2018.09.15 Saturday

クーポラが見える街でー池上俊一『フィレンツェー比類なき文化都市の歴史』をきっかけにー(2)

🔹すっかり忘れてしまいー前回から今回へー

 前回((1))から2ヵ月ぶりで「フィレンツェ」に戻ってくると、たった2ヵ月ほど前のことなのに、そのとき読んだり調べたり、そして思ったり考えたりしていた内容を、すっかり忘れてしまっていて、いささかぞっとしたような心持ちになります。ちょっとひどくなった、たんに老いの進行というだけでなく、自分の内側に発見できた言葉から離れて書こうしているからではないのかとの疑いが頭をもたげます。

 

 これまでにも海外旅行で訪ねた街のことを当ブログでメモしてきましたが、前回は最多の訪問回数(といっても3回だけ)にもかかわらずトライできていない「フィレンツェ」を取り上げました。そして、三度のフィレンツェへの旅で出会ったものを再構成してみるとともに、その前段で、『フィレンツェ』という新書で池上俊一がフィレンツェの歴史を古代から現代までたどることで見えてきた<ルネサンス>なるものへの見方についても紹介しました。

 前回のブログを書くことで発見というか、確認できたのは、私にとっての<フィレンツェ>と<ヴェネツィア>の関係です。私は<フィレンツェ>に不完全燃焼的な印象が残っていましたが、それは、どうも<ヴェネツィア>との相対的関係によるものらしいということです。つまりフィレンツェよりヴェネツィアの方の印象が強くて、濃くて、だから二つの街とも時代を超越した空間に包まれたという皮膚感覚は同じく残っているにもかかわらず、相対的にフィレンツェへの印象が軽くなっていたのです。

 でも、前回、具体にフィレンツェの街のことを書こうとしていると、そのおかげなのか、歳月というスクリーニングによる作用なのか、まざまざと眼前に浮かんでくるものがありました。それはベタの極みというべき「ドゥオーモの大ドーム、フィレンツェの代表色である赤褐色の瓦のクーポラであり、川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観」でした。そして、前回の最後のところに書いたとおり「フィレンツェという歴史が堆積した空間にただ身をおいていたことに深い喜びを感じる自分を再発見」することができたのです。

 

 今回は、そんなフィレンツェの象徴にしてランドマークというべき二つ、クーポラアルノ川のことを中心に、もう少し詳しく書いてみる、というか残されていた写真を並べて見えてくるものを言葉にしておくことにします。 

  フィレンツェ五十五宝マップ 『芸術新潮』2005年1月号より

  フィレンツェの市壁の拡大  橙:1170年代  青:284-1333年

 

🔹クーポラこそ「最大の芸術」ー「現場の人」ブルネレスキという建築家ー

 「フィレンツェ最大の芸術作品は何だろうと考えると、私はこのクーポラではないかと思います」という文章に出会いました。『芸術新潮』2005年1月号の特集で「至宝55選!フィレンツェ・ルネサンスに見惚れる」の解説を担当した森田義之(愛知県立芸術大学教授[現名誉教授])という方がそう断じています。

 フィレンツェはお宝だらけではあるが、結局はこのクーポラに尽きるのではないかというご意見なのでしょう。ある種、この虚をつかれたような意見は、イタリア美術史の研究者である森田教授が、フィレンツェの至宝というべきものをリストアップして丁寧なコメントを加えたうえで発したことです。クーポラは誰もが認知するフィレンツェのシンボルであっても独立した芸術として意識することがなかったから、「最大の芸術作品」だとする森田発言に驚いたのです。

 したがって、「至宝55選」をほとんど知らない私が軽々に同調することなど失礼千万といわざるをえませんが、そう言われればそうだよなあとその尻馬に乗りたくなったのも事実なのです。

  ドゥオーモのクーポラ [2012.1.7撮影/デパート・リナシェンテ階上カフェ]

  ドゥオーモのクーポラ◆[2015.5.15撮影]

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とクーポラ [同上]

 この巨大なクーポラは、日本語で大円蓋などと訳されていますが、石積み建築としては現在でも世界最大です。その建設の過程にこそ、興味深いエピソードが詰まっています。

 フィレンツェのドゥオーモとして、先行するビサやシエナを上回る規模をめざしたとされるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、1296年に起工され、内外情勢の変化によって繰り返し中断を余儀なくされながらも、1380年に身廊部分が完成し、1410年代には中央上部にクーポラの基部となる八角形のドラムが築かれたことによって、1418年にはドーム部分であるクーポラを残すのみとなっていました。

 さて、こうした負けてはなるものかと前例のないような大きな聖堂ができあがり、いざ肝心の屋根であるクーポラを載せようという段になってみると、はたと困ったのです。願望はあっても実現の方法がわからない、つまり工事の方法が、誰にもわからなかったのです。

 このとき登場したのが、時代を反映して彫刻家から出発し、その後ローマの古典建築から学んだといわれるブルネレスキ(1377-1445)です。ルネサンスという時期の建築家といえば必ずトップで登場する天才建築家です。1418年、大聖堂にいかに合理的な工法で丸屋根を架けるかという設計コンクール、その後の紆余曲折をへて、「誰もがほとんど不可能だと考えていた前代未聞の難工事の設計と工事の全責任を一手に引き受けて」見事にやり遂げたのです。

 その方法とは、従来のようにアーチ型の仮枠(内側に木材で仮の支えとなるものを作る)を組まないで、二重シエル方式(仮枠なしに内側と外側にレンガを直接積み上げていく方法、内側と外側の壁が互いを押し合う構造によってバランスをとるという方法)という画期的なものでした。ドームの壁用の煉瓦を特注サイズで作り、それを矢筈状に、巻貝の模様のように渦巻き状に積み上げていくことでドーム全体が構造的に一体になることによって、強度と安定を確保したのです。

 

 ついには1434年にクーポラの頂頭部が閉じられ、1436年にはローマ教皇がやってきて献堂式が行われました。でも、これで終わりではなく、クーポラ頂頭部にのせるランターンは別の建築家の設計で、ブルネレスキが亡くなる年である1446年に工事が始まり、1461年に完成したのだそうです。

 もとより聖堂建設は世紀をまたがるほどの長期間を要することはよく聞く話ではありますが、尋常ではない規模(ということは予算も莫大ということになります)であるフィレンツェのドゥオーモももちろん例外ではなかったのです。

 クーポラとランターンの工事だけでも40年、最初の1296年の着手から数えると、1436年のクーボラ完成とした場合でも足かけ140年、1461年のランターンまで完成とした場合は170年近くの大事業であったということになります(それでもファサードは未完成のままでした)。

  ドゥオーモ配置図(大聖堂の西にサン・ジョヴァンニ洗礼堂)

  クーポラの壁の傾斜度数

  クーポラの壁の内部構造

 クーポラを載せるという難工事を可能にした工法について、ネットで情報を集めて読んで、前記の文章を一応書いたのですが、私には建築学的に簡潔な説明を加える能力がありません。そこで、現代日本の建築家である中村好文さんがブルネレスキのこと、その建築のことを書いた文章(『芸術新潮』2001年8月号「フィレンツェ 中村好文流 花の都の楽しみ方」)によって、この一筋縄ではいきそうにない天才建築家のことを紹介しておくことにします。

 いろんな資料からエピソードを読みあさり、ブルネレスキという人の建築家としての力量や人間像を思い描いてきた中村好文が強調しているのは、ブルネレスキが地に足をつけた「現場の人」であったということです。つまり「いつも現場の状況をありのままに観察し、そこで起こっている問題に対して的確で具体的な対策を立てられる」という<したたかな現実家>という相貌が、建築家であるブルネレスキの根っこにあったというのです。

 たとえば、高いところで作業する職人たちが食事やトイレでいちいち下に降りていかなくていいように、上の現場近くに調理場のある食堂や売店を設けたこと、暗い現場に照明装置をつけたことも紹介しています。さらには工事のために新たに無数の道具や機械を考案したりしたようで、中村は「自分の眼と気持ちと身体を決して現場から離すことのない熟練の映画監督のような建築家像」が浮かんでくるとしています。

 

 今でもブルネレスキ生誕何年には大規模な展覧会やイベントが開かれるほどで、難事業であったクーポラ工事の立役者として「フィレンツェ市民栄誉賞」ものの建築家であり続けていると、中村は書いています。そして、鎌倉時代に東大寺の南大門を作った僧侶兼建築家である<重源>はブルネレスキに匹敵する功績があったと思うが、フィレンツェとブルネレスキの関係のようにはなっていないのはどうしてなのだろうと自問し、次のように自答します。

 「 結局は建築というものに対して一般の人の関心の度合いが高いか低い

  か、つまり建築に対する「民度」の問題だという気がします。」

 この建築に対する「民度」の問題は、やはり池上が強調していたように「コムーネ(自治都市)という文明体が最高度に発展したのが」フィレンツェであり、つまりドゥオーモは私たちみんなのものだという意識が、こんな彼我の違いとなっているのかもしれません。加えて、建造物の燃えたり壊れたりという視点からみると、木造と石造という建造物の資材の違いが、建設や耐久の期間の差異となって現れるという面が、底流で影響しているともいえるのでしょう。

 それにしても、当時のフィレンツェで生きた人びとは、クーポラだけでも20年近くかけて一段ずつ積みあがっていくのを、街中のどこからでも見ることができ、そして、日々見守り続けることができたのです。そして、なんといっても街のDNAに刷りこまれたクーポラをつくった親方がブルネレスキなのです。

 

 さて、中村は、この大ドームに「大きな花の蕾のようなクーポラのふっくらとした形と色はたとえようもなく優雅」という表現を与えています。上の写真からもわかるとおり、八角形の底部から立ち上がるクーポラは、完全な半円ではなく、少し縦長の中村のいう「花の蕾」の形状をしているのです。私などドーム=半円と思い込んでいたきらいがありますが、このクーポラを初めて近くのリナシェンテというデパートの屋上から眺めたとき、その形の魅力を初めて発見できた気持ちになりました。

 また、街の至る所に存在する宝物だらけのフィレンツェにあっても、クーポラこそ「最大の芸術」ではないかと評した森田義之は、次の言葉でクーポラを讃えています。

 「 物理的に巨大なのは当然として、そのフォルムの美しさはたとえようが

  ありません。ゴシック風にやや尖った、意志的で力強いカーヴ、ヴァーミ

  リオンの屋根面を、八本の白い大理石のリブが分割する明快なデザイン。

  パラッツォ・ヴェッキオの塔のように猛々しく威嚇するではなく、すっき

  りと優雅な姿のうちに、フィレンツェという都市の誇り、文化的・政治的

  ・経済的な自信と優位性を、高らかに主張しています。」

 奇しくも、二人とも同じ<優雅>という言葉を使っています。

 

 こんなに全体写真を撮影することが難しい建築物はないよなあと思った記憶が残っています。それはドゥオーモの縦横の巨大さに比して、周りの空間が広場と呼べないような狭さで、近くの建物と近接しているからです。今のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東には元々、別の聖堂が並んでいて、その旧聖堂を解体して、洗礼堂の東に建設したのが現在のドゥオーモなのです。建設途中でさらに計画を拡張したこともあって、とりわけ東側からクーポラを見上げてみてもあまりよく見えないぐらいなのです。

 ところが、遠くて小高いミケランジェロ広場からは当然のこととして、フィレンツェの面的に広がる旧市街の至るところから、クーポラは顔を出しています。旧市街にはクーポラより高い建物がないことも大きいのでしょう。ですから、フィレンツェという巨大な船から顔を出し、「私はここにいます」と550年以上にわたり呼びかけ続けてきたクーポラは、これぞシンボル、これぞランドマークということになります。

  グラティエ橋からみえるクーポラ [2015.5.15撮影]

  ドゥオーモのクーポラ(サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅前広場) [2015.5.15撮影]

 前記の中村好文の文章で「到着すると、とりあえず挨拶するように訪れる建物」だということを読んでいたためでしょう、2015年5月、3度目のフィレンツェで、最初にサン・マルコ美術館でフラ・アンジェリコの『受胎告知』との再会を果たしたあと、次に近くの「捨子養育院」に向いました。雨が降っていたうえに、今美術館となっている施設は工事中で休館していました。だから、正直なところ、ゆっくり楽しんだという記憶はありません。

 捨子養育院はブルネレスキの初期の作品でルネサンス建築の代表作です。前回、池上のフィレンツェの「名誉」を背景とした「いわば拡大家族に擬せられた施設」ではなかったかという解釈を紹介しましたが、本格的な子供福祉センターであったというわけです。

 

 降りやまぬ雨と無造作に駐車している車の大群(工事車両か)に邪魔されて残念でしたが、何といっても目立つのはロッジア(開放アーケード)です。中村は「建物の台座のレベルを人の背丈ぐらいまで広場より上げ、そこにこの地方で採れるピエトラ・セリーナという緑灰石の石でつくった細身のコリント式列柱をたてて」ロッジアを作ったと表現しています。そう言われてみると、アーチが繊細で美しくしかも石なのに柔らかくて、ありがちな重さというものを感じさせないのです。この捨子養育院はアンヌンツィアータ広場に面していますが、その後、二方も同じようなロッジアが作られ、三方が回廊で囲まれた空間となっています。

 捨子養育院のアーチの間には、「彩抽テラコッタすなわち艶出しエナメルで着色したテラコッタ」がはめ込まれています。中村の助けを借りると、その青色の円形陶板には「布巻きにされた捨子たちの微笑ましい姿態の数々」「お襁褓とも、腹巻きとも、帯とも、包帯ともつかない布でぐるぐる巻きにされて、ちょっと腰をよじったりして両手を広げて立って」いたりして、なんとも愛らしいとしています。

 したがって、この広場は力んでしまってどうだといわんばかりの雰囲気は皆無で、すべてがさりげなく、調和のとれたやすらぎを感じることのできる場所となっています。現場から離れることのなかったブルネレスキの極端に流れずアイディアをコントロールできる天才性の発露であり、ルネサンスと呼ばれることになった時代の到達点を体現しているともいえるのでしょう。

 

 こんな捨子養育院のことを、ルネサンスを意識する池上は、「合理的なプランで秩序だっていて、一目でわかる明澄な比例関係が何より特徴」で、「全体のコンセプトはギリシャ建築の厳密な比例関係に倣っている」と説明しています。そして、細部はフィレンツェのロマネスク(ロマネスクといってもフィレンツェのアレンジが加えられたロマネスク)、「サン・ジョヴァンニ洗礼堂やサン・ミニアート・アル・モンテ教会からの借用のようだ」とも書いています。

  捨子養育院のロッジア [2015.5.15撮影/アンヌンツィアータ広場]

  捨子養育院のメダイヨン(アンドレア・デッラ・ロッビア作) [同上]  

 ブルネレスキでもう一つだけ。サンタ・クローチェ教会に附属する「パッツィ家礼拝堂」です。晩年の作で、中村は次の文章を残しています。

 「 僕には、ブルネレスキという比例関係にこだわった建築家が晩年にたど

  り着いた建築の境地のようなものが、「ショートパンツをはいて背伸びし

  ている女性」を連想させるその外観に窺えるように思います。」

 この礼拝堂のあるサンタ・クローチェ教会へ足を運ぶことのできた2012年1月の2度目のフィレンツェも雨の日でした。このメディチ家と競い合ったというパッツィ家、その礼拝堂は教会の内部を通り抜けた修道院の中庭に面していました。ほとんど人のいない回廊から暗く沈むような礼拝堂を、へえーとただただ眺めていたことだけを覚えています。

 

 最後にブルネレスキ建築の形態上の総括。

 先にブルネレスキの捨子養育院についての池上の見方を紹介しましたが、その建築を次のとおり定義づけています。そして、それは古き「ゴシック的形態」を打破したことになるが、皮肉なことに、さらに古い「ロマネスク的形態」の復活という側面もあったのだというのです。

 「 ブルネレスキは、古典的形態たる半円アーチや古代式円柱さらには平坦

  天井を利用し、立方体・半球体・正方形と円形を巧みに組み合わせること

  で、明晰にして秩序ある空間、シンメトリーとプロポーションの極北を、

  建築のあらゆるところに実現した。」

  パッツィ家礼拝堂 [2012.1.4撮影/サンタ・クローチェ教会回廊]

 

🔹ファサードという顔の力ー外面だけではわからないけれどー

 この項では、前項の建築という文脈もあって、教会の顔というべきファサード、街の顔ともなっている教会のファサードを取りあげます。

 前項では、中村好文、森田義之そして池上俊一の文章の引用によって、自分の記憶にあるブルネレスキ建築を再構成しようとして、いつもの長広舌になってしまいました。今項は、基本、意識的に撮影したとはいえないが、それなりにストックされていた教会、聖堂のファサードの写真を掲示するにとどめておくことにします。

 

 と、書いたはなからですが、その前に、三つほど留意点を書いておくことにします。

 まずファサードが「顔」である由縁について述べてみましょう。

 私のような普通の観光客がヨーロッパの街に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが、大建造物である教会であり、それもファサードです。未知の人に初めて出会ったとき、その顔にあらわれた多くの情報から、その人の人となりを脳が読み取ろうとします。教会のファサードも同じなのです。私は自動的に、ファサードから、教会の内部を想像しますし(結局、内部に入っても違いが把握できないのですが)、ある街の重要な顔として街の全体像を描いてみようとしています。

 顔という外面だけでわかるものではないけれど、理解の一歩目は顔からという気がします。もちろん顔と全体が完全に一致することはなく、繰りかえし、その差異を確認しながら、印象や理解を修正していく、変容させていく過程をたどっているようです。

 こうした理解の過程は理想的ですが、観光客としてはそんな余裕はないのが一般的で、事前のガイドブックからえた情報と突き合わせていることも多いのです。さらに私のように事後において、街の顔というような外面から得た情報を、別の情報、たとえば雑誌の特集記事から再構成して、また旅をしたように錯覚して楽しむこともあります。

 とにかく、ファサードは化粧をしていようがすっぴんであろうが、「顔」だから、特別でかつ大切だということになります。したがって、教会のファサードの製作は、これに関わる人びとの精神を象徴するものであり、そんな「顔」の骨相には街の成り立ちと時代の諸相が反映しています。

 

 次に「様式の混在」と「地域の独自性」についてもふれておきましょう。

 教会、それも大規模な教会は、前記のドゥオーモもそうですが、長い期間にわたって建設されることが一般的です。ですから、建築の基本様式が「ロマネスクゴシックルネサンスマニエリスムバロック」と変遷すると説明されていても、同じ建造物に様式が混在していることも多いということです。もちろん壊れたり壊されたりすることも多く、そのたびに何回も改築修復が繰りかえされていることが普通なのです。

 前記したとおり池上俊一が「フィレンツェのロマネスク」と表現しているように、基本様式に地域の独自性、アレンジが付け加えられているのです。とりわけコムーネが発達し、国家的な統一の遅くなったイタリアでは、地域の独自性が強く出ているといわれています。

 したがって、「様式の混在」と「地域の独自性」からすると、教会のファサードを単純に基本様式で仕分けすることなどできないというわけです。

 

 三つ目は、フィレンツェという都市の色調のことです。

 これも森田義之に依拠していますが、イタリアでは、古い街の色調は建材である石の色が決定していることが多いのだそうです。地域ごとに採れる石が違うからで、フィレンツェでは、パラッツォ・ヴェッキオなどの壁体となっている黄褐色の「ピエトラ・フォルテ」が基調となっています。加えて建物の内部とか前記の捨子養育院のロッジアとか、明るいグレーの石「ピエトラ・セレーナ」も多く使われています。

 それになんといっても、クーポラの瓦の色、ヴァーミリオンの色こそ、フィレンツェの色として記憶に残ります。高いところに上らないと、フィレンツェの屋根屋根をおおう赤褐色は見えないのですが、クーポラだけは遠くからでも見えていて例外だというわけです。

 大理石は遠くから運んでくる貴重品であることから、外壁に用いるのは教会だけで、ドゥオーモとサン・ジョヴァンニ洗礼堂という例外を除くと、ファサード部分に限られているのだそうです。「カッラーラ産の大理石」を地にして「プラート産の大理石」や「マレンマ地方等のピンク色の大理石」で「幾何学的なパターン」を描き出していることになります。

 

 またまた長い前置きになりましたが、まずは大物、大規模な教会、ドゥオーモであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、代表的な修道会であるドミニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会、そしてフランシスコ会のサンタ・クローチェ教会の三つです。

 いずれも13世紀後半から建設された教会ですが、細かな情報は省いて、ファサードについてだけ補足しておきます。製作順でいくと、サンタ・マリア・ノヴェッラはアルベルティの設計で1470年に完成(ルネサンス様式)、サンタ・クローチェは長く未完のままでニッコロ・マタスの設計で1863年に完成(ネオ・ゴシック様式)、そしてやはり途中で中断されたままであったサンタ・マリア・デル・フィオーレはエミリオ・デ・ファブリスの設計で1887年完成(ネオ・ゴシック様式)ということです。えっ、あとの二つは19世紀の完成なんだ、それまで今と同じファサードを見ていたのではないのです。それにしても、教会の躯体が完成しているに、現在のサン・ロレンツォ教会のフォサードのような荒削りのままであった(サンタ・マリア・デル・フィオーレは半分ぐらいはできていた)ことは驚きです。

 好き嫌いでいけばいかがでしょうか。極端にいえば、デザイン的には○△□の世界です。ドゥオーモのファサードは、華麗、華美、豪奢とともに、やりすぎという言葉が出てきてしまいます。宗教的な高い熱量がやはり行き過ぎを誘発してしまうのでしょうか。どれほどすごいなあと思っても、私からは<美>とはちょっと別物だと申し上げるしかありません。

 となると、やはりルネサンスらしい緊張と均衡を反映したサンタ・マリア・ノヴェッラの顔が一番美しいと感じています。これも池上のいう「シンメトリーとプロポーションの極北」というべきでしょう。

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 [2015.5.16撮影]

  サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂◆[同上]

  サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 [2015.5.15撮影]

  サンタ・クローチェ教会 [2012.1.4撮影]

 次は、初期のロマネスク様式の二つ。2回目のフィレンツェで宿泊したホテルの目の前にあったサンティ・アポストリ教会(「フィレンツェの古いドゥオーモ」と呼ばれることもある由緒ある教会とは知りませんでした)と、グラティエ橋上から撮影しただけのミケランジェロ広場に近いサン・ミニアート・アル・モンテ教会です。

 前者のファサードは前記の「ピエトラ・フォルテ」の石材でしょうか、後者は大理石です。前者の深く刻まれた年輪にはこれでもかの大理石のファサードを解毒するような効能を感じます。教会の内部にも入ってみましたが、頑固なまでに原型を守っている素朴な雰囲気の空間です。

 後者は玄人的なフィレンツェ好きに隠れたファンが多いそうで、池上のいうとおりいろんな後世のフィレンツェ建築に借用されているとのことですが、一見すると、そのファサードは、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会とサンタ・クローチェ教会に通じるものがあります。いわば池上のいうフィレンツェ的なロマネスクの典型的な代表モデルなのでしょう。

  サンティ・アポストリ教会 [2015.5.16撮影]

  サン・ミニアート・アル・モンテ教会 [2015.5.15撮影/グラティエ橋上]

 次は、大理石が使われていないファサードを二つ。メディチ家の菩提寺的な役割をはたしてきた教会として知られるサン・ロレンツォ教会と、アルノ川左岸のサント・スピリト教会です。いずれもブルネレスキが改築設計を手がけたといわれています。

 二つのファサードとも、いろんな事情からファサードは未完成のままになったのですが、後者のファサードは18世紀に今の形になりました。前者の方は、その後もファサードの改築プロジェクトが何度も持ち上がりましたが、現在まで実現できていないとのことです。もう一つ歯車が合わずなかなか実現できないといういわば不運の宿命なのかもしれませんが、前者の荒々しい石の素朴なたたずまい、後者のクリーム色に見える漆喰?が全面に塗られたシンプルなフォルム、いずれもすばらしいと思いませんか。私は、とてもいい顔をされたお年寄りに出会ったときのような静かな感動を覚えたのです。

  サン・ロレンツォ教会 [2015.5.17撮影]

  サント・スピリト教会 [2012.1.4撮影]

 最後は、夕食のために歩いていたときに撮影した教会を二つ。ですから内部に入ることなく外から眺めただけのサンタ・トリニタ教会オニサンティ教会です。はちみつ色というのでしょうか、そんな広場の照明のなかで、このような文化芸術都市の中心市街地の景観に溶け込んでいたように記憶しています。

 夜のために細部が分かりませんが、前者のファサードはベルナルド・ブォンタレンティの設計で16世紀の終わりころに完成(マニエリスム様式)し、後者はマッテオ・ニジェッティが手がけて1637年に完成(バロック様式)したのだそうです。昼の顔ではなく夜の顔で記憶してしまいました。

  サンタ・トリニタ教会 [2012.1.7撮影]

  オニサンティ教会 [2015.5.14撮影]

 

🔹空がひらけてーアルノ川と橋のリズミックな景観ー

 この項では、クーポラと並んで、「川幅が広くなくたっぷりとした水量のアルノ川とそれに架かる橋がつくりだす景観」のことを書いておくことにします。というより、手元に残る写真から選択して掲示しておきたいのです。

 

 アルノ川は、フィレンツェの旧市街を北と南に分けるように東から西へ流れています。イタリアでは大きな川ですが、私の知っているフィレンツェの旧市街あたりでは、川幅がせいぜい100mから150mぐらいで、石造の4つの橋が架かっています(フィレンツェという自治体単位だと8つあるようです)。私の短い滞在期間ではいつも水量が豊かで日本の川のように河川敷が見えているようなことはなく、水の流れがゆったりしていて、どうかするとどちらが上流か下流か分からないほどでした。私の渡った4本の橋は、上流から、つまり東側から、グラティエ橋、有名なヴェッキオ橋サンタ・トリニタ橋、そしてカッライア橋です。前記のオニサンティ教会のところから少しに下流にアメリゴ・ヴェスプッチ橋もありますが、そこまで足を伸ばしていません。橋間の距離も近く、東端のグラティエ橋から西端のカッライア橋まで約1劼阿蕕い任靴腓Αそして、両岸とも、建物がびっしりと立ち並んで迫っています。

 こうした街の中心を流れる川は世界中にあることでしょう。でも、例えば同じイタリアでローマのテベレ川は川幅がもっと広いですし、私の訪ねることのできたプラハのヴォルタヴァ川、ブダペストのドナウ川も旧市街を貫通していますが、比較になりません。極端な例を持ちだすとすれば、川ではないですが、ヴェネツィアの大運河ぐらいの規模を想像していただくのがいいのかもしれません。

 アルノ川の北側の旧市街は川から1劼鯆兇┐同まで広がっていますが、フィレンツェの旧市街全体でも東西南北せいぜい1.5~2劼糧楼脇發房まってしまうと申し上げていいでしょう。いわばモータリゼーションの時代の市街地ではなく、徒歩で人間が移動していた時代の市街地です。そして、そんな稠密な旧市街地の真ん中に、アルノ川と橋がぽっかりと空いた空間を提供してくれているのです。

 人工物である建物群のただなかに、川の水という自然物が存在し、上流にはミケランジェロ広場の丘、下流にはピサへ向かって緑の広がりがあって、自然物でもある人間がそれを目にし、その存在を感じていることになるのです。

 

 フィレンツェでは、観光客はもとより、居住する人びと(働いている人は新市街からの方も多いでしょうが)を含め、旧市街のアルノ川の橋を使わないで、何か事を済ますことができません。結局、何回も、この空間を行ったり来たりすることになるのです。

 だから効果抜群なのです。前回、アルノ川と橋の空間は、クーポラとともに「見失った方向性をリセットするする定点」であり、困ったときなど「とにかくアルノ川まで出てしまって」位置を確認することになると書きました。つまりはフィレンツェ地図の定点として街のことをあまり知らない人びとにも安心感を与える効果です。

 もう一つは、フィレンツェというそれこそお宝だらけの街に放り込まれ「おびただしい点と線の輝きにエネルギーを使い果たし」、感情をかき乱される混乱のなかで、はっと我に返るというか、ほっと一息つけるのがアルノ川と橋の空間だということです。私自身はほとんど無知で感覚の鈍い旅行者であまり関係はありませんが、それでもボッチチェリやフラ・アンジェリコなど芸術の宝庫で何かを求めようとする人びとの熱のようなものに圧倒されてしまい、いささか辟易としてしまったあとで、アルノ川と橋の空間は心を静める効果があったと告白できるでしょう。そんな鎮静的な効果があるということです。

 こうした二つの効果をもつアルノ川と橋の空間は、フィレンツェという街に安心感と安定感を与えているといえます。それにこの空間自身がもつ美、両岸に迫る建物の連なりにアルノ川と橋がリズミックに作りだす景観自体が、もう一つのフィレンツェでもあります。

 

 前回紹介したとおり、フィレンツェには、2009年5月、2012年1月、2015年5月の3回、旅行者として訪れましたが、このアルノ川空間には、朝の散歩が可能な日は必ず、そして観光の途中、夕食の前後などにも、足を運んでいます。2回目と3回目のSDカードからチョイスして、簡単なコメントを付して掲示することにします。

 まず、2012年1月4日、2度目のフィレンツェに到着した翌日の3枚です。朝食の前にべェッキオ橋から下流側を撮影しました。二枚目は目玉であるヴァザーリの回廊を歩くツアーに参加して、出発点のウフィツィ美術館から写した橋の連なりと左岸に頭を突きだしたサン・フレディアーノ聖堂です。そして、三枚目はヴァザーリの回廊、すなわちヴェッキオ橋の階上の真ん中あたりから、同じく下流を写したものです。 

  アルノ川とサンタ・トリニタ橋 [2012.1.4撮影/べェッキオ橋上]

  アルノ川と橋の重なり [2012.1.4撮影/ウフィツ美術館]

  アルノ川と真ん中に鳥が [2012.1.4撮影/ヴァザーリの回廊の窓から]

 次に4つの橋をそれぞれ紹介します。ヴェッキオ橋の上流からのグラツィエ橋です。上のファサードで紹介したサン・ミニアート・デル・アル・モンテ教会が橋の向こうに小さく写っています。

 上流から撮ったヴェッキオ橋です。階上はヴァザーリの回廊となっています。さらに手前はボートクラブだそうです。ユニークで面白い橋に違いありませんし、橋上には真ん中あたりに開けた空間があるとはいえ、残念ながら、私には渡っていても橋という感じがしません。

 そして、サンタ・トリニタ橋カッライア橋です。似ていますし、どちらも美しいといっていいと思います。下流のバスも通っているカッライア橋あたりは川幅が少しだけ広くなっているせいか、アーチの数が違います。

  グラティエ橋と遠くの丘にアル・モンテ教会 [2015.5.15撮影/ヴェッキオ橋の上流]

  ヴェッキオ橋 [2015.5.15撮影/上記に同じ]

  サンタ・トリニタ橋 [2015.5.15撮影/ヴェッキオ橋上]

  カッライア橋 [2015.5.15撮影/サンタ・トリニタ橋上]

 続いて、一日のうちの時間帯別です。すべて2012年の1月撮影です。残念ながら、天候の関係もあって、多くの人が称賛する夕暮れの風景は撮影できていないのです。

 一枚目は、ようやく明けかかった冬の朝焼けで、サンタ・トリニタ橋上で、二人連れを意識して歩きながらシャッターを押したものです。次は冬の午後、晴れたアルノ川を、カッライア橋から上流を撮影しました。そして三、四枚目のピンボケ写真は、冬の早く訪れた夕刻と夜です。

 こうしてみると、偶然のこととはいえ、やはりアルノ川に架かった二階建てのヴェッキオ橋が、ヴェネツィアのリアルト橋のように、この景観の大きなアクセントになっていることが否定できません。

  アルノ川の朝焼けとカッライア橋 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  午後のヴェッキオ橋 [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  夕刻のヴェッキオ橋 [2012.1.6撮影/サンタ・トリニタ橋上]

  夜のヴェッキオ橋 [2012.1.7撮影/サンタ・トリニタ橋上]

 次に人が写っている写真です。

 2度目のフレンツェに着いた翌朝、2012年1月4日の朝早く、ヴェッキオ橋からアルノ川の上流にレンズを向けている女性です。続く写真は、アルノ川はアスレチックのための空間ともなっていますが、2015年5月15日、右岸沿いに下流へとランニングしている女性です。

 最後は、サンタ・トリニタ橋の右岸たもとに立つ彫刻の人です(街の守護神なのでしょうか?)。

  ヴェッキオ橋からの撮影する女性 [2012.1.4撮影/ヴェッキオ橋]

  アルノ川右岸を走る人 [2015.5.15撮影/サンタ・トリニタ橋近くの右岸道路]

  サンタ・トリニタ橋右岸の彫刻 [2015.5.16撮影]

 最後の1枚です。晴れた朝、今となるとフィレンツェに滞在していた最後の朝、カッライア橋上から、上流に向かってシャッターを切りました。なんて白く鏡のように水面が光っていることでしょう。

  アルノ川という空間 [2015.5.17撮影/カッライア橋上]

 ガイドブックに書かれていることですが、古代ローマの頃からあったヴェッキオ橋は、1333年の大洪水で流され、その十数年後に現在のように両側に建物が並ぶ回廊風の石橋として再建されたのです。そして、ヴァザーリの回廊は、それから2百年もあと、1565年に建設されました。大洪水はこれで終わったわけではありません。サンタ・クローチェ教会で写真入りで紹介されていたので気づいたのですが、半世紀ほど前の1966年11月4日の大洪水によって、フィレンツェは広い範囲でまさに湖と化したのです。

 以上、いずれしても、アルノ川と橋のリズミックな景観は、フィレンツェと切り離すことのできないものですから、訪れることがあったら、ぜひ足を運んでいただけたらと思っています。

 

 悪い癖ですが、あと1回だけ続けさせてください。

                      【続く:(1)

 

2018.09.02 Sunday

8月の終わりは夏の終わり

 夏休みと関係がなくなっても、8月の終わりは夏の終わりです。

 毎年、ある特定の暦の時期になると、感情のベースの変化が感じられて少しリセットするような気持ちになります。大晦日と正月が代表選手なのですが、8月が終わろうとする頃にも感情の潮目が変わるように感じるのです。大晦日と正月は、この1年を振りかえり、これからの1年を想ってこうありたいと願う、1年を単位とする時間のとらえ方ですが、夏休みに終止符をうつ8月の終わりはちょっと違っているようなのです。

 猛暑、酷暑続きの今年など8月の終わりは夏の終わりだと口にすることがはばかられそうですが、今年もどんどんと昼の時間が短くなってくると、やはり夏の終わりころの明から暗へという感情の移り行きに気づきます。8月はお盆や原爆・戦争忌もあるからなのか、その終わりは1年という単位というより、もっと区切ることのできない時間が、心底に重い塊となって沈んでいくようなのです。

 

 でも、こうした感情の変化を意識するきっかけは、大きく変わりました。週5日働いていたころは、暦というか、もうすぐ8月31日になって9月が始まるという物理的時間の確認に依存していましたが、今は違います。自然と呼んでいいのでしょうか、光と雲と風という外部の世界との接触がきっかけとなって、夏の終わりを感じるのです。そこが従前と最も変わったところです。

 夏至から7月の終わりにかけては、午後7時をだいぶ過ぎてもまだまだ明るかったのが、8月が深まると午後7時には夜の帳がすぐそばにおりてきたように感じられます。夕景の色も、雲のかたちも、風のにおいも変わってきます。公園の木立ちの周りをよくみると、蝉の屍が累々としています。自転車で暗くなった水田の脇を通りぬけるとき、青虫がどんどん顔に当たってきます。そうしてあんなに遠くにあった夏の終わりが、疑いようもなくやってきたと確信するのです。

 それにしても、早く涼しくなることを願っているのに、だから喜んでいいことなのに、8月の終わりに、夏の終わりに、どうして重い塊を飲みこんだような気持ちがつきまとうのでしょうか。

 変っていくことは、必然のことだとよくわかっているはずなのに、夏至から冬至への期間は、昼よりも夜の方が毎日だんだんと長くなっていく世界であって、そのことを身体を含めて感受する生きものとしての人間にとって、そんな時間の変化の予感が心の奥底にある「感情」の湖に反映しているためではないのかと思ったりもしています。

 こんな人間の感情の在りかを船に喩えるなら、<重い塊>は「錘」となって、重心が上から下へ、と移行し、どんなに摩滅していようと感情の襞襞はそれをとらえているようなのです。夏の終わりは不思議な<時間という錘>のために、喫水線が沈みこむということであり、急に甲板からの景色が変わるようなものかもしれません。

 こうした感情の基底部に生じる変化は、喫水線が下がり船が深く沈みこむ作用なんだ、だからこそ深く感じとれることもあるんだと考えればいいのだ、だからどうかといえば生きていることの証しなのではないかと、年を重ねた今は、思ったりするようになってきました。

  本庄漁港の夕景(播磨町) [2018.8.27撮影]

  昆虫網をもつ少年(播磨町喜瀬川河畔)  [上と同日に撮影]

 

 上の文章で<時間という錘>という言葉を使ったのは、「歌を作っていると自分の時間に錘が付いてきたような気がすると答えていたのを読んで、なるほどうまいことを言うと感心したことがあった」という「時間という錘」というタイトルのエッセーに出会ったからです。

 これは、20歳になったばかりの娘さんがある雑誌のインタビューに答えていた発言を読んで、父親である永田和宏さん(1947-)が書いたものです。父娘の二人とも歌人ですが、<時間という錘>のことを「彼女は中学から歌を作り始めたが、歌を作っていなかったらとっくに忘れたしまっていただろう過去の時間のそれぞれに、歌が錘をつけてくれたというのである」と表現しています。

 短歌に無知な私のような者にとっても、十分に想像が届きそうな話で、同じくなるほどと感じたのです。永田さんは、次のように補足しています。

 「 短歌はその短さゆえに、事実を正確に記録するという点においては日記

  や小説には及ぶべくもないが、逆に、ある瞬間の心の動きを敏感にキャッ

  チし、短い言葉で定着するという早業においては他の文芸の追随を許さな

  い。事実の説明を犠牲にして、感情の核を抽出するのだと言うこともでき

  るだろう。」

 で、長く歌を詠んできた永田さんは、「私の時間が数千首の歌とともに残っている」ことになる、そして、そのありがたさが「このごろしみじみと感じられるようになってきた」と思っているのです。なぜなら、それぞれの時に詠んできた歌を読み返すと、作歌当時の記憶がまざまざと立ち上がり「風のにおいまでリアルに感じなおす」ことができるからだ、それが私(自分)の時間に錘を付けるということなんだと、永田さんは考えたのです。

 

 このエッセーでは、ご本人や妻である河野裕子さん(1946-2010)の歌だけでなく、選者として関わってきた投稿歌にもふれています。たとえば、忘れがたい歌として次の二首があげられていますが、「さまざまな人生に隣りあっているという気がするようになった」と、永田さんは記しています。

 「 亡き夫の財布に残る札五枚ときおり借りてまた返しておく

 

   逝きし夫のバッグの中に残りし二つ穴のテレフォンカード    」

 どういえばいいのか、なんだかしみじみとしてきますね。この具体的で平易な言葉によって、読者は、作者の悲しみを、もとより離れた位置からにせよ、共有することになります。このエッセーは次の文章で締めくくられています。

 「 それぞれの人にはそれぞれの時間が流れる。その流れた時間はその人だ

  けのものであるが、それが歌となって錘をつけられることにより、その時

  間を読者が体験することもできる。なによりその錘についた時間をもっと

  も噛みしめるのは、後年の自分自身であるにちがいない。」

  永田和宏著『もうすぐ夏至だ』 2011年4月刊/白水社

 このエッセーは永田さんの初めてのエッセー集である『もうすぐ夏至だ』(2011年4月刊/白水社)の一篇として収められています。前年に「近代以来の傑出した女流歌人」と称される河野裕子さんを喪った永田さんですが、病をえた河野さんとの日々を、そして「後の日々」を、二人の短歌をとおして語っています。そこには、著名な細胞生物学者でもある永田さんの視線もはたらいており、夏の終わりの読書にふさわしい一冊でした。

 

 先日、歌による記憶ということを大切に考える永田さんのことが、毎日放送のテレビドキュメンタリーで取り上げられました。タイトルは「記憶する歌~科学者が詠う三十一文字の世界~」(8月27日(月)1時35分~/毎日放送「ドキュメンタリー映像´18」)というものでした。

 2011年上梓の『もうすぐ夏至だ』から7年、今の永田さんが取材されています。妻を亡くした後の応答する伴侶のいない日常を「頼りない、よるべない」という永田さんの姿と心境が、科学者として、歌人としての日々の活動から立ち現れてきます。もう一つ、最近の社会、そして言葉への危機感を「社会詠」として反映させているところに焦点が当てられているのが特徴的です。

 永田さんもこう感じていたんだ、かく考えていたんだと、私は初めて知りました。

  ドキュメンタリー映像´18『記憶する歌』の冒頭タイトル

 今年の6月23日に龍谷大学で行われた講演会(「劣化することばーことばへの信頼を取りもどすために」)、そこでは4月に肺がんの手術をうけた永田さんが語っています。今の社会や政治を映すように、ことばが歪められている現状を、ことばから力が奪われる、信頼が失われ、馴らされてゆく、そしてついにことばが無化されることになるのだと、つまり「ことばが民主主義の根幹」だとしたら、現在のことばの危機は時代の危機なのだと、静かな口調で話しています。

 こんな映像の永田さんから、本人の詠んだ短歌とともに、全身で、今の時代へ問いかけた、異議を申し立てたという印象を深くもちました。

 なお、下の「不時着」とは、オスプレーの事故のことです。

   戦後七十年いまがもつとも危ふいとわたしは思うがあなたはどうか

 

   不時着と言い替へられて海さむし 言葉の危機が時代の危機だ

 

 そして、永田さん自身のことを次の歌としながらも、あきらめない、沈黙しないで発信していくと語っています。

   権力にはきつと容易く屈するだろう弱きわれゆえいま発言す

  同上のテレビ放送から永田和宏の短歌の映像

 せっかくですから、その歌の力に圧倒される永田と河野の響きあう相聞的な歌を書き写しておくことにします。

 ・出会いの頃 [は河野、は永田 以下も同じ]

   たとえば君 ガサッと落葉すくふように 私をさらつて行つてはくれぬか

 

   君に逢う以前の自分に逢いたくて 海へのバスに揺られていたり

 

 ・河野に乳がんが見つかった頃(2000年)

   何といふ顔してわれを見るものか 私はここよ吊り橋ぢやない

 

 ・河野に再発が見つかった以降(2008-2010年)

   わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ 君を思へどなぐさめがたし

 

   あなたにもわれにも時間は等分に残つてゐると疑はざりき

 

   一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ

 

   一日に何度も笑ふ 笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため

 

   歌は遺り歌に私は泣くだろう いつか来る日のいつかを怖る
 

 ・河野の死の前々日と前日(永田が書き写した)

   長生きして欲しいだれかれ数えつつ つひにはあなたひとりを数ふ

 

   手をのべてあなたとあなたに触れたきに 息が足りないこの世の息が

 

 ・河野の死からしばらくした頃

   たつたひとり君だけが抜けし秋の日の コスモスに射すこの世の光

 

 こんな短歌を読んでいると、ことばの力を感じます。ことばへの信頼を取り戻させる力のある歌ですが、社会という広がりを想定し、その怒涛のような強大な力を前にすると、「ことばが無化される」という現実に抗していくことは、大変に高い壁だといわざるをえません。

 夏の終わりは秋の始まりです。強烈な陽射しを避けるようにうなだれていた首をすこしあげて、見えるものをきちんと見たいと願っています。

 

【補足】

 ㊟前号まで続いた『私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめ

  ぐってー』が、(1)〜(6・完)と分割しなければなりませんでした。そこで自分の整

  のために、目次を表示して各号とリンクを貼っておくことにします。

 

     私たちは何を学ぶのか

      ー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー

 はじめに

 🔹『古事記』『日本書紀』の読まれ方ー戦前と戦後ー

 🔹いわゆる「津田事件」ー強いられた5年間の沈黙ー

 🔹津田論文「建国の事情と万世一系の思想」と終戦直後の諸情勢

               (その1)                                                                          以上(1)

               (その2)

 🔹編集者 吉野源三郎の憂慮と行動

  【その1】事の大要ー寄稿の依頼から『世界』掲載へー

     −                          以上(2)

     

  【その2】事の「真意」ー「皇室擁護論」だが「天皇制擁護論」でないー

  【その3】平泉訪問が明らかにしたものー「手套を投げる」ということー

                                 以上(3)

 🔹想像の域を出ないことだけれどー国民統合の「象徴」という考え方ー

 🔹「先生の独自の御解釈」への違和感ー丸山真男「超国家主義の論理と

      心理」を媒介にー

    (その1)                           以上(4) 

    (その2)                           以上(5)

    (その3)

 🔹おわりに                                                                           以上(6・完)

2018.08.28 Tuesday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー(6・完)

 前稿((5))では、津田の<万世一系>にもったであろう吉野の<違和感の内容>へ迫ろうとして、まず「先生の独自の御解釈」と吉野が評する津田の考え方のコアにあるものを、わからないなりに示すべくトライしました。

 続く、本稿では、(その3)として、<万世一系>の翌月に発表された丸山真男の「超国家主義の論理と心理」という論文を媒介させながら、さらに吉野の<違和感の内容>を考えてみるつもりです。そして、総括的なコメントを付し、この途切れ途切れにアップすることになってしまったブログを閉じることにします。

 

🔹「先生の独自の御解釈」への違和感ー丸山真男「超国家主義の論理と心理」

 を媒介にー(その3)

 何度も繰りかえすことになりますが、<万世一系>で展開された津田の「皇室愛護」論は、戦前の軍部や官僚にほしいままの行動をとることを許した制度と、「敬愛の情」や「精神的権威」を基盤とする国民の皇室観(津田のいう「天皇制の本質」)を、切り離すことによって成立しています。すなわち前者を否定し、後者を救い出すことによって、立論されているわけです。

 この津田の論理に対し、吉野は、<津田先生>のなかで、本当にそうだろうか、そして丸山真男の「超国家主義の論理と心理」が解剖した問題からすると、「両者はもっと深く内面で結びついたものであったのではないか」と、問題を提起しているのです。

 先走ることになりますが、吉野は、こうした津田の結論の前提にある「国民の皇室観」が、結局「先生の心情の中に」だけ存在したものであって、「少なくとも私にはそう思われた」と、次のような文章で、疑問を呈しています。

 「 先生が結論のように述べられた皇室愛護の言葉にあらわれた先生の心情

  こそ、むしろ先生の論文の論理に先行して、先生の問題設定を制約してい

  るのである。」

 つまり津田の<万世一系>は、「皇室愛護」という結論ありきで、それを導くために組み立てられた論文という一面があって、自由な<問題設定と考察>を阻害しているのではないかと、吉野はいいたいようでなのです。

 このことは、前稿で記したとおり<万世一系>にいささか無理のある「強引な論理展開」がみられるという私の感想に通じるものでもあります。

 

 さて、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」という論文は、私の手元に残る『増補版 現代政治の思想と行動』(1964年5月刊/未来社)[㊟元々は1957年に刊行されており、これは増補版]の冒頭の一篇として収められています。今回、半世紀を経て読み返しました(論文は1946年、70余年前のもの)。32歳になったばかりという丸山の清新さと鋭利さは十分に伝わってきますが、情けないことに私の理解度は明快に差し出せるようなレベルとはいえないようです。

 政治学の古典となった同書は、本人も述べているとおり<奇妙な本>で、各論文の「追記および補註」が付されていますので、これも参考にしつつ必要な視点のみを特記しておくことにします(当該論文について丸山自ら「どう見ても分かりのいい論文ではない」とことわったりしていますが)。

  丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』1964年5月刊/未来社 これは1972年第53刷

 この「追記および補註」には、「津田左右吉博士」が登場しています。説明がないと文脈がわからないですが、お許しをいただくと、次の文章です。

 「 ここで挙げたような天皇制的精神構造の病理が「非常時」の狂乱のもた

  らした例外現象にすぎないという見解(たとえば津田左右吉博士によって

  典型的に主張されている)に対しては、私は当時も現在も(㊟最初に刊行され

  た1957年か?)到底賛成できない。」

 この文章から理解できることを翻訳することにしましょう。

 まず丸山の「超国家主義の論理と心理」(以下⦅丸山論文⦆と表記)は、「天皇制的精神構造の病理」を扱ったものであり、戦前の一時期には「狂乱」と呼ぶべき病理状況が発現したということです。そして、このような病理とは戦争という非常時がもたらした例外的な現象であったにすぎないという見解があって、これを主張する典型的な論者が津田左右吉博士だというわけです。しかし、こうした津田をはじめとする主張については、執筆の当時も10年余を経た現在も、到底賛成することができないと、丸山は述べていることになります

 すなわち日本のファシズムと呼んでいいような時期の狂乱状況(「皇国史観」というイデオロギーが表舞台で暴走していました)を、戦時中の例外的現象として捉えてしまうことは誤りであり、もっと天皇制的精神構造に深く根差した病理現象(戦時中は突出していた時期ということができますが)として理解しなければならないと、丸山は主張しているのです(もちろん(その2)で記したとおり、津田がこの「狂乱」の時代の、特に<軍部及びそれに附随する官僚たち>の批判者であったことを忘れてはいけないのですが)。

 上に引用した文章に続いて、丸山は、津田博士に代表される主張に対するさしあたりの答えとして、「ヘーゲルの歴史哲学」から、次の文章を引用して掲げています。

 「 こうした(中世教会)の腐敗堕落は偶然的なものと呼ぶわけには行かな

  い。それは必然的なものであり、ある既存の原理の首尾一貫した発展にほ

  かならない。ひとはたんに教会におけるいろいろな乱用を云々するが、こ

  れは正しくない。こうした言い現わし方によって、あたかも、それ自体と

  しては善いものが主観的目的のために堕落しただけのことで、よき本質

  救うためにはそうした主観的歪曲だけを排除しさえすればよいかのよう

  考え方が喚び起されることになる。……(中略)けれどもある事物の濫用

  つねに個々の現象としてだけ現われるものであるのに反し、教会におい

  はあらゆる脈絡を貫通する腐敗の原理が登場したのである。」

 このヘーゲルの文章にある<中世教会>を<天皇制国家構造>とか<天皇制的精神構造>に置き換えてみると、津田と丸山の違いが浮かび上がってきます。また<腐敗>は<病理>ということになるのでしょうか。

 つまり、「天皇制的精神構造の病理」は「中世教会の腐敗」と同様、偶然的なものではなく必然的なものであり、「あらゆる脈絡を貫通する構造的な病理の原理」が存在していると、丸山は考えたのです。そしてヘーゲルの文中にある「よき本質を救うためにはそうした主観的歪曲だけを排除しさえすればよい」との部分と、たとえば津田が天皇制の本質であると考える国民の皇室観の存続を基本に、戦前の主観的歪曲に彩られた軍部や官僚のほしいままの行動をそれから切り離して排除すれば、そのことが可能であるという津田の主張はオーバーラップしているのではないかと、丸山はみていたことになります。

 すなわち、丸山は、津田のように簡単に切り離すことなどできるものではない、もっと国家の構造的問題として、精神構造の深いところで絡み合っているのではないかと考え、それを、吉野の言葉を使えば「明快に解剖」したのです。

 

 吉野が<万世一系>の原稿を1946(昭21)年2月に初めて読んだとき、もとより⦅丸山論文⦆はまだ発表されていなかったわけですが、津田論文の「皇室愛護」という結論に、こんなに簡単に切り離することができるのだろうか、「本当にそうだろうか」との疑念をもったことと、同じ基盤であったといえます。そうだからこそ、<津田先生>において、吉野自身の疑念、違和感を、当時大変に話題となった⦅丸山論文⦆を例示して託したのだと、私は考えています。

 しかし、だからといって、⦅丸山論文⦆が絶対的に正しいなどと評価しているわけではありません。吉野の<万世一系>への違和感を考えるうえで、重要な視座を提供してくれていると考えているということです。吉野が感じていた津田論文の「論理の綻び」のようなものと、丸山が言葉にした「天皇制的精神構造の病理」が呼応していたということになります。

 そんな津田の<万世一系>に対し、吉野が左右両翼からの政治的利用を避けるべく行動したのも、この違和感を感得したからでもあって、<津田先生>⦅丸山論文⦆を持ち出した直後に、次の文章を続けています。

 「 そして、私が先生の論文の発表について、その政治的反応を考えなけれ

  ばならなかったのも、その問題につながっていたのである。」

 文中の<その問題>とは、長い長い戦争で悲惨な経験をくぐってきた敗戦直後の日本が、どのような新しい体制でなければならないかという重い問いのことなのでしょう。そのようななか、天皇制をめぐる問題は大きな焦点の一つであったことはいうまでもありません。

 『君たちはどう生きるか』を1937年に書いた吉野源三郎は、戦後の日本が真に「新しい日本」にならなければならないと考えていたでしょうし、<万世一系>の主張が「ホントウに新しい日本」につながるのかという点で、「疑念」や「違和感」をもったというのが事の真相ではなかったかと、私は想像しています。

 これまで使ってきた言葉「戦前と戦後の断絶性」という観点からは、吉野は、戦後の新しい体制が戦前の旧体制(明治以後の国家体制)と明確に断絶したものであることを希求していたということができます。そして、これは現憲法の基本価値にまっすぐにつながるものであったのでしょう。

  『増補版 現代政治の思想と行動』の目次「第1部 現代日本政治の精神状況」

 さて、これで終わった方がよいかと悩みますが、やはり⦅丸山論文⦆について少し補足しておきましょう。

 先に引用した同論文の「後記および補註」で、⦅丸山論文⦆は、終戦直後に輩出した「日本の天皇制国家構造の批判」がほとんどマルクス主義の立場から経済的基盤の問題に集中して行われていたのに対し、この問題を「精神構造からのアプローチ」として分析したものだと、丸山は説明しています。だから、分かりのいい論文ではないにもかかわらず、「新鮮なものに映じ」たのであり、「自分ながら呆れるほど広い反響を呼んだ」としたうえで、次のような断りを記しています。

 「 むろんここに描かれた日本国家主義のイデオロギー構造は太平洋戦争に

  おいて極限にまで発現された形態に着目して、その諸契機を明治以後の国

  家体制のなかにできるだけ統一的に位置づけようという意図から生まれた

  一個の歴史的抽象にすぎない。」

 ここでは、論理をおって順序立てて説明する能力も不足していますし、また尻切れにもなりそうなので、断片的な紹介にとどめることになります。

 

 本にして10数ページの短い⦅丸山論文⦆ですが、最後のパラフレーズを引用します。

 「 「天壌無窮」が価値の妥当範囲の拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡

  大が中心価値の絶対性を強めていくーーこの循環過程は、日清・日露戦争

  より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって

  行った。日本帝国主義に終止符を打たれた8・15の日はまた同時に、超国

  家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる

  主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」

 まず否定から入ることになります。丸山はこの論文で天皇制国家構造において「自由な主体」が生まれ得なかった理由を、「天皇制的精神構造の病理」として分析しているのです。そして、その病理現象を引き起こした精神構造の分析は、終戦直後の人びとの心の中心に届く緊張度と衝撃度をもったから、反響を呼んだのです。

 丸山が戦後の日本に「自由な主体的意識をもった市民、国民」を期待したのは十分に理解できますが、70年余を経た現在からすれば、この問題はもっと差し迫った課題として、引き続き私たちの前にあるといえます。まあ丸山は、論文の最後に希望をこめたメッセージとして書いておきたくなったと理解しておけばいいのでしょう。

 

 で、中味です。

 ⦅丸山論文⦆は、分析の前提として、明治以降の近代化過程において、ヨーロッパ的な意味において、日本は近代国家ではなかったという主張から出発します。つまり国家主義としての近代国家は「中性国家」とも呼ばれ、「国家権力が人びとの内面的価値から独立した機構」「個人の内面に干渉しない国家(個人の内面は教会などに委ねる)」として成立してきましたが、日本はそうではなかった、「国家権力は形式的妥当性を意識するに至らなかった」というわけです。だから、日本では、国家権力が人びとの内面的価値に入り込み(その象徴として「教育勅語」のことが指摘されています)、真善美のあり方も決めてしまうことになる、このことが特異であることに、権力者も民衆も気づかない、つまり国家主義としての近代国家とはいえない状態が、明治期以降の日本であったというのです。

 したがって、「国家主義」ではなく「超国家主義」と呼ばれるべきイデオロギーは、「全体主義の流行」とともに現れたのではなく、「日本の国家構造そのものに内在していた」ということになります。丸山は、このような日本の国家構造を、次のように描いています。

 「 「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一

  化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私

  的利害が無制限に侵入する結果となるのである。

   国家主権が精神的権威と政治権力等を一元的に占有する結果は、国家活

  動はその内容的正当性の規準を自らのうちに(国体として)持っており、

  従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的規準に

  服しないということになる。」

 だから、「倫理の究極の視座が国家的なるものにある」こととなり、それは「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」こそが問題となるのです。だから近代国家の前提である法というものは「治者と被治者を共に制約すると考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルキーに於ける具体的支配の手段に」すぎないのです。たとえば支配層の日常的なモラルが「抽象的法意識」や「内面的な罪の意識」や「民衆への公僕観念」でもなく、「具体的感覚的な天皇への親近感」である結果は、次のようなことになると書いています。

 「 そこに自己の利益と天皇のそれと同一化し、自己の反対者を直ちに天皇

  に対する侵害者と看做す傾向が自から胚胎するのは当然である。」

 このようなイデオロギーが「天皇制国家構造」に存在していて、それが病理現象として最も顕在化したのがいわゆる長い戦争の時期であったと、丸山分析したのです。そして、では「超国家主義にとって権威の中心的実体であり、道徳の泉源体であるところの天皇」は、「唯一の主体的自由の所有者なのであろうか」と問い、いや、天皇もまた「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背負って」おり、「皇祖皇宗もろとも一体となって」はじめて、「内容的価値の絶対的体現と考えられる」と、丸山は自答しています。次のような難解な表現で、このことを定義しています。

 「 天皇を中心とし、それからのさまざまな距離に於て万民が翼賛するとい

  う事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実は

  これを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無

  限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているので

  ある。」

 丸山のいう「一個の歴史的抽象」ということからなのか、やはり分かりにくいですね。こうした「天皇制的精神構造」は、具体的には、「公私混同」「セクショナリズム」「無責任体制」などさまざまな特徴をもった病理現象として出現します。特に有名なのは「抑圧の移譲」という概念で、丸山は次のように説明しています。

 「 こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心の

  うちに持たずして、より上級の者(従って究極の価値に近いもの)の存在に

  よって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲によ

  る精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下

  への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが

  維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ

  最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。」

 下への責任の転嫁という無責任体系の跋扈、現在の安倍政権を思い起こさせる現象であり、さらに私たちの日常にもあるということができますが、ここではふれないでおきましょう。

 

 この⦅丸山論文⦆には、戦前の日本社会で、こうした「天皇制的精神構造の病理」に与することなく苦闘してきた丸山の観察が活きているのですが、それはとりもなおさず「コペル君のおじさん」の時代を生きてきた吉野源三郎にとっても、深いところで共鳴できるものであったにちがいありません。

 こうした丸山的な視座を元々自分のものとしていた吉野は、津田の<万世一系>を前に、いわば国民の皇室観の一面だけを本質として切り出して展開された「皇室愛護」論に違和感をもち、戦前から学者として人格的にも敬愛してきた津田のことを憂慮し、危惧を感じて行動したのだと、今は考えています。

 

🔹おわりに

 なんだか息切れしてしまったような終わり方になりました。

 当初予定したよりサブテーマが膨らんでいき、全体が見えなくなったような気持ちです。タイトルを「私たちは何を学ぶのか」とした趣旨を、情けないことにすっかり忘れてしまったぐらいです。

 私の感想のようなものを書いて、ブログを閉じることにします。

 

 吉野源三郎のことを、もっと好きになったというか、信頼できる先人として、強く意識することになったということです。もちろん『君たちはどう生きるか』の作者として、ご贔屓する気持ちが根っこにあったからかと思いますが、今回、吉野の岩波新書『職業としての編集者』、その一篇である「終戦直後の津田先生」(<津田先生>と表記してきました)に、こうして関わって、いよいよその感を深くしたということです。

 それこそ私の想像にすぎませんが、吉野は、要領がいいとか、器用だとかからほど遠い人のように思うのです。今回取り上げた吉野の「憂慮と行動」は、誠実に知と情の一致を求めようとする七転八倒型の人、そんな悩みの多い不器用な人格が現れているように感じられました。それを私は今や死語となったみたいな「ヒューマニスト」と呼びたいのです。

 1946(昭21)年3月に発表された津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」(『世界』4月号)と併せて掲載の「編集者の手紙」を、今回あるサイトで読むことができましたが、その方はこの手紙を「長文の言い訳文」と表現されています。なるほどと笑ってしまいました。それでいいのかもしれませんし、20年後に書かれた<津田先生>に対してもそのような見方ができるのかもしれません。

 「言い訳」そして「弁明」「弁解」、でも私にはそうは思えないのです。だからこそ、このブログで取り上げたのです。そんな「弁明」が皆無であったと断言することはできません。でも、戦前、戦中、戦後を誠実に悩み深く生きた人、編集者であるより前によき知識人であることから逃れられなかった人。「手紙」があったから「<津田先生>」は書けたと思いますが、「弁明」をこえた時代の証言として、後進の編集者たちへの「手紙」ともなっています。

 

 「私たちは何を学ぶのか」、私が何を学んだのかは、本稿で書いたことだと申し上げるしかないわけです。

 当初の計画では、<津田先生>の「同時代把握のむずかしさ」ということを取り上げてブログを閉じようとしていました。このことは前記してしまいましたが(「編集者 吉野源三郎の憂慮と行動」の「【その3】平泉訪問が明らかにしたものー「手套を投げる」ということー」)、もう一度、吉野がつぶやくように書いている次の文章を、再度引用することにします。

 「 それにしても、現に自分が生きている同時代を正確に把握し、同時代の

  出来事の歴史的意味を過たずに知ることは、なんとむずかしいことなのだ

  ろう。」

 これは、津田左右吉博士が平泉ではなくて東京にいたら、同時代の把握がもっと違ったものになったのではないかとの思いから、吉野が書いたものです。もとよりそのことは吉野自身の自戒でもあったでしょう。

 これは、私がまさに今を生きていて実感していることです。私だけではありますまい。自分が生きている時代をつかむことの困難さは、思考停止を招きます。これに抗して生きようとすれば、何が必要なのでしょうか。

 こんなことを強く意識させてくれた一文でした。

 

 どうしようもないことに動揺したり、かないようもない希望にとらわれたり、年はとっても人は人ですね。今、どこか吉野に励まされた自分がいることだけは確かなような気持ちです。

                 【終:(1)(2)(3)(4)(5)

 

2018.08.28 Tuesday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー(5)

 前稿((4))では、書き残したこととして、「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴」であるとする津田の皇室観と憲法の「象徴天皇」の制定に関し、「何かつながりがあったのではないか」と、吉野が膨らませた<想像の内容>について言及しました。

 そして最後にもう一つ、津田の<万世一系>に吉野が抱いたであろう<違和感の内容>について考えてみようとして、導入部を提示したところでした。本稿では、その続きを(その2)として書き進めます。

 

🔹「先生の独自の御解釈」への違和感ー丸山真男「超国家主義の論理と心理」

 を媒介にー(その2)

 前稿の(その1)で、津田の<万世一系>に対し、吉野は、政治的利用への懸念という面からだけでなく、その内容にも納得できないところ、違和感をもったからこそ、あの「憂慮と行動」となったのではないのかという意見を提起しました。

 その前提となるのが、吉野が津田へ宛てた手紙に「先生の独自の御解釈」と評した津田の論述をどうみるかという問題です。

 

 では、吉野が「先生の独自の御解釈」と呼んだ内容を、<万世一系>から、前記の深草論文にも助けてもらいながら、描いてみることにします。

 正直に言えば、<万世一系>を読んで、私自身もこの部分が論文のポイントだと理解したのですが、この上代(古代)の天皇、皇室を取りまく諸事情が、その後の長い歴史において、明治期以降の天皇制においても、「国民の皇室に対する敬愛の情」として変わりなくその底流にあって貫通しているという主張に、力業的な論理の跳躍を意識しましたし、ありていに言えば、論理の強引さというか、いささか無理があるのかなあとの感想を持ちました。

 こうした感想はさておき、ここで、津田が<万世一系>の「二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情」のなかで、大和国家が5世紀には不動の地位を得るに至った事情を5点にまとめていますので、長くなりますが、深草論文の要約におんぶしつつ、引用しておきます(一部加除修正を加えています)。

 「 々勅爾日本民族の外から来てこの民族を征服したのではなく、同じ日

   本民族から起こり、次第に周囲の小国家を主として武力によらない方法

   で服属させていき、これらの小国家の君主を国造、県主として包摂した

   こと。皇室の政治の対象は地方的豪族であって、直接には一般民衆では

   なく、反抗を企てられる事情もなかった。

  ◆^枳餌欧箸寮鐐茲なかったこと。そのことは君主の地位を不安にし、

   その家系に更迭の生ずる機会を作る可能性があるが、島国でアイヌ以外

   の異民族と接触していなかった。

   上代には政治らしい政治、君主の事業らしい事業がなかった。上代の

   君主のしごとは戦争であるが、国内においてほとんど戦争がなく、した

   がって政治らしい政治はほとんどなかったのである。後にこれは変化が

   生じるが、その場合も天皇は政治の局にはあたらず、朝廷の重臣たちが

   相諮って処理したこと。

  ぁ‥傾弔暴ゞ掬な任務と権威があったこと。天皇は普通の人だが、日常

   の生活が呪術や祭祀によって支配されていた当時においては、呪術を行

   う人、祭祀を行う人として精神的権威を獲得した。

  ァ…鮮半島を経て流入した文物、知識、技術を最も多く利用できたのは

   朝廷であったから、おのずから文化上も卓越した威厳を獲得し、そこを

   中心に文化的生活の位階が生じ、また朝鮮半島への進出に伴い、朝廷周

   辺に一種の民族的感情を呼び起こし、その感情の象徴として皇室を仰

   見る態度が生じてきたこと。 」

 以上、こうした上代における天皇を取りまく諸事情を、津田は重視しており、その後の歴史においても、この歴史的諸事情がほとんど変化を受けることがなかったことによって、皇室に対する敬愛の情が養われてきたし、二千年も変わることなく、皇室は皇室として長く続いてきたと考えるべきだろうとして、次の文章でまとめています。

 「 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして

  歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから

  後ますます強められるのみであった。時勢は変り時代は変っても、上に挙

  げたいろいろいの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ

  同じであった。」

 二重政体の存在が許されなくなった19世紀中葉の明治維新は、ある面で「天皇親政の制」を定めようとしたものではあるけれど、国民は始めて現実政治において皇室の存在を知ることとなり、天皇親政の制が肯定されながら、一方で「輿論政治・公議政治の要求」が強く現れてきたと、津田はいいます。

 「 民選議院の設立の議には、立憲政体は政治を国民みずからの政治とする

  ことによって国民がその責に任ずると共に、天皇を政治上の責任のない安

  泰の地位に置き、それによって皇位の永久性を確実にし、いわゆる万世一

  系の皇統を完ならしめるものである、という考があったのである。」

 つまり、立憲君主制という制度の徹底化という方向を指しているのでしょう。だが、為政者たちがそれを許さなかった、つまり「憲法によって定められた輔弼の道をあやまり、皇室に責任を帰することによって、しばしば累をそれに及ぼした」と断じています。やはり津田は、明治の時期以降についても皇室と為政者を切り離し、為政者が天皇、皇室を曲げて利用した存在として強く批判しているのです。

 

 次に、終戦直後の天皇制をめぐる状況に対する津田のレスポンスを、<万世一系>からみておくことにします。

 注目すべきは、津田は、戦前のファシズムの時代への批判から、天皇制をめぐる「戦争責任」の問題、そして「皇位の永久性」に対する疑惑が国民の一部に生じている状況に対し、「それはそれで理由がある」というような、一定の肯定を与えていることです。その疑惑の主なる由来について、戦争前、戦中の「軍部及びそれに附随した官僚」の姿勢を、次のような文章で批判し、説明します。

 「 国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲

  解によってそれをうらづけ、そうすることによって、政治は天皇の親政で

  あることを主張し、あるいは現にそうであることを宣伝するのみならず、

  天皇は専制君主の権威をもたねばならぬとし、あるいは現にもっていられ

  る如くいいなし、それによって、軍部の恣なしわざを天皇の命によったも

  ののように見せかけようとした。」

 太平洋戦争を起こそうとした後は、軍部のこの態度はますます甚だしくなり、戦争のことをすべて天皇の意志から出たものとし、「国民がその生命をも財産をもすてるのはみな天皇のおんためである」と宣伝したというのです。この宣伝には、次のような問題があったと、津田は書いています。

 「 天皇を神としてそれを神秘化するとともに、そこに国体の本質があるよ

  うに考える頑迷固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴ってい

  た。」

 「皇国史観」、津田事件を引き起こした思想でしたが、これを明確に批判、否定したうえで、だから、敗戦による窮境や混乱を前に、すべて天皇の故であるという考え(「戦争責任論」)が国民の一部に生まれてきたことも理解できると、次の文章で説明しています。

 「 むかしからの歴史的事実として天皇の親政ということがほとんどなかっ

  たこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを

  考えると、軍部の上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁すること

  になるのは、自然のなりゆきといわれよう。」

 こうして天皇制批判について一定の肯定を与えた津田ですが、もちろん天皇、皇室は利用された側であり、悪いのは為政者側、つまり政治の実権をもつ側なのであって、その「皇室愛護」の姿勢に変わりはありません。天皇制をめぐる左右両翼、すなわち「天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものである」と主張する勢力も、「天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しよう」と主張する勢力も、いずれの勢力も、津田は「民主主義をも天皇の本質をも理解せざる」ものだと一刀両断し、否定しています。

 そうして、前記したとおり(「編集者 吉野源三郎の憂慮と行動【その2】事の「真意」ー「皇室擁護論」だが「天皇制擁護論」ではないー」)、吉野が特に強調した「皇室擁護ではあるが、天皇制擁護ではない」という津田の「民主主義の政治と天皇の存在は一致する」との考え方が導かれているのです。

 いわば、津田にとって、皇室は国民の精神的権威として無謬の存在だといえます。吉野は、この結論ありき的な津田の論理に違和感を覚え、軍部の行動を許した制度と、敬愛の情をもつという国民の皇室観が、「はたして先生のいうように、そんな別々のものであったか、どうか、両者はもっと深く内面で結びついたものであったのではないか」という一文を<津田先生>に書くことになった、あるいは書かずにおれなかったと、私は理解しています。

 「戦前と戦後の断絶性」というメルクマールからは、津田自身はそう理解していたと思います。だが、津田の「天皇、皇室の本質」が政治の実権ではなく、「精神的権威」なのですから、「象徴天皇」と規定されたとしても、何も変わっていないわけで、「戦前と戦後の断絶性」はなかったということにならないかと、私は考えています。【続く:(1)(2)(3)(4)/(6・完)へ】

2018.08.28 Tuesday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー(4)

 前稿((3))の最後のところで「続いてまとめにかかることにしましょう」と書いていますが、書き残したように感じることを、追加しておくことにします。

 これまで原因不明のまま、中途で尻切れで終わることが続き、いよいよ読んでいただきにくいブログになりました。これまでの目次のようなものを箇条書きしてから、次へと向かうことにしましょう。

 まえがき

 🔹『古事記』『日本書紀』の読まれ方ー戦前と戦後ー

 🔹いわゆる「津田事件」ー強いられた5年間の沈黙ー

 🔹津田論文「建国の事情と万世一系の思想」と終戦直後の諸情勢

 🔹編集者 吉野源三郎の憂慮と行動

 【その1】事の大要ー寄稿の依頼から『世界』掲載へー

 【その2】事の「真意」ー「皇室擁護論」だが「天皇制擁護論」ではないー

 【その3】平泉訪問が明らかにしたものー「手套を投げる」ということー 

 

🔹想像の域を出ないことだけれどー国民統合の「象徴」という考え方ー

 前記したとおり、<万世一系>には、次の文がありました。

 「 国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、

  皇室の存在の意義があることになる。」

 一方、現行の日本国憲法第1条は、次のとおり規定されています。

 「 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位

  は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 吉野は、<津田先生>で、上記のことが無関係だと思えないと、次のような思いを吐露しているのです。

 「 だが、それにしても、「象徴」という言葉や、国民的統一の象徴という

  考え方が、あまりにも津田先生の思想および表現に近すぎるので、私に

  は、何かつながりがあったのではないか、という気がしてならないのであ

  る。」

 もとより、吉野は「私の想像以上には一歩も出ない」ことだとことわっていますが、想像を膨らませるのをとどめることができなかったようです。

 この項では、来年は天皇の退位と即位という変わり目でもあり、この「象徴」をめぐる日本国憲法の制定過程を確認しつつ、吉野の<推理>のようなものにふれておくことにします。

 

 まず日本国憲法の制定過程との関係を確認しておきます。

 下記の写真は、衆議院憲法審査会のために同事務局が平成28年11月に作成した資料のうち、制定過程のスケジュール大要というような1枚もの資料の全部とその部分になっています。1945(昭20)年8月14日のポツダム宣言受諾以降、1946(昭21)年2月13日の(総司令部(GHQ)側)からいわゆるマッカーサー草案が手渡されるまでの経緯が第一段階とされ、資料の文章をそのまま使えば「第二段階は、日本政府にとっては革命的と言える変革を要求するマッカーサー草案を受諾するかしないかという形で、総司令部との関係で制定過程が推移していくそれ以降の経緯」ということになります。

『「日本国憲法の制定過程」に関する資料』平成28年11月/衆議院憲法審査会事務局 目次裏

 憲法制定過程のターニングポイントは、前記2月13日の「マッカーサー草案」だというわけです。

 終戦直後の1945年、マッカーサー元帥から憲法改正の示唆を受けた幣原内閣は、松本丞治国務相が中心となって検討を進め、近々に憲法改正要綱の公表が予定されていましたが、2月1日の毎日新聞に「憲法改正試案 立憲君主主義を確立」というスクープが報じられたのです。この記事で、松本案は「天皇の大権を定めた旧憲法の骨格を温存した」ものであったことから、GHQとしては到底受け入れられないと、独自の憲法改正案の作成に乗り出したといわれています(元々GHQには独自に草案を作成する意思はなかったとの証言があります)。

 その毎日新聞による60年後の記事(2006年3月5日「あの日を今に問う 新憲法案要綱」)を参照しつつ整理しておくことにしましょう。

 1946(昭21)年2月1日の毎日新聞でスクープされた直後、2月3日にGHQはマッカーサー3原則を示し、翌4日から同民政局が極秘裡のうちに9日間の突貫作業で「マッカーサー草案」を作成し、同月13日に日本政府へ交付しました。このGHQ案の受け入れの期限は2月22日で、当然のことながら松本国務相など内閣内には異論もありましたが、2月22日の閣議でGHQ案の受け入れを基本的に了承し、同日、幣原首相が天皇に拝謁して了承を得たとされています。

 そして、マッカーサー草案に基づき、日本政府は内密に要綱作成を進めますが、3月4日に新案を持参した日本側はそのままGHQに留め置かれ徹夜で作業して最終成案をまとめたのです。この成案(「憲法改正草案要綱」)は、3月6日に、勅語(「進ンデ戦争ヲ放棄シテ誼ヲ万邦二修ムルノ決意」が記されていました)とともに発表されました。

 このようにマッカーサーのGHQが憲法改正作業を急いだ理由としては、元々「日本の占領統治に天皇の存在が不可欠」と考えていたが、GHQの上部組織となる連合国・極東委員会が近々ワシントンに設置され、第1回の同委員会が2月26日に、さらには第2回の同委員会が3月7日に開かれることになっていたという事情が指摘されています。つまり連合国には天皇制に反対し、天皇の戦争責任を問う声もあって、GHQとしてはそうした動きを封殺する必要があったからだといわれています。

 

 では、この一連の過程において、天皇の地位を「象徴」とする案がどのようにして浮上したのかを、順におっておくことにします。

 2月3日のマッカーサー3原則では、次のように表現されていました。

 「天皇は、国の最高位(at the head of the state)にある。」

 なお、これを前記の衆議院憲法審査会資料では「天皇は、国家の元首の地位にある。」と翻訳されていますが、であれば「at」がない「the head of the state」が正解であり、この誤りが指摘されているところです(深草徹「立憲君主制と象徴天皇制の間 要約版」)。

 突貫作業の9日間に、GHQ民政局の作業チームにおいて、「象徴(symbol)」という言葉が登場し、マッカーサー草案では、次の条文案となったのです。

 第1条

   天皇は日本国の象徴であって、日本国民統合の象徴である。その地位は

  主権者である国民の意思に基づくものであり、他の如何なる源泉にも基づ

  かない。

 先の毎日新聞の記事には、約25人のGHQチームの一員として担当したリチャード・ブール氏へのインタビューが掲載されています。「象徴」(symbol)という表現が誰の発案かという問いに、ブール氏は「私一人に著作権があると主張できないが、私はおそらくそれを文書にした最初の人間です」と答えています。そして最初の案は「皇位(Imperial)は日本国と国民統合の象徴であり、天皇は象徴的な人格である」というもので、最終的に「天皇が象徴である」となったと述べています。

 ですから、この9日間に、マッカーサー3原則に明記されていない「象徴」という言葉が浮上し、形になったということになります。

 前記の衆議院憲法審査会の資料では、マッカーサー草案を「総司令部案」として、「<主な内容>」の「1」を次のように記しています。

 「1 国民主権と天皇について

     主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社

   交的な君主とする。」

 そして、3月6日に公表された「憲法改正草案要綱」については、残念ながら、条文案にかかる資料が前記の衆議院憲法審査会資料にも掲載されていないのです。その直近であるマッカーサー草案をふまえた「三月二日案」は、次のとおりです。

 第1条 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ

   標章タル地位ヲ保有ス。

 そして、同資料の3月6日「憲法改正草案要綱」の主な説明では、「三月二日案」の第1条から、「保有」という言葉が削除されたとしています。

 なお、松本案に基づく日本政府の「憲法改正要綱」は、ちょうど突貫作業中であった2月8日にGHQへ提出されましたが、「2 天皇制」は次のとおり天皇の大権の継続を前提としていました。

 「2 天皇制

   (1) 天皇の大権を制限し、重要事項はすべて帝国議会の協賛を要するも

    のとし、国務は国務大臣の輔弼をもってのみ行いうる。」

  同上の部分

 くどいようですが、「天皇制」に関する新憲法の制定過程をGHQと日本政府の関係から丁寧に論じた前記の深草徹という方の「立憲君主制と象徴天皇制の間 要約版」から、補足しておくことにします。

 深草は、天皇および天皇制の維持は、マッカーサーとGHQが「主導して決定した」のであって、米国本国政府や連合国諸国政府は「それを追認したに過ぎない」と結論づけています。そして、この論文はこのことを多角的に論証しようとしています。

 それは、前記の毎日新聞の記事をはじめ、多くの識者も述べているとおり、マッカーサー、GHQにとって「占領政策を効率的かつ平穏に遂行するために昭和天皇を利用できるという昭和天皇の利用価値」が、大きな意味をもっていたからだとしています。そして、この時期に憲法改正作業を急いだのは、前記と同じく極東委員会との関係、つまり「極東委員会が本格的に活動する前に天皇および天皇制の取り扱いに決着をつけ、新憲法制定に道筋をつけてしまうということにあった」としています。

 深草の論文から、補足的に私の知らなかった二つのことを紹介しておきましょう。

 一つは、1946(昭21)年1月24日に当時の幣原首相とマッカーサーが3時間余りも会談し、幣原が「戦争放棄」条項を含め、軍事機構を一切持たないことを提案したことです。幣原は直接の証言を残していませんが、マーカーサー回顧録にはその一節があります。これがマッカーサーにとって決定打になったと、深草は次のとおり書いています。

 「 当の日本の首相から、戦争の放棄と戦力不保持の申し出がなされた。し

  かも、彼は、天皇に政治的実権は不要だとも考えている。これをワンセッ

  トにして憲法に書き込めば、きっと本国をはじめ連合国諸国の政府や国民

  世論も承知するだろう。天皇および天皇制の利用はこれで貫徹できる。よ

  し、これで決まった、とマッカーサーは小躍りして喜んだに違いない。」

 この見解の当否を評価する力がありませんが、現行憲法の「象徴天皇」と「戦争の放棄」のセットについて、さもありなんではあります。

 もう一つは、「象徴(symbol)」のことで、GHQ民政局次長で草案起草の運営委員会の責任者であったケーディス大佐の話として、英連邦の「ウェストミンスター憲章」と関連文書を必死に読んみこんだという記憶をふまえ、次のことを紹介しています(中村政則『象徴天皇制への道ー米国大使グルーとその周辺ー』岩波新書から引用しているようです)。

 「 「ウェストミンスター憲章前文」には「王位(クラウン)はイギリス連邦

  構成国の自由な連合の象徴であり、構成国は、王位(クラウン)に対する共

  通の忠誠によって結合されている」とさだめられている。」

 これも、同じく、「象徴」の出所として(国内においてもさまざまな民間提案の新憲法案があって、その中には同趣旨の内容があったそうです)、さもありなんということでしょう。

 

 このあたりで頭の整理として、現行の日本国憲法の最初に「第1章 天皇」と「第2章 戦争の放棄」が置かれている理由を、大局的に、山口二郎法政大学教授から語ってもらうことにします(2015年12月11日開催の立憲デモクラシー講座「戦後70年の民主主義を再考する」)。

 戦後直後から、占領された日本では「戦争犯罪人の責任追及」と「戦後の政治体制の構築」という、二つの作業が並行して行われたとし、前記したとおり連合国諸国には「天皇の戦争責任を問うべし」という声もありました。そんな中で、次の前提条件とその具体化という経緯があったということになります。

 「 天皇制を残して、占領統治を円滑に進めるという政治的な判断を可能に

  するためには、やはり何らかの意味でけじめをつけて、戦前と戦後の断絶

  性を明らかにしていく必要があったわけです。

   そこで、憲法の第1章に天皇制を残すとともに、第2章で「戦争を放棄」

  し、日本は二度と侵略国家、軍国主義国家にならなかった経緯がありま

  す。憲法の第1章で天皇制を残す以上、第2章「戦争の放棄」は必然的に必

  要とされたという経緯かあり、第9条「戦争の放棄」は日本にとっての最

  高法規であると同時に、第2次世界大戦後のいわば国際秩序の一つの柱で

  あったと言うことができます。」

 この国際環境をふまえた山口教授の整理は、前記の毎日新聞の記事や深草の論文の主旨と同じ地平に立っています。ここで私たちが意識しておくべきは、敗戦国にとっては「戦前と戦後の断絶性」が明示されることの必要性が大前提として存在していたということです。それは日本にとどまらず、ドイツ、イタリアなども同じ状況があったといえます。

 そして、終戦直後の占領下における日本政府は、その動きからすれば、できるだけ「戦前と戦後の断絶性」を回避ないし曖昧化しようというのが基本姿勢であったということができます。

 たとえば、河西秀哉神戸女学院大学准教授は、日本政府が憲法に「象徴」と規定された天皇について、「具体的内容をできるだけ曖昧な形で定義づけよう」としたとし、それは戦前と戦後の「国体」が変化していないことを示そうという意図であったと論じています(2016年11月14日「戦前から揺れ動いてきた近代天皇制」WEB RONZA)。つまり憲法上の位置づけが「象徴」へと変化しても、その内実は大正期天皇制のようなものにしようとしていたとみて、次のとおり新憲法の成立の背景を分析しています。

 「 しかしそれを明言してしまっては、GHQや国際世論から批判を浴びる可

  能性がある。だからこそ、その定義に関してはできるだけ曖昧な答弁を繰

  り返し、制定まで持ち込んだ。それによって、「象徴」に明確な定義が与

  えられないままに、日本国憲法は成立し施行されることになった。」

 こうみてくると、いよいよ「戦前と戦後の断絶性」という視点が重要性を帯びてきます。

 

 さて、ちょっと憲法制定過程にこだわりすぎたようですが(本当はもっとこだわって勉強すべきといえますが)、ここで<津田先生>に戻りましょう。

 津田が<万世一系>の原稿を執筆したのは、1946年1月中のことだと吉野は書いています。それが2月の初め?には岩波書店の吉野の手元に届き、本稿で紹介している<吉野の憂慮と行動>を経て、『世界』4月号に掲載論文として発行されたのが、前月の3月ということになります。この1月から3月にかけての2ヵ月間が、ちょうど上記した憲法制定過程の時期と重なっているわけです。

 でも、ターニングポイントとなった2月13日の総司令部案には、既に天皇の地位が国民主権とともに「象徴」として明記されていたのですから、吉野は<万世一系>論文との関係を次のとおり述べています。

 「 そのときには(㊟2月13日のマッカーサー草案)、まだ、「建国の事情と万

  世一系の思想」は発表されていなかったのであるから、この論文そのもの

  が機縁となったとか、示唆となったとは考えられないのである。」

 では、どうして吉野が「何かつながりがあったのではないか、という気がしてならない」と書かずにいられなかったかといえば、吉野は二つのことが想像できるからだとしています。

 一つは「天皇の戦争責任が重大な問題」になっているという当時の国際情勢から、皇室愛護という心情の強かった津田は、「陛下の安危について非常な心配を抱いて」いて、次のとおり<万世一系>と同じ考え方の文章を書こうとしたのではないかということです。

 「 先生は、ひょっとしたら、その頃、自分の考えを書きとめておこうと思

  いたたれはしなかったろうか。また、それをひそかに日本政府もしくは総

  司令部の当局に示そうと考えられはしなかったろうか。私には、そういう

  こともありえないとは考えられないのである。」

 もう一つは、吉野は、自身が2月中に別件で総司令部に呼ばれたときに「皇室」のことを問われた(「室町や江戸時代のように政治を離れていた皇室として、これからつづいていくことは国民にとってはどうか」という趣旨の意見打診)という経験がありました。だから、「私にまでこのような打診が行われた」とすると、このような天皇制に関する打診は非常に広い範囲に行われたに違いないし、まして津田事件の当事者たる津田に対しても行われたのではないかと、次のとおり想像を膨らませるように書いています。

 「 問題が問題であるだけに、彼らが私などよりも先に、津田先生のような

  権威の意見をたずねないはずはなかったと思う。その場合には、たとえ先

  生から積極的に提出する気がなかったにしても、先生の書かれたものが彼

  らに示されるということもありえたわけである。そして、もしもそうで

  あったならば、「象徴」の思想は1946年の2月13日以前に総司令部の当

  局に伝わっていたと考えられるのである。」

 吉野は「これは飽くまでも想像の域を出ない」のことだとことわりつつ、また平泉訪問以降の津田に直接確認する機会も失したとしています。そして津田への敬愛とともに吉野の性格の特徴を示すような、次の文章で結んでいます。

 「 もっとも、仮に私の想像したようなことが実際にあったとしても、それ

  が先生の心をこめたひそかな行為であり、先生自身それについて他に語り

  たくないと思っておられたとしたら、たとえ機会があっても、私の性分で

  は、先生に向って想像にもとづく立入った質問ができたと思われない。所

  詮、これは私の想像以上には一歩も出ないし、出られなかったことであ

  る。」

 本項では吉野の想像の当否について論じるつもりはありません、というより、私の想像が及ぶわけもなく、何も分かってはいないのです。ここでは、津田の<万世一系>における「皇室愛護」「皇室擁護」の考え方が、日本国憲法の「象徴天皇制」というものと、通底している関係にあったと、吉野は評価しているようだし、そう言いたかったのではないかということを伝えたかったのです。

 誤解をおそれずにいえば、吉野は津田の天皇観をそのように理解していたというより、そう理解したいと望んでいたのではないかと、私は思ったりもするのですが。

 

 この項の最後にもう一つだけ。

 GHQ草案に基づく1946年3月6日公表の政府の「憲法改正草案要綱」について、各政党の反応はどのようなものであったのでしょうか。吉野は、この発表とともに、天皇制に関する論議も一件落着してしまって、次のような状況であったと回顧しています。

 「 この草案に対して反対を表明したのは、政党では共産党だけで、従来こ

      れと原則的に相容れない主張を掲げていた自由党や進歩党も、当時の内外

  情勢を考慮してか、この段階になると、豹変して、あるいは「原則的に

  賛成する」とか、あるいは「好感をもって迎える」といって、抗争の意志

  を放棄してしまったのである。」

 このことは、津田論文<万世一系>に対して吉野が抱いた深い憂慮、すなわち論文で懇切に説かれている内容が度外視され、表層部分だけが取り上げられて、左右両翼から政治的に利用されるということの裏返しと考えるべきだと思うのです。前記の河西准教授は制定時から「象徴」の定義が十分に行われないままで、曖昧にしてきたと指摘しています。いわば「戦前と戦後の断絶性」を曖昧にすることによって、それぞれの政党が、それはとりもなおさず主権者である多くの国民が、それぞれ自分の都合のいいように呑みこんで、あとは知らんぷりを決めこむようなイメージを抱かざるをえません。

 そこに、ある種の理想主義者である吉野は、<津田先生>を書いた1967年、戦後20年余を経て、歴史の実相のようなものを、そして歴史の哲学のようなものを、鉛のような重い気持ちでみていたのではないかということができます。

 

🔹「先生の独自の御解釈」への違和感ー丸山真男「超国家主義の論理と心理」

 を媒介にー(その1)

 津田の寄稿した<万世一系>論文に、吉野が「憂慮と行動」で対応することになったのは、これまでも繰りかえしているとおり、天皇制が最大のイシューとなっていた終戦直後の情勢にあって、なによりも左右両翼からの政治的な利用を回避させ、敬愛する津田を守りたいと考えたからです。でもそれだけでしょうか。やはり<万世一系>という論文の内容に、あの津田事件の津田が書いたという驚きは当然のことながら、『世界』という雑誌の立ち位置を超えて、納得しがたいもの、というか、違和感をもったという面があったのは確実なのでしょう。

 本項では、この吉野が<万世一系>に抱いた違和感(この言葉は<津田先生>では使われていません)の中味について少し考えてみることにします(「少し」というか、ささやかな感想にすぎませんが)。

 

 ご案内のとおり、『世界』1946年4月号に掲載された津田の<万世一系>には、併せて「編集者からの津田への長い手紙」が添えられていました。そのなかで、<編集者>である吉野は、津田の「皇室愛護」という主張が、これまでの歴史的研究の成果とともに「先生の独自の御解釈」(「皇室が二千年も国家における最高の地位を持続したという特異な否定できない事実についての」)が、終戦直後にあっても「皇室愛護」という主張の根拠になっていると指摘しています。

 吉野は、このことの当否は歴史学というフィールドで学問的に解決されるべき問題だとしているのですが、<津田先生>においても、津田が批判した戦時体制における軍部や官僚の恣意的な行動を許容した制度(「天皇制」の一つの形)と、連綿と続く国民の素朴な「皇室に対する敬愛の情」を、簡単に切り離して考えることができるのかという疑問を発しています。特に<万世一系>の翌月、『世界』5月号に掲載された丸山真男の「超国家主義の論理と心理」を持ち出しつつ、「両者はもっと深く内面で結びついたものであったのではないか」と、問題を提起するような一文を書いています。

 これに対し、津田は、二千年続いてきた天皇を、<二重政体>と呼ぶべき状況の継続によって説明していますが、このことを明治期以降の天皇制の問題についても、「実際政治の上では皇室と民衆は対立するものでなかった」、つまり「二重政体」論的な論理(天皇が国民にとって精神的権威であることと、政治を動かす実権というものの分離)が明治期以降にも適用できる(問題は天皇を取りまく軍などの専横にあった)と解しています。したがって、ファシズム期の「天皇制」にあらわれたファナチックな傾向を批判しつつも(それは本来の「天皇制」とは関係ない)、同時に「皇室擁護」を説いていることを確認しておいて、次稿でこのことをもう少し論じることにします。

                    【続く:(1)(2)(3)/(5)へ】

 ㊟ 次稿では、この項の(その2)として、吉野のもった津田論文の内容へと話を進め

  ます。

 

2018.08.10 Friday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎「終戦直後の津田先生」をめぐってー(3)

 前稿((2))は、「編集者 吉野源三郎の憂慮と行動」という項の最初「【その1】事の大要ー寄稿の依頼から『世界』掲載へー」の途中で終わっていました。その続きから、つまり、吉野が津田へ寄稿を依頼し、津田から2回分の原稿が届きました。その後半部にあたる「建国の事情と万世一系の思想」が政治的利用されると深く憂慮した吉野は、歴史家である羽仁五郎に相談しますが、没書にせよと主張されてしまいました。

 この拒絶にあった吉野は、津田の<万世一系>を『世界』へ掲載するために、続いて行動していきます。

  吉野源三郎の晩年の写真 『職業としての編集者』(1988年3月刊/岩波新書)より

 

【その1-◆杙の大要ー寄稿の依頼から『世界』掲載へー

 吉野は、方針を変更せざるを得なくなりました。すなわち、直接に津田に宛てて手紙(「原稿用紙20枚余」という長大なもの)を書き、「憂慮」の内容と、善後策、つまり「先生の論文に対する私の理解が誤っていない」と認めるのなら、誤解や曲解の余地のないよう「必要な加筆や補論なりをしていただけないか」と申し出ることにしたのです。

 すぐに津田から返事の手紙があって、「趣旨はよくわかった」「反動的国粋主義の発生とその構造について書き加えることとする」「但し「われらの皇室」は30年来の思想であり記述はそのままにしておく」「一度会ってよく話を聞きたい」という内容でした。

 吉野は、こうした申し出の手紙について、<津田先生>を書いた1967年に、次のとおり述懐しています。

 「 先生ほどの学者の寄稿に対して、たとえこのような形にしろ一種の書直

  しを求めるということは、私にはこの上もなく心苦しいことだった。私と

  しては、前にも後ろにも例のないことだった。」

 

 そして、3月の初め、吉野は、平泉に向かう夜行列車へ乗り込みました。

 翌朝10時頃に平泉に着いた吉野は、津田と対面して、生で見聞きしてきた「終戦直後の沸騰、混乱する社会、政治的な対立と混迷」という情勢などを報告し、自分の心配、憂慮について説明しました。これに対し、津田は準備して「待っていて下さった」と、吉野は次のように記しています。

 「 先生の方は、すでに手紙で申し越されたとおり、論文の終りの方へ数ヵ

  所、加筆を終えて私を待っていて下さった。私と先生との話には、なんの

  凝滞も生じないで、先生はすべて快く了解してくださった。」

 そして、吉野は、【その2】の大きなテーマでもある天皇制、皇室と民主主義との関係にかかる津田の真意を、自身の理解と隔たりがないと確認することができました。さらに、東京の歴史家の協力が得られなかった事情を説明し(羽仁とのことは省いたとあります)、これを踏まえ、次のように提案し、津田の同意が得られたのです。

 「 (前略)むしろ、私が先生に宛てて書いた長文の手紙を公開し、先生がそ

  れに応じて、最初の原稿に反動的国家主義に関する記述が追加されたとい

  うことも、論文の発表と共に公表してはどうかと思う旨をお話しした。先

  生は私の判断にまかせ、快くその処置をとることに同意して下さった。」

 平泉の話はさらに続きますが、それは【その3】で書くことにします。

 

 以上の経過をたどり、津田の論文<万世一系>は、『世界』1946年4月号に、前月号の「日本歴史の研究に於ける科学的態度」に続く連載の形で掲載されました。もちろん吉野の津田に宛てた手紙(津田が最後の部分に加筆したという注書きを入れたもの)も、論文といっしょに紙面となったのです。

 『世界』4月号とありますが、実際に刊行されたのは、明記されていないものの、吉野の3月匆々の平泉行からあまり時日を経ない<3月の前半>のことであったと思われます。

 で、その反響はどうだったのか。別の箇所でまたふれることになりますが、吉野は「この論文に対する反響は大きかったにも拘わらず、私が最初に心配した事態は生じないですんだ」とあります。この結果に「私の配慮が果たして効果があったのか、それとも、もともと私の心配が杞憂に過ぎなかったのか、それはなんとも言えないけれど」と、<津田先生>で吉野は告白しています。

 

 吉野の側からざっと反復すると、「『世界』への寄稿を依頼」→「津田から2回分の原稿が届く」→「後半部の論文<万世一系>に憂慮」→「羽仁などの歴史家に相談するも拒絶」→「津田へ長文の手紙を送付し検討を依頼」→「平泉へ津田を訪ね対応措置の確認」→「『世界』4月号に<万世一系>の掲載(手紙も同時掲載)」ということになります。

 原稿の届いたのが1月末から2月にかけてとありますから、<万世一系>論文の『世界』4月号掲載の3月前半までは、ほんの1月余という期間の出来事、その期間が直接の「吉野の憂慮と行動」であったといえます。

 ただし、その間、天皇制の問題を焦点とする憲法改正作業は、政府とGHQとの協議を伴いつつ、大きな曲がり角を迎えていましたし、4月10日の衆議院議員選挙の実施、そして同月17日の政府による憲法改正草案の公表へと進んでいったのです。

 

【その2】事の「真意」ー「皇室擁護論」だが「天皇制擁護論」ではないー

 前記のとおり、吉野が平泉で津田の真意を確かめたと書きましたが、『世界』4月号に<万世一系>とともに掲載された編集者の手紙への追記には次のようにあります。

 「 博士の主張が、(中略)皇室擁護論であって天皇擁護論ではないという解

  釈、その他全体として(中略)博士の説に関する編集者の解釈が、博士の真

  意を誤り伝えていないことについては、後に博士にお会いして直接その

  旨を伺った。」

 <津田先生>には、1967年時点から振りかえって、もう少しかみ砕いた次の文章があります。

 「 私として特にお目にかかって確かめておきたかったのは、当時の民主戦

  線の側からの天皇制についての主張が先生の皇室論とけっして相容れない

  ものではない、という私の解釈が、先生の真意を誤ってはいないか、どう

  か、という点であった。民主戦線側からの天皇制否定が、特に明治以後に

  確立された政治制度乃至は権力構造としての天皇制の否定であって、一応

  皇室の存続と切離したものとして考えられている限り、先生はむしろその

  変革は希望しても、けっしてその保持を望んでおられないと私は信じてい

  た。」

 そして、「先生はなんのためらいもなく、私のいうところを認めて下さった」と、吉野は記しています。吉野にとって、津田論文、とりわけ「皇室愛護論」への自身の解釈、理解に誤りがあった場合は、「憂慮と行動」というか、その対応措置そのものが成り立たない、だからキーポイントだと考えていたのだと想像します。

 この項では、その背景事情を確認しつつ、このキーポイントを中心に書いてみるつもりです。

 

 これも重複しますが、吉野は、1946年1月、2月、3月という時期を、「これからの政治形態と政治的主導権の帰趨に関し、大きな岐路に立っていた」とし、二つの動向、すなわちいわゆる民主化などを「可能な限り根底的な改造にまでもっていこうとする動向」と「むしろ旧体制を可能な限り保存し、できうれば押し戻そうとする動向」が、「或いは公然と、或いは暗黙に、激しく争って」いるとみていたのです。吉野は手紙で、代表する政治勢力として、前者を「民主戦線」、後者を「反共戦線」という言葉をあてています。

 補足的に吉野の状況認識を追加します。こうした終戦直後における政治上の左右対立は、<津田先生>の当時(1967年)の保革対立と同じとみられることも多いが、保守的勢力といってもその名目の下には戦前の特権的な人々が反動的勢力として存在していたのであり、現在と変わらないと考えるべきでないということも、吉野は強調しています。

 

 こうした吉野の状況認識は、長大な手紙の最後、長々とした前段の文章を要約したような段落で、「切に憂慮いたしますところは今日の情勢から見て、御論説の発表のもたらす政治的、社会的影響が思わぬ方向に向かいはしないかという点であります」と書かれており、吉野の「憂慮」は「今日の情勢」への視線と直結しています。

 続けて、手紙で展開した情勢分析のエキスを、次のとおり表現しています。

 「 人民の手によって人民の自由のための政治を行う制度が、いまやっとう

  ちたてられようとしていること、この根底的な改革を遂行する主体の勢力

  がまだ微弱なこと、これに反し反動的勢力の潜在的な力はまだまだ強力

  で、ただ外国の力によってのみ押さえられているにすぎないこと、そして

  この困難をしのぎ国際的な地歩を占め得る政府ができあがらない限り、今

  日の日本の経済は破滅のほかない状態であること……」

 今になれば、見事な見通しであったと申し上げるしかないわけですが、ここから見えるのは、吉野の立場が、前記の二つの動向の前者、戦前と比べて「根底的な改造」をもとめるものであったことです。いわば「民主戦線」の側に軸足があったということになります。その立場に立つ吉野は、津田の立場が自分と同じとはいえないのではないかと推しはかりつつ、津田の「皇室愛護論」の真意を確かめようとしたのだと、私は考えています。

 その結果、津田の「皇室愛護」という「天皇制論」は、「皇室擁護論」であっても「天皇制擁護論」ではないという確信を得たというわけです。だからこそ、「民主戦線の側からの天皇制についての主張が津田の皇室論と相容れないことはない」、つまり戦前と区分できる民主化の徹底とも相容れないものではないということを、吉野は確信したということができます。それは、吉野自身の天皇制への考え方は必ずしも明らかではないものの、その「憂慮と行動」からすれば、吉野個人の考え方でもあったのではないかと推定することもできそうです。

 

 では、吉野の「天皇制」と「皇室」に区分する分析視角は、どこから来ているのかについてふれておくことにします。

 吉野は、共産党の野坂参三による天皇制問題にかかる三つの視角、すなわち<第一に政治制度としての天皇制をどうするかという問題><第二に天皇または皇室を存続させるかどうかという問題><第三に現在の天皇個人をどうするかという問題>を参照点としています。この三点についての野坂は、第一の政治制度の天皇制は、日本の民主化とはこの意味の天皇制の廃止をおいてはないとの主張、第二の第一と区別された皇室については人民の意志によって決定されるべきとの主張、そして第三の現天皇個人の問題は戦争責任があるとして当然退位すべきという主張であったとしています。

 そして人民戦線の結成の提唱者である山川均も大体同じ考え方であり、皇室の問題については「天皇制から解放された天皇家はなんら民主革命の対象ではないということから予期することができる。(中略)神秘主義と迷信から解放された天皇家が、国民の敬愛をあつめることも決して不可能ではない」と述べてもいたとしています。

 ですから、天皇制の問題を、政治制度としての天皇制と、それと切り離された皇室とに区分して視角を設定すれば、何が見えてくるのか。津田の論文を仔細に読むと、次のことが明確にいえると、吉野は<津田先生>で論じています。

 「 明治以後に形成せられ、天皇を最高の権威として構築されていた独特の

  国家権力構造ーーの廃止に対しては、反対しておられるわけではないので

  ある。それどころか、日本を太平洋戦争にまで引きずりこんで国民にこの

  上もない苦難をなめさせるに至った国粋主義的・軍国主義的政治を強く非

  難しているし、そのような一時期の政治や制度と皇室を一体化してみるこ

  とに強く反対して、皇室をその圏外におくことに努めると同時に、一方で

  は、このような政治を生んだ制度を徹底的に改めて、民主化する必要があ

  ることをも、先生は説いておられるのだった。」 

 だから、吉野は、津田の天皇制についての考え方は、政治制度としての天皇制から切り離された「皇室愛護」であり、「天皇制擁護」ではなくして「皇室擁護」だということができるというわけです。

 こんな結論など、それこそ論文を仔細に読んで誤りなく理解して始めて言えることであって、政治の場では、「そんな細かい議論などおそらく吹き飛んでしま」い、次のような事態が想定できたと、吉野は記します。

 「 いったん、自由党の人々が先生の説を引用して国体護持論を宣伝し、そ

  の上に立って反共の路線を強く打出しはじめたとなったら、これを迎え撃

  つ左翼の側も、恐らく細かい議論を飛び越えて、先生の学説や人に攻撃を

  向けるようになる惧れは充分にあった。」 

 こうした見通しと憂慮を前に、吉野は、津田の「皇室愛護」の内容をより明確にすることによって、<万世一系>の津田が、左右両翼からの政治闘争に巻き込まれることを、できるだけ回避させようというのが、その行動の意図、あるいは戦略であったといえます。

 

 しかし、皇室の存廃という問題について、前記の野坂や山川はニュートラルだとしても、津田は積極的に存続を不可欠とする立場、明確な天皇制維持論なのですから、同じ地平ではありえないのです。吉野は、手紙のなかで、津田の考え方は次のとおり学説というべきものであって、つまり学問的問題であるので、その地平で価値のある論争がなされるべき問題であり、そうありたいと説いているのです。

 「 すなわち、建国の事情特に皇室と人民の関係についての先生の歴史的研

  究の結果と、皇室が二千年も国家における最高の地位を持続したという特

  異な否定できない事実についての先生の独自の御解釈が、その主張の根拠

  となっています。」

 この文中の<先生の独自の御解釈>という表現に、津田の天皇論への吉野の見方(評価)の一端がよくあらわれています。

 そして、続けて羽仁五郎の名前は持ち出すことなく、吉野は今回『世界』への掲載にあたり、津田の<万世一系>への学問的な反論は期待できない状況だと、次のとおり津田へ手紙で報告しています。

 「 実はそういう方面からの寄稿を得たいと考えその用意をしたのでござい

  ますが、しかしまじかに迫った重大な選挙のために寸暇もない活動をして

  おられる人々には、限られた時日の中にそのような学問的論文の寄稿を求

  めることは無理でありますし、また、東京における史学界の状況も、私の

  知り得た限りでは、残念ながら右のような私の小謀に副ってもらえるよう

  な状況ではありませんでした。」

 このようにも書いて、吉野は、津田論文が政治闘争の渦中に巻き込まれることから切り離そうと模索したともいえます。

 

【その3】平泉訪問が明らかにしたものー「手套を投げる」ということー

 平泉に足を運んだ吉野は、直接津田から「意外なことを耳に」して、どうして津田が二つの論文、<万世一系>までも執筆したのかにつき、「初めて納得した」とあります。

 この項では、そのあたりのことを書いてみることにします。

 

 平泉に午前中に着いた吉野でしたが、実際の用向き、つまり<万世一系>を『世界』に掲載するにあたっての対応措置をどうするかについては、すでに書いたとおり、吉野の提案に津田が「快く賛成した」ことによって、速やかに終わったのです。 

 その後、津田宅でいっしょに昼食をとり、せっかくだからと津田の案内で昔々義経が住んでいたという高館へ散歩し(吉野には強歩だったようですが)、津田宅へ戻り、二人は話を続けたのです。話が史学の潮流に及んだときに、「意外なことを耳にした」のです。

 それは、津田の言葉では「先日」、東京から井上清が来て、報告してくれたので大方様子はわかっているが納得できないことが多かった、だから「いろいろ頼まれたり勧められたりした」が「おことわりした」ということでした。

 そのときは要領を得なかった吉野ですが、後で知ることになります。歴史学研究会のクーデター事件、1946年1月27日に「羽仁氏の一統が反対派を打倒して一挙に指導権をとった事件」のことで、その際、平泉にいた津田を会長に推戴したそうで、そのための井上による平泉訪問であったのでしょう(「先日」とは2月中と推定できます)。そして、このとき、津田はクーデターに納得せず、会長就任要請にも同意しなかったのです。

 このことを、吉野は、<津田先生>では「恐らく」と、次のように整理しています。

 「 恐らく、この不同意は、学問上の対立や異同を政治的な問題に移し、政

  治攻撃で反対派を抑えるというやり方が、先生には不満だったからだと思

  われる。(中略)意外にも先生は、井上氏の報告を聞いて、羽仁氏や井上氏

  の期待とは逆に、両氏などによって代表されるマルクス主義史学に対する

  深い不信を堅めてしまったのである。」

 そして、もともと「研究の進め方」に不信をもっていたうえに、上記のことを決定的にしたのは、「この立場に立つ研究者に対する先生の人間的な不信であった」と、吉野は記しています。

 

 そして、津田の口から、次のような発言を、吉野は聞くことになります。

 「 先生は私に向って、「あなたのいうこともわかるつもりだけれど、私

  は、すでにあの立場に対してシュトウを投げたのです」といわれた。」

 「手套を相手に投げることは決闘を挑むこと」であり、津田は、「自分の強い態度と決意を表明された」のでした。この津田の言葉に、<万世一系>を執筆した、というより執筆せざるを得なかった津田の思いを、吉野は、はじめて「納得がいった」のであり、次のように振りかえっています。

 「 それは、けっして論理の必然に従ってのことではなかった。先生には、

  先生の考えから、時勢を憂いて言わずにいられないものがあり、求められ

  た題目について、ここまで言及せずにはいられなかったのである。」

 

 平泉の午後の対話は、吉野に次の思いを抱かせるにおれなかったのです。

 「 すでに手套をマルクス主義史学に向って投げていた先生が、私の情勢判

  断に耳を傾け、私の希望をいれ、原稿に筆を加えることまでして下さった

  のである。そればかりか、明らかに社共両党の提唱する民主戦線に損害を

  与えまいとする私の措置を、快く容認して下さったのである。私は、先生

  のこの寛容に対して、なんでそれ以上のことを要求することができよう。

  私にできることは、これ以上言葉を重ねることを止めて、心から先生にお

  礼を申し上げることだけであった。」

 手紙の前に羽仁五郎と相談し決裂に終わった吉野には、なお津田への「しかし」という思いがあったとしても、津田への感謝を痛感するほかなかったのでした。

 

 なんだかドラマをみているようです。

 吉野は、以上のことを記したあとに、「同時代把握のむずかしさ」という小項を設けて、ある感慨を述べています。それは、津田がもし東京にいたらということで、もはや時計を巻き戻すことなどできませんが、吉野の胸の奥底に浮かんだ願望のようなものが、次のように書きとめられています。

 「 東京にいて、じかに戦後の日本の現実にふれ、もっと多くの学者た

  ちーーその中には十分に先生の信頼にこたえる学者もいたのだがーーとも

  交流し、その中で時勢を考えたとしたら、先生の時勢に対する憂慮はあの

  ような形をとらず、あのような決意にまで行かなくて済んだのではない

  か。」

 平泉駅を降りた吉野は、平泉のまちのあまりに平穏な日常の生活に違和感を感じたのですが、津田が平泉ではなく東京にいて、「この混乱を通じて解決されようとしている問題の大きさと重さ」を、感性的にも捉える機会をもっていたら、歴史学研究会の事件など大きな波瀾の中の小波にしか過ぎないと考えたかもしれず、「先生の憂慮もおのずから違ったに相違ない」と、吉野は終戦直後の津田先生へ思いをはせています。

 そして、つぶやくように、次の文章をおいています。

 「 それにしても、現に自分が生きている同時代を正確に把握し、同時代の

  出来事の歴史的意味を過たずに知ることは、なんとむずかしいことなのだ

  ろう。

 

 以上が、前稿から続いた「編集者 吉野源三郎の憂慮と行動」のスケッチとなります。いつもよりもっとスケッチにとどまってしまっていますが、続いてまとめにかかることにしましょう。

                        【続く:(1)(2)/(4)へ】 

 

2018.08.09 Thursday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎『終戦直後の津田先生』をめぐってー(2)

 前稿((1))は、最後の方で<津田先生>という本題にやっと入りましたが、終戦直後の我が国の社会や政治の諸情勢についてアウトラインまでメモしたところで、ぷっつりと切れていました。続けましょう。

 

🔹津田論文「建国の事情と万世一系の思想」と終戦直後の諸情勢(その2)

 吉野は、この終戦直後の時期について、どのような認識をもっていたのか、その全般的な見取り図を示す文章から引用しておくことにします。

 「 いずれにしても、1946年の1月、2月、3月という時期は、戦後の日本が

  どのような国として再生するか、再生さすべきか、をめぐって空前といえ

  るほど活発な議論が展開され、民衆運動が渦巻き、私たち日本人は、これ

  からの政治形態と政治的主導権の帰趨に関し、たいへんな岐路に立ってい

  た時期だった。」

 そして、この「岐路」のベースには相反する二つの大きな動向があったことについても言及し、強調しています。それはまさにingとして「真正面からぶつかりあっていた」のであって、そうでなければ津田論文の問題は、つまり吉野の憂慮と行動は、理解できないのだと、吉野自身は考えていたようなのです。

 「 ……敗戦までの体制を改造して日本を民主化するといっても、立憲君主

  制の下に資本主義的日本を再建し、たかだか議会の権限を拡げ市民的諸権

  利を保障すれば足りるとするものから、君主制を打倒し共和国日本を実現

  して社会主義へ移行しようとするものまで、その目標においても、その目

  標を達成する方法においても、非常な距りをもった、いろいろな勢力が同

  時に併存し、同時に動き出し、それに伴ってさまざまな団体が組織されて

  いたわけである。」

 「 その二つの動向とは、旧体制の破壊を伴う当面の改造を、可能な限り根

  底的な改造にまでもっていこうとする動向と、できる限りこの改造を最小

  限にとどめて、むしろ旧体制を可能な限り保存し、できうれば押し戻そう

  とする動向の二つであった。進歩党その他の政党もあったけれど、後者を

  代表するのが自由党であり、前者を代表するものが社会党と共産党である

  という、大体今日と変わらない勢力の配置がこのときに出来あがった。」

 繰りかえすことになりますが、そこには「資本主義をどうするかの問題と、敗戦までの天皇制国家機構をどうするかの問題とが重なりあい」、それをめぐって「二つの勢力が、或いは公然と、或いは暗黙に、激しく争っていたのである」と、吉野は、「今日」すなわち<津田先生>を書いた1967年に、このように終戦直後の状況をとらえていました。

 こうした沸騰、混乱する社会、そのことが直截に反映された政治的な対立と混迷という只中に、津田の「建国の事情と万世一系の思想」が投げこまれることになったのです。津田左右吉を「先生」として人格的にも学問的にも敬愛する吉野が、深い憂慮を抱いたことは想像に難くありません。

  津田左右吉氏(平泉毛越寺池畔にて、1948年6月) 『職業としての編集者』より

 吉野が何を憂慮し、どう行動して、20年後にどう振りかえっていたのかは次項以降でふれることとし、津田の「建国の事情と万世一系の思想」(以下「<万世一系>」と表記します)とはどのような内容であったのか、まずみておくことにします。

 津田の二つの論文は青空文庫に入っていて、私も読んでみましたが、なかなか長大な評論というべきもので(論文というより評論といった方が適当でしょう)、歴史学の基礎のない者にとってはなかなか手強い感じがしました。

 

 吉野は、津田の<万世一系>の要旨を、引用もまじえながら、新書版の2.5頁ほどを使って記述しています。その前に、先に「要するに¨皇室擁護論¨」との評を引用した宮永孝という現代の歴史家が、当該論文は「上代における建国の、天皇家が日本民族を統一し、国家の統治者となった事情、天皇の血統が永遠につづくことの展望をのべた」ものだとしたうえで、津田の皇室(天皇家)についての考えは、次のように要約できると書いています。

 「 日本の長い歴史において、皇室は高いところから民衆を見おろし、権力

  をもって民衆を圧服(おさえつけて従わせる)しようとしたことは一度もな

  かった。邪路に走った為政者(政治家)に国家をゆだねたために、国家は窮

  地におちいった。皇室に大きな累(迷惑)をおよぼした責任は、国民にも

  ある。

   皇室は国民の皇室である。天皇はわれらの天皇である。われらの天皇

  は、われらが愛さねばならない。……」

 そして、吉野の要旨も、最後の段落は「そして先生の論文は、皇室に対する先生の熱烈な愛護の言葉で終わっていた」の一文から、<万世一系>の最後、宮永が引用する「われらの天皇は、われらが愛さねばならない」を含む一括りの文章をそのまま引用しています。

 だから、宮永の「擁護」と吉野の「愛護」という違いはありますが、二人の読解にはそう隔たりはないといえます。違いがあるといえば、皇室の存在と民主主義が相容れないものではないと津田は結論していると、吉野が強調しているところです。また先走りますが、そこには終戦直後に<万世一系>を初めて読んだときの吉野の苦衷が反映しているのでしょう。

 

 その要旨の最初の段落を、吉野は、<万世一系>は「内容からいえば、なにもそう複雑なものではなかった」からはじめ、その前提となる皇室の歴史から帰結する本質を、長い歴史を通じて「常に統治者の地位に」ありつつ「自ら政治的権力をふるうことなく、かえってさまざまな政治形態を許容する特殊な精神的権威として存在してきたのだ」、つまり「二重政体」と呼ぶべき状況の継続によって、津田は説明しているというのです。

 では「19世紀以降の世界の情勢は、日本に二重政体の存続を許さなくなった」、つまり明治期以降の天皇制の問題ついて、津田は「専制君主としての天皇とか、神秘的な国体論とか、儒教的な忠君の倫理とかは、すべて為政者やこれに追随するものが、為にするものがあって作りあげたもの」であって、真の天皇制とは無縁のものであると断じます。そして、満州事変後から太平洋戦争を通じて敗戦に至るファシズムの時期も天皇とは関係がないものであり、「軍の恣なしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに主な由来がある」と津田は解していると、吉野は説明しています。

 以上のように、皇室の歴史の本質を、いわば「二重政体」(「実際政治の上では皇室と民衆は対立するものではなかった」)とみる津田の考えからすれば、皇室は「民主主義と相容れないものではない」のであると、吉野は<万世一系>から「先生の結論」として文章を引用しています。

 この文章の直前に、津田は終戦直後の天皇制をめぐる論議についてふれており、つまり天皇制の反対する立場も、一方の維持する立場も、その双方とも「民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考え方が存在する」が、「これは実は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである」と論じています。

 そのうえで、吉野が「先生の結論」と引用している次の文章が記されているのです。

 「 現代に於ては、国家の政治は国民みずからの責任をもってみずからすべ

  きものとされているので、いわゆる民主主義の政治思想がそうである。こ

  の思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立して外

  部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意思を体現

  せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによっ

  て、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることに

  よってそれができる。」

 「 具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であ

  られるところに、皇室の存在の意義があることになる。」

 以上が、吉野による<万世一系>の要旨の要約ということになります。

 

 ちょっとだけ補足というか、「民主主義と相容れないものではない」という主張が、「「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ」に続く、<万世一系>という論文全体の最後におかれた文章においても重ねて展開されていますので、引用しておきます。

 「 二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生

  活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてそ

  の永久性を確実にするのは、国民自らの愛の力である。国民は皇室を愛す

  る。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。国民はいかな

  ることをもなし得る能力を具え、またそれをなし遂げるところに、民主政

  治の本質があるからである。そうしてまたかくのごとく皇室を愛すること

  は、おのずから世界に通ずる人道的精神の大いなる発露である。」

 なお、<万世一系>には、神代、上代という古代の問題についても前半の「上代における国家統一の情勢」で詳細に記述されており、戦前の「津田事件」で問題とされた津田の考え方に何の変更、修正も加えられていないことを申し添えておきます。

 

 さて、次項以降の先ぶれをしておきましょう。

 宮永論文は2017年という直近に発表されていますが、津田の二つの論文を読んだ反響を次のように書いています。

 「 津田の二つの論文をよんで意外の感にうたれたのは、原稿を依頼した

  『世界』の編集者だけにとどまらなかった。共産党の指導者、急進的思

  想家、左派の知識人らは、期待していた内容と大きなへだたりがあるた

  め失望を禁じえなかったようだ。」

 本稿でも詳述した「津田事件」において粘り強く学問の自由と真理を主張した大学者としての津田左右吉のイメージがあったものですから、予想に反した観が大きく感じられ、以後、「攻撃的な批判がさかんにおこなわれ、¨変節¨とか¨反動¨のレッテルを張られるようになった」としています。

 ということを念頭におきつつ、吉野の<津田先生>に戻りましょう。

 吉野は、<万世一系>で示された津田の皇室観、天皇制観を、「先生の抽象によって取り出されたもの」であって、「先生の頭脳の中にだけ存在するもの」と思われ、「むしろこの場合には「先生の心情の中に」というべき」であろうとして、次のとおり評しています。

 「 先生が結論として述べられた皇室愛護の言葉にあらわれた先生の心情こ

  そ、むしろ先生の論文に先行して、先生の問題設定を制約しているのであ

  る。少なくとも私にはそう思われた。」

 すなわち津田の皇室愛護の心情が今回の論文の結論に至る幅広い検討を制約してしまっているとする厳しい言葉で評価していますが、続いて「しかし」と次のようなことも記しています。

 「 学説との関係を離れて、この心情だけを考えれば、私などのように戦前

  から先生にしばしば接して、先生の皇室に対する感情も直接伺っている人

  間から見ると、それは先生の人柄とぴったり合っていて、少しも不自然に

  は感じられなかった。」

 吉野は、<万世一系>に宮永の使う「意外の感に打たれた」のではあるでしょうが、いわば想定できないことではなかった、つまり少なくとも「変節」という感覚ではなかったのでしょう。

 

 もちろん吉野は津田に寄稿を依頼したときには、津田が<万世一系>という論文の対象としているところまで論じるとは想定していなかったのですから、驚き、戸惑ったのは申し上げるまでもありません。 

 こうして、吉野は、津田の連載の翌月、すなわち『世界』1946年5月号に発表された丸山真男の「超国家主義の論理と心理」で実に明快に解剖された問題、すなわち「国民の皇室に対する敬愛の情」という皇室観と、軍部や官僚たちの行動を許した制度が「先生のいうようにそんなに別々のものであったか、どうか、両者はもっと深く内面で結びついたものであったのではないか」という問題の前に立たされたのです。

 「 そして、私が先生の論文の発表について、その政治的反応を考えなけれ

  ばいけなかったのも、その問題につながっていたのである。」

 

🔹編集者 吉野源三郎の憂慮と行動

 この項では、津田の<万世一系>の原稿を読んだ吉野が、津田と旧知の編集者として、また『世界』の編集責任者として、何に憂慮し、どう行動したのか、その背景事情とともにできるだけ整理しておくことをめざします。

 もとより<津田先生>の記述が基本ですが、今回、『世界』1946年4月号に<万世一系>とともに掲載された編集者から津田あての手紙(「編集者」は吉野ですが、自分の名前は出していません)に目を通すことができましたので、この手紙も重要な参考資料として活用しています。この時点、すなわち「憂慮と行動」の時点で、吉野が書いた「手紙」は、<津田先生>の根っこにあって、その内容の事実と真実を支えているという関係にあります。

 なお、これまでの記載と重複する部分が何回も登場しますが、ご海容いただきたいと思います。

 

【その1- 杙の大要ー寄稿の依頼から『世界』掲載へー

 まずは、事の大要を、時系列に追うことにします。すでにご理解いただいているとおり、終戦の1945年(昭20)の年末から翌46年(昭21)の4月頃までのほんの数か月のことですし、吉野の「行動」にしぼると、2月初から3月半ばまでの、たった1ヵ月余のことなのです

 1946年1月より発刊される岩波書店『世界』の編集責任者となった吉野は、戦争中に岩手県平泉に疎開していた津田へ、その創刊の知らせとともに、「日本史の研究における科学的方法」について執筆を依頼したのです。

 これを了解した津田は、吉野へ原稿が超過して2回分となったとの断りの手紙を入れ、翌46年の1月から2月かけて、前半は「日本歴史の研究に於ける科学的態度」、後半は「建国の事情と万世一系の思想」という表題の原稿を送ってきました。前記したとおり、後半の<万世一系>について、吉野は、天皇制の問題が最大の焦点となっている現下の情勢からすると、「深刻な政治的な反響を呼びおこすにちがいない」と憂慮し、行動を開始します。

 

 この政治的な利用を喰いとめるために、吉野がまず考えたことは、「津田先生を深く理解している歴史学者」が、<万世一系>という論文について「行き届いた評論」、あるいは「十分に先生の真意を把えた学問的な駁論」、を書くことが必要だということでした。

 そして、かねてから「その歴史学者としての業績を尊敬していた」羽仁五郎を、岩波書店の編集部に招いて相談することにしました。羽仁は津田の論文を読んで、「こんな論文はいま絶対に発表すべきではない、没書にしてしまえ」と反応したとあります。その批判的見解の寄稿を、吉野が希望しても、羽仁は拒絶しました。

 この羽仁の態度に対し、吉野は、津田論文を葬り去ることなど全く念頭になく、物別れに終わりました。この羽仁の対応を受け、吉野は、「当時、岩波書店と関係の深かった歴史学研究会に属する、ほかの歴史家を二、三考慮して」、寄稿を打診しますが、「さし迫った期日内に執筆できるような事情には」ありませんでした。

 「3月匆々」に大泉訪問ですから、このことは1946年2月の遅くとも中頃までのことではなかったかと想像できます。

                      【続く:(1)/(3)へ】

㊟ またまた途中で閉じる必要が生じました。こんなことが何回も続いて残念です。

  次稿は、「【その1】事の大要」のつづきから書き継ぐことにします。                        

 

2018.08.05 Sunday

「行って帰ります」と「さようなら」ー美しい言葉はー

 先日、「行って帰ります」という言葉を初めて聞きました。『早坂暁を探してー桃井かおりの暁さん遍路ー』というテレビ番組(NHKBSプレミアム/8月1日放送)のなかで、早坂の故郷である愛媛の海岸に立つ桃井が、早坂から「行って帰ります」という言葉を教えられたと話すシーンに登場したのです。早坂は、「行って帰ります」には「無事に帰って来ます」というニュアンスがはっきり出るからいいのだと語っていたそうです。

 中国・四国地方(全域ではなさそうですが)の方言であるらしく、「行って帰ります」と言うと「行ってお帰り」と応えるなど、セットでも使われているようです。たしかに出かける側の思いと送り出す側の願いが響きあっている言葉ですね。今ではやはり使われることが減っているのでしょうか。

 早坂暁(1929-2017)は、戦中世代で海軍兵学校在学中に終戦、故郷へ戻る途中、被爆直後の広島の惨状を目撃したとあります。代表作とされる「夢千代日記」や「花へんろ」にもその影が色濃く反映されています。

 そんな早坂にとって、母をモデルとした「花へんろ」の静子にとっても、「行って帰ります」は、とても切実な言葉であったのです。

 この「行って帰ります」に反応したのも、毎日新聞の「鼎談 須賀敦子の世界」(2018年7月29日朝刊)で、「さようなら」という言葉が大きく取り上げられていたのを読んだからなのかもしれません。

 亡くなった直後に出版された『遠い朝の本たち』という本で、須賀敦子(1929-1998)は、中学生になったばかりの頃に、ン・モロー・リンドバーグが「さようなら」という異国の言葉についての深い思いを表現した文章を読んで、「自国の言葉を外から見るというはじめての経験に誘い込んでくれたのだった」と書いています(「葦の中の声」)。そして「アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった」と須賀は回想していますが、そのことを鼎談で湯川豊はこれぞ「文章の「血肉化」なのだ」と評しており、これに応じた松山巖も「何度読んでも「なるほどな」と感じられる」と発言しています。

 1931年に大圏ルートの飛行調査中に、リンドバーク夫妻の飛行機は千島列島に不時着しましたが、なんとか葦の中から救出されます。そして、東京で大歓迎されたあと、横浜から船で出発するというときに見送りの人々から発せられた「さようなら」という言葉の意味を、あとで聞き知ったアンはあたらしい感動につつまれ、エッセーを書いたのでした。

 今、この文章は「サヨナラ」という題で『翼よ、北へ』(2002年刊/みすず書房)の一篇として収められています(私はもっていません)。翻訳者である中村妙子の訳(抜粋)は、以下のとおりですが、その「…(中略)…」の部分では、ドイツ語の「アウフ・ビーダーゼーエン」やフランス語の「オーボアル」㊟A、英語の「フェアウェル」㊟B、そして「グッドバイ」や「アディオス」㊟Cのことが取り上げられ、「サヨナラ」との違いに想いをはせたうえで、「けれども」以下の文章へと続きます。

 ㊟A: 日本語の<サヨナラ>は「またお会いしましょう」と別れの痛みをさき送り

    る言葉で言い替えてごまかそうとはしない。

 ㊟B: だが別れのその時のかけがえのなさはすり抜けて何も語らない。情感は隠さ

    れ、つたわる想いは僅かだ。

 ㊟C: 隠されてはいるがそこに確かに、ぬきがたくあるのは「忘れないでわたしはあ

    なたといることをーいつも見守っているいるから」。   

 「 「サヨナラ」を文字どおり訳すと、「そうならねばならないなら」とい

  う意味だという。これまで耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつ

  くしい言葉をわたしは知らない。…(中略)…けれども「サヨナラ」は言い

  すぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受け

  いれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそ

  かにくすぶっていたものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のよ

  うにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-by

  であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ-「サヨナラ」は。」

  

 このエッセーの魅力をいろんな人に話してきたという須賀は、60代になって、遠い記憶をもとに、アンの文章が語りかけて血肉化した内容を、次のように書いています。

 「 さようなら、とこの国の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、も

  ともと「そうならねばならぬのなら」いう意味だとそのとき私は教えられ

  た。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だ

  ろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて

  人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だ

  ろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。そ

  れなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのな

  ら、とあきらめの言葉を口にするのだ。」

 そして、須賀は、アンのなかで「別れ」ということばが、「神とともに」から「そうならねばならぬのなら」というあきらめの言葉に変わったのは、<あの事件>を境としているのではないかと推定しています。<あの事件>とは、「さようなら」「サヨナラ」に出会った1931年とこのエッセーが発表された1935年の間、つまり1932年に1歳半の長男チャーリーが子供部屋からさらわれて惨殺されるという恐ろしい事件のことです。

 

 鼎談で「何度読んでも「なるほどな」と感じられる」と発言した松山巖は、その直前に、英語のグッドバイは「神はなんじとともにあれ」だが、「さようなら」は「わけがあるのであれば、ここで別れなくてはならない」という意味で、グッドバイと全く違うと、須賀の記憶に即した説明を加えています。

 私がどうしてなのだろうと感じたのは、「さようなら」に、アンが「このようにうつくしい言葉を知らない」「言葉にしないGood-by」だとしているのに対し、須賀は「なんという美しいあきらめの表現だろう」というように、「さようなら」が「別れにのぞん」で口にする「あきらめの言葉」だと、記憶していることです。そんな須賀は、「当時は誘拐事件についても私自身、無知だったうえ、あきらめ、ということが美徳とはとても思えない年頃でもあったのだが」と、本人の文章に書きもしているのではありますが。

 もとより須賀の理解、解釈に誤りがあると思っているわけではありません(須賀はそう血肉化させているわけですから)。でも、どうして「さようなら」を「美しいあきらめの表現」と、「あきらめ」という言葉を使って、中学生になったばかりの須賀がアンの文章を肉体の一部として記憶したのか、そこに不思議を感じるのです。

  須賀敦子著『遠い朝の本たち』 1998年7月刊/筑摩書房

 どうでもいいことにこだわっているようです。

 本稿で書いておきたかったのは、最近、「行って帰ります」という聞いたことも口にしたこともない言葉と、あまり口にしなくなったように感じている「さようなら」という言葉のそれぞれが内包するところを気づかせてもらって、いずれも人間の真情から生まれた「美しい言葉」に出会った、再会したという実感を得たということなのです。

 だから、二つの言葉の差異を並べ立てようとは思いませんが、もう少しだけ考えてみることにします。

 

 「行って帰ります」と「さようなら」は、いずれも「別れ」に際しての言葉だといえばそうだといえます。「戻る」「再会を期す」という点では、「行って帰ります」はその意味が言葉のうちに、「帰ります」「お帰り」として直接存在しています。これに対し、「さようなら」には、アンが感じたように「またお会いしましょう」を意味する言葉はなく、「別れの痛みを先送りする言葉でごまかそうとはしない」といえるのかもしれません。

 そのニュアンスには時間的、空間的な違いがあるといえばあります。「行って帰ります」の<別れ>は、一時的というか、短期間で、近距離で離れる状態を想定しますが、「さようなら」は、長期間で、遠距離で離れるという、少なくとも今の私はそんなニュアンスの違いを感じます。どうかすると、今、誰かに面と向かって「さようなら」を言うときは、長期間にとどまらず、永遠にということさえ感じられるのです。

 もとより戦争末期に海軍兵学校へ向かう早坂と、母親である静子が、「行って帰ります」「行ってお帰り」と簡単に応答できないような世間があったものと思いますが、二人は心の声として、そう応答したものと思います。それは短期間で近距離でもなかったのですから、ニュアンスの差など、現在に生きる者としての私の感覚にすぎないということにもなるでしょう。

 

 いずれも「別れ」の言葉で、ニュアンスにそれなりの差異はあったとしても、その言葉に込められた人間の真情には近いものがあります。「さようなら」についてアンが結論として書いている「言葉にしないGood-byであり、心をこめて手を握る暖かさなのだ」からすれば、「行って帰ります」も「さようなら」も、人間の真情を表現する言葉として、その真情の距離において、そんなに差異などないのだともいえます。

 こう書いてしまえば、「さようなら」は、神なき私にとっては「グッドバイ」と全く違うものではないということもできますが、すべての感情がこもってはいても「それ自体は何も語らない」ところにこそ「さようなら」の偉大さはあるということでしょうか。そこに「美」を感じるような精神文化のあり方にこそ、もっと意識的にならないといけないのでしょうか。

 

 「さようなら」「サヨナラ」は使わなくなったなあと感じられていませんか。ふだんの自分を意識しても、「さようなら」を発語していることはほとんどありません。若いころにはもっと使っていましたが、今は「それではどうも」「じゃー(ほな)また」「ありがとう、お元気で」などが代替しています。

 その原因を逐一考えることはしないでおきますが、私たちを取りまく家族・親戚・近隣関係、もっと広く人間関係や社会関係、交通手段や通信連絡手段の多様化・高速化・即時化など、そんなあり様の変化を反映しているのにちがいないのでしょう。

 こう書いてくると、「さようなら」をあまり使わなくなったのは、須賀の記憶に託すとすれば、なかなか「あきらめ」という心のおき方を許そうとしない現代社会を映しているのかもしれないと思ったりもしました。この社会は、別れの歌はうたわれてはいても、<別れのその時のかけがえのなさ>というものを失っているともいえそうです。

 

 思えば、須賀敦子は早坂暁と同じ1929年生まれです。私より20年ほど前に生まれた二人から、新たに「行って帰ります」との出会いと、もっと大切な言葉であった「さようなら」との再会という機会をもらうことができました。

 『遠い朝の本たち』にはアン・モロー・リンドバーグの次にアントワヌ・ド・サンテグジュペリのことが書いてありますが(「星と地球のあいだで」)、その最後に引用されたサンテグジュペリの言葉が、今の私には真実として重く感じられてならないのです。

 「 大切なのは、どこかを指して行くことなので、到着することではないの

  だ、というのも、死、以外に到着というものはあり得ないのだから。」

 

【追記】

 谷川俊太郎には、もう一つの「さようなら」という詩があることを見つけました。

 既知の「さようなら」は、当ブログ(「ホントウの誕生日」)でも引用したことのある2007年刊の『私』の一篇で、自らの死に際して「私の肝臓さんよ さよならだ/腎臓さん膵臓さんともお別れだ」という呼びかけから始まる詩です。

 今回、見つけた「さようなら」は、1988年の『はだか』にある同じ題名の詩です。ここには<別れのその時のかけがえのなさ>がありそうに思えるのです。これを引用するのと併せて、歌としてうたわれているユーチューブを貼っておくことにします。

 

     さようなら

 

  ぼくはもういかなきゃなんない

  すぐいかなきゃなんない

  どこへいくのかわからないけど

  さくらなみきのしたをとおって

  おおどおりをしんごうでわたって

  いつもながめてるやまをめじるしに

  ひとりでいかなきゃなんない

  どうしてなのかしらないけど

  おかあさんごめんなさい

  おとうさんにやさしくしてあげて

  ぼくすききらいいわずになんでもたべる

  ほんもいまよりたくさんよむとおもう

  よるになったらほしをみる

  ひるはいろんなひととはなしをする

  そしてきっといちばんすきなものをみつける

  みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる

  だからとおくにいてもさびしくないよ

  ぼくもういかなきゃなんない

 

 🔹『さようなら』(作曲 谷川賢作) DiVa/2017.6.20 

 

  真夏の夕刻(県立考古博物館の展望塔) [2018.8.4撮影、以下同じ] 

  咲きはじめたサルスベリの花(大中遺跡公園内)  

  

2018.07.31 Tuesday

私たちは何を学ぶのかー吉野源三郎「終戦直後の津田先生」をめぐってー(1)

 不穏なほどの暑い日々。洋上には台風。本稿がかたちになるまでに、列島に影響を与えることになりそうです。

 今次の豪雨災害で被災したのは、主に広域合併で隣接する大規模な自治体へ編入された山あいの地域であったと指摘されています。広域合併していなかったら災害を防げたのか、と言われればそんな単純なことではないでしょう。でも、広域合併で自治体の職員数が縮減される中で、周辺地域の地形、集落や人びとをよく知っている職員が減っているという事実はあるのではないでしょうか。当該の地域をよく知らないと、災害の危険を察知して行動に移すという地元自治体の対応力は、格段に低下すると理解しておくべきです。

 

 この4月から聴講していた日本古代史、5、6世紀を中心に古代国家の形成過程にかかる講義が昨日(7月26日)、終了しました。私からするとずいぶんお若いF准教授は、「従来の古代史像の再構築」をめざして、力をこめて講義されましたが、基礎が皆無である私の受けとめは「なんだか難しいものだなあ」にとどまり恥ずかしいかぎりです。

 そんななか、こうした古代にかかる数少ない文字史料である『古事記』『日本書紀』(以下、両書を合わせて「記紀」と表記します)をどのようにテキストクリティークしていくべきか、というF教授の問題意識に、興味を覚えました。F准教授は、近代の歴史学は信頼度の高い史料のみで歴史を語るという考え方が基本で、<潤色・加上>の代表的な史料である「記紀」は信頼度の低いものとして扱われているが、<潤色・加上>の過程そのものを検討の対象としていくことが必要ではないか(そのことで使えるところと使えないところを析出していく)ということを、強調されたのです。その意味で<潤色・加上>の書たる「記紀」もまた史料たりうるとの主張を展開されたのだといえます。

 以上を踏まえ、F准教授は「記紀」や風土記を用いつつ、具体の古代王権の分析に入っていったのですが、ここではふれないでおきます。

 

 以上に関連して、F准教授からは、こうした「記紀」を合理的に読み解く試みは、大正期を中心に、「津田左右吉」によって飛躍的に進展したとの説明がありました。そして、このことが戦時体制下で関係著作が刊行できなくなる「津田事件」を招くことになったこと、そしてまた、戦後すぐのいわば激動の時期に、津田は「建国の事情と万世一系の思想」という論文を発表し、広く注目されたということにも言及されたのです

 戦後の津田論文は、岩波書店の雑誌『世界』1946年4月号に発表されたもので、これをめぐって編集長であった吉野源三郎が「終戦直後の津田先生」という文章を残していて、これは面白いよとの示唆があったのです。

 この吉野の文章は、論文掲載から20年余をへた1967年に書かれたものですが、現在は『職業としての編集者』(1989年3月刊/岩波新書)の一篇として収められています。私としては、ほかならぬ『君たちはどう生きるか』の吉野源三郎に関わることであり、早速、当該岩波新書版で読むとともに、これに関連する文書にもふれてみました。軽々にわかったとはいえないけれど、これは重要な内容がこめられていると思い、本稿を書いてみることにしたのです。

 その後、いつもと同じだといえばそのとおりですが、無知のままで書くことに逡巡してしまい、他の記事を先行させ、今になりました。いささか感情的ですが、やはり吉野源三郎はコペル君のおじさんであった、というよりコペル君そのものだったというのが私の印象です。

 この印象は大切にしつつも、印象だけではどうしようもありませんので、できるだけ戦前の「津田事件」のことにもふれつつ、書き進めることにします。

  吉野源三郎著『職業としての編集者』 1989年3月刊/岩波新書65

 

🔹『古事記』『日本書紀』の読まれ方ー戦前と戦後ー

 まず、『古事記』『日本書紀』のことをよく知っている方には不要ですが、私と同様、知らない同然という方には必要かと思いますので、戦前、戦後において「記紀」がどう読まれてきたのかということから、始めることにします。

 このため、最近刊行された『歴史の見方・考え方』(神戸大学文学部史学講座著/2018年5月刊/山川出版社)の一篇であるF准教授の「王の名前にかくされた史実を探そうー神話・伝承から探る日本の古代」に依拠しつつ、まとめておくことにします。

 

 『古事記』『日本書紀』は、「その完成はいずれも8世紀前半、奈良時代の初め」のことで、両書とも「神々による国づくりの物語から始まり」、前書は「飛鳥時代の前半、7世紀前半の推古天皇まで」、後書は「飛鳥時代の後半、7世紀末の持統天皇まで」のそれぞれ<歴史>を記しています。

 したがって、「記紀」は、「天上界の神々の子孫としての天皇が国土を統治する由来を説いた書物」といえますが、「神々の子孫による国土の統治とは、いうまでもなく一つのつくられた物語」であることから、「それがそのまま歴史的事実であるわけではもちろんない」のです。このことは、「記紀」を読む場合において「まず頭に入れておかなくてはならない」ことだと、F准教授は注意を喚起します。そのうえで、両書がつくられた「8世紀前半には、天皇による国土の統治は現実におこなれていた」のだから、「その現実を合理的に説明するために、虚実を織りまぜながら物語を構成するというレトリックも、同時に駆使されたものと思われる」と記しています。

 こうしたことが、前出のとおり<潤色・加上>の書である「記紀」をテキストクリティークするにあたっての基本だということになります。

 

 戦前においても、他の歴史資料と同様、「記紀」について近代史学の実証主義に基づく「文献批判」「史料批判」に立脚して合理的な説明を行おうという動きがあり、前出したとおり、その代表格が津田左右吉(1873-1961)でした。

 津田より以前の明治時代の歴史家である那珂通世(1851-1908)は、「記紀」に記載のある初代の神武天皇が即位した「辛酉(かのととり)年」を、「干支が21巡するさいに大きな革命がおこるとする中国の思想」に基づいて、「推古天皇9年(601)を起点として1260年遡る、紀元前660年に求められた」とする研究を公表したと、先のF准教授の論文は紹介しています。紀元前のその時期は「権力者の統治を記録する文字そのものがまだ伝わっていない段階」であり(「縄文期」に区分される時代です)、「神武即位の物語が虚構である」ことは明らかで、「記紀」に記された物語の大枠は「7世紀後半以降に成立した天皇を中心とする支配体制の起源を説明するためにつくられた」ものだといえると、F准教授は説明を加えています。

 そして、大正期に入り、津田は「記紀」の「神話や神武天皇などの伝承が後世の作り話にすぎない」という研究結果(もちろん「記紀」は歴史ではなくして大切な史料であるとの姿勢)を数冊の著作によって公にしたのです。こうした津田の「記紀」研究には、政府批判などの政治的言及は皆無でしたが、戦時体制下という特殊な時代状況にあって「天皇を高天原から下ってきた神の子孫であるとする皇国史観を推進する勢力の忌避するところ」となりました。

 これがいわゆる「津田事件」ですが、次項で説明することにします。

 

 このように戦前の歴史学においても、近代実証主義に基づく史料批判を「記紀」に適用していたわけですが、天皇制、皇室の歴史との抵触は否めないわけで、ウィキに記載される次の整理は、私を納得させるものでした。戦前は、戦時体制下はもとより、それ以前においても現実的な限界があったということになります。

 「 同様の原則(㊟近代実証主義に基づく史料批判)を古代史に適用すること

  は、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。そ

  れを初めて破って、著書の中で近代的な史料批判を全面的に記紀に適用し

  たのが津田だった。それゆえ津田が戦前の歴史学から離れた立場にあった

  わけではないが、津田の業績を基本的に承認・利用しつつ、その核心部分

  を肯定する文章を自ら書き下ろすことは避けようとする態度が他の学者に

  はあった。」

 

 戦後、一転して、憲法上、思想・学問の自由が保障されると、「記紀」を「批判的に検討したうえで、そのなかから歴史的実態を読み解こうとする動きが活発におこわれる」ようになり、「記紀」の「神話・伝承研究は、日本古代の国づくりの歴史を考える重要な素材として、脚光をあびるにいたった」と、F准教授は前記の論文に記述されています。

 講義を聞いていますと、F准教授は、こうした戦後の研究の進展につれて「記紀」の記述の問題点がさらに明らかになったりしたこともあって、前出の<潤色・加上>性が強調されて、いわば逆バネがはたらくように信頼度が低い史料として「使ってはいけない史料」のような扱いをされてきたきらいがあるのだと強調していました。特に古代に関しては出土文字史料や外国史料が限られていることから、やはり「記紀」の神話・伝承も活用して<潤色・加上>を見極めつつ、さらに一層「歴史的な事実を汲み取る」努力が必要だというのが、現在進行中の歴史家としてのF准教授のスタンスであるようでした。

 とりわけ6世紀以前という古代の日本を歴史的に解明するためは、「記紀」の情報は不可欠であるにもかかわらず、その史料性を狭くとらえ、不必要に及び腰になっている古代史研究の現状に対し、批判的な見方を提示されたものと理解しました。

 

 今年、明治維新150年、戦後はその約半分の70年余、その間には歴史学においてもさまざまな変遷があったのでしょう。今般の『君たちはどう生きるか』の大ヒットを、80年という時を隔てた社会背景、時代状況の近似性にみる見方も多い昨今ではありますが、「記紀」の物語をそのまま歴史的事実とするような立場(「津田事件」の背景にあった皇国史観とはそのような部分を前提にしないと成り立ちません)は、さすがに今の歴史家、とりわけ古代史の専門家とされる方々にはいないようです。

 <歴史>は繰りかえすといいますが。

 

  『歴史の見方・考え方』 神戸大学文学部史学講座著 2018年5月刊/山川出版社

 

🔹いわゆる「津田事件」ー強いられた5年間の沈黙ー

 続いて、吉野源三郎の「終戦直後の津田先生」を理解する前提として、戦前のいわゆる「津田事件」についてもみておくことにします。

 まず、「津田事件」で津田左右吉が起訴される前の動きを含め、箇条書きでアウトラインを理解しておきましょう。ネットで入手した二つの資料(宮永孝「史家 津田左右吉」2017.12/前坂俊之ブログ「出版暗黒時代◆2016.1)に基づいてメモしました。

🔹1939(昭14).10-12

 ・早稲田大学教授であった津田左右吉、東京帝国大学法学部に開設の「東洋

  政治思想史」講座で、「中国政治思想史」を講義

 ㊟津田左右吉は初め断っていましたが、東大の南原繁教授からの重ねての要請に重い

  腰をあげたようで、このことによって、帝大をターゲットにしていた蓑田胸喜の攻

  撃材料となったとされる

🔹同年.12.24付

 ・蓑田胸喜(1894-1946)の『原理日本』臨時増刊で、「津田左右吉氏の大逆

  思想」などの表現で津田左右吉を活字により個人攻撃

🔹1940(昭15).1

 ・津田左右吉、早稲田大学教授を辞職(大学の掲示板には「病気」のため辞任

  するとあり)

  ㊟同時に、2月に発禁処分となる4冊を自発的に発売停止 

🔹同年.2.10

 ・内務省、津田の神代、上代関係の著作物4冊㊟を発売禁止処分

  『神代史の研究』1924刊、『古事記及び日本書紀の研究』1924刊、『日本上代

    史研究』1930刊、『上代日本の社会及び思想』1933刊、いずれも岩波書店

🔹同年.3.8

 ・出版法違反で津田左右吉と出版社側の岩波茂雄が起訴される

  ㊟告発者は蓑田一派で「不敬罪」(「記紀」にみられる神話の実在性を否定した箇所)

   にあたると告発

🔹1941(昭16).11.1-1942(昭17).1.15

 ・この間、公判廷での審理が計21回ひらかれた

  ㊟宮永の論文には「法廷の雰囲気はきわめて静かであり、津田の陳述は学校の講義

   のように進んでいったという」とある

🔹1942(昭17).5.21

 ・第一審判決 津田は禁錮3ヵ月、岩波は禁錮2ヵ月、2年間の執行猶予

  →判決理由は「…おそれおおくも神武天皇(第一代の天皇)より仲哀天皇に

   いたる御歴代天皇のご存在につき疑惑をいだかしむところある講説をあ

   えてたてまつり、もって皇室の尊厳を冒瀆する文書を著作した」㊟

  →検察側が控訴したため、津田側も控訴

  ㊟これは『古事記及び日本書紀の研究』の一部記載を指している。ただし、検察側

   は5点の嫌疑で起訴したにもかかわらず、判決で有罪としたのは上記の1点のみ

🔹1944(昭19).11.4

 ・控訴審は1年以上も放置され、出版法第33条で皇室の尊厳を冒瀆する著書

  を出版してから1年以上を経過している場合は時効となり、「時効完成に

  より免訴」の言い渡し

  ㊟控訴審では裁判長が3人も変わっており、宮永孝は「このころ日本は敗戦にむかっ

   ており、この事件をあくまで有罪にもってゆく力はなかった」と記している

 以上が「津田事件」の顛末ということになります。

 

 時代背景も確認しておきましょう。日中戦争の長期化、それに伴う物資統制という情勢下で、1940年(昭15)は、国民精神総動員運動が展開される中、2月に斎藤隆夫の反軍演説と議員除名、7月に第二次近衛文麿内閣、10月には大政翼賛会の発足と続き、いよいよ戦時色が強まっていた時期にありました。

 前記した神武天皇即位(紀元前660年)から数えて2600年ということで、<紀元二千六百年記念行事>として全国的に一連の行事が大々的に行われた年でもありました。まさに「政府は「八紘一宇」や「皇国」「聖戦」を国策キーワードにして、建国の神話によって悠久の昔から万世一系の天皇をいただく神国日本の使命を強調し、国民の愛国心を盛り上げた」(前坂ブログより)のです。

 このような年に「津田事件」は起こったのですが、蓑田胸喜一派が関与してきた粛学(大学内の浄化)のいわば仕上げ的な位置にあります。1933年(昭8)の滝川幸辰事件、1935年(昭10)の美濃部達吉の天皇機関説事件、1937年(昭12)の矢内原忠雄事件、1938年(昭13)の河合栄治郎事件、そして、この滝川事件となります。

 

 本稿のメインテーマである吉野源三郎の「終戦直後の津田先生」にも、少しですが、「津田事件」にふれたところがあります。次項以降への準備として、その内容を紹介させてもらうことにします。

 1946年『世界』に掲載される津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」という論文について、編集長であった吉野は、これが巻き起こすであろう政治的反応を憂慮します。その背景の一つに1938年に岩波新書として刊行された津田の『支那思想と日本』が、蓑田胸喜によって、反国策的な著作として攻撃され、「先生に迷惑をかけた」という経験が吉野にはあったとのことです。それに続く文章です。

 「 ……ふたたび、そのような事態を招くことは私には忍び難いことであっ

  た。先生が蓑田氏から告発されて起訴されるに至った問題の著書『古事記

  及び日本書紀の研究』その他は、すでに新書よりも数年先だって発表さ

  れ、それまで、何事もなく刊行されていたのだが、新書のような広い読者

  層を相手にした著書が出るに及んで、まずそれが蓑田氏の注目をひき、つ

  づいて、先生が東大に講師として迎えられるや、彼らは俄かに先生の学説

  を論難しはじめ、終に数年前の著作を引き合いに出して、先生を皇室の尊

  厳を冒すものとして告発するに至ったのである。」

 このように「津田事件」には、<岩波新書>が誘因となったという一面もあったということですね。

 吉野が津田に『世界』への寄稿を依頼した背景には、この「津田事件」によって、学者としての長い沈黙を強いられたことがあると、吉野自身が書いています。その文章の抜粋は次のとおりです。

 「 先生がその著書『古事記及び日本書紀の研究』と『神代史の研究』に

  よって皇室の尊厳を冒瀆する罪に問われ、出版者の岩波茂雄氏と共に起訴

  されたのは1940年3月で、その前後から先生の主な著作はすべて発売禁止

  となり、先生の意見はどこにも公表することを許されず、その後5年間の

  沈黙を強制されていた。」

 「 事件そのものは、起訴以来4年半にわたって審理がつづけられ、(中略)

  その結果、だれも予期しなかった免訴という結末になったのだが、しかし

  もうそのときには、東京の上空にB29が見られ、状況は学説の発表どころ

  ではなくなっていた。」

 だから、津田左右吉は「自分の主張を世に訴えることが全然できないままに敗戦を迎えた」のであり、戦後、言論・出版の自由が確保されたとき、吉野は「その自由を誰よりも行使すべき人」として、当然のように「津田先生のことを思い泛かべた」というわけです。

 

 この強いられた沈黙の5年間にあっても、津田左右吉は、「裁判ちゅうも悲壮な、こまった顔つきをみせず」、変わりなく研究生活を続けていたようです。これは、宮永孝が津田の弟子にあたる栗田直射の「津田先生と公判」から引用している文章にあるのですが、さらに当該事件に対する津田自身の生な声として記されている箇所を再引用してみます。

 「 世間ではこの事件を官憲の学問弾圧という風にいっているが、じぶんは

  すくなくともこれを官憲の発意から出た弾圧とは思わない。事のおこりは

  右翼といわれていた民間の一部の言論人の行動である。ちょうどこの事件

  の起ったのが、議会の閉会中でもあって、政府が右翼の言論を抑えること

  ができなかったことから起ったのである。」

 津田の冷静な対応がうかがえる発言であり、また公判から得た心証というものでもあったのでしょう。

 

🔹津田論文「建国の事情と万世一系の思想」と終戦直後の諸情勢(その1)

 ようやく本題である終戦直後の津田左右吉と吉野源三郎までたどり着きました。

 「終戦直後の津田先生」(以下<津田先生>と表記します)は、次の印象的な文章から始まります。

 「 津田左右吉先生を、戦後はじめて疎開先の岩手県平泉にお訪ねしたの

  は、1946年3月匆々のことだった。東京でも春はまだ萌さず、東北一帯は

  冬の中だった。」

 どうして平泉へ出かけたのか、おいおい細部がはっきりしてくることになりますが、吉野は最初の方でこう書いています。

 「 私が、その発表について直々に先生とお会いして打合わせる必要がある

  と考え方のは、論文の後半にあたる「建国の事情と万世一系の思想」につ

  いてであった。それは、当時の日本の政治状況から見て、この論文が単に

  学問的な範囲を越えて、深刻な政治的反響を呼びおこすにちがいないと考

  えられたからであったーー。」

 前記のとおり、創刊されたばかりの岩波書店の『世界』へ、編集長である吉野は津田に「日本史の研究における科学的方法」というテーマで寄稿を依頼しました。これに応じた津田より、1946年1月の末から2月にかけて、2回に分けて平泉から原稿が送られてきて、予定より超過した分量の関係で『世界』の第3号と第4号に連載されたのです。

 🔹1946年3月号 : 「日本歴史の研究に於ける科学的態度

 🔹1946年4月号 : 「建国の事情と万世一系の思想

 この津田の二論文の後者が、「深刻な政治的影響を呼びおこすにちがいない」と、吉野が考え、憂慮したものです。では、吉野がそう考えた「当時の日本の政治状況」とはどのようなものであったのか。

 

 と、その前に、岩波書店が創刊した『世界』にふれておきましょう。創刊号は「1946年1月号」で、現在と同じく前年1945年の12月に発行しました。

 1940年に津田とともに起訴された社主の岩波茂雄は、戦争を止められなかったことを心底悔いており、「大衆に向けた雑誌を作らなければならない」と考えたのだそうです。その岩波は1946年4月に急逝してしまいますが、創刊号に次の情熱的な文章を寄せています。

 「 特攻隊の学徒が敵機敵艦に体当たりで突っ込んでいったように、我々大

  人もからだを張って主戦論者に対抗していたら戦争を食い止められたかも

  しれない。たとえそれが無理でも、ここまで酷くはならなかったのではな

  いか。」

 このような創刊の辞を掲載する雑誌が『世界』であり、その背景に占領下で戦後の日本をどうしていくのかという政治・社会の混沌とした状況があったということでしょう。そして、そんな『世界』に津田の二つの論文が、特に「建国の事情と万世一系の思想」が掲載されることになるのです。

 さて、終戦から翌年にかけての政治状況はどうようなものであったと書くことができるのか、私の手に余ることですが、吉野の<津田先生>はもとより、宮永論文などでトライしてみましょう。

 津田の「建国の事情と万世一系の思想」という論文の内容は後回しにしますが、ここでは吉野ではなく、宮永の「後者の論文は¨皇室擁護論¨であった。当時、国内外では天皇制の存廃論議が新憲法をめぐって頂点にたっしていた」という一文だけを引用しておくことにします。

 

 終戦直後の大状況とは、ポツダム宣言の受諾により太平洋戦争は終結し、我が国はアメリカを主とする連合国軍の占領下におかれ、その総司令部であるGHQからの指令のもとに非軍事化・民主化の方針に基づく諸改革が実施されていった時期だといえるでしょう。

 終戦の年、1945年(昭20)中には、GHQの五大指令(婦人の解放/労働組合結成の激励/教育の自由化/秘密警察及び国民を恐怖させる諸制度の廃止/経済の民主化)にもとづき、治安維持法の廃止、政治犯の釈放、財閥解体、皇室財産の凍結、衆議院議員選挙法の改正など、「旧支配層への打撃をビシビシと進めて来て、12月末に、ひとまず天皇制強権支配の諸条件の基礎は除去された」という趣旨の声明を、GHQが出し、占領政策も一つの転回点に立っていました。

 年が明けた1946年(昭21)、言葉による表現ほど明確に区分できるものではありませんが、「いよいよ、敗戦までの旧体制にかわって、戦後の新しい体制の建設にとりかかる時期にあたっていた」と、吉野は書いています。そして「注目の焦点となって来たのが、天皇制の問題」であり、当然、草案の作成を急いていた新憲法をどのようなものにしていくのかという問題と直接関係してくるものでした。

 その1946年は、1月1日の天皇の神格否定(のちに「人間宣言」と呼ばれます)からはじまり、公職追放の命令、2月に入って第一次農地改革、そして4月の新選挙法による総選挙の実施と続きます。この間、新憲法に関しては、2月8日の政府の憲法改正案(改正要綱)に対し、2月13日、GHQはこれを拒否してGHQ草案を示し、3月6日、これを元に政府は憲法改正草案要綱を、そして総選挙の後の4月17日には、政府は憲法改正草案を、発表するという経過(→11月3日、日本国憲法が公布[⒈国民主権(天皇は象徴天皇制)/⒉基本的人権の尊重(男女平等など)/⒊平和主義(戦争放棄)])をたどりました。

                        【続く:(2)へ】

 ㊟ 次稿では、この項の(その2)として終戦直後の諸情勢への吉野の見取り図と津田

  論文の内容の概要へと、進めていきます。

2018.07.24 Tuesday

静寂が叫んでいるようだーマルクス・ガブリエルの視線の先はー(2・完)

  前稿は、毎日新聞の記事「広がる 「21世紀型ファシズム」」(2018年7月6日夕刊)の後半部「スピード社会は我々を壊す」を要約したところで中途半端な終わり方をしていました。続けて、その前半部の「政治の倫理は大事なものではなくなった」のポイントをメモするところから続けます。

 

 記事の冒頭には、「安倍晋三政権は、政治家が倫理から懸け離れてしまった現代の象徴」というマルクス・ガブリエル(以下「M」)が発したことばがおかれています。

 こうした記事の一つの帰結の前提として、Mは、ロシアのプーチン大統領など権威主義的リーダーが目立つ現代の政治を、ムソリーニによるイタリアのファシズムと似ているとします。そして、あまりなじみがありませんが、ムソリーニ時代の「未来志向」を強調する社会運動「未来派」をキーワードに「21世紀型ファシズム」を説明しています。

 「 未来は過ぎゆく時間の一部で、中身のない幻想です。ファシズムはこの

  幻想で大衆を動かす。つまり、未来を目指すなら、現在は悪であり、今の

  ルールを壊さなくてはならないと国民を誘導する。これは今の日本のみな

  らず世界に広がっている動きです。」

 政治スキャンダルをいくら重ねても政権が崩れない現状を、Mは「まさにファシズム的統治の成果」だとし、私たちがよく使う「無責任」というより「倫理」で読み解き、次のように語ったとあります。

 「 有権者はかつて、倫理を備えたリーダーか、そういうふりをする指導者

  を求めてきましたが、最近は政治にとり倫理は大事なものではなく

  なった。典型がトランプ、安倍政権です。」

 どうして「倫理」が問われないのかについて、Mは次の発言をしています。

 「 古い価値観を捨てなければラジカルな未来は開けないという絵空事のよ

  うな言葉が、人々の倫理を鈍らせるのです。安倍政権は経済を安定させれ

  ば政権は揺るがないとわかっている。政権の中身がどうあれ、どれほどス

  キャンダルが続こうと、権威主義、強い男のイメージが備わっていればな

  んとなく支持されると。」

 繰りかえすと、「古い価値観を捨てなければラジカルな未来は開けないという絵空事のような言葉が、人々の倫理を鈍らせる」というMのことばは、今この国で生じている現実として、私は重いものを感じています。

 Mのいう「古い価値観」とは何か、このような捨てるべきものと捨ててはならないものが混同され、あげくは転倒されてしまう政治の只中で、いわば、「現実」「事実」と「幻想」「ウソ」を天秤秤にのせると、「幻想」「ウソ」の方へ大きく傾いてしまい、そのことが「現実」「事実」に基づかなければならない「倫理」を摩滅させているのです。

 当然のことながら、Mの「21世紀型ファシズム」は、今や、世界を席巻する「ポピュリズム現象」と表裏一体をなすものです。毎日新聞は来日前のMにインタビューし、前掲の記事の2ヵ月ほど前に「ポピュリズム現象は? 社会脅かすウソの政治」(2018年5月14日夕刊)として報じています。この記事で補足しておくことにしましょう。

 「ポピュリズム現象」とMの「21世紀型ファシズム」の関係は必ずしも明示されていませんが、相互貫入、相互依存の関係にあるのは明確でしょう。つまり「ポピュリズム現象」は「21世紀型ファシズム」の産婆役、先導役であり、逆に「21世紀型ファシズム」は「ポピュリズム現象」の保護者であるともいえるのではないでしょうか。

 ともあれ、現代の狭義のポピュリズムは、歴史的事実を否定し、複雑な現実を単純化して、都合の良いウソをまとった幻想を主張する運動、もとより政治的活動だということができます。このようなポピュリズムという存在と一体となった「ウソの物語」に基づいて政治が行われることの危険性について、Mは次のように答えています。

 「 社会は「我々は何をなすべきか」を指し示す規範によって作られるシス

  テムです。そして、政治はこの規範を生み出すものです。ですから、(ウ

  ソの物語によって)政治が誤った事実と認識に基づくことになれば、社会は

  事実とかけ離れてしまいます。ポピュリズムは誤った社会を形として表出

  させたものであり、社会の存続を脅かす存在です。」

 「ポピュリズムは誤った社会を形として表出させたもの」は、インパクトのある表現です。こうした負のベクトルをもったポピュリズムに、今、どうして人々が魅了されるのでしょうか。

 このことについて、Mはフロイトを持ち出し、次のように説明しています。

 「 人の文化的活動は、心理学者フロイトが名付けた(本能的に欲求を満た

  す)「快楽原則」と、(社会の仕組みを考慮し欲求を制御する)「現実原則」

  が調和している時に成り立ちます。このバランスが崩れると人は心を病み

  ますが、私たちはこの二つが一致しにくい病める社会に暮らしているた

  め、複雑な現実を単純化して提供してくれるポピュリズムのような(都合の

  良い)「幻想」を求めるのです。」

 

 では、「ポピュリズム」が跳梁する「21世紀型ファシズム」を前にして、どうすればよいのか。高い壁とともに無力感を感じずにはおれない、かつ時間的な猶予が想像しにくい、この問いにMは答えています。

 前稿の最後に、Mは「人間を壊さないモデルだ。扉の向こうにあるのは不平等解消のあるべき姿だ」と発言し、求めるべき方向として「不平等の解消」を重視していることを紹介しました。

 さらに、具体的には、Mは、資本主義下でもできる話だとして、ベーシックインカム(最低所得保障)に加え、マキシマムインカム(収入の上限)(例えば月額50万€)が必要だと説明したそうで、次のことばを続けています。

 「 国レベルでも世界レベルでも今の不平等は過去最高。今の民主主義の危

  機もポピュリズムも権威主義も、不平等の問題から来ている。扉の向こう

  にあるのは、それを乗り越えた新たな社会モデルだ。」

 その理想への道は革命的な激変ではなく、「じわじわと時間をかけて人の精神が変わっていく」ことによるとみていて、次のように、半ば冗談っぽく、半ば真剣に、発言したとあります。

 「 北欧などにはそれに近い考えがあるし、日本は今こそ格差がひどいけ

  ど、かつては収入格差が極めて小さい良き価値観を備えていた。日本がモ

  デルになれるかもしれない。」

 

 以上、Mの現代の社会と政治、特に先進国に共通する現象、そしてこうした現象が日本にも象徴的に現れていること、こうした分析はそんなに目新しいものではありません(例えば当ブログ「「そんなもんなんだ」と思考停止する前にー世界を見つめる視点ー」)。でも、哲学者の視線というか、ドイツ人というか、そこから発せられることばはやはり際立った個性があります。

 Mが扉の向こうにみる「新たな社会モデル」、その根っこにある「人を壊さない社会」「不平等の解消」という視点は、私自身もそう考えていて同意します。ただし、その理想への道筋として「じわじわと時間をかけて人の精神が変わっていく」というイメージを、残念ながら持つことができません。そのためにどのような方法がありうるのか、さらにいえば実現の可能性という点で高い壁、いわばファイアーウォールの存在を意識してしまうということです。 

 

 さて、先のテレビ番組で、私がMの哲学の本質、というより人間観、世界観にちょっと接近できたと感じたところを紹介しておきたいのです。

 当該部分は、世界的なロボット研究者である石黒浩大阪大学教授の研究室を訪問した場面です。この訪問がMの希望なのか、NHKの用意したものか分かりませんが、9日間の日本滞在を切り刻んだ構成でまとめたテレビドキュメンタリーにあって、最も長く時間をあてたところで、私からしても番組中の白眉だと感じました。

 研究室へ案内され、教授自身の5代目というロボット、ヒューマノイド(教授は「これが私のコピーです。海外へ送り講演させたりもしています」と話します)を、Mはこれを興味深く見たりさわったりして「でもやっぱり心は無いように感じる」とつぶやくところから、対話(単なる平行線ともいえますが)がはじまります。

 Mが最も強く反論した部分(正面から異論を主張)だけを取り上げます。

 まず、石黒教授の発言です。各画面のキャプションを箇条書きにしました。

 「・私は人類の未来についてある仮定を持っています/

  ・人間が動物であることです/

  ・技術を使わなければ猿になる。/

  ・人間は初めから技術やロボットと密接に結ばれています/

  ・だから将来、人間とロボットの境界は消えるだろうと推測しています/

  ・なぜロボットにこれほど夢中なのかというと、それが我々人間の目標だ

   からです」

 

 この石黒発言に対し、Mは静かに、だけれどきっぱりと、次の意見を語っています。

 「・私の考えとは深い相違があるようですね。逆の意見です/

  ・そうはならないし、試すことすらすべきでないと思います/

  ・なぜなら私たちの倫理的価値の土台は進化上の祖先にあるからです/

  ・¨私たちは猿だ¨それが倫理の源です

 ここで石黒教室の外国人研究者が「技術の進歩が人間性を損なうのですか?」という質問を出します。この問いかけに対し、Mはそうではないと否定しつつ、さらに発言を続けます。

 「・いいえ全くそうでないと思います/

  ・人間性はその度合いが減ったりするようなものではありません/

  ・人間性とはすなわち動物であることです/

  ・人間という種は本質的に10万年間は変わっていないのです/

  ・だが技術によって我々の自己像は変わる/

  ・動物であることは変わらなくとも/

  ・技術の進歩への適応は自己認識を変えてしまうのです/

  ・それが私たちの倫理と行動様式を変えてしまうのです/

  ・それは民主主義の土台が揺らぐということです/

  ・コンピューターによる社会の支配につながりかねません/

  ・それが気がかりです/

  ・今のところ日本社会はまだ民主主義ですが、しかし民主主義は脅かされ

   ている/

  ・「動物としての自己像」が脅かされているからです/

  ・正しいかどうかわかりませんが、このような見方があることを伝えてお

   きます」

 石黒教授は人類の未来として人間とロボットの境界は消えるだろうと予測しています。これは、技術万能主義に基づく自然科学的世界像、とりわけ近い将来に人工知能(AI)が人間の知性を超えるというシンギュラリティ論の立場を表明しているといえます。

 この石黒の世界像、人間観に対し、Mは明確に反対する見解を述べています。石黒の論は動物、猿としての人間の基本から離れた(「踏み外した」ということでしょうか)ところに構築されたもので、結局、人間の存立を危うくすることになると指摘しているのです。いわば自然科学だけが客観的であり、万物の尺度だとする「科学主義」を、人間の現実を踏まえない大きな誤謬だと否定しているのです。つまり技術の進歩への適応は、知性をもつ猿としての人間の自己認識を変質させてしまう、その結果、人間の人間たる基盤(Mのいう「人間性」ということもできます)が脅かされ、「倫理と行動様式の変質→民主主義の土台の揺らぎ→コンピューターによる社会の支配」という経路を招来すると、強く批判しています。 

 以上、私にとってはテレビを見ていてすうっと頭に入ってくる二人のやりとりではないのですが、二人の立脚点の相違、人間観、世界観の違いが正反対の隔たりを作り出していることは明確に伝わってきました。

 

 斎藤哲也という方によるMへのインタビュー記事(「コンピューターは哲学者に勝てない」)をネットで読むと、もう少し理解が進んだ気持ちになりましたので、少しふれることにします。

 Mが今秋出版する予定の新しい本は「人間とは動物でありたくない動物である」という一文から始まるのだそうです。「私たちは、自分の中には非生物学的なものがある」と想像しているのであって、Mはそれが「知性(インテリジェンス)」だと説明します。

 このような人間が知性を用いて「思考することとは、見ることや触ることと同様、一種の感覚の様式」であり、Mは「思考と脳の関係は、歩くことと靴との関係に似ていて」、靴が歩くわけではないように、「脳という物質が考えている」わけではなく、だから「脳は複雑な構造をもつ知性の一部にしかすぎません」といいます。ですから「人工知能」というものは存在していなくて、その証拠に「「AI研究者の誰一人として「知性」とは何を意味するか」について何も教えてくれない」と、Mは批判するのです。

 したがって、石黒教授をはじめとするシンギュラリティ論は、こうした人間のもつ「知性」というものを理解していないことにおいて根本的な誤りがあるのだと、Mは断じているのです。

 

 こうしたシンギュラリティ論の基盤となる「自然科学だけを真実と捉え、それ以外の想像的な事象を虚構と見なす科学主義」を、Mは「民主主義を損なうことにつながる」とし、それは「人権や自由、平等といった民主主義を支える価値体系を信じないニヒリズムに陥ってしまう」からだと説明していますそして、ニヒリストは価値そのものを幻想や虚構と考えることからすると、ドイツのメルケルより金正恩の方が好きなトランプは「民主主義的な解決のさじを投げてしまっている」典型的なニヒリストだと、Mは評しています。

 残念ながら危機の時代に立たされているとするMは、「これからの100年のために、分かれ道の前でどちらに進むかを決めなければなりません」と語っています。一方の道は「世界規模のサイバー独裁や全人類の滅亡に続く」もので(中国の現状、テクノロジーと自然科学の力によって自由がどんどん失なわれて、監視社会化が進行していることを例示しています)、もう一方は「普遍的なヒューマニズムを追求していく道」だとします。そして、Mの道はもちろん後者ですが、次のようにインタビューで語ったとあります。

 「 あらゆる人間存在の中の同一性を認識し、それを人類のこれからの発展

  のための原動力にしていく道です。後者に進むのであれば、私たちは、さ

  まざまな人間存在のあり方を会議のテーブルに持ち寄り、グローバルな格

  差をなくしていくためのシステムを共につくらなくてはなりません。それ

  ができて、人類滅亡というファンタジーは消え去っていくのです。」

 この道に呼応するように、テレビの方では、次のようなことばが映像となっていました。

 「・近代合理性を更新するため国を越えた連携を強く求めている/

       ・だから呼ばれればいつでもどこでも行くよ/

  ・日本は強力な連携の相手だ/

  ・思索する人による理性的な社会をつくるためにね/

  ・なぜなら地球環境の問題は科学でしか解決できない

  ・また民主主義の問題は哲学でしか解決できない/

  ・日本がいないと解決できないと思う」

 正直に言えば、ここにみられるMの自信と決意は、私のような「ヒューマニズム」に価値をおく者にとっても、想像の矢が十分に届かず逆にファンタジーのような感覚を打ち消すことはできないのです。でもしかし、日本を、日本で思索しようとする人びとを、なくてはならない連携の相手と発言していることは、ある種の欧米思想のはらむ限界の乗り越えとして、Mの哲学?の現実性を証明しているのかもしれないと感じています。

 

 最後に、Mがテレビ番組「欲望の時代の哲学ーマルクス・ガブリエル 日本を行くー」のラストで、すなわち「静寂が叫んでいるようだ」の場面に続いて制作者のテロップが流れた、さらにその後、ほんとのラストで視聴者に向けて語ったのであろう映像がありました。それは奇妙に現実的で平易で生々しい、次のことば、メッセージです。

 「・日本に張り巡らされた社会の網の目は窮屈かもしれない

  ・だがそこにある見えない壁(ファイアーウォール)を乗り越えないといけ

   ない/

  ・日々 家族でも友人でも/

  ・冷笑的で 反民主的な態度に出会ったら/

  ・ノーと言おう みんなと違っても言おう/

  ・「自由」に考えることに 最上の価値を置くべきです

 このメッセージには、マルクス・ガブリエルの哲学、思想のエッセンスがあると思いました。

                        【終:(1)、(2・完)】

 

 

プロフィール
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60代後半。兵庫県在住。ニックネームは「パンテオンの穴」。
リタイア後の日々の中で思いを泳がせて、あるいは思いが泳いで 感じたこと、考えたことなどを、のんびりと綴っています。
                         
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