60代以上の高齢者たちが、これまでの仕事と生活を語りつつ、フラメンコを歌い、踊る場面が紹介されています。大きなフリとスピード感が基底にある青壮年世代にはない感覚、小さなフリとゆったりとした<間>の感覚が強いものでした。映画やテレビで観てきたものよりずっとローカルなフラメンコだといえばそうかもしれませんが、落語の名人が「えーと」と語るだけでおかしいというような名人芸に通じる何かを感じたのも事実です。

 

 グラナダのサクロモンテ地区は、アルハンブラ宮殿の北側丘陵地に位置しており、イスラム教徒が築いた旧市街アルバイシン地区に隣接するロマ族(ジプシー、スペイン語ではヒターノ)の居住地域として知られています(差別されてきた対象ではありましたが、非ロマとの混住も進んでいます)。ロマ族はレコンキスタによるグラナダ陥落(1492年)の頃にキリスト教軍とともにやってきて、サクロモンテのもともとイスラーム教徒が居住していた洞窟(クエバ)を占拠して暮らしてきたといわれています。

 グラナダだけではありませんが(特にへレスやセビージャ)、フラメンコは長い迫害と差別の中で、ロマ族がアンダルシア土着(アラブ系民族を含む)の踊りや音楽を取り入れて融合させ、18世紀末頃にその原型ができたといわれています(フラメンコの起源については諸説あるみたいですが)。

 

 グラナダ生まれ(育ちはマドリッド)のグチエレス監督は、日本でのインタビューで、この映画はフラメンコの踊り・踊ることについてのドキュメンタリーではなく、「サクロモンテでしか起こらなかったこと、その地域や共同体のことについてのドキュメンタリー」なのだと語っています。このことを体験し、体現している人たちが語る物語、人生、経験、どう生きてきたということを観てほしいと制作意図を述べています。だから副題は日本版が<ロマの洞窟フラメンコ>というフラメンコを強調したのとちがって、スペイン語版では<部族の賢者たち>なのだそうです。

 映画のなかで洞窟タブラオでそうした年配者たちによって踊られるフラメンコの魅力について、グチエレス監督は、人の力は歳を重ねるごとに衰えていきますが、そうではないように感じられるところだと語っています。

 「 彼らを見ていると、これまでできていたことができない、よりも、今ま

  でやってきたことを変えて表現していることが神秘でした。踊れないでは

  なく、どう踊るか、歳を経るにつれてその踊りがどう進化するかというこ

  とが、非常に興味深かったのです。彼らは皆、死ぬまでアーティストなの

  です。」

 私が抱いた印象は、この監督の言葉に近いものなのでしょう。手首と指先をゆっくりと動かしているだけなのに、これもフラメンコなんだと、十分に感じとることができるのです。

 

 この映画で知ったことを、もう一つだけ付けくわえておきます。1963年の大水害のことです。あんなに乾燥した土地ですのに、大雨が続き、洪水がサクロモンテの丘の洞窟を崩し、生活の場(居住だけでなく生業の場でありかつフラメンコショーの舞台でもある)が奪われました。人びとは住む場所を追われたのです。今もその影響は続いているようですが、その大災厄にどう立ち向かい、立ち直ってきたのかが、当事者である彼らの口から語られています。

 フラメンコと日常の生活、暮らしがごく密着していたサクロモンテの地域共同体も時代とともに変化していかざるをえませんが、すご腕の年配者とともに登場する若い歌い手、踊り手から、伝統が継承されている様子を伺うことができます。

 この映画の「フラメンコの聖地サクロモンテー失われた黄金時代を生き抜いた人々を通して、世界で最も重要なフラメンコ・コミュニティのルーツと記憶を探るドキュメンタリー」という宣伝コピーは私にはいささか大仰にも的外れにも感じられます。でも、フラメンコの揺籃の地であるサクロモンテの丘で生き続けるもう一つのフラメンコとその人生を誠実にフィルムに定着させた映画というべき一本であり、そして個人的には旅の記憶との重なりを少し苦い思いで振りかえりつつ楽しむことのできた映画でした。

 

 公式サイトに寄せられたコメントの中で、最も共感した本橋成一さんのコメントを引用しておきたいと思います。

 「 この映画がこんなに強烈に語りかけてくるとは思ってもみなかった。そ

  れまでのぼくの中にあったフラメンコは書物やテレビで得た知識だけ

  だった。映画では次から次へとこのサクロモンテの洞窟で生き抜いてきた

  人たちが、言葉ではなく踊りで、身体そのもので語りかけてくる。何かぼ

  くも彼らに語りかけたい。しかし、ぼくがロマの言葉やスペイン語をしゃ

  べれたとしても、通じ合うことはできないだろう。もしぼくが彼らに語り

  かけられるとすれば、「ぼくも踊る」という言葉でしかないのではない

  か。たとえ習いたてのつたない踊りだとしても、彼らは聞いてくれるかも

  しれない。」

 だったらサクロモンテの人たちの前で踊れるのかと問われたら、所詮、私にはできないだろうと思うしかないのですが、この強靭な孤立をいとわない土地と人びとに接近するためには、通り一遍の言葉は不通であり、最初の架橋は身体表現でしかないのかなと、私も感じました。

 

 この映画は、サクロモンテのフラメンコがアルハンブラ宮殿の目当ての観光客相手にやっているフラメンコだと軽くみられてきたという歴史にあらがうように、サクロモンテの丘の目の前にあるアルハンブラ宮殿はアングスティアス・ルイス・ナバロの踊りの背景に一瞬登場するだけです(チラシの裏面の映像場面のみ)。こんな歴史と現実のことも、近くまで出かけた私ですが、何も知りはしませんでした。

  『サクロモンテの丘ーロマの洞窟フラメンコー』のチラシ(表) 

   チュス・グチエレス監督/2014年/スペイン

  同上チラシ(裏面)上側

  同上チラシ(裏面)下側 背景はアルハンブラ宮殿

 

 サクロモンテの丘の近くまで出かけたというのは、2014年(H26)暮れのスペイン旅行でグラナダに3泊したということです。ツアーではない個人旅行としては初めてのヨーロッパであり、マドリード〜グラナダ〜バルセローナの3都市だけをツアーの3倍ほど時間をかけて回っただけの旅です。

 グラナダはもとよりアルハンブラ宮殿が目的でしたが、フラメンコのことももちろん意識はしていました。グラナダとバルセロナで1回ずつフラメンコショーへ出かけました。

 グラナダでは、宿泊先のホテルをバスが回って客を拾って乗せ、サクロモンテのタブラオに送りこむというオプショナルツアーに参加しました。旅行社のセールスポイントには「サクロモンテの丘にあるジプシーの洞窟住居を使ったタブラオで行われる本場のフラメンコショー。本場スペインのフラメンコショーは迫力があり必見です」とあります。ショーの開始時間が22時30分と、私たちの感覚からすると、とても遅いものでした。

 

 クリスマス色の濃いグラナダ(12/23)、日本人を中心とする乗客を乗せたバスから降りて、狭い道を歩いて「ラ・ロシオ」というタブラオに到着しました。今から思うと、サクロモンテの丘に足を運んでいたことになりますが、夜にバスでということでそんな感覚はもてないままでした。

 ラ・ロシオというタブラオには近接して3、4つのクエバ(洞窟)が並んでいて、私たちの乗ったバスの以外のバスからの客も来ています。一つ一つの洞窟はとても狭いのですが、一つのクエバの中にバス1台分、50人程度が壁沿いの両脇に1列ずつと奥に3列ほどの客席にぎっしりと座ります。舞台はそこに空いた狭い空間だというわけです。何組かのグループに分かれたショーは各洞窟を巡回して行われていたようです。

 

 フラメンコはフラメンコですが、カルロス・サウラの映画で観てきたものとはちがって、ローカル色というか、そんなものが色濃く感じられたのだと記憶しています。ただ、一番奥の席に座っていた私たちですが、客席との距離が近く、客席と同レベルを舞台とする状態(同じ目線の高さ)でのショーでしたので、その迫力は十分に伝わってきました。床が木ではなくセメントであり、音を出すためのステップは激しいものとなります。

 観光客相手によくみられる客席との交歓というか、そんな媚びという仕草さはまったくないのが、フラメンコのスタイルだということはよくわかりました。

 

 先述の本橋成一さんのコメントに関連して一つのことを思い出しました。ショーのグループ交代の待ち時間に客が踊ってよい時間帯があったのですが、一人のアジア系の女性が、非アジア系の人たちといっしょに踊り出されたのです。もとよりフラメンコ経験者の踊りではありません。私は勇敢だな、日本人ではないのだろうなと思っていたのです。

 ショーの終わった後でアルハンブラ宮殿の夜景を見るためにサン・ニコラス展望台へ歩いていく途中で話ができたのですが、ロンドン在住のTさんという日本人女性でした。

 私の固着した日本人像の愚かさというべきですが、自然に踊り出しある種の感動を身体表現で表出できるTさんのような方は、本橋さんの書くとおりサクロモンテの人たちにも語りかけられる人だったんだろうなと、ちょっとなつかしく思い出しました。

  アルハンブラ宮殿側からのアルバイシン(左側、西)とサクロモンテ(右側、東)

  [2014.12.23アルハンブラ宮殿側から北側丘陵地を撮影、以下同じ]

  サクロモンテ地区は城壁の右側(東斜面)まで広がっています

  写真の左上の建物は巡礼地となってきた「サン・ミゲル・アルト教会」

  フラメンコショーの終わった後、掃除中のクエバ(洞窟)の狭い内部空間 [タブラオ「ラ・ロシオ」]

  「ラ・ロシオ」のフラメンコ 壁際の鉄器はこの地域の生業であった鍛冶屋からの伝統らしい

  同上 終わったのは0時頃だったと記憶しています

 

 上記の写真のキャプションで書いた「サン・ミゲル・アルト教会」は巡礼地の一つであり、その教会への巡礼者たちにサクロモンテの丘で居住する洞窟を使ってフラメンコを見せてきたといわれています。

 バルセロナでは「エル・コルドベス」というタブラオでフラメンコを鑑賞しました(12/27)。「鑑賞」と書いてしまったとおり、グラナダの「ラ・ロシオ」との違いははっきりとしていました。

 登場する若手の歌い手、踊り手は、現代のフラメンコを体現しているのでしょう、一番後ろの席で遠くから見ていても、それはそれですばらしいものです(小さい木の床の舞台があります)。芸能と芸術の境い目とはという問いに答えることができませんが、見事にソフィスティケイトされたフラメンコです。舞台がはねて外へ降りたとき、フラメンコを見てきたばかりの父子の子どもの方がステップを踏んでいる姿に出会い、楽しくなったのを覚えています。

 

 実物でフラメンコを見たのは、この2回かぎりです。両方ともほとんど観光客ばかりが見ていたことになります。

 今の日本で「フラメンコ」に相当する芸能、芸術はなんだろうと思ったりしますが、あまり出てきませんね。歌、演奏、踊りが一体となったもの、能、狂言、文楽など、どうなのでしょう、やはり同列に論じられません。アメリカでは、ニューヨークのミュージカルがスペインのフラメンコに相当するとでもいえるのでしょうか。

  バルセロナ「エル・コルドべス」のフラメンコ [2014.12.27撮影]

 

 日本で公開されることになって来日したグチエレス監督は「フラメンコはスペインでは外縁的な文化扱いされ、大切にされていない。優れたアーティストは国外に出て行ってしまう」と嘆いていたそうです。フラメンコが一応外来の文化としてしっかりと根付いているような日本からは、あまり想像がつきませんが、そんな実情があるのですね。

 インドに起源をもつロマ族(ジプシー、ヒターノ)がユーラシアの西端のスペインでフラメンコの起源に関わっているという目に見えないことが(ルーツのルーツ)、日本におけるフラメンコの受容にも何らかの影響を与えているのでしょうか。こんなスペインのドキュメンタリー映画が日本で上映されるということ、初日(7/1)の土曜日だったにせよ元町映画館が満員であったこと、これは日本でフラメンコという芸能、芸術が特別視されていることを示しています。

 

 スペインのアンダルシア地方、元々の民族と長く支配者であったアラブ民族と、被支配者であるロマ族が衝突と接近を繰り返す中で、融合されたひとつの結実がフラメンコだとしたら、そこに普遍性の核があるのでしょうか、同時にスペインで外縁系の文化扱いをされることと関係があるのでしょうか。ともあれ、私からみると、タンゴとともに、フラメンコは土着性と普遍性を併せ持つことができている稀有な芸能、芸術のように感じられるのですが。

 いつものとおり、わからない、わからないで文章を閉じなければなりませんが、この文を書いていてそんなフラメンコの謎、文化現象の謎について改めて意識させてもらったと思っています。

 

 『サクロモンテの丘ーロマの洞窟フラメンコー』という映画の力によって、グラナダへの旅の失われつつあった記憶が、ちょっと苦い思いとともに一気に更新されることになりました。

  フラメンコの後、サン・ニコラス展望台からのアルハンブラ宮殿 [2014.12.23深夜に撮影]

  グラナダの街のクリスマス風景 募金を呼びかけているようでしたが?

 

2017.06.30 Friday

またまたですがー宮下規久朗『ヴェネツィア 美の都の一千年』ー

 もう離れよう忘れようとしているのにまた出会ってしまう、そんなことを繰り返しているようでもあります。逆のことの方が当たり前の人生なのに、そんなことに出会うと運命を意識してしまいます。

 そんなことで、またまたですが、ヴェネツィアです。

 

 気にはなったけれど手に取ることのなかった昨年6月新刊の新書を、先月、古本屋の棚に発見したとき、これは仕方ないかと手に入れることにしました。『ヴェネツィア 美の都の一千年』(2016年6月刊/岩波新書)です。

 著者の宮下規久朗さんは、私が聴講に通う大学の教授であり、私が午前中の聴講を終えて坂を下っていると、ぜいぜいと息を切らしながら急な坂を上ってくる先生とよくすれ違っているのです。

 そんな身近なことに加え、当ブログでヴェネツィアのことをしつこく書いてきて、街全体が美術であり美術館だと確信しつつも、その後、ティツィアーノのことを書いているとき、ヴェネツィア美術の全体像が何もわかっていないことを、今更のように思い知ったからでもあります。

 ・2016.1~4 「水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィアー」(1)~(5)

 ・2017.3.15 「近づく春に、ティツィアーノ

 

 本書は小著ですが、ヴェネツィア美術一千年の通史です。宮下先生が強調する「美術の歴史は町の歴史と重なり、両者は不可分なのだ」ということを前提としつつ、本書では「ヴェネツィアで見られる作品を中心に、ヴェネツィアの美術と歴史の歩み」が概観されています。そして「とくに、軽視されがちなヴェネツィアのバロック美術を見直そうとした」と記されています。

 冒頭の「イタリアのうち、どこか一か所行くならどこがよいかと問われたら、私は迷わずヴェネツィアと答える」から本書は始まります。「美術史を志したときから長らくヴェネツィアはあこがれの地」であり、世界一の美術の宝庫であるヴェネツィアは「今でも人にいちばん薦めたい都市である」とする宮下先生です。そんな方による長く狂おしいヴェネツィアへの愛の告白であり結晶ともなっています。

 そして、最後には「私はもう二度とヴェネツィアに行くことはないだろう」「本書は、私のこの町への愛と惜別の証として書いた」とあります。このことは本稿の最後でふれることにします。

 

 ヴェネツィアの美術の発展は稀有の海洋都市国家としての地理・地勢的かつ経済・社会的な環境と切り離すことができませんが、具体には建造物やモニュメントと一体となった絵画や彫刻として表現されているです。本書には新書という制約のもとで多くの写真図版が駆使されていますが、章立てによる明確な世紀区分のもと、それ自体が美術でもある建造物やモニュメントが提示されたうえで、絵画や彫刻を論じるという方法をとっています。

 「実際にヴェネツィアを旅行するときのガイドとなるように」との宮下先生の意図もふまえ、本書は構成されているのであり、大変に概観しやすいものとなっています。

 一言断わっておくとしたら、長いカタカナの建造物名や人名がごちゃごちゃして辟易することになりますが、そんなことはうっちゃっておいて、読む人はまずは通史として通読してみることが大切だと申しあげておきたいと思います。

 

 まあそんなことより、諸般の事情が許されるのなら、この本をポケットに突っ込み、とにかくヴェネツィアに出かけてみたらいかがでしょうかということになりますが。

【注】

 本稿では、その章立てにしたがって、宮下先生の記載から選択し、上段に主な建造物<○○/△△>、下段に主な画家・建築家[○○/△△]を表記しています。そして、私自身の頭の整理に資する意味もあって、最小限ですが、章ごとに箇条書きで宮下先生の文章を引用することします(〔○○○〕は私のメモです)。

 なお、アップした写真はいずれも一昨年5月にヴェネツィアで撮影したもので、本書と関係のある建造物と絵画の映像です。残念ながら美術作品は一部を除いて撮影していませんので(こんなガイドとなるような本もなかったですし、9年前のアカデミア美術館で膨大な展示を前に茫然自失してしまったトラウマもあったりして)、例えば18世紀を代表するティエポロなどの作品は画像がないことをお断りしておきます。

  本書に掲載されたヴェネツィア本島の地図 分かりにくくて申し訳ありません

  赤く囲んだ建造物は下記に写真が掲載されているもの

 

◈「第1章 曙光の海」ヴェネツィアの誕生/6~12世紀・初期中世

  〈サンタ・マリア・アッスンタ聖堂/サンタ・マリア・エ・ドナート聖堂〉

 ・ ヴェネツィアはビザンツ帝国との結びつきを強めることでイタリア半島

  での脆弱な立場を補強した。/現在のクロアチアからギリシャ、さらにエ

  ジプト、シリアにいたる広大な地方に勢力を拡大し、地中海でもっとも有

  力な海洋国家となった。

 ・ ヴェネツィア発祥の地はトルチェッロ島である。/サンタ・マリア・アッ

  スンタ聖堂、このヴェネツィア最古の教会には今なお森閑とした雰囲気が

  漂い、金色モザイクのうちに深い宗教性が息づいているようだ。

 

◈「第2章 地中海制覇への道」共和国の発展/13~14世紀・ゴシック

  〈サン・マルコ大聖堂/サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂/

            サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂〉

   [パオロ・ヴェネツィアーノ/ヤコベッコ・アルベレーニョ] 

 ・ ヴェネツィアの国力を飛躍的に発展させたのが十字軍だった。/十字軍に

  便乗してパレスチナや東地中海に進出し、香料貿易によって大きな利益を

  あげた。

 ・ ヴェネツィアの政教一致政策が、ヴェネツィアの教会や宗教芸術に世俗

  性や独自の華やかさを付与することになった。/サン・マルコ聖堂が純粋

  なビザンチン様式であるということは、教皇庁や神聖ローマ帝国に対する

  ヴェネツィアの立場を明確にするという意味を持っていたのである。

 ・ 13世紀からヴェネツィアには教会の建設ブームが訪れる。/ドミニコ教

  会とフランシスコ教会は(中略)この二つの修道会はライバル同士であり、

  多くの地域〔ヴェネツィアにおいても〕で同時期に聖堂を建設し足跡を残

  した。〔フランシス修道会のサンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖

  堂には一昨年5月の旅の最終日に訪ねました。カタール航空の午後便に乗るから行

  けたのです。そうでなければ足を運べていない気がしますし、本稿の絵画関係の

  写真もほぼ撮影できていないことになります。そしてティティアーノの「聖母被

  昇天」にも出会うことができました。〕

 ・ 14世紀までのヴェネツィアは経済発展期にあたり、(中略)独自の美術が

  生み出されることはなく(中略)、創造性や洗練さよりもきらびやかさや豪

  華さが追及された。

 ・ パオロ・ヴェネツィアーノは、ジョットやピサーロの影響によってその

  厳格さを緩和し、(中略)華やかな色彩と巧みな説話表現によってヴェネ

  ツィア絵画の方向性を確定した。

  サン・マルコ大聖堂[1063年着手→1094年完成] [2016年5月に撮影、以下も同じ]

  中世ヴェネツィア最大の記念碑にしてヴェネツィアのシンボル

  サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ聖堂[1250年着手→1338年完成]

  ヴェネツィアに進出したフランシスコ修道会がすぐに建設したゴシック様式の聖堂

  パオロ・ヴェネツィアーノ「ダンドロの半円飾り」1339年 フラーリ聖堂

 

 

◈「第3章 黄金時代」絶頂期のヴェネツィア/15世紀・初期ルネサンス

  〈サン・ザッカリア聖堂/カ・ドーロ/ドゥカーレ宮殿

   [ジョヴァンニ・ベッリーニ/アンドレア・マンテーニャ/カルパッチョ

                             /サンソヴィーノ]

 ・ 15世紀はヴェネツィアの政治経済が絶頂に達した時代であった。/オス

  マン帝国との戦闘が始まる1498年までがヴェネツィア共和国の歴史上

  もっとも平和で安定した全盛期となる。

 ・ 15世紀半ばには「テラ・フェルマ(陸の国家)」の維持を強化し、それと

  ともにイタリア各地のルネサンスが流入することになった。それにより、

  トスカーナのルネサンス様式の建築が建てられ、その内部には古典的な墓

  廟や彫刻、自然主義的な絵画の祭壇画が設置された。

 ・ 1440年代からヴェネツィアはトスカーナの新様式に反応し、ようやく

  1460年代にジョヴァンニ・ベッリーニによってヴェネツィアのルネサンス

  絵画が確立したとされる。/アントネッロ〔当ブログで昨年のシチリア旅行で

  最も印象的であった、あのアントネッロ・ダ・メッシーのこと〕の様式を吸収

  し、自然主義的な細部描写や光や大気の表現に成し、また線描が目立つ

  様式から色彩と色調を中心とするやわらかい様式創出した。〔ヴェネツ

  ィア絵画は線描より色彩といわれていますが、本稿の最後でもふれてみることにし

  ます〕

 ・ ベッリーニはイタリア美術史において、光に照らされた風景の美を

  もっとも早く表現した画家であった。ベッリーニの弟子ジョルジョーネは

  こうした風景や光への感性を発展させて、牧歌的な風景画を描く。

 ・ 再建されたドゥカーレ宮殿は、当時のイタリアの統治者の居城や市庁舎

  と異なり、軽やかで祝祭的であり、要塞のような重厚さはまったく見られ

  ない。そのため以後、ヴェネツィアを訪れる者に、この町が内乱とは無縁

  で平和が保たれていることを印象づけたのである。

  ドゥカーレ宮殿[たびたびの火災により現行の形は15世紀半ば] 統治機構のすべてを含む

  ゴシックからルネサンスのヴェネツィア美術を代表するモニュメント

  カ・ドーロ(黄金宮殿)[1434年建造] 当初は全体が金箔で装飾されていた

  ジョヴァンニ・ベッリーニ「フラーリの祭壇画」1488年 フラーリ聖堂

  アンドレア・マンテーニャ「聖セバスティアヌス」1497年 カ・ドーロ

  マンテーニャの厳格な人物造形等はベッリーニに影響を与えたとされる

 

◈「第4章 爛熟の世紀」動乱のルネサンス/16世紀・盛期ルネサンス

  〈サン・マルコ広場/サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂

                     /レデントーレ聖堂/リアルト橋

   [ジョルジョーネ/ティツィアーノ/ティントレット/ヴェネローゼ

                              /パラーディオ]

 ・ ヴェネツィアは、16世紀には政治的・経済的に陰りが生じるが、文化は

  さらに発展し、黄金時代を迎える。/とくにこの時期のヴェネツィアは、

  絵画のティツィアーノや建築のパラーディオのように、西洋美術史上で圧

  倒的な規範となる天才を生み出したのであった。

 ・ パラーディオは、古代神殿のようなフォサードをもつサン・ジョルジョ

  ・マッジョーレ聖堂やレデントーレ聖堂を建てたが、いずれもヴェネ

  ツィアの景観の重要なメルクマールとなる。

 ・ 〔ダ・ヴィンチの影響でスフマートを開拓した〕ジョルジョーネ以降、ヴェ

      ネツィア派は、フィレンツェ派の線描に対して色彩を重視する様式として

  歩み始める。

 ・ ベッリーニ工房に入り、ジョルジョーネの弟弟子であったティツィ

  アーノは、長い画家人生のほとんどをヴェネツィア共和国の公式画家とし

  て過ごしたが、その名声はヨーロッパ中に広がり、(中略)その多彩な才能

  と飽くなき想像力から「画家の王子」と呼ばれる。

 ・ ヴェネツィアはそれによって〔「それ」のことは最後の方で引用する〕ロー

  マに匹敵する美術の中心地となり、ローマの線描に対するヴェネツィアの

  色彩という図式が定着した。/(中略)素描よりも色彩を重視するヴェネツィ

  ア絵画は、輪郭線と色彩が溶解するようなティツィアーノの表現主義的な

  晩年の様式において、その極限に達している。  

  サン・マルコ広場[1537年以降の図書館等の建造により現在見るような大空間に変貌]

  世界で最も美しい広場として有名ですが

  サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の近景[1559年着手→1610年完成]

  パラーディオはローマで古代建築を学び1570年にサンソヴィーノの跡を継いで建築総監督

  レデントーレ聖堂[1576年のペスト流行からの解放を記念して建設]

  ティツィアーノ「聖母被昇天」1516-18年 フラーリ聖堂

  ヴェネツィア最高の画家によるヴェネツィア美術の最高傑作

  ティツィアーノ「ペーザロの祭壇画」1519-26年 フラーリ聖堂

  聖母を中心とした左右対称ではなく右の高みにおいて対角線上に人物を配した斬新な構成

  ティントレット《聖ロクス大同信会館2階大広間》1576-81年 聖ロクス大同信会館

  聖ロクス大同信会館の壁画はティントレットが20年以上かけて取り組んだライフワーク 

 

◈「第5章 衰退への道」バロックのヴェネツィア/17世紀・バロック

  〈サンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂/カ・レッツォーニコ/サン・モイゼ聖堂

   [パルマ・イル・ジョーヴァネ/ルカ・ジョルダーノ/ロンゲーナ]

 ・ 16世紀に政治経済的な凋落の傾向が始まったにもかかわらず、文化の絶

  頂期に達したヴェネツィアは、17世紀にはすべてが衰退していく。17世紀

  はヴェネツィア美術史にとっても一種の暗黒の時代であったといって

  よい。

 ・ 17世紀は、ローマでバロック美術が生まれ、(中略)ヴェネツィアにもそ

  の波が押し寄せた。その最大の巨匠が建築家ロンゲーナで、(中略)ヴェネ

  ツィアの伝統をたくみにバロック化するのに成功した。サンタ・マリア・

  デラ・サルーテ聖堂はその代表作で、ヴェネツィアにおけるバロックの幕

  開けを告げるものになった。

 ・ 二つの惨事〔1575年と1630年のペストの大流行〕は近世ヴェネツィア社会

  を襲った甚大な悲劇であり、ヴェネツィア文化の底につねに流れていた死

  という水脈を顕在化させた出来事である。しかし、前者の終息の際には

  パラーディオによるレデントーレ聖堂、後者のときはロンゲーナによるサ

  ンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂が建設され、ヴェネツィアの都市景観

  に新たな美を加え、さらにそれぞれレデントーレの祭りとサルーテの祭り

  という祝祭となって、忌まわしい記憶が昇華されているのである。

 ・ 17世紀には全ヨーロッパ的な芸術家や作品の移動が活発になり、15、

  16世紀に見られたヴェネツィア美術の一貫性と独自性がなくなってし

  まったのである。〔突出した個性が平準化し、トップランカーが引きずりおろ

  されるというようなことか〕

  サンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂[1631年着手→87年完成]

    近くによるとバロックてす

  カ・レッツォーニコ[1649年ロンゲーナ着手→1756年マッサリ完成]

 

◈「第6章 落日の輝き」ヴェネツィアの終焉/18世紀・後期バロック、ロココ

  〈ジェズアーティ聖堂/ラビア宮殿/フェニーチェ劇場

   [ティエポロ/アントニオ・カナル(カナレット)/ジョルジョ・マッサリ]

 ・ 徐々に衰退の道をたどってきて、そのまま西洋の辺境に落ちていくと思

  われたヴェネツィアは、そのままでは終わらなかった。共和国滅亡前の18

  世紀、異様なほどの文化の高揚を示すことになる。

 ・ 18世紀初頭のヴェネツィアでは、新貴族や教団によって一種の建設ラッ

  シュがおこり、文化への投資もさかんになった。16世紀のヴェネツィア派

  の黄金時代を担ったのが、ドゥカーレ宮殿の装飾に代表されるように、

  もっぱら共和国政府であったのに対し、第二次ヴェネツィアというべき18

  世紀のヴェネツィア派を生み出したのは、新興貴族や教会の富だったので

  ある。

 ・ 18世紀のヴェネツィアが、政治的・経済的には無力であっても、文化の

  面では多くのものを発信し、ヨーロッパ的芸術の一中心地となったという

  のは驚異である。

 ・ ジャンバチスタ・ティエポロの軽やかな装飾様式はバロックの最後の光

  芒を示すものであり、彼はジョット以降のイタリア美術を締めくくる最後

  の巨匠となった。

 ・ 安定と自由に満ちたヴェネツィアには、「グランド・ツアー」の流行と

  あいまって旅行者が増大し、観光産業が隆盛する。/観光客への土産物とし

  てヴェドゥータ(都市景観図)が人気を博した。/アントニオ・カナル(通称カ

  ナレット)の作品や素描は、主に版画家ブルストロンによって大量に版画化

  され、それが世界中にヴェネツィアのイメージ〔名所としてのヴェネツィアの

  典型的なイメージ〕を流布させることになった。

 ・ この世紀の終わり、ヴェネツィア共和国がまさに終焉を迎える5年前の

  1792年にフェニーチェ劇場が誕生した。/この劇場はヴェネツィア共和国

  一千年の歴史の終盤に登場し、今なおヴェネツィア芸術の粋を見せてくれ

  ており、まさに、ヴェネツィアという都市の記憶装置にして、ヴェネツィ

  ア文化の生き証人であるといえよう。

  ジェスアーティ聖堂[1726年ジョルジョ・マッサリが着手→36年完成]

  ティエポロの代表作があったようですが 対岸のジュデッカ島から撮影しました

  フェニーチェ劇場[現建物は2003年に再建されたもの] 

  度重なる火災からのフェニーチェ(不死鳥)

  同上の劇場内部

 

◈「終章 生き続けるヴェネツィア」

  〈ヴェネツィア・ビエンナーレ/ペギー・グッゲンハイム美術館

 ・ 18世紀末にヴェネツィア共和国はナポレオンの侵攻によって終息し、フ

      ランス、次いでオーストリアに支配された後、イタリア王国の一部に組み

  込まれた。

 ・ ヴェネツィアはビエンナーレだけでなく、意外にも近現代美術の宝庫で

  もある。カ・ペーザロ内の近代美術館やペギー・グッゲンハイム美術館で

  は充実したコレクションを見ることができる。

 ・ ヴェネツィアという都市は、中世から現代にいたるあらゆる美術を受け

  入れてきたが、やはり共和国の最盛期であった15世紀から16世紀のルネ

  サンスと、18世紀の美術が最もヴェネツィアらしい。その時代のヴェネ

  ツィア美術こそは、西洋中に影響を与えたまさに中心地であった。そして

  そこにはヴェネツィアという町の魅力が凝縮しているようであり、ヴェネ

  ツィアの景観や雰囲気を見事に反映しているのだ。

 ・ ヴェネツィア美術を代表するティツィアーノの作品〔フラーリ聖堂の

  《聖母被昇天》とサルヴァドール聖堂で見る《受胎告知》〕には、この町の運命

  のすべてを表しているように見える。町の歴史と美術とが不可分に結びつ

  いたヴェネツィアほど、芸術に生命を与える環境はないといってよい。

  ペギー・グッゲンハイム美術館[18世紀のパラッツォ・ヴェニエール・ディ・レオーニを活用]

  同上 グラン・カナルのテラスにおかれたカルダーの彫刻

  ビエンナーレの展示(ジャウメ・プレンサ「TOGETHER」)

      サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内

 

◈おわりに

 通読していただくべき本を、引用の断片で切り刻んでしまったようでちょっと恐縮しています。

 おわりにあたり、本稿の前段で記した二つの宿題について、これも引用が中心となりますが、述べてみることにします。

 

 一つ目は、ヴェネツィアがローマに匹敵する美術の中心となり、ローマの線描に対するヴェネツィアの色彩という図式が定着したことの要因です。《色彩》のヴェネツィア絵画というイメージを定着させた画家たちの継承と発展のドラマです。

 「 ヴェネツィア美術の頂点をなす16世紀ヴェネツィア絵画は、ジョヴァン

  ニ・ベッリーニの暖かい光と色彩によって開幕し、ジョルジョーネの詩情

  豊かな様式を経て、ティツィアーノがそれにローマの古典主義を融合させ

  て超人的な高みにまで上昇させた。そして、ティントレットはティツィア

  ーノの劇的な表現力と構成を、ヴェネローゼはティツィアーノの華麗な色

  彩表現と構想力を継承して発展させたといえよう。」 

 では、ヴェネツィアの生み出した絵画が色彩豊かで華麗であるのはどうしてなのかという疑問が残りますが、宮下先生は本書の最初の方で、美術史家のジョン・スティーアがそのことをヴェネツィアの特殊な環境に求めていることを紹介しています。「水に浮かぶヴェネツィアは、空と海が近接し、どこもかしこも水の反射によって非常に明るく、色彩もきわめて鮮明に映る。一方、水蒸気は逆に色彩を吸収することもあり、とくに冬はすべての光景をモノクロームに還元してしまう。湿潤な空気のうちに不断に移ろうこうした視覚体験から、線描よりも色彩を重視するヴェネツィア絵画が生まれた」と、スティーアは主張しているようなのです。これに続けて宮下先生は次のように書きます。

 「 たしかに、色彩と変化にあふれたこの町に行くと、誰しもが景観への関

  心が呼び覚まされ、視覚の喜びに浸ることができるが、視覚芸術はこうし

  た感性や逸楽の延長にあるものだ。」

 例えば絵画の山があるとして、これはローマ、これはフィレンツェ、こちらはヴェネツィアなどと仕分ける能力はまったくありませんが、《色彩》のヴェネツィア絵画がヴェネツィアの町という特殊な環境によって育まれたことは否定すべくもないと、私も理解しています。

 

 ヴェネツィアほど都市と美術とが結びつき、渾然一体とえもいわれぬ魅力を生み出している町はないと断じる宮下先生は、逸楽のうらに死のはりついたヴェネツィアが誘惑する一日について、次のような言葉を記しています。

 「 海の香りのする迷路のような町を歩き回りながら教会や美術館でヴェネ

  ツィア美術を鑑賞し、新鮮な魚介を中心とするヴェネツィア料理を白ワイ

  ンとともにいただき、夜はオペラかコンサートに行ってヴェルディやヴィ

  ヴァルディを聴く。そしてその余韻に浸りながら静まり返った町を歩いて

  橋を渡って宿に帰る。そんな一日が、ヴェネツィアの提供する最大の魅力

  にほかならない。これほどの贅沢は、ほかの都市ではなかなか味わえない

  だろう。少なくとも、それがすべて徒歩圏で収まる町はない。少し無理を

  しても、一生に一度くらいは体験する価値はあるだろう。」

 

 最後、もう一つの宿題です。こんな旅嫌いの人でも骨抜きになってしまうような文章を刻む宮下先生はどうして「もう二度とヴェネツィアに行くことはないだろう」と記しているのかということです。

 娘さんが22歳のときに突然がんにかかり、三年前に逝ってしまったとのことです。「それ以来、美術だけでなく、人生にもこの世にも意味を見出せなくなって現在にいたっている」と、宮下先生は記しています。もう幸せな気分でヴェネツィアを味わうことはできない、ヴェネツィアにはもう行けないと感じられたようです。

 それでも、本書刊行の前年、遺骨の一部を撒きたいと思い立ち、「カーニバルの賑わいとは無縁な沖合いの島に建つサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の前の広場の階段」から海に撒かれたとあります。

 そして最後に「本書は、私のこの町への愛と惜別の証として書いた」とし、「ヴェネツィアの彼岸で待っていてくれているはずの娘の麻耶に、本書を捧げたい」と結ばれています。

 大学への急な坂をぜいぜいと息を切らしながら上ってくる宮下先生の顔を思い浮かべると、粛然たる思いにとらわれてしまいます。

  サン・マルコをのぞむサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂前の広場

2017.06.25 Sunday

これも映画なんだー『地球タクシー』から『人生タクシー』へー

 思えばタクシーとは不思議な空間です。客からすると逃げようもない密室空間ですが、地方の町で話好きの運転手さんのタクシーに乗りあわせたりすると、ほっとします。

 『地球タクシー』「〇〇を走る」というテレビドキュメンタリー(NHKBS1で不定期放送中)を見たことがありますか。これまで世界の11都市分が放送されましたが、けっこう楽しいですし、どこかしみじみとしてしまいます。

 テレビマンユニオンのディレクターとカメラマンが通訳の方といっしよに、交渉してOKとなったタクシーに乗り込み、街を走りながら、タクシーの運転手さんの言葉や表情とともに、車窓からの風景を映像化するというものです。一都市あたり数台のタクシーが取材されていますが、タクシーの内と外に小型カメラを固定して撮影しているようです(撮影は遠隔操作されているのでしょう)。

 NHKの番宣では、「世界のある街を訪れ、タクシーを乗り継ぎ、ドライバーとの一期一会の出会いを通じて、ひとつの街を見つめていく、新感覚の紀行・情報番組。」「タクシードライバーほど、その街を知るものはいない……。(中略)実際に街を走っているかのような映像、何気ない会話から新たな街の姿を知る。」などと表現されています。

 

 本稿の後半部では直近に再放送された「シンガポールを走る」を少しだけ紹介してみることにします。

 これまで放送された11都市のなかで私が訪れたのは4つの街、台北、リスボン、上海そしてプラハです。特にリスボンとプラハは自分たちの足で歩いたこともあって(といってもトラムとケーブルカーが中心でしたが)記憶の中の街の風景との再会になつかしさを強く覚えました。でも同時にまた何も見ていなかった、感じていなかったことを思い知ることにもなりました。

 そんなの当たり前のことだといえばそのとおりです。たとえその街に住む人と母語で話ができたとしても、少しの発見はあったにせよ大きな違いはないでしょう。私たち一人ひとりが経験しうること、そして想像力の及ぶ範囲も限られていることに謙虚でなければならないと思います。それは日本で足を運んだ町であっても、ましてや自分の住んでいる町ですら「街の姿を知る」ことは容易ではありません。

 

 『地球タクシー』では、タクシーという窓を通して、「街の素顔に出会う」「街に生きる人々の素顔に出会う」ことが試みられているのです。

 繰り返しますが、このドキュメンタリーの主役は撮影されているという非日常において現われるタクシードライバーの表情と言葉であり、それとシンクロするように映像化された車窓からの街の風景、街ゆく人びとをとらえた街の表情なのです。

  『地球タクシー』「シンガポールを走る」のトップ [2017.6.21再放送分の映像を撮影]

  同上 テレビクルーが乗車したタクシーの一台

 

 同じタクシーを舞台とした『人生タクシー』(ジャファル・パナヒ監督/2015年/イラン)という映画を先月元町映画館で観ることができました。

 タクシーが舞台といっても、ジャファル・パナヒ(1960-)監督本人がタクシーの運転手となって、テヘランの街を走りつつ、タクシーの中で繰り広げられる人生模様を、ダッシュボードに据えたカメラ(『地球タクシー』のカメラよりもっと性能はよくないものです)で撮影されたものです。このドキュメンタリーなのかフィクションなのかよく分からないような映画は、ユーモアにくるまれたようなリアルさで観る者に迫ってきますし、ドライバーであるパナヒ監督の穏やかな笑顔になんだか元気づけられた映画でした。

 オフィシャルサイトから、タクシー内に出現する人生模様たる挿話を引用しておきましょう。

 「 死刑制度について議論する路上強盗と女性教師、一儲けを企む海賊版レ

  ンタルビデオ業者、交通事故に遭った夫と泣き叫ぶ妻、映画の題材に悩む

  監督志望の大学生、金魚鉢を手に急ぐ二人の老婆、国内で上映可能な映画

  を撮影する小学生の姪、強盗に襲われた裕福な幼なじみ、政府から停職処

  分を受けた弁護士など、個性豊かな乗客達が繰り広げる悲喜こもごもの

  人生」

 そして「知られざるイラン社会の核心が見えてくる」と続いていますが、私はそう感じたかと問われたらそんなところまで分かったとはいえませんと答えます。何より人生模様そのものが味合い深いというか、それぞれの登場人物とその出来事に対し、遠く離れた日本において感情を共有していることへの喜びが先行しました。 

 

 『人生タクシー』を観ると前記の『地球タクシー』のことがまず連想されましたし、パナヒ監督の師匠であるアッバス・キアロスタミ監督(1940-2016)の作品がよみがえってきました。キアロスタミ監督の『そして人生は続く』(1992年)『オリーブの林をぬけて』(1994年)で感じたフィクションとドキュメンタリーの境界線にあるような奇妙な味合いが共通していますし、映画手法上も影響が大きいのかなと思いました。

 『地球タクシー』と違うのは、主役は運転手ではなく乗客だということです。外国から来たテレビクルーが街を知るためにタクシーに乗ってドライバーに語ってもらうというのが『地球タクシー』ですが、『人生タクシー』の方は監督自身であるタクシードライバーが乗客たちの悲喜こもごもを、そして大都会テヘランという街の表情を、直接・間接に関わりつつ撮影されています。キアロスタミが農村部を描いたのに対し、パナヒは大都市テヘランを対象としています。

 いわば『人生タクシー』は『地球タクシー』の外部者という視線とは逆のテヘランの街をよく知る内部者の視線で作られた映画です。それをさらに複雑なものにしているのはパナヒ監督が内部者ではあるけれど外部者でもあるというポジションに置かれていることです。

 

 こんな映画もあるんだよなあと、キアロスタミ経験を経た私としては別に疑問を持つことなく観ましたと報告できます。

 でもキアロスタミ監督よりパナヒ監督はもっと厳しい立場にあることを知ることになりました。2009年のイラン大統領選で改革派を支持したことから、パナヒ監督は2回逮捕され、2010年の最終判決では、映画製作・脚本執筆・海外渡航・インタビューを20年間禁じられ、違反すれば、6年間の懲役が科される可能性があるという状態におかれています。

 したがって、それ以降のパナヒ監督の3作品(『これは映画ではない』『閉ざされたカーテン』そして『人生タクシー』)は許可なく製作され、海外へ持ち出された作品ということになります(パナヒの全作品のうちイラン国内で上映できるのはカンヌでカメラ・ドールを受賞した『白い風船』の一作品だけとのこと)。

 そんな内部者ではあるが外部者という立場におかれたパナヒの映画にプロの役者が出演していたら、ほかの映画に出られなくなるので参加できないのだそうです。だから『人生タクシー』は監督本人のほか親類・知人だけで撮影されたのです。今回の映画はそんな制約の中で通常の製作方法ではない方法、タクシーの空間だけで車載カメラによって撮影されたのです。まさに「これは映画ではない」などと困難な状況を逆手にとって、限られた中で作られた「これも映画なのだ」という作品です。

 

 この『人生タクシー』はベルリン映画祭で金熊賞という最高賞を得ましたが、渡航禁止の監督はベルリンへ行けるわけはありません(代わりに映画に登場した監督の小学生の姪が出かけました)。審査委員長のダーレン・アロノフスキー監督は「この作品は映画へのラブレターだ」と絶賛したそうです。

 オフィシャル・サイトには、次のようなパナヒ監督の言葉が載っています。

 「私は映画作家だ。

  映画を作る以外の事は何もできない。

  映画こそが私の表現であり、人生の意味だ。

  何故なら最悪の窮地に追いやられる時、

  私は内なる自己へと沈潜し、そのプライベートな空間で、

  創作する事の必然性はほとんど衝動的にまで高められるからだーー

  あらゆる制約を物ともせず。

  芸術としての映画は私は第一の任務だ。

  だから私はどんな状況でも映画を作り続け、そうする事で敬意を表明し、

  生きている実感を得るのだ。」

 まさにパナヒ監督は「これも映画なんだ」「これは私の映画だ」と言いたいです。

 

 先のパナヒ監督の言葉を読むと、「人生の意味」を取り上げられた映画作家の緊迫感と覚悟が伝わってきますが、『人生タクシー』はスパイスを効かせているものの、生な形で社会批判を表に出すこともなく、タクシーに乗り合わせた人びとへの視線も冷めたものではなくあたたかいものです。手あかのついた人間愛という言葉を使いたくなるような市井で生きる人びとへのある種の人間賛歌というべきものであり、映画製作を禁止された監督の「映画へのラブレター」として観ることのできる気持ちのよい作品でした。

 観終わってから20日ほどたちますが、今、私はこの映画をドキュメンタリーの手法を使ったフィクションとして理解したいと思っています。

 

 このような手法と内容により日本の映画作家がトライすることはやはり難しいことでしょうか。

 制約がないからかえって難しいというより、息苦しく内向化する社会をかかえている我が国において、価値のあるトライになるはずだと思います。

  『人生タクシー』のチラシ(表) ドライバー姿はパナヒ監督

  同上チラシ(裏)

  チラシ(裏)の部分を拡大 

  カメラを向けているのは「国内で上映可能な映画を撮影する監督の小学生の姪」

 

 それにしてもタクシーという空間は何かドラマが生まれやすい場なのでしょうか。タクシードライバーと乗客が近い距離で顔を直接合わせることのなく(バックミラーを通じてチラリと合わせるのですが)閉鎖している空間で移動することは、時として、お互いに素に近い顔や言葉が出現したりすることがあるということなのでしょう。

 先週(6/21)に再放送された『地球タクシー』「シンガポールを走る」の中で印象的なところを簡単に紹介しておきます。

 

 シンガポールには出かけたことがありませんが、マレーシアの都市と同じく多民族という歴史をもっています。番組でも華人、マレー系、インド人が主な構成員となっており、一つの通りに仏教、イスラム教、ヒンズー教の寺院が建ち並んでいる映像をまず見せていました。

 6台のタクシーが登場しますが、ここでは3台のタクシードライバーを取りあげます。

 

 最初は中国系のヘンリー・リンさん、58歳です。中国語の歌謡曲をかけ、自分でもいい声で歌うようなドライバーです。4人の子供が成人し、もうこの年だし、楽しまなくっちぁと語り、今のシンガポールの目玉施設であるマリーナ・ベイ・サンズにもこの前に泊まったよと話します。

 車窓から撮影された夜の街にたくさんの人が歩く空中回廊の下で、コンクリートを前にしてイスラムの祈り(サラート(礼拝))を一人であげている男の姿が印象的でした。

  シンガポールの民族構成の画面 

  [6/21『地球タクシー』「シンガホールを走る」再放送の画面を撮影、以下同じ]

  タクシードライバーのヘンリー・リンさん

  マリーナ・ベイ・サンズ

  空中回廊の下、右下でサラート(礼拝)中の男

 

 二人目はエヌ・ジー・マイケルさん、51歳でマレー系です。マイケル・ジャクソンではないよとの受けないジョークを連発し、まだ数少ない電気自動車のタクシーに乗っていることを誇りにしています。

 マイケルさんは港湾部へタクシーを走らせ、コンテナの位置を集中させるための港湾設備の移転工事の現場を見せます。シンガホールでは、港湾をはじめ、研究、金融などの都市機能を分散して特定の地域に集中させる再整備がすすめられていること、それは効率を優先した再開発であることについて語ります。

 そして自動車の自動運転化によってタクシーの仕事ができなくなるのはまだまだ先のことだからと、自分はロボットを信用していない、人間を信用している、事故の時に人間なら対応できるけど、ロボットなら無理だろうと熱弁をふるうのです。

  タクシードライバーのエヌ・ジー・マイケルさん

  熱弁をふるうマイケルさん

 

 最後の三人目はモハメッド・サフリ・アーマドさん、58歳でインドネシア系です。母からもらったベビーネームである「アウィさん」と呼んでほしいと言います。日曜日のシンガポール、ジャランジャラン(「歩き回る」の意)の日ということでいつもと違う空気のシンガホールの街を走ります。

 家事労働者として出稼ぎにきているフィリピンの女性たちが街頭にたくさん集まって食事を広げ談笑する映像が流れます。シンガポールの5世帯に1世帯(推定)が家事労働者を雇用しているとの説明が入ります。アウィさんは自分の奥さんもタクシーの乗客として知り合った人で、インドネシアから出稼ぎに来ていたのだと語ります。

 マレーシアの国境のある場所へタクシーを走らせ、今は自動車で橋を通行できるが昔は歩いてわたるしかなかった、大変だったと説明します。そして、今は兄弟みたいなものさ、国境ができても僕らは昔と変わらない、ただ政府が分かれただけだよと語ります。

  タクシードライバーのモハメッド・サフリ・アーマドさん(アウィさん)

  日曜日の街頭に集まったフィリピン人の家事労働者たち

  映像はシンガポール側からマレーシア側を撮影したもの

 

 「シンガポールを走る」は、街の風景は発展とともにすっかり変わってしまったけれど(アウィさんは「変化は受け入れなければならない、人生はそういうものでしょ」と答えています)、不思議とおおらかなものが流れていたというナレーションで締めくくられています。

 思ってみれば、52年前に独立したシンガポールは小さな島であり、都市国家、海洋国家であることがかつてのヴェネツィアと似ています。もとより時代も位置も違いますが、金融というような不可視なものが中核となった人工的空間国家、その時代の先端を集中的に表現している経営体として共通したものを感じてしまいます。

 

 ともあれ、『地球タクシー』と『人生タクシー』は同じ土俵ではありませんが、「タクシー」という移動空間を介した映像作品として、不思議な縁を感じたのも事実なのです。

 

 

プロフィール
profilephoto
60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
最新の記事
                         
カテゴリー
カレンダー
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>
                                      
月別更新一覧
            
コメント
                                      
リンク
                        
サイト内検索
Others
            
Mobile
qrcode
            
Powered by
30days Album
無料ブログ作成サービス JUGEM
                         
PR