2019.02.10 Sunday

「花森書林」へようこそー「トンカ書店」ありがとうー

 「花森書林」という古本屋さんが2月7日にオープンしました。当ブログを読んでいただいている方なら、「トンカ書店」という文字に見覚えがあるかもしれませんが、その店を昨年の12月20日で閉じ、場所と店名を変えてオープンしたのです。

 昨日(9日)、「花森書林」[HP]をちょっとだけ覗いてきました。

 新しい店は元町南の元町通3丁目、元町商店街の一本北側の狭い南北路地の一角にあります。元町がホームグラウンドの私にとっては大変にわかりやすい場所ですが、最初に訪ねようとされた方は何本かの路地を探すことになるかもしれませんね。今度は1階ですし、両開きのガラスドアの入り口で、展示スペースは奥行きも天井高もあって、とても開放的な空間となっています。

 私の短い在店中にも、トンカ書店に通っていた方が多いようでしたが、ひっきりなしにお客様が入店していました。そんな忙しい中、大変に失礼なことをしてしまったと後で反省していますが、店主は今回の移転オープンについての私からの質問に彼女自身が思いをメモしてくれました。これをベースに私が理解した範囲で書いてみることにします。

 

 昨年暮れに元のトンカ書店に足を運んだとき、貼紙が掲げられ、閉店したこと、そして同じ元町で新しい店舗をオープンするべく準備中であることが書いてあって、えっーと驚いたのです。私自身のインフルエンザもあり、やっと1月末に今年初めて訪ねた六甲の「口笛文庫」の主人から、新しい店の場所と近々のオープン予定を教えてもらいました。そして「前よりも広いスペースですし、店名も変えるそうですよ」「えっ、そう。どんな名前ですか」「それは本人から聞いてくださった方がいいでしょう」との会話を交わしたのです。口笛の店主は、広いスペースはあっても本の山で窒息しかねない店内を見回しながら、やや羨ましそうに話していました。

 トンカ書店は2005年12月20日にオープンしていますから、ちょうど13年間営業していたことになります。そんなに経ったのか、という感覚ですが、当ブログでも書いたように(「「よくやったね」冬の古本市へ」「今年も口笛文庫とトンカ書店の『冬の古本市』」)、退職の少し前から現在までの10余年で、古本屋へ足を運んだ回数は「口笛文庫」と「トンカ書店」が両巨頭なのです。日本語でも古文はダメ、戦前の本もダメ、まして横文字はまったくダメ、読むのは現代日本語文と写真集などのビジュアル系だけの私にとって、両店は肌合いが最も合ったのです。加えて、親・親戚からの継承でなく、自分で立ち上げて育てている若い店主をちょっと応援したいなあという気持ちもありました。ということで両店には大変にお世話になったというわけですが、残念ながら、読めもしない本の山が加齢とともに気になって、購入量がグーンと減った時期にちょうど重なってしまいました。

 

 本題に戻りましょう。

 「花森書林」店主は、心機一転という言葉を用いて、今の心境を語っていて、印象に残りました。

 今回の移転は、前のビルの老朽化に伴う水漏れなども大きなきっかけとなったけれど、幼い二人の子供を子育て中でもあり、そんな自分の生活とのバランスのとりやすい場所で店を続けることを模索した結果でもあるとのことです。そして、店名の変更は、旧店舗の店名である旧姓と、結婚後の現在の姓の両方を活かそうと、その名字から1文字ずつ「花」と「森」を採って合わせて「花森」としたのだとのことでした。ある方から、「花森書店」というより、「森」があるのだから「林」でしょうとの示唆もあって、「花森書林」に決めたのだということです。こんなことを聞くと、「トンカ書店」の店名に愛着のある私ですが、「花森書林」か、そうかなるほどなるほどと、とてもいい名前に思えてきました。

 先の心機一転ということでしょうが、新たな場所で新たな店名で「生まれ変わるつもりで一から励もう」というのが、彼女の心構えなのでしょう。

 さらに、旧店舗と同様に、多くのお客様が「気楽に気軽にお立ち寄りいただけ場所である」ことを大切にしたいとのことです。そして、メモには「一歩一歩焦らず、一日一日を大切に過ごしたいです」とありました。

 真正面からは気恥ずかしい部分もある言葉ですが、衒いなくこうした言葉を用いることができる、そのことにウソ偽りなどないのだということは、前々からの顧客なら店主がそうした人だとわかっているのです。そこに、男女、年齢を問わず多くの方から愛され信頼されている店主の真骨頂、いわば、店主の凄みがあるのだと、私は思っています。

 いよいよ老朽化のすすんだ私は、老爺心のようなものか、無理をしないで一歩ずつでお願いしますよ、と祈るばかりなのです。

  店舗の外から撮影した入口と内部です [以下、2019.2.9撮影]

  入口の左側ドアの「花森書林」というロゴマークです

  入口の右側ドアの「ほんのみせ はなもり」を通して内部を撮影しています

 最初のところで書いたとおり、店内は奥行きもありますし、天上も高く、大変に明るい空間になっています。照明の照度も関係しているのか、とにかく気持ちのよい明るい空間です。新店舗のスペース自体はバックヤードを含めた旧店舗の全体とあまり変わりがないということですが、展示のスペースはずいぶんと広くなったように感じられます。

 展示の冊数は現在のところ8000冊くらいで、旧店舗の3500冊から比べると、グーンと増えています。だから、今までみかけなかった本もたくさんありました。旧店舗ではスペースの関係で限界のあった小物というのでしょうか、そんなものも本といっしょに配置された空間となっています。今回はゆっくり棚をみたとはいえないので、これから通っておいおいと棚の、本の配置に慣れていけば、もっと面白くなってゆくことでしょう。

 「花森書林」のロゴやマークのデザインワークが、私の目をひきました。これはどこかなつかしさを感じさせるモダンなデザインです。ですから、古本屋さんにふさわしいデザインかもしれませんね。

  内部の真ん中あたりから入口の方に向けて撮影しています

  ちょっとユニークな天井からつるされた地球儀の照明です  

  「花森書林」のロゴやマーク入りのポストカードです

  ★印に位置しています いい味のある場所です

 

 トンカ書店にも花森書林にも何の関係もないことですが、編集工房ノアの社主である涸沢純平の二冊目である『やちまたの人 編集工房ノア著者追悼記続』のことをブログで書こうとして(そう言えば、これに関連する足立巻一の『人の世やちまた』もまた店主が探してくれたのでした)、杉山平一の詩を読んでいて、ああと思わず声が出るほど、私が反応してしまった詩があります。次の「生」というタイトルの詩です。

      

 

  ものをとりに部屋へ入って

  何をとりにきたか忘れて

  もどることがある

  もどる途中でハタと

  思い出すことがあるが

  そのときはすばらしい

 

  身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである

  その用事は何であったか

  いつの日か思い当るときのある人は

  幸福である

 

  思い出せぬまゝ

  僕はすごすごあの世へもどる

 

 目前に70歳の迫った私の心境は、ほんとにこのようなものです。

 ここで書いておきたかったのは、私の何がしか関わってきた年少の人たちへの祈りの気持ちです。息子と娘、その配偶者たち、そして孫たちは当たり前のことなのでしょうが、それ以外にも、相手の気持ちは別にしても、自分が少し心を傾けた年少の人たちの「幸福」のようなもの(もとよりいっぱい苦しみも悲しみもあって)を願う気持ちがだんだんと強くなってきたように感じています。幸福であろうとすることが幸福であることを妨げるのだと言われれば、そのとおりかもしれぬと思いますが、それぞれの心が少しは充たされるような人生であってほしいと、自分にはどうすることもできないがそうであってほしいと、祈るような気持ちが確かにあります。

 臆面もないことですが、「花森書林」や「口笛文庫」、その店主たちも、そうした対象だということです。

 

 「トンカ書店」ありがとう、そして「花森書店」へようこそ。

 

2019.02.05 Tuesday

尽くすアートというものーエリック・ゼッタクイスト『オブジェクト・ポートレイト』展ー

 早くも2月になってしまったと、お決まりの一言が飛びだしてしまいます。前月の1月に静かだけれど強いインパクトを私に残した展覧会を紹介したいと思います。

 大阪市立東洋陶磁器美術館で開催中の『オブジェクト・ポートレート』展(2月11日まで)のことです。最近は展覧会のために大阪までわざわざ足を運ぶことなど想定できないのですが、第二の勤務先が伊丹空港内にあって、その4年の間に一緒に働いた仲間はほとんど大阪在住の方でその集まりが大阪の心斎橋であったからです。ちょっとその前にということで、阪急の中津駅で下車し、近くの「編集工房ノア」の所在を確認して(別稿で報告しますが、なんというか「ホントやっぱり」という感じでした)、阪急本線に沿って徒歩で南下、梅田の「阪急古書のまち」をのぞいてから、中之島にある東洋陶磁器美術館までやってきましたが、せいぜい5千歩ぐらいの距離です。

 大阪というまちと縁遠った私ですが、第二の勤めのおかげで還暦を過ぎてから、大阪の凄みを、といっても神戸に比べての意味で、歴史の堆積やスケール感など圧倒的な差異を楽しんでいます。限られた範囲にしろ、中之島公会堂、中之島図書館をランドマークとする中之島の景観は、堂島川と土佐堀川の豊かな水量にも支えられ、私にとって、ザ・大阪ということになります。

 

 今回の展覧会は、写真家のエリック・ゼッタクイスト(1962-)(以下「」と表記します)が、館内に常設展示されている東洋の陶磁器からインスピレーションをえて撮影した映像を、方法は不明なものの、何らかのデジタル処理した写真作品が企画展として展示されています。その展示の仕方は、被写体となった陶磁器とその写真作品を近接して並べた展示(仮に<近接展示>と呼びましょう)、そして写真作品と陶磁器が離れた位置にあって同時に見ることのできない展示(同じく<分離展示>)、こんな二つに大別できます。

 アメリカのオハイオ州生まれのは、現代美術家の杉本博司(1948-)のもとで1992年までの10年間働きながら「現代的な写真表現と東洋の古美術」を学んだとあります。現在はニューヨークを拠点に活動しており、今回のように「古陶磁器の肖像」とでもいうのでしょうか、そんな展覧会を2014年にフィラデルフィア美術館、2016年にバンコクの東南アジア陶磁美術館でも開いてきたとのことです。

 そんなは、2016年に東洋陶磁器美術館の所蔵品のなかから34点の陶磁器作品を選んで撮影し、ニューヨークに持ち帰って同年に制作した写真作品が今回展示されているわけです。同美術館の出川館長は「ごあいさつ」のなかで次のとおり「作品相互の関係性を提示する試み」と記しています。

 「 本展でこれらの作品は、被写体となった古陶磁とともに展示されます。

  つまりこの展覧会は、現代美術と古陶磁という、それぞれ独立して鑑賞で

  きる芸術作品を同時に展示することによって、そこに現れる作品相互の関

  係性を提示する試みでもあります。」

 私の印象はと問われたら、えーこれが写真なのか、版画ではないのか、まあいいか現代美術の作品なんだからで始まりました。で、全体を通して、とっても面白かった、何だか充実した気分に満たされた展覧会だったという感想になります。どこが面白かったのかは、以下の何箇所かで書くことになりますが、前記の「作品相互の関係性」にポイントがあるのでしょう。

 そして、とりわけ、が本人の書いた文章において、こうした作品群を「尽くすアート」と呼んでいることにとても魅かれ、とにかくその文章を引用しておきたくなったのです。ですから、今回の紹介は、の文章を形としてとどめたい、読んでいただけたらというのが、何よりも優先しています。

 なお、こうしてブログで映像を見せることができるのも、この美術館ではマイカメラでシャッターを押すことができるからなのです。この記事の写真はいずれも、2019年1月24日に私が撮影したものです。

  大阪市立東洋陶磁器美術館の外観と巨大バナー [以下は全て2019.1.24に撮影]

  エントランス 上側の2作品はエリック・ゼッタクイストの写真作品(最後に再登場します)

  チラシ 表 このチラシに掲載のオブジェクト・ポートレートが以下で何点か登場します

  チラシ 裏  被写体の陶磁器と写真作品が横並べに掲載されています

 

 まずは、Zの長い文章を読んでいただく前に、2作品だけを、見ておいていただくことから始めましょう。

 最初は私が勝手に名付けた<近接展示>の例で、美術館外壁の巨大バナーやポスターにも使われている「青磁劃花葉文 八角水注(せいじ かっか ようもん はっかくすいちゅう)」で、北宋の11世紀頃の古陶磁です。左下がいわば本物で、右上がこれを基に制作されたZの写真作品です。一見するだけでは両作品の関係性が難しいですが、近接の利点を生かして双方をしばらく眺めているとやっと分かりました。どうしてはこの部分のこの形に目を付けたのでしょうか。この作品に寄せたによるキャプションを引用します。

 「 唐時代に外国から影響を受けた唐草装飾は、宋時代初期に禅からの影響

  を受け、よりシンプルになった。この美しい青磁水注に見られる、蓋を

  もった頸部と注ぎ口の間にみられる空間の、単純に幾何学的な形状は、こ

  の新たな美意識を証明している。同時にそれは私たちのモダンな感性にも

  訴えかけてくる。」

 はこの部分のこの形に「新たなる美意識」と「モダンな感性」の交差を発見して創造したことになります。

  青磁劃花葉文八角水注 宋代・11世紀/右上がの2016年インクジェットプリント作品

 続いて、もう一つの<分離展示>の例です。2階のラウンジに展示された大きな写真作品であり、かつ被写体の陶磁器は最小といっていい「白磁 角杯(はくじ かくはい)」です。この作品の関係性は、形状が外部の輪郭線と同じで、その全体の形体を平面にしており、わかりやすいものでした。ただし、の作品は二本の線で3分割されていて、陶磁器の展示と左右が逆になっています。陶磁器は写真作品が展示されたラウンジと別室にありますが、の作品を頭に入れて、被写体の陶磁器を探すのは宝探しみたいで面白いものでした。

 この作品はまだ分かりやすいものですが、後で紹介するものなどなかなか関係性が理解できないものもあります。このことは<近接展示>の場合でも生じるので一概に言えないものの、やはり<近接展示>と<分離展示>という展示の仕方も影響しているのではないかと考えてみたいのです。

 そして、付け加えておくとすれば、の「尽くすアート」と関連しますが、その写真作品に固有の作品名はないということにも注目しておきましょう。

  白磁 角杯 エリック・ゼッタクイストの写真作品 横幅は2m近くあります

  白磁 角杯  朝鮮時代・15世紀 

  ㊟<分離展示>の場合は写真と陶磁器を横並びで比べることができないことをお断りします。

 

 こうしたZの写真作品について、「えー」とか、「ふむふむそうか」というような感想をもっていただけたでしょうか。

 ここで、展示室に掲出されていたの作品を紹介する二つの言葉を写しておきます。美術館の担当者の手になるものでしょうが、私からはこのような言葉が出てこないなあというしかありません。展覧会を観た者としては、全面的ではないけれど、一定の説得的な表現だと受けとめることのできる内容をもっています。

 「     細やかな装飾と立体感を取り払い、

  スケールの大きな、「絵画的な」エッジの平坦なイメージを

                           つくることで、

          彼はさらに深く

      これらの形体のポートレートを単純化し、

           抽象化する。                 」 

 「     器の一部分を拡大することによって、

    いかに力強い表現となることか、驚くべきことである。

        距離感を変えてより近づくならば、

          それは抽象化され、

         文字通りの主体は失われて、

       すべての色が相殺された黒い色面に、

     滲んだようなぎざぎさとした線で縁取られて、

        色彩のない空白へと姿を変える。

    このとき陶磁器の主体は取るに足らないものとなり、

        抽象芸術が観るものを包み込む。           」

 この文章から、当たり前かもしれないが、Zの創造行為は「単純化」「抽象化」が基本となっているということです。そのために「細やかな装飾と立体感を取り払」ったり、「器の一部分を拡大」したりすることによって、「スケールの大きい、「絵画的な」エッジの平坦なイメージ」を制作しているのです。そのことによって、古陶磁という形体のポートレートは抽象芸術に高められ、古い器とその抽象平面がお互いにインスピレーションを与えあっているように感じられるのです。

 

 そんなオブジェクト・ポートレートは、どうして「尽くすアート」なのか、の言葉に耳を傾けることにします。この記事を書く原動力となった文章は、展覧会場に「なぜ尽くすアートを制作するのか」と題して「エリック・ゼッタクイスト」の名で掲示されています。

 この文章で、は、アートには「喜ばせるアート」「売るアート」「叫ぶアート」そして「尽くすアート」と多様にあるけれど、私は「尽くすアート」を選んだと宣言しています。そのこころとは、「他の芸術に仕え、鑑賞者に教え伝え、彼らが相互に作用し、かつ体験を共有できる場を実現させよう」とするのが、「私のアートだからだ」と語っています。

 そして、のモチベーションは「伝道」という言葉に近いとし、私と「喜びを共有し、私の持つまなざしへと鑑賞者を転向させたいという欲求から生まれる」というのです。さらに文章は続きますが、後回しにして、私の理解を深めるためにも、の文章を全文、書き写します。

 「    なぜ尽くすアートを制作するのか

                        エリック・ゼッタクイスト

   

   数え切れないほど多様なアートが存在する。喜ばせるアート、売るアー

  ト、叫ぶアート、そして尽くすアートなどである。すべてはそれらの置か

  れた時と場所との関連性を追い求める。

   喜ばせるためのアートは、決して時代遅れにならない。なぜなら人はい

  つも、彼らを人たらしめているものを思い出す必要があるからだ。美、

  愛、欲望、そして平穏な気持ち、すべてはこの広大なカテゴリーに含まれ

  る。

   売るアートは、常にアーティストにとっての動機付けであり、かつ売る

  ことを目的としたアートが、アートそのものに変貌する。

   叫びは、基本的な人間感情を発散させる行為である。そうであれば、そ

  の感情をアートに流し込み表現するのは当然であろう。どの世代にも、

  れには独自の理由があり、我々も例外ではない。

   それでは、高貴なものも卑しいものも一様に、様々なインスピレーショ

  ンがあるなかで、なぜ私は尽くすアートを選んだのか? 私のアートは、

  他の芸術に仕え、鑑賞者に教え伝え、彼らが相互に作用し、かつ体験を共

  有できる場を実現させようとするものである。

   私は自らの衝動を一言で実現しようと試みてきた。残念なことに、それ

  は多くの知識人の心に恐怖を感じさせる言葉である。「伝道」というのが

  それだ。当然のことながら、宗教的な話をしているのではないが、私の伝

  道活動はそれと似たモチベーションに基づいている。それは喜びを共有

  し、私の持つまなざしへと鑑賞者を転向させたいという欲求から生まれる

  のである。

   さらに言えば鑑賞者には、今日の世界における自分の居場所のみなら

  ず、時代を超えて広がる人類の一連の繋がりのなかで、自分がどこに位置

  づけられるのか、自分の目で確かめてほしい。私は、今日容易に理解され

  るようになった抽象表現を用いて、私が昔から主題としてきた造形によっ

  て表現されている、古代の美の理想を伝えるーいわば鑑賞者たちの「目を

  騙して」理解してもらうのである。その際、人類の共通性について目を向

  けてほしい。何千年もかけて我々の祖先が生み出した同一の物に、同じ美

  しさを認める時、私たちはもはや互いに争うことなどできなくなってしま

  う。はるかに大きな世界や時間枠において、私たちは兄弟姉妹なのだ。も

  し、ほんのわずかな数の人であっても、一歩下がってこれを考えてもらう

  ことができれば、私のアートは役に立ったことになる。

   だから、現代の問題を声高に叫ぶのでもなく、目先の利益を追うのでは

  なく、私のアートには、美しく、今日的な意義のあるものであってほし

  い。我々の世代のみならず、未来においても同様に。人間はいつも過去と

  結ばれている必要があり、その関連性を永遠に追及することこそ、私が尽

  くすアートを制作する所以なのである。」

 「さらに言えば」以降の文章を、どこまで理解できているのか心もたないところもありますが、Zは古美術という造形を、自分のまなざしを通した「抽象表現」によって、鑑賞者の「目を騙して」、古代の美の理想を理解してもらおうというのです。このことによって、時と場所をこえて共通する「同じ美しさを認める時」、「人類の共通性」を目を向けさせることとなり、「はるかに大きな世界や時間枠において、私たちは兄弟姉妹」であると感得させることができるのだ、これが「尽くすアート」なんだといいたいのでしょう。そして、作品名を新たに付けずに、被写体となった古陶磁の作品名で共有しているのは、の「尽くすアート」という姿勢の現れでもあります。

 にとって、「私が尽くすアートを制作する所以」とは、「人間はいつも過去と結ばれている必要があり、その関連性を永遠に追及する」一つの方法であり、そこに「尽くすアート」の、そして芸術家としての存在理由をみているのです。この文章はの志の高さが印象的なメッセージというべきでしょう。

 私はと言えば、今回の展示を通じて、の写真作品が彼のまなざしの様々なバリエーションによって、被写体となった古陶磁と「美」において共振していると感じたのは事実です。いわば具体の造形と平面の抽象表現が、呼びかけ合っている、さらに言えば対話しているようでもあると感じられたのです。

 鑑賞者である私の視線は、の抽象表現から古陶磁へ向かい、もっと深く見ようとし、逆に古陶磁を見た視線をZの作品へ反転させるような行為を伴っていました。それは私に新たな視線を与えたようであり、つまり古陶磁の見方が揺さぶられたのであり、そこが面白かったり、意外であったり、不思議であったりしました。

 のいう「私たちはもはや互いに争うことなどできなくなってしまう」とまで感じたわけではありませんが、少なくとも、過去と現代、東洋と西洋という時と場所の間に分断線を引くということではなく、ある豊かなセッション、コラボレーションのありようを発見したと申し上げることは、私の印象から遠くはない表現だと思っています。

 以下において、<近接展示>と<分離展示>の事例を、あまり説明を加えず、数例ずつ上げておくことにします。

 

🔹<近接展示>事例

◍「青磁印花 蓮池水禽文 方形香炉」高麗時代・12-13世紀

  真上から見た形をゆらぎをもった輪郭線によって黒の平面として取り出しています 

 

◍「白磁印花 花喰鳥文 盤」金時代・12-13世紀

  裏側を斜め上から見て対比的な2本の曲線を、それも一部分だけを取り出しています

 

◍「三彩貼花 宝相華文 水注」唐時代・7-8世紀

  古陶磁をみる視力が弱いからか作品相互の関係性がよくわからないままでした

 

◍「紫紅釉 盆」明時代・15世紀

  貫入のひびわれた線を表現しています 以下は展示のキャプションです

「 「走泥文」は、焼成後に冷却される過程で形成される貫入の一種で、釣窯

 の特徴とされる。走泥文は作品ごとに異なり、本作では斜め前から見たかの

 ようである。」

 

◍「織部 切落四方手鉢」桃山時代・17世紀 

  把手の一部分をぐっと拡大したものです 私には鳥の嘴のように見えました

 

◍「白磁 壺」朝鮮時代・18世紀

  白い壺をグーンと縮小して右上にポツンをおいています 以下は展示のキャプションです

「 こうした大きな白磁の球体の壺は、満月に似ていることから「ムーン・

 ジャー」と呼ばれている。皮肉にもこの大きな壺を縮小し、広く黒い画面に

 配することで、闇夜に月が高く昇ってゆく様子を目にすることができる。」

 

◍「月白釉 碗」金時代・12-13世紀

  真横正面から残る上下の2本の微妙にゆらぐ線だけを白線として取り出しています

  ㊟上記の2作品には撮影する私が映りこんでしまっていますが、本当は真っ黒です

 

◍「須恵器 長頸瓶」奈良時代・7世紀末:右

 「緑釉 手付瓶」平安時代・10世紀:左

  右は瓶の輪郭を白色で半分だけ、左は瓶の把手の形状を黒色で、優雅な線を抽出しています

 

🔹<分離展示>事例

 以下は、<分離展示>の事例で、ここでは下の方に被写体となった古陶磁を、上の方にの写真作品というように、上下に並べています。鑑賞者にとっては、作品の相互関係性が<近接展示>に比べると同時に見れないことに伴う分かりにくさがあります。逆に、の作品を古陶磁を介在させずに独立したものとして見ることができる利点もありますが、の本意はそこではないのでしょう。

 

◍「青磁 八角瓶」南総時代・12-13世紀

  下の古陶磁から形体に近いリアルな線と瓶の表面の不規則な線を取り出しています

  山水画のスタイルのように見えます

  中国陶器のなかでも「古典」として位置づけられているのだそうです

 

◍「青磁象嵌 菊牡丹文 鶴頸瓶」高麗時代・12-13世紀

  ロビーにあったの作品から、被写体の古陶磁を探すことは結構難しかったです

  美しい文様が施されていますが、は外形の半分を白色でシンプルに取り出しています

 

◍「青磁 水仙盆」宋時代・11世紀末

  えー、これが水仙盆かと思いました 上から見た口の輪郭線をだいぶデフォルメさせています

  このレベルで残る5客のうちの1客であり、東洋陶磁器美術館の大切なお宝です

 

◍「青白磁 瓜型水注」不明     :右

 「白磁鉄地 壺」朝鮮時代・18世紀:左

  エントランスの上部に展示された2作品です

  「青白磁 瓜型水注」 注ぎ口を優美な形として取り出しています 

   以下は展示のキャプションです

「 「エレガンス」とは、宋時代の様式を最も特徴づける言葉である。この繊

 細なつくりの青白磁の水注は、豊かな弧を描くボディを持ち、そこから把手

 と頸、そして注ぎ口が優美に伸びる。また、内容物が冷めないようにするた

 めの承盤に、まっすぐに収まるよう考えられている。注ぎ口はとても洗練さ

 れており、輪郭を撮影すると、穏やかに水辺を舞う白鳥が現れる。」

  「白磁鉄地 壺」 全体の形体から左右を大胆にカットされています

  以下は展示のキャプションです

「 「古代のモダニズム」の好例となる本作は、大胆にももはやグラフィック

 アートである。作品の中心を切り取る描写によって、線は表面の局面を表す

 可変的な方法で湾曲する。これにより、私たちの心の眼が作品の全体像を満

 たすように導くのである。」

 ㊟このキャプションだけですが、私には分かりにくいものでした 

 

🔹おわりに

 先月に『オブジェクト・ポートレート』展をみて、これは面白いからと書いておくことにしました。私としては、の「なぜ尽くすアートを制作するのか」という文章を紹介したい、ブログに残しておきたいということでした。

 でも、今、「尽くすアート」をわかりやすく定義せよと問われたら、あまり自信をもって答えることができそうもありません。現代の美術家が、過去の美術(「美術」とカテゴライズされなくても何らかの「美」を見出した対象物)からインスピレーションを得て、自分の作品に反映させることは、よくあることなのでしょう。それこそ過去から営々と続いてきた営みであり、自分の美へ近づく普遍的な方法でもあります。もちろん、これらの全てが「尽くすアート」ではありません。の言う「尽くすアート」とは、もとの「美術」と不即不離の関係にある、いわば寄り添う関係にある「アート」を創造することではないかと、私は思っています。

 もとよりの今回の展示作品は、独立したアート作品として、十分に観賞にたえるものでしょう。でも、その場合、私は、ちょっとかっこいい現代の版画作品(写真作品ではなく)としてみるだけのことでしょう。私が「とても面白い」と感じたのは、もとの作品との作品が同じ空間に存在するというなかで、「作品相互の関係性」を通してそう感じられたのだと考えています。だから、の「尽くすアート」は、今回のような展示方法によって、その本来の姿を現すことができるのですし、Zが託そうとする機能を発揮することもできるのだということです。

 過去と現在、東洋と西洋、立体と平面、具象と抽象、こうした対比的な条件をつなぐものが、あるいは差異をこえるものが、「尽くすアート」とが呼びたいものなのかもしれません。本文でも記したとおり、こうした制作の行為は、対話的でないと成立しないのです。のまなざしによって制作されたポートレート作品は、過去の古陶磁との対話からしか始まらないわけですし、それが「尽くすアート」であるためには、対話が成立していなければならないわけです。「対話が成立する」とは、媒介者としての鑑賞者も加わり、一方向ではなく、双方向だということです。の文章中にある「過去と結ばれている」ことが実感できること、つまり「大きな世界や時間枠」において「同じ美しさを認める」ことに導かれる状態をいうのでしょう。

 古陶磁との作品が相互の関係性において、古陶磁への見方が更新され、古陶磁のリクリエーションにもつながってゆくことが、の「尽くすアート」のもつ究極の力というべきかもしれません。

 

 杉本博司のもとで10年間働いたとあります。下の写真は、杉本の「海景」シリーズのポスターの一部を撮影したものです。杉本は世界各地の海を水平線の高さを統一して撮影した作品をシリーズ化してきましたが、「海は結局1つであることを思い出させてくれ、ここが生命の原点であるというメッセージを与えてくれる」と評されています。ウィキには、その制作姿勢を「一貫して個人の存在を超えた時間の積み重なりや流れをとらえるためのコンセプトや方法を模索している」と描かれています。

 こじつけかもしれませんが、私はにも同じ制作姿勢を感じるのです。は「大きな世界や時間枠」において美の共通性を感得させるための「コンセプトや方法を模索」していると思うのです。それがの「尽くすアート」という「コンセプト」であり「方法」だと申し上げていいのでしょう。

  杉本博司「海景シリーズ」のポスターから

 

 最後になりますが、東洋陶磁器美術館のロビーには、私の好きなルーシー・リーの陶器が常設展示されています。エリック・ゼッタクイストが、今回対象とした古陶磁と同じように、ルーシー・リーの陶器に向き合い、作品化しようとするなら、どんな「尽くすアート」が創造されるのかと思うと、まだまだ興味は尽きません。

 今後ともエリック・ゼッタクイストの「尽くすアート」というコンセプトと方法の行方に注目していきたいと思っています。

  ルーシー・リー 作品名は不明 東洋陶磁器美術館ロビー

2019.01.26 Saturday

「欲望」の時代を生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の視点からー(2・完)

 先週は、インフルエンザに罹患していました。松の内を過ぎたころからずっと体調に違和感がありましたが(それでも歩いていました)、10日ぐらいを経て、久しぶりに発熱し、インフルと分かったのです。最近は鼻穴に検査棒を突っ込むことでインフルとの診断が容易になったせいでもあるのか、インフルと言われたのは何年ぶりのことでしょう。

 しばらくMの言葉に接近しようともがいていたからではないかと思ったりしましたが、まさかそんなことは関係ないでしょう。

 

🔹M流の「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」(その2)

 前稿[(1)]は生煮えのままアップしてしまいました。それは私の限界ということで、とにかく書き継ぐことにしましょう。

 前稿はNHK出版新書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の蕎蓮哲学は時代との格闘だーガブリエルの「戦後哲学史」講座」を紹介しようとして、「🔹M流の「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」」に着手しました。「◍戦後哲学の3潮流とその限界」において「実存主義」「構造主義」「ポスト構造主義」へ向けたMの批評を紹介し、続く「◍ポストモダニズムとネオリベラリズム」では現在の社会、世界とまっすぐにつながるこうした思潮と、私たちが眼前にしている世界との関係についてふれました。

 これらを(その1)として前半とし、Mの「新実在論」とは何かというところから、後半の(その2)を再開します。

 

◍相対主義を越えてー「新実在論」へー

 現代哲学で「新実在論」と呼ばれる新たな潮流が生まれた契機について、Mは次のとおり語っています。

 「 哲学において、私が代表する「新実在論」を生むことになった大きな

  きっかけは、おそらく2001年と、そして2008年にあると思う。2008年

  の経済危機、その原因は、2001年の同時多発テロ、世界的なテロの始ま

  りともつながっている。

   これが、今僕たちが立っているところだ。僕たちはこの経済体制そして

  自由民主主義という概念自体の両方が陥った深刻な危機の余波を受けてい

  るんだ。」

 1989年のベルリンの壁崩壊からソ連邦の解体と続く戦後全体の地殻変動に伴い生じた新たなる希望を決定的に打ち破ることになったのが、このような21世紀初頭の大きな出来事です。こうした深刻な破綻を経験した現代世界を、哲学として正面から根元で受けとめるために、「新実在論」は前記したとおり「ある種の現実離れを起こしてしまうことになる」ポストモダンの相対主義を批判するところから登場してきたのです。

 

 では、「新実在論」とはどのようなものか、千葉雅也立命館大学准教授の力を借りましょう。

 千葉は、Mの『なぜ世界は存在しないのか』の翻訳版が刊行された機会に「新実在論」についてコメントしています(「半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考」2018.2.11)。この中で、今日の大陸哲学では「実在論ブーム」が広く巻き起こっているとしたうえで、「ガブリエルのいわんとすることの本体は、「本質主義vs相対主義」という対立から抜け出す第三の道を開くことである」と表現しています。

 そして、千葉は一例をあげて説明しています。富士山を、同時にAとBが見ているという場面です。

 本質主義によれば、富士山が唯一の存在であり、AとBそれぞれの視点における富士山は実在的ではなく、自然科学の立場で富士山の物質的・数理的に説明され、それだけが真であるということになります。

 これに対し、相対主義によれば、AとBそれぞれの視点における富士山がそれぞれあるだけであり、我々が問題にできるのはその主観的な構築による富士山だけで、実在的な富士山にはアクセスできないということになるのです。

 第三の道であるMの実在論では、AとBそれぞれの視点における富士山があるのは確かだが、物事の実在はそもそも特定の「意味」の場と切り離すことができず、それぞれが実在的なのだということになります。千葉は、Mの結論を次のとおり記述しています。

 「 以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」というのが「意味の

  場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している。富士山自体は

  どうかと言うと、諸々の実在的な見方の交差のことなのであるー「意味の

  場」から完全に孤立しているような富士山「自体」は考えようもない。」

 私などは煙に巻かれたような、それがどうしたと言いたくなってしまうのですが、もう一人、岡本裕一朗玉川大教授がMの「新実在論」を紹介している文章(「現代思想の新たな「天才」ーマルクス・ガブリエルの「新実在論」とは何か?」2016.9.16)をみておきます。 

 岡本は、千葉の「富士山」を「ベスビオス山」として、千葉の本質主義を「古い実在論」、相対主義を「構築主義」として記述し、「ガブリエルの「新実在論」は、物理的な対象だけでなく、それに関する「思想」「心」「感情」「信念」、さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考えるのです」と理解しています。そして「精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向を批判」しつつ、「ガブリエルの「新実在論」は原理的な次元から再考しようとしている」のだと結論づけています。

 まだすっきりしませんが、Mの「新実在論」は、千葉の言う「本質主義vs相対主義」の対立、岡本の言う「古い実在論」と「構築主義」の対立を越えた第三の道を模索するものであることは、ちょっと分かったということにしておきましょう。そして、千葉は、次のように締めくくっています。

 「 見方はいろいろだという相対主義ならばまだ「認識論的」だったわけだ

  が、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底している、そんな

  バカなことがあるか!と。さて、日本ではどういう議論が起こるだろう?

   ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの

  特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味にお

  いて、それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示していると言えるかもしれ

  ない。」

 「ポスト真実のポストモダンレベル」という新しいステージに達した現代の世界を前に、「事実」「現実」というものも、さらにいえば「価値」というものも、「すべてほかの意見と同じぐらい良いものである」という概念を支持する相対主義の限界を受けて、Mの「新実在論」は登場してきたというのが、現在の思想状況と理解しておいていいのかもしれません。

 蕎呂遼粗で、Mは「最も深刻で今大事な問題は、事実とその表現、つまりそうした事実とイメージの落差にまつわるものだ」に応えないと、「哲学自体が現実離れしてしまう」と語っていましたが、まさに「新実在論」はこの最も哲学的な問いに応えようとする考え方であるということになるのでしょう。

 

 ここでたとえ回りくどくても、Mが「ポスト真実のポストモダンレベルに達した」ことの意味をどう説明しているのかをみておくことにします。

 新書蕎呂痢4 ポストモダンとは何か」 の最後に、金正恩とトランプとのシンガポール会談を例にあげ、SF映画のように超現実的に見えるが、つまりコンピーター・シュミレーションの中にいるような現実に思えないような感覚を受けるが、そうではないのだ、現実なんだと、Mは強調し、次のように語っています。

 「 何が起こっているかというと、まさに現実の階層の根本的な変化なん

  だ。だがそのようには見えない。なぜなら僕らは今、ポスト真実のポスト

  モダンレベルに達したからだ。

   僕がどのようにこの大きな世界のポスト真実というものを見るか説明し

  よう。インターネットの時代では、どうやらニュースを信じることができ

  ないらしい。多くのフェイクニュース、ヘイトスピーチ、そして現実の不

  当な、虚偽の描写がある。(中略)

   彼らは(㊟トランプたち)、僕らがすべてデジタルであるコンピューター

  ・シュミレーションの中で生きていると考えてしまう事実を利用してい

  る。彼らはこの思い込みの事実を僕らに対して利用しているんだ。」

 なかなか身に詰まされる批評です(私にもそのとおりだという感覚があるということです)。このような「現実」、すなわち「ポスト真実」を前に、どう対抗しなければならないかというのが、Mの命題なんだと、私は理解しました。

 

 さて、蕎呂虜埜紊旅燹5 新実在論へ」で、Mが論じていることを紹介しておきます。

 Mは、「新実在論」の立脚点から、相対主義の根幹にある「道徳的相対主義」を批判的に検討し、「僕らは道徳的事象に、選択肢など一般的に持たない」とし、「絶対的な道徳的事実が存在する」という事実を証明してみせています。相対主義に強く異議を唱えているのです。

 まず、「相対主義」という概念を取り上げ、「これが道徳的、社会的そして政治的領域で何を意味するのか、想像してほしい」から議論をスタートします。「意見の相違があるなら、僕らは通常、誰かが正しいに違いないと考える」が、相対主義は、そうではなく「ものごとの事実などない」と論じるものだとし、その例として、道徳的相対主義を説明しようとします。

 道徳的相対主義とは、「様々な道徳観があるという概念」であり、「あなたの数えたいだけの道徳観」があることになります。西洋の道徳観には普遍的な人権を信じているとの説明があるが、道徳的相対主義によれば、「実際には普遍的な人権などない」と論じられてしまい、「これらの道徳観の善悪を決する基準などない」ということになってしまいます。もし道徳観が好みの問題になってしまうならば、「正義などなく、あるのは征服だけである」と結論せざるをえなくなるとし、「ポストモダンで筋金入りの道徳的相対主義」のひとつの景色を、次のとおり表現しています。

 「 すべての政治的状況は違う道徳観からなり、お互いとぶつかり合い、西

  洋の道徳観に対してロシアの道徳観、カナダの道徳観に対してアメリカの

  道徳観など、異なるそれぞれの道徳観がぶつかり合っている。だから、社

  会的現実においてはー真実がなければー純粋な闘いが生じる。それがドナ

  ルド・トランプの世界観だ。結局のところ、正義などなく、あるのは征服

  だけだ。それが彼のビジネスモデルだ。」

 Mは反論に出ます。「相対主義は一般的に、真実ではありえない」、「もし相対主義それ自身が相対主義に対して相対的であるなら、それを信じる理由などまったくない、というわけだ」としつつ、道徳として、「子どもを拷問していいか」というシンプルな例をあげて反論するのです。「僕は、絶対的大多数の人間」が「「NO」と答えるだろうと説く」としたうえで、それは「「子どもを拷問するべきでない」といったような絶対的な道徳的事実があるということを直ちに証明する」とします。だから、この事実から、「絶対的な道徳的事実が存在するということ、道徳的相対主義は正しくないということがわかる」と論じています。具体の内容として次の例をあげています。

 「 子供を拷問するな。最低な両親でなければ、親を尊べ。嫌なヤツじゃな

  ければ、隣人にはよく接しろ。多くの事実がある。明らかな道徳的事実

  が、今提示したとても単純なものたちだ。人を殺すな。だから、これらの

  道徳的事実がある。」

 こうした証明こそ、Mは道徳的事実に対する「僕の答え」であり、「「新実在論」による、僕らの時代における重要な問いへの全般的な答え」だと説明しています。さらに、次の追加的な説明を加えます。

 「 道徳的事実は、他人の立場になって考えてみた時にわかる類のものだ。

  あなたが何かしたいことを想像してみてくれ。そしてこの場合の道徳的疑

  問は、「私はほかの人にそれをしてもらいたいと思うだろうか?」という

  ことだ。」

 だから「あなたは相手の立場から道徳的事実の意味を理解するんだ」、あなたが相手の立場に立つことによって「あなたが何をすべきか導き出すことができる。あなたがいる状況の道徳的事実によってだ」というのです。つまり「ポスト真実」の世界を前に対抗していくためには、ポストモダン的な相対主義を乗り越え、普遍性を追求していくことが不可欠だと、Mは哲学的な立場を明示しています。

 ふーん、そうだろうね、それでということになりますが、この道徳的事実の例も用いつつ、「じゃあ、何ができるのか?」について、Mは「今あなたに理解してほしい哲学的な結論」へと導いていきます。そして、そこに「ポスト真実」の現代社会、現代世界に抗する「新実在論」の哲学的な存在理由を見出しているのです。

 

◍「本当の事実」を見つけ出すためにはー「ポスト真実」の世界に抗してー

 前項の道徳的事実に立つために、必要なこと、大切なこととは何かについて、Mは「知識と科学」とともに、これに関連して「自分の「知る能力」を疑ってならない」ことだと強調しています。

 まず「知識と科学」から行きましょう。「理性的な人であれば、テーブルにすべての事実を議題に上げれば、あなたに異を唱えはしない。あなたが完全に状況を説明すれば、何をすべきかをも知ることができる」とし、「この知識がとても重要な理由」であり、だから、「知識と科学は道徳観を形成する上で絶対的に重要だ」というわけです。

 ここでは「精神を脳に還元してしまうような、現代の「自然主義」的傾向」を厳しく批判するMが、「知識と科学」の必要性を強調していることに注意しましょう。つまり「もし僕らが知識と科学を攻撃すれば、それにしたがって僕らは人間が道徳的になることを不可能に、またはより難しくしてしまうだろう」とし、次のとおり、現在、私たちが眼前にしていることと、Mは結びつけて説明しています。

 「 だから、現代の権威主義的人物が科学を攻撃することは、偶然ではない

  んだ。トランプのような気候変動を否定する人々は、実際の知識を疑うた

  めに科学的専門家を攻撃する。これを次の構造にまとめることができる。

   ポストモダンの独裁者ー僕らの時代の多く残念な反民主主義者、ポスト

  モダンの悪しき利用を目論む反啓蒙活動家ーには、次の計画がある。

   彼らはあなたを、あなたが知っていることを、本当は知らないと信じさ

  せたいんだ。それは新しいレベルの厄介な計画だ。」

 続けて「政治の仕組みがあなたに、「現実を知らない」ということを信じさせる。彼らは、あなたに二つの手があるとということを疑わせるように仕向ける」、つまり「疑わせる」や「知ることはできないと思わせる」のだというのです。こうして「あなた自身の知る能力を疑うということ」は、次の結果をもたらすと語っています。

 「 もしあなたが知る能力を自ら攻撃するようになれば、それに従ってあな

  たはあなた自身の道徳観を疑うようになるだろう。なぜなら道徳観は、僕

  らの知る能力の実践だからだ。だから、もしあなたが現実を知ることは不

  可能か、または難しいと考えるなら、それに従ってあなたは直ちに、道徳

  観を理解することも難しいと考えるようになるだろう。」

 そしてこれは「道徳的間違いを犯す可能性を高める」と、Mは警告しています。ポスト真実の危機に直面する私たちは、「真実」「事実」を究明するための「知識と科学」が不可欠と考えるのです。

 

 前稿で特記したように、Mは今は深い危機であり、そのためには「今何が起こっているかを理解する必要が大いにある」と強調していますが、それが理解できなければ、「僕らはおそらくこちらに向かってくるものさえ見えない力によって破壊されてしまうだろう」と続けています。だから「今こそ公的な領域で哲学が必要とされる時だ」としているのです。

 Mは、「僕が今あなたに理解してほしい哲学的な結論」をおおまかに言えばと、次の長いコメントを語っています。長くなりますが、そのまま引用しておくことにします。

  僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合

  わせはじめなければならない。経済的事実、宇宙に関する事実、そして道

  徳的事実。もし僕らが、何が事実か、何が明らかな事実かを知りさえもし

  なければ、民主主義の出番など絶対にないだろう。なぜなら民主主義と

  は、乱暴に要約すれば、僕が「明白な事実の政治」と呼ぶものに基づくも

  のだからだ。それこそが守るべき価値だ。民主主義は人々が実際に知って

  いることを集め、僕らが知っている点と点を結び、現実の系統的解釈を考

  え出す。そして現実の傾倒的解釈の上にのみ、つまり時に「現実がどのよ

  うなものかを知ることができない」という幻想を乗り越える解釈、この基

  礎の上にのみ、僕らの時代における大いなる疑問に答えはじめることがで

  きる。

 この真っ当な「哲学的な結論」を、架空の産物、理想上の産物として排することは、現下の「幻想の政治」に加担することになることでしょう。

  「今 何が起きているか 私たちは理解しなくてはならない」

       『欲望の時代の哲学ーマルクス・ガブリエル 日本を行くー』(NHKBS1/2018年7月15日放送)以下同じ

  「私たちがどこに立っているか? 知るためにね」

 そして、「ポスト真実の危機に直面した時」、答えは明白で「真実をもう一度試すことはどうだろう?」と勧め、そのためには、「僕と君は根本的には同じだ」、すなわち「現実と道徳的事実がどのようなものを知る能力を持つ人間であり、動物だ」としたうえで、次のように結んでいます。

 「 人間であり動物であることの合理性に関するこの洞察を、僕らの教育シ

  ステムに組み込むことが重要だ。そうしてようやく、僕らが絶えず直面す

  る嘘やフェイクニュースを疑い始めることができる。

   そして哲学はこれを手助けできる。なぜなら哲学の義務はイマヌエル・

  カントがすでに18世紀に古代ローマの詩人、ホラティウスの言葉を

  して、言った通りだからだ。

   Sapere Audeすなわち、知恵を持つことに勇気を持て!」

 Mは、道徳的事実を含めた事実の存在、その事実の普遍性、「同じ種の動物だから、僕らの間に深い違いなどない、地域的な文化の違いはあっても、深い違いはない」との理解に立って、「真実は理解できると仮定して、実際に何が起こっているかを理解しはじめること」を、私たちに求めているといえます。

  「「ポスト真実」ではなく 「モア真実」だと思います」

🔹【補論】「民主主義」についてのMの考え方

 今朝(1月26日)の朝日新聞に、宇野重規東大教授が「民主主義の後退」というタイトルで寄稿しています。この小論で、宇野は、独裁的指導者たちはもとより、民主主義を担うとされてきた米国、イギリスそしてフランスでも脆弱化が著しく、「民主主義ははたして大丈夫か」という疑念が増大する中、その背景や原因を論考する三冊の本を紹介しています。

 小見出し3つとともに簡単に紹介しておくと、最初の「寛容と自制心の規範ゆらぐ」では、「選挙で選ばれた政治家が、民主主義の制度を使って、徐々に、さりげなく民主主義を「殺す」事態こそが問題」で、「民主主義を支える「柔らかいガードレール」」が失われつつあると指摘する『民主主義の死に方』に言及しています。二つ目は「弱まる中産階級」で、「中産階級が現代のグローバリズムの下で弱体化し、民主主義が硬直化して変化に対応できていない」という現状分析を展開した『政治の衰退 フランス革命から民主主義の未来へ』を紹介します。そして三つ目の「多様性を阻むIT」では、「人が自らの好む情報にばかり接していることに危機感」を持ち、民主主義にとって重要な「熟議を通じて自らの考えを修正していく」条件が失われるばかりであることに警鐘を鳴らす『♯リパブリック』にもふれています。

 そして、宇野は小論を、次の文章で結んでいます。

 「 日本にとっても他人事ではない。日本政治に「相互的寛容」と「自制

  心」が見られるか。民主的説明責任が十分にはたされているか。同じよう

  な意見ばかりで集まっていないか。年初にあたって真剣に自問すべきであ

  ろう。」

 

 こうした宇野の小論とも深いところで共鳴しているように感じるMの「民主主義」論のさわりだけを紹介しておくことにします。

 NHKTVで、Mは「民主主義は情報処理の特定の形なのです。民主主義とは、一つの制度であり、同時に人間の行動を組織化する方法です。それ以上でも、それ以下でもありません。それが、民主主義です」と定義しました。

 新書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の犠呂砲いて、Mは民主主義には二つの層があると語っています。一つは、前記の定義から直接導かれる「誰もが法律の支配下にある。政治家も、国家元首も。全員が法律の支配下にある。それが、民主主義の現代のイデアだ」という社会の骨組みなんだというのです。そして、次のとおり追加的に説明しています。

 「 民主主義的な官僚制度は、選択的で人々が決めることができないという

  意味においては、民主的ではない。

   人々は、社会の仕組みを法律の支配下に置きたいと決めた。ただ、法律

  は、それ以外には人々とは何ら関係がない。それが民主主義の一つの層

  だ。」

 でも、これだけでなく民主主義にはもう一つ層があって、「価値制度、価値の体系」だと、Mは語っているのです。その価値の基本的な考え方は、「「自由」、「平等」と、「連帯」の骨組み」だとします。当然の発言になりますが、「連帯」についてだけ補足しておきましょう。たとえば、税金の負担に基盤をおく「福祉の概念」があるが、公共のための負担、それでよいと考える、それが「連帯」を意味することだと説明し、次のとおり確認します。

 「 「連帯」とは、僕がそれに同意するという意味だ。誰かが取るべきでな

  いものを取り上げていくのではなくてね。僕はこれが全部欲しい!なんで

  奴らは取り上げられるんだ?というのは、民主主義で共有される考え方で

  はない。だから、こうしたことに納得できることが民主主義の倫理の根本

  にある基盤だ。」

 この「連帯」は、「自由」「平等」のもとで、宇野のいう「寛容と自制心の規範」と、共通の基盤をもつもののように感じています。

 

 滞日中に、Mは哲学者の國分功一郎東工大教授と、「今、民主主義に何が期待できるのか」をテーマに、公開対談を行っています。

 Mの基調講演のタイトルは「危機に瀕する民主主義」でした。前記の民主主義の価値の本質を説明したうえで、「現在実施されている制度との間にある距離、隔たり」から民主主義の危機が生れているのだと、Mは語っています。ここでは、現代の民主主義の危機として、二つの大きな問題があると指摘します。一つは「真理と知についての危機」であり、二つは「不平等という問題」です。これまで紹介してきたMの発言とまっすぐにつながるものといえます。

 一言だけMの説明の言葉を補足すると、前者は「ポストトゥルースと呼ばれる事態」のことで「民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態」にあり、「きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要だ」ということであり、後者は「現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっている」ということだと語っています。

 

 二人の対談から、一つの問題「国民国家と民主主義の関係」に限定して紹介します。

 「民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれない」とMが発言している問題です。私たちが現在直面している問題、気候変動や経済的な格差という問題はグローバルな性格を持っており、国民国家だけで解決できないからだというわけです。つまり「私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう」と語っています。そして、カントの発想を紹介しながら、次のとおり発言しています。

 「 国民国家を超えて民主主義が拡張されてなくてはならないという発想

  は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主

  主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性と

  いう原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づか

  ない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になって

  しまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実

  現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。」

 最後に、この対談を通じた感想として、國分は、「ガブリエル氏が民主主義を論じる中で強調したのは点は二つある。価値と知識である」と書いています。「価値」の中でもとりわけ強調したのが「平等」であり、この価値の根拠を「事実」と述べたところに注目し、Mの議論は「「事実」「価値」「権利」がある意味で等号で結ばれている」と指摘しています。一方、Mの強調した「知識」とは「民主主義の中で様々な論点を議論していくために絶対に必要な条件のことを指している」とし、公聴会をはじめとする幅広い知識を共有できる場を作っていくべきというMの意見にも賛同しています。

 

 無駄かなと思いつつ、この【補論】を書いたのですが、民主主義をめぐるMの議論は、Mの「今あなたに理解してほしい哲学的な結論」を理解するための補足となったのではないかと考えています。

 

🔹おわりにー「5つの問題」に向かってー

 不全感の残る紹介となりました。それは主にMの「新実在論」とMの「哲学的な結論」の関係が、私の中でなおクリアな状態でないままで書いたことの反映なのでしょう。

 されどといいたいのですが、Mの「哲学的な結論」、それを導く現代の社会、世界をみる視点、着眼点には、もともと私にあったイメージをより明確する方向で作用してくれたという実感をもっています。だから、こんなくどいノートになったと思ってくださればと願っています。

 

 前出の岡本裕一郎玉川大教授は、現代において哲学者が取り組んでいる「5つの問題」があると整理しています。「(1)「IT革命」は、私たちに何をもたらすか?/(2)「バイオテクノロジー」は、私たちをどこに導くか?/(3)「資本主義」という制度に、私たちはどう向き合えばいいか?/(4)「宗教」は、私たちの心や行動にどう影響をおよぼすか?/(5)私たちを取り巻く「地球環境」は、どうなっていくか?」というものです。

 哲学者であるMは、こうした「5つの問題」を含め現代という時代と格闘する中で、ポストモダンの哲学を批判的に検証することで普遍的原理である「新実在論」に到達したのではないかと、その当否を批評する能力はないけれど、その点におけるMの誠実性について疑うことができません。

 前記の写真のキャプション、「今 何が起きているか 私たちは理解しなくてはならない」「私たちがどこに立っているか? 知るためにもね」、「欲望の時代に生きる」者として、そういう精神だけは忘れないでおくことにしたいと思っています。

                       【終:(1)、(2・完)】

2019.01.23 Wednesday

「欲望」の時代に生きるということー『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』の視点から―(1)

 1月に入ると、日没時間がぐっとのびてきます。夏とは正反対でこの季節は陽射しを探しながら歩いていますが、歩き終えるのが5時過ぎになることも多く、夕景の広がるその頃には気温の低下が直に感じられます。そして、ほんの4、5ヵ月前のことなのに、夏の空気や汗の感触をすっかり忘れてしまっていることに驚きます。

 気温というか、暑さ寒さの感覚は人それぞれというところがありますが、個々人にとっても年齢や環境の変化によって影響を受けているようです。真冬に、小中校生の軽装に出会うと、わが身の重装備ぶりをかえりみて、ドキッとしたりしています。真冬に短パンで走っていたこともあったのにという50年前の記憶を呼び起こしてみても詮方のないことでしょう。

 

 「こたつ」を使っておられますか。いつの頃からか、私はこたつを使わないで暮らしています。こたつにみかんは冬の茶の間の定番セットであり、そんな場から数々のドラマは始まっていました。ファンヒーターやエアコンの普及、畳敷きの茶の間の減少と隙間風の入らないマンションの増加、さらには温暖化の進行など、いろんな要因が想定できますが、どうなのでしょう。もう一度、こたつを出してみようということには、なりそうもありません。

 この「こたつ」について、もう一つ付け加えさせてください。桂枝雀の「宿替え」(『桂枝雀落語大全』第六集)には、転居先へ運ぶ家財を大風呂敷でつつむという場面があって、次のとおり語られるのです(昭和59年3月5日口演)。

 「 ……まずやぐらこたつのやぐらやぐら。ネーッこたつてなものは寒い時

  分には厄介にならないかんねん。暑い時にはなんじゃ邪魔になるようなけ

  れども、あーた、寒い時分には厄介にならにゃいかんねん。やぐらこたつ

  のやぐら、やぐら。それをこっち持ってこい。……」

 枝雀さんの口調を思い浮かべることができたらいいのですが、文章だけではちっとも面白くありませんね。当時、といってもいつの時代か分かりませんが、大風呂敷に包む家財一式のなかで「やぐらこたつ」が一番大きいのです。「暑い時には邪魔になる」けれど「寒い時には厄介になる」、そのとおりですが、今や、そんなこたつの感覚も共有できない世界になってしまいそうです。

  冬の夕景 [2019.1.9撮影/喜瀬川の橋上から]

  冬のバラ [2019.1.9撮影/播磨町役場傍の公園]

 

🔹「欲望」のもたらす両義性と危機の時代に向けて

 「こたつ」のこともそうですが、気づかないまま、いつの間にか失われたり、変化したりしている事柄は無数といっていいほどにあっても気づかないままのことばかりなのでしょう。そして、そうした変化の生じている現実を、社会を、世界を、クリアーにみること、さらにいえば理解したいと欲していますが、そんな目、そんな視点を、そんな言葉を、私はもはや持つことはできないであろうと自覚しています。

 昨年の梅雨の時期に、ドイツの若き哲学者 マルクス・ガブリエル(1980-)が9日間日本に滞在しましたが、その姿と言葉をおったNHKTV『欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~』をみて、ブログで紹介しました(「静寂が叫んでいるようだーマルクス・ガブリエルの視線の先はー(1)(2・完)」)。それは彼(以下「M」と表記しましょう)の言葉、視線というものに、分からないまでも私を触発するところがあったからにほかなりません。

 だから、昨年の暮れに放送された『欲望の哲学史 序章~マルクス・ガブエル、日本で語る~』(NHKBS1/2018年12月27日放送)を、年初の『欲望の資本主義2019~偽りの個人主義を越えて~』(NHKBS1/2019年1月3日放送)とともに録画しておいたのですが、先週、ようやく再生することができました。その結果、Mが番組の主なポイントに登場する後者はまだしも、Mがほぼ一人語りする前者は、哲学の基礎がないためもあってか正直なところチンプンカンプンだったのです。

 これで諦めきることもできず、これも昨年末に手に入れていた新書(『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』(2018年12月刊/NHK出版新書))を読んでみることにしました。この本の著者名は「丸山俊一+NHK「欲望の時代の哲学」制作班」で、丸山はNHKの「欲望」シリーズ?の担当プロデューサーだそうです。コアな部分は3章立てで、この部分にはMの言葉がほぼそのまま翻訳されていて、犠呂郎鯒7月の番組、蕎呂郎鯒暮れの番組、珪呂昨年7月の番組では短く編集されていたロボット工学の権威である石黒浩阪大教授との対話部分の詳細が、それぞれ文章化されています。そして、このコア部分の3章を、序章の導入と終章の帰結部分がサンドウィッチする形でになっていて、序章と終章は丸山が執筆したとクレジットされています。

 この新書の蕎呂諒が、取りつくしまのなかった昨年暮れのテレビ番組よりも、分かったとはいえないけれども少しは取りつくことができたという感じだったのです。もちろん本の方は行きつ戻りつが容易だからでもありますが、今回は、この蕎呂鬟瓮ぅ鵑砲靴董Mの言葉、Mの視点をレポートすることとします。

  『欲望の哲学史 序章〜マルクス・ガブリエル、日本で語る〜』(2018.12.27放送/NHKBS1)

   のタイトル画面

  『欲望の資本主義2019〜偽りの個人主義を越えて〜』(2019.1.3放送/NHKBS1)タイトル画面

  『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』丸山俊一+NHK「欲望の時代の哲学」制作班

      (2018年12月刊/NHK出版新書)   表紙カバー[表]

  同上 表紙カバー[裏]

 先ほど「NHKの「欲望」シリーズ?」などと勝手に書きましたが、「欲望の時代」「欲望の哲学史」「欲望の資本主義」(2019版は第3弾であり、過去の2年は『欲望の資本主義2017~ルールが変わる時~』『欲望の資本主義2018~闇の力が目覚める時~』のタイトルで放送)、それにしてもこの「欲望」というタイトルにはどのような経緯や意味があるのでしょうか。現代の社会や資本主義の世界をみるキーワードとして、つまり時代のエートスをあらわす言葉として、NHK自身がその判断によって使ったのか、Mを含め誰かが使っているのを使ったのか、それとも私が知らないだけで現代の精神分析、哲学という分野でオーソドキシーとして用いられているのか、番組を詳細に見ることができたら説明のナレートがあったのかもしれませんが、明確なことは分からないままです。

 ここでは、新書の終章で、丸山が書いていることを手がかりとして理解しておこうと思っています。

 「人間には、「欲求」のみならず、「欲望」がある」ことが出発点です。「欲求」とは、たとえば「じりじりと日が照る砂漠を長時間歩いた果てに一杯の水を飲み干す衝動」であり、動物である人間にも当てはまります。だが、「現代を生きる多くの人間は、そうしたシンプルな「欲求」だけでは生きられない」のも事実で、生きることに必要な本能を越えた「欲望」という厄介な感情を抱えているというわけです。とりわけ現代社会にあっては、「スマートフォンを使っているというより使われていると言われても仕方がない時代に生きている」といわれるように、われわれは「欲望」をコントロールしにくく、「欲望」が「欲望」を生むような過剰で肥大化した時代に生きており、それは現代の社会、世界のありようと切り離すことはできません。

 そして、このことは人間を破壊する方向へ導く可能性を有する危機の時代ではないのか、というのが丸山の時代認識なのだ(Mの問題意識でもあります)といえるでしょう。いわば、だからこそ、この「欲望」シリーズ?を制作し、世に問い続けていることになります。

 繰りかえすことになりますが、人間の「欲望」について、丸山は、次の説明を加えています。

 「 それは、ある意味「本能が機能不全」になった時に生まれる、「錯誤」

  を伴う過剰なる感情だ。「欲望」は時に自らの生存にマイナスに働くこと

  にも作動する。残念ながら現代社会に蔓延する様々な中毒症状が、その存

  在を証明している。「わかっちゃいるけれどやめられない」「自分で自分

  がわからない」、そうした衝動にまでつながりかねない不安定なもので

  る。そして、その時代の社会のあり方、文化コードと深くつながって

  いる。」

 そして、もっと巨視的な観点から、「欲望」なくして生まれなかった「文明」「文化」のもつ二面性について、次のとおり記しています。

 「 それにしても「文明」「文化」とは、何とも両義的なものだ。素晴らし

  い成果、人間を人間たらしめる輝かしい達成でありつつ、同時に人間を破

  壊する可能性も内包する。本能を越えた「文明」「文化」を持つことは、

  時に善悪の彼岸を越えていくのだ。」

 ですから、丸山は、この両義的な存在である「欲望」に着目し、現代世界を描く番組制作のタイトルとして、「欲望」という言葉を冠にしたのであろうと、理解しておきたいのです。

 

 このブログでは、先に記したように、新書の蕎蓮哲学は時代との格闘だーガブリエルの「戦後哲学史」講座」のエッセンスを整理してみようとしているのですが、Mは同時代を生きる者へ呼びかける言葉の前に、次のような現代世界への問題意識を再確認しています。

 「 僕らは今深い危機の時代の中にいる。民主主義、気候変動、中東の破滅

  の可能性などの危機だ。危機の時代なんだ。危機の時代に何が起こるかと

  言うと、新しい観念が必要になってくる。われわれは、今何が起こってい

  るかを理解する必要が大いにある。」

 NHK制作チームも、丸山も、この部分は共有しているようですし、もとより私もそう感じているということです。ですから、私自身はいろんな限界から難しいというのは申し上げるまでもありませんが、それでも引用したMの「今何が起こっているのかを理解する」ためにMの思考と言葉の助けを借りたいと願っています。

 さらにいえば、いささか大仰ですが、実感や現実から引き離されるような装置に取りかこまれている現在に存在しているからこそ、私たち一人一人が「今何が起こっているのかを理解する必要が大いにある」のだと考えておきたいのです。

 

🔹M流の「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」(その1)

 さて、ここから新書の内容、その蕎呂鬟螢檗璽箸靴茲Δ箸靴討い泙垢、再読、再々読してみても、やはり筋道が十分に見えてこないのです。Mの「新実在論」と呼ばれる哲学の言葉と、現代世界で生じている事柄への哲学的な言葉とのつながりがみえてこないのです。それでもレポートするのは、反復になりますが、後者に向けたMの言葉に反応し、一定の共鳴する部分があるということにほかなりません。

 序章において、丸山は蕎呂砲弔い銅,里箸り説明しています。

 「 あえて、ヨーロッパの現代史と哲学の流れを講座番組風に解説しても

  らった(㊟欲望の哲学史 序章~マルクス・ガブリエル、日本で語る~のこと)。第二

  次世界大戦という凄惨な歴史の事実を受け止め、戦後、哲学は新たなス

  タートをきった。そこに生まれた、実存主義、構造主義、そしてポスト構

  造主義。これらの流れを概観すれば、けっして哲学がインテリの高等な言

  葉遊びなどではなく、時代との、社会との格闘の中で磨かれ、紡ぎ出され

  た思考の装置であることを実感してもらうことができるだろう。

   その上で、いかにも彼らしい、「世界史」を語りながら、それへの懐疑

  もまた見えてくる、という逆説的な展開となっている。」

 

 NHK401スタジオにスケートボードで乗り込んだ哲学者Mは、「最も深刻で今大事な問題は、事実とその表現、つまりそうした事実とイメージとの落差にまつわるものだ」から語りはじめ、この最も哲学的な問い(「認識論」と呼ばれる、知の論理のことでもある)に応えないと、「哲学自体が現実離れしてしまう」とします。そして、こうした「そもそも根本にある認識に関わる問いは、現代の社会、今日の人生に関わるすべての問いと根本的に関連している」とし、だから、「哲学は、とりわけ、僕らの時代により重要な役割を果たすと言えるだろう」と、哲学の重要性を確認するところから、スタートしています。

 この蕎呂離肇奪廖1 すべては哲学から生まれた」とタイトルされた項から、次の文章を引用しておきましょう。 

 「 情報時代、コンピューター時代、そしして僕らを悩ませる根本的な問い

  の多くが、実は根本的なところまで遡れば、哲学の問題だ。たとえば「政

  治」や「民主主義」といった用語も、元はと言えば哲学的な表現だったこ

  とを忘れないでね。現実に実行された、哲学的な考えなのだ。もちろんマ

  ルクス主義や資本主義も同じだ。すべて哲学的な考えだ。つまり、あなた

  にとって最も大事である人類の基本的な構造の多くが、哲学によって生み

  出されたのだ。」

 けれども、付随する多くの問題、その多くが間違っていることがしばしばであるから、「よりよくものごとを理解するために、僕らは現実に対する哲学的な概念をアップデートしなければならない」と続きます。こうしてMは、哲学者であるMの立場、すなわち「哲学的な概念をアップデート」することに挑もうとする本人の立ち位置を明示しているのです。

 以下、断片になりますが、Mの語った言葉から、私が反応できた箇所をピックアップして紹介します。

◍戦後哲学の3潮流とその限界

 哲学をアップデートするために、Mはまず戦後の哲学と、「重要なイベントの連鎖」と思われている「歴史」とのつながりを語ります(蕎呂痢2 現代哲学を振り返る」とタイトルされた項)。この「歴史」とは多くの悲惨な現実を生んだ第二次世界大戦であり、現代哲学において「知的な思考を刺激する一つの大きな場面」となりました。

 Mは、戦後すぐの「実存主義」、60年代の「構造主義」、そして70年代以降の「ポスト構造主義」という3つの潮流を、それぞれ「素晴らしい考え方」であると評価しつつ、同時に「間違っている」「問題もある」ということを語っています。Mとしては、みずからの「新実在論」を説明する前提としてだけでなく、現代世界の現実を語る哲学的な言葉のためにも、戦後の哲学を批判的にふり返ったのでしょう。

 

 まず「実存主義」は、「自分の人生以外に、自分の人生に意味を与えるものは何一つない」との言葉に集約でき、「実存は本質に先立つ」というスローガンにまとめることができると、Mは説明しています。すべての意味が破壊されたような第二次世界大戦の直後、多くの人びとが「神は二十世紀の恐怖とつじつまが合わない」、「自分の人生において、自分が唯一の意味の源だ」と考えたというわけです。

 「同時に問題もある」とMが説明しているのは、「人間的な活動において、哲学者が言う「主体」という根本的な概念が中心にあると考えていた」という点であり、「実存主義の場合、それは自分が自分の人生に与える構造だ」ということになるのです。

 

 この「自分が自分の人生に与える構造」が「外部の要素による結果」なんだと「実存主義」を批判して登場したのが、「構造主義」です。「構造主義」は、「自分の「主観性」、つまり自分の自分に対する感じ方は、構造のネットワークにおける一つの結節点、交わりの点のようなものだ」とし、「様々な要素(㊟家族、育った場所、記憶、経験した言説、文化的な価値観など)からできあがった構造が、人生に意味を与える、それが構造主義において基本的な考え方」なのだと、Mは説明しています。

 かくして1960年代に、ヨーロッパを中心に、「実存主義」に取って代わった「構造主義」ですが、60年代の終わりの別の破綻、つまり「二十世紀の恐怖の後で、社会を再構築するのが簡単だという考えが破綻した」という時期に直面するという問題が浮上したのです。戦前から戦後にかけての構造をそのまま引きずってきた歴史の流れを変えようとする動きは、ヨーロッパの学生運動となって表出しました。

 

 こうした時代状況に風穴を開けるように出現したのが、「ポスト構造主義」の哲学です。Mは多くの観点から説明していますが、自分の言葉になりそうもありませんので、ここでは60年代後半から70年代後半のフランスにおいて、静止的な構造を前提とする構造主義に対し、言語に着目し「近代的な物語を解体して「脱構築」しようした」のが、デリダであったとするにとどめます。

 Mは、「事実とその表現」という最も大事な哲学的な問題とともに、重要な「時間」という問題を、「現在、というものは、常に存在しないに等しい」と説明したデリダの論点を「素晴らしく深い洞察」としつつも、結局、多くの問題を引き起こしてしまうと説明します。すなわちポスト構造主義のように「構造、時間と歴史の概念を壊してしま」うという考え方を推し進めると、「ある種の現実離れを起こしてしまうことになる」、つまり「現実は逃げてしまうのだ」、同じように「事実もまた逃げてつかまえることができない」という言葉で表現しています。

 この「ポスト構造主義」の現実離れについて、Mはまた、「僕らが今取り組まなければならない深刻な状況にも、影響を与えている」とし、「事実をもはや知ることはできないという影響だ。事実がおそらく存在しないからだ」とも表現しています。このことが現下の「ポスト真実」と呼ばれる時代状況の背後にあるというわけです。

 

 「ポスト構造主義はまた、いわゆるポストモダニズムの始まりに対応」しています。では、モダニズムの前提となっている考え方とは何であるのか、Mの文章を引用して確認しておきます。

 「 近代性、啓蒙主義、民主主義などのベースにあるのは、ものごとはより

  よくすることができるという考え方だ。人類の「進歩」、科学と技術の

  「進歩」といった、「進歩」を信じた考え方だ。僕らはこの「進歩」の現

  実に生きている。そうだよね。それゆえに、歴史、構造、さらに時間を必

  要とするのだ。」

 それこそ、東西冷戦が継続し深まるなか、冷戦が熱い戦争としてあらわれたベトナム戦争という現実があり、さらにこうした様相から核を用いた第三次世界大戦と人類絶滅に対する深刻なおそれを、地球上の多くの人びとがリアルに感じていました。こうした時代状況に対峙した、1960年代、70年代、そしておそらく80年代の哲学の精神について、Mは「みなが解放され自由になるために僕らは、根本的にそしておそらく永遠にどのように社会を変えられるのだろうか?」というものであったと説明しています(「3 哲学から見る戦後史」の最後の部分)。

 それが本来のポストモダニズムであったはずだが、これを換骨奪胎したネオリベラリズムが登場してきます。 

 

◍ポストモダニズムとネオリベラリズム

 現代の資本主義のベースにあるネオリベラリズム(新自由主義)は、80年代初頭に、60年代、70年代初期に対するリアクションとして、「地球上の政治指導者と社会システムが」、「新しい種類の経済体系を発展させはじめた」潮流のことだと、Mは説明しています(蕎呂痢4 ポストモダンとは何か」とタイトルされた項)。

 そして、ネオリベラリズムは、「哲学者に挑戦するよう見事な経済的な概念を思いついた」のであり、「「ポストモダニズム」の悪しき側面が、経済的に実行されたとも言える」とし、次の仕組みだと語っているのです。

 「 もし本当に社会領域が実際にイメージの投影を中心として組織されるの

  であれば、その投影のメカニズムを自分のものとし、それにつながってい

  る人にものを売るためにそれを利用することができる。コミュニティにお

  けるセルフイメージの構築をコントロールすることができれば、階級闘争

  を支配し、統制できる。」

 つまり、ネオリベラリズムは、「ポストモダニズムの基礎的な概念」を表層的に利用し、「イメージとセルフイメージの投影にすぎない」、「巨大な広告産業」、さらに「文化産業」へと変えてしまったのであり、その対象、とりもなおさず人間を、人類を、操りはじめたのです。

 このポストモダニズムの基礎的な概念について、Mは「僕らは現実を見ることができない、社会的現実などない、そして映像の外に現実もなく、ただ一つの鏡がもう一つの鏡の横にあるという概念だった」とし、この概念の体現者であるトランプをポストモダン的天才だと評価しつつ、「だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう」と、立場を明確にしています。

 

 先走りすぎました。サッチャーとレーガンに代表されるネオリベラリズムと呼ばれる「純粋資本主義のダークシステム」が完全に優位になるかのように思えたころ、「突然、かすかな希望の光」がみえましたと、Mは語ります。そう1989年のベルリンの壁崩壊、その結果、ソ連も崩壊をはじめ、ドイツの再統一の実現と、ヨーロッパを中心に大きな地殻変動が起こりました。それは「新たなる希望」の時であり、この希望がどのように、何から構成されていたのかについて、Mは、次のように説明しています。

 「 この新たなる希望とされたものを、「ポストモダニズム」と呼ぶことが

  できるだろう。この文脈において、ポストモダニズムが何を意味している

  のかを説明しよう。ポストモダニズムは、自由民主主義が全世界秩序を引

  き受ける、という概念だという言い方もできるのかもしれない。そして、

  自由民主主義が新しい理想の実現をもたらす、と。その背景の一つは、特

  に重大な変化はなくとも歴史の方向性が保たれるような永遠の平和だ。

  「ポストモダニズム」によるグローバルな世界秩序ーそれは完全に開放的

  であるがーは同時に、皮肉なものだった。」

 ヨーロッパから遠くにある日本においても、確かにそうした「希望」のような雰囲気を感じていた面はあったのかもしれません(「歴史の終わり」との表現もありました)。

 平成の30年に重なる同時代の現実は、制約を無効化しよう(「改革」「規制緩和」が大手をふっていました)とするネオリベラリズムが基調となって資本主義経済体制はグローバル化の度合いを高めていきました。そして、今多くの人びとが実感しているのは、希望への期待が裏切られ、「混迷、分断、亀裂」の世界が、私たちの前に広がっており、理想の実現からほど遠く途方にくれている状況だといえます。

 だから、前記の「だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう」と、Mは「僕がお勧めしたい現代哲学である「新実在論」」を伝導しようとしているです。現代世界の現実と批判的に対峙する哲学者 Mは、「哲学は時代との格闘だ」という蕎呂離織ぅ肇襪里箸り、自らの哲学的立場として「新実在論」に到達しているのだと申し上げることができるでしょう。

 

 次は私の理解を阻むような肝心の「新実在論」ですが、ここで一応前半として区切り、次稿では、「🔹M流「ヨーロッパ戦後史と哲学の流れ」(その2)」として「相対主義を越えてー「新実在論」へーから再開し、「「欲望」の時代に生きるということ」を考えてみたいと思っています。

                       【続く:(2・完)へ】

 

2019.01.04 Friday

新年の挨拶 2019

 明けましておめでとうございます。

 

 小さな指先からのびた糸の先に、風の弱いなかでも、凧は高く上がりました。元旦の昼前、播磨町の阿閇漁港に隣接した「あえのはま公園」。空高く浮かぶ凧を見上げて喜ぶ孫たちの姿に、こちらもうれしくなって、凧と雲ひとつない青空に思わず見入ってしまいました。こうしてただ遠くを見ていることが不思議に通じていると感じました。

 「遠くを見る眼というのは、いま、ここに在ることの感覚を鋭くします。眼を上げて、遠くを見る。わたしたちはそうやって遠くを見ることで、自分の場所、自分の位置を確かめようとしてきました」と、長田弘さんは『なつかしい時間』の「遠くを見る眼」(1999年12月放送)で語っています。遠くを見て思い知るのは「人間の本当の大きさ」であり、「人間の小ささの自覚」であろうとし、そのことが「人の慈しみを育ててきた」のだというのです。

 ひるがえって今日ではどうか、ケータイ(今はスマホ)、パソコン、テレビなど、目の先の画面を見据えて動かないことばかりで、「遠くを見ることがなくなった毎日」です。つまり今の時代は「近くを精密に見る眼が重んじられて」、「遠くを見る視力はかえって衰えてきているのではないか」、ひいては社会全般に「日々の視野を狭めて、目先にとらわれる性向を」ますます強めているのではないかと、20年前に長田は問うています。残念ながら、20年後の現在、その傾向はいよいよ支配的なものだといえるでしょう。

 そして、長田は「ひろびろと遠くを見わたす眼差しの大切さ」を、21世紀に向かって回復したいと訴えているのですが、いささか絶望的な気持ちになることをとどめることができません。

 

 私自身は、「眼を上げて、遠くを見る」ことを一度も自分の日常の習慣にできなかった者ですが、戸外で過ごす時間の長くなった今は、その大切さが、長田の言いたいことが少しはわかる気がします。「戸外へ出かけていって、風景をじっと見つめることを覚える。そうして、じぶんがこの世界の一部であることをまなんでいく」と、長田は「遠くを見る眼」の5年後の「風景という価値観」(2004年9月)で語っていますが、せめて戸外に連れ出したときに遠くを見ることを孫たちにも促してみようと、凧の向こうに手の届くことのない青空を見つめ、ちょっと自分だけに約束したのです。

 ㊟『なつかしい時間』:著者の長田弘(1939-2015)がNHKテレビの「視点・論点」で17年に

                          わたって語った元原稿集(1995年8月〜2012年7月)[2013年2月刊/岩波新書]

  凧よ高く上がれ  [2019.1.1撮影/あえのはま公園]

 同じ2004年の5月に放送された「なくてはならない場所」で、長田は新しい情報技術というものが、なくてはならない場所という考え方、感じ方をなくす方向ですすんでいることを鋭く警告し、自分の詩(「わたし(たち)にとって大切なもの」)の最後のところを引用して、一人一人の「私」にとっての大切なものはとは何だろうかと問いかけています。

 「 なくてはならないもの。/何でもないもの。なにげないもの。/ささやか

   なもの。なくしたくないもの。/ひと知れぬもの。いまはないもの。/

   さりげないもの。ありふれたもの。

   もっとも平凡なもの。/平凡であることを恐れてはいけない。/わたし(た

   ち)の名誉は、平凡な時代の名誉だ。/明日の朝、ラッパは鳴らない。/

   深呼吸しろ。一日がまた、静かにはじまる。」 ㊟本来は行替えの詩です。

 この部分を読んでいて、長田の意図とはちがうかもしれませんが、私は平和と戦争のことを強く意識しました。このような「なにげなく、ささやかで、さりげない」「平凡なもの」、それでいて「なくてはならないないもの」が、なに食わぬ顔の甘い言葉で浸食され、ある日突然、力ずくで排されることを繰りかえし、平和は脅かされ、戦争が準備されていくという感覚をもっています。

 昨年亡くなった高畑勲さん(1935-2018)は、2015年6月の岡山市での講演で(その講演記録が『戦争を欲しないならば』2015年12月刊/岩波ブックレット)、第二次世界大戦前・下の日本と現下の転換期にある日本をまっすぐに結びつけて語りかけています。つまり第二次大戦はわが国の「ずるずる体質」と「責任を取らない体質」が原爆投下・ソ連の参戦という最悪の事態をまねき入れ「驚くべき戦禍」を国民に残して終わりました。現在の日本にも同じ体質が続いていて(体質改善が必要だがなかなか上手くいかない)、条件が整えば「抜き差しならないところへずるずる行ってしまう気がするんです」と語っています。「だから日本には絶対的な歯止めが必要なんです。絶対的な歯止めは何か。もちろん、憲法9条しかありません」との論旨を展開しているのです。

 この講演のなかで、「私も、あなたも、そうなる恐ろしさ」の例として、「ぞうさん」などの童謡で有名なまどみちおさんのことを取り上げています。まどさんは戦後50年を経て刊行された全詩集に、戦中台湾に在住していた頃に自分の書いた戦争協力詩を収録し、あとがきに「私のインチキぶりを世にさらすことで私を恕していただこうと考えました」と書いたのです。まどさんの戦争詩は当局から圧力がかかったのではなく、自らすすんで書いたのだと、高畑はこれが恐ろしいことなんだ、自分と聴衆に語りかけています。ちょっと長い引用になりますが、お目通し願います。

 「 まどさんは朝日新聞の記者に、「私は臆病な人間です。また戦争が起

  こったら、同じ失敗を繰り返す気がします。決して大きなことなど言え

  ぬ、弱い人間なんだという目で、自分をいつも見ていたい」と語っていま

  す。

   この会場にいるほとんどの方も、私も、いったん戦争が始まってしまっ

  たならば、「始めた以上は勝たなくてはならんだろう」と言って、おそら

  く政府の戦争に協力するようになるんです。そういう人が圧倒的多数とな

  るのではないかという、この恐ろしさ……。戦争や政治の方向性が間違っ

  ていようが何だろうが、そんなことは関係なくなるのです。」

 おそらくこの認識は正しいのだと考えます。ですから、このことを、臆病な一人の人間として、臆病な人間の一人だからこそ、心に刻んでおく必要があります。始まったら終わりの弱い人間は予防するしかありません。

 <成長幻想>の負のスパイラルから逃げられないような時代にあっても、「わたし(たち)の名誉は、平凡な時代の名誉だ」ということを噛みしめつつ、かつ「なくてはならない場所」を見失うことなく、静かにはじまる「一日」「一日」を、きちんとおくることが何よりも大切なのでしょう。かくありたいと、年の初めにあたり、私は思っています。 

 

 こんな一日一日をどう過ごすかということにも関連しますが、「ふり返るには早すぎるし/前を向くには遅すぎるような……」、続けて「まあ日々の事を着実にこなすことが大切かなと思っています」、こんな言葉が年賀状に記されていました。おことわりもせずに勝手に引用させてもらっていますが、同学年で還暦を過ぎて出会った方から届いたその文章に深くうなづく自分がいました。

 人事を尽くすということが、超能力、人間にできる範囲をこえて出来るようにすることだという思い込みが現下のさまざまな問題を招いているのではないかと、長田は「海を見に行く」(2012年7月放送)のなかで語っています。そして、次の言葉で結んでいます。

 「 けれども、人の芯となるものは、いつだろうと「人間のできる範囲のこ

      と」をきちんとやってきたか、やっているかという不断の自問です。自問

  こそじぶんを開いてゆくものと考えたい。人にできることはそれ以上では

  ないのだと、海を見にゆき、海を前にすると、いつもそう思います。」

 胸にズシンと響きます。

  阿閇漁港の青空と海と   [2019.1.1撮影/阿閇漁港]

 最後に、長田は「風景が主人公」(2008年1月放送)のなかで自分の詩(「アメイジング・ツリー」)を朗読していますが、その最後の5行を再引用します。

 「 この世で、人はほんの短い時間を、/土の上で過ごすだけのことにすぎな

  い。/仕事をして、愛して、眠って、/ひょいと、ある日、姿消すのだ。/

  人は、おおきな樹のなかに。」

 これは、長田が原初的なまなざしをもって世界を見ることから発した世界の「風景」です。現代というクローズアップの時代以前の視覚を、すなわち原初的なまなざしというものを取り戻していくことが大切なんだと、長田は言いたいようなのです。

 もはや大それた思いはありませんが、少しは「遠くを見る眼」をもち、平和を倦む心がまねく戦争の足音を拒み、「静かな一日」をきちんとおくっているかと自問し、たまには「海を見に行」ったりもする、そして歩く人でいたいと、そんな思いがつのってきました。それこそが大それたことなんだよと言われれば、そのとおりかもしれませんが、涯のない正月の青空に向かい、そうでありたいと強く願っています。

 

 新しい年が皆様にとって穏やかで健やかな年でありますように。

 本年もよろしくお願いします。

 

2018.12.31 Monday

大みそかにー山田稔『こないだ』のことなどー

 大みそか、猫の手も借りたいと忙しくされている人たちの姿が報じられています。でも、こうしてパソコンの前に座っています。もっと片づけることがあるでしょうとの声もありますが、いいのかな、まあいいのでしょう。

 

 少ないとはいえ、年賀状は続けています。年賀状をやりとりしている人のなかで、この1年間に直接顔を合わせた方の数は限られています。では、一番長く顔を合わせていないのは誰なのかと、ふと気になって振りかえってみたら、予備校の寮で同室であった方のような気がします。東北の大学であった彼とは、今まで50年間、一度も会えないままです。東京だと出張時に会う可能性もあったのですが、彼の住所が栃木県だったことも影響したのかなと思います。

 

 今回の年賀状では、「「こないだ」と記憶していることが、40、50年前のことだったりする日常です」との添書きを多くの方に書きました。「日常」を「日乗」としたかったのですが、意味の不明瞭と格好のつけすぎだと思い「日常」を使いました。

 これは山田稔さんの『こないだ』(2018年6月刊/編集工房ノア)という本の書名にくすぐられたからです(「11月の過ごし方ー上から数えた方がー」)。1930年生まれの山田が「「こないだはどうも」と言って語らい笑いあった仲間たちは、みんなどこへ行ったのか。……」と、さまざな<むかし>をよびおこすようなエッセー集です(古くは1986年の発表から、最新は2018年のものまで)。

  山田稔著『こないだ』 2018年6月刊/編集工房ノア

 この本から、先日の高校駅伝のための京都行とも関連する二篇だけをスケッチしておきたいのです。   

 ひとつは、「樹と猫と」とのタイトルで1992年に発表されています。<樹>と<猫>の話は別々なのですが、いずれも傷ついた、あるいは傷つけられた樹と猫の快癒力、生命力に、「私」が心を動かされるという点で共通しています。実際は量的にも「猫」がメインで「樹」の方がサブ、いわば「樹」はこの一篇の前置きなのでしょうが、ここでは「樹」の方だけをスケッチします。

 『こないだ』を読んでいた私は、銀閣寺交差点の近くで高校駅伝の男子の部が通り過ぎるを見届けてから、出町柳の方へ自転車で向かう途中、その「樹」を訪ねました。京大の正門を入ってまっすぐの盛り土の上にそびえる楠の樹のことなのですが、私の感覚では山田が「楠の大木」と書いているほど大樹ではありませんでした。山田の文章から20数年、傷つけられてから50年の時を経ていますが、やはり同じ楠であるにちがいないでしょう。

 この「楠の大木」を、「いわゆる学園紛争の最中に大学のキャンパスを占拠していた学生の一部」が鋸で切り倒そうとしたことがあったけれど、途中で放棄したため、木は枯れずに残ったのだと、山田は書いています。しぱらく「その傷のところにはぐるっと藁が巻かれてあった」とあります。それは「包帯されている」ようで痛ましく、山田にしてはめずらしく「木を自分と同じ生きものだとこれほど痛切に感じたことはない」と、いささかセンチメントな言葉遣いをしています。

 そして、山田は、鋸でできた樹の傷跡を、「よく私はすこし回り道をして」見に行ったとあります。そんなこともあって、この楠は「樹木について考えようとすると、すぐに胸にうかんでくる一本の木」となっていました。もう大丈夫と思い、しばらく足を運べていなかったが、「夏が過ぎ、暑さがやっと弱まった今年(1992年)のある朝」、楠の幹に近づき、傷跡を確認しようとします。それらしきものはもはや確認できなかったが、ようやく「とぎれとぎれに横に樹皮がひび割れている箇所」、つまり「傷の名残り」をかろうじてみつけたのです。

 学生の鋸による傷跡のことは「私の妄想ではなかったのか」と山田は自問するのですが、次の文章でエッセーの前半をしめくくっています。

 「 いや、妄想などではない。そう否定するとき私の胸のうちに傷跡が鮮明

      さをましてよみがえってくる。現実には消えているぶんだけ、いっそう

  くっきりとよみがえってくる。その感覚を何時までも失いたくない。」

 

 既視であった楠についての文章であり、私にはそれが影響したにちがいありません。でも、この樹に関わる山田には、私の読んできた山田に比べ、どこか違和感というか、いつもの平静さを忘れて感情のマグマのようなものが感じられ、どうしたのだろうかとなったのです。

 この「傷跡」は楠の幹を鋸で引いてできたものですが、樹の傷だけのことでしょうか、どう思われますか。「その感覚を何時までも失いたくない」とは、どのような意味なのでしょうか。こんな下手な要約を読まされただけでは何ともいいようがないというのが反応であろうと推察しますが、私はそれだけではないのだと、今は考えています。

 当時、山田は40歳前後で京大の助教授でしたが、<いわゆる学園紛争>はその当事者はもとより同時代を生きた学生や教員(積極的にコミットしない者を含めて)にも心の奥底にさまざまなかたちの「傷跡」を残しました。だからこの「傷跡」とは山田自身のものであり、それだけでなく多くの学生や教員に刻まれた「傷跡」のことではないかと、私は思うのです。そして、「傷跡」とは受け身の「傷つけられた」だけでなく、むしろ「傷つけた」という感覚の反射としての「傷跡」もあるのではないでしょうか。

 20年の時をへて、その「傷跡」がなくなった、あるいはなかったかのようにふるまう風潮に、「傷跡」を失ってはならないのではないかと問いかけ、山田自身は「失いたくない」と自答しているように私は感じています。山田の真意、本当のところは分からないのですが、私自身はそう読むことで、学生として、同じ時代を、同じ場所で生きていた者として、この文章に心を動かされたのです。

 でも、私は、盛り土に上がって楠の「傷跡」を探そうとはしませんでした。

  山田の「楠の大木」の全景  [2018.12.23撮影/京大時計台前]

  同上の部分

 もうひとつは「立ち話」と題されており、1997年の『追悼 土倉九三』という追悼文集に寄稿されたものです。

 土倉九三さんは、山田が中心となって37年間も続いたという「日本の小説を読む会」の会報の印刷を担当した新実印刷(現土倉事務所)の主人です。このエッセーには、会報の印刷のたびに土倉さんと交わした「立ち話」のこと、そして土倉さんの人物像がいとおしむように描かれていて、私に深い余韻を残しました。

 「日本の小説を読む会」のことを説明しなければいけませんが、簡単にしておきましょう。山田や多田道太郎が中心となって10数人の同人で1958年からはじまった読書会で、8月を除く毎月1回のペースで例会を行い、「およそ37年間」続いたとあります。この例会記録としての会報は400号まで続きましたが、土倉さんの新実印刷は135号から最後の400号まで担当したとのことです。1996年4月に最後の例会が開かれましたが、その2か月後の6月、膵臓癌を患っていた土倉九三さんは「75歳でこの世を去る」とあります(山田稔著『日本の小説を読む会』2011年11月刊/編集グループSURE)。

 

 以上を予備知識としてスケッチします。

 現土倉事務所は、高校駅伝の女子の部を観戦した烏丸紫明の交差点から、ほんの少し北へ烏丸通を上った東の路地に所在していました。外部からは民家そのものであり、どこが事務所なのとなりましたが、1階の一部が事務所になっているように見えました。郵便受けには、「(株)土倉事務所」の下に「日本霊長類学会」などのピッグネームの学会がずらっと印字されてあって、エッセーにもあるとおり今でも「学術論文の印刷」などを担当されているようでした。

 土倉さんは戦前、戦後に京大の探検隊や学術調査隊にも加わった人で、「気性がはげしく、酔って腹を立てると人をぶんなぐったりする」とのうわさがあったとあります。会報の編集人として「毎月会わねばならぬ私は最初のうち緊張した」けれど、「だがさいわい印刷屋主人としての土倉氏は礼儀正しい紳士であった」とあります。ここが肝心ですが、「その一方、かなり個性的な、つまり変わった人物でもあるらしく」、毎月会う回数を重ねるうちに、山田は「この人に親近感をおぼえるようになった」と記しています。

 毎月20日すぎに準備を整え、土倉事務所に電話すると、「すぐにうかがいます」と土倉さんは車ですぐの下鴨北の山田宅へやってきます。そして原稿を手渡すのですが、「私はいつも門を開けてから手渡した。それからちょっとの間立ち話をした。それが二十数年つづいた」とあります。毎回、立ち話の終わったあとの土倉さんを、山田は自らの心の動きとともに、次のように描写しています。長いですが、引用します。

 「 ときにはパイプ片手にひとしきりしゃべりおわると、土倉さんは急に黙

  りこみ、もっと言いたいのを我慢しているような表情で目を伏せ、「ほ

  な、いただいて行きます」と言って急いで帰って行くのだった。ひととき

  の饒舌と辛辣を悔い、照れくささに内心ちぇっと舌打ちする。そんな気持

  がすこし赤らんだ顔にあらわれていて、それは私の共犯者的なうしろめた

  さと重なり、しばらく私を落ち着かなくさせた。」

 

 「何時までつづけられますの」と土倉さんから何度か訊ねられて、山田は「土倉さんが生きているかぎり」とか「5百号まで」と応じていましたが、5百号(計算上は2005年頃になる)という具体的な数字を聞いた土倉さんは「一瞬、怯えたように目をむき、ついで私の顔を見てわっはっはっと笑いだした」とあります。その後、土倉さんは病気になり、山田は山田で「日本の小説を読む会」も5百号は無理で4百号で終わりとすることになったと伝えたとき、「それまではお世話させていただきます」と安心したような表情を、土倉さんは浮かべたのです。

 その最終号である4百号、病気が再発し入院中の土倉さんに寄稿を依頼したところ、病院のベッドで書かれた文章の最後には、次の一文がありました。

 「 別れのときはさけられないが、これで山田さんと定期的にお会いする名

  分がなくなるのだと思うと、たまらなく淋しい。」

 それからほどなくして土倉さんは亡くなられたのです。

 

 まずいスケッチですが、これだけのエッセーです。でも、二人の交友は、なんともいえず味わい深く、私に迫ってきました。最後の文章など土倉さんから山田へのラブレターでもあります。もとより土倉さんと山田の性格はちがうのでしょうが、心底に辛辣さをひそめる者同士というのか、この毎月1回の「立ち話」を二人ともどれだけ大切に思っていたのかがあらわれています。

 同時にまた、山田が「日本の小説を読む会」をどれだけ大切にしていたのかが痛いほどわかります。会報400号の編集後記にも「会報をこしらえて下さった土倉事務所、二次会場の赤垣屋の皆さん、ながらくお世話になりました」と、山田は記しています。

 どこがおもしろいのと言われそうですが、山田の文章の力もあって、当時の山田とほぼ同年齢の私には格別の一篇となりました。鶴見俊輔が山田稔の文章を評し、「山田稔の文章にはピッチャーが速球を投げて、ストライク!という感じがない」と語ったそうですが、愉快ですね。そうかもしれません。

  現在の(株)土倉事務所  [2018.12.23撮影/京都市北区小山]

  同上の「郵便受け」

 いい加減にしてとの声も聞こえてきそうです。今年の最後に、長田弘のエッセー(岩波新書『なつかしい時間』の「「退屈」の研究」)から、今の私の心境近い文章を引用することにします。

 「疲労や倦怠や諦めに閉ざされてしまうような人生の時間を、「静かな悦び」や「朗かさ」に変えることができたのが、伝説の寒山拾得」であり、「退屈をすっかり怖れるようになった現代にいなくなったのは、寒山拾得のような人たち」だとし、このエッセーの最後に次の文章がおかれています。

 「 話を最初に戻せば、人生のかたちを決めるのは、人生の「退屈」とどう

  付き合うかではないでしょうか。そして今は「退屈」を、ゆっくりした時

  間、ゆったりした時間としてすすんで捉えかえすべきときではないでしょ

  うか。いつも心の風景のなかに、寒山拾得の笑顔を思いだすようにした

  い、たとえ適わぬ生き方であってもです。」

 心からそうありたいと願っています。

 

 それでは、迷いの多かった一年ではありましたが、毎年のあいさつでしめくくることにします。

 ごくごく気軽に「よいお年を」と口にすることが公私ともはばかられるような切実さがなきにしもあらずではあります。でも、だからこその「よしお年を」のあいさつを皆さまへおくります。

 

2018.12.26 Wednesday

3年ぶりの高校駅伝ー京都からフィレンツェへ<時代区分と、ルネサンスと>ー

 昨日(23日)、3年ぶりに全国高校駅伝のために京都へ出かけてきました。本稿では、そのミニレポートとともに、中途で終わったかたちの前稿(「「時代区分」と、「中世」「ルネサンス」の歴史的関係ージャック・ル=ゴフ『時代区分は本当に必要か?』ー」)を綴っていて感じたことを書きとめてみます。

 

 今回は、京阪出町柳駅を起点にしました。私たち二人の体力低下と増えすぎた観光客が心配材料となり、無理のない範囲で自転車を利用するためでした。京都駅からは地下鉄を乗り継ぎ、京阪三条から2駅目の出町柳駅で下りて、レンタサイクルを借りたのです。

 烏丸紫明通をめざし、河合橋から出町橋を渡ろうとすると、京都はこれというイメージとして染みついている風景が広がっていました。陽ざしがあって手袋がなくてもいい師走のまちです。当たり前のことが当たり前にあることのありがたさを思ったりして、年寄りくさいなと苦笑いです。

  出町橋上からの賀茂川、そして北山の風景

 今年の全国高校駅伝には、兵庫県から女子は須磨学園、男子は西脇工業が出場しました。兵庫県勢を応援するために京都まで出かけているわけでもありませんが、それでも地元は地元です。頑張ってくれたらいいなあという気持ちはもちろんあります。

 10時20分スタートの女子の部は、烏丸紫明の交差点でみました。もう少し紫明通を西へ入ったところを思ったのですが、すでに交通規制が引かれていました。南へちょっと先の鞍馬口に2区から3区への中継点があって、出場チームの関係者やファンの方が多く集まっているところです。ちょうど2区の選手たちは紫明通から烏丸通へ90度曲がって走っていきました。地区予選で全国1番のタイムで走り優勝候補である須磨学園はなかなかやってきてくれません。

 中州となっている部分に立っていた私たち二人を含む観戦者集団は、車の通らない道路の方へじりじりと踏み出していました。そして、全出場校58校が通り過ぎるまで、かつての毎日新聞の応援旗が配られなくなった今、声と拍手で応援しつづけるのです。

 2区から3区へ中継し、折り返し点でこちらへ戻ってくるのを待って、ぞろぞろと移動します。紫明通へ入ったところで待ちました。須磨学園がやってきましたが、10校以上が先行した後でした。どこまで追い上げることができるのか、写真を撮っている私は応援しにくいので、家人に一声かけてやってと頼みました。到着から、3区の全選手が通り過ぎるまで30分くらいのことなのです。レースの流れなどテレビに比べて全くわからないといっていいのに、現場には現場の面白さがあるというしかありません。

 最終的に、須磨学園は5位まで順位を押し上げましたが、予選のタイムを少しですが下回ることになったのは残念でした。優勝は予選のタイムより40秒以上縮めた鹿児島の神村学園でした。技能実習生問題ではありませんが、須磨学園より上位の4校のうち3校に外国人留学生がいてその力が好結果につながったといえるでしょう。でも、それはレースだけでなく、普段の練習から、速い選手といっしょに走ることによる好影響もあると言われています。

 本稿では、須磨学園と西脇工業の選手の写真だけをアップしておきます。

  全国高校駅伝女子の部2区:須磨学園の樽本つかさ選手 [2018.12.23/烏丸紫明交差点]  

  同上3区:須磨学園の荒井優奈選手 [紫明通]

 12時30分スタートの男子の部は、いつもの寺町丸太町ではなく、平行移動ですむ百万遍交差点あたりでみることにしました。昼食後、コーヒーでもと自転車を押しながら、百万遍交差点から、今出川通を銀閣寺の方へ向かいましたが、適当な店が見当たりません。昔々喫茶店があったと記憶しているところにもなく、ランチやケーキ中心のカフェと呼ぶのでしょうか、そんな店ばかりが並んでいます。コーヒーだけ飲むような店では生き残れないのかなと、改めて時の流れを感じました。

 そうこうしていると、銀閣寺交差点の近くまでやってきてしまい、私は古書店「善行堂」、家人はカフェで時間調整をしたのです。それこそ50年前にこの近くに下宿していた私は、友人Tに通りと疎水に挟まれた隙間にあった「文楽」という居酒屋に連れていってもらったなあとあたりを見回したりしましたが、もとより痕跡すらありません。

 今年の西脇工業は苦戦が予想されていたとはいえ、地区予選のタイムは全国で9番目とそれなりのものでした。このあたりは3区の途中でこれから白川通を上っていくところ、そして国際会館前を折り返し、4区に中継して、白川通から今出川通へ右折してすぐのところに位置します。やはり厳しいもので、西脇工業の選手はなかなかやってきてくれませんでした。といっても10位を少しこえたくらいでしたので十分上位なのですが、かつての先頭争いでやってくる西脇工業の記憶が離れない私には、物足りないのです。

 

 ここで高校駅伝の車列を確認しておきましょう。まず広報車というバンが先頭でやって来て、選手が来ることを告げ、2分くらい間があってから、自衛隊車の総務車、続くてパトカー、レース全体を先導する白バイが2台並んできて、しばらくしてNHKの中継車、選手を先導する白バイ、そしてトップの選手が一団となって通ります。そして、全参加校の選手たちが次々と走ってきますが、その間にも少数のパトカー、白バイが挟まれています。最後尾の選手、そのすぐ後ろに2台の白バイと救急車、ラストの大会関係者のバンと続いて、終わりとなります。4区あたりになると、先頭の広報車から、最後尾の救急車とバンまで、10数分ぐらいの時間距離ができています。

 4区の西脇工業の選手に向かって、家人は「がんばれ」と大きな声をあげています(「西脇工業」の最終成績は13位で健闘に値するものでした)。最後尾の「小豆島中央」が通り過ぎ、交通規制のため20分以上は留め置おれていた市バスやタクシーがいっせいに動きだして、やっと我にかえったのです。

  全国高校駅伝男子の部3区:西脇工業の酒井亮太選手 [今出川通銀閣寺交差点西入る]

  同上4区:西脇工業の谷本勇陽選手

 近くに大文字山のみえるこの辺りは、吉田山の北ふもとにあたり、さすがに駅伝関係者の姿は少なく、地元の方が見学者の中心です。テレビをみていてタイミングをあわせて、先頭の広報車が通ってから通りに出てくる方々が大勢いました。ですから烏丸紫明とちがうのは、もっとゆったりとした空気が流れているところです。今年も若い子が元気で走ってはるなあ、いやはや年末がきてしまいましたなあと、近所の人同士で声をかわしているような雰囲気がするのです。

 3年前にレポートした際に(「ちょっとそこまでー師走の京都ー(1)」)、新聞社の応援旗がいつの間にか配られなくなっていたり、選手の体つきやユニホームが変わったりなど、気のついた変化のことを書きました。今回とくに目立っていたのは、カメラバックをもち望遠レンズを付けた一眼レフカメラを構える若い人の姿が多くなったことです。形容がよくありませんが、鉄道オタクの撮り鉄のような人たちなのかなと思ったりもしたのです。

  このような姿勢で写真を撮影している青年

 もう一つ驚いたことがあります。今出川通と吉田山の山麓の間に、石畳みがあって、その片側にいかにも昭和の長屋が残っていたことです。きっと50年前にもあったはずですが、気づくことなく、50年後の今回、初めて気づいたのです。この空間にどんな歴史が隠されているのでしょうか。

 結局、1時間半くらい滞在していた間に、「善行堂」に出入りを繰りかえし、2冊の古本を買ってしまいました(黒岩比佐子著『音のない記憶』、小沢信男著『本の立ち話』)。

  今出川通と吉田山の間にある石畳と長屋

 では帰ろうかとなったのですが、行列の途絶えることのない豆餅の「ふたば」を横目にしながら、桝形商店街に足を伸ばし、「九条ネギ」を買ったりしました。そして、近くの「コーヒーハウス マキ(coffee house maki)」という喫茶店に入ったのですが、奥は賀茂川べりにも面していて、とても雰囲気のある店です。今や「イノダコーヒー」や「スマート」がひとつの観光地のようになってしまった昨今、これは貴重な一軒だなあと言い合いました。

 午前中の晴れから一転し、小雨が降りはじめているなか、駅近くのレンタサイクルショップへ自転車を返却し、地下の京阪出町柳駅へと急ぎました。

 まあとにかく、3年ぶりに高校駅伝に出かけることができました。京都駅9時半着・16時半発、滞在8時間ではありましたが、こうして何とか元気で年の瀬の行事を重ねることができ、喜んでいます。

  「コーヒーハウス マキ」内のシャンデリア風の照明器具  

  河合橋近くの高野川に飛来したサギとそれを見守る親子連れ

 

🔹ル=ゴフの「時間区分と、中世、ルネサンスの歴史関係」についての感想

 前稿は、フィレンツェのことを振りかえった際に、池上俊一の『フィレンツェ』の記述からル=ゴフの著作の存在を知って読んでみたことから始まりました。その紹介がこの本の要約と引用だけの尻切れで終わっていましたので、ささやかな感想ですが、追加しておくことにします。

 

 今回のブログの流れと、京都とフィレンツェの関係は偶然の産物というしかありませんが、ちょっとこじつけてみたい気持ちもないわけではありません。

 当ブログ(「ちょっとそこまでー師走の京都ー(2)」)において、外国人観光客の多いことをとらえて「今や京都はフィレンツェのようになってきているよう」だとし、その共通点が「市民、町衆を中核とする自治の文化が底流にあることや、職人を中心とする高度なものづくりネットワークが発達していること」などにあるのではないかとしていたのです。

 そして、前記のフィレンツェに関するブログ(「クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェ-比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(3・完)」)においても、フィレンツェ人の「傲岸なまでの自意識」という負のメンタリティと、井上章一の『京都ぎらい』で特記していた京都の市中に住む人びとの感情、いわば京都人のいささか厄介な「洛中的中華思想」が、<特別の誇り>という点で近しいものがあるのではないかと書いたりもしました。

 

 京都からフィレンツェへという、ことさらのようなこじつけはやめにして、感想の方に移ります。

 まずル=ゴフが『時代区分は本当に必要か?-連続性と不連続性を再考する』で提示した「結論」のようなものを、繰りかえしになりますが、再確認しておきたいのです。

 具体の事例である「中世」と「ルネサンス」の歴史的関係について、ル=ゴフの結論は、時代区分への視線も踏まえ、「ルネサンスとは、長い中世に含まれる最後の再生」だとし、次の表現を用いて定義しています。

 「 今日の伝統的な歴史学が特別の時代としてあつかうルネサンスとは、私

   の目には長い中世に含まれる最後の小時代にほかならない。」

 「歴史の断絶は稀であ」り、「変化はある程度の幅のなかで起こり、大規模であることもそうでないこともある」としたうえで、「長い中世」という時代概念と、フィレンツェを代表格とする「ルネサンス」は変化ではあるが根本的な変化とは言えず、中世とルネサンスの断絶はみられないと、前記のとおり伝統的な歴史学に対し、異論を提起しているのです。

 

 一方、「時代区分」の方ですが、「時代区分」は長い過去という時間を支配するために人間が発明したものであり、「人為であり、それゆえ自然でもなければ、永久不変でもない」としたうえで、「客観的現実に対応している必要」、つまり「歴史を科学たらしめるような要素」を条件としつつ、次の結論を導いています。

 「 歴史の時代区分を保つことは可能であり、私は保たなければいけないの

  だと思う。」

 この結論は、フェルナン・ブローデルの「長期持続」の概念と対立するものではなく、生きた対象としての歴史は「連続性と不連続性を組み合わせることが必要になる」が、「長期持続」と「時代区分」を結びつけることで可能となるとします。また「グローバル化」という世界的な現実を前にして、「時代区分」は「限られた文明領域(㊟ルゴフの場合は西洋=ヨーロッパ)しか適用できない」ものであり、「グローバル化とは、そのあとにこれら(㊟文明領域それぞれの「時代区分」のこと)のまとまりのあいだの関係を見つけることだ」と主張しているのです。

 最終頁でル=ゴフは「時代区分のおかげで、人類がどんなふうに組織され進化していくのかが明らかになるのである」と、論考を締めくくっています。

  ジャック・ル=ゴフの顔写真 なかなかの面構えの方でした

 <感想>というしかないレベルで私が受けとめたものは、次のとおりです。

 前記のル=ゴフの結論とは逆に、「時代区分」の方からです。その結論は、私には、当たり前のことのように理解でき、真っ当なものというか、ごく穏当で常識的なものと感じました。ですから、なるほどと確認できることはたくさんあったけれど、あっというような驚きはありませんでした。

 「当たり前のことと理解」というのが曲者かもしれません。ル=ゴフという大歴史家が最後の著作に選んだテーマなのですから、私の理解が短絡かつ矮小であり、もっと広く深い何かが含意されているのかもしれないとおそれています。たとえば「長期持続」という概念との結びつきを構想するなかで、「連続性と不連続性を組み合わせる」ことによる歴史の見方とも関連させつつ、持続する時代のなかに大変化と小変化の質と量を析出することによって、「時代区分」に二層性のようなものを導入しているのかもしれません。だから、「ルネサンス」を「長い中世」における「小時代」と規定することが可能になるのかなとも考えたりもしました。

 そこには「時代区分」が人間の発明であって、「時代区分はより柔軟に用いなければならない。人が「歴史の時代区分」をはじめて以来欠けていたのは、その柔軟さなのだ」とするル=ゴフの真骨頂があるということもできます。

 

 ル=ゴフは「時代区分」を「人類の本質的な問題のひとつ」である「地上の時間の支配」に起点をおいて説明しています。私が反応したのは前稿の冒頭に書きとめた「時間の支配」についてです。私にとって「噛み切れない言葉」だとしましたが、どう感じられるでしょうか。「時間を支配する」という主体的な変化より、私などは「時間に支配される」とか「時間に追われる」とか、どちらかといえば、主客の逆転した状態で用いることが多いのです。そこには「時間感覚」の彼我の違い、<時の流れ>というものを重視する文化的な背景があるのかもしれません。「時間を管理する」といいながら、「時間に管理されている」という感覚が、サラリーマン仕事から私のなかに染みついてしまっているのでしょう。私には「支配」というよりも「把握」とか「管理」という言葉の方が近しいように感じました。

 ル=ゴフの文章のなかで気づいた一文に(前稿でも引用していますが)、「歴史家は、時間をーみずからがその支配下にあるところの時間をー支配しなければならない」があります。この文章に続いて「時間は変化するものであるから、歴史家にとって時代区分は不可欠な道具となる」とあるのですが、ル=ゴフもやはり人間にとって「時間の支配と被支配」という二面的な、表裏の関係を踏まえて議論しているものともいえます。

 こう書いていると、歴史家であるル=ゴフが「時間区分」というものをいい加減に使うことを諫めつつ(根拠となる客観的現実に対応しない<時代区分>で歴史を弄ぶというような)、歴史家の責任と心構えを訴えたかったのではないかと思ったりもしてきました。

 

 次に、「中世」と「ルネサンス」の歴史的な関係についての方です。

 私の印象では、こちらの方もなるほどだけれど、軽々にそうだという判断などできないと感じました。碩学であるル=ゴフの結論の背景には、「中世」、「ルネサンス」にかかる、個別具体の事象を含め、膨大な学識の蓄積があって、伝統的な歴史学への異論が可能になったのです。「中世」は「闇の時代」とはいえないと断ずる基準、「ルネサンス」は確かに「再生」だが、根本的な変化ではなく「特別な時代」とはいえないという基準、基準などという言葉では表現できないようなル=ゴフの深い視線がこうした判断を下したのだと想像できます。そのような基盤をもたない私が、能天気に「分かりました」という言葉を発することなど躊躇せざるをえないということです。

 この小著においても、ル=ゴフは各分野ごとの専門的知見を幅広く取捨選択したうえで、その当否を論じていますが、私には個別具体の記述内容に理解できないところが多くあったのです。大歴史家というル=ゴフによる探求の誠実性と深度は翻訳文からも伝わってきますが、たとえ私のようなものにも理解のトビラが開かれているにしても、保留すべきだと思っているのです。

 ただ、この本で「中世」と「ルネサンス」という概念の成り立ちを学ぶと、少なくとも<伝統的な歴史学>の結論のような考え方を無条件で受け入れることはできないということだけは「分かりました」ということになりました。

 

 繰りかえしますが、池上俊一は『フィレンツェ』の<あとがき>で「本書を書き上げて、私はますますルゴフ説に賛同したくなってきた」と書いていました。この文に続けて「ルネサンス人が否定しようとした「中世」とは、「ルネサンス」自身の半身を指していたのだから」として閉じているのです。

 池上の「賛同したくなってきた」とは、「フィレンツェ史」を綴ってきた者として、ルネサンスが偉大で特別な時代であることを貶めることにつながる考え方に諸手をあげて賛同することはしたくないけれど、やはりル=ゴフ説を否定できないし、賛同せざるを得ないような気持ちになってきたということなのでしょうか。

 かくして、池上もまた最終判断を留保しているのだといえます。

 

 もう一人、澤井繁男の『ルネサンス再入門 複数形の文化』にもふれておきます。この書で、澤井は「ルネサンス」に関して4つの史観を紹介しています。ルネサンスは「近代の始まり?、中世の稔り?」という課題に対応し、前者は「断絶史観」、後者は「連続史観」という2つの史観のほか、二択ではないとでもいうように「過渡期史観」と「複数主義史観」を追加しています。

 このなかで、澤井はルネサンスのなかに中世的要素と近代的要素の両方が共存しているとする「複数主義史観」の立場に立つと言明しています。で、ルネサンスは「中世」「近代」のいずれに属するのか、それに澤井は答えていないように読めるのです。ルネサンスは中世と近代の諸要素が共生する時代と捉えるということは、一見、ル=ゴフ説に近しいともいえますが、結局、中世でなく、近代でもない、独立した「特別な時代」ということになってしまうのではないでしょうか。なお、澤井は同書のあとがきにかえて、ル=ゴフの『時代区分は本当に必要か?』について書評していますが、この中でもル=ゴフ説への賛否を明確にしていないように(池上と同様に避けているともいえます)、私には読めました。

 池上、澤井の両氏はルネサンス期を専門とする学者ですが、伝統的な歴史学への異論であるル=ゴフ説に二人とも態度を鮮明にできていないのです。ということは、それだけ伝統的な歴史学の存在が強固だともいえますし、同時に現代人にとっても引き続きルネサンスが偉大で魅力的な時代と捉えられているともいえます。

 この「ルネサンス」と「中世」「近代」の関係は、やはり軽々にあつかうことができない問題、さらにそれぞれの論者の立脚点を崩しかねないような問いを孕んでいるのかもしれないと、私にはそう感じられたのです。

 

 もっといろいろと感想をもったはずですが、言葉になりません。

 「今の時代は云々」というように「時代」という言葉は「期間」「年代」などの意味でもよく使われています。このような使い方を否定するものではありませんが、ル=ゴフが問題とする「時代区分」は歴史学の領域におけるものだということを忘れてはならないのでしょう。そして、時代区分と歴史家、歴史との関係について、ル=ゴフは次の言葉を残しています。

 「 時代区分によって、歴史家はひとつの時間観を形にするとともに、過去

      についてのある連続した包括的なイメージを明らかにする。このイメージ

  こそ最終的に「歴史」と呼ばれるようになったものにほかならない。」

 うむぅぅなるほどです。

 今回の紹介をきっかけに、ル=ゴフの「時代区分」論に呼応するような、西洋=ヨーロッパではない日本(北東アジアという領域も想定できるのでしょうか)の「時代区分」、「時代区分」論への興味がかきたてられたのは申し上げるまでもありません。

 

2018.12.23 Sunday

「時代区分」と、「中世」「ルネサンス」の歴史的関係ージャック・ル=ゴフ『時代区分は本当に必要か?』ー

 「その誕生とともにあらわれた人類の本質的問題のひとつが、地上の時間の支配であった」、「人類は、みずからの進化を包んでいる時間を支配したいという欲望、必要性を抱いている」と、人間の本質の一つとして「時間の支配」への希求が明記されています。これらの文章は、フランスの歴史家ジャック・ル=ゴフ著『時代区分は本当に必要か?-連続性と不連続性を再考する』(以下<時区>と表記)のなかで、前者は「序論」、後者は「おわりに」、いわば最初と最後のところにおかれているのです。

 ル=ゴフは「時代区分」という問題の前提として、私には噛みきれない言葉ですが、「時間の支配」というものに言及しているといえます。つまり、人間は日常生活の時間を「暦」によって支配することができたけれど、暦が定義する円環的な一年周期の時間をこえた、より長期の時間を考えるのには有効ではなく、未来までは難しいとしても、長い過去(長い持続)を支配するために人間が発明したのが「時代区分」だというわけです。だから「時代区分」は人間の時間を支配したいという欲望、必要性に応えるものなのだと言いたいようなのです。

 最初から前後もなく分かりにくいことを書いてしまっていますが、<時区>はフランス中世史学を代表するル=ゴフ(1924-2014)が生前最後に書き下ろした作品です(2013年に書かれたとのこと)。本稿では、この<時区>を紹介することにしたいのです。

 

 実は、宿題になっていました。今年の7-9月、当ブログでフィレンツェのこと(「クーポラの見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史ー』ー(1)~(3・完)」)をまとめることができました。その(3・完)において、池上が言及していた「中世」と「ルネサンス」の歴史的な関係性(連続か断絶かなど)を考えるためにも、<「時代区分」と、「中世」「ルネサンス」の関係>についてのル=ゴフの論考を読んで別稿で書いてみたいと記していたのです。だから、本稿はそんな風に考えた自分への応答ということになります。

 それまで、ルネサンスは「近代」の始まり、あるいは「中世」と区別された「近世」だと、私は思い込んでいてあまり疑うこともありませんでした。ところが、池上が『フィレンツェ』のあとがきで、その執筆にあたり「フィレンツェ史において中世とルネサンスを分けて語ることの不可能性をつくづく痛感した」、さらには「「中世」を語っているか「ルネサンス」を語っているか、自分でもわからなくなってしまった」と書いていることに驚いたのです。この問題について、これ以上、池上は突っ込んで議論しておらず、ただ「ル=ゴフ説に賛同したくなった」とだけ記していましたので、私としてはやはりル=ゴフの<時区>を読んで少し考えてみようと思い立ったというわけです。

 とはいうものの、小著であることに後押しされて<時区>を読んでみても、基礎のない私にはよくわからないところも多くあって放棄しようかとなりましたが、とにかく理解できた範囲でノートするつもりで書いてみることにしました。いつものとおり、いい加減なことですが、私自身<時区>に教えられたことも多くあったので、お許しをいただきたいのです。

 

 ここで、<時区>のテーマを確認しておきます。

 冒頭の「はじめに」には、この小著を「試論」だとし、「長いあいだの研究の結果」であって、「歴史について、西洋史における時代についての、ひとつの考察である」とあります。

 この試論では、ル=ゴフが「情熱を込めて研究生活を捧げた中世」について、とりわけ「「ルネサンス」の「中心的役割」」を「中心的主題」とするとともに、その提起する問題がおもに「「時代」に区分けできる歴史という概念そのものに関わって」いることから、連続、転換といった「時代区分」を再考することがもう一つの柱となっています。つまり、具体の特殊事例として「ルネサンス」と「中世」の関係を再検討しつつ、具体から抽象へ、「ある時代から別の時代への移行」、すなわち「時代区分」という一般的な問題もあつかっているのです。

 書名は『時代区分は本当に必要か?』ですが、この「一般的な問題」から「特殊事例」を考察するというより、「中世」「ルネサンス」という「特殊事例」のウェイトが大きく、例えるなら、ごく薄いパンに挟まれた具だくさんのサンドウィッチみたいだというのが私の印象なのです。すなわち最初に「時代区分とは何か」という「一般」を提起し、このことを強く意識しつつ「中世」「ルネサンス」の「特殊」を広く深く展開し、その結果、「時代区分は必要か」という「一般」の結論へと導くというように構成されています。それは下の「目次」写真からも想像することができるでしょう。

 ちょっとまだすっきりしませんので、手助けとして、この本の帯に記されている文章を掲げておきましょう。

 「 我々の歴史認識を強く束縛する「時代」という枠組みは、いかなる前提  

  を潜ませているのか。アナール派中世史の泰斗が、「闇の時代=中世」か

  ら「光の時代=ルネサンス」へ、という歴史観の発生を跡付け、「過去か

  らの進歩」「過去からの断絶」を過剰に背負わされた「時代」概念の再検

  討を迫る。」

  ジャック・ル=ゴフ著『時代区分は本当に必要か? 連続性と不連続性を再考する

                   菅沼潤訳  (2016年10月刊/藤原書店)

  同上 目次

 

🔹「時代区分」とは何か

 <時区>の書名には副題として「連続性と不連続性を再考する」とあります。ル=ゴフは歴史を「連続」と「変化」からつくられているものとして、次のとおり「時代」という言葉の出発点を確認しています。

 「 歴史も、歴史の素材である時間も、まずは連続したものとしてあらわれ

  る。しかし歴史はまた変化からもつくられている。だから専門家たちは昔

  から、この連続のなかからいくつかの断片を切り出すことで、こうした変

  化をしるし、定義しようとしてきた。これらの断片はまず歴史の「年代」

  と呼ばれ、ついでその「時代」と呼ばれた。」(8p)

 

 冒頭で「長い過去を支配するために人類が発明したのが「時代区分」だ」としましたが、ル=ゴフは「時代」という言葉が14-18世紀のあいだに「期間」や「年代」の意味をもつようになり、20世紀には「ここから時代区分が派生した」と、「時代区分」という言葉、その概念はやっと20世紀になって生まれたのだと書いています。そして、この「時代区分」という言葉は「人間が時間に対して働きかける行為であり、その区切りが中立ではないという事実」に注意を喚起し、次の文章を続けています。

 「 時間を区切ることが歴史にとって必要であるのは、歴史を、社会の進化

  の研究、または特殊なタイプの知や教育、あるいはまた単なる時間の推移

  という、一般的な意味でとらえる場合である。だがこの区切りは、単に時

  間的秩序をあらわすものではない。そこには同時に、移行や転換があると

  いう考え、それどころか前の時代の社会や価値観の否定さえもが表現され

  ているのだ。したがって、時代には特別な意味がある。時代の推移そのも

  の、あるいはその推移が想像させる時間的連続やその逆に切断がもたらす

  問題において、時代は歴史家の重要な問いなおしの対象となっているので

  ある。」(13p)

 こうして「時代」「時代区分」という概念自体が歴史のなかで生まれてきたことを確認したうえで、ル=ゴフは本書で、本人が長く研究対象としてきた「習慣的に「中世」「ルネサンス」と呼ばれているもののあいだの歴史的関係」を検証するとしているのです。 

 

 このこととも関連しますが、「時代区分」と歴史学の関係について、次の文章もあります。

 「 時間区分は、時間をわがものとするための、いやむしろ時間を利用する

  ための助けとなるが、ときにはそこから過去の評価にまつわるさまざまな

  問題が浮かびあがる。歴史を時代に区分けするということは、複雑な行為

  である。そこには主観性と、なるべく多くの人に受け入れられる結果を生

  み出そうとする努力とが、同時に込められている。これはたいへんに面白

  い歴史の研究対象であると私は思う。」(15p)

 そして、「歴史学」が合理的知の対象となるのは、18世紀に大学や学校のなかに入ったときのことにすぎないのであり、この事実は「時代区分の歴史を理解する」ために重要なことだと、ルゴフは念押ししています。つまり「歴史が時代区分を受け入れるような知に変貌するためには、教育という段階もまた必要」としていたというわけです。

 

 さて、ル=ゴフの論考が私に与えた言葉はどういうものか。「時代区分」とは、長い過去を組織するために生成してきた存在ではあるけれど、18世紀以降の歴史学の形成とともに一般化してきた人為かつ歴史的な産物でもあり、かつ中立的で固定した行為でもない(時とともに変化していく)と、ひとまず理解しておきましょう。そして、ル=ゴフは<時区>で直接あつかうのは西洋史のおける「時代区分」だとしていることにも注意しておきましょう。

 このような性格の「時代区分」の本質を確認する意味で、ル=ゴフの文章を引用しておきます。

 「 時代区分は人為であり、それゆえ自然でもなければ、永久不変でもな

      い。歴史そのものの移り変わりとともに、時代区分も変わる。そういう意

  味で、時代区分の有用性には二つの側面がある。時代区分は過去の時間を

  よりよく支配するのに役立つが、また、人間の知が獲得したこの歴史とい

  う道具のもろさを浮き彫りにもしてくれるのである。」(36p)

 

🔹「中世」と「ルネサンス」という時代概念の<発生>

 ここでは、「中世」とか「ルネサンス」という「時代」概念の誕生と成長をみておくことにします。先の帯の文章でいえば、「「闇の時代=中世」から「光の時代=ルネサンス」へ、という歴史観の発生を跡付け」のところになります。

 

 「中世」とは、既成概念、私たち世代にとって、1492年のコロンブスによる新大陸の発見とイベリア半島におけるレコンキスタの達成に終わる、大方そのような期間だと習っていたと思います。そしてルネサンスが先導役となって、近代が切り開かれていくとのイメージでした。

 「中世」という概念はいつ、どのようにして発生したのか、<時区>の「中世の出現」の章で、ル=ゴフは、15世紀になって、ペトラルカに代表されるイタリアの詩人、作家たちが新たな時代の雰囲気のなかで、「自分たちが抜け出したことを幸いと考えている時代を否定的に定義しようとした」とし、「想像上の古代と想像上の現代のあいだ」に位置している時代を「中間の時代」と名づけたとします。それでも17世紀の終わりまでは「中世」という表現は普及しませんでしたが、ルター派の歴史家がはじめて「中世」を定義し、18世紀の哲学者のあいだでさかんに用いられるようになったのだそうです。

 19世紀になって、ロマン主義の影響もあって、次第に「中世」に貼りついた否定的な意味合いが減じられてきて、ついには20世紀のマルク・ブロックとアナール学派によって創造的な時代へと変貌し、光と影を併せもつ時代であったと考えられるようになりました。それでも、歴史家にとって中世のもつ軽蔑的な意味は消え去ったとはいえ、「もはや中世ではないのだ」という言いまわしはまだ残っていると、ル=ゴフは指摘しています。

 

 一方、「ルネサンス」という概念はどうか、「ルネサンスの誕生」という章で、ル=ゴフは「ルネサンス」という言葉が定着するのは「中世」の場合より時間がかかっており、19世紀の半ばのことだとします。1833年から刊行がはじまるジュール・ミシュレの『フランス史』においては、中世を「16世紀と宗教改革の前夜の豊かで輝かしい歴史」というイメージが記述されていましたが、1839年に最初の妻が亡くなると、突然、ミシュレは中世に「硬直した不毛な時代」というイメージをもってしまったのだというのです。そして、こんな「中世」と対比するイメージとして、新しい光を求め、この時期に「ルネサンス」という名を与えたとされています。ここから、「ルネサンス」という言葉は、中世に続く、中世に対立する歴史上の偉大な時代として定義され、1840年から1860年のあいだにひろく知れわたり、ひとつの時代を指すものとして認められることになったのです。

 1840年1月にコレージュ・ド・フランスで「人間の神に対する勝利」のタイトルで行われた講義において、ミシュレは次のように語ったと、ル=ゴフは引用しています。

 「 重要人物、それはすべての人々であり、この大変化の担い手は人間で

  す。〔…〕神から生まれた人間は、神のような創造者です。近代世界は

  人間の創造物であり、否定的な論争に明け暮れる中世がもちえないひと

  つの世界です。」(64p)

 かくして、ミシュレは、ルネサンスを「近代世界への移行期」として定義したのです。この「ルネサンス」に関して、ル=ゴフは、ブルクハルトの説で補強しつつ、続く「今日から見たルネサンス」の章では、20世紀から21世紀の歴史家による「ルネサンス」論を詳しく紹介しています。

 

 このように「中世」と「ルネサンス」という時代概念の発生を跡付け、つまり15世紀のペトラルカから数世紀を経て、19世紀のあいだに「光のルネサンスと闇の中世の対立がふたたびあらわれる」ことになったのだと、ル=ゴフは総括しています。

 そして、こうした事態が生じた要因として、「歴史、教育、時代」の章で、19世紀になってようやく歴史学が教育科目となったことの影響を強調しています。

 「 歴史をよりよく理解しその転機をしっかり把握するために、すなわち歴

  史を教育可能なものとするために、歴史家や教師は以後時代区分を体系化

  する必要を感じるようになる。」(56p)

 

🔹「中世」と「ルネサンス」の再検討から「長い中世」へ

 「闇の時代=中世」「光の時代=ルネサンス」という見方に対し、ル=ゴフは、最後の2章である「中世は「闇の時代」か?」「長い中世」において、反論を加えています。さらに言えば、異議を唱えています。

 この小著の半分近くを占める2章では、帯の文章の後半、「「過去からの進歩」「過去からの断絶」を過剰に背負わされた「時代」概念の再検討を迫って」いるのであり、その結果、「ルネサンスとは、長い中世に含まれる最後の再生のこと」であるとの結論を導いているのです。

 

 まず、「中世」に対する敵意、それどころか軽蔑という感情は、いわゆるルネサンスの時代の文化エリートたちにはじまり、やがて18世紀の啓蒙主義者といわれる学者たちに受け継がれ、中世を暗黒時代と呼ぶような深刻なものとなっていったとあります。

 「中世は「闇の時代」か?」の小見出し、近代の特徴とされるような<合理的思考><人間主義><近代的美>などは、「中世」には欠けていたり、不足していたりと思い込んでいるけれども、「中世」においても存在していた、少なくとも萌芽を認めることができると、ル=ゴフは逐一証明していきます。

 さらに<魔術は中世の現象か>では、「ユダヤ人大虐殺、異端審問、千年王国の宗教運動」が「中世よりもむしろルネサンスに活発になる」ことを紹介しています。

 だから、中世は決して「闇の時代」ではないのだと主張しているのです。

 そして、15世紀という中世とルネサンスが重なり合っているように思われる時期のことに言及し、次の「時代区分」についての知見を述べています。

 「 ここで、時代区分についてのひとつの結論が引き出される。歴史の断絶

   はまれであるということだ。変化はある程度の幅のなかで起こり、大規模

  であることもそうでないこともある。それが時代の転換、内的な再生であ

  る。」(133p)

 

 続く「長い中世」という章では、「経済、政治、社会、文化」という諸分野において、「ルネサンス」の盛期である16世紀には根本的な変化が起きていないことを証明していきます。

 たとえば、海を舞台とする経済活動、農業経済、さらには経済思想という点でも、中世から成長してきたのであり、中世とルネサンスの断絶はみられないと結論づけています。

 とりわけ、ルネサンスを固有の時代とみなす者にとって、近代の幕開けの象徴とされてきた「大航海時代」の到来、レコンキスタ、宗教改革、絶対王政の強化、資本主義システムの発達(貨幣経済の発展であり産業革命はまだ)なども、はっきりとした断絶を示すメルクマールというほどの意味、意義は見出しがたいと、ル=ゴフは丁寧に説明を加えています。だから、ルネサンスは固有の時代とみなすことができず、ひとつの時代の終わりと新たな時の到来を告げる時期ではないという評価を下しているのです(あとで「小時代」という呼び方もしています)。

 「事実上18世紀半ばまでは、根本的な変化が起きていない」のであるから、そして、中世のあいだに、複数のルネサンスがあったのであるから、ル=ゴフは「中世と新時代、中世とは異なる、ルネサンスと呼ばれうるような時代との断絶は、したがって正当化されないのだ」と主張し、次のような結論を提示しているのです。

 「 ルネサンスは、たとえその重要性がいかなるものであったとしても、歴

  史的持続のなかで個性を与えられる資格をどれほど有していても、私に言

  わせれば特別な時代ではないのである。<ルネサンス>とは、長い中世に

  含まれる最後の再生のことなのだ。」(100p)

  

 では「長い中世」の終わりを示す時代の転換とは、いつ頃のことか、ル=ゴフは「18世紀の半ば」にあると考えています。この時期には、農村経済の発達、蒸気機関の発明、近代産業の誕生、キリスト教信仰に基づかいない合理思想や科学技術をもたらす書物、そして何よりル=ゴフが「近代性のマニフェスト」だとする『百科全書』、これらの事象が一斉に起こってきたのです。18世紀の半ばを時代の転換とする理由として、次のことを加えることができるとしています。

 「 経済と財政の進化のあらわれである富者と貧者の格差の拡大、さらには

  読書、演劇、ゲーム、快楽、個人的成功への熱狂がある。この18世紀半ば

  こそ、西洋が新たな時代に突入した日付と言ってまちがいない。」(176p)

 中世には「カロリング朝ルネサンス」「12世紀ルネサンス」と呼ばれる別のルネサンスがあったが、これまで論じてきた15、16世紀の<ルネサンス>の特質を、次のとおり表現しています。

 「 15・16世紀の<ルネサンス>とは、私に言わせれば中世のルネサンスの

  最後のものということになるのだが、そのひとつの特徴は、18世紀後半

  はじまる本当の近代を準備し予告するという点にある。」(181p)

 

🔹「時代区分」の必要性とその条件

 以上の考察をへて、ル=ゴフは、この試論の締めくくりとして、特殊から一般に立ち戻り、「私がここで提示した長い中世の例を出発点に、適切な歴史の時代区分とはなにか」について、定義を試みています。

 

 この総括部分、「おわりに」の章は、次の印象的な2行からはじまります。

 「 もうおわかりであろう。今日の伝統的な歴史学が特別な時代としてあつ

  かうルネサンスとは、私の目には長い中世に含まれる最後の小時代にほか

  ならない。」(183p)

 そして、冒頭で紹介した「人間の時間を支配したいという欲望、必要性」を起点とし、それに応えるものとして「時代区分」を位置づけ、ル=ゴフは次の言葉を発しています。

 「 時代区分は同じ目的に応じるものだが(㊟日常生活の時間を支配する「暦」)、長

  い持続を対象とする。さらにこの人間の発明品が、客観的現実に対応して

  いる必要があるだろうか。私はあるような気がする。」(183-184p)

 このことを敷衍し、次のとおり、時代区分の必要性を表現しています。

 「 時代区分が正当化されるのは、歴史を科学たらしめるような要素によっ

  てである。精密科学ではないにしても、原史料と呼ばれる客観的基盤に立

  脚した社会科学になりうるのだ。ところが、史料がわれわれに提示するも

  のは、動きであり、変化である。社会の歴史は時間のなかを歩むと、マル

  ク・ブロックは言っていた。歴史家は、時間をーみずからがその支配下に

  あるところの時間をー支配しなければならない。そして、時間は変化する

  ものであるから、歴史家にとって時代区分は不可欠な道具となる」(184p)

 

 恩師であるフェルナン・ブローデルの「長期持続」の概念を持ち出し、ル=ゴフは「時代区分」との関係について、対立関係ではなく、結びつけることができるものとして、次のように整理しています。

 ㊟・「長期持続」はアナール派の歴史研究の方法論です。とくにブローデルは歴史を

   「長波」「中波」「短波」の三層構造として把握することを提唱し、「長期持続」

   などの「長波」の層を重視しました(すべては緩慢な歴史すなわち「長期持続」の

   歴史の周りを回っていると把握した)。

  ・当ブログでは、「水の上に人間がきずいた不思議ーヴェネツィア(5)ー」において  

   ブローデルの三層構造という歴史観に言及しました。 

 「 長期持続のなかには、時代を受け入れる余地がある。歴史は、知的であ

  ると同時に肉体的でもあるような生きた対象となる。そんな対象をあつか

  うためには、連続性と不連続性を組み合わせることが必要になるように思

  われる。

   それこそが、長期持続と時代区分を結びつけることでもたらされるもの

  なのだ。」(184-185p)

 そして、長い時代には転換期が含まれているとし、「この転換は意味あるものだが、最重要ではな」く、これが「小時代」をつくりだすのであり、中世にとってはそれが「ルネサンス」と呼ばれるのだと、再確認します。このように考えることで「現実に、歴史をあつかいやすく豊かな価値をもたらしてくれるものにする時代区分に、人は近づけるのだ」と、ル=ゴフは考え、次の結論を導いています。

 「 歴史の時代区分を保つことは可能であり、私は保たなければいけないの

  だと思う。」(186p)

 さらに、グローバル化という現実を踏まえて、次のように続けています。

 「 現在の歴史思想を貫いている二つの大きな潮流、長期持続の歴史とグロ

  ーバル化(後者はおもにアメリカのワールドヒストリーから生まれている)

  は、どちらも時代区分の使用をさまたげるものではない。くりかえして言

  うが、計られない持続と計られる時間は共存している。時代区分は限られ

  た文明領域しか適用することができない。グローバル化とは、そのあとに

  これらのまとまりのあいだの関係を見つけることなのだ。」(186p)

 

 いよいよ<時区>の末尾の一文です。

 「 時代区分は、今日の歴史家の研究と考察がくりひろげられている重大な

  一分野になっている。時代区分のおかげで、人類がどんなふうに組織され

  進化していくのかが明らかになるのである。持続のなかで、時のなか

  で。」                        (187p)

 

🔹おわりに

 以上、<時区>の一冊を、要約と引用で紹介しただけのブログになりました。残念ながら、PCの状態に問題があって、ここで終えることにしますが、次のブログで少し感想を書いておきたいと思っています。 

 

2018.12.12 Wednesday

今ごろになってーアレクサンドロス大王像の変遷から見えてくるものー

 今ごろになって、そうだなあと思うことがたんさんあります。今まで、どのように読んできたのだろう、そんなことなど考えずに読んできたしなあと思ったりするのです。

 私の中に小なりといえども積み重ねられたある歴史的人物人やある時代へのイメージ、その固着した言葉や像から逃れようもない自分を感じているにもかかわらず、いよいよもって心もたないものではあるなあと強く意識させられたということです。もちろん神話や英雄譚を歴史的事実だと誤読しているのではありませんが、クリシェというか決まり文句で反復されたイメージは、知らず知らずのうちに自分のなかに棲みついていることを再確認させられたのです。

 

 このような気持ちになったのは、大学の前期で聴講した日本古代史の講義において、古代にかかる数少ない文字史料である古事記と日本書紀の読み方(テキストクリティーク)をめぐっての話を聞いたことが発端です。講師であるF准教授は、私など聞きなれない、というより聞いたこともない<潤色・加上>という言葉を用いて説明されたのです。いわば、その代表的な史料である「記紀」ではあるが、文字史料の少ない古代の歴史の実相に迫っていくには、その<潤色・加上>の過程そのものも検討の対象にしていく必要性を強調されたのです。つまり、信頼度の低い「記紀」を「使ってはいけない史料」として扱うのではなく、やはり「記紀」の神話・伝承も活用して<潤色・加上>を見極めつつ、「歴史的な事実を汲み取る」ことが必要だというのが、F准教授のスタンスであると理解しました。

 この講義のなかで、大正期に入り、津田左右吉が、「記紀」に対し、近代実証主義に基づく史料批判を適用し、その研究成果を著作としたことが紹介され、それが「津田事件」を招いたことを知りました。そして、「津田事件」を中核に、当ブログで「私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎「終戦直後の津田先生」をめぐってー(1)〜(6・完)」を書くことになりました。とりわけ(1)の前半で、こうした問題意識の所在、つまり<潤色・加上>の存在と<歴史的な事実の抽出>という問題について、私なりの理解を取りまとめています。

 

 最近また、このような問題意識を再確認することになりました。

 というのも、大学の後期で「アレクサンドロス大王とヘレニズム時代」というテーマの西洋史の講義を聴講しているからです。その前半でアレクサンドロスの足跡が辿られたのですが、その元になっているのは現存する5篇のアレクサンドロスの伝記です。この5篇はいずれもローマ帝国の時期、すなわち前1-後2世紀に書かれたものであり、アレクサンドロスが活躍した前4世紀の後半からすると、数百年後(300-500年)のものです。だから、今におきなおすと、16-17世紀の時代、たとえば豊臣秀吉のことを、現在の歴史家が書いていることになるのです。

 そして、これら現存するローマ時代の伝記は、その中で引用されている文献から、その元になったアレクサンドロスとほぼ同時代に書かれた原典となった文字史料(記録)というものがあったことがわかっていますが、残念ながら、その原典は断片しか残っていないのです。

 という前提のもとで、現在の歴史家が、アレクサンドロスとその時代を、伝えようとしたとき、「記紀」と同様に、これらの伝記を批判的に読み解くための諸作業がもとより不可避であり、これを通じて歴史的な事実に接近していくことになります。でも、その結果、問いに対する明確な答えがないという歴史学の現在における到達点を確認して終わるだけの場合も多々生じるのです。

 今回の講師であるS准教授も、やはりF准教授と同じ地平で研究されているのであり、それを踏まえた「歴史の見方・考え方」を伝えるべく講義されているという感想をもっています。

 

 その講義で示されたアレクサンドロス大王に関する参考図書から一冊を読んで、ブックレポートとして提出する機会がありました。短いものなので、以下で、全文を掲載しておくことにします。このレポートでは、アレクサンドロス大王云々ではなく、前記の問題意識を踏まえた「歴史認識の困難性と限界」についてコメントしようとしました。なお、提出レポートを、もう少しわかりやすくする観点から、補足的に手を加えています。

  森谷公俊著『アレクサンドロスの征服と神話』(興亡の世界史 第01巻) 2007年1月刊/講談社 

 

  アレクサンドロス大王像、その変遷から見えてくること

   <森谷公俊著『アレクサンドロスの征服と神話』「第1章」を中心に>

 

 過去の歴史へアプローチしようとするとき、これを扱った言説のなかに事実に基づく真相を読み取ろうとしても、さまざまな高い壁が立ちはだかることになります。まして、その対象が古代という場合は、その言説の背景にあるはずの事実の根拠(各種史料)が限られていることから、これを読む者の理解をもっと困難なものにしてしまうといえます。さらに、その前提として、「歴史」なるものは、その対象となる時代、そして、それが書かれた時代、さらにそれを読んでいる今という時代、これら三重の「時代=歴史的条件」というものの反映と制約から免れることができないわけです。

 以上のことを、アレクサンドロス(前356-323)とその時代に焦点を当てた本書では繰り返し論じられており、歴史認識の困難性と限界を再確認することになりました。

  アレクサンドロス帝国の最大版図 前334年からの東方遠征による空前の大帝国

 アレクサンドロスの大王像はこれまで千変万化のイメージで描かれてきました。森谷は「その時々の人々の理想や未来像、あるいは人間観や世界観の投影であり、要するにわれわれ自身の鏡にほかならない」と述べたうえで、その大王像の変遷や振れ幅の大きさを紹介しています。

 現存する大王の伝記は5篇残っていますが、いずれもアレクサンドロスの死後数百年を経たローマ時代に書かれたものです。ですから、<書かれた時代>つまりローマ帝国時代という歴史的条件の影響下で綴られたものです。何といっても、時代背景として「ローマが地中海一帯を完全に征服した上、東方にも領土を広げつつあるという現実に基盤を持っていた」ことを、森谷は特記しています。だからローマ帝国の権力者には大王への賛美やその東征にあやかろうという態度が共有されていたというのです。

 いずれも自己の立場と異なる大王像には批判的で、すべてが「論争の書」であったと森谷は評しています。大別すれば、ディオドロスプルタルコスは大王の英雄的な性格を強調する伝記である一方、クルティウス・ルフスユスティウスは当時のストア派的、倫理的な立場から大王の暴君的側面を叙述の基本としており、二つの傾向があったと指摘しています。

 少し付け加えるなら、前1世紀のギリシア人歴史家のディオドロスは、「しばしばおおげさな描写や感情的な表現に流れ、大衆受けをねらったような印象を受ける」のに対し、『英雄伝』で著名なプルタルコス(後50以前-120以後)は「人間味に富んだ大王像を提供している」と、森谷は評価しています。 

 さらに、アレクサンドロスの「正史」とされてきた後2世紀の軍人・政治家・著作家であるアリアノスの大王像は、ローマ皇帝たちの姿を反映して広まっていた「アレクサンドロスを野蛮な君主、東方風の暴君とする見方」に反発するように、アレクサンドロスを「偉大な将軍、不世出の王」として描いています。そしてアリアノスの独自性は、大王の側近だったプトレマイオスの記述など最も信頼性が高いと判断される記録を選択し、その原典となる文献に基づき叙述したところにも現れています。

 

 これらローマ時代に大王伝を叙述した作家たちは、無から書いたのではなく、「自分たちより以前に書かれた作品を手がかりとして」伝記を書かざるをえないのです。彼らが伝記のために依拠したのは、今は残っていないが、大王とともに東方遠征に従軍した人々の<記録>にさかのぼることができ、その代表的な人物は5人であると、森谷は説明します。

 最初は、東方遠征の公式記録を任務とした歴史家カリステネスのもので、本来「正史」というべきですが、「武勲詩のおもむきが強い」と評されるものであったようです。前3世紀の初頭に84歳で大王伝の執筆を始めたといわれる技術者・建築家のアリストブロスは東方遠征に同行していますが、アレクサンドロスへの追従や事実の歪曲とは無縁な信憑性の高い作品として評価され、前記のローマのアリアノスにも活用されたとあります。そのほか、哲学者オネシクリトスや大王の朋友でもあったネアルコスもさまざまな記録を残しています。そして、プトレマイオス朝エジプト王国の創始者であるプトレマスオスはアレクサンドロスの側近の一人であり、大王の戦争を詳細に記録した軍事史を残しており、これをローマのアリアノスが活用したという関係にあります。

 もう一人、このプトレマイオスの庇護下で活躍したクレイタルコスは、従軍しなかったが、12巻に及ぶ大王伝を執筆し、「豊かな物語性のゆえに、ヘレニズム時代からローマ時代にかけて広く愛読された」とのことです。

 これらローマ時代の現存する大王伝のもとになったアレサンドロスとほぼ同時代の原典は、アレクサンドロスとのそれぞれの距離感という条件のもとで「それぞれ独自の大王像を描いていた」ことになります。そして、それらがさらにローマ時代の作家によって<変形・修正>されているのだと、森谷は注意を喚起しているのです。

 

 したがって、現存の大王伝を読む場合、「どの部分にどの原典が用いられたのか」を確認しつつ、「記述の意図や信憑性」を検証しなければならないと、森谷は強調しています。そして、大王像の「万華鏡のごとき多彩さ」の原因は、「要するにわれわれは、ヘレニズム時代とローマ時代という二重のフィルターを通してしかアレクサンドロスを眺めることができない」からだとし、「こうした史料の残り方とその性質」に起因するものと指摘しているのです。 

  アレクサンドロスの東方遠征(前334-323)の進路 アレクサンドロスは前323に熱病で急死

 さて、一気に現代へと時代を下ることにします。19世紀に厳密な実証科学として成立した近代歴史学では、その一環である古代史研究も「大王伝のそれぞれの特徴を明らかにし、記述の歪みを一つ一つ取り除き」、二重のフィルターの向こうにある「客観的な」アレクサンドロスに到達しようとしてきました。それでも、大王像はそれぞれの地域や時代の刻印を帯びている、つまり別の近代的なフィルターを付け加えたりしていると、森谷は概観しています。

 新たな潮流として、1970年代以降の「ミニマリズム」と呼ばれる方法のもとで、「カリスマ性を剥ぎ取られた等身大の大王像」が登場してきたことを、森谷はアレクサンドロス研究の飛躍的な進歩として評価しています。でも、それは「強力な指導者の登場をむしろ警戒する大衆民主主義の時代に適合した」大王像とも言えるかもしれないとみています。その後は、現下の混迷する世界情勢を反映してやはり「アレクサンドロスという人物を全体としてどう捉えるかという問題関心」を前面に押し出した研究が顕著になってきたそうであり、それは「すぐれた指導者が必要とされる今日の時代状況に合致する」ものではないかと記しています(同書の刊行は2007年)。

 これらは<今という時代>が付与するフィルターといえるのでしょう。

 

 以上から、私たちが今読むことのできるアレクサンドロス像は何重ものフィルターを通したものであるといわなければなりませんが、森谷は、「わずかな手がかりを基にして過去に近づいていくしか」ないのがあらゆる歴史研究の宿命であるとしつつ、歴史学の社会的な責務を主張したいようなのです。

 ではどうすれば21世紀初頭にふさわしい大王像を構築できるのか、そのためには、「アレクサンドロスという人物を可能な限り客観的な歴史的条件でとらえる」ことと、彼の「業績を長い時間の枠組みの中で考察する」ことを通じて作り上げることが、現代の歴史学の使命でもあるのだと結論づけています。

 

 最後に、本書の<おわりに>のところで、森谷は、アレクサンドロスの英雄的性格と東方遠征が「人間の世界と神々の世界が分かちがたく結びついていた時代に固有の産物」であり、「死後の名誉が人生の究極目的だった古代ギリシアの価値観」に由来するとの認識を示しています。

 この森谷の視点は、大王像の変遷はもとより、ともすれば今の時代からの影響を免れえないアレクサンドロス理解の根底において見失ってはならないものと、私は受けとめたいと考えています。                             

  アレクサンドロスの頭像 同書15p

 

 以上がブックレポートです。

 「問題意識」という言葉を使って、大層なことを書いてしまいましたが、現実問題として、そうであれば、つまり<潤色・加上>や<変形・修正>を免れえない状況下で、どう読むのか、と問われても、私など、いかんともしがたく、どうようしようもないなあで、立ちどまってしまいます。せめて、信頼に足る書き手のものを大切に読むことにすることくらいしかできそうにないというのが、正直な感想なのです。

 では「信頼に足る書き手」をどう選ぶのか、問いは堂々めぐりになってしまいます。ことほど左様にこの問題、<潤色・加上><変形・修正>と<歴史的な事実の抽出>の関係を踏まえたアプローチは困難というしかなさそうです。まあいわば専門的な知識をもたないでただ本が好きで読んでいる者としては、このような問題が本の発する言説の向こうに存在していることを自覚しつつ(心にとめておく)、本を読んで何がしか理解する、ということかなと考えています。

 このことは、私たちの記憶が<潤色・加上><変形・修正>と切り離すことができない事実を想い起させます。それとこれとは違う位相だといえますが、人間という生き物の本質のところでつながっているのでしょう。そして、古代だけに限らず、近現代においても、同様の問題があるということに自覚的でありたいと思っています。

 

 それにしても、当時のギリシアと日本の違いに驚きます。前5世紀のアテネなどポリスの全盛期の後に続いたのが、マケドニアのアレクサンドロスなのです。ギリシアにはたくさんの文字史料が残っていますが、当時の日本列島には文字史料がありません。それからさらに数百年後、現存する大王伝が書かれたローマ時代(前1-後2世紀)にも、わが列島には文字史料が残されていないのです。つまり一方はすでに歴史学の時代であり、もう一方はまだまだ考古学の時代であったということができます。

 これが「文明」というものの力なのでしょうか。私たちが知っているように思っているソクラテス(前469頃-前399)、プラトン(前427-前347)、そしてアリストテレス(前384-前322)の三哲人の時代、そんな時代(直接にはアリストテレス)ともアレクサンドロスはクロスしています。アレクサンドロスの10代の頃に、アリストテレスは家庭教師をつとめていました。

 不思議です。わが列島に生きた人びとも、ギリシアの人びとと同じく、いろいろな感情や思いや知恵があったはずですが、文字が残っていないのですから、今年は縄文ブームもあったけれど、残ったモノなどから想像するしかないのです。バカなことを書いていますが、今、西洋史を、こんな呆れたことも考えながら、聴講しています。

 

 最後に、関係がなさそうでいて、ありそうでもある話です。今日(12日)の毎日新聞に、10日のワシントン・ポスト紙が政治家らの言説の真偽を検証するファクトチェック報道で、元々の基準に加え、「事実と異なる主張を20回以上繰りかえすと「底なしピノキオ」と認定する」という新たな基準を発表したという記事が掲載されました。予想されるとおり、トランプ大統領にはすぐに計14の「底なしピノキオ」を与えられたとあります。

  ㊟ピノキオは「嘘をつくと鼻が伸びる」

 冒頭で「今ごろになって」と書きましたが、こんな年齢になって問題意識をもってみてもというか、「今更」というニュアンスもこもっているように感じています。でも、トランプの場合は、「今更」になってはいけないと申し上げておきたかったのです。前記したとおり、森谷教授は、2007年刊行の本書で「すぐれた指導者が必要とされる今日の時代状況」と書いていますが、10年をへた現在、<今日の時代状況>に対し、どのような言葉を与えられることでしょう。

 同記事は、7日の議会公聴会で、コミー前長官(トランプ大統領に解任された前米連邦捜査局(FBI)長官)が「大統領のうそにまひしてはならない」と語ったと伝えています。この「大統領のうそ」に、<今更>はあってはなりません。

 

2018.12.09 Sunday

「おもしろい」の抽出ー『図書』の効用ー

 「ヴォイス オブ コーヒー」という店名の由来をご主人に確認できました(前号「11月の過ごし方ー上から数えた方がー」)。

 「お客様に、コーヒーの発するいい香りや深い味という声を聴いてもらいたい、楽しんでもらいたい、ということなんです」という答えが返ってきました。ご主人の方がコーヒーの声を聴くように仕事することなのかと思ったのだがとさらに問うと、「それは前提で、私がそのようなつもりで仕事をし、お客様もそう楽しんでもらいたいというのが趣旨なんです」とのことでした。

 当たり前といえば当たり前ですが、「ヴォイス オブ コーヒー」、店主の思いのこもった、とても真っ当な<店名>です。

  「ヴォイス オブ コーヒー」の看板 [2018.11.3撮影]

 

 このように名づけられた言葉の面白さ、いわば言葉の豊かさ(この場合は「漢字で書き表される植物名」ですが)に関する連載が、『図書』の11月号から始まりました。辞書編集者だという円満字二郎さん(明らかにペンネームだと分かりますが)が、<漢字の植物園in広辞苑>を連載タイトルとし、『広辞苑第七版』の植物項目を題材に、「植物と漢字について書き連ねてみようという次第」であるとしています。

 第1回の11月号は「11月、紅葉に深まりゆく秋」とのテーマで5項目を取りあげていますが、そのうち「05 サザンカだけが特別か?」を紹介してみましょう。「サザンカ」は漢字で「山茶花」と書くのに、どうして「サンサカ」ではなく、「サザンカ」なのかをめぐっての話です。『広辞苑』には「字音サンサクヮの転」と書かれていて、言語学では「音位転換」と呼ぶのだそうです。つまり「エレベーター」を「エベレーター」と言ってしまうのと同じように、「サンサカ(あるいはサンザカ)」を「サザンカ」と言い間違えたのが定着したものと説明されているようです。

 これで終わらないのが、円満字(まさか「円満」という名字ではないと思うのですが)の面白いところで、「サンサカ(サンザカ)」はそんなに言い間違えやすい言葉なのか、それなら「サンザシ(山査子)」も「サザシン」になってもおかしくないと、疑問(いちゃもん)を呈しています。

 私など、サザンカとツバキの区別がつくようになったのはごく最近のことです。といっても咲く時期が違っているためであり、同時に二つの赤い花が並んで咲いているようなことが起きたら(ふつうありえませんが)、区別できそうにもないぐらいのレベルなのです。「山茶花」と「サザンカ」の関係、そこに「音位転換」という存在を感じたことはこれまでに一度もなかったので、興味深く読みました。

  サザンカ(大中遺跡公園) [2018.12.5撮影]

 続く12月号「12月、寒さの中の楽しみ」も5項目で、その中から「08 ソヨゴは常緑樹の代表?」を取り上げてみましょう。植物名の漢字には「いくら考えてもその由来がはっきりしないものがよくある」とする円満字が「私のお気に入り」というのが「ソヨゴ」です。漢字での書き表し方は「冬青」だそうで、「まるで常緑樹の代表選手のような、立派な名前」です。

 でも、モチノキ科の常緑小高木で「正直、それほどメジャーではない」ソヨゴが、なぜそうなのか。円満字は「漢字の神様は、「松」「杉」「樫」などなど、メジャーな植物には、漢字一文字で書き表される名前を与え」たとしたうえで、次のことを考えたと書いています。

 「 ソヨゴは、残念ながらその選にはもれました。だからこそ、「冬青」と

  いう立派な二文字名をゲットできた。残りものには福があるって、本当な

  んですね!」

 ウム、ちょっとこれはホントかなと、私は思ってしまいますが、いかがでしょうか。たとえば「オモト」は三文字の「万年青」で書き表していますが、これはどう考えますかと、円満字に尋ねてみたくなります。

 きっと見ているはずのソヨゴがどんな木なのか、私には判別がつきません。下の写真は、似ているのかと思って撮影した同じモチノキ科で、ソヨゴと同じ時期に赤い実をつけている「クロガネモチ」です(さらに熟するとソヨゴと同じく実が黒くなるようです)。

  クロガネモチ(播磨町役場に隣接する小公園)  [2018.12.5撮影]

 

 始まるものがあれば、終わるものもあります。『図書』12月号で、1年半続いた齋藤亜矢さんの連載<ルビンのツボ>が最終回を迎えました。

 この方のエッセーに刺激を受けた私は、当ブログ(「ことのほか寒い冬ですがーカモのスピンに驚いてー」)で言及し、文章の末尾に聞きなれない<芸術認知科学>という学問領域を付する齋藤を、「まあ一人の書き手が誕生したといえるのかもしれません」などと、さもエラそうに評したりしたのです。

 私が紹介したのは、齋藤の「自然の美、人工の美」(『図書』2018年1月号)で、「自然を美しいと感じるのはなぜか。自然の美に感動することと、人工の美、つまりアートに感動することは違うだろうか」という問いに言葉を与えようとしています。その結論的な理解を、私は次のように書きました。

 「 齋藤は最初の問いに対し、「自然の美」を人知を超えたものとしてとら

  え、「自然の美と、人工の美であるアートに感動する」こととの切り離せ

  ない関係、つまりアートは自然の模倣というより自然からの抽出であると

  いう点を強調しているように読みました。私の理解の不十分さを意識して

  いますが、最後の「……その起源はとても近いところにある」という結語

  には強い説得力を感じたのです。」

 今、改めて読み返すと、ごく近々に接した伊津野雄二の彫刻や言葉との親近性に気づくことになりました(「いい午後でしたー伊津野雄二と松村光秀の彫刻ー(1)(2)」)。伊津野は、先史時代の造形や文様を、厳しい自然への畏怖と生への希求の形象化であると考えている人であり、「自然の美しさは、自分のちっぽけさを感じることと隣り合わせのような感じがする」と書く齋藤の自然とアートの関係論と通じ合うものです。

 そして、新潟絵屋の大倉宏さんが、伊津野の自然との交換関係を重視し、伊津野の女性像について「山里で暮らす日々に、伊津野が接し、交換してきた具体的な自然のイメージでもあるのだ」と感じると書いているのを、前記のブログで紹介しました。このような伊津野の彫刻は、齋藤の「アートは自然の模倣というより自然からの抽出である」との考え方と、<とても近いところにある>のではないかと、私は考えています。

 したがって、伊津野彫刻の<交換してきた具体的な自然なイメージ>とは、齋藤のいう<自然から抽出>された何かに他ならないと理解したいと思っています。

 

 さて、齋藤が『図書』に連載してきた<ルビンのツボ>、過去5回分のテーマは「仮想と現実」「二次元と三次元」「要、不要」「単純と複雑」そして最終回は「主観と客観」です。京都造形芸術大学の齋藤准教授にかかる「教員紹介欄」には、専門分野をやはり「芸術認知科学」とし、プロフィールに<認知科学から芸術にアプローチし、芸術を生み出す心の基盤を明らかにすることで「人間とは何か」の理解をめざす>と記されています。

 この研究は「見る」という行為への特別な関心を抜きに成り立たたないものと思いますが、齋藤はそのルーツを<ルビンのツボ>で、生まれつき右目が弱視で、高校一年生のときに網膜剥離にかかり、完全に光を失ったという自分の体験に帰しています。だから、「幼いころからの「見る」ことへの興味が、現在の研究テーマの原点なのかもしれない」と振りかえっているのです。とにかく赤ん坊だった頃から病院で眼の検査と治療を続けてきたこともあって、「見る」ことに鋭敏になり、強く意識してこざるをえなかったのだと思います。

 過去5回の連載のうち、11月号の「単純と複雑」にフォーカスし、齋藤の<自然からの抽出>論を、もう少し紹介してみることにします。

 日本モンキーセンターの公益財団化に際してロゴマーク(《HP》参照)の作成に携わった経験から、齋藤はそのプロセスを通し、「自然からの抽出のむずかしさとおもしろさ」を感じることができたとしています。で、このような機能を重視するデザインでなく、アートであれば、「むしろいかにステレオタイプではないものを抽出するかが」肝心なのではないか、そしてふだんの「見る」が意味処理しようとするものであるのに対し、「アートのツボは、わたしたちに「見る」をさせないことにある」のではないかと、齋藤は理解したのです。そのうえで、次のとおり「見る」ではなく「視る」「観る」を用いて、アート体験を言葉にしています。

 「 作品に表現されたモノは、既存のスキーマから外れていたり、「何か」

  であること自体を拒否したりする。そのときわたしたちは「何か」として

  「見る」のをあきらめて、そのモノ本来の形や色や質感をそのままじっく

  り「視る」。そうして作品と向きあううちに、埋もれていた記憶が掘り起

  こされたり、思いがけない連想につながって自分なりの意味が見いだされ

  たりする。それが「観る」という主観的な体験ではないかと考えてい

  る。」

 このアート体験観は抽象表現主義や現代アートの作品を多分に意識したものですが、齋藤は晩年の熊谷守一の単純な線や形で描かれた「ネコ、アリ、石ころ、雨粒」などの作品に、そんな「意味ではない部分、それも自然からぎゅっと凝縮されエッセンスが抽出されている」と感じると書いています。「一見単純に見える形や色に表現されているのは、むしろ自然の多様さや複雑さの方」であり、「とことん「視る」ことではじめて見える世界を、作品をとおして垣間みせてくれる」と、高く評価しているのです。

 そして、この小エッセーの結語として次の一文を綴っています。

 「 意味の外にあるおもしろいものを抽出できるように、複雑な自然を複雑

  なまま「視る」目を養っておきたい。」

 これは人間の認知の実態(認知科学による<知>)を踏まえた齋藤の芸術観が背景にあるのでしょう。人は往々にして必要なものだけに注意を向ける「選択的注意」によって暮らしていますが(そうでなければ生活しにくい)、一方で不要な情報にこそ「おもしろい」と感じるものがあるというのも事実でしょう。つまり人間は偏った世界しか見ていない、見えていないのであるが、齋藤は「こんな見えていないものやゆがんでとらえているものがたくさんあるからこそ、芸術が生まれ、芸術を楽しむことができるのだと思う」と考えるのです。だから、アーティストとは「人に見えていない「おもしろい」を抽出して表現につなげる」人なんだというわけです。

 したがって、「アートとは自然からの抽出である」とする齋藤の基本認識は、「複雑な自然を複雑なまま「視る」」ことによって「意味の外にあるおもしろいもの」を抽出する」ことと翻訳することができるのでしょう。言葉のうえで浅薄な理解をしているだけのようで不全感が残りますが、人間の認知には偏り、限界があるからこそ、人間には芸術のようなもの、人知を超えた自然への畏怖を源流として抽出されたものが不可欠であるとの知見を、齋藤の一連の考察から送り届けられたものとして、私は受けとめたいと思っています。

 人間の認知が全てだとする思い上がり、「人間には偏った世界しか見えていない」ことを自覚しておくことが大切なのでしょう。それがまた「芸術」なるものを体験することとつながっています。

 

 今回も『図書』に依存してというか、刺激をもらってブログを書いてしまいました。この月刊というサイクルで届く岩波書店のPR誌は、たこつぼに入り込みがちな「私」を、新鮮な風でリフレッシュさせてくれます。そんなかっこいいものではないにせよ、インスピレーションの源でもあるのです。

 当ブログを始めた2015年11月に、『図書』が800号を数えたことを書いています(「『図書』800号」)。同号の「年間千円の愉しみ」という対談のなかで、このタイトルにちなんで、池澤夏樹が「家賃100円の書斎」と言い換えていることを紹介しました。ホントにそうだなあと思います。

 それから丸3年、特集号もあって、12月号で<840号>となっています。

 

 さて、最後に山田風太郎(1922-2001)の『あと千回の晩飯』にふれておくことにします。

 不用意にも、最近のブログ(「記念日の強がりー『思泳雑記』の三年ー」)で、三年にひっかけて、いかにも読んだように『あと千回の晩飯』という書名を使ってしまったのです。今回、20年以上前に刊行された同書を古本で手に入れて読んでみました

 当時も今も山田の晩年の刮目すべき死生観という評言が多くあるように思います。実際に読んでみると、それはそれでまちがいではありませんが、意外なところもあります。山田72歳、「病徴というより老徴」を意識し、「晩飯を食らうのもあと千回くらいなものだろう」との思いをテーマに、平成6年10月から『朝日新聞』朝刊にエッセーの連載が始まりました。だが半年で中断となり、またその半年後の平成7年10月から再開され、翌平成8年の10月まで続いています。合わせて1年半の掲載期間でした。

 この中断中に何が生じたのか。50年間病院に行ったこともなかったという山田は、急速な視力低下で致し方なく眼科を訪ねたところ、何の自覚もなかった糖尿病による眼底出血だと診断され、そのために入院治療を余儀なくされました。さらに追い打ちをかけるようにパーキンソン病も発見され、その治療のための薬で幻覚症状を起こし、大腿骨骨折に見舞われていたのです。

 再開後、山田は、タイトルの「あと千回の晩飯」に自縄自縛になって、「あと千回くらいしか晩飯が食えないのなら、その千回を事前にみずから予定したい」と思い立ったのです。「そんなものがあれば私も助かる」と奥様にもいわれ、数年前の六十代に短期間続けた<食事記録>にもとづき、具体化しようとしますが、挫折します。そのてんまつの核だと思う部分を、少し長くなりますが、書き写してみます。

 「 思いみれば6、7年前とは、歩行速度がちがう。身体の屈伸度がちがう。

  そして食い物の咀嚼力がちがう。従って味覚もちがってくるばすだ。

   六十代と七十代。

   若い眼で見れば、どちらも大した差のない老人に見えるだろうが、実際

  にその両方を体験してみれば格段のちがいがあることは、近来しみじみと

  痛感していることではないか。これも七十代にして知る初体験にちがいな

  い。

  「そもそも食い物を予定表によって食う、などということがまちがってる

  のかも知れん。こんなことはよそう」   」

 それはそうなのでしょう。

 『あと千回の晩飯』は、今年の流行語大賞「そだね」を連発できるエッセー集でした。これからも引用したくなることもあるでしょうから、今回はここまでにしておきましょう。

  

  山田風太郎著『あと千回の晩飯』 1997年4月刊/朝日新聞社

 
 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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